金史

列傳第三十三: 移剌履、張萬公、蒲察通、粘割斡特剌、程輝、劉瑋、董師中、王蔚、馬惠迪、馬琪、楊伯通、尼厖古鑑

列傳第三十三: 移剌履、張萬公、蒲察通、粘割斡特剌、程輝、劉瑋、董師中、王蔚、馬惠迪、馬琪、楊伯通、尼厖古鑑

移剌履

原文移剌履

移剌履、字は履道、遼の東丹王突欲の七世孫である。父は聿魯、早くに亡くなった。聿魯の族兄で興平軍節度使の徳元に子がなく、履を後嗣とした。五歳の時、夕方に廡下に臥して、微雲が天際を往来するのを見て、急に乳母に言うには、「これが所謂『臥して青天に白雲の行くを見る』というものか」と。徳元はこれを聞き、驚いて言うには、「この子は文学をもって世に名を成すであろう」と。成長して、博学で多芸多才、文章をよくした。初め進士に挙げられようとしたが、搜檢の煩瑣を嫌い、これを去った。蔭補により承奉班祗候・国史院書寫となった。世宗が儒術を興そうとしていた時、詔して経史を訳させ、国史院編修官に抜擢ぬきし、兼ねて筆硯直長とした。ある日、世宗が召して問うには、「朕は近く『貞観政要』を読み、魏徴の嘉謀忠節を見て、まことに称歎すべきものがある。近世には何故か魏徴のような者がいないのは何故か」と。履は言うには、「忠嘉の士は、何れの代にいないことがあろうか、ただ上に立つ者が用いるか用いないかだけです」と。世宗は言うには、「卿は劉仲誨・張汝霖を見ないのか、朕が二人を抜擢して用いたのは、かつて諫職に居り、たびたび忠言があったからである。どうして用いないと言えようか、ただ人材が得難いだけである」と。履は言うには、「臣はその諫言を聞いたことがありません。かつ海陵王は言路を杜塞し、天下は口を閉ざし、習いとして風潮となっております。願わくは陛下には前事を懲らしめ、諫諍の門を開かれますよう、天下幸甚です」と。

原文移剌履,字履道,遼東丹王突欲七世孫也。父聿魯,早亡。聿魯之族兄興平軍節度使德元無子,以履為後。方五歲,晚臥廡下,見微雲往來天際,忽謂乳母曰:「此所謂'臥看青天行白雲'者耶?」德元聞之,驚曰:「是子當以文學名世。」及長,博學多藝,善屬文。初舉進士,惡搜檢煩瑣,去之。廕補為承奉班祗候、國史院書寫。世宗方興儒術,詔譯經史,擢國史院編修官,兼筆硯直長。一日,世宗召問曰:「朕比讀《貞觀政要》,見魏征嘉謀忠節,良可稱歎。近世何故無如征者?」履曰:「忠嘉之士,何代無之,但上之人用與不用耳。」世宗曰:「卿不見劉仲誨、張汝霖耶,朕超用二人者,以嘗居諫職,屢有忠言故也。安得謂之不用,第人材難得耳。」履曰:「臣未聞其諫也。且海陵杜塞言路,天下緘口,習以成風。願陛下懲艾前事,開諫諍之門,天下幸甚。」

初め、時務策をもって女直じょちょく進士科を設けることを議し、礼部は所學が同じでないとして、一概に進士と称すべきでないとしたが、詔して履にその事を定めさせた。そこで上議して言うには、「進士の科は、隋の大業年間に起こり、初め策試を行った。唐初はこれを因襲し、高宗の時に箴銘賦詩を交え、文宗に至って専ら賦を用いるようになった。かつ進士の初めは、本来専ら策を試みたのであり、今女直の諸生が策試によって進士と称するのに、何の疑いがありましょうか」と。世宗は大いに喜び、事は遂に施行された。十五年、応奉翰林文字を授け、前職を兼ね、まもなく修撰に遷った。二十年、詔して衍慶宮の功臣像画の提控を命じ、期限を過ぎたため、応奉に降格した。一年余りして、再び修撰となり、転じて尚たっと書礼部員外郎となった。

原文初議以時務策設女直進士科,禮部以所學不同,未可概稱進士,詔履定其事,乃上議曰:「進士之科,起于隋大業中,始試以策。唐初因之,高宗時雜以箴銘賦詩,至文宗始專用賦。且進士之初,本專試策,今女直諸生以試策稱進士,又何疑焉。」世宗大悅,事遂施行。十五年,授應奉翰林文字,兼前職,俄遷修撰。二十年,詔提控衍慶宮畫功臣像,過期,降應奉。逾年,複為修撰,轉尚書禮部員外郎。

章宗が金源郡王であった時、『春秋左氏傳』を読むことを好み、履の博洽を聞いて召し、疑義を質した。履は言うには、「左氏は権謀術数が多く、駁雑で純粋ではありません。『尚書』・『孟子』は皆聖賢の純全なる道です、どうか留意されますよう」と。王はこれを嘉んで受け入れた。二十六年、本部郎中に進み、同修国史・翰林修撰を兼ね、宋の司馬光の『古文孝経指解』を表して進めて言うには、「臣が窃かに近世を観ますに、皆兵刑財賦を急務とし、光のみがこれを以てその君に進めました。天下を有つ者は、その文辞を取って宇内に施せば、則ち元元の民は恩恵を受けるでしょう」と。まもなく病気のため、外任を補うことを乞うと、世宗は言うには、「履は病が多い、便利な州を与えよ」と。そこで薊州刺史を授けた。間もなく、翰林待制に召され、同修国史とした。明年、尚書礼部侍郎に抜擢し、翰林直学士を兼ねた。

原文章宗為金源郡王,喜讀《春秋左氏傳》,聞履博洽,召質所疑。履曰:「左氏多權詐,駁而不純。《尚書》、《孟子》皆聖賢純全之道,願留意焉。」王嘉納之。二十六年,進本部郎中,兼同修國史、翰林修撰,表進宋司馬光《古文孝經指解》曰:「臣竊觀近世,皆以兵刑財賦為急,而光獨以此進其君。有天下者,取其辭施諸宇內,則元元受賜。」俄以疾,乞補外,世宗曰:「履多病,可與便州。」遂授薊州刺史。無幾,召為翰林待制,同修國史。明年,擢尚書禮部侍郎,兼翰林直學士。

世宗が崩御し、遺詔で梓宮を寿安宮に移すとあった。章宗が百官に議させると、皆遺詔の通りにすべきと言ったが、履のみが言うには、「礼に非ず。天子は七月にして葬り、同軌の国が皆至る。万国の臣をして大行皇帝を離宮において朝せしめることができようか」と。上は言うには、「朕は日夜これを考え、正殿を捨てて別宮に奠することは、情に忍びず、かつ礼にも安からぬ」と。そこで大安殿に殯した。二十九年三月、礼部尚書に進み、翰林直学士を兼ね、大定三年孟崇献の榜下の進士及第を賜った。七月、参知政事に拝し、『遼史』刊修の提控を命じられた。明昌元年、尚書右丞に進んだ。

原文世宗崩,遺詔移梓宮壽安宮。章宗詔百官議,皆謂當如遺詔,履獨曰:「非禮也。天子七月而葬,同軌畢至。其可使萬國之臣朝大行于離宮乎?」上曰:「朕日夜思之,舍正殿而奠于別宮,情有所不忍,且于禮未安。」遂殯于大安殿。二十九年三月,進禮部尚書,兼翰林直學士,賜大定三年孟崇獻榜下進士及第。七月,拜參知政事,提控刊修《遼史》。明昌元年,進尚書右丞。

初め、黄河が曹州で溢れた時、帝が問うには、「『春秋』二百四十二年の間に、河の決壊を言わないのは、何故か」と。履は言うには、「『春秋』はただ魯の史書に過ぎず、他国の事に及ぶことが少ないからです」と。二年六月、薨去、六十一歳。この日は、履の誕生日であった。諡して文獻といった。

原文初,河溢曹州,帝問曰:「《春秋》二百四十二年,不言河決,何也?」履曰:「《春秋》止是魯史,所以鮮及他國事。」二年六月,薨,年六十一。是日,履所生也。諡曰文獻。

履は秀でて聡明で悟りが早く、暦算・書画に精通していた。先に、旧『大明暦』に誤りがあり、履が『乙未暦』を上った。金が乙未年に天命を受けたからである。世はその善さを服した。初め、徳元に子がなく、履を後嗣としたが、後に子の震が生まれた。徳元が没すると、家財を全て震に推し与えた。彼が礼部兼直学士から執政となった時、前代の光院の故事を挙げて、銭五十万を学士院に送り、学者たちはこれを栄誉とした。

原文履秀峙通悟,精曆算書繪事。先是,舊《大明曆》舛誤,履上《乙未曆》,以金受命於乙未也,世服其善。初,德元未有子,以履為後,既而生子震,德元歿,盡推家貲與之。其自禮部兼直學士為執政,乃舉前代光院故事,以錢五十萬送學士院,學者榮之。

張萬公

原文張萬公

張萬公、字は良輔たす、東平東阿の人である。幼くして聡明で悟りが早く、読書を好んだ。父の彌學が、ある室に至る夢を見た。榜に「張萬相公讀書堂」とあり、やがて萬公が生まれたので、これによって名付けた。正隆二年の進士第に登り、新鄭の主簿に調ととの任された。憂いにより去職した。喪が明けると、費県の主簿に任じられた。大定四年、東京辰淥塩副使となり、課税が増えたため、長山県令に遷った。当時、土賊が平定されておらず、ある日城下に至った者が数万人に及んだ。萬公は城壁に登り、郷里親旧の情をもって諭すと、衆は感じ入って相率いて去り、邑人はこれに頼り、生祠を立てた。久しくして、尚書省令史を補し、河北西路転運司都勾判官に抜擢され、大理評事に改め、就いて司直に昇進し、四遷して侍御史・尚書右司員外郎となった。丞相の徒単克寧がかつて言うには、「我が後を継ぐ者は必ず汝であろう」と。まもなく郎中を授け、上奏が明敏であったので、世宗はこれを嘉し、侍臣に言うには、「張萬公は純直な人物である」と。間もなく刑部侍郎に遷った。

原文張萬公,字良輔,東平東阿人也。幼聰悟,喜讀書。父彌學,夢至一室,榜曰「張萬相公讀書堂」,已而萬公生,因以名焉。登正隆二年進士第,調新鄭簿。以憂去。服闋,除費縣簿。大定四年,為東京辰淥鹽副使,課增,遷長山令。時土寇未平,一旦至城下者幾萬人,萬公登陴諭以鄉里親舊意,眾感悟相率而去,邑人賴之,為立生祠。久之,補尚書省令史,擢河北西路轉運司都勾判官,改大理評事,就升司直,四遷侍御史、尚書右司員外郎。丞相徒單克寧嘗謂曰:「後代我者必汝也。」俄授郎中,敷奏明敏,世宗嘉之,謂侍臣曰:「張萬公純直人也。」尋遷刑部侍郎。

章宗が即位すると、初めて九路提刑司を設置し、選ばれて南京路提刑使となった。治績が最も優れていたため、御史中丞に遷った。時に北辺でたびたび警報があり、上(章宗)は枢密使夾谷清臣に命じて兵を発してこれを撃たせようとした。萬公は言った、「民を労するは便ならず」。詔して百官を尚書省に集めて議させ、ついに出兵を中止した。まもなく彰国軍節度使となった。明昌二年、大興府事を知り、参知政事に拝された。一年余りして、母が老齢であることを理由に侍養を乞うたが、詔して許さず、告(休暇)を賜って省親させた。帰還すると、上は山東・河北の粟の価格の高低や、今春の苗の出来について問うたので、萬公はことごとく実状をもって答えた。上は宰臣に言った、「各所で雨は得たが、まだ十分に潤っていない、どうしたものか」。萬公が進み出て言った、「陛下が即位されて以来、利を興し害を除き、国を益し民に便ならしめる事柄は、聖心孜孜として、行われないものはありません。旱魃の災害に至っては、皆臣ら(宰相)の責任であり、もし漢代の故事に依るならば、皆免官されるべきです」。上は言った、「卿らに何の罪があろうか、おそらく朕の行いに及ばないところがあるのだ」。答えて言った、「天道は遠いとはいえ、実は人事と相通じており、ただ聖人の言行のみが天地を動かし得ます。昔、成湯は六事を引きて自らを責め、周の宣王は災害に遇って懼れ、身を側めて修行し、いずれも人事を修め整えました。方今、倹約を尊び、不急の務めや無名の費を、ともに罷め去るべきです」。上は言った、「災異については専ら天道を論じることはできず、必ずまず人事を尽くすべきである。故に孟子は王に罪歳無しと言ったのだ」。左丞完顔かんがん守貞が言った、「陛下が咎を引きて自らを責められることは、社稷の福です」。上はこれによって萬公の言ったことをもって詔を下し、己を罪した。進士の李邦乂という者が封事を上奏し、その中で世俗の奢侈を論じて、先朝(世宗朝)に言及して諷刺した。有司が上奏者の罪を議すると、上は宰臣に言った、「昔、唐の張玄素が桀・紂を以て文皇(太宗)に比した。今もし朕を桀・紂に方える者がいても、これを罪しない。まして世宗の功徳については、どうして諷刺毀損を許せようか」。顧みて萬公に問うて言った、「卿はどう思うか」。萬公は言った、「先朝を諷刺することは、固より罪に治すべきですが、しかし旧来このような法はありませんでした。今これを定めて立て、人々に知らしめるべきです」。そこで邦乂の罪を免じ、ただ三回の科挙受験資格を停止するのみとした。その奏対は詳細で機敏であり、多くこのようなものであった。

原文章宗即位,初置九路提刑司,選為南京路提刑使。以治最,遷御史中丞。會北邊屢有警,上命樞密使夾谷清臣發兵擊之。萬公言:「勞民非便。」詔百官議於尚書省,遂罷兵。尋為彰國軍節度使。明昌二年,知大興府事,拜參知政事。逾年,以母老乞就養,詔不許,賜告省親。還,上問山東、河北粟貴賤,今春苗稼,萬公具以實對。上謂宰臣曰:「隨處雖得雨,尚未沾足,奈何?」萬公進曰:「自陛下即位以來,興利除害,凡益國便民之事,聖心孜孜,無不舉行。至於旱災,皆由臣等,若依漢典故,皆當免官。」上曰:「卿等何罪,殆朕所行有不逮者。」對曰:「天道雖遠,實與人事相通,唯聖人言行可以動天地。昔成湯引六事自責,周宣遇災而懼,側身修行,莫不修飭人事。方今宜崇節儉,不急之務、無名之費,可俱罷去。」上曰:「災異不可專言天道,蓋必先盡人事耳,故孟子謂王無罪歲。」左丞完顏守貞曰:「陛下引咎自責,社稷之福也。」上由是以萬公所言下詔罪己。進士李邦乂者上封事,因論世俗侈靡,譏涉先朝,有司議言者罪,上謂宰臣曰:「昔唐張玄素以桀、紂比文皇。今若方我為桀、紂,亦不之罪。至於世宗功德,豈容譏毀。」顧問萬公曰:「卿謂何如?」萬公曰:「譏斥先朝,固當治罪,然舊無此法。今宜定立,使人知之。」乃命免邦乂罪,惟殿三舉。其奏對詳敏,多類此。

四年、再び以前の請願(母への侍養)を申し出たので、知東平府事を授け、諭して言った、「卿が政府(中央政権)にいた時も、職に称しないわけではなかったが、卿の母が老齢であることを以て、侍養を乞うたので、特に郷里の郡(東平府)を与えて孝養を遂げさせよう。朕の心は卿に属しており、汝を忘れはしない」。萬公は謝し、かつ書を捧げて言った、「臣は狂妄ですが、一言を今日申し上げたいと思い、任命を受ける機会がなかっただけです。内外の職務は、憂いと責任は同じであり、畎畝(民間)の臣であってもなお君を忘れず、芻蕘(草刈りや薪取りの者)の言葉も、明主はこれを択びます。伏して聖聡の省察を望みます」。上はこれを嘉して受け入れた。六年、知河中府に改めた。時に軍事が起こり、徴発が頻繁で煩雑であったが、ことごとく寛大に取り計らい、民力が容易あらたに務められるようにした。人々は薰風楼にその像を描き、また「去思堂」を建てた。

原文四年,複申前請,授知東平府事,諭之曰:「卿在政府,非不稱職,以卿母老,乞侍養,特畀鄉郡,以遂孝養。朕心所屬,不汝忘也。」萬公謝,且捧書言曰:「臣狂妄,有一言欲今日以聞,會受除未及耳。夫內外之職,憂責如一,畎畝之臣猶不忘君,芻蕘之言,明主所擇,伏望聖聰省察。」上嘉納之。六年,改知河中府,時軍興,調發叢劇,悉為寬假,使民力易辦。人為繪像于薰風樓,又建「去思堂」。

済南に移鎮したが、母の喪により職を去った。卒哭(喪の一段落)の後、詔して起復させ、平章政事に拝し、資善大夫に越階昇進し、寿国公に封じられた。時に李淑妃が寵愛を受け、権勢を振るい、帝の心はこれに惑わされ、皇后に立てようとしたが、大臣の多くは認めなかった。御史の姫端修が上書してこれを論じたので、帝は怒り、御史大夫の張暐は一官を削り、侍御史の路鐸は両官を削り、端修は七十回の杖刑に処し、贖罪(財物で罪を贖う)をもって論じた。淑妃はついに元妃に進封された。また大軍は罷めたとはいえ、辺境の事態はまさに切迫しており、連年の旱魃、災異がたびたび現れた。さらに制度を多く変更し、民は不便だと思ったものをまた改めるなど、紛紛として定まらなかった。萬公はもとより沈着で重厚、深く謹厳であり、治め方としては安静で事を少なくすることを務め、同僚たちとの議論は多く合わなかった。しかしかなり嫌って畏れ、敢えて顔色を犯して強く諫めず、帝が問うた時にのみ、ようやく利害を審らかに図って率直に言い、帝は従っても実行しなかった。萬公はここにおいて二度上表して、衰病を理由に閑職を乞うた。詔して諭して言った、「近ごろ卿が言った数件の事柄は、朕は未だ行っていない、これは朕の過ちである。卿は年もまだ老いておらず、急に病を告げるとは。今特に告(休暇)を二ヶ月賜うから、再び起きて政務を見よ」。

原文移鎮濟南,以母憂去職。卒哭,詔起複,拜平章政事,躐遷資善大夫,封壽國公。時李淑妃有寵,用事,帝意惑之,欲立為後,大臣多不可。御史姬端修上書論之,帝怒,御史大夫張暐削一官,侍御史路鐸削兩官,端修杖七十,以贖論。淑妃竟進封元妃。又大兵雖罷,而邊事方殷,連歲旱暵,災異數見。又多變更制度,民以為弗便而又改之。紛紛無定。萬公素沉厚深謹,務安靜少事以為治,與同列議多不合。然頗嫌畏,不敢犯顏強諫,須帝有問,然後審畫利害而質言之,帝雖從而弗行也。萬公於是兩上表以衰病丐閑,詔諭曰:「近卿言數事,朕未嘗行,乃朕之過。卿年未老,而遽告病,今特賜告兩月,複起視事。」

初め、明昌年間、有司が建議し、西南路・西北路から、臨潢に沿って泰州に至るまで、塹壕を開き築いて大軍(北方遊牧民の軍)に備えようとし、役夫三万人を動員したが、連年完成しなかった。御史台が言った、「開いたものはすぐに風砂で埋められ、外敵防禦に益なく、ただ民を労するのみである」。上は旱魃の災害に因り、萬公にその原因を問うた。萬公は「民を長く労することは、恐らく和気を傷つけます。御史台の言うところに従い、これを罷めるのが便です」と答えた。後に丞相の襄が軍を率いて帰還し、ついに開築を実施したので、民はこれを非常に苦しんだ。軍事を主管する者がまた言った、「近年の征め伐では、軍は多く敗北した。これは屯田の地が少なく、養い贍うことができず、飢え寒さを免れない者さえいるためで、故に闘志がないのです。民田で税を免れているもの(隠田)を検出して分け与えれば、戦士の士気は自ずから倍加するでしょう」。朝臣の議論はすでに決していたが、萬公のみが上書し、それができない五つの理由を述べた。大略は、「軍旅の後、瘡痍まだ恢復せず、百姓を慰撫する暇もないのに、どうして重ねて擾乱できようか、これが一つ。通検(土地調査)から間もなく、田には定まった籍帳があり、検出しても必ずしも尽くせず、かえって狡猾な官吏の弊害を増し、告訴・密告の風潮を長じさせるだけである、これが二つ。無駄な費用や奢侈な支出は数えきれず、これを推し及ぼして軍を養えば、民に及ばずして徴収しても足り、民の田を奪う必要はない、これが三つ。兵士は選択を誤り、強弱の区別なく、同じ田を共有して食わせれば、奮励する者はその力を尽くすことができず、疲弊劣悪な者はその奸計を容れることができる、これが四つ。民から奪って軍に与えれば、軍心は得られても天下の人心を失い、その禍いは言い尽くせないものがある、これが五つ。必ずややむを得ないならば、冒地(隠田)で既に検出されたものを、民を召して耕作させ、その収入で軍を贍うことを乞う。そうすれば軍は坐して得る利益があり、民は奪われる怨みはありません」というものであった。いずれも答申されなかった。ある日、奏事の際、上は萬公に言った、「卿が昨日、天が久しく陰晦なのは、人君が人を用いるのに邪正を分かたないからだと言った。君子は内(朝廷)に在るべきで、小人は外(地方)に在るべきだというのは、甚だ道理がある。しかし、誰を小人というのか」。萬公が「張煒・田櫟・張嘉貞らは、才幹はあるが、称すべき徳はありません」と奏すると、上はすぐに三人を外任(地方官)に補した。

原文初,明昌間,有司建議,自西南、西北路,沿臨潢達泰州,開築壕塹以備大兵,役者三萬人,連年未就。御史台言:「所開旋為風沙所平,無益於禦侮,而徒勞民。」上因旱災,問萬公所由致。萬公對以「勞民之久,恐傷和氣,宜從御史台所言,罷之為便」。後丞相襄師還,卒為開築,民甚苦之。主兵者又言:「比歲征伐,軍多敗衄,蓋屯田地寡,無以養贍,至有不免饑寒者,故無鬥志。願括民田之冒稅者分給之,則戰士氣自倍矣。」朝臣議已定,萬公獨上書,言其不可者五,大略以為:「軍旅之後,瘡痍未複,百姓拊摩之不暇,何可重擾,一也。通檢未久,田有定籍,括之必不能盡,適足以增猾吏之敝,長告訐之風,二也。浮費侈用,不可勝計,推之以養軍,可斂不及民而足,無待於奪民之田,三也。兵士失于選擇,強弱不別,而使同田共食,振厲者無以盡其力,疲劣者得以容其奸,四也。奪民而與軍,得軍心而失天下心,其禍有不可勝言者,五也。必不得已,乞以冒地之已括者,召民蒔之,以所入贍軍,則軍有坐獲之利,而民無被奪怨矣。」皆不報。一日奏事,上謂萬公曰:「卿昨言天久陰晦,亦由人君用人邪正不分。君子當在內,小人當在外,甚有理也,然孰謂小人?」萬公奏「張煒、田櫟、張嘉貞等,雖有才幹,無德可稱」。上即命三人補外。

泰和元年、連続して上章して老齢を理由に退職を請うたが、許されず、栄禄大夫に遷り、その子に進士及第を賜った。翌年、再び上章したところ、旨(勅旨)があった、「もしかすると卿には言うことがあり、朕に従わないことがあるのか?あるいは同僚たちの意見が一致せず、卿の意に多く背くことがあるのか?そうでなければ、どうしてこれほど頻繁に去ろうとするのか」。萬公は他に理由はないと謝し、ただ病気であると言った。三年正月、再び上章したが、允されず、銀青光禄大夫を加えられた。三月、歴々と朝臣の有名な者を挙げて自らの代わりとし、退去を非常に強く求めた。上は留められないと知り、諭して言った、「朕が即位した初め、卿を執政に抜擢し、続いて相位に遷したのは、卿が先朝の旧人で、典故に習熟しており、朕が甚だ重んじたからである。かつ年は高いが精力はまだ衰えておらず、故に機務を労させたのだ。卿がたびたび退去を求めるので、やむなく従うが、甚だ朕の本意ではない」。金紫光禄大夫を加えられ、致仕(退官)した。

原文泰和元年,連章請老,不許,遷榮祿大夫,賜其子進士及第。明年,章再上,有旨:「得非卿有所言,朕有不從者乎?或同列情見不一,而多違卿意邪?不然,何求去如是之數也。」萬公謝無他,第以病言。三年正月,章再上,不允,加銀青光祿大夫。三月,曆舉朝臣有名者以自代,求去甚力。上知其不能留,諭曰:「朕初即位,擢卿執政,繼遷相位,以卿先朝舊人,練習典故,朕甚重之。且年雖高而精力未衰,故以機務相勞。為卿屢求退去,故勉從之,甚非朕意也。」加金紫光祿大夫,致仕。

六年、南辺に兵を用い、上は山東が重地なるを以て、大臣を以て鎮撫すべきものとし、先に任じた完顔守貞が卒したので、ここに特に萬公を起用して済南府知事・山東路安撫使と為す。山東は連年旱魃蝗害こうがいあり、沂・密・萊・莒・濰の五州は特に甚だし。萬公は民の飢餓と盗賊の発生を慮り、予め賑済を準備すべきとす。時に兵興し、国用足らず、萬公は乃ち上言して僧道の度牒・師徳号・観院の名額並びに塩引を、山東行部に付し、五州において給売し、粟を納めて易換せしむべしと乞う。又、有司を督責して盗賊を禁戢する方策を言上す。上は皆これに従う。宋人、和を請う、復た致仕を乞う、これを許し、崇進を加え、仍て平章政事の俸の半分を給す。泰和七年、薨ず。命じて宰臣の故事に依り、焼飯し、賻葬す。儀同三司を贈り、諡して文貞と曰う。

原文六年,南鄙用兵,上以山東重地,須大臣鎮撫之,先任完顏守貞卒,於是特起萬公知濟南府、山東路安撫使。山東連歲旱蝗,沂、密、萊、莒、濰五州尤甚。萬公慮民饑盜起,當預備賑濟。時兵興,國用不給,萬公乃上言乞將僧道度牒、師德號、觀院名額並鹽引,付山東行部,於五州給賣,納粟易換。又言督責有司禁戢盜賊之方。上皆從之。宋人請和,複乞致仕,許之,加崇進,仍給平章政事俸之半。泰和七年,薨。命依宰臣故事,燒飯,賻葬。贈儀同三司,諡曰文貞。

萬公は淳厚剛正にして、門に雑賓無く、典章文物、多く裁正する所あり。上嘗て司空襄と秋山の楽しみを言い、意は将に春蒐に事あらんとす。萬公を顧み視う、萬公曰く「動くは静かなるに何如ぞ」と。上容色を改めて止む。輔政八年、その薦引する所は、多く廉譲の士なり。大安元年、章宗の廟廷に配享す。

原文萬公淳厚剛正,門無雜賓,典章文物,多所裁正。上嘗與司空襄言秋山之樂,意將有事於春蒐也。顧視萬公,萬公曰:「動何如靜。」上改容而止。輔政八年,其所薦引,多廉讓之士焉。大安元年,配享章宗廟廷。

蒲察通

原文蒲察通

蒲察通、本名は蒲魯渾、中都路胡土愛割蠻猛安もうあんの人なり。熙宗、護衛を選ぶに、通の名を見て、筆を以てこれを識す。通は父老なるを以て、懇ろに就養を乞う。衆訝る曰く「侍衛に充たるを得ば、終身栄貴なり、今乃ち辞す、人に過ぐること遠し」と。朝廷、義としてこれに従う。後に因りて宋王宗望を房山に会葬するに、門閥を以て、昭信校尉を加え、頓舍を授く。御院通進に改む。

原文蒲察通,本名蒲魯渾,中都路胡土愛割蠻猛安人也。熙宗選護衛,見通名,以筆識之。通以父老,懇乞就養。眾訝之曰:「得充侍衛,終身榮貴,今乃辭,過人遠矣。」朝廷義而從之。後因會葬宋王宗望於房山,以門閥,加昭信校尉,授頓舍。改禦院通進。

海陵、宋を伐つに、隆州の諸軍は特に精鋭なり、通に付してこれを総べしむ。兵淮に圧し、通に令して騎二百を率いて先に済み敵を覘わしむ。弇中に及び、敵兵躍り出で、通は兵を按じて直ちに前に進み、傍らに槊を舞わして来たり刺さんとする者あり、身を回らしてこれを射れば、弦に応じて斃る。諸軍並びに撃ちて、これを敗る。海陵召見し、喜色を形にし、曰く「兵事定まりなば、汝爵賞を憂うるなかれ」と。揚州に至り、通は別屯に営す。この夜、海陵弑せられ、告ぐる者来たり、通は執いて殺さんとす、続いてその実を聞き、哀悶して地に仆る、衆掖きて起こし、径ちに営門に入りてこれを哭す。

原文海陵伐宋,隆州諸軍尤精銳,付通總之。兵壓淮,令通率騎二百先濟覘敵。及弇中,敵兵躍出,通按兵直前,傍有舞槊來刺者,回身射之,應弦而斃。諸軍並擊,敗之。海陵召見,喜形於色,曰:「兵事定,汝勿憂爵賞。」至揚州,通營別屯。是夜,海陵遇弑,有來告者,通欲執而殺之,續聞其實,哀悶僕地,眾掖而起,徑入營門哭之。

軍還り、入見す、世宗顧みて近臣に謂いて曰く「朕素よりこの人を知る、幼き嘗て従遊し、性温厚、識慮あり、又騎射に精し」と。尚廄局副使を授く。又近臣に諭して曰く「常に朕に見えしめ、事を以て問いその言を考へんと欲す、朕将にこれを用いんとす」と。窩斡反し、命じて通に金符を佩かしめ、軍前に詣らしめて督戦せしむ。賊破れ、功を以て世襲謀克ぼうこくを授く。奚人乱れ、詔を承けて継いて往きて軍を蒞む。本局使に遷り、母喪にて免ず。起きて殿前右衛将軍と為り、兼ねて閑廄を領す。尋いでその子蒲速烈に命じて衛国公主を尚ばしむ。出でて肇州防禦使と為り、金帯を賜い、仍て補外の意を諭し、因りてこれを戒敕す、語は『世宗紀』中に在り。尋いで蒲与路節度使に擢で、帰徳軍に移鎮し、西南路招討に遷り、入りて大興府事を知り、殿前都点検を除く。初め、大理卿闕け、世宗通をしてこれを為さしめんと欲し、宰臣に問う、対えて曰く「通は点検の器なり」と。上曰く「点検は繁冗にして、その能を顕わす由無し。通は明敏才幹にして、正に法を掌るの官なり」と。又曰く「通の機識は、崇尹及ばざる所なり」と。

原文軍還,入見,世宗顧謂近臣曰:「朕素知是人,幼嘗從游,性溫厚,有識慮,又精騎射。」授尚廄局副使。又諭近臣曰:「常令見朕,欲問以事而考其言,朕將用之。」窩斡反,命通佩金符,詣軍前督戰。賊破,以功授世襲謀克。奚人亂,承詔繼往蒞軍。遷本局使,以母喪免。起為殿前右衛將軍,兼領閑廄。尋命其子蒲速烈尚衛國公主。出為肇州防禦使,賜以金帶,仍諭以補外之意,因戒敕之,語在《世宗紀》中。尋擢蒲與路節度使,移鎮歸德軍,遷西南路招討,入知大興府事,除殿前都點檢。初,大理卿闕,世宗欲令通為之,問宰臣,對曰:「通,點檢器也。」上曰:「點檢繁冗,無由顯其能。通明敏才幹,正掌法之官。」又曰:「通之機識,崇尹不及也。」

大定十七年、尚書右丞を拝し、左丞に転ず。詔して推排猛安謀克の事を議せしむ、大臣皆以て現に在る産業を験するに止め、貧富を定め、旧に依りて科差するを便とすと為す。通言す「必ず各謀克の人戸の物力の多寡を通括せば、則ち貧富自ずから分かる。貧富分かれば、則ち版籍定まり、もし緩急あらば、籍を験して科差し、富者は隠すを得ず、貧者は重ねて困せず。一例に科差する者と、大いに同じからず」と。上は通の言を是とし、宰臣に謂いて曰く「事を議するは通の心を尽くすが如くすべし」と。三歳を閲し、平章政事に進み、任国公に封ず。

原文大定十七年,拜尚書右丞,轉左丞。詔議推排猛安謀克事,大臣皆以為止驗見在產業,定貧富,依舊科差為便。通言:「必須通括各謀克人戶物力多寡,則貧富自分。貧富分,則版籍定,如有緩急,驗籍科差,富者不得隱,貧者不重困。與一例科差者,大不侔矣。」上是通言,謂宰臣曰:「議事當如通之盡心也。」閱三歲,進平章政事,封任國公。

世宗将に上京に幸せんとし、通を朝廷の旧人と以て、上京留守と為し、先に往きてこれを鎮撫せしむ。二十五年、真定府事を知るを除く、世宗曰く「朕復た卿を相とせんと欲す、卿の老いたるを惜しむ、故にこれを以て卿に授く」と。仍て銭千貫を賜う。未だ幾ばくもあらず、平陽府事を知るに改め、鳳翔に移し、致仕す。明昌四年、上宰臣に諭して曰く「通は先朝の重臣、年高しと雖も未だ衰えず」と。因りて広寧府事を知らしむ。累表して老を請い、復た開府儀同三司を以て致仕す。承安三年薨ず。その弟に諭旨して曰く「旧制、致仕の宰相に祭葬の礼無し、通は旧臣懿戚なり、故に特に命じて祭及び葬を敕す」と。初め、通政府に在り、太子率府完顔守貞・監察御史裔を挙げて俱に大用に可しとす、その後皆名臣と為り、世その人を知ることを多しと云う。

原文世宗將幸上京,以通朝廷舊人,命為上京留守,先往鎮撫之。二十五年,除知真定府事,世宗曰:「朕複欲相卿,惜卿老矣,故以此授卿。」仍賜錢千貫。未幾,改知平陽府事,移鳳翔,致仕。明昌四年,上諭宰臣曰:「通先朝重臣,年雖高而未衰。」因命知廣寧府事。累表請老,複以開府儀同三司致仕。承安三年薨。諭旨于其弟曰:「舊制,致仕宰相無祭葬禮,通舊臣懿戚,故特命敕祭及葬。」初,通在政府,舉太子率府完顏守貞、監察御史裔俱可大用,其後皆為名臣,世多其知人雲。

粘割斡特剌

原文粘割斡特剌

粘割斡特剌、蓋州別裏賣猛安奚屈謀克の人なり。貞元初め、女直字を習うを以て試みに戸部令史に補し、尚書省令史に転ず。大定七年、選びて吏部主事を授け、右補闕・修起居注を歴る。九年、河南路統軍使宗敘、宋人の兵釁きっかけを啓かんと欲すと以て、入見を求めて言上す、世宗は斡特剌を遣わして就きてこれを問わしめ、仍てその実を究めしむ。汴に至り、宗敘に問い、及び凡そ嘗て辺事を言える者を召してこれを詰む、皆状無し。還りて報ず、世宗喜びて曰く「朕固より妄なるを知る」と。左司員外郎を授く。

原文粘割斡特剌,蓋州別裏賣猛安奚屈謀克人也。貞元初,以習女直字試補戶部令史,轉尚書省令史。大定七年,選授吏部主事,曆右補闕、修起居注。九年,河南路統軍使宗敘以宋人欲啟兵釁,上言求入見,世宗遣斡特剌就問之,仍究其實。至汴,問宗敘,及召凡嘗言邊事者詰之,皆無狀。還報,世宗喜曰:「朕固知妄也。」授左司員外郎。

十年、夏国の兵を発して祁安城を築き及び喬家族の首領結什角を襲殺するに因り、又諜者の言うに夏は宋人と通謀して辺を犯すと、詔して大理卿李昌図と斡特剌をして往きてその事を按ぜしむ。夏人の報言するに、結什角は兵を以て夏境を犯す故にこれを殺す、祁安城は本より上国の賜いし旧き積石の地、兵を発して修築するは他盗に備うるのみと。又察知するに宋・夏に交通の状無く、及び喬家族の民戸は結什角の甥趙師古をして首領と為さしむるを願う、具に以て聞かしむ。世宗甚だ悦び、右衛将軍に転じ、衣馬車牛弓矢器仗を賜う。十二年、夏国の生日使と為り、還りて右司郎中を授け、右副都点検に遷る。久しくして、出でて河南路統軍都監と為り、金帯及び具装馬を賜う。

原文十年,以夏國發兵築祁安城及襲殺喬家族首領結什角,又諜者言夏與宋人通謀犯邊,詔大理卿李昌圖與斡特剌往按其事。夏人報言,結什角以兵犯夏境故殺之,祁安城本上國所賜舊積石地,發兵修築以備他盜耳。又察知宋、夏無交通狀,及喬家族民戶願令結什角侄趙師古為首領,具以聞。世宗甚悅,轉右衛將軍,賜衣馬車牛弓矢器仗。十二年,為夏國生日使,還授右司郎中,遷右副都點檢。久之,出為河南路統軍都監,賜金帶及具裝馬。

十七年、昌武軍節度使を授かり、前職を兼ねて領す。翌年、入朝して刑部尚書となり、参知政事に拝される。世宗は平章政事唐括安禮に諭して曰く、「朕は治道を思うに、人材を考択するは最も難事なり、その余の常務は各々程式あり、これに比すべからず。斡特剌の挙ぐる所の者は、頗る朕意に称す」と。時に右三部検法蒙括蠻都が斡特剌と招討哲典が朋党を為すと告げ、刑部に付して詰問を乞う。世宗曰く、「もし哲典が死を免ぜば、則ち朋党と謂うべし。今既に誅せられたるは、乃ち誣し謗のみ」と。又宰臣に謂いて曰く、「朕は素よりこの人の識慮極めて有るを知る。貌は柔なれども心は甚だ剛直にして、行う所率易ならざるなり」と。二十二年、代州阜通監を提控することを委ね、召見して諭して曰く、「朕卿を任用して以来、卿の材幹を悉くす。故に執政に擢ぐ。卿も亦朕の待遇の意を体し、能くその職を勉めて尽くし、凡そ謀議ぼうぎ奏対多く朕の心に副う。上に宰相有るを恃みて自ら外を嫌うこと莫かれ。蓋し旧人は年老い、新人は未だ苦しく経練せず、是を以て責を卿に委ぬ。但だ見る所あれば心を悉くして以て言え、嫌いを挟んで知らざるが如くするなかれ」と。二十三年、尚書右丞に進み、枢密副使を兼ぬ。表を上して一職を解くを乞う。詔して枢密を解くを許す。世宗は猛安謀克が土田を拋留するを以て、宰臣を責めて曰く、「この事は皆卿輩の陳挙すべき所なり。乃ち朕の言を俟ちて後に行うは、蓋し卿輩細務と為して天子の親しむ所に非ずと為すなり。朕嘗てこれを思うに、獄訟簿書は斡特剌在り、余の事は卿輩略く介意せず。朕亦安んぞ置きて問わざるを得んや」と。俄に事に坐して一階を削られ、故の如く視事するを命ぜらる。

原文十七年,授昌武軍節度使,兼領前職。明年,入為刑部尚書,拜參知政事。世宗嘗諭平章政事唐括安禮曰:「朕思為治之道,考擇人材最為難事,其餘常務各有程式,非此比也。如斡特剌所舉者,頗稱朕意。」時右三部檢法蒙括蠻都告斡特剌與招討哲典朋黨,乞付刑部詰問,世宗曰:「若哲典免死,則可謂朋黨。今已伏誅,乃誣謗耳。」又謂宰臣曰:「朕素知此人極有識慮,貌雖柔而心甚剛直,所行不率易也。」二十二年,委提控代州阜通監,召見諭之曰:「朕自任卿以來,悉卿材幹,故擢為執政。卿亦體朕待遇之意,能勉盡所職,凡謀議奏對多副朕心,莫倚上有宰相而自嫌外。蓋舊人年老,新人未苦經練,是以委責於卿,但有所見悉心以言,勿持嫌以為不知也。」二十三年,進尚書右丞,兼樞密副使,表乞解一職,詔許解樞密。世宗以猛安謀克拋留土田,責宰臣曰:「此事皆卿輩所當陳舉,乃俟朕言而後行,蓋卿輩以為細務非天子所親。朕嘗思之,獄訟簿書有斡特剌在,餘事卿輩略不介意,朕亦安能置而不問邪?」俄坐事削一階,令視事如故。

二十六年、尚書左丞に転ず。世宗謂いて曰く、「朕昨宰臣と議して執政に授くべき者、卿其の中に在らず。今阿魯罕は年老い、斡魯も多く病む。吾宗浩を用いんと欲す、如何」と。斡特剌奏して曰く、「彼の二人の者は恐らく力を得ず、独り宗浩の幹能は任ずべし」と。遂に宗浩を用う。又謂いて曰く、「朕は天下の事に用心せざる無し、一に草創の時の如し」と。斡特剌曰く、「古より人君、始めは勤めて終わりに怠る者多し。始め有り終わり有るは、惟だ聖人のみ能くす」と。上曰く、「唐太宗は至明の主なり。然れども魏徵十事を以て諫め、其の終わりを有すること能わずと謂う。是れ則ち終始有るは、実に難きなり」と。二十八年、上京留守となり、通犀帯及び射生馬一匹を賜う。

原文二十六年,轉尚書左丞,世宗謂曰:「朕昨與宰臣議可授執政者,卿不在焉。今阿魯罕年老,斡魯也多病,吾欲用宗浩,何如?」斡特剌奏曰:「彼二人者恐不得力,獨宗浩幹能可任。」遂用宗浩。又謂曰:「朕於天下事無不用心,一如草創時。」斡特剌曰:「自古人君,始勤終怠者多矣,有始有終,惟聖人能之。」上曰:「唐太宗,至明之主也,然魏徵諫以十事,謂其不能有終,是則有終始者,實為難矣。」二十八年,為上京留守,賜通犀帶及射生馬一。

明昌二年、致仕す。承安初め、北方に事有り。朝廷は旧臣を得て之に任ぜんと欲し、乃ち起して東京留守と為す。監察御史完顏綱を遣わして旨を諭さしめて曰く、「汝の精神尚お健なるを知る。故に復用すなり」と。明年、上京留守に改む。又之に諭して曰く、「上京は祖先の基業の地なり。卿馳驛して之に任じ、彼に到りて便宜に事を行え。辺事稍く息まば、即ち卿を召し還さん」と。二年九月、朝に還り、平章政事に拝され、芮国公に封ぜらる。在位数ヶ月、薨ず。年六十九。訃聞き、上傷悼すること久し。官を遣わして祭を致し、賻贈ふぞうとして銀千二百五十両、重幣四十五端、絹四百五十疋、銭二千貫を賜い、諡して成肅と曰う。

原文明昌二年致仕。承安初,有事北方,朝廷欲得舊臣任之,乃起為東京留守,遣監察御史完顏綱諭旨曰:「知汝精神尚健,故複用也。」明年,改上京留守,又諭之曰:「上京祖先基業之地,卿馳驛之任,到彼便宜行事。邊事稍息,即召卿還。」二年九月,還朝,拜平章政事,封芮國公。在位數月,薨,年六十九。訃聞,上傷悼久之,遣官致祭,賻贈銀千二百五十兩、重幣四十五端、絹四百五十疋、錢二千貫,諡曰成肅。

斡特剌は性温厚醖藉たり。嘗て丞相紇石烈良弼に薦められしが、後世宗宰臣に謂いて曰く、「良弼は人を知るに善し。斡特剌の輩が如きは其の才真に用うべし」と。相位に在ること十余年、甚だ寵遇を見る。唯だ五品官の子を外路の司吏と同しく部令史に試むるを奏定し、及び随朝の吏員をして国史院書寫を試むるを得しむるを奏するに、世宗は是を非と為す。

原文斡特剌性溫厚醖藉,嘗為丞相紇石烈良弼所薦,後世宗謂宰臣曰:「良弼善知人,如斡特剌輩其才真可用也。」在相位十餘年,甚見寵遇,唯奏定五品官子與外路司吏同試部令史、及令隨朝吏員得試國史院書寫,世宗以為非雲。

程輝

原文程輝

程輝、字は日新、蔚州霊仙の人なり。皇統二年、進士第に擢でられ、尚書省令史より左司都事に升る。久しくして、南京路転運使と為り、宮殿の火災に因り、降授されて磁州刺史と為る。呉僧という者有り、州人張善友を殺して其の妻を取る。輝之を督捕し、張の母に命じて長錐を以て僧と其の妻を刺さしめ、完膚無くして死せしむ。陝西東路転運使に改め、再び遷りて戸部尚書と為る。

原文程輝,字日新,蔚州靈仙人也。皇統二年,擢進士第,由尚書省令史升左司都事。久之,為南京路轉運使,以宮殿火,降授磁州刺史。有吳僧者殺州人張善友而取其妻,輝督捕之,命張母以長錐刺僧與其妻無完膚以死。改陝西東路轉運使,再遷戶部尚書。

大定二十三年、参知政事に拝される。世宗之に諭して曰く、「卿は年老いたりと雖も、猶お力を宣ぶべし。事に言うべき有らば、或いは隠默すること無かれ。卿其れ之を勉めよ」と。一日、輝朝に侍す。世宗曰く、「人嘗て卿の言語荒唐なりと謂う。今事に遇いて輒ち言う、王蔚に過ぐ」と。顧みて宰臣に謂いて曰く、「卿等は何如と為すや」と。皆曰く、「輝の議政可否は、略く隠情無し」と。輝対えて曰く、「臣は年老いて耳聵く、第に聞審らかならず、或いは奏対を失わんことを患う。苟くも聞く所あらば、敢えて心を尽くさざらんや」と。旧く廟祭に牛を用う。世宗晚年他牲を以て之に易えんと欲す。輝奏して曰く、「凡そ祭に牛を用うるは、牲の最も重きを以てする故に、太牢と号す。『論語』に曰く'犁牛の子騂にして且つ角有り、雖も用いざらんと欲すとも、山川其れ諸れを舎てんや'と。古礼廃すべからず」と。

原文大定二十三年,拜參知政事。世宗諭之曰:「卿年雖老,猶可宣力。事有當言,毋或隱默。卿其勉之。」一日,輝侍朝,世宗曰:「人嘗謂卿言語荒唐,今遇事輒言,過於王蔚。」顧謂宰臣曰:「卿等以為何如?」皆曰:「輝議政可否,略無隱情。」輝對曰:「臣年老耳聵,第患聽聞不審,或失奏對。苟有所聞,敢不盡心。」舊廟祭用牛,世宗晚年欲以他牲易之,輝奏曰:「凡祭用牛者,以牲之最重,故號太牢。《語》曰'犁牛之子騂且角,雖欲勿用,山川其舍諸?'古禮不可廢也。」

二十四年、世宗上京に幸す。尚書省来歳の正旦に外国朝賀の事を奏す。世宗曰く、「上京は地遠く天寒し。朕甚だ人使の労苦を憫み、即ち南京にて宋の書を受くんと欲す。何如」と。輝対えて曰く、「外国の使来たらば、必ず天子に面見す。今半途にて書を受くれば、異時に宋人事に托して之に效わば、何を以てか辞と為さん」と。世宗曰く、「朕は誠実を以てす。彼若し相詐らば、朕自ら処置有らん」と。輝は不可と為す。是に於いて議して権りに一年を免ず。会に有司の面を市いて時に直を酬わざる有り。世宗監察の挙劾せざるを怒り、杖責す。以て輝に問う。輝対えて曰く、「監察は君の耳目なり。犯する罪軽し。贖わずして杖するは、亦一時の怒りなり」と。世宗曰く、「職事挙げざるは、是れ故犯なり。之を杖する何ぞ不可ならん」と。輝対えて曰く、「往く者は諫むべからず、来たる者は猶お追うべし」と。

原文二十四年,世宗幸上京,尚書省奏來歲正旦外國朝賀事,世宗曰:「上京地遠天寒,朕甚憫人使勞苦,欲即南京受宋書,何如?」輝對曰:「外國使來,必面見天子,今半途受書,異時宋人托事效之,何以辭為?」世宗曰:「朕以誠實,彼若相詐,朕自有處置耳。」輝以為不可,於是議權免一年。會有司市面不時酬直,世宗怒監察不舉劾,杖責之。以問輝,輝對曰:「監察,君之耳目。所犯罪輕,不贖而杖,亦一時之怒也。」世宗曰:「職事不舉,是故犯也,杖之何不可!」輝對曰:「往者不可諫,來者猶可追。」

二十六年、老を以て致仕す。次年、復び起して河南府事を知らしむ。輝は衰老にして任に堪えずと辞す。香閣に召し入れて之に諭して曰く、「卿は年老いても精力尚お強し。久しく外を歴れども、未だ嘉郡を得ず。河南は地勝れて事簡なり。故に以て卿を処す。卿は優遊して頤養すべし」と。輝曰く、「臣は猶お老馬なり。芻豆を待ちて養わるるも、豈に筋力を以て責めんや。向者南京宮殿の火災、聖恩の寛貸に非ざれば、臣死すること久し。今河の河南の境を径る上下千余里、河防の責め彼を視ること尤も重し。此れ臣の憂えて任に堪えざる所以なり」と。是に於いて特詔して河事に預からしめず。章宗立つ。時に輝年七十六、復た致仕を乞う。詔して之を許し、仍って参知政事の半俸を給す。承安元年卒す。諡して忠簡と曰う。

原文二十六年,以老致仕。次年,複起知河南府事,輝辭以衰老不任,召入香閣,諭之曰:「卿年老而精力尚強,雖久曆外,未嘗得嘉郡。河南地勝事簡,故以處卿,卿可優遊頤養。」輝曰:「臣猶老馬也,芻豆待養,豈可責以筋力。向者南京宮殿火,非聖恩寬貸,臣死久矣。今河之徑河南境上下千餘裏,河防之責視彼尤重,此臣所以憂不任也。」於是特詔不預河事。章宗立,時輝年七十六,複乞致仕,詔許之,仍給參知政事半俸。承安元年卒,諡曰忠簡。

輝は性倜儻敢言にして、雑学を喜び、尤も医を論ずるを好む。河間劉守真の説に従い、率ね涼薬を用う。神童嘗添壽という者方に数歳、輝之を召す。因りて「医は細事に非ず」の四字を書す。添寿「細」の字を塗り、改めて書して「相」と作す。輝頗る慚じ、人も亦此を以て其の病に中ると為すと云う。

原文輝性倜儻敢言,喜雜學,尤好論醫。從河間劉守真說,率用涼藥。神童嘗添壽者方數歲,輝召之,因書「醫非細事」四字,添壽塗「細」字,改書作「相」,輝頗慚,人亦以此為中其病雲。

劉瑋

原文劉瑋

劉瑋は、字を徳玉といい、咸み平の人である。唐の盧龍節度使劉仁敬の末裔である。祖父の劉弘は、遼の末期に懿州を鎮守していたが、王師(金軍)が到着すると、劉弘は州を挙げて降伏し、太祖(阿骨打)は彼に咸州の知事を命じ、後に同平章政事の地位で致仕した。父の劉君詔は、同知宣徽院事であった。劉瑋は幼少より聡明で悟りが早く、進士科の挙業に励み、熙宗はその旧功を記録し、特に及第を賜った。安次県丞に任じられた。遵化県令を経て尚書省令史に補され、戸部主事、監察御史を歴任し、累進して尚書省都事に転じた。宰臣が劉瑋を軍民の田地経画に擬することを奏上すると、世宗はその名を見て言った、「劉瑋がまだこの地位に埋もれているのか」。戸部員外郎に昇進した。時に世宗が東巡を行おうとしており、劉瑋に工部郎中宋中と共に行宮の営造を命じ、そのまま郎中に昇進した。同知宣徽院事に改められ、宋国信副使となった。劉瑋の父と兄はいずれもこの官職で江南に使いしたので、当時は栄誉とされた。帰還後、戸部侍郎を授かった。

原文劉瑋,字德玉,咸平人也。唐盧龍節度使仁敬之裔。祖弘,遼季鎮懿州,王師至,弘以州降,太祖俾知咸州,後以同平章政事致仕。父君詔,同知宣徽院事。瑋幼警悟,業進士舉,熙宗錄其舊,特賜及第。調安次丞。由遵化縣令補尚書省令史,曆戶部主事、監察御史,累轉尚書省都事。宰臣奏擬瑋經畫軍民田土,世宗見其名曰:「劉瑋尚淹此乎。」遷戶部員外郎。時將東巡,命瑋同工部郎中宋中往營行宮,就升郎中。改同知宣徽院事,為使宋國信副使。瑋父兄皆以是官使江左,當時榮之。還授戶部侍郎。

初め、世宗は劉瑋の才幹を器として、何事にも適応できると考え、上京に行幸する際、行在所の必要なものは全て太府に属するため、劉瑋にその事を統轄させようとしたが、その官位がやや低いのを嫌い、そこで戸部侍郎張大節を工部に移し、戸部を劉瑋に授けたのである。上(世宗)が還御すると、宰臣に言った、「劉瑋は非常に心労を尽くし、事に臨んで閑暇であるが、ただ心を用いることが正しくないだけだ。もし心が正しければ、その人材は得難いものであろう」。

原文初,世宗器瑋材幹,以為無施不可,及將幸上京,以行在所須皆隸太府,欲瑋領其事,嫌其稍下,故移戶部侍郎張大節于工部,而以戶部授瑋。上還,謂宰臣曰:「劉瑋極有心力,臨事閒暇,第用心不正耳。若心正當,其人才不可得也。」

翌年、戸部尚書に抜擢された。時に黄河が衛州で決壊し、衛州から清州、滄州に至るまで皆その害を受け、詔により工部尚書を兼ねて決壊箇所の塞修に赴いた。ある者は天災の流行は人力で防ぎ得るものではないと言い、ただ民を移してその激流を避けるべきだと説いたが、劉瑋は言った、「そうではない。天は五材(金木水火土)を生じ、互いに盛衰を繰り返す。今、黄河が決壊するのは土が水に勝たないからである。秋冬の交わりを待ち、水勢がやや衰えた頃に、漸次築堤工事を興せば、おそらく塞修できるであろう」。翌春、劉瑋は斎戒沐浴して黄河に祈禱し、工事と労役を一斉に開始すると、黄河は遂に旧河道に戻った。召還されて官秩を増され、宋弔祭副使に任じられた。世宗が不豫(病気)となると、参知政事に任じられ、引き続き戸部を統轄し、やがて山陵使となった。まもなく上表して外任を請い、済南府知事として出向し、河中府に移鎮した。明昌二年、大名府知事に転じ、引き続き河防の事務を統轄した。

原文明年,擢戶部尚書。時河決于衛,自衛抵清、滄皆被其害,詔兼工部尚書往塞之。或以謂天災流行,非人力所能禦,惟當徙民以避其沖,瑋曰:「不然。天生五材,遞相休王,今河決者土不勝水也。俟秋冬之交,水勢稍殺,以漸興築,庶幾可塞。」明年春,瑋齋戒禱於河,功役齊舉,河乃複故。召還增秩,以為宋弔祭副使。世宗不豫,拜參知政事,仍領戶部,既而為山陵使。尋上表請外,出知濟南府事,移鎮河中。明昌二年,徙知大名府,仍領河防事。

三年、召還されて尚書右丞に任じられた。上(章宗)はかつて考課法が今実行可能かどうかを問うた。右丞相夾谷清臣は言った、「実行することもできますが、ただ規定が煩雑であれば役所が遵守し難いでしょう」。劉瑋は言った、「考課の法は、もともと名実を総合的に核実することに基づきます。今、提刑司が廉潔有能と貪汚濫職を体察し、賞罰を行うのも、その趣旨です。別に法を設けることを議すれば、恐らく煩雑に陥るでしょう」。上は唐代はどうであったかと問うと、劉瑋は「四善、二十七最」と答えた。翌年六月、卒去した。この日、上は臨武殿で撃球(ポロ)をしようとしていたが、劉瑋の死を聞いて中止し、諡を安敏と賜った。

原文三年,入拜尚書右丞。上嘗問考課法今可行否,右丞相夾谷清臣曰:「行之亦可,但格法繁則有司難於承用耳。」瑋曰:「考課之法,本於總核名實,今提刑司體察廉能贓濫,以行賞罰,亦其意也。若別議設法,恐涉太繁。」上問唐代何如,瑋對以「四善、二十七最」。明年六月,卒。是日,上將擊球于臨武殿,聞瑋卒而止,諡曰安敏。

後に上は宰臣に言った、「人は小官の時には才幹を称えられることもあるが、大用されるとそうでなくなる。劉瑋のごときは確かに非常に有能であったが、世宗朝から朕を補佐するに至り、事について多く知りながら言わないことがあった。もし本当に愚人であれば論ずるに足りないが、知り及んでいて肯いて心を尽くさないのは、よろしいのか」。平章政事完顏守貞は言った、「『春秋』の法は、賢者に責めを求めるものです」。上は言った、「宰相たる者が恩を収め怨みを避け、人々皆に己が是と称えさせようとするならば、賢者は果たしてこのようなものなのか」。

原文後上謂宰臣曰:「人為小官或稱才幹,及其大用則不然。如劉瑋固甚幹,然自世宗朝逮輔朕,於事多有知而不言者。若實愚人,則不足論,知及之而不肯盡心,可乎?」平章政事完顏守貞曰:「《春秋》之法,責備賢者。」上曰:「夫為宰相而欲收恩避怨,使人人皆稱己是,賢者固若是乎?」

董師中

原文董師中

董師中は、字を紹祖といい、洺州の人である。若い頃より聡明で見識が広く、学問を好み記憶力が強かった。皇統九年の進士に及第し、沢州軍事判官に任じられた。平遥県丞に改められた。県に大盗賊王乙がおり、平素より凶悍で制御できなかったが、師中は捕らえて杖殺し、一境は遂に安寧となった。時に大軍の通過後で、野に多くの枯死体があり、県には駅舎に仮安置された遺棺があったが、師中は全てこれを埋葬した。綿上県令に転じ、尚書省令史に補された。右相唐括訛魯古は特に彼を器重し、その座を撫でて言った、「君の議論は英発で、襟度は開朗である。他日必ずこの座に就くであろう」。二度の考課を経て、監察御史に抜擢され、尚書省都事に転じた。初め、師中が監察御史であった時、大名総管忽ゆるが剌の不正事件を漏れ察知しなかった。及んで忽剌が罪により誅殺されると、世宗は怒って言った、「監察御史が郡県に使いするのは、弾劾糾挙が職務である。忽剌は親貴であるから、特に意を用いるべきであったのに、従って上聞しなかったのか」。官一階を削り、沁南軍節度副使に降格任用された。累進して坊州刺史となった。

原文董師中,字紹祖,洺州人也。少敏贍,好學強記。擢皇統九年進士第,調澤州軍事判官。改平遙丞。縣有劇賊王乙,素兇悍不可制,師中捕得杖殺之,一境遂安。時大軍後,野多枯胔,縣有遺櫬寓於驛舍者,悉為葬之。遷綿上令,補尚書省令史。右相唐括訛魯古尤器重之,撫其座曰:「子議論英發,襟度開朗,他日必居此座。」再考,擢監察御史,遷尚書省都事。初,師中為監察時,漏察大名總管忽剌不公事,及忽剌以罪誅,世宗怒曰:「監察出使郡縣,職在彈糾,忽剌親貴,尤當用意,乃徇不以聞。」削官一階,降授沁南軍節度副使。累遷坊州刺史。

明昌元年、初めて九路提刑司を設置すると、師中は陝西路副使に選ばれたが、公廨修築で官銭を濫費した罪に坐し、贖罪により処分された。及んで御史台がその寛和で体要を得ていると上言すると、召還されて大理卿となった。御史中丞吳鼎樞が自らの後任として推挙し、尚書省もその才能と行いを奏上したので、遂に御史中丞に抜擢された。時に西北路招討使宗肅が平章夾谷清臣の推薦により、大興府知事に任じられようとしていた。師中は上言した、「宗肅は近ごろ貪汚罪により有司で審理されており、獄事が未だ結審していません。改めて除するのは適切ではありません」。上はその言を容れ、言った、「朕は知った。功があっても賞せず、罪があっても罰さなければ、たとえ唐・虞でも天下を教化することはできない」。命じて再び有司に送致させた。

原文明昌元年,初置九路提刑司,師中選為陝西路副使,坐修公廨濫支官錢罪,以贖論。及御史台言其寬和有體,召為大理卿。御史中丞吳鼎樞舉以自代,尚書省亦奏其才行,遂擢中丞。時西北路招討使宗肅以平章夾穀清臣薦,知大興府事。師中上言:「宗肅近以贓罪鞫於有司,獄未竟,不宜改除。」上納其言,曰:「朕知之矣。有功不賞,有罪不罰,雖唐、虞不能化天下。」命複送有司。

四年、上(章宗)が景明宮に行幸せんとしたとき、師中および侍御史の賈鉉・治書侍御史の粘割遵古が諫めて言うには、「民を労し財を費やすことは、その小なるものに過ぎず、思いがけない変事が生ずることは、その関係するところ軽からず。聖人は天地に法って順に動くが故に、万挙万全である。今、辺境は従順でなく、反覆定まらず、必裏哥孛瓦(ビリゲ・ボワ)は貪暴強悍にして、深く慮るべきである。陛下もし左右に問えば、必ず迎合して言う者があり、堂堂たる大国、何ぞ彼を恤れんやと言うであろう。蜂蠆ほうさいにも毒あり、患いは忽せにするところより起こる。今、都邑は壮麗にして、内外の苑囿は以て皇情を優佚ゆういつするに足り、近畿の山川の飛走(鳥獣)は充牣じゅうじんして、以て武事を閲習するに足る。何ぞ必ずしも千車万騎、草に居り露に宿り、辺陲に逼介ひっかいし、遠く偵候を煩わし、以て測り難き悔いを冒さんや」と。上は納れなかった。師中らはまた上疏うとして言うには、「近年水旱の災があり、明詔を下して己を罪し言を求め、不急の役を罷め、無名の費を省き、天下欣幸した。今まさに春の東作(耕作)の時であるのに、急いで有司を遣わして行宮を修建せしめることは、事を推し量るに、不急のことに似ている。況んや西京・西北二京、臨潢諸路は、比年収穫なく、これに民に養馬・簽軍・挑壕の役あり、財力大いに困窮し、流移(流浪)して未だ復せず、米価甚だ貴し。もし扈従して彼の地に至れば、又必ず価を増すであろう。日に升合を糴かう者の口数は万を以て数え、旧来北京等路の商販に頼ってこれを給していた。もし物価の貴いため、あるいは時に至らざれば、則ち飢餓の徒はまた曩歳(さきの年)の如く、太尉の馬を殺し、太府の瓜果を毀ち、忿怨の言を出だし、起って乱を為す者があろう。『書経』に曰く、『民情大いに見るべく、小人保ち難し』と。況んや南北両属部、数十年辺境を捍ふせいできた者が、今必裏哥孛瓦に誘脅せられ、族を傾けて随い去り、辺境がこのように蕩揺ゆれうごくことは憂うべきである。これを忽せにして往かば、豈に聖人の万挙万全の道であろうか。先ごろ太白が昼に見え、京師地震し、また北方に赤色あり、夜明け近くになって始めて散じた。天の示す象は、聖意を警悟せしめて、徳を修め変を銷けさんことを冀こいねがうものである。ましてや逸遊は古人の戒めるところ、遠くは周・秦より、近くは隋・唐及び遼に逮および、皆これによって釁を生じた。慎まざるべけんや、畏れざるべけんや」と。左補闕の許安仁・右拾遺の路鐸も皆上書して論諫した。この日、上は後閣に御し、師中らを召して賜対し、即時にその奏に従い、なお輔臣に諭して言うには、「朕が山后に巡幸せんと欲するは、他に理由なく、暑熱を禁じ得ざるが故である。今、台諫官が咸な民間に食糧の欠乏する処甚だ多しと言う。朕は初め尽く知らなかったが、既に知った以上、暑さは恐るべしといえども、どうして私的な奉養を忍びて民の困窮を重くせんや」と。乃ち北幸を罷めた。まもなく宋の生日国信使となり、還って得たる金帛を親旧に分け与えた。五年、上は再び景明宮に行かんとした。師中および台諫官が各々上疏して極諫した。上は怒り、近侍局直長の李仁願を尚書省に遣わし、師中らを召して諭して言うには、「卿等の言うところ、取るべきもの無きに非ざるも、然れどもまた君臣の体を失う者あり。今、平章に命じて旨を諭さしむ。往いてこれを聴け」と。

原文四年,上將幸景明宮,師中及侍御史賈鉉、治書侍御史粘割遵古諫,以謂「勞人費財,蓋其小者,變生不虞,所系非輕。聖人法天地以順動,故萬舉萬全。今邊鄙不馴,反側無定,必裏哥孛瓦貪暴強悍,深可為慮。陛下若問諸左右,必有容悅而言者,謂堂堂大國,何彼之恤。夫蜂蠆有毒,患起所忽。今都邑壯麗,內外苑囿足以優佚皇情,近畿山川飛走充牣,足以閱習武事,何必千車萬騎,草居露宿,逼介邊陲,遠煩偵候,以冒不惻之悔哉。」上不納。師中等又上疏曰:「近年水旱為沴,明詔罪己求言,罷不急之役,省無名之費,天下欣幸。今方春東作,而亟遣有司修建行宮,揆之於事,似為不急。況西、北二京,臨潢諸路,比歲不登。加以民有養馬簽軍挑壕之役,財力大困,流移未複,米價甚貴,若扈從至彼,又必增價。日糴升合者口以萬數,舊藉北京等路商販給之,倘以物貴或不時至,則饑餓之徒將複有如曩歲,殺太尉馬、毀太府瓜果、出忿怨言、起而為亂者矣。《書》曰:'民情大可見,小人難保。'況南北兩屬部數十年捍邊者,今為必裏哥孛瓦誘脅,傾族隨去,邊境蕩搖如此可虞,若忽之而往,豈聖人萬舉萬全之道哉。乃者太白晝見,京師地震,又北方有赤色,遲明始散。天之示象,冀有以警悟聖意,修德銷變。矧夫逸游,古人所戒,遠自周、秦,近逮隋、唐與遼,皆以是生釁,可不慎哉,可不畏哉。」左補闕許安仁、右拾遺路鐸亦皆上書論諫。是日,上禦後閣,召師中等賜對,即從其奏,仍遣諭輔臣曰:「朕欲巡幸山后,無他,不禁暑熱故也。今台諫官鹹言民間缺食處甚多,朕初不盡知,既已知之,暑雖可畏,其忍私奉而重民之困哉!」乃罷北幸。尋為宋生日國信使,還以所得金帛分遺親舊。五年,上複如景明宮,師中及台諫官各上疏極諫,上怒,遣近侍局直長李仁願詣尚書省,召師中等諭之曰:「卿等所言,非無可取,然亦有失君臣之體者。今命平章諭旨,其往聽焉。」

戸部尚書の馬琪が表を上って自らの代わりに挙げたので、吏部尚書に擢んで任じられた。初め、完顔守貞が西京留守に改められ、京師に朝したとき、上は再び用いようとしたが、監察御史の蒲剌都らが数事を糾弾した。師中はその誣いであることを弁明し、守貞は正人で用いるべきであると挙げたので、守貞はこれによって再び平章政事に拝された。及んで守貞が罪によって斥けられたとき、上は言うには、「先に守貞を薦めた者は降黜こうちゅつすべきである。董師中が言うには、台省にこの人無くして治まらずと。路鐸・李敬義もまた嘗て推挙した。外任に左遷すべし。然れども三人は後ともに用いることができる。今は暫く出して、失挙の罪を正す」と。陝西西路転運使に除した。歳余りして、征されて御史大夫と為り、礼部尚書の張暐とともに陳言文字を見読することを命じられた。三月を逾こえて、参知政事に拝され、尚書左丞に進んだ。ある日、事を奏したとき、上は輔臣に語って言うには、「御史の姫端修が小人側に在りと言うが、果たして誰ぞや」と。師中は言うには、「李喜児の輩を謂うべきであろう」と。上は黙然とした。

原文戶部尚書馬琪表舉自代,擢吏部尚書。初,完顏守貞改為西京留守,朝京師,上欲複用,監察御史蒲剌都等糾彈數事,師中辨其誣,而舉守貞正人可用,守貞由是複拜平章政事。及守貞以罪斥,上曰:「向薦守貞者應降黜。如董師中言台省無此人不治,路鐸、李敬義亦嘗推舉,可左遷於外。然三人者後俱可用,今姑出之,以正失舉罪。」除陝西西路轉運使。歲餘,征為御史大夫,命與禮部尚書張暐看讀陳言文字。逾三月,拜參知政事,進尚書左丞。他日奏事,上語輔臣曰:「御史姬端修言小人在側,果誰歟?」師中曰:「應謂李喜兒輩。」上默然。

師中は古今に通じ、敷奏(上奏)に巧みで、典憲(法典)に練達し、事を処するに精敏であった。嘗て言うには、「宰相は細務に当たるべからず、要は人材を知り、綱紀を振るうにあり。ただ一心正しく、両目明らかなれば足る」と。承安四年、表を上って致仕を乞うた。詔して宅一区を賜い、京師に留まって居住させた。寒食の節に、家に過ぎて塚に上ることを乞うと、これを許し、かつ『寒食還家上塚詩』を賦することを命じた。毎節辰の朝会には、召し入れて侍宴せしめ、その眷礼けんれいこの如くであった。泰和二年、薨去した。七十四歳。上はこれを聞き、甚だ悼惜し、顧みて大臣に謂いて言うには、「凡そ正人は多く執方しゅほうにして通ぜざるが、独り師中は正にして通ず」と。詔して現任の宰執の例に依って葬祭を行い、なお賻贈し、諡して文定と言う。

原文師中通古今,善敷奏,練達典憲,處事精敏,嘗言曰:「宰相不當事細務,要在知人才,振綱紀,但一心正、兩目明,足矣。」承安四年,表乞致仕,詔賜宅一區,留居京師。以寒食,乞過家上塚,許之,且命賦《寒食還家上塚詩》。每節辰朝會,召入侍宴,其眷禮如此。泰和二年,薨,年七十四。上聞之,甚悼惜,顧謂大臣曰:「凡正人多執方而不通,獨師中正而通。」詔依見任宰執例葬祭,仍賻贈之,諡曰文定。

師中は文をよくし、性は通達、財を疏んじ義を尚び、平居へいきょには則ち楽易真率らくいしんそつであったが、事に臨むには則ち剛決にして、挺然ていぜんとして奪うべからざるものがあった。弟の師儉は、初め進士を業とし、その資蔭しおんによって官を得ようとした。師中はこれを保任し、密かに人に代わって堂帖(任命書)を与えさせ、学業に専念させた。師儉はその義方(正しい道)に感じ、力学して後遂に登第した。政府(政務の中枢)に在ったとき、近侍が詔を伝え、その子を録用せんとした。師中は奏して言うには、「臣に孤幼の甥あり。もし恩を蒙って録用せられば、臣の子に勝ります」と。上はその義を感じ、その甥を筆硯承奉ひっけんしょうほうとした。胥持国とともに政を輔け、頗る親附したので、世の人はこれをもって少し軽んじた。

原文師中工文,性通達,疏財尚義,平居則樂易真率,其臨事則剛決,挺然不可奪。弟師儉,初業進士,欲籍其資廕。師中保任之,密令人代給堂帖,使之肄業。師儉感其義方,力學後遂登第。方在政府,近侍傳詔,將錄用其子,師中奏曰:「臣有侄孤幼,若蒙恩錄,勝於臣子。」上義之,以其侄為筆硯承奉。與胥持國同輔政,頗相親附,世以此少之。

王蔚

原文王蔚

王蔚、字は叔文、香河の人である。皇統二年の進士第に登り、良郷丞に調えられた。治績は優等で、尚書省令史に補され、管差除かんさいじょを知った。蔚は性通敏にして、吏事に明察であった。まもなく都事を授かり、喪のため去った。起復して、行左司員外郎となり、郎中に遷った。大定二年、超授ちょうじゅされて河東北路転運使となり、旨を諭されて言うには、「汝は海陵(王)の時、行い多く法に合わず。然れども朕は素より爾の才幹を知り、内除(中央の官職)を授けんとしたが、憲台(御史台)に言あり、これをもって外補(地方官)とする。もし心を澡あらい行いを易めれば、必ず当に升擢すべし。然らずば再用を望むなかれ」と。既にして廉を察して第一と為り、中都路都転運使を授かった。吏部尚書に改め、護衛の出職事を断ずるに当たらず、官一階を奪われた。間もなく、出て河中府事を知り、南京留守に遷った。十五年、参知政事に拝された。蔚は懇ろに辞して負荷に任じずとし、勅を諭して言うには、「卿はただ正しく奉公し、或いは阿順あじゅんすること無くば、何を以て辞と為さんや」と。十六年、出て真定府事を知り、累転して河中府を知った。明昌元年、召されて尚書右丞に拝され、致仕し、卒した。

原文王蔚,字叔文,香河人也。登皇統二年進士第,調良鄉丞。治績優等,補尚書省令史,知管差除。蔚性通敏,曉析吏事。尋授都事,以喪去。起複,行左司員外郎,遷郎中。大定二年,超授河東北路轉運使,諭旨曰:「汝在海陵時,行事多不法。然朕素知爾才幹,欲授以內除,而憲台有言,以是補外。如能澡心易行,必當升擢,否則勿望再用。」既而察廉為第一,授中都路都轉運使。改吏部尚書,以斷護衛出職事不當,奪官一階。頃之,出知河中府事,遷南京留守。十五年,拜參知政事,蔚懇辭不任負荷,敕諭之曰:「卿但履正奉公,無或阿順,何以辭為?」十六年,出知真定府事,累轉知河中府。明昌元年,召拜尚書右丞,致仕,卒。

馬惠迪

原文馬惠迪

馬惠迪、字は吉甫、漷陰の人である。天徳三年の進士に挙げられ、再び昌邑県令に転じ、廉察第一となり、尚書省令史に補せられた。大定年間、西京留守判官として出向し、治績最上により、崇義軍節度同知に抜擢された。累遷して左司郎中となった。先に鄧儼がこの職にあったが、世宗はその明敏を愛した。惠迪が一日奏事を終えて退出すると、上は宰臣に言われた、「人の聡明は多く浮華に失するものだが、惠迪は聡明にして朴実、甚だ喜ばしい。朕は嘗て事を論じたが、五品以下の朝官で彼に及ぶ者は少ない」。未だ幾ばくもせず、御史中丞を超授され、参知政事に拝された。時に烏底改が叛亡し、世宗は既に討伐の兵を遣わしていたが、更に甲士こうしを増やし、その船筏を破壊しようとされた。惠迪が奏上して言うには、「その人を得ても用いるに足らず、その地を有しても居るに足らず、恐らく聖慮を労するに足りませぬ」。上は言われた、「朕は固より知っている。船筏を破壊する所以は、正に再び辺境を窺わせぬためである」。間もなく憂服のため去職した。昭義軍節度使として起用された。明昌元年、南京留守となり、致仕し、卒した。

原文馬惠迪,字吉甫,漷陰人也。擢天德三年進士第,再調昌邑令,察廉第一,補尚書省令史。大定中,出為西京留守判官,以治最,擢同知崇義軍節度事。累遷左司郎中。先是,鄧儼居是職,世宗愛其明敏,惠迪一日奏事退,上謂宰臣曰:「人之聰明,多失於浮炫,若惠迪聰明而樸實,甚可喜也。朕嘗與論事,五品以下朝官少有如者。」未幾,超授禦確中丞,拜參知政事。時烏底改叛亡,世宗已遣人討之,又欲益以甲士,毀其船筏。惠迪奏曰:「得其人不可用,有其地不可居,恐不足勞聖慮。」上曰:「朕固知之。所以毀其船筏,正欲不使再窺邊境耳。」尋以憂去。起為昭義軍節度使。明昌元年,為南京留守,致仕,卒。

馬琪

原文馬琪

馬琪、字は徳玉、大興宝坻の人である。正隆五年に進士に挙げられ、清源主簿に転じ、三遷して永清県令となった。永清は畿県で、治め難いと号され、前任の令の要介は能吏の名声があったが、琪はその後を継いで治績を以て聞こえた。尚書省令史に補せられ、永清での治績最上を以て、定武軍節度同知事・興中府治中を授かり、召されて戸部員外郎となり、侍御史に改めた。

原文馬琪,字德玉,大興寶坻人。正隆五年擢進士第,調清源主簿‖三遷永清令。永清畿縣,號難治,前令要介有能聲,琪繼以治聞。補尚書省令史,以永清治最,授同知定武軍節度使事、興中府治中,召為戶部員外郎,改侍御史。

世宗は宰臣に言われた、「近頃馬琪が高徳温の獄を主奏したが、富戸の寄銭の事は皆略して奏上しなかった。朕は琪が法律に明るく正直であると思っていたのに、その行いがこのようであるとは、称職の才を得ること何と難しいことか。古人は『罪疑わしきは惟れ軽きに従え』と言ったが、全く寛縱を尊ぶためではない」。間もなく左司員外郎に転じ、東巡に扈従し、右司郎中に遷り、左司に移った。時に宋国への使者を選んでいたが、世宗は琪を命じようとされ、宰臣がその資歴が浅いと言うと、詔して特に彼を遣わし、帰朝して吏部侍郎を授け、戸部に改めた。

原文世宗謂宰臣曰:「比者馬琪主奏高德溫獄,其于富戶寄錢事皆略不奏。朕以琪明法律而正直,所為乃爾,稱職之才何其難也?古人雖雲'罪疑惟輕',非為全尚寬縱也。」尋轉左司員外郎,扈從東巡,遷右司郎中,移左司。時擇使宋國者,世宗欲命琪,宰臣言其資淺,詔特遣之,還授吏部侍郎,改戶部。

章宗が即位すると、中都路都転運使に除せられた。時に戸部に官が欠けており、上は宰臣に任せうる者を選ばせた。或る者が同知大興府事烏古孫仲和を推挙すると、上は言われた、「仲和は智略はあるが、恐らく銭穀を主とすることはできまい。理財は劉晏の如き者を得るべきで、官用は足りて民は困窮せず、唐以来ただ一人のみである」。或る者が琪を推挙すると、上は然りとされ、「琪は官を欺かず、また民を害さず、これこそ用いるに足る者である」と言われた。遂に戸部尚書に抜擢された。久しくして、官一階を削られた。初め、琪が病で告暇した時、近侍が伝旨したが、正装せず履を引きずって出てきたため、有司が徒二年に当たると議し、減刑の外猶も官を追奪し解任すべきとした。大理少卿閻公貞は、琪は本来慌てて失措したのであり、病告に違うのとは同じではないとして、徒二年を三等減じて論ずべきであると考えた。上は公貞の議に従い、職に留まることを許された。

原文章宗即位,除中都路都轉運使。時戶部闕官,上命宰臣選可任者,或舉同知大興府事烏古孫仲和,上曰:「仲和雖有智力,恐不能主錢穀。理財安得如劉晏者,官用足而民不困,唐以來一人而已。」或舉琪,上然之,曰:「琪不肯欺官,亦不肯害民,是可用也。」遂擢為戶部尚書。久之,削官一階。初,琪病告,近侍傳旨,不具服曳履而出,有司議當徒二年,減外猶追官解任。大理少卿閻公貞以為琪本荒遽失措,與非病告有違不同,宜減徒二年三等論之。上從公貞議,任職如故。

明昌四年、参知政事に拝され、詔して諭して言われた、「戸部は急に適任者を得難く、卿に代わる者がないので、卿を用いるのが遅くなったのである」。一日、上は琪に言われた、「卿は省に久しくいるが、近頃事が往時に比べて少ないのは何故か」。琪は言った、「昔は宰職に異同が多いことがありましたが、今は意見の相違が少ないのです」。上は言われた、「往時は多くの意見があるのが正しいのか、今は無いのが正しいのか」。琪は言った、「事状が明らかなものは意見を借りる必要がなく、仮に意見を用いるとしても、結局は正しいものに帰着させるべきです」。五年、河が陽武で決壊し、封丘を灌いで東流した。琪は尚書省事を行ってこれの治水に赴き、工事を終えて帰還した。中大夫に遷った。承安元年、北辺で兵事が起こり、連年旱魃が続いたため、表を上って致仕を乞うたが、許されなかった。翌年、安武軍を鎮守として出向し、致仕し、卒した。子の師周は閣門祗候で、当時に給暇すべきであったが、上聞に達しなかった。上はこれを悼み、奏聞しなかったことを責めて有司に諭した。以後二品官の卒は皆詳しく上聞するようになり、琪の時から始まった。

原文明昌四年,拜參知政事,詔諭之曰:「戶部遽難得人,顧無以代卿者,故用卿晚耳。」一日,上謂琪曰:「卿在省久矣,比來事少於往時何也?」琪曰:「昔宰職多有異同,今情見不同者甚少。」上曰:「往多情見為是耶,今無者為是耶?」琪曰:「事狀明者不假情見,便用情見,亦要歸之是而已。」五年,河決陽武,灌封丘而東,琪行尚書省事往治之,訖役而還。遷中大夫。承安元年,北邊用兵,而連歲旱暵,表乞致仕,不許。明年,出鎮安武軍,致仕,卒。子師周,閣門祗候,當給假,以聞。上悼之,以不奏聞責諭有司,後二品官卒皆具以聞,自琪始。

琪の性質は明敏で、吏事に習熟し、その銭穀を治めることは特に長けていた。しかし性質は吝嗇で利を好み、頗る上から軽んじられたという。

原文琪性明敏,習吏事,其治錢穀尤長,然性吝好利,頗為上所少雲。

楊伯通

原文楊伯通

楊伯通、字は吉甫、弘州の人である。大定三年の進士に挙げられ、尚書省令史から吏部主事・順義軍節度副使となり、憂服のため去職した。吏部侍郎馬琪が伯通の廉潔と幹才を表薦し、尚書省が再び察してその推挙の通りであるとし、召して尚書省都事とし、定武軍節度同知事を授けた。明昌元年、左司員外郎に抜擢され、郎中に転じ、累遷して吏部尚書となり、間もなく戸部に移った。

原文楊伯通,字吉甫,弘州人。擢大定三年進士第,由尚書省令史為吏部主事、順義軍節度副使,以憂去。吏部侍郎馬琪表薦伯通廉幹,尚書省複察如所舉,召為尚書省都事,授同知定武軍節度使事。明昌元年,擢左司員外郎,轉郎中,累遷吏部尚書,尋移戶部。

承安二年、参知政事に拝された。監察御史路鐸が伯通が郷人の李浩を引用し、公器を以て私恩を結んだと弾劾奏上した。左司郎中賈益が風旨を承望し、再び詳しく検討せず、言うところを台端に持ち込み、糾弾を加えようとしたが、大夫張暐は即座に阻止して行わせなかった。上は同知大興府事賈鉉にこれを詰問させた。伯通は家に居て罪を待った。鉉が奏上して言うには、「暐は言うに、大臣を弾劾して罷免するには実跡がなければならず、弾劾が当たらなければ徒らに台綱を損なうだけだと。益は言うに、除授は皆宰執の公議によるもので、伯通が私的に枉げたとは言えないと」。詔して鐸の言事の軽率を責め、伯通を慰諭して事を治めさせた。伯通は再び表を上って辞したが、許されなかった。四年、尚書左丞に進み、致仕し、卒した。

原文承安二年,拜參知政事。監察御史路鐸劾奏伯通引用鄉人李浩,以公器結私恩。左司郎中賈益承望風旨,不復檢詳,言之臺端,欲加糾劾,大夫張暐輒尼不行。上命同知大興府事賈鉉詰之,伯通居家待罪。鉉奏:「暐言彈絀大臣,須有實跡,所劾不當,徒壞台綱。益言除授皆宰執公議,不言伯通私枉。」詔責鐸言事輕率,而慰諭伯通治事。伯通再上表辭,不許。四年,進尚書左丞,致仕,卒。

尼厖古鑑

原文尼厖古鑑

尼厖古鑑、本名は外留、隆州の人である。女直小字及び漢字を識り、大定十三年の進士に及第し、隆安教授に転じた。即墨主簿に改め、召されて国子助教を授かり、近侍局直長に抜擢された。世宗はその才能を重んじ、宰臣に言われた、「新進士の中で徒単鎰・夾穀衡・尼厖古鑑の如きは、皆用いるに足る者である」。太子侍丞に改めた。一年余りして、応奉翰林文字に遷り、右三部司正を兼ねた。世宗は再び宰臣に言われた、「鑑は嘗て近侍にあり、朕はその正直で事をよく治めることを知っている。東宮侍丞となってからは、太孫を保護し、礼節と言動にはなお国俗の純厚な旧風があり、朕は甚だこれを嘉する」。章宗が立つと、累遷して尚書戸部侍郎となり、翰林直学士を兼ねた。俄かに同知大興府に転じ、大臣の推薦により、知大興府事に改めた。明昌五年、参知政事に拝され、薨じ、諡して文肅といった。

原文尼厖古鑑,本名外留,隆州人也。識女直小字及漢字,登大定十三年進士第,調隆安教授。改即墨主簿,召授國子助教,擢近侍局直長。世宗器其材,謂宰臣曰:「新進士中如徒單鎰、夾穀衡、尼厖古鑑,皆可用也。」改太子侍丞。逾年,遷應奉翰林文字,兼右三部司正。世宗複謂宰臣曰:「鑑嘗近侍,朕知其正直幹治。及為東宮侍丞,保護太孫,禮節言動猶有國俗純厚舊風,朕甚嘉之。」章宗立,累遷尚書戶部侍郎,兼翰林直學士。俄轉同知大興府,用大臣薦,改知大興府事。明昌五年拜參知政事,薨,諡曰文肅。

賛に曰く、移剌履は従容として進説し、信は君に孚き、経は純なり伝は駁なりを論じるに至り、孝行を以て治の本と為すは、古人の遺学を得たるか。昔、臧孫達が魯に忠諫し、君子はその後有るを知り、信ずるかな。張万公は正を引き己を守り、質言にして華なし。壕を開き地を括するの議、利害を明灼にし、掌を指すが如し。群説に閉ざされて用いられず、致仕して帰るは、理勢然り。蒲察通の海陵を哭するは、君臣の大義、死生を一にし、その志烈し。程輝・斡特剌の鯁直、劉瑋・董師中の通敏、才は皆以て発聞するに足る。然れども師中には胥に附するの譏あり、劉瑋には事を避くるの責を見る。その前人を視るに、多く愧ずる者有り。王蔚・馬惠迪の徒は、何ぞ算うるに足らんや。

原文贊曰:移剌履從容進說,信孚於君,至論經純傳駁,以孝行為治本,其得古人遺學歟!昔臧孫達忠諫于魯,君子知其有後,信矣。張萬公引正守己,質言無華。開壕括地之議,明灼利害,如指諸掌,閉於群說而不式,致仕而歸,理勢然也。蒲察通之哭海陵,君臣大義死生一之,其志烈矣。程輝、斡特剌之鯁直,劉瑋、董師中之通敏,才皆足以發聞,然師中有附胥之譏,劉瑋見避事之責,其視前人,多有愧矣。王蔚、馬惠迪之徒,何足算也。