金史

列傳第三十:毛碩 李上達 曹望之 大懷貞 盧孝儉 盧庸 李偲 徒單克寧

列傳第三十:毛碩 李上達 曹望之 大懷貞 盧孝儉 盧庸 李偲 徒單克寧

毛碩

原文毛碩

毛碩は、字を仲権といい、甘陵の人である。宋の末年に、弓馬子弟の試験があり、碩はこれに合格し、高陽関路安撫司準備差使に任じられた。まもなく河間尉に辟召され、さらに兵馬都監に辟召された。宗望の軍が到着すると、碩は自らの管轄区域を率いて降伏した。斉国が建てられると、淮東路第一副将から滑州知事に抜擢された。劉麟が宋を討伐した際には、行営中軍統制軍馬を兼任した。天眷年間に、汴京路・山東西路兵馬都監を歴任した。皇統元年、拱州知事を権知した。宋の将軍張俊が亳州を占拠し、柘城の酒監房人傑がこれに呼応して反乱を起こしたので、碩は兵を発してこれを討伐した。柘城に至り、自ら城門を叩き、長老を呼び出して意を諭した。県民は人傑を縛って降伏した。碩はまっすぐに県の役所に入り、百姓を召集して慰撫したので、人々は皆感悦し、石にその事績を刻んで記念とした。四年、正式に拱州刺史に任じられた。元帥梁王宗弼が承制により武義將軍に超任し、曹州知事に改めた。ある書生が碩に手紙を投じ、その文辞が誹謗に及んだので、僚属たちは皆耐えられなかった。碩は彼を上座に招き、謝して言った、「もし碩が常にこのような言葉を聞くことができれば、過ちを少なくすることができるだろう」。士論はこの故をもって彼を称賛した。鄭州防禦使に遷り、まもなく通州に改めた。天徳二年、陝西路転運使を兼任した。碩は、陝右の辺境が荒廃し、栽培される作物は麻・粟・蕎麦に過ぎず、租税の収入が甚だ薄く、市井の交易は川絹と乾薑のみで、商売が流通せず、酒税の収入が減少耗損していることを理由に、汴京・燕京の例に倣って交鈔を発行し流通させることを請願した。また、鞏州・会州・徳順の道路は険阻が多く、塩引の斤数が重すぎるので、一引を三四に分け、軽便に従うことを請願した。朝廷はこれらを全て聞き入れた。秦州の倉庫の粟は古くから積み重なっていたが、百姓に支移(他州への輸送)を命じられた者は、ただ本州でその価値を折納するだけで、公私ともに便利であった。河東南路転運使に改めた。上奏して言った、「近ごろ、商酒の課税を定立するに当たり、土地の産物の豊かさや貧しさ、戸口の多少、および現在と過去の物価の増減を考慮せず、一律に取り立てを求めたため、監官が拘束され、身を失い家を破り、雇い賃を折り合って逃亡する者がある。あるいは奸吏が実銭を盗み取り、代わりに掛け売りの証文を官府に納入するため、河東には積み残りの負債が四百余万貫に至り、公私ともにこれを苦しんでいる。今後は酒官に対し、掛け売りによる代納を折り当てることを禁じ、ただ実銭の収用のみを許すようにすれば、官民ともに便利である」。この建議は今日まで行われている。任期が満了すると、南京路都転運使に任じられた。大定六年に致仕し、家で死去した。碩は文雅で事を好み、性格は謹厳であり、古人の行いで時世に有益なものを見るたびに、常に書き記して座右に置き、官に臨む際の戒めとしたという。

原文毛碩,字仲權,甘陵人。宋末,試弓馬子弟,碩中選,調高陽關路安撫司準備差使。尋辟河間尉,再辟兵馬都監。宗望軍至,碩以本部迎降。齊國建,由淮東路第一副將擢知滑州。劉麟伐宋,充行營中軍統制軍馬。天眷間,曆汴京路、山東西路兵馬都監。皇統元年,權知拱州。宋將張俊據亳州,而柘城酒監房人傑叛以應俊,碩發兵討之。至柘城,躬扣城門,呼耆老以諭意。縣人縛人傑以降。碩徑入縣署,召百姓慰安之,眾皆感悅,刻石紀其事。四年,真授拱州刺史。元帥梁王宗弼承制超武義將軍,改知曹州。有書生投書于碩,辭涉謗訕,僚屬皆不能堪。碩延之上座,謝曰:「使碩常聞斯言,庶乎寡過。」士論以故嘉之。遷鄭州防禦使,尋改通州。天德二年,充陝西路轉運使。碩以陝右邊荒,種藝不過麻、粟、蕎麥,賦入甚薄,市井交易惟川絹、幹薑,商賈不通,酒稅之入耗減,請視汴京、燕京例給交鈔通行。而鞏、會、德順道路多險,鹽引斤數太重,請一引分作三四,以從輕便。朝廷皆從之。秦州倉粟陳積,而百姓有支移者,止就本州折納其直,公私便之。改河東南路轉運使。上言:「頃者,定立商酒課,不量土產厚薄、戶口多寡及今昔物價之增耗,一概理責之,故監官被系,失身破家,折傭逃竄。或為奸吏盜有實錢,而以賒券輸官,故河東有積負至四百餘萬貫,公私苦之。請自今禁約酒官,不得折准賒貸,惟許收用實錢,則官民俱便。」 至今行之。秩滿,除南京路都轉運使。大定六年致仕,卒於家。碩文雅好事,性謹飭,每見古人行事有益於時者,常書置座右,以為蒞官之戒雲。

李上達

原文李上達

李上達は、字を達道といい、曹州済陰の人である。宋の時代に、蔭補により官に補され、累進して東平府司戸参軍となった。撻懶たつらんが東平を取った時、上達は軍需物資を供給し、その処理は称賛された。斉国が建てられると、吏部員外郎となり、戸部の事務を摂行した。劉豫が什一の法を行い、豊作の年には多く納めさせ、凶作の年には少なく取るという、古人の助法に倣った制度であった。収穫の時期に、蓄積や貯蔵をする際、民が実物を官府に納入しないことがあり、官府もまた完全には信じようとせず、そこで密告が起こり訴訟が頻繁になり、公私ともにこれを苦しんだ。上達はその弊害を論じ、豫はこれを改めて五等の制を定めた。斉国が廃され、河南が宋人に与えられると、上達は土地に従って宋に入った。宗弼が再び河南を取ると、上達は同知大名尹となり、陝西・河南を按察した。この時、関・陝・蒲・解・汝・蔡の民が飢饉に陥ったので、上達は便宜を以て倉粟を発して百姓を賑済した。累進して山東西路転運使となった。上達が官に就いて二年、以前より三十余万貫を増収した。戸部はその方法を隣接する路に頒布した。上達は吏事に長け、煩雑な事務を処理することができ、狡猾な吏も欺くことができず、赴任先で称賛された。官の任で死去した。六十一歳。

原文李上達,字達道,曹州濟陰人。在宋時以廕補官,累東平府司戶參軍。撻懶取東平,上達給軍須,號辦治。齊國建,為吏部員外郎,攝戶部事。劉豫行什一之法,樂歲輸多,歉歲寡取之,蓋古人助法也。收斂之時,蓄積蓋藏,民或不以實輸官,官亦不肯盡信,於是告訐起而獄訟繁,公私苦之。上達論其弊,豫改定為五等之制。齊國廢,以河南與宋人,上達隨地入宋。宗弼複取河南,上達為同知大名尹,按察陝西、河南。是時,關、陝、蒲、解、汝、蔡民饑,上達輒以便宜發倉粟賑百姓。累遷知山東西路轉運使。上達到官再期,比舊增三十餘萬貫。戶部以其法頒之鄰路。上達長於吏事,能治繁劇,猾吏不能欺,所至稱之。卒官,年六十一。

曹望之

原文曹望之

曹望之は、字を景蕭といい、その先祖は臨潢の人で、遼の末期に宣徳に移り住んだ。天会年間、秀民の子として選抜され女真文字の学生に充てられた。十四歳で学業を修め、西京教授に任じられた。元帥府書令史となり、正令史に補され、行台省令史に転じた。教授の資格を記録され、修武校尉に補され、右司都事に任じられた。吏部侍郎田玨は平素より望之を軽んじ、望之が交わりを願ったが受け入れず、遂に蔡松年・許霖と結託して党獄を引き起こした。行台吏部員外郎に改めた。

原文曹望之,字景蕭,其先臨潢人,遼季移家宣德。天會間,以秀民子選充女直字學生。年十四,業成,除西京教授。為元帥府書令史,補正令史,轉行台省令史。錄教授資,補修武校尉,除右司都事。吏部侍郎田玨素薄望之,望之願交不肯納,遂與蔡松年、許霖構致黨獄。改行台吏部員外郎。

海陵王が宰相であった時、私的に書簡を送って懐柔しようとしたが、望之は従わなかった。天徳元年、同知石州軍州事に転じ、事に坐して免官された。母の喪に服し、しばらくして、絳陽軍節度副使に任じられ、入朝して戸部員外郎となった。詔により牛一万頭を買い、按出虎の八猛安もうあんで南京に移住する者に給付することとなり、望之がその給付を主管した。撒八が反乱を起こすと、甲冑兵器八万を転送して洺州から燕子城に輸送した。米八十万斛を蔡水から淮水に入れて運び、宋討伐の諸軍に供給する任務を、一日の期限で命じられた。望之は期限通りに事を成し遂げた。本部郎中に進み、特に進士及第を賜った。

原文海陵為相,嘗以書致其私,望之不從。天德元年,調同知石州軍州事,坐事免。丁母憂,久之,除絳陽軍節度副使,入為戶部員外郎。詔買牛萬頭給按出虎八猛安徙居南京者,望之主給之。撒八反,轉致甲仗八萬自洺州輸燕子城。運米八十萬斛由蔡水入淮,饋伐宋諸軍,期以一日。望之如期集事。進本部郎中,特賜進士及第。

大定初年、窩斡を討伐した際、望之は軍糧を主管し、給与に節度があり、凡そ糧食三十万石、飼料用の草五十万石を節約した。帥府が捷報を入奏すると、議する者は転輸を止めようとしたが、望之は元凶が未だ誅殺されていないので、備えを緩めてはならないと論じた。まもなく大軍が追討し、果たしてこれに依って事を成し遂げた。功労により一階進み、兼ねて同修国史となった。大塩濼に官を設けて塩を専売し、民に米との交易を許すことを請願した。民が集落を成せば、辺境を固めることができ、その利益は計り知れない。朝廷はこれに従った。その後、貯蔵された米は二十余万石に及んだ。そして東北路が凶作に陥った時、これに依って救われた者は数え切れなかった。

原文大定初,討窩斡,望之主軍食,給與有節,凡省糧三十萬石,省剉草五十萬石。帥府以捷入告,議者欲遂罷轉輸,望之以為元惡未誅,不可弛備。既而大軍追討,果賴以濟。以勞進一階,兼同修國史。請於大鹽濼設官榷鹽,聽民以米貿易,民成聚落,可以固邊圉,其利無窮。從之。其後凡貯米二十余萬石。及東北路歲饑,賴以濟者不可勝數。

三年、上(世宗)は言った、「正隆年間の兵乱以来、農桑は廃れ、猛安謀克ぼうこくの屯田は多く法に適っていない」。詔を下して戸部侍郎魏子平・大興少尹同知中都転運事李滌・礼部侍郎李願・礼部郎中移剌道・戸部員外郎完顏兀古出・監察御史夾谷阿裏補および望之を分遣して農事を勧め、職官の善悪を廉問させた。望之が還って上奏し、諸路の胥吏を淘汰すればその半数を減らすことができると請願した。詔では胥吏は従来通りとした。ここにおいて初めて貼書の使用を禁じたという。本部侍郎に遷り、大内の修繕費用の実査・管理を領し、費用を大いに節減した。再び功労により階を進められ、上は召見して諭し励ました。

原文三年,上曰:「自正隆兵興,農桑失業,猛安謀克屯田多不如法。」詔遣戶部侍郎魏子平、大興少尹同知中都轉運事李滌、禮部侍郎李願、禮部郎中移剌道、戶部員外郎完顏兀古出、監察禦史夾谷阿裏補及望之分道勸農,廉問職官臧否。望之還言,乞汰諸路胥吏,可減其半。詔胥吏如故。於是始禁用貼書雲。遷本部侍郎,領複實繕修大內財用,費用大省。複以勞進階,上召見諭勉之。

望之の家奴の袁一が妖妄な言葉を口にしたので、大興府がこれを取り調べた。望之は恐れ、戸部令史劉公輔を使って大興少尹王全にその事を尋ねさせた。王全は事の次第を公輔に話し、公輔はそれを望之に伝えた。御史台が劉公輔が獄情を漏洩したと弾劾上奏した。上は言った、「妖妄な言葉を、互いに伝え合うとはどういうことか」。ここにおいて、望之は杖刑一百、王全は杖刑八十、劉公輔は杖刑一百五十に処せられ、除名された。

原文望之家奴袁一言涉妖妄,大興府鞫治。望之恐,使戶部令史劉公輔問其事于大興少尹王全,全具其事語公輔,公輔以語望之。禦史台劾奏劉公輔言泄獄情。上曰:「妖妄之言,交相傳說何也?」於是,望之決杖一百,王全杖八十,劉公輔杖一百五十,除名。

まもなく、運河が埋もれて塞がった。世宗が郊外に出てこれを見、その原因を問うた。主管の者が奏上して言った、「戸部が計画を立てようとしないので、長年のうちにこのようになったのです」。上は望之を責めて言った、「水運があるのに浚渫せず、陸運を用いるとは、民力を煩わせ浪費する。罪は汝らにある。速やかにこれを修治せよ」。尚書省が奏上して、夫役数万人を用いるべきであるとした。上は言った、「今は春の耕作期である。民を労してはならない。宮籍監戸および東宮・諸王の従者を摘出して役に充てよ。もし不足すれば、五百里以内の軍夫をもってこれを補え」。

原文頃之,運河堙塞,世宗出郊見之,問其故。主者奏曰:「戶部不肯經畫,歲久以致如此。」上責望之曰:「有水運不浚治,乃用陸運,煩費民力,罪在汝等,其往治之。」尚書省奏當用夫役數萬人。上曰:「方春耕作,不可勞民。以宮籍監戶及摘東宮、諸王人從充役,若不足即以五百里內軍夫補之。」

『太宗実録』が完成し、監修国史の紇石烈良弼は金帯一腰・重彩二十端を賜った。同修国史の張景仁・劉仲淵・曹望之は皆、銀貨と絹布をそれぞれ賜った。望之は賞賜が薄いと嘆き、人に言うには、「花を植え接ぎ木する者にまで爵位を加え、勤労する者は官を昇進させない」と。間もなく、張景仁が翰林学士に昇進すると、望之はまた言った、「他人には便宜を図って派遣するのに、独り我に及ばないのか」と。世宗はこれを聞き、望之を出して德州防禦使とし、彼に言うには、「汝は人となりは有能だが心が忠実でない。朕がかつて安州に春水に行った時、人々は汝に君主に仕える義がないと言った。朕は臣下に命じ、過ちがあれば即座に諫争すべきと。汝はただ面従し、退けば誹謗議論する、これは不忠不孝である。汝は自ら五品から四品に昇進し、『太宗皇帝実録』が完成して優れた銀貨と絹布を賜りながら、心を尽くし力を竭くすことを思わず、ただ官位と賞賜を覬覦する。今、汝を外任に出し、心を改め慮りを洗うべきである。そうでなければ、身すらも保てないであろう」と。望之は德州に到着し、善政を施し、百姓は生祠を建立した。同知西京留守事に改めた。

原文《太宗實錄》成,監修國史紇石烈良弼賜金帶一、重彩二十端。同修國史張景仁、劉仲淵、望之皆賜銀幣有差。望之歎賞薄,謂人曰:「栽花接本乃加爵命,勤勞者不遷官。」無何,張景仁遷翰林學士,望之又曰:「止與他人便遣,獨不及我哉。」世宗聞之,出望之德州防禦使,謂之曰:「汝為人能幹而心不忠實。朕前往安州春水,人言汝無事君之義。朕敕臣下,有過即當諫爭。汝但面從,退則謗議,此不忠不孝也。汝自五品起遷四品,《太宗皇帝實錄》成,優賜銀幣,不思盡心竭力,惟官賞是覬。今出汝於外,宜改心滌慮。不然,則身亦莫保。」望之到德州,有惠政,百姓為立生祠。改同知西京留守事。

上書して便宜の事を論じた。その一は、山東・河北の猛安謀克が百姓と雑居し、民は多く失業していること。陳・蔡・汝・潁の間は土地広く人稀であるから、百姓を移してその地を充実させ、数年賦税を免除して安んじ集めるべきである。百姓で亡命し、及び軍中に役を避ける者は、その人を実査し、本貫に還らせる。あるいは近県に編入して客户とし、あるいは佃戸として留まる者も、その姓名を登録する。州県と猛安の事が干渉する者は互いに与党して隠匿せず、これによって軍民協和し、盗賊が止み息むことを望む。その二は、薦挙の法が虚文で実がないこと。宰相は抜擢するにその知る者及びその識る者に及び、その知らざる者には及ばない。内外の官が挙げる者もまた用いられず、あるいは朋党と指摘され、遂に敢えて再び挙げない。宜しく宰執に毎年三品官二人を挙げさせ、御史大夫以下の内外官は任期終了時に二人を挙げさせ、これ以下は品階によって差等を設ける。任期終了時に挙げない者は転官の際に昇進を留め、三品官は後任の俸給を三月削る。挙げられた者が既に改除された場合、吏部は類別に品第し、四半期ごとに上奏する。三品官に欠員があれば類第四品の中から補任し、四品・五品以下はこれを見て差等とする。格別に待遇すべき者は、宰執が才能・行い・功績・実情を具えて上聞する。挙げたことが当否に応じて罪は律に従う。廉潔で節操ある士人で令史・幕僚として老い、挙主のない者、七考(七回の考課)で贓私罪のない者は、朝官の三考の功労叙位に準ずる。吏部は毎四半期ごとに外路の職官姓名を図示し、一路を一図とし、贓汙の者をその名下に大書し、畏れ慎むことを知らしめる。外任の五品以上の官が改除される時、代わる者に功過を具えて上聞させる。六十歳以上の者は、任期終了して赴任し、有司がその視聴精力を察し、老病で事務を処理できなければ、半禄を与えて罷免し帰らせる。その三は、守辺の将帥及び沿辺の州県官が軍民を漁り剥ぎ、擅に力役を興すこと。宜しく毎年監察御史を派遣して巡回させ察させる。辺部に訴訟があれば、招討司は白身人を遣わして征断させてはならず、宜しく省部の出身ある女直じょちょく・契丹人及び県令・丞・簿の中から廉能な者を選び、その風俗に因り、略々科条を定め、簡易を旨とする。征断した羊馬は官に籍録し、もし辺部が饑饉に遇えば、即ちこれをもって賑給する。招討及び都監が事を視るに当たり、宜しく辺部の駝馬饋送を制限すべきである。招討司の女直人戸は、あるいは野菜を摘んで艱食を救うが、軍中の旧籍で馬が死ねば、一村均しく銭を出して補買し、往々にして妻子を売り、耕牛を売ってこれを備える。臣は恐らく数年後、辺防が困弊し、臨時に賑済すれば、財を十倍費やしても益なく、早く処置すれば、財用省くして辺備実るであろう。官が軍箭を与え尽くせば、市で補うが、皆朽ち鈍って用に堪えない。毎年官箭一分を与え、その欠を補うべきである。辺民が食糧を欠き米を与えれば、地遠く重きを負い、往々にして倉に就き安売りして去る。口数を計って銭を支給すれば、公私両便である。陝西の正副は、猛安謀克のように土人一員を用いるべきであり、隊将もまた土人を参用し、久しくその任に居らせる。弓箭田を増やし、その賦役を免除する。廉吏を提挙とし、総管府以下の官を挙察させる。農隙に校閲し、武備を厳にする。これにより太平の時に経略の制があるであろう。

原文上書論便宜事:其一,論山東、河北猛安謀克與百姓雜處,民多失業。陳、蔡、汝、潁之間土廣人稀,宜徙百姓以實其處,複數年之賦以安輯之。百姓亡命及避役軍中者,閱實其人,使還本貫。或編近縣以為客戶,或留為佃戶者,亦籍其姓名。州縣與猛安事干涉者無相黨匿,庶幾軍民協和,盜賊弭息。其二,論薦舉之法虛文無實。宰相拔擢及其所識,不及其所不識。內外官所舉亦輒不用,或指以為朋黨,遂不敢複舉。宜令宰執歲舉三品二人,御史大夫以下內外官終秩舉二人,自此以下以品殺為差等。終秩不舉者遇轉官勒不遷,三品者削後任俸三月。其舉者已改除,吏部以類品第,季而上之。三品闕則於類第四品中補授,四品五品以下視此為差。其待以不次者,宰執具才行功實以聞。舉當否罪當如律。廉介之士老於令幕無舉主者、七考無贓私罪者,准朝官三考勞敘。吏部每季圖上外路職官姓名,路為一圖,大書贓汙者於其名下,使知畏慎。外任五品以上官改除,令代之者具功過以聞。年六十以上者,終更赴調,有司察其視聽精力,老疾不堪厘務,給以半祿罷遣。其三,論守邊將帥及沿邊州縣官漁剝軍民,擅興力役,宜歲遣監察禦史周行察之。邊部有訟,招討司無得輒遣白身人征斷,宜於省部有出身女直、契丹人及縣令丞簿中擇廉能者,因其風俗,略定科條,務為簡易。征斷羊馬入官籍數,如邊部遇饑饉,即以此賑給之。招討及都監視事,宜限邊部饋送駝馬。招討司女直人戶,或擷野菜以濟艱食,而軍中舊籍馬死,則一村均錢補買,往往鬻妻子、賣耕牛以備之。臣恐數年之後,邊防困弊,臨時賑濟,費財十倍而無益,早為之所,則財用省而邊備實矣。官給軍箭用盡,則市以補之,皆朽鈍不堪用,可每歲給官箭一分,以補其闕。邊民闕食給米,地遠負重,往往就倉賤賣而去,可計口支錢,則公私兩便。陝西正副,宜如猛安謀克用土人一員,隊將亦宜參用土人,久居其任。增弓箭田,複其賦役。以廉吏為提舉,舉察總管府以下官。農隙校閱,以嚴武備。則太平之時有經略之制矣。

また六塩場の用人について論じ、宜しく戸部に公議させて辟挙させるべきである。漕運について論じ、先ず河倉の現在高を計り、通州の収容高を計り、京師の歳費を計るべきである。今、近河の州県の歳税は六七万石あるが、小民には入資の費用があり、富室は転輸の利を収める。宜しく実数を計って税入を科すべきである。民間の私銭が苦悪であることについて論じ、宜しく官銭五百で私銭千を換え、一ヶ月を期限として換えさせ、期限過ぎれば銷銭法に坐すべきである。州府の力役銭物について論じ、戸部が印署白簿を頒布し、全て書かせて審閲を待ち、畏避して書かない者は坐すべきである。工部の営造調発が民生業を妨げることについて論じ、諸路の射糧軍は人数を酌量し、武芸を習わせ、三年を期して成らせ、民の調発を止めるべきである。

原文又論六鹽場用人,宜令戶部公議辟舉。論漕運,先計河倉見在幾何,通州容受幾何,京師歲費幾何。今近河州縣歲稅或六七萬石,小民有入資之費,富室收轉輸之利,宜計實數以科稅入。論民間私錢苦惡,宜以官錢五百易私錢千,期以一月易之,過期以銷錢法坐之。論州府力役錢物,戶部頒印署白簿,使盡書之,以俟審閱,有畏避不書者坐之。論工部營造調發,妨民生業。諸路射糧軍約量人數,習武藝,期以三年成,以息調民。

上書が奏上され、多くは採納された。本官のまま北辺で六部事を行い、召されて戸部尚書に拝された。上は彼を責めて言った、「汝は以前侍郎として、不忠により外補されたが、頗る銭穀に習熟できるので、故に尚書の重責を任せる。前非を改め、新たな効果を図るべきである」と。

原文書奏,多見採納。以本官行六部事於北邊,召拜戶部尚書。上數之曰:「汝前為侍郎,以不忠外補,頗能練習錢穀,故任以尚書之重,宜改前非,以圖新效也。」

この時、戸部尚書高德基が俸粟を高く評価した罪で責められ降格し、世宗は望之が出納を吝しむのはあるいは徳基を戒めているのかと思い、既に出した後、人を遣わして諭した、「高徳基の粟価を下げることに拘らず、要は平価にあるのみである」と。十五年、新宮が完成し、世宗は新宮に行幸し、望之に勅して言った、「新宮中に必要なものは、民間から取るな」と。良民の夫婦が東京留守完顔かんがん彀英の家に身を質入れし、期限が終わっても返さず、尚書省が東京に下って審理させた。望之は言う、彀英が留守であるので、その同官は必ずや阿諛し従い、窮めて究めようとしないであろう、他州に移すべきであると。

原文是時,戶部尚書高德基坐高估俸粟責降,世宗念望之吝出納或懲德基也,既出,使人諭之曰:「勿以高德基下粟直,要在平估而已。」十五年新宮成,世宗幸新宮,敕望之曰:「新宮中所須,毋取於民間也。」有良民夫婦質身于東京留守完顏彀英家,期終而不遣,尚書省下東京鞫治。望之言彀英為留守,其同官必且阿徇,不肯窮竟,當移他州。

望之は久しく事に習熟し、銭穀を治める名があり、性剛愎で、頗る沾沾自ら露わにし、執政を希覬した。而して刑部尚書梁肅は宋国使を詳問して還り、世宗はかつて彼を執政にしようと思ったが、久しく用いられず、また頗る炫耀して進用を求めた。世宗は左丞相紇石烈良弼に言った、「曹望之・梁肅は知られることを急ぎ、躁進に陥っている」と。遂に梁肅を出して済南尹とした。数年して、乃ち召して参知政事に拝した。而して望之は終に戸部尚書のままで、年五十六。世宗はその未だ用いられざるを惜しみ、銭三千貫を賜い、勅使を遣わして祭らせ、賻銀五百両・重彩二十端・絹二百匹を贈り、その子淵を奉禦とし、澤を筆硯承奉とした。

原文望之久習事,有治錢穀名,性剛愎,頗沾沾自露,希覬執政。而刑部尚書梁肅自詳問宋國使還,世宗嘗欲以為執政,久而未用,亦頗炫耀求進。世宗謂左丞相紇石烈良弼日:「曹望之、梁肅急於見知,涉於躁進。」遂出梁肅為濟南尹。數年,乃召拜參知政事。而望之終於戶部尚書,年五十六。世宗惜其未及用,賜錢三千貫,敕使致祭,賻銀五百兩、重彩二十端、絹二百匹,以其子淵為奉禦,澤為筆硯承奉。

その後、尚輦局が出身人で年六十余りで事に臨める者を挙げたが、世宗は言った、「豈にこの輩の為に官を惜しむものか、但だこの輩は専ら官銭を盗取することを謀生の計とし、用いるべからざるなり」と。ここにおいて監臨格式を更改しようとし、戸部尚書劉瑋に問うた。瑋は監官が己を誹謗することを恐れ、実情を答えなかった。世宗は因って望之を思い、嘆いて言った、「望之の敢行するに如かざるなり」と。

原文其後,尚輦局舉出身人年六十餘可以臨事,世宗曰:「豈為此輩惜官邪,但此輩專以盜取官錢為謀生計,不可用也。」由是欲更改監臨格式,以問戶部尚書劉瑋。瑋恐監官謗己,不肯實對。世宗因思望之,歎曰:「不如望之之敢行也。」

望之は初め学ばなかったが、貴くなってから、少し読書を知り、遂に刻苦して自ら成し遂げ、詩集三十巻があった。

原文望之初不學,及貴,稍知讀書,遂刻苦自致,有詩集三十卷。

大懷貞

原文大懷貞

大懷貞は、字を子正といい、遼陽の人である。皇統五年に閤門祗候に任じられ、三度転じて東上閣門使となった。母の喪に服したが、起復して符寶郎となり、累官して右宣徽使に至った。正隆年間に宋を討つとき、武勝軍都総管となった。大定二年、洺州防禦使兼押軍萬戸に任じられ、沂州に改め、さらに彰国・安武軍節度使に転じた。県尉が盗賊を捕らえ、一つの旗を得た。その上に亢宿の図があった。これを詰問すると、謀叛の状があり、株連すること数万人に及んだ。懷貞は乱民の刑に当たるとして、その首謀者十八人を誅することを請い、残りは皆これを釈放した。かつて私忌に僧数人に飯を施したが、その中に一人の僧が並ならぬ様子であった。懷貞が問うて言うには、「汝は何処の者か」と。答えて言うには、「山西の人です」と。さらに問うて、「かつて盗賊をして人を殺させたことはないか」と。答えて言うには、「ありません」と。後三日して盗賊を詰問すると、果たしてこの僧を引き出し、皆その明察に服した。興中尹に改めた。錦州の富民蕭鶴寿が途中で人を殺し、府少尹の家に匿われた。役人が捕らえられず、懷貞は計略をもってこれを取り、法に置いた。彰徳軍節度使に改め、卒した。

原文大懷貞,字子正,遼陽人。皇統五年,除閤門祗候,三遷東上閣門使。丁母憂,起複符寶郎,累官右宣徽使。正隆伐宋,為武勝軍都總管。大定二年,除洺州防禦使兼押軍萬戶,改沂州,再遷彰國、安武軍節度使。縣尉獲盜,得一旗,上圖亢宿。詰之,有謀叛狀,株連幾萬人。懷貞當以亂民之刑,請誅其首亂者十八人,餘皆釋之。嘗以私忌飯僧數人,就中一僧異常,懷貞問曰:「汝何許人也?」對曰:「山西人。」複問:「曾為盜殺人否?」對曰:「無之。」後三日詰盜,果引此僧,皆服其明察。改興中尹。錦州富民蕭鶴壽途中殺人,匿府少尹家,有司捕不得,懷貞以計取之,置於法。改彰德軍節度使,卒。

盧孝儉

原文盧孝儉

盧孝儉は、宣徳州の人である。天眷二年の第に登り、憲州軍事判官に調じ、尚書省令史を補し、累官して太原少尹となった。大定二年、陝西で用兵があり、尚書省が本路の税粟を発して平涼に赴かせ軍実に充てようとしたが、期限が甚だ厳しく迫っていた。孝儉は直ちにこれを金帛に換え、馳せて平涼に至り、省を用いて期に失わず、並びの人これを称えた。廉潔をもって用いられ、官二階を進め、同知広寧尹に遷った。広寧は大いに飢え、民多く流亡して業を失った。そこで僧の粟を借り、その一年分の用を留め、価を平らかにして貧民に売り与え、既に民を救い、僧もまた利を得た。累遷して山東東路転運使となった。孝儉は元来偏狭で躁急であり、同僚の王公謹と不和となった。その子がかつて官帑を私用したが、孝儉は知らなかった。やがて河北西路転運使に改めると、公謹はその事を発した。孝儉は逮えられることを聞き、その理由を測り知れず、章丘に行き至り、自縊して死んだ。

原文盧孝儉,宣德州人。登天眷二年第,調憲州軍事判官,補尚書省令史,累官太原少尹。大定二年,陝西用兵,尚書省發本路稅粟赴平涼充軍實,期甚嚴迫。孝儉輒易以金帛,馳至平涼,用省而不失期,並人稱之。用廉,進官二階,遷同知廣甯尹。廣寧大饑,民多流亡失業,乃借僧粟,留其一歲之用,使平其價市與貧民,既以救民,僧亦獲利。累遷山東東路轉運使。孝儉素褊躁,與同僚王公謹失歡。其子嘗私用官帑,孝儉不知也。既而改河北西路轉運使,公謹乃發其事。孝儉聞被逮,莫測所以,行至章丘,自縊死。

盧庸

原文盧庸

盧庸は、字を子憲といい、薊州豊潤の人である。大定二十八年の進士となり、唐州軍事判官に調じ、再び定平県令に調じた。庸は旧堰を治め、涇水を引いて田を灌漑し、民はその利に頼った。尚書省令史を補し、南京転運副使に任じられ、中都戸籍判官に改めた。廉を察せられ、礼部主事に遷り、累官して鳳翔治中となった。大安三年、陝西の屯田軍を徴発して中都を衛らせ、庸を以て三司事を簽し、兵食を主とさせた。潞州に至り、屯田軍を放還し、庸は乾州刺史に改め、入って吏部郎中となった。至寧元年、陝西按察副使に改めた。夏人が辺境を犯すと、庸は平涼の城池を繕治し、芻粟を積み、土兵を団結させて備えとした。

原文盧庸,字子憲,薊州豐潤人。大定二十八年進士,調唐州軍事判官,再調定平縣令。庸治舊堰,引涇水溉田,民賴其利。補尚書省令史,除南京轉運副使,改中都戶籍判官。察廉,遷禮部主事,累官鳳翔治中。大安三年,征陝西屯田軍衛中都,以庸簽三司事,主兵食。至潞州,放還屯田軍,庸改乾州刺史,入為吏部郎中。至甯元年,改陝西按察副使。夏人犯邊,庸繕治平涼城池,積芻粟,團結土兵為備。

十一月、夏人が鎮戎を掠め、涇・邠を陥とし、遂に平涼を囲んだ。庸は矢が尽き、人を募って夏兵が城上に射た矢を取らせて急用に充て、府庫を出して功ある者を賞し、人は喜んで死を為し、平涼はこれによって完うした。貞祐二年、庸は陝西行省僕散端に書を移し、おおよそ慶陽・平涼・徳順は陝西の重地であり、長安以西では邠が厄塞であって、重兵を屯して守るべきであると述べた。詔して平涼の功を賞し、庸は官四階を進め、按察転運使に遷った。三年、詔して諸道の按察司に防秋を講究させた。庸は便宜を陳べて言うには、「毾延から積石に至るまで、溝阪多くと雖も、長河大山これが遮罩となるものなく、弓箭手を恃んで侮を防ぐ。その人皆剛猛にして善く闘い、地利に熟し、夏人はこれを畏れる。向者他所に徙屯すると、夏人は即時に辺境を犯し、これ近年の深患である。人情は土を楽しみ、且つ耕し且つ戦い、緩急には自ら奮うであろう」と。また言うには、「防秋の際には、宜しく先ず野を清くすべきである」と。また言うには、「軍を掌るの官は臨時に易代すべからず、兵家の忌むところであり、将その人に非ざれば、屡代しても何の益かあろう」と。間もなく、庸が老いて任に勝たないという言があり、即座にこれを罷免した。未だ幾ばくもせず、定海軍節度使に改めたが、山東が乱れ、赴くことができず、按察司がこれを劾し、両官を奪うに当たったが、審理官がこれを直した。庸は病を以て医薬を求め、遂に致仕した。興定三年、卒した。

原文十一月,夏人掠鎮戎,陷涇、邠,遂圍平涼。庸矢盡,募人取夏兵射城上箭以濟急用,出府庫賞有功者,人樂為死,平涼賴以完。貞祐二年,庸移書陝西行省僕散端,大概謂慶陽、平涼、德順陝西重地,長安以西邠為厄塞,當重兵屯守。詔賞平涼功,庸進官四階,遷按察轉運使。三年,詔諸道按察司講究防秋,庸陳便宜曰:「自毾延至積石,雖多溝阪,無長河大山為之遮罩,恃弓箭手以禦侮,其人皆剛猛善鬥,熟于地利,夏人畏之。向者徙屯他所,夏人即時犯邊,此近年深患也。人情樂土,且耕且戰,緩急將自奮。」又曰:「防秋之際,宜先清野。」又曰:「掌軍之官不宜臨時易代,兵家所忌,將非其人,屢代何益?」無何,有言庸老不勝任者,即罷之。未幾,改定海軍節度使,山東亂,不能赴,按察司劾之,當奪兩官,審理官直之。庸以病請求醫藥,遂致仕。興定三年,卒。

李偲

原文李偲

李偲は、字を子友といい、定州安喜の人である。天眷二年の進士に中り、遼山簿に調じ、累官して戸部主事となった。母の喪に服したが、起復して旧職に就き、同知河東南路転運使事に任じられた。大定初め、同知中都路都転運使事に改めた。僕散忠義が汴京に行省事を行うとき、偲を幕府に奏したが、世宗は言うには、「李偲は今まさに京畿の漕事を治めている。行省は他の者を選ぶがよい」と。三年、権知登聞検院となり、再び戸部侍郎に遷った。上は言うには、「戸部の財用出入は、朕その人を得難し。卿は旧労なく、資敘尚浅し。秩満の例に因って三品に昇ることを以て、歳月を因循し、もし自ら勉めざれば、必ず汝を貸さじ」と。偲は毎朝会に高徳基と人を屏して私語した。上はこれを聞いて怪しみ、右丞石琚に問うて言うには、「李偲は果たして如何なる人か」と。琚は言うには、「亦た幹事の吏に過ぎません」と。同知北京留守・沂州防禦使に改めた。沂は南辺の郡であり、戸部が符を以て民間の田を借り、禾を植えて槁秸を取り、警急の用度に備えようとした。偲は言うには、「このようにすれば農民は失業する」と。具に奏してこれを止めさせた。転運司が郡に牒して粟を朐山に輸送させ、急夫数万人を調発した。この時久しく雨が降り泥濘となり、挽運して前進することができなかった。偲は吏を遣わして朐山に行かせその官廩を探らせると、儲糧の数が半年を支えることができるのを見た。即ちその事を具して運司に牒し、期を緩め、自ら百姓を困らせぬよう請うた。先に、郡県の街陌の間に民に廛舎を作ることを聴き、その僦直を取っていた。この時に至り、僦直を収めることを罷め、廛舎一切を撤毀した。他の郡は号令を奉承し、百姓を督めて必ず尽く撤去させ、街陌を縄のように整え矢のように鋭く初めの如くにして後止めた。偲は独り民に教えて前後不揃いのものを三五箇所撤治し、巷道が端正になればそれでよしとし、民はこれを便利とした。陝西西路転運使に改め、卒した。

原文李偲,字子友,定州安喜人。中天眷二年進士,調遼山簿,累官戶部主事。丁母憂,起復舊職,除同知河東南路轉運使事。大定初,改同知中都路都轉運使事。僕散忠義行省事於汴京,奏偲幕府,世宗曰:「李偲方治京畿漕事,行省可他選也。」三年,權知登聞檢院,再遷戶部侍郎。上曰:「戶部財用出入,朕難其人。卿非舊勞,資敘尚淺,勿以秩滿例升三品,因循歲月,若不自勉,必不汝貸。」偲每朝會與高德基屏人私語。上聞而怪之,問右丞石琚曰:「李偲果何如人?」琚曰:「亦幹事吏耳。」改同知北京留守、沂州防禦使。沂南邊郡,戶部符借民閒田,種禾取槁秸,備警急用度。偲曰:「如此則農民失業。」具奏止之。轉運司牒郡輸粟朐山,調急夫數萬人,是時久雨泥濘,挽運不能前進。偲遣吏往朐山刺取其官廩,見儲糧數可支半歲,即具其事牒運司,請緩期,毋自困百姓。先是,郡縣街陌間聽民作廛舍,取其僦直。至是,罷收僦直,廛舍一切撤毀。他郡奉承號令,督百姓必盡撤去,使街陌繩齊矢棘如初時然後止。偲獨教民撤治前卻不齊一者三五所,使巷道端正即已,民便之。改陝西西路轉運使,卒。

賛して言う。毛碩・李上達・曹望之・李偲の流れは、皆金の能吏である。望之は悻悻然として大用を求めし、君子これを取らず。

原文贊曰:毛碩、李上達、曹望之、李偲之流,皆金之能吏也。望之悻悻然以求大用,君子無取焉。

徒単克寧

原文徒單克寧

徒単克寧は、本名を習顯といい、その先祖は金源県の人で、比古土の地に徙居し、後に猛安を山東に徙置し、遂に萊州に占籍した。父の況者は、官は汾陽軍節度使に至った。克寧は資質渾厚にして、言笑寡く、騎射に優れ、勇略あり、女直・契丹の字に通じた。左丞相希尹は、克寧の母の舅である。熙宗が希尹に表戚の中で誰か侍衛に堪える者があるかと問うと、希尹は奏して言うには、「習顯が用いるに足ります」と。符寶祗候とした。この時、悼后が政を幹き、后の弟の裴満忽土が克寧を侮ると、克寧はこれを毆った。明日、忽土が悼后に告げると、后は言うには、「習顯は剛直である。必ずや汝の過ちであろう」と。やがて護衛を充て、符寶郎に転じ、侍衛親軍馬歩軍都指揮使に遷り、忠順軍節度使に改めた。

原文徒單克寧,本名習顯,其先金源縣人,徙居比古土之地,後徙置猛安于山東,遂占籍萊州。父況者,官至汾陽軍節度使。克寧資質渾厚,寡言笑,善騎射,有勇略,通女直、契丹字。左丞相希尹,克寧母舅。熙宗問希尹表戚中誰可侍衛者,希尹奏曰:「習顯可用。」以為符寶祗候。是時,悼後幹政,後弟裴滿忽土侮克寧,克寧毆之。明日,忽土以告悼後,後曰:「習顯剛直,必汝之過也。」已而充護衛,轉符寶郎,遷侍衛親軍馬步軍都指揮使,改忠順軍節度使。

克寧は宗幹の娘である嘉祥県主を娶り、同母兄の蒲甲は大宗正事を判じたが、海陵は心にこれを忌み、西京留守に出してその罪を構え誅殺し、これにより克寧を降格して滕陽軍知事とした。宿州防禦使、胡裏改路節度使、曷懶路兵馬都総管を歴任した。大定初年、詔して克寧に本路の兵を率いて東京に会することを命じた。左翼都統に遷る。詔して広寧尹僕散渾坦、同知広寧尹完顏岩雅、肇州防禦使唐括烏也とともに、右副元帥完顏謀衍に従って契丹の窩斡を討たしめた。済州に向かう。謀衍は契丹の降吏颭者の計策を用いて賊の輜重しちょうを襲おうとし、克寧と紇石烈志寧は殿を務め、賊と長濼において遭遇した。謀衍は左翼の側に伏兵を置かせた。賊二万有余が我が軍の後を追い、また騎兵四百余が左翼の伏兵の間から突出し、陣の背後に回り出て我を攻めようとした。克寧は善射の者二十余人でこれを防いだ。衆は言う、「賊は多く我は寡なり、伏兵と合流して撃つか、あるいは大軍に依拠する方が万全であろう」と。克寧は言う、「不可なり。もし賊が陣の背後に出れば、前後より挟撃され、我は敗れる。大軍を待つことはできぬ」と。ここに奮撃し、賊は遂に退いた。左翼万戸襄が大軍と合流してこれを撃ち、賊は遂に敗れ、十余里を追撃した。これは二年四月一日のことであった。九日を経て、再び賊を霿𩃭河において追い及んだ。左翼軍が先に賊と戦い、克寧は騎兵二千で十五里を追撃掩襲し、賊は澗に迫られて速やかに渡ることができず、殺傷甚だ多かった。賊が軍を収めて旗を返すと、大軍は未だ到らず、克寧は軍士に下馬して賊を射させ、賊は遂に引き去って南に向かった。

原文克寧娶宗幹女嘉祥縣主,同母兄蒲甲判大宗正事,海陵心忌之,出為西京留守,構致其罪誅之,因降克寧知滕陽軍。曆宿州防禦使、胡裏改路節度使、曷懶路兵馬都總管。大定初,詔克寧以本路兵會東京。遷左翼都統。詔與廣甯尹僕散渾坦、同知廣甯尹完顏岩雅、肇州防禦使唐括烏也,從右副元帥完顏謀衍討契丹窩斡。趨濟州。謀衍用契丹降吏颭者計策襲賊輜重,克寧與紇石烈志寧為殿,與賊遇於長濼。謀衍使伏兵於左翼之側。賊二萬餘躡吾後,又以騎四百餘突出左翼伏兵之間,欲繞出陣後攻我。克寧與善射二十餘人拒之。眾曰:「賊眾我寡,不若與伏兵合擊,或與大軍相依,可以萬全。」克寧曰:「不可。若賊出陣後,則前後夾擊,我敗矣,大軍不可俟也。」於是奮擊,賊乃卻。左翼萬戶襄與大軍合擊之,賊遂敗,追奔十餘裏,二年四月一日也。越九日,複追及賊於霿𩃭河。左翼軍先與賊戰,克寧以騎二千追掩十五裏,賊迫澗不得亟渡,殺傷甚眾。賊收軍返旆,大軍尚未至,克寧令軍士下馬射賊,賊遂引而南。

この時、窩斡は既に再び北走し、元帥謀衍は鹵掠の利に耽り、白濼に師を駐めていた。世宗はその持久を訝り、使いを遣わして問わせた。謀衍は言う、「賊の騎兵は壮健、我が騎兵は弱し。この少しく駐まるは、馬力を完養する所以なり。然らずんば、万騎を益さざれば勝てぬ」と。克寧は奮然として言う、「我が馬は固より少なからず、ただ帥に人を得ざるのみ。その意は常に虜掠の利にあり、賊が来れば引き避け、賊が去れば緩やかにこれに随う。故に賊は常に良き牧を得、我は常にその蹂躙の余りを拾う。これ我が馬の弱き所以なり。今誠に良き帥を更置すれば、兵を益さずとも功有るべし。然らずんば、騎兵十倍と雖も、その利を見ざるべし」と。朝廷はその議を知り、謀衍を召還し、平章政事僕散忠義を以て右副元帥を兼ねさせた。師将に出発せんとする時、賊は声を揚げて降伏を乞うた。克寧は言う、「賊は初め困窮し、且つ降伏の意無し。所以に揚言するは、我が師の期を緩めんとするなり。未だ備えざるを攻むるに如かず。賊もし挫折すれば、その降伏必ず速やかなり。もし降伏せずんば、その怠りに乗じて急撃すれば、一戦にして定まるべし」と。忠義はこれを然りとし、克寧とともに中路より出で、遂に賊兵を羅不魯の地において破った。賊は七渡河に奔り、険に依って柵を為した。克寧は賊の柵の背面の地勢が登り得ることを偵知し、潜かに師を率いて夜に登り、俯射し、大軍は下より攻め、賊は潰え、皆遁走した。

原文是時,窩斡已再北,元帥謀衍利鹵掠,駐師白濼。世宗訝其持久,遣問之。謀衍曰:「賊騎壯,我騎弱,此少駐所以完養馬力也。不然,非益萬騎不可勝。」克寧奮然而言曰:「吾馬固不少,但帥不得人耳。其意常利虜掠,賊至則引避,賊去則緩隨之,故賊常得善牧,而我常拾其蹂踐之餘,此吾馬所以弱也。今誠能更置良帥,雖不益兵,可以有功。不然,騎雖十倍,未見其利也。」朝廷知其議,召還謀衍,以平章政事僕散忠義兼右副元帥。師將發,賊聲言乞降。克寧曰:「賊初困蹙,且無降意,所以揚言者,是欲緩吾師期也。不若攻其未備,賊若挫衄,則其降必速。如其不降,乘其怠而急擊之,可一戰而定也。」忠義以為然,乃與克寧出中路,遂敗賊兵于羅不魯之地。賊奔七渡河,負險為柵,克寧覘知賊柵之背其勢可上,乃潛師夜登,俯射之,大軍自下攻,賊潰,皆遁去。

契丹が平定され、克寧は太原尹に除された。一月を閲せず、宋の呉璘が陝右を侵し、元帥左都監徒單合喜が兵の増援を乞うた。克寧に金牌を佩かせ、平涼に駐軍させた。合喜に詔して言う、「朕は克寧を遣わして軍事に参議せしむ。この者の智勇は万人に敵するに足る。兵を益やす必要は無し」と。克寧が到ると、安輯を下令し、未だ幾ばくもなく、民は皆完聚した。兵を治めて宋を伐つに当たり、右丞相僕散忠義は南京に駐屯して諸軍を節制し、左副元帥紇石烈志寧は辺事を経略し、克寧は益都尹に改め、山東路兵馬都総管・行軍都統を兼ねた。四年、元帥府は左都監璋に兵四千を率いて水路より進ませようとしたが、詔して言う、「都統徒單習顯に付すべし。なお兵二千を益し、良将を選んでこれを副とせよ。璋は山東を経略すべし」と。ここにおいて、克寧は軍を楚・泗の間に出し、宋の将魏勝と楚州の十八裏口において相拒した。魏勝は弊れた舟を取りその底を穿ち、大木を貫いて列植し水中に立て、別に船に巨石を載せ鉄鎖を以て貫き、水底に沈めて、十八裏口及び淮の渡しの舟路を塞いだ。歩兵四万人を以て淮の渡しの南岸・運河の間に屯した。克寧は斜卯和尚に善く游ぐ者を選ばせ水に潜り、大繩を植木に繋がしめ、数百人を岸上にて繩を引き一本の植木を曳き、皆これを抜き出し、沈船を撤去した。淮口に進むと、宋兵が来て防ぎ、水を隔てて矢石を俱に発した。斜卯和尚は竹を編んで籬とし矢石を防ぎ、また植木と沈船を抜き去り、師は遂に淮に入った。宋兵と渡口を奪い合い、数度合戦し、猛安長寿が先に行き岸に迫り、水浅く、先に勁卒数人を率いて水を渡り岸に登り、その津口の兵五百人を破り、余衆は皆渡河した。宋兵四百余が清河口より来り、鎮国上將軍蒲察ほさつ阿離合懣が歩兵百人でこれを防いだ。克寧自ら紮也銀術可と五騎で先行し六七里でこれと戦い、銀術可が先に登り、奮撃してこれを破った。宋の大兵が陣を整えて来て防ぎ、克寧は兵を麾して前に戦い、朝より午に至り、宋兵は敗れ、運河を越えて陣を為し、余衆数千は皆営中に走り入った。克寧は火箭を以てその営舎を射させ、尽く焼き、河を越えて橋を撤し、その大軍と相会した。水を隔ててこれを射ると、宋兵は陣を為すことができなかった。猛安鈔兀が六十騎で宋の騎兵千余を撃ったが、利あらず、少しく退いた。克寧は猛安賽剌に九十騎を以て横撃させ、宋兵は大敗した。楚州に追い至り、魏勝を射殺し、遂に楚州及び淮陰県を取った。この役において、賽剌の功が多かった。この時、宋は屡々使いを遣わして和を請い、僕散忠義・紇石烈志寧は世々叔侄の国たることを約し、海・泗・唐・鄧の四州を割き還すことを約した。宋人は尚遷延して請い有ったが、克寧が楚州を取ると、宋人は乃ち大いに懼れ、一一として約の如くにした。

原文契丹平,克寧除太原尹。未閱月,宋吳璘侵陝右,元帥左都監徒單合喜乞益兵,遣克寧佩金牌,駐軍平涼。詔合喜曰:「朕遣克寧參議軍事,此其智勇足敵萬人,不必益軍也。」克寧至,下令安輯,未幾,民皆完聚。治兵伐宋,右丞相僕散忠義駐南京節制諸軍,左副元帥紇石烈志寧經略邊事,克寧改益都尹,兼山東路兵馬都總管、行軍都統。四年,元帥府欲遣左都監璋以兵四千由水路進,詔曰:「可付都統徒單習顯,仍益兵二千,擇良將副之。璋可經略山東。」於是,克寧出軍楚、泗之間,與宋將魏勝相拒于楚州之十八裏口。魏勝取弊舟鑿其底,貫以大木,列植水中,別以船載巨石貫以鐵鎖,沉之水底,以塞十八裏口及淮渡舟路。以步兵四萬人屯于淮渡南岸、運河之間。克寧使斜卯和尚選善游者沒水,系大繩植木上,數百人於岸上引繩曳一植木,皆拔出之,徹去沉船。進至淮口,宋兵來拒,隔水矢石俱發。斜卯和尚以竹編籬捍矢石,複拔去植木沉船,師遂入淮。與宋兵奪渡口,合戰數四,猛安長壽先行薄岸,水淺,先率勁卒數人涉水登岸,敗其津口兵五百人,餘眾皆濟。宋兵四百餘自清河口來,鎮國上將軍蒲察阿離合懣以步兵百人禦之。克寧自與紮也銀術可五騎先行六七裏與戰,銀術可先登,奮擊敗之。宋大兵整陣來拒,克寧麾兵前戰,自旦至午,宋兵敗,逾運河為陣,餘眾數千皆走入營中。克寧使以火箭射其營舍,盡焚,逾河撤橋,與其大軍相會。隔水射之,宋兵不能為陣。猛安鈔兀以六十騎擊宋騎兵千餘,不利,少卻。克寧以猛安賽剌九十騎橫擊之,宋兵大敗。追至楚州,射殺魏勝,遂取楚州及淮陰縣。是役也,賽剌功居多。是時,宋屢遣使請和,僕散忠義、紇石烈志寧約以世為叔侄國,割還海、泗、唐、鄧四州。宋人尚遷延有請,及克寧取楚州,宋人乃大懼,一一如約。

兵が罷むと、大名尹に改め、河間・東平尹を歴任し、召されて都点検となった。十一年、丞相志寧に従って北伐し、師を還した。十一月、皇太子の生日に、世宗は東宮に酒宴を設け、克寧に金帯を賜った。明年、枢密副使に遷り、大興府事を兼ね知り、太子太保に改め、枢密副使は元の如くであった。平章政事に拝され、密国公に封ぜられた。

原文兵罷,改大名尹,曆河間、東平尹,召為都點檢。十一年,從丞相志寧北伐,還師。十一月皇太子生日,世宗置酒東宮,賜克寧金帶。明年,遷樞密副使,兼知大興府事,改太子太保,樞密副使如故。拜平章政事,封密國公。

克寧の娘が沈王永成の妃に嫁いだが、罪を得て、克寧は悦ばず、致仕を求めたが、許されず、東京留守に罷められた。明年、上将は克寧を再び宰相にしようとし、南京留守に改め、河南統軍使を兼ねさせた。使者を遣わして諭して言う、「統軍使を留守が兼ねることは未だ嘗て無し。これは朕の意なり。京師を過ぎて入見すべし」と。克寧が京師に至ると、再び平章政事に拝され、世襲の不紮土河猛安兼親管謀克を授けられた。

原文克寧女嫁為沈王永成妃,得罪,克寧不悅,求致仕,不許,罷為東京留守。明年,上將複相克寧,改南京留守,兼河南統軍使。遣使者諭之曰:「統軍使未嘗以留守兼之,此朕意也。可過京師入見。」克寧至京師,複拜平章政事,授世襲不紮土河猛安兼親管謀克。

世宗は詔書を親しく克寧に授けようとしたが、主事者が上意を知らず、克寧がすでに詔を受けた後、上は克寧に言った、「この詔は朕が卿に親しく授けようとしたのに、誤って外廷で授けてしまった。」また言った、「朕は卿の山東にいる宗族をことごとく近地に移住させたいと思うが、卿の一族は多く、官田は少ないので、すべてに与えることはできない。」そこで最も親しい者を選んで移住させた。十九年、右丞相に任じ、譚国公に移封された。克寧は辞して言った、「臣は功績がなく、国家の大事を明らかにせず、内外の重任を歴任し、自ら慚愧に堪えません。田舎に帰り、残りの年を全うさせてください。」上は言った、「朕は衆人の功績の中で卿より優れる者はないと思っている。卿は慎重で大臣の体を得ている。重ねて辞退することなかれ。」克寧が退出すると、上は徒単懐忠を使わして諭させた、「凡そ人は酔っている時と醒めている時では事を処するに異なる。卿は今日、親族賓客の慶賀の会であるから、一度は飲んでもよい。今日を過ぎたら飲むな。」克寧は頓首して謝した、「陛下が臣をここまでお思いくださるのは、臣の福です。」

原文世宗欲以制書親授克寧,主者不知上意,及克寧已受制,上謂克寧曰:「此制朕欲親授與卿,誤授之於外也。」又曰:「朕欲盡徙卿宗族在山東者居之近地,卿族多,官田少,無以盡給之。」乃選其最親者徙之。十九年,拜右丞相,徙封譚國公。克寧辭曰:「臣無功,不明國家大事,更內外重任,當自愧。乞歸田裏,以盡餘年。」上曰:「朕念眾人之功無出卿右者,卿慎重得大臣體,毋複多讓。」克寧出朝,上使徒單懷忠諭之曰:「凡人醉時醒時處事不同,卿今日親賓慶會,可一飲,過今日可勿飲也。」克寧頓首謝曰:「陛下念臣及此,臣之福也。」

克寧が宰相となってからは、公正を保ち大綱を守り、簿書や期日の細事にはこだわらなかった。世宗はかつて言った、「習顕は枢密にいて、過ちを犯したことがなかった。」克寧に言った、「宰相の職は、賢人を推挙することが最上である。」克寧は謝して言った、「臣は愚かながら宰輔の位を辱うけているが、人を知る明がなく、これを遺憾としています。」二十一年、左丞相守道が尚書令となり、克寧は左丞相となり、定国公に移封され、致仕を懇願した。上は言った、「汝は功を立て事を成し、ついに宰相の位に登った。朝廷は汝に頼っている。年齢は及んでも、まだ去ることはできない。」三日後、守道とともに奏事し、ともに跪いて請うた、「臣らの歯も髪もすでに衰えました。陛下に残りの年を賜りますよう。」上は言った、「上相は坐して道を論ずるもので、その官ではなくその人による。どうしてたびたび改易できようか。」しばらくして、克寧は枢密使に改められたが、その後任が難しかった。再び守道を左丞相とし、尚書令の位は数年空位のままにした。その重んじられ方はこのようであった。まもなく、司徒を兼ねて枢密使となった。二十二年、詔して今の名を賜った。二十三年、克寧はまた老齢を理由に請うた。上は言った、「卿はかつて政府にあって、朝から晩まで勤労した。卿を枢密使にしたのも優遇して安逸を得させるためである。朕は旧臣が幾人もいないことを思う。万一辺境に警報があれば、将帥を選び、方略を授け、山川の険要、兵道軍謀について、卿を除いて誰とともにできようか。朕のために留まるよう努めよ。」克寧はついに重ねて言うことができなかった。

原文克寧為相,持正守大體,至於簿書期會,不屑屑然也。世宗嘗曰:「習顯在樞密,未嘗有過舉。」謂克寧曰:「宰相之職,進賢為上。」克寧謝曰:「臣愚幸得備位宰輔,但不能明於知人,以此為恨耳。」二十一年,左丞相守道為尚書令,克寧為左丞相,徙封定國公,懇求致仕。上曰:「汝立功立事,乃登相位,朝廷是賴,年雖及,未可去也。」後三日,與守道奏事,俱跪而請曰:「臣等齒發皆衰,幸陛下賜以餘年。」上曰:「上相坐而論道,不惟其官惟其人,豈可屢改易之邪?」頃之,克寧改樞密使,而難其代。複以守道為左丞相,虛尚書令位者數年,其重如此。未幾,以司徒兼樞密使。二十二年,詔賜今名。二十三年,克寧複以年老為請。上曰:「卿昔在政府,勤勞夙夜,除卿樞密使亦可以優逸矣。朕念舊臣無幾人,萬一邊隅有警,選將帥,授方略,山川險要,兵道軍謀,舍卿誰可與共者?勉為朕留!」克寧乃不敢複言。

二十四年、世宗が上京に行幸し、皇太子が国を守ることとなり、詔して左丞相守道と克寧をともに中都に留め、太子を補佐させた。上は克寧に言った、「朕が巡幸した後、万一事があれば、卿は必ず自らこれに当たれ。細微なことをおろそかにせず、難事をその易きにおいて図ればよい。」二十五年、左丞相守道が北部で賜宴を受けることとなり、詔して克寧に行左丞相事を行わせた。

原文二十四年,世宗幸上京,皇太子守國,詔左丞相守道與克寧俱留中都輔太子。上謂克寧曰:「朕巡省之後,萬一有事,卿必躬親之,毋忽細微,圖難於其易可也。」二十五年,左丞相守道賜宴北部,詔克寧行左丞相事。

この時、世宗は上京から帰還し、天平山に滞在して避暑していたが、皇太子が京師で薨去した。諸王・妃・公主らが宮中に入って弔哭し、奴婢が従って入る者が多く、甚だ喧雑で厳粛さを欠いた。克寧は彼らを追い出し、自ら宮門を護り、殿廷宮門の禁衛を厳しく整えさせて法の如くにしてから、宗室外戚の入臨を許し、従者は数名に限った。東宮の官属に言った、「主上は巡幸中で、まだ宮闕にお帰りにならない。太子が不幸にも大故に遭われた。汝らはこの時、死をもって国に報いることができるか。我もまた我が命を惜しむことはしない。」言葉も顔色もともに厳しく、聞く者は粛然として敬い畏れた。章宗(当時は金源郡王)は哀傷のあまり憔悴が甚だしかった。克寧は諫めて言った、「哭泣は常礼である。郡王は嫡嗣の身であって、どうして常礼のために宗社の重きを忘れられようか。」太子侍読の完顔匡を召して言った、「汝は太子に長く侍し、親臣である。郡王が哀傷過度である。汝は固く諫めよ。謹んで郡王を見守り、左右を離れるな。」世宗は天平山におり、皇太子の訃報が届くと、幾度も哀慟した。克寧が宮衛を厳しく整え、皇孫を謹んで護っていると聞き、その忠誠を嘉してますます重んじた。

原文是時,世宗自上京還,次天平山清暑,皇太子薨于京師,諸王妃主入宮吊哭,奴婢從入者多,頗喧雜不嚴。克寧遣出之,身護宮門,嚴飭殿廷宮門禁衛如法,然後聽宗室外戚入臨,從者有數。謂東宮官屬曰:「主上巡幸,未還宮闕,太子不幸至於大故,汝等此時能以死報國乎?吾亦不敢愛吾生也。」辭色俱厲,聞者肅然敬憚。章宗時為金源郡王,哀毀過甚,克寧諫曰:「哭泣,常禮也。郡王身居塚嗣,豈以常禮而忘宗社之重乎?」召太子侍讀完顏匡曰:「爾侍太子日久,親臣也。郡王哀毀過甚,爾當固諫。謹視郡王,勿去左右。」世宗在天平山,皇太子訃至,哀慟者屢矣。聞克寧嚴飭宮衛,謹護皇孫,嘉其忠誠而愈重之。

九月、世宗は京師に還った。十一月、克寧は上表して金源郡王を皇太孫に立て、天下の望みを繋ぐよう請うた。その大意は次のようである、「今、宣孝皇太子の陵寝のことがすでに終わり、東宮が空位である。これは社稷の安危にかかわる事柄であり、陛下の明聖は前古を超越しておられる。どうしてこれを察せられないことがあろうか。事は果断を貴び、緩めてはならない。緩めれば覬覦の心を起こし、讒佞の言が来る。讒佞の言が起これば、疑いを持たずにいられようか。この事は深く畏れ、大いに慎むべきである。畏れず慎まなければ、ただ儲位が久しく空位となるだけでなく、骨肉の禍がここから始まるでしょう。臣は愚かながら危身の罪を避けず、伏して願わくは急ぎ嫡孫金源郡王を皇太孫に立て、天下の惑いを解き、覬覦の端を塞ぎ、禍を構える芽を絶たれますように。そうすれば宗廟は安んじ、臣民は福を受けます。臣は宰相の位を備えているので、言い尽くさずにはいられません。どうか陛下にご裁察を願います。」一ヶ月余りして、詔があり皇孫金源郡王を起復して大興尹を判させ、原王に封じた。世宗の諸子の中で趙王永中が最年長で、その母は張玄徴の娘であり、玄徴の子汝弼は尚書左丞であった。二十六年、世宗は汝弼を出して広寧尹とした。この時、左丞相守道が致仕し、ついに克寧を太尉とし、左丞相を兼ねさせ、原王を右丞相とし、よって克寧にその輔導をさせた。原王が丞相となってわずか四日目、世宗は彼に問うた、「汝が政事を治めて幾日になるか。」答えて言った、「四日です。」「京尹と尚書省の事は同じか。」答えて言った、「同じではありません。」上は笑って言った、「京尹は繁雑であり、尚書省は大綱を総べる。それで同じでないのだ。」数日後、また原王に言った、「宮中に四方の地図がある。汝はこれを見て、遠近の厄塞を知るがよい。」世宗が宰相と銭貨について論じた時、上は言った、「中外ともに銭の少ないことを患えている。今、京師に積まれている銭はわずか五百萬貫である。屯兵する路分を除き、他の郡県の銭を京師に運ぶことができる。」克寧は言った、「郡県の銭をことごとく京師に入れれば、民間の銭はますます少なくなります。その半ばを運び起こし、残りの半ばを軽貨に換算折納すれば、銭貨の流通が図れるでしょう。」上はこれを嘉納した。章宗は原王に封じられ、丞相となったが、克寧はまだ太孫の位が正されていないとして、たびたび世宗に請うた。世宗は歎じて言った、「克寧は社稷の臣である。」十一月戊午、宰相が香閣に入見し、退出した後、原王はすでに出ていたが、克寧は宰臣を率いて左右を退かせ、太孫を立てるよう奏上し、世宗はこれを許した。庚申、詔して原王右丞相を皇太孫に立てた。

原文九月,世宗還京師。十一月,克寧表請立金源郡王為皇太孫,以系天下之望。其略曰:「今宣孝皇太子陵寢已畢,東宮虛位,此社稷安危之事,陛下明聖超越前古,寧不察此。事貴果斷,不可緩也。緩之則起覬覦之心,來讒佞之言。讒佞之言起,雖欲無疑得乎?茲事深可畏、大可慎,而不畏不慎,豈惟儲位久虛,而骨肉之禍,自此始矣。臣愚不避危身之罪,伏願亟立嫡孫金源郡王為皇太孫,以釋天下之惑,塞覬覦之端,絕構禍之萌,則宗廟獲安,臣民蒙福。臣備位宰相,不敢不盡言,惟陛下裁察。」逾月,有詔起複皇孫金源郡王判大興尹,封原王。世宗諸子中趙王永中最長,其母張玄征女,玄征子汝弼為尚書左丞。二十六年,世宗出汝弼為廣甯尹。於是,左丞相守道致仕,遂以克寧為太尉,兼左丞相,原王為右丞相,因使克寧輔導之。原王為丞相方四日,世宗問之曰:「汝治事幾日矣?」對曰:「四日。」「京尹與省事同乎?」對曰:「不同。」上笑曰:「京尹浩穰,尚書省總大體,所以不同也。」數日,複謂原王曰:「宮中有四方地圖,汝可觀之,知遠近厄塞也。」世宗與宰相論錢幣,上曰:「中外皆患錢少,今京師積錢止五百萬貫,除屯兵路分其他郡縣錢可運至京師。」克寧曰:「郡縣錢盡入京師,民間錢益少矣。若起運其半,其半變折輕齎,庶幾錢貨流布也。」上嘉納之。章宗雖封原王,為丞相,克寧猶以未正太孫之位,屢請于世宗,世宗歎曰:「克寧,社稷之臣也。」十一月戊午,宰相入見於香閣,既退,原王已出,克寧率宰臣屏左右奏立太孫,世宗許之。庚申,詔立原王右丞相為皇太孫。

翌日、徒単公弼が息国公主に納幣し、六品以上の者を慶和殿に賜って宴を催した。上は諸王大臣に言った、「太尉は忠実で明達、漢の周勃のようである」と。再三称嘆した。克寧が酒を進めると、上は觴を挙げて彼のために酹した。詔を下して太尉に三日の休暇を与えた。翌年の正月、再び機務を解くことを求めた。上は言った、「卿は急いで去ろうとするのか。朕が卿を用いるに未だ尽くさぬところがあるのか。あるいは喜怒によって刑賞を用いたか。他の宰相には卿の如き者は未だいない。勉めて留まり朕を輔けよ。卿が郷土を思うならば、一度往くもよい。必ずしも政事を謝するには及ばぬ。三月一日は朕の生辰であるが、卿は必ずしも到らなくともよい。ゆるやかに暑月に至り京師に還って相見えよ」と。四月、克寧が朝に還り、入って上に見えた。上は問うた、「卿が郷中に往いたとき、百姓は皆安んじて生業に従っていたか」と。克寧は言った、「生業は頗る安んじている。しかし初めて移住したばかりで、未だ繁栄していないだけです」と。間もなく、丞相として国史を監修した。上が史事を問うと、奏上して言った、「臣は聞く、古より人君は史を観ずと。願わくは陛下観ずることなかれ」と。上は言った、「朕はどうしてこれを観ようとするのか。深く史事の詳らかでないことを知っているので、故に問うただけである」と。初め、瀘溝河が決壊して久しく塞ぐことができなかったが、安平侯に加封すると、久しからずして水は旧道に戻った。上は言った、「鬼神は窺測すべからざるものではあるが、このように感応を得た」と。克寧は奏上して言った、「神の佑けるところは正である。人事が乖けば、則ち享けられない。報応の来るは皆人事による」と。上は言った、「卿の言う通りである」と。世宗は神仙浮屠の事を頗る信じていたので、克寧はこれに及んだのである。宋の前主が崩じ、宋主が使を遣わして遺留物を進めたが、上はその礼物の薄いのを怪しんだ。克寧は言った、「これは常の貢ではない。責めるのは利を好むに近い」と。上は言った、「卿の言う通りである」と。乃ちその玉器五事、玻璃器大小二十事及び茶器刀剣等を還した。

原文明日,徒單公弼尚息國公主納幣,賜六品以上宴于慶和殿。上謂諸王大臣曰:「太尉忠實明達,漢之周勃也。」稱歎再三。克寧進酒,上舉觴為之酹。有詔給太尉假三日。明年正月,複求解機務。上曰:「卿遽求去邪?豈朕用卿有未盡乎?或因喜怒用刑賞乎?其他宰相未有能如卿者,宜勉留以輔朕。卿若思念鄉土,可以一往,不必謝政事。三月一日朕之生辰,卿不必到,從容至暑月還京師相見。」四月,克寧還朝,入見上。上問曰:「卿往鄉中,百姓皆安業否?」克寧曰:「生業頗安,然初起移至彼,未能滋殖耳。」未幾,以丞相監修國史。上問史事,奏曰:「臣聞古者人君不觀史,願陛下勿觀。」上曰:「朕豈欲觀此?深知史事不詳,故問之耳。」初,瀘溝河決久不能塞,加封安平侯,久之,水複故道。上曰:「鬼神雖不可窺測,即獲感應如此。」克寧奏曰:「神之所佑者正也,人事乖,則弗享矣。報應之來皆由人事。」上曰:「卿言是也。」世宗頗信神仙浮圖之事,故克寧及之。宋前主殂,宋主遣使進遺留物,上怪其禮物薄。克寧曰:「此非常貢,責之近於好利。」上曰:「卿言是也。」乃以其玉器五事、玻璃器大小二十事及茶器刀劍等還之。

二十八年十一月癸丑、上は克寧の邸に幸した。初め、上は甲第を克寧に賜おうとしたが、克寧は固く辞したので、乃ち銭を賜い、その旧居を宏大にした。工事が終わると、上は臨幸し、金器錦繡重彩を賜い、克寧もまた献上した。上は飲んで甚だ歓び、御衣を解いて彼に着せた。詔して克寧の像を画かせて内府に蔵めた。

原文二十八年十一月癸丑,上幸克寧第。初,上欲以甲第賜克寧,克寧固辭,乃賜錢,因其舊居宏大之。畢工,上臨幸,賜金器錦繡重彩,克寧亦有獻。上飲歡甚,解禦衣以衣之。詔畫克寧像藏內府。

十二月乙亥、世宗は快癒しなかった。甲申、克寧は宰執を率いて入り起居を問うた。上は言った、「朕の病は危うい」と。克寧に謂って言った、「皇太孫は年こそ弱冠だが、生まれながら明達である。卿等は力を竭くしてこれを輔けよ」と。また言った、「尚書省の政務は暫く皇太孫に聴かせよ」と。克寧は奏上して言った、「陛下が上京に幸されたとき、宣孝太子が国を守り、六品以下の官を除くことを許されました。今は暫くこれを行ってもよいでしょう」と。上は言った、「五品以下も何の不可があろうか」と。乙酉、詔して皇太孫に行政事を摂行させ、五品以下の官を注授することを許した。詔して太孫と諸王大臣をともに禁中に宿させた。克寧は奏上して言った、「皇太孫と諸王は嫌疑を別にし、名分を正すべきです。宿止を同処にするのは礼に安んぜず」と。詔して太孫を慶和殿の東廡に住まわせた。丙戌、詔して克寧を太尉兼尚書令とし、延安郡王に封じた。平章政事襄を右丞相とし、右丞張汝霖を平章政事とした。戊子、詔して克寧、襄、汝霖を内殿に宿らせた。

原文十二月乙亥,世宗不豫。甲申,克寧率宰執入問起居。上曰:「朕疾殆矣。」謂克寧曰:「皇太孫年雖弱冠,生而明達,卿等竭力輔之。」又曰:「尚書省政務權聽于皇太孫。」克寧奏曰:「陛下幸上京時,宣孝太子守國,許除六品以下官,今可權行也。」上曰:「五品以下亦何不可。」乙酉,詔皇太孫攝行政事,注授五品以下官。詔太孫與諸王大臣俱宿禁中。克寧奏曰:「皇太孫與諸王宜別嫌疑,正名分,宿止同處,禮有未安。」詔太孫居慶和殿東廡。丙戌,詔克寧以太尉兼尚書令,封延安郡王。平章政事襄為右丞相,右丞張汝霖為平章政事。戊子,詔克寧、襄、汝霖宿於內殿。

二十九年正月癸巳、世宗は福安殿にて崩御した。この日、克寧らは遺詔を宣し、皇太孫を立てて皇帝とした。これが章宗である。徙封して東平郡王とした。詔して克寧に朔望の朝参を許し、朝日に殿上に座を設けた。克寧は固く辞し、詔して近臣に勉めて諭させた。克寧は涕泣して謝して言った、「老臣を憐れみ、常朝を免ぜしめられたのに、どうして座礼を当てまつることができましょうか」と。その後、毎朝必ず克寧のために座を設けたが、克寧は侍立して益々敬った。即位の詔文に「凡そ除名開落の官吏は並びに材を量りて録用す」とあった。張汝霖が奏上して真の盗賊枉法は赦すべからずと言うと、克寧は言った、「陛下は初めて即位され、非常の典を行われます。贓吏が誤って恩赦に沾う害は小さいが、国の大信は失うべからず」と。章宗は深く然りとした。間もなく、太傅に進み、尚書令を兼ね、尚衣玉帯を賜った。致仕を乞うたが、許さなかった。詔して『諸葛孔明伝』を訳して賜った。詔して尚書省に言った、「太傅は年高である。旬休の外、四日に一度休み、大事はこれを録し、細事は必ずしも親しくせずともよい」と。金五百両、銀五千両、銭千万、重彩二百端、絹二千匹を賜った。

原文二十九年正月癸巳,世宗崩于福安殿。是日,克寧等宣遺詔,立皇太孫為皇帝,是為章宗。徙封為東平郡王。詔克寧朝朔望,朝日設坐殿上。克寧固辭,詔近臣勉諭。克寧涕泣謝曰:「憐憫老臣,倖免常朝,豈敢當坐禮。」其後,每朝必為克寧設坐,克寧侍立益敬。即位詔文「凡除名開落官吏並量材錄用」,張汝霖奏真盜枉法不可恕,克寧曰:「陛下初即位,行非常之典,贓吏誤沾恩宥其害小,國之大信不可失也。」章宗深然之。無何,進拜太傅,兼尚書令,賜尚衣玉帶。乞致仕,不許。詔譯《諸葛孔明傳》賜之。詔尚書省曰:「太傅年高,旬休外四日一居休,大事錄之,細事不須親也。」賜金五百兩、銀五千兩、錢千萬、重彩二百端、絹二千匹。

尚書省が猛安謀克で進士の試験を受けたい者はこれを聴くべきと奏上すると、上は言った、「その応襲猛安謀克たる者が太学で学ぶのはどうか」と。克寧は言った、「承平の日が久しく、今の猛安謀克はその材武すでに先輩に及ばない。万一警急あれば、誰を使ってこれを防がせましょうか。辞芸を習い、武備を忘れるのは国のため不便です」と。上は言った、「太傅の言う通りである」と。章宗は初めて即位し、頗る辞章を好んだが、疆埸にまさに事があったので、克寧はこれに言及したのである。

原文尚書省奏猛安謀克願試進士者聽之,上曰:「其應襲猛安謀克者學於太學可乎?」克寧曰:「承平日久,今之猛安謀克其材武已不及前輩,萬一有警,使誰禦之?習辭藝,忘武備,于國弗便。」上曰:「太傅言是也。」章宗初即位,頗好辭章,而疆埸方有事,故克寧言及之。

明昌二年、克寧は病に罹った。章宗は往きてこれを見舞った。克寧は頓首して謝して言った、「臣は似るものなく、嘗て先帝に任使され、陛下が即位されると、上相を以て任されました。今臣は老病で、将に犬馬に先んじて溝壑に填まらんとし、明主を輔け四方を綏撫するに足りません。陛下が臣の駑怯を思い、親しく車駕を枉げて臨幸されたことは、死して余罪ありです」と。この日、即ち榻前で太師に拝し、淄王に封じ、加賜甚だ厚かった。この歳の二月、薨じた。遺表があり、その大概は言う、「人君は往々にして君子を重んじながら却ってこれを疎んじ、小人を軽んじながら終にはこれを昵する。願わくは陛下は終わりを始めの如く慎み、安んじて危うきを忘れず、しかも言は私に及ばざらんことを」と。詔して有司に喪事を護らせ、萊州に帰葬し、諡して忠烈といった。明昌五年、世宗廟廷に配享し、衍慶宮に図像した。大安元年、改めて章宗廟廷に配享した。

原文明昌二年,克寧屬疾,章宗往視之。克寧頓首謝曰:「臣無似,嘗蒙先帝任使,陛下即位,屬以上相,今臣老病,將先犬馬填溝壑,無以輔明主綏四方。陛下念臣駑怯,親枉車駕臨幸,死有餘罪矣。」是日,即榻前拜太師,封淄王,加賜甚厚。是歲二月,薨,遺表,其大概言:「人君往往重君子而反疏之,輕小人而終昵之。願陛下慎終如始,安不忘危,而言不及私。」詔有司護喪事,歸葬於萊州,諡曰忠烈。明 昌五年,配享世宗廟廷,圖像衍慶宮。大安元年,改配享章宗廟廷。

贊して言う、徒単克寧は大臣と謂うべし。功高くして身は愈々下り、位盛んにして心は愈々労す。『経』に曰く、「上に在りて驕らず、高くして危うからず、節を制し度を謹み、満ちて溢れず」と。これ以て長く富貴を守る。故に曰く、忠信懈まず、その功を施さず、盛満を履みて忘れざるは、徳の上なり。孜孜として勉め、職業を恪守し、成すべからざるに居らず、行うべからざるに事せず、人主これを知るは、次なり。諫めて必ず行わんことを期し、言いて必ず聴かんことを期し、その事を為して必ずその功ある者は、またその次なり。

原文贊曰:徒單克寧可謂大臣矣,功高而身愈下,位盛而心愈勞。《經》曰:「在上不驕,高而不危,制節謹度,滿而不溢」,所以長守富貴。故曰忠信匪懈,不施其功,履盛滿而不忘,德之上也。孜孜勉勉,恪守職業,不居不可成,不事不可行,人主知之,次也。諫期必行,言期必聽,為其事必有其功者,又其次也。