金史

列傳第三十三: 移剌履、張萬公、蒲察通、粘割斡特剌、程輝、劉瑋、董師中、王蔚、馬惠迪、馬琪、楊伯通、尼厖古鑑

移剌履

移剌履、字は履道、遼の東丹王突欲の七世孫である。父は聿魯、早くに亡くなった。聿魯の族兄で興平軍節度使の徳元に子がなく、履を後嗣とした。五歳の時、夕方に廡下に臥して、微雲が天際を往来するのを見て、急に乳母に言うには、「これが所謂『臥して青天に白雲の行くを見る』というものか」と。徳元はこれを聞き、驚いて言うには、「この子は文学をもって世に名を成すであろう」と。成長して、博学で多芸多才、文章をよくした。初め進士に挙げられようとしたが、搜檢の煩瑣を嫌い、これを去った。蔭補により承奉班祗候・国史院書寫となった。世宗が儒術を興そうとしていた時、詔して経史を訳させ、国史院編修官に抜擢し、兼ねて筆硯直長とした。ある日、世宗が召して問うには、「朕は近く『貞観政要』を読み、魏徴の嘉謀忠節を見て、まことに称歎すべきものがある。近世には何故か魏徴のような者がいないのは何故か」と。履は言うには、「忠嘉の士は、何れの代にいないことがあろうか、ただ上に立つ者が用いるか用いないかだけです」と。世宗は言うには、「卿は劉仲誨・張汝霖を見ないのか、朕が二人を抜擢して用いたのは、かつて諫職に居り、たびたび忠言があったからである。どうして用いないと言えようか、ただ人材が得難いだけである」と。履は言うには、「臣はその諫言を聞いたことがありません。かつ海陵王は言路を杜塞し、天下は口を閉ざし、習いとして風潮となっております。願わくは陛下には前事を懲らしめ、諫諍の門を開かれますよう、天下幸甚です」と。

初め、時務策をもって女直進士科を設けることを議し、礼部は所學が同じでないとして、一概に進士と称すべきでないとしたが、詔して履にその事を定めさせた。そこで上議して言うには、「進士の科は、隋の大業年間に起こり、初め策試を行った。唐初はこれを因襲し、高宗の時に箴銘賦詩を交え、文宗に至って専ら賦を用いるようになった。かつ進士の初めは、本来専ら策を試みたのであり、今女直の諸生が策試によって進士と称するのに、何の疑いがありましょうか」と。世宗は大いに喜び、事は遂に施行された。十五年、応奉翰林文字を授け、前職を兼ね、まもなく修撰に遷った。二十年、詔して衍慶宮の功臣像画の提控を命じ、期限を過ぎたため、応奉に降格した。一年余りして、再び修撰となり、転じて尚書礼部員外郎となった。

章宗が金源郡王であった時、『春秋左氏傳』を読むことを好み、履の博洽を聞いて召し、疑義を質した。履は言うには、「左氏は権謀術数が多く、駁雑で純粋ではありません。『尚書』・『孟子』は皆聖賢の純全なる道です、どうか留意されますよう」と。王はこれを嘉んで受け入れた。二十六年、本部郎中に進み、同修国史・翰林修撰を兼ね、宋の司馬光の『古文孝経指解』を表して進めて言うには、「臣が窃かに近世を観ますに、皆兵刑財賦を急務とし、光のみがこれを以てその君に進めました。天下を有つ者は、その文辞を取って宇内に施せば、則ち元元の民は恩恵を受けるでしょう」と。まもなく病気のため、外任を補うことを乞うと、世宗は言うには、「履は病が多い、便利な州を与えよ」と。そこで薊州刺史を授けた。間もなく、翰林待制に召され、同修国史とした。明年、尚書礼部侍郎に抜擢し、翰林直学士を兼ねた。

世宗が崩御し、遺詔で梓宮を寿安宮に移すとあった。章宗が百官に議させると、皆遺詔の通りにすべきと言ったが、履のみが言うには、「礼に非ず。天子は七月にして葬り、同軌の国が皆至る。万国の臣をして大行皇帝を離宮において朝せしめることができようか」と。上は言うには、「朕は日夜これを考え、正殿を捨てて別宮に奠することは、情に忍びず、かつ礼にも安からぬ」と。そこで大安殿に殯した。二十九年三月、礼部尚書に進み、翰林直学士を兼ね、大定三年孟崇献の榜下の進士及第を賜った。七月、参知政事に拝し、『遼史』刊修の提控を命じられた。明昌元年、尚書右丞に進んだ。

初め、黄河が曹州で溢れた時、帝が問うには、「『春秋』二百四十二年の間に、河の決壊を言わないのは、何故か」と。履は言うには、「『春秋』はただ魯の史書に過ぎず、他国の事に及ぶことが少ないからです」と。二年六月、薨去、六十一歳。この日は、履の誕生日であった。諡して文獻といった。

履は秀でて聡明で悟りが早く、暦算・書画に精通していた。先に、旧『大明暦』に誤りがあり、履が『乙未暦』を上った。金が乙未年に天命を受けたからである。世はその善さを服した。初め、徳元に子がなく、履を後嗣としたが、後に子の震が生まれた。徳元が没すると、家財を全て震に推し与えた。彼が礼部兼直学士から執政となった時、前代の光院の故事を挙げて、銭五十万を学士院に送り、学者たちはこれを栄誉とした。

張萬公

張萬公、字は良輔、東平東阿の人である。幼くして聡明で悟りが早く、読書を好んだ。父の彌學が、ある室に至る夢を見た。榜に「張萬相公讀書堂」とあり、やがて萬公が生まれたので、これによって名付けた。正隆二年の進士第に登り、新鄭の主簿に調任された。憂いにより去職した。喪が明けると、費県の主簿に任じられた。大定四年、東京辰淥塩副使となり、課税が増えたため、長山県令に遷った。当時、土賊が平定されておらず、ある日城下に至った者が数万人に及んだ。萬公は城壁に登り、郷里親旧の情をもって諭すと、衆は感じ入って相率いて去り、邑人はこれに頼り、生祠を立てた。久しくして、尚書省令史を補し、河北西路転運司都勾判官に抜擢され、大理評事に改め、就いて司直に昇進し、四遷して侍御史・尚書右司員外郎となった。丞相の徒単克寧がかつて言うには、「我が後を継ぐ者は必ず汝であろう」と。まもなく郎中を授け、上奏が明敏であったので、世宗はこれを嘉し、侍臣に言うには、「張萬公は純直な人物である」と。間もなく刑部侍郎に遷った。

章宗が即位すると、初めて九路提刑司を設置し、選ばれて南京路提刑使となった。治績が最も優れていたため、御史中丞に遷った。時に北辺でたびたび警報があり、上(章宗)は枢密使夾谷清臣に命じて兵を発してこれを撃たせようとした。萬公は言った、「民を労するは便ならず」。詔して百官を尚書省に集めて議させ、ついに出兵を中止した。まもなく彰国軍節度使となった。明昌二年、大興府事を知り、参知政事に拝された。一年余りして、母が老齢であることを理由に侍養を乞うたが、詔して許さず、告(休暇)を賜って省親させた。帰還すると、上は山東・河北の粟の価格の高低や、今春の苗の出来について問うたので、萬公はことごとく実状をもって答えた。上は宰臣に言った、「各所で雨は得たが、まだ十分に潤っていない、どうしたものか」。萬公が進み出て言った、「陛下が即位されて以来、利を興し害を除き、国を益し民に便ならしめる事柄は、聖心孜孜として、行われないものはありません。旱魃の災害に至っては、皆臣ら(宰相)の責任であり、もし漢代の故事に依るならば、皆免官されるべきです」。上は言った、「卿らに何の罪があろうか、おそらく朕の行いに及ばないところがあるのだ」。答えて言った、「天道は遠いとはいえ、実は人事と相通じており、ただ聖人の言行のみが天地を動かし得ます。昔、成湯は六事を引きて自らを責め、周の宣王は災害に遇って懼れ、身を側めて修行し、いずれも人事を修め整えました。方今、倹約を尊び、不急の務めや無名の費を、ともに罷め去るべきです」。上は言った、「災異については専ら天道を論じることはできず、必ずまず人事を尽くすべきである。故に孟子は王に罪歳無しと言ったのだ」。左丞完顔守貞が言った、「陛下が咎を引きて自らを責められることは、社稷の福です」。上はこれによって萬公の言ったことをもって詔を下し、己を罪した。進士の李邦乂という者が封事を上奏し、その中で世俗の奢侈を論じて、先朝(世宗朝)に言及して諷刺した。有司が上奏者の罪を議すると、上は宰臣に言った、「昔、唐の張玄素が桀・紂を以て文皇(太宗)に比した。今もし朕を桀・紂に方える者がいても、これを罪しない。まして世宗の功徳については、どうして諷刺毀損を許せようか」。顧みて萬公に問うて言った、「卿はどう思うか」。萬公は言った、「先朝を諷刺することは、固より罪に治すべきですが、しかし旧来このような法はありませんでした。今これを定めて立て、人々に知らしめるべきです」。そこで邦乂の罪を免じ、ただ三回の科挙受験資格を停止するのみとした。その奏対は詳細で機敏であり、多くこのようなものであった。

四年、再び以前の請願(母への侍養)を申し出たので、知東平府事を授け、諭して言った、「卿が政府(中央政権)にいた時も、職に称しないわけではなかったが、卿の母が老齢であることを以て、侍養を乞うたので、特に郷里の郡(東平府)を与えて孝養を遂げさせよう。朕の心は卿に属しており、汝を忘れはしない」。萬公は謝し、かつ書を捧げて言った、「臣は狂妄ですが、一言を今日申し上げたいと思い、任命を受ける機会がなかっただけです。内外の職務は、憂いと責任は同じであり、畎畝(民間)の臣であってもなお君を忘れず、芻蕘(草刈りや薪取りの者)の言葉も、明主はこれを択びます。伏して聖聡の省察を望みます」。上はこれを嘉して受け入れた。六年、知河中府に改めた。時に軍事が起こり、徴発が頻繁で煩雑であったが、ことごとく寛大に取り計らい、民力が容易に務められるようにした。人々は薰風楼にその像を描き、また「去思堂」を建てた。

済南に移鎮したが、母の喪により職を去った。卒哭(喪の一段落)の後、詔して起復させ、平章政事に拝し、資善大夫に越階昇進し、寿国公に封じられた。時に李淑妃が寵愛を受け、権勢を振るい、帝の心はこれに惑わされ、皇后に立てようとしたが、大臣の多くは認めなかった。御史の姫端修が上書してこれを論じたので、帝は怒り、御史大夫の張暐は一官を削り、侍御史の路鐸は両官を削り、端修は七十回の杖刑に処し、贖罪(財物で罪を贖う)をもって論じた。淑妃はついに元妃に進封された。また大軍は罷めたとはいえ、辺境の事態はまさに切迫しており、連年の旱魃、災異がたびたび現れた。さらに制度を多く変更し、民は不便だと思ったものをまた改めるなど、紛紛として定まらなかった。萬公はもとより沈着で重厚、深く謹厳であり、治め方としては安静で事を少なくすることを務め、同僚たちとの議論は多く合わなかった。しかしかなり嫌って畏れ、敢えて顔色を犯して強く諫めず、帝が問うた時にのみ、ようやく利害を審らかに図って率直に言い、帝は従っても実行しなかった。萬公はここにおいて二度上表して、衰病を理由に閑職を乞うた。詔して諭して言った、「近ごろ卿が言った数件の事柄は、朕は未だ行っていない、これは朕の過ちである。卿は年もまだ老いておらず、急に病を告げるとは。今特に告(休暇)を二ヶ月賜うから、再び起きて政務を見よ」。

初め、明昌年間、有司が建議し、西南路・西北路から、臨潢に沿って泰州に至るまで、塹壕を開き築いて大軍(北方遊牧民の軍)に備えようとし、役夫三万人を動員したが、連年完成しなかった。御史台が言った、「開いたものはすぐに風砂で埋められ、外敵防禦に益なく、ただ民を労するのみである」。上は旱魃の災害に因り、萬公にその原因を問うた。萬公は「民を長く労することは、恐らく和気を傷つけます。御史台の言うところに従い、これを罷めるのが便です」と答えた。後に丞相の襄が軍を率いて帰還し、ついに開築を実施したので、民はこれを非常に苦しんだ。軍事を主管する者がまた言った、「近年の征伐では、軍は多く敗北した。これは屯田の地が少なく、養い贍うことができず、飢え寒さを免れない者さえいるためで、故に闘志がないのです。民田で税を免れているもの(隠田)を検出して分け与えれば、戦士の士気は自ずから倍加するでしょう」。朝臣の議論はすでに決していたが、萬公のみが上書し、それができない五つの理由を述べた。大略は、「軍旅の後、瘡痍まだ恢復せず、百姓を慰撫する暇もないのに、どうして重ねて擾乱できようか、これが一つ。通検(土地調査)から間もなく、田には定まった籍帳があり、検出しても必ずしも尽くせず、かえって狡猾な官吏の弊害を増し、告訴・密告の風潮を長じさせるだけである、これが二つ。無駄な費用や奢侈な支出は数えきれず、これを推し及ぼして軍を養えば、民に及ばずして徴収しても足り、民の田を奪う必要はない、これが三つ。兵士は選択を誤り、強弱の区別なく、同じ田を共有して食わせれば、奮励する者はその力を尽くすことができず、疲弊劣悪な者はその奸計を容れることができる、これが四つ。民から奪って軍に与えれば、軍心は得られても天下の人心を失い、その禍いは言い尽くせないものがある、これが五つ。必ずややむを得ないならば、冒地(隠田)で既に検出されたものを、民を召して耕作させ、その収入で軍を贍うことを乞う。そうすれば軍は坐して得る利益があり、民は奪われる怨みはありません」というものであった。いずれも答申されなかった。ある日、奏事の際、上は萬公に言った、「卿が昨日、天が久しく陰晦なのは、人君が人を用いるのに邪正を分かたないからだと言った。君子は内(朝廷)に在るべきで、小人は外(地方)に在るべきだというのは、甚だ道理がある。しかし、誰を小人というのか」。萬公が「張煒・田櫟・張嘉貞らは、才幹はあるが、称すべき徳はありません」と奏すると、上はすぐに三人を外任(地方官)に補した。

泰和元年、連続して上章して老齢を理由に退職を請うたが、許されず、栄禄大夫に遷り、その子に進士及第を賜った。翌年、再び上章したところ、旨(勅旨)があった、「もしかすると卿には言うことがあり、朕に従わないことがあるのか?あるいは同僚たちの意見が一致せず、卿の意に多く背くことがあるのか?そうでなければ、どうしてこれほど頻繁に去ろうとするのか」。萬公は他に理由はないと謝し、ただ病気であると言った。三年正月、再び上章したが、允されず、銀青光禄大夫を加えられた。三月、歴々と朝臣の有名な者を挙げて自らの代わりとし、退去を非常に強く求めた。上は留められないと知り、諭して言った、「朕が即位した初め、卿を執政に抜擢し、続いて相位に遷したのは、卿が先朝の旧人で、典故に習熟しており、朕が甚だ重んじたからである。かつ年は高いが精力はまだ衰えておらず、故に機務を労させたのだ。卿がたびたび退去を求めるので、やむなく従うが、甚だ朕の本意ではない」。金紫光禄大夫を加えられ、致仕(退官)した。

六年、南辺に兵を用い、上は山東が重地なるを以て、大臣を以て鎮撫すべきものとし、先に任じた完顔守貞が卒したので、ここに特に萬公を起用して済南府知事・山東路安撫使と為す。山東は連年旱魃蝗害あり、沂・密・萊・莒・濰の五州は特に甚だし。萬公は民の飢餓と盗賊の発生を慮り、予め賑済を準備すべきとす。時に兵興し、国用足らず、萬公は乃ち上言して僧道の度牒・師徳号・観院の名額並びに塩引を、山東行部に付し、五州において給売し、粟を納めて易換せしむべしと乞う。又、有司を督責して盗賊を禁戢する方策を言上す。上は皆これに従う。宋人、和を請う、復た致仕を乞う、これを許し、崇進を加え、仍て平章政事の俸の半分を給す。泰和七年、薨ず。命じて宰臣の故事に依り、焼飯し、賻葬す。儀同三司を贈り、諡して文貞と曰う。

萬公は淳厚剛正にして、門に雑賓無く、典章文物、多く裁正する所あり。上嘗て司空しくう襄と秋山の楽しみを言い、意は将に春蒐に事あらんとす。萬公を顧み視う、萬公曰く「動くは静かなるに何如ぞ」と。上容色を改めて止む。輔政八年、その薦引する所は、多く廉譲の士なり。大安元年、章宗の廟廷に配享す。

蒲察通

蒲察通、本名は蒲魯渾、中都路胡土愛割蠻猛安の人なり。熙宗、護衛を選ぶに、通の名を見て、筆を以てこれを識す。通は父老なるを以て、懇ろに就養を乞う。衆訝る曰く「侍衛に充たるを得ば、終身栄貴なり、今乃ち辞す、人に過ぐること遠し」と。朝廷、義としてこれに従う。後に因りて宋王宗望を房山に会葬するに、門閥を以て、昭信校尉こういを加え、頓舍を授く。御院通進に改む。

海陵、宋を伐つに、隆州の諸軍は特に精鋭なり、通に付してこれを総べしむ。兵淮に圧し、通に令して騎二百を率いて先に済み敵を覘わしむ。弇中に及び、敵兵躍り出で、通は兵を按じて直ちに前に進み、傍らに槊を舞わして来たり刺さんとする者あり、身を回らしてこれを射れば、弦に応じて斃る。諸軍並びに撃ちて、これを敗る。海陵召見し、喜色を形にし、曰く「兵事定まりなば、汝爵賞を憂うるなかれ」と。揚州に至り、通は別屯に営す。この夜、海陵しいせられ、告ぐる者来たり、通は執いて殺さんとす、続いてその実を聞き、哀悶して地に仆る、衆掖きて起こし、径ちに営門に入りてこれを哭す。

軍還り、入見す、世宗顧みて近臣に謂いて曰く「朕素よりこの人を知る、幼き嘗て従遊し、性温厚、識慮あり、又騎射に精し」と。尚廄局副使を授く。又近臣に諭して曰く「常に朕に見えしめ、事を以て問いその言を考へんと欲す、朕将にこれを用いんとす」と。窩斡反し、命じて通に金符を佩かしめ、軍前に詣らしめて督戦せしむ。賊破れ、功を以て世襲謀克を授く。奚人乱れ、詔を承けて継いて往きて軍を蒞む。本局使に遷り、母喪にて免ず。起きて殿前右衛将軍と為り、兼ねて閑廄を領す。尋いでその子蒲速烈に命じて衛国公主を尚ばしむ。出でて肇州防禦使と為り、金帯を賜い、仍て補外の意を諭し、因りてこれを戒敕す、語は『世宗紀』中に在り。尋いで蒲与路節度使に擢で、帰徳軍に移鎮し、西南路招討に遷り、入りて大興府事を知り、殿前都点検を除く。初め、大理卿闕け、世宗通をしてこれを為さしめんと欲し、宰臣に問う、対えて曰く「通は点検の器なり」と。上曰く「点検は繁冗にして、その能を顕わす由無し。通は明敏才幹にして、正に法を掌るの官なり」と。又曰く「通の機識は、崇尹及ばざる所なり」と。

大定十七年、尚書右丞を拝し、左丞に転ず。詔して推排猛安謀克の事を議せしむ、大臣皆以て現に在る産業を験するに止め、貧富を定め、旧に依りて科差するを便とすと為す。通言す「必ず各謀克の人戸の物力の多寡を通括せば、則ち貧富自ずから分かる。貧富分かれば、則ち版籍定まり、もし緩急あらば、籍を験して科差し、富者は隠すを得ず、貧者は重ねて困せず。一例に科差する者と、大いに同じからず」と。上は通の言を是とし、宰臣に謂いて曰く「事を議するは通の心を尽くすが如くすべし」と。三歳を閲し、平章政事に進み、任国公に封ず。

世宗将に上京に幸せんとし、通を朝廷の旧人と以て、上京留守と為し、先に往きてこれを鎮撫せしむ。二十五年、真定府事を知るを除く、世宗曰く「朕復た卿を相とせんと欲す、卿の老いたるを惜しむ、故にこれを以て卿に授く」と。仍て銭千貫を賜う。未だ幾ばくもあらず、平陽府事を知るに改め、鳳翔に移し、致仕す。明昌四年、上宰臣に諭して曰く「通は先朝の重臣、年高しと雖も未だ衰えず」と。因りて広寧府事を知らしむ。累表して老を請い、復た開府儀同三司を以て致仕す。承安三年薨ず。その弟に諭旨して曰く「旧制、致仕の宰相に祭葬の礼無し、通は旧臣懿戚なり、故に特に命じて祭及び葬を敕す」と。初め、通政府に在り、太子率府完顔守貞・監察御史裔を挙げて俱に大用に可しとす、その後皆名臣と為り、世その人を知ることを多しと云う。

粘割斡特剌

粘割斡特剌、蓋州別裏賣猛安奚屈謀克の人なり。貞元初め、女直字を習うを以て試みに戸部令史に補し、尚書省令史に転ず。大定七年、選びて吏部主事を授け、右補闕・修起居注を歴る。九年、河南路統軍使宗敘、宋人の兵釁を啓かんと欲すと以て、入見を求めて言上す、世宗は斡特剌を遣わして就きてこれを問わしめ、仍てその実を究めしむ。汴に至り、宗敘に問い、及び凡そ嘗て辺事を言える者を召してこれを詰む、皆状無し。還りて報ず、世宗喜びて曰く「朕固より妄なるを知る」と。左司員外郎を授く。

十年、夏国の兵を発して祁安城を築き及び喬家族の首領結什角を襲殺するに因り、又諜者の言うに夏は宋人と通謀して辺を犯すと、詔して大理卿李昌図と斡特剌をして往きてその事を按ぜしむ。夏人の報言するに、結什角は兵を以て夏境を犯す故にこれを殺す、祁安城は本より上国の賜いし旧き積石の地、兵を発して修築するは他盗に備うるのみと。又察知するに宋・夏に交通の状無く、及び喬家族の民戸は結什角の甥趙師古をして首領と為さしむるを願う、具に以て聞かしむ。世宗甚だ悦び、右衛将軍に転じ、衣馬車牛弓矢器仗を賜う。十二年、夏国の生日使と為り、還りて右司郎中を授け、右副都点検に遷る。久しくして、出でて河南路統軍都監と為り、金帯及び具装馬を賜う。

十七年、昌武軍節度使を授かり、前職を兼ねて領す。翌年、入朝して刑部尚書となり、参知政事に拝される。世宗は平章政事唐括安禮に諭して曰く、「朕は治道を思うに、人材を考択するは最も難事なり、その余の常務は各々程式あり、これに比すべからず。斡特剌の挙ぐる所の者は、頗る朕意に称す」と。時に右三部検法蒙括蠻都が斡特剌と招討哲典が朋党を為すと告げ、刑部に付して詰問を乞う。世宗曰く、「もし哲典が死を免ぜば、則ち朋党と謂うべし。今既に誅せられたるは、乃ち誣謗のみ」と。又宰臣に謂いて曰く、「朕は素よりこの人の識慮極めて有るを知る。貌は柔なれども心は甚だ剛直にして、行う所率易ならざるなり」と。二十二年、代州阜通監を提控することを委ね、召見して諭して曰く、「朕卿を任用して以来、卿の材幹を悉くす。故に執政に擢ぐ。卿も亦朕の待遇の意を体し、能くその職を勉めて尽くし、凡そ謀議奏対多く朕の心に副う。上に宰相有るを恃みて自ら外を嫌うこと莫かれ。蓋し旧人は年老い、新人は未だ苦しく経練せず、是を以て責を卿に委ぬ。但だ見る所あれば心を悉くして以て言え、嫌いを挟んで知らざるが如くするなかれ」と。二十三年、尚書右丞に進み、枢密副使を兼ぬ。表を上して一職を解くを乞う。詔して枢密を解くを許す。世宗は猛安謀克が土田を拋留するを以て、宰臣を責めて曰く、「この事は皆卿輩の陳挙すべき所なり。乃ち朕の言を俟ちて後に行うは、蓋し卿輩細務と為して天子の親しむ所に非ずと為すなり。朕嘗てこれを思うに、獄訟簿書は斡特剌在り、余の事は卿輩略く介意せず。朕亦安んぞ置きて問わざるを得んや」と。俄に事に坐して一階を削られ、故の如く視事するを命ぜらる。

二十六年、尚書左丞に転ず。世宗謂いて曰く、「朕昨宰臣と議して執政に授くべき者、卿其の中に在らず。今阿魯罕は年老い、斡魯も多く病む。吾宗浩を用いんと欲す、如何」と。斡特剌奏して曰く、「彼の二人の者は恐らく力を得ず、独り宗浩の幹能は任ずべし」と。遂に宗浩を用う。又謂いて曰く、「朕は天下の事に用心せざる無し、一に草創の時の如し」と。斡特剌曰く、「古より人君、始めは勤めて終わりに怠る者多し。始め有り終わり有るは、惟だ聖人のみ能くす」と。上曰く、「唐太宗は至明の主なり。然れども魏徵十事を以て諫め、其の終わりを有すること能わずと謂う。是れ則ち終始有るは、実に難きなり」と。二十八年、上京留守となり、通犀帯及び射生馬一匹を賜う。

明昌二年、致仕す。承安初め、北方に事有り。朝廷は旧臣を得て之に任ぜんと欲し、乃ち起して東京留守と為す。監察御史完顏綱を遣わして旨を諭さしめて曰く、「汝の精神尚お健なるを知る。故に復用すなり」と。明年、上京留守に改む。又之に諭して曰く、「上京は祖先の基業の地なり。卿馳驛して之に任じ、彼に到りて便宜に事を行え。辺事稍く息まば、即ち卿を召し還さん」と。二年九月、朝に還り、平章政事に拝され、芮国公に封ぜらる。在位数ヶ月、薨ず。年六十九。訃聞き、上傷悼すること久し。官を遣わして祭を致し、賻贈として銀千二百五十両、重幣四十五端、絹四百五十疋、銭二千貫を賜い、諡して成肅と曰う。

斡特剌は性温厚醖藉たり。嘗て丞相紇石烈良弼に薦められしが、後世宗宰臣に謂いて曰く、「良弼は人を知るに善し。斡特剌の輩が如きは其の才真に用うべし」と。相位に在ること十余年、甚だ寵遇を見る。唯だ五品官の子を外路の司吏と同しく部令史に試むるを奏定し、及び随朝の吏員をして国史院書寫を試むるを得しむるを奏するに、世宗は是を非と為す。

程輝

程輝、字は日新、蔚州霊仙の人なり。皇統二年、進士第に擢でられ、尚書省令史より左司都事に升る。久しくして、南京路転運使と為り、宮殿の火災に因り、降授されて磁州刺史と為る。呉僧という者有り、州人張善友を殺して其の妻を取る。輝之を督捕し、張の母に命じて長錐を以て僧と其の妻を刺さしめ、完膚無くして死せしむ。陝西東路転運使に改め、再び遷りて戸部尚書と為る。

大定二十三年、参知政事に拝される。世宗之に諭して曰く、「卿は年老いたりと雖も、猶お力を宣ぶべし。事に言うべき有らば、或いは隠默すること無かれ。卿其れ之を勉めよ」と。一日、輝朝に侍す。世宗曰く、「人嘗て卿の言語荒唐なりと謂う。今事に遇いて輒ち言う、王蔚に過ぐ」と。顧みて宰臣に謂いて曰く、「卿等は何如と為すや」と。皆曰く、「輝の議政可否は、略く隠情無し」と。輝対えて曰く、「臣は年老いて耳聵く、第に聞審らかならず、或いは奏対を失わんことを患う。苟くも聞く所あらば、敢えて心を尽くさざらんや」と。旧く廟祭に牛を用う。世宗晚年他牲を以て之に易えんと欲す。輝奏して曰く、「凡そ祭に牛を用うるは、牲の最も重きを以てする故に、太牢と号す。『論語』に曰く'犁牛の子騂にして且つ角有り、雖も用いざらんと欲すとも、山川其れ諸れを舎てんや'と。古礼廃すべからず」と。

二十四年、世宗上京に幸す。尚書省来歳の正旦に外国朝賀の事を奏す。世宗曰く、「上京は地遠く天寒し。朕甚だ人使の労苦を憫み、即ち南京にて宋の書を受くんと欲す。何如」と。輝対えて曰く、「外国の使来たらば、必ず天子に面見す。今半途にて書を受くれば、異時に宋人事に托して之に效わば、何を以てか辞と為さん」と。世宗曰く、「朕は誠実を以てす。彼若し相詐らば、朕自ら処置有らん」と。輝は不可と為す。是に於いて議して権りに一年を免ず。会に有司の面を市いて時に直を酬わざる有り。世宗監察の挙劾せざるを怒り、杖責す。以て輝に問う。輝対えて曰く、「監察は君の耳目なり。犯する罪軽し。贖わずして杖するは、亦一時の怒りなり」と。世宗曰く、「職事挙げざるは、是れ故犯なり。之を杖する何ぞ不可ならん」と。輝対えて曰く、「往く者は諫むべからず、来たる者は猶お追うべし」と。

二十六年、老を以て致仕す。次年、復び起して河南府事を知らしむ。輝は衰老にして任に堪えずと辞す。香閣に召し入れて之に諭して曰く、「卿は年老いても精力尚お強し。久しく外を歴れども、未だ嘉郡を得ず。河南は地勝れて事簡なり。故に以て卿を処す。卿は優遊して頤養すべし」と。輝曰く、「臣は猶お老馬なり。芻豆を待ちて養わるるも、豈に筋力を以て責めんや。向者南京宮殿の火災、聖恩の寛貸に非ざれば、臣死すること久し。今河の河南の境を径る上下千余里、河防の責め彼を視ること尤も重し。此れ臣の憂えて任に堪えざる所以なり」と。是に於いて特詔して河事に預からしめず。章宗立つ。時に輝年七十六、復た致仕を乞う。詔して之を許し、仍って参知政事の半俸を給す。承安元年卒す。諡して忠簡と曰う。

輝は性倜儻敢言にして、雑学を喜び、尤も医を論ずるを好む。河間劉守真の説に従い、率ね涼薬を用う。神童嘗添壽という者方に数歳、輝之を召す。因りて「医は細事に非ず」の四字を書す。添寿「細」の字を塗り、改めて書して「相」と作す。輝頗る慚じ、人も亦此を以て其の病に中ると為すと云う。

劉瑋

劉瑋は、字を徳玉といい、咸平の人である。唐の盧龍節度使劉仁敬の末裔である。祖父の劉弘は、遼の末期に懿州を鎮守していたが、王師(金軍)が到着すると、劉弘は州を挙げて降伏し、太祖(阿骨打)は彼に咸州の知事を命じ、後に同平章政事の地位で致仕した。父の劉君詔は、同知宣徽院事であった。劉瑋は幼少より聡明で悟りが早く、進士科の挙業に励み、熙宗はその旧功を記録し、特に及第を賜った。安次県丞に任じられた。遵化県令を経て尚書省令史に補され、戸部主事、監察御史を歴任し、累進して尚書省都事に転じた。宰臣が劉瑋を軍民の田地経画に擬することを奏上すると、世宗はその名を見て言った、「劉瑋がまだこの地位に埋もれているのか」。戸部員外郎に昇進した。時に世宗が東巡を行おうとしており、劉瑋に工部郎中宋中と共に行宮の営造を命じ、そのまま郎中に昇進した。同知宣徽院事に改められ、宋国信副使となった。劉瑋の父と兄はいずれもこの官職で江南に使いしたので、当時は栄誉とされた。帰還後、戸部侍郎を授かった。

初め、世宗は劉瑋の才幹を器として、何事にも適応できると考え、上京に行幸する際、行在所の必要なものは全て太府に属するため、劉瑋にその事を統轄させようとしたが、その官位がやや低いのを嫌い、そこで戸部侍郎張大節を工部に移し、戸部を劉瑋に授けたのである。上(世宗)が還御すると、宰臣に言った、「劉瑋は非常に心労を尽くし、事に臨んで閑暇であるが、ただ心を用いることが正しくないだけだ。もし心が正しければ、その人材は得難いものであろう」。

翌年、戸部尚書に抜擢された。時に黄河が衛州で決壊し、衛州から清州、滄州に至るまで皆その害を受け、詔により工部尚書を兼ねて決壊箇所の塞修に赴いた。ある者は天災の流行は人力で防ぎ得るものではないと言い、ただ民を移してその激流を避けるべきだと説いたが、劉瑋は言った、「そうではない。天は五材(金木水火土)を生じ、互いに盛衰を繰り返す。今、黄河が決壊するのは土が水に勝たないからである。秋冬の交わりを待ち、水勢がやや衰えた頃に、漸次築堤工事を興せば、おそらく塞修できるであろう」。翌春、劉瑋は斎戒沐浴して黄河に祈禱し、工事と労役を一斉に開始すると、黄河は遂に旧河道に戻った。召還されて官秩を増され、宋弔祭副使に任じられた。世宗が不(病気)となると、参知政事に任じられ、引き続き戸部を統轄し、やがて山陵使となった。まもなく上表して外任を請い、済南府知事として出向し、河中府に移鎮した。明昌二年、大名府知事に転じ、引き続き河防の事務を統轄した。

三年、召還されて尚書右丞に任じられた。上(章宗)はかつて考課法が今実行可能かどうかを問うた。右丞相夾谷清臣は言った、「実行することもできますが、ただ規定が煩雑であれば役所が遵守し難いでしょう」。劉瑋は言った、「考課の法は、もともと名実を総合的に核実することに基づきます。今、提刑司が廉潔有能と貪汚濫職を体察し、賞罰を行うのも、その趣旨です。別に法を設けることを議すれば、恐らく煩雑に陥るでしょう」。上は唐代はどうであったかと問うと、劉瑋は「四善、二十七最」と答えた。翌年六月、卒去した。この日、上は臨武殿で撃球(ポロ)をしようとしていたが、劉瑋の死を聞いて中止し、諡を安敏と賜った。

後に上は宰臣に言った、「人は小官の時には才幹を称えられることもあるが、大用されるとそうでなくなる。劉瑋のごときは確かに非常に有能であったが、世宗朝から朕を補佐するに至り、事について多く知りながら言わないことがあった。もし本当に愚人であれば論ずるに足りないが、知り及んでいて肯いて心を尽くさないのは、よろしいのか」。平章政事完顏守貞は言った、「『春秋』の法は、賢者に責めを求めるものです」。上は言った、「宰相たる者が恩を収め怨みを避け、人々皆に己が是と称えさせようとするならば、賢者は果たしてこのようなものなのか」。

董師中

董師中は、字を紹祖といい、洺州の人である。若い頃より聡明で見識が広く、学問を好み記憶力が強かった。皇統九年の進士に及第し、沢州軍事判官に任じられた。平遥県丞に改められた。県に大盗賊王乙がおり、平素より凶悍で制御できなかったが、師中は捕らえて杖殺し、一境は遂に安寧となった。時に大軍の通過後で、野に多くの枯死体があり、県には駅舎に仮安置された遺棺があったが、師中は全てこれを埋葬した。綿上県令に転じ、尚書省令史に補された。右相唐括訛魯古は特に彼を器重し、その座を撫でて言った、「君の議論は英発で、襟度は開朗である。他日必ずこの座に就くであろう」。二度の考課を経て、監察御史に抜擢され、尚書省都事に転じた。初め、師中が監察御史であった時、大名総管忽剌の不正事件を漏れ察知しなかった。及んで忽剌が罪により誅殺されると、世宗は怒って言った、「監察御史が郡県に使いするのは、弾劾糾挙が職務である。忽剌は親貴であるから、特に意を用いるべきであったのに、従って上聞しなかったのか」。官一階を削り、沁南軍節度副使に降格任用された。累進して坊州刺史となった。

明昌元年、初めて九路提刑司を設置すると、師中は陝西路副使に選ばれたが、公廨修築で官銭を濫費した罪に坐し、贖罪により処分された。及んで御史台がその寛和で体要を得ていると上言すると、召還されて大理卿となった。御史中丞吳鼎樞が自らの後任として推挙し、尚書省もその才能と行いを奏上したので、遂に御史中丞に抜擢された。時に西北路招討使宗肅が平章夾谷清臣の推薦により、大興府知事に任じられようとしていた。師中は上言した、「宗肅は近ごろ貪汚罪により有司で審理されており、獄事が未だ結審していません。改めて除するのは適切ではありません」。上はその言を容れ、言った、「朕は知った。功があっても賞せず、罪があっても罰さなければ、たとえ唐・虞でも天下を教化することはできない」。命じて再び有司に送致させた。

四年、上(章宗)が景明宮に行幸せんとしたとき、師中および侍御史の賈鉉・治書侍御史の粘割遵古が諫めて言うには、「民を労し財を費やすことは、その小なるものに過ぎず、思いがけない変事が生ずることは、その関係するところ軽からず。聖人は天地に法って順に動くが故に、万挙万全である。今、辺境は従順でなく、反覆定まらず、必裏哥孛瓦(ビリゲ・ボワ)は貪暴強悍にして、深く慮るべきである。陛下もし左右に問えば、必ず迎合して言う者があり、堂堂たる大国、何ぞ彼を恤れんやと言うであろう。蜂蠆ほうさいにも毒あり、患いはゆるがせにするところより起こる。今、都邑は壮麗にして、内外の苑囿は以て皇情を優佚ゆういつするに足り、近畿の山川の飛走(鳥獣)は充牣じゅうじんして、以て武事を閲習するに足る。何ぞ必ずしも千車万騎、草に居り露に宿り、辺陲に逼介ひっかいし、遠く偵候を煩わし、以て測り難き悔いを冒さんや」と。上は納れなかった。師中らはまた上疏して言うには、「近年水旱の災があり、明詔を下して己を罪し言を求め、不急の役を罷め、無名の費を省き、天下欣幸した。今まさに春の東作(耕作)の時であるのに、急いで有司を遣わして行宮を修建せしめることは、事を推し量るに、不急のことに似ている。況んや西京・西北二京、臨潢諸路は、比年収穫なく、これに民に養馬・簽軍・挑壕の役あり、財力大いに困窮し、流移(流浪)して未だ復せず、米価甚だ貴し。もし扈従して彼の地に至れば、又必ず価を増すであろう。日に升合をう者の口数は万を以て数え、旧来北京等路の商販に頼ってこれを給していた。もし物価の貴いため、あるいは時に至らざれば、則ち飢餓の徒はまた曩歳(さきの年)の如く、太尉の馬を殺し、太府の瓜果を毀ち、忿怨の言を出だし、起って乱を為す者があろう。『書経』に曰く、『民情大いに見るべく、小人保ち難し』と。況んや南北両属部、数十年辺境をふせいできた者が、今必裏哥孛瓦に誘脅せられ、族を傾けて随い去り、辺境がこのように蕩揺ゆれうごくことは憂うべきである。これを忽せにして往かば、豈に聖人の万挙万全の道であろうか。先ごろ太白が昼に見え、京師地震し、また北方に赤色あり、夜明け近くになって始めて散じた。天の示す象は、聖意を警悟せしめて、徳を修め変をさんことをこいねがうものである。ましてや逸遊は古人の戒めるところ、遠くは周・秦より、近くは隋・唐及び遼におよび、皆これによってきっかけを生じた。慎まざるべけんや、畏れざるべけんや」と。左補闕の許安仁・右拾遺の路鐸も皆上書して論諫した。この日、上は後閣に御し、師中らを召して賜対し、即時にその奏に従い、なお輔臣に諭して言うには、「朕が山后に巡幸せんと欲するは、他に理由なく、暑熱を禁じ得ざるが故である。今、台諫官がな民間に食糧の欠乏する処甚だ多しと言う。朕は初め尽く知らなかったが、既に知った以上、暑さは恐るべしといえども、どうして私的な奉養を忍びて民の困窮を重くせんや」と。乃ち北幸を罷めた。まもなく宋の生日国信使となり、還って得たる金帛を親旧に分け与えた。五年、上は再び景明宮に行かんとした。師中および台諫官が各々上疏して極諫した。上は怒り、近侍局直長の李仁願を尚書省に遣わし、師中らを召して諭して言うには、「卿等の言うところ、取るべきもの無きに非ざるも、然れどもまた君臣の体を失う者あり。今、平章に命じて旨を諭さしむ。往いてこれを聴け」と。

戸部尚書の馬琪が表を上って自らの代わりに挙げたので、吏部尚書にぬきんで任じられた。初め、完顔守貞が西京留守に改められ、京師に朝したとき、上は再び用いようとしたが、監察御史の蒲剌都らが数事を糾弾した。師中はそのいであることを弁明し、守貞は正人で用いるべきであると挙げたので、守貞はこれによって再び平章政事に拝された。及んで守貞が罪によって斥けられたとき、上は言うには、「先に守貞を薦めた者は降黜こうちゅつすべきである。董師中が言うには、台省にこの人無くして治まらずと。路鐸・李敬義もまた嘗て推挙した。外任に左遷すべし。然れども三人は後ともに用いることができる。今は暫く出して、失挙の罪を正す」と。陝西西路転運使に除した。歳余りして、されて御史大夫と為り、礼部尚書の張暐とともに陳言文字を見読することを命じられた。三月をえて、参知政事に拝され、尚書左丞に進んだ。ある日、事を奏したとき、上は輔臣に語って言うには、「御史の姫端修が小人側に在りと言うが、果たして誰ぞや」と。師中は言うには、「李喜児の輩を謂うべきであろう」と。上は黙然とした。

師中は古今に通じ、敷奏(上奏)に巧みで、典憲(法典)に練達し、事を処するに精敏であった。嘗て言うには、「宰相は細務に当たるべからず、要は人材を知り、綱紀を振るうにあり。ただ一心正しく、両目明らかなれば足る」と。承安四年、表を上って致仕を乞うた。詔して宅一区を賜い、京師に留まって居住させた。寒食の節に、家に過ぎて塚に上ることを乞うと、これを許し、かつ『寒食還家上塚詩』を賦することを命じた。毎節辰の朝会には、召し入れて侍宴せしめ、その眷礼けんれいこの如くであった。泰和二年、薨去した。七十四歳。上はこれを聞き、甚だ悼惜し、顧みて大臣に謂いて言うには、「凡そ正人は多く執方しゅほうにして通ぜざるが、独り師中は正にして通ず」と。詔して現任の宰執の例に依って葬祭を行い、なお賻贈ふぞうし、諡して文定と言う。

師中は文をよくし、性は通達、財をうとんじ義をたっとび、平居へいきょには則ち楽易真率らくいしんそつであったが、事に臨むには則ち剛決にして、挺然ていぜんとして奪うべからざるものがあった。弟の師儉は、初め進士を業とし、その資蔭しおんによって官を得ようとした。師中はこれを保任し、密かに人に代わって堂帖(任命書)を与えさせ、学業に専念させた。師儉はその義方(正しい道)に感じ、力学して後遂に登第した。政府(政務の中枢)に在ったとき、近侍が詔を伝え、その子を録用せんとした。師中は奏して言うには、「臣に孤幼の甥あり。もし恩を蒙って録用せられば、臣の子に勝ります」と。上はその義を感じ、その甥を筆硯承奉ひっけんしょうほうとした。胥持国とともに政をたすけ、頗る親附したので、世の人はこれをもって少し軽んじた。

王蔚

王蔚、字は叔文、香河の人である。皇統二年の進士第に登り、良郷丞に調ととのえられた。治績は優等で、尚書省令史に補され、管差除かんさいじょを知った。蔚は性通敏にして、吏事に明察であった。まもなく都事を授かり、喪のため去った。起復して、行左司員外郎となり、郎中に遷った。大定二年、超授ちょうじゅされて河東北路転運使となり、旨を諭されて言うには、「汝は海陵(王)の時、行い多く法に合わず。然れども朕は素より爾の才幹を知り、内除(中央の官職)を授けんとしたが、憲台(御史台)に言あり、これをもって外補(地方官)とする。もし心をあらい行いをあらためれば、必ず当に升擢すべし。然らずば再用を望むなかれ」と。既にして廉を察して第一と為り、中都路都転運使を授かった。吏部尚書に改め、護衛の出職事を断ずるに当たらず、官一階を奪われた。間もなく、出て河中府事を知り、南京留守に遷った。十五年、参知政事に拝された。蔚は懇ろに辞して負荷に任じずとし、勅を諭して言うには、「卿はただ正しく奉公し、或いは阿順あじゅんすること無くば、何を以て辞と為さんや」と。十六年、出て真定府事を知り、累転して河中府を知った。明昌元年、召されて尚書右丞に拝され、致仕し、卒した。

馬惠迪

馬惠迪、字は吉甫、漷陰の人である。天徳三年の進士に挙げられ、再び昌邑県令に転じ、廉察第一となり、尚書省令史に補せられた。大定年間、西京留守判官として出向し、治績最上により、崇義軍節度同知に抜擢された。累遷して左司郎中となった。先に鄧儼がこの職にあったが、世宗はその明敏を愛した。惠迪が一日奏事を終えて退出すると、上は宰臣に言われた、「人の聡明は多く浮華に失するものだが、惠迪は聡明にして朴実、甚だ喜ばしい。朕は嘗て事を論じたが、五品以下の朝官で彼に及ぶ者は少ない」。未だ幾ばくもせず、御史中丞を超授され、参知政事に拝された。時に烏底改が叛亡し、世宗は既に討伐の兵を遣わしていたが、更に甲士を増やし、その船筏を破壊しようとされた。惠迪が奏上して言うには、「その人を得ても用いるに足らず、その地を有しても居るに足らず、恐らく聖慮を労するに足りませぬ」。上は言われた、「朕は固より知っている。船筏を破壊する所以は、正に再び辺境を窺わせぬためである」。間もなく憂服のため去職した。昭義軍節度使として起用された。明昌元年、南京留守となり、致仕し、卒した。

馬琪

馬琪、字は徳玉、大興宝坻の人である。正隆五年に進士に挙げられ、清源主簿に転じ、三遷して永清県令となった。永清は畿県で、治め難いと号され、前任の令の要介は能吏の名声があったが、琪はその後を継いで治績を以て聞こえた。尚書省令史に補せられ、永清での治績最上を以て、定武軍節度同知事・興中府治中を授かり、召されて戸部員外郎となり、侍御史に改めた。

世宗は宰臣に言われた、「近頃馬琪が高徳温の獄を主奏したが、富戸の寄銭の事は皆略して奏上しなかった。朕は琪が法律に明るく正直であると思っていたのに、その行いがこのようであるとは、称職の才を得ること何と難しいことか。古人は『罪疑わしきは惟れ軽きに従え』と言ったが、全く寛縱を尊ぶためではない」。間もなく左司員外郎に転じ、東巡に扈従し、右司郎中に遷り、左司に移った。時に宋国への使者を選んでいたが、世宗は琪を命じようとされ、宰臣がその資歴が浅いと言うと、詔して特に彼を遣わし、帰朝して吏部侍郎を授け、戸部に改めた。

章宗が即位すると、中都路都転運使に除せられた。時に戸部に官が欠けており、上は宰臣に任せうる者を選ばせた。或る者が同知大興府事烏古孫仲和を推挙すると、上は言われた、「仲和は智略はあるが、恐らく銭穀を主とすることはできまい。理財は劉晏の如き者を得るべきで、官用は足りて民は困窮せず、唐以来ただ一人のみである」。或る者が琪を推挙すると、上は然りとされ、「琪は官を欺かず、また民を害さず、これこそ用いるに足る者である」と言われた。遂に戸部尚書に抜擢された。久しくして、官一階を削られた。初め、琪が病で告暇した時、近侍が伝旨したが、正装せず履を引きずって出てきたため、有司が徒二年に当たると議し、減刑の外猶も官を追奪し解任すべきとした。大理少卿閻公貞は、琪は本来慌てて失措したのであり、病告に違うのとは同じではないとして、徒二年を三等減じて論ずべきであると考えた。上は公貞の議に従い、職に留まることを許された。

明昌四年、参知政事に拝され、詔して諭して言われた、「戸部は急に適任者を得難く、卿に代わる者がないので、卿を用いるのが遅くなったのである」。一日、上は琪に言われた、「卿は省に久しくいるが、近頃事が往時に比べて少ないのは何故か」。琪は言った、「昔は宰職に異同が多いことがありましたが、今は意見の相違が少ないのです」。上は言われた、「往時は多くの意見があるのが正しいのか、今は無いのが正しいのか」。琪は言った、「事状が明らかなものは意見を借りる必要がなく、仮に意見を用いるとしても、結局は正しいものに帰着させるべきです」。五年、河が陽武で決壊し、封丘を灌いで東流した。琪は尚書省事を行ってこれの治水に赴き、工事を終えて帰還した。中大夫に遷った。承安元年、北辺で兵事が起こり、連年旱魃が続いたため、表を上って致仕を乞うたが、許されなかった。翌年、安武軍を鎮守として出向し、致仕し、卒した。子の師周は閣門祗候で、当時に給暇すべきであったが、上聞に達しなかった。上はこれを悼み、奏聞しなかったことを責めて有司に諭した。以後二品官の卒は皆詳しく上聞するようになり、琪の時から始まった。

琪の性質は明敏で、吏事に習熟し、その銭穀を治めることは特に長けていた。しかし性質は吝嗇で利を好み、頗る上から軽んじられたという。

楊伯通

楊伯通、字は吉甫、弘州の人である。大定三年の進士に挙げられ、尚書省令史から吏部主事・順義軍節度副使となり、憂服のため去職した。吏部侍郎馬琪が伯通の廉潔と幹才を表薦し、尚書省が再び察してその推挙の通りであるとし、召して尚書省都事とし、定武軍節度同知事を授けた。明昌元年、左司員外郎に抜擢され、郎中に転じ、累遷して吏部尚書となり、間もなく戸部に移った。

承安二年、参知政事に拝された。監察御史路鐸が伯通が郷人の李浩を引用し、公器を以て私恩を結んだと弾劾奏上した。左司郎中賈益が風旨を承望し、再び詳しく検討せず、言うところを台端に持ち込み、糾弾を加えようとしたが、大夫張暐は即座に阻止して行わせなかった。上は同知大興府事賈鉉にこれを詰問させた。伯通は家に居て罪を待った。鉉が奏上して言うには、「暐は言うに、大臣を弾劾して罷免するには実跡がなければならず、弾劾が当たらなければ徒らに台綱を損なうだけだと。益は言うに、除授は皆宰執の公議によるもので、伯通が私的に枉げたとは言えないと」。詔して鐸の言事の軽率を責め、伯通を慰諭して事を治めさせた。伯通は再び表を上って辞したが、許されなかった。四年、尚書左丞に進み、致仕し、卒した。

尼厖古鑑

尼厖古鑑、本名は外留、隆州の人である。女直小字及び漢字を識り、大定十三年の進士に及第し、隆安教授に転じた。即墨主簿に改め、召されて国子助教を授かり、近侍局直長に抜擢された。世宗はその才能を重んじ、宰臣に言われた、「新進士の中で徒単鎰・夾穀衡・尼厖古鑑の如きは、皆用いるに足る者である」。太子侍丞に改めた。一年余りして、応奉翰林文字に遷り、右三部司正を兼ねた。世宗は再び宰臣に言われた、「鑑は嘗て近侍にあり、朕はその正直で事をよく治めることを知っている。東宮侍丞となってからは、太孫を保護し、礼節と言動にはなお国俗の純厚な旧風があり、朕は甚だこれを嘉する」。章宗が立つと、累遷して尚書戸部侍郎となり、翰林直学士を兼ねた。俄かに同知大興府に転じ、大臣の推薦により、知大興府事に改めた。明昌五年、参知政事に拝され、薨じ、諡して文肅といった。

賛に曰く、移剌履は従容として進説し、信は君に孚き、経は純なり伝は駁なりを論じるに至り、孝行を以て治の本と為すは、古人の遺学を得たるか。昔、臧孫達が魯に忠諫し、君子はその後有るを知り、信ずるかな。張万公は正を引き己を守り、質言にして華なし。壕を開き地を括するの議、利害を明灼にし、掌を指すが如し。群説に閉ざされて用いられず、致仕して帰るは、理勢然り。蒲察通の海陵を哭するは、君臣の大義、死生を一にし、その志烈し。程輝・斡特剌の鯁直、劉瑋・董師中の通敏、才は皆以て発聞するに足る。然れども師中には胥に附するの譏あり、劉瑋には事を避くるの責を見る。その前人を視るに、多く愧ずる者有り。王蔚・馬惠迪の徒は、何ぞ算うるに足らんや。