金史

列傳第二十八:趙元、移剌道、高德基、馬諷、完顏兀不喝、劉徽柔、賈少沖、移剌斡里朵、阿勒根彥忠、張九思、高衎、楊邦基、丁暐仁

趙元

趙元は、字を善長といい、涿州范陽の人である。遼の天慶八年に進士に及第し、官は尚書金部員外郎に至った。遼が滅亡し、郭薬師が宋のために燕を守ると、趙元をして機宜文字を掌らせた。王師が燕を取ると、薬師は降伏し、枢密使劉彥宗が趙元を辟召して本院の令史とした。天会年間、同知薊州事となった。賊が人を殺して道に横たわる事件があり、官吏は取り囲んで見るばかりでどうすべきか分からず、道行く人や耕夫が大勢集まって見物していた。趙元は田の中から耒を置いて来た者を指さして言うには、「これが賊である」と。左右の者を叱ってこれを縛らせると、その者はすぐに罪を認めた。同僚の役人がその理由を尋ねると、趙元は言うには、「たまたま眉睫の間に得ただけである」と。その後、朝廷が磨勘の基準を立てると、かつて宣和年間に仕えた者は皆、名籍から除かれることとなり、趙元も磨勘の対象となった。

斉国が廃されると、汴に行台省を置き、名士十余人を選んで官属に備え、趙元はその選に中り、行兵部郎中を授けられた。行台が大名に移り、さらに祁州に移り、また宗弼が再び河南を取った時にも、趙元はいずれも戸部の事を摂行し、賦調や兵糧の調達を処理した。天眷三年、行台右司員外郎となった。囚人で人を殺して死罪に当たる者がいたが、行台はこれを赦そうとし、趙元は従わず、数度にわたって反復したが、その勢いは奪うことができず、天を仰いで嘆いて言うには、「もし人を殺した者を赦すことができるなら、死んだ者はまた何の罪があろうか。どうして己の福を求めようとして天下の法を乱すのか」と。行台はついに趙元の意見を覆すことができなかった。左司員外郎に改められ、吏部の事を摂行した。行台に在ること凡そ十年、吏事に明敏であり、宗弼は深くこれを知っていた。行台が上相府に事を上奏する際には、宗弼は必ず「趙元を経たか」と問うた。そのように重んじられたのである。同簽汴京留守事となり、同知大名尹に改められ、廉潔によって河北西路転運使に遷り、彰徳・武勝等軍節度使を歴任し、老齢により致仕し、家で卒した。

移剌道

移剌道は、本名を按という。宗室の移剌古が山東東路兵馬都総管となった時、辟召されて軍府の簿書を掌り、元帥府に往来して辺境の事を計議し、右副元帥宗弼はその才を愛し、召し出して元帥府令史とした。尚書省令史に補され、特に監察御史を除され、再び大理丞に遷り、工部員外郎を兼ねた。海陵が南伐するに当たり、芻糧の運送を監督させた。所在に盗賊が起こり、道路が閉塞し、艱難辛苦してようやく淮南に至った。上謁し、問いを受けて、四方の盗賊の状況を詳しく述べたが、海陵はその言葉を聞くのを嫌い、七十回杖打ち、戦艦を監督して江を渡らせた。ちょうど海陵が死んだので、軍は帰還した。

大定二年、工部郎中を除された。詔を奉じて諸奚を招撫した。この時、抹白猛安下の謀克徐列らは皆降伏を望んだが、猛安合住に制せられて、すぐには降伏できなかった。移剌道は兵を発して合住の子・婦・孫・男女の甥、および謀克留住、および蒲輦白撒の妻子を掩襲捕獲した。この日、ちょうど窩斡が白撒を遣わして抹白猛安軍を発させようとしたところ、白撒は家族が捕らえられたと聞き、遂に来降した。礼部郎中に改められた。窩斡討伐に従い、金牌を佩び、応奉翰林文字訛里也とともに叛奚を招降した。

河南に奉使し、農桑を勧課し、密かに吏治の得失を訪れた。累遷して御史中丞・同修国史となり、職官の殿最を廉問し、還って奏上した。上は言うには、「職官で貪污の罪で廃された者以外は、その余は因循苟且で歳月を過ごしている。今、廉能な者にはすぐに昇進・除授するが、百姓が愛留する気持ちを慰めるものがない。そのまま官位を遷し、任期が満ちてから昇進・除授せよ」と。そこで、廉能な官である景州刺史耶律補は一階進み、単州刺史石抹靳家奴・泰寧軍節度副使尹升卿・寧陵県令監邦彦・浚州司候張匡福は各々二階進んだ。貪污の官である同知浚州防禦使事蒲速越・真定県令特謀葛はともに死を免れ、一百五十回杖打ち、除名された。同知睢州事烏古孫阿里補は一百回杖打ち、四階削られ、奉旨なくしては任用されないこととなった。そこで移剌道は同知大興尹事に改められた。詔して言うには、「京師は士民が輻湊し、法を犯す者が多い。罪状は自ら実情に基づき、文書に拘泥されることなく、公をもって断ずるがよい。朕はかつて執政に諭した。必ずや些細なことで卿を譴責することはない。朕の意に副うよう勉めよ」と。

刑部尚書に遷った。尚廄局使宗夔・副使石抹青狗が官の秣を私用し、事が発覚した。尚廄局は点検司に隷属し、刑部が自ら問うべきところであった。点検烏林答天錫が刑部に属してその罪を軽くさせようとし、刑部は大興府に付して審理させた。そこで移剌道と天錫、郎中丁暐仁は皆、連座して解職となった。まもなく起用されて大理卿となり、簽書枢密院事を兼ね、再び西京留守に遷り、卒した。

高德基

高德基は、字を元履といい、遼陽渤海の人である。皇統二年に進士に及第した。六年、尚書省令史となった。海陵が宰相であった時、専横で自らを是とし、敢えてその意に逆らう者はいなかったが、高德基はしばしば彼と詳しく弁論した。帝位をさんさんだつすると、左司郎中賈昌祚に命じて旨を諭させて言うには、「卿は公直で果敢である。今、卿に委ねて南京行省の勾当とせよ」と。行かないうちに、ちょうど海陵が燕京に都しようとし、高德基に命じて燕京行台省都事を摂行させた。摂右司員外郎に改め、戸部員外郎を除され、中都路都転運副使に改め、戸部郎中に遷った。

正隆三年、詔して左丞相張浩・参知政事敬嗣暉に南京宮室の営建をさせた。翌年、高德基は御史中丞李籌・刑部侍郎蕭中一とともに営造提点となった。海陵は中使を遣わして高德基らに言わせた。「汝らは駅伝で行きたいか、自分の馬で行きたいか。銀牌は南京尚書省で取るがよい」と。李籌が先に銀牌を降すよう乞うと、再び中使を遣わして李籌に言わせた。「牌を与えるか否かは、朕の意によるべきである。お前が勝手に言うとは、三人の中で官位がただお前だけ高いと思っているのか」と。そこで三十回杖打ち、自分の馬で行かせ、高德基と蕭中一は駅伝で行った。同知開封尹に転じた。

大定三年、廉察により治状が良くないとして、下遷されて同知北京路都転運使事となった。この年の秋、土河が氾濫し、水が京城に入った。高德基は急いで長楽門を開くよう命じ、分流させて禦溝に入れ、その勢いを弱めさせたため、水は害をなすことができなかった。刑部侍郎に遷った。七年、中都路都転運使に改められた。九年、刑部尚書に転じた。犯罪を犯して死に当たる者がいたが、宰相は末減に従おうとした。高德基は言うには、「法に二つの門はない。軽く出すのは重く入れるのと同じ過ちである」と。従わなかった。奏上すると、上は言うには、「刑部の議は正しい」と。そこで諸尚書を召して諭して言うには、「朕が即位して以来、政事について宰相と是非を争った者は、高德基ただ一人である。今後、部から省に上って三度議が合わなければ、すぐに詳しく奏聞せよ」と。宋主の生日使となった。帰還する際、宋人は礼物の外に臘茶三千胯を附進したが、親しく封署していなかった。高德基は言うには、「甥が叔父に献ずるのに、署しなければ、それは無名の物である」と。これを退けた。

十一年、戸部尚書に改める。徳基が上疏し、軍需房税等の銭を免除し、農税及び塩酒等の課を減ずることを乞うたが、未だ報いられず。随朝官の俸粟を銭に折り、市価を高めてこれに与え、官銭を濫りに出すること幾らか四十万貫に及んだ。上、人をしてこれを諭さしめて曰く、「卿は尚書たり、宰執近臣の歓心を買い、官銭を濫りに出せり。卿の官爵は、一に朕より出づ、何ぞかくの如くせん」と。ここにおいて杖八十を決す。戸部郎中王佐、員外郎盧彥沖、同知中都転運使劉兟、副使石抹長壽、支度判官韓鎮、左警巡使李克勤、右警巡使李宝、判官強鋭昌、姚宗奭、尼龐古達吉不、皆決杖差等あり。詔して大定十一年十一月郊祀赦後に、尚書省、御史台、戸部、転運司、警巡院の多く支給せし俸粟折銭は、皆これを追還すと。徳基は蘭州刺史に降格し、王佐は大興府推官に降格し、盧彥沖は河北西路戸籍判官に、劉兟は東京警巡使に、石抹長壽は東京留守推官に、韓鎮は河東南路戸籍判官に、李克勤は通遠県令に、李宝は清水県令に、強鋭昌、姚宗奭、尼龐古達吉不は皆司候に除す。大定十二年、徳基卒す。年五十四。子に錫あり。

馬諷

馬諷、字は良弼、大興漷陰の人なり。国初に燕を宋に与うるや、諷は汴梁に遊学し、宣和六年の進士第に登る。宗翰が汴京を克つと、諷は朝に帰り、再び進士第に登り、蔚州広霊丞に調せられ、雄州帰信令に遷る。境に八尺口と曰う河あり、毎秋潦漲溢して民田を害す。諷は地の高下を視てこれを疏決し、その患い遂に息む。召されて尚書省令史となり、献州刺史を除す。天徳初め、寧州に改む。民に謀反を告ぐる者あり、数十百人に株連す。諷はその無状なるを察し、乃ち告者を究問す。告者はその誣りたることを具に伏す。衆、歓呼して感泣す。再び南京副留守に遷り、入って大理少卿となる。是の時、高楨は御史大夫たり、素より貴重にして、繩治すること避くるところなし。権貴その威厳を憚り、乃ち諷及び張忠輔を以て中丞と為し、以てこれを中傷すべきものあらんと欲す。諷、忠輔は皆文吏にして法を巧みにし、楨と絲髪も相仮借する能わず。楨はその己を害するを畏れ、因って海陵に訴う。海陵は楨を太祖の旧臣と為し、毎にこれを慰安す。諷は大理卿に改まり、歳余にして出でて順天軍節度使となる。大定二年、再び大理卿と為り、刑部尚書に遷り、忠順軍節度使に改まり、致仕す。卒す。

完顔兀不喝

完顔兀不喝、会寧府海姑寨の人なり。年十三、選ばれて女直字学生に充つ。上京女直吏を補い、再び小字を習い兼ねて契丹文字を通ず。尚書省令史に充つ。天徳初め、吏部主事を除す。押懶路の詐りて謀克を襲う事を鞫問し、人その能を称す。右拾遺に擢でる。海陵これに謂いて曰く、「始め汝の名を聞き、試みに吏部主事を以てす。今その実を計るに、聞く所に優ること遠し」と。累遷して右司郎中となる。海陵に従い宋を伐ち、淮南に至る。世宗の遼陽に即きたまうを聞き、兀不喝入りてその事を白す。海陵沈思すること良久くして曰く、「卿等始めてこれを聞くか。我は既にこれを知り、人を遣わし往かしむ。この大事は外に泄らす勿れ」と。大定二年、秩満して当に代わるべし。世宗その善く敷奏するを嘉し、特詔して再任せしめ、宰臣に謂いて曰く、「兀不喝は人となり公忠なり。後に斯の如き人あるは、卿等宜しくこれを薦挙すべし」と。その知らるることかくの如し。

窩斡既に平らぎ、詔して契丹猛安謀克を罷め、その元管戸口及び窩斡に従い乱を為し来降する者は、皆女直猛安謀克に隷せしめ、兀不喝を遣わして猛安謀克人戸少なき処に分置せしむ。未だ罷去せられざる猛安謀克合襲すべき者は、仍お襲ぐことを許し、その貧乏なる者を賑贍し、仍お契丹の馬匹を括買す。官員の年老いたる馬は括限に在らず。頃くして、世宗、諸の契丹未だ嘗て乱を為さざる者と来降する者を一概に女直猛安中に隷するは、是に非ず、未だ嘗て乱に従わざる者は且く旧に仍おすべしとす。平章政事完顔元宜奏す、既に契丹の棄つる所の地に遷し、女直人を遷して乱に従わざる契丹と雑処せしむべしと。上以て右丞蘇保衡、参政石琚に問う。皆対うる能わず。上これを責めて曰く、「卿等は毎事先ず熟議して然る後に奏す。問う有れば即ち対す。豈にこれを知らざるを容れんや」と。保衡、琚頓首して謝す。上曰く、「契丹を分隷し、本猛安の租税を以てこれを給贍す。棄つる所の地は附近の女直人及び余戸に与え、居らんと願う者は聴す。その猛安謀克官は、乱に預らざる契丹官員を選びてこれに充つ」と。同知大興尹に改め、横海軍節度使に遷る。初めて官に到り、囚を讞して能くその情を得、人以て冤しからずと為す。五年、官に卒す。

劉徽柔

劉徽柔、字は君美、大興安次の人なり。天眷二年、進士第に擢でる。初め真定欒城主簿と為り、開遠軍節度掌書記に転じ、洪洞令に遷る。徽柔は明敏にして善く聴断す。県人楊遠なる者、牒を県に投じ、以て夜雨屋壊れ、その侄を圧して死せしむと為し、号訴哀切なり。徽柔熟視して笑いて曰く、「汝は侄の財に利してこれを殺し、乃ち雨を誣うるか」と。叱して獄に付す。その人立ちて伏して曰く、「公は神明なり。敢えて死を延ばさず」と。遂に法に置く。秩満す。県人遮り恋いて去るを得ざる者弥日、生祠を立て、石を刻み徳を頌す。正隆二年、入って大理評事と為り、司直に遷る。大定二年、同知河東南路転運使事と為り、廉第一を以て、平定軍知事に改め、入って大理少卿と為る。七年、磁州知事と為り、同知南京留守事に改む。十年、中都路転運使に遷り、官に卒す。

賈少沖

賈少沖、字は若虚、通州の人なり。勤学し、日に数百千言を誦す。家甚だ貧しく、嘗て道中に遺金を得、その主を訪ねてこれを帰す。天会中、再び宋を伐ち、民兵に調及す。少沖甫だ冠し、その叔の行を代う。行伍の間と雖も、未だ嘗て巻を釈かず。天眷二年の進士に中る。劉筈、妹を以てこれに妻せんと欲す。少沖辞して就かずして曰く、「富貴は当に自らこれを致すべし」と。営州軍事判官に調せられ、定安令に遷る。蔚州刺史は貴を恃みて法に背く。属吏これに畏れ、毎事輒ちその意に曲従す。少沖は正を守りて阿わず。廉を以て官一階を進め、再び吏部主事、定武軍節度副使、河中府判官に遷る。海陵漸く以て道を失う。少沖、親しむ所の者に謂いて曰く、「天下将に乱れんとす。仕うべからず」と。秩満して、乃ち仕を求めず。大定二年、御史台典事に調せられ、累遷して刑部郎中となる。北京に往きて獄を決し、奏して首悪を誅し、誤って其中に牽連する者は皆釈して問わず。全活すること凡そ千人。本職を以て右司員外郎を摂す。嘗て刑名を執奏すること甚だ堅し。既に退きて、上侍臣に謂いて曰く、「少沖は下位に居り、守ることかくの如し」と。同知河間尹を除す。数月、入って秘書少監と為り、起居注、左補闕を兼ぬ。

少沖は外は柔和にして内は剛直であり、常に従容として諫言を進め、世宗はこれを称賛した。十四年、宋主の生日副使となり、宋国がちょうど祈請を行おうとしていた時、上は意を少沖に諭したが、少沖は対えて言うには、「臣は死すとも辱めを受けません」と。宋人は別に珍異の品を贈ったが、少沖は笑ってその者に言うには、「使者が賜物を受けるには定まった数があり、どうして賄賂をもって君命を辱めようか」と。遂に受け取らなかった。使いから帰ると、世宗はこれを嘉し、右諫議大夫に遷し、秘書・起居注は元の通りとした。十七年、老齢を理由に致仕を請うたが、衛州防禦使を授けられ、河東南路転運使に遷り、召されて太常卿となり、秘書少監を兼ねた。再び致仕を請うたが、許されず、順天軍節度使に改められ、卒した。

少沖の性質は平易簡素であり、利益のことを言うのを好まず、かつて諸子を教えて言うには、「恩蔭は身を庇うためのものであり、倉庫の管理などはすべきではない」と。聞いた者はこれを尊んだ。子に益がいる。

子に益。

益は字を損之といい、幼少より成人のように聡明であった。大定十四年、父の少沖が秘書少監となり、宋主の生日副使を充てられた時、益はこれに従って行った。この時、宋人は常に起立して国書を受ける礼を争っていたが、少沖が益に問うて言うには、「もし宋人が礼を変えようとし、議論が決しない場合はどうするか」と。益は言うには、「死を守って辱めを受けず、これこそ使者と言えよう」と。少沖は大いにこれを奇とした。大定十九年に進士に及第し、河津主簿に調ぜられた。父の喪に服して官を去り、廉を察されて起復し礬山令となり、尚書省令史を補した。母の喪に服し、喪が明けて、定海軍節度副使、監察御史、治書侍御史に除され、侍御史に転じ、登聞鼓院を管轄し、少府少監を兼ねた。間もなく、礼部郎中に改められ、登聞鼓院管轄を兼ね、陳言文字を看読し、左司郎中に遷り、吏部侍郎に改められ、蔡王傅を兼ねた。病により免ぜられる。鄭州防禦使、陝西東路転運使、順天軍節度使を除された。大安初め、召されて吏部尚書となったが、病があり、安国軍節度使に改められた。益は民夫を徴発して城郭を修築完備し、戦守の備えとしたが、按察司がこれを止めたが、聞き入れず、言うには、「城を治めるのは守臣の職務である。按察がどうかかわろうか」と。やがて兵が来たが、備えがあったため解囲して去った。横海・定国軍節度使に改められたが、道が阻まれて赴任しなかった。宣宗が初め吏部尚書であった時、益は侍郎であり、互いに意気投合して甚だ歓んだ。貞祐二年に汴京に至り、益の所在を訪ねて召し、太常卿とした。上は防秋に関する十三事を上奏し、戸部尚書李革と河北の軍民を移す不便を論じたが、回答がなかった。貞祐三年、致仕した。元光元年、卒した。

移剌斡里朵。

移剌斡里朵は、一名を八斤といい、遼の五院司の出身であり、契丹文字に通じていた。天会三年に宋を伐つ時、軍中に属し、戦いに遇うごとに先登し、しばしば偵察兵を捕らえ、有司がその功績を上奏し、尚書省令史に補された。十五年、諸部の兵を山后に発して籍し、右丞蕭慶と会おうとした時、官軍で南に逃げた者が数千もおり、斡里朵は兵をもってこれを邀撃し、その輜重財物をことごとく獲て、悉く有司に送り届け、一毫も取らなかった。労により修武校尉こういに遷った。宗弼が河南を回復した時、斡里朵は諸路の帥臣を督して進討し、事が定まって労により宣武將軍に遷った。当時六部がまだ分かれていなかったので、兵刑二部主事とした。間もなく、右司都事に遷った。皇統二年、大理正を授けられ、昭徳軍節度使事同知を歴任し、廉により孟州防禦使に昇った。正隆年間、同知北京留守事に転じた。ちょうど游古河闌子山等の猛安契丹が謀反を企て、時に兵を発してこれを討とうとし、別に斡里朵を遣わして軍を押して南下させた。松山県に至り、賊党の江哥に捕らえられ、かつ主盟に推そうとし、契約を迫られたが、斡里朵は怒って言うには、「私は国より厚恩を受けており、どうして汝らに従って反逆できようか。寧ろ私を殺せ、契約は得られぬ」と。賊は屈せられぬと知り、困苦と辱めを与え、布衣と草履を着せて馬の後を歩かせ、かつ害そうとした。斡里朵はその監視の奴を説得し、よって脱出して帰還した。六年九月、北京路転運使に改めた。大定初め、博州防禦使となり、再び利涉軍節度使に遷った。先に、農民が賊を避けて郡城に保入りし、銭三十千を隣家に預けたが、賊が平定されてこれを請求すると、隣人は隠して与えず、県に訴えたが、県官は証文がないとして退けたので、州に訴えた。斡里朵は怒ったふりをしてこれを械で繋ぎ、その隣人を捕らえ、三木をかけて詰問し言うには、「汝の隣人乙が劫殺人に坐し、汝を同盗と指摘している」と。隣人は大いに恐れ、初めて自ら陳べて銭を欺いた隙があることを言い、よって隠していた銭を返すよう責めてこれを釈放したので、郡人は驚き服した。通遠軍節度使に改められ、卒した。

阿勒根彥忠。

阿勒根彥忠は、本名を窊合山といい、曷速館の人である。学問を好み、吏事に通じていた。天会十四年、選ばれて尚書兵部孔目官に充てられ、尚書省令史に昇り、右司都事を除された。七年、大理丞に改め、会寧少尹となり、同知会寧府事に進み、入朝して尚書吏礼部郎中となった。貞元二年、本部侍郎に進んだ。海陵庶人は何か疑わしいことがあると、常に彥忠に裁決させたが、彥忠は法に基づいて答えた。時には合わないことがあると、召して責めたが、彥忠は前に執奏した通りを述べ、終に阿諛屈従することなく、同列は皆恐れたが、彥忠は固く執して変わらず、海陵はこれを壮とした。翌年、御史中丞を除し、尚書戸部侍郎・侍衛親軍副都指揮使を歴任した。海陵が南伐する時、南京路都転運使を除した。大定二年、大名尹に改め、本路兵馬都総管を兼ねた。四年、入朝して刑部尚書となった。詔により北辺の食糧難の戸口を規画措置することを命じられた。また泰州・臨潢の接境に及び、適宜と見て堡戍七十を安置し、兵一万三千を駐屯させ、芻糧の用を就いて経画した。還朝して対面するに及ばず、病により卒した。年五十三。

彥忠は孝友の性質があり、かつて宋に使いし、得た金帛をことごとく兄弟親友に分け与えた。栄禄大夫を追贈され、命により有司が祭りを行い、併せて銀絹をその家に賜った。

張九思。

張九思は、字を全行といい、錦州の人である。皇統初め、行台省女直訳史に補され、同知易州事を除され、三遷して亳州防禦使・帰徳尹となった。劉仲延が泗州で宋国の歳貢を受け取る時、九思はその副使となった。往年歳貢を受け取る者は、毎度幣物が精良でないことを責めて宋の使者に私的に銀幣を饋贈させ、各々数百千の価値があるのを常としていたが、九思は独り肯じて受け取らず、仲延もこれに従い、これより私的な饋贈は遂に絶えた。大理評事から、再遷して大理少卿となった。清池令の双申が自ら陳べて言うには、「父の虔は、天眷初めに永安軍を知り、叛寇の孟邦傑に遇い、捕らえられて脅されたが、従わず、遂に害された。正班の恩蔭を用いることを乞う」と。大理寺が議し、虔の子はただ雑班に叙するのが相当としたが、九思は言うには、「虔は身を顧みず奮い立ち、節を守って死んだ。その子に正班の恩蔭を用いるのは、忠孝を勧めるためである」と。世宗は九思の議に従った。工部郎中に改め、大興少尹、同知中都都転運使事となり、刑部侍郎に転じ、工部に改めた。

九思の守る所は清廉倹約であったが、進取に急であり、一切を功利を務めとし、意のままに任情に振る舞って百姓を顧みなかった。詔して官田を検括させると、凡そ地名が疑わしいもの、例えば皇后店・太子荘・燕楽城の類は、民田の契券の検証を問わず、一切これを籍没し、また官地に隣接して冒占し幸いに免れた者もあった。世宗はそのこのような様子を聞き、召し還して戒めて曰く、「遼の時に支撥した土地、及び国初の元帥府が民間から拘刷して指射した租田、近年になって己が業と冒したもの、この類は拘えて籍没すべきである。その他の民田は、一朝にこれを奪えば則ち百姓は失業する、朕の意は豈にこのようであろうか」と。御史中丞に転ず。九思は屯田の猛安人が盗みをして償いを徴収され、家が貧しければ即ち種を植えた屯地を売ると言う。凡そ家が貧しくて償いを徴収できない者は、ただ事主にその地を以て小作を招かせ、その租入を収め、評価して売却し徴収した償いと相当すれば、即ちその地をこれに還すべしと。臨洮尹の完顔譲もまた屯田の貧人が償いを徴収されて田を売ることを論じ、九思の議を用いることを乞うた。詔してこれに従う。

工部尚書に遷る。年高く、ますます自用する。上は左丞の張汝弼に謂いて曰く、「九思はもうす。頗る強情に自用する。外補せしめんと欲するは、如何」と。ここにおいて、九思の男の若拙が尚書省令史となり、詔勅を冒して書き填め、事覚え、亡命す。汝弼、因ってその事を奏す。上曰く、「九思は豈に若拙の処を知らざらんや。その官を免ずべし。若拙を捕え、獲たる日に職を授けよ」と。九思、命を聞きて惶懼し、因って疾を感じ、卒す。

高衎

高衎、字は穆仲、遼陽の渤海人。敏捷にして学を好み、少時より能く賦する名声あり。同舎の生、その才を試さんと欲し、一日に十題を賦せしめてこれを戯れしむ。衎は筆を執り怡然として、暮れざるに、十賦皆成り、彬彬として観るべきものあり。年二十六にして進士第に登り、帰養を乞い、二年を逾えて方に漷陰丞に調ず。召されて尚書省令史と為り、右司都事を除す。母喪のため官を去り、起復して吏部員外郎、左司員外郎を摂す。

王彦潜・常大栄・李慶之皆、吏部の選中に在り。吏部は彦潜・大栄を皆進士第一と擬し、次は慶之の上に在るべきところ、彦潜は洺州防禦判官、大栄は臨海軍節度判官、慶之は沈州観察判官と擬す。左司郎中の賈昌祚、私を挟み、慶之に洺州を与えんと欲し、詭いて曰く、「洺は佳郡なれども、防禦の幕官は節鎮の下に在り」と。乃ち改めて彦潜を臨海軍、大栄を沈州、慶之を洺州と擬す。慶之の初めて選に赴くや、昌祚は慶之を会試の詮読官と為し、而して慶之の弟の慶雲は尚書省令史となり、多く権貴と遊ぶ。海陵、心にこれを悪み、嘗て左右司に「昌祚は必ず慶之と善き闕を有せん」と謂う。大奉国臣なる者は、遼陽の人、永寧太后の族人、先に東京警巡院使と為り、贓により免ぜられ去る。太后に因って見えんと欲す。海陵、許さず。衎は奉国臣と郷里の旧あり、貴徳県令に擬す。海陵、大いに怒る。ここにおいて昌祚・衎・吏部侍郎の馮仲等、各々杖せらるること差あり。慶雲は杖一百五十を決し、罷め去る。未だ幾ばくもせず、仲・昌祚・慶雲皆死す。衎は清水県主簿に降り、兵部員外郎吏部主事を摂す楊邦基は宜君県主簿に降り、吏部主事の宋仝は漷陰県主簿に降り、尚書省知除の楊伯傑は閭陽県主簿に降る。

二年居りて、大理司直と為り、戸部員外郎に遷り、中都都転運使を同知し、太常少卿、吏部郎中。大定初め、左司郎中に転ず。世宗は孜孜として諫を求め、群臣は旨意に順承して、匡正する所無し。上曰く、「朕初めて即位し、庶政多く未だ諳悉せず、実に将相大臣の同心輔佐に頼る。百姓すら上書して事を言い、或いは補う所あらん。夫れ獄訟を聴断し、簿書期会するは、何人か能わざらん。唐・虞の聖の如きも、猶お曰く『衆にかんがえ、己を捨てて人に従う』と。正隆は専ら独見を任じ、臣下と謀らず、以て敗乱を取る。卿等其れ朕の意を体せよ」と。潔をして詔を伝えしめて台省百司に曰く、「凡そ上書して事を言う者、或いは有司に沮遏せらるれば、表を進めて以て聞こえしむるを許す」と。

吏部尚書に遷る。毎季選人の至るや、吏部は旧籍を検閲するに託け、これを検巻と謂い、滞留して後季に至るまで猶お去ることを得ざる者あり。衎は三たび吏部に為り、その弊を知る。歳余にして銓事修理し、選人これを便とす。五年、賀宋国生日使と為り、中道疾を得、職を去る。大定七年、卒す。

楊邦基

楊邦基、字は徳懋、華陰の人。父の綯、宋末に易州の州佐と為る。宗望、宋を伐つ。蔡靖、燕山を以て降る。易州は即日来附す。綯は殺さる。邦基、年十余歳、僧舎の中に匿れ、免る。既に長じ、学を好む。天眷二年、進士第に登り、灤州軍事判官に調じ、太原交城令に遷る。太原尹の徒単恭、貪汚にして法に不法、金仏を鋳ると名を託し、属県に命じて金を輸せしむ。邦基独り与えず。徒単恭怒り、府に召し至らしめ、将に手に持つ鉄の柱杖を以て邦基の面を撞かんとす。邦基動かず。秉徳、官吏を廉察し、尹と九県令は皆免ぜられ去る。邦基は廉を以て河東第一と為り、召されて礼部主事と為る。兵部員外郎として吏部の差除を摂し、李慶之・大奉国臣を銓注した罪に坐し、高衎等と皆貶官せられ、邦基は坊州宜君簿に降る。高密令に転ず。大定初め、尚書省は邦基を刑部郎中に擬す。世宗曰く、「県官即ち郎中を除するは、如何」と。太師の張浩対えて曰く、「邦基は前に兵部員外郎たりし矣。且つ其人材可用なり」と。上、これを許す。太府少監に改め、登聞検院を知り、秘書少監と為り、翰林直学士に遷り、再び秘書監兼左諫議大夫に遷り、起居注を修す。中都警巡使の張子衍は邦基と姻家なり。子衍、道中に皇太子の衛仗に遇い、立馬して市門にて傘を去らず。衛士これを訶す。子衍は鞭を以て己を訶したる衛士を鞭つ。御史台、子衍を劾奏す。邦基は台官に会い、子衍の為に解を求め、及び顕宗に見え、子衍の罪を脱せんことを求む。詔して子衍の官を両階削る。邦基は官一階を削る罪に坐し、出でて同知西京留守事と為り、山東東路転運使に徙り、永定軍節度使、致仕す。大定二十一年、卒す。邦基は能く文を属し、山水人物を善く画き、尤も画を以て当世に名有りと云う。

丁暐仁

丁暐仁、字は藏用、大興府宛平の人。曾祖父は奭。祖父は惟壽。父は筠、吏を以て州縣に補せられ、至る所に治績の声あり、その後致仕し、門を杜して出でず、郷里に闘訟ある者は、官に之かずして筠に就き質す。暐仁は沖澹にして寡欲、読書の外に他に好む所なく、遼の末に難を避け、間關道途といえども、未だ巻を釈かず。皇統二年、進士第に登り、武清県丞に調せらる。県は兵革を経たる後、学校なく、暐仁は邑中の俊秀子弟を召して之に学を教え、百姓欣然として之に従う。磁州軍事判官に調せらる。是の時、詔使に官吏を廉察せしむるに、暐仁は廉を以て守事を摂す。和川令に遷る。前令は罷耎にして事を為さず、群小は法を越え禁を幹て憚る所無し、暐仁は法禁を申明し、皆屏息し、或いは他県に走り入りて以て之を避く。董佑という者最も強悍なり、暐仁を畏服し、刀を以て指を断ち、終身復た法を犯さざるを誓う。凡そ租賦は百姓と前に期し率い、他邑に比べて先に弁ず。北京推官を歴、再び大理司直に遷り、憂いを以て官を去り、尋いで復起す。大定三年、定武軍節度副使を除し、而して節度使・同知皆闕く、暐仁は政を為すに留訟無し。大理丞に改め、吏部員外郎、転じて戸部郎中と為る。是に於いて、賈少沖を刑部郎中と為す、上左丞相紇石烈良弼に謂いて曰く、「少沖は人と為り柔緩にして、刑部の職に称せず、其れ之を易うるを議せよ。」乃ち暐仁を以て刑部郎中と為す。尚廄局官の官芻を私用し、格に違いて大興府に付して鞫問するに坐し、職を解く。祁州刺史に改む。祁州は定武の支郡たり、士民暐仁の官するを聞き、相率いて界上に歡迎し、相属して絶えず。同知西京留守事に改め、首めて学校を興し、以て士を養うの法を明らかにす。陝西西路転運使に遷る。大定二十一年、官に卒す。

賛して曰く、吏の興るは、其れ秦の季か。吏に選試有るは、其れ遼・金の際か。其の文は一に従い史に従う、法を守りて貳せざるを謂うか。法を守りて貳せざる、斯れ真の吏なり。巧なる者は文を舞わして以て法を乱し、窒する者は一を執りて通ぜず、此れ皆吏道の自ら失う者なり。高衎・高德基・張九思の徒は、皆法を詭して以て自ら失う者なり。