黄久約
黄久約は、字を彌大といい、東平須城の人である。曾祖父の孝綽は隠れた徳行があり、「潛山先生」と号した。父の勝は、済州の通判であった。母の劉氏は、尚書右丞長言の妹であり、ある夜、鼠が明珠を銜える夢を見て、目覚めると久約が生まれた。その年の干支は子であった。進士に及第し、鄆城主簿に任じられ、三転して曹州軍事判官となった。ある盗賊が民の財を窃盗したが、訴えた者は強盗とみなし、郡守は重刑に処そうとした。久約が実情を調べると、囚人は死刑を免れた。累進して礼部員外郎に抜擢され、翰林修撰を兼ね、待制に昇進し、磁州刺史を授かった。磁州は山に接し、もともと盗賊が多かった。捕らえて自白させた者でも、審録官が時を定めずに来るため、拘束された者は多くが杖殺されるか、あるいは獄中で死んだ。久約は哀れに思って言った。「民は盗賊であっても、法によって死なせてはならないのではないか。」そこでことごとく上奏して裁決を請うた後に執行した。
しばらくして、再び翰林に入って直学士となり、まもなく左諫議大夫を授かり、礼部侍郎を兼ね、賀宋生日副使となった。臨安に至ると、ちょうど館伴使が病に倒れ、宋人は副使に代行させようと議した。久約は言った。「もし副使もまた病んだなら、さらに都轄や掌儀の輩を行わせようとするのか。」結局、国信使のみに先に行かせ、副使は館伴副使と並んで騎乗することを従来通りとし、礼を終えて帰還した。道中、宿州・泗州を経て、新枇杷子を貢進する者を見たが、州県が民夫を徴発して次々に進送していたので、還朝して奏上してこれを廃止させた。
当時、貧富の不均を以て、ある者は富民に貧者への貸付を分けさせようとした。下して有司に議させたところ、久約は言った。「物が揃わないのは、物の本性である。貧富が均しくないのも、理の常である。もしある者の言うことに従えば、かえって怨みを集めるだけで、有るものを減らして足らざるを補う道ではない。」章宗が当時右丞相を兼ねており、その議を是とした。まもなく上章して老齢を理由に退職を請うたが、詔で諭して言った。「卿は忠直にして敢言し、補佐するところ甚だ多い。未だ左右を去らしむべからず。」太常卿に転じ、なお諫職を兼ねた。
当時、郡県に欠員が多かった。久約は言った。「世に人材が乏しいわけではなく、資格によって阻まれているのである。明詔は毎度、大臣を責めて格法を守って人材を滞らせているとされる。宸衷より断じてこれを力行せられんことを乞う。」世宗は言った。「この事は宰相が意を用いず、諫臣に言わせたのか。」即日に刺史を授かった者が数人いた。久約はまた言った。親王以下の職官に互いに推挙させるべきであると。世宗は言った。「人材を推薦挙げるのは、宰相のみが為すべきである。他の官は品が高くとも、皆が人を知る鑑識があろうか。今、県令が最も欠けておる。刺史以上に県令となるべき者を挙げさせよ。朕はその実能を察して用いよう。」また久約に謂って言った。「近頃、良い官を察挙したのは、皆諸科の監臨であり、進士は一人もいない。これは何故か。まさか推薦挙げの法に既に奸弊があり、長く行えないのではないか。」久約は言った。「諸科の中にも廉潔で有能な人がおらずはない。察挙によらなければ終身県令に至らない者もおります。この法は未だ廃すべからず。」上は言った。「爾が挙げた孫必福は是か。」久約は言った。「臣がかつて磁州に任じた時、必福は武安の丞でありました。臣はその廉潔で公に向かい、顧み憚ることがないのを見て、保挙したのであります。必福が既に警巡使に任じられ、処決が滞っているとは思いませんでした。」上は言った。「必福は遅緩なだけでなく、全く事を理解せぬ。保官に罪が及ばなかったのは、贓汚が無かったことを幸いとしたのである。」久約は答える言葉がなかった。必福は五経出身、すなわち諸科の人であったので、上はこれを問うたのである。翌日、侍朝した。故事によれば、宰相が奏事する時は近臣は退避するが、久約は退出しようとした。世宗がこれを止め、これより諫臣は避けず、常例とした。
李晏
李晏は、字を致美といい、澤州高平の人である。性は機敏で、倜儻として気節を尚んだ。皇統六年、経義進士に及第した。岳陽丞に任じられた。再転して遼陽府推官となり、中牟令を歴任した。ちょうど海陵王が汴京を営造し、河で木材を運送していた時、晏がこれを統率した。晏は三門の険を経るため、前後で失敗する者が多いとして、馳せて行台に報告し、その木材を散らして水に投じ、下流で工匠に取らせた。人々は皆これを便利とした。母の喪に服し、喪が明けると、召し出されて尚書省令史に補された。辞去し、衛州防禦判官となった。世宗は平素よりその才名を知っており、まもなく召して応奉翰林文字とし、特に閣に詣でて謝するよう命じた。上は左右を顧みて言った。「李晏の精神は旧の如し。」慰労すること甚だ悉くであった。当時、郊祀の礼が議せられていたので、太常博士を摂行するよう命じ、まもなく正授された。高麗読冊官となり、五転して秘書少監に至り、尚書礼部郎中を兼ね、西京副留守に除かれた。世宗は侍臣に謂って言った。「翰林の旧人は少なく、新進士の類は学ばず、詔赦冊命の文に至っては能くする者が稀である。外任に文章の士を選んでこれに当たらせよ。」左右が晏を挙げた。上は言った。「李晏は朕が自ら識るところである。」そこで召して翰林直学士とし、太常少卿を兼ねた。母が老齢のため帰養を乞うと、鄭州防禦使を授けたが、赴任せず、母が卒した。起復して翰林直学士となった。
世宗が後閣に御し、晏を召して新進士の対策を読ませた。「県令が欠員する場合、これを取る道は何か」に至ると、上は言った。「朕は夙夜これについて考えたが、出処を知らなかった。」晏は対えて言った。「臣は久しく考えておりましたが、路が無く敢えて言えませんでした。今幸い侍従として罪を待つ身であり、大問を承けるを得、知る所を尽くさんことを願います。」上は言った。「それではどうすればよいか。」対えて言った。「国朝が科を設けて士を取るに当たり、始め南北両選に分け、北選は百人、南選は百五十人、合わせて二百五十人としました。詞賦・経義で入仕する人が既に多かったので、県令は未だ欠員したことがありませんでした。その後、南北を通選とし、詞賦一科のみを設け、毎挙で六七十人に限って取りました。入仕する人が既に少なくなったので、県令が欠員するのは、これによるのであります。」上はこれを然りとし、詔して以後は人数を限って取るなと命じた。まもなく吏部侍郎に抜擢され、前職を兼ね、旨を諭して言った。「卿の性は果敢で、激揚する意がある。故に卿に授ける。宜しく審慎を加え、荒唐に渉るなかれ。」俄かに中都路推排使となり、翰林侍講学士に遷り、御史中丞を兼ねた。
ちょうど朝士が病を理由に告暇した時、世宗はその詐りを疑い、晏に謂って言った。「卿は素より剛正である。今、某が詐って病み、宰相の親故であることを以て、畏れて糾さないのか。」晏は跪いて対えて言った。「臣は老いてはおりますが、平生恃むところは、誠と直のみでございます。百官が病で告暇するのは、監察が視るべきであります。臣が中丞として、官吏の奸私があれば言うべきであります。病で告暇しているのは、この小事は臣も知らないことがありましょう。宰相を畏れるなどということは、何の図りがありましょうか。」出でた後、世宗は目送って言った。「晏は年老いたが、気は未だ衰えていない。」ある日、御史台が監察員の増員を奏請した。上は言った。「内外の官吏を采察するのは、固より監察に係る。然れども爾らも聞き知ったことがあれば、亦た弾劾すべきである。況や非違を糾正するのは、台官の職である。苟もその身を正しくすることができなければ、人を如何にして正せようか。」晏を顧みて言った。「豳王は年少で未だ練れておらぬ。朕は台の事を卿に委ねる。当に一一意を用いよ。」
初めに、錦州龍宮寺は、遼の主が戸民を撥賜して寺に税を輸納させたが、歳月が久しく皆これを奴隷と為し、訴え出ようとする者あれば島中で害した。李晏は乃ち詳細に奏上して、「律に在り、僧は生を殺さず、況んや人命をや。遼は良民を二税戸と為す、此れ不道の甚だしきなり、今幸いに聖朝に遇う、乞うらくは尽く釈放して良民と為さんことを」と。世宗は其の言を納れ、是に於いて免れるを得たる者六百余人。故に同判大睦親府事謀衍の家に民の質券有り、其の利息を積みて償う能わず、因って没して奴隷と為り、屡々官司に訴うるも直さるる能わず、是に至り、投匭して自ら言上す。事は御史台に下り、晏は案状を検擿して其の実情を得、遂に奏して之を免ず。尋いで賀宋正旦国信副使と為る。及び世宗不豫の時、命じて禁中に宿直せしめ、一時の詔冊は皆晏の為す所と為る。
子に仲略。
仲略、字は簡之。聡敏にして力學し、大定十九年詞賦進士第に登り、代州五台主簿に調ず。母憂に以て去り、服闋し、韓州軍事判官に転じ、沢州晉城令に遷り、尚書省令史を補う。翰林修撰を除し、兼ねて太常博士と為る。左司都事に改授せられ、夏国王冊立読冊官と為る。還り、左司を権領す。一日、事を奏して退くや、上顧みて侍臣に謂いて曰く、「仲略は精神明健、俊鶻の帽を脱ぐが如し」と。又た曰く、「李仲略は健吏なり」と。未だ幾ばくもせず、員外郎に転じ、親の病を以て侍するを求め、特旨を以て沢州刺史を授けられて禄養に便ならしむ。先に、晏は沁南軍節度使を領し、沢州は懐州の支郡たり、父子相継ぎ、郷人之を栄しとす。父喪に以て免ぜられ、起用されて戸部郎中と為る。
時に上は六品以上の官に命じ、十日を以て次第に転対せしむ。乃ち進言して曰く、「凡そ其の末を救うは、其の本を正すに若かず。所謂る本とは、風俗を厚くし、冗食を去り、財用を養うのみ。風俗を厚くするは制度を立て、奢僭を禁ずるに在り。冗食を去るは力農を寵し、遊墮を抑えるに在り。財用を養うは儲蓄を広くし、斂散を時にするに在り。商賈は得難き貨を通ぜず、工匠は用なき器を作らず、則ち下は本を重んずるを知らん。下本を重んずるを知れば、則ち末息まん」と。又た制度の宜しきを条陳し、上嘉納す。俄かに翰林直学士を授けられ、前職を兼ね、因って命ぜられて経義読巻官を充てる。上問いて曰く、「官司以て経義は詞賦に若かずと謂う、之を罷するは如何」と。仲略奏して曰く、「経は乃ち聖人の書、明経は以て適用する所以、詞賦の比に非ず。乞うらくは今より経義進士を以て考試官と為し、庶くは碩学の士を得ん」と。上其の奏を可とす。吏部郎中に改め、侍郎に遷り、翼王傅を兼ね、俄かに宛王傅を兼ぬ。
時に知大興府事紇石烈執中贓に坐す。上命じて仲略に之を鞫せしむ。罪は削解に当たる。権要競いて言うに太重と、上頗る之を然りとす。仲略奏して曰く、「教化の行わるるは、近き者より始まる。京師は四方の則なり。郡県の守令慮るに数百、此れを懲せずんば、何を以て後に励まん。況んや執中は兇残狠愎、上を慢り下を虐ぐ、豈に之を宥すべけんや」と。上曰く、「卿の言是なり」と。未だ幾ばくもせず、山東東西路按察使を授けらる。尋いで病を以て京師に医を訪う、泰和五年卒す。上之を聞き、歎じて曰く、「此人は国家に於いて宣力すること多し、何ぞ遽かに是に止まるや」と。朝列大夫を贈り、諡して襄献と曰う。
仲略の性は豪邁にして父風有り、剛介特立、権貴に阿らず、事に臨み明敏にして留滞無く、故に任ずる所は幹済を以て称せらる。
李愈
王賁
王賁、字は文孺、その先祖は臨潢から移り住み宛平に籍を置いた。曾祖父の王士方は、正直で敢えて言うところがあった。遼の道宗が枢密使耶律乙辛の讒言を信じて太子を殺した時、世にその冤罪を訴える者はなかったが、士方は義鐘を打ち鳴らして訴え、遼主は感ずるところがあって悟り、ついに乙辛を誅し、士方を厚く賞して承奉官を授けた。父の中安は進士に及第したが、田玨の党事件に連座して免職となった。世宗が即位して党禁が解かれると、沂州防禦使で終わった。
王賁は性質孝友で、勤勉敏捷で学問を好み、進士に及第した。複州軍事判官から尚書省令史に補され、右三部検法司正に抜擢された。侍御史の賈鉉が王賁は静かで操守があり、奔走競争を尊ばないと推挙し、政府もその廉潔素朴で議論をよくすると言った。河北東西・大名府路提刑判官に抜擢され、選抜されて尚書省都事に任じられたが、喪に服して去職した。推薦する者が多かったため、喪中に起復して刑部員外郎・侍御史となり、累遷して南京路按察使となり、卒去した。王賁は敦厚で義を尊び、親戚友人に篤く、産業を営まず、死ぬ頃には家は甚だ貧窮していた。上(章宗)はこれを聞いて哀れみ惜しみ、朝列大夫を追贈し、なおその家を厚く恤した。
弟の王質、字は敬叔、大定二十五年に進士に及第し、累進して吏部主事となり、才幹によって挙げられて昭義軍節度副使に遷った。章宗が王質の事務処理はどうかと問うと、張万公が「その兄の王賁に勝ります」と答えた。章宗は「その兄に及ぶならばそれでよい」と言った。後に礼部尚書で致仕し、その任で終わった。
許安仁
梁襄
金蓮川は重山の北にあり、地は陰気が積もって寒冷で、五穀が生育せず、郡県を建てるのが難しい。これは古来よりの極辺の荒廃した土地である。気候が著しく異なり、夏に霜が降り、一日のうちに寒暑が交錯して至る。特に上京・中都とは違い、特に聖体を保養される場所ではない。およそ奉養の具は全て遠く労して飛挽し、山を越え険を越え、その費用は数倍になる。宿泊の場所に至っては、軍騎が充塞し、主客の区別がなく、馬牛が風に逸走して収め難く、奴隷が逃亡して捕まらず、奪い合い蹂躙され、容易に禁止できない。公卿百官衛士は、富者は車帳にやっと容れられる程度、貧者は穴居露宿し、輿台皁隷に至っては困窮倒伏を免れず、飢えて食を得ず、寒くて衣を得ず、一人が病気になれば、多くの人に伝染し、無辜の者を夭傷させるのは、刃で殺すのと何ら異ならない。これはほんの些細な事柄である。これよりも大きなことがある。
臣聞く、高城峻池、深居邃禁は帝王の藩籬なり、壮士健馬、堅甲利兵は帝王の爪牙なりと。今行宮の所在、高殿広宇城池の固き有るに非ず、是れ其の藩籬を廃するなり。甲を保持し常に坐する馬、日に暴れ雨に蝕まれ、臣は其の必ず羸瘠なるを知る。侮を禦ぎ用を待つ軍、穴に居り野に処し、冷を啖い寒に眼し、臣は其の必ず疲瘵なるを知る。宮を衛う周廬、纔かに数人を容るるのみ、一旦霖潦旬を積み、衣甲弓刀沾湿柔脆、豈に用を為すに堪えんや、是れ其の爪牙を失うなり。秋杪将に帰らんとし、人は已に疲れ、馬は已に弱り、裹糧は已に空しく、褚衣は已に弊れ、猶ほ且く遠く松林に幸し、以て畋獵に従わんとす。不測の地を行き、往来の間、動もすれば旬月を逾え、転輸移徙の労、更に前に倍す。
陛下の神武、騎射に善くするを以て、挙世及ぶ莫きも、若し夫れ銜橛の変、猛摯の虞は、姑く論ずる勿れ。設ひ行獵の際、烈風暴より至り、麈埃天に漲き、宿霧四塞し、跬歩辨ぜず、以て翠華に崤陵の避け有り、襄城の迷い有り、百官道途に狼狽し、衛士隊伍に参錯するに致す。当に此の時、宸衷寧くか戒悔無からんや。夫れ神龍は以て所を失う可からず、人主は以て軽く行う可からず、良く此れを謂うなり。次ぐ所の宮、草略尤も甚だしく、殿宇周垣、唯だ氈布を用う。押宿の官、上番の士、終日馳駆し、之に饑渴を加え、已に倦に勝えず。更に徹曙巡警せしめ、露坐して眠らず、精神有限、何を以てか克く堪えん。陛下人を使うを悦びとし、労して怨み無しと雖も、労せざるが若くは為さざるに如かんや。故に人を君する者は、人の異謀無きを恃む可からず、要は己を憂患無き域に処するに在り。
燕都の地、雄要に処し、北は山険に倚り、南は区夏を圧し、堂隍に坐するが若く、庭宇を俯視す。本地の生む所、人馬勇勁、亡遼は小なりと雖も、只だ燕を得たるを以ての故に能く南北を制御し、坐して宋幣を致す。燕は蓋し京都の選首なり。況んや今又宮闕井邑の繁麗有り、倉府武庫の充実有り、百官の家属皆其の内に処す、曩日の陪京に同じからず。居庸・古北・松亭・榆林等の関、東西千里、山峻相連なり、近く都畿に在り、拠守に易し。皇天本より中外を限り、大金万世の基を開かんと為して設くる所なり。奈何ぞ無事の日、草萊に越居し、不貲の聖躬を軽んじ、沙磧の微涼を愛し、祖宗の大業を忽せんとする。此れ臣の惜しむ所なり。又行幸の過ぐる所、山径阻修し、林穀晻靄たり、上に懸崖有り、下に深壑多し。垂堂の戒、思わざる可からず。
臣聞く、漢・唐の離宮、長安を去ること纔かに百許里なり。然るに武帝甘泉に幸し、遂に江充の奸に中り、太宗九成に居り、幾くんぞ結社の変を致さんとす。太康洛汭に畋し、後羿河を拒ぎて邦を失い、魏帝近郊に陵を拝し、司馬懿権を窃みて国を篡う。隋煬・海陵は、悪徳貫盈と雖も、人誰か敢えて議せん。只だ宮闕を離棄し、遠く巡征を事とするを以て、其の禍遂に速やかなり。皆以て殷鑒と為す可し。臣嘗て之を論ず。民を安んじ衆を済うは、唐・虞も猶ほ之を難しとす。而して今日の民、陛下の英武に頼りて兵革の憂無く、陛下の聖明に頼りて官吏の虐無く、陛下の寛仁に頼りて刑罰の枉無く、陛下の節儉に頼りて賦斂の繁無し。能く安済すと謂う可し。而して游畋納涼の楽は、富貴の余より出で、静にして動を思う、衣食の身に切なるが如くして去る可からざる者有るに非ず、之を罷むる至って易し。唐太宗将に関南に行かんとし、魏征を畏れて停まり、漢文帝霸陵に馳せんと欲し、袁盎諫めて遽かに止む。是れ陛下能く唐・虞の難行を行い、而して能く中主の易罷を罷めず、臣未だ諭せざる所なり。
且つ燕京の涼は、済南の比に非ず。陛下済南を牧せし日、炎蒸に遇う毎に、府署を離れず。今九重の内、台榭高明にし、宴安穆清たり、何の暑か到らん。議者謂う、陛下北幸久し、毎歳駕に随う大小、前歌後舞して帰る、今茲再び出で、寧く遽かに不可なる有らんやと。臣愚かに以為う、患は戒めざるより生ずる者多し。西漢は外戚を用いるを崇め、而して王莽の禍有り、梁武は叛降を納るるを好み、而して侯景の変有り。今者累歳北幸し、虞無きに狃り、往きて止まず、臣甚だ懼る。夫れ事其の不可なるを知りて猶ほ冒して之を為せば、則ち後難必ず有らん。
議者又謂う、往年遼国の君、春水秋山、冬夏捺缽、旧人猶ほ喜んで之を談じ、以て真に快樂の趣を得たりと為し、陛下之を效うと。臣愚かに以謂う、三代の政今に行う可からざる有り、況んや遼の過挙をや。且つ本朝は遼室と異なり、遼の基業根本は山北の臨潢に在り、臣其の遊ぶ所、臨潢の旁を過ぎず、亦た重山の隔て無く、冬は猶ほ燕京に処す。契丹の人、水草を逐い牧畜を業とし、穹廬を居とし、遷徙常無く、又た壤地褊小、儀物殊に簡、輜重多からず。然れども三五年を隔てて方能く一行す、歳歳皆然りに非ず。我が本朝の皇業、根本は山南の燕に在り、豈に燕を捨てて之を山北にせんや。上京の人、棟宇に居るを是とし、遷徙に便せず。方今幅員万里、惟だ一君を奉じ、承平日久しく、制度殊に異なり、文物増広し、輜重浩穰、駕に随う生聚、殆んど百万を逾ゆ。如何ぞ歳歳に行い、一身の楽を以て、歳に百万の人を役に困しめ、財に傷つけ、其の所を得ざらしめん。陛下其れ之を忍びんや。臣又聞く、陛下合囲の際、麋鹿充牣囲中にし、大にして壮なる者、纔かに数十を取って宗廟に奉じ、余は皆之を放ち、多く殺すを欲せず。是れ陛下の恩禽獣に及び、而して未だ駕に随う衆多の臣庶に及ばざるなり。
議者謂う、前世の守文の主、深宮に生長し、風日を見るを畏れ、弧を彎き馬に上る、皆能う所に非ず。志気銷懦し、筋力拘柔、難に臨み戦懼し、手を束ねて就に亡ぶ。陛下其の此くの如きを監み、勤身を憚らず、遠く金蓮に幸し、松漠に至り、名は坐夏打囲と為し、実は労に服し武を講ぜんと欲すと。臣愚かに以為う、戦は忘る可からず、畋獵は廃す可からず、宴安鴆毒も亦た懐う可からず。然れども事は適中を貴び、過当なる可からず。今驕惰の患を過防し、先ず万有一危の途を蹈む、病無くして薬を服するに何の異ならん。況んや武を習わんと欲すれば必ずしも関を度るに及ばず、涿・易・雄・保・順・薊の境地広く又平らかにして、且つ邦域の中に在り、田を獵するに時を以てす、誰か不可と曰わん。伏して乞う、陛下綸の旨を発し、北轅の車を回し、鶏鳴の路を塞ぎ、安んじて中都に処し、復た北幸せざらんことを。則ち宗社無疆の休、天下莫大の願なり。
方今海内安治し、朝廷尊厳、聖人の事を作す、固より臣下将順の時なり。而して臣螻蟻の命を以て、危切の言を進め、仰ぎて雷霆の威を犯し、吏議に陷る。小なれば則ち名位削除、大なれば則ち身首分磔、其れ身を計るは、豈に愚謬ならざらんや。惟うらくは陛下深く思ひ博く慮り、人を以て言を廃せず、宗廟天下を心と為し、俯して聴納を垂れたまわんことを。則ち小臣素願遂に獲、死すと雖も猶ほ生く、他は覬望する所に非ず。
世宗はこれを納れ、遂に行幸を罷め、なお輔臣に諭して曰く、「梁襄は朕に金蓮川に幸すなかれと諫めた。朕はその言の取るべきところありとし、故に行幸を罷めた。然れども襄は至って隋の煬帝が巡遊によって国を敗ったと謂うは、亦過ぎたるか。煬帝の如きは、蓋し道を失い民を虐ぐるにより、自ら滅亡を取れるなり。民心既に叛けば、巡幸せずと雖も、国将に安んぞ保たんや。人の上たる者は、但だ能く君道を尽くせば、則ち時に或は巡幸すと雖も、何ぞ傷けんや。治乱常無く、顧みる所行い如何なるのみ。豈に必ず深く九重に処るを以て便ち虞無しと謂い、巡遊を時に以てするを以て即ち禍乱を兆す者ならんや」と。
襄はここに以て直声を以て聞こゆ。礼部主事・太子司経に擢でられる。監察御史に選ばれ、宗室弈の事を失察したるに坐し、俸を一月罰せらる。世宗これを責めて曰く、「監察は人君の耳目なり、風声を弾事すべし。朕親しくその事を発するに至りては、何を以て監察と為さん」と。中都路都転運戸籍判官に転じ、未だ幾ばくもあらずして通遠軍節度副使に遷り、喪に因りて去る。服闋し、安国軍節度副使を授けられ、定武軍節度事を同知す。父の諱を避けて震武軍に改む。太常卿張暐・曹州刺史段鐸、襄の学問該博、典故に練習するを薦め、礼官に任ずべしとす。同知順義軍節度使事・東勝州刺史に転ず。俸粟を簸揚したるに坐し、倉典使を責めて償わしめ、按察司に劾せられ、贖を以て論ぜらる。隩州刺史を歴任し、累遷して保大軍節度使に至り、卒す。
襄は『春秋左氏伝』に長じ、地理・氏族に至るまで、該貫せざる無し。早く達してより晩く貴に至るまで、膳服常に淡薄なり。然れども議者はその太だ儉約なるを譏るという。
賛に曰く、金は東海より起こり、国を立つる始めより即ち科を設けて士を取る。蓋し亦文治の有るを知れるなり。漸摩培養し、大定の間に至りて人材輩出し、文義蔚然たり。世宗の聴納を加うるに、人各その能を尽くし、論議書疏に伝うべきもの有り。惜しむらくは史に全文無く、僅かに梁襄の『諫北幸』一書を存するのみ。辞は過繁と雖も意も亦切至なり。故に備えこれを載せ、以て当時君明臣直、言を以て忌とせざるを見す。金の治を致すこと、ここに於いて盛んなり。嗚呼、休なるかな。
路伯達
路伯達、字は仲顯、冀州の人なり。性沈厚にして遠識有り、博学詩に能くし、正隆五年進士第に登り、諸城主簿に調う。泗州榷場使より尚書省掾を補し、興平軍節度副使を除かれ、入って大理司直と為る。大定二十四年、世宗将に上京に幸せんとす。伯達上書して諫めて曰く、「人君は四海を以て家と為す。豈に独り旧邦を思うのみならんや。京師を空しくして遠巡に事えんは、重慎の道に非ざるなり」と。書奏すれども報いず。歳を閲て、秘書郎に改め、太子司経を兼ぬ。時に章宗初めて学に向かう。伯達は文行を以て知名なり。侍読に選ばれ、居ること未だ幾ばくもあらざるに憂いに因りて去る。会に安武軍節度使王克温、伯達の行義を挙ぐ。起きて同知西京路転運使事と為り、召されて尚書礼部員外郎と為り、翰林修撰を兼ね、勅して張行簡と共に陳言文字を進読せしむ。
先に、右丞相襄、賀天寿節を九月一日に移すを奏す。伯達論列してその時ならざるを以てす。平章政事張汝霖・右丞劉瑋及び台諫も亦皆その不可を言う。尚書省に下して議せしむ。伯達曰く、「上始めて政に即く、正・信の道を行うべし。今生辰を易うるは正に非ず、四方を紿くは信に非ず。且つ賀その時に非ざれば、是れ礼を軽んじ物を重んずるなり」と。因りて正名従諫の道を陳ぶ。尚書刑部郎中に昇る。上群臣に問うて曰く、「方今何の道か民をして本業に務めさせ、儲蓄を広からしむる」と。伯達対えて曰く、「徳を布き化を流すは、必ず近きより始む。畿内の采獵の禁を罷め、郊に農を広めて敦本を示し、幣を軽んじ穀を重んじ、奢を去り儉を長じ、月令に遵い籍田を開き以て天下に率先せよ。是くの如くにして農勧まず、粟広からざるは未だこれ有らざるなり」と。是の時、採捕の禁厳しく、京畿より真定・滄・冀に至り、北は飛狐に及び、数百里内皆禁地と為る。民に狐兔を盗み殺す者有れば罪有り。故に伯達これを及ぶ。累遷して刑部侍郎・太常卿に至り、安国軍節度使を拝し、未だ幾ばくもあらずして鎮安武に改む。
嘗て宋に使いして回り、得たる所の金二百五十両・銀一千両を献じて辺を助け、表を上して致仕を乞う。未だ上るに及ばずして卒す。その妻傅氏これを言う。上その誠を嘉し、太中大夫を贈り、仍て金銀をこれに還す。傅泣いて請うも許さず。傅は伯達嘗て冀州学を修めたるを以て、乃ち信都・棗強の田を市い学を贍う。有司具に以て聞く。上これを賢とし、号を賜いて成徳夫人と曰う。
子に鐸・鈞有り。鈞は字は和叔、大定二十五年進士第に登り、終に萊州観察判官に至る。鐸最も知名なり。別に伝有り。
賛に曰く、金は宋を詘して臣と称し姪と称せしめ、その歳幣を受くるは礼なり。その国に使い聘するは燕享の礼なり。その重賂を納るるは其れ可ならんや。時に人利に貪り礼を忘れ、習い以て常と為し、その非たるを知る者莫し。故に去れば則ち労を酬い効を效うと雲い、還れば則ち戸に物力を増し、上下交いて征し、惟だ利を事とす。此れ何の誼ぞや。伯達独り能くその非礼なるを明らかにし、回りて饋る所を献じ、志を齎して未だ畢らず。傅氏又能くこれを成し、及び献ずる所を帰し、竟に田を買い学を贍う。婦人の心を秉するの烈、事を制するの宜しき、乃ち能く是くの如し。世俗の見に溺るる士大夫、寧くか愧じざらんや。号を賜いて成徳と曰う、亦宜ならずや。