金史

列傳第二十五:紇石烈志寧、僕散忠義、徒單合喜

列傳第二十五:紇石烈志寧、僕散忠義、徒單合喜

紇石烈志寧

原文紇石烈志寧

紇石烈志寧は、本名を撒曷輦といい、上京胡塔安の人である。五代前の祖である太尉韓赤以来、国(金朝)と代々甥舅の関係にあった。父の撒八は、海陵王の時に名を賜って懷忠と称し、泰州路顏河の世襲謀克ぼうこくとなり、猛安もうあんに転じ、かつて東平尹・開遠軍節度使を務めた。志寧は沈毅にして大略があり、梁王宗弼の娘である永安県主を娶り、宗弼は諸婿の中で最も彼を愛した。皇統年間、護衛となった。海陵王は彼を右宣徽使とし、出て汾陽軍節度使となり、入って兵部尚書となり、左宣徽使・都点検に改め、枢密副使、開封尹に遷った。

原文紇石烈志寧,本名撒曷輦,上京胡塔安人。自五代祖太尉韓赤以來,與國家世為甥舅。父撒八,海陵時賜名懷忠,為泰州路顏河世襲謀克,轉猛安,嘗為東平尹、開遠軍節度使。志寧沉毅有大略,娶梁王宗弼女永安縣主,宗弼于諸婿中最愛之。皇統間,為護衛。海陵以為右宣徽使,出為汾陽軍節度使,入為兵部尚書,改左宣徽使、都點檢,遷樞密副使,開封尹。

契丹の撒八が反乱を起こすと、枢密使僕散忽土・北京留守蕭賾・西京留守蕭懷忠はいずれも征討の功なく、誅殺に処せられた。ここにおいて、志寧は北面副統となり、都統白彥敬とともに、北京・臨潢・泰州の三路軍を率いてこれを討った。志寧が北京に至った時、海陵王はすでに宋を伐って淮を渡っていた。彥敬・志寧は世宗に異志あることを聞き、密かに會甯尹完顏蒲速賚・利涉軍節度使獨吉義と結び、これを攻めようとした。しかし世宗はすでに即位し、石抹移迭・移剌曷補を派遣して招撫しようとしたが、彥敬・志寧はその使者九人を殺した。世宗は完顏謀衍を派遣して討伐させると、兵衆は戦おうとせず、ついに彥敬とともに降伏した。世宗が問うて言うには、「正隆(海陵王)は暴虐で、人望はすでに絶え、朕は太祖の孫として大位についた。汝らは朕の使者を殺し、また正隆のために死節することもできず、人に図られることを恐れて、その後降って来たのである。朕が今汝らを殺したとしても、何の言い訳があろうか」。彥敬は答える言葉がなかったが、志寧が前に進み出て奏上して言うには、「臣らは正隆の厚恩を受けており、降らなかったのは、罪は万死に当たります」。上(世宗)は言った、「汝らの初心もまた、事える者に忠実であると言えよう。今より朕に仕えるにあたり、忠節を励ますがよい」。

原文契丹撒八反,樞密使僕散忽土、北京留守蕭賾、西京留守蕭懷忠皆以征討無功,坐誅。於是,志寧為北面副統,與都統白彥敬,以北京、臨潢、泰州三路軍討之。志寧至北京,而海陵伐宋已渡淮。彥敬、志寧聞世宗有異志,乃陰結會甯尹完顏蒲速賚、利涉軍節度使獨吉義,將攻之。而世宗已即位,使石抹移迭、移剌曷補來招,彥敬、志寧殺其使者九人。世宗使完顏謀衍來伐,眾不肯戰,乃與彥敬俱降。世宗問曰:「正隆暴虐,人望既絕,朕以太祖之孫即大位。汝殺我使者,又不能為正隆死節,恐為人所圖,然後來降。朕今殺汝等,將何辭?」彥敬未有以對,志寧前奏曰:「臣等受正隆厚恩,所以不降,罪當萬死。」上曰:「汝輩初心亦可謂忠於所事,自今事朕,宜勉忠節。」

世宗が紮八を派遣して窩斡を招撫すると、紮八はかえって彼を勧め、ついに帝を称させた。世宗は右副元帥完顏謀衍を派遣してこれを征討させ、志寧は臨海節度使として、右翼軍を都統した。窩斡は長濼で敗れ、西へ逃走し、志寧は霿𩃭河で追いついた。賊はすでに先に渡河し、岸に依って陣を布き、橋と岸を破壊して障害としていた。志寧は賊と河を挟み、疑兵を設け、萬戸夾穀清臣・徒單海羅とともに下流で渡河した。渡り終えると、前方に支流の港があり、岸は切り立っており、その中は泥濘であったので、柳を束ねて敷き詰め、士卒はことごとく渡った。数里行くと平地に出て、将士がちょうど食事をしていると、賊が急に到来した。賊は南岡を占拠し、三度にわたって志寧の陣に駆け下った。陣は堅固で、力戦し、流れ矢が左臂に当たったが、戦いを平然と続けた。賊は上風に位置して火を放ち、煙の勢いに乗って駆け撃ってきた。志寧の歩軍が続いて到着し、十余合転戦したが、火はますます盛んになり、風煙が突き入ってきて、防ぎきれなかった。ちょうど雨が降り出し、風煙が消えたので、奮撃して大破した。ここにおいて、元帥謀衍・右監軍福壽は賊を急撃せず、久しく功がなかったので、右丞僕散忠義が自ら賊を討つことを請い、また志寧が賊を撃って功があったので、上(世宗)は忠義をもって謀衍に代え、志寧をもって福壽に代え、志寧を定国公に封じ、蒲察ほさつ通を軍中に派遣してこれを宣諭させた。賊は懿州の界を掠め、霊山・同昌・恵和の三県を陥落させ、北京を睥睨した。ちょうど土河の水が増水し、賊は渡ることができず、西へ向かって三韓県へ向かった。志寧がちょうどこれを追跡していると、元帥忠義が賊と花道で遭遇し、軍はやや不利を被った。賊は志寧がその後を追っているのを見て、勝ちに乗じることができず、西へ逃走した。この時、大軍の馬は痩弱で、追撃に堪えず、諸将は軍を止めて追うなと欲した。志寧が賊の斥候を捕らえると、賊が自ら精鋭を選び、老幼と輜重しちょうとを分道させ、山后で会合することを期していることを知り、その輜重を撃つことができると説いた。忠義はこれをよしとし、ついに移馬嶺を越え、進んで嫋嶺西の陷泉に至った。賊は左翼が南岡を占拠して陣を布いているのを見て、侵すことができなかった。右翼萬戸烏延查剌が賊を撃って少し退かせると、志寧は夾穀清臣らとともにこれを撃ち、賊衆は大敗し、水を渡って逃走した。窩斡の母徐輦は営を挙げて落括岡より西へ去ったが、志寧が追いつき、その輜重をことごとく奪い、五万余人を捕虜とし、雑畜は数えきれなかった。偽節度使六人とその部族はみな降伏した。窩斡は奚の中へ逃走し、七渡河に至ったが、志寧が再びこれを破った。賊は渾嶺を越え、奚の中に入った。志寧は賊将の稍合住を捕らえたが、殺さずに釈放し、官爵と賞賜を約束して帰し、窩斡を捕らえて自ら功を立てることを約束させた。稍合住が去った後、窩斡に会うと、捕らえられたことを秘して言わず、かえって窩斡に対して奚人を離間して言うには、「陷泉での敗北は、奚人に二心があるからであり、察知せざるを得ない」。この時、窩斡はたびたび敗北し、その配下もまたそれぞれに心を異にしていたので、稍合住は賊帥の神獨斡とともに窩斡を捕らえ、右都監完顏思敬のもとに赴いて降伏した。志寧は萬戸清臣、宗甯、速哥らとともに、余党を追捕して燕子城に至り、蓄えられていた良馬をことごとく得、ついに抹拔裏達の地に至って、ことごとくこれを捕らえた。逆党が平定されると、朝廷に入り、左副元帥となり、玉帯を賜った。

原文世宗使紮八招窩斡,紮八乃勸之,遂稱帝。世宗使右副元帥完顏謀衍征之,志寧以臨海節度使,都統右翼軍。窩斡敗於長濼,西走,志寧追及於霿𩃭河。賊已先渡,依岸為陣,毀橋岸以為阻。志寧與賊夾河,為疑兵,與萬戶夾穀清臣、徒單海羅於下流涉渡。已渡,前有支港岸鬥絕,其中泥濘,乃束柳填藉,士卒畢濟。行數裏,得平地,將士方食,賊奄至。賊據南岡,三馳下志寧陣。陣堅,力戰,流矢中左臂,戰自若。賊據上風縱火,乘煙勢馳擊。志寧步軍繼至,轉戰十餘合,火益熾,風煙突人,不可當。會雨作,風煙乃熄,遂奮擊,大破之。於是,元帥謀衍、右監軍福壽不急擊賊,久無功,右丞僕散忠義請自討賊,而志寧擊賊有功,上以忠義代謀衍,志寧代福壽,封定國公,使蒲察通至軍中宣諭之。賊略懿州界,陷靈山、同昌、惠和三縣,睥睨北京。會土河水漲,賊不得渡,乃西趨三韓縣。志寧方追躡之,元帥忠義與賊遇於花道,軍頗失利。賊見志寧踵其後,不敢乘勝,遂西走。是時,大軍馬瘦弱,不堪追襲,諸將欲止軍勿追。志寧獲賊候人,知賊自選精銳,與老小輜重分道,期山后會集,可擊其輜重。忠義以為然,遂過移馬嶺,進及嫋嶺西陷泉。賊見左翼據南岡為陣,不敢犯。右翼萬戶烏延查剌擊賊少卻,志寧與夾穀清臣等擊之,賊眾大敗,涉水走。窩斡母徐輦舉營由落括岡西去,志寧追及之,盡獲其輜重,俘五萬餘人,雜畜不可勝計。偽節度使六,及其部族皆降。窩斡走奚中,至七渡河,志寧複敗之。賊過渾嶺,入于奚中。志寧獲賊將稍合住,釋弗殺,許以官賞,縱之歸,約以捕窩斡自效。稍合住既去,見窩斡,秘不言見獲事,乃反間奚人於窩斡曰:「陷泉失利,奚人有貳志,不可不察。」當是時,窩斡屢敗,其下亦各有心,稍合住乃與賊帥神獨斡執窩斡,詣右都監完顏思敬降。志寧與萬戶清臣,宗甯、速哥等,追捕餘黨至燕子城,盡得所畜善馬,因至抹拔裏達之地,悉獲之。逆党既平,入朝,為左副元帥,賜以玉帶。

宋の事を経略し、軍を睢陽に駐屯させ、都元帥忠義は南京に居て、諸軍を節制した。宋の将軍黄観察が蔡州を占拠し、楊思が潁昌を占拠した。志寧は完顔かんがん王祥を使わして蔡州を再び奪取させ、黄観察は逃げ去った。完顔襄が潁州を攻撃し、これを陥落させ、楊思を捕らえた。そこで牒文を宋の枢密使張浚に移し、皇統以来の旧式に従うよう求めると、張浚は返書して言うには、「謹んで使者を麾下に遣わしてこれを議します」と。この時、宋は窩斡の党人である括裏・紮八を得て、その謀略を用いて霊璧・虹県を攻め、都統奚撻不也が叛いて宋に入り、遂に宿州を陥落させた。括裏らは謀って言うには、「北人は騎射を恃み、戦勝攻取する。今夏の月は長雨で、膠が解け、弓が使えない」と。故に李世輔がこれとともに来たりて宿州を攻めたのである。帰徳尹術甲撒速・宿州防禦使烏林答剌撒・万戸温迪罕速可・裴満婁室ろうしつは、約束を守らず、堅壁して大軍を待とうとせず、軽率に出て戦ったため、これによって軍は敗れ、城は陥落した。剌撒はかつて人を宋の境界に遣わして貿易させ、李世輔と交通し、その賄賂を受け取っていたが、久しくして事が発覚し、誅殺された。謀克賽一は故意に知りながら挙げなかった罪に坐し、除名された。撻不也の母斡裏懶は、連座して死に当たったが、上は言うには、「撻不也は国を背き母を棄てた、これを殺して何の益があろうか。朕はその老いを哀れむ」と。遂にその死を赦した。詔して撒速・剌撒・速可・婁室にそれぞれ杖罰を差等して与え、撒速・剌撒はなお職を解かれた。世輔は自ら得志したと思い、日々括裏・紮八と酒宴を設けて大いに会した。志寧は精兵一万を率い、睢陽より発し、宿州に向かった。中使が来て軍を督したが、志寧は付けて奏上して言うには、「この役は聖慮を煩わすには及びません。臣はただ世輔が逃げ去ることを恐れるのみです」と。世輔は志寧の軍がわずか一万と聞き、甚だこれを軽んじ、言うには、「十人で一人を捕らえさせよう」と。括裏らが斥候の者の見た上将の旗幟を問うて、これが志寧であると知り、世輔に言うには、「これは撒合輦監軍である。軍は一万に至る、軽んじてはならない」と。大定三年五月二十日、志寧が宿州に将に至らんとするや、従軍に命じて全て旗幟を執らせ、州の西に駐屯させて疑兵とし、三猛安の兵を州の南に駐屯させた。志寧は自ら大軍を率いて州の東南に駐屯し、その帰路を扼した。世輔は州西の兵が旌旗野を蔽うのを見て、果たして大軍は州西に在りと思い、東南の兵は少なく慮るに足らぬとして、まずこれを撃った。歩騎数万を以て、皆盾を執り、城に背いて陣を為し、外に行馬を以てこれを防いだ。別将に兵三千を率いさせ、東門より出で、自ら陣の後より志寧の軍を攻めさせようとしたが、万戸蒲查がこれを撃破した。右翼万戸夾穀清臣が前行となり、行馬を撤去し毀ち、短兵接戦し、世輔の軍は乱れ、諸将がこれに乗じ、追撃して城下に至った。この夕、世輔は敗将を全て取り調べ、将に斬らんとしたが、その統制常吉が恐れて来奔し、城中の虚実を全て得た。明日、世輔は兵を悉く出して戦い、騎兵を前に置いた。志寧は夾穀清臣にこれを当たらせた。世輔の別将が五六千騎を一隊とし、清臣と遭遇したが、清臣が踵を返してこれを撃つと、宋の将は旗を返すことができなかった。志寧は諸軍を麾して力戦させ、世輔はまた大敗し、逃げる者は自ら踏み躙り合い、僵屍枕をなし、争って城門に入った。門は填塞し、人々自ら阻まれ、遂に城に沿って上った。我が軍は濠の外よりこれを射かけ、往々にして隍の間に堕ち死んだ。騎士一万五千、歩卒三万余人を殺した。世輔は夜に乗じて脱走した。明日、夾穀清臣・張師忠が世輔に追い及び、首四千余を斬り、水に赴いて死ぬ者は数え切れず、甲三万を獲、その他の兵仗甚だ多かった。上は御服の金線袍・玉吐鶻・賓鉄佩刀を以て、移剌道をして軍中に就いてこれを賜わしめた。凡そ功有る将士、猛安・謀克は並びに陝西の例に従って遷賞し、蒲輦は官三階を進め、重彩三端・絹六匹を賜い、旗鼓笛手・吏人は各々銭十貫を賜わった。志寧に詔して言うには、「卿は年少ながらも、前に契丹を征した戦功が最も優れ、今また大敵を破った。朕は甚だこれを嘉する」と。

原文經略宋事,駐軍睢陽,都元帥忠義居南京,節制諸軍。宋將黃觀察據蔡州,楊思據潁昌。志寧使完顏王祥複取蔡州,黃觀察遁去。完顏襄攻潁州,拔之,獲楊思。乃移牒宋樞密使張浚,使依皇統以來舊式,浚複書曰:「謹遣使者至麾下議之。」是時,宋得窩斡黨人括裏、紮八,用其謀攻靈璧、虹縣,都統奚撻不也叛入于宋,遂陷宿州。括裏等謀曰:「北人恃騎射,戰勝攻取。今夏月久雨,膠解,弓不可用。」故李世輔與之來攻宿州。歸德尹術甲撒速、宿州防禦使烏林答剌撒、萬戶溫蒂罕速可、裴滿婁室,不守約束,不肯堅壁俟大軍,輒出與戰,由是軍敗,城陷。剌撒嘗遣人入宋界貿易,交通李世輔,受其賂遺,久之,事覺,伏誅。謀克賽一坐故知不舉,除名。撻不也母斡裏懶,緣坐當死,上曰:「撻不也背國棄母,殺之何益?朕閔其老。」遂原其死。詔撒速、剌撒、速可、婁室各杖有差,撒速、剌撒仍解職。世輔自以為得志,日與括裏、紮八置酒高會。志寧以精兵萬人,發自睢陽,趨宿州。中使來督軍,志寧附奏曰:「此役不煩聖慮,臣但恐世輔遁去耳。」世輔聞志寧軍止萬人,甚易之,曰:「當令十人執一人也。」括裏等問候人所見上將旗幟,知是志寧,謂世輔曰:「此撒合輦監軍也,軍至萬人,慎毋輕之。」大定三年五月二十日,志寧將至宿州,乃令從軍盡執旗幟,駐州西為疑兵,三猛安兵駐州南。志寧自以大軍駐州東南,厄其歸路。世輔望見州西兵旌旗蔽野,果謂大軍在州西,而謂東南兵少不足慮,先擊之。以步騎數萬,皆執盾,背城為陣,外以行馬捍之。使別將將兵三千,出自東門,欲自陣後攻志寧軍,萬戶蒲查擊敗之。右翼萬戶夾穀清臣為前行,撤毀行馬,短兵接戰,世輔軍亂,諸將乘之,追殺至城下。是夕,世輔盡按敗將,將斬之,其統制常吉懼而來奔,盡得城中虛實。明日,世輔悉兵出戰,騎兵居前,志寧使夾穀清臣當之。世輔別將以五六千騎為一隊,與清臣遇,清臣踵擊之,宋將不能反旆。志寧麾諸軍力戰,世輔複大敗,走者自相蹈藉,僵屍相枕,爭城門而入。門填塞,人人自阻,遂緣城而上。我軍自濠外射之,往往墮死於隍間。殺騎士萬五千,步卒三萬餘人。世輔乘夜脫走。明日,夾穀清臣、張師忠追及世輔,斬首四千余,赴水死者不可勝計,獲甲三萬,他兵仗甚眾。上以禦服金線袍、玉吐鶻、賓鐵佩刀,使移剌道就軍中賜之。凡有功將士,猛安、謀克並如陝西遷賞,蒲輦進官三階、重彩三端、絹六匹,旗鼓笛手、吏人各賜錢十貫。詔志寧曰:「卿雖年少,前征契丹戰功居最,今複破大敵,朕甚嘉之。」

宋人が和議を決することができず、都元帥僕散忠義は軍を泰和に移し、志寧は軍を臨渙に移し、遂に淮を渡り、徒単克寧が盱眙・濠・廬・和・滁等の州を取った。宋人は懼れ、乃ち決意して和を請うた。使者六七度往来し、議遂に定まり、宋は世々姪国たること、歳幣二十万両・匹を約した。魏杞が誓書を奉じて入見し、再び通好した。志寧は軍を睢陽に還した。上は御服・玉佩刀・通犀御帯を以てこれを賜わった。詔して言うには、「霊璧・虹県・宿州の兵士で死者は、朕実にこれを閔れむ。宜しく郷里に帰葬せしめ、官がこれを送り届け、人ごとに賻銭三十貫を与えよ」と。鳳翔尹孛術魯定方以下猛安謀克には、官が致祭した。定方には賻銀五百両・重彩二十端、猛安には三百貫、謀克には二百貫、蒲裏衍には一百貫、権猛安には二百貫、権謀克には一百五十貫、権蒲裏衍には七十貫を賜わった。

原文宋人議和不能決,都元帥僕散忠義移軍泰和,志寧移軍臨渙,遂渡淮,徒單克寧取盱眙、濠、廬、和、滁等州。宋人懼,乃決意請和。使者六七往反,議遂定,宋世為侄國,約歲幣二十萬兩、匹。魏杞奉誓書入見,複通好。志寧還軍睢陽,上以禦服、玉佩刀、通犀禦帶賜之。詔曰:「靈璧、虹縣、宿州兵士死者,朕實閔焉。宜歸葬鄉里,官為齎送,人賻錢三十貫。」鳳翔尹孛術魯定方以下猛安謀克,官為致祭。定方賻銀五百兩、重彩二十端,猛安三百貫,謀克二百貫,蒲裏衍一百貫,權猛安二百貫,權謀克一百五十貫,權蒲裏衍七十貫。

五年三月、忠義が京師に朝し、志寧は軍を南京に駐屯させた。五月、志寧が召されて京師に至り、平章政事に拝され、左副元帥は元の如し。志寧はまた軍に還り、玉束帯を賜わった。上は言うには、「卿は壮年にしてこのように功を立てることができた。朕は甚だこれを嘉する。南服は定まったとはいえ、日月尚浅い。卿の一往して規画するを須つ」と。六年二月、志寧が京師に還り、枢密使に拝された。七年十一月八日、皇太子の生日に、群臣を東宮に宴し、志寧が觴を奉じて寿を上ずると、上は悦び、顧みて太子に言うには、「天下無事、我が父子今日楽しむは、皆この人の力なり」と。太子に命じて御前の玉大杓を取らせて酒を酌ませ、上は自ら志寧に飲ませ、即ち玉杓及び黄金五百両を以てこれを賜わった。第十四女を志寧の子諸神奴に降嫁し、八年十月、幣を進め、百官を慶和殿に宴した。皇女が婦礼を以て謁見すると、志寧夫婦は坐してこれを受け、歓飲して終日、夜久くして乃ち罷めた。九年、右丞相に拝された。十一年、宗敘に代わって北征した。既に還ると、使者を遣わして迎え労い、弓矢・玉吐鶻を賜わった。入見すると、上は良久しく慰労した。この日、広平郡王に封じ、また使者を第に就かせてこれを慰労した。皇太子の生日に、群臣を東宮に宴し、玉帯を志寧に賜い、上は言うには、「これは梁王宗弼の服用したものである。故に卿に賜う」と。郊祀の覃恩に、従征護衛は皆賜い有り、金源郡王に進封された。

原文五年三月,忠義朝京師,志寧駐軍南京。五月,志寧召至京師,拜平章政事,左副元帥如故。志寧複還軍,賜玉束帶,上曰:「卿壯年能立功如此,朕甚嘉之。南服雖定,日月尚淺,須卿一往規畫。」六年二月,志寧還京師,拜樞密使。七年十一月八日,皇太子生日,宴群臣於東宮,志寧奉觴上壽,上悅,顧謂太子曰:「天下無事,吾父子今日相樂,皆此人力也。」使太子取御前玉大杓酌酒,上手飲志寧,即以玉杓及黃金五百兩賜之。以第十四女下嫁志寧子諸神奴,八年十月,進幣,宴百官于慶和殿。皇女以婦禮謁見,志寧夫婦坐而受之,歡飲終日,夜久乃罷。九年,拜右丞相。十一年,代宗敘北征。既還,遣使者迎勞,賜以弓矢、玉吐鶻。入見,上慰勞良久。是日,封廣平郡王,複遣使就第慰勞之。皇太子生日,宴群臣於東宮,以玉帶賜志寧,上曰:「此梁王宗弼所服者,故以賜卿。」郊祀覃恩,從征護衛,皆有賜,進封金源郡王。

十二年、志寧に疾有り、中使が見問し、日に三四輩に及んだ。疾篤く、金丹三十粒を賜い、詔して言うには、「この丹は未だ嘗て人に賜わったことはない」と。使者が至った時、志寧は既に言うことができず、ただ稽首するのみであった。この歳、薨去した。上は朝を輟み、その喪に臨み、行きて哭して入り、哀しみ左右を動かした。将に葬らんとするに、上は致祭し、甲が柩の前に陳べられているのを見て、また慟哭した。賻銀千五百両・重彩五十端・絹五百匹を賜い、葬事祠堂は皆官給に従い、武定と諡された。十五年、衍慶宮に図像された。

原文十二年,志寧有疾,中使看問,日三四輩。疾亟,賜金丹三十粒,詔曰:「此丹未嘗以賜人也。」使者至,志寧已不能言,但稽首而已。是歲,薨。上輟朝,臨其喪,行哭而入,哀動左右。將葬,上致祭,見陳甲柩前,複慟哭之。賻銀千五百兩、重彩五十端、絹五百匹,葬事祠堂,皆從官給,諡武定。十五年,圖像衍慶宮。

志寧の妻永安県主は甚だ嫉妬深く、かつて孕みたる妾を殺し、及び志寧が薨じた後、諸神奴兄弟は皆病没し、世宗は甚だこれを惜しみ、使者を遣わして永安県主に諭して曰く、「丞相には大功三つあり、先朝の旧臣、ただ秦・宋の二王のみ功大にして、余は及ばず。今その孽子を養うに、親子の如く視るべし」と。二十二年、上、宰臣に問う、「僕散忠義・紇石烈志寧は孰れか愈れるか」と。尚書左丞襄奏して曰く、「忠義は兵権に精緻なり、これその長ずる所なり」と。上曰く、「然らず。志寧は敵に臨み、身を士卒に先んじ、勇敢の気、太師梁王よりこの人あること未だし」と。明昌五年、世宗廟廷に配享す。

僕散忠義

原文僕散忠義

僕散忠義、本名は烏者、上京抜盧古河の人、宣献皇后の甥、元妃の兄なり。高祖は斡魯補。曾祖は班睹。祖は胡闌。父は背魯、国初に世襲謀克、婆速路統軍使、致仕す。忠義は魁偉、髯長く、兵を談ずるを喜び、大略あり。年十六、本謀克の兵を領し、宗輔に従い陝西を定め、行間にて宋の大将を射中つ、宋兵遂に潰え、これより名を知らる。帥府その功を録し、承制して謀克に署す。宗弼再び河南を取るに、表して忠義を猛安に薦む。冀州を攻め、先登し、大名府を攻め、本部の兵を以て力戦し、その軍十余万を破り、奴婢・馬牛・金銀・重彩を以て賞す。宗弼に従い淮を渡り寿・廬等州を攻むるに、宗弼これを称して曰く、「この子勇略人に過ぎ、将帥の器なり」と。馬五匹・牛一百五十頭・羊五百口を賞し、親軍万戸を領し、超えて寧遠大将軍と為し、その父の世襲謀克を承く。

原文僕散忠義,本名烏者,上京拔盧古河人,宣獻皇后侄,元妃之兄也。高祖斡魯補。曾祖班睹。祖胡闌。父背魯,國初世襲謀克,婆速路統軍使,致仕。忠義魁偉,長髯,喜談兵,有大略。年十六,領本謀克兵,從宗輔定陝西,行間射中宋大將,宋兵遂潰,由是知名。帥府錄其功,承制署為謀克。宗弼再取河南,表薦忠義為猛安。攻冀州,先登,攻大名府,以本部兵力戰,破其軍十余萬,賞以奴婢、馬牛、金銀、重彩。從宗弼渡淮攻壽、廬等州,宗弼稱之曰:「此子勇略過人,將帥之器也。」賞馬五匹、牛一百五十頭、羊五百口,領親軍萬戶,超甯遠大將軍,承其父世襲謀克。

皇統四年、博州防禦使を除かれ、公余に女直じょちょく字及び古演算法を学び、月を閲て、尽く能くこれを通ず。郡に在りて田猟・燕遊を事とせず、職業を務とし、郡中翕然として治まりと称す。忽ち一夕陰晦、囚徒獄を反すを謀る。倉猝の間、将校皆惶駭して措くところを知らず、忠義従容として、ただ守更の吏に鼓を撾ち角を鳴らさしむ。囚徒は天将に暁かんと以為い、出づることを敢えず、自ら桎梏に就く。及んで考課、郡民闕に詣で留まることを願い、詔してこれに従う。八年、同知真定尹に改め、兼ねて河北西路兵馬都総管、遷りて西北路招討使、入りて兵部尚書と為る。

原文皇統四年,除博州防禦使,公餘學女直字,及古演算法,閱月,盡能通之。在郡不事田獵、燕遊,以職業為務,郡中翕然稱治。忽一夕陰晦,囚徒謀為反獄。倉猝間,將校皆惶駭失措,忠義從容,但使守更吏撾鼓鳴角。囚徒以為天且曉,不敢出,自就桎梏。及考,郡民詣闕願留,詔從之。八年,改同知真定尹,兼河北西路兵馬都總管,遷西北路招討使,入為兵部尚書。

僕散忽土嘗て海陵とともに立つを簒し、勢いに恃み同列を陵傲す、忠義会飲に因りて衆にこれを辱しむ、海陵悦ばず、出でて震武軍節度使と為る。火山の賊李鉄槍暑に乗じて来攻す、忠義単衣にて一騎に従い迎撃し、数人を射殺す、賊乃ち退く。臨洮尹に改め、兼ねて熙秦路兵馬都総管。海陵これを京師に召してこれに謂いて曰く、「洮河の地は吐蕃・木波に接し、異時に良民を剽害し、州県制すること能わず。汝は宿将なり、故に汝を以て命ず」と。条服・玉具・佩刀を賜う。再考を閲し、平陽尹に徙め、再び済南尹に徙む。本官を以て漢南路行営副統制と為り、宋を伐ち、通化軍を克つ。

原文僕散忽土嘗與海陵篡立,恃勢陵傲同列,忠義因會飲眾辱之,海陵不悅,出為震武軍節度使。火山賊李鐵槍乘暑來攻,忠義單衣從一騎迎擊之,射殺數人,賊乃退。改臨洮尹,兼熙秦路兵馬都總管。海陵召至京師謂之曰:「洮河地接吐蕃、木波,異時剽害良民,州縣不能制。汝宿將,故以命汝。」賜條服、玉具、佩刀。閱再考,徙平陽尹,再徙濟南尹。以本官為漢南路行營副統制,伐宋,克通化軍。

世宗立ち、海陵揚州に死し、兵を罷めて京師に入朝し、尚書右丞を拝す。移剌窩斡慄号し、兵久しく決せず。右副元帥完顔謀衍既にこれを霿𩃭河に敗るや、乃ち衆を擁し、鹵掠を貪り、追討せず、而してその子斜哥をして軍中に暴横せしめ、士卒命を用いず。賊は水草善き地を得、官軍その遺余に踵き、水草乏しく、馬益々弱く、賊は山西に出で軼れ、久しく功無し。忠義請いて曰く、「契丹の小寇、時に殄滅せずして、聖慮を煩わすに致る。臣聞く、主憂うれば臣辱しむと、願わくは死力を効してこれを除かん」と。世宗大いに悦ぶ。即ち謀衍を召還し、勒して斜哥を本貫に帰らしむ。忠義を平章政事に拝し、兼ねて右副元帥、栄国公に封じ、御府の貂裘・賓鉄吐鶻の弓矢大刀・具装の対馬及び安山の鉄甲・金牌を賜い、詔して曰く、「軍中の将士犯す有らば、連職の外並びに軍法を以て事に従い、功有る者は格に依り遷賞すべし」と。諸将士に詔して曰く、「兵久しく辺陲に駐し、財用を蠹費し、百姓休息を得ず。今右丞忠義を以て平章政事・右副元帥と為す、宜しく同心戮力し、或いは弛慢すること無かるべし」と。忠義軍に至り、賊は霊山・同昌・恵和等県を陥し、陣して西行す。忠義これを追い、花道に及び、宗亨は左翼と為り、宗叙は右翼と為り、賊と河を夾みて陣す。賊は河を渡り、先ず左翼を攻め、偏に敗れ、右翼これを救い、賊引き去る。窩斡乃ち精鋭を以て自らに随い、羸兵を以てその母妻輜重を護り別道より西走し、期して山後に会集す。追い復た嫋嶺西の陷泉に及び。賊と遇う、時に昏霧四塞し、跬歩物色を睹ること莫く、忠義祷りて曰く、「狂寇暴を肆い、無辜を殺戮す、天悪を助けず、当に開霽すべし」と。奠する已に、昏霧廓然たり。及び戦うや、忠義左に南岡に拠り、偃月陣を為し、右に迤て北にし、これを大いに敗り、その弟嫋を獲、生口三十万を俘え、雑畜十余万を獲、車帳金珍は钜万を以て計い、悉く諸軍に分つ。賊は走りて奚の地に趨り、将を遣わして追躡せしめ、七渡河に至り、またこれを敗る。既に渾嶺を逾え、復た進軍してこれを襲い、風を望み奔潰し、奚中に遁れ入り、降する者路に相属す。詔して忠義に曰く、「卿の材能素より著しく、果たして能く大いに賊衆を破る、朕甚だこれを嘉す。今卿を労うるを遣わす、朕の親しく往くが如し。卿に禦衣及び骨睹犀の具佩刀・通犀帯等を賜う。すなわち俘獲を以て、均しく軍士に散ぜよ」と。窩斡既に敗れ、遂に奚中に入る。高忠建は奚を栲栳山に敗り、移剌道は抹白の諸奚の家を取り、抹白奚乃ち降り、窩斡の勢い益々弱し。紇石烈志寧は賊将稍合住を獲、これを縦ちて帰らしめ、約して窩斡を捕えて自ら贖わしめ、仍って官賞を以て許す。稍合住はその党とともに、窩斡を執りて完顔思敬に詣で降る。契丹平ぐ。忠義京師に朝し、尚書右丞相を拝し、沂国公に改封し、玉帯を以てこれを賜う。

原文世宗立,海陵死揚州,罷兵入朝京師,拜尚書右丞。移剌窩斡慄號,兵久不決。右副元帥完顏謀衍既敗之於霿𩃭河,乃擁眾,貪鹵掠,不追討,而縱其子斜哥暴橫軍中,士卒不用命。賊得水草善地,官軍踵其遺餘,水草乏,馬益弱,賊軼出山西,久無功。忠義請曰:「契丹小寇,不時殄滅,致煩聖慮。臣聞主憂臣辱,願效死力除之。」世宗大悅。即召還謀衍,勒歸斜哥本貫。拜忠義平章政事,兼右副元帥,封榮國公,賜以禦府貂裘、賓鐵吐鶻弓矢大刀、具裝對馬及安山鐵甲、金牌,詔曰:「軍中將士有犯,連職之外並以軍法從事,有功者依格遷賞。」詔諸將士曰:「兵久駐邊陲,蠹費財用,百姓不得休息。今以右丞忠義為平章政事、右副元帥,宜同心戮力,無或弛慢。」忠義至軍,賊陷靈山、同昌、惠和等縣,陣而西行。忠義追之,及於花道,宗亨為左翼,宗敘為右翼,與賊夾河而陣。賊渡河,先攻左翼,偏敗,右翼救之,賊引去。窩斡乃以精銳自隨,以羸兵護其母妻輜重由別道西走,期於山后會集。追複及於嫋嶺西陷泉。與賊遇,時昏霧四塞,跬步莫睹物色,忠義禱曰:「狂寇肆暴,殺戮無辜,天不助惡,當為開霽。」奠已,昏霧廓然。及戰,忠義左據南岡,為偃月陣,右迤而北,大敗之,獲其弟嫋,俘生口三十萬,獲雜畜十余萬,車帳金珍以钜萬計,悉分諸軍。賊走趨奚地,遣將追躡,至七渡河,又敗之。既逾渾嶺,複進軍襲之,望風奔潰,遁入奚中,降者相屬於路。詔忠義曰:「卿材能素著,果能大破賊眾,朕甚嘉之。今遣勞卿,如朕親往。賜卿禦衣、及骨睹犀具佩刀、通犀帶等。就以俘獲,均散軍士。」窩斡既敗,遂入于奚中。高忠建敗奚於栲栳山,移剌道取抹白諸奚之家,抹白奚乃降,窩斡勢益弱。紇石烈志寧獲賊將稍合住,縱之使歸,約以捕窩斡自贖,仍許以官賞。稍合住與其黨,執窩斡詣完顏思敬降。契丹平。忠義朝京師,拜尚書右丞相,改封沂國公,以玉帶賜之。

海陵王が弑逆されてより、大軍は北還し、窩斡が猖獗したので、将を命じて征伐に赴かせた。窩斡が敗れると、その党の括裏・紮八は宋に奔り、宋人はその謀を用いて辺境を侵掠し、泗・寿・唐・海の諸州を攻め取った。ここにおいて、宋主は宗室の子甗に位を伝え、これが宋の孝宗である。たとえ使節を派遣してきたが、敵国の礼を用いようとした。世宗は紇石烈志寧に宋事を経略させ、詔を下して忠義に丞相として軍務を総括させ、南京に駐して諸将を節制させた。時に大定二年である。忠義が赴任に際し、朝廷を辞して出発するとき、上はこれを諭して言った、「もし彼らが侵した疆土を返還し、貢礼が以前の通りであれば、兵を罷めることができる」。南京に到着すると、士卒を簡閲し、要害に分屯させ、諸将に厳に守備を戒めた。左副元帥志寧を使わして宋の枢密使張浚に牒を送らせ、その大意は、「本朝の侵された内地を返還し、それぞれ従来画定された疆界を守り、万事を皇統以来の旧約に従わせ、帥府もまた厳を解くべきである。もし必ずや抗衡を欲するならば、兵を会して相見えんことを請う」というものであった。宋の宣撫使張浚は志寧に返書して言った、「疆埸の一彼一此、兵家の或勝或負、何ぞ常のあらんや、当に置いて言うなかれ。謹んで官僚を遣わし、麾下に詣りてこれを議す」。この時、すでに泗・寿・鄧の諸州を回復し、その城を毀ち、その民を宿・亳・蔡の諸州に遷すことを請うたが、上は言った、「三州はもと我が土である。得た以上はそれでよい」。忠義は将士に善き水草を選んで休息させ、かつ馬を牧し、来年を俟って淮南を取らんとした。初め、世宗は諸将に詔して泗・寿・唐鄧の三道より進発せしめた。宋人はこれを聞くと、即ち方城・葉県以来の田野をことごとく焼き払い、芻牧する所なからしめた。忠義は唐・鄧道の軍に命じて許・汝の間で芻牧させた。

原文自海陵遇弑,大軍北還,而窩斡鴟張,命將徂征。及窩斡敗,其黨括裏、紮八奔入于宋,宋人用其謀,侵掠邊鄙,攻取泗、壽、唐、海州。於是,宋主傳位於宗室子甗,是為宋孝宗,雖嘗遣使來,而欲用敵國禮。世宗以紇石烈志寧經略宋事,制詔忠義以丞相總戎事,居南京節制諸將,時大定二年也。忠義將行,陛辭,上諭之曰:「彼若歸侵疆,貢禮如故,則可罷兵。」既至南京,簡閱士卒,分屯要害,戒諸將嚴守備。使左副元帥志寧移牒宋樞密使張浚,其略曰:「可還所侵本朝內地,各守自來畫定疆界,凡事一依皇統以來舊約,帥府亦當解嚴。如必欲抗衡,請會兵相見。」宋宣撫使張浚複書志寧曰:「疆埸之一彼一此,兵家之或勝或負,何常之有,當置勿道。謹遣官僚,敬造麾下議之。」是時,已複泗、壽、鄧州,請隳其城,遷其民於宿、亳、蔡州,上曰:「三州本吾土也,得之則已。」忠義使將士擇善水草休息,且牧馬,俟來歲取淮南。初,世宗詔諸將由泗、壽、唐鄧三道進發,宋人聞之,即自方城、葉縣以來田野皆燒夷之,使無所芻牧。忠義命唐、鄧道軍芻牧許、汝間。

三年、忠義は入朝して事を奏し、ここにおいて丞相兼都元帥となった。間もなく、軍中に還った。忠義は宋と相持すること日久しく、夏の長雨を慮り、弓力が減じ易いことを憂え、宋が時を乗じて攻めてくることを恐れ、予め勁弓一万張を別庫に選び貯えた。汴より闕に赴き事を議するため、浚州に次いだとき、宋将の李世輔が果たして霊璧・虹県を掩い取り、ついに宿州を陥とした。忠義は人を汴に還らせ、貯えた勁弓を発して志寧の軍に給し、宋人と戦って大捷し、ついに宿州を回復した。忠義は還り、書を以て宋を責めた。宋の同知枢密院事洪遵・計議官盧仲賢は、使節二名を遣わし、志寧への書状及び手状を持たせ、海・泗・唐・鄧の諸州の侵した地を帰還し、叔侄の国と約することを伝えた。返書は十一月に使節を入境させることを期した。宋はまた人を遣わし来たりて言うには、礼物が未だ備わらず、十二月を俟って和を成さんことを請うた。忠義はその事を馳せて奏し、書式を定めることを請うとともに、宋の書状が式の如きならばその入境を許し、もし然らざれば勢い本国に遣還し、再びその主に稟せしめるべきであり、もしこの往復となれば動もすれば七八十日を経過し、軍馬の進取に誤りを来す恐れがあると述べた。世宗は詔を以てこれを諭して言った、「もし宋人が疆土を帰還し、歳幣が昔の如きならば、奉表称臣を免じ、世々侄国たることを許す」。忠義はここにおいて宋人に書を送り、前後凡七度に及んだが、宋人は他に託して従わなかった。忠義は大軍を移して淮境に圧し、志寧に偏師を率いさせて淮を渡り、盱眙・濠・廬・和・滁等の州を取らせた。宋人は懼れた。しかし世宗は天下が兵革に厭苦し、百姓と休息を共にせんとする意があり、忠義に詔して宜しきに度りて行うべしとした。

原文三年,忠義入奏事,遂以丞相兼都元帥。無何,還軍中。忠義與宋相持日久,慮夏久雨,弓力易減,宋或乘時見攻,豫選勁弓萬張於別庫。及自汴赴闕議事,次浚州,宋將李世輔果掩取靈璧、虹縣,遂陷宿州。忠義使人還汴,發所貯勁弓給志寧軍,與宋人戰,遂大捷,竟複宿州。忠義還,以書責宋。宋同知樞密院事洪遵、計議官盧仲賢,遣使二輩持與志寧書及手狀,歸海、泗、唐、鄧州所侵地,約為叔侄國。報書期十一月使入境,宋又使人來言,禮物未備,請俟十二月行成。忠義以其事馳奏,請定書式,且言宋書如式,則許其入界,如其不然,勢須遣還本國,複稟其主,若是往復,動經七八十日,恐誤軍馬進取。世宗以詔諭之曰:「若宋人歸疆,歲幣如昔,可免奉表稱臣,許世為侄國。」忠義乃貽書宋人,前後凡七,宋人他托未從。忠義移大軍壓淮境,遣志寧率偏師渡淮,取盱眙、濠、廬、和、滁等州,宋人懼。而世宗意天下厭苦兵革,思與百姓休息,詔忠義度宜以行。

四年正月、忠義は右監軍宗敘を使わして入奏させ、暑月に近づくことを以て、秋涼を俟って進発することを乞うた。詔してこれに従った。宋使の胡昉が敢えて右僕射湯思退の書を持って来たり、宋は侄国と称するが、世の字を加えることを肯んじなかった。忠義は昉を執って軍中に留め、その書に答え、使者を使わしてこれを聞かせた。詔して言った、「行人に何の罪あらん、胡昉を還国せしめよ。辺事は宜しきに従って措画せよ」。八月、忠義に詔して言った、「前に秋涼を俟って進発せんことを請うたが、今や八月、また何時を俟つというのか」。先に、忠義は金・銀牌の増加を乞うた。上は言った、「太師梁王は数職を兼ねるも、未だ増やさなかった」。ここに至り、都元帥に金牌一・銀牌二十、左右副元帥に金牌各一・銀牌各十、左右監軍に金牌各一・銀牌各六、左右都監に金牌各一・銀牌各四、三路都統府に銀牌各二を増した。ここにおいて南界の官員・百姓の帰附遷賞の格を定めた。

原文四年正月,忠義使右監軍宗敘入奏,將近暑月,乞俟秋涼進發。詔從之。宋使胡昉敢以右僕射湯思退書來,宋稱侄國,不肯加世字。忠義執昉留軍中,答其書,使使以聞。詔曰:「行人何罪,遣胡昉還國。邊事從宜措畫。」八月,詔忠義曰:「前請俟秋涼進發,今已八月,複俟何時?」先是,忠義乞增金、銀牌,上曰:「太師梁王兼數職,未嘗增也。」至是增都元帥金牌一、銀牌二十,左右副元帥金牌各一、銀牌各十,左右監軍金牌各一、銀牌各六,左右都監金牌各一、銀牌各四,三路都統府銀牌各二。乃定南界官員、百姓歸附遷賞格。

元帥府が宋の諜者符忠を捕らえた。忠は以前中都に至ったことがあり、大興府の官が詰問したが、忠は文拠を執り、かつ泗州防禦判官張徳亨と知り合いであったため、これによって免れ、厚く徳亨に謝礼し、徳亨はこれを受けた。忠はことごとく服罪したので、その事を朝廷に奏した。ここにおいて、大興少尹王全は解職し、徳亨は除名した。和議は張浚に始まり、中程で洪遵・湯思退に変わり、及び徒単克寧が宋の魏勝を十八里庄に破り、楚州を取ると、世宗は詔を下して進師を命じた。ここにおいて宋の知枢密院周葵・同知枢密院事王之望の書状がことごとく約の如くになり、和議は始めて定まった。宋は試礼部尚書魏杞・崇信軍承宣使康湑を使わし、通問国信使を充て、宋主の国書式及び国書副本を持参させた。宋は世々侄国とし、歳幣を二十万両・匹と約し、国書にはなお名を書いて再拝し、「大」の字を称さなかった。大定五年正月、魏杞・康湑が入見し、その書には「侄宋皇帝甗謹んで再拝して叔大金聖明仁孝皇帝闕下に致書す」とあった。魏杞が還るとき、返書には「叔大金皇帝」と名を書かず、「謹再拝」と書かず、ただ「侄宋皇帝に致書す」とし、尊号を用いず、闕下と称さなかった。和好が已に定まり、兵を罷め、天下に詔した。左副都点検完顔仲を報問国信使とし、太子詹事楊伯雄をその副使とした。

原文元帥府獲宋諜人符忠。忠前嘗至中都,大興府官詰問,忠執文據,及與泗州防禦判官張德亨知識,由是獲免,厚謝德亨,德亨受之。忠具款服,乃奏其事於朝,於是,大興少尹王全解職,德亨除名。和議始于張浚,中更洪遵、湯思退,及徒單克寧敗宋魏勝於十八裏莊,取楚州,世宗下詔進師,於是宋知樞密院周葵、同知樞密院事王之望書一一如約,和議始定。宋遣試禮部尚書魏杞,崇信軍、承宣使康湑,充通問國信使,取到宋主國書式,並國書副本,宋世為侄國,約歲幣為二十萬兩、匹,國書仍書名再拜,不稱「大」字。大定五年正月,魏杞、康湑入見,其書曰:「侄宋皇帝甗謹再拜致書于叔大金聖明仁孝皇帝闕下。」魏杞還,複書「叔大金皇帝」不名,不書「謹再拜」,但曰「致書于侄宋皇帝」,不用尊號,不稱闕下。和好已定,罷兵,詔天下。以左副都點檢完顏仲為報問國信使,太子詹事楊伯雄副之。

忠義は官軍十七万三千三百余りを奏し、馬歩軍十一万六千二百を留めて屯戍させた。上は言った、「今や已に宋に講和を許した。而るに屯戍尚だ多し。旧軍の外、馬一万二千を選び、阿裏喜もこれに準じ、歩軍虞候司軍共に一万五千を選び、及び簽軍一万を、旧軍と通じて六万を留めよ。富強で丁の多き者は摘留し、貧難の者は阿裏喜の官給とし、富者はすなわちその奴を用いよ。その存留する馬歩軍は河北東西・大名府・速頻・胡裏改・会寧・咸平府・済州・東京・曷速館等の路軍内より、約量して揀取せよ。その西南・西北招討司、臨潢府・泰州・北京・婆速・曷懶・山東東西路は、並びに放還せよ」。詔して近侍局使裴満子寧に金牌を佩かせ、護衛醜底・符宝祗候駝満回海に銀牌を佩かせ、諸路の将帥に諭し、宋国より進到した歳幣銀絹二十万両・匹を、尽く数えて見存留及び放散の軍に給与して賞に充てしめよ。曾て界を過ぎた者は、人ごとに絹二匹・銀二両を給し、曾て界を過ぎざる者は銀二両・絹一匹を給せ。阿裏喜には絹一匹を給せ。謀克は軍人の倍とし、猛安は謀克の倍とせよ。押軍の猛安謀克で年老いて労績ある者は、量りて除授せよ。また詔して言った、「一路全く罷むるを令する者は、先ずこれを発遣せよ」。忠義に玉束帯を賜う。三月、詔して言った、「もし大軍已に放還せば、丞相忠義は宜しく先ず還るべし。左副元帥志寧・右監軍宗敘は南京に留駐し、その余の官で急用ならざる者は並びに勒して任に還らしめよ」。

原文忠義奏官軍一十七萬三千三百餘人,留馬步軍一十一萬六千二百屯戍。上曰:「今已許宋講好,而屯戍尚多,可除舊軍外,選馬一萬二千,阿裏喜稱是,步軍虞候司軍共選一萬五千,及簽軍一萬,與舊軍通留六萬。富強丁多者摘留,貧難者阿裏喜官給,富者就用其奴。其存留馬步軍于河北東西、大名府、速頻、胡裏改、會甯、咸平府、濟州、東京、曷速館等路軍內,約量揀取。其西南、西北招討司,臨潢府、泰州、北京、婆速、曷懶、山東東西路,並行放還。」詔近侍局使裴滿子寧佩金牌,護衛醜底、符寶祗候駝滿回海佩銀牌,諭諸路將帥,以宋國進到歲幣銀絹二十萬兩、匹,盡數給與見存留及放散軍充賞。曾過界者,人給絹二匹、銀二兩,不曾過界者銀二兩、絹一匹。阿裏喜絹一匹。謀克倍軍人,猛安倍謀克。押軍猛安謀克年老有勞績者,量與除授。又詔曰:「其令一路全罷者,先發遣之。」賜忠義玉束帶。三月,詔曰:「如大軍已放還,丞相忠義宜先還,左副元帥志寧、右監軍宗敘留駐南京,餘官非急用者並勒還任。」

忠義が京師に朝見すると、上(世宗)は労い詔して曰く、「宋国が和を請い、兵を収め民を休めるは、皆卿の力なり」と。左丞相に拝し、都元帥を兼ねた。大定初年、事柄多く権制に従い、詔して有司に刪定せしめ、上は宰臣に謂いて曰く、「凡そ既に奏した事は、朕は再び閲するものなり、卿等は畏れを懐くことなかれ。朕が大臣に対して、豈に信ぜざる者あらんや?但だ軍国の事は、敢えて軽易にせず、恐らくは或いは誤りあらんことを」と。忠義対えて曰く、「臣等豈に敢えて陛下の意を窃みんや、但だ智力の及ばざるのみ。陛下が万機に留神せらるるは、天下の福なり」と。

原文忠義朝京師,上勞之曰:「宋國請和,偃兵息民,皆卿力也。」拜左丞相,兼都元帥。大定初,事多權制,詔有司刪定,上謂宰臣曰:「凡已奏之事,朕嘗再閱,卿等毋懷懼。朕于大臣,豈有不相信者?但軍國事,不敢輕易,恐或有誤也。」忠義對曰:「臣等豈敢竊意陛下,但智力不及耳。陛下留神萬幾,天下之福也。」

大定六年正月、忠義に疾あり、上は太醫を遣わして診視せしめ、御用の藥物を賜い、中使をして撫問せしめ、道に相継いだ。二月、薨ず。上は親しく臨みて之を哭すること慟く、朝を輟みて奠祭し、賻として銀千五百両・重彩五十端・絹五百匹を賜う。世宗、西京に幸せんとし、復た臨みて奠せしむ。参知政事唐括安禮に命じて喪事を護らしめ、凡そ葬祭は優厚に従い、官これを給す。大宗正丞竟を充てて敕祭使とし、中都轉運副使王震を充てて敕葬使とし、百官葬を送り、一品の儀物を具え、大将の旗鼓を建て、墳域に送る。諡して武莊と曰う。

原文大定六年正月,忠義有疾,上遣太醫診視,賜以御用藥物,中使撫問,相繼於道。二月,薨。上親臨哭之慟,輟朝奠祭,賻銀千五百兩、重彩五十端、絹五百匹。世宗將幸西京,複臨奠焉。命參知政事唐括安禮護喪事,凡葬祭從優厚,官為給之。大宗正丞竟充敕祭使,中都轉運副使王震充敕葬使,百官送葬,具一品儀物,建大將旗鼓,送至墳域。諡武莊。

忠義は動くに礼義に由り、謙にして下に接し、儒士を敬い、人と極めて和易にし、侃侃たるが如し。将士を禦するに善く、能く其の死力を得たり。宰輔と為るに及びては、知ることを言わざるは無し。漢・唐以来、外家は多く恩戚に縁りて富貴に至るも、又多く其の終わりを克くせず、将相を兼任し功名始終する忠義の如き者は未だ有らざりき。十一年、詔して曰く、「故左丞相忠義の族人、及び昭德皇后の親族、人材用うべき者は、左副點檢烏古論元忠体察して以て聞かしめよ」と。二十一年、上は忠義の功を思い、墓碑に銘を勒す。泰和元年、衍慶宮に圖像し、世宗廟廷に配享す。子の揆は、別に傳有り。

原文忠義動由禮義,謙以接下,敬儒士,與人極和易,侃侃如也。善禦將士,能得其死力。及為宰輔,知無不言。自漢、唐以來,外家多緣恩戚以致富貴,又多不克其終,未有兼任將相功名始終如忠義者。十一年,詔曰:「故左丞相忠義族人,及昭德皇后親族,人材可用者,左副點檢烏古論元忠體察以聞。」二十一年,上思忠義功,勒銘墓碑。泰和元年,圖像衍慶宮,配享世宗廟廷。子揆,別有傳。

徒單合喜

原文徒單合喜

徒單合喜は、上京速蘇海水の人なり。父は蒲涅、世襲の猛安なり。合喜は魁偉にして、膂力人に過ぎ、一たび聞見すれば、終身忘れず。天輔の間、金源郡王婁室に従いて紮也と為り、甚だ之を愛せらる。天会六年、功を以て謀克と為り、尋いで婁室の親管猛安を領す。元帥府其の才を聞き、命じて左翼の軍事を権む。皇統二年、隴州防禦使と為る。兵十五人を以て宋兵二百を高陵に敗り、兵五百人を以て宋兵二千を秦州に敗り、兵八百人を以て宋兵三千五百を鳳翔に敗る。二謀克を以て饒風關に拒ぎ、宋兵二千来たりて其の關口を奪わんとす、奮撃して之を敗り、諸軍乃ち過ぎて險を過ぐるを得たり。平涼尹に遷り、再び臨洮・延安尹に徙る。是の時、關・陝以西、初めて兵革を去り、百姓多く失業す、合喜静を以て之を守り、民多く還帰する者あり。天徳二年、元帥左都監、陝西統軍使と為る。貞元二年、本官を以て河中尹を兼ぬ。正隆六年、西蜀道兵馬都統と為る。

原文徒單合喜,上京速蘇海水人也。父蒲涅,世襲猛安。合喜魁偉,膂力過人,一經聞見,終身不忘。天輔間,從金源郡王婁室為紮也,甚愛之。天會六年,以功為謀克,尋領婁室親管猛安。元帥府聞其才,命權左翼軍事。皇統二年,為隴州防禦使。以兵十五人敗宋兵二百于高陵,以兵五百人敗宋兵二千于秦州,以兵八百人敗宋兵三千五百於鳳翔。以二謀克拒饒風關,宋兵二千來奪其關口,奮擊敗之,諸軍乃得過險。遷平涼尹,再徙臨洮、延安尹。是時,關、陝以西,初去兵革,百姓多失業,合喜守之以靜,民多還歸者。天德二年,為元帥左都監,陝西統軍使。貞元二年,以本官兼河中尹。正隆六年,為西蜀道兵馬都統。

世宗即位し、手詔を以て合喜に賜いて曰く、「岐国(海陵王)は道を失い、其の母后を殺し、兄弟に横虐にし、兆庶に毒を流す。朕惟うに太祖創業の艱難を思い、勉めて大位に膺る。卿が子弟は皆軍中より来帰す、卿は国家の旧臣、豈に天道人事を知らざらんや?卿が軍多くあらず、未だ宜しく深入すべからず、当に軍を領して境上に屯すべし。陝右の重地は、卿に非ざれば能く措畫する者無からん。俟つに兵革既定して、即ち当に卿を召さん、宜しく自ら之を勉めよ」と。大定二年、復た陝西路統軍使と為る。未だ幾ばくもあらず、元帥右都監に改む。表を上して宋を伐つ方略を陳ぶ、詔して便宜に事を行うを許す。左都監に転ず。宋兵を華州に破る。是の時、宋の吳璘、古鎮を侵し、散關・和尚原・神叉口・玉女潭・大蟲嶺・石壁寨・寶雞縣を分かち据え、兵十余万、河州・鎮戎軍を陥る。合喜師の済うを乞う、詔して河南の兵万人を以て之を益す。合喜、丹州刺史赤盞胡速魯改を遣わして兵四千を以て德順を守らしむ、吳璘二十万人を以て之を囲む。統軍都監石抹迭勒、兵万人を将いて、宋兵を河州に破り、還りて德順を過ぎ、兵を平涼に駐め、合喜に益兵を求め、以て德順の囲みを解かんとす。合喜、萬戸完顏習尼列・大良順、甯州刺史顏盞門都を遣わし、各其の本部兵を将い、二万人を合し、順義軍節度使烏延蒲離黑を以て之を統押せしめ、迭勒と会せしむ。吳璘之を聞き、偏将に兵五千人を将いさせ来たりて迎えしむ、前鋒の特裏失烏也・奚王和尚之を撃ち破り、追いて德順城南の小溪辺に至る、璘自ら大軍を将いて岡阜を蔽いて出づ、烏也等馳せて之を撃ち、迭勒・蒲離黑継いて至り、力を併せて戦う、日既に暮れ、両軍相辨えず、乃ち解く。已にして璘報じて云く、「宋主、使を遣わし至り、両国講和し、各兵を罷めんことを請う」と。璘遂に遁去す。蒲離黑も亦軍を引いて還る。宋兵城を囲みしより、是に至るまで凡そ四十余日にして乃ち解く。

原文世宗即位,以手詔賜合喜曰:「岐國失道,殺其母后,橫虐兄弟,流毒兆庶。朕惟太祖創業之艱難,勉膺大位。卿之子弟皆自軍中來歸,卿國家舊臣,豈不知天道人事?卿軍不多,未宜深入,當領軍屯境上。陝右重地,非卿無能措畫者。俟兵革既定,即當召卿,宜自勉之。」大定二年,複為陝西路統軍使。未幾,改元帥右都監。表陳伐宋方略,詔許以便宜從事。轉左都監。破宋兵于華州。是時宋吳璘侵古鎮,分據散關、和尚原、神叉口、玉女潭、大蟲嶺、石壁寨、寶雞縣,兵十余萬,陷河州、鎮戎軍。合喜乞濟師,詔以河南兵萬人益之。合喜遣丹州刺史赤盞胡速魯改以兵四千守德順,吳璘以二十萬人圍之。統軍都監石抹迭勒將兵萬人,破宋兵於河州,還過德順,駐兵平涼,求益兵於合喜,以解德順之圍。合喜遣萬戶完顏習尼列、大良順,甯州刺史顏盞門都各將本部兵,合二萬人,以順義軍節度使烏延蒲離黑統押之,與迭勒會。吳璘聞之,使偏將將兵五千人來迎,前鋒特裏失烏也、奚王和尚擊敗之,追至德順城南小溪邊,璘自將大軍蔽岡阜而出,烏也等馳擊之,迭勒、蒲離黑繼至,並力戰,日已暮,兩軍不相辨,乃解。已而璘報雲:「宋主遣使至,兩國講和,請各罷兵。」璘遂遁去。蒲離黑亦引軍還。自宋兵圍城,至是凡四十余日乃解。

初め、德順囲中に在りし時、押軍猛安溫敦蒲里海身を士卒に先んじ、力戦して未だ嘗て少しくも挫けず、及び救兵至り、囲み解け、蒲里海の功最も多し。頃くして、吳璘復た来たりて陝西の州郡を犯し、兵十余万。詔して兵七千を以て合喜の兵を益し、号二万人、慶陽尹烏延蒲轄奴・延安尹高景山分かち之を領す。彰化軍節度使璋・通遠軍節度使烏延吾裏補・甯州刺史移剌高山奴・京兆少尹宗室泥河・恩州刺史完顏謀良虎、皆軍前に備え前任使と為る。宋人、商・虢及び華山・南山の民五万人を駆り率い、来たりて華州を囲む。押軍萬戸裴滿挼剌堅壁して之を守らんと欲す、猛安移剌沙裏剌曰く、「宋兵多くと雖も、半は是れ居民にして、戦に習わず、之を撃つに如かず」と。ここに於いて挼剌、騎兵千人を以て宋の前鋒を敗り、其の大軍に追い至り、亦之を敗り、首五千余級を斬る。已にして、璋、宋の姚良輔軍を原州に敗る。宋の戍軍、寶雞より以西、大蟲嶺に至るまで、皆散關より遁去す。頃くして、吳璘、赤盞胡速魯改・烏延蒲裏黑の軍既に德順を去りしを聞き、兵を率い号二十万、復た德順を据え、鞏州・臨洮府を陥る。臨洮少尹紇石烈騷洽之に死す、詔して官一階を贈り、錢五百貫を賜う。合喜、璋を以て都統を権め、習尼列を以て副統を権め、兵二万を将いて之を攻めしむ。連戦す、宋兵敗ると雖も、璘其の衆を恃み、去ることを肯ぜず、其の兵の半を分かち、秦州を守る。合喜乃ち自ら行き、水洛城に駐まり、東は六盤山より、西は石山頭に抵り、兵を分かちて之を守り、德順・秦州の両間を当て、其の餉道を断つ、璘乃ち引いて去る。

原文初,德順在圍中,押軍猛安溫敦蒲里海身先士卒,力戰未嘗少挫,及救兵至,圍解,蒲里海之功為多。頃之,吳璘複來犯陝西州郡,兵十余萬。詔以兵七千益合喜兵,號二萬人,慶陽尹烏延蒲轄奴、延安尹高景山分領之。彰化軍節度使璋、通遠軍節度使烏延吾裏補、甯州刺史移剌高山奴、京兆少尹宗室泥河、恩州刺史完顏謀良虎,皆備軍前任使。宋人驅率商、虢及華山、南山之民五萬人,來圍華州。押軍萬戶裴滿挼剌欲堅壁守之,猛安移剌沙裏剌曰:「宋兵雖多,半是居民,不習戰,不如擊之。」於是挼剌以騎兵千人敗宋前鋒,追至其大軍,亦敗之,斬首五千餘級。已而,璋敗宋姚良輔軍于原州,宋戍軍自寶雞以西,至於大蟲嶺,皆自散關遁去。頃之,吳璘聞赤盞胡速魯改、烏延蒲裏黑軍已去德順,率兵號二十萬,複據德順,陷鞏州、臨洮府。臨洮少尹紇石烈騷洽死之,詔贈官一階,賜錢五百貫。合喜以璋權都統,習尼列權副統,將兵二萬攻之。連戰,宋兵雖敗,璘恃其眾,不肯去,分其兵之半,守秦州。合喜乃自行,駐水洛城,東自六盤山,西抵石山頭,分兵守之,當德順、秦州之兩間,斷其餉道,璘乃引去。

都統の璋と副統の習尼列は宋の経略使荊皋を邀撃し、上八節から甘穀城に至るまで、数千人を殺した。習尼列は宋の将朱永以下将校十二人を生け捕りにした。宋の張安撫は徳順を守っていたが、また城を棄てて遁走し、胡速魯改が邀撃して、殺した者は過半に及び、将校十余人を生け捕りにし、遂に徳順州を回復した。宋の秦州を守る者もまた自ら退いた。高景山は商・虢を平定し、宗室の泥河は環州を取った。ここにおいて、臨洮・鞏・秦・河・隴・蘭・会・原・洮・積石・鎮戎・徳順・商・虢・環・華等の州府十六を尽く回復し、陝西は平定された。詔書を下して褒め諭し、玉帯を賜った。詔して陝西の将士、猛安で階が昭毅以下の者は二資を遷し、昭武以上の者は一資を遷す。謀克で、階が六品以下の者は二資を遷し、五品以上の者は一資を遷す。押軍猛安で、階が昭武以上の者は一資を遷し、昭毅以下・武義以上の者は二資を遷し、昭信以下の者は、女直人は宣武に遷し、その余の人は奉信に遷し、官の無い者は、女直人は敦信を授け、その余の人は忠武を授ける。押軍謀克で、武功以下・忠顕以上の者は二資を遷し、忠勇以下の者は、女直人は昭信に遷し、その余の人は忠顕に遷し、官の無い者は、女直人は忠顕を授け、その余の人は忠翊を授ける。正軍で、官のある者は一資を遷し、官の無い者は二資を授ける。猛安には銀五十両・重彩五端・絹十匹を賞し、権・正もこれに同じくする。正軍人は人ごとに銭三十貫を給し、阿裏喜には十貫を給する。戦没した軍官・軍士・長行には、官を贈り銭を賜うこと等差あり。

原文都統璋、副統習尼列邀擊宋經略使荊皋,自上八節至甘穀城,殺數千人。習尼列擒宋將硃永以下將校十二人。宋張安撫守德順,亦棄城遁,胡速魯改邀擊之,所殺過半,擒將校十餘人,遂複德順州。宋之守秦州者,亦自退。高景山定商、虢,宗室泥河取環州。於是,臨洮、鞏、秦、河、隴、蘭、會、原、洮、積石、鎮戎、德順、商、虢、環、華等州府一十六盡複之,陝西平。詔書獎諭,賜以玉帶。詔陝西將士,猛安,階昭毅以下遷兩資,昭武以上遷一資。謀克,階六品以下遷兩資,五品以上遷一資。押軍猛安,階昭武以上者遷一資,昭毅以下、武義以上遷兩資,昭信以下,女直人遷宣武,餘人遷奉信,無官者,女直人授敦信,餘人授忠武。押軍謀克,武功以下、忠顯以上遷兩資,忠勇以下,女直人遷昭信,餘人遷忠顯,無官者,女直人授忠顯,餘人授忠翊。正軍,有官者遷一資,無官者授兩資。猛安賞銀五十兩、重彩五端、絹十匹,權、正同之。正軍人給錢三十貫,阿裏喜十貫。戰沒軍官、軍士、長行,贈官賜錢有差。

五年、陝西路統軍使を置き、京兆尹を兼ねさせた。元帥府は治所を河中府に移した。統軍使の璋が朝辞するに当たり、上は言った、「合喜は年老いた。陝西の軍事を卿に委ねる。凡そ鎮防の利害は、合喜に訪問すべし。」七年、入朝して枢密副使となり、東京留守に改め、衣帯・佩刀を賜い、詔して言った、「卿は年老いた。この職は優佚である。宜しく勉めよ。」九年、入朝して平章政事となり、睿宗が陝西を回復した功績について数事を奏上した。上は嘉してこれを納れ、秘府に蔵した。定国公に封ぜられた。

原文五年,置陝西路統軍使,兼京兆尹。元帥府移治河中府。統軍使璋朝辭,上曰:「合喜年老,以陝西軍事委卿,凡鎮防利害,可訪問合喜也。」七年,入為樞密副使,改東京留守,賜以衣帶、佩刀,詔曰:「卿年老,以此職優佚,宜勉之。」九年,入為平章政事,奏睿宗收復陝西功數事,上嘉納之,藏之秘府。封定國公。

十一年、薨去した。上はちょうど球を撃っていたが、訃報を聞いて遂にやめた。有司が祭を致し、礼を備えて葬った。賻として銀一千二百五十両及び重彩幣帛を賜った。二十一年、上はその功を思い、その孫の三合を武功将軍に遷し、世襲の本猛安曷懶若窟申謀克を授けた。泰和元年、世宗廟廷に配享された。

原文十一年,薨。上方擊球,聞訃遂罷。有司致祭,備禮以葬。賻銀一千二百五十兩及重彩幣帛。二十一年,上念其功,遷其孫三合武功將軍,授世襲本猛安曷懶若窟申謀克。泰和元年,配享世宗廟廷。

賛して言う、大定の初め、兵は江・淮に連なり、難は契丹に起こり、謀衍は功を挟み、窩斡は横噬し、戢えざる畏れがあった。世宗は独断し、謀衍を召還し、僕散忠義に任せて責成させた。故に言う、「兵は将に主られ、将賢ならば士勇なり。」そのこれを謂うか!紇石烈志寧は言った、「詔を受けて征伐するは、則ち敢えて辞せず、宰相となるは則ち誠に能わず。」相となることの難きを知るが如きは、固より賢と謂うべきなり。秦・隴の兵は殆哉岌岌乎たり、徒単合喜が敵を料り応変することこの如く審かなるは、亦難きかな。

原文贊曰:大定之初,兵連于江、淮,難作於契丹,謀衍挾功,窩斡橫噬,有弗戢之畏焉。世宗獨斷,召還謀衍,僕散忠義受任責成矣。故曰:「兵主於將,將賢則士勇。」其此之謂邪!紇石烈志寧有言:「受詔征伐,則不敢辭,為宰相則誠不能。」如知為相之難,固所謂賢也。秦、隴之兵,殆哉岌岌乎,徒單合喜料敵應變若此之審,亦難矣哉。