顯宗の諸子
顯宗の孝懿皇后は章宗を生み、昭聖皇后は宣宗を生み、諸姬の田氏は鄆王琮・瀛王瑰・霍王從彝を生み、劉氏は瀛王從憲を生み、王氏は溫王玠を生んだ。
從憲は風儀秀麗で聳え立ち、性質は寛厚、騎射を善くし、府僚を礼をもって遇し、任期満了で去る者には皆餞別を与えた。帝は特に愛重し、初めて病と聞くと、直ちに臨問し、銭五百万を賜った。宮に還ると、詔して府僚にその病状の増減を上奏させ、更に門司に勅して夜の一鼓(初更)に即座に奏上させ、五更に至るまで重ねて言わせた。薨去すると、帝は慟哭し、朝政を停めて臨奠すること再びであった。宛王永升に判大睦親府事を諭旨して言った。「瀛王の家事は、叔父が計画すべきである。聞くところによればその二姬が妊娠中である、もし男子を生めば、直ちにこれを付託せよ。」右宣徽使移剌都にその喪葬を護らせ、内庫の服で納棺し、その他必要なものも官から給した。諡して敦懿といった。
章宗の諸子
章宗の欽懐皇后は絳王洪裕を生み、資明夫人林氏は荊王洪靖を生み、諸姬は榮王洪熙・英王洪衍・壽王洪輝を生んだ。元妃李氏は葛王忒鄰を生んだ。
洪衍、本名は撒改、明昌四年に生まれ、間もなく薨去す。承安四年、英王を追封され、名を賜い、開府儀同三司を加えられる。
衛紹王の子
贊して曰く、章宗晚年、継嗣立てず、遂に衛紹王に属意す。衛紹王歴年永からず、諸子凡そ二十余年禁錮され、鎬厲王の諸子は四十余年禁錮され、長女鰥男皆婚嫁を得ず。天興初、方って其の禁を弛め、金の亡びて祚後なるを知るべし。
宣宗の三子
玄齡、或いは曰く莊獻太子の母弟、早く卒し、未だ爵を封ぜられず。或いは曰く麗妃史氏の生む所なり。
是の年十二月庚寅、宣宗喉痹の病に罹り、危篤。将に夕べならんとす。守純趣いて入侍す。哀宗後れて至る。東華門已に閉ず。守純宮中に在るを聞き、分かちて樞密院官及び東宮親衛軍総領移剌蒲阿を遣わし、軍三万余を集めて東華門外に屯せしむ。部署定まり、門を扣きて見えんことを求む。都點檢駙馬都尉徒單合住中宮に奏し、旨を得、符鑰を領して門を開く。哀宗入る。宰相把胡魯已に人を遣わし丞相高汝礪を止め、宮に入るを聴かず。護衛四人を以て守純を近侍局に監守す。是の夕、宣宗崩ず。明日、哀宗即位す。
天興初、守純の府第に肉芝一株を産す。高さ五寸許、色紅く鮮やかにして愛すべし。既にして枝葉津流し、地に濡れて血と成り、臭くして聞くべからず。鏟ぎ去るも再び生ず。夜は則ち房榻の間に群狐号鳴し、燭を秉って逐捕すれば則ち在る所を失う。未だ幾ばくもなく、訛可出質し、哀宗帰徳に遷る。明年正月、崔立乱る。四月癸巳、守純及び諸宗室皆青城にて死す。
賛に曰く、『詩経』に云う、「天は信じ難し、王となるは易からず、天位は殷の嫡子にありながら、四方を統べさせざらしむ」と。誠に然り。守忠は太子に立てられ、未だ幾ばくもなくして薨じ、その子鏗が立つも、また薨じ、哀宗もまた嗣子に乏しきは、豈に天にあらざらんや。正大の間、国勢日々に逼迫し、本支殆ど尽きんとす。哀宗なおかつ骨肉を疎んじ忌み、明恵の賢にあらざれば、荊王は幾ばくも免れざらんとす。豈に「宗子は城の如し」の道ならんや。
獨吉思忠
泰和五年、宋が盟を渝える端有り、平章政事僕散揆、河南を宣撫す。揆、宋人の懦弱なるを奏し、韓侂冑が事を用いるを以て、使を遣わして詰問せんことを請う。上大臣を召して議す。左丞相宗浩曰く、「宋は久しく敗れたる国、必ず敢えて動かず」と。思忠曰く、「宋は江表に羈棲すと雖も、未だ一日も中国を忘れず、但だ力足らざるのみ」と。その後果たして思忠の策の如し。六年四月、上大臣を召して宋を伐つ事を議し、大臣猶お足るに慮る無き者と云う。或いは曰く、「鼠窃狗盗、兵を用うるに非ず」と。思忠は前議を執りて曰く、「早く其の所為せざれば、彼将に誤らん」と。上深く然りとす。
七年正月、元帥左監軍紇石烈執中、楚州を囲み、久しく下す能わず。宰臣、大臣を命じて其の軍を節制し、及び兵を益して之を攻めしむるを奏請す。思忠行くを請う。上曰く、「執政を以て兵を将いて一小州を攻むるは、克つも亦武ならず」と。乃ち唐の宰相諸軍を宣慰する故事を用い、思忠を以て淮南宣慰使に充て、空名の宣敕を保持して功を立てる者を賞せしむ。詔して大臣をして秘書監に宿らしめ、各々奏帖を具えて以て聞かしむ。明日、詔して百官を広仁殿に集議せしめ、問対すること久し。既にして宋人来たりて和を請う、議遂に寝す。
承裕
承裕、本名は胡沙、頗る孫子・呉子の書を読み、宗室の子を以て符寶祗候に充つ。中都左警巡副使を除され、戸籍を通括し、百姓其の平なるを称す。殿中侍御史に遷り、右警巡使・彰徳軍節度副使・刑部員外郎に改め、本部郎中に転ず。会州・恵州刺史を歴任し、同知臨潢府事に遷り、東北路招討副使に改む。病を以て免ぜられ、起用されて西南招討副使となる。
泰和六年、宋を伐ち、陝西路統軍副使に遷り、俄かに通遠軍節度使・陝西兵馬都統副使に改め、秦州防禦使完顔璘と成紀界に屯す。宋の呉曦、兵五万を率い保岔・姑蘇等の谷より秦州を襲う。承裕・璘、騎兵千余人を以て之を撃ち走らせ、奔るを四十里に追い、凡そ六戦し、宋兵大敗し、首級四千余を斬る。詔して承裕に曰く、「昔乃祖乃父、戮力して戎旅にあり。汝年尚少にして、其の職に善くするを以て、故に汝を命じて完顔璘と同行して界を出でしむ。昔汝自ら兵三万を得れば以て事を弁ずるに足ると言えり。今石抹仲溫・術虎高琪及び青宜可を以て汝が軍と相合せば、計りて六万に可く、斯れ亦以て弁ずるに足らん。仲溫・高琪の兵は道険阻なり、汝が兵の道は甚だ易し。秦州より仙人関に至るは纔かに四百里のみ。長きを従りて計画し、以て朕が意に副えよ」と。詔して完顔璘に曰く、「汝向に北辺に在りて、幹勇を以て称せらる。頃に過失を以て、有司に逮問せらる。近く宋人と奮戦するを知るを以て、故に特ち赦免し、仍て副統に充つ。若し能く承裕を佐けて功業を立てば、朕官賞に於いて、豈に復た吝惜せんや。聞く汝事に臨み頗る黠なりと。若し復た自ら罪を速ぬれば、且つ汝を赦さじ」と。宋の呉曦、其の将馮興・楊雄・李珪をして歩騎八千を率い赤穀に入らしむ。承裕・璘及び河州防禦使蒲察秉鉉、逆撃して之を破る。宋の歩兵は西山に保ち、騎兵は赤穀に走る。承裕、部将唐括按答海を遣わし騎二百を率い馳せて宋の歩兵を撃たしむ。甲士蒙括、身を挺して先に入り之に乗ず。宋の歩兵大潰す。奔るを皁郊城に追い至り、二千余級を斬る。猛安把添奴、宋の騎兵を追い、千余人を殺し、楊雄・李珪を陣に斬る。馮興は僅かに身を以て免る。承裕兵を進め、成州を克つ。
賛に曰く、曹劌に言有り、「一たび鼓すれば気を作し、再びすれば衰え、三たびすれば竭く」と。夫れ兵は気を以て主と為す。会河堡の役、獨吉思忠・承裕沮喪して復た振るう可からず。金の亡国、此れに兆す。
僕散揆
僕散揆は、本名を臨喜といい、その先祖は上京の人であり、左丞相兼都元帥沂國武莊公忠義の子である。若くして家柄により選ばれて近侍奉禦となった。大定十五年、韓國大長公主に尚せられ、器物局副使に抜擢され、特に臨潢府路赫沙阿の世襲猛安を授けられた。近侍局副使、尚衣局使、拱衛直副都指揮使を歴任し、殿前左衛將軍となった。罷免された時、世宗は彼に諭して言った、「汝は宣獻皇后の縁者であるゆえ、公主を尚せしめ、宿衛に置いたのは、忠孝をもって自ら励むべきと思ったからである。先日、外の者と密かに議論し、汝の腹中の事は、朕には測りがたい。その職を罷めて郷里に帰れ」。まもなく起用されて濼州刺史となり、蠡州に改められ、入朝して兵部侍郎、大理卿、刑部尚書となった。
章宗が即位すると、出向して泰定軍節度使となり、臨洮府事を知ることに改められた。政績をもって聞こえた。河南路統軍使に昇進した。陝西提刑司が揆を「剛直明断にして、獄に冤滞なし。家人を禁戢し、百姓その面を識る者莫し。積石、洮の二州の旧寇皆遁走し、商旅通ずるを得たり」と挙薦した。ここにおいて官一階を進められ、なお詔を以て褒め諭された。
明昌四年、鄭王永蹈が謀逆を企て、事が発覚すると、揆はかつて諸王を私的に品評し、独り永蹈の性質が善く、静かで事を好まないと称した罪に坐し、死を免れて除名された。まもなく、五品の階位を回復し、起用されて同知崇義軍節度使事となった。戦功により西北路副招討に遷り、官七階を進められ、金の馬盂一つ、銀二百両、重彩十端を賜った。また戦功により西南路招討使兼天徳軍節度使に昇進し、金五十両、重彩十端を賜った。再び出て辺境を防禦し、転戦して塞外七百里に出で、赤胡睹の地に至って還った。優詔をもって褒め諭され、一官を遷し、なおその子安貞が邢國長公主を尚することを許し、かつ揆の入朝謝恩を許した。礼が成り、鎮に帰った。
ちょうど韓國大長公主が薨じたので、揆が赴いた時、上は彼に諭して言った、「北辺の事は、卿でなければ処理できない」。そこで戦馬二頭を賜い、即日に帰還させた。揆は沿辺に堡塁を築き塹壕を穿ち、連亘九百里に及び、営柵相望み、烽候相応じ、人は恣に田牧を得、北辺は遂に寧かになった。再び手詔をもって褒め諭され、かつ大用しようとし、興中府事を知る紇石烈子仁を以て彼と代え、方略を尽く子仁に授けるよう勅した。入朝すると、参知政事に拝され、中都路胡土愛割蠻の世襲猛安を授けられることに改められた。尚書右丞に進拝された。まもなく出て辺事を経略し、還って平章政事に拝され、濟國公に封ぜられた。
泰和五年、宋人が盟約を破ったので、揆を宣撫河南軍民使とした。上は彼に諭して言った、「朕が即位して以来、宰相を任用するに卿ほど長きはない。君臣の道合い、一体同心でなければ、ここに至ることはできなかったであろう。先の丞相(忠義)もかつて南辺の師を総べ、先朝に効力を尽くした。今また卿に委ねるのは、過ちなき挙動を信ずるからである。朕は好大事功を好むのではなく、内外を寧静にせんことを務めるのである。宋人が屈服して、再び議うべきことがなければよいが、もし恬然として改めないならば、兵を整えて淮を渡り、江左を掃蕩し、以て爾が先公の功を継ぐがよい」。即ち尚廄の名馬、玉の束帯、内府の重彩及び御薬を賜った。揆が汴に至ると、將士を搜練し、軍声大いに振るった。天寿節に当たり、特にその子安貞を遣わして宴を賜い、かつ白玉の杯を持たせて揆に飲ませ、また上秋獵の際に自ら獲た鹿の尾舌を賜物とした。宋人が罪に服したので、即座に宣撫使を罷め、揆を召還した。
六年春、宋人が再び数路より侵攻し、泗州を取り、霊璧を取り、寿春を包囲した。揆を左副元帥としてこれを討たしめた。揆が軍前に至ると、諸将校を集めて朝廷の弔伐の意を告げ、将士を分遣して敵を防禦させた。再び臨淮、蘄県を取り、符離、寿春の包囲もまた解けて去り、敵は屡々敗衄し、悉く国境を出て遁走した。上は即ち提点近侍局烏古論慶壽を遣わし、手詔を以て征討の事宜を労問し、なお玉具の剣一振り、玉荷蓮の盞一つ、金器百両、重彩十端を賜った。まもなくまた詔を以て褒め諭し、玉の鞍勒馬二頭及び玉具の佩刀、内府の重彩、御薬を賜い、以てその功を旌った。
宋人が既に敗退すると、上は進討しようとし、乃ち揆を召して闕に赴かせ、出師の期日を戒め、慶和殿で宴し、親しく諭して言った、「朕は趙擴が盟に背き、我が疆埸を侵すを以て、卿に措画を命じた。未だ期月に満たずして、諸処累ねて大捷を報ず。我が国威を振るい、彼が賊鋒を挫くは、皆卿の力であり、朕忘れることができない」。この日寵錫甚だ厚く、特にその次子寧壽を奉禦に収め、乃ち密かに成算を授け、軍に還らしめた。
十月、揆は大軍を総べ南伐し、兵を分けて九路より進んだ。揆は行省の兵三万を以て潁、寿より出で、淮に至ると、宋人が水南に旅拒した。揆は密かに人を遣わし淮水を測らせたところ、ただ八疊灘のみ渡渉可能であった。即ち奥屯驤を遣わし下蔡で兵を揚げ、渡河しようと声言させた。宋の帥何汝礪、姚公佐は鋭師を尽くして花靨に屯し備えた。揆は乃ち右翼都統完顏賽不、先鋒都統納蘭邦烈を遣わし、密かに八疊を渡り、南岸に駐屯させた。揆は大軍を麾して直ちにその陣を圧した。敵は我が卒の至るを慮らず、皆潰走し、自ら相蹂躙し、水に死する者算うべからず。進んで潁口を奪い、安豊軍を下し、遂に合肥を攻め、滁州を取り、その軍実を尽く獲た。上は使者を遣わし諭して言った、「先に卿の奏を得るに、先鋒既に潁口を奪い、偏師また安豊を下し、斬馘の数、各おの万を以て計る。近くまた西帥捷を奏す、棗陽、光化既に我が有と為り、樊城、鄧城もまた自ら潰散す。又聞く、随州闔城帰順し、山東の衆久しく楚州を囲み、隴右の師は期を克って界を出づと。卿は大兵を提げて合肥を攻む、趙擴これを聞き、料るに已に胆を破り、その神守を失えり。彼の計を度るに、和を乞うを上とす。昔嘗て三事を画きて卿に付せしが、今の事勢を以て計るに、径ち長江を渡るも、亦たその時なり。淮南既に我が有と為り、江を際として界と為すは、理宜しく然るべし。もし趙擴が表を奉り臣と称し、歳ごとに貢幣を増し、賊魁を縛送し、俘掠を還し、一に諭する所の如くならば、亦た兵を罷むべし。卿宜しく広く渡江の勢を為し、彼をして必死の憂い有らしめ、その請う所に従いてこれを縦ち、僅かに余息を以て生き長らえるを得しめ、豈に敢えて復た他慮を萌さんや。卿この時に於いて、江北を経営し、労徠安集し、その虐政横賦を除き、良吏を以て疲民を撫字し、精兵を以て要害を分守せば、未だ趙擴の頸を係えずと雖も、而して朕前に画きし三事、上功既に成れり。前に入見せし時、已に嘗て議定せしが、今復た諄諄たるは、卿の成功を決せんと欲するのみ。機会遇い難し、卿其れこれを勉めよ」。
やがて宋の将帥丘灊が果たして書を奉じて和を乞うたので、揆は先の五事を諭してこれを遣わした。さらに進軍して和州を包囲し、敵は騎兵一万五千を六合に駐屯させたが、揆はこれを偵知し、ただちに右翼をもって掩撃し、八千級を斬首し、瓦梁河に進んで屯し、真州・揚州などの諸路の要衝を押さえた。そこで軍騎を整列させ、旗幟をことごとく張り巡らし、長江の上下に沿って、すべて金兵が満ちた。ここにおいて江表は震恐した。宋の真州の兵数万が河橋を守ったので、ふたたび統軍の紇石烈子仁を遣わしてこれを攻撃させ、軍を分けて浅瀬を渡り、ひそかに敵の背後に出た。敵はこれを見て大いに驚き、戦わずして潰走し、二万余級を斬首し、その将帥劉侹・常思敬・蕭従徳・莫子容を生け捕りにしたが、いずれも宋の驍将であった。ついに真州を陥落させた。宋はふたたび陳璧を遣わして和を告げてきたが、揆はその乞う言辞が誠実でなく、ただ師を緩めようとしているだけだとして、これを退けた。宋人はすでに敗北を喫し、和議を請うことを得ず、ついに巨勝・成公・雷塘の諸所の貯水を決壊させて障害とし、その廬舎や蓄積をことごとく焼き払い、長江を渡って遁走した。
揆は春の盛んで地が湿っているため、長く留まることはできず、また兵士と馬を休養させたいと考え、ついに軍を整えて帰還した。下蔡に駐屯したとき、病に罹った。詔を下して宣徽使李仁恵とその子の寧寿を遣わし、太醫を引いて診察させ、なお中使を遣わして慰問させた。泰和七年二月、薨去した。訃報が聞こえると、上はこれを哀悼し、朝を停め、使者を遣わして喪を迎え、都城の北に殯した。百官が会葬し、車駕が臨んでこれを哭し、賻として銀一千五百両・重幣五十端・絹五百匹を賜い、その葬祭の物はすべて官から給された。諡して武肅といった。
揆は体は剛健で内は温和であり、物事と対立せず、民に臨むには恵みの政があった。その将たるや、軍門は鎮静で、賞罰は必ず行った。初めて淮を渡ったとき、ただちに浮橋を撤去するよう命じた。赴くところではすべて敵地の糧食に頼り、輸送の労はなかった。士卒を軽々しく用いることはなかったが、彼らと苦楽を共にし、人々もまた喜んでこれに用いられた。ゆえに南征北伐し、一代の名将と称された。
抹撚史乂搭
抹撚史乂搭は、臨潢路の人である。その祖先は功により世襲の謀克を授けられた。史乂搭は幼くして爵を襲い、辺境を守って功労があった。泰和六年、南方の辺境で戦争が起こると、同知蔡州防禦使事を授けられた。
五月、宋の将李爽が寿州を包囲し、田俊邁が蘄県を陥落させたので、平章政事僕散揆は諸将に言った、「符離・彭城は斉魯の蔽いであり、符離を守らなければ彭城はなく、彭城が陥落すれば斉魯は危うい」。そこで安国軍節度副使納蘭邦烈と史乂搭に精騎三千を率いて宿州を守備させた。俊邁が果たして歩騎二万を率いて来襲したので、邦烈・史乂搭は迎撃し、これを大破した。邦烈は流れ矢に当たった。宋の郭倬・李汝翼が五万の兵を率いて続いて到着し、ついに城を包囲し、激しく攻撃したが、城中から矢を集中して射かけ、敵は近づくことができなかった。ちょうど長雨が降り水があふれ、敵は野外に露営して疲労困憊していたので、邦烈は騎兵二百を潜ませて敵の背後に出て突撃させた。敵は混乱し、史乂搭が騎兵を率いてこれを蹂躙し、数千人を殺傷した。敵はさらに援軍が来ると聞き、ついに夜に遁走した。邦烈・史乂搭はその背後を追い、黎明に合撃し、これを大破し、田俊邁を捕らえた。十月、揆が行省兵三万を率いて潁州・寿州から出撃すると、史乂搭は驍騎将中軍副統となり、安豊軍を攻略し、霍丘・花靨で戦い、功績が多かった。十二月、和州攻撃に従軍し、流れ矢に当たって卒した。
史乂搭は体格は普通の人を超えず、しかし勇猛で戦闘に長け、用いる槍の長さは二丈あり、軍中では「長槍副統」と号された。また手箭を用いるのに巧みで、箭の長さは握りこぶしほどもなく、毎回百本余りを用い、鎧の中に散りばめておき、敵に遭遇すると箭を抜き、鞭でこれを振り回すか、あるいは指で挟み取って飛ばし投げ、数本の矢を一斉に放ち、当たらないことはなく、敵は神技と思った。その箭はすべて自ら工夫して作り、子弟にもその法を伝えることはできなかった。北部で厭山営を守ったとき、敵は特にこれを畏れ、近づこうとしなかった。死んだとき、将兵は皆これを惜しんだ。
宗浩
章宗が即位すると、出向して北京留守となり、三転して同判大睦親府事となった。北方に警報があると、宗浩に金虎符を佩かせて泰州に駐屯させ、便宜を以て事に当たらせた。朝廷は上京などの路の軍一万人を発して守備させた。宗浩は糧食の備蓄が整っておらず、また敵がまだ動く勇気がないと見込んで、その軍を分けて隆州・肇州の間で食糧を調達させた。この冬、果たして警報はなかった。北部の広吉剌は特に強悍で、しばしば諸部を脅迫して塞内に入った。宗浩は春の末で馬が弱っているときにこれを撃つよう請うた。当時、阻珝もまた叛き、内族の襄が北京で行省事を行っており、詔を下してこの事を議させた。襄は、もし広吉剌を攻め破れば、阻珝は東を顧みる憂いがなくなるので、これを留めて牽制の勢いとするのがよい、と論じた。宗浩は上奏した、「国家が堂堂たる勢いをもって、小さな部族を掃滅できず、かえって彼らを盾に借りようとするのか。臣はまず広吉剌を破り、それから兵を挙げて北の阻珝を滅ぼすことを請う」。奏上を二度行い、これに従った。詔を下して宗浩に諭して言った、「北部を征討しようとするのは、まさに卿の誠意であるが、さらに注意を加え、後悔を招かないようにせよ」。宗浩は偵察して、合底忻が婆速火などと結んでいることを知り、広吉剌の勢力は必ず分かれるだろう、彼らは我が討伐を恐れながら、さらに仇敵に足を引っ張られるならば、道理として必ず降伏を求めるはずで、呼び寄せることができるだろう、と考えた。そこで主簿の撒に軍二百を率いて先鋒となるよう命じ、戒めて言った、「もし広吉剌が降伏すれば、ただちにその兵を徴発して合底忻を図れ。なお残りの部族の所在を偵察し、速やかに来報せよ。大軍は進撃し、汝とともにこれを撃ち破ることは必至である」。合底忻とは、山只昆とともに北方の別部であり、強さを恃んで中立を保ち、どこにも属さず、阻珝・広吉剌の間を往来し、連年辺境をかき乱したが、すべてこの二部が原因であった。撒が敵境に入ると、広吉剌は果たして降伏し、ついにその兵一万四千騎を徴発し、馳せて報告して待機した。
宗浩は北進し、人に命じて三十日分の糧食を持たせ、移米河において撒と会合して共に敵を撃つよう報せたが、遣わされた者が誤って婆速火部に入り、これにより東軍は期日に遅れた。宗浩の前軍は忒里葛山に至り、山只昆の統べる石魯・渾灘の両部に遭遇し、これを撃退し、千二百級を斬首し、生口・車・畜産を多く捕獲した。呼歇水に進むと、敵の勢いは大いに窮し、ここに至って合底忻部長の白古帯・山只昆部長の胡必剌及び婆速火の遣わした和火者はいずれも降伏を乞うた。宗浩は詔を承け、諭してこれを釈放した。胡必剌は言上して、その部の迪列土が移米河近くにあり、ともに降ることを肯んぜず、討伐を乞うと。そこで軍を移して移米に赴き、迪列土と遭遇し、これを撃ち、三百級を斬首し、水に赴いて死んだ者は十のうち四五、牛・羊一万二千を獲、車・帳もこれに相当した。合底忻らは大軍の至るを恐れ、西に移米を渡り、輜重を棄てて遁走した。撒は広吉剌部長の忒里虎とともに追撃してこれを捕らえ、窊里不水において縦撃して大破した。婆速火九部の斬首・溺死者は四千五百余人、駱駝・馬・牛・羊を獲ること数えきれず。軍が還ると、婆速火は内属を乞い、併せて官吏の設置を請うた。上は優詔を下して褒め諭し、光禄大夫に遷し、獲た馬六千を牧に置いてこれを処した。翌年、東北部を宴賜し、まもなく枢密使に拝し、栄国公に封ぜられた。初め、朝廷は東北路招討司を泰州に置いたが、国境から三百里離れており、敵が侵入するたびに、出兵して追襲しようとする頃には、敵は既に遁走していた。ここに至り、宗浩は金山に移して要害を拠り、副招討二員を設け、左右に分置するよう奏上し、これにより敵は敢えて侵犯しなくなった。
中都・山東・河北の屯駐軍人の土地が不足し、官田の多くが民に冒占されていると聞き、宗浩に行省事を命じ、諸道に赴いて籍を括らせ、凡そ三十余万頃の土地を得た。還ると、倡女を従えた罪に坐し、憲司に糾弾され、真定府事を知るとして出された。西京留守に転じ、再び枢密使となり、尚書右丞相に進拝し、崇進を超授された。当時、北辺の不穏を戒め、壕塁を築いて守戍に備えることを議し、廷臣の多くは異同を唱えた。平章政事の張万公は力言してその不可を説いたが、宗浩のみが便宜であると主張し、そこで宗浩に行省事を命じてその役を監督させた。工事が完了すると、上は詔を賜って甚だ厚く褒賞した。撒里部長の陀括里が塞内に入ると、宗浩は兵を率いて追撃し、僕散揆の軍と合撃して、多くを殺獲し、敵は遁走した。詔して征還させ、入見すると、優詔を下して奨諭し、儀同三司に躐遷し、玉束帯一・金器百両・重幣二十端を賜り、左丞相に進拝した。
宋人が盟に背き、王師が南伐すると、平章政事の揆が病んだため、宗浩に都元帥を兼ねさせて進討を監督させた。宗浩は汴に馳せ至り、大いに兵勢を張り、自ら襄陽に赴いて軍を巡視して還った。宋人は大いに恐れ、知枢密院事の張岩に命じて書を奉り和を乞わせた。宗浩はその言辞が未だ順でないとしてこれを退け、なお臣と称し・地を割き・元謀の奸臣を縛って送る等の事を諭した。岩は再び方信孺を遣わしてその主趙擴の誓稿を持参させ、かつ擴が三使を併せ発し、天寿節を賀し及び通謝せんとし、なおその祖母謝氏の殂を報じ、都元帥宗浩に致す書を伝えさせた。
方信孺が還り、遠く報翰及び承った鈞旨を貽され、生民の休息を重んじ、曲げて包容矜軫の意を示されたことを拝見し、命を聞いて踊躍し、ひそかに自ら喜び、即ち奏聞を具し、大金皇帝の天覆地載の仁と、都元帥の海涵春育の徳を備述した。まもなく上旨を奉じ、急ぎ信使を遣わして宸庭に通謝し、なお先に信孺を行省に再詣させ、以て定議を請わしめた。区区の愚は、実に高明を恃み、必ずや洞照を蒙らんとし、重ねて本末を布し、幸いに垂聴あらんことを。
兵端の開くは、本朝の軽信に失うとはいえ、奸臣の蔽欺を痛く罪するも、早からざるにあらず。去歳五月より、鄧友龍を編竄し、六月にはまた蘇師旦らを誅した。この時、大国は未だ嘗て一たびも兵を出さず、本朝は即ち已に得た泗州を捐て、境外に屯する諸軍は尽く戍を徹して南に還らせ、悔艾の誠は、ここに見るべし。ただ名分の論は、今昔事殊なり、本朝皇帝は本より佳兵の意無く、況や関係至重、また豈に臣子の敢て言う所ならんや。
江外の地は、遮罩として恃む所、もし来諭の如くならば、何を以て国と為さん。大朝の当に念察すべき所なり。首事の人鄧友龍らの誤国の罪は、固より逃るる所無し、もし執縛して送らしむるは、本朝の自らその罰を臣下に致すを得ざるなり。所有の歳幣は、前書に既に大定の減じたる数を増し、これ上国においては、初め何を以て重軽と為さんや、ただ手を藉りて以て謝過の実を見んと欲するなり。もし上国この至情を諒とせば、物の多寡は、必ずや深く計らざるべし。況んや惟うに兵興以来、連歳創残し、賦入屡蠲し、もし又民に重く取らば、豈に元元無窮の困を基とせんや、窃かに計るに大朝も亦必ずや忍びざる所あらん。通謝の礼幣の外に、別に微誠を致し、庶幾くは是を以て彼に易えん。
その帰投の人は、皆雀鼠の偷生、一時の竄匿、往々として存亡を知らず、本朝既に用いる所無く、豈に去来を意とせん。隆興の時、固より大朝の名族貴将南来する者有り、和議の定まるに及び、亦嘗て各取り索めざるを約し、況や茲の瑣瑣、誠に何を以て雲為せん。もし大朝必ず追求せんと欲せば、尚お容れて拘刷せしめん。泗州等の処の駆掠の人に至りては、悉く当に護送して帰業せしむべし。
新好を締ぐ者は旧悪を念わず、大功を成す者は小利を較えず。力めて開陳を賜い、前過を捐棄し、他事を闊略し、玉帛交馳し、歓好初めの如く、海内寧謐にして、長く軍兵の事無からんことを欲望す。功烈昭宣し、徳澤洋溢し、鼎彝の紀する所、方冊の載する所、万世に垂れて、豈に既き有らんや。重ねて惟うに大金皇帝の誕節将に臨まんとし、礼当に修賀すべく、兼ねて本国多故、又言うに人使を遣わすに合し、接続津発し、已に公移を具し、取接を企望す。伏して冀わくは其の再に至り三に至り有加無已の誠を鑒み、急ぎ請盟の諾を践み、即ち成に底せしめ、感戴恩徳永永無極ならんことを。誓書副本は往復遷延を慮り、就以て録呈す。
初め、信孺の来るや、自ら和議遂に成るを以て、輒ち自ら通謝使所参議官と称した。大定中、宋人の和を乞うに、王抃を通問使所参議官と為し、信孺はこれに援いて例と為す。宗浩は其の軽妄を怒り、これを囚えて上聞した。朝廷も亦その行人たりながら両国の情を孚くす能わざるを以て、これを留めんとし、使を遣わして宗浩に問わしめた。宗浩曰く、「今信孺の事既に集まらず、還れば必ず罪を得ることを自ら知り、これを拘うるは適た他日に以て藉口する有らしむるなり。その恌易を数えて釈遣し帰らしめ、自ら窮して其の国人に白するに辞無からしむるに若かず。然らば則ち擴・侂胄必ず謹厚なる者を選んで来らん。」ここにおいてこれを遣わし、而して張岩の書に復して曰く。
方信孺重ねて書を以て来り、其の辞を詳味するに、請和の意は婉遜の若くは雖も、而して画する事は猶未だ悉く従わず、ただ泗州等の駆掠を還すべしと言うのみ。貢幣を責むるに至りては、則ち旧数を以て増と為さんと欲し、叛亡を追うに至りては、則ち横恩を以て例と為さんと欲し、而して臣と称し・地を割き・奸臣を縛送するの三事は、則ち並びに虚説を飾り、肯て約の如くせず。豈に朝廷の過求従うべからざる有りと為し、将た徳を度り力を量い、以て背城借一に足り、我が軍と角して一日の勝負をせんとする者かと為さんや。既に強く能わず、又弱く能わず、深く思慮せず以て将来の利害を計らず、徒に情なきの語を尺牘に形して郵伝を勤むるは、何ぞや。
兵器は凶器であり、これを好むのは不祥である。しかし聖人はやむを得ずこれを用いる。故に三皇・五帝も免れることはできなかった。どうして生民を思わないことがあろうか、順に逆らい義に背く者は赦すべからざるものがあるからである。かつてあの国は盟約を犯し、我が疆埸を侵した。帥府は命を受けて征討し、未だ出師に及ばなかったが、暫く各所の戍兵をもって、適宜に防禦し、向かう所は摧破し、敢えて当たる者なく、捕虜を執り首級を折ること、数え切れないほどであった。残りの衆は震駭し靡然として奔潰した。これにより侵された疆土は、直ちに底平し、泗州に至るまで、また労せずして回復した。今、自ら既に得たものを棄て、軍を収め戍を徹し、悔過の効果と為すという。これは誠実の言であろうか。陝西宣撫司の申報によれば、今夏、宋人の辺境を犯すこと十余度、全て我が軍に撃退され、梟斬捕獲すること、およそ億を数える。悔いて咎を改め、書を往来させ和を乞う間に、密かに賊徒を遣わして我が守圉を突かせ、不虞に乗じ、毫末を徼幸せんと図る。然らば和を請うて来る所以の理は、どこにあるというのか。
その名分を論ずる言、今昔の事が異なるというのは、大定の事とは確かに異なるからである。本朝の宋国に対する恩深きこと徳厚きこと、述べ尽くすべからず、皇統の謝章によって概ね見ることができる。世宗皇帝が和好に俯就され、三十年の間、恩沢の厚きこと、どうして忘れられようか。江表の旧臣たる我が朝に対し、大定の初め、正隆の失により南服が定まらなかったことを以て、特に大恵を施し、易えて侄国と為し、これを鎮撫された。今、小をもって大を犯すは、曲は彼にあり、既に大定の好を絶った以上、旧に復して臣と称するは、理において宜しい。もし臣子の敢えて言うところでないとするなら、皇統の時は何故敢えて言い、今独り敢えずというのか、これまた誠に然るというのか。また江外の地を以て遮罩と為すと言い、これを割けば国を為すこと無しという。藩籬の固きは、信義を守るに当たる。もしこれを務めなければ、長江の険も恃むべからず、区区たる両淮の地、何ぞ遮罩として国を為すに足らん。昔、江左六朝の時、淮南は屡々中国に属した。後周の顕徳年間に至り、南唐の李景が廬・舒・蘄・黄を献じ、江を画して界と為した。これも皆国を為すことができた。既にこのような故実がある以上、割地の事も何ぞ不可であろうか。
我が師が疆を出でて以来、下した州軍県鎮は既に我が有と為り、未だ下さざる者は即ち割いて献ずべきである。今、方信孺が持参した誓書には、疆界は並びに大国の皇統・彼の隆興年間に既に画定されたものに依ると云う。もしそうならば、既に彼の地を割くと言わず、翻って我が既に有するものを得んと欲する。これ理であろうか。また来書に云う、通謝の礼幣の外、別に銭一百万貫を備え、金銀各三万両に折り、専ら再び幣を増す責めを塞ぐと。また歳幣に五万両疋を添えると云う。その言に準ずるべきものなし。況んや和議未だ定まらず、輒ち前に具載の約を以て、誓書と為さんと擬し、又直ちに通謝等三番の人使を報ず。その自専この如く、どうして礼体に協うことがあろうか。この方信孺は成を求むることを自ら任じ、上国を臆度し、このように径ち往けば事必ず集まると謂い、軽く瀆し誑かし欺く、理として容るべからず。
直ちに具奏して聞かせ、欽んで聖訓を奉る。「昔、宣和・靖康の際、信を棄て盟に背き、我が師が罪を問うた時、三鎮を割いて和を乞うた。今、既に故なく兵を興し、信誓を蔑棄する。尽く江・淮の地を献ずるも、なお自ら贖うに足らず。況んや彼の国は嘗て自ら言う、叔父侄子と君臣父子は略々相遠からずと。もし応じて臣と称するに依るならば、即ち江・淮の間、中を取って界と為すことを許す。もし世に子国と為らんと欲すれば、即ち当に淮南を尽く割き、直ちに大江を以て界と為すべし。陝西の辺面は並びに大軍の既に占むるを以て定据と為す。元謀の奸臣は必ず縛送せしむべし。彼が懇ろに自らその罰を致さんと欲するに縁り、函首を以て献ぜしむべし。外、歳幣は五万両疋を添うるも、ただ皇統の旧額を復するのみ。どうして増と為すことがあろうか。更に五万両疋を添えしめ、悔謝の実を表すべし。向に汴陽にて和を乞うた時、嘗て賞軍の物を進む、金五百万両・銀五千万・表段里絹各一百万・牛馬騾各一万・駱駝一千・書五監。今、江表一隅の地、昔と異なるを以て、特ち矜憫を加え、ただ銀一千万両を量り輸して以て犒軍の用に充てしむ。方信孺の言語反覆、信を取るに足らず。李大性・朱致知・李璧・吳琯の輩は忠実の如し。軍前に詣り稟議せしむべし。方信孺の詭詐の罪は胡昉に過ぐ。然れども古より兵交える時、使人をその間に容る。姑く放ちて回報せしめよ。」伏して主上の聖徳寛裕光大、天の覆い地の容るるが如く、荒を包み罪を宥すに遇う。どうして欽承して以て仁恩の厚きに副わざらんや。もしなお稽違する所あらば、則ち和好の事、復た冀うこと勿れ。夫れ宋国の安危存亡、将にこれに係らん。更に審慮を期し、後悔を貽すこと無かれ。
泰和七年九月、汴にて薨ず。その後、宋人は竟に叔を以て伯と為すことを請い、歳幣を増し、犒軍銀を備え、奸臣韓侂冑・蘇師旦の首を函めて献じ、盟を乞うた。訃報を聞き、上震悼し、朝を輟め、その子宿直將軍天下奴をして喪所に奔赴せしめ、仍ち葬畢に繪像を都に持至らしめ、将に親臨奠せんとす。南京副留守張岩叟を以て敕祭兼発引使と為し、莒州刺史女奚列孛葛速を以て敕葬使と為し、仍ち軍前の武士及び旗鼓笛角各五十人を摘ましめ、外に随行の親属官員親軍をして葬所に送らしめ、賻贈甚だ厚し。諡して通敏と曰う。
贊に曰く、金は宗弼の江を渡りて還りて以来、既に淮を画して界と為す。その後、海陵が衆に咈いて兵を挙げ、国用虚耗し、上下心を離し、内難先ず作る。故に世宗の初め、章宗の末、南に事有るも、皆やむを得ざる所にして、詳問の使は毎先ず発す。侂冑の狂謀国を誤り、動くその時に非ず、敗を取るは宜なり。揆・宗浩は師出でて輒ち捷つも、行成の使を拒まず。儀幣書辞、抑揚増損の際、藉口すべき有れば、即ちその平を許す。函首の事、宋人も亦これに因りて以て自らその禍を除かんと欲するのみ。然りと雖も、揆・宗浩は常勝の家、史乂搭は驍勇の将、三人相継いで死し、和議も亦成る。天意は蓋し已に南北の人を休息せしめんとするか。