金史

列傳第二十九:完顏撒改、龐迪、溫蒂罕移室懣、神土懣、移剌成、石抹卞、楊仲武、蒲察世傑、蕭懷忠、移剌按答、孛朮魯阿魯罕、趙興祥、石抹榮、敬嗣暉

列傳第二十九:完顏撒改、龐迪、溫蒂罕移室懣、神土懣、移剌成、石抹卞、楊仲武、蒲察世傑、蕭懷忠、移剌按答、孛朮魯阿魯罕、趙興祥、石抹榮、敬嗣暉

完顏撒改

原文完顏撒改

完顏撒改は、上京納魯渾河の人であり、その祖先は兀冷窟河に居住していた。身長が高く力が強く、槍を用いるのが巧みであった。王師が南征したとき、睿宗が右副元帥となり、彼を麾下に置き、金牌を佩かせて軍事を監督させた。天眷元年、本班祗候郎君詳穩を授けられた。その後、泰州路に従軍し、軍帥は撒改を萬戸とし、銀朮可ぎんじゅつかなどの猛安もうあんを率いさせ、北辺を戍守させた。数度戦功を挙げた。天徳二年正月、海陵庶人は使者を夏国に派遣し、即位のことを諭し、それによって彼の意向を窺わせた。帰還後、上意に適うと称され、尚書兵部郎中となった。同知會甯尹に改められ、迭剌部族節度使に遷り、甌裏本群牧使に改められ、曷懶路都総管となった。海陵が宋を伐つとき、衛州防禦使を授けられ、武震軍都総管となった。世宗が即位すると、使者を派遣して撒改を召し寄せ、到着後、昌武軍節度使に任じられた。やがて山東路元帥副都統となり、安化軍節度使に改められ、副都統を兼ねることはもとの通りであった。四年、安武に鎮を移し、なお副統を兼ねた。山東・大名・東平三路の軍八万余りを率いて淮を渡り、大軍と会して宋を伐った。進んで楚州に至り、宋は使者を遣わして歳幣を奉った。邳州に還る途中、卒した。

原文完顏撒改,上京納魯渾河人也,其先居於兀冷窟河。身長多力,善用槍。王師南征,睿宗為右副元帥,置之麾下,佩以金牌,使督軍事。天眷元年,授本班祗候郎君詳穩。其後從軍泰州路,軍帥以撒改為萬戶,領銀朮可等猛安,戍北邊,數有戰功。天德二年正月,海陵庶人遣使夏國,諭以即位事,因令伺彼之意。既還,稱旨,為尚書兵部郎中。改同知會甯尹,遷迭剌部族節度使,改甌裏本群牧使,為曷懶路都總管。海陵伐宋,授衛州防禦使,為武震軍都總管。世宗即位,遣使召撒改,既至,除昌武軍節度使。已而為山東路元帥副都統,改安化軍節度使,兼副都統如故。四年,徙鎮安武,仍兼副統。領山東、大名、東平三路軍八萬餘渡淮,會大軍伐宋。進至楚州,宋遣使奉歲幣。還邳州,卒。

龐迪

原文龐迪

龐迪、字は仲由、延安の人である。若い頃は豪放磊落で、兵書を読むことを好み、騎射を習い、推歩孤虚の術を学んだが、用いられることはなかった。応募して涇原路第三副将に隷属し、賊を破って功績を挙げ、保義郎を授けられた。かつて百余騎を従えて山谷を行き、夏人数千に遭遇した。皆が驚き恐れて避けることを請うたが、迪は躍りかかって馬を進めて敵陣に突入し、敵は皆敗走し、自身は重傷を負ったが、神色自若として、軍を全うして還った。これより名声を知られ、正将に抜擢され、権発遣涇原路兵馬都監となった。

原文龐迪,字仲由,延安人。少倜儻,喜讀兵書,習騎射,學推步孤虛之術,無所效用。應募,隸涇原路第三副將,破賊有功,授保義郎。嘗從百餘騎經行山谷,遇夏人數千,眾皆駭懼請避,迪遂躍馬犯陣,敵皆披靡,身被重創,神色自若,完軍以還。自是知名,擢為正將,權發遣涇原路兵馬都監。

斉国が建てられると、涇原路経略使張中孚が迪を推挙して権知懐徳軍とし、沿辺安撫使を兼ねさせた。夏人が軍を合わせて五万で懐徳城に迫ったが、迪は城門を開いてこれを待ち、夏人は敢えて入らなかった。そこで数千騎を分けて各門から突出させ、遂にこれを破り、五百級を斬首し、軍資・羊馬を多く獲た。さらに関師古の兵を破り、知涇州に抜擢された。官に就く前に、知鎮戎軍・沿辺安撫使に改められた。やがて権淮南東路馬歩軍副総管となり、沂・密・淮陽を総制し、権知沂州を兼ねた。父の喪に服し、官を去った。まもなく起復して環慶路兵馬都鈐轄となり、権知邠州となった。斉国が廃されると、華州防禦使に改められた。間もなく、軍変が起こり、捕らえられて山中に入った。やがて賊衆は後悔して言うには、「公の政務はもとより善かった。どうして劫掠し辱めるべきであろうか」と。そこで彼を釈放して還し、再び州事を領させた。

原文齊國建,涇原路經略使張中孚舉迪權知懷德軍,兼沿邊安撫使。夏人合軍五萬薄懷德城,迪開門待之,夏人不敢入。因以數千騎分門突出,遂破之,斬首五百級,獲軍資羊馬甚眾。複破關師古兵,擢知涇州。未到官,改知鎮戎軍、沿邊安撫使。已而權淮南東路馬步軍副總管,總制沂、密、淮陽,兼權知沂州。丁父憂,去官。尋起複為環慶路兵馬都鈐轄,權知邠州。齊國廢,改華州防禦使。頃之,軍變,被執入山。已而賊眾悔曰:「公為政素善,豈宜劫辱。」遂縱之還,複領州事。

天眷元年、永興軍路兵馬都総管兼知京兆府に任じられ、臨洮尹に移り、熙秦路兵馬都総管を兼ねた。陝右が大飢饉となり、流亡の民が四方から集まった。迪は渠を開いて田を灌漑し、流民はその食糧を利し、居民はその労力を借り、各々その所を得た。郡人は碑を立ててその政績を記した。官制が行われると、吏部は武功大夫・博州団練使として特授で定遠大将軍とした。七年、慶陽尹に任じられた。三考を歴ても変わらず、治績最も優れたものとして聞こえ、詔書で褒め称えられ、西人はこれを栄誉とした。正隆元年、鳳翔尹に遷った。たびたび上章して退任を求めたが、許されなかった。

原文天眷元年,除永興軍路兵馬都總管兼知京兆府,徙臨洮尹,兼熙秦路兵馬都總管。陝右大饑,流亡四集,迪開渠溉田,流民利其食,居民藉其力,各得其所,郡人立碑紀其政績。官制行,吏部以武功大夫、博州團練使特授定遠大將軍。七年,除慶陽尹。曆三考不易,以治最聞,詔書褒美,西人榮之。正隆元年,遷鳳翔尹,屢上章求退,不許。

海陵が南伐するとき、徴収は煩雑で急を要し、官吏はこれに乗じて奸を行い、富者は賄賂を用いて免れ、貧者は破産してますます困窮した。迪は民をことごとく召し寄せて共に増減を議わせ、威圧して督促することなくして労力が均等となり、人情大いに喜んだ。五年、汾陽軍節度使に移った。大定初年、再び臨洮尹となり、南京路都転運使に遷った。省事惜費し、安静を以て政を行い、河南の人々はこれを称えた。絳陽軍節度使に移った。官に在るまま卒した。年七十。

原文海陵南伐,征斂煩急,官吏因緣為奸,富者用賄以免,貧者破產益困。迪悉召民使共議增減,不加威督而役力均,人情大悅。五年,徙汾陽軍節度使。大定初,複為臨洮尹,遷南京路都轉運使,以省事惜費,安靜為政,河南稱之。徙絳陽軍節度使。卒官,年七十。

迪の性質は純孝であり、父が病んだとき、医薬効なく、迪は天を仰いで泣きながら祈り、股を切って羹を作り、これによって平癒を得た。兄弟が家財を分けるとき、迪はことごとくこれを与え、少しも取らなかった。官爵の蔭は、諸の甥に先んじて与えた。病が重くなり、沐浴して朝服を着て逝去した。

原文迪性純孝,父病,醫藥弗效,迪仰天泣禱,刲股作羹,由是獲安。昆弟析家財,迪盡以與之,一無所取。官爵之廕,率先諸侄。疾革,沐浴朝服而逝。

溫蒂罕移室懣

原文溫蒂罕移室懣

溫蒂罕移室懣は、速頻屯懣歡春の人で、上京忽論失懶に移住した。兄の朮輦は、国初に功績があり、世襲謀克ぼうこくを授けられた。移室懣の性質は忠正で強毅であり、騎射に優れ、膂力は人に勝っていた。皇統初年、その兄の謀克を襲い、戦功を積み、洮州刺史となった。人に言うには、「謀克は兄の職である。兄の子の斡魯古は今や既に成人した」と。そこで謀克を兄の子に譲り還した。宗弼はこれを聞いて賞賛して言うには、「世襲を譲ることができるとは、難しきことと言えよう」と。貴徳州刺史に任じられ、移典颭詳穩に改められ、烏古裏部族節度使に遷り、徳昌軍に改められた。正隆四年、大いに兵を徴発して南伐し、泰州猛安の定遠阿補がその部を率いて叛き還った。移室懣は七謀克を以て定遠阿補を捕らえ、その衆を督して大軍に付した。契丹が反し、會甯六猛安を締母嶺で破り、信・韓二州の境に屯した。移室懣は数千人を率いて伊改河で賊万余りを殺し、功績により臨潢尹に遷った。世宗が即位すると、手詔を賜って言うには、「南征諸路の将士及び卿の子侄の安遠・斡魯古・斜普兄弟は、甲仗を具えて悉く来たり推戴し、朕は大位に即くことを勉めた。卿は累世功ある耆旧の臣である。辺境の事未だ寧かならざるにより、臨潢の劇任は、姑く旧職のままとする。枢密副使白彦敬・南京留守紇石烈志寧が契丹を討つために来ると聞く。今は既に人を遣わして招いている。その家は皆南京にあり、あるいは遁走し、兼ねて異謀を起こすことを恐れる。若し至れば已む、若し至らざれば、卿は計を以てこれを捕らえて献ずべし。両度人を遣わして招討都監老和尚を招誘したが、遣わした人は彼の所在を知らず、久しくして還らなかった。兼ねて老和尚は朕が既に即位したことを知らない。卿は人をして朕の意を諭させよ。もし来降すれば、悉く旧に復せしめ、辺関の事は、耳目を設くべし」と。この時、窩斡は既に反し、兵数万を率いて臨潢を攻め来たった。諸路の軍は未だ至らず、窩斡の勢いはますます大きくなった。移室懣は城中の軍士六百人を率いて窩斡を邀撃し、凡そ数度戦い、多くを剿殺した。乗っていた馬が流れ矢に当たって倒れ、賊に捕らえられた。賊は移室懣に城中の人を招かせて言うには、「汝の生死は頃刻にある。城中をして出降させることができれば、官爵はもとの通りとせん。然らざれば汝を殺す」と。移室懣は怒って賊を罵って言うには、「我は国家の爵禄を受け、汝ら叛賊に従うことがあろうか」と。賊は彼を城中に連行し、脅迫して城中を招かせた。その妻子・官属・将士は皆城上に登って臨み望んだ。移室懣は声を厲して言うには、「我は軍が少なく賊を滅ぼせぬことを恨む。人生には一死あるのみ。汝らは慎んで賊に降るなかれ。一旦門を開いて賊を納れば、城中の百姓は皆殺掠される。我が故に国家の事を敗ることなかれ。賊は為す能わざるなり」と。賊は怒って彼を殺した。城中の人々は皆これに感激し、推官麻珪はますます城郭を繕い完備し、右監軍神土懣・輔国上将軍阿思懣は城に乗じて固く守った。賊は攻め落とすことができず、遂に衆を率いて東行した。

原文溫蒂罕移室懣,速頻屯懣歡春人,徙上京忽論失懶。兄朮輦,國初有功,授世襲謀克。移室懣性忠正強毅,善騎射,膂力過人。皇統初,襲其兄謀克,積戰功,為洮州刺史。謂人曰:「謀克,兄職也。兄子斡魯古今已長矣。」遂以謀克讓還兄子。宗弼聞而嘉之曰:「能讓世襲,可謂難矣。」除貴德州刺史,改移典颭詳穩,遷烏古裏部族節度使,改德昌軍。正隆四年,大徵兵南伐,泰州猛安定遠阿補以所部叛還,移室懣以七謀克執定遠阿補,勒其眾付大軍。契丹反,敗會甯六猛安於締母嶺,屯于信、韓二州之境。移室懣率數千人殺賊萬余于伊改河,以功遷臨潢尹。世宗即位,賜手詔曰:「南征諸路將士及卿子侄安遠、斡魯古、斜普兄弟,具甲仗悉來推戴,朕勉即大位。卿累世有功耆舊之臣,緣邊事未寧,臨潢劇任,姑仍舊職。聞樞密副使白彥敬、南京留守紇石烈志寧來討契丹,今已遣人往招之。其家皆在南京,恐或遁去,兼起異謀,若至則已,若不至,卿當以計執而獻之。兩次遣人招誘招討都監老和尚,去人不知彼之所在,久而不還。兼老和尚不知朕已即位,卿可使人諭以朕意。如來降,悉令復舊,邊關之事,可設耳目。」是時窩斡已反,領兵數萬來攻臨潢,諸路軍未至,窩斡勢益大。移室懣領城中軍士六百人邀擊窩斡,凡數接戰,剿殺甚眾,所乘馬中流矢而僕,為賊所執。賊使移室懣招城中人曰:「爾生死在頃刻,能使城中出降,官爵如故;不然殺汝矣。」移室懣怒駡賊曰:「我受國家爵祿,肯從汝叛賊乎?」賊執之至城中,迫脅之使招城中。其妻子官屬將士皆登城臨望。移室懣厲聲曰:「我恨軍少不能滅賊。人生會有一死耳,汝輩慎勿降賊!一旦開門納賊,城中百姓皆被殺掠,毋以我故敗國家事,賊無能為也。」賊怒殺之。城中人皆為之感激,推官麻珪益繕完城郭,右監軍神土懣、輔國上將軍阿思懣乘城固守。賊不克攻,遂引眾東行。

神土懣

原文神土懣

神土懣は、もと諸宗室の出身で、銀青光禄大夫を追贈された胡速魯改の子である。十五歳の時、太宗に仕えて左奉宸となった。皇統二年、護衛に充てられ、武器署丞を拝命し、累官して肇州防禦使となった。大定初年、元帥右都監を拝命し、咸平尹吾紮忽とともに泰州兵および曷懶路兵千五百人を率い、臨潢尹移室懣と合流して契丹を討った。契丹が臨潢を侵犯し、移室懣が戦死すると、攻撃しても陥落させられず、そこで衆を率いて東進した。神土懣は上表して援軍を請うた。十二月甲辰、世宗が海濱県に駐蹕し、その奏上を得て、上は言った、「神土懣、吾紮忽の軍は少なくない、長計をもって攻撃できるであろう」。ちょうど右副元帥謀衍が大軍を率いて到着し、神土懣は曷速館節度使に改められ、右翼に隷属し、紇石烈志寧とともに賊を長濼で破り、霿𩃭河で戦い、いずれも功績があり、婆速路兵馬都総管に改められ、卒した。

原文神土懣,本諸宗室,贈銀青光祿大夫胡速魯改子也。年十五,事太宗為左奉宸。皇統二年,充護衛,除武器署丞,累官肇州防禦使。大定初,除元帥右都監,與咸平尹吾紮忽率泰州兵及曷懶路兵千五百人,會臨潢尹移室懣討契丹。契丹犯臨潢,移室懣死,攻之不能克,乃引眾東行。神土懣表乞濟師。十二月甲辰,世宗次海濱縣,得奏,上曰:「神土懣、吾紮忽軍不少,可以從長攻襲矣。」會右副元帥謀衍以大軍至,神土懣改曷速館節度使,隸右翼,與紇石烈志甯敗賊於長濼,戰霿𩃭河,皆有功,改婆速路兵馬都總管,卒。

移剌成

原文移剌成

移剌成は、本名を落兀といい、その先祖は遼の横帳の出身である。沈着勇敢で謀略があり、契丹文字と漢字に通じていた。天会年間、撻懶たつらんの麾下に隷属して行軍猛安となり、宋軍と楚州・泗州の間で戦い、成は配下部隊を率いて先鋒として登城し、宋軍を大破し、諸将の中で最も功績が大きかった。劉麟が天長軍で会合し進退を協議しようとした。成と夾古查合はともに撻懶の前鋒となり、宋の捕虜を得て郷導とし、ついに天長に到達したので、睿宗はこれを賞賛した。後に宗弼に従って兵を率い斉国を廃した。また宋を再征伐した時、濠州を攻め、戦うごとに常に先鋒として登城し、多くを撃破した。宗弼が河南を再取した時、成および蕭懐忠ら八猛安が先に渡河した。河南が平定され、功績を評定されて宣武将軍を授けられ、威州刺史を拝命した。廉潔を以て用いられ、同知延安尹に抜擢され、さらに昭義軍節度使に転じた。正隆の南伐の時、武毅軍都総管となった。撒八が反乱を起こすと、海陵は事を以て契丹の名将を誅殺したが、成は本軍を率いて磁州を守り、ただちに妻子を汴に帰した。海陵はこれによって疑わなかった。当時の人はその識見の高さを称えた。神武軍都総管に改められ、孛朮魯定方とともに浙東道先鋒となり、淮陰より進兵するよう命じられた。配下部隊を率いて糧食を揚州に護送した時、敵兵が夜乗じて攻撃してきたが、成は兵を整えて奮撃し、多くを斬殺した。ちょうど海陵庶人が死に、軍が帰還すると、再び昭義を鎮守した。大定二年、廉潔の評定が優等であったため、河中尹に改められた。さらに臨洮尹を拝命し、喬家等族の首領結什角を招降した。南京留守に転じ、召されて枢密副使を拝し、任国公に封ぜられた。北京留守に改められた。卒した。訃報を聞き、上は悼惜し、その子順思阿不に武功将軍を授け、咸平路鈔赤鄰猛安下の査不魯謀克を世襲させた。

原文移剌成,本名落兀,其先遼橫帳人也。沉勇有謀,通契丹、漢字。天會間,隸撻懶下為行軍猛安,與宋人戰于楚、泗之間,成以所部先登,大破宋軍,功最諸將。劉麟約會天長軍議進止。成與夾古查合你俱為撻懶前鋒,得宋生口為鄉導,遂達天長,睿宗嘉之。後從宗弼將兵廢齊國。及再伐宋,攻濠州,每戰輒先登,多所摧破。宗弼再取河南,成及蕭懷忠等八猛安先渡。河南平,第功授宣武將軍,除威州刺史。用廉,擢同知延安尹,再遷昭義軍節度使。正隆南伐,為武毅軍都總管。撒八反,海陵以事誅契丹名將,成以本軍守磁,即遣妻子還汴。海陵用是不疑。時人高其有識。改神武軍都總管,與孛朮魯定方為浙東道先鋒,使由淮陰進兵。以所部護糧赴揚州,敵兵乘夜來攻,成整兵奮擊,斬刈甚眾。會海陵庶人死,軍還,複鎮昭義。大定二年,以廉在優等,改河中尹。再除臨洮尹,招降喬家等族首領結什角。遷南京留守,召拜樞密副使,封任國公。改北京留守。卒。訃聞,上悼惜之,授其子順思阿不武功將軍,世襲咸平路鈔赤鄰猛安下查不魯謀克。

結什角とは、西蕃がすでに衰えた後、その末裔に堇氈があり、その子を巴氈といった。角は初め宋に帰附し、趙姓を賜り、名を順忠と改めた。順忠の子は永吉、永吉の子は世昌で、いずれも宋の官を受け、左武大夫となり、遥かに萊州防禦使を兼ね、把羊族長を世襲した。朝廷が陝西を平定すると、世昌は忠翊校尉に換官された。やがて鬼蘆族長の京臧が世昌を殺害したので、朝廷は兵を遣わして京臧を捕らえ、臨洮の市で斬首し、世昌の子鉄哥を把羊族都管とした。大定四年、宋人が洮州を破ると、鉄哥の弟結什角はその母とともに喬家族に逃れて避難した。喬家族の首領播逋は、隣族の木波隴逋、龐拜、丙離の四族の耆老大僧らとともに結什角を立てて木波四族長とし、「王子」と号した。その地は北は洮州・積石軍に接する。その南の隴逋族は、南は大山を限界とし、八百余里は人の通行ができない。東南は疊州羌と接する。その西の丙離族は、西は盧甘羌と接する。その北の龐拜族は、西夏の容魯族と接する。地勢は高く寒冷で、絹や麻、五穀はなく、ただ青稞を産し、野菜とともに酥酪を合わせて食する。その疆境は合わせて八千里、四万余戸を合わせる。その居住は水草に随って畜牧し、遷徙は常ならず。結什角は朝廷がその父の仇を討ってくれたことを思い、四族を棄てて朝廷に帰ろうとしたが、四族は許さなかった。成が臨洮に至ると、人を遣わして結什角を招いたので、ついに四族を率いて来附し、馬百匹を献上し、さらに毎年馬を貢ぐことを請うた。詔して言った、「遠人義を慕う、朕は甚だこれを嘉する。その能吏を遣わしてその衆を撫し、その賞賜を厚くせよ」。

原文結什角者,西番既衰,其苗裔曰堇氈,其子曰巴氈。角始附宋,賜姓趙,改名順忠。順忠子永吉,永吉子世昌,皆受宋官,為左武大夫,遙領萊州防禦使,襲把羊族長。朝廷定陝西,世昌換忠翊校尉。既而鬼蘆族長京臧殺世昌,朝廷遣兵執京臧,斬之臨洮市,以世昌子鐵哥為把羊族都管。大定四年,宋人破洮州,鐵哥弟結什角與其母走入喬家族避之。喬家族首領播逋與鄰族木波隴逋、龐拜、丙離四族耆老大僧等立結什角為木波四族長,號曰「王子」。其地北接洮州、積石軍。其南隴逋族,南限大山,八百餘裏不通人行。東南與疊州羌接。其西丙離族,西與盧甘羌接。其北龐拜族,與西夏容魯族接。地高寒,無絲枲五穀,惟產青稞,與野菜合酥酪食之。其疆境共八千里,合四萬餘戶。其居隨水草畜牧,遷徙不常。結什角念朝廷為其父報仇,欲棄四族歸朝,四族不許。成至臨洮,使人招結什角,乃率四族來附,進馬百匹,仍請每年貢馬。詔曰:「遠人慕義,朕甚嘉之。其遣能吏往撫其眾,厚其賞賜。」

初め、天会年中、詔して旧積石の地を夏人に与えたが、夏人はこれを祈安城と称した。莊浪四族があり、一を吹折門、二を密臧門、三を隴逋門、四を龐拜門といい、夏国に属していたが、叛服常ならず。大定六年、夏人が吹折、密臧の二門を破滅させると、その隴逋、龐拜の二門は喬家族と隣接していたため、ついに結什角に帰附した。夏国は使節を遣わして來告し、莊浪族が命に背き乱を起こしたので、兵を興して剪除したいと告げた。朝廷は隴逋、龐拜の二門が旧く夏国に属していたことを知らず、その地の旧く隷属していた所を検会するであろうと報じ、みだりに出兵しないよう命じた。

原文初,天會中,詔以舊積石地與夏人,夏人謂之祈安城。有莊浪四族,一曰吹折門,二曰密臧門,三曰隴逋門,四曰龐拜門,雖屬夏國,叛服不常。大定六年,夏人破滅吹折、密臧二門,其隴逋、龐拜二門與喬家族相鄰,遂歸結什角。夏國遣使來告莊浪族違命作亂,欲興兵剪除。朝廷不知隴逋、龐拜二門舊屬夏國,報以將檢會其地舊所隸屬,毋擅出兵。

結什角の母は莊浪族の中に居住していた。大定九年、結什角がその母を見舞いに行くと、夏人がこれを伺い知り、ついに兵を出して結什角を包囲し、降伏するよう招いた。結什角は従わず、配下の兵を率いて力戦し、包囲を突破して出たが、夏人がその腕を斬り落とし、その母を虜として去り、部兵も多く亡くなった。結什角はまもなく死に、遺言して朝廷に命を請い、喬家族の首領を再び立てるよう求めた。陝西より奏上、「聞くところによれば、夏国王李仁孝がその臣任得敬とともにその国を中分し、兵四万を発し、役夫三万を動員して祈安城を築き、喬家等族の首領結什角を殺害した。しばしば宋の間諜を捕らえ、宋が夏国と結んで辺境を侵犯しようと謀っていると述べている」。詔して大理卿李昌図、左司員外郎粘割斡特剌を遣わしてこれを査察させ、かつ夏人に祈安城を築くことおよび喬家等族を処置して別に首領を立てることを止めさせた。夏国は報じて言った、「祈安はもと積石の旧城で、久しく廃墟となっていた。辺境の臣が戍兵を設けて莊浪族を鎮撫するよう請うたのは、盗賊に備えるためであって、他意はない。結什角が兵を率いて境内に入ったので、これを殺したのであり、喬家族の首領であるとは知らなかった」。李昌図らが視察したところ、結什角を殺害した地はもと夏の境内にあり、祈安城の築城はすでに完工していたので、皆罷めて帰還し、宋と夏が交通している状況は得られず、そこで熙秦の宋・夏の要衝に近い所に戍兵を酌量して増員した。また喬家等族の民戸に問うと、結什角の甥の趙師古を首領とすることを願ったので、ここに詔して趙師古を木波喬家、丙離、隴逋、龐拜の四族都鈐轄とし、宣武将軍を加えた。

原文結什角之母居於莊浪族中。大定九年,結什角往省其母,夏人伺知之,遂出兵圍結什角,招之使降。結什角不從,率所部力戰,潰圍出,夏人斫斷其臂,虜其母去,部兵亦多亡者。結什角尋亦死,遺言請命朝廷,複立喬家族首領。陝西奏:「聞知夏國王李仁孝與其臣任得敬中分其國,發兵四萬,役夫三萬,築祈安城,殺喬家等族首領結什角。屢獲宋諜人,言宋欲結夏國謀犯邊境。」詔遣大理卿李昌圖、左司員外郎粘割斡特剌往按之,且止夏人毋築祈安城及處置喬家等族別立首領。夏國報雲:「祈安本積石舊城,久廢,邊臣請設戍兵鎮撫莊浪族,所以備盜,非有他也。結什角以兵入境,以是殺之,不知為喬家族首領也。」李昌圖等按視,殺結什角之地本在夏境,築祈安城已畢工,皆罷歸,不得宋、夏交通之狀,乃于熙秦迫近宋、夏沖要量添戍兵。及問喬家等族民戶,願以結什角侄趙師古為首領,於是詔以趙師古為木波喬家、丙離、隴逋、龐拜四族都鈐轄,加宣武將軍。

石抹卞

原文石抹卞

石抹卞は、本名を阿魯古列という。五代の祖は王五で、遼の駙馬都尉であった。父の五斤は群牧使となり、睿宗に従って秋山に赴いた時、卞は十三歳にして既に射術に優れ、連続して二頭の鹿を獲たので、睿宗はこれを奇異とし、良馬と金吐鶻を賜った。天会の末、宗弼が右監軍となると、卞を召し出して帳下に隷属させた。父の喪に服した。この時、宗磐は太師、撻懶は左副元帥であり、人々は争ってこれに附いたが、使いを遣わして卞を召しても、卞は行かなかった。宗磐と撻懶は皆罪に坐して誅殺され、人々は卞の識見を称えた。宗弼が再び河南を取ると、宋軍と潁州で戦い、漢軍が少し退却した時、卞は七箇所の傷を負いながら、勇士十余騎を率いて奮撃し、これを破った。宋が臣と称すると、宗弼は嘗て功労のあった者を選んで共に朝廷に入朝させ、卞を忠勇校尉に任じた。宣武將軍に遷り、河間少尹を除された。廉察により、遂州刺史に昇進し、寿州に改め、さらに唐州に改めた。母の喪に服して官を去り、喪中に起用されて唐州刺史となった。海陵が宋を伐つと、卞は武毅軍都総管となり、別道より進軍した。宋の伏兵数百に遭遇し、三十騎でこれを撃破し、信陽軍及び羅山県を下した。蒋州に至ると、宋の守将は城を棄てて遁走し、その城を取った。間もなく、軍士は皆逃げ帰ろうとし、闌子山猛安が漢軍三猛安謀克を結んで卞を劫いて還り、奨水の曲に宿営した。卞はひそかに漢軍の将吏と約し、夜に乗じて闌子山猛安を掩襲して殺し、再びその軍を率いた。大定二年、鄭州防禦使を除され、本官のまま行軍万戸を兼ねて宋を伐った。武勝軍節度使に遷った。宋人が和を請うと、翌年、水牛数百頭が淮南より州境に走り入った。僚佐はこれを収めて官用に充てようとしたが、卞は聞き入れず、再び淮を越えてこれを還した。河南尹に遷り、西南路招討使に転じ、大名尹に改めた。大名は盗賊多く、城郭が完備していなかったので、卞は大名城の修築を請うた。奏上は許可された。城が完備すると、盗賊は起こらなくなった。臨洮尹に移った。官にて卒した。享年六十三。

原文石抹卞,本名阿魯古列。五代祖王五,遼駙馬都尉。父五斤,為群牧使,從睿宗秋山,卞年十三,已能射,連獲二鹿,睿宗奇之,賜以良馬及金吐鶻。天會末,宗弼為右監軍,召卞隸帳下。丁父憂,是時宗磐為太師,撻懶為左副元帥,人爭附之,使人召卞,卞不往。宗磐、撻懶皆以罪誅,人多其有識。宗弼複取河南,與宋人戰於潁州,漢軍少卻,卞身被七創,率勇士十余騎奮擊,敗之。及宋稱臣,宗弼選嘗有勞者與俱入朝,授卞忠勇校尉。遷宣武將軍,除河間少尹。察廉,升遂州刺史,改壽州,再改唐州。丁母憂去官,起複唐州刺史。海陵伐宋,卞為武毅軍都總管,由別道進兵。遇宋伏兵數百人,以三十騎擊敗之,遂下信陽軍及羅山縣。至蔣州,宋守將棄城遁,因取其城。頃之,軍士皆欲逃歸,闌子山猛安結漢軍三猛安謀克劫卞還,舍于獎水之曲。卞乃陰約漢軍將吏乘夜掩殺闌子山猛安,複將其軍。大定二年,除鄭州防禦使,以本官領行軍萬戶伐宋。遷武勝軍節度使。宋人請和,明年,有水牛數百頭自淮南走入州境,僚佐欲收之充官用,卞不聽,複驅過淮還之。遷河南尹,轉西南路招討使,改大名尹。大名多盜,而城郭不完,卞請修大名城。奏可。城完葺,盜賊不得發。徙臨洮尹。卒官,年六十三。

楊仲武

原文楊仲武

楊仲武は、字を德威といい、保安の人である。父の遇は勇をもって関西に聞こえ、宥州団練使となった。宋の末、仲武は経略使王庶に謁して自ら効力を求めたので、先鋒として用いられた。婁室ろうしつが関中に入ると、仲武は鄜延路兵馬都監鄭建充と共に降り、安塞堡の環慶路兵馬都監となった。皇統初年、陝西を回復し、兵を率いて鳳翔を戍守し、しばしば宋軍を退けた。寧州知州を除された。関中に飢饉が頻発し、境内に盗賊が横行したが、仲武はこれを悉く平定した。坊州刺史に改め、再び寧州知州となり、同知臨洮尹に遷り、同知河中府に改めた。海陵が南京を営繕する時、浮橋の工役を主管した。臨洮の地は西羌に接し、木波と雑居していたが、辺将が貪暴であったため、木波はこれに苦しみ、遂に相率いて寇掠を行った。仲武は以前臨洮を治めていたので、数騎を従えてその営に入り諭して言うには、「これは皆、将校が汝らを侵漁したため、ここに至ったのだ。今この輩を懲治し、再び汝らを擾害することはない」と。併せて禍福を諭し聞かせた。羌人は喜び、寇掠は遂に止んだ。ここに至り、木波が再び熙河を掠めたので、熙河の主帥が人を遣わして諭したが、去ろうとせず、言うには、「楊総管が来れば、我らは解いて去ろう」と。熙河が具に奏上すると、詔により再び仲武を遣わした。この時、木波は仲武が再び来られないと思っていた。仲武が至ると、その酋帥と相見え、負約を責めると、答えて言うには、「辺将が我らを苦しめたので、今来たのは、上官に訴えを求めるためである。今幸いにも公にお目にかかり、終身再び塞を犯さぬことを願う」と。乃ち酒を挙げて天に酹し、箭を折って誓った。仲武は因って卮酒を以てこれを飲ませて言うには、「更に汝らのために請おう。若し再び約に背くならば、必ず兵を用いるであろう」と。羌人は羅拝して去った。宋を伐つに当たり、仲武を威定軍都総管とし、帰徳に駐兵させた。大定三年、武勝軍節度使を除され、陝西西路転運使に改め、卒した。

原文楊仲武,字德威,保安人。父遇,以勇聞關西,為宥州團練使。宋末,仲武謁經略使王庶求自效,遂用為先鋒。婁室入關,仲武與鄜延路兵馬都監鄭建充俱降,為安塞堡。環慶路兵馬都監。皇統初,複陝西,將兵戍鳳翔,屢卻宋軍。除知寧州。關中薦饑,境內盜賊縱橫,仲武悉平之。改坊州刺史,複知寧州,遷同知臨洮尹,改同知河中府。海陵營繕南京,典浮橋工役。臨洮地接西羌,與木波雜居,邊將貪暴,木波苦之,遂相率為寇掠。仲武前治臨洮,乃從數騎入其營諭之曰:「此皆將校侵漁汝等,以至此爾。今懲治此輩,不復擾害汝也。」並以禍福曉之。羌人喜悅,寇掠遂息。至是,木波複掠熙河,熙河主帥使人諭之,不肯去,曰:「楊總管來,我乃解去。」熙河具奏,詔複遣仲武。當是時,木波謂仲武不能複來。及仲武至,與其酋帥相見,責以負約,對曰:「邊將苦我,今之來,求訴于上官耳。今幸見公,願終身不復犯塞。」乃舉酒酹天,折箭為誓。仲武因以卮酒飲之曰:「當更為汝請,若複背約,必用兵矣。」羌人羅拜而去。及伐宋,以仲武為威定軍都總管,駐兵歸德。大定三年,除武勝軍節度使,改陝西西路轉運使,卒。

蒲察世傑

原文蒲察世傑

蒲察世傑は、本名を阿撒といい、曷速館斡篤河の人で、遼陽に移った。初め梁王宗弼の軍中にいた。人となりは多力で、毎度武士と角力して羊を賭けても、常にこれを勝ち取った。四歳の牛を拳で撃ち、脇骨を折って死なせることができた。糧車が泥沼に陥ると、七頭の牛で引き出せなかったが、世傑は手で引き出した。宗敏が東京留守となると、召し出して左右に置いた。海陵が簒立すると、即ち護衛とした。海陵は世傑に言うには、「汝の勇力は絶倫である。今我が兄弟に異志を抱く者がおり、十日を期してこれを除けば、非常の賞を与え、併せて各人の家産を尽く汝に賜わろう」と。世傑は詔を受けたが、肯んじなかった。既に十日を過ぎると、海陵は怒り、面と向かってこれを責めた。世傑は言うには、「臣は誓って非道をもって物を害さず、たとえ死すとも詔を奉じることはできません」と。海陵はその勇を愛し、罪に問わなかった。

原文蒲察世傑,本名阿撒,曷速館斡篤河人,徙遼陽。初在梁王宗弼軍中。為人多力,每與武士角力賭羊,輒勝之。能以拳擊四歲牛,折脅死之。有糧車陷淖中,七牛挽不能出,世傑手挽出之。宗敏為東京留守,召置左右。海陵篡立,即以為護衛。海陵謂世傑曰:「汝勇力絕倫,今我兄弟有異志者,期以十日除之,則有非常之賞,仍盡以各人家產賜汝。」世傑受詔而不肯為。已過十日,海陵怒,面責之。世傑曰:「臣自誓不以非道害物,雖死不敢奉詔。」海陵愛其勇,不之罪也。

正隆四年、諸路の兵を徴発して宋を伐ち、年二十以上、五十以下を皆籍した。他の使者は詔書に及ばぬことを恐れ、多くを得たが、世傑が曷懶路に往くと、数が少なかった。海陵は怪しんで問うと、答えて言うには、「曷懶の地は高麗に接しています。今若し多くその丁を籍すれば、緩急あれば、何を以て備えましょうか」と。海陵は喜んで言うには、「他人の用心は及ばぬところである」と。同知安国軍節度使事を除し、銀二百五十両、絹彩六百匹、馬二匹を賜った。この時、徴発が止まず、民は命に堪えず、法を犯す者多く、邢は久しく長吏がおらず、獄囚が四百余人も積もっていた。世傑が官に到着して一月余りで、裁決して遣わし、ほぼ尽きた。入朝して宿直將軍となり、事により胡裏改路に往き、還って奏上して言うには、「契丹部族は大抵皆叛き、百姓は驚擾して安からず。今挙国して南伐するに、賊若し虚に乗じて東土の根本の地に入り据われば、たとえ江・淮を得ても益がありません。宜しく先ず契丹を討平し、南伐は未だ遅くありません」と。海陵は喜ばず言うには、「詔令は既に出た。今三万の兵を以て将を選び中都の以北に屯させれば、鎮圧に足りる」と。世傑はまた言うには、「若し東土の大族が賊に附けば、恐らく三万の衆では容易に当たれません」と。海陵は聞き入れなかった。

原文正隆四年,調諸路兵伐宋,年二十以上、五十以下皆籍之。他使者唯恐不如詔書,得數多,世傑往曷懶路,得數少。海陵怪問之,對曰:「曷懶地接高麗,今若多籍其丁,即有緩急,何以為備?」海陵喜曰:「他人用心不能及也。」除同知安國軍節度使事,賜銀二百五十兩、絹彩六百匹、馬二疋。是時徵發不已,民不堪命,犯法者眾,邢久無長吏,獄囚積四百餘人。世傑到官月餘,決遣略盡。入為宿直將軍,以事往胡裏改路,還奏:「契丹部族大抵皆叛,百姓驚擾不安。今舉國南伐,賊若乘虛入據東土根本之地,雖得江、淮,無益也。宜先討平契丹,南伐未晚。」海陵不悅曰:「詔令已出矣。今以三萬兵選將屯中都以北,足以鎮壓。」世傑又曰:「若東土大族附於賊,恐三萬眾未易當也。」海陵不聽。

及んで汴京を発つと、鄭州防禦使を授け、武捷軍副総管を領した。大軍が淮を渡ると、世傑は軍三千を以て糧餉を護り東下し、宋兵数千を破り、その戦船を多く奪った。和州の境に至り、宋兵五万を撃って走らせた。明日、その子の兀迭に二百八十騎を率いさせて応兵とし、自らは八百騎を率いて前進して戦った。連続して六十余人を射ると、皆弦に応じて斃れ、宋兵は遂に奔潰した。海陵は水戦を見ようとし、世傑に水軍百人を率いさせて試みさせた。宋人の舟は大きく多く、世傑の舟は小さいが、急進し、中流に至って勝ちを取って還った。大定初年、世傑は再び陝州を取り、石壕鎮で宋兵を破り、再び宋の援兵三千を破り、遂に陝州を囲んだ。宋兵二千が潼関より来ると、世傑は兵二百四十を以てこれを迎撃し、十余人を射殺し、宋兵は敗走した。土壕山で再びこれを破り、一将を生擒した。再び兵三百を以て斗門城に至ると、宋兵万余に遭遇し、宋将三人が鎗を挺てて来たり世傑を刺そうとしたが、世傑は刀を以てその鎗を断ち切り、宋兵は乃ち退いた。再び四謀克の軍を以て土華で宋兵を破り、再び陝州を囲んだ。世傑は嘗て甲を擐け刀を佩き、腰に箭百本を帯び、鎗を執り馬を躍らせて、軍中を往来した。敵人はこれを見て異とし、言うには、「真の神将である」と。親しく選卒二百余人を率いて地を穴ぐらして入り、城は遂に陥った。再び宋軍三万を破り、虢州を回復した。

原文及發汴京,授鄭州防禦使,領武捷軍副總管。大軍渡淮,世傑以軍三千護糧餫東下,敗宋兵數千人,奪其戰船甚眾。至和州境,擊宋兵五萬人走之。明日,使其子兀迭領二百八十騎為應兵,自領八百騎前戰。連射六十餘人,皆應弦而斃,宋兵遂奔潰。海陵欲觀水戰,使世傑領水軍百人試之。宋人舟大而多,世傑舟小,乃急進,至中流取勝而還。大定初,世傑複取陝州,敗宋兵石壕鎮,複敗宋援兵三千人,遂圍陝州。宋兵二千自潼關來,世傑以兵二百四十迎擊之,射殺十余人,宋兵敗走。複敗之於土壕山,生擒一將。複以兵三百至斗門城,遇宋兵萬余,宋將三人挺槍來刺世傑,世傑以刀斷其鎗,宋兵乃退。複以四謀克軍敗宋兵于土華,複圍陝州。世傑嘗擐甲佩刀,腰箭百隻,持鎗躍馬,往來軍中。敵人見而異之,曰:「真神將也。」親率選卒二百餘人穴地以入,城遂拔。再破宋軍三萬人,複虢州。

間もなく、衛州防禦使となり、河南路統軍都監に改められた。召されて闕下に赴くと、上は長く慰労し、西北路副統を除し、廄馬・弓矢・佩刀を賜った。僕散忠義に従って契丹を討った。賊が平定されると、華州防禦使に改められ、徒單合喜とともに隴右を経略した。合喜が徳順を回復し、東山堡に至ると、宋兵が薪を採る道を遮断したので、世傑はこれを撃退し、城下まで追撃した。城中より約二万余りの兵が出撃したが、これを破り、殺傷甚だ多かった。宋の経略使荊皋は徳順を棄てて逃走し、世傑は左都監の璋とともに追撃してその軍を破った。亳州防禦使に改められ、四度遷って通遠軍節度使となった。宋人がしばしば鞏州の境に入り米や麺を買い入れることがあり、役人がこれを捕らえたが、世傑は案文に帰附人と記し、釈放して帰らせた。訳吏の蔡松壽が府の主君が謀叛を企てていると誣告し、斬罪に処せられた。十八年、弘州刺史として起用された。母の喪により職を去った。累遷して亳州防禦使となり、卒した。

原文未幾,為衛州防禦使,改河南路統軍都監。召赴闕,上慰勞良久,除西北路副統,賜廄馬、弓矢、佩刀。從僕散忠義討契丹。賊平,改華州防禦使,與徒單合喜經略隴右。合喜複德順,至東山堡,宋兵捍絕樵路,世傑擊走之,追至城下。城中出兵約二萬餘,敗之,殺傷甚眾。宋經略使荊皋棄德順走,世傑與左都監璋追破其軍。改亳州防禦使,四遷通遠軍節度使。宋人輒入鞏州境糶米麵,有司執之,世傑署案作歸附人,縱遣之。譯吏蔡松壽誣府主謀叛,坐斬。十八年,起為弘州刺史。母憂去職。累遷亳州防禦使,卒。

世傑は若い頃貧しかったが、財を惜しまず気概を重んじ、戦陣に臨むごとに、敵の大軍が既に敗れた後は、必ず士卒に戒めて殺戮や略奪を恣に行わせなかった。平素は忠孝でないことは言わず、賢者を親しみ善を楽しみ、当世の称賛を大いに得たという。

原文世傑少貧,然疏財尚氣,每臨陣,敵眾既敗,必戒士卒毋縱殺掠。平居非忠孝不言,親賢樂善,甚獲當世之譽雲。

蕭懷忠

原文蕭懷忠

蕭懷忠、本名は好胡、奚人である。西北路招討使となった。蕭裕らが遼の後裔を立てようと謀り、蕭招折を西北路に遣わして懷忠を結び、併せて節度使耶律朗を結んで助力を求めた。懷忠は朗と不和であったので、遂に招折を捕らえ、朗をも捕らえ、使者を遣わして変事を上奏した。裕らが誅殺された後、懷忠は樞密副使となり、今の名を賜った。再び西北路招討使、西京留守となり、王に封ぜられた。南京留守に改められた。契丹の撒八が反乱を起こすと、再び懷忠を西京留守・西南面兵馬都統とし、樞密使僕散思恭・北京留守蕭賾・右衛將軍蕭禿剌・護衛十人長の斡盧保とともにこれを討たせた。蕭禿剌は戦って功がなく、大軍は撒八を追ったが及ばなかった。而して海陵王は、懷忠と蕭裕はともに契丹人で、元々同謀であったのに、一年余り経ってから招折を捕らえて変事を上奏したこと、また撒八も契丹の部族であることから、彼らが合流することを恐れ、師恭(思恭)が太后と密談したこと、また禿剌に功がなかったことにより、懷忠・賾・師恭が賊を逃がしたと考え、師恭を殺した後、その家を族滅し、使者を軍中に遣わして賾と懷忠を殺させ、ともに族誅に処した。斡盧保と禿剌は初め罪の首であったが、ただ誅殺したのみであった。大定三年、賾・懷忠・禿剌・斡盧保の官爵を追復した。賾の弟で安州刺史の頤が賾の謀克を襲ぐことを求めたが、上は謀克を許さず、賾の家産を彼に与えた。

原文蕭懷忠,本名好胡,奚人也。為西北路招討使。蕭裕等謀立遼後,使蕭招折往西北路結懷忠,並結節度使耶律朗為助。懷忠與朗有隙,遂執招折並執朗,遣使上變。裕等既誅,懷忠為樞密副使,賜今名。複為西北路招討使,西京留守,封王。改南京留守。契丹撒八反,複以懷忠為西京留宋、西南面兵馬都統,與樞密使僕散思恭、北京留守蕭賾、右衛將軍蕭禿剌、護衛十人長斡盧保往討之。蕭禿剌戰無功,大軍追撒八不及。而海陵意謂懷忠與蕭裕皆契丹人,本同謀,逾年乃執招折上變,而撒八亦契丹部族,恐其合,以師恭與太后密語,而禿剌無功,懷忠、賾、師恭逸賊,既殺師恭,族滅其家,使使即軍中殺賾、懷忠,皆族之。斡盧保、禿剌初為罪首,但誅之而已。大定三年,追複賾、懷忠、禿剌、斡盧保官爵。賾弟安州刺史頤求襲賾之謀克,上不許謀克,而以賾家產付之。

移剌按答

原文移剌按答

移剌按答は、遼の横帳の出身である。父の留斡は、耶律餘睹とともに来降した。西京が陥落すると、再び叛き、留斡は害に遇い、按答は死事の子として左奉宸に任ぜられた。熙宗の初め、護衛を充てられ、安州刺史を除され、累官して東京副留守となった。参知政事完顏守道が北方を経略した際、咸平路屯軍都統を摂行した。入朝して兵部侍郎となり、西北・西南両路に旧設され内地に迫近していた堡塁・戍を極辺に移して安置し、なお泰州・臨潢の辺堡と相接するようにした。武定軍節度使を除され、辺境の部族を招来した功により東北路招討使に遷り、臨潢尹に改められ、卒した。

原文移剌按答,遼橫帳人也。父留斡,與耶律餘睹俱來降。西京下,複叛,留斡遇害,按答以死事之子,授左奉宸。熙宗初,充護衛,除安州刺史,累官東京副留守。參知政事完顏守道經略北方,攝咸平路屯軍都統。入為兵部侍郎,徙西北、西南兩路舊設堡戍迫近內地者于極邊安置,仍與泰州、臨潢邊堡相接。除武定軍節度使,以招徠邊部功遷東北路招討使,改臨潢尹,卒。

按答は騎射が並ぶ者なく、馬を見る目に優れ、かつて善く射る者について論じた時、世宗は言った、「卿のようにはできまいか」。市で馬を閲する時、良馬を見れば、たとえ痩せ衰えていても、すぐに善い値で買い取り、後日それが果たして良馬であった。

原文按答騎射絕倫,善相馬,嘗論及善射者,世宗曰:「能如卿乎?」閱馬於市,見良馬,雖羸瘦,輒與善價取之,他日果良馬也。

孛朮魯阿魯罕

原文孛朮魯阿魯罕

孛朮魯阿魯罕は、隆州琶離葛山の人である。八歳の時、契丹字を習うように選ばれ、再び女直じょちょく字を習うように選ばれた。壮年になって、黄龍府路萬戸令史となった。貞元二年、外路の胥吏三百人を試験して随朝の官に補うこととなり、阿魯罕は第一となり、宗正府令史に補せられた。累進して尚書省令史となった。僕散忠義が窩斡を討つ時、幕府に辟召して置き、辺関の文書を掌り、甚だ信任された。窩斡が平定された後、阿魯罕は散亡した者を招集し、旧業に復する者は数万人に及んだ。再び忠義に従って宋を伐ち、たびたび入朝して事を奏し、可否を論じた。上は宰相に言った、「阿魯罕の言うことで、実行できるものは即ち実行せよ」。宋人が和を請うと、忠義は阿魯罕を遣わした。和議が定まると、阿魯罕は入奏し、銀百両・重彩十端を賜った。忠義は阿魯罕に才幹があり、尚書省都事に任ぜられるべきであると推薦し、詔して大理司直とした。間もなく、尚書省都事を授けられ、同知順天軍節度事を除された。紇石烈志寧が北巡した時、阿魯罕は左右司郎中を摂行した。還朝して刑部員外郎を除され、再遷して侍御史となった。上は紇石烈良弼に問うた、「阿魯罕はどのような人物か」。答えて言った、「幹才があり、心を忠正に持ち、言葉を阿諛追従しない」。数日後、勸農副使に遷り、兼ねて同修國史を務め、侍御史は元の通りとした。右司郎中に改められた。河南の戍軍で城中に屯営する者を十里外に移すことを奏請し、聞き入れられた。吏部侍郎に遷り、山東統軍都監を兼ね、河南の八猛安を移して置いた。武勝軍節度使に遷った。入朝して吏部尚書となり、西南路招討使に改められた。役人が本路の猛安人戸が官から借りた粟の返済を督促したが、阿魯罕は豊年を待つことを乞い、聞き入れられた。軍人で甲葉をもって諸物と貿易する者、天徳の榷場及び界外で毎年銅鉱を採る者、あるいは私かに兵器・鉄を挟んでこれと市易する者を、すべて一切禁絶した。上番する軍には親戚・奴婢及び雇い人を用いることを許さず、営塁や壕が損傷・崩壊した時は時を移さず修繕させ、管轄する猛安・謀克と宴会を共にしなかったので、兵も民も皆畏敬し慕った。

原文孛朮魯阿魯罕,隆州琶離葛山人。年八歲,選習契丹字,再選習女直字。既壯,為黃龍府路萬戶令史。貞元二年,試外路胥吏三百人補隨朝,阿魯罕在第一,補宗正府令史。累擢尚書省令史。僕散忠義討窩斡,辟置幕府,掌邊關文字,甚見信任。窩斡既平,阿魯罕招集散亡,複業者數萬人。複從忠義伐宋,屢入奏事,論列可否。上謂宰相曰:「阿魯罕所言,可行者即行之。」宋人請和,忠義使阿魯罕往。和議定,阿魯罕入奏,賜銀百兩、重彩十端。忠義薦阿魯罕有才幹,可任尚書省都事,詔以為大理司直。未幾,授尚書省都事,除同知順天軍節度事。紇石烈志寧北巡,阿魯罕攝左右司郎中。還朝,除刑部員外郎,再遷侍御史。上問紇石烈良弼曰:「阿魯罕何如人也?」對曰:「有幹材,持心忠正,出言不阿順。」數日,遷勸農副使,兼同修國史,侍御史如故。改右司郎中。奏請徙河南戍軍屯營城中者於十裏外,從之。遷吏部侍郎,附山東統軍都監,徙置河南八猛安。遷武勝軍節度使。入為吏部尚書,改西南路招討使。有司督本路猛安人戶所貸官粟,阿魯罕乞俟豐年,從之。軍人有以甲葉貿易諸物,天德榷場及界外歲采銅礦,或因私挾兵鐵與之市易,皆一切禁絕之。上番軍不許用親戚、奴婢及傭雇者,營塹損圮以時葺治,不與所部猛安謀克會宴,故兵民皆畏愛之。

上は太尉の守道に言った、「阿魯罕及び上京留守の完顏烏裏也はともに胥吏から身を起こしたが、阿魯罕は人となり沈着で篤実であり、その賢さは彼を超えている」。陝西路統軍使兼京兆尹に改められた。陝西の軍籍に欠員があると、旧例では子弟を補充していたが、多くは用に堪えなかったので、阿魯罕は阿裏喜・旗鼓手の中から選んで補充した。軍人が春に馬を放牧し、夏を過ぎても収飼しないため、痩せ弱って多く死んだので、阿魯罕は時を定めて収秣することを命じたので、死損する者が少なかった。なお春秋に軍士の騎射を督閲し、武備を厳しくした。終南山で漆を採る者には、その期限を制限し、その出入りを検査して、奸細を防いだ。上は宰相に言った、「阿魯罕の赴任した所は皆よく治まり、陝西での政績は特に顕著である。用いるのが遅かったが、それでも数年は力を得られるであろう」。召されて参知政事とし、天徳・陝西での行いを条陳して上奏することを命じ、上は善しと称した。病を理由に致仕を乞い、北京留守を除され、卒した。

原文上謂太尉守道曰:「阿魯罕及上京留守完顏烏裏也皆起身胥吏,阿魯罕為人沉厚,其賢過之。」改陝西路統軍使兼京兆尹。陝西軍籍有闕,舊例用子弟補充,而材多不堪用,阿魯罕于阿裏喜旗鼓手內選補。軍人以春牧馬,經夏不收飼,瘠弱多死,阿魯罕命以時收秣之,故死損者少。仍春秋督閱軍士騎射,以嚴武備。終南采漆者,節其期限,檢其出入,以防奸細。上謂宰相曰:「阿魯罕所至稱治,陝西政績尤著,用之雖遲,亦可得數年力也。」召為參知政事,命條上天德、陝西行事,上稱善。以疾乞致仕,除北京留守,卒。

賛して言う、《礼記》に曰く、「君子は磬の声を聴けば、則ち封疆に死するの臣を思う」。《春秋左氏伝》に曰く、「疆埸の事は、慎んでその一を守りてその不虞を備う」。故に辺境を守り戍るの臣は、論ぜざるべからざるなり。

原文贊曰:《記》曰:「君子聽磬聲,則思死封疆之臣。」《傳》曰:「疆埸之事,慎守其一而備其不虞。」故守戍邊圉之臣,不可以不論焉。

趙興祥

原文趙興祥

趙興祥は平州盧龍の人である。六世の祖思溫は遼の燕京留守となり、天水郡王に封ぜられた。父の瑾は遼の静江軍節度使であった。興祥は父の任により閣門祗候となり、白霫に赴いて親の安否を問うた。時に遼の末世、土賊が郡を占拠して乱を起こしたので、興祥は母と弟妹を連れて燕京へ奔ったが、進むことができず、柳城から砂磧を渡り、夜は星斗を視て行った。辛うじて遼軍に達したが、遼主の所在を知らず、遂に柳城に還った。婁室が遼主を捕らえると、興祥は帰国し、宗望に従って宋を伐ち、六宅使となった。天眷初年、累官して同知宣徽院事となった。母の喪により官を去った。熙宗は平素より興祥の孝行を聞いており、英悼太子が冊立を受けると、本官をもって起復させ、太子を護視させた。右宣徽使に転じた。天徳初年、左宣徽使に改めた。海陵はかつて興祥に問い、子弟を官に就けたいならば自ら言うようにと言ったが、興祥は辞退した。海陵はこれを善しとし、玉帯を賜い、詔して曰く、「汝の官は未だ一品に至らぬも、此れを佩いて侍立すべし」と。済南尹となり、車馬・金幣・金銀器皿を賜い、絳陽軍節度使に改め、召されて太子少保となり、広平郡王に封ぜられ、さらに钜鹿に改封された。正隆初年、例により王爵を奪われ、太子少傅に遷り、申国公に封ぜられ、起用されて定武軍節度使となった。海陵が宋を伐つに際し、興祥の二子が従軍した。世宗が即位した時、海陵は尚ほ淮南に在り、二子は還ることができなかった。興祥が平州に来て謁見すると、世宗はその誠実な心を嘉し、秘書監とし、再び左宣徽使とした。上曰く、「尚食の庖人は猥りに多く、徒らに廩祿を費やす。朕が藩邸に在りし時は、家務は皆執事者に委ねたが、即位以来、事は皆心に留めている。俸祿は百姓より出ず、妄りに費やすべからず。庖人は約量して損減すべし」と。近臣が琵琶を献上したが、世宗はこれを退け、興祥に謂いて曰く、「朕は天下を憂労し、未だ嘗て声伎を心とせず。自今以後再び献ずることなかれ。宜しく朕が意を悉く諭すべし」と。有司が南北の辺事未だ息まず、恐らく財用足らざるを奏し、神龍殿涼位の工役を罷むるを乞うた。上は即日に興祥を使わして詔を伝え、これを罷めさせた。久しくして、その孫の珣を閣門祗候とした。十五年、上が安州の春水に行幸し、興祥を召して万春節に赴かせた。上は良郷において謁見し、銀五百両を賜い、風眩を患うと医薬を賜った。未幾、官にて卒した。

原文趙興祥,平州盧龍人。六世祖思溫,遼燕京留守,封天水郡王。父瑾,遼靜江軍節度使。興祥以父任閣門祗候,謁告省親于白霫。會遼季土賊據郡作亂,興祥攜母及弟妹奔燕京,不能進,乃自柳城涉砂磧,夜視星斗而行。僅達遼軍,而不知遼主所向,遂還柳城。及婁室獲遼主,興祥乃歸國,從宗望伐宋,為六宅使。天眷初,累官同知宣徽院事。母憂去官。熙宗素聞興祥孝行,及英悼太子受冊,以本官起複,護視太子。轉右宣徽使。天德初,改左宣徽使。海陵嘗問興祥,欲使子弟為官,當自言。興祥辭謝。海陵善之,賜以玉帶,詔曰:「汝官雖未至一品,可佩此侍立。」為濟南尹,賜車馬、金幣、金銀器皿,改絳陽軍節度使,召為太子少保,封廣平郡王,改封钜鹿。正隆初,例奪王爵,遷太子少傅,封申國公,起為定武軍節度使。海陵伐宋,興祥二子從軍。世宗即位,海陵尚在淮南,二子未得還。興祥來見於平州,世宗嘉其誠款,以為秘書監,複為左宣徽使。上曰:「尚食庖人猥多,徒費廩祿。朕在籓邸時,家務皆委執事者,自即位以來,事皆留心。俸祿出於百姓,不可妄費,庖人可約量損減。」近臣獻琵琶,世宗卻之,謂興祥曰:「朕憂勞天下,未嘗以聲伎為心,自今勿複有獻,宜悉諭朕意。」有司奏南北邊事未息,恐財用未給,乞罷修神龍殿涼位工役。上即日使興祥傳詔罷之。久之,以其孫珣為閣門祗候。十五年,上幸安州春水,召興祥赴萬春節。上謁於良鄉,賜銀五百兩,感風眩,賜醫藥。未幾,卒官。

石抹榮

原文石抹榮

石抹榮、字は昌祖。七世の祖は遼に仕え、順国王に封ぜられた。遼主が天徳に奔ると、榮の父惕益は身を挺してこれに赴いた。この時、榮は僅か六歳で、母の忽土特満がこれを連れて道路に流離し、宗室の穀神がこれを見出し、次室として納れ、榮は穀神の家に養われた。惕益は遼主に謁見すると、軍事を委ねられた。軍敗れて捕らえられ、殺されんとしたが、金源郡王銀朮可曰く、「彼はその事に忠なり、これを殺して何をもって後を勧めん」と。遂にこれを釈した。後に宋を伐つに従い、軍中に卒した。榮が年長ずると、秦王宗翰に事え、幕府に居た。天眷二年、護衛を充たす。熙宗が宴飲し、胙王元と榮に角力を命じると、榮はこれに勝ち、力士六七人を連続して倒した。熙宗自ら酒を飲ませ、金幣を賜い、宿直将軍に遷した。天徳初年、開遠軍節度使を除された。入謝するに当たり、知らず泣下した。海陵がその故を問うと、対えて曰く、「老母が穀神の家に在り、膝下を離るるを悲しみ、以て感泣す」と。乃ちその母とともに行くことを詔し、仍お錢一万貫を賜った。天徳尹に改め、泰寧軍に徙り、再び延安・東平尹を除された。海陵が南征するに際し、神果軍都総管となり、泗州に留駐し、逋卒を遏えさせた。大定初年、東平に還鎮し、戸部尚書梁銶とともに山東の盗賊を按治した。二年、本官をもって山東東西・大名等路都統を充たす。疾あり、太原尹に改め、益都尹に徙る。母の喪に服し、起復して召され簽書枢密院事・北京東京留守・陝西路統軍使・南京西京留守となった。榮は河南尹婁室・陝州防禦使石抹靳家奴とともに皆、高賈して私物を売り、賈買を抑えて民物を買う罪に坐した。靳家奴は前に単州刺史となり、廉察官が郡を行くや、乃ち民を劫制して虚誉を作らせ、これにより同知太原尹に遷り、また多く民利を取った。陝州となると、尚書省がその事を奏し、法により解職削階すべきところ、上は靳家奴が虚声を鼓して朝廷を誑かすは恕すべからずとし、特詔して除名した。榮と婁室は両階を削り解職した。久しくして、榮は臨潢尹を除され、臨洮尹に改めた。卒す。年六十三。

原文石抹榮,字昌祖。七世祖仕遼,封順國王。遼主奔天德,榮父惕益挺身赴之。是時,榮方六歲,母忽土特滿攜之流離道路,宗室穀神得之,納為次室,榮就養于穀神家。惕益既見遼主,委以軍事。軍敗被執,將殺之,金源郡王銀朮可曰:「彼忠於所事,殺之何以勸後。」遂釋之。後從伐宋,卒於軍中。榮年長,事秦王宗翰,居幕府。天眷二年,充護衛。熙宗宴飲,命胙王元與榮角力,榮勝之,連僕力士六七人。熙宗親飲之酒,賜以金幣,遷宿直將軍。天德初,除開遠軍節度使。入謝,不覺泣下。海陵問其故。對曰:「老母在穀神家,違去膝下,是以感泣。」乃詔其母與之俱行,仍賜錢萬貫。改天德尹,徙泰寧軍,再除延安、東平尹。海陵南征,為神果軍都總管,留駐泗州,以遏逋卒。大定初,還鎮東平,與戶部尚書梁銶按治山東盜賊。二年,以本官充山東東西、大名等路都統。有疾,改太原尹,徙益都尹。丁母憂,起複召為簽書樞密院事,北京、東京留守,陝西路統軍使,南京、西京留守。榮與河南尹婁室、陝州防禦使石抹靳家奴皆坐高賈賣私物、抑賈買民物得罪。靳家奴前為單州刺史,廉察官行郡,乃劫制民使作虛譽,用是得遷同知太原尹,複多取民利。及為陝州,尚書省奏其事,法當解職削階,上以靳家奴鼓虛聲以誑朝廷,不可恕,特詔除名。榮與婁室削兩階解職。久之,榮除臨潢尹,改臨洮尹。卒,年六十三。

敬嗣暉

原文敬嗣暉

敬嗣暉、字は唐臣、易州の人。天眷二年の進士第に登り、懐安丞に調され、弘政令に遷り、尚書省令史を補った。才弁あり、海陵が宰相たりし時、これを愛し、及び帝位を簒立すると、起居注に擢で、諫議大夫・吏部侍郎・左宣徽使を歴任した。貞元三年八月、尚食の烹飪宜しからず、庖官各々杖二百、嗣暉と同知宣徽院事烏居仁は各々杖有差となった。久しくして、参知政事を拝した。正隆六年宋を伐つに際し、張浩及び嗣暉を南京に留め、尚書省事を治めさせた。世宗即位し、嗣暉の巧佞を悪み、御史大夫完顔かんがん元宜が蕭玉・嗣暉・許霖等六人の用いるべからざるを劾奏した。嗣暉は通議大夫に降格され、田里に放帰された。嗣暉は朝儀に習熟し、進止応対閑雅であった。これにより起用されて丹州刺史となり、戒諭して曰く、「卿は正隆の執政たりし時、阿順して容を取れり。朕甚だこれを鄙む。今当に竭力して職を奉じ、以て前日の咎を洗うべし。苟も或いは悛わざれば、必ず罰して赦さず」と。未幾、母の喪に服し、起復して左宣徽使となった。世宗は頗る道術を好み、嗣暉に謂いて曰く、「尚食官は禁中において羊豕を殺すことなかれ。朔望及び上七日には有司は刑名を奏することなかれ」と。大定七年、蒲察通が肇州防禦使を除されると、上はその飾詐を責め、因って嗣暉を顧みて曰く、「卿の如きは才無しと謂うべからず。但だ純実足らざるのみ」と。久しくして、通衢に匿名の書を榜する者あり、海陵の旧臣を用いられざる者は怨望の心あり、将に不軌を図らんとすと称した。上曰く、「豈に是れ有らんや」と。嗣暉に謂いて曰く、「正隆の時、卿は執政たり。今卿を指して怨望と為す。朕極めて其の然らざるを知る。卿が性明達能弁なるも、頗る自ら炫き、衆人の誉を釣る。以て此の媒蘖を致す。後当にこれを改むべし」と。十年、将に南郊に事あらんとし、廷議して嗣暉が海陵の時に凡そ宗廟の禘祫には輒ち太常の事を行ったことにより、再び参知政事を拝し、詔して執政の冠服をもって太常を摂行させた。礼成りて、薨じた。

原文敬嗣暉,字唐臣,易州人。登天眷二年進士第,調懷安丞,遷弘政令,補尚書省令史。有才辯,海陵為宰相,愛之,及篡立,擢起居注,曆諫議大夫、吏部侍郎、左宣徽使。貞元三年八月,尚食烹飪失宜,庖官各杖二百,嗣暉與同知宣徽院事烏居仁各杖有差。久之,拜參知政事。正隆六年伐宋,留張浩及嗣暉于南京,治尚書省事。世宗即位,惡嗣暉巧佞,御史大夫完顏元宜劾奏蕭玉、嗣暉、許霖等六人不可用。嗣暉降通議大夫,放歸田裏。嗣暉練習朝儀,進止應對閒雅,由是起為丹州刺史,戒諭之曰:「卿為正隆執政,阿順取容,朕甚鄙之。今當竭力奉職,以洗前日之咎。苟或不悛,必罰無赦。」未幾,丁母憂,起複為左宣徽使。世宗頗好道術,謂嗣暉曰:「尚食官毋於禁中殺羊豕,朔望上七日有司毋奏刑名。」大定七年,蒲察通除肇州防禦使,上責其飾詐,因顧嗣暉曰:「如卿不可謂無才,但純實不足耳。」久之,有榜匿名書於通衢者,稱海陵舊臣不得用者有怨望心,將圖不軌。上曰:「豈有是哉。」謂嗣暉曰:「正隆時,卿為執政,今指卿以為怨望,朕極知其不然。卿性明達能辨,但頗自炫,釣眾人之譽,所以致此媒蘖,後當改之。」十年,將有事南郊,廷議嗣暉在海陵時凡宗廟禘祫輒行太常事,複拜參知政事,詔以執政冠服攝太常。禮成,薨。

賛して曰く、趙興祥・石抹榮は流離艱厄の中より自ら抜け出で、而して能く樹立する所有り。固より其の識の過人なるも、亦た其の遭際の然らしむる所なり。世宗の声伎を退け、庖人を減ずる跡を尋ぬれば、仁愛此の如し。而して其の下孰か興起せざらんや。

原文贊曰:趙興祥、石抹榮自拔流離艱厄中,而克有所樹立,固其識之過人,亦其所遭際致然也。跡世宗之卻聲伎、減庖人,仁愛若是,而其下孰不興起哉!