金史

列傳第三十二: 夾谷清臣 襄 夾谷衡 完顏安國 瑤里孛迭

夾谷清臣

夾谷清臣は、本名を阿不沙といい、胡里改路桓篤の人である。姿形は雄偉で、騎射に長じていた。皇統八年、祖父の駁達の猛安を襲封した。大定元年、世宗の即位を聞き、本部の軍六千を率いて中都に赴き会し、功により昭武大将軍に遷った。右副元帥の紇石烈志寧に従い管押万戸となり、左都監の完顔思敬を接応し、窩斡の余党を逐い、柔遠でこれを破り、抹抜里達に至って悉くこれを捕獲した。賊が平定されると、鎮国上将軍に遷り、潁順軍事を知った。時に宋兵二万が汝州を襲撃して陥落させ、刺史の烏古孫麻発及び漢軍二千を殺した。河南統軍の宗尹が万戸の孛術魯定方に清臣らと共に騎兵四千を率いてこれを撃ちに行かせた。宋人は城を棄てて遁走し、遂に汝州を回復した。三年五月、志寧に従い宿州を再び奪取し、宋将の李世輔は大敗して遁走し、志寧はまた清臣らに兵を率いて追襲させ、さらにこれを破った。捷報が聞こえ、宿州防禦使を授けられた。博州に移り、西北路招討都監に改められ、烏古十壘部族節度使に遷った。十二年、右副都点検を授かり、左副都点検に遷り、出て陝西路統軍使となり、京兆府事を兼ね知った。朝辞の際、金帯と廄馬を賜り、なお諭して言われた、「卿は禁兵を統べ、日ごとに左右に侍し、勤労久しい。故にこれを以て卿に授く。宜しく益々思慮を勉めよ」。二十六年、西京留守に改められた。三年を経て、枢密副使に遷った。明昌元年、初めて出師を議し、本職を以て東北路兵馬都統制使を充てたが、既にして詔してこれを止めた。間もなくその女を昭儀とし、眷倚益々重くなった。二年、尚書左丞を拝した。間もなく、平章政事に進み、芮国公に封ぜられ、同本朝人の賜を受けた。四年、右丞相に遷り、国史を監修した。

時に軍を徴発して辺境を戍守することを議し、上は問われた、「漢人と夏人とはどちらが勇か」。清臣は言った、「漢人が勇です」。上は言われた、「昔、元昊が辺境を擾乱したが、宋は終にこれを制することができなかった。それは何故か」。清臣は言った、「宋の軍法の統御は知る由もありませんが、今の西南路の人は彼らよりもはるかに勝っています」。間もなく、崇進に遷り、戴に改封された。ある日、上は宰臣に言われた、「人が『八陣図』を持って来て上進したが、その図は果たしてどのようなものか。朕はかつて宋白の集めた『武経』を観たが、その載せる攻守の法も多くは実行し難い」。清臣は言った、「兵書は皆定法であり、応変には難しい。本朝の行兵の術は、ただ正奇の二軍を用い、敵に臨んで変を制し、正を以て奇と為し、奇を以て正と為す。故に往くところ克たざるはありません」。上は言われた、「古より用兵もまた奇正の二法を出でず。且つ古の兵法を学ぶは囲碁を学ぶが如く、未だ自ら心に得ずして、旧い陣勢を用いて敵に接せんと欲するは、また疎かなり」。

間もなく上表して閑職を請うたが、許されなかった。固く請うたので、告を与えて省親させ、諭して言われた、「卿の母が老いていると聞く。帰省させたいと思う。故に特に五十日の暇を与え、馳駅して往き、彼方では一月留まるがよい」。五年二月、上は凝和殿に御し、清臣が省覲から還り、上に謁した。上は問われた、「卿の母は健在か。その寿は幾何か。別れて幾年になるか」。清臣は答えて言った、「臣の母は年八十三で、別れて十年になります。幸いに頗る強健です」。上は言われた、「何故ここに来ないのか」。言った、「家務に急なため、故に離れたくないのです」。上は言われた、「老人は多くこのようである。所謂『血気既に衰えれば、戒むるは得に在り』である」。また清臣に言われた、「胡里改路の風俗はどうか」。答えて言った、「旧に比べれば少しは礼儀を知るようになりましたが、勇勁は及びません」。因みに西南、西北等路の軍人のことを言い、その弓矢に閑習することもまた昔のようではないと。

六年、儀同三司に遷り、左丞相に進拝し、密に改封された。命を受けて出師し、臨潢府において行尚書省事を行った。清臣は人を遣わして虚実を偵知させ、軽騎八千を以て、宣徽使の移剌敏を都統とし、左衛将軍の充、招討使の完顔安国を左右翼とし、前隊を分領させ、自ら精兵一万を選んで後隊に当たらせた。進んで合勒河に至り、前隊の敏らは栲栳濼において十四の営を攻め、これを下し、戻って大軍を迎えたが、属部が斜めに出てその獲た羊馬資物を掩い取って帰った。清臣は人を遣わしてその賠償を責めさせたので、北阻珝はこれにより叛き去り、大いに侵掠した。上は清臣を遣責し、右丞相の襄に代わらせた。承安五年、横海軍節度使兼滄州管内観察使に降授された。

初め、上は宰臣に諭された、「清臣は旧く功労があり、罪状は甚だ明らかでない。もし降授するならば、応に致仕を告げるべきであろう」。初め広寧府知事に擬したが、上は言われた、「暫く滄州を与えよ」。既にしてまた言われた、「与えるならば与えるが、ただ人が言うことを恐れるのみ」。間もなくまた致仕した。泰和二年に薨じ、年七十。子の麼査剌が猛安を襲封した。初め征討を議した時、清臣がその事を主とし、既にして軍を率いて出征し、屡々捷を獲たが、小利に貪り、遂に北辺を数年にわたり不寧に致したので、天下はこれを咎めた。

内族 襄

丞相の襄は、本名を唵といい、昭祖の五世の孫である。祖父の什古乃は太祖に従い遼を平らげ、功により上京世襲猛安を授かり、東京留守を歴任した。父の阿魯帯は、皇統初年に北伐して功があり、参知政事を拝した。襄は幼くして志節有り、騎射に長じ、勇略多く、年十八で世爵を襲封した。大定初年、契丹が叛き、左副元帥の謀衍に従い本部の兵を以て賊を討ち、肇州の長濼において戦った。襄は先んじて登り激しく撃ち、足に流矢を中てたが、創を裹いて戦い、気は愈々奮い、七戦皆勝った。謀衍はその手を握って言った、「今日の捷は、皆公の力である」。賊は走って霿𩃭河を渡り、これを追い及んだ。駐地は草が多く、賊は風に乗じて火を放ったが、襄もまた火を放ち、空き地に立って待った。十余合戦い、賊は益々困窮した。襄は謀衍に言った、「今この機に乗じて平らげ殄滅しなければ、後で悔いることになるでしょう」。謀衍はこれを然りとした。襄は衆を率いて搏ち戦った。大いにこれを破り、俘獲は万を数えた。時に朝廷が平章政事の僕散忠義を遣わして謀衍に代わって将とし、襄はまた忠義に従い賊を嫋嶺西の陷泉まで追い、及び、右翼を率いて身先して奮撃し、賊は大いに潰え、人馬相蹂みて死に、陷泉はほとんど平らかになった。賊首の窩斡は僅かに数十騎と共に遁走し、卒に就擒し、功を論じて第一となった。有司は淄州刺史に擬したが、詔して特に亳州防禦使を授け、時に年二十三であった。

宋人が南辺を侵犯し、襄は潁・寿都統となり、甲士二千人を率いて潁水を渡り、敵兵五千を破り、潁州を回復し、宋の帥楊思を生け捕りにした。次いで濠州に至り、宋の将郭太尉が横澗山に退いて守りを固めたので、襄はこれを攻め、伏弩がその膝に当たり、攻撃を督してますます急にし、これを陥落させ、郭太尉を捕らえた。やがて滁州に向かい、襄は先鋒となり、清流関に至らんとした時、宋の偵察者を捕らえ、敵が三路より夜に出撃し、我が不備を襲おうとしていることを知った。左副元帥の紇石烈志寧が策を問うた。襄は言った、「今兵は少なく地は狭し、もし関を取らねば、敵が至れば我が拠る所なく、必ず先ずこれを取るべし」と。志寧が言った、「我と汝と孰れか往かん」と。襄は言った、「元帥は国家の大臣なり、豈に軽々しく動くべきや。襄が公のために往きて取るべし」と。志寧はこれを是とした。襄は騎兵二千を率い、二道に分かれ、一は沖路より、自らは千兵を以て間道より潜かに登った。既に近づき、敵は初めて気づいた。襄はこれを攻め落とし、その関を占拠した。志寧が戦場を踏み巡り、顧みて言った、「敵を勝つべからざる地に克つとは、真に天下の英傑なり」と。やがて宋が盟を乞うと、軍を返し、召されて拱衛直都指揮使となり、殿前右衛将軍に改め、左衛に転じ、出て東北路招討都監となり、速頻路節度使に遷り、曷懶路兵馬都総管に移った。

左丞相の志寧が病篤く、世宗が臨んで問うと、志寧は襄を推薦して「智勇兼ね備え、経世の才あり、他人は及ばず、他日に任用すれば、おそらく臣に勝るであろう」と言った。即ち召して殿前左副都点検を授けた。宋の生日使となり、宋が親しく国書を受け取ることを免れようと祈願していた時、襄が至ると、宋人はたびたび来て協議したが、皆これを論破し、ついに礼を成して還った。陝西路統軍使を授け、尚服・厩馬・鞍勒・佩刀を賜った。河南統軍使に改めた。

入朝して吏部尚書となり、都点検に転じ、銭千万を賜った。世宗が宰執に言った、「襄は人となり甚だ蘊藉あり、直日に非ずとも、亦た宮中に入り諸事を規画し、事に付すべき所あって乃ち退く。その公勤この如し。襄の才の如きは豈に多く得んや」と。御史大夫に抜擢した。一月余りして、尚書右丞を拝し、これを諭して言った、「卿は河南において辺事を経制し、甚だ統紀あり、及び吏部に在りては、点検に至り、特に公を奉じ法を守り、朕は甚だこれを嘉す。近く憲台を長じ、亦た剛直を以て聞こえ、是を用いて機政を委ぬ。その益々勉めよ」と。間もなく、左丞に進んで拝した。襄は外任に在りて、治績に異なる効果あり、ここに至り朝廷は廉吏を褒賞することを以て天下に詔し、その名を列ねて以て奨励を示した。二十三年、平章政事に進んで拝し、蕭国公に封ぜられた。

世宗は金源郡王を世嫡の皇孫として、王爵を加えんとし、国号を選ぶよう詔した。襄は言った、「天下の大計を為すには、必ず先ずその本を正すべし。原は本なり。原と封ずることを請う」と。これに従った。故事により、諸部族の節度使及びその僚属は多く颭人を用いたが、頗る私に法を縦にする者あり、議して諸色人に改めようとした。襄は言った、「北辺は事無きも、常にこれを経略すべし。若しこの門を杜てば、その後功績あらば、何を以てこれを処せん。旧の如くにすることを請う」と。他日、古に監軍の事有りと議及した。襄は言った、「漢・唐は初め監軍無く、将は専任を得た故に、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず克った。及び末世に至り始めて内臣を以てその軍を監し、動もすればこれに制せられ、故に多く敗れて功少なし。若し将にその人を得ば、監軍は誠に置く必ずしも要せず」と。併せて嘉納された。詔して北部の進貢を受けさせた。使い還り、世宗が辺事を問うと、図を具えて進め、因って属部を羈縻し、大石を鎮服する策を上奏し、詔して悉くこれを行わせた。右丞相に進んで拝し、戴に徙封された。

世宗が不となり、太尉の徒単克寧・平章政事の張汝霖と内殿に宿直し、共に顧命を受けた。章宗が初めて政を即くや、僧道の奴婢を罷めんと議した。太尉の克寧が奏して言った、「これは成俗日久しく、若し急にこれを改めば、人情に不安なり。陛下若しその数多きを悪むならば、宜しく格法を厳しく立て、濫度を防ぐべし。然らば自ずから少なからん」と。襄は言った、「出家の人、何ぞ僕隸を用いん。初め如何にして得たるかを問わず、悉く放ちて良と為すことを乞う。若し寺観の物力元より奴婢の数より推定する者は、併せて除免すべし」と。詔して襄の言に従った。これにより二税戸多く良と為る者あり。

明昌元年、同知棣州防禦使の鸊が封事を上り、歴々に宰執を誹謗した。太傅の克寧が奏し、膏の言う所は襄が予め知っていたと。ここにおいて詔して鸊を本猛安に還し、而して襄は出でて平陽府事を知った。鳳翔を知るに移り、西京留守を歴任し、召されて同判大睦親府事を授かり、枢密使に進み、再び右丞相を拝し、任に改封された。時に左丞相の夾谷清臣が北辺を防禦したが、措画方に乖き、辺事急なるに属し、命じて襄に代わってその衆を将せしめ、金牌を佩び、便宜に事を行わせた。臨んで宴を以て慰め遣わし、貂裘・鞍山・細鎧及び戦馬二頭を賜った。時に胡里颭も亦た叛き、北京・臨潢の間に嘯聚した。襄が至ると、人を遣わしてこれを招くと、即ち降り、遂に臨潢に屯した。間もなく、大塩濼に出師し、また右衛将軍の完顔充を遣わして進軍し斡魯速城に至らしめ、屯守せんと欲し、隙を俟って進兵せんとした。図を描いて以て聞かせると、議者異同あり、即ち召して面論し、厚く賜りて遣還した。

間もなく、西北路招討使の完顔安国等を遣わして多泉子に向かわせた。密詔して進討せしめ、乃ち支軍をして東道より出でしめ、襄は西道より出でた。而して東軍は龍駒河に至りて阻珝に囲まれ、三日出でず、救援を求めて甚だ急なり。或いは諸軍集まるを俟って乃ち発すべしと請うた。襄は言った、「我が軍は数日囲まれ、馳せて救うも猶お及ばざるを恐る。豈に時を後にするべけんや」と。即ち鼓を鳴らして夜発した。或いは先ず人を遣わして囲みの中に報ぜしめ、援の至るを知らしむべしと請うた。襄は言った、「遣わす所の者、もし敵に得られ、我が兵寡くして糧の後にあることを知らしめば、則ち吾が事敗るるなり」と。乃ち益々疾く馳せた。夜明け近く、敵に近づき、衆は少しく憩わんことを請うた。襄は言った、「吾が夜を乗じて疾く馳する所以は、その不備を掩わんと欲するのみ。緩なれば及ばず」と。夜明け方に敵に圧し、突撃すると、囲み中の将士も亦た鼓噪して出で、大戦し、輿帳牛羊を獲た。衆は皆奔って斡里劄河に至った。安国を遣わしてこれを追蹑せしめた。衆は散走し、会して大雨、凍死者十に八九、その部長を降し、遂に勲を九峰の石壁に勒した。捷報聞こえ、上は使いを遣わして厚く賜り以てこれを労い、別に詔して士卒を便宜に賞賚することを許した。九月、闕に赴き、左丞相を拝し、国史を監修し、常山郡王に封ぜられた。慶和殿に宴し、上親しく酒を挙げて飲ませ、服する所の玉具の佩刀を解いて賜い、即ちこれを服せしめた。

十月、阻珝が再び叛き、襄は出でて北京に屯し、会して群牧の契丹の徳寿・陀鎖等が信州を占拠して叛き、偽りに建元して身聖と曰い、衆号数十万、遠近震駭した。襄は暇あること平日の如く、人心乃ち安んじた。初め、襄の出鎮するや、石門鎮に至り、密かに僚属に謂って言った、「北部の塞を犯すは何ぞ慮るに足らん。ただ奸人の隙に乗じて動くを恐る。北京は近地にして軍少なし、当に予めこれが備えを為すべし」と。即ち官を遣わして上京等の軍六千を発し、ここに至り果たしてその用を得た。臨潢総管の烏古論道遠・咸平総管の蒲察守純が分道進討し、徳寿等を擒えて京師に送った。

契丹の乱の際、廷臣は郊祀を中止するよう議し、また正月上辛の日に改めて行うことを望んだ。上(章宗)は使者を遣わして(完顔襄に)問うたところ、対して言うには、「郊祀は重礼であり、かつ事前に天下に詔を下し、また藩国も既に表を奉り賀している。今もし中途で中止すれば、どうして四方の傾望の意に副えようか。もし正月上辛に改め用いるならば、それは祈穀の礼であって、郊祀して上帝に見える本来の意味ではない。大礼は軽々しく廃すべからず、敢行することを請う。臣は祀りの前に賊を滅することを乞う」と。やがて賊は破られ、果たしてその予測の通りとなった。郊礼が成就し、南陽郡王に進封された。契丹討伐を始めるに当たり、龍虎衛上將軍・節度使以下は承制により授けることを許されたが、襄は賞罰の権柄は人臣の預かる所ではないと考え、詔を奉じることを敢えてしなかった。賊が平定されると、近臣に委ねて将士に旨を諭し、上(皇帝)の恩を知らしめるよう請うた。そこで李仁惠を遣わし、宣三十通、勅百五十通を持たせ、功績に応じて与えさせた。

方徳寿が叛いた時、諸乣もまた略奪して民の患いとなっていた。襄は彼らが方徳寿と合流することを慮り、諸乣を近京の地に移住させ、慰撫した。ある者が言うには、「乣人は北の習俗と異ならず、今内地に置けば、あるいは変を生ずるかもしれない。どうするか」と。襄は笑って言うには、「乣は雑類とはいえ、我が辺民である。もし恩をもって撫すれば、どうして感ずることなからんや。我ここに在れば、必ず敢えて動くことはない」と。後、果たして患いはなかった。まもなく詔して参知政事の裔に代わってその軍を統領させた。入朝して謁見し、銭五千万を賜った。翌年、母の喪により免ぜられたが、翌日には起復して視事した。時に議して、契丹戸の驅奴がなお多く、これを尽く売り払ってその党を散ぜんことを乞うたが、襄は不便であると考え、口数を量り存し、余は官が贖って良民とするよう奏請した。上はこれを容れられた。

北部が再び叛くと、裔は戦いに軍律を失い、再び襄を左副元帥として師に臨ませ、まもなく枢密使兼平章政事に拝し、北京に屯した。民が食糧に苦しんでいたので、倉粟を減価して出糶し、これを救済した。ある者が兵糧がまさに欠乏していると述べたが、襄は言うには、「民が足りて兵が足りないことがあろうか(あろうはずがない)」と。ついにこれを行い、民は皆喜んで服した。時に北討を議し、襄は同判大睦親府事の宗浩を泰州に出軍させ、また左丞の衡を撫州に行枢密院させ、西北路に出軍して阻珝を邀え撃たせ、自らは兵を率いて臨潢より出るよう奏した。上はその策に従い、内庫の物を賜って即時に軍中用いさせた。その後、斜出部族が撫州に詣でて降ったので、上は専使を遣わして襄に問うたところ、襄はこれを受けるのが便であると考えた。宝剣を賜い、詔して宜しく窮討すべきことを度らせた。そこで兵士に自ら糧食を携行させて輸送を省かせ、沔移剌烈・烏満掃などの山に進んで屯し、これに迫った。これにより歩卒を用いて壕を穿ち障を築き、臨潢左界から北京路に起して阻塞とすることに就いて用いるよう請うた。言う者多く異同があったので、詔して方略を問うた。襄は言うには、「今次の費用は百万貫であろうが、功一成れば則ち辺防固くして戍兵を半減でき、歳に三百万貫を省き、かつ民の転輸の力を寛げ、実に永利である」と。詔して可とした。襄は自ら督視し、軍民併せて役し、また飢民を募って傭役に就かせ、五十日で完了した。ここにおいて西北・西南路もまた塞を治め、請うた通りとした。まもなく、泰州軍が敵と接戦し、宗浩がその後を督して、殺獲過半に及び、諸部相率いで款を送り、襄はこれを受け入れた。ここより北陲は遂に定まった。

襄は臨潢に還り、屯兵四万・馬二万匹を減じた。上は信符をもって召還し、近臣を遣わして途上で迎え労った。既に至ると、また邸で撫問し、辺機十事を献上した。皆施行され、なお厚く賜い、再び左丞相に拝した。初め、襄が軍中より至った時、上は宰臣に諭して言うには、「枢密使の襄は辺堡を築き立てて完固にした。古来一城一邑を立てるにも尚お賞賚あり。即ち三公に拝せんと欲するが、三公は賞功の官ではない。左丞相もまた賞功者ではないが、然りといえども特授すべし」と。左司郎中の阿勒根阿海を遣わし詔を降して褒諭させた。四年正月、司空しくうに進拝し、左丞相を領するは従前の通りとした。

襄は重厚寡言で、鎮静して法を守ることを務めた。毎に掾が何かを稟する時、必ず問うて言うには、「諸相は何と云うか」と。掾が某相はかくの如し、某相はかくの如しと答えると、襄は言うには、「某の議に従え」と。その事に異なることは無かった。識者は襄が誠に相たる体を得ていると謂った。時に上は頗る制度を更定し、初めて提刑司を置き、また宋朝の宮観使のような清閑な職位を設け、年高くして致仕した官を待つことを議した。襄は言うには、「年老いて致仕する者は、朝廷が俸廩をもって養い、恩礼至って厚い。老いて退かず、また省會の法あり、これをもって貪冒を抑え、廉節を長ずるのである。もし別に設けんと擬するならば、濫に渉る恐れがある」と。また言うには、「事を省くは官を省くに如かず。今の提刑官吏は、多く治に益なく、徒らに有司の事を乱すのみである。議者はこれが外台であるから、罷めるべからずと謂う。臣は混淆の辞が徒らに聖聴を煩わすことを恐れる。かつ憲台の掌る所は官吏の非違を察し、下民の冤枉を正すのであって、提点刑獄・挙薦の権も無い。もし既に設けて急に改め難ければ、その廉能を採訪するのは本司に隷すべからず、監察御史に歳終に体究させ、なお時を選ばず官を廉訪すべし」と。上は皆聴き容れられた。俄かに致仕を乞うたが、許されなかった。

時に旱魃であったので、有司に命じて雨を祈らせた。襄及び平章政事の張万公・参政の僕散揆らは上表して罪に待った。上は翰林学士の党懐英を召して罪己の詔を草させ、なお襄らを慰諭して視事させた。泰和元年春、命を承けて馳せ往き亳州太清宮及び後土方嶽に禱った。その世封が遠いため、特に関河間府路算術海猛安に改授した。明年、皇子が生まれると、襄はまた自ら報謝を請うた。嵩嶽を祀り終え、還って芝田の府店に次いだところ、遂に疾により薨じ、年六十三。訃報を聞き、朝を輟み、使者を遣わして路において祭らせ、葬礼は太師淄王の克寧に依った。諡して武昭と言う。張行簡に命じてその碑を銘させた。

襄は明敏で、才武人に過ぎ、上は親しく厚く待ったので、至る所功があった。その臨潢に駐軍した時、偽書を西京留守の徒単鎰に遺し、罪を構えようとする者があった。書が聞こえると、上はその書を還して襄に与え、その明信この如くであった。やがて果たして偽書を作った者を獲た。政府に在ること二十年、故事に明練で、簡重能断、器局特に寛大であり、掾吏を礼を尽くして待ち、人を用いるに各々その長所を得させ、当世の名将相となった。大安年間、章宗廟廷に配享された。

夾谷衡

夾谷衡、本名は阿里不、山東西路三土猛安益打把謀克の人である。大定十三年、女直進士挙を創設し、衡は第四人に中り、東平府教授に補された。范陽主簿に調じ、選ばれて国史院編修官に充てられ、応奉翰林文字に改まった。世宗は嘗て宰臣に謂って言うには、「女直進士の中の才傑の士は蓋しまた得難く、徒単鎰・夾谷衡・尼龐古鑒の如きは、皆有用の材である」と。修起居注に遷った。章宗が立つと、侍御史となり、右司員外郎に転じ、敷奏が旨に称し、左司郎中に昇った。明昌二年、御史中丞に擢でられ、未だ幾ばくもなく、参知政事に拝された。三年八月、病により、表して致仕を乞うたが、詔して慰撫し許さなかった。

衡が長らく休暇を取っていたが、詔を承けて初めて出仕した。上(章宗)はその痩せ衰えた様子を見て、さらに一か月の休暇を賜った。四年、詔して今の名(衡)を賜り、これを諭して言うには、「朕は大臣を選び、機務に参与させ、必ずや謀画をり、治平を協賛せしめんとする。もし得失がくらくして未だあらわれず、利害が膠着して未だ決せざる場合、正に識見純直なるをもちいて、初めて去取を公に合わすことが出来る。近頃議事の臣は、一定の論あることすくなし。これは内に守る所なきを以て、故に事に臨んで惑い、あたるも失するもあり、致す所あり。朕は何をかたのみとせん。卿は忠実公方にして、その是なるをつまびらかにすれば執してかえらず、その非なるを見れば去りてだす。その事勢をはかるは、権衡はかりごとき有り。汝の長ずる所は、はかり実にこれに似たり。今の名(衡)を賜うべし。いにしえは名を命ずるに、まさに実を責めんとす。汝は先ず実有り、名にかなうと謂うべし。これを行いて終わりをくすれば、乃ち朕が意にわん」と。

参知政事胥持国が区種法を言上した。衡は言うには、「もし仮に利あらば、古既に行われた。しかも用いる功多くして種く所少なく、また土田を荒廃せしむるを恐れ、民をいたずらに労し、益無きなり」と。尚書右丞に進む。旧制では、久しく随朝の職任をた者は、江表(江南)への奉使を得る。衡は未だ使わずして執政に拝されたため、特に銭六千貫を賜った。六年、尚書左丞に遷り、まもなく撫州に行省を出でる。帰還して朝に入り、父の憂(喪)を聞き去ったが、上は急ぎ召し還し、本職に起復させた。承安二年、上京留守に出で、まもなく枢密副使に改め、行院として辺事を規画した。三年、封界を修完した功により、詔を賜り褒め諭された。四年正月、そのまま平章政事に拝され、英国公に封ぜられた。薨去、年五十一。上はこれを聞きてあわれみ、朝をめ、官を命じて祭らせ、賻贈を加えた。使者を遣わして葬儀をさせ、諡して貞献と言う。

完顔安国

完顔安国、字は正臣、本名は闍母。その先祖は上京に籍を占め、代々戦功有り。祖父の斜婆は、西南路世襲合劄謀克を授けられた。安国は沈雄にして謀画有り、特に騎射を善くした。正隆元年、軍に従って謀克となり、常に少をもって衆を撃った。大定年間、常山の主簿となり、虹県令に転ず。時に王府が新たに建てられ、選ばれて虞王府の掾に充てられた。再び遷って儀鸞局副使となる。明昌元年、本局使に改める。時に大石部の長に歳貢を修めんことを乞う者あり、朝廷はその請いを許し、詔して安国を往かせてこれを使わしめた。至れば則ち衆を率いて遠くまで迎えに出て帳に至り、闕(宮廷)を望んで羅列して拝礼し、礼を執るに怠惰なすがた無し。

時に北阻珝(ブズク?)が塞垣に迫近し、隣部は功を立てて上国にすぐれんことを誇らんと欲し、議して安国をむかえ共に行ってこれを討たんとした。安国は未だ詔を奉ぜざるを以て辞とした。強いても、がえんぜず。或いは危言を以てこれをおどしたが、安国は言うには、「大丈夫たる者、豈に生死を以て節を易えんや。辺庭に骨をさらすは、病んで牖下(窓の下)に死するにまさらざらんや」と。衆はその言を壮とし、餞別の礼の如く贈り物をした。既に還り、奉使として旨に称うを以て、武衛軍都指揮使に昇る。東北路副招討に出で、未だ赴かず、西北路副招討に改める。

六年、左丞相夾谷清臣が兵を用いるに当たり、安国を先鋒都統とした。時に臨潢・泰州の属部が叛き、安国は先ずこれを討定し、功により本路招討使に遷り、威遠軍節度使を兼ねた。承安元年、大塩濼の戦いで、殺獲甚だ衆く、詔して金幣を賜う。既にして右丞相襄が大軍を総べて進み、安国は両路都統となり、多泉子において大捷した。襄は安国に敵を追撃させたが、皆が言うには糧道続かず、行くべからずと。安国は言うには、「人一頭の羊を得れば十余日食うべし、羊を駆ってこれを襲うに如かず」と。遂にその計に従う。安国は統べる所の部一万人を疾駆して以てこれに迫り、その部長を降した。捷報聞こえ、官四級を進め、左翼都統に遷る。

承安二年、辺堡を営む功により、召されて枢密院事をけんす。虎符を賜って辺に還り、便宜従事を得る。時に塞に並ぶ諸部が降り、初めの如く貢をおさめるよう諭した。枢密副使に進み拝される。泰和元年、ことに世襲西南路延晏河猛安を授けられ、合劄謀克を兼ねる。帝が慶寧宮に幸し、安国に辺備を厳しくととのえるよう命じた。西南路の辺戍でひそかに逃げる者を招き誘い以て人心を安んぜんことを乞うと奏上し、上はその言を是とした。三年、疾を以て致仕し、道国公に封ぜられる。四年、前職に起復し、卒す。上はこれを聞き、朝を輟む。有司に勅して執政の礼を以て葬らしむ。特進を贈られる。

安国は軍旅に在ること凡そ十五年、号令厳明にして、卒伍を指麾するは左右の手の如し。又善く敵人の虚実及び山川の険易を伺い知り、戦えば必ず士卒に身先し、故に向かう所輒すなわち克つ。諸部が入貢するに、安国は能く一一その祖先・弟・姪の名を呼び以て戒め諭す。諸部皆震悚し、甚だ隣国に畏服せられた。

瑤里孛迭

瑤里孛迭は、北京路窟白猛安陀羅山謀克の人なり。軍功を以て海浜令を歴り、徐王府掾に遷る。職に称うを以て、再び御史台に任ず。廉を察せられ、同知震武軍節度使事に昇る。明昌初め、唐州刺史となり、まもなく西北路招討副使を授かる。未だ幾ばくもせず、東北路に改める。六年正月、北辺に警有り、兵を聚めて慶州を急に囲む。孛迭は本路軍を率いて往き救い、敵解き去り、州遂に患無し。承安元年、丞相襄が北伐し、孛迭は先鋒副統となり、進軍して龍駒河に至り、囲まれる。時に襄が大軍を引いて至り、解くことを得たり。後に鎮寧軍節度使を授かり、六群牧の人が叛くを以て、寧昌軍に改める。孛迭は都統となり、歩騎一万を領して懿州にやどる。敵数万来たり逆戦す。兵勢甚だ張り、孛迭親しく陣に陷り、奮力鏖撃してこれを却け、身に二創を受く。捷報聞こえ、一官を遷す。承安二年、颭軍千余が出没し錦・懿の間を剽掠す。孛迭は追撃してこれを敗り、また掠められた所を獲て、悉く本戸に還す。三年、同判大睦親府事宗浩に従って左翼都統となり、移密河に戦い勝つ。骨堡子の西に戦い、殺獲甚だ衆し。五年、知広寧府事を授かり、まもなく東北路招討使に改める。辺をふせぐ功有り、詔を賜り褒め諭され、三遷して崇義軍節度使となる。泰和六年、卒す。訃報聞こえ、官を遣わして祭らせ、銀五百両を賜い、金紫光禄大夫を贈られる。

孛迭は勇決善戦し、幼少より軍功を以て顕れ、兵鎮に任ずること十余年、向かう所克捷し、凡そ再び官を遷り、金幣を賜い、甚だ上に倚注せられたという。

賛に曰く、《易経》師卦の初六爻に「師出ずるに律を以てす、否臧ひそうなれば凶なり」と。蓋し初めは師の始め、師を出すの道は、その始めを慎むべし。清臣は首めて師を出すを議し、にわかに小利を貪るを以て敗る。襄は賢なりと雖も、力をつくして後にその任に勝つ。衡・安国・孛迭の功はまた襄にぐ者なり。然れども兵連ね禍結び、以て金の世を終わらしむ。故に兵に常勝無く、勝を制するは勢に在り。勢を以て兵を制する者は強く、兵を以て勢を制する者は亡ぶ。襄が壕塁を開き築き以て自ら固むる跡は、その元魏・北斉の長城か。金の勢は知るべし。勢屈して兵勝つは、国を亡ぼすの道なり。金は兵を以て始まり、また兵を以て終わる。嗚呼、兵を用いるの始め、慎まざるべけんや、慎まざるべけんや。