海陵南伐し、天下騷動す。是の時、契丹部人の丁壯を籍して兵と為し、部人行かんと願はず、以て使者に告ぐ。使者燥合海陵を畏れて以て告げず、部人遂に反す。是に至り、咸平府謀克括裏韓州を陷れ、咸平に據り、將に東京を犯さんとす。
八月、東京留守を起復す。婆速路の兵四百來たり會して括裏を討たんとし、復た城中の子弟兵たらんと願ふ者數百人を得たり。帝の舅興中少尹李石病を以て免ぜられ、家を遼陽に居す。戊午、東京を發し、石を以て留務を主らしむ。賊の覘者鼙鼓の聲天を震はし、旌旗野を蔽ふを聞き見て、國公の兵十萬將に至らんとすと傅言す。賊眾瀋州に至りて遁去す。會に烏延查剌等賊兵を敗り、還りて常安縣に至る。海陵婆速路總管完顏謀衍をして來たり賊を討たしめ、兵を以て之に屬せしむ。
九月、東京に至る。副留守高存福、其の女海陵の後宮に在り、海陵存福をして起居を伺はしむ。適た兵器を造る餘材を以て甲數十を造るに、存福宣言して、留守何ぞ甲を造るやと。密かに人をして以て海陵に白せしめ、遂に推官李彥隆と托して球を撃つと為し、謀りて不利を圖る。存福の家人其の謀を以て來たり告ぐ。平定知軍李蒲速越亦其の事を言ふ。海陵嘗て上疾有りと聞き、即ち近習をして來たり動靜を観しめ、是に至り、又謀良虎をして淮北の諸王を圖らしむ。上之を知り、心常に隱憂す。及て括裏を討ち還りて清河に至り、故吏六斤傳に乘じて南より來るに遇ひ、具さに海陵其の母を殺し、兄の子檀奴・阿裏白及び樞密使僕散忽土等を殺すを言ひ、又曰く「且つ人を遣はして宗室兄弟を害せんとす」と。上之を聞き、益々懼る。及て存福己を圖るを聞き、事將に跡有らんとす。李石上に早く之を圖るを勸む。是に於て、賊を備ふる事を議するを以て、官屬を召して清安寺に會す。彥隆先づ到り、存福累たび召して始めて來り、並びに座上に於て之を執ふ。是の月、復た雲西より來り、黄龍雲中に見ゆ。
十一月己巳朔、左丞相晏を以て都元帥を兼ねしむ。辛未、戶部尚書李石を以て參知政事と為す。己卯、詔して民間の馬を調へ軍用に充て、事畢はりて主に還し、死者は價を給す。阿瑣・璋同知中都留守事沙離只を殺し、阿瑣自ら中都留守と稱し、璋自ら同知留守事と稱し、石家奴等をして來たり表を上げ賀せしむ。辛巳、中都に如く期日を以て群臣に詔す。壬午、中都轉運使左淵に詔して曰く「凡そ宮殿の張設増置する毋かれ、一夫を役して百姓を擾さず、但だ圍禁を謹み、出入を嚴にすのみ」と。尚書右司員外郎完顏兀古出を以て詔諭高麗使と為す。癸未、權元帥左都監吾劄忽・右都監神土懣・廣甯尹僕散渾坦を遣はし契丹諸部を討たしむ。甲申、皇考幽王を追尊して皇帝と為し、諡して簡肅と曰ひ、廟號を睿宗とす。皇妣蒲察氏を欽慈皇后と曰ひ、李氏を貞懿皇后と曰ふ。群臣上尊號して仁明聖孝皇帝と曰ふ。乙酉、東昏王の帝號を追復し、諡して武靈と曰ひ、廟號を閔宗とす。中外に詔す。子實魯剌を許王に封じ、胡土瓦を楚王に封ず。戊子、辭して謁し太祖廟及び貞懿皇后の園陵。己丑、中都に如く。小遼口に次す。中都留守宗憲をして先づ往かしむ。壬辰、梁魚務に次す。樞密副使・北面行營都統白彥敬・南京留守北面行營副統紇石烈志寧、統ぶる所の軍數を以て來たり上る。安武軍節度使爽來たり歸す。乙未、完顏元宜等海陵を揚州にて弑す。丙申、義州に次す。丁酉、宋人陝州を破り、防禦使折可直降り、同知防禦使事李柔立之に死す。
二月己亥、前翰林待制大穎が盗賊のことを言って海陵に逆らい、杖罰を受け除名されていたが、起用されて秘書丞となった。補闕馬欽は海陵に諂って事え寵を得ていたが、除名された。庚子、前戸部尚書梁銶・戸部郎中耶律道に山東の百姓を安撫するよう詔した。盗賊を招諭し、あるいは賊を避け、あるいは徭役を避けて他所にいる者に対し、全て帰業して農種に時を失わぬよう命じ、罪名の軽重を問わず、全て赦免する。壬寅、太傅・尚書令張浩が来見した。癸卯、上が初めて即位したことを以て、遼陽主簿石抹移迭・東京曲院都監移剌葛補を遣わし契丹の叛人を招諭したが、白彦敬・紇石烈志寧に害されたため、共に鎮国上将軍を追贈し、その家に各々五品の俸を食ませ、なおその子を収録するよう命じた。甲辰、張浩を太師とし、尚書令は元の如くとし、御史大夫移剌元宜を平章政事とした。辛亥、世襲猛安謀克の遷授の格を定めた。壬子、太保・左領軍大都督奔睹を都元帥とし、太保は元の如くとした。癸丑、蕭玉・敬嗣暉・許霖らの官を降格し、田舎に帰すことを詔した。甲寅、再び進士を尚書省令史に用いた。丙辰、嵩州刺史石抹朮突刺らが寿安県で宋兵を破った。丁巳、鄭州防禦使蒲察世傑が陝州を取った。甲子、都元帥奔睹に山東に開府し、辺境の事を経略するよう詔した。沢州刺史特末哥及びその妻高福娘が誅殺された。
閏月甲戌、上は宰臣に言った、「比く外間の議論に聞くに、奏事することが甚だ難しいという。朕は実行可能なものについては従わなかったことはない。今後敷奏するに隠すところあるなかれ、朕は固よりこれを聞くことを楽む。」戊子、上は宰臣に言った、「臣民が上書するものは多く、尚書省に詳しく閲させているが、即時に具奏しないので、天下の人は朕が徒らにその言を受けるだけで実行しないと言うであろう。速やかに条を具して奏聞せよ。」庚寅、平章政事移剌元宜に泰州路で辺境の事を規画措置するよう詔した。辛卯、太和殿・厚徳殿で火災があった。乙未、尚書兵部侍郎温敦朮突刺らが窩斡と戦い、勝州で敗れた。
三月癸亥、参知政事独吉義が罷免された。元帥左都監徒単合嘉が徳順州で宋将呉璘を破った。甲辰、李通の官職を追削した。乙巳、南京の正隆年間の丁夫の貸役銭を免除した。辛亥、廉平を以て中外の官吏に誡諭した。癸亥、河南・陝西・山東において、先に賊を捕らえる際、良民が賊として虜われた者を、厘正することを詔した。
四月己巳、右副元帥完顔謀衍らが長濼で窩斡を破った。辛未、廃帝亮を海陵郡王に降格した。乙亥、御膳及び宮中の食物を半減することを詔した。夏国が使者を遣わし即位を賀し、及び方物を進め、及び万春節を賀した。右副元帥完顔謀衍が再び霿{箣松}河で窩斡を破った。辛巳、貞元殿で夏使を宴した。故事によれば、外国使の三節人従は皆廡下に坐して食を賜う。上はその食が精選でなく豊かでないのを察し、「どうして遠人の心を服させられようか」と言い、掌食官は皆六十回の杖罰を受けた。癸未、夏使が朝辞し、互市を乞うたので、従った。己丑、左丞相晏を太尉とした。壬辰、契丹部を征討する将士に詔して言った、「契丹で大軍と未だ戦わずに降る者に対応するには、殺傷してはならず、引き続きこれを安撫せよ。後に招誘して来降する者は、奴婢は既に虜ったものを以て定めとし、その親属は各々その家に還し、なお官がこれを贖う。」
五月丁酉朔、曷速館節度使白彦敬を御史大夫とした。戊戌、元帥左監軍高忠建を遣わし北征の将帥と会して契丹を討たせた。己亥、臨海軍節度使紇石烈志寧を元帥右監軍とした。右副元帥完顔謀衍・元帥右監軍完顔福寿は逗留の罪に坐し、京師に召還され、皆罷免された。壬寅、楚王允迪を皇太子に立て、中外に詔した。丁巳、押軍万戸裴満按剌・猛安移剌沙裏剌が華州で宋兵を破った。
六月戊辰、御史大夫白彦敬に命じて西北路で馬を買わせる。庚午、尚書右丞僕散忠義を平章政事兼右副元帥とし、契丹を経略させる。詔して内府の金銀を出して征契丹の軍用に給する。戊寅、詔して居庸関・古北口に契丹の奸細を譏察させ、捕獲した者には官位と賞賜を加える。己卯、詔して古北口及び石門関を守禦させる。庚辰、宋が使者を遣わして即位を賀す。壬午、右副元帥僕散忠義が窩斡と花道で戦う。戊子、南京留守紇石烈良弼を尚書右丞とする。庚寅、右副元帥僕散忠義が窩斡を嫋嶺西の陷泉で大いに破る。その弟の嫋を獲る。壬辰、西南路招討使完顔思敬を元帥右都監とする。
七月丁酉、原州を再び取る。丙午、宋の主(皇帝)が子の甗に位を譲る。甲寅、契丹を詔諭する。丁巳、速頻の軍士朮裏古らが完顔謀衍の子斜哥がその父に謀反を勧める書を送ったと誣告し、併せてその書を上る。上(皇帝)書を覧て曰く「これは誣告である、告げた者を訊問するのみとせよ」。これを訊問すると、果たして誣告であった。朮裏古は誅せられる。庚申、太尉・尚書左丞相晏が致仕する。壬戌、詔して済州・会寧府の軍で京師に在る者を発し、五千人を以て北京都統府に赴かせる。陝西都統の璋が宋の将軍呉璘を張義堡で破る。
八月乙丑朔、奚の抹白謀克徐列らが降る。左監軍高忠建が奚を栲栳山で破り、及び傍近の奚六営を招降し、降らざる者あり、これを攻め破る。その男子を尽く殺し、その婦女童孺を諸軍に分け与える。丁卯、永興県が嘉禾を進める。壬申、万戸温迪罕阿魯帯が奚と古北口で戦い、敗れる。詔して同判大宗正事完顔謀衍らにこれを防がせる。癸酉、上、宰臣に謂いて曰く「百姓が上書して時政を陳ぶれば、その言は猶補うところあり。卿らは機要の位に居りながら、少しも献替(善を進め悪を替える)せず、可ならんや。夫れ獄訟を聴断し、簿書期会することは、何人か能わざらん。唐・虞の聖ですら、猶兼覧博照に務めて、乃ち治を成す。正隆(海陵王)は独見を専ら任用した故に、敗亡を取る。朕は早夜孜孜として、讜論を聞かんことを冀う。卿ら宜しく朕の意を体すべし」。詔す「百司の官吏、凡そ上書して事を言い、或いは有司に抑えられたる者は、表を進めて以て聞かせることを許す。朕将に親しく覧て、以て人材の優劣を観ん」。夏国が使者を遣わして尊号を賀す。丁丑、斉国妃・韓王亨・枢密忽土・留守賾等の家の親属で宮籍に在る者を免ず。詔して元帥右都監完顔思敬にその部の軍を以て大軍と会し窩斡を討たしむ。乙酉、詔して左諫議大夫石琚・監察御史馮仲に河北東路を廉察させる。丁亥、詔して御史台に曰く「卿らの劾する所は、諸局の行移(文書往来)の稽緩、及び局に赴くの緩やかなる者のみなり、これは細事なり。三公以下、官僚の善悪邪正を審察すべし。若し只だ細務を理めてその大なるものを略するならば、将に卿らを罪せん」。契丹の老和尚が降る。辛卯、諸関の徴税を罷む。
九月甲午朔、完顔謀衍が奚の猛安合住を擒える。元帥左都監徒単合喜が宋の将軍呉璘を徳順州で大いに破る。乙未、詔して尚書右丞紇石烈良弼に便宜を以て奚・契丹の叛く者を招撫させる。庚子、元帥右都監完顔思敬が契丹の窩斡を獲る。余衆悉く平ぐ。尚書左司員外郎完顔正臣を夏国生日使とする。壬寅、近郊に狩猟す。乙巳、移剌窩斡の平定を以て、中外に詔す。庚戌、睿宗皇帝を改葬す。壬子、元帥右都監完顔思敬を右副元帥とする。戊午、詔して思敬に南辺を経略させる。辛酉、睿宗皇帝の梓宮を磐寧宮に奉遷す。癸亥、元帥左監軍徒単合喜らが宋兵を徳順州で破る。河南統軍使宗尹が汝州を再び取る。
十月丁卯、左副元帥完顔彀英を平章政事とする。戊辰、山陵に詣で、睿宗皇帝の梓宮を謁し、哭して哀しみを尽くす。平章政事・右副元帥僕散忠義らが軍より還る。上謁す。丙戌、僕散忠義を尚書右丞相とし、元帥左監軍紇石烈志寧を左副元帥とする。戊子、睿宗皇帝を景陵に葬り、大赦す。己丑、詔して左副元帥紇石烈志寧に南辺を経略させる。壬辰、華州防禦使蒲察世傑・丹州刺史赤盞胡速魯改が宋兵を徳順州で破る。
十一月癸巳朔、詔して右丞相僕散忠義に宋を伐たしむ。丁酉、職官を等級付け、廉能・汚濫・不職を各々三等とし、而してこれを黜陟す。
十二月乙酉、尚書刑部侍郎劉仲淵らを遣わして東京・北京等路を廉察宣諭させる。
二月甲子、詔して太子少詹事楊伯雄らに山西路を廉問させる。庚午、上、宰相に謂いて曰く「湾州の饑民、流散して食を逐う、甚だ矜恤すべし。山西に移し、富民に贍済せしめ、仍って道路において口数を計りて食を与えよ」。壬申、詔して陝西を撫諭す。庚辰、太保・都元帥奔睹薨ず。丙戌、趙景元らが乱言を以て誅せられる。庚寅、高麗・夏が使者を遣わして万春節を賀す。高麗が使者を遣わして即位を賀す。東京の僧法通が妖術を以て衆を乱す。都統府これを討ち平ぐ。
三月丙申、中都より南の八路に蝗害あり。詔して尚書省に官を遣わしてこれを捕らしむ。壬寅、詔して戸部侍郎魏子平等九人に、諸路の猛安謀克に分け詣り、農を勧め及び廉問せしむ。詔して臨潢の漢民に会寧府の済・信等州に就き食わしむ。庚戌、詔して去年の租税を免ず。
四月辛酉朔、右副元帥完顔思敬罷む。丁卯、平章政事完顔彀英・御史大夫白彦敬罷む。参知政事李石を御史大夫とする。丁丑、詔す「吏贓罪を犯す者は、赦に会うも叙用せず」。己卯、引進使韓綱を横賜高麗使とする。乙酉、山西路の猛安謀克の貧民を賑恤し、六十日の糧を与う。是の月、商・虢・環州を取り、宋の侵した一十六州は是に至りて皆復す。
五月辛卯朔(一日)、右丞相僕散忠義が京師に朝した。乙未(五日)、重五(端午)に因み、広楽園に幸して柳を射り、皇太子・親王・百官に皆射させ、勝者には物を賜うこと差等あり。上更に常武殿に御し、宴を賜い球を撃つ。これより歳々以て常と為す。丙申(六日)、宋人が霊璧・虹県を攻め破る。己亥(九日)、河南・山東・陝西統軍司を罷め、都統・副統を置く。太子詹事完顔守道をして皇太子に従わしむ。上守道を召し諭して曰く、「卿は執政を任ずるも、責むるところ軽からず。自今より従行するなかれ」と。辛丑(十一日)、右丞相僕散忠義を以て都元帥を兼ねしむ。癸卯(十三日)、僕散忠義軍に還る。河南路都統奚撻不也叛きて宋に入る。丙午(十六日)、宋人が宿州を攻め破る。辛亥(二十一日)、出征軍逃亡法を更めて定む。尚書省、天徳年間に誅せられし大臣諸奴隷及び窩斡の乱に従いし者を籍して軍と為さんことを請う。上、四方甫めて定まり、民意稍蘇るを以て、復た軍を簽ぶは長策に非ずとし、聴かず。癸丑(二十三日)、詔して契丹余党蒲速越等を諭し、もし能く自新せば、並びに其の罪を釈す。もし蒲速越父子を執りて来たる者は、仍官を以て之を賞すと。左副元帥紇石烈志寧復た宿州を取る。河南副統孛朮魯定方陣に死す。乙卯(二十五日)、北京留守完顔思敬を以て復た右副元帥と為す。中都蝗有り。詔して参知政事完顔守道に大興府捕蝗官を按問せしむ。
六月庚申朔(一日)、日食有り。刑部尚書蘇保衡を以て参知政事と為す。丙子(十七日)、詔して曰く、「正隆の末、済州路逃回の軍士にして中都軍に邀え撃たれて殺されたる者は、官を以て収葬す」と。己卯(二十日)、近郊に於いて稼を観る。甲申(二十五日)、太師・尚書令張浩罷む。宿直将軍阿勒根和衍を以て横賜夏国使と為す。
七月庚戌(二十二日)、太白昼に見ゆ。太子太師宗憲を以て平章政事と為す。孔総を以て襲封衍聖公と為す。
八月丙寅(八日)、太白天を経る。庚午(十二日)、詔して曰く、「祖宗の時に労効有りて未だ嘗て遷賞せられざる者、五品以上は奏聞し、六品以下及び職事無き者は尚書省約量して升除すべし」と。甲戌(十六日)、詔して参知政事完顔守道に契丹余党を招撫せしむ。戊寅(二十日)、詔して契丹猛安謀克を罷め、其の戸を分ちて女直猛安謀克に隷せしむ。諸官員の年老者を命じ、馬一二匹を存することを許し、余は並びに括買して官に入る。殿前都点検唐括徳温に勅して曰く、「重九(重陽)に出でて獵するは、国朝の旧俗なり。今扈従の軍二千、能く民を擾さざらんや。厳しく以て約束すべく、仍銭万貫を以て分ちて之を賜うべし」と。乙酉(二十七日)、大房山に如く。丁亥(二十九日)、睿陵に薦享す。戊子(三十日)、宮に還る。
九月癸巳(五日)、宿直将軍僕散習尼列を以て夏国生日使と為す。丁酉(九日)、秋獵す。重九に因み、北郊に於いて天を拝す。丙午(十八日)、詔して翰林待制劉仲誨等に車駕の経る州県を廉問せしむ。乙卯(二十七日)、宮に還る。
十月甲子(六日)、太廟に大享す。丙寅(八日)、許王府長史移剌天仏留を以て高麗生日使と為す。癸酉(十五日)、冬獵す。
十一月庚寅(三日)、太白昼に見え、天を経る。壬辰(五日)、都に還る。戊申(二十一日)、詔す、「仕官を求むる者輒ち権要の門に入るは、一官を追い、仍降除す。請求を以て饋献有り及び之を受くる者は、状を具して奏裁すべし」と。庚戌(二十三日)、百官尊号を上ることを請う、允さず。詔す、「中都・平州及び饑荒地並びに契丹の剽掠を経て、妻子を質売する者有らば、官を以て収贖す」と。壬子(二十五日)、尚書左丞翟永固罷む。癸丑(二十六日)、金線段匹の貢を罷む。甲寅(二十七日)、尚書右丞紇石烈良弼を以て左丞と為し、吏部尚書石琚を参知政事と為す。
十二月丁丑(二十日)、臘(臘祭)、近郊に於いて獵す。獲たる所を以て山陵に薦む、これより歳々以て常と為す。詔して流民未だ復業せざるは、限を増して招誘す。己卯(二十二日)、参知政事蘇保衡軍より至る。辛巳(二十四日)、之を以て尚書右丞と為す。
四年正月丁亥朔(一日)、高麗・夏使いを遣わし来たり賀す。戊子(二日)、路府州の元日及び万春節の貢献を罷む。上侍臣に謂いて曰く、「秦王宗翰国に功有り、何ぞ乃ち嗣無きや」と。皆未だ知らざる所対す。上曰く、「朕嘗て聞く、宗翰西京に於いて丐者千人を坑殺せしと、其の報いに非ざらんや」と。癸巳(七日)、百官復た尊号を上ることを請う、允さず。丁酉(十一日)、安州の春水に如く。壬寅(十六日)、安州に至る。大雪。詔して扈従の人民家に舍する者は、人一日に銭一百を支ちて其の主に与う。甲辰(十八日)、元帥府言う、「宋審議官胡昉を遣わし尚書右僕射の書を致し、来たり和好を議す。其の言の信を失するを以て、昉を軍中に拘え、書を以て之に答う」と。及び書を進む。上之を覧て曰く、「宋の信を失するは、行人何の罪か。当に即時に遣り返すべし。辺事は元帥府に令して宜に従い措画せしむべし」と。乙巳(十九日)、尚書省奏す、「徐州の民曹圭賊江志を討ち、而して子の弼も亦た賊中に在り、並びに之を殺す。法当に二官を補い、雑班に叙すべし」と。上奏する所未だ当らずとし、一官を進め、正班に用う。辛亥(二十五日)、頭鵝を獲る。使いを遣わし山陵に薦む、これより歳々以て常と為す。
二月丁巳(二日)、安州今年の賦役を免じ、及び保塞県御城辺呉の二村、凡そ扈従の人嘗て其の家に止まりし者も、亦た一年を復す。辛酉(六日)、高陽の北に於いて獵す。庚午(十五日)、都に還る。庚辰(二十五日)、北京の粟価踊貴するを以て、詔して今年の課甲を免ず。
三月丙戌朔(一日)、万春節、高麗・夏使いを遣わし来たり賀す。詔して北京の歳課段匹一年を免ず。庚子(十五日)、京師地震有り。壬寅(十七日)、百官復た尊号を上ることを請う、允さず。
四月丁巳(二日)、平章政事完顔元宜罷む。甲戌(十九日)、宮女二十一人を出す。
五月、旱有り。癸卯(十九日)、有司に勅して冤獄を審にし、宮中の音楽を禁じ、球場の役夫を放つ。乙巳(二十一日)、詔して礼部尚書王競に北嶽に於いて雨を祷らしむ。己酉(二十五日)、参知政事石琚等を命じ北郊に於いて望祭して雨を祷らしむ。壬子(二十八日)、雨降る。窩幹の余党蒲速越誅を伏す。
六月甲寅朔(一日)、日食有り。壬戌(九日)、尚書左丞紇石烈良弼征南元帥府より至る。甲子(十一日)、雨足るを以て、有司を命じ北郊に於いて嶽鎮海瀆を祭謝せしむ。己巳(十六日)、東宮に幸し、皇太子の疾を視る。庚午(十七日)、初めて五嶽四瀆を祭る礼を定む。辛未(十八日)、近郊に於いて稼を観る。庚辰(二十七日)、元帥府に詔諭して曰く、「請う所の伐宋軍万五千、今騎三千、歩四千を以て之に赴かしむ」と。詔して陝西元帥府に蜀に入る利害を議して以て聞かしむ。
七月壬辰(九日)、故衛王襄の妃及び其の子和尚妖妄を以て誅を伏す。庚子(十七日)、尚書左丞紇石烈良弼を以て平章政事と為す。辛丑(十八日)、大風雷雨有り、木を抜く。
八月甲寅朔、詔して征南元帥府に曰く、「前に請う所の旧疆を収復せんとし、秋涼を俟ちて進発を乞う。今已に秋涼たり、復た何時を俟たんや」と。戊午、参知政事完顔守道を以て尚書左丞と為し、大興尹唐括安礼を参知政事と為す。壬申、上宰臣に謂ひて曰く、「卿等の奏する所は毎に常事なり。凡そ国を治め民を安んずる事及び朝政の民に便ならざる者は、未だ嘗て及ばず。此くの如くせば、則ち宰相の任誰か能くせざらんや」と。己卯、大房山に如く。辛巳、山陵に致祭す。
九月癸未朔、都に還る。乙酉、上宰臣に謂ひて曰く、「形勢の家、親識の訴訟、請属道達す。官吏往々法を屈し情に徇ふ。宜しく一切禁止すべし」と。己丑、上宰臣に謂ひて曰く、「北京・懿州・臨潢等の路は嘗て契丹の寇掠を経たり。平・薊二州は近く復た蝗旱あり、百姓食に艱しみ、父母兄弟相保つ能はず、多く冒鬻して奴と為る。朕甚だ之を閔む。速かに使を遣はして其の数を閲実し、内庫の物を出だして之を贖はしむべし」と。乙未、鷹房に幸す。主者鷹隼を内省の堂上に置く。上怒りて曰く、「此れ宰相の事を聴く所なり。豈に鷹隼を置く処ならんや」と。其の人を痛く責め、して他の所に置かしむ。己亥、宿直将軍烏裏雅を以て夏国生日使と為す。辛亥、太子少詹事烏古論三合を以て高麗生日使と為す。
十月癸丑朔、密雲県に猟す。丙寅、都に還る。己卯、泰寧軍節度使張弘信等二十四人を命じ、諸路の物力を通検せしむ。
十一月乙酉、征南都統徒単克寧、宋兵を敗り、楚州を取る。己丑、子永功を封じて鄭王と為す。辛卯、冬猟す。乙未、詔して師を進め宋を伐たしむ。戊戌、河間府に次ぐ。辛丑、尚書省火災あり。甲辰、清州に次ぐ。閏月壬子朔、都に還る。
十二月丁亥、尚書省奏す、都統高景山商州を取る。己丑、臘、近郊に猟す。辛卯、太白昼見し、天を経る。是歳、大いに年有り。死罪を断ずること十有七人。
五年正月辛亥朔、高麗・夏使いを遣はして来賀す。乙卯、詔す、泰州・臨潢接境に辺堡七十を設け、兵一万三千を駐む。己未、宋通問使魏杞等国書を以て来る。書「大」と称せず、「姪宋皇帝」と称し、名を称し「再拝して書を叔大金皇帝に奉る」と。歳幣二十万。辛未、中外に詔す。復た有司に命じ、旱・蝗・水溢の処は、租賦を免ぜしむ。癸酉、元帥府に命ず、諸の新旧軍六万人を以て留戍せしめ、余は並びに放還す。宋国の歳幣を以て悉く諸軍に賞す。
二月壬午、左副都点検完顔仲等を以て宋報問使と為す。壬寅、納粟補官の令を罷む。戊申、万春節、宋・高麗・夏使いを遣はして来賀す。
三月壬申、群臣尊号を奉上して曰く応天興祚仁徳聖孝皇帝、中外に詔す。
四月癸卯、西京留守寿王京謀反す。獄成り、特めて死を免じ、之を杖ち、名を除き、嵐州に安置す。乙巳、右副元帥完顔思敬罷む。丁未、右丞相・都元帥僕散忠義軍より還る。
五月壬子、左副元帥紇石烈志寧召されて入見す。丁巳、僕散忠義を以て尚書左丞相と為し、紇石烈志寧を平章政事と為し、軍に還らしむ。乙丑、平章政事宗憲を以て尚書右丞相と為す。癸酉、山東路都統府を罷め、其の軍を各総管府に隷せしむ。
六月甲辰、芝大安殿の柱に産す。丙午、京師地震し、毛を雨ふ。
七月戊申朔、京師地復た震ふ。陝西都統府を罷め、復た統軍司を京兆に置き、陝西元帥府を河中に徙す。
八月己卯、前宿州防禦使烏林答剌撒、宋の李世輔と交通するを以て、誅に伏す。癸巳、宋・夏使いを遣はして尊号を賀す。
九月丁未朔、吏部尚書高衎等を以て賀宋生日使と為す。戊申、秋猟す。庚戌、宿直将軍朮虎蒲査を以て夏国生日使と為す。甲戌、都に還る。
十月丁丑朔、地震す。辛巳、大宗正丞璋を以て高麗生日使と為す。乙未、冬猟す。辛丑、都に還る。
十一月丙午朔(一日)、上(世宗)が宰臣に言うには、「朕の在位は日が浅く、臣下の賢否を遍く識ることはできぬ。全く卿等が公を尽くして挙薦するに頼る。今六品以下は殊に人材に乏しい。どうして朕の賢を求める意に副えようか」。癸丑(八日)、東宮に幸す。戊午(十三日)、右副都点検烏古論粘沒曷を以て賀宋正旦使と為す。癸亥(十八日)、諸路の通検地土等税法を立てる。癸酉(二十八日)、大霧。昼晦。
十二月己丑(十四日)、近郊にて狩猟す。高麗、使いを遣わして尊号を賀す。
六年正月丙午朔(一日)、宋・高麗・夏、使いを遣わして来賀す。庚午(二十五日)、有司に勅す、「宮中の張設は塗金を以て飾りと為すことなかれ」。
二月丁亥(十三日)、尚書左丞相兼都元帥沂国公僕散忠義薨ず。壬寅(二十八日)、万春節、宋・高麗・夏、使いを遣わして来賀す。
三月甲寅(十日)、上、西京に如く。庚申(十六日)、帰化州に次ぐ。西京留守唐括徳温、上謁す。戊辰(二十四日)、西京に至る。庚午(二十六日)、太祖廟を朝謁す。壬申(二十八日)、球を撃つ。百姓、縱観す。
四月甲戌朔(一日)、詔して月朔の屠殺を禁ず。戊戌(二十五日)、尚書右司郎中移剌道を以て横賜高麗使と為し、宿直将軍斜卯摑剌を以て横賜夏国使と為す。辛丑(二十八日)、太白、昼に見ゆ。
五月戊申(六日)、華厳寺に幸し、故遼諸帝の銅像を観、主僧に詔して謹んで之を視守せしむ。壬子(十日)、詔して雲中大同県及び警巡院に一年の復除(租税免除)を与う。壬戌(二十日)、詔して将に銀山に幸せんとす。諸の扈従軍士に銭五万貫を賜い、敢えて苗稼を損ずる者有らば、並びに之を償わしむ。
六月辛巳(九日)、太白、昼に見え、天を経る。丙戌(十四日)、西京より発つ。庚子(二十八日)、銀山にて狩猟す。
七月辛酉(二十日)、三叉口に次ぐ。
八月辛未朔(一日)、涼陘に次ぐ。庚辰(十日)、望雲の南山にて狩猟す。
九月辛丑朔(一日)、西京より還御す。丁未(七日)、戸部尚書魏子平を以て賀宋生日使と為す。辛亥(十一日)、翰林待制移剌熙載を以て夏国生日使と為す。沢州刺史劉徳裕等、官銭を盗用したる罪により誅せらる。壬子(十二日)、太白、昼に見ゆ。癸丑(十三日)、尚書右丞相宗憲薨ず。丙辰(十六日)、太白、昼に見え、天を経る。
十月己卯(九日)、尚書兵部侍郎移剌按答を以て高麗生日使と為す。甲申(十四日)、太廟にて朝享す。詔して雄州・莫州等の今年の租を免ず。壬辰(二十二日)、太白、昼に見え、天を経る。丁酉(二十七日)、安粛州に如く。冬狩す。
十一月丙午(六日)、都に還る。癸丑(十三日)、右副都点検烏古論元忠を以て賀宋正旦使と為す。上、宰臣に謂いて曰く、「朝官は当に其の人を慎選すべし、庶幾くは其の余を激励し得ん。若し当たらずんば、則ち覬覦の心を啓く。卿等は必ずや人材の優劣を知らん、実才を挙げて之を用いよ」。庚申(二十日)、太白、昼に見え、天を経る。丁卯(二十七日)、参知政事石琚、母憂(母の喪)により罷む。
十二月甲戌(五日)、有司に詔し、每月の朔望及び上七日(毎月七日・十七日・二十七日)には刑名を奏するなかれ。戊子(十九日)、太白、昼に見え、天を経る。甲午(二十五日)、泰州の民合住、謀反し、誅せらる。丙申(二十七日)、平章政事紇石烈良弼を尚書右丞相と為し、紇石烈志寧を枢密使と為す。
七年正月庚子朔(一日)、宋・高麗・夏、使いを遣わして来賀す。辛亥(十二日)、石琚、起復して参知政事と為る。壬子(十三日)、上、袞冕を服し、大安殿に御し、尊号冊宝の礼を受く。癸丑(十四日)、大赦す。庚申(二十一日)、元帥左監軍徒単合喜を枢密副使と為す。
二月庚寅、尚書右丞蘇保衡薨ず。丙申、參知政事石琚を以て尚書右丞となす。
三月己亥朔、萬春節、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。
四月戊辰朔、日食あり。壬辰、御史大夫李石を以て司徒となし、大夫はもとの如し。
五月丙午、大興府獄空し、詔して銭三百貫を賜い宴楽の用と為し、以てこれを労う。甲寅、北京留守耨碗溫敦兀帯を以て參知政事となす。
六月癸酉、地衣に龍文を用いる者を罷むるを命ず。
七月戊申、服用に金線を用いるを禁じ、其の織り売る者は皆罪に抵る。丙辰、東宮に幸す。己未、東宮に幸して皇太子の疾を視る。
閏月丁卯、近郊にて稼を観る。戊辰、許王永中を進めて越王と封じ、鄭王永功を随王と封じ、永成を審王と封ず。甲戌、詔して秘書監移剌子敬を遣わし北辺を経略せしむ。戊寅、東宮に幸す。己卯、慶雲日を環く。壬午、近郊にて稼を観る。戊子、北郊にて稼を観る。
八月辛亥、慶雲日を環く。癸丑、尚書右丞相監修國史紇石烈良弼『太宗實録』を進む、上立ちて之を受く。己未、大房山に如く。壬戌、睿陵に致祭す。
九月乙丑朔、宮に還る。己巳、右三部檢法官韓贊蝗を捕らえて賂を受くを以て、名を除く。詔す、吏人但だ贓罪を犯せば、赦に会うと雖も、旨を待たずんば叙せず。勸農使蒲察莎魯窩等を以て賀宋生日使となす。辛未、參知政事唐括安禮罷む。乙亥、宿直將軍唐括鶻魯を以て夏國生日使となす。庚辰、地震す。辛巳、都水監李衛國を以て高麗生日使となす。乙酉、秋獵す。庚寅、保州に次ぐ。詔して修起居注王天祺に所過の州県の官を察訪せしむ。
十月乙未朔、上侍臣に謂いて曰く、「近く聞く、朕の幸する郡邑に、会宴の寢堂宇は後皆之を避く、此れ甚だ謂れ無し、宣諭すべく、令して仍旧の居止せしめよ」と。戊申、都に還る。丁巳、上宰臣に謂いて曰く、「海陵は人才の優劣を弁えず、惟だ己が欲に徇い、多く升擢す。朕即位以来、此れを以て戒と為し、止だ実才を取りて之を用う。近く聞く、蠡州同知移剌延寿官に在りて汚濫なり、其の出身を詢ねれば、乃ち正隆の時の鷹房子なり。鷹房・厨人の類の如き、城を典り民を牧すべけんや?自今より此の如き局分は、臨民の職任を授くるを得ず」と。御史中丞孟浩を以て參知政事となす。是の日、參知政事耨碗溫敦兀帯薨ず。辛酉、有司に勅して東宮涼楼の前に殿位を増建せしむ、孟浩諫めて曰く、「皇太子と雖も儲貳と為り、宜しく儉徳を以て示すべく、至尊の宮室と相俟うべからず」と。乃ち之を罷む。
十一月乙丑朔、上宰臣に謂いて曰く、「県令多く其の人に非ざるを聞く、其れ吏部に令して其の善悪を察せしめ、明らかに黜陟を加えよ」と。辛未、河間尹徒單克寧等を以て賀宋正旦使となす。壬申、太白昼に見ゆ。丁丑、歳星昼に見ゆ。丁亥、樞密副使徒單合喜罷む。
十二月戊戌、東京留守徒單合喜・北京留守完顏謀衍・肇州防禦使蒲察通朝辞す、通に金帯を賜い、之に諭して曰く、「卿才あると雖も、然れども用心多く詐りあり、朕が左右は忠実の人を須う、故に卿を命じて外を補わしむ。卿に金帯を賜うは、卿の服労の久しきに答うるなり」と。又た左宣徽使敬嗣暉を顧みて謂いて曰く、「卿の如きは才無しと謂うべからず、欠くる所は純実のみ」と。甲辰、北京留守完顏思敬を以て平章政事となす。是の歳、死囚二十人を断ず。
八年正月甲子朔、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。乙丑、上宰臣に謂いて曰く、「朕天下を治むるに、方に卿等と之を共にせんとす、事不可なる有らば、各当面陳して、以て朕の逮ばざるを輔けよ、慎んで阿順して容を取ること毋れ。卿等公相の位に致るは、正に道を行い名を揚ぐるの時なり、苟も或いは安きを偸み自ら便ならば、今日の幸と為すと雖も、後世以て何如と為さんや」と。群臣皆万歳を称す。辛未、秘書監移剌子敬等に謂いて曰く、「昔唐・虞の時、未だ華飾有らず、漢は惟だ孝文純儉に務む。朕宮室に於いて惟だ過度なるを恐る、其れ或いは興修する有らば、即ち宮人の歳費を損じて以て之を充つ、今亦復た営建せず。宴飲の事の如き、近く惟だ太子の生日及び歳元に嘗て酒を飲み、往者は亦止だ上元・中秋に之を飲み、亦未だ嘗て酔いに至らず。仏法に至りては、尤も未だ信ぜず。梁武帝同泰寺の奴と為り、遼道宗民戸を以て寺僧に賜い、復た三公の官を以て之に加う、其の惑い深し」と。庚辰、皇太子冊礼を行ふ。
三月癸亥朔、萬春節、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。己巳、職官の子を以て令史を補うことを命ず。丁丑、護衛親軍の百戸・五十戸、直日に非ざれば刀を帯びて宮に入ることを得ざるを命ず。己丑、太白昼に見ゆ。
四月丙午、詔して曰く、「馬は軍旅の用に供し、牛は農耕の資とす。牛を殺すこと禁あり、馬も亦何ぞ殊ならん。其れ之を禁ずるを令せよ」。戊申、常武殿にて球を撃つ。司天の馬貴中諫めて曰く、「陛下は天下の主たり、社稷の重きを係り、又春秋高し。囲猟・撃球は危き事なり、宜しく悉く之を罷むべし」。上曰く、「朕は以て武を習うを示すのみ」。五月甲子、北望澱に大いに震い、風・雨雹あり、広さ十里、長さ六十里。戸・工の両部に詔し、今より宮中の飾り、並びに黄金を用いること勿れ。乙丑、上涼陘に如く。丁卯、歳星昼に見ゆ。庚寅、旺国崖を改めて静寧山と曰い、曷裏滸東川を改めて金蓮川と曰う。
六月、河李固渡に決し、水曹州に入る。
七月甲子、群牧の馬を盗む者を死に処する制を定め、告げる者に銭三百貫を給す。戊辰、上平章政事完顔思敬等に謂いて曰く、「朕賢士を得んことを思い、寤寐忘れず。今より朝臣外に出づるや、即ち外任の職官に廉能なる者、及び草萊の士に治を助くべき者を体訪せしめ、姓名を具して以て聞かしめよ」。甲戌、秋猟。己卯、三叉口に次ぐ。上点検司に諭して曰く、「沿路の禾稼甚だ佳し。其の扈従の人少しくも蹂躪せば、則ち汝が罪と当たるべし」。
八月乙卯、涼陘より至る。
九月辛酉、上尚書右丞石琚・参知政事孟浩に諭して曰く、「蔚州の埰地に蕈を採るに、役夫数百千人を動員すと聞く。朕の用いる所幾何ぞ。而してかくの如く擾動す。今より差役凡そ御前と称するものは、皆須く稟奏すべし。仍って冊に附せしめよ」。癸亥、右宣徽使移剌神独幹等を以て賀宋生日使と為す。己巳、引進使高希甫を以て夏国生日使と為す。庚午、上東宮に幸す。癸酉、上宰臣に諭して曰く、「卿等人材を挙用するに、凡そ己の知識する所は、必ず他人をして挙奏せしむ。朕甚だ喜ばず。もし其れ果たして賢ならば、何ぞ必ずしも親疏を以て避忌と為さんや」。戸部尚書魏子平を以て参知政事と為す。辛巳、上御史大夫李石に謂いて曰く、「台憲は固より邪正を分別するに在り。然れども内外の百司、豈に人無しと謂わんや。惟だ卿等の人の罪を劾するを聞くも、善を挙ぐるを聞かず。今より宜しく監察御史をして路を分かち善悪を刺挙して以て聞かしむべし」。上嘗て左衛将軍大磐に命じて良弓を訪求せしむ。而して磐多く自ら取りし。護衛婁室以て告ぐ。上点検司に命じて磐を鞫せしむ。磐の妹は宝林たり。磐内侍の僧児に属して之を宝林に言わしむ。宝林以て聞く。僧児を杖一百に処し、磐を出して隴州防禦使と為す。
十月己丑朔、官吏の貪墨を戒諭するを以て、中外に詔す。乙未、涿州刺史に命じて山陵の提点を兼ねしめ、毎に朔望を以て祭を致さしむ。朔には則ち素を用い、望には則ち肉を用い、仍って明年正月を以て首と為す。及び功臣を図画して太祖廟に於いて、其の碑を未だ立てざる者を立つ。翰林待制の靖を以て高麗生日使と為す。上宰臣に謂いて曰く、「海陵の時、起居注を修するに直臣を任ぜず、故に書く所多く実ならず。実を訪求し得て、詳らかにして之を録すべし」。参政孟浩進みて曰く、「良史は直筆、君の挙必ず書す。古より帝王自ら史を観ず、意正に此に在り」。辛亥、詔して複州の歳貢たる鹿筋を罷む。
十一月乙丑、東宮に幸す。同簽大宗正事の辟合土等を以て賀宋正旦使と為す。
十二月戊子朔、武定軍節度使移剌按等を遣わして阻珝を招諭す。
九年正月戊午朔、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。辛酉、上宣徽使敬嗣暉・秘書監移剌子敬と古今の事を論じ、因りて曰く、「亡遼は日に羊三百を屠食す。亦豈に能く尽く用いんや。徒らに生を傷つくるのみ。朕は至尊に処すと雖も、毎に食するに当たり、常に貧民の饑餌を思い、猶お己に在るが如し。彼身悪を為して口に福を祈る、何の益か之有らん。海陵の張仲軻を以て諫議大夫と為すが如きは、何を以てか忠言を得て聞かん。朕大臣と一事を論議するに、正しからざれば言わず。卿等正を以て対せざれば、豈に人臣の道ならんや」。庚午、諸州県の和糴を詔し、百姓に抑配することを得ざらしむ。戊寅、契丹の外失剌等謀叛し、誅に伏す。丙戌、漢人・渤海の兄弟の妻は、服闋して宗に帰し、礼を以て婚を継ぐ者は、聴すとの制を定む。
三月丁巳朔、万春節、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。丁卯、尚書省の定むる所の網をもって走獣を捕うる法、或いは徒罪に至る。上曰く、「禽獣の故を以て民を徒罪に抵せしむるは、是れ禽獣を重んじて民命を軽んずるなり。豈に朕が意ならんや。今より犯ある者は、杖して之を釈すべし」。御史中丞移剌道をして山東・河南を廉問せしむることを詔す。辛未、民間に「銷金」と称言することを禁ず。条理内旧に有る者は、「明金」の字に改作す。辛巳、大名路諸猛安の民戸艱食するを以て、使いを遣わして倉廩を発し減価して之を出さしむ。
四月己丑、宰臣に謂いて曰く、「朕在位の臣を観るに、初め仕に入る時は、競いて声譽を求めて以て爵位を取り、既に顕達するや、即ち徇默苟容して自安の計と為す。朕甚だ取らざる所なり。宜しく百官に宣諭して、朕が意を知らしむべし」。癸巳、翰林修撰蒲察兀虎・監察御史完顔鶻沙を分かち遣わして河北西路・大名・河南・山東等路に詣り、猛安謀克の農を勧めしむ。
五月丙辰朔、符宝郎徒単懐貞を以て横賜高麗使と為し、宿直将軍完顔賽也を以て横賜夏国使と為す。戊辰、尚書省奏す、越王永中・隋王永功の二府に興造有り、役夫を発す。上曰く、「朕宮中に竹枯瘁する者有るを見て、更に植えしめんと欲すれども、人を労するを恐れて止む。二王府各々引従の人力有り、又奴婢甚だ多し。何ぞ更に百姓を役せん。爾等但だ例を以て請う。海陵横役度無し、尽く例と為すべけんや。今より都に在る浮役、久しく例と為る者は仍って旧の如く、並びに官傭直を給し、重き者は奏聞すべし」。
六月庚寅、冀州の張和等反し、誅に伏す。戊戌、久旱のため、命じて宮中扇を用いること毋からしむ。庚子、雨降る。
七月乙卯朔、東北路の珠を采ることを罷む。壬申、近郊に於いて稼を観る。
八月甲申朔、役所が日食を奏上したが、雨のため見えず、鼓を伐ち幣を用いるは常礼の如し。
九月甲寅朔、刑部尚書高徳基らを賀宋生日使とし、宿直将軍僕散守中を夏国生日使とし、提点司天臺馬貴中を高麗生日使とする。皇太子の月料を罷め、歳に銭五万貫を給す。上、台臣に謂いて曰く、「比聞く、朝官内に中官の物を攬りて以て貸利を規る者有り、汝何ぞ言わざるや」と。皆対えて曰く、「知らず」と。上曰く、「朕尚お之を知る、汝に知らざる者有るや。朕若し挙行せば、汝将に安く用いんや」と。壬戌、秋獵す。
十月丁亥、都に還る。辛丑、尚書右丞相紇石烈良弼を左丞相とし、枢密使紇石烈志寧を右丞相とする。詔して宗廟の祭、鹿を以て牛に代え、令と為すを著す。丙午、大享を太廟に挙ぐ。辛亥、平章政事完顔思敬を枢密使とする。
十一月己未、尚書左丞完顔守道を平章政事とし、右丞石琚を左丞とし、参知政事孟浩を右丞とする。庚申、上、東宮に幸す。辛酉、京兆尹毅らを賀宋正旦使とする。壬戌、冬獵す。丙子、都に還る。
十二月丙戌、詔して臨潢・泰州・山東東路・河北東路の諸猛安の民を賑恤す。東京留守徒単合喜を平章政事とする。丁酉、太白昼に見ゆ。辛丑、近郊に獵す。丙午、制す、職官公罪を犯し、在官已に伏承する者は、官を去ると雖も猶論ず。
十年正月壬子朔、宋・高麗・夏、使を遣わして来賀す。甲子、命じて宮中の元宵に燈を張ることを得ざらしむ。甲戌、司徒・御史大夫李石を太尉・尚書令とする。
二月甲午、安化軍節度使徒単子温・副使老君奴、贓罪を以て誅せらる。戊申、上、近臣に謂いて曰く、「護衛は以後皆治民の官なり、其れ令して読書を以て教えしむべし」と。
三月壬子朔、万春節、宋・高麗・夏、使を遣わして来賀す。丙辰、上、因りて命ず、護衛中善射の者に宋使の射弓宴を押賜せしむ。宋使五十に中り、押宴者は纔かに其の七に中る。左右将軍に謂いて曰く、「護衛十年にして出でて五品職官と為る。三日毎に上直し、役亦軽し。豈徒に飽食安臥せしむるのみならんや。弓矢習わざれば、将に焉くにか之を用いん」と。戊午、河南統軍使宗叙を参知政事とする。庚午、上、参政宗叙に謂いて曰く、「卿昨河南統軍たりし時、黄河の堤埽の利害を言えり、甚だ朕が意に合う。朕毎に百姓の差調を念うに、官吏互いに奸弊を為し、早く計料せず、臨期星火の率斂、費す所倍蓰し、害と為ること細ならず。卿既に朝政に参ず、皆当に弊を革め、利を択びて之を行ふべし」と。又左丞石琚に諭して曰く、「女直人径に達要に居り、閭閻の疾苦を知らず。汝等自ら丞簿より是に至り、民間何事か知らざらん。凡そ利害有らば、宜しく悉く敷陳すべし」と。
四月丁酉、制す、命婦姦を犯すは、夫の廕を以て子に封ずるを用いざるは、此の法に拘わらず。
五月乙卯、柳河川に如く。
閏月庚辰、夏国任得敬其の主李仁孝を脅し、表を上らしめて、其の国を中分するを請わしむ。上、宰臣李石に問う。石等以て事は彼の国に係る、之を許すに如かずと為す。上曰く、「彼は権臣に劫かれたるのみ」と。詔して許さず、並びに其の貢物を却く。
七月壬午、秋獵す。戊戌、囲場の役夫を放つ。詔して扈従の糧食並びに官より給す。乙巳、敕す、扈従の人畜牧を縦し蹂踐して禾稼する者は、之を杖し、仍って其の直を償わしむ。
八月己未、柳河川より至る。壬申、参知政事宗叙を遣わして北巡せしむ。
九月庚辰、尚書左丞相紇石烈良弼丁憂す、起復して故の如し。壬午、簽書枢密院事移剌子敬を賀宋生日使とする。庚寅、戸部郎中夾谷阿裏補を夏国生日使とする。
十月己酉、大宗正丞糺を高麗生日使とする。甲寅、霸州に如き、冬獵す。乙丑、上、大臣に謂いて曰く、「比に巡獵に因り、固安県令高昌裔職にならざるを聞く。已に之を罷むるを令す。霸州司候成奉先職を奉じて謹恪なり、一階を進め、固安令に除くべし」と。辛未、上、宰臣に謂いて曰く、「朕凡そ事を論ずるに、未だ能く其の利害を深究すること有らざる者、卿等宜しく悉心論列すべし。面従して退きて後言有ること無かれ」と。
十一月辛巳、太廟の物を盗む者は宮中の物を盗む者と同等に論ずる制を定む。甲申、上東宮に幸す。丁亥、太子詹事蒲速察蒲越等を以て賀宋正旦使と為す。癸巳、夏国、任得敬を誅せしことを以て使いを遣わし来たり謝し、詔して慰諭す。
十二月丙寅、上宰臣に謂ひて曰く、「比来体中佳ならず、朝事に妨げ有り。今奏する所の事を観るに、皆条格に依り、殊に一も国に利する事無し。若し一朝に一事を行ひ、歳計に余り有らば、則ち其の利博しからん。朕深宮に居り、豈に悉く外事を知らんや。卿等尤も注意すべし」と。
十一年正月丙子朔、宋・夏使いを遣わし来たり賀す。丁丑、子永升を封じて徐王と為し、永蹈を滕王と為し、永済を薛王と為す。壬午、職官年七十以上にして致仕する者は、官品に拘わらず、並びに俸祿の半を給することを詔す。丙申、南京屯田猛安の水災に被る者を賑はしむるを命ず。戊戌、尚書省奏す、汾陽軍節度副使牛信昌生日に饋献を受けしは、法に当たり官を奪ふべしと。上曰く、「朝廷の事を行ふに苟も自ら正しからずんば、何を以て天下を正さん。尚書省・枢密院の生日節辰の饋献少なからず、此れを問はず、小官の饋献に即ち按劾を加ふるは、豈に天下を正すの道ならんや。今より宰執枢密の饋献も亦宜しく罷去すべし」と。上宰臣に謂ひて曰く、「往年山西に清暑せしに、近路の禾稼甚だ広く、殆ど畜牧の地無し。因りて五里外にして乃ち耕墾を得しむと命ず。今聞く、民皆之を去りて他の所に至ると、甚だ矜憫すべし。其れ旧に依りて耕種せしむべし。事此に類する有らば、卿等宜しく即ち朕に告ぐべし」と。
三月乙亥朔、万春節、宋・夏使いを遣わし来たり賀す。辛巳、有司に命じて天水郡公の旅櫬を以て一品の礼に依り鞏洛の原に葬らしむ。
四月丁未、帰徳府の民臧安児謀反し、誅せらる。大理卿李昌図、真定尹徒単貞・咸平尹石抹阿没剌の贓を受け不法なるを廉問し、既に罪状を得たりと雖も、即ち黜罷せず、之を杖つこと四十。癸亥、参知政事魏子平罷む。高麗国王晛の弟皓、其の主を廃し自ら立ち、譲国と詐称し、使いを遣わし表を以て来たり上る。
五月辛卯、吏部侍郎靖を遣わし高麗に使いせしめ故を問はしむることを詔す。癸巳、南京留守移剌成を以て枢密副使と為す。
六月己酉、詔して曰く、「諸路の常貢の数内、同州沙苑の羊は急用に非ず、徒らに民を労するのみ。今より之を罷めよ。朕深宮に居り、民を労するの事豈に尽く知らんや。此の如きは当に具さに以て聞くべし」と。戊午、近郊に於いて稼を観る。甲子、平章政事徒単合喜薨ず。
七月甲申、参知政事宗敘薨ず。
八月癸卯朔、太白昼に見ゆ。朝臣に詔して曰く、「朕嘗て汝等に諭す、国家の利便、治体の遺闕、皆直言すべしと。外路の官民も嘗て事を言ふ。汝等終に一語も無し。凡そ政事の行はるる所、豈に皆当らんや。今より直言して得失を論じ、隠す所有ること無かれ」と。乙巳、上宰臣に謂ひて曰く、「随朝の官、自ら一考を歴れば則ち某職を得べく、両考を歴れば則ち某職を得べしと謂ふ。第に因循を務め、碌碌たるのみ。今より外路の官と内除の者とに、其の公勤を察して則ち之を用ひて升し、但だ事に苟簡なるは、任満を須ひず、便ち本品を以て之を出だすべし。賞罰明らかならずんば、豈に勧勉せんや」と。庚戌、詔して曰く、「応に窩斡に因りて掠められたる女直及び諸色の人にして未だ刷放せられざる者は、官を以て贖ひ放つ。隠匿する者は、違制を以て論ず。其の年幼にして住貫を称説し能はざる者は、便に従ひ住坐せしむ」と。上宰臣に謂ひて曰く、「五品以下の闕員甚だ多しと雖も、人を得ること難し。三品以上は朕則ち之を知る。五品以下は知ること能はざるなり。卿等会ひて一言も挙ぐる者無し。久安の計を画き、百姓の利を興さんと欲して、良き輔佐無く、行ふ所皆尋常の事のみ。日に日に朝を視ると雖も、何の益か有らん。卿等宜しく之を勉め思ふべし」と。己巳、尚書刑部侍郎烏林答天錫等を以て賀宋生日使と為し、近侍局使劉珫を夏国生日使と為す。
九月癸未、横山にて猟す。庚寅、都に還る。
十月壬寅朔、左宣徽使敬嗣暉を以て参知政事と為す。甲寅、上宰臣に謂ひて曰く、「朕の已に行ひし事、卿等成命と為して復た更ふべからずと為し、但だ承順するのみ、一も執奏すること無し。且つ卿等凡そ奏する所、何ぞ嘗て従はざること有らん。今より朕の旨出づると雖も、宜しく審らかにして行ひ、未だ便ならざる有らば、即ち奏して之を改むべし。或は下位に在りて尚書省の行ふ所未だ便ならざるを言ふ有らば、亦た従ひて之を改むべく、拒みて従はざること無かれ」と。丙寅、尚書左丞相紇石烈良弼『睿宗実録』を進む。戊辰、上宰臣に謂ひて曰く、「衍慶宮の功臣を図画するに、已に命じて二十人に増す。丞相韓企先の如きは、本朝興国以来、憲章法度、多く其の手に出づ。大政を関決するに至りては、但だ大臣と謀議し、終に外人をして知覚せしめず。漢人の宰相、前後比ぶる無し。若し之を褒顕せば、亦た足りて勧めを示す。慎んで之を遺すこと無かれ」と。
十一月丁丑、西南路招討使宗甯等を以て賀宋正旦使と為す。戊寅、東宮に幸す。上皇太子に謂ひて曰く、「吾が児儲貳の位に在り、朕汝が為に天下を措く、当に復た経営の事有るべからず。汝惟だ祖宗の純厚の風を忘るること無く、以て道德を勤修するを孝と為し、賞罰を明信するを治と為すのみ。昔唐太宗其の子高宗に謂ひて曰く、『吾高麗を伐ちて克つこと終らず、汝継ぐべし』と。此の如きの事は、朕以て汝に遺さず。遼の海濱王の如き、国人其の子を愛するを以て、嫉みて之を殺す、此れ何の理ぞ。子衆に愛せらるるは、愈よ美事と為す。為す所此の若くんば、安くんぞ亡びざらん。唐太宗有道の君にして、其の子高宗に謂ひて曰く、『爾李績に恩無し。今事を以て之を出だす。我死せば、宜しく即ち僕射を授くべし。彼必ず死力を致さん』と。人を君する者、焉んぞ偽りを為さんや。父に恩を受け、安くんぞ子に報ゆるを忘れんや。朕臣下を禦するに、惟だ誠実を以てするのみ」と。群臣皆万歳を称す。丙戌、太廟に朝享す。丁亥、円丘に事有り、大赦す。癸巳、群臣尊号を奉り上りて曰く応天興祚欽文広武仁徳聖孝皇帝と。乙未、中外に詔す。
十二月癸卯、冬猟す。乙卯、宮に還る。丙辰、参知政事敬嗣暉薨ず。辛酉、越王永中を進めて趙王と封じ、随王永功を曹王と為し、沈王永成を豳王と為し、徐王永升を虞王と為し、滕王永蹈を徐王と為し、薛王永済を滕王と為す。乙丑、趙王永中・曹王永功倶に猛安を授け、仍て永功に命じて親しく事を治めしめ、以て政を習はしむ。