金史

本紀第九: 章宗一

章宗憲天光運仁文義武神聖英孝皇帝、諱は璟、小字は麻達葛、顯宗の嫡子なり。母は孝懿皇后徒單氏と曰う。大定八年、世宗金蓮川に幸す、秋七月丙戌、冰井に次り、上生まる。翌日、世宗東宮に幸し、宴飲甚だ歓び、顯宗に謂いて曰く、「祖宗慶を積みて今日有り、社稷の福なり」と。又司徒しと李石・樞密使紇石烈志寧等に謂いて曰く、「朕子多くと雖も、皇后には太子一人のみ有り。幸いに嫡孫を見るに又麻達葛山に生まる、朕嘗て其の地衍にして気清きを喜ぶ、其れ山を以て之を名づけよ」と。群臣皆萬歳を称す。

十八年、金源郡王に封ぜらる。始めて本朝の語言小字及び漢字経書を習い、進士完顔匡・司経徐孝美等を以て侍読と為す。二十四年、世宗東巡し、顯宗国を守る、上表を奉じて上京に詣り安否を問い、仍て車駕の都に還るを請う、世宗其の意を嘉し、敕書を賜いて答諭す。二十五年三月、萬春節、復た表を奉じて朝賀す。六月、顯宗崩ず、世宗滕王府長史鳷・禦院通進鸊を遣わして護視せしむ。十二月、原王に進封し、大興府事を判ず。国語を以て謝に入る、世宗喜び、且つ之が為に感動し、宰臣に謂いて曰く、「朕まさに諸王に命じて本朝語を習わしむべし、惟だ原王の語甚だ習熟す、朕甚だ之を嘉す」と。旨を諭して曰く、「朕固より汝年幼きを知る、服制中職を付すべからざるも、然れども政事も亦須らく学ぶべし、京輦の任、姑く爾が才を試みん、其れ力を勉めよ」と。二十六年四月、詔して名を璟と賜う。五月、尚書右丞相を拝す。世宗謂いて曰く、「宮中に《輿地図》有り、之を観れば以て天下の遠近厄塞を具に知るべし」と。又宰臣に謂いて曰く、「朕の原王を近輔に置く所以は、親しく朝廷の議論を見せしめ、政事の体を習い知らしめんが故なり」と。十一月、詔して皇太孫に立つ、慶和殿に於いて謝を称す。世宗之に諭して曰く、「爾年尚ほ幼し、明德皇后の嫡孫として惟だ汝一人なるを以て、事を以て之を試みるに、甚だ学ぶべき資有り。朕正しきに従いて汝を皇太孫に立てん、建立は朕に在り、保守は汝に在り、宜しく正を行い徳を養い、邪佞に近づくこと勿れ、朕に事うるには必ず忠孝を尽くし、衆望を失うこと無くば、則ち惟だ汝を嘉とす」と。二十七年三月、世宗大安殿に禦し、皇太孫冊を授く、中外に赦す。丁巳、太廟及び山陵に謁謝す。始めて百官の箋賀を受く。

二十八年十二月乙亥、世宗せず、詔して政を摂し、五品以下の官を授くるを聴す。丁亥、「摂政之宝」を受く。二十九年春正月癸巳、世宗崩ず、即ち皇帝の位に即く柩前。丙申、中外に詔す。丙外の官に覃恩両重を賜い、三品已上は一重、今歳の租税を免じ、並びに自来懸欠の系官等の銭、鰥寡孤独の人に絹一匹・米二石を賜う。己亥、大行皇帝の梓宮を大安殿に遷す。癸卯、皇太后の命を以て令旨と為す。甲辰、大理卿王元德等を以て宋・高麗・夏に報哀せしむ。乙卯、白虹日を貫き天に亙る。丁巳、参知政事宗浩罷む。山東統軍裔私に都城を過ぐるも哭臨に赴かず、五十を笞し、彰化軍節度使に降授す。戊午、皇太后の宮を仁寿と名づけ、衛尉等の官を設く。

二月辛酉朔、日食有り。癸亥、始めて政を聴く。皇考を追尊して皇帝と為し、母を尊んで皇太后と為す。甲子、学士院に命じて漢・唐の便民事及び当今の急務を進呈せしむ。乙丑、白虹天に亙る。登聞鼓院は冤枉を達する所以なりと敕し、旧戸を鎖せしも、其れ之を開かしむ。戊辰、仁寿宮の名を隆慶と更む。詔して宮籍監戸旧睿宗及び大行皇帝・皇考の奴婢に系る者は、悉く放ちて良と為す。己巳、御史台に敕し、自今監察は本台に辟挙せしめ、任内不称職も亦奏に従いて罷む。丁丑、百官の俸を増定す。乙酉、詔して有司に典故を稽考せしめ、宋事を引用するを許す。是の月、宋主内禅し、子惇嗣ぎ立つ。

三月壬辰、隆慶宮に朝す、是の月凡そ五朝す。己酉、詔して生辰を以て天寿節と為す。癸丑、夏国使いを遣わして来弔す。

夏四月己巳、夏国使いを遣わして来祭す。辛未、宋使いを遣わして来弔祭す。乙酉、世宗光天興運文德武功聖明仁孝皇帝を興陵に葬る。戊子、隆慶宮に朝す。

五月庚寅朔、太白昼に見ゆ。壬寅、宋主使いを遣わして来り嗣位を報ず。夏国使いを遣わして来り即位を賀す。丙午、祔廟の礼成るを以て、大赦す。丁未、地に白毛生ず。庚戌、詔して宣銭を送るを罷め、今後諸護衛考満に官銭二千貫を賜う。壬子、敕して功臣の子孫を収録し、材に量りて分に於いて承応せしむ。戊午、隆慶宮に朝す。東北路招討使溫蒂罕速可等を以て賀宋主即位使と為す。河曹州に溢る。

閏月庚申朔、兄珣を封じて豊王と為し、琮を鄆王と為し、瑰を瀛王と為し、従彝を沂王と為し、弟従憲を寿王と為し、玠を溫王と為す。辛酉、諸の饑民身を売り已に贖い放たれて良と為るも、復た奴と男女を生むは、並びに良と為るを聴すと制す。丙寅、近郊に於いて稼を観る。庚午、樞密副使唐括貢を以て御史大夫と為す。壬申、乳母孫氏を封じて蕭国夫人と為し、姚氏を莘国夫人と為す。丙子、趙王永中を進封して漢王と為し、曹王永功を冀王と為し、豳王永成を吳王と為し、虞王永升を隨王と為し、徐王永蹈を衛王と為し、滕王永濟を潞王と為し、薛王永德を潘王と為す。庚辰、宋使いを遣わして来り即位を賀す。癸未、隆慶宮に朝す。詔して学士院、自今誥詞並びに四六を用いよ。乙酉、詔して諸の出身承応人、将来親民の職を受くるに系る者は、命じて所属に諭し学を為さしむべし。其の護衛・符宝・奉禦・奉職、侍直近密は、当に德行学問有る人を選びて之が教授と為すべし。

六月己丑朔、有司言う、「律科挙人は只だ律を読むを知り、教化の原を知らず、必ずや《論語》・《孟子》を通治せしめ、器度を涵養すべし。府・会試に遇うれば、経義試官に委ね題を出し別に試み、本科と通じて去留を定むるを宜しとす」と。之に従う。詔して有司、親王の到任に各銭二十万を給せんことを請う。辛卯、修起居注完顔烏者・同知登聞檢院孫鐸皆上書して囲猟を罷むるを諫め、上其の言を納る。拾遺馬升《儉徳箴》を上る。乙未、初めて提刑司を置き、九路を分かち按じ、並びに勧農採訪事を兼ね、屯田・鎮防諸軍皆之に属せしむ。丁酉、慶寿寺に幸す。瀘溝石橋を作る。己亥、隆慶宮に朝す。甲辰、赦の礼物銭を送るを罷め、隆慶宮に朝す。乙卯、高麗国王皓使いを遣わして来り弔祭及び会葬す。敕して有司に宋・高麗・夏に移報せしめ、天寿節を九月一日に来賀せしむ。丁巳、提刑官に命じ除後のち便殿に於いて旨を聴かしめ、毎十月使副内一員を入見せしめて事を議せしめ、若し只だ一員のみならば則ち判官をして入見せしめ、其の判官の掌する煩劇は同随朝職任に升せしむべし。

秋七月辛酉、民地の税を十分の一減じ、河東南・北路は十分の二、下田は十分の三を減ず。甲子、隆慶宮に朝す。乙丑、近侍官で外任三品・四品に授かる者には、金帯一を賜い、重幣は差等ありと勅す。丁卯、太尉・尚書令しょうしょれい東平郡王徒単克寧を太傅とし、改めて金源郡王に封ず。辛未、高麗使いを遣わし来たり即位を賀す。甲戌、皇太后を奉じて寿安宮に幸す。辛巳、詔して京・府・節鎮・防禦州に学を設け士を養わしむ。初めて経童科を設く。御史大夫唐括貢罷む。礼部尚書移剌履を参知政事とす。刑部尚書完顔守貞らを以て賀宋生日使とす。

八月戊子朔、皇太后を奉じて寿安宮に幸す。辛卯、有司に勅し、京・府・州・鎮に学校を設ける所では、その長官・次官・幕職の内、各々進士官を以てその事を提控せしめ、仍って具に官銜に入れしむ。壬辰、初めて品官の子孫が令史に試補する格、及び提刑司の掌る三十二条を定む。左司諫敦安民上疏して三事を論ず。曰く、節儉を崇くし、嗜欲を去り、学問を広くすべしと。丁酉、大房山に如く。戊戌、諸陵を謁奠す。己亥、都に還る。庚子、隆慶宮に朝す。是の月凡そ三たび朝す。壬寅、制して提刑司に女直・契丹・漢児の知法各一人を設けしむ。甲辰、参知政事劉瑋罷む。丙辰、宋・高麗・夏使いを遣わし来たり天寿節を賀す。

九月戊午朔、天寿節、世宗の喪の故に、朝を受けず。庚申、詔して山陵を守る者を二十丁に増し、地十頃を給す。壬戌、詔して乱言人を告げ捕らうる賞を罷む。甲子、制す。諸盗賊が聚集して十人に至り、或いは騎五人以上の場合は、所属は捕盗官を移してこれを捕らえ、仍って省部に言上し、三十人以上の場合は奏聞せしむ。違う者は百を杖つ。是の日、隆慶宮に朝す。是の月凡そ四たび朝す。丁卯、制す。強族大姓は所属の官吏と交往することを得ず。違う者は罪有り。戊辰、隆慶宮衛尉把思忠を以て夏国生日使とす。庚午、尚輦局使崇徳を以て横賜高麗使とす。丙子、近郊に猟す。戊寅、監察御史焦旭劾奏す。太傅克寧・右丞相襄は車駕の田猟を請うべからずと。上曰く、「此れ小事なり、治むるを須いず。」乙酉、大房山に如く。

冬十月丁亥朔、諸陵を謁奠す。己丑、都に還る。庚寅、隆慶宮に朝す。是の月凡そ四たび朝す。辛卯、上顧みて宰臣に謂ひて曰く、「翰林人を闕く。」平章政事汝霖対へて曰く、「鳳翔治中郝俁可なり。」汝霖田猟を諫めて止む。詔答へて曰く、「卿能く毎事此の如くせば、朕復た何をか憂へん。然れども時異なり事殊なり、中を得るを当とす。」丙申、冬猟す。己亥、羅山にやどる。庚子、玉田に次る。辛丑、沁州・丹州嘉禾を進む。丁未、宝坻に次る。庚戌、中侍石抹阿古誤って刀を帯びて禁門に入る。罪は死に応ず。詔して八十を杖つ。癸丑、宝坻より至る。

十一月己未、隆慶宮に朝す。辛酉、右宣徽院使裴満余慶らを以て賀宋正旦使とす。癸亥、上宰臣に謂ひて曰く、「今の用人は、資歴に拘ること太だし。資を循るの法は、唐代に起こる。此の如くして何を以てか人を得ん。」平章政事汝霖対へて曰く、「資格に拘らざるは、以て非常の材を待つ所以なり。」上曰く、「崔祐甫相と為り、年を踰へずして八百人を薦む。豈に皆非常の材ならんや。」甲子、尚書省に諭して曰く、「太傅年高し、毎に趨朝し而して又省に赴くは、恐らく易からざらん。今より旬休の外、四日に一たび休みに居り、庶幾くは調摂を得ん。常事は他の相に理問せしめ、惟だ大事は之に白すべし。」戊辰、尚書省に諭し、今より五品以上の官は各々知る所を挙げ、歳に挙ぐる数の限りを設け、挙げざる者は賢を蔽うの罪に坐す。仍って唐制に依り、内五品以上の官は任に到りて即ち自ら代わる者を挙げ、並びに提刑司に之を採訪せしむ。己巳、初めて転遞文字の法を制す。壬申、隆慶宮に朝す。乙亥、参知政事移剌履に命じ提控して『遼史』の刊修をせしむ。丁丑、西上閣門使移剌邴を以て高麗生日使とす。御史台奏す。「故事、台官は人と相見することを得ず。蓋し親王・宰執・形勢の家の為めに、恐らくは私に徇う有らんとす。然れども民間の利病・官吏の善悪を訪い知るに以て無し。」詔して今より四品以下の官と相見することを許し、三品以上は故の如し。辛巳、有司に詔し、今後諸処に或いは饑饉有らば、総管・節度使或いは提刑司に先ず賑貸或いは賑濟を行わしめ、然る後に上言せしむ。

十二月丙戌朔、隆慶宮に朝す。是の月凡そ五たび朝す。詔して銭を鑄ることを罷む。丁亥、密州白雉を進む。壬辰、有司に諭し、女直人及び百姓は網を以て野物を捕らうることを用いるべからず、及び群雕を放ちてむやみに物の命を害することを得ず。亦た女直人の射を廢するを恐るるなり。戊戌、復た北京・遼東の塩使司を置き、仍って西京・解塩の巡捕使を罷む。河東南・北路提刑司の言に依り、寧化・保徳・嵐州の饑を賑ひ、其の流移して復業する者は、ふく一年を給す。是の日、宮中の上直官及び承応人の飲酒することを禁ず。乙巳、興陵を祭奠す。壬子、台臣に諭して曰く、「提刑司の挙劾する所は多く小過なり。行えば則ち大體を失ひ、行わざれば則ち恐らくはばまるる所有らん。其れ此の意を以て之を諭せ。」甲寅、宋・高麗・夏使いを遣わし来たり正旦を賀す。是の冬、雪無し。

明昌元年春正月丙辰朔、元を改む。世宗の喪の故に、朝賀を受けず。上隆慶宮に朝す。是の月凡そ四たび朝す。丁巳、制す。諸王で外路に任ずる者は五日を遊猟することを許す。此を過ぐれば之を禁じ、仍って人従を戒約し、民を擾さしむるからしむ。辛酉、尚書省に諭して曰く、「宰執は国家を総持する所以なり、人の饋遺を受くるべからず。或いは生辰に遇へば、献ずる所を受くるも万銭を過ぐる毋からしむ。若し緦麻・大功以上の親、及び二品以上の官は、禁ぜず。」壬戌、知河中府事王蔚を尚書右丞とし、刑部尚書完顔守貞を参知政事とす。甲子、大房山に如く。乙丑、興陵・裕陵を奠謁す。丙寅、都に還る。戊辰、制して自ら披剃して僧道と為る者を禁ず。外路に勅して世宗の御書を求めしむ。辛未、近畿の春水に如く。己卯、春水に如く。

二月丁卯朔、太白昼に見ゆ。丙申、諸王に遣わし諭す。凡そ出猟するに本境を越ゆる毋からしむ。壬寅、有司に諭し、寒食に假五日を給し、令に著す。甲辰、春水より至る。隆慶宮に朝す。是の月凡そ四たび朝す。癸丑、地に白毛生ず。甲寅、大房山に如く。

三月乙卯朔、興陵を拝謁し奠祭す。丙辰、都に還る。隆慶宮に朝す、是の月凡そ六朝す。己未、点検司に勅す、諸試護衛人は須らく身形及格すべし、若し功臣子孫にして善射衆に超え出づる者は、格に及ばずと雖も、亦た見に入るるを令す。癸亥、礼官言す、「民或いは一産三男す、内に行才用うべき有る者は察挙を令すべく、材を量り叙用すべし。其の驅婢の生む所は、旧制官銭百貫を給し、以て乳哺を資す、尚書省更に銭四十貫を給し、贖いて以て良と為さんことを請う。」制可す。丙寅、有司言す、「旧制、朝官六品以下は従人の庸を輸することを聴す、五品以上は庸を輸するを許さず、官体を傷つくるを恐る。其の官職倶に三品に至り、年六十以上致仕する者は、人力半ばを給す、内外を分かたず、願わくは庸を輸するを聴せんことを乞う。」之に従う。己巳、西苑にて球を撃ち、百僚会観す。癸酉、内外五品以上に詔し、歳に廉能官一員を挙げ、挙げざる者は賢を蔽うの罪に坐す。乙亥、初めて応制及び宏詞科を設く。丁丑、内外官並びに諸局承応人の、祖父母・父母の忌日に遇う者に制し、並びに一日の假を給す。辛巳、曲阜孔子廟学を修するを詔す。壬午、寿安宮に如く。

夏四月甲申朔、隆慶宮に朝す、是の月凡そ四朝す。戊戌、寿安宮に如く。

五月、雨降らず。乙卯、北郊及び太廟に祈る。隆慶宮に朝す、是の月凡そ三朝す。丙辰、鷹坊使移剌寧を以て横賜夏国使と為す。戊午、西苑にて天を拝す。柳を射ち、球を撃ち、百姓をして観せしむ。壬戌、社稷に雨を祈る。甲子、省元及び四挙終場人の恩に該るを許す制を定む。己巳、復た太廟に雨を祈る。庚午、知登聞鼓院事一人を置く。丙子、雨を祈るを以て、北郊にて嶽鎮海瀆を望祭す。戊寅、内外官五品以上に命じ、任内に知れる才能官一員を挙げて以て自ら代わらしむ。壬午、参知政事移剌履を以て尚書右丞と為し、御史中丞徒単鎰を参知政事と為し、尚書右丞相襄を罷む。

六月己丑、親王家人の犯有るを制し、其の長史府掾の覚察を失い、故に縱する罪を定む。壬辰、皇太后を奉じて慶寿寺に幸す。甲辰、僧・道の三年一試を勅す。

秋七月己巳、礼部尚書王翛等を以て賀宋生日使と為す。庚午、隆慶宮に朝す。丁丑、西北路蝦䗫山市場を罷するを詔す。

八月癸未朔、親王・公主の奴隸に托して綱船を占め、商旅を侵し及び妄りに銭債を征するを禁ず。乙酉、常平倉を設くるを詔す。丁亥、寿安宮より至る。戊子、隆慶宮に朝す、是の月凡そ三朝す。己丑、判大睦親府事宗甯を以て平章政事と為す。壬辰、玉泉山に幸し、即日宮に還る。癸巳、諸府鎮の流泉務を罷す。才幹の官を選び諸州刺史と為し、皆召見し戒め諭す。戊戌、上宰臣に諭して曰く、「何を以てか民をして末を棄て本に務めしめ、以て儲蓄を広めしむる?」百官を集めて議せしむ。戸部尚書鄧儼等曰く、「今風俗侈靡なり、宜しく制度を定め、上下を辨じ、服用居室をして、各差等有らしむべし。昏喪過度の礼を抑え、追逐無名の費を禁ず。用度節有らば、蓄積自ずから広からん。」右丞履・参知政事守貞・鎰曰く、「凡そ人の情、美を見れば則ち願う、若し制度を以て節せざれば、将に見ん奢侈極まり無く、費用過多し、民の貧乏、殆ど此れに由りて致す。方今承平の際、正に宜しく此の事を講究し、久しきを経るの法と為すべし。」上は履の議を是とす。壬寅、麻吉に勅し、皇家袒免の親を以て、特り尚書省祗候郎君に収充し、仍って永制と為す。丁未、近郊に獵す。巳酉、宋・高麗・夏使いを遣わし来たり天寿節を賀す。

九月壬子朔、天寿節、世宗の喪を以て、朝を受けず。丙辰、廉能進擢のため北海県令張翱等十八人の官を進む。己未、武衛軍副都指揮使烏林答謀甲を以て夏国生日使と為す。庚申、隆慶宮に朝す。壬戌、秋山に如く。

冬十月丁亥、秋山より至る。戊子、隆慶宮に朝す。丙申、貴德州の孝子翟単・遂州の節婦張氏に各絹十匹・粟二十石を賜うを詔す。戊戌、有司の言に依り、登聞鼓院は記注院と同じく、何れかに隷せしめず。民庶の聘財を三等と為す制を定む、上は百貫、次は五十貫、次は二十貫。丁未、近郊に獵す。

十一月乙卯、隆慶宮に朝す。是の月凡そ五朝す。衆を惑わし民を乱すを以て、全真及び五行毗盧を禁罷す。僉書樞密院事把德固等を以て賀宋正旦使と為す。丁巳、諸職官の廕を兄弟子侄に譲る者を制し、其の請う所に従う。戊辰、礼部尚書王翛・諫議大夫張暐を殿門に詣らせ召し、之に諭して曰く、「朝廷行うべきの事、汝ら諫官・礼官は即ち当に辯析すべし。小民の言、采るべき有る者は朕尚お之に従う、況んや卿等においてをや。自今より議する所は但だ尚書省に附合する毋れ。」辛未、西上閣門使移剌撻不也を以て高麗生日使と為す。丙子、冬獵す。巳卯、雄州に次す。判真定府事呉王永成・判定武軍節度使隋王永升来朝す。

十二月壬午、獵地の今年の税を免ず。丁亥、饒陽に次す。己丑、平章政事張汝霖薨ず。丁酉、饒陽より至る。甲辰、太傳徒単克寧の第に幸し疾を視る。克寧を以て太師・尚書令と為し、淄王に封じ、銀千五百両・絹二千匹を賜う。乙巳、隆慶宮に朝す。丙午、有司に詔し、正旦は先ず隆慶宮を賀し、然る後に酒を進むべし。丁未、宋・高麗・夏使いを遣わし来たり正旦を賀す。

二年春正月庚戌朔、世宗の喪を以て、朝を受けず。癸丑、有司に諭し、夏国使は館内貿易一日を令すべし。尚書省言す、故事三日貿易を許す、之に従う。甲寅、初めて宮中に聖主と称するを許す。乙卯、皇太后不豫、是より日ごとに侍疾に往き、丙夜にして乃ち還る。辛酉、皇太后崩ず。丙寅、左副都点檢皞等を以て宋・高麗・夏に報哀せしむ。庚午、太師・尚書令淄王徒単克寧薨ず。甲戌、百官表を上り聴政を請う、許さず。戊寅、陀括裏部に羊三万口・重幣五百端・絹二千匹を賜い、以て其の乏を振うを詔す。呉王永成・隋王永升は国喪に奔赴して期を失うを聞き、其の俸一月を罰し、其の長史は笞五十。己卯、在司言す、漢王永中は疾を以て期を失う、上使を回らしめ諭す。

二月壬午、百官復た聴政を請う、許さず。壬辰、上始めて朝を視る。親王及び三品官の家に勅し、僧尼道士の出入を許す毋れ。有司に諭す、「進士の程文は但だ合格する者は即ち之を取れ、人数を限る毋れ。」丙申、樞密副使夾穀清臣を以て尚書左丞と為す。戊戌、奴の良人を誘う法を更に定む。丙午、初めて王傳府尉官を設く。

三月丁巳、夏国が使者を遣わして来朝し弔問した。癸亥、有司に命じ、国号が漢・遼・唐・宋などの名に触れるものは臣下に封じてはならないとした。有司が議して、「遼を恒とし、宋を汴とし、秦を鎬とし、晋を並とし、漢を益とし、梁を邵とし、斉を彭とし、殷を譙とし、唐を絳とし、呉を鄂とし、しょくを夔とし、陳を宛とし、隋を涇とし、虞を沢とする」と上奏した。詔を下してこれを許可した。丁卯、夏国が使者を遣わして来朝し祭祀を行った。乙亥、高麗が使者を遣わして来朝し弔祭した。丁丑、宋が使者を遣わして来朝し弔祭した。

四月戊寅朔、尚書省が言上した。「斉民と屯田戸は往々にして仲が良くない。もし互いに婚姻を交わさせるならば、実に国家の長久安寧の計である。」これに従った。乙酉、孝懿皇太后を裕陵に葬った。戊子、諸部内に災害・損傷があった場合、主司が言上すべきであるのに言上せず、及び妄言した者は杖七十とし、検視して実情に合わない者は同罪とし、これによって人命に傷を負わせた者は違制の罪をもって論じ、誤って徴収・免除があった者は贓罪をもって論じ、妄告した者は戸長が詐偽で実情に合わない罪に坐し、計った贓が重い場合は詐匿して納めない法に従う、と定めた。庚寅、民庶が純黄・銀褐の色の服を着ることを禁じ、婦人は禁じず、永制として定めた。辛卯、上は寿安宮に行幸した。諫議大夫張暐らが上疏してその行幸を止めるよう請うたが、許さなかった。癸巳、有司に諭して、「今後、女直の文字を直ちに漢字に訳し、国史院で専ら契丹字を書く者はこれを罷めよ」とした。甲午、永中を並王に、永功を魯王に、永成を袞王に、永升を曹王に、永蹈を鄭王に、永済を韓王に、永徳を豳王に改封した。戊戌、太学の博士・助教の員数を増やした。己亥、学士院が新たに唐の杜甫・韓愈・劉禹錫・杜牧・賈島・王建、宋の王禹偁・歐陽修・王安石・蘇軾・張耒・秦観らの文集二十六部を進めた。庚子、寿安宮の名を万寧と改めた。壬寅、万寧宮に行幸した。詔して、衍聖公を襲封した孔元措に四品の秩禄を視させた。

五月庚戌、詔して今後四日に一度奏事することとし、なお朝参を免じた。戊辰、詔して諸郡邑の文宣王廟・風雨師・社稷神壇で壊れ廃れたものは、これを修復させた。詔して御史台の令史はすべて終場の挙人をもって充てることとした。

六月戊子、平章政事宗寧が薨去した。癸巳、本朝の人および朝の言語を「蕃」と称することを禁じ、違反した者はこれを杖刑に処した。丙午、尚書右丞移剌履が薨去した。

秋七月丁巳、参知政事徒単鎰を尚書右丞とし、御史中丞夾穀衡を参知政事とした。己未、近郊で農作物の状況を視察した。己巳、職官が元日・生辰に所属の者から献上・贈与を受けることを禁じ、なお永制とした。同僉大睦親府事袞らを賀宋生日使とした。庚午、有司に諭して、「今後、外路の公主が闕に赴くべき場合、その駙馬都尉は旨を奉じない限り、職を離れてはならない」とした。

八月癸未、万寧宮から帰還した。己亥、山東・河北で食糧が不足しているなどの地では、粟を納めて官を補うことを許す、と命じた。有司に諭して、「今後、親王が管轄する所に、もし軍がいる場合は、佐貳に総押軍事をさせよ」とした。乙巳、宋・高麗・夏が使者を遣わして来朝し天寿節を賀した。

九月丁未朔、天寿節であったが、皇太后の喪中のため朝賀を受けなかった。甲寅、大房山に行幸した。乙卯、裕陵に謁して奠した。丙辰、都に還った。丁巳、西上閣門使白琬を夏国生日使とした。己未、制書を詐って作り施行しなかった場合の規定を定めた。尚書左丞夾穀清臣を平章政事とし、芮国公に封じ、参知政事完顔守貞を尚書左丞とし、知大興府事張万公を参知政事とした。庚申、秋山に行幸した。

冬十月己丑、秋山から帰還した。甲午、司獄は府州司県の官と筵宴をし遠くへ行ってはならず、違反した者はこれを罪に処す、と命じた。太一混元の受籙を以て私的に庵室を建てることを禁じた。壬寅、河北・山東が旱魃に見舞われたため、雑犯及び強盗で既に発覚していないものは死罪を一等減じ、徒罪以下は釈放した。

十一月丙午朔、諸女直人は姓氏を漢字に訳してはならない、と定めた。甲寅、伶人が歴代の帝王を戯れとし、及び万歳と称することを禁じ、違反した者は不応為の事重法をもって処断することとした。丁巳、豳王傅宗璧らを賀宋正旦使とした。戊午、夏人が我が辺将阿魯帯を殺害した。甲子、匿名の書を投げる者は徒四年とする、と定めた。丙寅、近侍局副使完顔匡を高麗生日使とした。壬申、提刑司の官は今後十五日に一度朝参するよう命じた。

十二月乙亥朔、三品の致仕官が得る傔従に庸を輸させてはならない、と命じた。己卯、辺境を鎮守する将軍の盗賊を招く罪を定めた。甲申、近郊で狩猟した。乙酉、詔して契丹字を廃止した。己丑、尚書右丞徒単鎰を罷免した。癸卯、宋・高麗・夏が使者を遣わして来朝し正旦を賀した。

三年春正月乙巳朔、皇太后の喪中のため朝賀を受けなかった。丙辰、孝懿皇后の小祥に際し、尚書省が明昌元年の世宗忌辰の例に依り、諸王が陪位し、惨紫の服を着て金玉の飾りを外し、百官は政務を見ず、音楽・屠殺を禁ずるよう請うたので、これに従った。壬戌、春水に行幸した。

二月甲戌朔、猛安謀克は冬の月に限り所属の戸を率いて二度狩猟することを許し、毎回十日を超えてはならない、と命じた。壬辰、春水から帰還した。丁酉、近郊で狩猟した。辛丑、詔して田瑴らの官爵を追復した。

閏月甲子、山東路統軍使烏林答願を御史大夫とした。

三月乙亥、強盗の贓を徴収すること、品官及び諸人が自ら強盗を捕らえた場合の官の賞与に関する規定を改めて定めた。辛巳、初めて左右衛副将軍を設置した。癸未、瀘溝の石橋が完成した。熙春園に行幸した。丁亥、万寧宮に行幸した。辛卯、詔して棣州の孝子劉瑜・錦州の孝子劉慶祐に絹・粟を賜い、その門閭を表彰し、その身の賦役を免除した。上は宰臣に問うて言った。「これまで孝義の人で官に就かせた者はどれほどいるか。」左丞守貞が答えて言った。「世宗の時に劉政という者がかつて官に就かせました。しかし、そのような輩は多くは淳朴で質朴すぎて事に及ばないのです。」上は言った。「必ずしもすべてそうとは限るまい。孝義の人は平素の行いが既に備わっている。少しでも用いることができればすぐに用いるべきである。後に希覬して偽る者がいたとしても、偽って孝義を行うことは、なお善を失わないと言える。前後で申告された孝義の人を検討し、もし用いることができる者がいれば、詳しく上奏せよ。」癸巳、尚書省が奏上した。「言事者が言うには、釈道の流れは父母親属に拝礼せず、風俗を壊すものはこれほど甚だしいものはない、と。礼官が言うには、唐の開元二年の勅に云う、『道士・女冠・僧・尼が二親に拝礼しないと聞く。これは子としてその生を忘れ、親に傲りて末に従うものである。今後より以後はすべて父母に拝礼することを聴す。その喪紀の軽重及び尊属に対する礼数は、すべて常の儀に準ずる』と。臣らは典故に依ってこれを行うのが適当であると考えます。」詔を下してこれを許可した。左丞守貞が言った。「上はかつて臣に忻州の陳毅が上書して言った事柄を問わせました。その一つは守令の弊害を極めて論じたものでした。臣が面と向かってその弊害を救う方法を問いましたが、結局言うことができませんでした。」上は言った。「今まさにその弊害を知ろうとしているのである。彼は弊害を救う術を持たないとしても、ただその弊害を言うことができただけでも、すでに褒めるに足る。例えば陳毅が言うように、随所の有司が条制を奉行できず、人に雇われて傭われるのでさえなお力を出さなければならないのに、まして国家の禄を食んでいる者がこのようであるのは、臣子の行いを損なうことにならないか。前後で降ろされた条理を検討して実行させよ。」この日、温王玠が薨去した。丁酉、有司に命じて雨を祈らせ、北郊で嶽鎮海瀆を望祀した。

四月壬寅朔(一日)、宣聖廟の春秋釈奠を定め、三献官は祭酒・司業・博士を以て充て、祝詞は「皇帝謹りて遣わす」と称し、及び登歌は太常楽工に改めて用いる。その献官並びに執事と享に与る者は皆法服、陪位の学官は公服、学生は儒服とする。尚書省が奏す:「提刑司が察挙した涿州の進士劉器博・博州の進士張安行・河中府の胡光謙、光謙は年齢八十三歳ながら、尚ほ任用に堪え得る。」と。劉器博・張安行に特賜して同進士出身とし、胡光謙を召して闕に赴かしむることを敕す。甲辰(三日)、社稷に雨を祈る。丙午(五日)、天山北界外の銅採掘を罷む。戊申(七日)、瀛王環薨ず。戊午(十七日)、詔して百官を集めて北辺の壕を開く事を議わしむ。詔して雲内の孝子孟興に絹十匹・粟二十石を賜い、同州の貞婦師氏に諡して「節」と曰うことを賜う。丙寅(二十五日)、旱災を以て、詔を下して躬を責む。丁卯(二十六日)、重ねて雨を祈り、北郊にて嶽鎮海瀆山川を望祀す。戊辰(二十七日)、親王の衣領に銀褐紫緑を用いることを敕す。御史中丞吳鼎樞等を遣わして中都の冤獄を審決せしめ、外路は提刑司に委ねて処決せしむ。左丞守貞、旱を以て、表を上りて職の解任を乞う、允さず。参知政事衡・萬公皆入りて謝す。上曰く:「前詔の所謂、不急の役を罷め、無名の費を省み、冗官を議し、滞獄を決するの四事、其れ速やかに之を行え。」と。

五月壬申朔(一日)、尚書礼部員外郎孛朮魯子元を以て横賜高麗使と為す。癸酉(二日)、北辺開壕の役を罷む。甲戌(三日)、社稷に雨を祈る。是の日、雨降る。戊寅(七日)、宮女百八十三人を出す。尚書省奏す:「近く山東・河北の饑饉を以て、已に宣差に委ねて到る所に安撫賑済せしむ。」と。重ねて右三部司正範文淵を遣わして往きて之を視察せしむ。乙酉(十四日)、雨足るを以て、社稷に致祭す。戊子(十七日)、百官雨足るを賀す。尚書左丞完顏守貞罷む。己丑(十八日)、雨足るを以て、嶽鎮海瀆を望祀す。

六月癸卯(三日)、宰臣提刑司の廃止を請う。上曰く:「諸路の提刑司官は僅か三十余員に止まり、猶ほ其の人を得ざるを患う。州郡三百余処、其れ能く尽く人を得んや?」と。許さず。甲寅(十四日)、久雨を以て、有司に命じて晴を祈らしむ。丁巳(十七日)、提刑司条制を定む。辛酉(二十一日)、詔して内外の所司の公事、故疑して申呈する罪罰の格を定む。乙丑(二十五日)、大名府事を知る劉瑋を以て尚書右丞と為す。有司言う:「河州災傷し、民食を欠き、而して租税に未だ輸せざる有り。」と。詔して之を免ず。戸部に諭す:「百官の冬季俸を預め給する可し。倉に就きて時価を以て貧民に糶ぎ与え、秋成に各其の資を以て之を糴わしむれば、其の得る所必ず多からん。而して上下之に便なり。其の承応人、願わざる者は、聴せよ。」と。

秋七月戊寅(八日)、尚書省に敕して曰く:「饑民若し遼東に至らば、遼く食を得難からんことを恐れ、必ず饑死者有らん。其れ散糧官に命じて其の欲する居止を問い、文書を以て給し、随処の官長に命じて口を計りて分散せしめ、富者に粟を出だして之を養わしめ、両月を以て限とし、其の粟を秋税の数に充てよ。」と。己卯(九日)、祁州刺史頓長壽・安武軍節度副使胡剌、賑済四県に及ばざるに坐し、各々杖五十。癸未(十三日)、詔して北辺軍千二百人を増し、諸堡に分置す。丁亥(十七日)、胡光謙闕に至る。学士院に命じて雑文を以て之を試み、旨に称す。上曰く:「朕親しく之を問わんと欲す。」と。辛卯(二十一日)、殿前都点検僕散端等を以て賀宋生日使と為す。己亥(二十九日)、上宰臣に謂いて曰く:「諸王の傅尉多く苛細にして、挙動拘防すと聞く。亦た朕の意に非ず。是の職の設け、本より諸王を輔導し、之を正に帰らしめ、其の大體を得しめんと欲するのみ。」と。平章政事清臣曰く:「聖意を以て遍く之を行わしめんことを請う。」と。曰く:「已に之を諭せり。」と。

八月癸卯(四日)、諸職官老病にして肯て辞避せず、有司諭して休閒せしむる者は、俸を給するの列に在らず。格前は論ぜず、と敕す。上軍民の不和・吏員の奸弊を以て、詔して四品以下・六品以上の者を尚書省に集議せしめ、各々見る所を述べて以て聞かしむ。甲辰(五日)、三品以下・六品以上の官を集め、朝政の得失及び民間の利害を以て問い、各々対する所を書かしむ。丁未(八日)、有司甯海州文登県の王震の孝行を奏するを以て、嘗て進士を業とし、並びに其の文を試み、特賜して同進士出身と為し、仍く教授一等の職任に注す。辛亥(十二日)、萬寧宮より至る。胡光謙に特賜して明昌二年進士第三甲及第と為し、将仕郎・太常寺奏礼郎を授く。官制旧く是の職を設くも、未だ嘗て人を除かず。光謙の德行才能を以て、故に特く之を授く。己未(二十日)、烏林答願を以て尚書左丞と為す。辛酉(二十二日)、近郊に獵す。乙丑(二十六日)、上宰臣に謂いて曰く:「朕官を任じ、久しく其の事に在らしめんと欲す。若し今日礼官を作し、明日銭穀を司どらば、間には異材有りと雖も、然れども事能く悉く弁ずる者は鮮し。」と。対えて曰く:「中材の人をして久しく其の職に在らしめば、事既に熟し、終には亦た力を得。」と。上太常卿張暐に問う:「古に三恪有り、今何ぞ之無きや?」と。暐典故を具えて以て聞かしむ。丁亥(十八日)、宋・高麗・夏使いを遣わして来たり天寿節を賀す。

九月庚午朔(一日)、天寿節、皇太后の喪を以て、朝を受けず。尚書省に諭す:「去歳山東・河北被災傷の処の閣租税及び借貸銭粟、若し便ち之を征せば、貧民未だ蘇らざるを恐る。豊収の日を俟ちて分数を以て帯征するも可なり。」と。又宰臣に諭して曰く:「随路提刑司旧くは老病職に任ぜず及び親民に堪えざる者を察するに止まる。若し其の実を得ば、即ち他路に改除す。若し他路提刑司覆察して実を得ば、重ねて親民の職を注す勿れ。卿等其れ議して之を行え。」と。甲戌(五日)、郊社署令唐括合達を以て夏国生日使と為す。己卯(十日)、秋山に如く。囲場を経過する人戸の今歳夏秋租税の半を免じ、曾て差役に当たる者は一年を複す。

冬十月壬寅、秋山より至る。丙午、御史台・提刑司に勅し、今後廉能の官を保申するに、復た品を升するの語を乞うこと有る勿からしむ。壬子、有司奏して曲阜宣聖廟の増修畢るを以て、勅す:「党懐英に碑文を撰せしめ、朕将に親しく釈奠の礼を行わんとす。其れ典故を検討して以て聞かしめよ。」甲寅、常平倉を置く処に勅し、並びに州・府の官をして本職を以て提挙せしめ、県官をして兼ねて管勾の其事を管せしめ、糴する所の多寡に約量して升降し、以て永制と為す。河南路提刑司の挙ぐる所の逸民游総に同進士出身を賜い、年老いて仕進を楽しまざるを以て、登仕郎を授け、正八品の半俸を給して終身せしむ。戊午、尚書省に諭して博物多知の士を訪求せしむ。癸亥、諸王府の傅尉に遣わして諭して曰く:「朕諸王を分命して出鎮せしむるは、蓋し政事の暇に、安便優逸にして、以て自適する所有らんことを欲するなり。然れども其の挙措の間或いは理に違うを慮るが故に、傅尉を分置し、使いて勅導彌縫して、過失に入らざらしむるのみ。若し公餘の遊宴過度に至らざれば、亦た復た何の害かあらん。今聞く爾等或いは用意過ぎて、凡そ王門の細碎の事公道を妨げざる者を、一一干與すと。賛助の道、豈に当に是くの如くならんや。宜しく各々職分を思い、事其の中を挙げ、礼体を失うこと無かれ。仍って就て諸王に諭し、朕が意を知らしめよ。」丙寅、応に保挙の官及び書判に試中する者は官を委して覆察し、言行相副う者は量りて升除を与え、随朝及び六品以上は各々随う所の長を用うるを勅す。己巳、近郊に猟す。

十一月庚午朔、尚書省奏す:「翰林侍講学士党懐英、孔子四十八代の孫端甫を挙ぐ。年徳倶に高く、古学に該通す。済南府、魏汝翼を挙ぐ。文章徳誼有り、苦学三十餘年、已に四挙終場す。蔚州、劉震亨を挙ぐ。学行倶に優れ、嘗て挙首に充つ。益都府、王枢を挙ぐ。博学善書、事親至孝なり。」魏汝翼に勅して特に進士及第を賜い、劉震亨等に同進士出身を賜い、並びに王澤の榜に附す。孔端甫は春暖を俟ちて之を召す。丙子、詔して臣庶の名古帝王に犯し而して姓復た同じき者は之を禁じ、周公・孔子の名も亦た回避せしむ。戊寅、相州を升して彰徳府と為す。以前右副都点検温敦忠等を以て賀宋正旦使と為す。壬午、尚書省奏す:「知河南府事程嶧、父祖を進封せんことを乞う。」権尚書礼部郎中党懐英言う:「凡そ宰執改除外任の長官と為るは、其の佐官以下相見の礼儀皆他長官と同じからず、其の子も亦た試補して省令史と為るを得。其の子且つ爾り、父祖の封贈理当に同じからず、合に宰執の一例を挙げて封贈すべし。」之に従う。甲申、提刑司令を改めて書史と為す。丙申、有司の言う所を以てす:「河州定羌の民張顕、孝友力田し、券を焚きて已に責め、又粟千石を献じて以て饑を賑う。棣州の民栄楫、米七百石・銭三百貫を賑い、冬月柴薪三千束を散ず。皆別に希覬無し。」特に各々両官を補し、仍って正班に叙す。

十二月癸卯、東上閣門使張汝猷を以て高麗生日使と為す。辛亥、有司に諭して雪を祈らしむ。癸丑、近郊に猟す。丙辰、赤気北方に見る有り。丁巳、華州下邽県に武定鎮倉を置き、京兆櫟陽県に粟邑鎮倉を置き、許州舞陽県に北舞渡倉を置くを勅し、各々倉草都監一人を設け、県官兼ねて之を領せしむ。乙丑、到任告致仕の格を定む。丁卯、宋・高麗・夏使いを遣わして来たり正旦を賀す。