移剌履
移剌履、字は履道、遼の東丹王突欲の七世孫である。父は聿魯、早くに亡くなった。聿魯の族兄で興平軍節度使の徳元に子がなく、履を後嗣とした。五歳の時、夕方に廡下に臥して、微雲が天際を往来するのを見て、急に乳母に言うには、「これが所謂『臥して青天に白雲の行くを見る』というものか」と。徳元はこれを聞き、驚いて言うには、「この子は文学をもって世に名を成すであろう」と。成長して、博学で多芸多才、文章をよくした。初め進士に挙げられようとしたが、搜檢の煩瑣を嫌い、これを去った。蔭補により承奉班祗候・国史院書寫となった。世宗が儒術を興そうとしていた時、詔して経史を訳させ、国史院編修官に抜擢し、兼ねて筆硯直長とした。ある日、世宗が召して問うには、「朕は近く『貞観政要』を読み、魏徴の嘉謀忠節を見て、まことに称歎すべきものがある。近世には何故か魏徴のような者がいないのは何故か」と。履は言うには、「忠嘉の士は、何れの代にいないことがあろうか、ただ上に立つ者が用いるか用いないかだけです」と。世宗は言うには、「卿は劉仲誨・張汝霖を見ないのか、朕が二人を抜擢して用いたのは、かつて諫職に居り、たびたび忠言があったからである。どうして用いないと言えようか、ただ人材が得難いだけである」と。履は言うには、「臣はその諫言を聞いたことがありません。かつ海陵王は言路を杜塞し、天下は口を閉ざし、習いとして風潮となっております。願わくは陛下には前事を懲らしめ、諫諍の門を開かれますよう、天下幸甚です」と。
初め、時務策をもって女直進士科を設けることを議し、礼部は所學が同じでないとして、一概に進士と称すべきでないとしたが、詔して履にその事を定めさせた。そこで上議して言うには、「進士の科は、隋の大業年間に起こり、初め策試を行った。唐初はこれを因襲し、高宗の時に箴銘賦詩を交え、文宗に至って専ら賦を用いるようになった。かつ進士の初めは、本来専ら策を試みたのであり、今女直の諸生が策試によって進士と称するのに、何の疑いがありましょうか」と。世宗は大いに喜び、事は遂に施行された。十五年、応奉翰林文字を授け、前職を兼ね、まもなく修撰に遷った。二十年、詔して衍慶宮の功臣像画の提控を命じ、期限を過ぎたため、応奉に降格した。一年余りして、再び修撰となり、転じて尚書礼部員外郎となった。
章宗が金源郡王であった時、『春秋左氏傳』を読むことを好み、履の博洽を聞いて召し、疑義を質した。履は言うには、「左氏は権謀術数が多く、駁雑で純粋ではありません。『尚書』・『孟子』は皆聖賢の純全なる道です、どうか留意されますよう」と。王はこれを嘉んで受け入れた。二十六年、本部郎中に進み、同修国史・翰林修撰を兼ね、宋の司馬光の『古文孝経指解』を表して進めて言うには、「臣が窃かに近世を観ますに、皆兵刑財賦を急務とし、光のみがこれを以てその君に進めました。天下を有つ者は、その文辞を取って宇内に施せば、則ち元元の民は恩恵を受けるでしょう」と。まもなく病気のため、外任を補うことを乞うと、世宗は言うには、「履は病が多い、便利な州を与えよ」と。そこで薊州刺史を授けた。間もなく、翰林待制に召され、同修国史とした。明年、尚書礼部侍郎に抜擢し、翰林直学士を兼ねた。
履は秀でて聡明で悟りが早く、暦算・書画に精通していた。先に、旧『大明暦』に誤りがあり、履が『乙未暦』を上った。金が乙未年に天命を受けたからである。世はその善さを服した。初め、徳元に子がなく、履を後嗣としたが、後に子の震が生まれた。徳元が没すると、家財を全て震に推し与えた。彼が礼部兼直学士から執政となった時、前代の光院の故事を挙げて、銭五十万を学士院に送り、学者たちはこれを栄誉とした。
張萬公
四年、再び以前の請願(母への侍養)を申し出たので、知東平府事を授け、諭して言った、「卿が政府(中央政権)にいた時も、職に称しないわけではなかったが、卿の母が老齢であることを以て、侍養を乞うたので、特に郷里の郡(東平府)を与えて孝養を遂げさせよう。朕の心は卿に属しており、汝を忘れはしない」。萬公は謝し、かつ書を捧げて言った、「臣は狂妄ですが、一言を今日申し上げたいと思い、任命を受ける機会がなかっただけです。内外の職務は、憂いと責任は同じであり、畎畝(民間)の臣であってもなお君を忘れず、芻蕘(草刈りや薪取りの者)の言葉も、明主はこれを択びます。伏して聖聡の省察を望みます」。上はこれを嘉して受け入れた。六年、知河中府に改めた。時に軍事が起こり、徴発が頻繁で煩雑であったが、ことごとく寛大に取り計らい、民力が容易に務められるようにした。人々は薰風楼にその像を描き、また「去思堂」を建てた。
済南に移鎮したが、母の喪により職を去った。卒哭(喪の一段落)の後、詔して起復させ、平章政事に拝し、資善大夫に越階昇進し、寿国公に封じられた。時に李淑妃が寵愛を受け、権勢を振るい、帝の心はこれに惑わされ、皇后に立てようとしたが、大臣の多くは認めなかった。御史の姫端修が上書してこれを論じたので、帝は怒り、御史大夫の張暐は一官を削り、侍御史の路鐸は両官を削り、端修は七十回の杖刑に処し、贖罪(財物で罪を贖う)をもって論じた。淑妃はついに元妃に進封された。また大軍は罷めたとはいえ、辺境の事態はまさに切迫しており、連年の旱魃、災異がたびたび現れた。さらに制度を多く変更し、民は不便だと思ったものをまた改めるなど、紛紛として定まらなかった。萬公はもとより沈着で重厚、深く謹厳であり、治め方としては安静で事を少なくすることを務め、同僚たちとの議論は多く合わなかった。しかしかなり嫌って畏れ、敢えて顔色を犯して強く諫めず、帝が問うた時にのみ、ようやく利害を審らかに図って率直に言い、帝は従っても実行しなかった。萬公はここにおいて二度上表して、衰病を理由に閑職を乞うた。詔して諭して言った、「近ごろ卿が言った数件の事柄は、朕は未だ行っていない、これは朕の過ちである。卿は年もまだ老いておらず、急に病を告げるとは。今特に告(休暇)を二ヶ月賜うから、再び起きて政務を見よ」。
初め、明昌年間、有司が建議し、西南路・西北路から、臨潢に沿って泰州に至るまで、塹壕を開き築いて大軍(北方遊牧民の軍)に備えようとし、役夫三万人を動員したが、連年完成しなかった。御史台が言った、「開いたものはすぐに風砂で埋められ、外敵防禦に益なく、ただ民を労するのみである」。上は旱魃の災害に因り、萬公にその原因を問うた。萬公は「民を長く労することは、恐らく和気を傷つけます。御史台の言うところに従い、これを罷めるのが便です」と答えた。後に丞相の襄が軍を率いて帰還し、ついに開築を実施したので、民はこれを非常に苦しんだ。軍事を主管する者がまた言った、「近年の征伐では、軍は多く敗北した。これは屯田の地が少なく、養い贍うことができず、飢え寒さを免れない者さえいるためで、故に闘志がないのです。民田で税を免れているもの(隠田)を検出して分け与えれば、戦士の士気は自ずから倍加するでしょう」。朝臣の議論はすでに決していたが、萬公のみが上書し、それができない五つの理由を述べた。大略は、「軍旅の後、瘡痍まだ恢復せず、百姓を慰撫する暇もないのに、どうして重ねて擾乱できようか、これが一つ。通検(土地調査)から間もなく、田には定まった籍帳があり、検出しても必ずしも尽くせず、かえって狡猾な官吏の弊害を増し、告訴・密告の風潮を長じさせるだけである、これが二つ。無駄な費用や奢侈な支出は数えきれず、これを推し及ぼして軍を養えば、民に及ばずして徴収しても足り、民の田を奪う必要はない、これが三つ。兵士は選択を誤り、強弱の区別なく、同じ田を共有して食わせれば、奮励する者はその力を尽くすことができず、疲弊劣悪な者はその奸計を容れることができる、これが四つ。民から奪って軍に与えれば、軍心は得られても天下の人心を失い、その禍いは言い尽くせないものがある、これが五つ。必ずややむを得ないならば、冒地(隠田)で既に検出されたものを、民を召して耕作させ、その収入で軍を贍うことを乞う。そうすれば軍は坐して得る利益があり、民は奪われる怨みはありません」というものであった。いずれも答申されなかった。ある日、奏事の際、上は萬公に言った、「卿が昨日、天が久しく陰晦なのは、人君が人を用いるのに邪正を分かたないからだと言った。君子は内(朝廷)に在るべきで、小人は外(地方)に在るべきだというのは、甚だ道理がある。しかし、誰を小人というのか」。萬公が「張煒・田櫟・張嘉貞らは、才幹はあるが、称すべき徳はありません」と奏すると、上はすぐに三人を外任(地方官)に補した。
六年、南辺に兵を用い、上は山東が重地なるを以て、大臣を以て鎮撫すべきものとし、先に任じた完顔守貞が卒したので、ここに特に萬公を起用して済南府知事・山東路安撫使と為す。山東は連年旱魃蝗害あり、沂・密・萊・莒・濰の五州は特に甚だし。萬公は民の飢餓と盗賊の発生を慮り、予め賑済を準備すべきとす。時に兵興し、国用足らず、萬公は乃ち上言して僧道の度牒・師徳号・観院の名額並びに塩引を、山東行部に付し、五州において給売し、粟を納めて易換せしむべしと乞う。又、有司を督責して盗賊を禁戢する方策を言上す。上は皆これに従う。宋人、和を請う、復た致仕を乞う、これを許し、崇進を加え、仍て平章政事の俸の半分を給す。泰和七年、薨ず。命じて宰臣の故事に依り、焼飯し、賻葬す。儀同三司を贈り、諡して文貞と曰う。
蒲察通
蒲察通、本名は蒲魯渾、中都路胡土愛割蠻猛安の人なり。熙宗、護衛を選ぶに、通の名を見て、筆を以てこれを識す。通は父老なるを以て、懇ろに就養を乞う。衆訝る曰く「侍衛に充たるを得ば、終身栄貴なり、今乃ち辞す、人に過ぐること遠し」と。朝廷、義としてこれに従う。後に因りて宋王宗望を房山に会葬するに、門閥を以て、昭信校尉を加え、頓舍を授く。御院通進に改む。
海陵、宋を伐つに、隆州の諸軍は特に精鋭なり、通に付してこれを総べしむ。兵淮に圧し、通に令して騎二百を率いて先に済み敵を覘わしむ。弇中に及び、敵兵躍り出で、通は兵を按じて直ちに前に進み、傍らに槊を舞わして来たり刺さんとする者あり、身を回らしてこれを射れば、弦に応じて斃る。諸軍並びに撃ちて、これを敗る。海陵召見し、喜色を形にし、曰く「兵事定まりなば、汝爵賞を憂うるなかれ」と。揚州に至り、通は別屯に営す。この夜、海陵弑せられ、告ぐる者来たり、通は執いて殺さんとす、続いてその実を聞き、哀悶して地に仆る、衆掖きて起こし、径ちに営門に入りてこれを哭す。
軍還り、入見す、世宗顧みて近臣に謂いて曰く「朕素よりこの人を知る、幼き嘗て従遊し、性温厚、識慮あり、又騎射に精し」と。尚廄局副使を授く。又近臣に諭して曰く「常に朕に見えしめ、事を以て問いその言を考へんと欲す、朕将にこれを用いんとす」と。窩斡反し、命じて通に金符を佩かしめ、軍前に詣らしめて督戦せしむ。賊破れ、功を以て世襲謀克を授く。奚人乱れ、詔を承けて継いて往きて軍を蒞む。本局使に遷り、母喪にて免ず。起きて殿前右衛将軍と為り、兼ねて閑廄を領す。尋いでその子蒲速烈に命じて衛国公主を尚ばしむ。出でて肇州防禦使と為り、金帯を賜い、仍て補外の意を諭し、因りてこれを戒敕す、語は『世宗紀』中に在り。尋いで蒲与路節度使に擢で、帰徳軍に移鎮し、西南路招討に遷り、入りて大興府事を知り、殿前都点検を除く。初め、大理卿闕け、世宗通をしてこれを為さしめんと欲し、宰臣に問う、対えて曰く「通は点検の器なり」と。上曰く「点検は繁冗にして、その能を顕わす由無し。通は明敏才幹にして、正に法を掌るの官なり」と。又曰く「通の機識は、崇尹及ばざる所なり」と。
大定十七年、尚書右丞を拝し、左丞に転ず。詔して推排猛安謀克の事を議せしむ、大臣皆以て現に在る産業を験するに止め、貧富を定め、旧に依りて科差するを便とすと為す。通言す「必ず各謀克の人戸の物力の多寡を通括せば、則ち貧富自ずから分かる。貧富分かれば、則ち版籍定まり、もし緩急あらば、籍を験して科差し、富者は隠すを得ず、貧者は重ねて困せず。一例に科差する者と、大いに同じからず」と。上は通の言を是とし、宰臣に謂いて曰く「事を議するは通の心を尽くすが如くすべし」と。三歳を閲し、平章政事に進み、任国公に封ず。
粘割斡特剌
粘割斡特剌、蓋州別裏賣猛安奚屈謀克の人なり。貞元初め、女直字を習うを以て試みに戸部令史に補し、尚書省令史に転ず。大定七年、選びて吏部主事を授け、右補闕・修起居注を歴る。九年、河南路統軍使宗敘、宋人の兵釁を啓かんと欲すと以て、入見を求めて言上す、世宗は斡特剌を遣わして就きてこれを問わしめ、仍てその実を究めしむ。汴に至り、宗敘に問い、及び凡そ嘗て辺事を言える者を召してこれを詰む、皆状無し。還りて報ず、世宗喜びて曰く「朕固より妄なるを知る」と。左司員外郎を授く。
二十六年、尚書左丞に転ず。世宗謂いて曰く、「朕昨宰臣と議して執政に授くべき者、卿其の中に在らず。今阿魯罕は年老い、斡魯も多く病む。吾宗浩を用いんと欲す、如何」と。斡特剌奏して曰く、「彼の二人の者は恐らく力を得ず、独り宗浩の幹能は任ずべし」と。遂に宗浩を用う。又謂いて曰く、「朕は天下の事に用心せざる無し、一に草創の時の如し」と。斡特剌曰く、「古より人君、始めは勤めて終わりに怠る者多し。始め有り終わり有るは、惟だ聖人のみ能くす」と。上曰く、「唐太宗は至明の主なり。然れども魏徵十事を以て諫め、其の終わりを有すること能わずと謂う。是れ則ち終始有るは、実に難きなり」と。二十八年、上京留守となり、通犀帯及び射生馬一匹を賜う。
斡特剌は性温厚醖藉たり。嘗て丞相紇石烈良弼に薦められしが、後世宗宰臣に謂いて曰く、「良弼は人を知るに善し。斡特剌の輩が如きは其の才真に用うべし」と。相位に在ること十余年、甚だ寵遇を見る。唯だ五品官の子を外路の司吏と同しく部令史に試むるを奏定し、及び随朝の吏員をして国史院書寫を試むるを得しむるを奏するに、世宗は是を非と為す。
程輝
二十四年、世宗上京に幸す。尚書省来歳の正旦に外国朝賀の事を奏す。世宗曰く、「上京は地遠く天寒し。朕甚だ人使の労苦を憫み、即ち南京にて宋の書を受くんと欲す。何如」と。輝対えて曰く、「外国の使来たらば、必ず天子に面見す。今半途にて書を受くれば、異時に宋人事に托して之に效わば、何を以てか辞と為さん」と。世宗曰く、「朕は誠実を以てす。彼若し相詐らば、朕自ら処置有らん」と。輝は不可と為す。是に於いて議して権りに一年を免ず。会に有司の面を市いて時に直を酬わざる有り。世宗監察の挙劾せざるを怒り、杖責す。以て輝に問う。輝対えて曰く、「監察は君の耳目なり。犯する罪軽し。贖わずして杖するは、亦一時の怒りなり」と。世宗曰く、「職事挙げざるは、是れ故犯なり。之を杖する何ぞ不可ならん」と。輝対えて曰く、「往く者は諫むべからず、来たる者は猶お追うべし」と。
輝は性倜儻敢言にして、雑学を喜び、尤も医を論ずるを好む。河間劉守真の説に従い、率ね涼薬を用う。神童嘗添壽という者方に数歳、輝之を召す。因りて「医は細事に非ず」の四字を書す。添寿「細」の字を塗り、改めて書して「相」と作す。輝頗る慚じ、人も亦此を以て其の病に中ると為すと云う。
劉瑋
劉瑋は、字を徳玉といい、咸平の人である。唐の盧龍節度使劉仁敬の末裔である。祖父の劉弘は、遼の末期に懿州を鎮守していたが、王師(金軍)が到着すると、劉弘は州を挙げて降伏し、太祖(阿骨打)は彼に咸州の知事を命じ、後に同平章政事の地位で致仕した。父の劉君詔は、同知宣徽院事であった。劉瑋は幼少より聡明で悟りが早く、進士科の挙業に励み、熙宗はその旧功を記録し、特に及第を賜った。安次県丞に任じられた。遵化県令を経て尚書省令史に補され、戸部主事、監察御史を歴任し、累進して尚書省都事に転じた。宰臣が劉瑋を軍民の田地経画に擬することを奏上すると、世宗はその名を見て言った、「劉瑋がまだこの地位に埋もれているのか」。戸部員外郎に昇進した。時に世宗が東巡を行おうとしており、劉瑋に工部郎中宋中と共に行宮の営造を命じ、そのまま郎中に昇進した。同知宣徽院事に改められ、宋国信副使となった。劉瑋の父と兄はいずれもこの官職で江南に使いしたので、当時は栄誉とされた。帰還後、戸部侍郎を授かった。
初め、世宗は劉瑋の才幹を器として、何事にも適応できると考え、上京に行幸する際、行在所の必要なものは全て太府に属するため、劉瑋にその事を統轄させようとしたが、その官位がやや低いのを嫌い、そこで戸部侍郎張大節を工部に移し、戸部を劉瑋に授けたのである。上(世宗)が還御すると、宰臣に言った、「劉瑋は非常に心労を尽くし、事に臨んで閑暇であるが、ただ心を用いることが正しくないだけだ。もし心が正しければ、その人材は得難いものであろう」。
後に上は宰臣に言った、「人は小官の時には才幹を称えられることもあるが、大用されるとそうでなくなる。劉瑋のごときは確かに非常に有能であったが、世宗朝から朕を補佐するに至り、事について多く知りながら言わないことがあった。もし本当に愚人であれば論ずるに足りないが、知り及んでいて肯いて心を尽くさないのは、よろしいのか」。平章政事完顏守貞は言った、「『春秋』の法は、賢者に責めを求めるものです」。上は言った、「宰相たる者が恩を収め怨みを避け、人々皆に己が是と称えさせようとするならば、賢者は果たしてこのようなものなのか」。
董師中
董師中は、字を紹祖といい、洺州の人である。若い頃より聡明で見識が広く、学問を好み記憶力が強かった。皇統九年の進士に及第し、沢州軍事判官に任じられた。平遥県丞に改められた。県に大盗賊王乙がおり、平素より凶悍で制御できなかったが、師中は捕らえて杖殺し、一境は遂に安寧となった。時に大軍の通過後で、野に多くの枯死体があり、県には駅舎に仮安置された遺棺があったが、師中は全てこれを埋葬した。綿上県令に転じ、尚書省令史に補された。右相唐括訛魯古は特に彼を器重し、その座を撫でて言った、「君の議論は英発で、襟度は開朗である。他日必ずこの座に就くであろう」。二度の考課を経て、監察御史に抜擢され、尚書省都事に転じた。初め、師中が監察御史であった時、大名総管忽剌の不正事件を漏れ察知しなかった。及んで忽剌が罪により誅殺されると、世宗は怒って言った、「監察御史が郡県に使いするのは、弾劾糾挙が職務である。忽剌は親貴であるから、特に意を用いるべきであったのに、従って上聞しなかったのか」。官一階を削り、沁南軍節度副使に降格任用された。累進して坊州刺史となった。
四年、上(章宗)が景明宮に行幸せんとしたとき、師中および侍御史の賈鉉・治書侍御史の粘割遵古が諫めて言うには、「民を労し財を費やすことは、その小なるものに過ぎず、思いがけない変事が生ずることは、その関係するところ軽からず。聖人は天地に法って順に動くが故に、万挙万全である。今、辺境は従順でなく、反覆定まらず、必裏哥孛瓦(ビリゲ・ボワ)は貪暴強悍にして、深く慮るべきである。陛下もし左右に問えば、必ず迎合して言う者があり、堂堂たる大国、何ぞ彼を恤れんやと言うであろう。蜂蠆にも毒あり、患いは忽せにするところより起こる。今、都邑は壮麗にして、内外の苑囿は以て皇情を優佚するに足り、近畿の山川の飛走(鳥獣)は充牣して、以て武事を閲習するに足る。何ぞ必ずしも千車万騎、草に居り露に宿り、辺陲に逼介し、遠く偵候を煩わし、以て測り難き悔いを冒さんや」と。上は納れなかった。師中らはまた上疏して言うには、「近年水旱の災があり、明詔を下して己を罪し言を求め、不急の役を罷め、無名の費を省き、天下欣幸した。今まさに春の東作(耕作)の時であるのに、急いで有司を遣わして行宮を修建せしめることは、事を推し量るに、不急のことに似ている。況んや西京・西北二京、臨潢諸路は、比年収穫なく、これに民に養馬・簽軍・挑壕の役あり、財力大いに困窮し、流移(流浪)して未だ復せず、米価甚だ貴し。もし扈従して彼の地に至れば、又必ず価を増すであろう。日に升合を糴う者の口数は万を以て数え、旧来北京等路の商販に頼ってこれを給していた。もし物価の貴いため、あるいは時に至らざれば、則ち飢餓の徒はまた曩歳(さきの年)の如く、太尉の馬を殺し、太府の瓜果を毀ち、忿怨の言を出だし、起って乱を為す者があろう。『書経』に曰く、『民情大いに見るべく、小人保ち難し』と。況んや南北両属部、数十年辺境を捍いできた者が、今必裏哥孛瓦に誘脅せられ、族を傾けて随い去り、辺境がこのように蕩揺くことは憂うべきである。これを忽せにして往かば、豈に聖人の万挙万全の道であろうか。先ごろ太白が昼に見え、京師地震し、また北方に赤色あり、夜明け近くになって始めて散じた。天の示す象は、聖意を警悟せしめて、徳を修め変を銷さんことを冀うものである。ましてや逸遊は古人の戒めるところ、遠くは周・秦より、近くは隋・唐及び遼に逮び、皆これによって釁を生じた。慎まざるべけんや、畏れざるべけんや」と。左補闕の許安仁・右拾遺の路鐸も皆上書して論諫した。この日、上は後閣に御し、師中らを召して賜対し、即時にその奏に従い、なお輔臣に諭して言うには、「朕が山后に巡幸せんと欲するは、他に理由なく、暑熱を禁じ得ざるが故である。今、台諫官が咸な民間に食糧の欠乏する処甚だ多しと言う。朕は初め尽く知らなかったが、既に知った以上、暑さは恐るべしといえども、どうして私的な奉養を忍びて民の困窮を重くせんや」と。乃ち北幸を罷めた。まもなく宋の生日国信使となり、還って得たる金帛を親旧に分け与えた。五年、上は再び景明宮に行かんとした。師中および台諫官が各々上疏して極諫した。上は怒り、近侍局直長の李仁願を尚書省に遣わし、師中らを召して諭して言うには、「卿等の言うところ、取るべきもの無きに非ざるも、然れどもまた君臣の体を失う者あり。今、平章に命じて旨を諭さしむ。往いてこれを聴け」と。
戸部尚書の馬琪が表を上って自らの代わりに挙げたので、吏部尚書に擢んで任じられた。初め、完顔守貞が西京留守に改められ、京師に朝したとき、上は再び用いようとしたが、監察御史の蒲剌都らが数事を糾弾した。師中はその誣いであることを弁明し、守貞は正人で用いるべきであると挙げたので、守貞はこれによって再び平章政事に拝された。及んで守貞が罪によって斥けられたとき、上は言うには、「先に守貞を薦めた者は降黜すべきである。董師中が言うには、台省にこの人無くして治まらずと。路鐸・李敬義もまた嘗て推挙した。外任に左遷すべし。然れども三人は後ともに用いることができる。今は暫く出して、失挙の罪を正す」と。陝西西路転運使に除した。歳余りして、征されて御史大夫と為り、礼部尚書の張暐とともに陳言文字を見読することを命じられた。三月を逾えて、参知政事に拝され、尚書左丞に進んだ。ある日、事を奏したとき、上は輔臣に語って言うには、「御史の姫端修が小人側に在りと言うが、果たして誰ぞや」と。師中は言うには、「李喜児の輩を謂うべきであろう」と。上は黙然とした。
師中は文をよくし、性は通達、財を疏んじ義を尚び、平居には則ち楽易真率であったが、事に臨むには則ち剛決にして、挺然として奪うべからざるものがあった。弟の師儉は、初め進士を業とし、その資蔭によって官を得ようとした。師中はこれを保任し、密かに人に代わって堂帖(任命書)を与えさせ、学業に専念させた。師儉はその義方(正しい道)に感じ、力学して後遂に登第した。政府(政務の中枢)に在ったとき、近侍が詔を伝え、その子を録用せんとした。師中は奏して言うには、「臣に孤幼の甥あり。もし恩を蒙って録用せられば、臣の子に勝ります」と。上はその義を感じ、その甥を筆硯承奉とした。胥持国とともに政を輔け、頗る親附したので、世の人はこれをもって少し軽んじた。
王蔚
馬惠迪
馬琪
馬琪、字は徳玉、大興宝坻の人である。正隆五年に進士に挙げられ、清源主簿に転じ、三遷して永清県令となった。永清は畿県で、治め難いと号され、前任の令の要介は能吏の名声があったが、琪はその後を継いで治績を以て聞こえた。尚書省令史に補せられ、永清での治績最上を以て、定武軍節度同知事・興中府治中を授かり、召されて戸部員外郎となり、侍御史に改めた。
世宗は宰臣に言われた、「近頃馬琪が高徳温の獄を主奏したが、富戸の寄銭の事は皆略して奏上しなかった。朕は琪が法律に明るく正直であると思っていたのに、その行いがこのようであるとは、称職の才を得ること何と難しいことか。古人は『罪疑わしきは惟れ軽きに従え』と言ったが、全く寛縱を尊ぶためではない」。間もなく左司員外郎に転じ、東巡に扈従し、右司郎中に遷り、左司に移った。時に宋国への使者を選んでいたが、世宗は琪を命じようとされ、宰臣がその資歴が浅いと言うと、詔して特に彼を遣わし、帰朝して吏部侍郎を授け、戸部に改めた。
琪の性質は明敏で、吏事に習熟し、その銭穀を治めることは特に長けていた。しかし性質は吝嗇で利を好み、頗る上から軽んじられたという。
楊伯通
尼厖古鑑
賛に曰く、移剌履は従容として進説し、信は君に孚き、経は純なり伝は駁なりを論じるに至り、孝行を以て治の本と為すは、古人の遺学を得たるか。昔、臧孫達が魯に忠諫し、君子はその後有るを知り、信ずるかな。張万公は正を引き己を守り、質言にして華なし。壕を開き地を括するの議、利害を明灼にし、掌を指すが如し。群説に閉ざされて用いられず、致仕して帰るは、理勢然り。蒲察通の海陵を哭するは、君臣の大義、死生を一にし、その志烈し。程輝・斡特剌の鯁直、劉瑋・董師中の通敏、才は皆以て発聞するに足る。然れども師中には胥に附するの譏あり、劉瑋には事を避くるの責を見る。その前人を視るに、多く愧ずる者有り。王蔚・馬惠迪の徒は、何ぞ算うるに足らんや。