金史

列傳第二十七:蘇保衡、翟永固、魏子平、孟浩、梁肅、移剌慥、移剌子敬

蘇保衡

蘇保衡、字は宗尹、雲中天成人である。父の京は遼の進士で、西京留守となった。宗翰の軍が西京に至ると、京は出て降伏した。久しくして、京は病篤く、保衡を宗翰に託した。京が死ぬと、宗翰は朝廷に彼を推薦した。進士出身を賜り、太子洗馬に補され、解州軍事判官に転じた。左監軍撒離喝が陝西に駐軍し、幕府を開くと、辟かれて参議軍事となり、累官して同知興中尹となった。天徳年間、中都を修繕するにあたり、張浩が保衡を挙げて工役を分督させた。大興少尹に改め、諸陵の工役を監督した。再び遷って工部尚書となった。海陵が兵を治めて宋を伐とうとし、徐文らと通州で舟を造らせた。海陵が近郊で狩りをし、ついで通州に至って工作を視察した。兵が起こると、保衡は浙東道水軍都統制となり、舟師を率いて海を渡り、直ちに臨安に向かった。宋兵が襲来し、海中で敗れ、副統制鄭家がこれに死した。

大定二年、中都に召し出された。この時、山東の盗賊が嘯聚し、契丹が臨潢などの州郡を攻掠し、百姓は困弊していた。詔して保衡に山東を安撫させ、前太子少保高思廉に臨潢を安撫させ、倉粟を発してこれを賑い、衣なき者には幣帛を賜い、あるいは官粟に欠けるところあれば、則ち収糴してこれを給し、妻室なき者には姓名を具して奏聞させた。還って刑部尚書に除かれた。工部尚書宗永・兵部侍郎完顏余裏也とともに、河南・山東・陝西に行き屯田軍人を宣問し、かつて大敵を破り及び城を攻め野戦で功を立てた者のあれば、姓名を具して奏聞させた。あるいは寡をもって衆に敵し、あるいは敵と相当して能く先登して敵を敗った者については、正軍及び擐甲阿裏喜は官一階を補し、猛安謀克は功状を尚書省に上らせ、かつて海陵の軍に随って淮上に至り敵を破った者もまた上と同じく遷賞に准じた。

僕散忠義が宋を伐つにあたり、保衡は関中で戸部の事務を行い、兼ねて糾察し、便宜を許され、守令の不法なる者十余人を罷免した。邠守傅慎微が用事者に逆らい、讒構されて獄に下され死に及ぼうとしたが、保衡が力を尽くして救い免れた。入朝して太常卿となり、礼部尚書に遷った。三年、参知政事を拝した。宋人が和を請うと、詔して保衡を南京に遣わし、僕散忠義とともに事宜を斟酌してこれを行わせた。入奏して右丞に進んだ。四年、宋人が和を請い、軍が還ると、保衡は京師に朝した。初め、宮女の称心が十六位に放火し、諸殿に延焼した。上は方や兵を用い、国用足らずとして、再び営繕しなかった。宋と和すると、詔して保衡に役事を監護させ、少府監張仲愈を遣わして南京宮殿の図本を取らせた。上はこれを聞き、保衡に謂って曰く、「仲愈を追い還せ。民間、朕が正隆の華侈に倣うと謂わんとするなり」と。

六年冬、疾あり、致仕を求めたが、許されなかった。敬嗣暉を遣わして詔を伝えさせて曰く、「卿は忠直をもって執政に擢げられ、歯髪未だ衰えず、遽かに小疾をもって退を求む。善く摂養を加え、疾の間を俟って視事せよ」と。未幾、薨じ、年五十五。世宗が近郊に鷹を放たんとし、これを聞いて乃ち還り、朝を輟め、賻贈し、有司に命じて祭を致させた。

翟永固

翟永固、字は仲堅、中都良郷の人である。太祖が宋と約して遼を攻め、事成って燕を宋に帰すこととした。宋人は経義と策を兼ねて士を取ったが、永固は第一となり、開徳府儀曹参そうしん軍を授かった。金が宋を破ると、永固は北に帰った。天会六年の詞賦科に中り、懐安丞を授かり、望雲令に遷り、枢密院令史に補され、左副元帥宗翰の府掾に辟かれた。永固は家貧しく、外補を求めたが、宗翰はその能を愛し、許さず、銭三千貫をもってこれを周し、朝廷に薦め、左司郎中を摂らせた。定武軍節度副使に除かれ、歴て同知清州防禦使となり、入朝して工部員外郎となった。母憂により官を去り、起復して礼部郎中となり、翰林直学士に遷った。

海陵がさん立すると、宋国の賀正旦使が広寧に至った。海陵は使者を使わして廃立の事を宋使に諭し、これを還し遣わした。侍衛親軍都指揮使完顔思恭を報諭宋使とし、永固を副使とし、かつ永固に宋人の動静を伺察させた。使いより還り、礼部侍郎に改めた。久しくして、燕京宮室の役事を分護し、永固は殿壁に『無逸図』を写すことを請うたが、納れられなかった。俄かに太常卿に遷り、貞元二年の進士を試験し、『尊祖配天賦』の題を出した。海陵は己の意を猜度したものと以為い、永固を召して問うて曰く、「賦題は朕が意に称わず。我が祖が在位の時、天を祭りて拝したか」と。対えて曰く、「拝しました」と。海陵曰く、「豈に生ける時は拝し、死して同体に配食する者あらんや」と。対えて曰く、「古よりこれあり、典礼に載せております」と。海陵曰く、「若し桀・紂が曾て行わば、亦た我に行わしめんと欲するか」と。ここにおいて永固・張景仁は皆二十の杖を受けた。而して進士張汝霖の賦の第八韻に曰く、「方今、将に郊祀を行わんとす」とある。海陵これを詰めて曰く、「汝、安んぞ我が郊祀するを知るか」と。亦たこれに三十の杖を与えた。頃くして、永固は礼部尚書に遷り、笏頭球文の金帯を賜った。永定軍節度使に改めた。正隆二年、例として二品以上の官爵を降したが、永固の階光禄大夫は降さず、以て寵異とした。翰林学士承旨に遷り、直学士韓汝嘉とともに内殿に召し至り、将に親しく宋を伐たんとする事を問うた。永固対えて曰く、「宋人の本朝に事えるに釁隙無く、これを伐つに名無し。縦え伐つべくとも、亦た親征の煩わしき無く、将帥を遣わすべし」と。ここにより大いに海陵の意に忤い、永固は即ち致仕を請うた。正隆四年正月丁巳、海陵は永寿宮に朝し、四品以上の官に宴を賜った。永固が殿門外に至ると、海陵は即ち致仕の宣命をこれに授け、永固は家に帰り臥した。大定二年、起きて尚書左丞を拝し、旧制に依りて官吏を廉察し、正隆の守令の汚を革することを請うた。従われた。明年、表して致仕を乞うたが、詔して許さず。罷めて真定尹とし、通犀帯を賜った。尚書省が奏し、永固が執政より真定尹となるにあたり、その傘蓋は何の制度を用うべきかと。上曰く、「執政の制度を用いよ」と。遂に令として著わされた。五年、懇ろに致仕を乞い、許された。六年、薨じた。

魏子平

魏子平、字は仲均、弘州の人である。進士第に登り、五台主簿に調され、累除して尚書省令史となり、大理丞に除かれ、歴て左司都事、同知中都転運使事、太府監となった。正隆三年、賀宋主生日副使となった。この時、海陵は宋を伐たんと謀り、子平が使いより還り、入見すると、海陵は江左の事を問い、且つ曰く、「蘇州と大名とは孰れが優れるか」と。子平対えて曰く、「江・湖の地は卑湿にして、夏は蕉葛を服しても、猶暑さに堪えず、安んぞ大名と比すべけんや」と。海陵は悦ばず。世宗が即位し、戸部侍郎に除かれた。大定二年、丞相僕散忠義が宋を伐ち、元帥府を南京に置くと、子平は饋運を掌り、金牌一・銀牌六を給され、糧道の給辦を掌った。戸部尚書に進んだ。六年、再び賀宋主生日使となり、上曰く、「宋に使いするに再び往く者無し。卿は昔年河南の軍儲を供するに労あり、これを用いて卿を優遇するなり」と。

久しくして、参知政事に拝任された。上(世宗)が子平に問うて曰く、「古は什一の税にして民足れり、今は百一にして民足らず、何ぞや」と。子平対えて曰く、「什一は其の公田の入を取り、今は公田無くして其の私田を税す、法を為すこと同じからず。古に一易再易の田有り、中田は一年荒れて種えず、下田は二年荒れて種えず。今乃ち一切上田と均しく之を税す、此れ民の困る所以なり」と。上又問うて曰く、「戍卒の逋亡物故するに、今物力の高き者を按じて之を補う、可ならんや」と。対えて曰く、「富家の子弟は騃懦にして用うべからず、守戍の歳時求索厭うこと無く、家産随って壊る。若し物力の多寡に按じて之を賦し、材勇騎射の士を募り、足らざれば則ち兵家の子弟を調べて之を補わば、庶幾くは官実用を収め、人失職の患無からん」と。上之に従う。

海州に賊八十余人を捕え、賊の首は海州の人、其の兄今宋の軍官と為る。上之を聞き、宰相に謂いて曰く、「宋の和好、恐らく久しからず、其の宿・泗の間の漢軍を、以て女直軍に代えん」と。子平曰く、「誓書に称す、沿辺の州城、自來合設置の射糧軍の数並びに巡尉を除き外、更に軍を屯し守戍することを得ずと」と。上曰く、「此れは更代するのみ、増戍に非ざるなり」と。

上曰く、「前日内任の官六品以上、外任五品以上に令し、並びに知る所を挙げしむ。未だ之を挙ぐる者有るを聞かず、豈に其の才無からんや、知りて挙げざるなり」と。子平曰く、「請う当に挙ぐべきの官に令し、毎任須らく一人を挙げしめん」と。沢州刺史劉徳裕・祁州刺史斜哥・滄州同知訛裏也・易州同知訛裏剌・楚丘県令劉春哥、贓汙を以て罪に抵る。上中外に詔示せんと欲す。丞相守道以て不可と為す。上以て子平に問うて曰く、「卿の意何如」と。子平曰く、「臣聞く、一を懲らして百を戒むと。陛下固より之を行うべし」と。上曰く、「然り」と。遂に詔を降す。

宋人襄陽の漢江上に於いて舟を造り浮橋三と為す。南京統軍司聞きて之を奏す。上宰臣に問うて曰く、「卿等之を度るに、何如と為すや」と。子平曰く、「臣聞く、襄陽の薪芻は、皆江北に於いて之を取り、殆ど此れが為なりと」と。上曰く、「朕卿等と天下を治むるに、当に其の未然を治むべし。其の事有るに及び、然る後に之を治むれば、則ち亦晩きのみ」と。河南統軍使宗叙入見を求めて辺事を奏せんとす。上起居注粘割斡特剌をして就きて状を問わしむ。宗叙言う、「辺報及び宋より来帰する者の言を得るに、宋国兵を調え民を募り、糧餉を運び、城郭を完うし、戦船浮橋を造り、兵馬江北に移屯す。和議後に即ち制置司を罷めてより、今復た之を置く。商・虢・海州皆奸人の出没有り、此れ備えざるべからず。嘗て枢密院に報ず、彼文移と視為す、故に入見して之を言わんと欲す」と。斡特剌凡そ辺事を言う者を召して詰問す、皆実状無し。境上に行き至り、問いて知るに襄陽の浮橋は乃ち樵采の路なることを、子平の策の如し。還りて奏す。詔して凡そ妄りに辺関の兵事を説く者は二年徒とし、人に告げて実を得れば、銭五百貫を賞す。

上宰臣に問うて曰く、「宗廟を祭るに牛を用う。牛は力を尽くして稼穡し、人に功有り、之を殺すこと何如」と。子平対えて曰く、「惟だ天地宗廟之を用う、以て大祀の礼を異にする所以なり」と。

十一年、罷めて南京留守と為り、未幾にして致仕す。十五年、起ちて平陽尹と為り、復た致仕す。二十六年、家に薨ず。

孟浩

孟浩、字は浩然、濼州の人。遼の末年進士第に登る。天会三年、枢密院令史と為り、平州観察判官を除く。天眷初、選ばれて元帥府に入り備任使に充てられ、承制して帰徳少尹を除き、行台吏・礼部郎中を充て、入りて戸部員外郎・郎中と為る。韓企先相と為り、一時の賢能を抜擢し、皆機要に置く。浩と田瑴皆尚書省に在り、瑴は吏部侍郎と為り、浩は左司員外郎と為る。既に選を典とし、善く人物を銓量し、賢否を分別し、引用する所皆君子なり。而して蔡松年・曹望之・許霖皆小人なり、求めて瑴と相結ばんとす。瑴其の人と為るを薄しとして之を拒む。松年は蔡靖の子。靖兵を将いて燕山を守る能わず、終に宋国を敗る。瑴頗る此を以て松年を譏斥す。松年初め宗弼に事うること行台省に在り、微巧を以て宗弼の意を得、宗弼国に当たり、引いて刑部員外郎と為す。望之は尚書省都事と為り、霖は省令史と為る。皆瑴等を怨み、時時之を宗弼に毀短す。凡そ瑴と善き者は皆指して以て朋党と為す。韓企先疾病す。宗弼往きて之を問う。是の日、瑴企先の所に在り、宗弼の至るを聞き、其の己を悪むを知り、乃ち自ら屏して以て避く。宗弼曰く、「丞相年老いて且つ疾病す、誰か丞相に継ぐべき者」と。企先瑴を挙ぐ。而して宗弼先んずるに松年の譖言に入り、企先に謂いて曰く、「此の輩誅すべし」と。瑴聞きて汗背に浹す。企先薨ず。瑴出でて横海軍節度使と為る。選人龔夷鑒名を除かる。赦に値い、吏部の銓に赴き、覃恩に預かることを得。瑴既に横海を除かる。部吏夷鑒を以て瑴に白す。瑴乃ち月日を倒用して之に署す。許霖省に在りて覃恩を典とす。行台省工部員外郎張子周素より瑴と怨有り、事を以て京師に至り、微かに夷鑒の覃恩の事を知り、許霖を嗾して之を発せしめ、専擅して朝政をあやつるとす。詔獄之を鞫く。瑴と奚毅・邢具瞻・王植・高鳳庭・王效・趙益興・龔夷鑒を死に擬す。其の妻子及び往来する所の孟浩等三十四人皆海上に徙す。仍って赦を以て原せず。天下之を冤す。世宗熙宗の時に在り、田瑴の党の事は皆松年等の之を構成するを知る。而して浩等三十二人天徳の赦令に遇い郷里に還る。多く物故す。惟だ浩と瑴の兄の谷・王補・馮煦・王中安在り。大定二年、召見し、復た官爵す。浩は侍御史と為り、谷は大理丞と為り、補は工部員外郎と為り、煦は兵部主事と為り、中安は火山軍事を知り、而して浩尋ち復た右司員外郎と為る。

浩は篤実にして、事に遇えば輒ち言い、隠す所無し。上其の忠を嘉し、毎たび大臣に対し之を称す。疾有り、外補を求め、祁州刺史を除かれ、致仕し、帰る。七年、起ちて御史中丞と為る。而して浩已に年老ゆ。世宗次を以てせずして之を用う。再び月を閲し、参知政事を拝す。故事、中丞より執政を拝する者無し。浩辞して曰く、「次を以てせざるの恩、臣の敢て当うる所に非ず」と。上曰く、「卿刺史より致仕し、中丞を除く。国家人を用うるに、豈に階次に拘わらんや。卿公正忠勤、年高しと雖も猶お数年の力を宣ぶべし。朕之を思うこと久し」と。浩頓首して謝す。

世宗は有司に命じて東宮の涼楼に殿位を増築させようとしたが、孟浩が諫めて言うには、「皇太子は臣下と子たる身分を兼ねておられます。もしお住まいが至尊の宮室と同等であれば、制度として適切でない恐れがあり、むしろ倹約の徳を示されるべきです」と。帝は「善し」と言い、その工事を取りやめた。そこで太子に言うには、「朕は漢の文帝の純粋な倹約を思い、常に心に慕っている。汝もこれを則とすることができるであろう」と。間もなく、皇太子の誕生日に、帝は東宮で群臣を宴し、大玉杓と黄金五百両を丞相の志寧に賜り、群臣を顧みて言うには、「卿らが功を立てれば、朕もこのように褒賞するであろう」と。また言うには、「参政の孟浩は公正で敢言し、中丞から執政となった。卿らがこのようであれば、朕も順序を越えて用いるであろう」と。世宗はかつて言うには、「女直は本来純朴を尊んだが、今の風俗は日に日に薄くなっている。朕は甚だこれを憫んでいる」と。浩は答えて言うには、「臣が四十年前に会寧におりました時、当時の風俗は今日と異なっておりました。誠に聖訓の通りでございます」と。帝は「卿は旧人であるから、固より知っているであろう」と言った。帝が宰臣に言うには、「宋の前廃帝はその叔父の湘東王を『豚王』と呼び、牢食を与え、泥の中に投げ入れ、これを戯笑とした。史策に書かれたのは、善を勧めて悪を懲らしめるためである。海陵は近習に記注を掌らせたため、記注が明らかでなく、当時の行いが実録に載らず、衆人の共に知るところを求めて訪ねて書かせよ」と。浩は答えて言うには、「良史は直筆であり、君主の挙動は必ず書かれる。帝王自ら史を観ず、記注の臣こそがその直筆を尽くすことができるのです」と。浩はさらに奏上して言うには、「歴古以来、賞罰を明らかにせずしてよく治めたということは、聞いたことがありません。国家が善を賞し悪を罰することは、すでに多くありますが、天下はこれを知ることができません。願わくは今後、凡そ功を賞し罪を罰する時は、皆その事状を具えて頒告し、君子に勧めを知らせて善に遷らせ、小人に懼れを知らせて自ら戒めさせてください」と。帝はこれに従った。尚書右丞に進み、太子少傅を兼ねた。真定尹に罷免された時、帝は言うには、「卿は年こそ老いたが、精神は衰えず、よく軍民を治める。急いで退くことを言うな」と。通犀の帯を賜った。十三年、薨去した。

附 田瑴

田瑴は大理丞から累進して同知中京留守となり、ついに利涉軍節度使で終わった。

二十九年、章宗は尚書省に詔して言うには、「故吏部侍郎田瑴らは皆中正の士であったが、小人が朋党をもってこれを陥れ、これによって罪を得た。世宗は孟浩を右丞に用い、当時生存していた者はすでに皆用いたが、亡くなった者はまだ追復していない。その議を聞かせよ」と。張汝霖が奏上して言うには、「田瑴は権を専らにして党を樹て、先朝ですでに罪名を正され、称当でない者はありません。今、官爵を追贈するのは、恐らく懲戒と勧奨にならないでしょう」と。汝霖は先朝の大臣で、かつて顧命に与り、帝が即位したばかりで、軽々しくその意に逆らわず、言うには、「卿がすでに不可とするなら、ひとまずこれを置いておこう」と。蓋し張浩は蔡松年と親しく、故に汝霖はなおこれを排したのである。汝霖の死後、章宗は再び尚書省に詔して言うには、「蓋し田瑴の党事の後より、官にある者はこれを戒めとし、ただ苟且を務め、習い以て風と成った。先帝は田瑴らに罪なきを知り、生存する者を録用し、擢て宰執に至る者あり、次には節度・防禦・刺史となる者あり。その死者はなお追復せず、子孫はなお編戸に在る。朕は甚だこれを憫む。ただ賢を旌げ善を顕わすには、存没の間なく、宜しく先帝の忠直を褒録せられたる所以の意を推し、併せて恩恤を加え、以て風俗を励ますべし。田瑴一党の人々で、すでに叙用された者を除き、ただ任用されずに身死した者は、皆旧官爵に復すべし。その子孫で当時すでに官職があり、父祖が党に坐して削除された者も、また追復すべし。応に追復すべき爵位人等の子孫で廕叙に及ばない者も、皆量りて恩例を与うべし」と。

梁肅

梁肅、字は孟容、奉聖州の人。幼い頃から勤勉に学び、夏の夜に読書し、往々にして夜明けに至った。母の葛氏は常に燭を消して止めた。天眷二年、進士第に擢でられ、平遙県主簿に調され、望都・絳県令に遷った。廉潔のゆえに、尚書省令史として入った。定海軍節度副使に除され、中都警巡使に改め、山東西路転運副使に遷った。汴宮を営治する時、肅は役事の分護を担当した。大名少尹を摂行した。正隆末、境内に盗賊が起こり、百姓・平人を駆り立てて賊中に陥り自ら弁明できない者が数千人、皆大名の獄に繋がれた。肅が官に到着し、考証してその情実を得て、釈放された者は十のうち八九であった。大定二年、宛平の趙植が上書して言うには、「頃者、正隆は閹寺を用い、少府少監兼上林署令の胡守忠は縁故巧幸により、民利を規取した。前薊州刺史の完顔守道、前中都警巡使の梁肅は勤恪清廉である。願わくは進擢を加えられたい」と。そこで守忠は少監を落とされ、守道は濱州刺史から召されて諫議大夫となり、肅は中都転運副使から大興少尹に改められた。

肅は上疏して言うには、「方今、用度が足りないのは、ただ辺兵の耗費のみではない。吏部は常調によって漕司の僚佐を除し、皆年老いて資の高い者をこれに充て、多くは職に称しない。臣は思うに、凡そ軍功・進士諸科・門廕の人で、銭穀の利害を知り、国用を饒足にさせて民を傷つけない者を、上書して自ら言うことを許すべきである。その中から可用の者を択び、職事を授ける。五年ごとに吏部に委ねて水旱・屯兵の有無を通校させ、その増耗を視て黜陟すべきである。漢の武帝が桑弘羊を用いて初めて榷酤法を立てて以来、民間の粟麦が毎年酒のために消耗されるのは常に十のうち二三である。天下の酒麴を禁じ、京師及び州郡の官務は従前の通り、なお販売して城外に出してはならない。その県鎮郷村では、権宜的に停止すべきである」と。返答がなかった。

三年、蝗を捕らえるのが期限に及ばなかった罪に坐し、川州刺史に貶され、官一階を削られ、解職された。帝が便殿に臨み、左諫議大夫の奚籲、翰林待制の劉仲誨、秘書少監の移剌子敬を召し、古今の事を訪問した。しばらくして、籲が従容として請うて言うには、「梁肅の才は惜しむべく、解職は重すぎます」と。帝は「卿の言う通りである」と言い、そこで河北東路転運副使に除した。この時、窩斡の乱の後で、兵糧が不足し、詔して肅に沿辺の兵糧を措置させた。肇州・北京・広寧の塩場に移牒し、民に米をもって塩と交換することを許し、兵民ともにその利益を得た。四年、東平・大名両路の戸籍物力を通検し、その平允を称された。他の使者の至るところは皆苛酷に増益を功とし、百姓はこれを訴えて苦しんだ。朝廷は諸路に詔して東平・大名の通検を基準とさせ、ここに始めて定まった。

七年、父の憂いで官を去った。起復して都水監となった。黄河が李固で決壊し、詔して肅に視察させた。還って奏上して言うには、「決壊した河水が六分、旧来の河水が四分である。今、決壊した河を障塞して故道に復し一つにすれば、再び決壊して南へ向かえば南京が憂い、再び決壊して北へ向かえば山東・河北ともに憂うべきこととなる。李固の南に堤を築いて止め、両河を分流させ、水勢を殺ぐ方が便利です」と。帝はこれに従った。

大理卿に改める。尚輦局の本把石抹阿裏哥が釘鉸匠の陳外兒と共に宮中の造車用銀釘葉を盗み、梁肅は阿裏哥が監臨の身であるとして、首犯とすべきと主張した。他の寺官は陳外兒を首犯とし、死罪に処した。上(世宗)は言った、「罪に疑わしきは軽きに従え、各々死を免じ、五年の徒罪、除名とする」と。当時、東京は久しく治まらず、上は自ら梁肅を選び同知東京留守事とした。中都都転運使に遷り、吏部尚書に転ずる。台諫について上疏し、その大意は、「台官は大夫より監察に至るまで、諫官は大夫より拾遺に至るまで、陛下自ら選ぶべきであり、宰相に委ねるべきではない。私恩を植え、言路を塞ぐ恐れがあるからである」というものであった。上はこれを嘉納した。また奴婢に羅の服を着せることを禁ずるよう請うと、上は言った、「近く奴婢の明金の服を禁じたばかりである。漸次行うがよい」と。梁肅は同安主簿の高旭を推挙し、平陽酒使に任じられたが、梁肅は奏上して言った、「明君は人を用いるに、必ずその器に応じて使うものである。高旭は儒士であり、民を治めることに優れている。もし彼をして酒肆に座らせ、酒酤を専売させれば、その能くするところではない。臣愚かにも考えるに、諸道の塩鉄使は従前通り文武官を参注し、その酒税使副は右選(武選)の三差(三度の差遣)が全て最上である者を以てこれに当たらせるべきです」と。上は言った、「善し」と。刑部尚書に改める。

宋主(孝宗)はしばしば国書を立って受け取る儀礼を免じるよう請うたが、世宗は従わなかった。大興尹の璋が十四年(大定十四年)の正旦使となった時、宋主は人を遣わして館において国書を奪い取り、多額の賄賂を与えた。璋が帰還すると、杖一百五十を加えられ、除名された。梁肅を宋国詳問使とし、その国書には略してこうあった、「盟書に記載されたのは、帝に皇の字を加えること、奉表・称臣・称名・再拝を免じること、歳幣を量り減ずること、旧儀を用いて親しく国書を受け取ること、に止まる。この礼が定まってより、今に十年を経た。今、歳元の国信使が彼の地に到着し、礼例に依らず引見せず、直ちに館において迫り取らせたと聞く。侄たる国の礼体、かくの如くであるべきか?往きてその詳細を問え。誠を以て報ずるべし」と。梁肅が宋に至ると、宋主は一つ一つ約束通り、立って国書を受け取った。梁肅が帰還する際、謝書を添えさせた。その略は、「侄たる宋皇帝謹んで再拝し、書を叔たる大金応天興祚欽文広武仁徳聖孝皇帝の闕下に致す。ただ十年盟約を遵ぶこと久しく、一毫も成約に違うことなし。ただ礼文を顧みるに、折衷を存すべきなり。ましてや函封の賜りを辱うし、なお躬受の儀に循うは、既に輿情に俯迫せられ、嘗て屡々誠請を伸べしにより、歳元の来使に因り、遂に商榷して権に従う。敢えて将命の還るを労し、先ず鄙悰の懇りを布く。自余は専使の梁肅をして請祈を控えしむ」というものであった。梁肅が泗州に帰り着くと、先に都管の趙王府長史駝満蒲馬を遣わして入奏させた。世宗は大いに喜び、梁肅を執政にしようとしたが、左丞相の良弼が言った、「梁肅は宰相と為し得る人物ですが、宋より帰還したばかりでこれを任じれば、宋人はこれより我を軽んずるでしょう」と。上はそこでやめた。

久しくして、済南尹となり、上疏して言った、「刑罰は世により軽く世により重し。漢の文帝が肉刑を除いて以来、徒罪に至る者は足枷を付けて労役に就き、年限が満ちればこれを釈放し、家に兼丁(他の働き手)のない者は、杖刑を加えて徒罪に准じた。今、遼の末世の法を採り、徒一年の者に杖一百を加えるのは、一つの罪に二つの刑であり、刑罰の重さは、ここに極まれりである。今、太平の日永く、中典を用いるべき時に、役所はなお重法を用いており、臣は実にこれを痛む。今より徒罪の者は、ただ居作(労役)に服するのみとし、更に決杖しないように」と。返答はなかった。

間もなく、致仕したが、起復されて彰徳軍節度使となり、召されて参知政事に拝された。上は侍臣に言った、「梁肅は治績が異等であったため、遂に大任に至った。廉吏もまたこれによって勧められるであろう」と。梁肅は奏上した、「漢の羽林軍は、皆『孝経』に通じていた。今の親軍は、即ち漢の羽林である。臣は乞う、毎百戸ごとに『孝経』一部を賜い、これを教読させ、臣子の道を知らしめ、その出職(官職に就く)する時には、政事を知り得るようにさせたい」と。上は言った、「善し。人の行い、孝より大なるは莫し。これまた教えられて後能くするものなり」と。詔して護衛と共に賜うこととした。また上奏して言った、「方今、斗米三百文であり、人は既に困窮し飢えている。これは銭が得難いためである。天下の歳入は二千万貫以上と計上され、一年の用度を除いて千万余る。院務・坊場及び百姓が納めるべき銭を、通じて数百万減ずる。院務・坊場の納銭は穀帛に折納することを許し、官兵の俸給を折支(現物支給)すれば、銭が民間に散布され、少しずつ得易くなるでしょう」と。上は言った、「滞納している院務の銭は、折納を許すことはできよう」と。

梁肅は生財と用度の緩和について八事を論じる上疏をした。第一は随司の通事を罷めること。第二は酒税司の杓欄人を罷めること。第三は天水郡王(宋の徽宗)の本族は既に生存者がおらず、その余は皆遠族であるので、養済を罷めること。第四は随司の契丹吏員を裁減すること。第五は醋の専売を罷め、その利を民に与えること。第六は塩価を量り減じ、私塩を行わせず、民をして法を犯させないこと。第七は各路の酒税を諸物への折納を許すこと。第八は今年は大いに豊作であるので、広く粟麦を買い入れ、銭貨を流出させること。上は言った、「趙氏の養済一事は、国家の美政である。罷めることはできない。その七事については、宰相が詳しく議して奏上せよ」と。上はまた言った、「朕が位について二十余年、海陵王(廃帝亮)の失政を鑑み、屡々改作を行ったが、また免れがたく誤りや過ちもある。卿らは心を尽くして奏上せよ」と。梁肅は論じた、「正員の官が差遣に出され、権摂官が公罪を犯し、正員が任に還った場合、皆去官として論ぜずとされるため、往々にしてその人は苟且に事を為し、その職務に専念しない。県令の中に十人を留めて差遣に備え、正員の官を差遣に出さないことを乞う」と。上は言った、「今より権摂官が公罪を犯した場合、正員が還任しても本職が替わっていなければ、去官として論ぜず」と。梁肅は言った、「誠に聖旨の通りでございます」と。梁肅が宰相と共に奏事し、既に罷めた後、跪いて言った、「四時の田猟は、古礼ではあるが、聖人もまたこれを戒めとされた。陛下は春秋高く、時は厳寒に属します。山林の間を馳騁なさいますが、法宮に安んじてお過ごしになることも、また神をなごませるに足ります。宗社のために御自愛あらんことを願い、天下の福でございます」と。上は言った、「朕の諸子は方に壮年である。彼らに武を習わせるため、時折一度行くだけである」と。

同知震武軍節度使の鄧秉鈞が四事を陳言した。その一つに、地方に欠官が多く、また資格に循って擬注するため人を得ない、とあった。上は宰相の張汝弼にこれを問うと、汝弼は言った、「資格に循うことは行われて久しく、旧に仍った方が宜しいでしょう」と。梁肅は言った、「そうではありません。亡びた遼は固より言うに足りませんが、その用人之法には、仕官して四十年敗事なき者があれば、即ち節度使に与えるというものがありました。必ずしも資格に循う必要はないのです」と。上は言った、「仕官四十年は既に衰老している。その政績を察し、善き者はこれを昇進させ、後任の政績を再び察し、善き者はまたこれを昇進させる。このようにすれば人を得ることができ、また事をむなしくすることもない」と。梁肅は言った、「誠に聖訓の通りでございます」と。梁肅が盗賊が止まないことを論じ、兵器を禁じないよう請うた。上は言った、「所在に兵器があるが、その利害は如何なるものか」と。梁肅は言った、「他の路はともかく、中都路だけは農夫にこれを置くことをゆるしても、害は無いようです」と。上は言った、「朕考えよう」と。

凡そ宋に使する者には、宋人は礼物を致す。大使には金二百両、銀二千両、副使はその半、幣帛雑物もこれに相当する。物力(資産)の推排(調査)が行われた時、梁肅は自ら執政の身であり、かつて宋に使いし、得た礼物が多いとして、率先して庶民の模範となるべきと考え、自ら物力を六十余貫増加させた。論者はこれを称えた。

二十三年(大定二十三年)、梁肅は老齢を理由に致仕を請うた。上は宰臣に言った、「梁肅は知ることを言わざるなく、正人である。卿らは知りながら言わない。朕は実にこれを卑しむ。とはいえ、梁肅は老いた。その請いに従うがよい」と。遂に再び致仕した。詔してその子の汝翼を閣門祗候とした。二十八年、薨去。諡は正憲。

移剌慥

移剌慥は、本名を移敵列といい、契丹の虞呂部の人である。契丹文字と漢字に通じ、尚書省に召されて契丹令史となり、知除を兼ね、右司都事に抜擢された。正隆年間の南征に際しては、契丹・漢字両司の都事を兼ねた。大定二年、真定少尹に任じられ、入朝して侍御史となった。母の喪で官を去った。喪中に起用されて右司員外郎となり、累進して陳州防禦使となった。左丞相の紇石烈良弼が致仕する際、上(世宗)が「誰が卿に代わり得るか」と問うと、良弼は「陳州防禦使の移剌慥は清廉で忠直、臣は及びません」と答えた。そこで召されて太府監となった。後に刑部侍郎に改めた。

十九年、按出虎など八猛安を、河南から大名・東平の境に移住させた。後に大理卿に戻り、詔を受けて制度条令の改定を主管した。初め、皇統年間に隋・唐・遼・宋の律令を参酌して皇統制条が定められたが、海陵王の苛法は恣意的な変更が多く、同罪異罰や軽重不均衡、条文の重複や冗長な表現があり、官吏は従うべきところを知らず、法を曲げて私利を図った。慥は皇統の旧制と海陵王の追加法令をとりまとめて校定し、矛盾を解消し、煩雑な部分を簡略化した。事例に該当するが条文にないものは例によって補い、特に欠けているものは律によって増補した。凡そ制律に該当せず疑わしく参決できないものは、上旨を仰いで決定した。特旨による処分や臨時の条例で恒常的に行えるものは、永久の格式として収録した。その他削除できないものは別部とした。総計一千百九十条、十二巻である。書が奏上されると、詔によって頒行され、銀貨・絹帛を賜った。まもなく、山東の猛安八謀克を摘発して河北東路に移し、酬斡・青狗児両猛安の旧居の地に置き、詔して牛を持たぬ耕作人には牛を買い与えた。御史大夫を兼ねた。数か月後、御史中丞に改め、同修国史を兼ね、刑部尚書に転じ、さらに吏部尚書に改めた。まもなく大興尹に改めた。上(世宗)が上京に行幸し、顕宗(太子允恭)が国を守った時、使者を遣わして諭して言った。「大駕が東巡して以来、京尹(子敬)の治績は甚だ善い。我が春水の行(春蒐)を行うに当たり、一層その職務に勤しむべし」。帰還後、獲った鵞鴨を賜った。病気で休暇をとると、官医を遣わして診察させた。再び刑部尚書となった。上が上京から還ると、西京留守とし、臨洮尹に改め、任地で卒した。

移剌子敬

移剌子敬は、字を同文といい、本名は屋骨朵魯、遼の五院の人である。曾祖父の哥は同平章事であった。父の抜魯は準備任使官であった。都統の杲が中京を攻略すると、遼主は西走し、抜魯に輜重の監督を任せたが、やがて輜重は掠奪され、抜魯は自ら髪を剃り、山林に逃れた。子敬は読書好学で、皇統年間、特進の移剌固が『遼史』を編修する際、掾属に召された。『遼史』が完成すると、同知遼州事に任じられた。旧来、州の役人は自ら占有する土地があり、歳入数百貫を得ていたが、州官は毎年その租税を取り立て、地主も慣例としており、誰も異議を唱えなかった。子敬は言った。「既に公田があるのに、どうしてさらに民田を取るのか」。ついに取らなかった。任期が満ちると、郡人が行台省に留任を請願したが、許されなかった。天徳三年、入朝して翰林修撰となり、礼部郎中に昇進した。

正隆元年、諸将が辺境を巡視する際、詔して子敬に監戦を命じた。軍帥が戦利品を将士に分け与える時、子敬にも贈ったが、子敬は受け取らなかった。帰還後、入朝して謁見すると、海陵王は言った。「汝は家が貧しいのに苟も得ようとせず、俘獲を受け取らなかった。朕は甚だ賞賛する」。同行した官僚が取ったものはすべて官に没収された。その後、詔して子敬に諸部族への宴賜を命じ、諭して言った。「通常、進貢を受けるのは宰臣を遣わすが、汝が以前職務をよく果たしたので、特に汝を命じる」。使いから戻ると、翰林待制に昇進した。大定二年、待制として同修国史となった。この時、窩斡の残党が諸猛安謀克の中に散居していたので、詔して子敬を派遣して慰撫させ、併せて猛安謀克及び州県の漢人に、以前の戦争での殺傷を理由に怨みを抱き、契丹人を害してはならないと宣諭させた。使いから戻ると、秘書少監に改め、起居注の編修を兼ね、国史編修は従前通りとした。詔して言った。「汝が古今に博通しているので、この任を命じる」。しばしば召し出されて古今の事や時政の利害を講論させ、夜半に及ぶこともあった。子敬は良馬を持っており、平章政事の完顔元宜がそれを求めたが、子敬は元宜が宰相であるからと与えなかった。この時、元宜が致仕を願い出て東京に罷免されると、子敬はこの馬を餞別として贈った。識者はこれを正しいと認めた。

この時、僕散忠義が宋を討ち、宋は和を請うたが、国書の形式と疆界は未定であった。子敬は秘書少監の石抹頤・修起居注の張汝弼と便殿に侍した。上(世宗)は言った。「宋主は和議を求めるが、反覆して信義がなく、誇大を好む」。子敬は答えて言った。「宋人は元来虚辞をもって欺き、来書には海陵が採石で敗れ、大軍が北帰する際、兵を抑えて襲撃せず、全軍をして帰還させたとあります。海陵は採石で敗れたことはなく、その詭詐は多くこの類です。返書には、往時大軍がもし長江を渡していたならば、宋国の境土は必ず我が有するところとなったであろうと述べるべきです」。上は言った。「彼は詭詐を用い、我は誠実をもってし、ただ理をもって折伏すべきである」。右諫議大夫に昇進し、起居注は従前通りとした。

上が西京に行幸した時、州県の官は入見できたが、猛安謀克は随班できなかった。子敬は軍民は一体であると奏上し、猛安謀克にも随班して入見させるべきだと請うた。上は嘉納し、宣徽院を責めた。端午の朝会に際し、詔して子敬の奏上に従って行わせた。子敬は、山後の禁猟地が広すぎて百姓の耕墾の妨げになると言上し、上はその言を用いて、四方の猟地を民に与えた。秘書監に昇進し、諫議・起居注は従前通りとした。

子敬は同知宣徽院事の移剌神獨斡・兵部侍郎の移剌按答・太子少詹事の烏古論三合を挙げて自らの後任としたが、上は許さなかった。子敬が同簽宣徽院事の移剌神獨斡と侍っている時、上は言った。「亡びた遼は旧俗を忘れなかった。朕はこれを是とする。海陵は漢人の風俗を学び習うが、これは本を忘れることである。もし国家の旧風に依るならば、四方の境は憂いなく、これが長久之計である」。世宗が涼陘に行こうとした時、子敬は右補闕の粘割斡特剌・左拾遺の楊伯仁と共に奏上した。「車駕が曷裏滸に至れば、西北招討司は行宮の内の地に囲まれてしまいます。界上に移し、遮蔽・環衛とされるよう乞います」。上は言った。「善い」。詔して尚書省に言った。「招討の斜裏虎は界上に移し、蕃部の事を治めよ。都監の撒八は依然として燕子城で猛安謀克の事を治めよ」。

上が侍臣と古の君主の賢否を論じた時、子敬は奏上した。「陛下が凡そ宰臣と謀議される時は、史官に知らせないわけにはいきません」。上は言った。「卿の言う通りである」。簽書枢密院事に転じ、同修国史を兼ね、出向して河中尹となり、老齢を理由に致仕を請うた。河中は地が暑いので、上は子敬が暑さに耐えられぬことを恐れ、興中尹に改めた。子敬の娘が懿州から興中に来て面会したが、途中で盗賊に遭い、行李を掠奪され尽くした。しかしやがて返され、謝罪して言った。「我々は初め府尹の家の方とは知りませんでした。府尹は民に徳があり、どうして侵犯できましょう」。咸平尹・広寧尹に転じた。二十一年、致仕し、家で卒した。七十一歳。子敬はかつて宋に使いし、また諸部の進貢を受けたが、受け取った礼物はすべて親旧に分け与えた。卒した時、家に余財はなく、その子は邸宅を質に入れて葬事を営んだ。

賛して曰く、金の制度において、尚書令しょうしょれい・左右丞相・平章政事、これらを宰相と謂い、左右丞・参知政事、これらを執政と謂う。大抵は唐の官制に因りて稍々異なるのみで、因襲と変革の違いは、疑うに足らぬ。《書経》に曰く、「元首明らかなれば、股肱良く、庶事康し」と。また曰く、「元首叢脞なれば、股肱惰り、萬事隳る」と。宰相と執政と、その道は異なるであろうか。蘇保衡・翟永固・魏子平・孟浩・梁肅は皆、当時の賢なる執政である。移剌慥・子敬はその才を持ち、時に適うも、位に及ばなかったのは、これまた命であろうか。