金史

列傳第二十二: 杲 耨碗溫敦思忠 昂 高楨 白彥敬 張景仁

列傳第二十二: 杲 耨碗溫敦思忠 昂 高楨 白彥敬 張景仁

列傳第二十二 ○杲(本名は撒離喝) 耨碗溫敦思忠(子:謙,甥:兀帶) 昂 高楨 白彥敬 張景仁

杲

原文杲

杲は、本名を撒離喝といい、安帝の六代孫、泰州の婆盧火の一族、胡魯補山の子である。雄偉にして才略あり、太祖に寵愛され、常に軍中にあった。婆盧火が泰州都統となると、宗族は皆泰州に移住した。撒離喝は嘗て世祖の養子となったため、ただ一人移住せず、安出虎水に留まった。

原文杲,本名撒離喝,安帝六代孫,泰州婆盧火之族,胡魯補山之子。雄偉有才略,太祖愛之,常在軍中。及婆盧火為泰州都統,宗族皆隨遷泰州。撒離喝嘗為世祖養子,獨得不遷,仍居安出虎水。

宗翰・宗望が再び汴を陥し、宋の二主を捕らえて北還した。宗望は諸将を分遣して河北を平定させた。左都監闍母が河間を攻め落とした。雄州の李成は城を棄てて逃走したので、撒離喝は邀撃してこれを大破し、雄州は遂に降った。睿宗が山東を経略するに当たり、撒離喝を河上に留めたが、真定の境内に賊衆があり、元帥秦王を自称していた。撒離喝はその衆を撃破し、捕らえて誅した。陝西平定に従い、撒離喝は渭以西の地を巡行し、徳順軍を降し、また涇原路鎮戎軍を降し、熙河を平定し、甘泉等の三堡を降し、遂に保川城を取った。翌年、奔睹とともに河外を討ち平らげ、甯洮・安隴の二寨を降し、併せて下河及び楽州を降した。西寧に至り、その都護官属をことごとく降し、ここにおいて木波の族長らは皆迎えて降った。慶陽を攻め、その抵抗する者を破り、遂にその城を降した。慕洧が環州をもって降り、城寨十三、歩騎一万を得た。ここにおいて、宗弼の軍が和尚原で敗れたので、上は撒離喝を褒め称え、宗弼を戒め励ました。

原文宗翰、宗望已再克汴,執宋二主北還。宗望分遣諸將定河北。左都監闍母攻下河間。雄州李成棄城走,撒離喝邀擊,大破之,雄州遂降。睿宗經略山東,留撒離喝於河上,而真定境內有賊眾,自稱元帥秦王。撒離喝擊破其眾,執而戮之。從平陝西,撒離喝徇地自渭以西,降德順軍,又降涇原路鎮戎軍,進平熙河,降甘泉等三堡,遂取保川城,明年,同奔睹討平河外,降甯洮、安隴二寨,並降下河及樂州。至西寧,盡降其都護官屬,於是木波族長等皆迎降。攻慶陽,敗其拒者,遂降其城。慕洧以環州來降,得城寨十三,步騎一萬。於是,宗弼軍敗于和尚原,上褒美撒離喝而戒勵宗弼。

睿宗が陝西を平定した後、兵を要衝に駐屯させ、撒離喝にこれを総轄させた。間もなく、剣外十三州の収復を請うた。宋の王彦の軍七千人と沙会濼で遭遇し、これを破り、遂に金州を陥した。饒峰関において呉玠の諸軍を連破し、遂に真符県を取り、洋州を取って興元府に入った。固鎮において呉玠の兵を破り、その二将を生け捕った。撒葛柷らが宋兵を破り、諸砦及び仙人関をことごとく陥した。天会十四年、元帥右監軍となった。

原文睿宗已定陝西,留兵屯沖要,使撒離喝總之。居無何,請收劍外十三州。與宋王彥之軍七千人遇于沙會濼,敗之,遂克金州。連破吳玠諸軍于饒峰關,遂取真符縣,取洋州入興元府。敗吳玠兵於固鎮,擒其兩將。撒葛柷等破宋兵,盡下諸砦及仙人關。天會十四年,為元帥右監軍。

天眷三年、宗弼が再び河南を取った。撒離喝は河中より陝西に出た。鳳翔に至ると、宋軍を撃退した。この時、京兆の西に宋軍が甚だ多かった。諸将は暑雨を理由に駐軍しようとした。また宋兵九万が涇州に会したと聞き、都元帥は河南の歩卒を派遣して軍に合流させた。撒離喝は諸将を環慶に駐屯させ、ただ軽騎をもって涇州を取った。六月、涇州において宋兵を破った。宋兵は渭州に走り、抜離速が追撃してこれを大破した。間もなく、右副元帥となった。皇統三年、応国公に封ぜられ、賜与は甚だ厚かった。熙宗が狩猟に出た時、具装馬二頭を賜い、囲いの中で射させた。開府儀同三司を加えられた。軍に還るに当たり、宰臣に命じて餞別させた。

原文天眷三年,宗弼複取河南。撒離喝自河中出陝西。既至鳳翔,擊走宋軍。是時,宋軍在京兆西者甚眾。諸將以暑雨,欲駐軍。且聞宋兵九萬會於涇州,都元帥遣河南步卒來會軍。撒離喝留諸將屯環慶,獨以輕騎取涇州。六月,敗宋兵於涇州。宋兵走渭州,拔離速追擊,大敗之。未幾,為右副元帥。皇統三年,封應國公,錫賚甚厚。熙宗出獵,賜具裝馬二,命射於圍中。加開府儀同三司。將還軍,命宰臣餞之。

海陵が蒲州を河中府に昇格させ、撒離喝を河中尹とし、左副元帥は元の如くとした。陝西より入朝し、因みに従容として言うには、「唐の建成は無道であり、太宗は大義をもってこれを除き、即位の後、善政を力行し、後世に賢と称せられました。陛下は前主の失徳により、大義を以て廃絶し、善政を力行されれば、唐の太宗のようであります。」海陵はその言を聞き、色を変え、撒離喝もまた自らの発言を後悔した。やがて国王に進封され、従行の官吏は皆官賞された。海陵は撒離喝が久しく兵権を握って外にあり、頗る士卒の心を得ていることを思い、これを忌み、行台左丞相兼左副元帥とした。また命に従わぬことを恐れ、陽に殊礼をもって尊び、属籍に連ねさせ、玉帯と璽書を賜った。撒離喝が汴に至ると、詔して行台右丞相・右副元帥撻不野に諭し、撒離喝に軍事を預からせぬようにした。撒離喝は知らず、何事につけ争った。撻不野は詭弁して言うには、「太師梁王は陝西の事を公に委ね、河南の事を撻不野に委ねられたのであり、今別に詔命を奉じたことはありません。陝西の事は、撻不野は固より敢えて干渉いたしません。」撻不野は久しく河南におり、将帥はこれを畏れて附いた。撒離喝は初めて到着し勢い孤であり、争っても得られず、朝廷に訴えた。大臣は上意を知り、報じて言うには、「梁王の教えの如くせよ。」詔使が汴に至り、撻不野に旨を諭した。使節が還ると、撻不野のみが附奏し、撒離喝はこれを聞くことができず、人皆海陵が撻不野にこれを図らせたことを知った。

原文海陵升蒲州為河中府,撒離喝為河中尹,左副元帥如故。自陝西入朝,因從容言曰:「唐建成不道,太宗以義除之,即位之後,力行善政,後世稱賢。陛下以前主失德,大義廢絕,力行善政,則如唐太宗矣。」海陵聞其言,色變,撒離喝亦悔其言。既而進封國王,從行官吏皆官賞之。海陵念撒離喝久握兵在外,頗得士心,忌之,以為行台左丞相兼左副元帥。又恐不奉命,陽尊以殊禮,使系屬籍,以玉帶璽書賜之。撒離喝至汴,詔諭行台右丞相、右副元帥撻不野無使撒離喝預軍事。撒離喝不知,每事輒爭之。撻不野詭曰:「太師梁王以陝西事屬公,以河南事屬撻不野,今未嘗別奉詔命。陝西之事,撻不野固不敢干涉。」撻不野久在河南,將帥畏而附之。撒離喝始至勢孤,爭之不得,白於朝。大臣知上旨,報曰:「如梁王教。」及詔使至汴,諭旨於撻不野。使還,撻不野獨有附奏,撒離喝不得與聞,人皆知海陵使撻不野圖之矣。

時に海陵が遼王斜也しゃやの子孫及び平章政事宗義らを除こうとしたところ、元帥府令史の遙設が海陵の意を迎え、撒離喝父子の謀反を誣告し、平章宗義・尚書謀裏野らを連座させた。遙設は撒離喝の手署と印文を模倣し、詐って契丹小字の家書をその子宗安に与えたものとし、左都監奔睹に上変させた。封題は既に開封されたものとし、書紙には白字が隠約に見え、水に浸されたようにして、字画を分明ならしめ、御史大夫宗安が宮門外でこの書を遺失したと称し、遙設がこれを拾得したとした。その書の大略は、「撻不野は元来我に好ましからず、凡事常に堤防すべきであり、上意を知っているに違いない。移剌補丞相は我に好ましからず、もし分毫でも遅緩すれば、猜疑必ず彼の手に落ちるであろう。」また、「阿渾はこの書を見るごとに、月日を約定し、掃胡令史に白字の書を書かせよ。」とあった。有司が鞫問すると、宗安は服さず、「もし真にこの書があるならば、私は筋肉を割いてこれを蔵し、なお漏洩を恐れるのに、どうして朝門の下でこれを遺失できようか。」と言った。有司が掠笞の楚毒を加えても、宗安の神色は変わらなかった。そこで掃胡を炉炭の上に置くと、掃胡は堪えられず、自ら誣服した。宗安は掃胡に言うには、「汝は苦しい。」宗義は掠笞され、堪えられず、また自ら誣服し、「我らは免れぬことを知った。早く決断せず、徒らに苦しむのみ。」と言った。宗安は言うには、「今は自ら明らかにする術はないが、九泉の下に冤対があるであろう。私は終に屈を引き受けることはできない。」遂に服さずして死んだ。廝魯渾をして撒離喝を汴で殺させ、その家を族誅したが、書を書き、また書を伝えた者の主名はなかった。

原文會海陵欲除遼王斜也子孫及平章政事宗義等,元帥府令史遙設希海陵旨,誣撒離喝父子謀反,並平章宗義、尚書謀裏野等。遙設學撒離喝手署及印文,詐為契丹小字家書與其子宗安,從左都監奔睹上變。封題作已經開拆者,書紙隱約有白字,作曾經水浸,致字畫分明者,稱御史大夫宗安于宮門外遺下此書,遙設拾得之。其書略曰:「撻不野自來於我不好,凡事常有堤防,應是知得上意。移剌補丞相于我不好,若遲緩分毫,猜疑必落他手也。」又曰:「阿渾每見此書,約定月日,教掃胡令史卻寫白字書來。」有司鞫問,宗安不服曰:「使真有此書,我剖肌肉藏之,猶恐漏泄,安得于朝門下遺之?」有司掠笞楚毒,宗安神色不變。乃置掃胡爐炭上,掃胡不能堪,自誣服。宗安謂掃胡曰:「爾苦矣。」宗義被掠笞,不能當,亦自誣服,曰:「我輩知不免矣,不早決,徒自苦。」宗安曰:「今雖無以自明,九泉之下當有冤對,吾終不能引屈。」竟不服而死。使廝魯渾殺撒離喝於汴,族其家,而無寫書及傳書者主名。

折哥という者あり、契丹小字ができ、旧より撒離喝に従っていた。特末という者あり、陝西の旧将で、嘗て左副元帥の事を以て駅伝を馳せて朝廷に赴いた。この二人は皆族誅された。撒離喝の親属でこれに坐して死んだ者は二十余人。魯王斡者の孫耶魯が汴で撒離喝を訪ねたところ、廝魯渾がこれを捕らえた。耶魯は言うには、「願わくは有司に付せられたい。もし法により同坐すべきならば、死すとも恨みなし。」廝魯渾もまたこれを殺した。その家が朝廷に訴えたが、海陵は問わず、ただ銭二百万を賜った。

原文有折哥者,能契丹小字,舊嘗從撒離喝。特末者,陝西舊將,嘗以左副元帥事馳驛赴闕。兩人者皆族誅。撒離喝親屬坐是死者二十余人。魯王斡者孫耶魯候撒離喝於汴,廝魯渾執之,耶魯曰:「願付有司,若法當同坐,雖死不恨。」廝魯渾亦殺之。其家訟於朝,海陵不問,但賜錢二百萬。

奔睹は元帥左監軍に遷り、開府儀同三司を加えられた。遙設は同知博州事とされ、銭三百万を賜り、言うには、「汝は老人に自ら比するな。老人は親しく朕に告げた。汝が有司に告げたのは、もし撒離喝の党人がその間にいて、我が事を敗るであろうからだ。」老人とは蕭玉を指す。蕭玉は名を老人というので、このように言ったのである。遙設は博州に数年いた後、蕭裕と謀反し、誅せられた。

原文奔睹遷元帥左監軍,加開府儀同三司。遙設為同知博州事,賜錢三百萬,謂之曰:「爾無自比老人。老人親告朕,爾以告有司,設有撒離喝黨人在其間,敗吾事矣。」老人指蕭玉也。蕭玉名老人,故雲然。遙設在博州數歲,後與蕭裕謀反,伏誅。

大定初年、詔して撒離喝の官爵を復した。三年、金源郡王を追封し、諡して莊襄とし、郡王の品秩官をもって葬儀を営ませた。十七年、太宗廟廷に配享された。

原文大定初,詔複撒離喝官爵。三年,追封金源郡王,諡莊襄,以郡王品秩官為營葬。十七年,配享太宗廟廷。

耨碗溫敦思忠

原文耨碗溫敦思忠

耨碗溫敦思忠、本名は乙剌補、阿補斯水の人である。太祖が遼を伐つ時、この時はまだ文字がなく、軍事において中継して応答すべき密事は、諸将が皆口授で思忠に伝え、思忠は面奏して詔を受け、軍に戻って詔の言葉を伝達したが、往復数千言に及んでも、少しの誤りもなかった。また遼人が和議を論ずるに当たり、思忠は烏林答贊謀と共に往来してその間を専ら対処し、号して閘剌といった。閘剌とは、漢語で行人(使者)という意味である。収国元年正月より、遼人が僧家奴を遣わして来て、使者が三度往復したが、議は決しなかった。使者の賽剌が遼に至ると、遼人は彼を殺した。遼主自ら将となり、駝門に至って大敗し、帰還し、再び使者を遣わして和議を論じた。太祖は胡突袞を使わし、書状に「もしこれに従わないならば、胡突袞はただ人をして界上まで送らせるか、あるいは賽剌のように殺すか、ただ欲するままにせよ」と記した。

原文耨碗溫敦思忠,本名乙剌補,阿補斯水人。太祖伐遼,是時未有文字,凡軍事當中複而應密者,諸將皆口授思忠,思忠面奏受詔,還軍傳致詔辭,雖往復數千言,無少誤。及遼人議和,思忠與烏林答贊謀往來專對其間,號閘剌。閘剌者,漢語雲行人也。自收國元年正月,遼人遣僧家奴來,使者三往反,議不決。使者賽剌至遼,遼人殺之。遼主自將,至駝門,大敗,歸,複遣使議和。太祖使胡突袞往,書曰:「若不從此,胡突袞但使人送至界上,或如賽剌殺之,惟所欲者。」

天輔三年六月、遼の大冊使である太傅習泥烈が冊璽を携えて上京の一宿駅の距離に至り、先に冊文の副本を取って閲覧したが、文面は兄と称せず、大金と称せず、東懷国と称していた。太祖は受けず、宗翰・宗雄・宗幹・希尹に冊文の意義と趣旨を商議決定させ、揚朴に潤色させ、胡十答・阿撒・高慶裔に契丹字を訳させ、贊謀を習泥烈と同行させた。贊謀が遼に至り、遼人が再び撰した冊文を見ると、またも本国の旨意の通りではなく、遼主に面会して自ら陳述しようとしたが、門番がこれを止めた。贊謀は顧みず、直ちに入った。門番が互いに組み合って争い、彼の信牌を折った。遼人は恐れ、急いで贊謀を帰らせた。太祖は再び贊謀を遼に遣わした。遼人は前後十三回使者を遣わしたが、和議はついに成らなかった。太祖自ら将となり、遂に臨潢を攻克した。

原文天輔三年六月,遼大冊使太傅習泥烈以冊璽至上京一舍,先取冊文副錄閱視,文不稱兄,不稱大金,稱東懷國。太祖不受,使宗翰、宗雄、宗幹、希尹商定冊文義指,揚朴潤色,胡十答、阿撒、高慶裔譯契丹字,使贊謀與習泥烈偕行。贊謀至遼,見遼人再撰冊文,複不盡如本國旨意,欲見遼主自陳,閽者止之。贊謀不顧,直入。閽者相與搏撠,折其信牌。遼人懼,遽遣贊謀歸。太祖再遣贊謀如遼。遼人前後十三遣使,和議終不可成。太祖自將,遂克臨潢。

その後宋を伐つに当たり、思忠は宗翰の軍に従い、劉豫を斉帝に封ずるに際し、思忠は伝宣使となり、間もなく謀克ぼうこくを授かった。宗弼に従って和尚原を攻克した。帰還して同知西京留守事となった。天眷初年、蒲州防禦使に改めた。陝西にある元帥府の官属は、往々にして豪勢に貧民を圧して奴隷とし、工匠千人を起こして派遣し東来させ、河上に至った時、思忠はその人々を留め止めて上聞させ、詔によって皆これを還した。行台尚書左丞となった。この時、贊謨は行台参知政事であり、思忠は財貨を貪って飽くことがなく、贊謨はこれを軽蔑し、両人はこれによって互いに悪感情を抱いた。海陵が行台において左丞相秉徳を殺した。贊謨の妻は、秉徳の乳母であった。思忠はこれによって贊謨を陥れた。彼を殺した。この年、思忠は入朝して尚書右丞となった。間もなく平章政事に進み、郜国公に封ぜられた。進んで左丞相兼侍中を拝し、沂国公に封ぜられた。

原文其後伐宋,思忠從宗翰軍,封劉豫為齊帝,思忠為傳宣使,俄授謀克。從宗弼克和尚原。還為同知西京留守事。天眷初,改蒲州防禦使。元帥府在陝西者,其官屬往往豪壓貧民為奴,起遣工匠千人東來,至河上,思忠留止其人以聞,詔皆還之。為行台尚書左丞。是時,贊謨為行台參知政事,思忠黷貨無厭,贊謨鄙之,兩人由是交惡。海陵殺左丞相秉德于行台。贊謨妻,秉德乳母也。思忠因構贊謨。殺之。是歲,思忠入為尚書右丞。俄進平章政事,封郜國公。進拜左丞相兼侍中,封沂國公。

天徳三年、致仕した。貞元二年十月、海陵は三品以上の官を率いて思忠の邸に臨幸し、家礼をもって拝謁させ、思忠に言った。「卿は神気健やかで、先朝の旧事に通じている。卿を措いて知る者はない。朕のために起ち、共に国政を治めるべきである。」答えて言った。「君の命、臣は敢えて敬って従わないわけにはいきません。ただ老病で疎謬なことを恨み、責めを塞ぐに足りません。」そこで思忠に命じて馬に乗せて宮中に従わせ、太傅を拝し、領三省事を兼ね、斉国王に封ぜられた。まもなく太師兼勧農使を拝した。やがて中書門下省を廃し、領三省事を置かず。尚書令を置き、位は丞相の上とした。思忠が尚書令となり、特に散従八人を置き、宮中に随従することを許し、省での奏上には座を賜った。海陵は封爵の制度を定めようとし、思忠に示唆してこれを建議させた。王に封ぜられていた者は皆降封され、異姓は或いは公に封ぜられ、或いは一品・二品の階位となった。ただ思忠のみは広平郡王に封ぜられ、玉帯を賜った。思忠は百官が妻を封ずるのは不当であると言い、海陵はこれに従った。ただ思忠の次室のみを郡夫人に封じた。そして思忠もまた自ら太祖の旧臣と称し、頗る自ら任じ、海陵が非を遂げて諫めを拒んでも、思忠は言うべきことを全て言って避けるところがなかった。

原文天德三年,致仕。貞元二年十月,海陵率三品以上官幸思忠第,使以家禮見,謂思忠曰:「卿神氣康實,習先朝舊事,舍卿無能知者,當為朕起,共治國政。」對曰:「君之命,臣敢不敬從,但恨老病疏謬,無以塞責耳。」遂命思忠乘馬從入宮,拜太傅,領三省事,封齊國王。尋拜太師兼勸農使。已而罷中書門下省,不置領三省事。置尚書令,位丞相上。思忠為尚書令,特置散從八人,聽隨至宮,省奏賜坐。海陵欲定封爵制度,風思忠建白之。封王者皆降封,異姓或封公或一品、二品階。惟封思忠廣平郡王,賜以玉帶。思忠言百官不當封妻,海陵從之。惟封思忠次室為郡夫人。而思忠亦自謂太祖舊臣,頗自任,雖海陵遂非拒諫,而思忠盡言無所避。

海陵が宋を伐とうとし、諸大臣に問うたが、皆敢えて答えなかった。思忠は言った。「不可です。」海陵は喜ばず、思忠に言った。「汝は可否を論ずるな。ただ何時にこれを克服できるかと言え。」思忠は言った。「十年を期とします。」海陵は言った。「何と久しいのか。一ヶ月である。」思忠は言った。「太祖が遼を伐った時でさえ、なお数年を要しました。今、百姓は愁怨し、師を出すに名がありません。江・淮の間は暑熱で低湿であり、久しく居住するに堪えず、歳月を期することはできません。」海陵は怒り、左右を顧み、兵刃を取ろうとする者のようであった。思忠は畏れることも恐れることもなく、また言った。「老臣は四朝に歴事し、位は公相に至りました。もし国家に補うところがあれば、死すら何の憾みがありましょう。」しばらくして、海陵は言った。「古来帝王は天下を混一して、その後初めて正統と為し得る。爾たる耄夫は固よりこのことを知らぬ。汝の子乙迭は書を読む。往って彼に問うがよい。」思忠は言った。「臣は昔、太祖が天下を取るのを見ましたが、この時どうして文字があったでしょうか。臣の年は七十に垂れ、事に経ることも多い。彼の乳臭い子など、どうして問うに足りましょうか。」

原文海陵將伐宋,問諸大臣,皆不敢對。思忠曰:「不可。」海陵不悅,謂思忠曰:「汝勿論可否,但雲何時克之。」思忠曰:「以十年為期。」海陵曰:「何久也?期月耳。」思忠曰:「太祖伐遼,猶且數年。今百姓愁怨,師出無名。江、淮間暑熱湫濕,不堪久居,未能以歲月期也。」海陵怒,顧視左右,若欲取兵刃者。思忠無所畏恐,複曰:「老臣曆事四朝,位至公相,苟有補於國家,死亦何憾。」有頃,海陵曰:「自古帝王混一天下,然後可為正統。爾耄夫固不知此,汝子乙迭讀書,可往問之。」思忠曰:「臣昔見太祖取天下,此時豈有文字耶?臣年垂七十,更事多矣,彼乳臭子,安足問哉!」

海陵は既に思忠の言を用いず、四方の甲仗を中都に運んだ。思忠は言った。「州郡に兵がなければ、どうして盗賊に備えましょうか。」海陵は壮丁を尽く籍して兵とし、思忠は言った。「山后の契丹諸部は、恐らく尽く起こすことはできません。」皆聞き入れなかった。その後、州郡に盗賊が起こり、守令はこれを制することができなかった。契丹の撒八・窩斡が果たして反し、一年を経てようやくこれを克服した。

原文海陵既不用思忠言,運四方甲仗於中都。思忠曰:「州郡無兵,何以備盜賊?」海陵盡籍丁壯為兵,思忠曰:「山后契丹諸部,恐未可盡起。」皆不聽。其後,州郡盜起,守令不能制。契丹撒八、窩斡果反,期年乃克之。

この時、海陵が宋を伐つに当たり、祁宰は諫めて死に、張浩は進言して杖罰を受け、思忠は疎遠に遇い、孔彦舟のみが両淮を先取する策を画し、他に及ぶ者はなかった。正隆六年、思忠は薨じ、年七十三であった。海陵は深く悼惜し、親しく臨奠し、賻贈を加等し、金螭頭車を賜い、使者を監護させ、道路の費用を給した。

原文當是時,海陵伐宋,祁宰諫而死,張浩進言被杖,思忠見疏,孔彥舟畫策先取兩淮,他無及者。正隆六年,思忠薨,年七十三。海陵深悼惜之,親臨奠,賻贈加等,賜金螭頭車,使者監護,給道路費。

大定十二年、詔して烏林答贊謨の官爵を復し、特進を贈った。上は宰臣に言った。「贊謨は忠実剛毅であり、古人と雖もこれを過ぎる者はない。思忠と不和があり、遂に海陵を勧めて彼を殺させた。今、思忠の子孫は皆不肖である。これも陰報である。」初め、思忠は既に贊謨を陥れて殺し、遂にその妻曹氏を娶り、その家の財産を全て取り尽くした。章宗が即位すると、贊謨の娘五十九が改葬を乞うた。詔して懐州に葬地を賜い、併せて思忠が元来取り尽くした家財を彼女に付与した。

原文大定十二年,詔複烏林答贊謨官爵,贈特進。上謂宰臣曰:「贊謨忠實剛毅,雖古人無以過。與思忠有隙,遂勸海陵殺之。今思忠子孫皆不肖,亦陰報也。」初,思忠已構殺贊謨,遂納其妻曹氏,盡取其家財產。章宗即位,贊謨女五十九乞改葬。詔賜葬地於懷州,並以思忠元取家貲付之。

子に謙あり。

原文子 謙

謙、本名は乙迭、累官して御史中丞となった。世宗は彼に言った。「省部の官は請托を受け、家室を通じて伝達する者がある。官刑は粛然とせず、士風は頽弊してこのようである。これを糾正せよ。」初め、世宗が中都に至った時、多くの宮人を放って家に還したが、称心ら数人は放遣の例にあったが、所司が検査を失い、宮を出ることができず、心に常に怏怏としていた。大定二年閏二月癸巳の夜、遂に十六位において放火し、太和・神龍殿に延焼した。上は近臣に命じて火の発した所を跡付けさせた。十六位の宮人袁六娘ら六人が告発し、実は称心らがこれを行ったのである。称心らは誅せられ、袁六娘ら六人を賞賜し、宮を放出して良民とした。謙は宮殿が火に遭い、再び工役を興し、民を労し財を傷つけることを思い、乃ち上表して暫く修建を緩めることを乞うた。上は張汝弼をして謙に詔せしめて言った。「朕は正隆年間の逐年徭役を思い、百姓の瘡痍は未だ回復せず、辺事も未だ止まず、どうして急に営繕があろうか。卿はこれを悉く知るがよい。」

原文謙,本名乙迭,累官禦史中丞。世宗謂之曰:「省部官受請托,有以室家傳達者。官刑不肅,士風頹弊如此,其糾正之。」初,世宗至中都,多放宮人還家,有稱心等數人在放遣之例,所司失於檢照,不得出宮,心常怏怏。大定二年閏二月癸巳夜,遂於十六位放火,延燒太和、神龍殿。上命近臣跡火之所發。十六位宮人袁六娘等六人告,實稱心等為之。稱心等伏誅,賞賜袁六娘六人,放出宮為良。謙意宮殿被火,將復興工役,勞民傷財,乃上表乞權紓修建。上使張汝弼詔謙曰:「朕思正隆比年徭役,百姓瘡痍未複,邊事未息,豈遽有營繕也。卿可悉之。」

久しくして、父思忠の済州猛安もうあん・利涉軍節度副使を襲った。烏林答鈔兀が逃軍を追捕し、猛安の中に至った時、謙はその煩わしさを畏れ、乃ち民財を醵して銀を買い、鈔兀に賄賂した。事が発覚し、鈔兀は罪に当たり、謙は猛安を奪われる罪に坐した。赦令に遇い、叙用を求めた。上は言った。「乙迭は自ら贓物を与えたわけではない。その所を復せしめよ。」

原文久之,襲父思忠濟州猛安、利涉軍節度副使。烏林答鈔兀追捕逃軍,至猛安中,謙畏其擾,乃醵民財買銀賂鈔兀。事覺,鈔兀抵罪,謙坐奪猛安。遇赦,求敘。上曰:「乙迭無自與贓,使複其所。」

甥に兀帶あり。

原文侄 兀帶

耨碗溫敦兀帶は、太師思忠の甥なり。天會年間、女直じょちょく字学生に充てられ、学問通達し、書史を観覧し、詩を作ることに巧みなり。選ばれて尚書省令史となり、右司都事を除され、行台右司郎中に転じ、入朝して左司員外郎となる。累官して同知大興尹に至り、京師の盗賊止息し、事滞ることなし。再び遷って刑部尚書となり、定海軍節度使に改む。兵部尚書を除され、吏部に改む。正隆の宋征伐に、武定軍都総管となる。世宗即位し、使者を遣わして召し、咸平尹を授け、北辺行軍都統とす。会寧尹に改め、都統は元の如し。この時、窩斡を初めて平定し、人心未だ安からず、兀帶は治め寛簡にして、備禦多く、斥候を謹み、辺郡以て寧し。北京留守に改む。廉察の挙げる所「兀帶の在る所に能名有り、私過無し」により、ここにより入朝して参知政事を拝す。世宗之に諭して曰く、「凡そ卿の上に在る者、行事或いは理に当たらず、諮稟に従わざれば、卿以て見る所を奏聞せよ。下位に用うべき才あれば、当に之を推薦すべし。」久しくして、疾に属し、上は左宣徽使敬嗣暉を命じて往き視せしめ、医を遣わして治療せしむ。薨ず、年四十七。上聞きて悼惜し、賻に銀千両・重彩四十端・絹四百匹を賜い、有司を勅して祭を致さしむ。久しくして、上侍臣に謂いて曰く、「故参知政事兀帶・刑部尚書彥忠・滄州節度使兀不喝・侍郎敵斡・郎中骨赧は皆人として忠直なり、後進の中に能く之に及ぶ者少なし。朕は忠直の人を得るを楽しむ、兀帶の輩の如き者有らんか、卿等朕が為に之を挙げよ。」其れ見思われること此の如し。

原文耨碗溫敦兀帶,太師思忠侄也。天會間,充女直字學生,學問通達,觀書史,工為詩。選為尚書省令史,除右司都事,轉行台右司郎中,入為左司員外郎。累官同知大興尹,京師盜賊止息,事無留滯。再遷刑部尚書,改定海軍節度使。除兵部尚書,改吏部。正隆伐宋。為武定軍都總管。世宗即位,遣使召之,授咸平尹,為北邊行軍都統。改會甯尹,都統如故。是時初定窩斡,人心未安,兀帶為治寬簡,多備禦,謹斥候,邊郡以寧。改北京留守。以廉察舉「兀帶所在有能名,無私過」,由是入拜參知政事。世宗諭之曰:「凡在卿上者,行事或不當理,咨稟不從,卿以所見奏聞。下位有可用之才,當推薦之。」久之,屬疾,上命左宣徽使敬嗣暉往視,遣醫治療。薨,年四十七。上聞悼惜之,賻銀千兩、重彩四十端、絹四百匹,敕有司致祭。久之,上謂侍臣曰:「故參知政事兀帶、刑部尚書彥忠、滄州節度使兀不喝、侍郎敵斡、郎中骨赧皆為人忠直,後進中少有能及之者。朕樂得忠直之人,有如兀帶輩者乎,卿等為朕舉之。」其見思如此。

昂

原文昂

昂、本名は奔睹、景祖の弟孛黒の孫、斜斡の子なり。幼時にして太祖に侍す。太祖数人をして両両角力せしむ。時に昂年十五、太祖顧みて曰く、「汝能く此れを為すか。」対えて曰く、「命有らば、敢えて勉めざらんや。」遂に連ねて六人を仆す。太祖喜びて曰く、「汝は吾が宗弟なり、今より遠く左右を離るる勿れ。」数日居りて、金牌を賜い、佩して侍せしむ。年十七、太祖遼を伐つ、之に謂いて曰く、「汝は甲を擐きて軍に従うべし。」昂遂に賜う所の金牌を佩して軍に従う。太祖燕を平らげ、功を策し、甲第一区を賜う。天輔六年、宗翰北安州に駐し、遼主延禧の鴛鴦濼に在るを聞き、耨碗溫敦思忠を遣わして国論勃極烈ぼっきょくれつ杲に請い、願わくは以て所部の軍を以て之を追わんとす。杲決すること能わず、乃ち昂と思忠を遣わして宗翰に詣り議わしむ、其の事遂に定まる。天會二年、南京叛く、軍帥闍母昂・劉彥宗を遣わして兵を分かちて之を討たしむ。

原文昂,本名奔睹,景祖弟孛黑之孫,斜斡之子。幼時侍太祖。太祖令數人兩兩角力。時昂年十五,太祖顧曰:「汝能此乎?」對曰:「有命,敢不勉。」遂連僕六人。太祖喜曰:「汝,吾宗弟也,自今勿遠左右。」居數日,賜金牌,令佩以侍。年十七,太祖伐遼,謂之曰:「汝可擐甲從軍矣。」昂遂佩所賜金牌從軍。太祖平燕,策功,賜甲第一區。天輔六年,宗翰駐北安州,聞遼主延禧在鴛鴦濼,遣耨碗溫敦思忠請于國論勃極烈杲,願以所部軍追之。杲不能決,乃遣昂與思忠詣宗翰議,其事遂定。天會二年,南京叛,軍帥闍母遣昂、劉彥宗分兵討之。

宗望宋を伐つ、制を承けて以て河南諸路兵馬都統と為し、「金牌郎君」と称す。及び汴州を攻むるに、宗弼と昂は兵三千を以て前鋒と為す。暮れに比し、昂先ず兵千人を以て馳せて其の北門に至る。時に軍中より使を遣わして城に入る、宋人納れず。昂之に事を以て諭す、遂に入るを得。宗望汴に至り、闍母・撻懶たつらん等をして城の東北隅に屯せしむ。宋主の遁去するを慮り、昂等を遣わして軽騎を率い城を環り巡邏せしむ。昂の領する所は止だ八謀克、敵万人に遇い、之と戦い、之を敗る、其の歩軍汴に溺死する者過半なり。七年、大軍江を渡り、江上に於いて宋兵を敗る。帥府昂等を遣わして兵を以て宋主を追わしむ。宋主会稽に入り、堅守の計を為すが若く、兵数千有りて郭東の竹葦の間に陣を列ぬ。諸将之を撃たんと欲す、昂曰く、「此れ詐りなり。急ぎ城を攻むるに若かず、然らずば将に他門より逸去せん。」諸将猶豫して未だ決せず、而して宋主果たして他門に於いて単舟を以て海に入り、獲ることなくして還る。

原文宗望伐宋,承制以為河南諸路兵馬都統,稱「金牌郎君」。及攻汴州,宗弼與昂以兵三千為前鋒。比暮,昂先以兵千人馳至其北門。時軍中遣使入城,宋人不納。昂諭之以事,遂得入。宗望至汴,令闍母、撻懶等屯于城之東北隅。慮宋主遁去,遣昂等率輕騎環城巡邏。昂所領止八謀克,遇敵萬人,與戰,敗之,其步軍溺死於汴者過半。七年,大軍渡江,敗宋兵于江上。帥府遣昂等以兵追宋主。宋主入會稽,若為堅守計,有兵數千列陣于郭東竹葦間。諸將欲擊之,昂曰:「此詐也。不若急攻城,不然將由他門逸去。」諸將猶豫未決,而宋主果於他門以單舟入海,不獲而還。

宗輔陝西を定め、宗弼熙秦を経略し、昂と撒離喝を遣わして兵八千を領し河西郡県を攻め取らしむ。昂等遂に甯洮・安隴の二寨を取る。進みて河州に至る、其の通判士民を率いて迎降す。楽州を攻む、其の都護及び河州安撫使郭寧偕にして降る。復た進みて三寨を取り、西寧州に至る、都護許居簡城を以て降り、吐蕃酋長の孫趙鈐轄其の所部の木波首領五人を率いて来降す。昂別に軍四千を領して積石軍に往き、其の軍及び所部の五寨の官吏を降す。吐蕃の鈐轄等十二人を追いて廓州に至り、之を招くも下らず、攻め取り之。

原文宗輔定陝西,宗弼經略熙秦,遣昂與撒離喝領兵八千攻取河西郡縣。昂等遂取甯洮、安隴二寨。進至河州,其通判率士民迎降。攻樂州,其都護及河州安撫使郭寧偕降。複進取三寨,至西寧州,都護許居簡以城降,吐蕃酋長之孫趙鈐轄率其所部木波首領五人來降。昂別領軍四千往積石軍,降其軍及所部五寨官吏。追吐蕃鈐轄等十二人至廓州,招之不下,攻取之。

天眷元年、鎮国上將軍を授け、東平尹を除す。明年夏、宋将岳飛兵十万を以て、号して百万と称し、来たりて東平を攻む。東平に兵五千有り、倉卒に出でて之を禦ぐ。時に桑柘方に茂り、昂林間に多く旗幟を張らしめ、以て疑兵と為し、自ら精兵を以て前に陣す。飛敢えて動かず、数日相持して退く。昂兵を勒して之を襲い、清口に至る、飛の衆舟に泛し水を逆いて去る。時に霖雨昼夜止まず、昂乃ち水に附きて屯営す。夜将に半ばならんとし、忽ち衆を促して北行せしむ。諸将諫めて曰く、「軍士遠く泥濘に渉り、饑憊して未だ食わず、恐らくは難く遽に行く。」昂怒りて応ぜず、鼓を鳴らして之を督し、令を下して曰く、「鼓声絶えて敢えて後るる者は斬る。」遂に営を棄て去り、幾二十里にして止む。是の夜、宋人来たりて営を劫うも、得る所無くして去る。諸将入りて賀し、且つ其の故を問う。昂曰く、「流に沿いて下る者は、走るなり;流を溯って上る者は、我を誘いて必ず追わんとすなり。今大雨泥濘、彼は舟行安く、我は陸行労す。士卒饑乏し、弓矢敗弱す、我軍其の下流に居り、勢便利ならず、其れ我を襲うこと必せり。」衆皆称善す。岳飛兵十万を以て邳州を囲むこと甚だ急なり、城中の兵纔かに千余、守将懼れ、人を遣わして救を求む。昂曰く、「我が為に守将に語れ、我嘗て下邳に至り、城中の西南隅に塹深さ丈余有り、速かに之を実くべし。」守将其の教の如くし、之を填す。岳飛果たして此れより地を穴ぐらして以て入らんとす、備え有るを知り、遂に止む。昂兵を挙げて以て声援と為す、飛乃ち退く。

原文天眷元年,授鎮國上將軍,除東平尹。明年夏,宋將岳飛以兵十萬,號稱百萬,來攻東平。東平有兵五千,倉卒出禦之。時桑柘方茂,昂使多張旗幟于林間,以為疑兵,自以精兵陣於前。飛不敢動,相持數日而退。昂勒兵襲之,至清口,飛眾泛舟逆水而去。時霖雨晝夜不止,昂乃附水屯營。夜將半,忽促眾北行。諸將諫曰:「軍士遠涉泥淖,饑憊未食,恐難遽行。」昂怒不應,鳴鼓督之,下令曰:「鼓聲絕而敢後者斬。」遂棄營去,幾二十里而止。是夜,宋人來劫營,無所得而去。諸將入賀,且問其故。昂曰:「沿流而下者,走也;溯流而上者,誘我必追也。今大雨泥淖,彼舟行安,我陸行勞。士卒饑乏,弓矢敗弱,我軍居其下流,勢不便利,其襲我必矣。」眾皆稱善。岳飛以兵十萬圍邳州甚急,城中兵才千餘,守將懼,遣人求救。昂曰:「為我語守將,我嘗至下邳,城中西南隅有塹深丈餘,可速實之。」守將如其教,填之。岳飛果自此穴地以入,知有備,遂止。昂舉兵以為聲援,飛乃退。

東平に在ること七年、益都尹に改め、東北路招討使に遷り、崇義軍節度使に改め、会寧牧に遷る。天德初め、安武軍節度使に改め、元帥右都監に遷り、左監軍に転じ、上京路移裏閔斡魯渾河世襲猛安を授かる。海陵曰く、「汝大功有り、一猛安は酬うるに足らず。」と。謀克四を以て益す。昂は親管の謀克を受け、余りの三謀克は其の族兄弟に譲る。枢密副使を拝し、太子少保に転じ、枢密使・尚書左丞相に進む。昂族弟の妻に怒り、衣を去りて其の脊を杖つ、海陵之を聞き、昂を五十杖す。久しくして、太尉を拝し、沈国公に封ぜらる。太保に進み、大宗正事を判じ、楚国公に封ぜられ、累進して莒・衛・斉と封ぜられ、枢密使を兼ね、太保は元の如し。

原文在東平七年,改益都尹,遷東北路招討使,改崇義軍節度使,遷會寧牧。天德初,改安武軍節度使,遷元帥右都監,轉左監軍,授上京路移裏閔斡魯渾河世襲猛安。海陵曰:「汝有大功,一猛安不足酬也。」益以四謀克。昂受親管謀克,餘三謀克讓其族兄弟。拜樞密副使,轉太子少保,進樞密使、尚書左丞相。昂怒族弟妻,去衣杖其脊,海陵聞之,杖昂五十。久之,拜太尉,封沈國公。進太保,判大宗正事,封楚國公,累進封莒、衛、齊,兼樞密使,太保如故。

海陵南伐し、諸路の軍を分かちて三十二総管と為し、分かれて左右領軍大都督ととく府に隷し、遂に昂を以て左領軍大都督と為す。海陵江上に台を築き、昂及び右領軍副大都督蒲盧渾を召して之に謂いて曰く、「舟楫已に具われば、以て済つべし。」蒲盧渾曰く、「舟小にして済つべからず。」海陵怒り、詔して昂と蒲盧渾に明日先ず済たしむ。昂懼れ、亡去せんと欲す。暮れに抵り、海陵人を遣わして之を止めて曰く、「前言は一時の怒りなり。」と。既にして揚州に至り、軍変し、海陵死す。

原文海陵南伐,分諸路軍為三十二總管,分隸左右領軍大都督府,遂以昂為左領軍大都督。海陵築台于江上,召昂及右領軍副大都督蒲盧渾謂之曰:「舟楫已具,可以濟矣。」蒲盧渾曰:「舟小不可濟。」海陵怒,詔昂與蒲盧渾明日先濟。昂懼,欲亡去。抵暮,海陵遣人止之曰:「前言一時之怒耳。」既而至揚州,軍變,海陵死。

世宗が遼陽で即位すると、昂は人を遣わして皇太子光英を南京で殺害させ、その子の寢殿小底宗浩と婿の牌印祗候回海らに表を奉持させて宝位登極を賀させた。大軍が北還するや、昂は宋人がその後を追うことを恐れ、直ちに兵を罷めて宋に移書した。二年、世宗に謁見し、深く慰労された。漢国公に進封され、都元帥に拝され、太保は従前の如く、山東に元帥府を置き、辺境の事を経略した。間もなく、睿宗皇帝の梓宮を山陵に奉遷するに当たり、昂を敕葬使とした。事が終わり、山東に還った。三年、京師に召されたが、病により薨じ、六十四歳であった。上は朝を輟み、親しく臨奠し、賻として銀千両・重彩五十端・絹五百匹を賜った。

原文世宗即位遼陽,昂使人殺皇太子光英于南京,遣其子寢殿小底宗浩與其婿牌印祗候回海等奉表賀登寶位。大軍北還,昂恐宋人躡其後,即以罷兵移書于宋。二年,入見世宗,深慰勞之。進封漢國公,拜都元帥,太保如故,置元帥府于山東,經略邊事。未幾,奉遷睿宗皇帝梓宮于山陵,以昂為敕葬使。事畢,還山東。三年,召至京師,以疾薨,年六十四。上為輟朝,親臨奠,賻銀千兩、重彩五十端、絹五百匹。

昂は海陵の時、酒を縦に飲み深く酔い、数日も醒めないことがあった。海陵はこれを聞き、常に面と向かって戒めて飲ませなかった。暇を得ては従前の如く飲んだ。大定の初め、揚州から還ると、妻子が私第に酒を設けたが、数巡もせずに、臥して飲まなかった。その妻の大氏は、海陵庶人の従母姉であるが、怪しんで問うた。昂は言う、「我は元より酒を嗜む者ではない。ただ当時は酒をもって自ら晦まさなければ、汝の弟(海陵)に殺されていたであろう。今明時に遭い遇うて、正に自愛すべきである。故に飲まぬのだ」と。聞く者はこれを称えた。兄弟に睦まじく、特に施し与えることを善くし、その親族に貧困な者がいれば、必ず厚く給与した。茵帳・衣衾・器皿・僕馬の類に至るまで、常に家に予め設けておいた。即ち命駕して相就き、具を為し、終日歓楽し、尽くこれを遺し、即日に富足ならしめた。或る人が子孫の計を言うと、答えて言う、「人それぞれに命がある。ただその能く自立することをさせるのみである。何ぞ子孫の奴隷たるに至らんや」と。君子はこれを達観と為した。

原文昂在海陵時,縱飲沉酣,輒數日不醒。海陵聞之,常面戒不令飲。得閒輒飲如故。大定初,還自揚州,妻子為置酒私第,未數行,輒臥不飲。其妻大氏,海陵庶人從母姊也,怪而問之。昂曰:「吾本非嗜酒者,但向時不以酒自晦,則汝弟殺我久矣。今遇遭明時,正當自愛,是以不飲。」聞者稱之。睦于兄弟,尤善施予,其親族有貧困者,必厚給之。至於茵帳、衣衾、器皿、僕馬之屬,常預設於家。即命駕相就,為具,歡樂終日,盡以遺之,即日使富足。人或以子孫計為言,答曰:「人各有命,但使其能自立爾,何至為子孫奴耶?」君子以為達。

贊に曰く、撒離喝・溫敦思忠・奔睹は皆功ある旧臣であり、天会・皇統の際には、戦に勝ち攻め取ること、壮なりと謂うべし。海陵の世に及んで、崎嶇として嫌忌され、撒離喝は既に言によって疑いを致したが、なお大抃と軍事を辨爭するとは、幾を見ることの早からざるかな。烏林答贊謨は廉直自ら奮い、思忠これを死に擠す。自ら海陵に固結し、金石の如く堅しと謂う。豈に議を執ること合わずして忽ち棄てられんとは意図せんや。始めを以て道にせざれば、能く終わる者なし。且つ思忠の最も罪すべきは、贊謨を構害し、又その室を納めてその資を敓うこと、これ何ぞ貨を以て越人を殺す者に異ならんや。陰報はその身に在らず、その子孫に在り、亦已に晩し。正隆の末、奔睹は位三公に居り、上将に居りて、内には謀りに与せず、外には戦いに与せず、逼側趑趄し、苟も免れて自ら全うせんとす。大臣の道、固よりかくの如きか。

原文贊曰:撒離喝、溫敦思忠、奔睹皆有功舊臣,當天會、皇統之際,戰勝攻取,可謂壯哉。及海陵之世,崎嶇嫌忌,撒離喝既自以言致疑,猶與大抃辨爭軍事,何見幾之不早也。烏林答贊謨廉直自奮,思忠擠之於死,自謂固結海陵,堅若金石,豈意執議不合而遽棄耶。始之不以道,未有能終者也。且思忠之最可罪者,構害贊謨,又納其室而敓其貲,此何異於殺越人於貨者乎!陰報不在其身,在其子孫,亦已晚矣。正隆之末,奔睹位三公,居上將,內不肯與謀,外不肯與戰,逼側趑趄,苟免自全,大臣之道,固若是乎?

高楨

原文高楨

高楨は、遼陽の渤海人である。五世の祖牟翰は遼に仕え、官は太師に至った。楨は少くして学を好み、嘗て進士を業とした。斡魯が高永昌を討ち、既に沈州を下すと、永昌は懼れ、偽って款を送って師を緩めようとした。この時、楨の母は沈州に在ったが、遂に来降し、永昌の降款が誠ならざることを告げたので、斡魯は乃ち進攻した。永昌を破った後、遂に楨を以て同知東京留守事とし、猛安を授けた。天会六年、尚書左僕射に遷り、広甯尹を判じ、太子太傅を加えられた。鎮すること八年、政令清肅で、吏は畏れ人これを安んじた。十五年、太子太師を加えられ、河北西路錢帛事を提点した。天眷の初め、同簽会寧牧となった。熙宗が燕に幸するに及び、兼同知留守とされ、戴国公に封ぜられ、同知燕京留守に改まった。魏王道済が中京を出守するに当たり、楨を以て同判とし、俄に行台平章政事に改まり、西京留守となり、任国公に封ぜられた。

原文高楨,遼陽渤海人。五世祖牟翰仕遼,官至太師。楨少好學,嘗業進士。斡魯討高永昌,已下沈州,永昌懼,偽送款以緩師。是時,楨母在沈州,遂來降,告以永昌降款非誠,斡魯乃進攻。既破永昌,遂以楨同知東京留守事,授猛安。天會六年,遷尚書左僕射,判廣甯尹,加太子太傅。在鎮八年,政令清肅,吏畏而人安之。十五年,加太子太師,提點河北西路錢帛事。天眷初,同簽會寧牧。及熙宗幸燕,兼同知留守,封戴國公,改同知燕京留守。魏王道濟出守中京,以楨為同判,俄改行台平章政事,為西京留守,封任國公。

この時、奚・嵆の軍民は皆南徙し、謀克の別術なる者がこれに因って嘯聚して盗賊となった。海陵はこれを患い、即ち楨を中京留守とし、駅馬に乗って官に赴くことを命じ、賊を平らげる期限を責めた。賊が平定されると、河内郡王に封ぜられた。海陵が中京に至ると、楨は夜警を厳粛にした。近侍の馮僧家奴・李街喜らは皆海陵の寵を得ていたが、嘗て夜禁を犯して飲んだので、楨はこれを杖ち瀕死に至らしめ、これによって権貴は皆震懾した。太子太保に遷り、行御史大夫となり、莒王に封ぜられた。策拝されて司空となり、代王に進封され、太子太保・行御史大夫は従前の如くであった。

原文是時,奚、嵆軍民皆南徙,謀克別術者因之嘯聚為盜。海陵患之,即以楨為中京留守,命乘驛之官,責以平賊之期。賊平,封河內郡王。海陵至中京,楨警夜嚴肅。有近侍馮僧家奴李街喜等皆得幸海陵,嘗夜飲幹禁,楨杖之瀕死,由是權貴皆震懾。遷太子太保,行御史大夫,封莒王。策拜司空,進封代王,太子太保、行御史大夫如故。

楨は久しく台に在り、弾劾すること避くるところなく、毎に対進するに必ず流品を区別し、善を進め悪を退けることを言とし、当路の者はこれを忌んだ。張忠輔・馬諷を中丞に薦めたが、二人は皆険詖深刻で、事を以て楨を中傷せしめようとした。正隆の例により冀国公に封ぜられようとしたが、楨は固く辞して言う、「臣は衆小に嫉まれ、免れ難きを恐れます。尚お封爵を受くべけんや」と。海陵はその忠直なるを知り、慰めて遣わした。疾革に及び、空に書いて独り語りて言う、「某の事未だ決せず、某の事未だ奏せず、死して余恨あり」と。薨じ、六十九歳であった。海陵は悼惜し、使者を遣わして奠を致し、賻贈を加等した。

原文楨久在台,彈劾無所避,每進對,必以區別流品,進善退惡為言,當路者忌之。薦張忠輔、馬諷為中丞,二人皆險詖深刻,欲令以事中楨。正隆例封冀國公,楨因固辭曰:「臣為眾小所嫉,恐不能免,尚可受封爵耶?」海陵知其忠直,慰而遣之。及疾革,書空獨語曰:「某事未決,某事未奏,死有餘恨。」薨,年六十九。海陵悼惜之,遣使致奠,賻贈加等。

楨の性質は方正厳格で、家居に声伎の奉無し。甚だ暑くとも、未だ嘗て衣を解き帯を緩めず。妻子に対しても終日危坐し、一たびも談笑せず、その簡默この如し。

原文楨性方嚴,家居無聲伎之奉。雖甚暑,未嘗解衣緩帶。對妻孥危坐終日,不一談笑,其簡默如此。

白彥敬

原文白彥敬

白彥敬は、本名を遙設といい、部羅火部族の人である。初め彥恭と名乗ったが、顕宗の諱いみなを避けて改めた。祖父は屋僕根。父の阿斯は遼に仕えて率府率となった。彥敬は騎射に優れ、吏として起家し、元帥府令史に補された。宋を伐つに当たり、錢帛司都管勾となった。三省が立てられると、尚書省令史に選ばれ、都元帥府知事を除された。諸部を招諭し、金牌を授けられ、数千里を行き、功があり、超遷して兵部郎中となった。熙宗が統軍司を罷めて招討司に改めると、彥敬を遣わして僚属を分かち牌印を改めさせ、諸部に招討司に隷属するよう諭した。還って本部侍郎となり、大理卿に遷り、通州防禦使として出向し、刑部侍郎に改まった。怨家が開府慎思が西北路部族と謀叛を図ったと誣告したが、彥敬は鞠問してその実を得、海陵はこれを嘉した。簽書樞密院事に遷り、便宜を以て辺防を措置した。

原文白彥敬,本名遙設,部羅火部族人。初名彥恭,避顯宗諱,改焉。祖屋僕根。父阿斯,仕遼為率府率。彥敬善騎射,起家為吏,補元帥府令史。伐宋,為錢帛司都管勾。立三省,選為尚書省令史,除都元帥府知事。招諭諸部,授以金牌,行數千里,有功,超遷兵部郎中。熙宗罷統軍司改招討司,遣彥敬分僚屬改牌印,諭諸部隸招討司。還為本部侍郎,遷大理卿,出為通州防禦使,改刑部侍郎。怨家告誣開府慎思與西北路部族謀叛,彥敬鞫得其實,海陵嘉之。遷簽書樞密院事,以便宜措置邊防。

正隆六年、諸路の兵を調発して宋を伐ち、及び民馬を調発するに当たり、彥敬をして会甯・蒲與・胡裏改の三路の事を主たらしめた。吏部尚書に改まり、南征萬戸を充て、枢密副使に遷った。契丹の撒八が反すると、枢密使僕散忽土らは功無きを以て誅に坐し、彥敬を北面行営都統とし、副統の紇石烈志寧と共に便宜を以て往かせ、御服の皮襖を賜った。北京に行き至ると、南征諸軍の逃げ帰る者は皆東京に奔り、世宗を推戴せんと欲していると聞いた。彥敬は志寧と謀り、密かに会甯尹完顏蒲速賚・利涉軍節度使獨吉義と結んでこれを図った。

原文正隆六年,調諸路兵伐宋,及調民馬,使彥敬主會甯、蒲與、胡裏改三路事。改吏部尚書,充南征萬戶,遷樞密副使。契丹撒八反,樞密使僕散忽土等以無功坐誅,以彥敬為北面行營都統,與副統紇石烈志寧以便宜往,賜禦服皮襖。行至北京,聞南征諸軍逃歸者皆奔東京,欲推戴世宗。彥敬與志甯謀,陰結會甯尹完顏蒲速賚、利涉軍節度使獨吉義以圖之。

世宗が既に即位し、石抹移迭・移剌曷補ら九人を遣わして彥敬・志寧を招いた。彥敬はこれを拒み、移迭を跪かせた。移迭は屈せず、皆これを殺した。完顏謀衍が兵を将いて北京を攻めるに及び、彥敬は偏将に兵を率いさせて建州の境で拒ませたが、獨吉義は先に世宗に帰順し、蒲速賚は疾を称して至らなかった。世宗は密かに人を遣わして夜に乗じて北京の市に榜を掲げ、官賞を以て購求した。彥敬・志寧は人の己を図るを恐れ、遂に降った。曷速館節度使とされた。数ヶ月もせず、召されて御史大夫となった。

原文世宗已即位,使石抹移迭、移剌曷補等九人招彥敬、志寧。彥敬拒之,使移迭跪。移迭不屈,皆殺之。及完顏謀衍將兵攻北京,彥敬使偏將率兵拒於建州之境,而獨吉義先歸世宗,蒲速賚稱疾不至。世宗密遣人乘夜揭榜於北京市,購以官賞。彥敬、志甯恐為人圖己,遂降。以為曷速館節度使。不數月,召為御史大夫。

窩斡が帝号を慄す。諸軍の馬が瘦弱であったので、彥敬を西北路招討司に遣わして馬を市わせ、六千余匹を得た。窩斡が敗れ、西に走って山后に入った。完顏思敬が新馬三千を以て追襲に備えた。彥敬は夏国の両界の間に屯した。窩斡が平定されると、召還されて兵部尚書となり、鳳翔尹として出向し、太原尹に改まり、河北東路兵馬総管を兼ね、尋いで河中尹に改まった。大定九年、官にて卒した。

原文窩斡慄帝號。諸軍馬瘦弱,遣彥敬往西北路招討司市馬,得六千餘匹。窩斡敗,西走山后。完顏思敬以新馬三千備追襲。彥敬屯于夏國兩界間。窩斡平,召還為兵部尚書,出為鳳翔尹,改太原尹,兼河北東路兵馬總管,尋改河中尹。大定九年,卒於官。

張景仁

原文張景仁

張景仁、字は壽甫、遼西の人である。累官して翰林待制に至る。貞元二年、翟永固とともに礼部進士を試み、「尊祖配天」を賦題として、海陵の旨に忤い、その語は永固伝にある。大定二年、僕散忠義が宋を伐つに当たり、景仁はその文辞を掌った。宋人が和を議し、朝廷は既に奉表を国書に改め、臣を称することを姪と称するに至ったが、ただ世に姪国と称することを肯んじなかった。往復すること凡七書して後に定まり、その書は皆景仁の為したところである。世宗はその能を称し、嘗て曰く、「今の文章、張景仁の宋人と往復する書の如きは、事を指して意を達し、弁にして裁あり、真に能文の士なり」と。五年、兵を罷め、入って翰林直学士となる。七年、侍講に遷る。八年、詳読官となる。宋国書の中に「宝隣」の字あり、景仁は「隣」の字は平易に過ぎると奏す。上は累年の国書に「隣」の字あるや否やを問い、一一校勘せしむ。六年の書中にも之あり、上は六年の詳読官劉仲淵を責問し、右丞石琚もまた請罪して曰く、「臣嘗て六年の詳読に預かりし」と。上曰く、「これ有司の過ちなり、安んぞ一一宰臣を責めんや」と。詔して有司に就いて宋臣王瀹に諭し、使わして帰りて其の主に告げしめ、後日の国書は復た爾るべからずと。仲淵は時に礼部侍郎たり、石州刺史に降り、景仁は翰林学士に遷り兼ねて同修国史となる。

原文張景仁,字壽甫,遼西人。累官翰林待制。貞元二年,與翟永固俱試禮部進士,以「尊祖配天」為賦題,忤海陵旨,語在永固傳。大定二年,僕散忠義伐宋,景仁掌其文辭。宋人議和,朝廷已改奉表為國書,稱臣為侄,但不肯世稱侄國。往復凡七書,然後定,其書皆景仁為之。世宗稱其能,嘗曰:「今之文章,如張景仁與宋人往復書,指事達意,辨而裁,真能文之士也。」五年,罷兵,入為翰林直學士。七年,遷侍講。八年,為詳讀官。宋國書中有「寶鄰」字,景仁奏「鄰」字太涉平易。上問累年國書有「鄰」字否,命一一校勘。六年書中亦有之,上責問六年詳讀官劉仲淵,右丞石琚亦請罪曰:「臣嘗預六年詳讀。」上曰:「此有司之過,安得一一責宰臣邪?」詔有司就諭宋臣王瀹,使歸告其主,後日國書不得複爾。仲淵時為禮部侍郎,降石州刺史,景仁遷翰林學士兼同修國史。

久しくして、上は景仁を召して陳言の文字を読ませる。上は「事款幾何ぞ」と問う。景仁は率易にして周密に乏しく、対えて曰く、「二十余事なり」と。また曰く、「その中如某の事某の事十事は行うべく、余は皆謂うる無きなり」と。明日、上は景仁を召してこれを責めて曰く、「卿の昨言う可行なる者は、朕これを観るに、中また不可行なる者有り。卿の謂う無謂なる者は、中にもまた可行なる者有り。朕未だ嘗て卿に可否を分別せしめず、卿輒ち専ら可否す、何ぞや。今よりこれを戒めよ」と。十年、太常卿を兼ね、学士・同修国史は故の如し。承旨に転じ、兼ねて国史を修す。河南尹に改む。二十一年、召されて御史大夫となり、仍って承旨・修国史を兼ぬ。

原文久之,上召景仁讀陳言文字。上問「事款幾何?」景仁率易,少周密,對曰:「二十餘事。」複曰:「其中如某事某事十事可行,餘皆無謂也。」明日,上召景仁責之曰:「卿昨言可行者,朕觀之,中複有不可行者。卿謂無謂者,中亦有可行者。朕未嘗使卿分別可否,卿輒專可否,何也?自今戒之。」十年,兼太常卿,學士、同修國史如故。轉承旨,兼修國史。改河南尹。二十一年,召為御史大夫,仍兼承旨、修國史。

世宗は景仁に謂いて曰く、「卿は博学の老儒なり、古の御史大夫の如きを求めて、然る後にこれを行い、期して称せられんことをせよ。古の人に如かずんば、衆人は独り卿を誚るのみならず、また朕の人を知ること能わずと謂わん。卿は酔中頗る軽脱して言を失う、酒を以て戒めとすべし」と。初め、朝臣言う、景仁は文芸有りと雖も頗る率易にして、台察に任ずべからずと。景仁は詔を被り、台中に就いて監察の罪を治むるに、輒ち便服を以て決罰を視る。上これを聞き、景仁を責めて曰く、「朕初め卿を用いて大夫と為すに、或いは言う卿この官に居すべからずと、今果たして故事を用いず、率易この如し。卿自ら慎め、然らずんば黜罰及ばん」と。景仁頓首して謝す。

原文世宗謂景仁曰:「卿博學老儒,求如古之御史大夫,然後行之,期為稱矣。不能如古之人,眾人不獨誚卿,亦謂朕不能知人。卿醉中頗輕脫失言,當以酒為戒。」初,朝臣言景仁有文藝而頗率易,不可任台察。景仁被詔,就台中治監察罪,輒以便服視決罰。上聞之,責景仁曰:「朕初用卿為大夫,或言卿不可居此官,今果不用故事,率易如此。卿自慎,不然黜罰及矣!」景仁頓首謝。

未だ幾ばくもせず、詔して元妃李氏を海王荘に葬る。平章政事烏古論元忠は葬事を提控し、都水監丞高杲壽は道路を治むるも式に如かず、元忠は奏せずして、これを四十と決す。景仁は元忠が輒ち六品官を断ずるを劾奏し、人臣の礼無しとす。上曰く、「卿の劾奏甚だ当たりたり」と。左宣徽使蒲察ほさつ鼎寿を使わして詔を伝え元忠を戒敕せしめて曰く、「監丞は六品、罪有れば聞奏すべし、今乃ち一切趨辦し、擅に六品官を決す、法当に是の如くせんや。御史は朝廷を尊ぶに在り、汝自ら咎むべく、復た再びすなかれ」と。元忠は尚豫国公主を尚し、寵を怙って自ら任じ、朝士に倨慢なり。景仁これを劾す、朝廷肅然たり。是歳、薨ず。

原文未幾,詔葬元妃李氏于海王莊。平章政事烏古論元忠提控葬事,都水監丞高杲壽治道路不如式,元忠不奏,決之四十。景仁劾奏元忠輒斷六品官,無人臣禮。上曰:「卿劾奏甚當。」使左宣徽使蒲察鼎壽傳詔戒敕元忠曰:「監丞六品,有罪聞奏,今乃一切趨辦,擅決六品官,法當如是耶?禦史在尊朝廷,汝當自咎,勿複再!」元忠尚豫國公主,怙寵自任,倨慢朝士。景仁劾之,朝廷肅然。是歲,薨。

賛して曰く、高楨は旧労を以て御史大夫となり、剛明自ら任じ、治むるに繩して避くるところ無く、幾ばくか怨憎の荼毒に免れざらんとす。己を直くして行う、古よりこれを難しとす。白彦敬は大定の詔を受けずして世宗これを賢とす。向使ひ久しくこの位に在らしめば、その深謀讜論、必ず人を竦動する者有らん。張景仁は儒者の勇、廷に元忠を論ず、正しきかな。

原文贊曰:高楨以舊勞為御史大夫,剛明自任,繩治無所避,幾不免於怨憎之荼毒。直己而行,自古難之。白彥敬不受大定之詔而世宗賢之。向使久在此位,其深謀讜論,必有竦動人者。張景仁儒者之勇,廷論元忠,正矣。