金史

列傳第三十九: 承暉 抹撚盡忠 僕散端 耿端義 李英 孛朮魯德裕 烏古論慶壽

列傳第三十九: 承暉 抹撚盡忠 僕散端 耿端義 李英 孛朮魯德裕 烏古論慶壽

承暉

原文承暉

承暉は、字を維明といい、本名は福興である。学問を好み、経史に通暁していた。父の益都尹鄭家塔割剌訛沒謀克ぼうこくを襲い、大定十五年、符寶祗候に選抜され、筆硯直長に遷り、近侍局直長に転じ、中都右警巡使に調任された。章宗が皇太孫であった時、侍正に選抜された。章宗が即位すると、近侍局使に遷った。孝懿皇后の妹婿の吾也藍は、世宗の時に罪により斥けられていたが、乙夜に、宮城門を開いて召す詔があった。承暉は詔に奉じず、翌日奏上して言った、「吾也藍は先帝に罪を得た者であり、召すことはできません」。章宗は言った、「善い」。間もなく、兵部侍郎兼右補闕に遷った。

原文承暉,字維明,本名福興。好學,淹貫經史。襲父益都尹鄭家塔割剌訛沒謀克。大定十五年,選充符寶祗候,遷筆硯直長,轉近侍局直長,調中都右警巡使。章宗為皇太孫,選充侍正。章宗即位,遷近侍局使。孝懿皇后妹夫吾也藍,世宗時以罪斥去,乙夜,詔開宮城門召之。承暉不奉詔,明日奏曰:「吾也藍得罪先帝,不可召。」章宗曰:「善。」未幾,遷兵部侍郎兼右補闕。

初めて九路提刑司を設置した時、承暉は東京咸平等路提刑副使となり、同知上京留守事に改められた。御史台が奏上した、「承暉は以前提刑であった時、豪強狡猾な者が息を潜めました」。臨海軍節度使に遷った。利涉、遼海軍を歴任し、北京路提刑使に遷った。咸平府、臨潢府の知府を歴任し、北京留守となった。副留守の李東陽は平素から尊大であり、承暉は公事でない限り、一言も交わさなかった。大名府知府に改められ、召されて刑部尚書となり、審官院知事を兼ねた。惠民司都監の餘裏痕都が織染署直長に遷ると、承暉は反駁して奏上した、「痕都は恩蔭により官を得ただけで、他に才能はなく、以前大陽渡の譏察であった時、わずか八月で惠民司都監に抜擢され、既に過分であり、規定に依れば二度の任用の後は、再び監差に入るべきところ、今は超えて随朝八品の職任を授けられようとしています。況や痕都は平章鎰の甥であり、世間の議論に及ばないわけにはいきません」。上は承暉の議に従い、徒單鎰を召して深く責めた。大興府事知府に改められた。宦官の李新喜は寵愛されて権勢を振るい、大興府の妓楽を借りようとした。承暉は拒んで与えず、新喜は恥じた。章宗はこれを聞いて賞賛した。豪民が他人と水田の水利を争って理が非であり、多額の賄賂を元妃の兄の左宣徽使李仁恵に贈った。仁恵は人を遣わして承暉に依頼し、豪民を助けるよう頼んだ。承暉は即座に豪民を杖罰して追い返し、その者に言った、「これをもって宣徽に報いるがよい」。再び大名府事知府に改められた。雨による水害が農作物を損なうと、承暉は決壊した水を導いて濠に納めた。

原文初置九路提刑司,承暉東京咸平等路提刑副使,改同知上京留守事。御史台奏:「承暉前為提刑,豪猾屏息。」遷臨海軍節度使。曆利涉、遼海軍,遷北京路提刑使。曆知咸平、臨潢府,為北京留守。副留守李東陽素貴,承暉自非公事,不與交一言。改知大名府,召為刑部尚書,兼知審官院。惠民司都監餘裏痕都遷織染署直長,承暉駁奏曰:「痕都以廕得官,別無才能,前為大陽渡譏察,才八月擢惠民司都監,已為太優,依格兩除之後,當再入監差,今乃超授隨朝八品職任。況痕都乃平章鎰之甥,不能不涉物議。」上從承暉議,召徒單鎰深責之。改知大興府事。宦者李新喜有寵用事,借大興府妓樂。承暉拒不與,新喜慚。章宗聞而嘉之。豪民與人爭種稻水利不直,厚賂元妃兄左宣徽使李仁惠。仁惠使人屬承暉右之。承暉即杖豪民而遣之,謂其人曰:「可以此報宣徽也。」複改知大名府事。雨潦害稼,承暉決引潦水納之濠隍。

宋を討伐するに及び、山東路統軍使に遷った。山東で盗賊が起こると、承暉は言った、「盗賊を捕らえて直ちに獲られない場合、奏報する間に或いは官を遷ったり去ったりするので、暫定的に即決処分を行うことを請う」。尚書省が議して、「猛安もうあんは従前通り贖罪を収め、謀克は奏報し、その他の鈐轄・都軍・巡尉は先に決断して奏聞し、事態が平定した後従前の制度に戻す」。これに従った。兵を罷めると、盗賊の首魁は次第に招降に応じたが、なおしばしば泰山の岩穴の間に潜んでいた。按察司が数万人を発して林木を伐採除去すれば、盗賊は隠れる所がなくなると請うた。承暉は奏上して言った、「泰山は五嶽の宗であり、故に岱宗という。王者が天命を受け、封禅して代を告げるが、国家はこの事を行わないとしても、山を禿山にすることはできません。斉の民は動きやすく、これを山に追い込めば、必ず凍え飢えて行き場を失う憂いがあり、これは盗賊を教唆するものであり、止めるものではありません。天下の山もまた多いが、ことごとく禿山にできましょうか」。議は遂に取りやめとなった。

原文及伐宋,遷山東路統軍使。山東盜賊起,承暉言:「捕盜不即獲,比奏報或遷官去官,請權行的決。」尚書省議:「猛安依舊收贖,謀克奏報,其餘鈐轄都軍巡尉先決奏聞,俟事定復舊。」從之。及罷兵,盜賊渠魁稍就招降,猶往往潛匿泰山岩穴間。按察司請發數萬人刊除林木,則盜賊無所隱矣。承暉奏曰:「泰山五嶽之宗,故曰岱宗。王者受命,封禪告代,國家雖不行此事,而山亦不可赭也。齊人易動,驅之入山,必有凍餓失所之患,此誨盜,非止盜也。天下之山亦多矣,豈可盡赭哉。」議遂寢。

この時、限銭法が行われていた。承暉が上疏し、大略に言った、「貨財は上に集まり、怨みは下に結ぶ」。返答はなかった。興中府事知府に改められた。衛紹王が即位すると、召されて御史大夫となり、参知政事に拝された。駙馬都尉の徒單沒烈がその父の南平と共に政事に干与し、大いに奸利をはかったので、承暉は面と向かってその非を詰問した。尚書左丞に進拝され、宣徳で行省した。参知政事の承裕が会河堡で大敗すると、承暉もまた連座して除名された。至寧元年、横海軍節度使として起用された。貞祐初年、召されて尚書右丞に拝された。承暉は即日入朝し、妻子は滄州に留まった。滄州が陥落し、妻子は皆死んだ。紇石烈執中が誅殺された。平章政事に進拝され、都元帥を兼ね、鄒国公に封ぜられた。

原文是時,行限錢法。承暉上疏,略曰:「貨聚於上,怨結於下。」不報。改知興中府事。衛紹王即位,召為御史大夫,拜參知政事。駙馬都慰徒單沒烈與其父南平幹政事,大為奸利,承暉面質其非。進拜尚書左丞,行省於宣德。參知政事承裕敗績於會河堡,承暉亦坐除名。至甯元年,起為橫海軍節度使。貞祐初,召拜尚書右丞。承暉即日入朝,妻子留滄州。滄州破,妻子皆死。紇石烈執中伏誅。進拜平章政事,兼都元帥,封鄒國公。

中都が包囲されると、承暉は出て和議の事を協議した。宣宗が汴に遷ると、右丞相に進拝され、都元帥を兼ね、定国公に徙封され、皇太子と共に中都を留守した。承暉は尚書左丞の抹撚盡忠が久しく軍旅にあり、兵事に通じているとして、遂に誠心を盡忠に委ね、全ての兵事を彼に任せ、己は大綱を総持し、都城を保全することを期した。間もなく、莊獻太子が去り、右副元帥の蒲察ほさつ七斤がその軍を率いて出降し、中都は危急となった。詔して抹撚盡忠を平章政事とし、左副元帥を兼ねさせた。三年二月、詔して元帥左監軍の永錫に中山・真定の兵を率いさせ、元帥左都監の烏古論慶壽に大名軍一万八千人・西南路歩騎一万一千・河北兵一万を率いさせ、御史中丞の李英に糧食を運送させ、参知政事・大名行省の孛朮魯德裕に継続して発遣を調遣させ、中都を救援させた。承暉は密かに人を遣わして礬書で奏上して言った、「七斤が既に降伏し、城中に固守の意志はなく、臣は死をもって守ろうとも、どうして長く持ちこたえられましょうか。伏して思うに、一旦中都を失えば、遼東・河朔は皆我が有する所ではなくなります。諸軍が倍道で来援すれば、なお救済の望みがあります」。詔して言った、「中都は重地であり、宗廟社稷がここにある。朕は一日も忘れていない。既に諸路の兵と糧食を急ぎ向かわせている。卿は知るがよい」。また詔して中都の官吏軍民に告げて言った、「朕は民力を緩和せんと欲し、遂に陪都に幸する。天は未だ禍を悔い改めず、時なお多虞あり、道路は久しく阻まれ、音信を通じ難い。汝らは朝夕に矢石に曝れ、風霜に身を露わし、報国を思い、二心なく、兵事の稍やかに息むを俟ち、賞を賜うことを遅らせない。今已に諸路の兵馬を会合して救援する。故に茲に獎諭す。想うに知るべきである」。永錫・慶壽等の軍は霸州の北に至った。三月乙亥、李英は酒に酔い、軍に紀律なく、大元の兵がこれを攻め、李英の軍は大敗した。この時、高琪が中央で権勢を振るい、承暉の成功を忌み、諸将は皆顧みて躊躇した。既にして刑部侍郎の阿典宋阿を左監軍とし、清州に元帥府を行わせ、同知真定府事の女奚烈胡論出を右都監とし、保州に元帥府を行わせ、戸部侍郎の侯摯に尚書六部を行わせ、往来して応給させたが、終に一兵も中都に至る者はなかった。慶壽の軍もこれを聞いて潰走した。

原文中都被圍,承暉出議和事。宣宗遷汴,進拜右丞相,兼都元帥,徙封定國公,與皇太子留守中都。承暉以尚書左丞抹撚盡忠久在軍旅,知兵事,遂以赤心委盡忠,悉以兵事付之,己乃總持大綱,期於保完都城。頃之,莊獻太子去之,右副元帥蒲察七斤以其軍出降,中都危急。詔以抹撚盡忠為平章政事,兼左副元帥。三年二月,詔元帥左監軍永錫將中山、真定兵,元帥左都監烏古論慶壽將大名軍萬八千人、西南路步騎萬一千、河北兵一萬,御史中丞李英運糧,參知政事、大名行省孛朮魯德裕調遣繼發,救中都。承暉間遣人以礬寫奏曰:「七斤既降,城中無有固志,臣雖以死守之,豈能持久。伏念一失中都,遼東、河朔皆非我有,諸軍倍道來援,猶冀有濟。」詔曰:「中都重地,廟社在焉,朕豈一日忘也。已趣諸路兵與糧俱往,卿會知之。」及詔中都官吏軍民曰:「朕欲紓民力,遂幸陪都,天未悔禍,時尚多虞,道路久梗,音問難通。汝等朝暮矢石,暴露風霜,思惟報國,靡有貳心,俟兵事之稍息,當不愆地旌賞。今已會合諸路兵馬救援,故茲獎諭,想宜知悉。」永錫、慶壽等軍至霸州北。三月乙亥,李英被酒,軍無紀律,大元兵攻之,英軍大敗。是時,高琪居中用事,忌承暉成功,諸將皆顧望。既而以刑部侍郎阿典宋阿為左監軍,行元帥府于清州,同知真定府事女奚烈胡論出為右都監,行元帥府于保州,戶部侍郎侯摯行尚書六部,往來應給,終無一兵至中都者。慶壽軍聞之亦潰。

承暉は抹撚盡忠と尚書省において会議した。承暉は盡忠に社稷のために共に死ぬことを約した。盡忠は南奔を謀り、承暉は怒り、直ちに立ち上がって邸宅に帰り、盡忠をどうすることもできなかった。盡忠の腹心である元帥府經歷官完顔かんがん師姑を召し寄せて言うには、「初め我は平章が兵事を知るものと思い、故に心を推して権限を平章に委ね、かつて我と共に死ぬことを許した。今突然異議を唱え、出発の期日はいつか、汝は必ず知っているであろう。」師姑は言う、「今日の夕暮れに出発します。」承暉は言う、「汝の荷物は整ったか。」師姑は言う、「整いました。」承暉は顔色を変えて言う、「社稷はどうなるのか。」師姑は答えることができなかった。叱りつけて引き下がらせ斬った。承暉は立ち上がり、辞して家廟を拝謁し、左右司郎中趙思文を召して酒を飲み、彼に言うには、「事態がここに至っては、ただ一死をもって国家に報いるのみである。」遺表を作成して尚書省令史師安石に託した。その表は皆国家の大計を論じ、君子と小人の治乱の根本を弁じ、当時の邪正の者数人を歴指し、言うには、「平章政事高琪は、性質陰険にして、私怨を報復し、威柄を窃み弄び、禍心を包蔵し、終には国家を害するであろう。」因みに咎を引き、都城を終に保つことができなかったことを謝した。また妻子が滄州で死んだことを述べ、書を以て従兄の子永懐を後継ぎとした。平素の如く従容として、財物を全て出し、家人を召し、年功の多少に随って分け与え、皆に従良の書を与えた。一家挙げて号泣する中、承暉は神色泰然として、ちょうど安石と杯を挙げて満たし、彼に言うには、「承暉は『五経』を皆師から授けられ、謹んで守り力行し、虚文に流れなかった。」既に酒に酔い、筆を取って安石と訣別し、最後に二字を倒に書き、筆を投げて歎いて言うには、「急いで誤った、神志が乱れたのではないか。」安石に言うには、「汝は行け。」安石が門を出ると、哭聲が聞こえ、再び戻って問うと、既に仰薬して薨じていた。家人は慌ただしく庭中に葬った。この日の暮れ、盡忠は出奔し、中都は守られなかった。貞祐三年五月二日のことである。師安石は遺表を奉じて行在に奔赴し奏上した。宣宗は相国寺に奠を設け、哀哭した。開府儀同三司・太尉・尚書令・広平郡王を追贈し、諡して忠肅とした。詔して永懐を器物局直長とした。永懐の子撒速を奉禦とした。

原文承暉與抹撚盡忠會議於尚書省。承暉約盡忠同死社稷。盡忠謀南奔,承暉怒,即起還第,亦無如盡忠何。召盡忠腹心元帥府經歷官完顏師姑至,謂曰:「始我謂平章知兵,故推心以權畀平章,嘗許與我俱死。今忽異議,行期且在何日,汝必知之。」師姑曰:「今日向暮且行。」曰:「汝行李辦未?」曰:「辦矣」。承暉變色曰:「社稷若何?」師姑不能對。叱下斬之。承暉起,辭謁家廟,召左右司郎中趙思文與之飲酒,謂之曰:「事勢至此,惟有一死以報國家。」作遺表付尚書省令史師安石。其表皆論國家大計,辨君子小人治亂之本,曆指當時邪正者數人,曰:「平章政事高琪,賦性陰險,報復私憾,竊弄威柄,包藏禍心,終害國家。」因引咎以不能終保都城為謝。複謂妻子死于滄州,為書以從兄子永懷為後。從容若平日,盡出財物,召家人,隨年勞多寡而分之,皆與從良書。舉家號泣,承暉神色泰然,方與安石舉白引滿,謂之曰:「承暉於《五經》皆經師授,謹守而力行之,不為虛文。」既被酒,取筆與安石訣,最後倒寫二字,投筆歎曰:「遽爾謬誤,得非神志亂邪?」謂安石曰:「子行矣。」安石出門,聞哭聲,複還問之,則已仰藥薨矣。家人匆匆瘞庭中。是日暮,盡忠出奔,中都不守。貞祐三年五月二日也。師安石奉遺表奔赴行在奏之。宣宗設奠于相國寺,哭之盡哀。贈開府儀同三司、太尉、尚書令、廣平郡王,諡忠肅。詔以永懷為器物局直長。永懷子撒速為奉禦。

承暉は生まれながら貴富であったが、家に居る様子は寒素の類であり、常に司馬光・蘇軾の像を書室に置き、言うには、「我は司馬を師とし、蘇公を友とする。」平章政事完顔守貞は平素より彼を敬い、忘年の交わりを結んだ。

原文承暉生而貴富,居家類寒素,常置司馬光、蘇軾像於書室,曰:「吾師司馬而友蘇公。」平章政事完顏守貞素敬之,與為忘年交。

抹撚盡忠

原文抹撚盡忠

抹撚盡忠、本名は彖多、上京路の猛安の人である。大定二十八年に進士第に中り、高陽・朝城の主簿に調され、北京・臨潢の提刑司知事となった。御史台が廉能を挙げ、順義軍節度副使に遷った。憂いにより官を去り、起復して翰林修撰となり、同知徳昌軍節度事を兼ね、北京按察司に簽し、滑州刺史となり、恩州に改めた。上言して言うには、「凡そ軍器を売買するには、告げて憑験を与えることを乞い、盗賊の私市を防ぐ。」尚書省が議して、「籍に載る人匠のみが売買することを聴き、知情して存留すべからざるものを売る者は私造の法に同じ。」とし、これに従った。山東按察副使に遷り、田稼の豊収を虚に奏して常平粟を糴することを請い、宣差和糴と詐称した罪により、虢州刺史に降格し、乾州に改めた。

原文抹撚盡忠,本名彖多,上京路猛安人。中大定二十八年進士第,調高陽、朝城主簿,北京、臨潢提刑司知事。御史台舉廉能,遷順義軍節度副使。以憂去官,起複翰林修撰,同知德昌軍節度事,簽北京按察司、滑州刺史,改恩州。上言:「凡買賣軍器,乞令告給憑驗,以防盜賊私市。」尚書省議,「止聽系籍人匠貨賣,有知情售不應存留者同私造法。」從之。遷山東按察副使,坐虛奏田稼豐收請糴常平粟,詐稱宣差和糴,降虢州刺史,改乾州。

泰和六年、宋を伐つに当たり、元帥右監軍完顔充の經歷官となり、奏報の稽滞の罪により、杖五十に処せられた。八年、入朝して吏部郎中となり、累遷して中都・西京按察使となった。この時、紇石烈執中が西京留守であり、盡忠と争い、私意が協わなかった。盡忠は密かに執中の過失を窺い、申奏した。執中は跋扈していたが、その部曲ぶきょくをよく撫禦し、密かに居庸・北口に腹心を置いて按察司の文書を刺取した。及んで執中が紫荊関から中都に走り還ると、詔して盡忠を左副元帥兼西京留守とした。西京を保全した功により官三階を進められ、金百両・銀千両・重彩百段・絹二百疋を賜った。間もなく、尚書右丞を拝し、西京に行省した。貞祐初年、進んで左丞を拝した。詔して言うには、「卿は行省を総領し、陪京を鎮撫し、守禦の功あり、人民の頼るところである。朕新たに祚を嗣ぎ、爾が重臣たるを念い、益々その力を勉め、以て朕が懐に副えよ。」二年五月、西京より入朝し、崇進を加えられ、申国公に封ぜられ、玉帯・金鼎・重幣を賜った。二年、進んで都元帥を拝し、左丞は元の如し。

原文泰和六年,伐宋,為元帥右監軍完顏充經歷官,坐奏報稽滯,杖五十。八年,入為吏部郎中,累遷中都、西京按察使。是時,紇石烈執中為西京留守,與盡忠爭,私意不協。盡忠陰伺執中過失,申奏。執中雖跋扈,善撫禦其部曲,密于居庸、北口置腹心刺取按察司文字。及執中自紫荊關走還中都,詔盡忠為左副元帥兼西京留守。以保全西京功進官三階,賜金百兩、銀千兩、重彩百段、絹二百疋。未幾,拜尚書右丞,行省西京。貞祐初,進拜左丞。詔曰:「卿總領行省,鎮撫陪京,守禦有功,人民攸賴。朕新嗣祚,念爾重臣,益勉乃力,以副朕懷。」二年五月,自西京入朝,加崇進,封申國公,賜玉帶、金鼎、重幣。二年,進拜都元帥,左丞如故。

宣宗が汴に遷ると、右丞相承暉と共に中都を守った。承暉が都元帥となり、盡忠は再び左副元帥となった。十月、進んで平章政事を拝し、国史を監修し、左副元帥は元の如し。宣宗は詔して盡忠に颭軍を善く撫するよう命じたが、盡忠は察せず、颭軍数人を殺した。既にして中都が包囲されると、承暉は盡忠が久しく軍旅に在ることを以て、兵事を委ね、かつて社稷のために共に死ぬことを約した。及んで烏古論慶壽等の兵が潰え、外援が至らず、中都が危急となると、密かに腹心の元帥府經歷官完顔師姑と謀り、中都を棄てて南奔し、既に行李を戒め、五月二日の夕暮れに出城することを期した。この日、承暉・盡忠は尚書省において会議し、承暉は盡忠をどうすることもできず、直ちに家に帰り、師姑を召して問うと、その夜に出奔することを知り、乃ち先ず師姑を殺し、然る後に仰薬して死んだ。この日、凡そ中都に在った妃嬪は、盡忠が出奔すると聞き、皆装束を整えて通玄門に至った。盡忠は彼女らに言うには、「我が先に出て、諸妃のために途を啓こう。」諸妃は真実と思った。盡忠は乃ち愛妾及び親しい者と先に出城し、再び顧みなかった。中都は遂に守られなかった。盡忠は中山に行き至り、親しい者に言うには、「もし諸妃と共に来ていたならば、我輩はどうしてここに至ることができようか。」

原文宣宗遷汴,與右丞相承暉守中都。承暉為都元帥,盡忠複為左副元帥。十月,進拜平章政事,監修國史,左副元帥如故。宣宗詔盡忠善撫颭軍,盡忠不察,殺颭軍數人。已而中都受圍,承暉以盡忠久在軍旅,付以兵事,嘗約同死社稷。及烏古論慶壽等兵潰,外援不至,中都危急,密與腹心元帥府經歷官完顏師姑謀棄中都南奔,已戒行李,期以五月二日向暮出城。是日,承暉、盡忠會議於尚書省,承暉無奈盡忠何,徑歸家,召師姑問之,知將以其夜出奔,乃先殺師姑,然後仰藥而死。是日,凡在中都妃嬪,聞盡忠出奔,皆束裝至通玄門。盡忠謂之曰:「我當先出,與諸妃啟途。」諸妃以為信然。盡忠乃與愛妾及所親者先出城,不復顧矣。中都遂不守。盡忠行至中山,謂所親曰:」若與諸妃偕來,我輩豈能至此!」

尽忠が南京に至ると、宣宗は中都放棄の件を問わず釈放し、なお平章政事とした。尽忠が言うには、「記注の官は、奏事の際に回避すべきでなく、左右司官にこれを兼務させることができる」と。宣宗はこれをよしとした。尽忠は応奉翰林文字の完顔素蘭が近侍局に任じられるべきと奏上した。宣宗は言った、「近侍局は例として本局の者及び宮中出身者を注進し、他の身分の者を交えると、あるいは不和を生じる恐れがある」と。尽忠は言った、「もし左右に給使するのみならば、本局の者のみを注進すべきである。すでに政事に参与させるのであれば、固より慎重に選ぶべきである」と。宣宗は言った、「何を以て預政というのか」と。尽忠は言った、「中外の事柄を議論し訪察するを得れば、すなわち預政であります」と。宣宗は言った、「世宗・章宗の朝より外事を察することを許したのであって、朕より始まったのではない。請謁して私を営み、擬除が当たらず、台諫が職を尽くさないことなど、近侍が体察しなければ、どうして知ることができようか」と。尽忠はそこで謝罪した。参政の徳升がこれに続いて言った、「固よりその人を慎重に選ぶべきである」と。宣宗は言った、「朕は庶官に対して何ぞ嘗て慎重でなかったことがあろうか、外見は用いるに足るが実は才力がなく、忠孝のように見えて悖逆を包蔵する者がいる。蒲察七斤は刺史として功を立て、急に顕貴に昇ったが、たちまち異志を抱いた。蒲鮮万奴は遼東を委ねられたが、かえって乱を肆にした。人の知り難きはこのようである、朕がどうして軽んじることができようか!衆人は蒲察五斤を公幹として、副使に除した。衆人は斜烈を淳直として、提点に用いた。烏古論石虎の如きは、汝らが共に挙げたものであり、朕がどうして心を尽くさなかったことがあろうか」と。徳升は言った、「近頃訪察した、河堤を開き決壊させ、水が田禾を損なったなどという件は、覆査してみると皆実情ではない」と。上は言った、「朕は今後お前たちに問うことを敢えてせず、外間の事は皆知らず、朕は何を為すことがあろうか、ただ終日黙坐して汝らの為すところを聴くのみである。方や朕に過ちがある時、汝らは諫めず、今になって面と向かってあばく、これ豈に臣たるの義であろうか」と。徳升も謝罪した。紇石烈執中を誅した時、近侍局は先んじて事を啓上したことがあり、遂にこれを功とし、陰に朝政を執った。高琪はこの輩に依拠して自らを固めた。尽忠・徳升が面と向かって責めるに及んで、ますます忌憚するところがなくなった。間もなく、徳升は宰相を罷められ、尽忠は獄に下され、これ以後、中外は蔽隔され、以て亡ぶに至った。

原文盡忠至南京,宣宗釋不問棄中都事,仍以為平章政事。盡忠言:「記注之官,奏事不當回避,可令左右司官兼之。」宣宗以為然。盡忠奏應奉翰林文字完顏素蘭可為近侍局。宣宗曰:「近侍局例注本局人及宮中出身,雜以他色,恐或不和。」盡忠曰:「若給使左右,可止注本局人。既令預政,固宜慎選。」宣宗曰:「何謂預政?」盡忠曰:「中外之事得議論訪察,即為預政矣。」宣宗曰:「自世宗、章宗朝許察外事,非自朕始也。如請謁營私,擬除不當,台諫不職,非近侍體察,何由知之?」盡忠乃謝罪。參政德升繼之曰:「固當慎選其人。」宣宗曰:「朕於庶官曷嘗不慎,有外似可用而實無才力者,視之若忠孝而包藏悖逆者。蒲察七斤以刺史立功,驟升顯貴,輒懷異志。蒲鮮萬奴委以遼東,乃複肆亂。知人之難如此,朕敢輕乎!眾以蒲察五斤為公幹,乃除副使。眾以斜烈為淳直,乃用為提點。若烏古論石虎,乃汝等共舉之,朕豈不盡心哉!」德 升曰:「比來訪察,開決河堤,水損田禾等,複之皆不實。」上曰:「朕自今不敢問若輩,外間事皆不知,朕幹何事,但終日默坐聽汝等所為矣。方朕有過,汝等不諫,今乃面訐,此豈為臣之義哉!」德升亦謝罪。紇石烈執中之誅,近侍局嘗先事啟之,遂以為功,陰秉朝政。高琪托此輩以自固。及盡忠、德升面責,愈無所忌。未幾,德升罷相,盡忠下獄,自是以後,中外蔽隔,以至於亡。

尽忠は高琪と元より相能わず、宣宗が頗る己を疎んじていると疑い、高琪がこれを離間した。その兄の吾裏也は許州の監酒であり、任期が満ちて、南京への転任を求めた。尽忠は吾裏也と語り、中都の事に及んで言った、「近頃上は頗る我を疎んじているが、これは高琪の為すところである。もし再び兵を主とすれば、必ずこのようなことはせず、胡沙虎の事は、誰が為したのか」と。吾裏也は言った、「その通りである」と。九月、尚書省が奏上した、「遙授武寧軍節度副使の徒単吾典が尽忠の謀逆を告げた」と。上は憮然として言った、「朕は何ぞ彖多(尽忠)に負うところがあろうか、彼は中都を棄て、凡そ祖宗の御容及び道陵の諸妃を顧みず、独りその妾と偕に来た、これは固より罪がある」と。乃ち有司に命じて鞫治させ、兄の吾裏也と語った事を問い得て、遂に吾裏也と共に誅した。

原文盡忠與高琪素不相能,疑宣宗頗疏己,高琪間之。其兄吾裏也為許州監酒,秩滿,求調南京。盡忠與吾裏也語及中都事,曰:「邇來上頗疏我,此高琪所為也。若再主兵,必不置此,胡沙虎之事,孰為為之!」吾裏也曰:「然。」九月,尚書省奏:「遙授武寧軍節度副使徒單吾典告盡忠謀逆。」上憮然曰:「朕何負彖多,彼棄中都,凡祖宗禦容及道陵諸妃皆不顧,獨與其妾偕來,此固有罪。」乃命有司鞫治,問得與兄吾裏也相語事,遂並吾裏也誅之。

僕散端

原文僕散端

僕散端、本名は七斤、中都路火魯虎必剌猛安の人である。親に事えて孝行し、選ばれて護衛に充てられ、太子僕正・滕王府長史・宿直将軍・邳州刺史・尚廄局副使・右衛将軍を除された。章宗が即位すると、左衛に転じた。章宗が隆慶宮に朝する時、護衛の花狗が駕を邀えて陳言した、「端の叔父の胡睹は海陵王弑逆に預かっており、端は侍衛にあるべきではない」と。詔して花狗を六十回杖ち、代わって章奏を撰んだ人を五十回杖った。丁憂し、起復して東北路招討副使となり、左副点検に改め、都点検に転じ、河南・陝西統軍使を歴任し、再び召されて都点検となった。承安四年、上が薊州の秋山に狩りに行かれた時、端が鹿を射て誤って囲いに入り、杖罰を受け、解職された。泰和三年、起用されて御史大夫となった。明年、尚書左丞を拝した。

原文僕散端,本名七斤,中都路火魯虎必剌猛安人。事親孝,選充護衛,除太子僕正、滕王府長史、宿直將軍、邳州刺史、尚廄局副使、右衛將軍。章宗即位,轉左衛。章宗朝隆慶宮,護衛花狗邀駕陳言:「端叔父胡睹預弑海陵,端不宜在侍衛。」詔杖花狗六十,代撰章奏人杖五十。丁憂,起複東北路招討副使,改左副點檢,轉都點檢,曆河南、陝西統軍使,複召為都點檢。承安四年,上如薊州秋山獵,端射鹿誤入圍,杖之,解職。泰和三年,起為御史大夫。明年,拜尚書左丞。

泰和六年、詔して大臣に宋を伐つことを議させたが、皆が言うには「慮るに足らず」と。左丞相の宗浩・参知政事の賈鉉もまた言った、「狗盗鼠窃の類であり、挙兵するには及ばない」と。端は言った、「小寇は昼は伏し夜に出るべきもので、どうして敢えて白日に陣を列ね、霊璧を犯し、渦口に入り、寿春を攻めようか。これは宋人が多方面で我を誤らせようとしているのであり、早くこれに対する措置を為さなければ、一旦大挙して侵入すれば、その計中に堕することになろう」と。上は深くこれを然りとした。間もなく、母の喪に服し、起復して尚書左丞となった。平章政事の僕散揆が宋を伐ち、兵を南京より発し、詔して端に行省とし、留務を主たることを命じた。僕散揆は既に淮を渡り、廬州に駐屯した。宋の使いの皇甫拱が書を奉じて和を乞い、端はその書を奏上した。朝議では諸道の兵が既に進んでいるので、宋が計をもって師を緩ませようとしていると疑い、詔して端に拱を宋に還すことを命じた。七年、僕散揆が暑雨のため班師し、端は朝に還った。

原文泰和六年,詔大臣議伐宋,皆曰無足慮者。左丞相宗浩、參知政事賈鉉亦曰:「狗盜鼠竊,非舉兵也。」端曰:「小寇當晝伏夜出,豈敢白日列陳,犯靈璧、入渦口、攻壽春邪?此宋人欲多方誤我,不早為之所,一旦大舉入寇,將墮其計中。」上深然之。未幾,丁母憂,起複尚書左丞。平章政事僕散揆伐宋,發兵南京,詔端行省,主留務。僕散揆已渡淮,次盧州。宋使皇甫拱奉書乞和,端奏其書。朝議諸道兵既進,疑宋以計緩師,詔端遣拱還宋。七年,僕散揆以暑雨班師,端還朝。

初め、婦人の阿魯不は武衛軍士に嫁いで妻となり、二人の娘を産んで寡婦となり、常に夢中の言葉を仮託して衆を惑わし、頗る験があり、ある者は神であるとした。乃ち自ら言うには、夢中に屡々白頭の老父を見て、その二人の娘を指して言うには、「皆福ある人なり。もし掖廷に侍すれば、必ず皇嗣を得る」と。この時、章宗は在位久しく、皇子が未だ立たず、端はこれを納れることを請うた。章宗はこれに従った。既にして京師は久しく雨が降らず、阿魯不はまた言った、「夢に白頭の老父を見て、己に雨を祈らせ、三日の内に必ず大いに澍く」と。三日を過ぎても雨が降らず、章宗はその誕妄を疑い、有司に下して鞫問させたが、阿魯不は伏罪しなかった。詔して端を譲って言った、「昔者の奏上したところは、今その如何。後人は朕がその妖妄を信じたというであろうが、実に卿がその端を開いたのである。倪郁(憂い)予が懐に満ち、これを念じて置き難し。往咎を循省し、将来に善く補うことを思え。恪く乃心を整え、以て朕意に副えよ」と。端は上表して罪を待ち、詔して問わず釈放した。頃くして、進んで平章政事を拝し、申国公に封ぜられた。八年、宋人が盟を請い、端は一官を遷された。

原文初,婦人阿魯不嫁為武衛軍士妻,生二女而寡,常托夢中言以惑眾,頗有驗,或以為神。乃自言夢中屢見白頭老父指其二女曰:「皆有福人也。若侍掖廷,必得皇嗣。」是時,章宗在位久,皇子未立,端請納之。章宗從之。既而京師久不雨,阿魯不復言:「夢見白頭老父使己祈雨,三日必大澍足。」過三日雨不降,章宗疑其誕妄,下有司鞫問,阿魯不引伏。詔讓端曰:「昔者所奏,今其若何?後人謂朕信其妖妄,實由卿啟其端,倪郁於予懷,念之難置。其循省於往咎,思善補於將來。恪整乃心,式副朕意!」端上表待罪,詔釋不問。頃之,進拜平章政事,封申國公。八年,宋人請盟,端遷一官。

章宗の遺詔に、「内人に娠ある者二人、子を生めば儲嗣に立てよ」とあった。衛紹王が即位し、端と尚書左丞の孫即康に命じて章宗の内人で娠ある者を護視させた。泰和八年十一月二十日、章宗崩御。二十二日、太医副使の儀師顔が状を言う、「診るに範氏の胎気に損あり」と。明年四月、ある人が元妃李氏が承御賈氏に教えて詐り娠あると称させたと告げた。元妃・承御は皆誅死した。端は進んで右丞相を拝し、世襲謀克を授けられた。

原文章宗遺詔:「內人有娠者兩位,生子立為儲嗣。」衛紹王即位,命端與尚書左丞孫即康護視章宗內人有娠者。泰和八年十一月二十日,章宗崩。二十二日,太醫副使儀師顏狀:「診得範氏胎氣有損。」明年四月,有人告元妃李氏教承禦賈氏詐稱有身。元妃、承禦皆誅死。端進拜右丞相,授世襲謀克。

貞祐二年五月、南京留守を判じ、河南統軍使の長寿・按察転運使の王質と共に表を奉じて南遷を請い、凡そ三度奏上し、宣宗の意は乃ち決した。百官士庶は皆その不可を言い、太学生の趙昉ら四百人が上書して利害を極論したが、宣宗は慰めて遣わし、乃ち詔を下して遷都した。明年、中都は失守した。宣宗が南京に至り、端を知開封府事とした。頃くして、御史大夫となり、間もなく、尚書左丞相を拝した。三年、枢密副使を兼ね、間もなく、進んで枢密使を兼ねた。数月後、左丞相として都元帥を兼ね行省陝西し、親軍三十人・騎兵三百を給して衛とし、次子の宿直将軍納坦出が侍行した。契紙勘同を賜って言った、「緩急事あれば、これをもって卿を召す」と。端は遙領通遠軍節度使の完顔狗児を招くと即日来帰し、知平涼府事に遷すことを奏上し、諸将はこれを聞き、感激せざるはなかった。納蘭伴僧を遣わして臨洮の祇黎五族都管青覚児・積石州の章羅謁蘭冬及び鐸精族都管阿令結・蘭州の葩俄族都管汪三郎らを招諭すると、皆相継いで内附した。汪三郎は完顔の姓を賜り、後に西方の名将となった。

原文貞祐二年五月,判南京留守,與河南統軍使長壽、按察轉運使王質表請南遷,凡三奏,宣宗意乃決。百官士庶皆言其不可,太學生趙昉等四百人上書極論利害,宣宗慰遣之,乃下詔遷都。明年,中都失守。宣宗至南京,以端知開封府事。頃之,為禦使大夫,無何,拜尚書左丞相。三年,兼樞密副使,未幾,進兼樞密使。數月,以左丞相兼都元帥行省陝西,給親軍三十人、騎兵三百為衛,次子宿直將軍納坦出侍行。賜契紙勘同曰:「緩急有事,以此召卿。」端招遙領通遠軍節度使完顏狗兒即日來歸,奏遷知平涼府事,諸將聞之,莫不感激。遣納蘭伴僧招諭臨洮祇黎五族都管青覺兒、積石州章羅謁蘭冬及鐸精族都管阿令結、蘭州葩俄族都管汪三郎等,皆相繼內附。汪三郎賜姓完顏,後為西方名將。

四年、病を以て致仕を請うたが、許されず、近侍と太醫を遣わして診察させた。端は老衰していたが、朝廷の使者が至るたびに必ず遠くまで出迎え、宴労を怠らなかったので、讒言による陥れは成就しなかった。宣宗はこれを聞き、詔して今後は専使に対しては儀門で酒三献を別にし、他の事で通過する者は一度会うだけで止めることとした。初め、同州・華州の旧来の陝西軍及び河南の歩騎九千余人は、皆陝州宣撫副使永錫に隷属していたが、端が奏上して言うには、「潼関の西は皆陝西の地である。この軍を行省に隷属させ、緩急の際に使えるようにしてほしい。」朝廷はこれに従った。大元の兵が潼関に入ると、永錫は誅殺に坐し、その罪は端に及ばなかった。

原文四年,以疾請致仕,不許,遣近侍與太醫診視。端雖癃老,凡朝廷使至,必遠迓,宴勞不懈,故讒構不果行。宣宗聞之,詔自今專使酒三行別於儀門,他事經過者一見而止。初,同、華舊屯陝西軍及河南步騎九千餘人,皆隸陝州宣撫副使永錫,端奏:「潼關之西,皆陝西地,請此軍隸行省,緩急可使。」朝廷從之。及大元兵入潼關,永錫坐誅,而罪不及端。

興定元年、朝廷は臨洮府事承裔を元帥左都監とし、鳳翔に元帥府を行わせた。端が奏上して言うには、「隴外十州は、宋と夏の間に介在し、諸蕃と雑居している。先に鞏州に元帥府を置いてこれを鎮めていた。今、承裔が隴外の万兵を率いて鳳翔に移るが、臣は一旦警急があれば、援応が間に合わないことを恐れる。承裔に鞏州で元帥府を行わせることを乞う。もし鳳翔が宋界に密接していることを理由とするならば、本路の屯兵は既に多く、ただ総管に帥事を摂行させ、京兆・鞏と首尾相応じさせれば、緩急に備えるには十分である。」これに従った。この年、薨去した。訃報を聞き、宣宗は震悼し、朝を輟めた。延安郡王を追贈し、諡して忠正とした。正大三年、宣宗の廟廷に配享された。

原文興定元年,朝廷以知臨洮府事承裔為元帥左都監,行元帥府于鳳翔。端奏:「隴外十州,介宋、夏之間,與諸番雜處,先于鞏州置元帥府以鎮之。今承裔以隴外萬兵移居鳳翔,臣恐一旦有警,援應不及。乞令承裔行元帥府于鞏州。若以鳳翔密邇宋界,則本路屯兵已多,但令總管攝行帥事,與京兆、鞏相為首尾,足以備緩急矣。」從之。是歲,薨。訃聞,宣宗震悼,輟朝。贈延安郡王,諡忠正。正大三年,配享宣宗廟廷。

子の納坦出は、定國軍節度使となった。天興元年十一月、納坦出の子の忙押門が兄の石裏門及び護衛の顔盞宗阿と共に飲んだ。忙押門は事を偽って出奔し北兵に投じた。省は刑部郎中趙楠に命じてその家族及び同飲者を推問させた。当時、上下迎合して、必ず知情の罪で処断しようとし、忙押門の妻に至るまで訊掠を受けた。その母の完顔氏は言うには、「忙押門は父の妾と私通し、父がこの妾を殺したので、忙押門は自ら安からず、遂に叛き、命を逃れようとしただけである。」と。委曲を推問したが、知情の状はなかった。省中で微かにこれを聞き、小吏の郭従革を召して風旨を諭し、従革がこれを言った。趙楠は食事中であったが、匕箸を机に投げつけ、大声で言うには、「趙楠が除名されようとも、無辜の人を屈して誤断することはできない。」と。遂に不知情として奏上し、かつ妾の事を上聞した。上は言うには、「丞相は功臣であり、納坦出父子は共に国恩を受けてきた。朕は既に彼らが不知情であることを保証する。」と。直ちに赦免して出させることを命じた。趙楠は字を才美といい、進士であり、高平の人である。

原文子納坦出,為定國軍節度使。天興元年十一月,納坦出之子忙押門與兄石裏門及護衛顏盞宗阿同飲,忙押門詐以事出投北兵,省以刑部郎中趙楠推其家屬及同飲人。時上下迎合,必欲以知情處之,至於忙押門妻皆被訊掠。其母完顏氏曰:「忙押門通其父妾,父殺此妾,忙押門不自安,遂叛,求脫命而已。」委曲推問,無知情之狀。省中微聞之,召小吏郭從革喻以風旨,從革言之。楠方食,擲匕箸於案,大言曰:「甯使趙楠除名,亦不能屈斷無辜人。」遂以不知情奏,且以妾事上聞。上曰:「丞相功臣,納坦出父子俱受國恩,吾已保其不知情也。」立命赦出之。楠字才美,進士,高平人。

耿端義

原文耿端義

耿端義、字は忠嗣、博州博平の人である。大定二十八年の進士。滑州軍事判官に調じ、上洛県令、安化・順義軍節度判官を歴任し、尚書省令史を補い、汾陽軍節度副使に除され、都転運司戸籍判官に改め、太常博士に転じ、太常丞兼秘書郎に遷り、再び左司員外郎に除され、太常少卿兼吏部員外郎、同修国史、戸部郎中、河北東路按察副使、同知東平府事、山東安撫使充を歴任した。宣宗が汾陽軍を判じた時、端義はその副使であった。宣宗が即位すると、召見し、時事を訪問し、翰林侍講学士兼戸部侍郎に遷り、間もなく参知政事に拝された。貞祐二年、中都が包囲され、将帥は皆戦おうとしなかった。端義が奏上して言うには、「今日の患いは、衛王がこれを招いた。士卒はたとえ使えなくとも、城中の軍官は都統から謀克に至るまで万余人に及ぶ。この輩を一度出撃させれば、あるいは志を得ることができるかもしれない。」と。議論は結局行われなかった。中都の包囲が解けると、端義は南京への遷都を請うた。その後、僕散端が三度上表して皆遷都の事を言い、宣宗の決意は遂に固まった。この年、薨去した。宣宗は朝を輟め、賻贈は甚だ厚く、使者を遣わして祭葬させた。

原文耿端義,字忠嗣,博州博平人。大定二十八年進士。調滑州軍事判官,曆上洛縣令,安化、順義軍節度判官,補尚書省令史,除汾陽軍節度副使,改都轉運司戶籍判官,轉太常博士,遷太常丞兼秘書郎,再除左司員外郎,曆太常少卿兼吏部員外郎,同修國史,戶部郎中,河北東路按察副使,同知東平府事,充山東安撫使。宣宗判汾陽軍,是時端義為副使。宣宗即位,召見,訪問時事,遷翰林侍講學士兼戶部侍郎,未幾,拜參知政事。貞祐二年,中都被圍,將帥皆不肯戰。端義奏曰:「今日之患,衛王啟之。士卒縱不可使,城中軍官自都統至謀克不啻萬餘,遣此輩一出,或可以得志。」議竟不行。中都解圍,端義請遷南京。既而僕散端三表皆言遷都事,宣宗意遂決。是歲,薨。宣宗輟朝,賻贈甚厚,遣使祭葬。

李英

原文李英

李英、字は子賢、その先祖は遼陽の人で、益都に移った。明昌五年の進士に及第し、淳化主簿・登州軍事判官・封丘令に調じた。父の喪に服し、喪が明けると、通遠令に調じた。蕃部が民の物を取って代価を払わず、召喚しても時を過ぎて来ないので、即ち掩捕して法に照らして論じた。尚書省令史を補った。大安三年、三品以上の官を集めて兵事を議し、李英は上疏して言うには、「軍旅は必ず熟練した者が必要である。朮虎高琪・烏古孫兀屯・納蘭𠇗頭・抹撚盡忠は先朝で嘗て任用されたことがあり、彼らと謀略を議することができる。その他は紛紛としており、恐らく大計を誤るであろう。」と。また言うには、「近頃城郭を増築し、楼櫓を修繕しているが、事勢は知るべきである。山東・河北が大いにその声援とならなければ、京師は孤城となる。」と。返答はなかった。吏部主事に除された。

原文李英,字子賢,其先遼陽人,徙益都。中明昌五年進士第,調淳化主簿、登州軍事判官、封丘令。丁父憂,服除,調通遠令。蕃部取民物不與直,攝之不時至,即掩捕之,論如法。補尚書省令史。大安三年,集三品以上官議兵事,英上疏曰:「軍旅必練習者,朮虎高琪、烏古孫兀屯、納蘭𠇗頭、抹撚盡忠先朝嘗任使,可與商略。餘者紛紛,恐誤大計。」又曰:「比來增築城郭,修完樓櫓,事勢可知,山東、河北不大其聲援,則京師為孤城矣。」不報。除吏部主事。

貞祐初年、左司都事を摂行し、監察御史に遷った。右副元帥朮虎高琪が彼を辟いて経歴官とし、李英は高琪に上書して言うには、「中都に居庸関があるのは、秦の崤・函、蜀の剣門のようなものである。近頃居庸の兵を撤収したので、我が勢いは遂に去った。今、土豪がこれを守っているが、朝廷は官を遣わしてこれを節制すべきである。これを図らずして失えば、忠義の士は将に他に転じるであろう。」と。また言うには、「宣徳・徳興の余民を鎮撫し、彼らを従軍させることができる。所在には自ら宿蔵があり、取って給するに足る。これは国家が斗糧尺帛を費やすことなく、坐して失った関隘を収めることである。居庸は咫尺の地、都の北門であるのに、これを衛護することができないのは、英、実にこれを恥じる。」と。高琪はその書を奏上し、即ち尚書工部員外郎に除し、宣差都提控を充て、居庸等の関隘を悉くその管轄に隷属させた。二年正月、夜に乗じて壮士の李雄・郭仲元・郭興祖等四百九十人と共に城を出、西山に沿って進み仏厳寺に至った。李雄等に命じて下山し軍民を募集させ、旬日で万余人を得た。衆の推服する者を選んでこれを率いさせ、土豪と偽称して、時々出戦した。傷を負い、召還された。翰林待制に遷り、十策を献じた。その大概は、「中土に居して四方を鎮め、親賢を委ねて中都を守らせ、藩屏を立てて関隘を固め、人力を集めて不虞に備え、馬力を養って軍威を助け、禾稼を愛して民心を結び、賞罰を明らかにして百官を勧め、守令を選んで郡県を復興し、州県を併合して民力を省く。」というものであった。頗るこれを施行した。

原文貞祐初,攝左司都事,遷監察御史。右副元帥朮虎高琪辟為經歷官,乃上書高琪曰:「中都之有居庸,猶秦之崤、函,蜀之劍門也。邇者撤居庸兵,我勢遂去。今土豪守之,朝廷當遣官節制,失此不圖,忠義之士,將轉為他矣。」又曰:「可鎮撫宣德、德興餘民,使之從戎。所在自有宿藏,足以取給,是國家不費鬥糧尺帛,坐收所失之關隘也。居庸咫尺,都之北門,而不能衛護,英實恥之。」高琪奏其書,即除尚書工部員外郎,充宣差都提控,居庸等關隘悉隸焉。二年正月,乘夜與壯士李雄、郭仲元、郭興祖等四百九十人出城,緣西山進至佛岩寺。令李雄等下山招募軍民,旬日得萬餘人。擇眾所推服者領之,詭稱土豪,時時出戰。被創,召還。遷翰林待制,因獻十策,其大概謂:「居中土以鎮四方,委親賢以守中都,立潘屏以固關隘,集人力以防不虞,養馬力以助軍威,愛禾稼以結民心,明賞罰以勸百官,選守令以複郡縣,並州縣以省民力。」頗施行之。

宣宗が南遷すると、左諫議大夫の把胡魯と共に御前経歴官となった。詔して言うには、「扈従の軍馬は、朕自らこれを総べる。事に利害あれば、近侍局を通じて聞くことができる。」と。宣宗が真定に駐蹕すると、李英を国子祭酒とし、宣差提控隴右辺事を充てた。間もなく、召されて御史中丞となった。李英は言うには、「兵興以来、百務皆弛緩している。その要は濁を激し清を揚げ、人材を奨進することにある。近年、四善・二十七最の法を改定したが、徒らに虚文となっている。大定年間、数度使者を遣わして分道して廉能を考察し、当時は得人と称された。願わくは前日の徒らに設けた文を改め、大定の已に試みられた効果に遵い、庶幾くは人人自ら励み、国家のために用いられるようにしてほしい。」と。宣宗はこれを嘉納した。

原文宣宗南遷,與左諫議大夫把胡魯俱為御前經歷官。詔曰:「扈從軍馬,朕自總之,事有利害,可因近侍局以聞。」宣宗次真定,以英為國子祭酒,充宣差提控隴右邊事。無何,召為御史中丞。英言:「兵興以來,百務皆弛,其要在於激濁揚清,獎進人材耳。近年改定四善、二十七最之法,徒為虛文。大定間,數遣使者分道考察廉能,當時號為得人。願改前日徒設之文,遵大定已試之效,庶幾人人自勵,為國家用矣。」宣宗嘉納之。

兵興以来、官爵を賞として用いること甚だ急なりき。程陳僧が官軍を龕穀に破り、偽統制董九を遣わして西関堡都統王狗児を招かしむ。狗児は直ちに之を殺す。詔して通遠軍節度使を除し、栄禄大夫を加え、姓を完顔氏と賜う。李英言う、「名器は以て人に仮すべからず、上恩は得難きを以て貴しとす。比来賞を用いること醲く、実に聞聴を駭す。帑蔵足らず、惟だ爵命を恃む。今又之を軽んず、何を以て人を使わんや。伏して見るに、蘭州西関堡守将王狗児、向に微労を以て既に甄録を蒙り、頃者関城を堅守し、賊使を誘殺す。其の忠節を論ずれば、誠に嘉すべき有り。若し之を五品に官し、一州を以て命ずるも、亦負うること無からん。急に勧奨を為さんとし、遂に節鉞を擢げ、階を二品に加え、国姓を以て賜う。若し蘭州を取らば、又将に何を以て之を待たんや。陝西の名将項背相望み、曹記僧・包長寿・東永昌・徒単醜児・郭禄大皆其の著者なり。狗児は藐然たる賤卒、一朝衆人の右に処り、統領の官と為る。恐らくは衆望厭わず、其の死力を得難からん」と。宣宗、英の奏を宰臣に示す。宰臣奏す、「狗児奮発此の如し、異恩を以て賞するは、殆ど過ちと為さず」と。上其の言を然りとす。

原文自兵興以來,亟用官爵為賞,程陳僧敗官軍于龕穀,遣偽統制董九招西關堡都統王狗兒,狗兒立殺之。詔除通遠軍節度使,加榮祿大夫,賜姓完顏氏。英言:「名器不可以假人,上恩以難得為貴。比來醲於用賞,實駭聞聽。帑藏不足,惟恃爵命,今又輕之,何以使人?伏見蘭州西關堡守將王狗兒向以微勞,既蒙甄錄,頃者堅守關城,誘殺賊使,論其忠節,誠有可嘉。若官之五品,命以一州,亦無負矣。急於勸獎,遂擢節鉞,加階二品,賜以國姓,若取蘭州,又將何以待之?陝西名將項背相望,曹記僧、包長壽、東永昌、徒單醜兒、郭祿大皆其著者。狗兒藐然賤卒,一朝處眾人之右,為統領之官,恐眾望不厭,難得其死力。」宣宗以英奏示宰臣。宰臣奏:「狗兒奮發如此,賞以異恩,殆不為過。」上然其言。

中都久しく囲まれ、丞相承暉人を遣わして礬を以て奏を書き、告急す。詔して元帥左監軍永錫・左都監烏古論慶寿兵を将い、李英は河間清・滄の義軍を収め、清州より糧運を督して中都を救わしむ。英大名に至り、兵数万を得るも、衆を馭すること素より紀律無し。貞祐三年三月十六日、英酒に被り、大元兵と霸州北に遇い、大敗し、運ぶ所の糧を尽く失う。英死し、士卒殲せらる。慶寿・永錫の軍之を聞き、皆潰れて帰る。五月、中都守られず、宣宗猶恩を加え、通奉大夫を贈り、諡して剛貞と曰い、官して葬事を護らしめ、其の子雲を録用す。

原文中都久圍,丞相承暉遣人以礬寫奏告急。詔元帥左監軍永錫、左都監烏古論慶壽將兵,英收河間清、滄義軍自清州督糧運救中都。英至大名,得兵數萬,馭眾素無紀律。貞祐三年三月十六日,英被酒,與大元兵遇於霸州北,大敗,盡失所運糧。英死,士卒殲焉。慶壽、永錫軍聞之,皆潰歸。五月,中都不守,宣宗猶加恩,贈通奉大夫,諡剛貞,官護葬事,錄用其子雲。

孛朮魯德裕

原文孛朮魯德裕

孛朮魯德裕、本名は蒲剌都、隆安路猛安の人なり。枢密院尚書省令史に補し、右三部検法・監察御史を経て、少府監丞に遷る。明昌末、北辺の壕塹を修め、堡塞を立て、労により官三階を進め、大理正を授かる。母憂に服し、起復して広寧治中となり、順州・浜州刺史を歴任す。前に順州に在りて物を市し直を虧いたる罪に坐し、赦に遇い、沈州刺史に改め、累官して北京路按察使・太子詹事・元帥左都監となり、左監軍兼監潢府路兵馬都総管に遷る。士馬物故多く、及び都統按帯が私に官兵を率いて家属を救護するを蔽いし罪に坐し、御史劾奏して獄に逮う。赦に遇い、寧海州刺史に謫せられ、稍遷して泗州防禦使・武勝軍節度使となる。貞祐二年、臨洮府事を知り、兼ねて陝西路副統軍と為る。召されて御史中丞と為り、参知政事兼簽枢密院事を拝し、大名に行省す。詔して河北の兵を発して中都を救わしむ。凡そ真定・中山・保・涿等の兵は、元帥左監軍永錫之を将い、大名・河間・清・滄・観・霸・河南等の兵は、徳裕之を将い、並びに清・滄の糧運を護る。徳裕時に発せず。李英の霸州に至り兵敗れ、糧尽きて亡失するに及び、兵期を弛慢せる罪に坐し、責めて沂州防禦使を授け、尋いで益都府事を知る。興定元年二月、卒す。

原文孛朮魯德裕,本名蒲剌都,隆安路猛安人。補樞密院尚書省令史,右三部檢法、監察御史,遷少府監丞。明昌末,修北邊壕塹,立堡塞,以勞進官三階,授大理正。丁母憂,起複廣寧治中,曆順州、濱州刺史。坐前在順州市物虧直,遇赦,改刺沈州,累官北京路按察使、太子詹事、元帥左都監,遷左監軍兼監潢府路兵馬都總管。坐士馬物故多,及都統按帶私率官兵救護家屬,德裕蔽之,御史劾奏逮獄。遇赦,謫甯海州刺史,稍遷泗州防禦使、武勝軍節度使。貞祐二年,改知臨洮府事,兼陝西路副統軍。召為御史中丞,拜參知政事兼簽樞密院事,行省大名。詔發河北兵救中都。凡真定、中山、保、涿等兵,元帥左監軍永錫將之,大名、河間、清、滄、觀、霸、河南等兵,德裕將之,並護清、滄糧運。德裕不時發。及李英至霸州兵敗,糧盡亡失,坐弛慢兵期,責授沂州防禦使,尋知益都府事。興定元年二月,卒。

烏古論慶寿

原文烏古論慶壽

烏古論慶寿、河北西路猛安の人なり、知把書画を以て奉禦に充て、近侍局直長を除し、再転して本局使と為る。辺を禦するに労有り、一階を進め、金帯を賜う。泰和四年、本局提点に遷る。是の時、通州漕河を開通するを議し、詔して慶寿に按視せしむ。漕河成り、銀一百五十両・重幣十端を賜う。

原文烏古論慶壽,河北西路猛安人,由知把書畫充奉禦,除近侍局直長,再轉本局使。禦邊有勞,進一階,賜金帶。泰和四年,遷本局提點。是時,議開通州漕河,詔慶壽按視。漕河成,賜銀一百五十兩、重幣十端。

泰和六年、宋を伐ち、右副元帥完顔匡に従い唐鄧より出で、先鋒都統と為り、御弓二を賜う。騎兵八千を以て棗陽を攻め下す。頃くして、完顔匡軍白虎粒に次ぐ。都統完顔按帯を遣わして随州を取らしめ、慶寿を遣わし兵五千を以て赤岸を扼し、襄漢路を断たしむ。行きて宋兵に遇い、首五百級を斬り、宋の随州将雷太尉遁去す。遂に随州を克つ。是に於いて宋の鄧城・樊城の戍兵皆潰え、遂に大軍と漢江を渡り、襄陽を囲む。元帥匡表を上り慶寿を薦め、謀略衆に超え出づとす。上之を嘉し、一官を進め、拱衛直都指揮使に遷し、提点は故の如し。

原文泰和六年,伐宋,從右副元帥完顏匡出唐鄧,為先鋒都統,賜禦弓二。以騎兵八千攻下棗陽。頃之,完顏匡軍次白虎粒,遣都統完顏按帶取隨州,遣慶壽以兵五千扼赤岸,斷襄漢路。行與宋兵遇,斬首五百級,宋隨州將雷太尉遁去,遂克隨州。於是宋鄧城、樊城戍兵皆潰,遂與大軍渡漢江,圍襄陽。元帥匡表薦慶壽謀略出眾。上嘉之,進一官,遷拱衛直都指揮使,提點如故。

初め、慶寿上書して云う、「汝州襄城県は汝州を去ること許州より二舎遠し。請う、割きて許州に隷せしめ便なり」と。尚書省議す、「汝州南に鴉路旧屯四千有り、其の三千は襄城に在り。今襄城を割きて許州に隷せしむれば、道里近便なり。仍って解塩を食用し、其の屯軍三千は、旧に依り汝州総押す」と。之に従う。八年、兵を罷め、二階を遷し、銀二百五十両・重幣十端を賜う。疾有り、御薬を賜う。衛紹王即位し、左副点検に改め、近侍局は故の如し。未だ幾ばくもせず、黄門李新喜と諸王を題品するに坐し、死を免じて除名せらる。久しくして、起ちて保安州刺史と為り、同知延安府・西北・西南招討副使・棣州防禦使・興平軍節度使を歴任す。

原文初,慶壽上書雲:「汝州襄城縣去汝州遠于許州兩舍,請割隸許州便。」尚書省議:「汝州南有鴉路舊屯四千,其三千在襄城,今割襄隸許州,道裏近便,仍食用解鹽,其屯軍三千,依舊汝州總押。」從之。八年,罷兵,遷兩階,賜銀二百五十兩、重幣十端。有疾,賜禦藥。衛紹王即位,改左副點檢、近侍局如故。未幾,坐與黃門李新喜題品諸王,免死除名。久之,起為保安州刺史,曆同知延安府,西北、西南招討副使,棣州防禦使,興平軍節度使。

貞祐二年、元帥右都監に遷り、平州を保全する功を以て官五階を進め、金吐鶻・重幣十端を賜う。頃くして、宣宗汴に遷り、右副点検兼侍衛親軍副都指揮使に改む。一月を閲し、大興府事を知る。行かずして、左副点検兼親軍副都指揮に改む。数月、彰徳府事を知る。三年、中都危急に及び、元帥左都監に改め、大名の兵一万八千・西南路歩騎一万一千・河北の兵一万を将いて中都を救う。霸州北に次ぎ、兵潰ゆ。頃くして、中都守られず、大名府権宣撫使に改む。未だ幾ばくもせず、河中府を知り、権河東南路宣撫副使と為る。四年、元帥左監軍兼陝西統軍使に遷る。延安に兵を駐め、夏人を安塞堡に破る。鄜州の倉曲谷に戦い、功有り。

原文貞祐二年,遷元帥右都監,以保全平州功進官五階,賜金吐鶻、重幣十端。頃之,宣宗遷汴,改右副點檢兼侍衛親軍副都指揮使。閱月,知大興府事。未行,改左副點檢兼親軍副都指揮。數月,知彰德府事。三年,中都危急,改元帥左都監,將大名兵萬八千、西南路步騎萬一千、河北兵一萬救中都。次霸州北,兵潰。頃之,中都不守,改大名府權宣撫使。未幾,知河中府,權河東南路宣撫副使。四年,遷元帥左監軍兼陝西統軍使。駐兵延安,敗夏人于安塞堡。戰于鄜州之倉曲谷,有功。

興定元年、簽枢密院事完顔賽不と経略して宋を伐ち、宋兵を泥河湾石壕村に破り、首三千級を斬り、馬四百匹・牛三百頭を獲、器械之に称す。復た宋兵七千を樊城県に破る。既にして、軍士多く傷を被るも、実を以て奏せざるを以て、詔して有司に鞫問せしむ。已にして之を釈く。鎮南・集慶軍節度使を歴任し、卒す。

原文興定元年,與簽樞密院事完顏賽不經略伐宋,敗宋兵于泥河灣石壕村,斬首三千級,獲馬四百匹、牛三百頭,器械稱是。複破宋兵七千于樊城縣。既而,以軍士多被傷,奏不以實,詔有司鞫問,已而釋之。曆鎮南集慶軍節度使,卒。

賛に曰く、承暉中都を守ること期年、相い存亡を為し、臨終義に就く、古人の難くする所なり。大抵宣宗既に遷れば、則ち中都必ず守る能わず。中都守られざれば、則ち土崩の勢決す。僕散端・耿端義は忠に似て実は愚なり。抹撚尽忠は中都を委ぬ。庸何ぞ議せん。高琪は承暉の成功を忌み、孛朮魯徳裕は師期を緩ます。奸人の党、是に於いて何をか誅せん。李英は酒に被り軍を敗り、死すと雖も贖う能わず。烏古論慶寿に罰無し。貞祐の刑政、従って知るべし。

原文贊曰:承暉守中都期年,相為存亡,臨終就義,古人所難也。大抵宣宗既遷,則中都必不能守,中都不守,則土崩之勢決矣。僕散端、耿端義似忠而實愚,抹撚盡忠委中都,庸何議焉。高琪忌承暉成功,孛朮魯德裕緩師期,奸人之党,於是何誅。李英被酒敗軍,雖死不能贖也。烏古論慶壽無罰,貞祐之刑政,從可知矣。