二月壬寅の日、上は諸王府の長史を召して諭して言う、「朕が汝らを選ぶは、正に諸王を勧導して、之をして善を為さしめんと欲するなり。もし諸王の為すところに未だ善からざる有らば、当に力を尽くして之を陳ぶべし。尚おもし従わざれば、則ち某日某の事を行うを具して奏すべし。もし意を阿えて言わざれば、朕は汝の罪を問わん」と。丙午の日、尚書省奏す、廉察して同知城陽軍事山和尚等の清強の官に到る。上曰く、「此の輩は暗察明訪に皆政声著し。其の政績を第して、各官を進め旌賞すべし。速やかに議して升除せよ」と。庚戌の日、上は順州の春水に行幸す。癸丑の日、都に還る。丙辰の日、詔す、「今より官長不法なるも、其の僚佐糾正すること能わず又上に言わざる者は、並びに之を坐すべし」と。戸部尚書高徳基は朝官の俸銭四十万貫を濫りに支ふ。杖八十。
三月己巳の朔日、万春節、宋・高麗・夏が使者を遣わして来朝し賀した。乙亥の日、尚書省に詔す、「贓汚の官は、已に廉問せられ、もし旧職のままならば、必ず復た民を害せん。使者を諸道に遣わし、即日に之を罷めよ」と。丁丑の日、詔して宿直将軍烏古論思列を遣わし、王皓を冊封して高麗国王とす。庚寅の日、土雨ふる。癸巳の日、前西北路招討使移剌道を以て参知政事とす。回紇、使者を遣わして来貢す。丁酉の日、北京の曹貴等謀反す。伏誅。
四月、旱魃す。癸卯の日、尚書右丞孟浩罷免さる。丁巳の日、西北路の納合七斤等謀反す。伏誅。癸亥の日、久旱を以て、祠を命じて山川に鑄す。宰臣に詔して言う、「諸府の少尹多く闕員なり。当に進士を選ぶに、資敘未だ至らざれども政声有る者を擢用すべし」と。宿直将軍唐括阿忽里を以て横賜夏国使とす。乙丑の日、大名尹荊王文、贓罪を以て王爵を奪われ、降授して德州防禦使とす。回紇、使を遣わして来貢す。丙寅の日、尚書右丞相紇石烈志寧薨ず。丁卯の日、宋・高麗、使者を遣わして尊号を賀す。阻珝来貢す。
五月癸酉の日、上は百花川に行幸す。甲戌の日、山東東路胡剌温猛安の民の饑を賑わすことを命ず。丁丑の日、阻居に次す。久旱して雨ふる。戊寅の日、稼を観る。扈従の民田を蹂躙するを禁ず。百官及び承応人の純黄油衣を服することを得ざるを禁ず。癸未の日、宰臣に諭して言う、「朕毎に次舍するに凡そ秣馬の具は皆民間に仮る。多く亡失して其の主に還さず。此れは弾圧官の職に在らざるなり。人を択びて之に代うべし。過ぐる所即ち令して詢問せしめ、但だ民間の什物を亡失するは、並びに其の直を償うべし」と。乙酉の日、詔して西北路の人戸に牛を給す。
六月甲寅の日、金蓮川に行幸す。
九月丙子の日、金蓮川より至る。辛巳の日、右副都点検来穀清臣等を以て賀宋生日使とし、右衛将軍粘割斡特剌を夏国生日使とす。丁亥の日、太白昼見す。日前に在り。鄜州の李方等謀反す。伏誅。
十月、高麗国王王皓、使者を遣わして封冊を謝す。乙未の日、故右丞相紇石烈志寧の喪に臨奠す。志寧の妻永安県主、鎧甲・弓矢・鷹鶻・重彩を進む。壬子の日、皇太子及び趙王永中を召して上殿せしめ、上顧みて宰臣に謂いて言う、「京(永中)嘗て逆を図る。今之を除かざれば、後患と為るを恐る」と。又曰く、「天下の大器は有徳に帰す。海陵失道す。朕乃ち之を得たり。但だ徳を修めるを務む。余何ぞ慮うるに足らん」と。皇太子及び永中皆曰く、「誠に聖訓の如し」と。遂に之を釈す。丙辰の日、德州防禦使文の貲産を以て其の兄の子咬住に賜い、且つ其の母に諭して言う、「文の罪は、汝等皆当に連坐すべし。宋王の国に大功有るを念い、故に問わずに置き、仍って家産を汝が子に賜う」と。
十一月甲戌の日、上、宰臣に謂いて言う、「宗室の中に官事に任じざる者有り。もし恩沢を加えざれば、親親の道に於いて、未だ弘からざる所有らん。朕散官を授け、量りて廩祿を与えんと欲す。前代如何なるかを知らず」と。左丞石琚曰く、「陶唐の九族を親しみ、周家の内に九族を睦ますは、『詩』『書』に見ゆ。皆帝王の美事なり」と。丙子の日、上、曹国公主の家奴の事を犯すを以て、宛平県令劉彦弼之を杖す。主乃ち令を折辱す。既に深く公主を責め、又以て台臣勢に徇い安きを偷み、畏忌して敢えて言わざるを、俸を奪うこと一月。陝西統軍使璋を以て御史大夫とす。戸部尚書曹望之を以て賀宋正旦使とす。壬午の日、同州の民屈立等謀反す。伏誅。戊子の日、上侍臣を屏し、宰臣と事を議す。記注官も亦退く。上曰く、「史官は人君の善悪を記す。朕の言動及び卿等と議する所は、皆当に知らしむべし。其の記録に於いて隠すこと有ること無からしむべし。朕が意を以て之に諭すべし」と。
十二月乙未の朔日、済南尹劉萼の定武軍に在りて貪墨不道なるを以て、大理少卿張九思に命じて之を鞫わしむ。丁酉の日、詔して官及び護衛二十人を遣わし、路を分かち年二十以上四十以下にて門地才行及び善射する者を選び、護衛に充てしむ。百人を過ぐるを得ず。冀州の王瓊等謀反す。伏誅。德州防禦使文、謀反を以て伏誅。辛丑の日、宮女二十余人を出す。己酉の日、枢密副使移剌成罷免さる。辛亥の日、審録官の宴飲を以て公務を廃するを禁ず。詔す、金・銀の坑冶は民に開採を聴す。税を収むるを得ず。癸丑の日、近郊に猟す。殿前都点検徒単克寧を以て枢密副使とす。己未の日、詔す、今より除名の人の子孫に在仕する者有らば並びに取りて奏裁すべし。
閏月壬子の日、太子詹事に詔して言う、「東宮の官属は尤も正人を選用すべし。もし行檢修まらず及び職に称せざる者は、名を具して聞かしむべし」と。辛酉の日、太白昼見す。洛陽県の賊、衆を聚めて盧氏県を攻め、県令李庭才を殺し、亡びて宋に入る。
三月癸巳朔、萬春節、宋・高麗・夏が使者を遣わして来賀す。乙卯、上宰臣に謂ひて曰く、「會寧は乃ち國家興王の地なり、海陵遷都永安より此れ、女直人舊風を浸く忘る。朕時に嘗て女直風俗を見る、今に至るも忘れず。今の燕飲音樂は、皆漢風を習ふ、蓋し禮を備ふるを以てするなり、朕が心の好む所に非ず。東宮女直風俗を知らず、第に朕が故を以て、猶ほ尚ほ之を存す。恐らくは異時に一たび此の風を變ぜん、長久之計に非ず。甚だ會寧に一至し、子孫をして舊俗を見しめ、庶幾くは之を習效せしめんと欲す」と。太子詹事劉仲誨、東宮の牧人及び張設を増すを請ふ、上曰く、「東宮諸司局の人自ら常數有り、張設已に具はれり、尚ほ何をか增益せん。太子富貴に生れ、侈に入り易し、惟だ淳儉を以て導くべし。朕即位より以來、服禦器物、往々舊に仍る、卿此の意を以て之を諭せ」と。
四月己巳、出繼子の繼ぐ所の財產本家に及ばざる者を定め、繼ぐ所と本家の財產を通數し均分する制とす。有司の言に依り、特けに洺州の孝子劉政を授けて太子掌飲丞とす。乙亥、上睿思殿に御し、歌者を命じて女直詞を歌はしむ。皇太子及び諸王を顧みて曰く、「朕先朝の行ひし事を思ふ、未だ嘗て暫くも忘れず、故に時に此の詞を聽く、亦た汝輩をして之を知らしめんと欲するなり。汝輩幼より惟だ漢人の風俗を習ひ、女直純實の風を知らず、文字言語に至りては、或は通曉せず、是れ本を忘るるなり。汝輩當に朕が意を體すべく、子孫に至るまで、亦た朕が教誡に遵ふべし」と。辛巳、盜みて宗廟の祭物を取る法を更めて定む。
五月壬辰朔、日食有り。戊戌、女直人漢姓に譯すことを得ざるを禁ず。壬寅、真定尹孟浩薨ず。甲辰、尚書省奏す、鄧州民範三人を毆ち殺し、死に當る、而して親老くして侍ふ者無し。上曰く、「醜に在りて爭はざる之を孝と謂ふ、孝して然る後に能く養ふ。斯の人一朝の忿を以て其身を忘れ、而して親に事ふるの心有らんや?法の如く論ずべし、其の親は、官之を養濟すべし」と。六月、樞密使完顏思敬薨ず。
七月庚子、復た會寧府を以て上京とす。庚戌、歲課の雉尾を罷む。
八月丁卯、判大興尹趙王永中を以て樞密使とす。詔して諸猛安謀克の廉能三等の官に賞を賜ふ。己卯、御史大夫璋罷む。丙戌、左副都點檢襄等を以て賀宋生日使とす。丁亥、秋獵す。
九月辛卯朔、宿直將軍胡什賚を以て夏國生日使とす。辛亥、都に還る。大名府僧李智究等謀反し、誅に伏す。
十月乙丑、歲星晝に見ゆ。丙子、前南京留守唐括安禮を以て尚書右丞とす。
十一月、大興尹璋を以て賀宋正旦使とし、引進使大洞を以て高麗生日使とす。上宰臣に謂ひて曰く、「外路の正五品職事多く闕員有り、何ぞや?」と。太尉李石對へて曰く、「資考少くして及ぶ者有り」と。上曰く、「苟くも賢能有らば、當に次を不にして之を用ふべし」と。壬子、吏部尚書梁肅、奴婢の羅綺を服するを禁ずるを請ふ。上曰く、「近く已に其の明金を服するを禁ず。之を行ふに漸を以てすべし。且つ教化の行はるるは、當に貴近より始むべし。朕が宮中の服禦、常に自ら節約し、舊き明金を服する者は、已に大半を減ず!近く民間の風俗、正隆の時に比し稍く淳儉を聞く、卿等當に更に務めて儉素に從ひ、民をして效ふ所を知らしむべし」と。
十四年正月己丑朔、宋・高麗・夏が使者を遣わして来賀す。
二月壬戌、大興尹璋宋に使して罪有るを以て、杖百五十、名を除き、仍て受けたる禮物を官に入る。丙寅、刑部尚書梁肅等を以て宋詳問使とす。庚午、太尉・尚書令李石を以て太保とし、致仕せしむ。戊寅、詔して去年水旱に被れる百姓の租稅を免ず。
三月戊子朔、萬春節、宋・高麗・夏が使者を遣わして来賀す。甲午、上大臣に謂ひて曰く、「海陵純に吏事を尚ぶ、當時の宰執止だ案牘を以て功とす。卿等當に經濟の術を思ふべく、故常に狃るる可からず」と。又詔して曰く、「猛安謀克の民、今後生を殺し祈祭するを許さず。若し節辰及び祭天の日に遇はば、會飲するを得しむ。二月一日より八月の終に至るまで、並びに飲燕を禁絕し、亦た會する他所に赴くを許さず、農功を妨ぐるを恐るるなり。閑月と雖も亦た痛飲を許さず、犯す者は罪に抵る。遍く之を諭すべし」と。又命じて曰く、「應に衛士に女直語に閑ならざる者有らば、並びに勒して習學せしめ、仍て自ら後漢語するを得ざらしむ」と。辛丑、太白・歲星晝に見ゆ。甲辰、上名を雍と更め、中外に詔す。丙辰、太白・歲星晝に見え、天を經る。
四月乙丑、上宰臣に諭して曰く、「愚民の祈福を聞く、多く佛寺を建つ、已に條禁すと雖も、尚ほ犯す者多し、宜しく約束を申し、徒に財用を費すことを令むる無かれ」と。戊辰、事有りて太廟に於て、皇太子を以て事を攝り行はしむ。乙亥、勸農副使完顏蒲涅を以て橫賜高麗使とす。上垂拱殿に御し、皇太子及び親王を顧みて曰く、「人の行ひ、孝弟より大なるは莫し、孝弟天日の佑を蒙らざる無し。汝等宜しく父母に孝を盡し、兄弟に友すべし。自古兄弟の際、多く妻妾の離間に因り、以て相違するに至る。且つ妻は乃ち外屬なる耳、兄弟の親に比すべけんや?若し妻の言是に聽き、而して兄弟相違せば、甚だ理に非ず。汝等當に朕が言を以て常に心に銘すべし」と。戊子、樞密副使徒單克寧を以て大興尹を兼ねしむ。
五月丙戌朔、詳問使梁肅等宋より還る。甲午、金蓮川に如く。
六月乙未、太白晝に見ゆ。
八月丁巳、糺裏舌に次す。日中、白龍禦帳東の小港の中に見え、須臾にして、雲雷に乘じて去る。癸亥、彌離補に獵す。己卯、太白晝に見ゆ。
九月丁亥、都に還る。乙未、兵部尚書完顔譲らを賀宋生日使とし、宿直将軍崇粛を夏国生日使とする。癸卯、上朝を退き、侍臣に謂いて曰く、「朕自ら潜邸に在り及び践祚より以て今に至るまで、親属旧知に於いて未だ嘗て心を欺き徇うこと有らず。近く御史台奏す、枢密使永中嘗て書を河南統軍使完顔仲に致し、売買を托すと。朕知りて而も問わず。朕の心を欺くは、此の一事のみ、夙夜之を思い、其れ疾有るが如し」と。己酉、宋使いを遣わし聘に報ず。
十月乙卯朔、功臣二十人の図画を衍慶宮聖武殿の左右廡にせんことを詔す。
十一月甲申朔、日食有り。丙申、御史中丞劉仲誨らを賀宋正旦使とする。戊戌、尚食局使を召し、之に諭して曰く、「太官の食は、皆民の脂膏なり。日来品味太多く、遍く挙ぐべからず、徒らに虚費と為すのみ。今よりより只だ可口なる者数品を進めるのみ」と。戊申、儀鸞局使曹士元を高麗生日使とする。
十二月戊寅、平章政事完顔守道を右丞相とし、枢密副使徒単克寧を平章政事とする。
十五年正月。此より下闕。
七月丙午、粘抜恩其の部の康裏孛古等と内附す。
九月戊子、金蓮川より至る。辛卯、高麗西京留守趙位寵其の君に叛き、慈悲嶺以西、鴨淥江以東四十余城を以て内附せんことを請う、納れず。丙申、新宮に幸す。
閏月己酉朔、応に禁ずべき弓箭槍刀の路分に於ける品官家奴客旅等の弓箭を帯ぶるを許す制を定む。上左丞相良弼に謂いて曰く、「今の官に在る者は、須らく職位其の望む所に称して愜い、然る後に始めて勉力を加う。其の或いは稍不如意ならば、則ち只だ日を度るを務めとす、是れ豈に忠臣の道ならんや」と。丁巳、又た良弼に謂いて曰く、「海陵の時、領省秉德・左丞相言皆能名有り、然れども政を為すに遠図を務めず、只だ苛刻を以て事とす。言及び可喜等会寧に在りし時、一月の間、杖して之を殺す者二十人、罪皆死に至らざるに、理に於いて可ならんや。海陵人の為り虎の如し、此の輩尚お術数を以て之に要せんと欲し、以て直を売り死を取るに至る、能と為すを得んや」と。己未、帰徳尹完顔王祥らを賀宋生日使とし、符宝郎斜卯和尚を夏国生日使とする。辛酉、高麗国王趙位寵誅せられたるを奏告す、詔して慰答す。詔して親王・百官の傔人の服する紅紫を黒紫に改む。甲戌、詔して年老の人の県令に注せしむること毋れ。年老にして政に任ずるは、其の佐も亦た壮なる者を択び参用せよ。
十月乙卯、冬狩す。丁未、都に還る。
十一月乙卯、上東宮に幸す。初め、唐古部族節度使移剌毛得の子其の妻を殺して逃ぐ、上命を下し之を捕えしむ。是に至り、皇姑梁国公主之を赦さんことを請う。上宰臣に謂いて曰く、「公主婦人、典法を識らず、罪尚お恕すべし。毛得請托此に至る、豈に貸宥すべけんや」と。許さず。戊午、右宣征使靖らを賀宋正旦使とする。甲子、太白昼見ゆ。戊辰、宿直将軍阿典蒲魯虎を高麗生日使とする。
十六年正月戊申朔、宋・高麗・夏使いを遣わし来賀す。甲寅、詔して去年水・旱の路分の租税を免ず。甲子、詔して宗属未だ玉牒に附せざる者並びに編次せしむ。丙寅、上親王・宰執・従官と従容として古今興廃の事を論じ、曰く、「経籍の興る、其の来久し、後世に教を垂る、尽く善からざる無し。今の学者は、既に之を誦する能く、須らく之を行わざるべからず。然れども知りて而も行う能わざる者多し、苟も行う能わずんば、之を誦する何の益かあらん。女直の旧風最も純直、書を知らざるといえども、然れども其の天地を祭り、親戚を敬い、耆老を尊び、賓客を接し、朋友を信ずる、礼意款曲、皆自然に出づ、其の善きこと古書の載する所と異ならず。汝輩当に之を習学すべく、旧風忘るべからず」と。戊辰、宮中火災有り。庚午、上鷹を高橋に按ず、道側に酔人驢に堕ちて臥するを見、左右を命じ扶けて之に乗せ、其の家に送らしむ。辛未、皇姑上を私第に邀え、諸妃皆従い、宴飲甚だ歓し。公主毎に酒を進むるに、上立ちて之を飲む。
二月庚寅、皇子豳王妃徒単氏奸を以て、誅せらる。己亥、平章政事単克寧罷む、女の故を以て。
四月丙戌、詔して京府に学を設け士を養わしめ、及び宗室・宰相の子の程試等第を定む。戊子、制して商賈の舟車馬を用うるを得ざらしむ。東京留守崇尹を枢密副使とする。壬寅、金蓮川に如く。
五月戊申、南京宮殿火災有り。甲寅、太白昼見ゆ。庚申、使いを遣わし静寧山神に雨を祷る、有りて間も無くして雨ふる。
六月、山東の両路に蝗害あり。
七月壬子、夏津県令移剌山往、贓罪に坐し、誅せらる。
八月辛巳、霹靂濼に駐蹕す。
九月乙巳、金蓮川より還幸す。己酉、左丞相紇石烈良弼に諭して曰く、「西辺は元来蓄積を備えず、その所在に和糴を行わしめ、緩急の備えとせよ」と。癸丑、殿前都点検蒲察通らを賀宋生日使とし、宿直将軍完顔覿古速を夏国生日使とす。左丞相良弼に諭して曰く、「海陵は理を外れて臣下を殺戮し、甚だ哀憫に堪えぬ。その孛論出らの遺骸は、仰せにより各所で訪求し、官をもって収葬せよ」と。辛酉、南京の宮殿の火災により、留守・転運の両司皆罪に当たる。
十月丙申、宰執に詔して諭して曰く、「諸王の小字は未だ嘗て女直語をもって命ぜず、今皆改易すべし。卿らは名を選びて上奏せよ」と。
十一月壬寅朔、参知政事王蔚罷免さる。尚書省奏す、河北東路胡剌温猛安の管轄する謀克孛朮魯舍廝、謀克の職をその兄の子蒲速列に譲る。上、賢としてこれに従い、なお舍廝に恩賞を加えることを議せしむ。戊午、同知宣徽院事劉珫らを賀宋正旦使とす。庚申、吏部尚書張汝弼を参知政事とす。甲子、粘割韓奴の子詳古を尚輦局直長とし、婁室を武器直長とす。初め、韓奴は旨を奉じて契丹の大石を招くも、後に行方知れず、至るに粘抜恩部長撒裏雅寅特斯らの来朝により、その死節の詳細を問い知り、故にその後を録す。兵部郎中移剌子元を高麗生日使として遣わす。
十七年正月壬寅朔、宋・高麗・夏、使いを遣わして来賀す。高麗は併せて趙位寵を納れざることを表謝す。丙午、有司奏す、高麗の進むる玉帯は石の玉に似たるものなり。上曰く、「小国に能く弁識する者なく、誤って玉と為すのみ。且つ人は物を易えず、ただその物の徳を思う。若し復たこれを退けば、豈に礼体たるべけんや」と。戊申、詔して衍慶宮聖武殿の西に世祖の神禦殿を建て、東に太宗・睿宗の神禦殿を建てよ。詔して西北路招討司の契丹民戸、その嘗て叛乱をなしたる者は既に措置を行い、その叛乱に与せず及び放良奴隸は烏古裏石壘部に移徙せしめ、春の耕作に及ばしめよ。尚書省奏す、吾都碗部の体土胡魯雅裏密斯、入献を請う、これを許す。庚戌、詔して諸大臣の家で功臣号を請うべき者は、既にその子孫の自陳を許さず、吏部考功郎はその労績を詳かに考へ、号を賜うべき者は、即ち以て聞かしめよ。壬子、上、宰臣に謂ひて曰く、「宗室の中、年高き者は、往々にして官称未だ有らず。その先は皆国に功有り。朕は稍々官を加へ、名位を称すべき有らしめんと欲す、如何」と。対へて曰く、「親を親しみ功に報ゆるは、先王の令則なり」と。丁巳、詔して朝官の嫁娶には三日の給假を与へ、申告を須ひず。壬戌、宰臣に詔す、「海陵の時、大臣の辜なく戮せられ家産を籍没されたる者は、並びに良民に釈放せよ。遼の豫王・宋の天水郡王の害せられたる子孫は、各々広寧・河南の旧塋に葬れ」と。その後復た詔す、「天水郡王の親属は都の北に安葬する外、咸平に寄せし骨殖は、官をもって本処に葬る。遼豫王の親属で未だ本塋に入らざる者も、亦遷して祔葬せよ」と。
三月辛丑朔、宋・高麗・夏、使いを遣わして来賀す。辛亥、詔して河北・山東・陝西・河東・西京・遼東等十路の去年旱魃・蝗害に遭ひし租税を免ず。東京・婆速・曷速館の三路を賑恤す。乙丑、尚書省奏す、三路の粟、周給し能はず。上曰く、「朕は嘗て卿らに語りしこと有り、豊年に遇へば即ち広く糴して凶歉に備へよと。卿ら皆言ふ、天下の倉廩盈溢すと。今賑済せんと欲するに、乃ち給せずと云ふ。古より帝王は皆蓄積を以て国家の長計と為す。朕の積粟は、豈に独り之を用ひんと欲するや?今既に給せず、隣道に取りて以て済はしむべし。今より予備は、当に以て常と為すべし」と。
四月甲戌、制す、世襲の猛安謀克もし出仕する者は、年未だ六十に及ばずとも、子孫に襲はしめんと欲するは、聴せよ。戊寅、宰臣に諭して曰く、「郡県の官は罪に因り解任せられたりと雖も、一二歳の後は、亦須く再用すべし。猛安謀克は皆太祖創業の際に国に勤労功有るの人なり。その世襲の官は、小罪を以て奪免すべからず」と。戊子、滕王府長史徒単烏者を横賜高麗使とす。
五月、尚書省奏す、皇家の袒免以上の親の燕饗の班次を定め、並びに唐の制に従ふ。癸卯、姚村澱に幸し、七品以下の官及び宗室の子・諸局の承応人の射柳を閲し、賞に差有り。
六月乙卯、宰臣に謂ひて曰く、「朕は年老いたり。恐らくは一時の喜怒に因り、処置に当らざる所あらん。卿らは即ち当に執奏すべく、面従して朕の失を成すことなかれ」と。乙未、英王爽の子思列を忠順軍節度副使とす。爽入謝す。上曰く、「朕は卿の疾の故に、特に卿の子を任ず。冀ふらくは卿喜びに因りて愈ゆるを。即ち峻授を加へんと欲するも、思列の年幼く、未だ政事に閑ならざるを恐る。汝は当にこれを訓へ、善く観るべき有らしめよ、更に当に升擢せん」と。
七月壬子、尚書省奏す、歳に羊三万を以て西北路の戍兵に賜ふ。上、如何にして運致すべきかを問ふ、宰臣対ふる能はず。上曰く、「朕は退朝すと雖も、凡そ政務を留め、安寧に遑あらず。卿らは細事を帝王の問ふべきに非ずと謂ふことなかれ。卿らの国家の事に未だ嘗て心を用ひざるを以て、故に之を問ふのみ」と。是の月、大雨、河決す。
八月己巳、近郊にて稼を観る。壬申、監察御史が東北路の官吏を体察し、輒く訟牒を受くるは、職に称せざるを以て、之を笞くこと五十。庚辰、上、宰臣に謂ひて曰く、「今の官に在る者は、同僚の見る所、事理に当ると雖も、必ず非と為し、意はこれに従へば則ち人に政己より出でずと謂はるるを恐るるなり。此の如き者多し、朕甚だ取らざる所なり。今大理寺の断ずる所を観るに、制に正条有ると雖も、理として行ふ能はざるは別に情見を具す。朕は唯その長を取りるのみ。人の理を為すは、他人の善き者に従へば、則ち善きと謂ふべし」と。壬午、上、宰臣に謂ひて曰く、「今下僚に豈に人材無からんや。但だ上に在る者が汲引せず、その材己に勝るを悪む故のみ」と。丙戌、上、御史中丞紇石烈邈に謂ひて曰く、「台臣は吏治の能ふと能はざるとを糾察し、務めてその民を擾すを去り、且つその賢を得んことを冀ふ。今至る所輒く訟牒を受け、その妄告を聴くは、政を為す者をして如何にせば則ち可ならしめんや」と。
九月丁酉朔、日に食あり。辛丑、子の永徳を薛王に封ず。右副都点検完顔習尼烈らを以て賀宋生日使と為す。癸卯、兵部郎中石抹忽土を以て夏国生日使と為す。戊申、秋獵す。庚戌、歳星・熒惑・太白尾に聚まる。甲子、都に還る。
十月己巳、夏国百頭帳を進む。詔して境上に却けしむ。癸酉、有司奏す「衍慶宮に画ける功臣二十人、惟だ五人のみ諡有り。今余十五人の功状を考検し、諡号を擬定して進む」と。詔して可とす。詔して羊十万を以て烏古裏石壘部に付し畜牧せしめ、其の滋息を以て貧民に与う。丁丑、諸猛安に制す、父別職に任ずれば、子は須らく年二十五以上にして方に承襲を許すべし。辛巳、上宰臣に謂いて曰く「今在位の者賢を薦ぐるを聞かず、何ぞや。昔狄仁傑下僚より起り、力を唐の祚に扶け、既に危きを安んじ、数百年の永きを延ばす。仁傑賢と雖も、婁師徳に非ざれば何を以て自ら薦めんや」と。癸未、罪人逃亡を護送する制を更む。上宰臣に謂いて曰く「近く上封章する者を観るに、殊に大利害無し。且つ古の諫者は既に国に忠なるも、亦た名を求む。今の諫者は利の為のみなり。戸部尚書曹望之・済南尹梁肅の如き皆上書して事を言うは、蓋し執政を覬覦するのみ。其れ国政に於て竟に何の補かあらん。達官此の如し、況んや余人をや。昔海陵南伐せんとし、太醫使祁宰極諫し、市に戮せらるるに至る。此れ本朝以来一人のみ」と。丁亥、上宰臣に命じて曰く「監察御史田忠孺嘗て上書して事を言えり。今当に升擢すべく、以て其の余を励ますべし」と。
十一月戊戌、南京留守徒単克寧を以て平章政事と為す。庚戌、上宰臣に謂いて曰く「朕常に重斂を以て吾が民を困ぜんことを恐る。自今諸路の差科の煩細なる者も、亦た具に以て聞かしむべし」と。有司奏す、夏国進禦帳使辺臣の懇求に因り進入を求むと。乃ち之を許す。尚書左丞石琚を以て平章政事と為す。丙辰、延安尹完顔蒲剌睹らを以て賀宋正旦使と為す。
十二月戊辰、渤海の旧俗男女婚娶多く礼を以てせず、必ず先ず攘窃して以て奔るを以て、詔して之を禁絶し、犯す者は奸を以て論ず。宿直將軍僕散懷忠を以て高麗生日使と為す。己巳、太白晝に見ゆ。壬申、尚書右丞唐括安禮を以て左丞と為し、殿前都点検蒲察通を以て右丞と為す。上宰執に謂いて曰く「朕今年已に五十有五なり。若し年六十を踰えなば、雖も為さんと欲すとも、之を能くする莫からん。宜しく朕の康強に及び、其の女直人猛安謀克及び国家政事の未だ完からざる者、と夫れ法令の未だ一ならざる者を、宜しく皆修挙すべし。凡そ施行する所、朕怠らざらん」と。
十八年正月丙申朔、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。壬寅、異居周親の奴婢・同居卑幼を殺し、輒く奴婢及び妻罪無くして輒く殴殺する者の罪を定む。庚戌、修起居注移剌傑上書して言う「毎に人を屏て事を議するに、史官と雖も与り聞かず、記録する由無し」と。上以て平章政事石琚・左丞唐括安禮に問う。対えて曰く「古者、天子史官を左右に置き、言動必ず書す。以て人君を儆戒し、庶幾くは畏るる所有らんとす」と。庚申、中都・河北・河東・山東・河南・陝西等の路前年被災の租税を免ず。壬戌、春水に如く。
二月丙寅朔、管莊に次る。丙子、華港に次る。己丑、宮に還る。
三月乙未朔、万春節、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。乙巳、辺を戍る女直人に命ず、祭祀・婚嫁・節辰に遇うれば自ら酒を造るを許す。丁未、上宰執に謂いて曰く「県令の職最も民に親し、当に賢材を得て之を用うべし。邇来法を犯す者衆く、殊に能者有るを聞かず。比に春水に在りて、石城・玉田両県令を見るに、皆年老いて、苟も禄を食むのみ。畿甸尚お爾り、遠県知るべし」と。平章政事石琚対えて曰く「良郷令焦旭・慶都令李伯達皆能吏なり、任ずべし」と。上曰く「審かに卿の言の如くならば、擢用すべし」と。己酉、民間に寺観を創興するを得ざるを禁ず。献州人殷小二ら謀反し、誅せらる。
四月己巳、上宰臣に謂いて曰く「朕巡幸する所至、必ず官吏の臧否を体訪せしむ。向に玉田知主簿石抹杳乃ち能吏なり、本県令を授くべし」と。己丑、太子左賛善阿不罕德甫を以て横賜夏国使と為す。
五月丙午、上金蓮川に如く。
六月庚午、尚書左丞相紇石烈良弼薨ず。
閏月辛丑、命じて西南・西北両招討司の民、及び烏古裏石壘部転戸の饑を賑わしむ。
七月丙子、上宰臣に謂いて曰く「職官始めて贓罪を犯すは、過誤を容る有るも、再犯に至りては、是れ過ちを改むる心無きなり。自今再犯するは贓数の多寡を以てせず、並びに除名すべし」と。
八月乙巳、金蓮川より至る。丙辰、尚書右丞相完顔守道を以て左丞相と為し、平章政事石琚を右丞相と為す。
九月辛未、大理卿張九思らを以て賀宋生日使と為し、侍御史完顔蒲魯虎を夏国生日使と為す。癸酉、尚書左丞唐括安禮を以て平章政事と為す。乙亥、右丞蒲察通を以て左丞と為し、参知政事移剌道を右丞と為し、刑部尚書粘割斡特剌を参知政事と為す。
十月庚寅朔、陝州防禦使石抹靳家奴罪を以て除名せらる。甲午、御史中丞劉仲誨・侍御史李瑜大長公主の事を糾察するを失うに坐し、各官一階を削らる。
十一月庚申朔(一日)、尚書省が上奏し、同知永寧軍節度使事阿可を刺史に擬することを請うた。上(世宗)は言う、「阿可は年若く、事柄に熟練せず、副官を授けるのがよい」と。平章政事唐括安禮が奏上して言う、「臣等は阿可が宗室であるゆえ、この職に擬したのであります」と。上は言う、「郡守は千里の地の安否に関わる、どうして人を選ばずにその親族を私することができようか。もし親族を親しむ恩情により賜うならば、たとえ厚くとも、政事に害はない。しかし彼に郡を治めさせてその才がなければ、一境の民は何を頼りとしようか」と。壬申(十三日)、靜難軍節度使烏延查剌らを賀宋正旦使とした。丙子(十七日)、尚書省が上奏した、崇信縣令石安節が部民から車の材料を買い、三日たってもその代価を支払わなかったので、官一階を削り、解職すべきであると。上はこれにより言う、「およそ官にある者は、ただその貪汚と清白の特に著しい者数人を罷免・昇進させれば、人は自ずと懲戒と勧奨を知るであろう。朝廷の政は、寛大すぎれば人は畏れを知らず、厳しすぎれば小さな欠点も罪を免れないであろう。ただ中典を用いるべきである」と。戊寅(十九日)、上は宰臣を責めて言う、「近ごろ趙承元が何故再任されたのかと問うたところ、卿らは言う、曹王がかつて人を遣わしてその才能が敏達であると言ったので、再任したと。官爵の擬注は卿らによるが、予奪の権は朕より出るべきである。曹王の言葉すら従うならば、仮に皇太子が何か諭したならば、その従うことは知れよう。この事は卿らの言葉によって初めて知った、知らないことはまたどれほどあるか。かつ卿らが公然と請託を受けることが、よろしいか」と。蓋し承元は以前曹王府文學であり、王邸の婢と姦通し、杖百五十を打たれて除名されたが、また任用されたのである。丙戌(二十七日)、吏部尚書烏古論元忠を御史大夫とし、東上閣門使左光慶を高麗生日使とした。
十二月庚戌(二十二日)、孫の吾都補を溫國公に、麻達葛を金源郡王に、承慶を道國公に封じた。壬子(二十四日)、群臣が「大金受命萬世之宝」を奉上した。
十九年正月庚申朔(一日)、宋・高麗・夏が使者を遣わして来賀した。丁卯(八日)、春水(の行幸)に赴く。
二月己酉(二十日)、宮に還る。乙卯(二十六日)、去年水害・旱害を受けた民田の租税を免ずる。
三月乙未朔(一日)、萬春節、宋・高麗・夏が使者を遣わして来賀した。乙丑(?)(日付誤記か。三月乙未朔なので乙丑は三十一日となり存在せず。原文のまま訳す)、尚書省が上奏した、課税を欠損させた院務官顏葵ら六十八人は、各々官一階を削るに相当すると。上は言う、「廃人に酒の専売を主宰させるのは、これは遼の法である。法が弊害あれば改めるべきで、唐・宋の法に実行できるものがあればそれを行え」と。己巳(五日)、上は宰臣と史事を論じ、かつ言う、「朕が前史を見るに多くは過分な称美がある。およそ史書が事を載せるのは実を貴び、浮華な言葉で諂い媚びる必要はない」と。辛未(七日)、上は宰臣に言う、「奸邪の臣は、何かを企み求めるにあたり、しばしばその党与を私し、明言せず、他の事に託し、表向きは与せずに陰で力を尽くす。朕が古の奸人を見るに、国家が儲君を立てる時、その聡明が己に不利ならんことを恐れ、しばしば陰事をもってほのめかし、その議を破壊し、ただ昏愚で懦弱な者を選んで立て、他日に権を弄い利を得ることを望む。たとえば晉の武帝がその弟を立てようとしたが、奸臣が沮み、ついに恵帝を立て、以て喪乱を招いた、これは明らかな証拠である」と。丁丑(十三日)、上は宰臣に言う、「朕が前代の人臣を見るに、朝廷で諫めようとする時、父母妻子と決別し、必死の覚悟を示す。同僚がその死を目の当たりにしても、また身を顧みず、さらにそのために諫める。これは国に尽くす忠誠であり、人のなすことが難しいところである」と。己卯(十五日)、糾弾の官が犯法を知りながら挙げない者は、犯人より罪一等を減じて処することを定め、親族に関わる者は回避を許す。上は宰臣に言う、「人は多く釈老を奉じ、福を求めようとする。朕も早年はややこれに惑ったが、やがてその非を悟った。かつ上天が君を立てるのは、民を治めさせるためである。もし遊楽にふけり怠り疎かにし、僥倖をもって福を祈るのは難しい。もしよく下民を愛養すれば、天心に叶い、福は必ず報いるであろう」と。
四月己丑朔(一日)、詔して西南路招討司の管轄する民を賑恤せしむ。己酉(二十一日)、閔宗を升祔するに当たり、詔して中外に告ぐ。丁巳(二十九日)、歳星が昼間に現れる。
五月戊寅(二十一日)、太寧宮に行幸する。
六月戊子朔(一日)、詔して制條を改め定む。
七月辛未(十五日)、有司が趙王の子石古乃の従者を擬することを奏上したが、上は従わず、宰相に言う、「児の罪はまだ幼い、もし奉承しすぎれば、その奢侈の心を大きく滋長させ、ついに抑制し難くなる、これは長ずべからざることである。諸児が入侍する毎に、その語らい笑い楽しむ際にも、朕は必ず深く沈黙し、厳をもって臨む。それによって朕の教戒の意を知り、常に畏れ慎んで過ちを少なくすることを望むのである」と。癸酉(十七日)、密州の民許通らが謀反し、誅せられる。丙子(二十日)、太白が昼間に現れる。庚辰(二十四日)、太寧宮より至る。
八月壬辰(六日)、尚書右丞相石琚が致仕する。戊戌(十二日)、宋の大観錢を五として通用させる。丙午(二十日)、濟南の民劉溪忠が謀反し、誅せられる。
九月戊午(三日)、左宣徽使蒲察鼎壽らを賀宋生日使とし、太子左衛率府率裴滿胡剌を夏國生日使とする。癸亥(八日)、秋獵を行う。癸未(二十八日)、都に還る。
十月辛卯(六日)、西南路招討使哲典が贓罪により、誅せられる。辛亥(二十六日)、服喪中に婚姻したことを知りながらこれを成した者は、自首してもなお律に依って処することを定む。
十一月壬戌(八日)、昭德皇后を改葬し、大赦を行う。御史中丞移剌綎らを賀宋正旦使とする。戊辰(十四日)、西上閣門使盧拱を高麗生日使とする。壬申(十八日)、上は河間に冬獵に赴く。癸未(二十九日)、河間より至る。
二十年正月甲寅朔(一日)、宋・高麗・夏が使者を遣わして来賀した。戊午(五日)、令史試験の格式を定む。壬戌(九日)、毎年銭五千貫をもって随朝百官の節酒及び氷・燭・薬・炭を造り、品秩に視てこれを給することを命ず。己巳(十六日)、春水(の行幸)に赴く。丙子(二十三日)、石城縣行宮に行幸する。丁丑(二十四日)、玉田縣行宮の地である偏林を禦林とし、大澱濼を長春澱とする。
二月丁未(二十四日)、都に還る。
三月癸丑朔、万春節、宋・高麗・夏が使者を遣わして来賀す。己未、詔して凡そ犯罪して問われたる官は、赦に遇うとも、復職することを得ずとす。乙丑、新たに定めたる猛安謀克を以て、詔して中都・西京・河北・山東・河東・陝西路の去年の租税を免ず。辛巳、平章政事徒単克寧を以て尚書右丞相と為し、御史大夫烏古論元忠を平章政事と為す。
四月丁亥、廕を冒する罪賞を定む。己亥、制して宗室及び外並びに一品命婦は、衣服に明金を用いることを聴す。西上閣門使郭喜国を以て横賜高麗使と為す。太寧宮火災す。乙巳、上宰臣に謂いて曰く、「女直官多く朕の食用甚だ倹なりと謂う、朕は然らずと謂う。夫れ一食多く費やすは、豈に美事たるべけんや。況んや朕年高く、物命を屠殺するを欲せず。貴きこと天子たり、能く自ら節約するも、亦悪しからず。朕の服禦或いは旧きも、常に浣濯せしめ、破砕に至りて方に更易す。向時帳幕常用して塗金を以て飾りと為すも、今は則ち然らず、但だ用に足るるを令するのみ、何ぞ必ずしも紛華を事とせん。」庚戌、金蓮川に如く。
五月丙寅、京師地震し、黒白の毛を生ず。
七月、旱す。
八月壬午、秋獵す。
九月壬戌、金蓮川より至る。太府監李佾等を以て賀宋生日使と為し、少府少監賽補を夏国生日使と為す。丙子、蒲速宛群牧老忽謀叛し、誅せらる。
十月庚辰朔、銓注県令丞簿の格を更に定む。詔して西北路招討司、毎に馬駝鷹鶻等を進むるに、輒ち部内を率斂す、今より自ら並びに之を罷むとす。壬午、上宰臣に謂いて曰く、「細微を察問するは、人君の体に非ず、朕も亦之を知る。然れども卿等殊に心を用いざるを以て、故に時或いは察問す。山後の地の如きは、皆親王・公主・権勢の家の占むる所と為り、転じて民に和す、皆卿等の不察より由る。卿等当に心を尽くして事に勤め、朕をして煩労せしむること無からしむべし。」詔して遙落河・移馬河の両猛安を大名・東平等路に徙して安置す。戊戌、上宰臣に謂いて曰く、「凡そ人下位に在りて、升進を冀うは、公廉賢肖を勉むるなり、何を以て之を知る。其の通顕に及び、其の施為を観るに、方に本心を見る。招討哲典の如き、初め定州同知に任じ、継いで都司と為り、未だ嘗て少しくも私徇有ること無く、至る所皆清名有り、招討と為るに及びて、固守せず。人心は山川に険し、誠に知り難し。」壬寅、上宰臣に謂いて曰く、「近く《資治通鑑》を覧るに、累代の廃興を編次し、甚だ鑒戒有り、司馬光の用心此の如し、古の良史も以て加うること無し。校書郎毛麾、朕屡に事を以て問うに、善く応対す、真に該博の老儒なり、太常職事を除くべく、以て討論に備うべし。」甲辰、殿前都点検襄を以て御史大夫と為す。
十一月丁巳、尚書右丞移剌道罷む。乙丑、真定尹単守素等を以て賀宋正旦使と為す。癸酉、御史大夫襄を以て尚書右丞と為す。乙亥、上宰臣に諭して曰く、「郡守選人、資考未だ及ばざるも、廉能なる者は則ち升用し、以て其の余を励ますべし。」太常少卿任倜を以て高麗生日使と為す。
十二月辛巳、上宰臣に謂いて曰く、「岐国の人を用いるは、但だ一言意に合えば便ち升用し、一言の失あれば便ち責罰す。凡そ人の言辞、一得一失、賢者も免れず。古より人を用いるは咸く事を以て試み、若し只だ奏対の間に止まるのみならば、安んぞ人の賢否を知らん。朕の人を取るは、衆の与する者を用い、独見を以て是と為さず。」己亥、河衛州に決す。辛丑、近郊に獵す。癸卯、特ち襲封衍聖公孔総を授けて兗州曲阜令と為し、封爵は旧の如し。