金史

列傳第二十七:蘇保衡、翟永固、魏子平、孟浩、梁肅、移剌慥、移剌子敬

列傳第二十七:蘇保衡、翟永固、魏子平、孟浩、梁肅、移剌慥、移剌子敬

蘇保衡

原文蘇保衡

蘇保衡、字は宗尹、雲中天成人である。父の京は遼の進士で、西京留守となった。宗翰の軍が西京に至ると、京は出て降伏した。久しくして、京は病篤く、保衡を宗翰に託した。京が死ぬと、宗翰は朝廷に彼を推薦した。進士出身を賜り、太子洗馬に補され、解州軍事判官に転じた。左監軍撒離喝が陝西に駐軍し、幕府を開くと、辟かれて参議軍事となり、累官して同知興中尹となった。天徳年間、中都を修繕するにあたり、張浩が保衡を挙げて工役を分督させた。大興少尹に改め、諸陵の工役を監督した。再び遷って工部尚書となった。海陵が兵を治めて宋を伐とうとし、徐文らと通州で舟を造らせた。海陵が近郊で狩りをし、ついで通州に至って工作を視察した。兵が起こると、保衡は浙東道水軍都統制となり、舟師を率いて海を渡り、直ちに臨安に向かった。宋兵が襲来し、海中で敗れ、副統制鄭家がこれに死した。

原文蘇保衡,字宗尹,雲中天成人。父京,遼進士,為西京留守。宗翰兵至西京,京出降。久之,京病篤,以保衡屬宗翰。京死,宗翰薦之於朝。賜進士出身,補太子洗馬,調解州軍事判官。左監軍撒離喝駐軍陝西,辟幕府,參議軍事,累官同知興中尹。天德間,繕治中都,張浩舉保衡分督工役。改大興少尹,督諸陵工役。再遷工部尚書。海陵治兵伐宋,與徐文等造舟於通州,海陵獵近郊,因至通州視工作。兵興,保衡為浙東道水軍都統制,率舟師泛海,徑趨臨安。宋兵來襲,敗於海中,副統制鄭家死之。

大定二年、中都に召し出された。この時、山東の盗賊が嘯聚し、契丹が臨潢などの州郡を攻掠し、百姓は困弊していた。詔して保衡に山東を安撫させ、前太子少保高思廉に臨潢を安撫させ、倉粟を発してこれを賑い、衣なき者には幣帛を賜い、あるいは官粟に欠けるところあれば、則ち収糴してこれを給し、妻室なき者には姓名を具して奏聞させた。還って刑部尚書に除かれた。工部尚書宗永・兵部侍郎完顏余裏也とともに、河南・山東・陝西に行き屯田軍人を宣問し、かつて大敵を破り及び城を攻め野戦で功を立てた者のあれば、姓名を具して奏聞させた。あるいは寡をもって衆に敵し、あるいは敵と相当して能く先登して敵を敗った者については、正軍及び擐甲阿裏喜は官一階を補し、猛安もうあん謀克ぼうこくは功状を尚書省に上らせ、かつて海陵の軍に随って淮上に至り敵を破った者もまた上と同じく遷賞に准じた。

原文大定二年,召赴中都。是時,山東盜賊嘯聚,契丹攻掠臨潢等州郡,百姓困弊。詔保衡安撫山東,前太子少保高思廉安撫臨潢,發倉粟以賑之,無衣者賜以幣帛,或官粟有闕,則收糴以給之,無妻室者具姓名以聞。還除刑部尚書。與工部尚書宗永、兵部侍郎完顏余裏也,往河南、山東、陝西宣問屯田軍人,有曾破大敵及攻城野戰立功者,具姓名以聞。或以寡敵眾,或與敵相當能先登敗敵者,正軍及擐甲阿裏喜補官一階,猛安謀克以功狀上尚書省,曾隨海陵軍至淮上破敵者亦准上遷賞。

僕散忠義が宋を伐つにあたり、保衡は関中で戸部の事務を行い、兼ねて糾察し、便宜を許され、守令の不法なる者十余人を罷免した。邠守傅慎微が用事者に逆らい、讒構されて獄に下され死に及ぼうとしたが、保衡が力を尽くして救い免れた。入朝して太常卿となり、礼部尚書に遷った。三年、参知政事を拝した。宋人が和を請うと、詔して保衡を南京に遣わし、僕散忠義とともに事宜を斟酌してこれを行わせた。入奏して右丞に進んだ。四年、宋人が和を請い、軍が還ると、保衡は京師に朝した。初め、宮女の称心が十六位に放火し、諸殿に延焼した。上は方や兵を用い、国用足らずとして、再び営繕しなかった。宋と和すると、詔して保衡に役事を監護させ、少府監張仲愈を遣わして南京宮殿の図本を取らせた。上はこれを聞き、保衡に謂って曰く、「仲愈を追い還せ。民間、朕が正隆の華侈に倣うと謂わんとするなり」と。

原文僕散忠義伐宋,保衡行戶部於關中,兼糾察,許以便宜,黜守令不法者十餘人。邠守傅慎微忤用事者,被讒構下獄且死,保衡力救之得免。入為太常卿,遷禮部尚書。三年,拜參知政事。宋人請和,詔保衡往南京,與僕散忠義斟酌事宜,行之。入奏,進右丞。四年,宋人請和,師還,保衡朝京師。初,宮女稱心縱火十六位,延燒諸殿,上以方用兵,國用不足,不復營繕。及宋和,詔保衡監護役事,遣少府監張仲愈取南京宮殿圖本。上聞之,謂保衡曰:「追仲愈還。民間將謂朕效正隆華侈也。」

六年冬、疾あり、致仕を求めたが、許されなかった。敬嗣暉を遣わして詔を伝えさせて曰く、「卿は忠直をもって執政に擢げられ、歯髪未だ衰えず、遽かに小疾をもって退を求む。善く摂養を加え、疾の間を俟って視事せよ」と。未幾、薨じ、年五十五。世宗が近郊に鷹を放たんとし、これを聞いて乃ち還り、朝を輟め、賻贈し、有司に命じて祭を致させた。

原文六年冬,有疾,求致仕,不許。遣敬嗣暉傳詔曰:「卿以忠直擢居執政,齒發未衰,遽以小疾求退。善加攝養,以俟疾間視事。」未幾,薨,年五十五。世宗將放鷹近郊,聞之乃還,為輟朝,賻贈,命有司致祭。

翟永固

原文翟永固

翟永固、字は仲堅、中都良郷の人である。太祖が宋と約して遼を攻め、事成って燕を宋に帰すこととした。宋人は経義と策を兼ねて士を取ったが、永固は第一となり、開徳府儀曹参軍を授かった。金が宋を破ると、永固は北に帰った。天会六年の詞賦科に中り、懐安丞を授かり、望雲令に遷り、枢密院令史に補され、左副元帥宗翰の府掾に辟かれた。永固は家貧しく、外補を求めたが、宗翰はその能を愛し、許さず、銭三千貫をもってこれを周し、朝廷に薦め、左司郎中を摂らせた。定武軍節度副使に除かれ、歴て同知清州防禦使となり、入朝して工部員外郎となった。母憂により官を去り、起復して礼部郎中となり、翰林直学士に遷った。

原文翟永固,字仲堅,中都良鄉人。太祖與宋約攻遼,事成以燕歸宋。宋人以經義兼策取士,永固中第一,授開德府儀曹參軍。金破宋,永固北歸。中天會六年詞賦科,授懷安丞,遷望雲令,補樞密院令史,辟左副元帥宗翰府掾。永固家貧,求外補,宗翰愛其能,不許,以錢三千貫周之,薦於朝,攝左司郎中。除定武軍節度副使,曆同知清州防禦使,入為工部員外郎。以母憂去官,起複禮部郎中,遷翰林直學士。

海陵が簒立すると、宋国の賀正旦使が広寧に至った。海陵は使者を使わして廃立の事を宋使に諭し、これを還し遣わした。侍衛親軍都指揮使完顔かんがん思恭を報諭宋使とし、永固を副使とし、かつ永固に宋人の動静を伺察させた。使いより還り、礼部侍郎に改めた。久しくして、燕京宮室の役事を分護し、永固は殿壁に『無逸図』を写すことを請うたが、納れられなかった。俄かに太常卿に遷り、貞元二年の進士を試験し、『尊祖配天賦』の題を出した。海陵は己の意を猜度したものと以為い、永固を召して問うて曰く、「賦題は朕が意に称わず。我が祖が在位の時、天を祭りて拝したか」と。対えて曰く、「拝しました」と。海陵曰く、「豈に生ける時は拝し、死して同体に配食する者あらんや」と。対えて曰く、「古よりこれあり、典礼に載せております」と。海陵曰く、「若し桀・紂が曾て行わば、亦た我に行わしめんと欲するか」と。ここにおいて永固・張景仁は皆二十の杖を受けた。而して進士張汝霖の賦の第八韻に曰く、「方今、将に郊祀を行わんとす」とある。海陵これを詰めて曰く、「汝、安んぞ我が郊祀するを知るか」と。亦たこれに三十の杖を与えた。頃くして、永固は礼部尚書に遷り、笏頭球文の金帯を賜った。永定軍節度使に改めた。正隆二年、例として二品以上の官爵を降したが、永固の階光禄大夫は降さず、以て寵異とした。翰林学士承旨に遷り、直学士韓汝嘉とともに内殿に召し至り、将に親しく宋を伐たんとする事を問うた。永固対えて曰く、「宋人の本朝に事えるに釁隙無く、これを伐つに名無し。縦え伐つべくとも、亦た親征の煩わしき無く、将帥を遣わすべし」と。ここにより大いに海陵の意に忤い、永固は即ち致仕を請うた。正隆四年正月丁巳、海陵は永寿宮に朝し、四品以上の官に宴を賜った。永固が殿門外に至ると、海陵は即ち致仕の宣命をこれに授け、永固は家に帰り臥した。大定二年、起きて尚書左丞を拝し、旧制に依りて官吏を廉察し、正隆の守令の汚を革することを請うた。従われた。明年、表して致仕を乞うたが、詔して許さず。罷めて真定尹とし、通犀帯を賜った。尚書省が奏し、永固が執政より真定尹となるにあたり、その傘蓋は何の制度を用うべきかと。上曰く、「執政の制度を用いよ」と。遂に令として著わされた。五年、懇ろに致仕を乞い、許された。六年、薨じた。

原文海陵篡立,宋國賀正旦使至廣寧,海陵使使以廢立事諭宋使,遣還之。以侍衛親軍都指揮使完顏思恭為報諭宋使,永固為副,且令永固伺察宋人動靜。使還,改禮部侍郎。久之,分護燕京宮室役事,永固請寫《無逸圖》於殿壁,不納。俄遷太常卿,考試貞元二年進士,出《尊祖配天賦》題,海陵以為猜度己意,召永固問曰:「賦題不稱朕意。我祖在位時祭天拜乎?」對曰:「拜。」海陵曰:「豈有生則致拜,死而同體配食者乎?」對曰:「古有之,載在典禮。」海陵曰:「若桀、紂曾行,亦欲我行之乎?」於是永固、張景仁皆杖二十。而進士張汝霖賦第八韻有曰:「方今將行郊祀。」海陵詰之曰:「汝安知我郊祀乎?」亦杖之三十。頃之,永固遷禮部尚書,賜笏頭球文金帶。改永定軍節度使。正隆二年,例降二品以上官爵,永固階光祿大夫不降,以寵異之。遷翰林學士承旨,與直學士韓汝嘉俱召至內殿,問以將親伐宋事,永固對曰:「宋人事本朝無釁隙,伐之無名。縱使可伐,亦無煩親征,遣將帥可也。」由是大忤海陵意,永固即請致仕。正隆四年正月丁巳,海陵朝永壽宮,四品以上官賜宴,永固至殿門外,海陵即以致仕宣命授之,永固歸臥於家。大定二年,起拜尚書左丞,請依舊制廉察官吏,革正隆守令之汙,從之。明年,表乞致仕,詔不許。罷為真定尹,賜通犀帶。尚書省奏,永固自執政為真定尹,其傘蓋當用何制度,上曰:「用執政制度。」遂著為令。五年,懇乞致仕,許之。六年,薨。

魏子平

原文魏子平

魏子平、字は仲均、弘州の人である。進士第に登り、五台主簿に調され、累除して尚書省令史となり、大理丞に除かれ、歴て左司都事、同知中都転運使事、太府監となった。正隆三年、賀宋主生日副使となった。この時、海陵は宋を伐たんと謀り、子平が使いより還り、入見すると、海陵は江左の事を問い、且つ曰く、「蘇州と大名とは孰れが優れるか」と。子平対えて曰く、「江・湖の地は卑湿にして、夏は蕉葛を服しても、猶暑さに堪えず、安んぞ大名と比すべけんや」と。海陵は悦ばず。世宗が即位し、戸部侍郎に除かれた。大定二年、丞相僕散忠義が宋を伐ち、元帥府を南京に置くと、子平は饋運を掌り、金牌一・銀牌六を給され、糧道の給辦を掌った。戸部尚書に進んだ。六年、再び賀宋主生日使となり、上曰く、「宋に使いするに再び往く者無し。卿は昔年河南の軍儲を供するに労あり、これを用いて卿を優遇するなり」と。

原文魏子平,字仲均,弘州人。登進士第,調五台主簿,累除為尚書省令史,除大理丞,曆左司都事,同知中都轉運使事,太府監。正隆三年,為賀宋主生日副使。是時,海陵謀伐宋,子平使還,入見,海陵問江左事,且曰:「蘇州與大名孰優?」子平對曰:「江、湖地卑濕,夏服蕉葛,猶不堪暑,安得與大名比也。」海陵不悅。世宗即位,除戶部侍郎。大定二年,丞相僕散忠義伐宋,置元帥府于南京,子平掌饋運,給金牌一、銀牌六,糧道給辦。進戶部尚書。六年,複為賀宋主生日使,上曰:「使宋無再往者,卿昔年供河南軍儲有勞,用此優卿耳。」

久しくして、参知政事に拝任された。上(世宗)が子平に問うて曰く、「古は什一の税にして民足れり、今は百一にして民足らず、何ぞや」と。子平対えて曰く、「什一は其の公田の入を取り、今は公田無くして其の私田を税す、法を為すこと同じからず。古に一易再易の田有り、中田は一年荒れて種えず、下田は二年荒れて種えず。今乃ち一切上田と均しく之を税す、此れ民の困る所以なり」と。上又問うて曰く、「戍卒の逋亡物故するに、今物力の高き者を按じて之を補う、可ならんや」と。対えて曰く、「富家の子弟は騃懦にして用うべからず、守戍の歳時求索厭うこと無く、家産随って壊る。若し物力の多寡に按じて之を賦し、材勇騎射の士を募り、足らざれば則ち兵家の子弟を調べて之を補わば、庶幾くは官実用を収め、人失職の患無からん」と。上之に従う。

原文久之,拜參知政事。上問子平曰:「古者稅什一而民足,今百一而民不足,何也?」子平對曰:「什一取其公田之入,今無公田而稅其私田,為法不同。古有一易再易之田,中田一年荒而不種,下田二年荒而不種。今乃一切與上田均稅之,此民所以困也。」上又問曰:「戍卒逋亡物故,今按物力高者補之,可乎?」對曰:「富家子弟騃懦不可用,守戍歲時求索無厭,家產隨壞。若按物力多寡賦之,募材勇騎射之士,不足則調兵家子弟補之,庶幾官收實用,人無失職之患。」上從之。

海州に賊八十余人を捕え、賊の首は海州の人、其の兄今宋の軍官と為る。上之を聞き、宰相に謂いて曰く、「宋の和好、恐らく久しからず、其の宿・泗の間の漢軍を、以て女直じょちょく軍に代えん」と。子平曰く、「誓書に称す、沿辺の州城、自來合設置の射糧軍の数並びに巡尉を除き外、更に軍を屯し守戍することを得ずと」と。上曰く、「此れは更代するのみ、増戍に非ざるなり」と。

原文海州捕賊八十餘人,賊首海州人,其兄今為宋之軍官。上聞之,謂宰相曰:「宋之和好,恐不能久,其宿、泗間漢軍,以女直軍代之。」子平曰:「誓書稱沿邊州城,除自來合設置射糧軍數並巡尉外,更不得屯軍守戍。」上曰:「此更代之,非增戍也。」

上曰く、「前日内任の官六品以上、外任五品以上に令し、並びに知る所を挙げしむ。未だ之を挙ぐる者有るを聞かず、豈に其の才無からんや、知りて挙げざるなり」と。子平曰く、「請う当に挙ぐべきの官に令し、毎任須らく一人を挙げしめん」と。沢州刺史劉徳裕・祁州刺史斜哥・滄州同知訛裏也・易州同知訛裏剌・楚丘県令劉春哥、贓汙を以て罪に抵る。上中外に詔示せんと欲す。丞相守道以て不可と為す。上以て子平に問うて曰く、「卿の意何如」と。子平曰く、「臣聞く、一を懲らして百を戒むと。陛下固より之を行うべし」と。上曰く、「然り」と。遂に詔を降す。

原文上曰:「前日令內任官六品以上,外任五品以上,並舉所知。未聞有舉之者,豈無其才,蓋知而不舉也。」子平曰:「請令當舉之官,每任須舉一人。」澤州刺史劉德裕、祁州刺史斜哥、滄州同知訛裏也、易州同知訛裏剌、楚丘縣令劉春哥以贓汙抵罪,上欲詔示中外,丞相守道以為不可,上以問子平曰:「卿意何如?」子平曰:「臣聞懲一戒百,陛下固宜行之。」上曰:「然。」遂降詔焉。

宋人襄陽の漢江上に於いて舟を造り浮橋三と為す。南京統軍司聞きて之を奏す。上宰臣に問うて曰く、「卿等之を度るに、何如と為すや」と。子平曰く、「臣聞く、襄陽の薪芻は、皆江北に於いて之を取り、殆ど此れが為なりと」と。上曰く、「朕卿等と天下を治むるに、当に其の未然を治むべし。其の事有るに及び、然る後に之を治むれば、則ち亦晩きのみ」と。河南統軍使宗叙入見を求めて辺事を奏せんとす。上起居注粘割斡特剌をして就きて状を問わしむ。宗叙言う、「辺報及び宋より来帰する者の言を得るに、宋国兵を調え民を募り、糧餉を運び、城郭を完うし、戦船浮橋を造り、兵馬江北に移屯す。和議後に即ち制置司を罷めてより、今復た之を置く。商・虢・海州皆奸人の出没有り、此れ備えざるべからず。嘗て枢密院に報ず、彼文移と視為す、故に入見して之を言わんと欲す」と。斡特剌凡そ辺事を言う者を召して詰問す、皆実状無し。境上に行き至り、問いて知るに襄陽の浮橋は乃ち樵采の路なることを、子平の策の如し。還りて奏す。詔して凡そ妄りに辺関の兵事を説く者は二年徒とし、人に告げて実を得れば、銭五百貫を賞す。

原文宋人于襄陽漢江上造舟為浮梁三,南京統軍司聞而奏之,上問宰臣曰:「卿等度之,以為何如?」子平曰:「臣聞襄陽薪芻,皆於江北取之,殆為此也。」上曰:「朕與卿等治天下,當治其未然。及其有事,然後治之,則亦晚矣。」河南統軍使宗敘求入見奏邊事,上使修起居注粘割斡特剌就問狀。宗敘言:「得邊報及宋來歸者言,宋國調兵募民,運糧餉,完城郭,造戰船浮橋,兵馬移屯江北。自和議後即罷制置司,今複置矣。商、虢、海州皆有奸人出沒,此不可不備。嘗報樞密院,彼視以為文移,故欲入見言之。」斡特剌召凡言邊事者詰問,皆無實狀,行至境上,問知襄陽浮橋乃樵采之路,如子平策。還奏。詔凡妄說邊關兵事者徒二年,告人得實,賞錢五百貫。

上宰臣に問うて曰く、「宗廟を祭るに牛を用う。牛は力を尽くして稼穡し、人に功有り、之を殺すこと何如」と。子平対えて曰く、「惟だ天地宗廟之を用う、以て大祀の礼を異にする所以なり」と。

原文上問宰臣曰:「祭宗廟用牛。牛盡力稼穡有功於人,殺之何如?」子平對曰:「惟天地宗廟用之,所以異大祀之禮也。」

十一年、罷めて南京留守と為り、未幾にして致仕す。十五年、起ちて平陽尹と為り、復た致仕す。二十六年、家に薨ず。

原文十一年,罷為南京留守,未幾致仕。十五年,起為平陽尹,複致仕。二十六年,薨於家。

孟浩

原文孟浩

孟浩、字は浩然、濼州の人。遼の末年進士第に登る。天会三年、枢密院令史と為り、平州観察判官を除く。天眷初、選ばれて元帥府に入り備任使に充てられ、承制して帰徳少尹を除き、行台吏・礼部郎中を充て、入りて戸部員外郎・郎中と為る。韓企先相と為り、一時の賢能を抜擢し、皆機要に置く。浩と田瑴皆尚書省に在り、瑴は吏部侍郎と為り、浩は左司員外郎と為る。既に選を典とし、善く人物を銓量し、賢否を分別し、引用する所皆君子なり。而して蔡松年・曹望之・許霖皆小人なり、求めて瑴と相結ばんとす。瑴其の人と為るを薄しとして之を拒む。松年は蔡靖の子。靖兵を将いて燕山を守る能わず、終に宋国を敗る。瑴頗る此を以て松年を譏斥す。松年初め宗弼に事うること行台省に在り、微巧を以て宗弼の意を得、宗弼国に当たり、引いて刑部員外郎と為す。望之は尚書省都事と為り、霖は省令史と為る。皆瑴等を怨み、時時之を宗弼に毀短す。凡そ瑴と善き者は皆指して以て朋党と為す。韓企先疾病す。宗弼往きて之を問う。是の日、瑴企先の所に在り、宗弼の至るを聞き、其の己を悪むを知り、乃ち自ら屏して以て避く。宗弼曰く、「丞相年老いて且つ疾病す、誰か丞相に継ぐべき者」と。企先瑴を挙ぐ。而して宗弼先んずるに松年の譖言に入り、企先に謂いて曰く、「此の輩誅すべし」と。瑴聞きて汗背に浹す。企先薨ず。瑴出でて横海軍節度使と為る。選人龔夷鑒名を除かる。赦に値い、吏部の銓に赴き、覃恩に預かることを得。瑴既に横海を除かる。部吏夷鑒を以て瑴に白す。瑴乃ち月日を倒用して之に署す。許霖省に在りて覃恩を典とす。行台省工部員外郎張子周素より瑴と怨有り、事を以て京師に至り、微かに夷鑒の覃恩の事を知り、許霖を嗾して之を発せしめ、専擅して朝政を樉あやつるとす。詔獄之を鞫く。瑴と奚毅・邢具瞻・王植・高鳳庭・王效・趙益興・龔夷鑒を死に擬す。其の妻子及び往来する所の孟浩等三十四人皆海上に徙す。仍って赦を以て原せず。天下之を冤す。世宗熙宗の時に在り、田瑴の党の事は皆松年等の之を構成するを知る。而して浩等三十二人天徳の赦令に遇い郷里に還る。多く物故す。惟だ浩と瑴の兄の谷・王補・馮煦・王中安在り。大定二年、召見し、復た官爵す。浩は侍御史と為り、谷は大理丞と為り、補は工部員外郎と為り、煦は兵部主事と為り、中安は火山軍事を知り、而して浩尋ち復た右司員外郎と為る。

原文孟浩,字浩然,濼州人。遼末年登進士第。天會三年,為樞密院令史,除平州觀察判官。天眷初,選入元帥府備任使,承制除歸德少尹,充行台吏、禮部郎中,入為戶部員外郎、郎中。韓企先為相,拔擢一時賢能,皆置機要,浩與田瑴皆在尚書省,瑴為吏部侍郎,浩為左司員外郎。既典選,善銓量人物,分別賢否,所引用皆君子。而蔡松年、曹望之、許霖皆小人,求與瑴相結,瑴薄其為人拒之。松年,蔡靖子。靖將兵不能守燕山,終敗宋國,瑴頗以此譏斥松年,松年初事宗弼於行台省,以微巧得宗弼意,宗弼當國,引為刑部員外郎。望之為尚書省都事,霖為省令史。皆怨瑴等,時時毀短之于宗弼,凡與瑴善者皆指以為朋黨。韓企先疾病,宗弼往問之,是日,瑴在企先所,聞宗弼至,知其惡己,乃自屏以避。宗弼曰:「丞相年老且疾病,誰可繼丞相者?」企先舉瑴,而宗弼先入松年譖言,謂企先曰:「此輩可誅。」瑴聞流汗浹背。企先薨,瑴出為橫海軍節度使。選人龔夷鑒除名,值赦,赴吏部銓,得預覃恩。瑴已除橫海,部吏以夷鑒白瑴,瑴乃倒用月日署之。許霖在省典覃恩,行台省工部員外郎張子周素與瑴有怨,以事至京師,微知夷鑒覃恩事,嗾許霖發之,樉以專擅朝政。詔獄鞫之,擬瑴與奚毅、邢具瞻、王植、高鳳庭、王效、趙益興、龔夷鑒死,其妻子及所往來孟浩等三十四人皆徙海上,仍不以赦原。天下冤之。世宗在熙宗時,知田瑴黨事皆松年等構成之。而浩等三十二人遇天德赦令還鄉里,多物故,惟浩與瑴兄谷、王補、馮煦、王中安在。大定二年,召見,複官爵。浩為侍御史,谷為大理丞,補為工部員外郎,煦為兵部主事,中安知火山軍事,而浩尋複為右司員外郎。

浩は篤実にして、事に遇えば輒ち言い、隠す所無し。上其の忠を嘉し、毎たび大臣に対し之を称す。疾有り、外補を求め、祁州刺史を除かれ、致仕し、帰る。七年、起ちて御史中丞と為る。而して浩已に年老ゆ。世宗次を以てせずして之を用う。再び月を閲し、参知政事を拝す。故事、中丞より執政を拝する者無し。浩辞して曰く、「次を以てせざるの恩、臣の敢て当うる所に非ず」と。上曰く、「卿刺史より致仕し、中丞を除く。国家人を用うるに、豈に階次に拘わらんや。卿公正忠勤、年高しと雖も猶お数年の力を宣ぶべし。朕之を思うこと久し」と。浩頓首して謝す。

原文浩篤實,遇事輒言,無所隱。上嘉其忠,每對大臣稱之。有疾,求外補,除祁州刺史,致仕,歸。七年,起為禦史中丞,而浩已年老,世宗以不次用之,再閱月,拜參知政事。故事,無自中丞拜執政者,浩辭曰:「不次之恩,非臣所敢當。」上曰:「卿自刺史致仕,除中丞,國家用人,豈拘階次?卿公正忠勤,雖年高猶可宣力數年,朕思之久矣。」浩頓首謝。

世宗は有司に命じて東宮の涼楼に殿位を増築させようとしたが、孟浩が諫めて言うには、「皇太子は臣下と子たる身分を兼ねておられます。もしお住まいが至尊の宮室と同等であれば、制度として適切でない恐れがあり、むしろ倹約の徳を示されるべきです」と。帝は「善し」と言い、その工事を取りやめた。そこで太子に言うには、「朕は漢の文帝の純粋な倹約を思い、常に心に慕っている。汝もこれを則とすることができるであろう」と。間もなく、皇太子の誕生日に、帝は東宮で群臣を宴し、大玉杓と黄金五百両を丞相の志寧に賜り、群臣を顧みて言うには、「卿らが功を立てれば、朕もこのように褒賞するであろう」と。また言うには、「参政の孟浩は公正で敢言し、中丞から執政となった。卿らがこのようであれば、朕も順序を越えて用いるであろう」と。世宗はかつて言うには、「女直は本来純朴を尊んだが、今の風俗は日に日に薄くなっている。朕は甚だこれを憫んでいる」と。浩は答えて言うには、「臣が四十年前に会寧におりました時、当時の風俗は今日と異なっておりました。誠に聖訓の通りでございます」と。帝は「卿は旧人であるから、固より知っているであろう」と言った。帝が宰臣に言うには、「宋の前廃帝はその叔父の湘東王を『豚王』と呼び、牢食を与え、泥の中に投げ入れ、これを戯笑とした。史策に書かれたのは、善を勧めて悪を懲らしめるためである。海陵は近習に記注を掌らせたため、記注が明らかでなく、当時の行いが実録に載らず、衆人の共に知るところを求めて訪ねて書かせよ」と。浩は答えて言うには、「良史は直筆であり、君主の挙動は必ず書かれる。帝王自ら史を観ず、記注の臣こそがその直筆を尽くすことができるのです」と。浩はさらに奏上して言うには、「歴古以来、賞罰を明らかにせずしてよく治めたということは、聞いたことがありません。国家が善を賞し悪を罰することは、すでに多くありますが、天下はこれを知ることができません。願わくは今後、凡そ功を賞し罪を罰する時は、皆その事状を具えて頒告し、君子に勧めを知らせて善に遷らせ、小人に懼れを知らせて自ら戒めさせてください」と。帝はこれに従った。尚書右丞に進み、太子少傅を兼ねた。真定尹に罷免された時、帝は言うには、「卿は年こそ老いたが、精神は衰えず、よく軍民を治める。急いで退くことを言うな」と。通犀の帯を賜った。十三年、薨去した。

原文世宗敕有司東宮涼樓增建殿位,浩諫曰:「皇太子義兼臣子,若所居與至尊宮室相侔,恐制度未宜,固宜示以儉德。」上曰:「善。」遂罷其役,因謂太子曰:「朕思漢文純儉,心常慕之,汝亦可以為則也。」未幾,皇太子生日,上宴群臣於東宮,以大玉杓、黃金五百兩賜丞相志甯,顧謂群臣曰:「卿等能立功,朕亦褒賞如此。」又曰:「參政孟浩公正敢言,自中丞為執政。卿等能如是,朕亦不次用之。」世宗嘗曰:「女直本尚純樸,今之風俗,日薄一日,朕甚憫焉。」浩對曰:「臣四十年前在會寧,當時風俗與今日不同,誠如聖訓。」上曰:「卿舊人,固知之。」上謂宰臣曰:「宋前廢帝呼其叔湘東王為'豬王',食之以牢,納之泥中,以為戲笑。書于史策,所以勸善而懲惡也。海陵以近習掌記注,記注不明,當時行事,實錄不載,眾人共知之者求訪書之。」浩對曰:「良史直筆,君舉必書。帝王不自觀史,記注之臣乃得盡其直筆。」浩複奏曰:「曆古以來,不明賞罰而能治者,未之聞也。國家賞善罰惡,蓋亦多矣,而天下莫能知。乞自今凡賞功罰罪,皆具事狀頒告之,使君子知勸以遷善,小人知懼以自警。」從之。進尚書右丞,兼太子少傅。罷為真定尹,上曰:「卿年雖老,精神不衰,善治軍民,毋遽言退。」以通犀帶賜之。十三年,薨。

附 田瑴

原文附 田瑴

田瑴は大理丞から累進して同知中京留守となり、ついに利涉軍節度使で終わった。

原文田瑴自大理丞累官同知中京留守,終於利涉軍節度使。

二十九年、章宗は尚書省に詔して言うには、「故吏部侍郎田瑴らは皆中正の士であったが、小人が朋党をもってこれを陥れ、これによって罪を得た。世宗は孟浩を右丞に用い、当時生存していた者はすでに皆用いたが、亡くなった者はまだ追復していない。その議を聞かせよ」と。張汝霖が奏上して言うには、「田瑴は権を専らにして党を樹て、先朝ですでに罪名を正され、称当でない者はありません。今、官爵を追贈するのは、恐らく懲戒と勧奨にならないでしょう」と。汝霖は先朝の大臣で、かつて顧命に与り、帝が即位したばかりで、軽々しくその意に逆らわず、言うには、「卿がすでに不可とするなら、ひとまずこれを置いておこう」と。蓋し張浩は蔡松年と親しく、故に汝霖はなおこれを排したのである。汝霖の死後、章宗は再び尚書省に詔して言うには、「蓋し田瑴の党事の後より、官にある者はこれを戒めとし、ただ苟且を務め、習い以て風と成った。先帝は田瑴らに罪なきを知り、生存する者を録用し、擢て宰執に至る者あり、次には節度・防禦・刺史となる者あり。その死者はなお追復せず、子孫はなお編戸に在る。朕は甚だこれを憫む。ただ賢を旌げ善を顕わすには、存没の間なく、宜しく先帝の忠直を褒録せられたる所以の意を推し、併せて恩恤を加え、以て風俗を励ますべし。田瑴一党の人々で、すでに叙用された者を除き、ただ任用されずに身死した者は、皆旧官爵に復すべし。その子孫で当時すでに官職があり、父祖が党に坐して削除された者も、また追復すべし。応に追復すべき爵位人等の子孫で廕叙に及ばない者も、皆量りて恩例を与うべし」と。

原文二十九年,章宗詔尚書省曰:「故吏部侍郎田瑴等皆中正之士,小人以朋黨陷之,由是得罪。世宗用孟浩為右丞,當時在者俱已用之,亡者未加追複,其議以聞。」張汝霖奏曰:「瑴專權樹黨,先朝已正罪名,莫不稱當。今追贈官爵,恐無懲勸。」汝霖先朝大臣,嘗與顧命,上初即位,不肯輒逆其意,謂之曰:「卿既以為不可,姑置之。」蓋張浩與蔡松年友善,故汝霖猶擠之也。汝霖死後,章宗複詔尚書省曰:「蓋自田瑴黨事之後,有官者以為戒,惟務苟且,習以成風。先帝知瑴等無罪,錄用生存之人,有擢至宰執者,其次有為節度、防禦、刺史者。其死者猶未追複,子孫猶在編戶,朕甚憫焉。惟旌賢顯善,無間存沒,宜推先帝所以褒錄忠直之意,並加恩恤,以勵風俗。據田瑴一起人除已敘用外,但未經任用身死,並與復舊官爵。其子孫當時已有官職,以父祖坐党因而削除者,亦與追複。應合追複爵位人等子孫不及廕敘者,亦皆量與恩例。」

梁肅

原文梁肅

梁肅、字は孟容、奉聖州の人。幼い頃から勤勉に学び、夏の夜に読書し、往々にして夜明けに至った。母の葛氏は常に燭を消して止めた。天眷二年、進士第に擢でられ、平遙県主簿に調され、望都・絳県令に遷った。廉潔のゆえに、尚書省令史として入った。定海軍節度副使に除され、中都警巡使に改め、山東西路転運副使に遷った。汴宮を営治する時、肅は役事の分護を担当した。大名少尹を摂行した。正隆末、境内に盗賊が起こり、百姓・平人を駆り立てて賊中に陥り自ら弁明できない者が数千人、皆大名の獄に繋がれた。肅が官に到着し、考証してその情実を得て、釈放された者は十のうち八九であった。大定二年、宛平の趙植が上書して言うには、「頃者、正隆は閹寺を用い、少府少監兼上林署令の胡守忠は縁故巧幸により、民利を規取した。前薊州刺史の完顔守道、前中都警巡使の梁肅は勤恪清廉である。願わくは進擢を加えられたい」と。そこで守忠は少監を落とされ、守道は濱州刺史から召されて諫議大夫となり、肅は中都転運副使から大興少尹に改められた。

原文梁肅,字孟容,奉聖州人。自幼勤學,夏夜讀書,往往達旦,母葛氏常滅燭止之。天眷二年,擢進士第,調平遙縣主簿,遷望都、絳縣令。以廉,入為尚書省令史。除定海軍節度副使,改中都警巡使,遷山東西路轉運副使。營治汴宮,肅分護役事。攝大名少尹。正隆末,境內盜起,驅百姓平人陷賊中不能自辨者數千人,皆系大名獄。肅到官,考驗得其情讞,出者十八九。大定二年,宛平趙植上書曰:「頃者,正隆任用閹寺,少府少監兼上林署令胡守忠因緣巧幸,規取民利。前薊州刺史完顏守道、前中都警巡使梁肅,勤恪清廉,願加進擢。」於是守忠落少監,守道自濱州刺史召為諫議大夫,肅中都轉運副使改大興少尹。

肅は上疏して言うには、「方今、用度が足りないのは、ただ辺兵の耗費のみではない。吏部は常調によって漕司の僚佐を除し、皆年老いて資の高い者をこれに充て、多くは職に称しない。臣は思うに、凡そ軍功・進士諸科・門廕の人で、銭穀の利害を知り、国用を饒足にさせて民を傷つけない者を、上書して自ら言うことを許すべきである。その中から可用の者を択び、職事を授ける。五年ごとに吏部に委ねて水旱・屯兵の有無を通校させ、その増耗を視て黜陟すべきである。漢の武帝が桑弘羊を用いて初めて榷酤法を立てて以来、民間の粟麦が毎年酒のために消耗されるのは常に十のうち二三である。天下の酒麴を禁じ、京師及び州郡の官務は従前の通り、なお販売して城外に出してはならない。その県鎮郷村では、権宜的に停止すべきである」と。返答がなかった。

原文肅上疏言:「方今用度不足,非但邊兵耗費而已。吏部以常調除漕司僚佐,皆年老資高者為之,類不稱職。臣謂凡軍功、進士諸科、門廕人,知錢穀利害,能使國用饒足而不傷民者,許上書自言。就擇其可用,授以職事。每五年委吏部通校有無水旱屯兵,視其增耗而黜陟之。自漢武帝用桑弘羊始立榷酤法,民間粟麥歲為酒所耗者十常二三。宜禁天下酒麴,自京師及州郡官務,仍舊不得酤販出城。其縣鎮鄉村,權行停止。」不報。

三年、蝗を捕らえるのが期限に及ばなかった罪に坐し、川州刺史に貶され、官一階を削られ、解職された。帝が便殿に臨み、左諫議大夫の奚籲、翰林待制の劉仲誨、秘書少監の移剌子敬を召し、古今の事を訪問した。しばらくして、籲が従容として請うて言うには、「梁肅の才は惜しむべく、解職は重すぎます」と。帝は「卿の言う通りである」と言い、そこで河北東路転運副使に除した。この時、窩斡の乱の後で、兵糧が不足し、詔して肅に沿辺の兵糧を措置させた。肇州・北京・広寧の塩場に移牒し、民に米をもって塩と交換することを許し、兵民ともにその利益を得た。四年、東平・大名両路の戸籍物力を通検し、その平允を称された。他の使者の至るところは皆苛酷に増益を功とし、百姓はこれを訴えて苦しんだ。朝廷は諸路に詔して東平・大名の通検を基準とさせ、ここに始めて定まった。

原文三年,坐捕蝗不如期,貶川州刺史,削官一階,解職。上禦便殿,召左諫議大夫奚籲、翰林待制劉仲誨,秘書少監移剌子敬,訪問古今事。少間,籲從容請曰:「梁肅材可惜,解職太重。」上曰:「卿言是也。」乃除河北東路轉運副使。是時,窩斡亂後,兵食不足,詔肅措置沿邊兵食。移牒肇州、北京、廣甯鹽場,許民以米易鹽,兵民皆得其利。四年,通檢東平、大名兩路戶籍物力,稱其平允。他使者所至皆以苛刻增益為功,百姓訴苦之。朝廷敕諸路以東平、大名通檢為准,於是始定。

七年、父の憂いで官を去った。起復して都水監となった。黄河が李固で決壊し、詔して肅に視察させた。還って奏上して言うには、「決壊した河水が六分、旧来の河水が四分である。今、決壊した河を障塞して故道に復し一つにすれば、再び決壊して南へ向かえば南京が憂い、再び決壊して北へ向かえば山東・河北ともに憂うべきこととなる。李固の南に堤を築いて止め、両河を分流させ、水勢を殺ぐ方が便利です」と。帝はこれに従った。

原文七年,父憂去官。起複都水監。河決李固,詔肅視之,還奏:「決河水六分,舊河水四分。今障塞決河,複故道為一,再決而南則南京憂,再決而北則山東、河北皆可憂。不若止于李固南築堤,使兩河分流,以殺水勢便。」上從之。

大理卿に改める。尚輦局の本把石抹阿裏哥が釘鉸匠の陳外兒と共に宮中の造車用銀釘葉を盗み、梁肅は阿裏哥が監臨の身であるとして、首犯とすべきと主張した。他の寺官は陳外兒を首犯とし、死罪に処した。上(世宗)は言った、「罪に疑わしきは軽きに従え、各々死を免じ、五年の徒罪、除名とする」と。当時、東京は久しく治まらず、上は自ら梁肅を選び同知東京留守事とした。中都都転運使に遷り、吏部尚書に転ずる。台諫について上疏し、その大意は、「台官は大夫より監察に至るまで、諫官は大夫より拾遺に至るまで、陛下自ら選ぶべきであり、宰相に委ねるべきではない。私恩を植え、言路を塞ぐ恐れがあるからである」というものであった。上はこれを嘉納した。また奴婢に羅の服を着せることを禁ずるよう請うと、上は言った、「近く奴婢の明金の服を禁じたばかりである。漸次行うがよい」と。梁肅は同安主簿の高旭を推挙し、平陽酒使に任じられたが、梁肅は奏上して言った、「明君は人を用いるに、必ずその器に応じて使うものである。高旭は儒士であり、民を治めることに優れている。もし彼をして酒肆に座らせ、酒酤を専売させれば、その能くするところではない。臣愚かにも考えるに、諸道の塩鉄使は従前通り文武官を参注し、その酒税使副は右選(武選)の三差(三度の差遣)が全て最上である者を以てこれに当たらせるべきです」と。上は言った、「善し」と。刑部尚書に改める。

原文改大理卿。尚輦局本把石抹阿裏哥與釘鉸匠陳外兒共盜宮中造車銀釘葉,肅以阿裏哥監臨,當首坐。他寺官以陳外兒為首,抵死。上曰:「罪疑惟輕,各免死,徒五年,除名。」于時,東京久不治,上自擇肅為同知東京留守事。遷中都都轉運使,轉吏部尚書。上疏論台諫,其大旨謂:「台官自大夫至監察,諫官自大夫至拾遺,陛下宜親擇,不可委之宰相,恐樹私恩,塞言路也。」上嘉納之。複請奴婢不得服羅,上曰:「近已禁奴婢服明金矣,可漸行之。」肅舉同安主簿高旭,除平陽酒使,肅奏曰:「明君用人,必器使之。旭儒士,優於治民,若使坐列肆,榷酒酤,非所能也。臣愚以為諸道鹽鐵使依舊文武參注,其酒稅使副以右選三差俱最者為之。」上曰:「善。」改刑部尚書。

宋主(孝宗)はしばしば国書を立って受け取る儀礼を免じるよう請うたが、世宗は従わなかった。大興尹の璋が十四年(大定十四年)の正旦使となった時、宋主は人を遣わして館において国書を奪い取り、多額の賄賂を与えた。璋が帰還すると、杖一百五十を加えられ、除名された。梁肅を宋国詳問使とし、その国書には略してこうあった、「盟書に記載されたのは、帝に皇の字を加えること、奉表・称臣・称名・再拝を免じること、歳幣を量り減ずること、旧儀を用いて親しく国書を受け取ること、に止まる。この礼が定まってより、今に十年を経た。今、歳元の国信使が彼の地に到着し、礼例に依らず引見せず、直ちに館において迫り取らせたと聞く。侄たる国の礼体、かくの如くであるべきか?往きてその詳細を問え。誠を以て報ずるべし」と。梁肅が宋に至ると、宋主は一つ一つ約束通り、立って国書を受け取った。梁肅が帰還する際、謝書を添えさせた。その略は、「侄たる宋皇帝謹んで再拝し、書を叔たる大金応天興祚欽文広武仁徳聖孝皇帝の闕下に致す。ただ十年盟約を遵ぶこと久しく、一毫も成約に違うことなし。ただ礼文を顧みるに、折衷を存すべきなり。ましてや函封の賜りを辱うし、なお躬受の儀に循うは、既に輿情に俯迫せられ、嘗て屡々誠請を伸べしにより、歳元の来使に因り、遂に商榷して権に従う。敢えて将命の還るを労し、先ず鄙悰の懇りを布く。自余は専使の梁肅をして請祈を控えしむ」というものであった。梁肅が泗州に帰り着くと、先に都管の趙王府長史駝満蒲馬を遣わして入奏させた。世宗は大いに喜び、梁肅を執政にしようとしたが、左丞相の良弼が言った、「梁肅は宰相と為し得る人物ですが、宋より帰還したばかりでこれを任じれば、宋人はこれより我を軽んずるでしょう」と。上はそこでやめた。

原文宋主屢請免立受國書之儀,世宗不從。及大興尹璋為十四年正旦使,宋主使人就館奪其書,而重賂之。璋還,杖一百五十,除名。以肅為宋國詳問使,其書略曰:「盟書所載,止於帝加皇字,免奉表稱臣稱名再拜,量減歲幣,便用舊儀,親接國書。茲禮一定,於今十年。今知歲元國信使到彼,不依禮例引見,輒令迫取于館,侄國禮體當如是耶?往問其詳,宜以誠報。」肅至宋,宋主一一如約,立接國書。肅還,附書謝,其略曰:「侄宋皇帝謹再拜,致書于叔大金應天興祚欽文廣武仁德聖孝皇帝闕下。惟十載遵盟之久,無一毫成約之違,獨顧禮文,宜存折衷。矧辱函封之貺,尚循躬受之儀,既俯迫於輿情,嘗屢伸於誠請,因歲元之來使,遂商榷以從權。敢勞將命之還,先布鄙悰之懇,自余專使肅控請祈。」肅還至泗州,先遣都管趙王府長史駝滿蒲馬入奏。世宗大喜,欲以肅為執政,左丞相良弼曰:「梁肅可相,但使宋還即為之,宋人自此輕我矣。」上乃止。

久しくして、済南尹となり、上疏して言った、「刑罰は世により軽く世により重し。漢の文帝が肉刑を除いて以来、徒罪に至る者は足枷を付けて労役に就き、年限が満ちればこれを釈放し、家に兼丁(他の働き手)のない者は、杖刑を加えて徒罪に准じた。今、遼の末世の法を採り、徒一年の者に杖一百を加えるのは、一つの罪に二つの刑であり、刑罰の重さは、ここに極まれりである。今、太平の日永く、中典を用いるべき時に、役所はなお重法を用いており、臣は実にこれを痛む。今より徒罪の者は、ただ居作(労役)に服するのみとし、更に決杖しないように」と。返答はなかった。

原文久之,為濟南尹,上疏曰:「刑罰世輕世重,自漢文除肉刑,罪至徒者帶鐐居役,歲滿釋之,家無兼丁者,加杖准徒。今取遼季之法,徒一年者杖一百,是一罪二刑也,刑罰之重,於斯為甚。今太平日久,當用中典,有司猶用重法,臣實痛之。自今徒罪之人,止居作,更不決杖,」不報。

間もなく、致仕したが、起復されて彰徳軍節度使となり、召されて参知政事に拝された。上は侍臣に言った、「梁肅は治績が異等であったため、遂に大任に至った。廉吏もまたこれによって勧められるであろう」と。梁肅は奏上した、「漢の羽林軍は、皆『孝経』に通じていた。今の親軍は、即ち漢の羽林である。臣は乞う、毎百戸ごとに『孝経』一部を賜い、これを教読させ、臣子の道を知らしめ、その出職(官職に就く)する時には、政事を知り得るようにさせたい」と。上は言った、「善し。人の行い、孝より大なるは莫し。これまた教えられて後能くするものなり」と。詔して護衛と共に賜うこととした。また上奏して言った、「方今、斗米三百文であり、人は既に困窮し飢えている。これは銭が得難いためである。天下の歳入は二千万貫以上と計上され、一年の用度を除いて千万余る。院務・坊場及び百姓が納めるべき銭を、通じて数百万減ずる。院務・坊場の納銭は穀帛に折納することを許し、官兵の俸給を折支(現物支給)すれば、銭が民間に散布され、少しずつ得易くなるでしょう」と。上は言った、「滞納している院務の銭は、折納を許すことはできよう」と。

原文未幾,致仕,起複彰德軍節度使,召拜參知政事。上謂侍臣曰:「梁肅以治入異等,遂至大任,廉吏亦可以勸矣。」肅奏:「漢之羽林,皆通《孝經》。今之親軍,即漢之羽林也。臣乞每百戶賜《孝經》一部,使之教讀,庶知臣子之道,其出職也,可知政事。」上曰:「善,人之行,莫大於孝,亦由教而後能。」詔與護衛俱賜焉。複上奏曰:「方今斗米三百,人已困餓,以錢難得故也。計天下歲入二千萬貫以上,一歲之用餘千萬。院務坊場及百姓合納錢者,通減數百萬。院務坊場可折納穀帛 ,折支官兵俸給,使錢布散民間,稍稍易得。」上曰:「懸欠院務,許折納,可也。」

梁肅は生財と用度の緩和について八事を論じる上疏をした。第一は随司の通事を罷めること。第二は酒税司の杓欄人を罷めること。第三は天水郡王(宋の徽宗)の本族は既に生存者がおらず、その余は皆遠族であるので、養済を罷めること。第四は随司の契丹吏員を裁減すること。第五は醋の専売を罷め、その利を民に与えること。第六は塩価を量り減じ、私塩を行わせず、民をして法を犯させないこと。第七は各路の酒税を諸物への折納を許すこと。第八は今年は大いに豊作であるので、広く粟麦を買い入れ、銭貨を流出させること。上は言った、「趙氏の養済一事は、国家の美政である。罷めることはできない。その七事については、宰相が詳しく議して奏上せよ」と。上はまた言った、「朕が位について二十余年、海陵王(廃帝亮)の失政を鑑み、屡々改作を行ったが、また免れがたく誤りや過ちもある。卿らは心を尽くして奏上せよ」と。梁肅は論じた、「正員の官が差遣に出され、権摂官が公罪を犯し、正員が任に還った場合、皆去官として論ぜずとされるため、往々にしてその人は苟且に事を為し、その職務に専念しない。県令の中に十人を留めて差遣に備え、正員の官を差遣に出さないことを乞う」と。上は言った、「今より権摂官が公罪を犯した場合、正員が還任しても本職が替わっていなければ、去官として論ぜず」と。梁肅は言った、「誠に聖旨の通りでございます」と。梁肅が宰相と共に奏事し、既に罷めた後、跪いて言った、「四時の田猟は、古礼ではあるが、聖人もまたこれを戒めとされた。陛下は春秋高く、時は厳寒に属します。山林の間を馳騁なさいますが、法宮に安んじてお過ごしになることも、また神を怡なごませるに足ります。宗社のために御自愛あらんことを願い、天下の福でございます」と。上は言った、「朕の諸子は方に壮年である。彼らに武を習わせるため、時折一度行くだけである」と。

原文肅上疏論生財舒用八事。一曰罷隨司通事;二曰罷酒稅司杓欄人;三曰天水郡王本族已無在者,其餘皆遠族,可罷養濟;四曰裁減隨司契丹吏員;五曰罷榷醋,以利與民;六曰量減鹽價,使私鹽不行,民不犯法;七曰隨路酒稅許折納諸物;八曰今歲大稔,乞廣糴粟麥,使錢貨流出。上曰:「趙氏養濟一事,乃國家美政,不可罷。其七事,宰相詳議以聞。」上又曰:「朕在位二十餘年,鑒海陵之失,屢有改作,亦不免有繆戾者,卿等悉心奏之。」肅論「正員官被差,權攝官有公罪,及正員還任,皆准去官勿論,往往其人苟且,不事其事。乞于縣令中留十人備差,無差正員官。」上曰:「自今權攝有公罪,正員雖還而本職未替者,勿以去官論之。」肅曰:「誠如聖旨。」肅與宰相奏事,既罷,肅跪而言曰:「四時畋獵,雖古禮,聖人亦以為戒。陛下春秋高,屬時嚴寒,馳聘于山林之間。法宮燕處,亦足怡神,願為宗社自重,天下之福也。」上曰:「朕諸子方壯,使之習武,故時一往爾。」

同知震武軍節度使の鄧秉鈞が四事を陳言した。その一つに、地方に欠官が多く、また資格に循って擬注するため人を得ない、とあった。上は宰相の張汝弼にこれを問うと、汝弼は言った、「資格に循うことは行われて久しく、旧に仍った方が宜しいでしょう」と。梁肅は言った、「そうではありません。亡びた遼は固より言うに足りませんが、その用人之法には、仕官して四十年敗事なき者があれば、即ち節度使に与えるというものがありました。必ずしも資格に循う必要はないのです」と。上は言った、「仕官四十年は既に衰老している。その政績を察し、善き者はこれを昇進させ、後任の政績を再び察し、善き者はまたこれを昇進させる。このようにすれば人を得ることができ、また事を曠むなしくすることもない」と。梁肅は言った、「誠に聖訓の通りでございます」と。梁肅が盗賊が止まないことを論じ、兵器を禁じないよう請うた。上は言った、「所在に兵器があるが、その利害は如何なるものか」と。梁肅は言った、「他の路はともかく、中都路だけは農夫にこれを置くことを聴ゆるしても、害は無いようです」と。上は言った、「朕考えよう」と。

原文同知震武軍節度使鄧秉鈞陳言四事,其一言外多闕官,及循資擬注不得人,上以問宰相張汝弼,曰:「循資格行已久,仍舊便。」肅曰:「不然。如亡遼固不足道,其用人之法有仕及四十年無敗事,即與節度使,豈必循資哉。」上曰:「仕四十年已衰老。察其政績,善者升之,後政再察之,善又升之,如此可以得人,亦無曠事。」肅曰:「誠如聖訓。」肅論盜賊不息,請無禁兵器。上曰:「所在有兵器,其利害如何?」肅曰:「他路則已,中都一路上農夫聽置之,似乎無害。」上曰:「朕將思之。」

凡そ宋に使する者には、宋人は礼物を致す。大使には金二百両、銀二千両、副使はその半、幣帛雑物もこれに相当する。物力(資産)の推排(調査)が行われた時、梁肅は自ら執政の身であり、かつて宋に使いし、得た礼物が多いとして、率先して庶民の模範となるべきと考え、自ら物力を六十余貫増加させた。論者はこれを称えた。

原文凡使宋者,宋人致禮物,大使金二百兩,銀二千兩,副使半之,幣帛雜物稱是。及推排物力,肅自以身為執政,昔嘗使宋,所得禮物多,當為庶民率先,乃自增物力六十餘貫,論者多之。

二十三年(大定二十三年)、梁肅は老齢を理由に致仕を請うた。上は宰臣に言った、「梁肅は知ることを言わざるなく、正人である。卿らは知りながら言わない。朕は実にこれを卑しむ。とはいえ、梁肅は老いた。その請いに従うがよい」と。遂に再び致仕した。詔してその子の汝翼を閣門祗候とした。二十八年、薨去。諡は正憲。

原文二十三年,肅請老,上謂宰臣曰:「梁肅知無不言,正人也。卿等知而不言,朕實鄙之。雖然,肅老矣,宜從其請。」遂再致仕。詔以其子汝翼為閣門祗候。二十八年,薨。諡正憲。

移剌慥

原文移剌慥

移剌慥は、本名を移敵列といい、契丹の虞呂部の人である。契丹文字と漢字に通じ、尚書省に召されて契丹令史となり、知除を兼ね、右司都事に抜擢された。正隆年間の南征に際しては、契丹・漢字両司の都事を兼ねた。大定二年、真定少尹に任じられ、入朝して侍御史となった。母の喪で官を去った。喪中に起用されて右司員外郎となり、累進して陳州防禦使となった。左丞相の紇石烈良弼が致仕する際、上(世宗)が「誰が卿に代わり得るか」と問うと、良弼は「陳州防禦使の移剌慥は清廉で忠直、臣は及びません」と答えた。そこで召されて太府監となった。後に刑部侍郎に改めた。

原文移剌慥,本名移敵列,契丹虞呂部人。通契丹、漢字,尚書省辟契丹令史,攝知除,擢右司都事。正隆南伐,兼領契丹、漢字兩司都事。大定二年,除真定少尹,入為侍御史。母憂去官。起複右司員外郎,累官陳州防禦使。左丞相紇石烈良弼致仕,上問:「誰可代卿者?」對曰:「陳州防禦使移剌慥,清幹忠正,臣不及也。」遂召為太府監。改刑部侍郎。

十九年、按出虎など八猛安を、河南から大名・東平の境に移住させた。後に大理卿に戻り、詔を受けて制度条令の改定を主管した。初め、皇統年間に隋・唐・遼・宋の律令を参酌して皇統制条が定められたが、海陵王の苛法は恣意的な変更が多く、同罪異罰や軽重不均衡、条文の重複や冗長な表現があり、官吏は従うべきところを知らず、法を曲げて私利を図った。慥は皇統の旧制と海陵王の追加法令をとりまとめて校定し、矛盾を解消し、煩雑な部分を簡略化した。事例に該当するが条文にないものは例によって補い、特に欠けているものは律によって増補した。凡そ制律に該当せず疑わしく参決できないものは、上旨を仰いで決定した。特旨による処分や臨時の条例で恒常的に行えるものは、永久の格式として収録した。その他削除できないものは別部とした。総計一千百九十条、十二巻である。書が奏上されると、詔によって頒行され、銀貨・絹帛を賜った。まもなく、山東の猛安八謀克を摘発して河北東路に移し、酬斡・青狗児両猛安の旧居の地に置き、詔して牛を持たぬ耕作人には牛を買い与えた。御史大夫を兼ねた。数か月後、御史中丞に改め、同修国史を兼ね、刑部尚書に転じ、さらに吏部尚書に改めた。まもなく大興尹に改めた。上(世宗)が上京に行幸し、顕宗(太子允恭)が国を守った時、使者を遣わして諭して言った。「大駕が東巡して以来、京尹(子敬)の治績は甚だ善い。我が春水の行(春蒐)を行うに当たり、一層その職務に勤しむべし」。帰還後、獲った鵞鴨を賜った。病気で休暇をとると、官医を遣わして診察させた。再び刑部尚書となった。上が上京から還ると、西京留守とし、臨洮尹に改め、任地で卒した。

原文十九年,以按出虎等八猛安,自河南徙置大名、東平之境。還為大理卿,被詔典領更定制條。初,皇統間,參酌隋、唐、遼、宋律令,以為皇統制條。海陵虐法,率意更改,或同罪異罰,或輕重不倫,或共條重出,或虛文贅意,吏不知適從,夤緣舞法。慥取皇統舊制及海陵續降,通類校定,通其窒礙,略其繁碎。有例該而條不載者,用例補之。特闕者用律增之。凡制律不該及疑不能參決者,取旨畫定。凡特旨處分,及權宜條例內有可常行者,收為永格。其餘未可削去者,別為一部。大凡一千一百九十條,為十二卷。書奏,詔頒行之,賜銀幣有差。頃之,摘徙山東猛安八謀克于河北東路,置之酬斡、青狗兒兩猛安舊居之地,詔無牛耕者買牛給之。攝御史大夫。數月,改禦史中丞,兼同修國史,遷刑部尚書,改吏部尚書。尋改大興尹。駕幸上京,顯宗守國,使人諭之曰:「自大駕東巡,京尹所治甚善。我將有春水之行,當益勤乃事。」還以所獲鵝鴨賜之。有疾在告,遣官醫診視。複為刑部尚書。上還自上京,以為西京留守,改臨洮尹,卒。

移剌子敬

原文移剌子敬

移剌子敬は、字を同文といい、本名は屋骨朵魯、遼の五院の人である。曾祖父の霸哥は同平章事であった。父の抜魯は準備任使官であった。都統の杲が中京を攻略すると、遼主は西走し、抜魯に輜重しちょうの監督を任せたが、やがて輜重は掠奪され、抜魯は自ら髪を剃り、山林に逃れた。子敬は読書好学で、皇統年間、特進の移剌固が『遼史』を編修する際、掾属に召された。『遼史』が完成すると、同知遼州事に任じられた。旧来、州の役人は自ら占有する土地があり、歳入数百貫を得ていたが、州官は毎年その租税を取り立て、地主も慣例としており、誰も異議を唱えなかった。子敬は言った。「既に公田があるのに、どうしてさらに民田を取るのか」。ついに取らなかった。任期が満ちると、郡人が行台省に留任を請願したが、許されなかった。天徳三年、入朝して翰林修撰となり、礼部郎中に昇進した。

原文移剌子敬,字同文,本名屋骨朵魯,遼五院人。曾祖霸哥,同平章事。父拔魯,準備任使官。都統杲克中京,遼主西走,留拔魯督輜重,已而輜重被掠,拔魯乃自髡,逃于山林。子敬讀書好學,皇統間,特進移剌固修《遼史》,辟為掾屬。《遼史》成,除同知遼州事。舊本愩自有占地,歲入數百貫,州官歲取其課,地主以為例,未嘗請辯。子敬曰:「已有公田,何為更取民田。」竟不取。秩滿,郡人請留於行台省,不許。天德三年,入為翰林修撰,遷禮部郎中。

正隆元年、諸将が辺境を巡視する際、詔して子敬に監戦を命じた。軍帥が戦利品を将士に分け与える時、子敬にも贈ったが、子敬は受け取らなかった。帰還後、入朝して謁見すると、海陵王は言った。「汝は家が貧しいのに苟も得ようとせず、俘獲を受け取らなかった。朕は甚だ賞賛する」。同行した官僚が取ったものはすべて官に没収された。その後、詔して子敬に諸部族への宴賜を命じ、諭して言った。「通常、進貢を受けるのは宰臣を遣わすが、汝が以前職務をよく果たしたので、特に汝を命じる」。使いから戻ると、翰林待制に昇進した。大定二年、待制として同修国史となった。この時、窩斡の残党が諸猛安謀克の中に散居していたので、詔して子敬を派遣して慰撫させ、併せて猛安謀克及び州県の漢人に、以前の戦争での殺傷を理由に怨みを抱き、契丹人を害してはならないと宣諭させた。使いから戻ると、秘書少監に改め、起居注の編修を兼ね、国史編修は従前通りとした。詔して言った。「汝が古今に博通しているので、この任を命じる」。しばしば召し出されて古今の事や時政の利害を講論させ、夜半に及ぶこともあった。子敬は良馬を持っており、平章政事の完顔元宜がそれを求めたが、子敬は元宜が宰相であるからと与えなかった。この時、元宜が致仕を願い出て東京に罷免されると、子敬はこの馬を餞別として贈った。識者はこれを正しいと認めた。

原文正隆元年,諸將巡邊,詔子敬監戰,軍帥以戰獲分將士,亦以遺子敬,子敬不受。及還,入見,海陵謂之曰:「汝家貧而不苟得,不受俘獲,朕甚嘉之。」凡同行官僚所取者,皆沒入於官。其後詔子敬宴賜諸部,諭之曰:「凡受進,例遣宰臣,以汝前能稱職,故特命汝。」使還,遷翰林待制。大定二年,以待制同修國史。是時,窩斡餘黨散居諸猛安謀克中,詔子敬往撫之,仍宣諭猛安謀克,及州縣漢人,無以前時用兵相殺傷,挾怨輒害契丹人。使還,改秘書少監,兼修起居注,修史如故。詔曰:「以汝博通古今,故以命汝。」常召入講論古今及時政利害,或至夜半。子敬有良馬,平章政事完顏元宜索之,子敬以元宜為相也,不與。至是,元宜乞致仕,罷為東京,子敬乃以此馬贐行,識者韙之。

この時、僕散忠義が宋を討ち、宋は和を請うたが、国書の形式と疆界は未定であった。子敬は秘書少監の石抹頤・修起居注の張汝弼と便殿に侍した。上(世宗)は言った。「宋主は和議を求めるが、反覆して信義がなく、誇大を好む」。子敬は答えて言った。「宋人は元来虚辞をもって欺き、来書には海陵が採石で敗れ、大軍が北帰する際、兵を抑えて襲撃せず、全軍をして帰還させたとあります。海陵は採石で敗れたことはなく、その詭詐は多くこの類です。返書には、往時大軍がもし長江を渡していたならば、宋国の境土は必ず我が有するところとなったであろうと述べるべきです」。上は言った。「彼は詭詐を用い、我は誠実をもってし、ただ理をもって折伏すべきである」。右諫議大夫に昇進し、起居注は従前通りとした。

原文是時,僕散忠義伐宋,宋請和,而書式、疆界未定。子敬與秘書少監石抹頤、修起居注張汝弼侍便殿,上曰:「宋主求成,反覆無信,喜為誇大。」子敬對曰:「宋人自來浮辭相欺,來書言海陵敗于採石,大軍北歸,按兵不襲,俾全師而還。海陵未嘗敗於採石,其譎詐多此類也。回書宜言往者大軍若令渡江,宋國境土,必為我有。」上曰:「彼以詭詐,我以誠實,但當以理折之。」遷右諫議大夫,起居注如故。

上が西京に行幸した時、州県の官は入見できたが、猛安謀克は随班できなかった。子敬は軍民は一体であると奏上し、猛安謀克にも随班して入見させるべきだと請うた。上は嘉納し、宣徽院を責めた。端午の朝会に際し、詔して子敬の奏上に従って行わせた。子敬は、山後の禁猟地が広すぎて百姓の耕墾の妨げになると言上し、上はその言を用いて、四方の猟地を民に与えた。秘書監に昇進し、諫議・起居注は従前通りとした。

原文上幸西京,州縣官入見,猛安謀克不得隨班。子敬奏軍民一體,合令猛安謀克隨班入見,上嘉納之,於是責讓宣徽院。及端午朝會,詔依子敬奏行之。子敬言山后禁獵地太廣,有妨百姓耕墾,上用其言,遂以四外獵地與民。遷秘書監,諫議、起居如故。

子敬は同知宣徽院事の移剌神獨斡・兵部侍郎の移剌按答・太子少詹事の烏古論三合を挙げて自らの後任としたが、上は許さなかった。子敬が同簽宣徽院事の移剌神獨斡と侍っている時、上は言った。「亡びた遼は旧俗を忘れなかった。朕はこれを是とする。海陵は漢人の風俗を学び習うが、これは本を忘れることである。もし国家の旧風に依るならば、四方の境は憂いなく、これが長久之計である」。世宗が涼陘に行こうとした時、子敬は右補闕の粘割斡特剌・左拾遺の楊伯仁と共に奏上した。「車駕が曷裏滸に至れば、西北招討司は行宮の内の地に囲まれてしまいます。界上に移し、遮蔽・環衛とされるよう乞います」。上は言った。「善い」。詔して尚書省に言った。「招討の斜裏虎は界上に移し、蕃部の事を治めよ。都監の撒八は依然として燕子城で猛安謀克の事を治めよ」。

原文子敬舉同知宣徽院事移剌神獨斡、兵部侍郎移剌按答,太子少詹事烏古論三合自代,上不許。子敬與同簽宣徽院事移剌神獨斡侍,上曰:「亡遼不忘舊俗,朕以為是。海陵習學漢人風俗,是忘本也。若依國家舊風,四境可以無虞,此長久之計也。」世宗將如涼陘,子敬與右補闕粘割斡特剌、左拾遺楊伯仁奏曰:「車駕至曷裏滸,西北招討司囿於行宮之內地矣。乞遷之於界上,以遮罩環衛。」上曰:「善。」詔尚書省曰:「招討斜裏虎可徙界上,治蕃部事。都監撒八仍于燕子城治猛安謀克事。」

上が侍臣と古の君主の賢否を論じた時、子敬は奏上した。「陛下が凡そ宰臣と謀議ぼうぎされる時は、史官に知らせないわけにはいきません」。上は言った。「卿の言う通りである」。簽書枢密院事に転じ、同修国史を兼ね、出向して河中尹となり、老齢を理由に致仕を請うた。河中は地が暑いので、上は子敬が暑さに耐えられぬことを恐れ、興中尹に改めた。子敬の娘が懿州から興中に来て面会したが、途中で盗賊に遭い、行李を掠奪され尽くした。しかしやがて返され、謝罪して言った。「我々は初め府尹の家の方とは知りませんでした。府尹は民に徳があり、どうして侵犯できましょう」。咸平尹・広寧尹に転じた。二十一年、致仕し、家で卒した。七十一歳。子敬はかつて宋に使いし、また諸部の進貢を受けたが、受け取った礼物はすべて親旧に分け与えた。卒した時、家に余財はなく、その子は邸宅を質に入れて葬事を営んだ。

原文上與侍臣論古之人君賢否,子敬奏曰:「陛下凡與宰臣謀議,不可不令史官知之。」上曰:「卿言是也。」轉簽書樞密院事,同修國史,出為河中尹,請老。河中地熱,上恐子敬不耐暑,改興中尹。子敬女自懿州來興中省謁,遇盜途中,剽掠其行李且盡,既而還之,謝曰:「我輩初不知為府尹家也,尹有德于民,尚忍侵犯邪。」徙咸平、廣甯尹。二十一年,致仕,卒於家,年七十一。子敬嘗使宋,及受諸部進貢,所受禮物,皆散之親舊。及卒,家無餘財,其子質宅以營葬事。

賛して曰く、金の制度において、尚書令・左右丞相・平章政事、これらを宰相と謂い、左右丞・参知政事、これらを執政と謂う。大抵は唐の官制に因りて稍々異なるのみで、因襲と変革の違いは、疑うに足らぬ。《書経》に曰く、「元首明らかなれば、股肱良く、庶事康し」と。また曰く、「元首叢脞なれば、股肱惰り、萬事隳る」と。宰相と執政と、その道は異なるであろうか。蘇保衡・翟永固・魏子平・孟浩・梁肅は皆、当時の賢なる執政である。移剌慥・子敬はその才を持ち、時に適うも、位に及ばなかったのは、これまた命であろうか。

原文贊曰:金制,尚書令、左右丞相、平章政事,是謂宰相;左右丞、參知政事,是謂執政。大抵因唐官而稍異焉,因革不同,無足疑者。《書》曰:「元首明哉,股肱良哉,庶事康哉。」又曰:「元首叢脞哉,股肱惰哉,萬事隳哉。」宰相、執政,豈異道邪?蘇保衡、翟永固、魏子平、孟浩、梁肅皆當時之賢執政也。移剌慥、子敬有其才,適其時,而位不及者,亦命也夫。