金史

列傳第二十六:紇石烈良弼、完顏守道、石琚、唐括安禮、移剌道

列傳第二十六:紇石烈良弼、完顏守道、石琚、唐括安禮、移剌道

紇石烈良弼

原文紇石烈良弼

紇石烈良弼は、本名を婁室ろうしつといい、回怕川の人である。曾祖父は忽懶。祖父は忒不魯。父は太宇で、代々蒲輦を世襲し、宣寧に移住した。天会年間、諸路の女直じょちょく字学生を選んで京師に送ることとなり、良弼と納合椿年はともに童丱の年齢でありながら、ともに選中された。この時、希尹が丞相としており、用事で外郡に行く途中、良弼は道中で彼に出会い、遠くから見て嘆じて言った。「我らは丞相の文字を学び、千里を来て京師に至った。当然一度はお目にかかるべきである。」そこで駅舎に入って面会を求め、堂下で拝礼した。希尹が問うて言った。「これはどのような子供か。」良弼は自ら進み出て言った。「役人が推薦した、丞相の文字を学ぶ者です。」希尹は大いに喜び、学んでいることを問うと、良弼は応対し、恐れる色がなかった。希尹は言った。「この子は他日必ず国の優れた人物となるであろう。」数日間留めた。十四歳の時、北京教授となり、学徒は常に二百人であった。当時の人はこれについて言った。「前には穀神(希尹)あり、後には婁室あり。」彼に従って学んだ者は、後に皆名を成した。十七歳の時、尚書省令史に補せられた。簿書に目を通せば、たちまちその奥義を得た。たとえ大きな文書でも、口述で即座に作成し、言葉も道理も適切であった。当時、希尹の学業を学ぶ者の中で第一と称された。吏部主事に任ぜられた。

原文紇石烈良弼,本名婁室,回怕川人也。曾祖忽懶。祖忒不魯。父太宇,世襲蒲輦,徙宣寧。天會中,選諸路女直字學生送京師,良弼與納合椿年皆童丱,俱在選中。是時,希尹為丞相,以事如外郡,良弼遇之途中,望見之,歎曰:「吾輩學丞相文字,千里來京師,固當一見。」乃入傳舍求見,拜於堂下。希尹問曰:「此何兒也?」良弼自贊曰:「有司所薦學丞相文字者也。」希尹大喜,問所學,良弼應對,無懼色。希尹曰:「此子他日必為國之令器。」留之數日。年十四,為北京教授,學徒常二百人。時人為之語曰:「前有穀神,後有婁室。」其從學者,後皆成名。年十七,補尚書省令史。簿書過目,輒得其隱奧。雖大文牒,口占立成,詞理皆到。時學希尹之業者稱為第一。除吏部主事。

天徳初年、累進して吏部郎中となり、右司郎中に改め、秘書少監を借りて宋主の歳元使となった。この時、納合椿年が参知政事であり、良弼の才能が己の右に出ることを推薦し、これによって刑部尚書に用いられ、今の名を賜った。父の喪に服したが、本官のまま起復した。海陵王はかつて言った。「左丞相張浩は事務に練達しているが、甚だ不実である。刑部尚書婁室は言行端正で、諂うところがない。」そこで椿年に向かって言った。「卿は能を挙げたと言えよう。常人は己に勝る者を嫉むが、卿は己に勝る者を挙げた。人より賢いことは遠く及ぶ。」侍衛親軍馬歩軍都指揮使に改めた。良弼の声は清らかで明瞭であり、海陵王が臣下に詔諭する時は、必ず良弼に旨を伝えさせ、聞く者は皆聳動せずにはおらず、この故に常に召し出されて問われた。一年を経ずして、参知政事に拝され、尚書右丞に進み、佩刀を賜って宮中に入ることを許され、左丞に転じた。海陵王が宋を伐つ時、良弼は諫めたが聞き入れられず、右領軍大都督ととくとされた。海陵王が淮南にいる時、良弼に詔して監軍の徒単貞とともに上京・遼右を撫定させた。やがて、諸軍はしばしば道中で逃亡して北帰し、世宗が遼陽で即位したので、良弼は汴京に還った。

原文天德初,累官吏部郎中,改右司郎中,借秘書少監為宋主歲元使。是時,納合椿年為參知政事,薦良弼才出己右,用是為刑部尚書,賜今名。丁父憂,以本官起復。海陵嘗曰:「左丞相張浩練達事務,而頗不實。刑部尚書婁室言行端正,無所阿諂。」因謂椿年曰:「卿可謂舉能矣。常人多嫉勝己者,卿舉勝於己者,賢於人遠矣。」改侍衛親軍馬步軍都指揮使。良弼音吐清亮,海陵詔諭臣下,必令良弼傳旨,聞者莫不聳動,以故常被召問。不逾年,拜參知政事,進尚書右丞,賜佩刀入宮,轉左丞。海陵伐宋,良弼諫不聽,以為右領軍大都督。海陵在淮南,詔良弼與監軍徒單貞撫定上京、遼右。既而,諸軍往往道亡北歸,而世宗即位于遼陽,良弼乃還汴京。

海陵王が死ぬと、世宗は直ちに良弼を南京留守兼開封尹とし、さらに河南都統を兼ねさせ、召して尚書右丞に拝した。世宗は良弼に言った。「卿はかつて正隆(海陵王)が宋を伐つことを諫めたが、卿の言を用いなかったために、ついに廃滅に至った。当時、禄を貪り安きに就いた者どもは、朕が皆これを罷免した。今再び卿を用いる。およそ国家の事について、思い残すことなく言え。再び顧慮するな。」良弼は頓首して謝した。窩斡が陷泉で敗れ、奚の中に入った時、良弼に詔して金牌及び銀牌四枚を佩びさせ、北京へ行って奚・契丹を招撫させた。還ると、尚書左丞に拝した。上言して言った。「祖宗以来、功労を記録し賞していない者を、臣が考按したところ凡そ三十二人あり、差第を設けて封賞すべきです。」詔して言った。「既に五品以上の官にある者は、聞奏せよ。六品以下及び官のない者は、尚書省が酌量して遷除せよ。」これより功労はことごとく賞せられた。平章政事に進拝され、宗国公に封ぜられた。

原文海陵死,世宗就以良弼為南京留守兼開封尹,再兼河南都統,召拜尚書右丞。世宗謂良弼曰:「卿嘗諫正隆伐宋,不用卿言,以至廢殞。當時懷祿偷安之人,朕皆黜之矣。今復用卿,凡於國家之事,當盡言,無復顧忌也。」良弼頓首謝。窩斡敗於陷泉,入奚中,詔良弼佩金牌及銀牌四,往北京招撫奚、契丹。還,拜尚書左丞。上言:「祖宗以來未錄功賞者,臣考按得凡三十二人,宜差第封賞。」詔曰:「已有五品以上官者,聞奏。六品以下及無官者,尚書省約量遷除。」自是功勞畢賞矣。進拜平章政事,封宗國公。

初め、山東両路の猛安もうあん謀克ぼうこくが百姓と雑居していたので、良弼に詔して適宜に改置を図らせ、百姓と別に聚居させ、民田と互いに犬牙の如く入り組んでいる所は、皆官田をもって対換させた。これより再び争訟はなくなった。六年十一月、皇太子の誕生日に、上は東宮で酒宴を設け、良弼・志寧に同じく酒を賜った。上は言った。「辺境に事なく、内外晏然たるは、将相の力である。」良弼が奏して言った。「臣ら不才ながら、宰相の位を備え、敢えて犬馬の力を尽くさないことがありましょうか。」上は喜んだ。右丞相に進拝され、国史監修を兼ねた。世宗は良弼に言った。「海陵王の時、記注は皆完備していない。人君の善悪は、万世の戒めとするものである。記注が遺逸すれば、後世何を見るというのか。史官に命じて広く求めて書かせよ。」また言った。「五従以上の宗室で省に祗候している者で、才能の用いるべきものがあれば、名を具えて聞奏せよ。猥りに冗多で官に臨むに足らぬ者も、聞奏して罷去せよ。」左丞完顏守道が奏して言った。「近都の両猛安では、父子兄弟がしばしば分居し、その得た土地では養うことができず、日増しに困窮しております。」上が宰臣に問うと、良弼は対えて言った。「必ず父兄が聚居しようとすれば、分かち得た土地をもって土民と相換易すべきです。暫くは煩わしいが、長久には甚だ便利です。」右丞石琚が言った。「百姓が各々その業に安んじているので、旧のままの方が良いでしょう。」上はついに良弼の議に従った。『太宗実録』が完成し、良弼に金帯・重彩二十端を賜り、同修国史の張景仁・曹望之・劉仲淵以下には差等を設けて賜った。

原文初,山東兩路猛安謀克與百姓雜居,詔良弼度宜易置,使與百姓異聚,與民田互相犬牙者,皆以官田對易之,自是無復爭訴。六年十一月,皇太子生日,上置酒於東宮,良弼、志寧同賜酒。上曰:「邊境無事,中外晏然,將相之力也。」良弼奏曰:「臣等不才,備位宰相,敢不竭犬馬之力。」上悅。進拜右丞相,監修國史。世宗謂良弼曰:「海陵時,記注皆不完。人君善惡,為萬世勸戒,記注遺逸,後世何觀?其令史官旁求書之。」又曰:「五從以上宗室在省祗候者,才有可用,具名聞奏。其猥冗不足蒞官者,亦聞奏罷去。」左丞完顏守道奏:「近都兩猛安,父子兄弟往往析居,其所得之地不能贍,日益困乏。」上以問宰臣,良弼對曰:「必欲父兄聚居,宜以所分之地與土民相換易。雖暫擾,然經久甚便。」右丞石琚曰:「百姓各安其業,不若依舊便。」上竟從良弼議。《太宗實錄》成,賜良弼金帶、重彩二十端,同修國史張景仁、曹望之、劉仲淵以下賜有差。

世宗が侍臣と古今の臣下の賢・不肖を論じ、宰相に向かって言った。「皇統・正隆年間には臣僚を多く殺し、しばしばその罪に非ずして死んだ。朕は卿らに大政を委ねる。道に背いて自ら陥ることなかれ。曲げて従って朕を誤ることなかれ。忠と孝とにのみ励み、匡救輔益し、太平を致すことを期せ。」良弼は対えて言った。「臣らは過分に嘉恵を蒙り、浅薄ではありますが、敢えて心を尽くさないことがありましょうか。聖諭諄諄たるに、臣らは万幸に勝えません。」良弼は榷場で馬を買うことについて請い、牝牡に拘るなとし、「今、官馬は甚だ少なく、一旦辺境に警報があれば、民から調達することになり、遅くはないでしょうか。」上はこれに従った。八年、侍衛親軍を選んだが、世宗はその中に弓矢ができない者が多いと聞き、詔して習射させた。間もなく、良弼及び平章政事思敬に問うて言った。「女直人の習射はまだ行われていないのか。」良弼は対えて言った。「既に行われております。」同知清州防御事常德暉が上書して言った。「吏部の格法は、年功のみを叙し、才能があっても下位に拘滞しております。刺史・県令は、多く適任を得ておりません。密かに訪察を加え、その後廉問することを乞います。今、酒税使には尚能吏を選んでいるのに、県令は人材を択ばないのでしょうか。酒税使に当たるべき能吏を、親民の職に任ずることを乞います。」上はこの言を是とし、宰相に言った。「朕は思うに、多くの職務に適任を得ておらず、夜中に目覚め、あるいは夜明けまで眠れぬことがある。卿らは注意して選択せよ。朕も密かに体察を加えよう。」良弼は対えて言った。「女直・契丹人は、かつて漢人の文字を習った者でなければなりません。方今、大率多くは党与あずかを為し、あるいはここで称誉され、あるいはあちらで毀られるので、難しいのです。」上は言った。「朕が密かに体察を命ずる所以である。」上は良弼に言った。「猛安謀克の牛頭税粟は、本来凶年に備えるものであり、凡そ水旱で糧を欠く所では就いて賑給すべきである。」左丞相に進拝され、国史監修は従前の如くであった。

原文世宗與侍臣論古今為臣孰賢不肖,因謂宰相曰:「皇統、正隆多殺臣僚,往往死非其罪。朕委卿等以大政,毋違道以自陷,毋曲從以誤朕。惟忠惟孝,匡救輔益,期致太平。」良弼對曰:「臣等過蒙嘉惠,雖譾薄,敢不盡心。聖諭諄諄,臣等不勝萬幸。」良弼請於榷場市馬,毋拘牝牡,「今官馬甚少,一旦邊境有警,乃調於民,不亦晚乎。」上從之。八年,選侍衛親軍,世宗聞其中多不能弓矢,詔使習射。頃之,問良弼及平章政事思敬曰:「女直人習射尚未行耶?」良弼對曰:「已行之矣。」同知清州防禦事常德暉上書言:「吏部格法,止敘年勞,雖有材能,拘滯下位。刺史、縣令,多不得人。乞密加訪察,然後廉問。今酒稅使尚選能吏,縣令可不擇人才,乞以能吏當任酒稅使者,任親民之職。」上是其言,謂宰相曰:「朕思庶職多不得人,中夜而寤,或達旦不能寐。卿等注意選擇,朕亦密加體察。」良弼對曰:「女直、契丹人,須是曾習漢人文字,然後可。方今大率多為黨與,或稱譽於此,或見毀於彼,所以難也。」上曰:「朕所以密令體察也。」上謂良弼曰:「猛安謀克牛頭稅粟,本以備凶年,凡水旱乏糧處就賑給之。」進拜左丞相,監修國史如故。

良弼が宰相となって既に久しく、朝政に練達し、上(世宗)の諮問に誠を尽くして奏上し、垂紳正笏して声色を動かさず、政議は多く上意に叶った。母の喪に服して去り、起復して旧職に就いた。この時、夏国王李仁孝が国の半分を分けてその臣任得敬に封じることを乞うた。上は群臣に問うと、群臣は多くこれ外国の事であるから、従ってもよいと言った。上は曰く、「これは仁孝の本心ではない、従うことはできない」と。良弼の議は上意と合致した。既にして、夏国は果たして任得敬を誅し、上表して謝した。参知政事宗敘が沿辺に壕塹を設けることを請うと、良弼は曰く、「敵国が果たして来伐すれば、これどうして防ぐことができようか」と。上は曰く、「卿の言う通りである」と。高麗国王王晛がその弟皓に国を譲ることを上表すると、上はこれを疑い、宰相良弼に問うた。良弼は策を立てて、譲国は王晛の本心ではないと論じた。その後、趙位寵が四十州を以て来附することを求めたが、その上表は果たして王皓がその兄晛を弑したと述べており、良弼の策の通りであった。語は『高麗伝』中にある。

原文良弼為相既久,練達朝政,上所詢訪盡誠開奏,垂紳正笏不動聲氣,議政多稱上意。以母憂去,起復舊職。是時,夏國王李仁孝乞分國之半,以封其臣任得敬。上以問群臣,群臣多言此外國事,從之可也。上曰:「此非是仁孝本心,不可從。」良弼議與上意合。既而,夏國果誅任得敬,上表來謝。參知政事宗敘請置沿邊壕塹,良弼曰:「敵國果來伐,此豈可禦哉?」上曰:「卿言是也。」高麗國王王晛表讓國于其弟皓,上疑之,以問宰相良弼。良弼策以為讓國非王晛本心。其後趙位寵求以四十州來附,其表果言王皓弑其兄晛,如良弼策,語在《高麗傳》中。

世宗が採訪官を罷め、宰臣に謂いて曰く、「官吏の善悪は、何によって知るか」と。良弼対えて曰く、「臣等は陛下のために訪察すべきです」と。『睿宗実録』を進めたことにより、通犀帯と重彩二十端を賜った。この年、南郊に事(祭祀)があり、良弼が大礼使となった。収国以来、未だ嘗てこの礼を行ったことがなく、歴代の典故も多く異なるので、良弼は討論して損益し、各々その宜しきに合せた。人はその才能に服した。上は良弼・守道と論じて、猛安謀克の官が多年幼く、教訓に習わず、長幼の礼がないことについて、昔は郷里の老者が直ちにこれを教導した。今郷里の中に耆老で教導できる者がいるが、或いは事は己に在らずとして問わず、或いはその職でないとして人が従わない。漢制に依って郷老を置き、廉潔正直で師範と為し得る者を選び、これを教導させるべきである。良弼奏して曰く、「聖慮ここに及ぶは、億兆の福です」と。他日、上問うて曰く、「朕が前史を観るに、下位に在りて国家を存心し、直言して民の為にする者がある。今その人無し、何ぞや」と。良弼曰く、「今どうしてその人無からんや。直道を行えば、却って謗毀され、禍その身に及び、これをもって為さないのです」と。

原文世宗罷採訪官,謂宰臣曰:「官吏之善惡,何由知之?」良弼對曰:「臣等當為陛下訪察之。」以進《睿宗實錄》,賜通犀帶、重彩二十端。是年,有事南郊,良弼為大禮使。自收國以來,未嘗講行是禮,歷代典故又多不同,良弼討論損益,各合其宜,人服其能。上與良弼、守道論猛安謀克官多年幼,不習教訓,無長幼之禮。曩時鄉里老者輒教導之。今鄉里中耆老有能教導者,或謂事不在己而不問,或非其職而人不從。可依漢制置鄉老,選廉潔正直可為師範者,使教導之。良弼奏曰:「聖慮及此,億兆之福也。」他日,上問曰:「朕觀前史,有在下位而存心國家,直言為民者。今無其人,何也?」良弼曰:「今豈無其人哉。蓋以直道而行,反被謗毀,禍及其身,是以不為也。」

大定十四年、歳は甲午に在り、大興尹璋が賀宋正旦使となったが、宋人が館に就いてその国書を奪った。詔して梁肅に詳問させた。衆議紛紛として、凡そ午年には必ず兵を用いると謂う。上は良弼に問うと、対えて曰く、「太祖皇帝は甲午年に遼を伐ち、太宗皇帝は丙午年に宋を克ちました。今茲宋人が我が国書を奪い、而して適に午年に在る故に、この語があるのであり、必ずしも然らず」と。既にして、梁肅が宋に至ると、宋主は起立して国書の授受を行い、旧儀の如くであった。梁肅が既に還ると、宋主は工部尚書張子顔・知閣門事劉灊を遣わして祈請し、その書に曰く、「言念眇躬、夙に大統を承く。上国の照臨の恵みに荷い、盟を尋ねて遂に十年を閲す。両朝聘問の勤めを修め、好を継ぎて一日も忘れず。惟ねがだ是れ函書の受くるに、当に賓接の儀を新たにすべし。嘗て臆を空しくして屡陳し、行人を飭して再請す。眷顧を仰ぎ祈り、矜従を俯して賜え」と。上は大臣と議し、良弼奏して曰く、「宋国は臣と称することを免じて姪と為し、奉表することを免じて書と為し、恩賜も既に多し。今又親しく国書を受けることを免じようと乞うは、厭くこと無きなり。必ず従うべからず」と。平章政事完顔かんがん守道・参知政事移剌道は良弼の議に合した。左丞石琚・右丞唐括安禮は、その請いを従わねば、必ず用兵に至ると為した。上は琚等に謂いて曰く、「卿等の言う所は非なり。請う所にこれより大なる有らば、更に従わんと欲するか」と。遂に良弼の議に従い、その書に答え、略して曰く、「定分の常を循らず、復た授書の請い有り。大統を承くを謂い、愈々自尊を見す。奈何ぞ以て若しの為す所を以て、尚お其の欲を求む。況んや已に行わるるの礼と曰い、更うるを得ず」と。その授受の礼儀は、終に復た改めず。

原文大定十四年,歲在甲午,大興尹璋為賀宋正旦使,宋人就館奪其國書,詔梁肅詳問。眾議紛紛,謂凡午年必用兵,上以問良弼,對曰:「太祖皇帝以甲午年伐遼,太宗皇帝以丙午年克宋,今茲宋人奪我國書,而適在午年,故有此語,未必然也。」既而,梁肅至宋,宋主起立授受國書,如舊儀。梁肅既還,宋主遣工部尚書張子顏、知閣門事劉灊來祈請,其書曰:「言念眇躬,夙承大統。荷上國照臨之惠,尋盟遂閱於十年。修兩朝聘問之勤,繼好靡忘於一日。惟是函書之受,當新賓接之儀。嘗空臆以屢陳,飭行人而再請。仰祈眷顧,俯賜矜從。」上與大臣議,良弼奏曰:「宋國免稱臣為侄,免奉表為書,恩賜亦已多矣。今又乞免親接國書,是無厭也,必不可從。」平章政事完顏守道、參知政事移剌道與良弼議合。左丞石琚、右丞唐括安禮以為不從所請,必至於用兵。上謂琚等曰:「卿等所言,非也。所請有大於此者,更欲從之乎。」遂從良弼議,答其書,略曰:「弗循定分之常,復有授書之請。謂承大統,愈見自尊。奈何以若所為,尚求其欲。矧曰已行之禮,靡得而更。」其授受禮儀,終不復改。

上は宰臣に問うて曰く、「嘗て内外の官に賢能を挙げることを求めたが、未だ挙ぐる者あるを聞かず、何ぞや」と。参政魏子平は、挙げるべき者に毎任一人を挙げさせ、その当否を視て賞罰と為すことを請うた。上は曰く、「宋の制では薦挙し、その人が私罪を犯せば、挙主は宰執に至るも亦坐して降罰される。人心に恒有る者は鮮く、財利が前に怵おびやかせば、或いはその守る所を喪う。宰臣は任大にして責重し、豈にこれを以て升黜と為さんや」と。良弼曰く、「前詔では朝官六品以上、外官五品以上に、各々知る所を挙げしめた。何ぞ前詔を申明せざる」と。これに従った。上は曰く、「朕は官吏の善悪を周知せんと欲する。若し尋常に官を遣わして採訪すれば、用うる者その人に非ざるを恐る。然らば則ち官吏の善悪は何を以てか知る」と。良弼曰く、「臣等は陛下のために訪察すべきです」と。上は曰く、「然り、但だ名実を混淆せしむるなかれ」と。上は窩斡の逆党を徙うつし、分散して遼東に置かんと欲した。良弼奏して、「此の輩は既に赦宥を受け、徙せば怨望を生じます」と。上は曰く、「これは目前の利害である。朕は子孫後世の為に慮るなり」と。良弼曰く、「臣等の及ぶ所に非ず」と。ここにおいて嘗て乱に預かった者を以て烏古裏石壘部に徙居させた。上は宰臣に問うて曰く、「堯には九年の水有り、湯には七年の旱有りしも、而して民は饑えを病まざりき。今一二歳登らずして、人民食に乏し、何ぞや」と。良弼対えて曰く、「古は地広く人淳にして、節儉を崇尚し、而して又農を是れ務むるのみ。故に蓄積多くして饑饉の患い無し。今は地狭く民衆く、又多く本を棄てて末に逐い、耕す者少なく、食する者衆し。故に一たび凶歳に遇うて民已に病む」と。上は深くこれを然りとし、ここにおいて有司に命じて荒縦にして生業を務めざる者を懲戒せしめた。

原文上問宰臣:「嘗求內外官舉賢能,未聞有舉者,何也?」參政魏子平請當舉者每任須舉一人,視其當不,以為賞罰。上曰:「宋制薦舉,其人犯私罪者,舉主雖至宰執,亦坐降罰。人心有恆者鮮,財利怵於前,或喪其所守。宰臣任大責重,豈坐是以為升黜邪?」良弼曰:「前詔朝官六品以上,外官五品以上,各舉所知,盍申明前詔?」從之。上曰:「朕欲周知官吏善惡,若尋常遣官採訪,恐用非其人。然則官吏善惡,何以知之?」良弼曰:「臣等當為陛下訪察。」上曰:「然,但勿使名實混淆耳。」上欲徙窩斡逆黨,分散置之遼東。良弼奏:「此輩已經赦宥,徙之生怨望。」上曰:「此目前利害,朕為子孫後世慮耳。」良弼曰:「非臣等所及也。」於是以嘗預亂者徙居烏古裏石壘部。上問宰臣曰:「堯有九年之水,湯有七年之旱,而民不病饑。今一二歲不登,而人民乏食,何也?」良弼對曰:「古者地廣人淳,崇尚節儉,而又惟農是務,故蓄積多,而無饑饉之患也。今地狹民眾,又多棄本逐末,耕之者少,食之者眾,故一遇凶歲而民已病矣。」上深然之,於是命有司懲戒荒縱不務生業者。

十七年、病を以て相位を辞せんとすれども、許されず。告暇満百日に及び、詔して告暇を賜い、太醫を遣わして診視せしめ、しばしば中使をして病状を問わしむ。良弼告暇中既に久しく、省中滞事多し。上、宰相・参政に問う。張汝弼対えて曰く、「無し」と。上曰く、「豈に無しと謂わんや。今より後、疑事久しく決すること能わざる者は、当に具さに以て聞かすべし」と。十八年、表を上りて致仕し田里に帰らんことを乞う。上、使を遣わして慰諭して曰く、「卿比来疾を以て告暇中なるも、朕甚だ之を憂う。今卿西京に往きて疾を養わんとすと聞く。彼の地の風土は、老疾の宜しき所に非ず。京師にては人事に倦み、若し近き都の佳郡に居処し、疾の少しく間あるを待ち、速やかに朕に之を知らしむべし」と。良弼奏して曰く、「臣聖明に遭遇し、濫りに大任に膺え、夙夜憂懼し、以て疾を成すに至る。比来聖恩を蒙り、数えしばしば使を遣わして存問し、医薬を賜う。臣の苟くも活きて今に至るは、皆陛下の賜う所なり。臣豈に郷里に到りて便ち疾を愈やすことを望まんや。臣郷を去ること歳久しく、親識多く已に亡没し、惟だ老臣独り在るのみ。郷土の恋しみ、誠に忘るる能わず。臣窃に惟うに、自来人臣人主の知を受くること、臣に逾ぐる者無し。臣粉骨砕身すと雖も、以て報いんとするに無し。若し一たび郷社に還り、親旧に見ゆるを得ば、則ち死すとも恨み無からん」と。上、宰相に問いて曰く、「丞相良弼必ず郷里に帰らんと欲す。朕世襲猛安を以て其の子符寶曷答に封じ、之をして侍行せしむるは、如何」と。右丞相完顏守道曰く、「猛安を授けて良弼にし、其の子をして事を摂せしむるに若かず」と。上之に従う。ここに於て胡論宋葛猛安を授け、丞相の俸傔を給し、良弼乃ち致仕して帰る。上、宰相に謂いて曰く、「卿等尽くさざるに非ず、但だ才力良弼に及ばず、故に其の去るを惜しむなり」と。其の後、尚書省差除を奏す。上曰く、「丞相良弼差除を擬注するに、嘗て苟くも当を得ざる者に与せず、而して薦挙往々人を得たり。粘割斡特剌・移剌綎・裴満余慶、皆其の挙ぐる所なり。私門の請託に至りては、絶然として之無し」と。嘗て良弼に問う、「毎旦暮日色皆赤し、何ぞや」と。良弼曰く、「旦にして色赤きは応に東に在り、高麗之に当たるべし。暮れて色赤きは応に西に在り、夏国之に当たるべし。願わくは陛下徳を修めて以て天に応ぜば、則ち災変自ずから弭まん」と。既にして夏国に任徳敬の乱有り、高麗に趙位寵の難有り。其の言皆験する云う。是歳、薨ず。年六十。上悼惜し、太府監移剌綎・同知西京留守王佐を遣わして勅葬祭奠使と為し、白金・彩幣を賻して等を加え、喪葬皆官給に従う。金源郡王を追封し、翰林待制移剌履を命じて墓碑に銘を勒せしめ、諡して誠敏と曰う。

原文十七年,以疾辭相位,不許。告滿百日,詔賜告,遣太醫診視,屢使中使問疾。良弼在告既久,省多滯事,上以問宰相、參政,張汝弼對曰:「無之。」上曰:「豈曰無之。自今疑事久不能決者,當具以聞。」十八年,表乞致仕歸田里,上遣使慰諭之曰:「卿比以疾在告,朕甚憂之。今聞卿將往西京養疾,彼中風土,非老疾所宜。京師中倦於人事,若就近都佳郡居處,待疾少間,速令朕知之。」良弼奏曰:「臣遭遇聖明,濫膺大任,夙夜憂懼,以至成疾。比蒙聖恩,數遣使存問,賜以醫藥,臣之苟活至今,皆陛下之賜也。臣豈敢望到鄉里,便可愈疾。臣去鄉歲久,親識多已亡沒,惟老臣獨在,鄉土之戀,誠不能忘。臣竊惟自來人臣受知人主,無逾臣者,臣雖粉骨碎身無以圖報。若使一還鄉社,得見親舊,則死無恨矣。」上問宰相曰:「丞相良弼必欲歸鄉里,朕以世襲猛安封其子符寶曷答,俾之侍行,何如?」右丞相完顏守道曰:「不若以猛安授良弼,使其子攝事。」上從之。於是授胡論宋葛猛安,給丞相俸傔,良弼乃致仕歸。上謂宰相曰:「卿等非不盡心,但才力不及良弼,所以惜其去也。」其後,尚書省奏差除,上曰:「丞相良弼擬注差除,未嘗苟與不當得者,而薦舉往往得人。粘割斡特剌、移剌綎、裴滿余慶,皆其所舉。至於私門請托,絕然無之。」嘗問良弼:「每旦暮日色皆赤,何也?」良弼曰:「旦而色赤應在東,高麗當之。暮而色赤應在西,夏國當之。願陛下修德以應天,則災變自弭矣。」既而夏國有任德敬之亂,高麗有趙位寵之難,其言皆驗云。是歲,薨。年六十。上悼惜之,遣太府監移剌綎、同知西京留守王佐為敕葬祭奠使,賻白金、彩幣加等,喪葬皆從官給。追封金源郡王,命翰林待制移剌履勒銘墓碑,諡誠敏。

良弼性聰敏忠正にして、善く断決し、言論器識人表を出す。寒素より起り、宰相の位に致るも、朝夕惕惕として国に心を尽くし、謀慮深遠にして、人材を薦挙するに、常に及ばざるが若し。家に居て清儉、親旧貧乏なる者は周給し、人と交わり久しくして愈よ敬す。位に居ること幾二十年、以て太平の功を成し、賢相と号せらる。明昌五年、世宗廟廷に配饗す。

原文良弼性聰敏忠正,善斷決,言論器識出人意表。雖起寒素,致位宰相,朝夕惕惕盡心于國,謀慮深遠,薦舉人材,常若不及。居家清儉,親舊貧乏者周給之,與人交久而愈敬。居位幾二十年,以成太平之功,號賢相焉。明昌五年,配饗世宗廟廷。

完顏守道

原文完顏守道

守道、本名は習尼列、祖穀神の功を以て、応奉翰林文字に擢でらる。皇統九年、同知盧龍軍節度使事、献・祁・濱・薊の四州刺史を歴任す。世宗中都に幸す。薊を過ぐるに、父老道を遮りて留まり再任せんことを請う。平章政事移剌元宜挙げて以て自ら代わらんとす。ここに於て昭毅大將軍に遷り、左諫議大夫を授かる。内族晏恩旧を以て左丞相拝せらる。守道諫めて曰く、「陛下初め即位し、天下略定すれども、辺警未だ息まず、方に大いに為すべきの時なり。晏其の材に非ざるを恐る。必ず親愛せんと欲せば、禄を厚く与えて、事に事とらしめざるに若かず」と。乃ち太尉を授け、致仕せしむ。世宗扈従将士の労を録し、賞賚を行わんと欲すれども、帑蔵空竭す。民財を貸して以て之に与えんことを議す。守道曰く、「人虐政に罹り、方に更生を喜ぶ。今仁恩未だ及ばずして、征斂遽に出ず。群望を如何せん。寧ろ宮中所有を出だすも、民に取ること無かるべし」と。遂に其の言に従う。契丹叛く。遼東の猛安謀克其の境に在る者、或いは之に附従す。朝議内に徙さんと欲す。守道極めて其の不可を陳ぶ。右副元帥謀衍兵を将いて賊を討つも、即ち撃たず。守道力を朝廷に言う。詔して僕散忠義・紇石烈志寧を遣わして往きて之に代わらしむ。東方以て平ぐ。

原文守道,本名習尼列,以祖穀神功,擢應奉翰林文字。皇統九年,同知盧龍軍節度使事,歷獻、祁、濱、薊四州刺史。世宗幸中都,過薊,父老遮道請留再任。平章政事移剌元宜舉以自代,於是遷昭毅大將軍,授左諫議大夫。內族晏以恩舊拜左丞相,守道諫曰:「陛下初即位,天下略定,邊警未息,方大有為之時,恐晏非其材。必欲親愛,莫若厚與之祿,俾勿事事。」乃授以太尉,致仕。世宗錄扈從將士之勞,欲行賞賚,而帑藏空竭,議貸民財以與之。守道曰:「人罹虐政,方喜更生,今仁恩未及,而征斂遽出,如群望何,甯出宮中所有,無取於民。」遂從其言。契丹叛,遼東猛安謀克在其境者,或附從之,朝議欲徙之內地,守道極陳其不可。右副元帥謀衍將兵討賊,不即擊,守道力言於朝,詔遣僕散忠義、紇石烈志寧往代之,東方以平。

大定二年、宮中十六位火災す。方に完葺を事とす。時既に夏に入り、頗る民力を妨ぐ。守道諫めて罷む。未だ幾ばくもあらず、太子詹事に改め、右諫議大夫を兼ね、馳驛して山東両路の軍糧を規画し、及び民の饑を賑う。守道大姓の戸口を籍し、歳儲を以て限り、其の贏を尽く官に輸せしめ、復た其の直を給う。是を以て軍民皆足る。参知政事拝し、太子少保を兼ぬ。守道懇ろに辞す。世宗之を諭して曰く、「乃祖の勳王室に在り。朕亦卿の忠謹を悉くす。是を以て擢用す。多く譲る無かれ」と。時契丹の余党未だ附かざる者尚ほ衆し。北京・臨潢・泰州の民安んぜず。詔して守道に金符を佩かしめて往きて之を安撫せしめ、群牧馬千疋を給し、以て軍用に備う。守道契丹の骨迭聶合等を招致して内附せしめ、民以て寧息す。還りて尚書左丞に進み、太子少師を兼ぬ。嘗て近郊に従獵す。虎有りて獵夫を傷う。帝親しく之を射んと欲す。守道馬に叩き極めて諫めて止む。俄に平章政事拝す。十四年、宋人使を遣わし、因りて手接書の事を陳請す。左丞石琚等議して其の請に従わんとす。帝意未だ決せず。守道等以て許すべからずと為す。帝卒に之に従う。詳しくは『紇石烈良弼伝』中に在り。既にして、右丞相に遷り、国史を監修し、復た左丞相に遷り、世襲謀克を授かる。

原文大定二年,宮中十六位火,方事完葺,時已入夏,頗妨民力,守道諫而罷。未幾,改太子詹事,兼右諫議大夫,馳驛規畫山東兩路軍糧,及賑民饑。守道籍大姓戶口,限以歲儲,使盡輸其贏入官,復給其直,以是軍民皆足。拜參知政事、兼太子少保,守道懇辭,世宗諭之曰:「乃祖勳在王室,朕亦悉卿忠謹,以是擢用,無為多讓。」時契丹餘黨未附者尚眾,北京、臨潢、泰州民不安,詔守道佩金符往安撫之,給群牧馬千疋,以備軍用。守道招致契丹骨迭聶合等內附,民以寧息。還進尚書左丞,兼太子少師。嘗從獵近郊,有虎傷獵夫,帝欲親射之,守道叩馬極諫而止。俄拜平章政事。十四年,宋人遣使因陳請手接書事,左丞石琚等議從其請,帝意未決,守道等以為不可許,帝卒從之,詳在《紇石烈良弼傳》中,既而,遷右丞相,監修國史,復遷左丞相,授世襲謀克。

二十年、『熙宗実録』成る。帝因りて曰く、「卿の祖穀神の行事未だ当らざる者有りと雖も、尚ほ隠さず。卿の直筆を見るなり」と。尋で賢路を避けんことを請う。帝許さず。太尉・尚書令に進拝し、尚書左丞相に改授す。之を諭して曰く、「丞相の位虚曠たるべからず。須らく老成人を用うべし。故に復た卿を以て之に処す。卿宜しく此を悉くすべし」と。未だ幾ばくもあらず、復た致仕を乞う。帝曰く、「卿を以て先朝勳臣の後なるを、特みに三公の重任を委ぬ。政を秉る以来、忠勤を効竭す。朕甚だ之を嘉す。今引年して退かんことを求む。甚だ宰相の体を得たり。然れども未だ卿に代わる者を得ず。是を以て従い難し。汝之を勉めよ」と。二十五年、坐して東宮諸皇孫の食廩を擅に支うるに、官一階を奪わる。尋で太子太師を兼ねるに改め、特みに其の子珪を録して謀克を襲わしめ、符寶祗候に充つ。章宗原ゆる王と為る。詔して騎鞠を習わしむ。守道諫めて曰く、「哀制中未だ可ならず」と。帝曰く、「此れ武備を習うのみ。自ら之を為すは則ち不可なり。朕の命に従う、何ぞ傷かん。然れども亦た数うべからず」と。二十六年、懇ろに致仕を求む。優詔以て之を許し、特みに慶春殿に宴を賜い、帝手ずから卮酒を以て飲ませ、錫与甚だ厚し。其の子珪を以て侍行せしめ、又た次子璋に進士第を賜う。明昌四年卒す。年七十四。上之を聞き震悼し、其の弟点検司判官蒲帯を遣わして致祭せしめ、銀千両・重彩五十端・絹五百疋を賻す。太常議して諡して簡憲と曰う。上之を改めて簡靖と曰う。蓋し其の能く終始を全うするを重んずるなり。

原文二十年,修《熙宗實錄》成,帝因謂曰:「卿祖穀神行事有未當者,尚不為隱,見卿直筆也。」尋請避賢路,帝不許。進拜太尉、尚書令,改授尚書左丞相,諭之曰:「丞相之位不可虛曠,須用老成人,故復以卿處之,卿宜悉此。」未幾,復乞致仕,帝曰:「以卿先朝勳臣之後,特委以三公重任,自秉政以來,效竭忠勤,朕甚嘉之。今引年求退,甚得宰相體,然未得代卿者,以是難從,汝勉之哉。」二十五年,坐擅支東宮諸皇孫食廩,奪官一階。尋改兼太子太師,特錄其子珪襲謀克,充符寶祗候。章宗為原王,詔習騎鞠,守道諫曰:「哀制中未可。」帝曰:「此習武備耳,自為之則不可,從朕之命,庸何傷乎?然亦不可數也。」二十六年,懇求致仕,優詔許之,特賜宴于慶春殿,帝手飲以卮酒,錫與甚厚,以其子珪侍行,又賜次子璋進士第。明昌四年卒,年七十四。上聞之震悼,遣其弟點檢司判官蒲帶致祭,賻銀千兩、重彩五十端、絹五百疋。太常議諡曰簡憲,上改曰簡靖,蓋重其能全終始云。

石琚

原文石琚

石琚、字は子美、定州の人である。沈着で篤実、学問を好んだ。父の皋は郡の吏に補せられ、廉潔を自ら守り、長者と称された。魯王闍母に従って青州を攻めたが、州人は堅守して降らなかった。闍母はこれを怒り、城が陥ちると、皋に州民の数を計算させ、諸軍に分けて掠奪占有させようとしたが、皋はその事を遅らせた。闍母がこれを責めると、皋は言った、「大王は朝廷のために郡県を撫定せんとされるのであれば、百姓を安堵させ、侵掠苦しめることのないようにすべきです。もし城邑を取ってその民を残害するならば、未だ降らざる者は必ず死守して我らに抵抗するでしょう。皋が遅延した罪は、どうして逃れられましょうか」。闍母は感得して悟り、乃ち下令して言った、「敢えて州人を犯す者は、軍法をもって論ずる」。その座を指して皋に謂いて言った、「汝の子孫には必ずこの座に居る者があろう」。皋は定州を守り、唐県の人王八が乱を謀り、その県人の姓名を籍に書き、およそ数千人に及んだが、その党がその籍を携えて州に至り発覚させたので、皋が主として審理を司った。時に冬月であり、皋は籍を抱えて庁事に上り、偽って躓いて倒れ、その籍を炉火の中に覆い、ことごとく焼いてしまい、再びその姓名を得ることができず、首謀者のみを罪に坐せ、残りは皆釈放された。

原文石琚,字子美,定州人。沉厚好學。父皋,補郡吏,廉潔自將,稱為長者。從魯王闍母攻青州,州人堅守不降。闍母怒之,及城破,命皋計州民之數,將使諸軍分掠有之,皋緩其事。闍母讓之,皋曰:「大王將為朝廷撫定郡縣,當使百姓按堵,無或侵苦之。若取城邑而殘其民,則未下者必死守以拒我。皋之稽緩,安敢逃罪。」闍母感悟,乃下令曰:「敢有犯州人者,以軍法論。」指其坐謂皋曰:「汝之子孫必有居此坐者。」皋隨守定州,唐縣人王八謀為亂,書其縣人姓名於籍,無慮數千人,其黨持其籍詣州發之,皋主鞫治。是時冬月,皋抱籍上廳事,佯為頓僕,覆其籍爐火中,盡焚之,不可復得其姓名,止坐為首者,餘皆得釋。

琚は七歳で生まれ、書を読めば過目して即ち誦することができた。長ずるに及んで、経史に博通し、詞章に巧みであった。天眷二年、進士第一に及第し、再び弘政・邢臺県令に遷った。邢州の太守は貪暴で属県に及び、民財を掊取して、己の欲するものを奉ったが、琚のみは一物もこれに与えなかった。既にして太守は贓罪で敗れ、他の令・佐は皆連座したが、琚は廉潔で事を弁じたので、秀容県令に改めた。復た行台礼部主事に抜擢され、召されて左司都事となった。累遷して吏部郎中となった。貞元三年、父の喪により官を去ったが、尋いで起復して本部侍郎となった。世宗はかねてよりその名を聞いており、大定二年、左諫議大夫に抜擢し、侍郎は元の如くであった。制度を詳定することを命ぜられ、琚は六事を上疏し、おおよそ紀綱を正し、賞罰を明らかにし、忠直に近づき、邪佞を遠ざけ、不急の務を省き、無名の役を罷むることを言った。上は嘉してこれを納れた。吏部尚書に遷った。琚は員外郎から尚書に至るまで、一度も吏部を去らず、およそ十年に及んだ。選挙を掌ること久しく、凡そ宋・斉の換授官格、南北の通注銓法を、指を屈して次第に挙げることができ、当時詳明と号された。間もなく、参知政事を拝したが、琚は再三辞譲した。上は言った、「卿の材望は、不可なること無し。何を以て辞するのか」。右丞蘇保衡が十六位の工役を監護し、詔して共にその事を典せしめ、銀牌二十四を与え、便宜に従って規画することを許した。上は琚に謂って言った、「この役は民を煩わすことを欲せず、丁匠には皆雇直を与え、貪吏が縁よ故を求めて奸利をなし、以て民怨を興すことなからしめよ。卿らは勉力して、朕の意に称えよ」。徒単合喜が陝西を平定した時、琚は秦・隴を曲赦して、以て百姓を安んずることを請うた。上はこれに従った。母の憂いに遭い、尋いで起復し、進んで尚書右丞を拝した。天長観が災害に遭い、詔して有司に営繕せしめたが、有司は民居を開拓してこれを広大にし、費やした銭は三十万貫に及んだ。蔚州の埰地で蕈を採り、数百千人を役した。琚がこれを奏すると、上は言った、「今より凡そ御前と称するものは、皆奏上せよ」。琚と孟浩は対えて言った、「聖訓ここに及ぶは、百姓の福です」。この時、狐・兎などの野物を網捕することを禁ずる議があり、その獲物を累計して、或いは徒罪に至った。琚は奏して言った、「禽獣を捕えて罪が徒に至るのは、恐らく陛下の意に非ず、杖して釈放すべきです」。上は言った、「然り」。久しくして、進んで左丞を拝し、太子少師を兼ねた。上は宰相に問うて言った、「古には下位に居ながら能く国を憂い民のために直言して忌憚なき者あり。今は何を以て之無きや」。琚は対えて言った、「是れ豈に之無からんや、但だ上達せざるのみです」。上は言った、「宜しく心を尽くして采擢すべし」。

原文琚生七歲,讀書過目即成誦。既長,博通經史,工詞章。天眷二年,中進士第一,再調弘政、邢臺縣令。邢守貪暴屬縣,掊取民財,以奉所欲,琚獨一物無所與。既而守以贓敗,他令佐皆坐累,琚以廉辦,改秀容令。復擢行台禮部主事,召為左司都事。累遷吏部郎中。貞元三年,以父喪去官,尋起復為本部侍郎。世宗舊聞其名,大定二年,擢左諫議大夫,侍郎如故。奉命詳定制度,琚上疏六事,大概言正紀綱,明賞罰,近忠直,遠邪佞,省不急之務,罷無名之役。上嘉納之。遷吏部尚書。琚自員外郎至尚書,未嘗去吏部,且十年。典選久,凡宋、齊換授官格,南北通注銓法,能僂指而次第之,當時號為詳明。頃之,拜參知政事,琚辭讓再三,上曰:「卿之材望,無不可者,何以辭為。」右丞蘇保衡監護十六位工役,詔共典其事,給銀牌二十四,許從宜規畫。上謂琚曰:「此役不欲煩民,丁匠皆給雇直,毋使貪吏夤緣為奸利,以興民怨。卿等勉力,稱朕意焉。」徒單合喜定陝西,琚請曲赦秦、隴,以安百姓,上從之。丁母憂,尋起復,進拜尚書右丞。天長觀災,詔有司營繕,有司辟民居以廣大之,費錢三十萬貫。蔚州埰地蕈,役數百千人。琚奏之,上曰:「自今凡稱御前者,皆稟奏。」琚與孟浩對曰:「聖訓及此,百姓之福也。」是時,議禁網捕狐、兔等野物,累計其獲,或至徒罪,琚奏曰:「捕禽獸而罪至徒,恐非陛下意,杖而釋之可也。」上曰:「然。」久之,進拜左丞,兼太子少師。上問宰相:「古有居下位能憂國為民直言無忌者,今何以無之?」琚對曰:「是豈無之,但未得上達耳。」上曰:「宜盡心采擢之。」

世宗は郊祀を行わんとし、配享を議した。琚は言った、「配とは、神を助けて主と為すことです。外より至る者は主無くして止まざる故に、祖考を推して天に配し、同じくこれを尊ぶのです。『孝経』に曰く、'郊祀して后稷を以て天に配す'。漢・魏・晋は皆一帝を以てこれに配しました。唐の高宗が初めて高祖・太宗を崇めて配しました。垂拱の初め、高祖・太宗・高宗を並べて配しました。玄宗の開元十一年、同配の礼を罷め、高祖を以て配しました。宋の太宗の時、宣祖・太祖を以て配しました。真宗の時は太祖・太宗を以て配しました。仁宗の時、有司が三帝を並べて侑えることを請い、遂に太祖・太宗・真宗を並べて配しました。その後、礼院が議して、天地に対越するには神に二主無しとし、太祖を以て配すべきとしました。これは唐・宋が古を変えて三帝を以て天に配し、終いに古に依って一祖を以て配したのです。将来親郊するには古礼に合せ、一祖を以てこれに配すべきです」。上は言った、「唐・宋は法と為すに足らず、ただ太祖皇帝を奉じて配すべし」。琚は嘗て命じて太子に政事を習わしむることを請うたが、或る者がこれを讒して言った、「琚は東宮に恩を希う」。世宗はその他意無きを察し、この言葉を以て告げた。琚は対えて言った、「臣は元より孤生にて、陛下の抜擢に蒙り、執政の位に備わり、師保の任を兼ねております。臣愚かにも太子は天下の本と存じ、民の事を知らしむべしと以為い、遂にこれに言及したのです」。因りて少師の解任を乞うた。十年二月、社を祭るに、有司が祝版に御署することを奏請した。上は琚に問うて言った、「署すべきか」。琚は言った、「故事これ有り」。上は言った、「祭祀の典礼は、卿ら慎むべし。後世の譏誚をなさしむるな。熙宗が太祖を尊諡した時、宇文虚中が礼儀を定め、常朝服を以て事を行った。当時朕は童稚ながらも、猶その非を覚えた」。琚は言った、「祭祀は大事なり。故事に非ざれば敢えて行いません」。

原文世宗將行郊祀,議配享,琚曰:「配者,侑神作主也。自外至者無主不止,故推祖考以配天,同尊之也。《孝經》曰:'郊祀後稷以配天。'漢、魏、晉皆以一帝配之。唐高宗始以高祖、太宗崇配。垂拱初,以高祖、太宗、高宗並配。玄宗開元十一年,罷同配之禮,以高祖配。宋太宗時,以宣祖、太祖配。真宗時以太祖、太宗配。仁宗時,有司請以三帝並侑,遂以太祖、太宗、真宗並配。其後禮院議對越天地、神無二主,當以太祖配。此唐、宋變古以三帝配天,終竟依古以一祖配也。將來親郊合依古禮,以一祖配之。」上曰:「唐、宋不足為法,止當奉太祖皇帝配之。」琚嘗請命太子習政事,或譖之曰:「琚希恩東宮。」世宗察其無他,以此言告之,琚對曰:「臣本孤生,蒙陛下拔擢,備位執政,兼師保之任。臣愚以為太子天下之本,當使知民事,遂言及之。」因乞解少師。十年二月,祭社,有司奏請禦署祝版,上問琚曰:「當署乎?」琚曰:「故事有之。」上曰:「祭祀典禮,卿等慎之,無使後世譏誚。熙宗尊諡太祖,宇文虛中定禮儀,以常朝服行事。當時朕雖童稚,猶覺其非。」琚曰:「祭祀,大事也,非故事不敢行。」

上は琚に謂って言った、「女直人は往々にして径に要達の位に居り、閭閻の疾苦を知らない。卿は嘗て丞簿を為し、民間の何事か知らざるは無かろう。凡そ利害は極言して陳べよ」。上は宰臣と銭を鋳ることを議し、或る者は銭を鋳る工費が数倍であるとして、金銀の坑冶を採ることを欲した。上は言った、「山沢の利は民に与うべし。惟だ銭幣は私鋳すべからず。若し財貨四方に流布すれば、官にあると何の異ならん」。琚は進みて言った、「臣聞く、天子の富は天下に蔵る、正に泉源の其の流通を欲するが如しと」。上は琚に問うて言った、「古にも百姓の銭を鋳る者ありや」。対えて言った、「百姓をして自ら鋳造せしめれば、則ち小人は厚利を図り、銭は愈々薄悪となり、古の禁ずる所以です」。

原文上謂琚曰:「女直人往往徑居要達,不知閭閻疾苦。卿嘗為丞簿,民間何事不知,凡利害極陳之。」上與宰臣議鑄錢,或以鑄錢工費數倍,欲採金銀坑冶,上曰:「山澤之利可以與民,惟錢幣不當私鑄。若財貨流布四方,與在官何異。」琚進曰:「臣聞天子之富藏於天下,正如泉源欲其流通耳。」上問琚曰:「古亦有百姓鑄錢者乎?」對曰:「使百姓自鑄,則小人圖厚利,錢愈薄惡,古所以禁也。」

時に民間は往々にして妖言を造作し、互いに党与を為して不軌を謀り、事覚えて誅せられた。上は宰臣に問うて言った、「南方には尚多く反側する者あり、何ぞや」。琚は対えて言った、「南方の無頼の徒は、釈道に仮託し、妖幻を以て人を惑わします。愚民無知、遂に法を犯すに至るのです」。上は言った、「僧智究の如き是也。此の輩は恤おもんぱかむに足らず。但だ軍士が討捕するに、利を取って民財を奪い、害が良民に及ぶ。漸くしてこれを杜つに若かず」。智究は大名府の僧であり、同寺の僧苑智義が智究に言うには、『蓮華経』の中に五濁悪世に仏出でて魏地と載せ、『心経』に夢想究竟涅槃の語有り、汝の法名は智究、正に経文に応ず、先師の蔵瓶和尚は汝に是の福分有るを知り、亦た頌子を作りて汝に付す、と。智究は其の言を信じ、遂に乱を謀り、大名・東平の州郡を歴て、抄化に仮託し、愚民を誘惑し、潜かに奸党を結び、十一年十二月十七日を以て先ず兗州を取り、徒を嶧山に会し、「応天時」の三字を号として、東平の諸州府を分取することを議した。期に及んで夜に向かい、逆党の胡智愛らを使わし、旁近の軍寨を劫掠し、甲仗を掠め取らしめたが、軍士がこれを撃破した。会して傅戩・劉宣もまた陽谷・東平において変を上告した。皆誅せられ、連坐する者四百五十余人に及んだ。

原文時民間往往造作妖言,相為黨與謀不軌,事覺伏誅。上問宰臣曰:「南方尚多反側,何也?」琚對曰:「南方無賴之徒,假託釋道,以妖幻惑人。愚民無知,遂至犯法。」上曰:「如僧智究是也。此輩不足恤,但軍士討捕,利取民財,害及良民,不若杜之以漸也。」智究,大名府僧,同寺僧苑智義與智究言,《蓮華經》中載五濁惡世佛出魏地,《心經》有夢想究竟涅槃之語,汝法名智究,正應經文,先師藏瓶和尚知汝有是福分,亦作頌子付汝。智究信其言,遂謀作亂,歷大名、東平州郡,假託抄化,誘惑愚民,潛結奸黨,議以十一年十二月十七日先取兗州,會徒嶧山,以「應天時」三字為號,分取東平諸州府。及期向夜,使逆党胡智愛等,劫旁近軍寨,掠取甲仗,軍士擊敗之。會傅戩、劉宣亦于陽谷、東平上變。皆伏誅,連坐者四百五十餘人。

宗室の子弟の中には官事に堪えられぬ者もあり、世宗は散官を授け、禄を量り与えて、これを贍養せんとし、宰臣に問うて曰く、「前代では如何であったか」と。琚対えて曰く、「堯は九族を親しみ、周家は内に九族を睦まじくす、皆帝王の盛事なり」と。琚の順旨に将ることは、多く此の類なり。

原文宗室子或不勝任官事,世宗欲授散官,量與廩祿,以贍足之,以問宰臣曰:「於前代何如?」琚對曰:「堯親九族,周家內睦九族,皆帝王盛事也。」琚之將順,多此類。

十三年、上表して致仕を乞う。十六年、再び表して致仕を乞う。皆許さず。参知政事唐括安礼、上意に忤い、出でて横海軍節度使と為り、数年召されず。琚、便殿に対し、従容として進みて曰く、「唐括安礼は忠直なり、久しく外官に在り」と。世宗深く然りとし、遂に南京留守より召して尚書右丞と為す。琚嘗て室紹先を挙げて右司員外郎と為さんとし、紹先中風して暴卒す、上甚だ之を惜しみ、琚に謂ひて曰く、「卿の挙ぐる所なり」と。感歎すること再び三たびす。

原文十三年,上表乞致仕。十六年,再表乞致仕。皆不許。參知政事唐括安禮忤上意,出為橫海軍節度使,數年不復召。琚對便殿,從容進曰:「唐括安禮忠直,久在外官。」世宗深然之,遂自南京留守召為尚書右丞。琚嘗舉室紹先以為右司員外郎,紹先中風暴卒,上甚惜之,謂琚曰:「卿之所舉也。」感歎者再三。

十七年、平章政事を拝し、莘国公に封ぜらる。明年、右丞相を拝す。修起居注移剌傑上書して言ふ、「朝奏に人を屏へて事を議するも、史官も亦与り聞かず、記録する由なし」と。上以て宰相に問ふ、琚と右丞唐括安礼対えて曰く、「古の史官は、天子の言動必ず書し、以て人君を儆戒し、庶幾くば畏るる有らんとす。周の成王、桐の葉を剪りて圭と為し、戯れに叔虞を封ず、史佚曰く、『天子は戯言すべからず、言はば則ち史之を書す』と。此を以て知る、人君の言動は、史官皆得て記録す、避くるべからざるなり」と。上曰く、「朕《貞観政要》を観るに、唐の太宗臣下と議論するに、始め如何に議し、後竟に如何に成るか、此れ正に史臣側に在りて記し書くのみ。若し幾事の漏泄を恐るれば、則ち慎密なる者を択びて之に任ずべし」と。朝奏に人を屏へて事を議するに、記注官避けず、此より始まる。

原文十七年,拜平章政事,封莘國公。明年,拜右丞相。修起居注移剌傑上書言:「朝奏屏人議事,史官亦不與聞,無由紀錄。」上以問宰相,琚與右丞唐括安禮對曰:「古者史官,天子言動必書,以儆戒人君,庶幾有畏也。周成王剪桐葉為圭,戲封叔虞,史佚曰:'天子不可戲言,言則史書之。'以此知人君言動,史官皆得記錄,不可避也。」上曰:「朕觀《貞觀政要》,唐太宗與臣下議論,始議如何,後竟如何,此政史臣在側記而書之耳。若恐漏泄幾事,則擇慎密者任之。」朝奏屏人議事,記注官不避自此始。

年老いて衰病なるを以て固く辞す、上曰く、「朕卿の年老けるを知る、勉めて朕の為に留まれ、一二年を俟て、朕将に之を思はん」と。上宰臣に謂ひて曰く、「朕天子と為りて、未だ嘗て敢へて専行独断せず、毎事遍く卿等に問ひ、行ふ可くば則ち之を行ひ、不可なれば則ち止むなり」と。琚と平章政事唐括安礼奏して曰く、「好問すれば則ち裕く、自用すれば則ち小なり、陛下之を行はば、天下幸甚なり」と。一年を居て、復た表して致仕を乞ふ、乃ち許す。詔して一孫を以て閣門祗候と為す。即ち命駕して郷里に帰る。久しくして、世宗宰臣に謂ひて曰く、「人を知るは最も難き事なり、近来左選多く人を得ず。惟だ石琚相と為りし時、往々其の官に能く挙ぐ、左丞移剌道・参政粘割斡特剌右選を挙ぐるは、頗る之を得たり。朕常に人材を遍く識ること能はざるを以て不足と為す。此れ宰相の事なり、左右近侍雖も常に言ふ有りと雖も、朕未だ敢へて軽く信ぜず」と。又曰く、「近日刺史県令多く員を闕く、当に幹済わたなる者を択びて之を除くべし、資級到らざるも庸何ぞ傷けん」と。又曰く、「惟だ石琚最も人を知る」と。

原文以年老衰病固辭,上曰:「朕知卿年老,勉為朕留,俟一二年,朕將思之。」上謂宰臣曰:「朕為天子,未嘗敢專行獨斷,每事遍問卿等,可行則行之,不可則止也。」琚與平章政事唐括安禮奏曰:「好問則裕,自用則小,陛下行之,天下幸甚。」居一年,復表致仕,乃許。詔以一孫為閣門祗候。即命駕歸鄉里。久之,世宗謂宰臣:「知人最為難事,近來左選多不得人。惟石琚為相時,往往舉能其官,左丞移剌道、參政粘割斡特剌舉右選,頗得之。朕常以不能遍識人材為不足。此宰相事也,左右近侍雖常有言,朕未敢輕信。」又曰:「近日刺史縣令多闕員,當擇幹濟者除之,資級不到庸何傷。」又曰:「惟石琚最為知人。」

唐括鼎、定武軍節度使と為る、上鼎に謂ひて曰く、「久しく石琚を見ず、精力旧に比べて如何。汝官に到りて往きて之を視よ」と。顕宗も亦之を思ひ、琚の生日に因り、詩を寄せて以て意を見す。二十二年、疾にて家に薨ず、年七十二。諡して文憲と曰ふ。泰和元年、像を衍慶宮に図し、世宗廟廷に配享す。

原文唐括鼎為定武軍節度使,上謂鼎曰:「久不見石琚,精力比舊何如?汝到官往視之。」顯宗亦思之,因琚生日,寄詩以見意。二十二年,以疾薨於家,年七十二。諡文憲。泰和元年,圖像衍慶宮,配享世宗廟廷。

唐括安礼

原文唐括安禮

唐括安礼、本名は斡魯古、字は子敬。学を好み、経史に通じ、詞章に工なり、為政の大體を知る。貞元中、累官して臨海軍節度使、入りて翰林侍読学士と為り、浚州防禦使・彰化軍節度使に改む。大定初、益都尹に遷り、召されて大興尹と為る、上曰く、「京師は訛言を好む。府中の奸吏は民の患と為る。卿雖も年少なりと雖も、治才有り、其の宿弊を去り、因仍する毋れ」と。廉を察して第一等に入り、階を進めて栄禄大夫と為る。

原文唐括安禮,本名斡魯古,字子敬。好學,通經史,工詞章,知為政大體。貞元中,累官臨海軍節度使,入為翰林侍讀學士,改浚州防禦使、彰化軍節度使。大定初,遷益都尹,召為大興尹,上曰:「京師好訛言。府中奸吏為民患。卿雖年少,有治才,去其宿弊,毋為因仍。」察廉入第一等,進階榮祿大夫。

七年五月、大興府獄空く、詔して宴を賜ひて之を労ふ。凡そ州郡に獄空なる者有れば、皆錢を賜ひて宴を錫ふるの費と為し、大興府は宴を錫ふる錢三百貫、其の余は差有り。久しくして、参知政事を拝し、罷められて横海軍節度使と為り、河間尹・南京留守を歴ぬ。喪を以て官を去り、起復して尚書右丞と為る。詔して曰く、「南路の女直戸頗る貧しき者有り、漢戸の田土を租佃するも、得る所僅少にして、費用給はず、騎射に習はず、軍旅に任ぜず。凡そ成丁なる者は軍籍に簽入し、月に錢米を給し、山東路の沿辺に安置す。其れ議して以て聞かしめよ」と。浹旬、上問ひて曰く、「宰臣山東の猛安貧戸を議するは之を如何」と。奏して曰く、「未だせず」と。乃ち安礼に問ひて曰く、「卿の意に於て如何」と。対へて曰く、「猛安の人と漢戸とは、今皆一家なり、彼は耕し此は種く、皆是れ国人なり、即日に軍を簽すれば、恐らくは農作を妨げん」と。上安礼を責めて曰く、「朕卿に知識有りと謂ふ、毎事専ら漢人に效ふ。若し事なきの際は農作を務む可く、宋人の意を度るに将に争端を起こさんとす、国家事有れば、農作何ぞ暇あらん。卿漢字を習ひ、《詩》《書》を読む、姑く此を置きて以て本朝の法を講ぜよ。前日宰臣皆女直の拝なり、卿独り漢人の拝なり、是か非か。所謂一家とは、皆一類なり、女直・漢人、其の実は則ち二なり。朕東京に即位し、契丹・漢人皆往かず、惟だ女直人のみ偕に来る、此れ一類と謂ふ可きか」と。又曰く、「朕夙夜思念し、太祖皇帝の功業墜ちず、万世に伝へ、女直人の物力困ぜざらしめんとす。卿等之を悉せよ」と。因りて貧窮猛安人の数を益す数事を以て、詔して左司郎中粘割斡特剌に使はしめて之を書かしめ、百官をして尚書省に集議せしむ。

原文七年五月,大興府獄空,詔錫宴勞之。凡州郡有獄空者,皆賜錢為錫宴費,大興府錫宴錢三百貫,其餘有差。久之,拜參知政事,罷為橫海軍節度使,歷河間尹、南京留守。以喪去官,起復尚書右丞。詔曰:「南路女直戶頗有貧者,漢戶租佃田土,所得無幾,費用不給,不習騎射,不任軍旅。凡成丁者簽入軍籍,月給錢米,山東路沿邊安置。其議以聞。」浹旬,上問曰:「宰臣議山東猛安貧戶如之何?」奏曰:「未也。」乃問安禮曰:「於卿意如何?」對曰:「猛安人與漢戶,今皆一家,彼耕此種,皆是國人,即日簽軍,恐妨農作。」上責安禮曰:「朕謂卿有知識,每事專效漢人。若無事之際可務農作,度宋人之意且起爭端,國家有事,農作奚暇?卿習漢字,讀《詩》、《書》,姑置此以講本朝之法。前日宰臣皆女直拜,卿獨漢人拜,是邪非邪?所謂一家者,皆一類也,女直、漢人,其實則二。朕即位東京,契丹、漢人皆不往,惟女直人偕來,此可謂一類乎?」又曰:「朕夙夜思念,使太祖皇帝功業不墜,傳及萬世,女直人物力不困。卿等悉之。」因以有益貧窮猛安人數事,詔左司郎中粘割斡特剌使書之,百官集議於尚書省。

十七年、詔して監察御史完顔覿古速を遣わして辺境を行かせしむ。従行の契丹人押剌四人、挼剌・招得・雅魯・斡列阿、辺境より亡走して大石に帰す。上聞きて詔して曰く、「大石は夏国の西北に在り。昔、窩斡乱を為すや、契丹等これに応ず。朕その罪を釈し、旧業に復せしめ、使者を遣わして安輯せしむるに、反側の心猶未だ已まず。若し大石人をして間諜に誘わしむれば、必ず辺患を生ぜん。使者を遣わしてこれを移徙せしめ、女直人と雑居せしめ、男婚女聘し、漸く俗を化して、長久の策と為すべし」と。ここにおいて同簽樞密院事紇石烈奧也・吏部郎中裴満余慶・翰林修撰移剌傑を遣わし、西北路の契丹人で嘗て窩斡の乱に預かりし者を上京・済・利等の路に移徙して安置せしむ。兵部郎中移剌子元を以て西北路招討都監と為し、子元に詔して曰く、「卿は上京・済州に移徙せしむる契丹人を省諭すべし。彼の地は土肥饒にして、生殖すべく、女直人と相婚姻を為し、亦汝等の久安の計なり。卿は奧也とともに発徙を催促せよ。仍って猛安一員を遣わし兵を以て護送して東せしめ、経過する道路は群牧に相近きことを許すなかれ。脱もし変有らば、即時に討滅せよ。其の嶺を過ぐるを俟ちて、卿は即ち鎮に還れ」と。上既に奧也・子元等を遣わし、宰臣に謂いて曰く、「海陵の時、契丹人は特に信任を受けしも、終に叛乱を為し、群牧使鶴壽・駙馬都尉賽一・昭武大將軍術魯古・金吾衛上將軍蒲都皆害せられたり。賽一等は皆功臣の後なり。官に在りし時、未だ契丹と怨み有ること無かりしに、彼の野心、亦足れり以て見るべし」と。安禮対えて曰く、「聖主は天下に溥く愛を施し、万国を子の如く育む。宜しく分別有るべからず」と。上曰く、「朕は分別有るに非ず。但だ善を善とし悪を悪とするは、以て治を為す所以なり。異時に或いは辺釁有らば、契丹豈に我と一心たらんや」と。

原文十七年,詔遣監察御史完顏覿古速行邊,從行契丹押剌四人,挼剌、招得、雅魯、斡列阿,自邊亡歸大石。上聞之,詔曰:「大石在夏國西北。昔窩斡為亂,契丹等回應,朕釋其罪,俾復舊業,遣使安輯之,反側之心猶未已。若大石使人間誘,必生邊患。遣使徙之,俾與女直人雜居,男婚女聘,漸化成俗,長久之策也。」於是遣同簽樞密院事紇石烈奧也、吏部郎中裴滿余慶、翰林修撰移剌傑,徙西北路契丹人嘗預窩斡亂者上京、濟、利等路安置。以兵部郎中移剌子元為西北路招討都監,詔子元曰:「卿可省諭徙上京、濟州契丹人,彼地土肥饒,可以生殖,與女直人相為婚姻,亦汝等久安之計也。卿與奧也同催發徙之。仍遣猛安一員以兵護送而東,所經道路勿令與群牧相近,脫或有變,即便討滅。俟其過嶺,卿即還鎮。」上已遣奧也、子元等,謂宰臣曰:「海陵時,契丹人尤被信任,終為叛亂,群牧使鶴壽、駙馬都尉賽一、昭武大將軍術魯古、金吾衛上將軍蒲都皆被害。賽一等皆功臣之後,在官時未嘗與契丹有怨,彼之野心,亦足見也。」安禮對曰:「聖主溥愛天下,子育萬國,不宜有分別。」上曰:「朕非有分別,但善善惡惡,所以為治。異時或有邊釁,契丹豈肯與我一心也哉。」

他日、上又曰く、「薦挙は大臣の職なり。外官五品は猶人を挙ぐることを得るに、宰相は挙ぐる所無し。何ぞや」と。安禮対えて曰く、「孔子は才難しと称す。賢人君子は世に多く有らず。陛下必ず人を得んと欲せば、当に士を取るの路を広くし、器使を区別すべし。斯くの如くにして人を得ん」と。上曰く、「除授の格法は倫ついならず。奉職は皆閥閲の子孫にして、朕の知識する所、資考出身の月日有り。親軍は門第を以て収補せず、廕無き者は武義に至らざれば出職を得ず。但だ女直人に官資を超遷する者有るを以て、故に出職は反って奉職の上に在り。天下一家なるに、独り女直に超遷の格有り。何ぞや」と。安禮対えて曰く、「祖宗以来この格を立てしも、恐らくは輒たやすく改め難し」と。

原文他日,上又曰:「薦舉,大臣之職。外官五品猶得舉人,宰相無所舉,何也?」安禮對曰:「孔子稱才難。賢人君子,世不多有。陛下必欲得人,當廣取士之路,區別器使之,斯得人矣。」上曰:「除授格法不倫。奉職皆閥閱子孫,朕所知識,有資考出身月日。親軍不以門第收補,無廕者不至武義不得出職。但以女直人有超遷官資,故出職反在奉職上。天下一家,獨女直有超遷格,何也?」安禮對曰:「祖宗以來立此格,恐難輒改。」

左丞に転じ、右丞蒲察ほさつ通と同日に拝せらる。上これに謂いて曰く、「朕今年五十有五なり。若し六十を過ぐれば、必ず政事に倦まん。宜しく朕の康強なるに及び、凡そ女直の猛安謀克は当に政事を修挙し、法令を改定すべし。宗族の中に朕の寿に及ぶ者鮮し。朕は頗る女直の旧風に習う。子孫豈にこれを知らんや、況んや政事をや。卿等宜しくこの意を悉くすべし」と。上又曰く、「大理寺の事多く留滞す。宰執これを督責せず。何ぞや」と。安禮対えて曰く、「案牘疑難なる者は旧例に限りを与う」と。上曰く、「旧例是なるか非なるか。今その事を究めず、輒く限りを与うるか」と。参政移剌道曰く、「臣大理に在りし時、未だ滞事有ること無し」と。上曰く、「卿大理に在りて滞事無かりしに、宰執と為りて能く検治せず。何ぞや」と。道対える所無くして退く。上宰臣に問うて曰く、「御史臺の官も亦親知と往来するか」と。皆曰く、「往来殊に少なし」と。上曰く、「台官は当に人事を尽く絶つべし。諫官・記注官は議論を聞くに与る。亦人と遊従すべからず」と。安禮対えて曰く、「親知の間は、恐らくは尽く絶つべからず」と。上曰く、「職任かくの如し。何ぞ人の言を恤らんや」と。

原文轉左丞,與右丞蒲察通同日拜,上謂之曰:「朕今年五十有五,若過六十,必倦於政事。宜及朕之康強,凡女直猛安謀克當修舉政事,改定法令。宗族中鮮有及朕之壽者,朕頗習女直舊風,子孫豈能知之,況政事乎。卿等宜悉此意。」上又曰:「大理寺事多留滯,宰執不督責之,何也?」安禮對曰:「案牘疑難者舊例給限。」上曰:「舊例是邪非邪,今不究其事,輒給以限邪?」參政移剌道曰:「臣在大理時,未嘗有滯事。」上曰:「卿在大理無滯事,為宰執而不能檢治,何也?」道無以對而退。上問宰臣曰:「御史臺官,亦與親知往來否?」皆曰:「往來殊少。」上曰:「台官當盡絕人事。諫官、記注官與聞議論,亦不可與人遊從。」安禮對曰:「親知之間,恐不可盡絕也。」上曰:「職任如是,何恤人之言。」

平章政事に進拝し、芮国公に封ぜられ、世襲謀克を授かる。上安禮に諭して、前代の史書は詳備なるも、今の祖宗実録は太だ簡略なりと。対えて曰く、「前代の史は皆成書し、帝紀・列伝有り。他日史を修する時も亦帝紀・列伝有り、その詳は自ら列伝に見るべし」と。安禮嘗て科目を議し、上に言いて曰く、「臣近日の士人の策論を意とせざるを見る。今若し詩賦策論各場の試験に、文理俱に優る者を中選と為し、時務策を以てその器識を観れば、庶く人を得ん」と。上曰く、「卿等これを議せよ」と。上宰臣に謂いて曰く、「功有る者を賞するは緩むべからず。賞を緩むれば善を勧むる無し」と。安禮対えて曰く、「古の賞は時を逾えずと謂うは、正にこれを謂うなり」と。

原文進拜平章政事,封芮國公,授世襲謀克。上諭安禮,前代史書詳備,今祖宗實錄太簡略。對曰:「前代史皆成書,有帝紀、列傳。他日修史時,亦有帝紀、列傳,其詳自見於列傳也。」安禮嘗議科目,言於上曰:「臣觀近日士人不以策論為意。今若詩賦策論各場考試,文理俱優者為中選,以時務策觀其器識,庶得人也。」上曰:「卿等議之。」上謂宰臣曰:「賞有功不可緩,緩賞無以勸善。」安禮對曰:「古所謂賞不逾時者,正謂此也。」

二十一年、右丞相に拝し、申国公に進封せらる。固く辞して曰く、「臣宰相の位を備うるも、国家に補う所無く、夙夜憂懼し、惟だ罪を得んことを恐れ、上は陛下に負い、下は百姓に負わんとす。臣実に丞相の位を受くる敢えず。惟わくは陛下臣より賢なる者を択びてこれを用い給え」と。上曰く、「朕卿の正直なるを知る。左丞相習顯と異なること無し。且つ政事に練熟し、卿の右に出づる者無し。其れ多く譲ること無かれ」と。安禮頓首して謝す。是歳、薨ず。泰和元年、世宗廟廷に配享す。

原文二十一年,拜右丞相,進封申國公,固辭曰:「臣備位宰相,無補于國家,夙夜憂懼,惟恐得罪,上負陛下,下負百姓。臣實不敢受丞相位,惟陛下擇賢于臣者用之。」上曰:「朕知卿正直,與左丞相習顯無異。且練習政事,無出卿之右者。其毋多讓。」安禮頓首謝。是歲,薨。泰和元年,配享世宗廟廷。

移剌道

原文移剌道

移剌道、本名は趙三。その先祖は乙室部の人なり。初め咸平に徙る。人となり寬厚にして大志有り、篤孝を以て著名なり。女直・契丹・漢字に通ず。皇統初、刑部令史に補せられ、尚書省令史に転じ、再遷して大理司直と為る。母憂に服し、起復して戸部員外郎に遷る。正隆三年、臨潢・咸平路・畢ことごと沙河等の三猛安を徙し、斡盧速に屯戍せしむ。還りて奏す。海陵侍臣に謂いて曰く、「道は骨相異常なり。他日必ず公輔に登らん」と。明年、本部郎中に遷る。

原文移剌道,本名趙三。其先乙室部人也,初徙咸平。為人寬厚,有大志,以篤孝著名。通女直、契丹、漢字。皇統初,補刑部令史,轉尚書省令史,再遷大理司直。丁母憂,起復,遷戶部員外郎。正隆三年,徙臨潢、咸平路、畢沙河等三猛安,屯戍斡盧速。還奏,海陵謂侍臣曰:「道骨相異常,他日必登公輔。」明年,遷本部郎中。

海陵宋を伐つに及び、都督府長史と為る。海陵死し、師還るや、復た紀律無く、士卒淮南を掠め、百姓これを苦しむ。男女二百余人有り、自ら願いて道の奴と為らんとす。道これを受く。淮に至り、諸軍の畢く済るを俟ちて、乃ち悉く遣り返す。大定二年、復た戸部郎中と為り、梁銶とともに山東を安撫し、盗賊を招諭す。民或いは盗を避け役を避くる者、並びに帰業せしめ、罪名の軽重を問わず皆これを原す。軍人は並びに縁りて虜掠することを得ず。僕散忠義窩斡を討つに、道参謀幕府事と為る。賊平ぐ。元帥府俘獲の生口を以て官僚に分給す。道悉くこれを縦遣す。

原文海陵伐宋,為都督府長史。海陵死,師還,無復紀律,士卒掠淮南,百姓苦之。有男女二百餘人,自願與道為奴,道受之,至淮,俟諸軍畢濟,乃悉遣還。大定二年,復為戶部郎中,與梁銶安撫山東,招諭盜賊。民或避盜避役者,並令歸業,不問罪名輕重皆原之,軍人不得並緣虜掠。僕散忠義討窩斡,道參謀幕府事。賊平,元帥府以俘獲生口分給官僚,道悉縱遣之。

京師に還り、入見す。既に退くや、世宗之を目送して曰く、「此の人幹才有り、大用す可し」と。翰林直學士に遷り、起居注を兼ねて修む。頃之、世宗曰く、「道清廉にして幹局有り、翰林は文雅の職、以て其の才を尽くすに足らず。中都轉運は繁劇なり」と。乃ち同知中都路都轉運事に改む。詔して道に河北・山東等路の廉察善惡・升降官員の制敕を送らしむ。上曰く、「卿契丹を討つに従い、俘獲を貪らず、其の志嘉す可し。故に卿をして使と為さしむ。卿其れ之を勉めよ」と。是の歳、廉を以て升る者は、磁州刺史完顏蒲速列を北京副留守と為し、濰州刺史蒲察蒲查を博州防禦使と為し、威州刺史完顏兀答補を磁州刺史と為す。治状善からずして下遷する者は、登州刺史大磐を嵩州刺史と為し、同知南京留守高德基を同知北京轉運事と為し、衛州防禦使完顏阿鄰を陳州防禦使と為し、真定尹徒單拔改を興平軍節度使と為し、安國軍節度使唐括重國を彰化軍節度使と為す。仍て功過善惡を具して宣諭し、饋獻を受くる毋かれとす。大理卿に遷る。五年、宋人和を請い、兵を罷む。道山東に往き、軍器を閲實し、戍兵の妻子を振贍す。再び同知大興尹を除く。

原文還京師,入見,既退,世宗目送之,曰:「此人有幹才,可大用也。」遷翰林直學士,兼修起居注。頃之,世宗曰:「道清廉有幹局,翰林文雅之職,不足以盡其才。」中都轉運繁劇,乃改同知中都路都轉運事。詔道送河北、山東等路廉察善惡升降官員制敕,上曰:「卿從討契丹,不貪俘獲,其志可嘉。故命卿為使。卿其勉之。」是歲,以廉升者,磁州刺史完顏蒲速列為北京副留守,濰州刺史蒲察蒲查為博州防禦使,威州刺史完顏兀答補為磁州刺史。治狀不善下遷者,登州刺史大磐為嵩州刺史,同知南京留守高德基為同知北京轉運事,衛州防禦使完顏阿鄰為陳州防禦使,真定尹徒單拔改為興平軍節度使,安國軍節度使唐括重國為彰化軍節度使。仍具功過善惡宣諭,毋受饋獻。遷大理卿。五年,宋人請和,罷兵。道往山東,閱實軍器,振贍戍兵妻子。再除同知大興尹。

親軍百人長完顏阿思缽、禁直日に非ずして刀を帯びて宮に入る。其の夜左藏庫に入り、都監郭良臣を殺し、金珠を盗み取る。點檢司其の疑似なる者八人を執り、三人を掠笞して死なせ、五人自ら誣り、其の贓得可からず。上之を疑い、道に参問せしむ。道久しく其の獄を持す。既にして阿思缽金を鬻ぐ事覚え、誅せらる。上曰く、「箠楚の下、何か求め得ざらん。奈何ぞ點檢司情を以て之を求めざるや」と。掠死せる者に錢人二百貫を賜い、其の家を周し、死せざる者に人五十貫を賜う。詔して自今護衛親軍百人長・五十人長、直日に非ざれば刀を帯びて宮に入るを得ずと。

原文親軍百人長完顏阿思缽非禁直日帶刀入宮,其夜入左藏庫,殺都監郭良臣,盜取金珠。點檢司執其疑似者八人,掠笞三人死,五人者自誣,其贓不可得。上疑之,命道參問。道持久其獄,既而阿思缽鬻金事覺,伏誅。上曰:「箠楚之下,何求不得。奈何點檢司不以情求之乎!」賜掠死者錢人二百貫,周其家,不死者人五十貫。詔自今護衛親軍百人長、五十人長,非直日不得帶刀入宮。

戶部尚書に遷る。上曰く、「朕初め即位せし時、卿戶部員外郎たりしが、卿孳孳として善を為すを聞き、卿を郎中に進めしに、果たす称す可き有り。及京尹に貳し、亦能く治む。戶部は國用を経治す、卿其れ之を勉めよ」と。道頓首して謝す。西北路招討使に改め、金帯を賜う。故事に、招討使官に到れば、諸部皆駝馬を献ず、多きは数百に至る。道皆之を却く。数月皆復た貢職す。父喪にて官を去り、起復して參知政事と為る。初め、諸部獄訟有れば、招討司例として胥吏を遣わして按問せしむ。往々奸利を為す。道専ら一官を設くるを請う。上嘉して之を納る。招討司勘事官を設くるは此より始まる。上宰臣に謂ひて曰く、「比聞く、大理寺獄を断ずるに、輒ち旬月を経ると。何ぞや」と。道奏して曰く、「法に在りては、死囚を決するは七日を過ぎず、徒刑は五日、杖刑は三日なり」と。上曰く、「法に程限有りて、而して輒ち之に違うは、此れ官吏の責なり。厳に戒約して以て其の弊を去らしむべし」と。尚書右丞に進む。致仕を乞う。上曰く、「卿家に孝、朕に忠、法令政事に通習す。六十を踰えたりと雖ども、心力未だ衰えず、退く可からず」と。乃ち南京留守を除き、通犀帯を賜う。上曰く、「河南統軍烏古論思列人と為り少しく戇なり。凡そ邊事は須らく卿と共に議すべし。卿朕の意を以て思列に諭せよ」と。入りて平章政事を拝す。

原文遷戶部尚書。上曰:「朕初即位,卿為戶部員外郎,聞卿孳孳為善,進卿郎中,果有可稱。及貳京尹,亦能善治。戶部經治國用,卿其勉之。」道頓首謝。改西北路招討使,賜金帶。故事,招討使到官,諸部皆獻駝馬,多至數百,道皆卻之,數月皆復貢職。父喪去官,起復參知政事。初,諸部有獄訟,招討司例遣胥吏按問,往往為奸利。道請專設一官,上嘉納之,招討司設勘事官自此始。上謂宰臣曰:「比聞大理寺斷獄,輒經旬月,何邪?」道奏曰:「在法,決死囚不過七日,徒刑五日,杖刑三日。」上曰:「法有程限,而輒違之,此官吏之責也,嚴戒約以去其弊。」進尚書右丞。乞致仕,上曰:「卿孝於家,忠於朕,通習法令政事,雖逾六十,心力未衰,未可退也。」乃除南京留守,賜通犀帶。上曰:「河南統軍烏古論思列為人少戇,凡邊事須與卿共議。卿以朕意諭思列也。」入拜平章政事。

道の弟臨潼令幼阿補、罪を犯して死に至る。道家に於いて罪を待つ。皇太子の生日、慶和殿に於いて宴す。上道何故在らざるを問う。參知政事粘割斡特剌奏して曰く、「其の弟死刑を犯す。制に据れば内に入るに合わず」と。上曰く、「此れ何ぞ傷かん」と。即ち詔して道を起して視事せしむ。是の時縣令多く闕く。上以て宰相に問う。道奏して曰く、「散官宣武以上を借除以て之を充てん」と。上曰く、「廉察八品以下已に官を去れる者、錄事丞簿清幹の誉有る者、縣尉優等に入れる者、皆縣令と與うべし。散官五品に至り、貪污曠職の名無き者も、亦之と與う可し。縣令闕けざるを俟ちて、即ち旧制の如くすべし」と。

原文道弟臨潼令幼阿補犯罪至死,道待罪於家。皇太子生日,宴于慶和殿,上問道何故不在,參知政事粘割斡特剌奏曰:「其弟犯死刑,據制不合入內。」上曰:「此何傷也。」即詔道起視事。是時縣令多闕,上以問宰相,道奏曰:「散官宣武以上借除以充之。」上曰:「廉察八品以下已去官者,錄事丞簿有清幹之譽者,縣尉入優等者,皆與縣令。散官至五品,無貪污曠職之名者,亦可與之。俟縣令不闕,即如舊制。」

二十三年、罷めて咸平尹と為り、莘國公に封ぜらる。上曰く、「卿数年前嘗て致仕を乞う。朕卿を許さず。卿今老いたり。咸平卿の故郷、地涼く事少なし。老者の宜しくする所なり」と。通犀帯を賜う。明日、復た近侍曹淵を遣わして旨を諭さしめて曰く、「咸平窩斡乱の後より、民業未だ旧に復せず。朕卿をして郷里に帰らしむるは、以て一境を安輯せんと欲するなり」と。二十四年、薨ず。上之を聞き、悼惜すること良久し。是の歳上京に幸す。道咸平を過ぎ、使を遣わして祭を致し、賻贈加ふること有り。詔して圖像を秘府に藏し、其の子八狗を擢て閣門祗候と為す。

原文二十三年,罷為咸平尹,封莘國公。上曰:「卿數年前嘗乞致仕,朕不許卿。卿今老矣。咸平卿故鄉,地涼事少,老者所宜。」賜通犀帶。明日,復遣近侍曹淵諭旨曰:「咸平自窩斡亂後,民業尚未復舊,朕聽卿歸鄉里,所以安輯一境也。」二十四年,薨。上聞之,悼惜良久。是歲幸上京,道過咸平,遣使致祭,賻贈有加。詔圖像藏秘府,擢其子八狗為閣門祗候。

子 光祖

原文子 光祖

光祖字は仲禮、幼名は八狗。廕を以て閣門祗候を補し、平晉令・衛州都巡河・內承奉押班に調じ、累轉して東上閤門使に至り、典客署令を兼ぬ。大安中、少府少監に改む。母憂に丁り、起復して儀鸞局使・同知宣徽院使事・秘書監右宣徽使と為る。興定二年十一月、詔して百官を集めて以て長久の利を為す所以を議せしむ。光祖等三人議して曰く、「土人を募り方面の權任を仮し、俾く人自ら勧め、各一方を保たしむべし」と。此れより公府封建の論興る。語は九公傳に在り。三年、左宣徽使に轉ず。五年、卒す。

原文光祖字仲禮,幼名八狗。以廕補閣門祗候,調平晉令、衛州都巡河、內承奉押班,累轉東上閤門使,兼典客署令。大安中,改少府少監。丁母憂,起復儀鸞局使,同知宣徽院使事,秘書監右宣徽使。興定二年十一月,詔集百官議所以為長久之利者,光祖等三人議曰:「募土人假以方面權任,俾人自勸,各保一方。」由是公府封建之論興焉,語在九公傳。三年,轉左宣徽使。五年,卒。

贊して曰く、良弼・守道・琚・安禮・道、皆正隆の時には聞こえず、其の治朝に簉し、明主を佐け、諫行き言聽かれ、膏澤民に下る。豈其の時に遇はざらんや。官序闕無く、上下相安じ、君其の名を享け、臣其の祿を終う。盛なりと謂う可し。海陵能く移剌道に公輔の器有るを知りながら、用ふる能はざりし故に、其の治績亦大定を待ちて後に著る。人才の顯晦、世道の汙隆に系る有り。尚うるかなり。金世内燕には、惟だ親王・公主・駙馬のみ得て與る。世宗一日特ちに琚を召し入る。諸王以下竊かに語り、心蓋し之を易くす。世宗之を覚り、即ち之に語りて曰く、「我が父子家人輩をして安然として事無く、而して今日の樂み有らしむるは、此の人なり」と。乃ち近事数十を歴舉して顯著にして時人の知る所なる者を以て之を曉す。皆俯伏して謝罪す。君臣相知ること此の如し。忠を竭さざる有らんや。大定末、世宗将に元妃を立てて后と為さんとし、以て琚に問う。琚左右を屏ひて曰く、「元妃の立つは、本より異辭無し。東宮を如何」と。世宗愕然として曰く、「何を謂うぞ」と。琚曰く、「元妃自ら子有り。元妃立てば、東宮動搖せん」と。世宗悟りて止む。且つ人主の家事は、人臣の難く言う所なり。許敬宗一言を以て幾くか唐の祚を亡ぼさんとす。琚の對、其れ金の為に謀る者至れり。

原文贊曰:良弼、守道、琚、安禮、道,皆無聞正隆時,及其簉治朝,佐明主,諫行言聽,膏澤下於民,豈非遇其時邪。官序無闕,上下相安,君享其名,臣終其祿,可謂盛哉。海陵能知移剌道有公輔之器,而不能用,故其治績亦待大定而後著焉。人才之顯晦,有系于世道之汙隆也,尚矣。金世內燕,惟親王公主駙馬得與,世宗一日特召琚入,諸王以下竊語,心蓋易之。世宗覺之,即語之曰:「使我父子家人輩得安然無事,而有今日之樂者,此人力也。」乃曆舉近事數十顯著為時所知者以曉之,皆俯伏謝罪。君臣相知如此,有不竭忠者乎!大定末,世宗將立元妃為後,以問琚,琚屏左右曰:「元妃之立,本無異辭,如東宮何?」世宗愕然曰:「何謂也?」琚曰:「元妃自有子,元妃立,東宮搖矣。」世宗悟而止。且人主家事,人臣之所難言者,許敬宗以一言幾亡唐祚,琚之對,其為金謀者至矣。