金史

列傳第二十三:世宗諸子(永中・永蹈・永功・永德・永成・永升)

世宗の昭德皇后は顕宗・趙王孰輦・越王斜魯を生んだ。元妃張氏は鄗王允中・越王允功を生んだ。元妃李氏は鄭王允蹈・衛紹王允済・潞王允徳を生んだ。昭儀梁氏は王允成を生んだ。才人石抹氏は夔王允升を生んだ。孰輦・斜魯は共に早世した。

永中

鎬王永中、本名は實魯剌、またの名は萬僧。大定元年、許王に封ぜられる。五年、大興尹を判ず。七年、越王に進封。十一年、趙王に進封。十三年、枢密使に拝す。十九年、子の石古乃が光禄大夫を加えられる。この年、明徳皇后を坤厚陵に改葬し、永中の母元妃張氏が陪葬した。十一月庚申、磐寧宮より発引す。永中は元妃の柩を先に発し、黄傘を執る者をして前導せしむ。俄かに皇后の柩が磐寧宮を出ると、顕宗は徒跣す。少府監張僅言が黄傘を執る者を呼ぶも応ぜず。葬畢りて、僅言はその事を奏せんとす。顕宗これを解きて曰く、「是れ何ぞ校ふるに足らん、或いは傘人の誤りなるのみ」と。僅言乃ち止む。

二十一年、大宗正事を判ずるに改む。永中悦ばず。顕宗これを勧めて曰く、「宗正の職は、親より疏へ、近より遠へ及ぶ、これ親賢の任なり。且つ皇子の貴き、豈に官職の閑劇を以て計らんや」と。永中乃ち喜ぶ。二十四年、世宗上京に幸す。顕宗居守し、並びに永中を留む。顕宗先づ章宗・宣宗を遣わし、表を奉じて上京に起居を問わしむ。既にして永中の子光禄大夫石古乃を遣わし表を奉ぜしむ。世宗喜びて豫国公主に謂ひて曰く、「皇太子孝徳天成し、先づ二子を遣わし、継いで此の子を遣わす、兄弟の際相友愛すること此の如し」と。

二十五年六月、世宗天平山好水川に在りて清暑す。顕宗中都に薨ず。詔して曹王永功に章宗を視せしめ、永中を行在に赴かしむ。この年、章宗及び永功等と並びに開府儀同三司を加う。二十六年、復た枢密使と為る。この年、世宗諸孫に名を賜ふ。石古乃を瑜と曰ひ、神土門を璋と曰ひ、阿思懣を槩と曰ひ、阿離合懣を曁彖と曰ふ。二十七年、槩年十五以上、奉国上將軍を加う。章宗即位し、起復して西京留守を判じ、漢王に進封す。諸弟と各々金五百両・銀五千両・錢二千貫・重幣三百端・絹二千匹を賜ふ。再び永中に公廨修繕の錢三百萬を賜ひ、特に石古乃に銀青栄禄大夫を、阿離合懣に奉国上將軍を加う。

明昌二年正月辛酉、孝懿皇后崩ず。真定府事を判ずる呉王永成・定武軍節度使を判ずる隋王永升、喪に奔りて後期す。各々俸一月を罰せられ、其の長史五十杖す。永中恰も寒疾有りて至ること能はず。上怒り、頗る諸王に軽慢の心有るを意ひ、使者を遣わし永中を責めて曰く、「已に公除に近し、亦た来るを須ひず」と。二月丙戌、禫祭、永中始めて至り、入臨す。辛卯、始めて焼飯の礼を行ふことを得たり。壬辰、永中及び諸王朝辞し、遺留物を賜ふ。礼遇は在りと雖も、嫌忌は此より始まる。

四月、並王に進封。三年、平陽府事を判じ、鎬王に進封す。初めて王傅・府尉の官を置く。名は官属と為すも、実は之を検制するなり。府尉は風旨を希望し、過ぎて苛細を為す。永中自ら世宗の長子と為し、且つ老いたりとし、動もすれば掣制有り、情思堪へず、殊に鬱鬱たり。乃ち表して閑居を乞ふ。詔して許さず。四年、鄭王永蹈謀逆を以て誅せらる。諸王の司馬一員を増置し、門戸出入を検察し、球獵遊宴皆制限有り、家人の出入皆禁防有り。河東提刑判官把里海、私に永中を謁するに坐し、杖一百、解職す。前近侍局副使裴満可孫嘗て永中の請託を受け、石古乃の為に官を除くことを求む。可孫已に同知西京留守に改まるも、猶坐して免ぜらる。故尚書右丞張汝弼は永中の母舅なり。汝弼の妻高陀斡、大定の間より永中の母の像を画き、之を奉ること甚だ謹み、左道を挟みて永中の為に福を求め、非望を希覬す。明昌五年、高陀斡詛祝に坐し誅せらる。上事の永中に在るを疑ふも、未だ以て発する所無し。

会に鎬王傅尉、永中の第四子阿離合懣が防禁厳密なるに因り、語不道に渉ると奏す。詔して同簽大睦親府事の袴・御史中丞孫即康に鞫問せしめ、並びに第二子神徒門の撰する所の詞曲に不遜の語有ることを求得す。家奴の徳哥、永中が嘗て侍妾の瑞雪と「我天下を得ば、子を大王と為し、爾を以て妃と為さん」と言へりと首す。詔して官を遣わし状の同じきを複按せしむ。再び礼部尚書張暐・兵部侍郎烏古論慶裔を遣わし之を複す。上宰臣に謂ひて曰く、「鎬王は只だ言語を以て罪を得たるのみ、永蹈の罪と異なり」と。参知政事馬琪曰く、「永中と永蹈の罪状は異なると雖も、人臣に将無きは則ち一なり」と。上曰く、「大王何の故ぞ輒く此言を出だす」と。左丞相清臣曰く、「素より妄想の心有るなり」と。詔して永中の罪状を以て百官に宣示し雑議せしめ、五品以下は附奏し、四品以上は便殿に入り対す。皆曰く、「律の如く論ずるを請ふ」と。惟だ宮籍監丞盧利用のみ其の死を貸さんことを乞ふ。詔して永中に死を賜ふ。神徒門・阿離合懣等皆棄市す。勅して有司に国公の礼を以て永中を収葬せしめ、平陽府に監護せしめ、官葬具を給し、妻子は威州に安置す。泰和七年、詔して永中の王爵を復し、諡して厲と曰ふを賜ふ。勅して石古乃に威州に地を択ばしめ、礼を以て改葬せしめ、歳時祭奠す。貞祐二年、詔して永中の妻・子石古乃等を鄭州に徙し安置す。

貞祐三年、太康県人劉全嘗て盗を為し、衛真の界に亡入り、詭りて愛王と称す。所謂る愛王は石古乃を指す。石古乃は実に未だ嘗て王封有ること無し、小人妄りに此を以て之を目す。劉全乱を為さんと欲し、因りて仮託して以て衆を惑はし、王氏の女を誘ひて妻と為し、且つ其の子方に河北に兵を聚むると言ふ。東平人李寧嵩山に居り、妖術有り。全の同県人時温、寧は大事を論ず可しと称し、乃ち範元をして偽号を以て之を召すを書かしむ。寧至り、推して国師と為し、僭立を議す。事覚る。全・温・寧皆誅せらる。

貞祐四年、潼関破れ、永中の子孫を南京に徙す。興定二年、亳州譙県人孫学究私かに妖言を造りて云く、「愛王終に奮発す可く、今民間に跡を匿し、自ら劉二と号す」と。衛真の百姓王深等皆信じて誠然なりと為す。劉二と称する者出でて之に当たり、欧栄輩を遣わし逆党を結構し、兵仗を市ひ、大いに旌旗を署し、立つを慄らんと謀る。事覚る。誅死する者五十二人、縁坐する者六十余人。永中の子孫禁錮せらる。明昌より正大の末に至るまで、幾四十年。天興初、詔して禁錮を弛む。未だ幾もなく、南京も亦守らずと云ふ。

永蹈

鄭王永蹈は、本名を銀術可といい、初めは石狗兒と名乗った。大定十一年、滕王に封ぜられ、一月を経ずして徐王に進封された。二十五年、開府儀同三司を加えられた。二十六年、大興尹となった。章宗が即位すると、彰徳軍節度使を判じ、衛王に進封された。明昌二年、鄭王に移封された。三年、定武軍を判ずるよう改められた。

初め、崔温・郭諫・馬太初が永蹈の家奴畢慶寿とひそかに讖記や災祥を説いていたが、畢慶寿は永蹈に告げて言った、「郭諫はよく人相を見ることができます」。永蹈はそこで郭諫を召して自分と妻子の相を見させた。郭諫は永蹈に言った、「大王の相貌は並々ならず、王妃と二人の子は皆大いに貴ぶべき相です」。また言った、「大王は元妃の長子であって、諸王とは比べものになりません」。永蹈は崔温・馬太初を召して讖記と天象について論じた。崔温は言った、「丑年には兵災があり、兎の命を持つ者が来年の春に兵を収め位を得るでしょう」。郭諫は言った、「先日、赤気が紫微を犯し、白虹が月を貫くのを見ましたが、皆、丑の後寅の前に兵戈が乱れ騒ぐ事を注しています」。永蹈はその説を深く信じ、ひそかに内侍鄭雨児を結託して上の起居を窺わせ、崔温を謀主とし、郭諫・馬太初を往来させて遊説させた。河南統軍使僕散揆は永蹈の妹の韓国公主を娶っていたが、永蹈は河南の軍を取って助けとしようと謀り、妹の沢国公主長楽と謀り、駙馬都尉蒲剌睹を使者として揆に書を送らせ、かつ先に婚姻を請わせて、その意向を探らせた。揆は拒絶して結婚を許さず、使者は再び不軌の事を言うことができなかった。永蹈の家奴董寿が永蹈を諫めたが、聞き入れられなかった。董寿は同輩の奴である千家奴に語り、上に変事を告げた。この時、永蹈は京師におり、詔して平章政事完顔守貞・参知政事胥持国・戸部尚書楊伯通・知大興府事尼龐古鑑に審問させたが、連座して引かれる者が多く、長く決断できなかった。上は怒り、守貞らを召して状況を問うた。右丞相夾谷清臣が奏上して言った、「事は速やかに断絶することを貴び、以て人心を安んずるべきです」。そこで、永蹈と妃の卞玉、二人の子の按春・阿辛、公主長楽に自尽を賜った。蒲剌睹・崔温・郭諫・馬太初らは皆誅殺された。僕散揆は聞き知らなかったが、なおも坐して除名された。董寿は死を免れ、監籍に隷した。千家奴には銭二千貫を賞賜し、特に五官雑班叙使に遷した。ここにおいて諸王の制限と防禁は厳しくなった。

泰和七年、詔して王の封を復し、礼を備えて改葬し、諡を剌と賜い、衛王永済の子の按辰を永蹈の後とし、その祭祀を奉じさせた。

永功

越王永功は、本名を宋葛といい、また広孫とも名乗った。貞元二年に生まれた。沈黙して寡言で笑わず、勇健人に絶し、書史に渉猟し、法書名画を好んだ。大定四年、鄭王に封ぜられた。七年、隋王に進封された。十一年、曹王に進封された。十五年、刑部尚書を除かれた。上は言った、「侍郎張汝霖は、汝の外舅の行いである、政を学ぶことができる」。十七年、活活土世襲猛安を授けられた。十八年、大興尹に改められた。

世宗が金蓮川に行幸した時、中都を出発したばかりで、親軍の二名の蒼頭が馬を放って民田を食い荒らしたので、永功に詔して言った、「蒼頭は各々杖一百。弾圧百戸二人は不覚察を失したので、停職に処す」。上が望京澱に到着すると、永功は奏上して言った、「親軍人はただ一蒼頭・両弾圧が勤務に服して、日が久しくなっています。臣は昧死して詔に背き、蒼頭を酌量して決し、弾圧を待罪させ、彼らにその田の代価を償わせることができます。惟うに陛下の憐察を請います」。上は皆これに従った。

老嫗とその息子の妻が道傍で休んでいたが、妻は密通した者と共に逃げ去った。ある者が嫗に告げて言った、「さきほど若い婦人が水辺の小道から去るのを見ました」。嫗は伍長に告げてその跡を追わせた。ある男が牛を密かに殺し、血のついた刃を手に持っていたが、伍長を見て、自分を捕らえに来たと思い、すぐに走って避けた。嫗と伍長はこれがその妻を殺した者だと疑い、捕らえて県に送った。男は拷問の苦痛に耐えられず、遂に誣服した。死体はどこにあるかと問うと、偽って言った、「水中に棄てました」。水中を探すと、果たして一つの死体を得たが、既に半ば腐っていた。県吏はこの男が本当にその妻を殺したと思い、すぐに獄案を整えて上申した。永功はこれを疑って言った、「婦が死んでから幾日かというのに、死体が急に半ば腐るということがあろうか」。しばらくして、嫗は密通した者の所でその妻を見つけた。永功は言った、「この男はたまたま牛殺しで獄に入り、その拷掠は牛殺しの科条に相当するに足りる」。そこで彼を釈放して去らせた。武清の黄氏・望雲の王氏は豪猾で不逞であったが、永功はその罪を発し、畿内は粛然とした。

二十三年、東京留守を判じた。この月、河間尹に改められた。一月を経て、北京留守に改められた。居ることしばらくして、上は宰臣に言った、「朕は聞く、永功が北京に到着して政を為すに良からずと。朕の子とはいえ、万一敗露すれば、法は廃することができようか。朕は既に永功を戒飭した。卿らはその長史に諭し、以てこれを匡正させよ」。北京に到着して凡そ七月、東京留守に改められた。世宗が上京に行幸し、東京を通り過ぎた時、永功は従った。翌年、上が天平山好水川に還幸した時、皇太子が薨去した。詔して永功に喪事を護らせ、まもなく御史大夫を拝した。章宗が原王に封ぜられると、開府儀同三司を加えられた。趙王永中及び永功兄弟は皆開府儀同三司を加えられた。翌年、大宗正事を判じた。

応州の僧が永功と旧知であり、彰国軍節度使移剌胡剌に事を訴えようとして、永功に手書を求め胡剌に便宜を図ってもらおうとした。胡剌は書を得て、これを奏上した。上は宰臣に言った、「永功が書をもって事を胡剌に嘱託した。これは些細ではあるが、懲らしめないわけにはいかない。凡そ人の小過を治めなければ、遂には大いなる咎に至る。犯す者があれば必ず懲らしめ、ほとんど改めることができるようにする、これもまた教えである」。皆が言った、「陛下は法を用いるに私なく、臣下は敢えて畏敬しないことがありましょうか」。ここにおいて永功は解職された。まもなく、再び大宗正事を判じた。

章宗が即位すると、平陽府事を判ずることを除かれ、冀王に進封された。永功が任地に赴く時、随行した医人の沈思存が制限を過ぎたので、解職すべきであった。上は言った、「朕はこの事を知っている。監奴を痛く断ち、及び府掾長史で府事を管轄する者の罪を治め、なお令に著すべきである」。家奴の王唐が徒罪に至る罪を犯したが、永功は曲げてこれを庇った。平陽治中の高徳裔は不覚察を失い、笞四十に処された。ここにおいて永功は済南府を判ずるよう改められた。永功に詔して言った、「坐した事は些細な事ではあるが、法令はこのようになさざるを得ない。今は既に釈した。後は再びこのようなことがあってはならない。済南は先帝の旧治であり、風土は甚だ良い。この意を悉くせよ」。山東西路把魯古世襲猛安を改めて授けられた。二年、広寧府事を判じ、魯王に進封された。翌年、彰徳府事を判じた。承安元年、郢王に進封された。翌年、太原府事を判じた。泰和七年、西京留守に改められた。八年、再び平陽府事を判じた。大安元年、譙王に進封され、中山府事を判じた。翌年、越王に進封された。

宣宗が即位すると、常参を免じられた。翌年、遷都に従って汴京に移った。久しくして、詔して永功に毎月朔日に一朝せしめた。興定四年、詔して永功に朝参なしとした。五年、病を得たので、御薬を賜った。病が重くなると、尚医を賜って診視させ、一日に五度使者を遣わして様子を問わせた。この年、薨去した。上は慟哭し、諡を忠簡とした。

子に福孫・寿孫・粘没曷がいた。大定二十六年、詔して福孫に名を璐、寿孫に名を璹、粘没曷に名を琳と賜うた。この年、璐に奉国上将軍を加えた。章宗が即位すると、銀青栄禄大夫を加え、蕭国公に封ぜられた。初め興陵崇妃の養子となり、常に京師に居住し、朝請を奉じた。泰和五年、卒去した。章宗は朝を停め、百官は名を進めて奉慰した。

子 璹

璹は本名を壽孫といい、世宗が名を賜り、字は仲実、また一字を子瑜という。資質は簡素で重厚、博学にして俊才あり、詩を作ることを好み、真草の書に巧みであった。大定二十七年、奉國上將軍を加えられる。明昌初年、銀青榮祿大夫を加えられる。衛紹王の時、開府儀同三司を加えられる。貞佑年中、胙國公に封ぜられる。正大初年、密國公に進封される。

璹は朝請に奉じて四十年、日々講誦吟詠を事とし、時折ひそかに士大夫と詩の唱和をしたが、公然と往来することは敢えてしなかった。永功が薨じた後、やや外出して遊ぶことができ、文士の趙秉文・楊雲翼・雷淵・元好問・李汾・王飛伯らと親しく交わった。初め、宣宗が南遷した時、諸王宗室は転倒奔走したが、璹は家蔵の法書名画をことごとく載せて、一帙も遺さなかった。汴中に居住し、家族の口数が多く、俸給の収入が少ないため、客が来ても貧しくて酒肴を整えることができず、野菜と飯を共に食し、香を焚き茶を煮て、蔵書をすべて出し、大定・明昌以来の故事を談じ、終日客を去らせず、楽しんで厭うことがなかった。

天興初年、璹はすでに病臥しており、時事について論じ、嘆息して言うには、「兵勢がこのようでは、支えることができず、降伏するほかない。完顏氏一族を全うして我が国中に帰し、女直が滅びなければそれでよい、私はさらに何を望もうか」と。この時、曹王が人質として出され、璹は哀宗に隆德殿で謁見した。上(哀宗)が問うて、「叔父は何を言おうとされるか」と。璹が奏上して、「訛可が議和に出ようとしていると聞きます。訛可は年少で、事態に熟練せず、恐らく大事を弁じられません。臣がその副使となるか、あるいは代わって行くことを請います」と。上はこれを慰めて言うには、「南渡後、国家は承平の時に比べて何の奉養があったか、しかし叔父もまた少しも恩恵に浴さなかった。事なき時は冷ややかな地に置き、顧みることもなく、危急の時は不測の地に置く。叔父が忠を尽くすのは固より結構だが、天下の人は朕をどう言うだろうか。叔父はやめられよ」と。ここにおいて君臣相顧みて涙を流した。間もなく、病により薨じた。享年六十一。

平生の詩文は非常に多い。自らその詩を刪定し、三百首を残し、楽府一百首、『如庵小稿』と号した。第五子の守禧、字は慶之、風神秀徹で、璹は特に鍾愛し、かつて言うには、「平生蓄えた書画はこの子に付そう」と。汴城が降伏した時、守禧は病没し、年齢三十に満たなかった。

永德

潞王永德、本名は訛出。大定二十五年、章宗及び諸兄とともに開府儀同三司を加えられる。二十七年、薛王に封ぜられる。翌年、秘書監に任ぜられる。二十九年、判秘書監に進み、沈王に進封される。明昌元年、山東東路把魯古必剌猛安を授かる。二年、豳王に進封される。五年、勸農使に遷る。承安二年、潞王に進封される。承安三年、再び勸農使に任ぜられる。泰和元年、有司が永德が元日の酒進上が遅れたことを弾劾したが、詔して問わないこととする。衛紹王の時、累遷して太子太師となる。宣宗即位、同判大睦親府事に改める。興定五年、判大睦親府事に遷る。子の斡論、名を琰と賜る。

永成

豫王永成、本名は鶴野、また婁室ともいう。母は昭儀梁氏。永成は風姿奇偉、博学で、文をよくした。世宗は特にこれを愛重した。大定七年、初めて沈王に封ぜられ、太学博士王彥潛を府文學とし、永成は師事した。十一年、豳に進封される。十五年、外第に就く。十六年、判秘書監となる。翌年、世襲山東東路把魯古猛安を授かり、判大睦親府事となる。まもなく中都路胡土靄哥蠻猛安に改める。二十年、翰林學士承旨に改めて授かる。二十三年、判定武軍節度使事となり、まもなく判廣寧府に改める。二十五年、世宗が上京に幸するに当たり、中都留守を命じられ、判吏部尚書となり、開府儀同三司に進み、御史大夫となる。

章宗即位、起復され、吳に進封され、判真定府事となる。明昌元年、山東西路盆買必剌猛安に改める。翌年、兗に進封される。軍民を率いて囲獵を行った罪により、解職され、奉表して謝罪する。上(章宗)は手詔を賜って言うには、「卿は親しく実に肺腑たり、夙に忠純を著し、顯考(世宗)に春宮に侍して、友于の愛を曲く尽くし、沖人(朕)の統を継ぐに及び、愈よ忠赤の心を明らかにし、艱難の中に多く裨益あり。朕が心に簡在する所、毫楮も窮め難く、ここをもって苫塊の中より起し、維城の任を授く。藩服を典とするより、歳月重なり、蕞爾たる趙邦、驥足の展ぶ難きを知り、眇哉たる鎮府、固より牛刀の施す莫きを固む。方に驛召して朝に赴かんと思い、何ぞ意図せんや、遽かに国憲に罹らんとは。偶に時獵に因り、頗る部民を擾す。法の寬ゆる所にあらず、憲台聞上す。朕尚ほ含容累月、未だ忍びて即行せず、私恩を遂げんと欲すと雖も、竟に公議に違う莫く、卿が前職を解き、乃ち世封とす。噫、祖宗の法を立てるは、一人の敢えて私する所に非ず、骨肉の至親は、豈に千里にして間うる能わんや。ここを以て退閑の小誡とし、終始の洪恩を成さんと欲す。『経』に云う、『上に在りて驕らず、高くして危うからず』と。ここを以て節慎を知る者は修身の本、驕矜なる者は敗德の源たるを知る。朕毎に自ら励まし、今以て卿を戒む。昔、東平(漢の東平王)は善を楽み、能く不朽の名を成し、梁孝(漢の梁孝王)は奢淫にして、卒に憂疑の悔いを致す。前人の行う所、以て龜鑑と為すべし。卿は文武を兼資し、多芸多才、道を履みて行えば、何の施す不可ならん。もし能く德業日新ならば、牽複の晩きを慮る無かれ。朕は素より詞翰を工とせず、文に臨みて草草、直ちに懐く所を写し、辞を以て意を害せざらんことを冀うなり」と。間もなく、沁南軍節度使を授かる。三年、判咸平府事に改めるが、赴任せず、判太原府事に移る。上は永成の誕生日に、親しく詩を作って賜い、「美譽自ずから応に玉牒を輝かし、忠誠は金滕を啓くを待たず」との語あり、当世栄えし。

七年、判平陽府事に改める。承安と改元し、覃恩により豫に進封される。翌年冬、馬八十疋を進上し、もって守禦の備えを資す。上は詔を賜って獎諭して言うには、「卿は夙に雋望有り、時に惟り茂親たり、古今に通達し、忠義を砥礪す。方に外服に憂いを分かたんとし、来たりて上閑に駿を輸し、辺防を助け、武備を増さんと欲す。惟り心を体国に尽くすに在りて、乃ち物に因りて誠を見る。懇勤を念うに、良く深く嘉獎す」と。五年、再任される。俄かに召還されるが、病のため入見できず。上は親しくその第に幸して臨視する。泰和四年、薨ず。訃報を聞き、上はこれがために震悼し、賻贈甚だ厚く、諡して忠獻という。

永成は幼少より読書を好み、晚年に至って学ぶ所益々醇なり、暇日毎に文士を引いて相い切磋し、礼をもって接し、驕りの色を見せたことがなかった。自ら「樂善居士」と号し、文集が世に行われるという。

永升

夔王允升、名を永升と改め、本名は斜不出、一名を鶴壽という。大定十一年、徐王に封ぜられ、虞王に進封される。二十六年、開府儀同三司を加えられる。翌年、判吏部尚書となり、山東西路按必出虎必剌猛安を授かる。章宗即位、宗室に恩を加えられ、隋王に徙封され、定武軍節度使に任ぜられる。明昌二年、曹王に改封される。久しくして、宛王に改封される。衛紹王即位、今の封(夔王)に徙る。貞祐元年九月、宣宗は允升が年高で、平素より病弱であるため、詔して宮中において杖を扶くことを聴す。まもなく薨ず。殯した後、燒飯の儀を行い、上は親しく臨奠した。

賛して曰く、世宗は宗室を保全し、至らざる所なく、海陵の失を矯めたるとはいえ、また天資の仁厚なるに由るものなり。その子永中・永蹈は皆章宗の手に死し、その理には詰むべからざるものあり。章宗に後嗣なく、則ちその報い爽かず。