金史

列傳第二十四:李石、完顏福壽、獨吉義、烏延蒲離黑、烏延蒲轄奴、烏延查剌、李師雄、尼厖古鈔兀、孛朮魯定方、夾谷胡剌、蒲察斡論、夾谷查剌

李石

李石、字は子堅、遼陽の人、貞懿皇后の弟なり。先世は遼に仕え、宰相となれり。高祖こうそ仙壽、嘗て遼主の舅を難より脱せしめしことあり、遼帝は仙壽に遼陽及び湯池の地千頃を賜い、他の物もこれに相応し、常に李舅と目せり。父雛訛只、桂州觀察使、高永昌東京を拠るや、衆を率いてこれを攻むるも、勝たずして死す。石は敦厚にして寡言、しかして器識人に過ぐ。天会二年、世襲謀克を授けられ、行軍猛安と為る。睿宗右副元帥と為るや、軍中に引き置き、これを宗弼に属せしむ。八年、礼賓副使を除せられ、転じて洛苑副使と為る。天眷元年、行台省を汴に置くや、石は汴京都巡検使と為り、大名少尹・汴京馬軍副都指揮使を歴任し、累官して景州刺史に至る。海陵燕京宮室を営建するや、石は皇城端門の役を護る。海陵燕京に遷都するや、石は例に随い入見す。海陵石を指して曰く、「此れ葛王の舅に非ずや」と。葛王は、世宗を謂うなり。未だ幾ばくもあらざるに、興中少尹を除せらる。石は海陵の宗室を忌むを知り、頗る前日の言をうらみ、秩満して、疾を托して郷里に還る。世宗東京を留守するや、契丹の括裏を禦ぐに、石は東京に留まり城中を巡察す。海陵副留守高存福をして世宗の動静を伺察せしむるに、知軍李蒲速越存福の謀を知り、以て世宗に告ぐ。石因りて世宗に先ず存福を除き、然る後に事を挙ぐべしと勧む。世宗これに従う。大定元年、定策の功を以て戸部尚書と為る。間もなく、参知政事を拝す。

阿瑣、同知中都留守蒲察沙離只を殺し、使を遣わして表を東京に奉る。而して群臣多く世宗の上京に幸するを勧む。石奏して曰く、「正隆(海陵)遠く江・淮に在り、寇盗蜂起し、万姓領を東に向けたり。宜しく此の時に因りて直ちに中都に赴き、腹心を拠りて以て天下に号令すべし。是れ万世の業なり。惟うらくは陛下衆惑に牽かるること無かれ」と。上の意遂に決し、即日行を啓く。世宗石の女を後宮に納れ、鄭王永蹈・衛紹王永済を生む。是れ元妃李氏なり。

三年、戸部尚書梁銶上言して曰く、「大定以前、官吏士卒の俸粟支帖は真偽相雑えり。請う一切停罷せん」と。石は旧貼を買い革め去り、倉を下して粟を支うるに、倉司敢えて違わず、新粟を以てこれに与う。上その事を聞き、以て梁銶に問う。梁銶実を以て対せず。上命じて尚書左丞翟永固にこれをきくせしむ。梁銶は官四階を削られ、降って火山軍知事と為り、石は罷めて御史大夫と為る。久しくして、道国公に封ぜらる。

六年、上西京に幸するや、石は少詹事烏古論三合とともに中都宮闕を守衛す。詔して曰く、「京師の巡禦、厳にせざるべからず。近都の猛安内より士二千人を選び巡警せしめ、仍って口豢芻粟を給せよ」と。宰臣に謂いて曰く、「府庫の錢幣は徒らに貨を聚むるに非ず。若し軍士貧弱、百姓困乏せば、費す所多くと雖も、豈に已むべけんや」と。故事に、凡そ行幸するに、中都を留守する官は十日毎に表を以て起居を問う。上は使伝頻煩なるを以て、二十日に一度表を進むることを命ず。七年、司徒しとを拝し、太子太師を兼ね、御史大夫は元の如し。第一区を賜う。

安化軍節度使徒單子溫は、平章政事合喜の侄なり。贓濫にして法に従わず。石即ちこれを劾奏す。方に石事を奏するや、宰相は殿下に立ち、良久く俟つ。既に退きて、宰相或いは石に問う、「事を奏すること何ぞ久しき」と。石正色して曰く、「正に天下の姦汚未だ尽く誅せられざるが為なり」と。聞く者悚然たり。一日、上石に謂いて曰く、「御史は庶官の邪・正を分別す。卿等は惟だ罪有る者を劾するも、未だ嘗て善を挙げず。宜しく監察をして路を分かち善悪を刺挙して以て聞かしむべし」と。

石司憲すること既に久しく、年漸く高し。御史台奏す、事に制前に在りて断定したるもの有り、新條に依り改めて断ずることを乞うと。上曰く、「若し制前に在りて行わるる者は、豈に改むべけんや」と。上香閣に御し、中丞移剌道を召してこれに謂いて曰く、「李石耄もうせり。汝等宜しく心を尽くすべし。向て奏せし事甚だ当たらず。豈に私に渉るや」と。他日、又た石に謂いて曰く、「卿近く累ねて奏する所は皆常事なり。臣下の善悪邪正に、語及びするもの無し。卿年老いたり。久しく此れに居る能わず。若し一二の善事を挙ぐる能わば、亦た此の職に負くこと無からん」と。十年、進みて太尉・尚書令しょうしょれいを拝す。詔して曰く、「太后の兄弟は惟だ卿一人のみ。故に尚書事を領せしむ。軍国の大事、利害に渉り、其の可否を識る。細事は卿を煩わさず」と。進みて平原郡王に封ぜらる。

平章政事完顏守道事を奏するや、石神色懌よろこばず。世宗これを察し、石に謂いて曰く、「守道の奏する所は、既に私事に非ず。卿当に共に議して可否すべし。上位に在る者の見る所不可有らば、順いてこれに従う。下位に在る者の見る所当たりと雖も、則ちにわかに従わざるか。豈に己と相違するを以て怒りを蓄えんや。此くの如くせば、下位の者誰か敢えて復た言わん」と。石対えて曰く、「敢えず」と。上曰く、「朕京府節鎮運司の長佐三員の内に文臣一員を任せんと欲するも、未だ人を得ず」と。石奏して曰く、「資考未だ至らず、敢えて擬せず」と。上曰く、「近く節度転運副使の中に才能ある者を見る。海陵の時、省令史は進士を用いざりし故に、少尹節度転運副使の中に人乏し。大定以来、進士を用い、亦た頗る人あり。節度転運副使の中に廉能なる者、名を具して以て聞かしめよ。朕将にこれを用いん。朝官外任を歴せざれば、其の才を見る由無し。外官随朝を歴せざれば、其の才を進むる由無し。中外更に試みば、庶く人を得べし」と。他日、上復た問いて曰く、「外任五品職事多く闕く。何ぞや」と。石対えて曰く、「資考少なきに及ぶ者あり」と。上曰く、「苟くも賢能有らば、当に次をいて用うべし」と。対えて旨に称わず、上表して骸骨を乞う。太保を以て致仕し、進みて広平郡王に封ぜらる。十六年、薨ず。上朝を輟み臨吊し、之を哭することいたみ、錢万貫を賜い、官葬事を給す。少府監張僅言監護し、親王・宰相以下郊送す。諡して襄簡と曰う。

石は勲戚を以て、久しく腹心の寄に処り、内廷に献替すれども、外はまれに聞くことを得ず。其の徒單子溫を劾奏し退きて宰臣の問に答うるを観れば、気岸宜しく堪え能わざる者有るべし。時の論其の得失を半ばす。亦た豈に是れを以てするや。旧史其の少く貧しきを載す。貞懿后これをすくうも、受けず。曰く、「国家方に人を用いるに急なり。正に自ら勉むべし。何ぞ貧しきを患えん」と。後感泣して曰く、「汝苟くも此くの如く能わば、吾復た何をか憂えん」と。及んで中年、粟を冒するを以て見斥しりぞけられ、衆其の貪鄙を譏る。二人に出ずるが如し。史又た其の未だ貴からざる時、之を慢にする者有り。及んで相と為るに及び、其の人事を以て石に見ゆるに、惶恐す。石曰く、「吾豈に旧悪を念う者ならんや」と。之を待することいよいよ厚し。長者と為る能く言うこと是くの如し。又た他日の気岸とはるかに殊なり。

山東・河南の軍民が互いに悪意を抱き、田地を争って絶えなかった。役人は兵士は国家の根本であるから、暫くは寛大に扱うべきであると言った。石は認めず、「兵も民も同じである。どちらが軽くどちらが重いのか。国家が依って立つところは、綱紀のみである。綱紀が明らかでないから、下の者が軽々しく侵すのである。ただその境界を明らかにし、法禁を示して、争いを無くすことが、長久の策である」と言い、役人に調査を急がせた。これにより軍民の争いは遂に止んだ。北京の民曹貴が謀反を企てた。大理寺が朝廷で評議し、曹貴らは陰謀を長く抱いていたが実行できず、法に「言葉の道理で大衆を動かせず、威力で人を率いるに足りない」とあるから、罪は斬刑に止めるべきであるとした。石はこれを是とした。また従犯の処罰について評議したが、長く決まらなかった。石は「罪に疑わしきは軽きに従う」と言い、入朝して詳しくその状況を奏上した。上はこれに従い、連座した者は皆死刑を免れた。北方の辺境が毎年警報を発するので、朝廷は民衆を徴発して深い壕を掘らせて防ごうとした。石と丞相の紇石烈良弼は皆「不可である。古に長城を築いて北方に備えたが、ただ民力を消耗するだけで、事に益はなかった。北方の習俗は定住せず、出没が常でない。ただ徳をもって柔らげるべきである。もしただ深い壕を掘るならば、必ず守備兵を置かねばならず、塞北は風砂が多いから、一年も経たぬうちに壕は既に埋まってしまうであろう。中国の有用の力を疲弊させて、この無益なことに用いるべきではない」と言った。議論は遂に中止された。これらは皆称えるに足るものである。

世宗は在位ほぼ三十年、尚書令は凡そ四人であった。張浩は旧官の故をもって、完顔守道は功績をもって、徒単克寧は顧命をもって、石は定策をもって任じられ、他に及ぶ者はなかった。明昌五年、世宗の廟廷に配享された。子に献可・逵可がいる。

子 献可

献可は字を仲和といい、大定十年に進士に及第した。世宗は喜んで「太后の家に子孫が進士に挙げられるとは、大変めでたいことである」と言った。累官して戸部員外郎となり、事に坐して清水県令に降格されたが、召されて大興少尹となり、戸部侍郎に遷り、累遷して山東提刑使となった。卒去した。衛紹王が即位すると、元舅として特進を追贈され、道国公を追封された。子の道安は符宝郎に抜擢された。

完顔福寿

完顔福寿は、曷速館の人である。父の合住は、国初に帰順し、猛安を授けられた。天眷二年、福寿は父合住の職を襲い、定遠大将軍を授けられ、累加して金吾衛上将軍となった。海陵王が猛安謀克を整理統合したため、封は停まった。正隆末、海陵王が宋を伐つに当たり、福寿は婁室・台答藹の二猛安を率いて山東道より進み泰安に至った。甲冑を受け取った後、福寿は将校を誘って北へ帰還し、高忠建・盧萬家奴らもまた各々衆一万余を率いて共に東京に帰り、共に世宗を立てようとした。遼口に至ると、世宗は徒単思忠・府吏の張謀魯瓦らを遣わして迎えさせ、その去就を察させた。思忠らは数騎で軍中に馳せ入り、福寿らに会って「将軍は何故ここに至ったのか」と問うた。福寿らは南を指して海陵王を指し、「この人は道を失い、天下を保つことができない。国公(世宗)は太祖皇帝の親孫である。我らは主として推戴しようと思い、このために来たのである」と言った。諸軍は皆東に向かって拝礼し、万歳を呼んだ。書状を作って思忠に授けた。そこで諸軍を督して遼水を渡り、直ちに東京の城下に至り、即座に軍士に命じて甲冑を着けて宮城を守衛させ、高存福らを殺した。翌日、諸将及び東京の吏民と共に、婆速路兵馬都総管の完顔謀衍に従って即位を勧めた。世宗が即位すると、福寿を元帥右監軍とし、銀幣と御馬を賜った。

初め、謀衍が到着した時、諸軍を大会し、福寿の軍を左軍とし、高忠建の軍を右軍とした。忠建は「何故我が軍を右軍とするのか」と言った。謀衍は「配置は我にあり、お前がどうして言うことができようか」と言った。福寿は「大事を始めるにあたり、左右軍の上下など争うに足らぬ」と言い、遂に忠建に左軍を譲った。世宗はこれを聞いて賢しとした。間もなく、完顔謀衍に従って北京において白彦敬・紇石烈志寧を討った。この冬、上は臨潢尹兼元帥左都監の吾紮忽らが窩斡と戦って不利であったと聞き、福寿に兵を率いて進討するよう命じた。既に賊を破り、捕虜を数万計り獲た。世宗は紇石烈志寧を代わりに任じ、福寿を召還して興平軍節度使とし、その世襲猛安を復し、間もなく済州路諸軍事を領した。大定三年、卒去した。

獨吉義

獨吉義は、本名を鶻魯補といい、曷速館の人である。遼陽の阿米吉山に移り住んだ。祖父は回海、父は秘剌である。改国二年、曷速館が帰附し、秘剌は三百戸を領して、遂に謀克となった。秘剌の長子は照屋、次子の忽史は義と同母である。秘剌が死ぬと、忽史は謀克を継ごうとした。義は「長兄は異母ではあるが、奪うことはできない」と言った。忽史はそこで謀克を照屋に帰し、人々は皆義を義とした。義は質子として上京に至った。女真文字・契丹文字に通じ、管勾御前文字となった。天会十五年、右監門衛大将軍に抜擢され、甯化州刺史を除された。廉察により、迭剌部族節度使・複州防禦使に遷り、卓魯部族節度使・河南路統軍都監に改められ、武勝軍節度使となった。辺境の郡が妄りに賊が来たと称し、統軍司は住民を汴に移そうとしたが、義は独り聞き入れず、日々官属と球を打ち遊宴した。統軍司は人を遣って責めた。義は「太師梁王(海陵王)は南伐して淮南におり、死者は未だ葬られず、逃亡者は未だ戻らず、彼らがどうして先に発することができようか。この城中には榷場があり、もし自ら動けば、彼らは我に人無しと言うであろう」と言った。既にして果たして何事もなく、統軍司は謝罪し、沿辺の唐州等の諸軍猛安を皆義に隷属させるよう請うた。貞元元年、唐古部族節度使に改められ、彰化軍となり、利渉軍節度使に改められた。この時、海陵王が宋を伐ち、諸軍は往々にして逃げ帰り、世宗は東京で衆心を得ていた。都統の白彦敬は北京より人を遣わし密かに義と結び、共に世宗を図ろうとした。間もなく、世宗が即位すると、義は即日に来帰し、彦敬と密謀した次第をことごとく陳べた。世宗はその欺かないことを嘉し、参知政事とした。

上は義に言った。「正隆(海陵王)が諸道の兵を率いて宋を伐つが、もし兵を返して北を指したならば、計略はどうするか」。義は言った。「正隆は無道の行いが多く、その嫡母を殺し、兵を恃んで衆を虐げている。必ず自ら斃れるであろう。陛下は太祖の孫であられ、即位はこの時である」。上は言った。「卿はどうしてそれを知るのか」。義は言った。「陛下のこの挙動がもし早すぎれば、正隆は未だ淮を渡らず、遅すぎれば窩斡は必ず甚だ熾んになるであろう。今、正隆は既に淮を渡り、窩斡は未だ甚だ盛んには至らず、将士は南におり、その家族は皆ここにおります。ただ早く中都に行幸されるのが便利です」。上は嘉納した。榛子嶺に至った時、世宗は海陵王が軍中で死んだと聞き、義に言った。「卿の予想の通りであった」。大定二年、罷免されて益都尹となり、兼ねて本路兵馬都総管とされ、金五十両・銀五百両を賜った。三年、病を以て致仕した。四年、家で薨去した。七十一歳であった。

子の和尚は、大定初めに応奉翰林文字を除され、金牌を佩用した。陀満訛裏也の子の撒曷輦が護衛に充てられ、司吏の王得兒加が保義校尉こういとなり、皆銀牌を佩用した。詔書を持って中都以南の州郡に宣諭し、及び南京に往って太傅張浩に諭すためであった。途中で海陵王が害に遇ったと聞き、南京及び都督ととく府は皆上表して賀したので、止めた。和尚は奉使として、勝手に州県官を廃置し、軽々しく殺戮を行ったため、詔して尚書省にこれを審理させた。十九年、詔して義の孫の引寿を斜魯答阿の世襲謀克とした。義は性来弁舌爽やかで、談論を善くし、服玩は奢侈を尚ばず、食事は二品を兼ねなかったという。

賛して曰く、章宗嘗て群臣に問う、「世宗初めて東京を起こすとき、大臣は誰であったか」と。完顔守貞対えて曰く、「ただ李石一人のみ」と。章宗歎息して曰く、「もしかくの如くならば、誠に天命有りというべきなり」と。完顔謀衍諸軍を部署し、高忠建長たることを争い、完顔福寿は忠建を譲りて己れはこれに下る、その功多し。当の時に当たり、独吉義最も先に至り、諸将未だ肯て附かず。これよりこれを言えば、果たして天なり、人力にあらず。

烏延蒲離黑

烏延蒲離黑は、速頻路哲特猛安の人なり、後に合懶路に改めて属す。祖父思列は、烏春・窩謀罕の乱を平定することに預かり、及び遼・宋を伐つこと、皆功有り、猛安を追授され、銀青光禄大夫を贈られる。父国也は、猛安を襲う。蒲離黑は太祖に従い遼を伐ち、勇名軍中に聞こゆ。天眷三年、猛安を襲い、寧遠大将軍を授けられ、累官して武寧軍節度使に至り、京兆尹に遷る。海陵宋を伐つに当たり、行武威軍都総管となる。軍還りて、順義軍節度使となる。徒単合喜秦・隴を定むるに、蒲離黑は完顔習尼列・顔盞門都の兵を統率し徳順州を救い、延安・平涼尹に改む。致仕し、任国公に封ぜらる。大定十九年卒す。

烏延蒲轄奴

烏延蒲轄奴は、速頻路星顕河の人なり、後に改めて曷懶路に隷す。父忽撒渾は、天輔初年、猛安を追授され、親管謀克となる。蒲轄奴は身長有りて力強く、智略多し、その父の猛安謀克を襲い、階は寧遠大将軍。天徳二年、陳州防禦使を授かる。貞元元年、昌武軍節度使に改め、善く綏撫するをもって、再任さる。海陵南征に当たり、帰徳尹に改め、神策軍都総管となる。当に済州に屯すべきところ、山東に至る比、盗賊既にその城を占拠す。蒲轄奴十余騎を率いて往きてこれを覘う、忽ちその衆に囲まれる。乃ち軍士とともに皆下馬し、立ってこれを射る、百余りを殺す。賊衆敗走す、迤邐としてこれを襲い、暮れに至りて還る。明日、その城を攻め破り、士卒に号令し、居民を害することなからしむ、郡中安寧を得る。民その恵に感じ、祠を立ててこれを祭る。大定二年、慶陽尹となる。元帥左都監徒単合喜、宋軍十余万険阻に拠り、郡邑を剽掠すと奏し、師の増益を請う。詔して兵七千を増し、旧兵と合わせて二万とす。蒲轄奴と延安尹高景山等を遣わし、その軍を分領して往かしむ。軍中に卒す、年六十一。子に査剌有り。

烏延査剌

烏延査剌は、銀青光禄大夫蒲轄奴の子なり。力を数人に兼ね、勇果にして敵無し。正隆六年宋を伐つに、諸猛安謀克の兵皆行き、州県備え無し。契丹の括裏韓州を陥とし、信州を囲み、遠近震駭す。査剌咸平より道出し、遂に本部を率いて急ぎ信州に還り、これと戦いてこれを破る。已にして賊復た兵を整え環攻し、且つその城に登らんとす、査剌巨木を下してこれを圧し、賊を殺すこと甚だ衆し、括裏乃ち解きて去る。査剌左右手に両大鉄簡を持ち、簡は重さ数十斤、人これを「鉄簡万戸」と号す。括裏を韓州東八里許に追い及び、賊方に平野に就き陣を為す、査剌身をもって鋭士を率い、鉄簡を以て左右揮撃す。僵僕せざる者無し。賊列を成す能わず、乃ち馬を換え軍を督して復たこれを撃つ。賊衆大敗し、遂に走る、東京・咸平・隆州の民復た帖然たり。

世宗即位し、査剌謁見し、護衛に充てられ、ぎょう騎副都指揮使となり、万戸を領す。窩斡を撃ち、花道に戦う。大軍未だ集まらず、査剌は左翼に在り、六百騎を領して賊と戦い、賊三千余人を殺す。宗亨・蒲察世傑七謀克戦い利あらず、世傑査剌の軍に走る、賊合してこれを囲み攻む。査剌円陣を拒みて戦い、宗叙の軍来援し、賊乃ち引き去る。西に嫋嶺を過ぎ、陷泉に追い及ぶ。賊先ず右翼を犯す、査剌これを迎え撃ち、賊退き走る。窩斡人を募りてこれを刺さしむ、偽護衛阿不沙は身長有りて力強く、奮いて大刀を以て後より査剌を斫る、査剌顧み返り、簡の背を以て阿不沙を撃ち、その右臂を折る。紇石烈志寧の軍と合して撃ち、賊遂に大敗す。

窩斡平らぎ、以て宿直将軍と為し、銀三百両・重彩二十端を賜う。父の憂に服し、本官を以て起復し、その父の猛安を襲い、蔡州防禦使を除かれ、宿州に改め、昌武軍節度使に遷り、鎮を邠州に徙す。賀宋歳元使と為り、淮上の柳樹を射る、矢その樹に入り羽を飲む。宋人は素よりその名を聞き、甚だこれを異とす。鳳翔尹に改め、入りて右副点検と為り、出でて興中尹と為り、婆速路総管に改む。高麗その威名を憚り、凡そ事を以て婆速路に至る者、望見してこれに跪く。二十五年、興平軍節度使と為り、官に卒す。

査剌は貞愨にして寡言、平居極めて和易なり、及び戦に臨めば奮勇し、見る者辟易せざるは無く、重囲万衆と雖も、出入すること無人の境の如しという。

李師雄

李師雄は、字は伯威、雁門の人なり。材力有り、兵を談ずるを喜び、古の英雄を慕い、故に名を師雄とす。宋の宣和中騎射にて科に登り、累官して大名・清平尉となる。王師大名に至り、師雄は府僚とともに出でて降り、本路兵馬都監を摂す。斉国建つに当たり、大総管府先鋒都統制と為し、淄州を知る。斉廃され、汴京馬軍都虞候と為り、歴て寧海軍・曹州刺史を知る。皇統二年、武勝軍節度使と為る。正隆末、河州防禦使と為る。宋将呉璘の軍秦・隴を攻むるに、会して師雄は事に就き臨洮に逮えらる、宋兵城下に至り、州人城に乗りて拒守し、謀りて出でて降らんと欲す、師雄これを止む。宋将権儀馬を鞭ち方に浮橋に上らんとす、師雄これを射て、橋下に墜ち、遂に権儀を擒にし、宋師退く。後に元帥左監軍徒単合喜に従い兵を以て河州を攻め、功有り。未だ幾ばくもなく、疾を以て汴に帰り、卒す。

尼厖古鈔兀

尼厖古鈔兀は、曷速館の人なり。初め大抃紮也と為り、元帥府通事を補う。宋将韓世忠軍数万を率いて邳州を囲む、鈔兀軽騎数百と偵人数輩を将い間道より往きてこれを救い、敵兵六千を破る。翌日、宋兵復た下邳を囲む、鈔兀復たこれを破る。宋人済州を攻め、戦艦を奪うこと略く尽くす。是の時、鈔兀宿州に往き、蒲魯虎の軍を分かち、還りて大河に至り、敵と遇い、力戦してこれを破り、戦艦を尽く復す。王師復た河南を取るに、宋の別将胡陵より夜に孛堇布輝の営を襲い、士卒尽く没す。鈔兀東平総管と力を併せて戦い、これを退く。元帥府銀幣を以て賞す。鈔兀勇敢にして、善く敵の虚実を伺い、これをもって屡々捷つ。帥府制を承けて忠顕校尉を加え、蕃部禿裏と為し、銭一万貫・幣帛三百匹・衣一襲・馬二匹を賜う。将にこれの官に赴かんとす、河間尹大抃元帥に白し、鈔兀を留めて以て辺事に給せんことを請う、これを許す。復た銭一万貫・銀二百五十両・重彩三百端・馬三匹を賜う。功を録し、慶陽少尹を授かる。

海陵王が宋を討伐せんとし、契丹が反乱を起こしたとき、召し入れて諭して言うには、「汝は長く辺境にあり、しばしば戦功を立てた。先に枢密使僕散忽土・留守石抹懐忠らを遣わして契丹を討たせたが、軍は久しく功なく、すでに法に処した。今、汝に都統白彦敬・副統紇石烈志寧とともに進討を命ずる」と。そこで具装の厩馬四匹を賜う。鈔兀は彦敬らとともに北京に至ったが、進むことができなかった。時に世宗が遼陽で即位し、鈔兀は迎えて謁し、輔国上将軍に遷り、都統吾札忽・副統渾坦とともに窩斡を討った。鈔兀が窊歴に行き至ると、窩斡と遭遇し、左軍が少し退いたので、鈔兀は槍を挺ててその陣に馳せ入り、自ら二十余人を殺し、賊はようやく退いた。元帥僕散忠義が花道よりこれを追い、鈔兀は前鋒として陷泉において追い及び、ついにこれを大いに破った。事が平定すると、西北路招討使に遷り、東北路に改めた。

鈔兀は完顔思敬と不和があり、思敬が北京留守となり、詔を奉じて招討司に至ったとき、鈔兀は餞別に出なかった。世宗はこれを聞き、使者を遣わして厳しく責めて言うには、「卿はもと大抃紮(大抃礼)なり、身を細微より起こす。国より厚恩を受け、累ねて重任を歴たるに、私憾をもって、詔使を餞別せず。まさに内に省みて自ら訟い、後は再びこのようであってはならぬ。朕は再三曲げて汝を恕すことはできぬ」と。やがて思敬が平章政事となり、東北路招討使鈔兀は諸部の進馬を私的に取ったことが発覚して捕らえられ、京師に赴かんとした。鈔兀は人となり気概を重んじ、海浜県に宿り、慨然として言うには、「吾どうして思敬の辱めを受けられようか」と。ついに縊りて死んだ。十九年、詔して鈔兀の旧功により、その子和尚に世襲の布輝猛安徒胡眼謀克を授けた。

孛朮魯定方

孛朮魯定方は、本名を阿海といい、内吉河の人である。材勇は人に絶倫であった。海陵王は平素よりその名を聞いていた。天徳初め、召して武義将軍を授け、護衛に充てた。数か月後、十人長に転じ、宿直将軍に遷り、賜与は甚だ厚かった。まもなく殿前右衛将軍となり、また三か月後、殿前右副点検に抜擢され、猛安を世襲し、左副点検に改めた。出て河南尹となり、彰徳軍節度使に改めた。海陵王が南伐するとき、定方は神勇軍都総管となった。大定二年、宋人が汝州を陥落させると、河南統軍使宗尹は定方に兵四千を将いてこれを取り返しに行かせた。汝州の東南及び北面は皆山林険阻であり、騎軍で戦うことはできなかった。このとき、宋兵は鴉路より出没し、定方は襄城に至り、敵の虚実を得て、ついに汝州の属県に牒を下して諭して言うには、「我は許州の戍兵十二万を率いて直ちに汝州を取る。爾らは糧草二十万を備え、人をして要路を占めて宋兵の往来を絶たんと欲すと揚言させよ」と。やがて定方は兵を率いて鴉路に向かい、宋人はこれを聞き、果たして城を棄てて遁走した。定方は魯山の境に至り、宋兵がすでに去ったことを知り、ついに軽騎二百を遣わして布褲叉まで追撃し、これを撃破して、ついに汝州を回復した。鳳翔尹を授かった。宋人が辺境を阻むとき、本職をもって河南道軍馬副統を行い、歩騎六万を率い、寿州より進軍せんとし、亳州に駐屯した。宋の李世輔が宿州を陥落させると、定方は左副元帥志寧に従って城下で戦った。時に天は大暑であり、定方は督戦し、敵陣の中を馳せ突き、出入りすること数四、渇き甚だしく、陣を出て下馬し水を取るところを、人に害せられ、年四十四であった。上はこれを聞き哀れみ、詔して有司に祭らせ、賻として銀五百両・重彩二十端を賜い、金紫光禄大夫を贈った。

夾谷胡剌

夾谷胡剌は、上京宋葛屯猛安の人である。初め左副元帥撻懶の帳下にあり、戦功があり、武徳将軍を授かり、その父の謀克を襲った。正隆末、山東に盗賊が起こり、胡剌は行軍猛安として賊を討ち、徐州の南において賊千五百人と遭遇し、これを破った。山東路統軍司は諸軍八百人を選んで十謀克とし、胡剌がこれを将い、驍騎軍とともに点検司に隷属させた。淮南に行き至ると、海陵王は騎兵三百二十を遣わして揚州に行かせ、宣化鎮において宋兵千五百人を破った。僕散忠義が宋を討つとき、胡剌は万戸を領して泗州より進戦し、宿州において敵と遭遇し、陣に歿し、鎮国上将軍を贈られた。

蒲察斡論

蒲察斡論は、上京益速河の人で、臨潢に移った。祖父は忽土華、父は馬孫、ともに金紫光禄大夫を贈られた。斡論は剛毅にして技能あり。天輔初め、功臣の子として護衛に充てられ、左衛将軍・定武軍節度使に遷り、召されて右副都点検となった。天徳初め、世襲の臨潢府路曷呂斜魯猛安を授かり、東平尹に改め、銭千万を賜い、累ねて河南尹を除かれた。海陵王が宋を討つとき、本官をもって右領軍都監となった。大定二年、なお河南尹となり、河南路都統軍使を兼ねた。宋が万人をもって寿安県を占拠すると、嵩州刺史石抹突剌・押軍万戸徒単賽補が騎兵三百で巡邏し、県の東で遭遇し、師を斡論に請うた。斡論は猛安完顔鶻沙虎に七百人を率いさせてこれを助けさせた。宋兵は多く、突剌は士卒に下馬させ、跪いてこれを射た。宋兵は当たることができず、県城に走り入った。突剌が進んでこれを逼ると、宋人は城を棄てて去り、鉄索口において追い及び、またこれを大いに破り、ついに寿安を回復した。北京留守・大定尹に改め、官に卒した。

夾谷查剌

夾谷查剌は、隆州失撒古河の人である。祖父は不剌速、国初に世襲の曷懶兀主猛安・曷懶路総管を授かった。父は謝奴、官は工部尚書に至った。查剌は状貌魁偉、女直・契丹の書に善くした。天徳初め、功臣の子として護衛に充てられた。二年、武義将軍を授かった。まもなく、符宝郎に抜擢され、凡そ再考を経て、出て濼州刺史となり、平定軍の事を知るに改めた。海陵王が南征するとき、武威軍副都総管となった。軍が還ると、大定二年、景州刺史を授かり、同知京兆尹に遷った。時に彰化軍節度使宗室璋らが宋の将軍呉璘と徳順州において相拒み、元帥左都監徒単合喜は查剌を遣わして諸将とともに敵を破る策を議させた。璋らは議して言うには、「我が兵はしばしば勝つといえども、敵兵が退かぬのは、我が軍少なるを知るが故なり。都監が親しく至らねば、敵を破るべし」と。ここにおいて合喜は兵四万を領して至り、ついに徳順州を下した。入って殿前右衛将軍となり、父の猛安を襲い、左衛将軍に改め、右副点検に遷った。疾あり、丞相良弼がこれを見舞い、親しい者に謂って言うには、「この人は国の器なり。他人に疾あれども、吾いまだ嘗て往かざりし」と。九年、出て東北路招討使兼徳昌軍節度使となり、ここにおいて金帯を賜う。官に到り、治めに勤績あり、辺境は以て安んず。その獄を断ずる公平、道に遺物を拾わず。臨潢尹兼本路兵馬都総管に遷り、蕃部は畏服した。西北路招討使に改めた。上は使者を遣わして宣諭して言うには、「今諸部初めて附く、汝に命じて撫綏せしむ、まさに治声を朕の聴くに達せしむべし」と。大定十二年卒した。

查剌の性質は忠実、内に明敏、毎に大事を論ずるに、倫輩を超越す。太師勖嘗て曰く、「查剌は学ばずして知る、古人に比すれば、この如き者は鮮し」と。

賛して曰く、陷泉の捷は、震電燁燁たり。符離の克は、我が勢い赫たり。隴・坻は𢶉㩧し、淮・濄は鉤鈲し、成れり。故に諸将の功を列叙す。