金史

列傳第三十二: 夾谷清臣 襄 夾谷衡 完顏安國 瑤里孛迭

列傳第三十二: 夾谷清臣 襄 夾谷衡 完顏安國 瑤里孛迭

夾谷清臣

原文夾谷清臣

夾谷清臣は、本名を阿不沙といい、胡里改路桓篤の人である。姿形あらわは雄すぐ偉で、騎射に長じていた。皇統八年、祖父の駁達の猛安もうあんを襲封した。大定元年、世宗の即位を聞き、本部の軍六千を率いて中あた都に赴き会し、功により昭武大将まさ軍に遷った。右副そ元帥の紇石烈志寧に従い管押万戸となり、左都監の完顔かんがん思敬を接応し、窩斡の余党を逐い、柔遠でこれを破り、抹抜里達に至って悉くこれを捕獲した。賊が平定されると、鎮国上将軍に遷り、潁順軍事を知った。時に宋兵二万が汝州を襲撃して陥落させ、刺史の烏古いにしえ孫麻発及び漢軍二千を殺した。河南統軍の宗尹が万戸の孛術魯定方に清臣らと共に騎兵四千を率いてこれを撃ちに行かせた。宋人は城を棄てて遁走し、遂に汝州を回かえ復した。三年五月、志寧に従い宿州を再び奪取し、宋将の李世輔は大敗して遁走し、志寧はまた清臣らに兵を率いて追襲させ、さらにこれを破った。捷報が聞こえ、宿州防禦使を授けられた。博州に移り、西北路招討都監に改められ、烏古十壘部族節度はか使に遷った。十二年、右副都点検を授かり、左副都点検に遷り、出て陝西路統軍使となり、京兆府事を兼ね知った。朝辞の際、金帯と廄馬を賜り、なお諭して言われた、「卿は禁兵を統べ、日ごとに左右に侍し、勤労久しい。故にこれを以て卿に授く。宜しく益々思慮を勉めよ」。二十六年、西京留守に改められた。三年を経て、枢密副使に遷った。明昌元年、初めて出師を議し、本職を以て東北路兵馬都統制使を充てたが、既にして詔してこれを止めた。間もなくその女を昭儀とし、眷倚益々重くなった。二年、尚書左丞を拝した。間もなく、平章政事に進み、芮国公に封ぜられ、同本朝人の賜を受けた。四年、右丞相に遷り、国史を監修した。

原文夾谷清臣,本名阿不沙,胡里改路桓篤人也。姿狀雄偉,善騎射。皇統八年,襲祖駁達猛安。大定元年,聞世宗即位,率本部軍六千赴中都會之,以功遷昭武大將軍。從右副元帥紇石烈志甯為管押萬戶,接應左都監完顏思敬,逐窩斡餘黨,敗之柔遠,至抹拔里達悉獲之。賊平,遷鎮國上將軍,知潁順軍事。會宋兵二萬襲陷汝州,殺刺史烏古孫麻發及漢軍二千。河南統軍宗尹遣萬戶孛術魯定方與清臣等領騎兵四千往擊之。宋人棄城遁,遂複汝州。三年五月,從志寧複取宿州,宋將李世輔大敗遁去,志寧複遣清臣等以兵追襲,又敗之。捷聞,授宿州防禦使。移博州,改西北路招討都監,遷烏古十壘部族節度使。十二年,授右副都點檢,遷左副都點檢,出為陝西路統軍使,兼知京兆府事。朝辭,賜以金帶廄馬,仍諭之曰:「卿典禁兵,日侍左右,勤勞久矣,故以是授卿,宜益思勉。」二十六年,改西京留守。閱三歲,遷樞密副使。明昌元年,初議出師,以本職充東北路兵馬都統制使,既而詔止之。俄以其女為昭儀,眷倚益重。二年,拜尚書左丞。頃之,進平章政事,封芮國公,賜同本朝人。四年,遷右丞相,監修國史。

時に軍を徴発して辺境を戍守することを議し、上は問われた、「漢人と夏人とはどちらが勇か」。清臣は言った、「漢人が勇です」。上は言われた、「昔、元昊が辺境を擾乱したが、宋は終にこれを制することができなかった。それは何故か」。清臣は言った、「宋の軍法の統御は知る由もありませんが、今の西南路の人は彼らよりもはるかに勝っています」。間もなく、崇進に遷り、戴に改封された。ある日、上は宰臣に言われた、「人が『八陣図』を持って来て上進したが、その図は果はたしてどのようなものか。朕はかつて宋白の集めた『武経』を観たが、その載せる攻守の法も多くは実行し難い」。清臣は言った、「兵書は皆定法であり、応変には難しい。本朝の行兵の術は、ただ正奇の二軍を用い、敵に臨んで変を制し、正を以て奇と為し、奇を以て正と為す。故に往くところ克よたざるはありません」。上は言われた、「古より用兵もまた奇正の二法を出でず。且つ古の兵法を学ぶは囲碁を学ぶが如く、未だ自ら心に得ずして、旧い陣勢を用いて敵に接せんと欲するは、また疎かなり」。

原文時議簽軍戍邊,上問:「漢人與夏人孰勇?」清臣曰:「漢人勇。」上曰:「昔元昊擾邊,宋終不能制,何也?」清臣曰:「宋馭軍法不可得知,今西南路人殊勝彼也。」未幾,遷崇進,改封戴。一日,上謂宰臣曰:「人有以《八陣圖》來上者,其圖果何如?朕嘗觀宋白所集《武經》,然其載攻守之法亦多難行。」清臣曰:「兵書皆定法,難以應變。本朝行兵之術,惟用正奇二軍,臨敵制變,以正為奇,以奇為正,故無往不克。」上曰:「自古用兵亦不出奇正二法耳。且學古兵法如學弈棋,未能自得於心,而欲用舊陣勢以接敵,亦以疏矣。」

間もなく上表して閑職を請うたが、許されなかった。固く請うたので、告を与えて省親させ、諭して言われた、「卿の母が老いていると聞く。帰省させたいと思う。故に特ことに五十日の暇を与え、馳駅して往き、彼方では一月留まるがよい」。五年二月、上は凝和殿に御し、清臣が省覲から還り、上に謁した。上は問われた、「卿の母は健在か。その寿は幾何か。別れて幾年になるか」。清臣は答えて言った、「臣の母は年八十三で、別れて十年になります。幸いに頗る強健です」。上は言われた、「何故ここに来ないのか」。言った、「家務に急なため、故に離れたくないのです」。上は言われた、「老人は多くこのようである。所謂『血気既に衰えれば、戒むるは得に在り』である」。また清臣に言われた、「胡里改路の風俗はどうか」。答えて言った、「旧に比べれば少しは礼儀を知るようになりましたが、勇勁は及びません」。因みに西南、西北等路の軍人のことを言い、その弓矢に閑習することもまた昔のようではないと。

原文尋上表丐閑,不許。固請,乃賜告省親,諭之曰:「聞卿母老,欲令歸省,故特給假五十日,馳驛以往,至彼可為一月留也。」五年二月,上禦凝和殿,清臣省覲還,謁上。上問:「卿母健否?其壽幾何?相別幾年矣?」清臣對曰:「臣母年八十三矣,別十年,幸頗強健。」上曰:「何不來此?」曰:「急於家務,故不欲離耳。」上曰:「老人多如是,所謂'血氣既衰,戒之在得'也。」複謂清臣:「胡里改路風俗何如?」對曰:「視舊則稍知禮貌,而勇勁不及矣。」因言西南、西北等路軍人,其閑習弓矢,亦非複曩時。

六年、儀同三司に遷り、左丞相に進拝し、密に改封された。命を受けて出師し、臨潢府において行尚書省事を行った。清臣は人を遣わして虚実を偵知させ、軽騎八千を以て、宣徽使の移剌敏を都統とし、左衛将軍の充、招討使の完顔安国を左右翼とし、前隊を分領させ、自ら精兵一万を選んで後隊に当たらせた。進んで合勒河に至り、前隊の敏らは栲栳濼において十四の営を攻め、これを下し、戻って大軍を迎えたが、属部が斜めに出てその獲た羊馬資と物を掩い取って帰った。清臣は人を遣わしてその賠償を責めさせたので、北阻珝はこれにより叛き去り、大いに侵掠した。上は清臣を遣責し、右丞相の襄に代わらせた。承安五年、横海軍節度使兼滄州管内観察使に降授された。

原文六年,遷儀同三司,進拜左丞相,改封密。受命出師,行尚書省事於臨潢府。清臣遣人偵知虛實,以輕騎八千,令宣徽使移剌敏為都統,左衛將軍充、招討使完顏安國為左右翼,分領前隊,自選精兵一萬以當後隊。進至合勒河,前隊敏等於栲栳濼攻營十四,下之,回迎大軍,屬部斜出掩其所獲羊馬資物以歸。清臣遣人責其賧罰,北阻珝由此叛去,大侵掠。上遣責清臣,命右丞相襄代之。承安五年,降授橫海軍節度使兼滄州管內觀察使。

初め、上は宰臣に諭された、「清臣は旧く功労があり、罪状は甚だ明らかでない。もし降授するならば、応に致仕を告げるべきであろう」。初め広寧府知事に擬したが、上は言われた、「暫く滄州を与えよ」。既にしてまた言われた、「与えるならば与えるが、ただ人が言うことを恐れるのみ」。間もなくまた致仕した。泰和二年に薨じ、年七十。子の麼査剌が猛安を襲封した。初め征討を議した時、清臣がその事を主とし、既にして軍を率いて出征し、屡々捷を獲たが、小利に貪り、遂に北辺を数年にわたり不寧に致したので、天下はこれを咎めた。

原文初,上諭宰臣曰:「清臣舊有勞效,罪狀未甚明,若降授,應須告致仕耳。」初擬知廣寧府,上曰:「姑與滄州。」既而又曰:「與則與之,第恐有人言也。」尋複致仕。泰和二年薨,年七十。子麼查剌襲猛安。初議征討,清臣主其事,既而領軍出征,雖屢獲捷,而貪小利,遂致北邊不寧者數歲,天下尤之。

内族 襄

原文內族 襄

丞相の襄は、本名を唵といい、昭祖の五世の孫である。祖父の什古乃は太祖に従い遼を平らげ、功により上京世襲猛安を授かり、東京留守を歴へ任した。父の阿魯帯は、皇統初年に北伐して功があり、参知政事を拝した。襄は幼くして志節有り、騎射に長じ、勇略多く、年十八で世爵を襲封した。大定初年、契丹が叛き、左副元帥の謀衍に従い本部の兵を以て賊を討ち、肇州の長濼において戦った。襄は先んじて登り激しく撃ち、足に流矢を中てたが、創を裹いて戦い、気は愈まさ々奮い、七戦皆勝った。謀衍はその手を握って言った、「今日の捷は、皆公の力である」。賊は走って霿𩃭河を渡り、これを追い及んだ。駐地は草が多く、賊は風に乗じて火を放ったが、襄もまた火を放ち、空き地に立って待った。十余合戦い、賊は益々困窮した。襄は謀衍に言った、「今この機に乗じて平らげ殄滅しなければ、後で悔いることになるでしょう」。謀衍はこれを然りとした。襄は衆を率いて搏ち戦った。大いにこれを破り、俘獲は万を数えた。時に朝廷が平章政事の僕散忠義を遣わして謀衍に代わって将とし、襄はまた忠義に従い賊を嫋嶺西の陷泉まで追い、及び、右翼を率いて身先して奮撃し、賊は大いに潰え、人馬相蹂みて死に、陷泉はほとんど平らかになった。賊首の窩斡は僅かに数十騎と共に遁走し、卒に就擒し、功を論じて第一となった。有司は淄州刺史に擬したが、詔して特に亳州防禦使を授け、時に年二十三であった。

原文丞相襄,本名唵,昭祖五世孫也。祖什古乃從太祖平遼,以功授上京世襲猛安,曆東京留守。父阿魯帶,皇統初北伐有功,拜參知政事。襄幼有志節,善騎射,多勇略,年十八襲世爵。大定初,契丹叛,從左副元帥謀衍以本部兵討賊,戰於肇州之長濼。襄先登鏖擊,足中流矢,裹創以戰,氣愈厲,七戰皆勝。謀衍握其手曰:「今日之捷,皆公力也。」賊走渡霿𩃭河,追及之。所駐地多草,賊乘風縱火,襄亦縱火,立空地以俟。戰十餘合,賊益困。襄謂謀衍曰:「今不乘此平殄,後將有悔。」謀衍然之。襄率眾搏戰。大敗之,俘獲萬計。會朝廷遣平章政事僕散忠義代謀衍將,襄複從忠義追賊至嫋嶺西之陷泉,及之,率右翼身先奮擊,賊大潰,人馬相蹂而死,陷泉幾平。賊酉窩斡僅與數十騎遁去,卒就擒,論功為第一。有司擬淄州刺史,詔特授亳州防禦使,時年二十三。

宋人が南辺を侵犯し、襄は潁・寿都統となり、甲士こうし二千人を率いて潁水を渡り、敵兵五千を破り、潁州を回復し、宋の帥楊思を生け捕りにした。次やどいで濠州に至り、宋の将郭太尉が横澗山に退いて守りを固めたので、襄はこれを攻め、伏弩がその膝に当たり、攻撃を督してますます急にし、これを陥落させ、郭太尉を捕らえた。やがて滁州に向かい、襄は先鋒となり、清流関に至らんとした時、宋の偵察者を捕らえ、敵が三路より夜に出撃し、我が不備を襲おうとしていることを知った。左副元帥の紇石烈志寧が策を問うた。襄は言った、「今兵は少なく地は狭し、もし関を取らねば、敵が至れば我が拠る所なく、必ず先ずこれを取るべし」と。志寧が言った、「我と汝と孰れか往かん」と。襄は言った、「元帥は国家の大臣なり、豈に軽々しく動くべきや。襄が公のために往きて取るべし」と。志寧はこれを是とした。襄は騎兵二千を率い、二道に分かれ、一は沖路より、自らは千兵を以て間道より潜かに登った。既に近づき、敵は初めて気づいた。襄はこれを攻め落とし、その関を占拠した。志寧が戦場を踏み巡り、顧みて言った、「敵を勝つべからざる地に克つとは、真に天下の英傑なり」と。やがて宋が盟を乞うと、軍を返し、召されて拱衛直都指揮使となり、殿前右衛将軍に改め、左衛に転じ、出て東北路招討都監となり、速頻路節度使に遷り、曷懶路兵馬都総管に移った。

原文宋人犯南鄙,襄為潁、壽都統,率甲士二千人渡潁水,敗敵兵五千,複潁州,生擒宋帥楊思。次濠州,宋將郭太尉退保橫澗山,襄攻之,伏弩射中其膝,督攻愈急,拔之,獲郭太尉。既而趨滁州,襄為先鋒,將至清流關,得宋偵者,知敵欲三道夜出,掩我不備。左副元帥紇石烈志甯問計。襄曰:「今兵少地隘,儻不得關,敵至,我無所據,必先取之。」曰:「我與若孰往?」襄曰:「元帥國家大臣,詎宜輕動?襄當為公往取。」志寧韙之。襄率騎二千,分二道,一由沖路,自以千兵間道潛登。既近,敵始覺。襄攻克之,據其關,志寧履行戰地,顧謂曰:「克敵於不可勝之地,真天下英傑也。」及宋乞盟,班師,召為拱衛直都指揮使,改殿前右衛將軍,轉左衛,出為東北路招討都監,遷速頻路節度使,移曷懶路兵馬都總管。

左丞相の志寧が病篤く、世宗が臨んで問うと、志寧は襄を推薦して「智勇兼ね備え、経世の才あり、他人は及ばず、他日に任用すれば、おそらく臣に勝るであろう」と言った。即ち召して殿前左副都点検を授けた。宋の生日使となり、宋が親しく国書を受け取ることを免れようと祈願していた時、襄が至ると、宋人はたびたび来て協議したが、皆これを論破し、ついに礼を成して還った。陝西路統軍使を授け、尚服・厩馬・鞍勒・佩刀を賜った。河南統軍使に改めた。

原文左丞相志甯疾甚,世宗臨問之,志寧薦襄「智勇兼濟,有經世才,他人莫及,異時任用,殆勝於臣」。即召授殿前左副都點檢。為宋生日使,宋方祈免親接國書,襄至,宋人屢來議,皆折之,迄成禮而還。授陝西路統軍使,賜之尚服、廄馬、鞍勒、佩刀。改河南統軍使。

入朝して吏部尚書となり、都点検に転じ、銭千万を賜った。世宗が宰執に言った、「襄は人となり甚だ蘊藉あり、直日に非ずとも、亦た宮中に入り諸事を規画し、事に付すべき所あって乃ち退く。その公勤この如し。襄の才の如きは豈に多く得んや」と。御史大夫に抜擢した。一月余りして、尚書右丞を拝し、これを諭して言った、「卿は河南において辺事を経制し、甚だ統紀あり、及び吏部に在りては、点検に至り、特に公を奉じ法を守り、朕は甚だこれを嘉す。近く憲台を長じ、亦た剛直を以て聞こえ、是を用いて機政を委ぬ。その益々勉めよ」と。間もなく、左丞に進んで拝した。襄は外任に在りて、治績に異なる効果あり、ここに至り朝廷は廉吏を褒賞することを以て天下に詔し、その名を列ねて以て奨励を示した。二十三年、平章政事に進んで拝し、蕭国公に封ぜられた。

原文入為吏部尚書,轉都點檢,賜錢千萬。世宗謂宰執曰:「襄為人甚蘊藉,非直日,亦入宮規畫諸事,事有所付乃退,其公勤如此。若襄之才豈多得哉!」擢御史大夫。逾月,拜尚書右丞,諭之曰:「卿在河南經制邊事,甚有統紀,及在吏部,至為點檢,尤奉公守法,朕甚嘉之。近長憲台,亦以剛直聞,是用委以機政,其益勉之!」未幾,進拜左丞。襄在外任,治有異效,至是朝廷以褒賞廉吏詔天下,列其名以示獎勵。二十三年,進拜平章政事,封蕭國公。

世宗は金源郡王を世嫡の皇孫として、王爵を加えんとし、国号を選ぶよう詔した。襄は言った、「天下の大計を為すには、必ず先ずその本を正すべし。原は本なり。原と封ずることを請う」と。これに従った。故事により、諸部族の節度使及びその僚属は多く颭人を用いたが、頗る私ひそに法を縦にする者あり、議して諸色人に改めようとした。襄は言った、「北辺は事無きも、常にこれを経略すべし。若ごとしこの門を杜てば、その後功績あらば、何を以てこれを処せん。旧の如くにすることを請う」と。他日、古に監軍の事有りと議及した。襄は言った、「漢・唐は初め監軍無く、将は専任を得た故に、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず克った。及び末世に至り始めて内臣を以てその軍を監し、動もすればこれに制せられ、故に多く敗れて功少なし。若し将にその人を得ば、監軍は誠に置く必ずしも要せず」と。併せて嘉納された。詔して北部の進貢を受けさせた。使い還り、世宗が辺事を問うと、図を具えて進め、因って属部を羈縻し、大石を鎮服する策を上奏し、詔して悉くこれを行わせた。右丞相に進んで拝し、戴に徙封された。

原文世宗以金源郡王世嫡皇孫,將加王爵,詔擇國號。襄曰:「為天下大計,必先正其本,原者本也,請封原。」從之。故事,諸部族節度使及其僚屬多用颭人,而頗有私縱不法者,議改用諸色人。襄曰:「北邊雖無事,恆須經略之,若杜此門,其後有勞績,何以處之?請如舊。」他日,議及古有監軍之事。襄曰:「漢、唐初無監軍,將得專任,故戰必勝,攻必克。及叔世始以內臣監其軍,動為所制,故多敗而少功。若將得其人,監軍誠不必置。」並嘉納之。詔受北部進貢。使還,世宗問邊事,具圖以進,因上羈縻屬部、鎮服大石之策,詔悉行之。進拜右丞相,徙封戴。

世宗が不豫となり、太尉の徒いたずら単克寧・平章政事の張汝霖と内殿に宿直し、共に顧命を受けた。章宗が初めて政を即くや、僧道の奴婢を罷めんと議した。太尉の克寧が奏して言った、「これは成俗日久しく、若し急にこれを改めば、人情に不安なり。陛下若しその数多きを悪むならば、宜しく格法を厳しく立て、濫度を防ぐべし。然らば自ずから少なからん」と。襄は言った、「出家の人、何ぞ僕隸を用いん。初め如何にして得たるかを問わず、悉く放ちて良と為すことを乞う。若し寺観の物力元より奴婢の数より推定する者は、併せて除免すべし」と。詔して襄の言に従った。これにより二税戸多く良と為る者あり。

原文世宗不豫,與太尉徒單克甯、平章政事張汝霖宿內殿,同受顧命。章宗初即政,議罷僧道奴婢。太尉克甯奏曰:「此蓋成俗日久,若遽更之,於人情不安。陛下如惡其數多,宜嚴立格法,以防濫度,則自少矣。」襄曰:「出家之人安用僕隸?乞不問從初如何所得,悉放為良。若寺觀物力元系奴婢之數推定者,併合除免。」詔從襄言。由是二稅戶多為良者。

明昌元年、同知棣州防禦使の鸊が封事を上り、歴々に宰執を誹謗した。太傅の克寧が奏し、膏の言う所は襄が予め知っていたと。ここにおいて詔して鸊を本猛安に還し、而して襄は出でて平陽府事を知った。鳳翔を知るに移り、西京留守を歴任し、召されて同判大睦親府事を授かり、枢密使に進み、再び右丞相を拝し、任に改封された。時に左丞相の夾谷清臣が北辺を防禦したが、措画方に乖き、辺事急なるに属し、命じて襄に代わってその衆を将せしめ、金牌を佩び、便宜に事を行わせた。臨んで宴を以て慰め遣わし、貂裘・鞍山・細鎧及び戦馬二頭を賜った。時に胡里颭も亦た叛き、北京・臨潢の間に嘯聚した。襄が至ると、人を遣わしてこれを招くと、即ち降り、遂に臨潢に屯した。間もなく、大塩濼に出師し、また右衛将軍の完顔充を遣わして進軍し斡魯速城に至らしめ、屯守せんと欲し、隙を俟って進兵せんとした。図を描いて以て聞かせると、議者異同あり、即ち召して面論し、厚く賜りて遣還した。

原文明昌元年,同知棣州防禦使鸊上封事,曆詆宰執。太傅克寧奏,膏所言襄預知之。於是詔鸊還本猛安,而襄出知平陽府事。移知鳳翔,曆西京留守,召授同判大睦親府事,進樞密使,複拜右丞相,改封任。時左丞相夾谷清臣北禦邊,措畫乖方,屬邊事急,命襄代將其眾,佩金牌,便宜從事。臨宴慰遣,賜以貂裘、鞍山、細鎧及戰馬二。時胡里颭亦叛,嘯聚北京、臨潢之間。襄至,遣人招之,即降,遂屯臨潢。頃之,出師大鹽濼,複遣右衛將軍完顏充進軍斡魯速城,欲屯守,俟隙進兵。繪圖以聞,議者異同,即召面論,厚賜遣還。

間もなく、西北路招討使の完顔安国等を遣わして多泉子に向かわせた。密詔して進討せしめ、乃ち支軍をして東道より出でしめ、襄は西道より出でた。而して東軍は龍駒河に至りて阻珝に囲まれ、三日出でず、救み援を求めて甚だ急なり。或いは諸軍集まるを俟って乃ち発すべしと請うた。襄は言った、「我が軍は数日囲まれ、馳せて救うも猶お及ばざるを恐る。豈に時を後にするべけんや」と。即ち鼓を鳴らして夜発した。或いは先ず人を遣わして囲みの中に報ぜしめ、援の至るを知らしむべしと請うた。襄は言った、「遣わす所の者、もし敵に得られ、我が兵寡くして糧の後にあることを知らしめば、則ち吾が事敗るるなり」と。乃ち益々疾く馳せた。夜明け近く、敵に近づき、衆は少しく憩わんことを請うた。襄は言った、「吾が夜を乗じて疾く馳する所以は、その不備を掩わんと欲するのみ。緩なれば及ばず」と。夜明け方に敵に圧し、突撃すると、囲み中の将士も亦た鼓噪して出で、大戦し、輿帳牛羊を獲た。衆は皆奔って斡里劄河に至った。安国を遣わしてこれを追蹑せしめた。衆は散走し、会して大雨、凍死者十に八九、その部長を降し、遂に勲を九峰の石壁に勒した。捷報聞こえ、上は使いを遣わして厚く賜り以てこれを労い、別に詔して士卒を便宜に賞賚することを許した。九月、闕に赴き、左丞相を拝し、国史を監修し、常山郡王に封ぜられた。慶和殿に宴し、上親しく酒を挙げて飲ませ、服する所の玉具の佩刀を解いて賜い、即ちこれを服せしめた。

原文未幾,遣西北路招討使完顏安國等趨多泉子。密詔進討,乃命支軍出東道,襄由西道。而東軍至龍駒河為阻珝所圍,三日不得出,求援甚急,或請俟諸軍集乃發。襄曰:「我軍被圍數日,馳救之猶恐不及,豈可後時?」即鳴鼓夜發。或請先遣人報圍中,使知援至。襄曰:「所遣者儻為敵得,使知我兵寡而糧在後,則吾事敗矣。」乃益疾馳。遲明,距敵近,眾請少憩。襄曰:「吾所以乘夜疾馳者,欲掩其不備爾。緩則不及。」向晨壓敵,突擊之,圍中將士亦鼓噪出,大戰,獲輿帳牛羊。眾皆奔斡里劄河。遣安國追躡之。眾散走,會大雨,凍死者十八九,降其部長,遂勒勳九峰石壁。捷聞,上遣使厚賜以勞之,別詔許便宜賞賚士卒。九月,赴闕,拜左丞相,監修國史,封常山郡王。宴慶和殿,上親舉酒飲,解所服玉具佩刀以賜,俾即服之。

十月、阻珝が再び叛き、襄は出でて北京に屯し、会して群牧の契丹の徳寿・陀鎖等が信州を占拠して叛き、偽りに建元して身聖と曰い、衆号数十万、遠近震駭した。襄は暇あること平日の如く、人心乃ち安んじた。初め、襄の出鎮するや、石門鎮に至り、密かに僚属に謂って言った、「北部の塞を犯すは何ぞ慮るに足らん。ただ奸人の隙に乗じて動くを恐る。北京は近地にして軍少なし、当に予めこれが備えを為すべし」と。即ち官を遣わして上京等の軍六千を発し、ここに至り果たしてその用を得た。臨潢総管の烏古論道遠・咸平総管の蒲察ほさつ守純が分道進討し、徳寿等を擒えて京師に送った。

原文十月,阻珝複叛,襄出屯北京,會群牧契丹德壽、陀鎖等據信州叛,偽建元曰身聖,眾號數十萬,遠近震駭。襄閒暇如平日,人心乃安。初,襄之出鎮也,至石門鎮,密謂僚屬曰:「北部犯塞奚足慮。第恐奸人乘隙而動。北京近地軍少,當預為之備。」即遣官發上京等軍六千,至是果得其用。臨潢總管烏古論道遠、咸平總管蒲察守純分道進討,擒德壽等送京師。

契丹の乱の際、廷臣は郊祀を中止するよう議し、また正月上辛の日に改めて行うことを望んだ。上(章宗)は使者を遣わして(完顔襄に)問うたところ、対して言うには、「郊祀は重礼であり、かつ事前に天下に詔を下し、また藩国も既に表を奉り賀している。今もし中途で中止すれば、どうして四方の傾望の意に副えようか。もし正月上辛に改め用いるならば、それは祈穀の礼であって、郊祀して上帝に見える本来の意味ではない。大礼は軽々しく廃すべからず、敢行することを請う。臣は祀りの前に賊を滅することを乞う」と。やがて賊は破られ、果たしてその予測の通りとなった。郊礼が成就し、南陽郡王に進封された。契丹討伐を始めるに当たり、龍虎衛上將軍・節度使以下は承制により授けることを許されたが、襄は賞罰の権柄は人臣の預かる所ではないと考え、詔を奉じることを敢えてしなかった。賊が平定されると、近臣に委ねて将士に旨を諭し、上(皇帝)の恩を知らしめるよう請うた。そこで李仁惠を遣わし、宣三十通、勅百五十通を持たせ、功績に応じて与えさせた。

原文契丹之亂,廷臣議罷郊祀,又欲改用正月上辛,上遣使問之,對曰:」郊為重禮,且先期詔天下,又籓國已報表賀,今若中罷,何以副四方傾望之意?若改用正月上辛,乃祈穀之禮,非郊見上帝之本意也。大禮不可輕廢,請決行之,臣乞於祀前滅賊。」既而賊破,果如所料。郊禮成,進封南陽郡王。始討契丹,自龍虎衛上將軍、節度使以下許承制授之。襄以為賞罰之柄非人臣所預,不敢奉詔。賊平,請委近臣諭旨將士,使知上恩。乃遣李仁惠持宣三十、敕百五十,視功給之。

方徳寿が叛いた時、諸乣もまた略奪して民の患いとなっていた。襄は彼らが方徳寿と合流することを慮り、諸乣を近京の地に移住させ、慰撫した。ある者が言うには、「乣人は北の習俗と異ならず、今内地に置けば、あるいは変を生ずるかもしれない。どうするか」と。襄は笑って言うには、「乣は雑類とはいえ、我が辺民である。もし恩をもって撫すれば、どうして感ずることなからんや。我ここに在れば、必ず敢えて動くことはない」と。後、果たして患いはなかった。まもなく詔して参知政事の裔に代わってその軍を統領させた。入朝して謁見し、銭五千万を賜った。翌年、母の喪により免ぜられたが、翌日には起復して視事した。時に議して、契丹戸の驅奴がなお多く、これを尽く売り払ってその党を散ぜんことを乞うたが、襄は不便であると考え、口数を量り存し、余は官が贖って良民とするよう奏請した。上はこれを容すがたれられた。

原文方德壽之叛,諸颭亦剽略為民患,襄慮其與之合,乃移諸颭居之近京地,撫慰之。或曰:「颭人與北俗無異,今置內地,或生變奈何?」襄笑曰:「颭雖雜類,亦我之邊民,若撫以恩,焉能無感?我在此,必不敢動。」後果無患。尋詔參知政事裔代領其軍。入見,賜錢五千萬。明年,以內艱免。翌日,起複視事。時議以契丹戶之驅奴尚眾,乞盡鬻以散其黨,襄以為非便,奏請量存口數,餘悉官贖為良,上納之。

北部が再び叛くと、裔は戦いに軍律を失い、再び襄を左副元帥として師に臨ませ、まもなく枢密使兼平章政事に拝し、北京に屯した。民が食糧に苦しんでいたので、倉粟を減価して出糶し、これを救済した。ある者が兵糧がまさに欠乏していると述べたが、襄は言うには、「民が足りて兵が足りないことがあろうか(あろうはずがない)」と。ついにこれを行い、民は皆喜んで服した。時に北討を議し、襄は同判大睦親府事の宗浩を泰州に出軍させ、また左丞の衡を撫州に行枢密院させ、西北路に出軍して阻珝を邀むかえ撃たせ、自らは兵を率いて臨潢より出るよう奏した。上はその策に従い、内庫の物を賜って即時に軍中用いさせた。その後、斜出部族が撫州に詣でて降ったので、上は専使を遣わして襄に問うたところ、襄はこれを受けるのが便であると考えた。宝剣を賜い、詔して宜しく窮討すべきことを度らせた。そこで兵士に自ら糧食を携行させて輸おさ送を省かせ、沔移剌烈・烏満掃などの山に進んで屯し、これに迫った。これにより歩卒を用いて壕を穿ち障を築き、臨潢左界から北京路に起して阻塞とすることに就いて用いるよう請うた。言う者多く異同があったので、詔して方略を問うた。襄は言うには、「今次の費用は百万貫であろうが、功一成れば則ち辺防固くして戍兵を半減でき、歳に三百万貫を省き、かつ民の転輸の力を寛げ、実に永利である」と。詔して可とした。襄は自ら督視し、軍民併せて役し、また飢民を募って傭役に就かせ、五十日で完了した。ここにおいて西北・西南路もまた塞を治め、請うた通りとした。まもなく、泰州軍が敵と接戦し、宗浩がその後を督して、殺獲過半に及び、諸部相率いで款を送り、襄はこれを受け入れた。ここより北陲は遂に定まった。

原文北部複叛,裔戰失律,複命襄為左副元帥蒞師,尋拜樞密使兼平章政事,屯北京。民方艱食,乃減價出糶倉粟以濟之。或以兵食方闕為言,襄曰:「烏有民足而兵不足者?」卒行之,民皆悅服。時議北討,襄奏遣同判大睦親府事宗浩出軍泰州,又請左丞衡於撫州行樞密院,出軍西北路以邀阻珝,而自帥兵出臨潢。上從其策,賜內庫物即軍中用之。其後斜出部族詣撫州降,上專使問襄,襄以為受之便。賜寶劍,詔度宜窮討。乃令士自齎糧以省挽運,進屯於沔移剌烈、烏滿掃等山以逼之。因請就用步卒穿壕築障,起臨潢左界北京路以為阻塞。言者多異同,詔問方略。襄曰:「今茲之費雖百萬貫,然功一成則邊防固而戍兵可減半,歲省三百萬貫,且寬民轉輸之力,實為永利。」詔可。襄親督視之,軍民並役,又募饑民以傭即事,五旬而畢。於是西北、西南路亦治塞如所請。無何,泰州軍與敵接戰,宗浩督其後,殺獲過半,諸部相率送款,襄納之。自是北陲遂定。

襄は臨潢に還り、屯兵四万・馬二万匹を減じた。上は信符をもって召還し、近臣を遣わして途上で迎え労った。既に至ると、また邸で撫問し、辺機十事を献上した。皆施行され、なお厚く賜い、再び左丞相に拝した。初め、襄が軍中より至った時、上は宰臣に諭して言うには、「枢密使の襄は辺堡を築き立てて完固にした。古来一城一邑を立てるにも尚お賞賚あり。即ち三公に拝せんと欲するが、三公は賞功の官ではない。左丞相もまた賞功者ではないが、然りといえども特授すべし」と。左司郎中の阿勒根阿海を遣わし詔を降して褒諭させた。四年正月、司空に進拝し、左丞相を領するは従前の通りとした。

原文襄還臨潢,減屯兵四萬、馬二萬疋。上以信符召還,遣近臣迎勞於途。既至,複撫問於第,入獻邊機十事,皆為施行,仍厚賜之,複拜左丞相。初,襄至自軍,上諭宰臣曰:「樞密使襄築立邊堡完固。古來立一城一邑,尚有賞賚,即欲拜三公,三公非賞功官,如左丞相亦非賞功者,雖然可特授之。」遣左司郎中阿勒根阿海降詔褒諭。四年正月,進拜司空,領左丞相如故。

襄は重厚寡言で、鎮静して法を守ることを務めた。毎に掾が何かを稟する時、必ず問うて言うには、「諸相は何と云うか」と。掾が某相はかくの如し、某相はかくの如しと答えると、襄は言うには、「某の議に従え」と。その事に異なることは無かった。識者は襄が誠に相たる体を得ていると謂った。時に上は頗る制度を更定し、初めて提刑司を置き、また宋朝の宮観使のような清閑な職位を設け、年高くして致仕した官を待つことを議した。襄は言うには、「年老いて致仕する者は、朝廷が俸廩をもって養い、恩礼至って厚い。老いて退かず、また省會の法あり、これをもって貪冒を抑え、廉節を長ずるのである。もし別に設けんと擬するならば、濫に渉る恐れがある」と。また言うには、「事を省くは官を省くに如かず。今の提刑官吏は、多く治に益なく、徒らに有司の事を乱すのみである。議者はこれが外台であるから、罷めるべからずと謂う。臣は混淆の辞が徒らに聖聴を煩わすことを恐れる。かつ憲台の掌る所は官吏の非違を察し、下民の冤枉を正すのであって、提点刑獄・挙薦の権も無い。もし既に設けて急に改め難ければ、その廉能よを採訪するのは本司に隷すべからず、監察御史に歳終に体究させ、なお時を選ばず官を廉訪すべし」と。上は皆聴き容れられた。俄かに致仕を乞うたが、許されなかった。

原文襄重厚寡言,務以鎮靜守法。每掾有所稟,必問曰:「諸相雲何?」掾對某相如是,某相如是。襄曰:「從某議。」其事無有異者。識者謂襄誠得相體。時上頗更定制度,初置提刑司,又議設清閒職位,如宋朝宮觀使,以待年高致仕之官。襄言:「年老致仕,朝廷養以俸廩,恩禮至渥。老不為退,複有省會之法,所以抑貪冒,長廉節。若擬別設,恐涉於濫。」又言:「省事不如省官,今提刑官吏,多無益於治,徒亂有司事。議者以謂斯乃外台,不宜罷。臣恐混淆之辭,徒煩聖聽。且憲台所掌者察官吏非違,正下民冤枉,亦無提點刑獄、舉薦之權。若已設難以遽更,其採訪廉能不宜隸本司,宜令監察御史歲終體究,仍不時選官廉訪。」上皆聽納。俄乞致仕,不許。

時に旱魃であったので、有司に命じて雨を祈らせた。襄及び平章政事の張万公・参政の僕散揆らは上表して罪に待った。上は翰林学士の党懐英を召して罪己の詔を草させ、なお襄らを慰諭して視事させた。泰和元年春、命を承けて馳せ往き亳州太清宮及び後土方嶽に禱った。その世封が遠いため、特に関河間府路算術海猛安に改授した。明年、皇子が生まれると、襄はまた自ら報謝を請うた。嵩嶽を祀り終え、還って芝田の府店に次いだところ、遂に疾により薨じ、年六十三。訃報を聞き、朝を輟やみ、使者を遣わして路において祭らせ、葬礼は太師淄王の克寧に依った。諡して武昭と言う。張行簡に命じてその碑を銘させた。

原文時方旱,命有司祈雨,襄及平章政事張萬公、參政僕散揆等上表待罪。上召翰林學士党懷英草罪己詔,仍慰諭襄等視事。泰和元年春,承命馳禱於亳州太清宮及後土方嶽。以其世封遠,特改授河間府路算術海猛安。明年,皇子生,襄複自請報謝。既祀嵩嶽,還次芝田之府店,遂以疾薨,年六十三。訃聞,輟朝,遣使祭于路,葬禮依太師淄王克寧。諡曰武昭。命張行簡銘其碑。

襄は明敏で、才武人に過ぎ、上は親しく厚く待ったので、至る所功があった。その臨潢に駐軍した時、偽書を西京留守の徒単鎰に遺し、罪を構えようとする者があった。書が聞こえると、上はその書を還して襄に与え、その明信この如くであった。やがて果たして偽書を作った者を獲た。政府に在ること二十年、故事に明練で、簡重能断、器局特に寛大であり、掾吏を礼を尽くして待ち、人を用いるに各々その長所を得させ、当世の名将相となった。大安年間、章宗廟廷に配享された。

原文襄明敏,才武過人,上親待之厚,故所至有功。其駐軍臨潢也,有以偽書遺西京留守徒單鎰,欲構以罪。書聞,上以書還畀襄,其明信如此。既而果獲為偽書者。在政府二十年,明練故事,簡重能斷,器局尤寬大,待掾吏盡禮,用人各得所長,為當世名將相。大安間,配享章宗廟廷。

夾谷衡

原文夾谷衡

夾谷衡、本名は阿里不、山東西路三土猛安益打把謀克ぼうこくの人である。大定十三年、女直じょちょく進士挙を創設し、衡は第四人に中り、東平府教授に補された。范陽主簿に調じ、選ばれて国史院編修官に充てられ、応奉翰林文字に改まった。世宗は嘗て宰臣に謂って言うには、「女直進士の中の才傑の士は蓋しまた得難く、徒単鎰・夾谷衡・尼龐古鑒の如きは、皆有用の材である」と。修起居注に遷った。章宗が立つと、侍御史となり、右司員外郎に転じ、敷奏が旨に称かなし、左司郎中に昇った。明昌二年、御史中丞に擢でられ、未だ幾ばくもなく、参知政事に拝された。三年八月、病により、表して致仕を乞うたが、詔して慰撫し許さなかった。

原文夾谷衡,本名阿里不,山東西路三土猛安益打把謀克人也。大定十三年,創設女直進士舉,衡中第四人,補東平府教授。調范陽簿,選充國史院編修官,改應奉翰林文字。世宗嘗謂宰臣曰:「女直進士中才傑之士蓋亦難得,如徒單鎰、夾穀衡、尼龐古鑒,皆有用材也。」遷修起居注。章宗立,為侍御史,轉右司員外郎,敷奏稱旨,升左司郎中。明昌二年,擢御史中丞,未幾,拜參知政事。三年八月,以病,表乞致仕,詔撫慰不許。

衡が長らく休暇を取っていたが、詔を承けて初めて出仕した。上(章宗)はその痩せ衰えた様子を見て、さらに一か月の休暇を賜った。四年、詔して今の名(衡)を賜り、これを諭して言うには、「朕は大臣を選び、機務に参与させ、必ずや謀画を資り、治平を協賛せしめんとする。もし得失が晦くらくして未だ形れず、利害が膠着して未だ決せざる場合、正に識見純直なるを須もちいて、初めて去取を公に合わすことが出来る。近頃議事の臣は、一定の論あること鮮すくなし。これは内に守る所なきを以て、故に事に臨んで惑い、中るも失するもあり、致す所あり。朕は何をか頼たのみとせん。卿は忠実公方にして、その是なるを審つまびらかにすれば執して回らず、その非なるを見れば去りて能く果だす。その事勢を度るは、権衡はかりの若き有り。汝の長ずる所は、衡実にこれに似たり。今の名(衡)を賜うべし。古は名を命ずるに、将に実を責めんとす。汝は先ず実有り、名に称うと謂うべし。これを行いて終わりを克くすれば、乃ち朕が意に副わん」と。

原文衡久在告,承詔始出,上見其羸瘠,複賜告一月。四年,詔賜今名,諭之曰:「朕選大臣,俾參機務,必資謀畫,協贊治平。其或得失晦而未形,利害膠而未決,正須識見純直,方能去取合公。比來議事之臣,鮮有一定之論,蓋以內無所守,故臨事而惑,致有中失,朕將何賴?卿忠實公方,審其是則執而不回,見其非則去而能果,度其事勢,有若權衡。汝之所長,衡實似之,可賜名衡。古者命名,將以責實,汝先有實,可謂稱名,行之克終,乃副朕意。」

参知政事胥持国が区種法を言上した。衡は言うには、「もし仮に利あらば、古既に行われた。しかも用いる功多くして種く所少なく、また土田を荒廃せしむるを恐れ、民を徒に労し、益無きなり」と。尚書右丞に進む。旧制では、久しく随朝の職任を歴た者は、江表(江南)への奉使を得る。衡は未だ使わずして執政に拝されたため、特に銭六千貫を賜った。六年、尚書左丞に遷り、まもなく撫州に行省を出でる。帰還して朝に入り、父の憂(喪)を聞き去ったが、上は急ぎ召し還し、本職に起復させた。承安二年、上京留守に出で、まもなく枢密副使に改め、行院として辺事を規画した。三年、封界を修完した功により、詔を賜り褒め諭された。四年正月、そのまま平章政事に拝され、英国公に封ぜられた。薨去、年五十一。上はこれを聞きて憫あわれみ、朝を輟め、官を命じて祭らせ、賻贈を加えた。使者を遣わして葬儀を救させ、諡して貞献と言う。

原文參知政事胥持國言區種法。衡曰:「若苟有利,古已行之,且用功多而所種少,複恐荒廢土田,徒勞民,無益也。」進尚書右丞。舊制,久曆隨朝職任者,得奉使江表。衡未使而拜執政,特賜錢六千貫。六年,遷尚書左丞,尋出行省於撫州。洎還入朝,聞父憂去,上亟召回,起複本職。承安二年,出為上京留守,尋改樞密副使,行院規畫邊事。三年,以修完封界,賜詔褒諭。四年正月,就拜平章政事,封英國公。薨,年五十一。上聞之惻然,為輟朝,命官致祭,賻贈有加。遣使敕葬,諡曰貞獻。

完顔安国

原文完顏安國

完顔安国、字は正臣、本名は闍母。その先祖は上京に籍を占め、代々戦功有り。祖父の斜婆は、西南路世襲合劄謀克を授けられた。安国は沈雄にして謀画有り、特に騎射を善くした。正隆元年、軍に従って謀克となり、常に少をもって衆を撃った。大定年間、常山の主簿となり、虹県令に転ず。時に王府が新たに建てられ、選ばれて虞王府の掾に充てられた。再び遷って儀鸞局副使となる。明昌元年、本局使に改める。時に大石部の長に歳貢を修めんことを乞う者あり、朝廷はその請いを許し、詔して安国を往かせてこれを使わしめた。至れば則ち衆を率いて遠くまで迎えに出て帳に至り、闕(宮廷)を望んで羅列して拝礼し、礼を執るに怠惰な容無し。

原文完顏安國,字正臣,本名闍母。其先占籍上京,世有戰功。祖斜婆,授西南路世襲合劄謀克。安國沉雄有謀畫,尤善騎射。正隆元年,從軍為謀克,常以少擊眾。大定中,為常山簿,轉虹縣令。會王府新建,選充虞王府掾。再遷儀鸞局副使。明昌元年,改本局使。會大石部長有乞修歲貢者,朝廷許其請,詔安國往使之。至則率眾遠迓至帳,望闕羅拜,執禮無惰容。

時に北阻珝(ブズク?)が塞垣に迫近し、隣部は功を立てて上国に雄れんことを誇らんと欲し、議して安国を邀え共に行ってこれを討たんとした。安国は未だ詔を奉ぜざるを以て辞とした。強いても、肯がえんぜず。或いは危言を以てこれを怵おどしたが、安国は言うには、「大丈夫たる者、豈に生死を以て節を易えんや。辺庭に骨を暴さらすは、病んで牖下(窓の下)に死するに愈らざらんや」と。衆はその言を壮とし、餞別の礼の如く贈り物をした。既に還り、奉使として旨に称うを以て、武衛軍都指揮使に昇る。東北路副招討に出で、未だ赴かず、西北路副招討に改める。

原文時北阻珝迫近塞垣,鄰部欲立功以誇雄上國,議邀安國俱行討之。安國以未奉詔為辭。強之,不可。或以危言怵之,安國曰:「大丈夫豈以生死易節。暴骨邊庭,不猶愈於病死牖下。」眾壯其言,饋贐如禮。既還,以奉使稱旨,升武衛軍都指揮使。出為東北路副招討,未赴,改西北路副招討。

六年、左丞相夾谷清臣が兵を用いるに当たり、安国を先鋒都統とした。時に臨潢・泰州の属部が叛き、安国は先ずこれを討定し、功により本路招討使に遷り、威遠軍節度使を兼ねた。承安元年、大塩濼の戦いで、殺獲甚だ衆く、詔して金幣を賜う。既にして右丞相襄が大軍を総べて進み、安国は両路都統となり、多泉子において大捷した。襄は安国に敵を追撃させたが、皆が言うには糧道続かず、行くべからずと。安国は言うには、「人一頭の羊を得れば十余日食うべし、羊を駆ってこれを襲うに如かず」と。遂にその計に従う。安国は統べる所の部一万人を疾駆して以てこれに迫り、その部長を降した。捷報聞こえ、官四級を進め、左翼都統に遷る。

原文六年,左丞相夾谷清臣用兵,以安國為先鋒都統。適臨潢、泰州屬部叛,安國先討定之,以功遷本路招討使,兼威遠軍節度使。承安元年,大鹽濼之戰,殺獲甚眾,詔賜金幣。既而右丞相襄總大軍進,安國為兩路都統,大捷於多泉子。襄遣安國追敵,僉言糧道繼,不可行也。安國曰:「人得一羊可食十餘日,不如驅羊以襲之便。」遂從其計。安國統所部萬人疾驅以薄之,降其部長。捷聞,進官四級,遷左翼都統。

承安二年、辺堡を営む功により、召されて枢密院事を簽けんす。虎符を賜って辺に還り、便宜従事を得る。時に塞に並ぶ諸部が降り、初めの如く貢を輸めるよう諭した。枢密副使に進み拝される。泰和元年、特に世襲西南路延晏河猛安を授けられ、合劄謀克を兼ねる。帝が慶寧宮に幸し、安国に辺備を厳しく飭ととのえるよう命じた。西南路の辺戍で私かに逃げる者を招き誘い以て人心を安んぜんことを乞うと奏上し、上はその言を是とした。三年、疾を以て致仕し、道国公に封ぜられる。四年、前職に起復し、卒す。上はこれを聞き、朝を輟む。有司に勅して執政の礼を以て葬らしむ。特進を贈られる。

原文承安二年,以營邊堡功,召簽樞密院事。賜虎符還邊,得以便宜從事。時並塞諸部降,諭使輸貢如初。進拜樞密副使。泰和元年,特授世襲西南路延晏河猛安,兼合劄謀克。帝幸慶甯宮,命安國嚴飭邊備。奏西南路邊戍私竄者乞招誘以安人心,上是其言。三年,以疾致仕,封道國公。四年,起複前職,卒。上聞之,輟朝。敕有司葬以執政禮。贈特進。

安国は軍旅に在ること凡そ十五年、号令厳明にして、卒伍を指麾するは左右の手の如し。又善く敵人の虚実及び山川の険易を伺い知り、戦えば必ず士卒に身先し、故に向かう所輒すなわち克つ。諸部が入貢するに、安国は能く一一その祖先・弟・姪の名を呼び以て戒め諭す。諸部皆震悚し、甚だ隣国に畏服せられた。

原文安國在軍旅幾十五年,號令嚴明,指麾卒伍如左右手。又善伺知敵人虛實及山川險易,戰必身先士卒,故所向輒克。諸部入貢,安國能一一呼其祖先弟侄名字以戒諭之,諸部皆震悚,甚為鄰國所畏服。

瑤里孛迭

原文瑤里孛迭

瑤里孛迭は、北京路窟白猛安陀羅山謀克の人なり。軍功を以て海浜令を歴り、徐王府掾に遷る。職に称うを以て、再び御史台に任ず。廉を察せられ、同知震武軍節度使事に昇る。明昌初め、唐州刺史となり、まもなく西北路招討副使を授かる。未だ幾ばくもせず、東北路に改める。六年正月、北辺に警有り、兵を聚めて慶州を急に囲む。孛迭は本路軍を率いて往き救い、敵解き去り、州遂に患無し。承安元年、丞相襄が北伐し、孛迭は先鋒副統となり、進軍して龍駒河に至り、囲まれる。時に襄が大軍を引いて至り、解くことを得たり。後に鎮寧軍節度使を授かり、六群牧の人が叛くを以て、寧昌軍に改める。孛迭は都統となり、歩騎一万を領して懿州に次る。敵数万来たり逆戦す。兵勢甚だ張り、孛迭親しく陣に陷り、奮力鏖撃してこれを却け、身に二創を受く。捷報聞こえ、一官を遷す。承安二年、颭軍千余が出没し錦・懿の間を剽掠す。孛迭は追撃してこれを敗り、また掠められた所を獲て、悉く本戸に還す。三年、同判大睦親府事宗浩に従って左翼都統となり、移密河に戦い勝つ。骨堡子の西に戦い、殺獲甚だ衆し。五年、知広寧府事を授かり、まもなく東北路招討使に改める。辺を捍ふせぐ功有り、詔を賜り褒め諭され、三遷して崇義軍節度使となる。泰和六年、卒す。訃報聞こえ、官を遣わして祭らせ、銀五百両を賜い、金紫光禄大夫を贈られる。

原文瑤里孛迭,北京路窟白猛安陀羅山謀克人也。以軍功曆海濱令,遷徐王府掾。以稱職,再任御史台。察廉,升同知震武軍節度使事。明昌初,為唐州刺史,尋授西北路招討副使。未幾,改東北路。六年正月,北邊有警,聚兵圍慶州急,孛迭率本路軍往救,敵解去,州竟無患。承安元年,丞相襄北伐,孛迭為先鋒副統,進軍至龍駒河,受圍,會襄引大軍至,得解。後授鎮甯軍節度使,以六群牧人叛,改寧昌軍。孛迭為都統,領步騎萬次懿州,敵數萬來逆戰,兵勢甚張,孛迭親陷陣,奮力鏖擊卻之,身中二創,捷聞,遷一官。承安二年,颭軍千餘出沒剽掠錦、懿間,孛迭追敗之,複獲所掠,悉還本戶。三年,從同判大睦親府事宗浩為左翼都統,戰移密河,勝;戰骨堡子西,殺獲甚眾。五年,授知廣寧府事,俄改東北路招討使。以捍邊有功,賜詔褒諭,三遷為崇義軍節度使。泰和六年,卒。訃聞,遣官致祭,賜銀五百兩,贈金紫光祿大夫。

孛迭は勇決善戦し、幼少より軍功を以て顕れ、兵鎮に任ずること十余年、向かう所克捷し、凡そ再び官を遷り、金幣を賜い、甚だ上に倚注せられたという。

原文孛迭勇決善戰,自幼以軍功顯,任兵鎮十餘年,所向克捷,凡再遷官,賜金幣,甚為上倚注雲。

賛に曰く、《易経》師卦の初六爻に「師出ずるに律を以てす、否臧ひそうなれば凶なり」と。蓋し初めは師の始め、師を出すの道は、その始めを慎むべし。清臣は首めて師を出すを議し、遽にわかに小利を貪るを以て敗る。襄は賢なりと雖も、力を竭つくして後にその任に勝つ。衡・安国・孛迭の功はまた襄に亜つぐ者なり。然れども兵連ね禍結び、以て金の世を終わらしむ。故に兵に常勝無く、勝を制するは勢に在り。勢を以て兵を制する者は強く、兵を以て勢を制する者は亡ぶ。襄が壕塁を開き築き以て自ら固むる跡は、その元魏・北斉の長城か。金の勢は知るべし。勢屈して兵勝つは、国を亡ぼすの道なり。金は兵を以て始まり、また兵を以て終わる。嗚呼、兵を用いるの始め、慎まざるべけんや、慎まざるべけんや。

原文贊曰:《易·師》之初六:「師出以律,否臧凶。」蓋初為師之始,出師之道,當慎其始。清臣首議出師,遽以貪小利敗。襄雖賢,竭力而後勝其任。衡、安國、孛迭之功又亞於襄者也。然而兵連禍結,以終金世。故兵無常勝,制勝在勢。勢制兵者強,兵制勢者亡。跡襄之開築壕塹以自固,其猶元魏、北齊之長城歟?金之勢可知矣。勢屈而兵勝,亡國之道也。金以兵始,亦以兵終。嗚呼!用兵之始,可不慎歟,可不慎歟!