金史

本紀第八: 世宗下

二十一年正月戊申朔、宋・高麗・夏が使者を遣わして来朝し賀した。壬子、夏国の請いに因り、詔して綏徳軍の榷場を復し、仍って館に就いて市易することを許す。上は山東・大名等路の猛安謀克の民が驕縦奢侈にして、耕稼に事としないと聞く。詔して実情を検閲させ、口数を計って地を授け、必ず自ら耕作せしめ、地余りて力足らざる者のみ、人を招き租佃することを許し、なお農時に酒を飲むことを禁ず。丙辰、海陵煬王亮を追貶して庶人とし、詔して中外に布告す。甲子、春水に行幸す。丙子、永清県に駐蹕す。移剌餘裏也という者あり、契丹人なり、虞王猛安に隷し、一妻一妾あり。妻の子六人、妾の子四人。妻死す、その六子墓下に廬し、交代で宿直してこれを守る。妾の子皆曰く「是れ嫡母なり、我ら輩独り墳墓を守るべからざるや」と。ここにおいて、亦交代で宿直す、三年一日の如し。上、狩猟に因り、過ぎてこれを聞き、銭五百貫を賜い、なお県官に命じて銭を市に積み、県民に示した後にこれを給し、孝子の勧めと為す。

二月戊戌、太白昼に見ゆ。庚子、都に還る。壬寅、河南尹張景仁を以て御史大夫と為す。乙巳、元妃李氏の喪に因り、興徳宮に致祭す。市肆を過ぐるに楽声を聞かず、宰臣に謂ひて曰く「豈に妃の故を以てこれを禁ずるや。細民は日作して食ふ、若しこれを禁ずれば是れその生計を廃するなり、これを禁ずることなかれ。朕前に将に興徳宮に詣らんとす、有司薊門より由らんことを請ふ、朕市民の生業を妨ぐるを恐れ、特に他道よりす。顧みて街衢門肆を見るに、或いは毀撤し、簾箔を以て障へり、何ぞ必ずしも然らんや。今より復た毀撤するなかれ」と。

三月丁未朔、万春節、宋・高麗・夏が使者を遣わして来朝し賀した。上初め薊・平・灤等州の民食乏しと聞き、有司に命じて粟を発ちてこれを糶かしめ、貧しくて糴けず或いはこれを貸す。有司貧民に貸せば償ふ能はざるを恐れ、戸籍ある者のみに貸す。上長春宮に至り、これを聞き、更に人を遣わして実情を検閲せしめ、賑貸す。監察御史石抹元礼・鄭達卿糾挙せざるを以て、各々笞四十、前に遣はしし官皆罪に論ず。甲子、太白昼に見ゆ。乙丑、詔して山後の官地を冒占すること十頃以上の者は皆官に籍没し、貧民に均しく給す。遼州の民朱忠等乱言し、誅せらる。上宰臣に謂ひて曰く「近く聞く宗州節度使阿思懣の行事多く法に合はざる、通州刺史完顔守能は既に招討の職事と与にす、猶ほ廉を守らざる。達官貴要多く非理を行ふ、監察未だ嘗て興劾せず。斡睹只群牧副使僕散那也部人の二球仗を取る、至って細事なり、乃ち便ち劾奏す。これを称職と謂ふ、可ならんや。今監察の職事修挙する者は遷擢を与へ、不称なる者は、大なるは則ち降罰し、小なるは則ち決責し、なお官を去ることを許さず」と。

閏月己卯、恩州の民鄒明等乱言し、誅せらる。辛卯、漁陽令夾穀移裏罕・司候判官劉居漸、命を受けて賑貸するに、富戸にのみ給するを以て、各々三官を削り、通州刺史郭邦傑はその事を総べ、俸を三月奪はる。乙未、上宰臣に謂ひて曰く「朕観るに、古より人君多く讒諂を進用し、その間蒙蔽せられ、害と為ること細ならず、漢の明帝の如き尚ほ此の輩に惑はさる。朕古の明君に及ばずと雖も、然れども近習の讒言、未だ嘗て耳に入らず。宰輔の臣に至りては、亦未だ嘗て偏に一人の私議を用ゐず」と。癸卯、尚書左丞相完顔守道を以て太尉・尚書令しょうしょれいと為し、尚書左丞蒲察通を平章政事と為し、右丞襄を左丞と為し、参知政事張汝弼を右丞と為し、彰徳軍節度使梁肅を参知政事と為す。

四月戊申、右丞相徒単克寧を以て左丞相と為し、平章政事唐括安礼を右丞相と為す。泰州・臨潢府等路の辺堡及び屋宇を増築す。庚戌、昭祖以下三祖三宗の御容を衍慶宮に奉安し、親祀の礼を行ふ。上宰臣に諭して曰く「朕の言行豈に過ち無からんや。常に人の直諫を欲して肯て言ふ者無し。その言果して善なれば、朕従ひてこれを行ふ、また何ぞ難からん」と。戊辰、滕王府長史把徳固を以て横賜夏国使と為す。壬申、寿安宮に幸す。

五月戊子、西北路招討使完顔守能、贓罪を以て、杖二百、除名せらる。

七月丙戌、都に還る。丁酉、枢密使趙王永中罷免せらる。己亥、左丞相徒単克寧を以て枢密使と為す。辛丑、太尉・尚書令完顔守道を以て復た左丞相と為し、太尉は元の如し。

八月乙丑、右副都点検胡什賚等を以て賀宋生日使と為し、吏部郎中奚胡失海を夏国生日使と為す。

二十二年三月辛未朔、万春節、宋・高麗・夏が使者を遣わして来朝し賀した。丁丑、尚書省に命じて西北路招討司に申し勅し、猛安謀克官をして部人を督め武備を習はしむ。甲申、戸部に諭して曰く「今年山后に行幸す、須ふ所のもの並びに民間より取ることを得ず、用ふる所の人夫と雖も、並びに官銭を以て和雇す、違ふ者は杖八十、職を罷む」と。癸巳、詔して重修の制条を頒つ。吏部尚書張汝霖を以て御史大夫と為す。

四月乙卯、監臨院務官の食直法を行ふ。明肅の尊号を削るに因り、詔して中外に布告す、皇太子の請に従ふなり。甲子、上金蓮川に行幸す。

五月甲申、太白昼に見ゆ。

六月庚子朔、制して限を立てて放良せしむる奴、限内に良人を娶りて妻と為し、生む所の男女は即ち良と為す。丁巳、右丞相致仕石琚薨ず。

七月辛巳、宰臣事を奏す、上頗る違す、宰臣退かんことを請ふ。上曰く「豈に朕の微かに和を爽ふするを以て、朝の大政に臨むを倦むや」と。してその奏を終へしむ。甲午、秋獵す。

八月戊辰、太白(金星)が天をめぐる。

九月戊寅、金蓮川より帰還す。左衛将軍禅赤らを賀宋生日使と為し、尚輦局使僕散曷速罕を夏国生日使と為す。己丑、同知東京留守司事裔が在任中専横恣肆にして上下の分を失えるを以て、謫して複州刺史に授く。乙未、寿州刺史訛裏也・同知查剌・軍事判官孫紹先・榷場副使韓仲英ら、商賂を受け禁物を界外に出すをゆるしたるを以て、皆処死す。

十月辛丑、河間の宗室を平州に従う。庚戌、太廟にて袷祭をく。

十一月丙子、吏部尚書孛朮魯阿魯罕らを賀宋正旦使と為す。東京留守徒単貞、海陵(帝)の逆謀にあずかりたるを以て、伏誅す。妻永平県主、子慎思並びに賜死す。甲申、宿直将軍僕散忠佐を高麗生日使と為す。玉田県令移剌查、ぞうに坐し、伏誅す。戊子、冬の猟を行う。

十二月庚子、都に還る。癸丑、近郊に猟す。辛酉、諸部より羊馬を強取する法を立てる。

二十三年正月丁卯、宋・高麗・夏、使いを遣わして来賀す。庚午、詔して有司に、但だ強盗をとらえ、跡状既に明らかなれば、賞はしたがって之を与え、更に待つことなかれとす。丁丑、参知政事梁肅致仕す。辛巳、広楽園の灯山火災す。壬午、春水に行幸す。詔して夾道三十里内の役にこうむれる民は今年の租税を免じ、なお傭直を与う。甲午、大邦基伏誅す。

二月乙巳、都に還る。戊申、尚書右丞張汝弼をして太尉をねしめ、至聖文宣王廟に致祭せしむ。庚戌、戸部尚書張仲愈を参知政事と為す。御史台、察する所の州県官の罪を進む。上之を覧みて曰く、「卿等のかんがえる所は皆細碎の事なり、又その悪を録するのみにしてその善を挙げず。つまびらかに是の如くならば、其れ官と為る者亦た難からずや?其れ善悪を並びに察して以て聞かしめよ。」

三月丙寅朔、万春節、宋・高麗・夏、使いを遣わして来賀す。丙子、初めて宣命之宝を制す。金・玉各一。尚書右丞相烏古論元忠罷免さる。潞州涉県人陳円、乱言し、伏誅す。乙酉、土雨つちあめ降る。丙戌、詔して中外の百官を戒諭す。

四月辛丑、奉使三国人従の差遣格を更めて定む。祁州刺史大磐、無罪にて染工をむちうち死なせ、良人二十五口をみだりに奴と認めたるに坐し、官四階を削り、之を罷む。癸丑、地に白毛生ず。大理正紇石主列速を横賜高麗使と為す。壬戌、寿安宮に幸す。有司をして民の為に雨を祷らしむ。是の夕、雨降る。

五月庚午、県令大雛訛只等十人、職に任じえざるを以て罷め帰らしむ。六十以上の者は官二階を進め、六十以下の者は官一階を進め、並びに半俸を与う。甲戌、命じて応部除官嘗かつて罪を以て罷められて再び叙せられる者、使いを遣わして其の治跡を按じ、善状有らば、はじめて県令に授くるを許し、治状無き者は、任数の多少に拘わらず、並びに授くるを得ざらしむ。丁亥、雷鳴り、雨雹ひょう降り、地に白毛生ず。

六月壬子、有司、右司郎中段珪卒すと奏す。上曰く、「是の人甚だ明正、用いるべき者なり。登聞検院巨構を知るが如きは、毎事但だ委順するのみなり。燕人は古より忠直なる者鮮すくなし。遼兵至れば則ち遼に従い、宋人至れば則ち宋に従い、本朝至れば則ち本朝に従う。其の俗詭随きずいなること、由来有りて然り!しばしば遷変を経て未だ嘗て残破せざるは、およそ此れを以てなり。南人は勁挺けいていにして、敢えて直言直諫する者多し。前に一人見殺さるれば、後また一人之を諫む。甚だとうとぶべきなり。」又曰く、「昨夕苦暑、朕通宵眠らず。って小民の比屋卑隘ひおくひあいなるを念い、何を以てか安処せん。」

七月乙酉、平章政事移剌道・参知政事張仲愈皆罷免さる。御史大夫張汝霖、糾挙を失えるに坐し、降授して棣州防禦使と為す。

八月乙未、東郊にてみのりを観る。女直字『孝経』千部を点検司に付し、分かち護衛親軍に賜う。癸卯、都に還る。乙巳、大名府猛安の人馬和尚、謀叛し、伏誅す。猛安謀克戸の口・田土・牛具を括定す。戸部尚書程輝を参知政事と為す。

九月己巳、同僉大宗正事方を賀宋生日使と為し、宿直将軍完顔斜裏虎を夏国生日使と為す。訳経所、訳する所の『易』・『書』・『論語』・『孟子』・『老子』・『楊子』・『文中子』・『劉子』及び『新唐書』を進む。上宰臣に謂いて曰く、「朕の『五経』を訳せしむる所以は、正に女直人に仁義道德の在る所を知らしめんと欲するのみ。」命じて之を頒行せしむ。辛未、秋の猟を行う。

十月癸巳、都に還る。庚戌、東宮に幸し、皇孫吾都補に洗児の礼を賜う。己未、慶雲見あらわる。辛酉、太白昼にあらわる。

十一月壬戌朔、日に食あり。丙寅、平章政事蒲察通罷む。丁卯、歳星昼に見ゆ。壬申、枢密副使崇尹を以て平章政事と為す。

閏月甲午、上宰臣に謂ひて曰く、「帝王の政は、固より寛慈を以て徳と為す、然れども梁武帝の如きは専ら寛慈を務め、以て綱紀大いに壊るるに至る。朕嘗て之を思ふに、賞罰濫れざるは、即ち是れ寛政なり、余復た何をか為さん。」尚書左丞襄を以て平章政事と為し、右丞張汝弼を左丞と為し、参知政事粘割斡特剌を右丞と為し、礼部尚書張汝霖を参知政事と為す。西京留守婆廬火等を以て賀宋正旦使と為す。制す、外任官嘗て宰執を為せし者は、凡そ吏牘を省部に上るに、親王の例に依り、名を書くを免ず。戊午、歳星昼に見ゆ。上宰臣に謂ひて曰く、「女直進士は漢児進士に依りて省令史を補ふべし。夫れ儒者は操行清潔にして、礼に非ざれば行はざるなり。吏を以て出身する者は、幼より吏と為り、其の貪墨を習ひ、官に至るに及び、習性遷改すること能はず。政道の興廃、実に此れに由る。」庚申、尚書省左司員外郎徐偉事を奏す、上宰臣に謂ひて曰く、「斯人は純にして幹あり、有司郎中郭邦傑は直にして頗る躁なり。」

十二月癸酉、上宰臣に謂ひて曰く、「海陵自ら失道を以てし、上京の宗室起りて之を図らんことを恐れ、故に疏近を問はず、並びに之を南に徙す。豈に漢の光武、宋の康王の疏庶大統を継ぐを得たるを以ての故に、是の心有るに非ずや。慮り過ぐること此の如きは、何ぞ其れ謬れること甚だしき。」乙酉、高麗母喪を以て来告す。丁亥、真定尹烏古論元忠を以て復た尚書右丞相と為す。

二十四年正月辛卯朔、宋、夏使いを遣はして来賀す。徐州芝草十有八莖を進む、真定嘉禾二本、六莖、異畝同穎を進む。戊戌、長春宮に如きて春水す。

二月壬申、都に還る。癸酉、上曰く、「朕将に上京に往かんとす。本朝の風俗端午節を重んずるを念ひ、比して端午に到るに上京に在らば、則ち郷間の宗室父老を燕労せん。」甲戌、制す、一品職事官の庶孽子承廕するは、更に引見せず。丙戌、東上閣門使完顔進児等を以て高麗勅祭使と為し、西上閣門使大仲尹を慰問使と為し、虞王府長史永明を起復使と為し、器物局使皞を以て横賜夏国使と為す。

三月庚寅朔、万春節、宋、夏使いを遣はして来賀す。甲午、上将に上京に如かんとす、尚書省「皇太子守国諸儀」を奏定す。丙申、尚書省「皇太子守国宝」を進む、上皇太子を召して之を授け、且つ之に諭して曰く、「上京は祖宗興王の地、諸王と一到せんと欲し、或は三二年を留まらんとす、汝を以て国を守らしむ。譬へば農家の田を種へ、商人の財を営むが如く、但し能く父業を墜さざれば、即ち克家の子なり、況んや社稷の任重きに於てをや、尤も畏慎すべし。常時に汝を観るに甚だ謹みあり、今日能く朕の憂を紡げば、乃ち中心の孝を見るなり。」皇太子再三辞譲し、政務に諳ならざるを以て、扈従に備はらんことを乞ふ。上曰く、「政事甚だ難きこと無し、但し心を用ひて公正にし、讒邪を納れざれば、久しきに自ら熟す。」皇太子涕を流し、左右皆之が為に感動す。皇太子乃ち宝を受く。丁酉、山陵に如く。己亥、都に還る。壬寅、上京に如く。皇太子允恭国を守る。癸卯、宰執以下通州に於て奉辞す。上宰執に謂ひて曰く、「卿輩皆故老なり、皇太子国を守る、宜しく心を悉くして之を輔け、以て朕の意に副ふべし。」又枢密使徒単克寧に謂ひて曰く、「朕巡省の後、脱或は事有らば、卿必ず之に親しむべし。細微を忽せざれ、大なるは図り難きなり。」又六部の官を顧みて曰く、「朕聞く、省部の文字多くは小なる不合を以て之を駁し、苟くも自便を求め、累歳を致して結絶すること能はざるを、朕甚だ之を悪む。今より行ふ可きは則ち行ひ、罷む可きは則ち罷め、下に滞留の歎有らしむる毋れ。」時に諸王皆従ふ、趙王永中を以て太子を輔けしむるに留む。

四月己未朔、太白昼に見ゆ。咸平尹移剌道薨ず。庚申、広寧府に次す。丙寅、東京に次す。丁卯、孝寧宮に朝謁す。東京百里内の夏秋税租を復するに給すること一年。在城の随関年七十なる者一官を補す。百里内の徒二年以下の罪を犯せる者を曲赦す。乙酉、混同江に於て漁を観る。

五月己丑、上京に至り、光興宮に居す。庚寅、慶元宮に於て朝謁す。戊戌、皇武殿に於て宴す。上宗戚に謂ひて曰く、「朕故郷を思ふこと、日に積れり、今既に此に至る、極めて歓飲す可く、君臣之を同じくす。」諸王妃、主、宰執百官の命婦に賜ふこと各差有り。宗戚皆酔ひに沾ひて舞を起し、竟日にして乃ち罷む。

六月辛酉、按出虎水の臨漪亭に幸す。壬戌、緑野澱に於て馬を閲す。

七月乙未、上宰臣に謂ひて曰く、「天子巡狩すべくは善を挙げ悪を罰すべし。凡そ士民の孝弟淵睦なる者は挙げて之を用ひ、其の廉恥を顧みず行無き人は則ち之を教戒し、悛まざる者は則ち懲罰を加ふ。」丙午、勃野澱に於て猟す。乙卯、上宰臣に謂ひて曰く、「今時の人、罪有りて問はず、既に過ぐるの後は則ち知らずと謂ふ。罪有れば必ず責むるは、則ち事毎に罪を尋ぬと謂ふ。風俗の薄きこと此の如し。文徳を以て感化せずんば、古に復すること能はず。卿等徳を以て輔佐し、当に古風に復還せしむべし。」

八月癸亥、太府監張大節等を以て賀宋生日使と為し、侍御史遙裏特末哥を夏国生日使と為す。乙亥、詔して上京今年の市税を免ず。

九月甲辰、歳星昼に見ゆ。

十月丁卯、近郊に於て猟す。

十一月辛卯、宮に還る。甲午、詔して上京天寒く地遠きを以て、宋の正旦、生日、高麗、夏国の生日に、並びに使いを遣はす須からず、有司をして報諭せしむ。丙午、尚書省速頻、胡裏改の三猛安二十四謀克を徙して以て上京を実にするを奏す。

十二月丙辰、近郊に於て猟す。己卯、宮に還る。

二十五年正月乙酉朔。丁亥、妃嬪・親王・公主・文武の従官を光徳殿に宴し、宗室・宗婦及び五品以上の命婦、座に与る者千七百余人、賞賚差等あり。

二月癸酉、東平尹烏古論思列が怨望あるを以て、これを殺す。丁丑、春水に行く。

四月己未、春水より至る。癸亥、皇武殿に幸して球を撃ち、士民の縦観を許す。甲子、速頻・胡裏改の両路の猛安の下より三十謀克を選び三猛安と為し、率督畔窟の地に移し置き、以て上京を実す。壬申、会寧府を曲赦し、仍って今年の租税を放免し、百姓年七十以上なる者は一官を補す。甲戌、会寧府の官一人を以て大宗正丞を兼ね、以て宗室の政を治めしむ。上、群臣に謂いて曰く、「上京の風物、朕自らこれを楽しむ。毎に還都を奏するや、輒ち感愴を用う。祖宗の旧邦、忍びて去るに忍ばず。万歳の後、当に朕を太祖の側に置くべし。卿等、朕の言を忘れるなかれ」と。丁丑、宗室・宗婦を皇武殿に宴し、大功の親には官三階を賜い、小功は二階、緦麻は一階、年高く属近き者には宣武将軍を加う。及び宗女を封じ、銀・絹を賜うこと各差等あり。曰く、「朕、尋常酒を飲まず。今日は甚だ酔いを成さんことを欲す。この楽しみも亦た得易からざるなり」と。宗室の婦女及び群臣故老、次を以て舞いを起こし、酒を進む。上曰く、「吾来ること数箇月、未だ一人も本曲を歌う者なし。吾、汝等が為にこれを歌わん」と。宗室の弟、殿下に坐する者を叙して皆殿上に坐せしめ、上自ら歌うを聴かしむ。その詞、王業の艱難及び継述の不易を道い、「祖宗を慨想すれば、宛然として睹るが如し」に至り、慷慨悲激、声を成す能わず、歌い畢りて泣下る。右丞相元忠、群臣・宗戚を率いて觴を捧げて寿を上ぐ、皆万歳を称す。ここに於いて、諸夫人更に本曲を歌い、私家の会の如し。既に酔い、上復た調を継ぎ、一鼓に至りて乃ち罷む。己卯、上京を発つ。庚辰、宗室戚属、奉辞す。上曰く、「朕久しく故郷を思い、甚だ一二歳留まらんことを欲す。京師は天下の根本、久しく此に在る能わざるなり。太平歳久しく、国に征徭無し。汝等皆奢縦にして、往々貧乏す。朕甚だこれを憐む。当に儉約を務め、祖先の艱難を忘るるなかれ」と。因りて泣数行下り、宗室戚属皆感泣して退く。

五月庚寅、平章政事襄・奉御平山等、懐妊の兔を射る。上怒りて平山を杖三十し、襄を召して誡飭し、遂に詔を下して兔を射るを禁ず。壬寅、天平山好水川に次ぐ。癸卯、使を遣わして臨潢・泰州に農を勧む。丙午、尚書省に命じて事を奏するに窄紫を衣せしむ。

六月甲寅、近山に猟し、田壟の治まらざるを見て、田者を笞するを命ず。庚申、皇太子允恭薨ず。丙寅、尚書右丞相烏古論元忠罷む。庚午、左宣徽使唐括鼎を遣わして京師に詣り、皇太子を致祭せしむ。戊寅、皇太子妃及び諸皇孫に命じて喪を執らしむ。並びに漢儀を用う。

七月戊申、好水川を発つ。

九月辛巳朔、轄沙河に次ぎ、百歳の老嫗に帛を賜う。甲申、遼水に次ぎ、百二十歳の女直老人を召見す。能く太祖の開創の事を道う。上嘉歎し、食を賜い、並びに帛を賜う。己酉、上京より至る。是の日、上、熙春園に於いて宣孝皇太子を臨奠す。

十月丙辰、尚書省、親軍の数多きを奏し、宜しく稍々減損すべしとす。詔して定額を三千と為す。宰臣退く。上、左右に謂いて曰く、「宰相年老いて久しく立つに艱し。小榻を廊下に置き、少しく休息せしむべし」と。甲子、上京等路の大雪及び含胎の時の採捕を禁ず。上、宰臣に謂いて曰く、「護衛年老いて出職し、臨民を授くるに、手字尚た能く画かず。何を以て民を治めん。人の胸中の明暗は外より知る能わざるも、精神の昏耄は已に外に見ゆ。是れ其の能わざる所を強うるなり。天子は兆民を以て子と為す。家ごとに撫する能わず、人を用いるに在るのみ。其の能わざるを知りて強いてこれを授くれば、百姓我を何と謂わん」と。丁丑、学士院・講院・秘書監・司天臺・著作局・閣門・通進・拱衛・直武器署等の官に命ず。凡そ宮中に直する者は、午前許して退く。

十一月庚辰朔、詔して曰く、「豺未だ獣を祭らざれば、採捕を許さず。冬月、雪一尺以上なれば、網及び速撒海を用いるを許さず。恐らくは獣類を尽くさんがためなり」と。歳星昼に見ゆ。壬午、太白昼に見ゆ。甲午、臨潢尹僕散守中等を以て賀宋正旦使と為す。丙申、夏国、使を遣わして起居を問う。戊戌、曹王永功を以て御史大夫と為す。壬寅、礼部員外郎移剌履を以て高麗生日使と為す。

十二月戊午、皇孫金源郡王麻達葛を以て大興尹を判せしめ、原王に進封す。甲子、太白昼に見え、天を経る。丙寅、左相完顔守道・左丞張汝弼・右丞粘割斡特剌・参知政事張汝霖、東宮諸皇孫の食料を擅に増すに坐し、各官一階を削る。甲戌、制して留守・統軍・総管・招討・都転運・府尹・転運・節度使の月俸を増す。上、宰臣に謂いて曰く、「太尉守道、事を論ずるに止だ寛に務む。犯罪罷職する者多く復用せんと欲す。若し其の首悪を懲らしめば、後来畏るるを知らん。罪して復用せば、何を以て戒めを示さん」と。是の日、銅を範りて「礼信之宝」と為すを命ず。凡そ外方に礼物を賜い、信袋を与うるには則ちこれを用う。丙子、上、宰臣に問うて曰く、「原王の大興に事を行うこと如何」と。右丞斡特剌対えて曰く、「都人の皆これを称するを聞く」と。上曰く、「朕、民間に察するを令す。咸く事を見ること甚だ明らか、予奪皆当を失わずと言う。曹・豳の二王及ぶ能わざるなり。又聞く、女直人の事を訴うる者有れば、女直語を以てこれを問い、漢人の事を訴うる者有れば、漢語を以てこれを問うと。大いに本朝の語を失わざるを習うは善し。習わざれば、則ち淳風将に棄てられん」と。汝弼対えて曰く、「本を忘れざるは、聖人の道なり」と。斡特剌曰く、「西夏の小邦を以て、旧俗を崇尚し、独り能く国を保つこと数百年」と。上曰く、「事は実に任うべし。一事偽りなれば則ち百真を喪う。故に凡そ事は真実に如くは莫し」と。

二十六年正月庚辰朔、宋・高麗・夏、使を遣わして来賀す。甲辰、長春宮春水に行く。

二月癸酉、都に還る。乙亥、詔して曰く、「毎季求仕の人に、疑難を問い、これを剖決せしむ。其の才識取るべき者には、仍って政跡を訪察し、其の言行相副うれば、即ち加えて升用せよ」と。

三月乙卯朔、万春節、宋・高麗・夏が使者を遣わして来朝し祝賀した。丁亥、大理卿の欠員について、上(皇帝)が誰が適任かと問うた。右丞粘割斡特剌が言うには、前使部尚書唐括貢が適任であると、そこでこの職を授けた。己丑、尚書省が除授を擬定して奏上すると、上は言った、「卿らは省にあって未だ士を推薦せず、ただ資格・階級に限るのみでは、どうして人材を得られようか。古には布衣から宰相となった者もいる。聞くところでは宋も山東・河南の流寓・疎遠の者を多く用い、皆、貴近に拘束されないという。本朝の境土の広大さをもってすれば、どうしてそのような人材がないことがあろうか。朕は遍く知ることが難しい、卿らもまた挙げない。古より終身宰相たる者があるだろうか。外官三品以上には、必ず用いるべき人材があるが、ただ故なくして進用されることがないだけだ。」左丞張汝弼が言った、「下位の者に才能があっても、必ず試用して初めて現れるものです。」参政程輝が言った、「外官に声望があっても、一朝朝廷に入ると、かえって任に堪えず、淘汰されるだけです。」癸巳、香山寺が完成し、その寺に行幸し、大永安と名を賜い、田二千畝、栗七千株、銭二万貫を給した。丁酉、親軍完顔乞奴の上言により、猛安謀克は皆まず女直文字の経史を読んでから承襲する制度を定めた。ついで言った、「ただ少し古今に通じさせれば、自ら非を為すことを肯んじないであろう。お前は一介の親軍の粗人であるが、よくこのことを言えた。その有益なることを審らかにするならば、どうして憚って従わないことがあろうか。」

四月壬子、尚書省が院務監官の欠損賠償・代納法及び横班の格式を奏上して定めた。ついで言った、「朕は常日の御膳もまた減省に従っている。かつてある公主が来た時、余分の膳がなく与えることができず、当直官は皆これを目撃した。もし豊かにしようと思えば、たとえ一日に五十羊を用いることも難しくはない。しかし皆これ民の脂膏である、忍んで為すことができない。監臨官はただ己の利を知るのみで、その利がどこから来るかを知らない。朕はかつて外任を歴任し、民間の事を熟知している。思うに前代の君主は、富貴を享けながらも、農耕の艱難を知らない者が甚だ多い。その天下を失うこと、皆これに由るのである。遼の主が民間に食糧が乏しいと聞き、なぜ干し肉を食べないのかと言ったのは、幼くして師保の訓えを失い、その即位に及んで、故に民間の疾苦を知らなかったのである。隋の煬帝の時、楊素が専権して事を行ったのは、委任を慎重にしなかった過ちである。正人と共に処すれば、知ることは必ず正道であり、聞くことは必ず正言である。慎重にせざるべからざるなり。今、原王府の官属は、純粋で謹厳、性質正直なる者を選んで充てるべく、権術ある人を用いるな。」戊午、尚書左丞張汝弼を罷免した。己未、寿安宮に行幸した。壬戌、太尉・左丞相完顔過道が致仕した。客省使李磐を横賜高麗使とした。尚書省が北京転運使が贓罪により除名されたことを奏上した。尚書省が事を奏上すると、上は言った、「近頃上書する者があり、職官が除名に犯した者は再び用いるべからずと言う。朕はこの言は極めて妥当であると思う。もし軍期が急迫している場合は、権宜として使用し得る。今、天下に事なく、この輩を再び用いるならば、どうして将来を戒められようか。」また奏上した、「昨年、諸路の水旱により、軍民の地土二十一万余頃の内、租税四十九万余石を免ずることを擬定した。」これを従った。詔して言った、「今の租税は、古を考へて行うが、ただ災害に遇えば、常にこれを蠲免せよ。」

五月甲申、司徒しと・枢密使徒単克寧を太尉・尚書左丞相とし、判大宗正事趙王永中を再び枢密使とし、大興尹原王麻達葛を尚書右丞相とし、名を璟と賜うた。参加政事程輝が致仕した。戊子、盧溝が上陽村で決壊し、湍流が河を成し、ついにこれに因った。庚寅、御史大夫曹王永功を罷免し、豳王永成を御史大夫とした。戊戌、尚書右丞粘割斡特剌を左丞とし、参知政事張汝霖を右丞とした。

六月癸亥、尚書省が速頻・胡裏改の世襲謀克の事を奏上すると、上は言った、「その人々は皆勇悍であり、昔、世祖がこれと隣接し、苦戦累年、ようやくこれを克服した。その後、服したり叛いたりし、穆宗・康宗の時に至って初めて声教に服した。近世にもまた分徙を試みた。朕は少しその民を上京に遷したいと思う。実に国家長久の計である。」己巳、上が宰執に言った、「齊桓公は中庸の主であるが、一人の管仲を得て、遂に覇業を成した。朕は夙夜思いを凝らし、ただ人材を失うことを恐れる。朕が既に知らず、卿らもまた推薦しないならば、必ず全才を俟って後に挙げるのは、これまた難しいことである。もし某人が某事に長じていると挙げれば、朕もまた材を量って用いるであろう。朕と卿らは共に老いた。天下は極めて大きく、どうして人材がないことがあろうか。人材を推薦挙用することは、当今の急務である。」また言った、「人に幹能があることは、固より得難いが、しかし徳行の士には及ばないのが最も優れている。」上が右丞相原王に言った、「お前はかつて『太祖実録』を読んだことがあるか。太祖が麻産を征伐し、これを襲撃し、泥淖に至って馬が進むことができず、太祖は馬を捨てて歩行し、歡都が麻産に射中て、遂にこれを擒えた。創業の難しさはこのようである。思わざるべからず。」甲戌、詔して言った、「凡そ陳言の文字は登聞検院に詣で、学士院に送って聞奏せしめ、省廷を経由するな。」

七月壬午、詔して内外の職事官の兼職に対する俸銭を給する。丙申、御史中丞馬恵迪を参知政事とした。庚子、上は同知中都路都転運使事趙曦瑞が、その在職中、銭穀の利害に関する文書に多く題署せず、ただ身の安泰を思うのみであったと聞き、降授して積石州刺史とした。

閏月己未、都に還った。

八月丁丑、上が宰臣に言った、「親軍は字を識らなくても、また例に依って出職させるが、もし贓賄に涉るならば、必ず痛くこれを糾す。」太尉左丞相克寧が言った、「法に依るならば可です。」上は言った、「朕は女直人に対して未だ優恤を知らぬことはない。しかし贓罪に涉るならば、たとえ朕の子弟であっても恕すことはできない。太尉の意は、女直人を姑息にしたいのであろう。」戊寅、尚書省が奏上した、黄河が決壊し、衛州が破損した。戸部侍郎王寂・都水少監汝嘉に命じて衛州胙城県に制限を移させた。丁亥、尚書省が奏上した、吏部侍郎李晏ら二十六人を遣わし、諸路の物力を分路推排する。これを従った。己丑、宿直将軍李達可を夏国生日使とした。辛卯、益都尹宗浩らを賀宋生日使とした。甲午、秋獵を行った。庚子、薊州に駐留した。辛丑、仙洞寺に行幸した。壬寅、香林・浄名の二寺に行幸した。

九月甲辰朔、盤山上方寺に行幸し、ついで中盤・天香・感化の諸寺を遍歴した。庚申、都に還った。丙寅、上が宰臣に言った、「烏底改が叛亡した。既に人を遣わしてこれを討伐したが、さらに甲士を加え、その船筏を毀つべし。」参知政事馬恵迪が言った、「その人を得ても用いることができず、その地があっても居住できません。恐らく聖慮を労するに足りません。」上は言った、「朕もまたこの類は無用であると知っている。その船筏を毀つ所以は、再び辺境を侵さしめないためである。」

十月戊寅、職官が贓罪を犯した場合、同職が相互に糾察する法を定めた。庚寅、上が宰臣に言った、「西南・西北両路招討司の地は狭隘で、猛安人戸に囲獵する場所がなく、騎射に習熟することができない。各猛安謀克官に委せて時を依って教練させ、その弛慢して期限に過ぎる者及び自ら監視せざる者は、並びにこれを決罰せよ。」甲午、詔して河防軍の数を増加させた。戊戌、寧昌軍節度使崇粛・行軍都統忠道は烏底改を討伐するに当たり、敵を克服するを待たずして還ったため、崇粛は杖七十、官一階を削り、忠道は杖八十、官三階を削った。

十一月甲辰朔、閔宗の陵廟における薦享の礼を定む。上、宰臣に謂いて曰く、「女直人の中、材傑の士は、朕が少しく識る者あれど、蓋し亦た得難きなり。新進士の徒單鎰・夾古阿裏補・尼厖古鑒の輩は皆な用ゆべき材なり。刀筆より起ちし者は、才力を用ゆるに足れども、その廉介の節は、終に進士に及ばず。今、五品以上の闕員甚だ多く、必ず資級相応ふるを待たば、老いても得ざる者有らん、況んや卿相に至らんことを欲せばや。古来、宰相は率ね三五年を過ぎずして退き、稀に三二十年なる者有り、卿等特に人を挙げず、甚だ朕が意に非ず。」上、起居注を修むる崇璧を顧みて曰く、「この人は孱弱なり、事をこれに付せば、未だ必ずしも能く弁ぜず、その謹厚なる長者なるを以て、故に諸を左右に置き、諸官にその人たるを効わしめんと欲するなり。」辛亥、刑部尚書移剌子元等を以て賀宋正旦使と為す。戊午、左警巡副使鶻沙を通敏にして善く断ずるを以て、殿中侍御史兼右三部司正に擢つ。庚申、右丞相原王璟を立てて皇太孫と為す。甲子、上、宰臣に謂いて曰く、「朕聞く、宋軍は自ら来たり教習を輟めず、今、我が軍は専ら遊惰に務む、卿等、天下既に安んずるを謂いて豫防の心無からんと勿れ、一旦警有らば、軍用ゆるべからず、顧みて事を敗らざらんや。その時を以て訓練せしむべし。」丙寅、上、侍臣に謂いて曰く、「唐の太子承乾の為す所多く度を非ざるも、太宗これを縱して檢せず、遂に廃するに至る、もし早く禁止を為さば、当に是に至らざるべし。朕、聖經に於いて深く解すること能わず、史傳に至りては、卷を開けば輒ち益する所有り。善人を見る毎に忠孝を忘れず、身を檢し廉潔なるは、皆な天性より出づ。常人に至りては多く喜んで非を為し、天下を有つ者苟くも以てこれを懲する無くんば、何に由りて治を致さん。孔子、政を為すこと七日にして少正卯を誅す、聖人尚お爾り、況んや餘人をや。」戊辰、上、宰臣に謂いて曰く、「朕、年老いたりと雖も、善を聞きて厭わず。孔子云う、『善を見ること及ばざるが如くし、不善を見ること湯を探るが如くす』と。大なるかな言や。」右丞張汝弼對えて曰く、「これを知るは艱しからず、これを行なうは惟だ艱し。」拱衛直副都指揮使韓景懋を以て高麗生日使と為す。近侍局直長尼厖古鑒を純直にして通敏なるを以て、皇太孫侍丞に擢つ。己巳、近郊に獵す。庚午、上、宰臣に謂いて曰く、「朕、方に前古の明君に比すれば、固より及ばず。近臣の讒言を納れず、戚裏の私謁を受けざるに至りては、亦た愧じること無し。朕嘗て自ら思う、豈に過ち無からんや、患う所は過ちて改めざるなり、過ちて能く改むれば、庶幾く咎無からん。朕が過ちを省みるに、頗る土木の工を興すを喜ぶ、今より復た作さず。」

十二月甲申、上、朝を退き、香閤に御す、左諫議大夫黃久約、荔支を遞送するは是れに非ずと言う、上これに諭して曰く、「朕知らず、今これを罷めしむ。」丙戌、上、宰臣に謂いて曰く、「有司、上に奉ずるに、惟だ辦事の名を沽うのみにて、利害如何を問わず。朕嘗て新荔支を得んと欲す、兵部遂に道路に於いて特設の鋪遞を設く。比に諫官黃久約の言に因り、朕方にこれを知る。人たるに識無くんば、一旦事に臨みて、便ち顛はいに至らん。宮中の事大小と無く、朕常に親ら覽するは、人を得ざるを以ての故なり、もし人を得ば、寧ぞ他に慮あらん。」丁亥、上、宰臣に謂いて曰く、「朕、年来惟だ省約を務めと為し、常膳は止む四五味、已にこれに厭飫す、初め即位せし時に比すれば十に七八を減ず。」宰臣曰く、「天子は自ら制有り、餘人と同じからず。」上曰く、「天子も亦た人耳、枉費して何を用いん。」丙申、上、宰臣に謂いて曰く、「比に河水の泛溢するを聞く、民その害に罹る者は貲産皆な空し。今復た官を彼に遣わして推排せしむ、何ぞや。」右丞張汝霖曰く、「今推排するは皆な災を被らざるの處なり。」上曰く、「必ず鄰道ならん。既に水に鄰りて居る、豈に驚擾遷避する者無からんや。その貲産を計れば、豈に餘有らんや。尚お何ぞ推排を為さん。」又曰く、「平時人を用いるには、宜しく平直を尚ぶべし。軍職に至りては、当に權謀を用い、人をして測り難からしめ、以て事を集むべし。唐の太宗、自ら少年より兵を用いることを能くし、その後帝位に居ると雖も、猶お改むること能わず、瘡を吮い須を剪るは、皆な權謀なり。」

二十七年正月癸卯朔、宋・高麗・夏、使を遣わして来賀す。己酉、襄城令趙渢を以て應奉翰林文字と為す。渢入りて謝す、上、宰臣に問いて曰く、「これは党懷英の薦むる所か。」對えて曰く、「諫議黃久約も亦た嘗てこれを薦む。」上曰く、「學士院は旧に比べて殊に人材無し、何ぞや。」右丞張汝霖曰く、「人材は作養を須う、もし久任練習せしめば、自ら人を得べし。」庚戌、長春宮に如きて春水す。

二月乙亥、都に還る。乙卯、閔宗の廟號を改めて熙宗と曰う。癸未、曲陽縣に命じて錢監を置き、名を「利通」と賜う。乙酉、上、宰執に謂いて曰く、「朕、即位以来、言事者狂妄有りと雖も、未だ嘗てこれを罪せず。卿等未だ嘗て肯て盡言せず、何ぞや。言うべくして言わざるは、是れ相疑うなり。君臣疑うこと無くんば、則ちこれを嘉會と謂う。事利害有らば、誠を竭くしてこれを言うべし。朕、緘默して言わざるの人を見れば、これを觀んと欲せず。」丁亥、河に沿う京・府・州・縣の長貳官に命じ、並びに管勾河防事を帯ぶ。己丑、宰執に諭して曰く、「近侍局の官は須らく忠直練達の人を選びてこれを用うべし。朕、讒言を聽かざると雖も、佞人側に在らしめば、将に恐らくは漸漬してこれに聽從せん。」上、宰執に謂いて曰く、「朕聞く、寶坻尉蒙括末也清廉なりと、その政を為すこと何如。」左丞斡特剌對えて曰く、「その部民も亦たこれを稱譽す、然れども何の事を稱するかを知らず。」上曰く、「凡そ官たる者但だ清廉を得れば亦た可なり、安んぞ全才の人を得ん。官一階を進め、令と為すべし。」又言く、「朕、時或いは體中佳ならずと雖も、未だ嘗て朝を視ざること無し。諸王・查官但だ微疾有れば、便ち事を治めず、今より宜しくこれを戒むべし。」丙申、罪人禁中に在りて疾有る者は、親屬の入りて視ることを聽すと命ず。

三月癸卯朔、萬春節、宋・高麗・夏、使を遣わして来賀す。辛亥、皇太孫、冊を受け、赦す。乙卯、尚書省言く、「孟家山金口閘は下りて都城を視ること百四十餘尺、暴水害を為すを恐れ、これを閉ぜんことを請う。」これに從う。上、大臣に謂いて曰く、「十室の邑も必ず忠信有り。今天下の廣き、人民の衆き、豈に人無からんや。唐の顏真卿・段秀實は皆な節義の臣なり、終に升用せられず、亦た當時の大臣固蔽して挙げざるなり。卿等当に親故を私せずして、特に忠正の人を挙ぐべく、朕将にこれを用いん。」又言く、「國初の風俗は淳儉にて、居家には惟だ布を衣とし、大會賓客に非ざれば、未だ嘗て輒ち羊豕を烹ぜず。朕嘗て當時の節儉の風を念い、妄費せんことを欲せず、凡そ宮中の官と食を賜う者は、皆な常數有り。」

四月丙戌、刑部尚書宗浩を以て參知政事と為す。丙申、上、金蓮川に如く。辛丑、京師地震す。

五月壬子、詔して曷懶路の進める海葱及び太府監の日進する時果を罷む。曰く、「葱・果、用いること幾何ぞ。徒らに人を労するのみ。惟だ上林の諸果は、三日に一たび進むべし」と。庚午、進むる所の御膳の味調適ならざるを以て、旨有りて之を問う。尚食局直長言う、「臣聞く、老母病劇しく、私心憒乱し、魂魄を喪うが如し。此を以て嘗視すること有りて失う。臣の罪万死に当たる」と。上其の孝を嘉し、即ち家に還りて疾に侍らしめ、平愈するを俟ちて乃ち来らしむ。

六月戊寅、中都・河北等路嘗て河決の水災を被りし軍民の租税を免ず。庚辰、太白昼に見ゆ。

七月丙午、太白昼に見え、天を経る。壬子、秋獵す。

八月丙戌、双山子に次ぐ。

九月己亥朔、都に還る。己酉、上宰臣に謂いて曰く、「朕今歳春水の過ぐる所の州県、其の小官多く事を幹くは、蓋し朕前に嘗て賞擢有りし故に、皆勉力す。此を以て見るに、専ら責罰を任するは、賞を用いて激勸するが如くにはあらず」と。河中尹田彥皋等を以て賀宋生日使と為し、武器署令斜卯阿土を夏国生日使と為す。

十月乙亥、宋の前主構殂す。庚辰、祫享を太廟に挙ぐ。庚寅、上宰臣に謂いて曰く、「朕唐史を観るに、惟だ魏征諫を善くし、言う所皆国家の大事、甚だ諫臣の体を得たり。近時台諫は惟だ一二の細碎なる事を指摘し、姑く以て責を塞ぐのみ。未だ嘗て国家の大なる利害に及ぶ者有らず。豈に知りて言わざるか。無乃亦知らざるか」と。宰臣対する無し。

十一月庚戌、左副都点検崇安を以て賀宋正旦使と為す。甲寅、詔す、「河水泛溢し、農夫災を被る者は、差税を一年免ず。衛・懷・孟・鄭四州の河を塞ぐ労役は、並びに今年の差税を免ず」と。庚申、平章政事崇尹致仕す。甲子、上宰臣に謂いて曰く、「卿等老いたり。殊に自ら代わるべき者無きか。必ず朕の知るを待ちて後進むるか」と。右丞張汝霖を顧みて曰く、「右丞の若き者は亦石丞相の言う所なり」と。平章政事襄及び汝霖対えて曰く、「臣等苟くも知る所あらば、豈に敢えて言わざらんや。但だ人無きのみ」と。上曰く、「春秋諸国分裂し、土地褊小なりと雖も、皆賢有りと称す。卿等挙げざるのみ。今朕自ら勉め、庶幾く治を致さん。他日子孫、誰か与に治を共にせん」と。宰臣皆慚色有り。

十二月庚午、翰林待制趙可を以て高麗生日使と為す。丁丑、近郊に獵す。壬午、宋使いを遣わして哀を告ぐ。甲申、上宰臣に諭して曰く、「人皆道を奉じ仏を崇め斎を設け経を読むを以て福と為す。朕百姓に冤無からしめ、天下安楽ならしむるは、彼に勝らざらんや。爾等輔相の任に居り、誠に能く国家を匡益し、百姓をして利を蒙らしむれば、惟だ身其の報を享くるのみならず、亦将に子孫に施及せん」と。左丞斡特剌曰く、「臣等敢えて尽くせざらんや。第に才逮わず、職に称せざるのみ」と。上曰く、「人亦安んぞ能く毎事尽く善くせん。但だ勉励を加うるべし」と。戊子、女直人漢姓を改称し、南人の衣装を学ぶことを得ざるを禁じ、犯す者は罪に抵る。

二十八年正月丁酉朔、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。癸卯、宣徽使蒲察克忠を遣わして宋弔祭使と為す。甲辰、春水に如く。

二月乙亥、都に還る。乙丑、宋使いを遣わして先帝遺留物を献ず。癸巳、宋使朝辞す。献ずる所の礼物中の玉器五、玻璃器二十、及び弓剣の属を以て使いをして還りて宋に遺わしめ、曰く、「此れ皆爾が国の前主珍玩の物、宝蔵すべき所、以て追慕を忘れざらしむ。今之を受くるは、義に忍びざる有り。帰りて爾が主に告げ、朕が意を知らしめよ」と。

三月丁酉朔、万春節、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。慶和殿に御し群臣の朝を受け、復た神龍殿に宴す。諸王・公主次を以て觴を捧げて寿を上ぐ。上甚だ歓び、本国の音を以て自ら曲を度す。蓋し臨禦久しく、春秋高く、渺然として国家基緒の重きを思い、万世窮り無きの托を言う。以て皇太孫を戒め、当に身を修め徳を養い、善く持守すべく、及び命ずるに太尉・左丞相克寧に尽く忠輔導の意を。ここに於いて、上自ら之を歌い、皇太孫及び克寧之に和す。極めて歓びて罷む。戊申、命ず、随朝の六品・外路の五品以上の職事官に、進士已に仕に在り、才翰苑に居るべき者を挙げしめ、詔制等の文字三道を試み、文理優贍なる者を取って学士院の職任を補充せしむ。部に赴き仕を求むる人に応じ、老病昏昧なる者は、勒して致仕せしめ、半俸のみ給し、更に官を遷さず。甲寅、寿安宮に幸す。

四月癸酉、命ず、外任の小官及び繁難の局分の承応人の俸を増す。丁丑、陝西路統軍使孛朮魯阿魯罕を以て参知政事と為す。癸未、命ず、女直大学を建つ。

五月丙午、制す、諸教授は必ず宿儒高才の者を以て充て、俸を丞簿等に与う。戊申、宋使来たりて弔祭を謝す。

七月辛亥、尚書左丞粘割斡特剌罷む。

八月甲子朔、日食有り。辛未、都に還る。庚辰、上宰臣に謂いて曰く、「近く聞く、烏底改順服せざるの意有りと。若し使いを遣わして責問せば、彼或いは抵捍して遜らず、則ち边境の事已むべからざる者有らん。朕嘗て之を思うに、遠人を抬徠するは、国家に於いて殊に益する所無し。彼来らば則ち之を聴き、来らざれば則ち強いて其の来るを勿れ。此れ前世羈縻の長策なり」と。参知政事孛朮魯阿魯罕罷む。壬午、山東路統軍使完顏婆盧火を以て参知政事と為す。甲申、上宰臣に謂いて曰く、「人を用うるの道は、当に其の壮年心力精強なる時に之を用うべし。若し資格を以て拘すれば、則ち往々にして耄老に至る。此れ甚だ思わざるなり。阿魯罕使其を早く用いば、朝廷必ず補助の力を得べかりしを、惜しむらくは其の已に衰老せり。凡そ用うべきの材有らば、汝等宜しく早く之を思うべし」と。

九月甲午朔、鷹坊使崇夔を以て夏国生日使と為す。丙申、安武軍節度使王克温等を以て賀宋生日使と為す。乙亥、秋獵す。乙卯、都に還る。

十月乙丑、京・府及び節度州に流泉務を増置し、凡そ二十八所。糠禅・瓢禅を禁じ、其の停止の家は罪に抵る。乙酉、尚書省奏して除授を擬し而して資格を以て拘す。上曰く「日月資考は以て庸常の人を待つ所以なり、若し才行人に過ぎば、豈に常例を以て拘すべけんや。国家の事務は皆人を得るを須ふ、汝等才に随ひ委使せず、所以に事多く治まらず。朕固より用人之術を知らず、汝等務めて資に循ひ格を守り、才能を進用するを思はざるは、豈に才能見用せられ、将に己が禄位を奪はんとするを以てか。然らずんば、是れ人の明を知らざるなり。」群臣皆曰く「臣等豈に賢を蔽はんや、才識及ばざるのみ。」上顧みて右丞張汝霖に謂ひて曰く「前世忠言の臣何ぞ多き、今日何ぞ少きや。」汝霖対へて曰く「世乱るれば則ち忠言進み、承平なれば則ち忠言施す所無し。」上曰く「何の代にか言ふ可き事無からん、但だ古人は知る所を言はずと云ふ無く、今人は肯て言はざるのみ。」汝霖対ふること能はず。

十一月戊戌、熙陵を改葬するを以て、詔して中外にす。上侍臣に謂ひて曰く「凡そ身を修むる者は、喜怒太極す可からず、怒極まれば則ち心労し、喜極まれば則ち気散ず、中を得ること甚だ難し、是の故に其の喜怒を節し、以て身を安んずるを思ふ。今宮中一年未だ嘗て人を責罰せず。」庚子、太白昼に見ゆ。詔して南京・大名府等の処に避水逃移して復業すること能はざる者、官に津済銭を与へ、仍地の頃畝を量りて耕牛を以て給す。甲辰、河中尹田彦皋等を以て賀宋正旦使と為す。戊申、上宰臣に謂ひて曰く「制条は旧律に拘せられ、間に難解の辞有り。夫れ法律は歴代損益して之を為す、彼智慮及ばずして本意に乖違する者有らば、若し刪正を行ひ、衆をして易く暁らしむるに、何ぞ不可ならん。宜しく之を修め、務めて明白ならしむべし。」有司奏して上京御容殿を重修す。上宰臣に謂ひて曰く「宮殿の制度、苟くも華飾を務むれば、必ず堅固ならず。今仁政殿は遼の時に建つ、全く華飾無く、但だ他処は歳々修完するを見るに、惟此の殿は旧の如し、此を以て虚華実無き者は、久しきを経ること能はざるを見るなり。今土木の工、滅裂尤も甚だしく、下は則ち吏と工匠相結びて奸を為し、工物を侵克し、上は則ち戸工部官銭を支ひ材を度り、惟苟くも弁ずるを務む、至ては工役纔に畢りて、随ひて欹漏する者有り、奸弊苟且、民を労し財を費す、此に甚しきは莫し。今より体究し、重く以て罪に抵すべし。」庚戌、上宰臣に謂ひて曰く「朕近く《漢書かんじょ》を読み、光武の為す所を見るに、人の難く能ふ所なる者有り。更始既に其の兄伯升を害す、乱離の際に当りて、怨を報ふるを思はず、更始に事へること平日の如く、人戚容を見ず、豈に人の難く能ふ所に非ずや。此其の度量蓋し将に大いに為す有らんとするなり、其他の庸主豈に及ぶべけんや。」右丞張汝霖曰く「湖陽公主の奴人を殺し、主の車中に匿る。洛陽らくよう令董宣車中より奴を曳き下し、之を殺す。主人奏す、光武宣を殺さんと欲す、及び宣の言を聞き、意遂に解け、宣をして主に謝せしむ。宣詔に奉ぜず。主言を以て光武を激怒せしむ、光武但だ笑ふのみ、更に宣に銭三十万を賜ふ。」上曰く「光武直言を聞きて怒解く、賢主と謂ふ可し。宣をして主に謝せしむるは、則ち非なり。高祖こうそ英雄大度、豪傑を駕馭し、布衣より起り、数年にして帝業を成す、光武の及ぶ所に非ず、然れども帝位に即くに及び、猶ほ布衣粗豪の気有り、光武の為さざる所なり。」癸丑、太尉克寧の第に幸す。

十二月丙寅、大理正移剌彦拱を以て高麗生日使と為す。乙亥、上豫せず。庚辰、天下を赦す。乙酉、詔して皇太孫景に政を摂せしめ、慶和殿東廡に居らしむ。丙戌、太尉・左丞相徒単克寧を以て太尉兼尚書令と為し、平章政事襄を尚書右相と為し、右丞張汝霖を平章政事と為す。参知政事完顔婆盧火罷め、戸部尚書劉暐を以て参知政事と為す。戊子、詔して尚書令徒単克寧・右丞相相襄・平章政事張汝霖に内殿に宿らしむ。

二十九年正月壬辰朔、上大いに漸く、朝を視ること能はず。詔して宋高麗・夏の賀正旦使を遣はして還らしむ。癸巳、上福安殿に崩ず、寿六十七。皇太孫即ち皇帝位に即く。己亥、大安殿に殯す。三月辛卯朔、上尊諡して曰く光天興運文徳武功聖明仁孝皇帝、廟号世宗。四月乙酉、興陵に葬る。

賛に曰く、世宗の立つ、勧進に由るとは雖も、然れども天命人心の帰する所、古の聖賢の君と雖も、亦辞すること能はざるなり。蓋し太祖以来、海内兵を用ひ、寧歳幾ばくも無し。重ねて海陵の無道を以てし、賦役繁興し、盗賊野に満ち、兵甲並び起り、万姓盼盼として、国内騒然たり、老は留養の丁無く、幼は顧複の愛無く、顛危愁困し、朝夕を待つ。世宗久しく外郡を典とし、禍乱の故を明らかにし、吏治の得失を知る。即位五載にして南北好を講じ、民と休息す。是に於て躬倹約を節し、孝弟を崇め、賞罰を信じ、農桑を重んじ、守令の選を慎み、廉察の責を厳にし、任得敬の分国の請を却け、趙位寵の郡県の献を拒ぎ、孳孳として治を為し、夜を以て日に継ぐ、君たるの道を得たりと謂ふ可し。此の時に当りて、群臣職を守り、上下相安んじ、家給し人足り、倉廩余り有り、刑部歳に死罪を断つこと、或は十七人、或は二十人、『小堯舜』と号す、此其の効験なり。然れども賢を挙ぐるの急、言を求むるの切、訓辞に絶ゆること無く、而して群臣安きを偸み禄を苟くし、能く其の美を将順して以て大順に底ること無し、惜しい哉。