金史

列傳第二十: 郭藥師 蕭仲宣 高松 海陵諸子

列傳第二十: 郭藥師 蕭仲宣 高松 海陵諸子

列傳第二十 ○郭藥師(子:安國) 耶律塗山 烏延胡里改 烏延吾里補 蕭恭 完顏習不主 紇石烈胡剌 耶律恕 郭企忠 烏孫訛論 顏盞門都 僕散渾坦 鄭建充 烏古論三合 移剌溫 蕭仲恭(子:拱) 蕭仲宣 高松 海陵諸子(光英 元壽 矧思阿補 廣陽)

郭藥師

原文郭藥師

郭藥師は、渤海の鉄州の人である。遼国が遼東の人を募って兵とし、女直じょちょくに怨みを報いさせ、「怨軍」と号したが、薬師はその渠帥きょすいとなった。斡魯古が顕州を攻め、城下で薬師を破った。遼帝が天徳に逃れて保ち、耶律捏里が自立し、「怨軍」を「常勝軍」と改め、薬師を諸衛上将軍に抜擢した。捏里が死ぬと、その妻蕭妃が称制し、薬師は涿・易の二州を以て宋に帰した。薬師は宋兵六千人を率いて燕京に急襲し、甄五臣は五千人を以て迎春門を奪い、皆入城した。蕭妃は城門を閉じて宋兵と巷戦させた。薬師は大敗し、馬を失って徒歩で逃走し、城を越えて辛うじて免れた。宋人はなお厚くこれを賞した。

原文郭藥師,渤海鐵州人也。遼國募遼東人為兵,使報怨於女直,號曰「怨軍」,藥師為其渠帥。斡魯古攻顯州,敗藥師於城下。遼帝亡保天德,耶律捏里自立,改「怨軍」為「常勝軍」,擢藥師諸衛上將軍。捏里死,其妻蕭妃稱制,藥師以涿、易二州歸於宋。藥師以宋兵六千人奄至燕京,甄五臣以五千人奪迎春門,皆入城。蕭妃令閉城門與宋兵巷戰。藥師大敗,失馬步走,逾城以免。宋人猶厚賞之。

太祖が燕山六州を宋人に割譲すると、宋は薬師を王安中の副として燕山を守らせた。及んで安中が張覚を庇護できずにこれを殺し、その首を函に入れて宗望に与えるに及んで、薬師は宋人を深く怨み、自ら固める志が無くなった。宗望の軍が三河に至ると、薬師らは白河で拒戦した。兵敗れて、薬師は乃ち降伏した。宗望は遂に燕山を取った。太宗は薬師を燕京留守とし、金牌を与え、完顔かんがん氏の姓を賜った。宗望に従って宋を伐ち、凡そ宋の事の虚実は、薬師が悉く知っていた。宗望が懸軍を以て深く入り、汴城下に駐兵し、質を約し幣を納め、地を割いて全勝して帰ることができたのは、薬師が宋人の情を測り、その肯綮に中った故である。及んで両鎮が約束を受け付けず、諸将にこれを討たせると、薬師は順安軍の営を破り、三千余人を殺した。海陵が即位し、詔して諸姓を賜った者は皆本姓に復せよとし、故に薬師の子安国は仍く郭氏に姓した。

原文太祖割燕山六州與宋人,宋使藥師副王安中守燕山。及安中不能庇張覺而殺之,函其首以與宗望,藥師深尤宋人,而無自固之志矣。宗望軍至三河,藥師等拒戰于白河。兵敗,藥師乃降。宗望遂取燕山。太宗以藥師為燕京留守,給以金牌,賜姓完顏氏。從宗望伐宋,凡宋事虛實,藥師盡知之。宗望能以懸軍深入,駐兵汴城下,約質納幣,割地全勝以歸者,藥師能測宋人之情,中其肯綮故也。及兩鎮不受約束,命諸將討之,藥師破順安軍營,殺三千餘人。海陵即位,詔賜諸姓者皆複本姓,故藥師子安國仍姓郭氏。

子 安国

原文子 安國

郭安国は、薬師の子である。累遷して奉国上将軍・南京副留守となった。貞元三年、南京の大内が火災に遭い、海陵は右司郎中梁鉅・同知安武軍節度事王全をして失火の状を按問させた。留守馮長寧・都転運使左瀛は各々杖一百、除名された。安国及び留守判官大良順は各々杖八十、三官を削がれた。火の起きた処の勾当官である南京兵馬都指揮使呉浚は杖一百五十、除名された。失火の位の押宿兵吏十三人は並びに斬られた。これを諭して曰く、「朕は宮闕の壮麗を以てするのではない。即位以来、河南を巡省せんと欲するに、汝らは防慎を知らず、致して外方の奸細をして焼き延べて殆んど尽きしめた。本より汝らを死罪に処せんと欲したが、特に旧人なるを以て寛貸する。押宿人は兵法に当りて死を処すべし、この輩が奸細を容隠したかと疑う故に、皆斬るなり」と。

原文郭安國,藥師子也。累遷奉國上將軍、南京副留守。貞元三年,南京大內火,海陵使右司郎中梁钅求、同知安武軍節度事王全按問失火狀。留守馮長寧、都轉運使左瀛各杖一百,除名。安國及留守判官大良順各杖八十,削三官。火起處勾當官南京兵馬都指揮使吳浚杖一百五十,除名。失火位押宿兵吏十三人並斬。諭之曰:「朕非以宮闕壯麗也。自即位以來,欲巡省河南,汝等不知防慎,致外方奸細,燒延殆盡。本欲處爾等死罪,特以舊人寬貸之。押宿人兵法當處死,疑此輩容隱奸細,故皆斬也。」

安国は性軽躁にして、本より方略無し。海陵が宋を伐たんとし、安国を将家の子として、抜擢して兵部尚書に拝し、刑部尚書に改めた。軍興して、武捷軍都総管を領し、武勝・武平軍と共に前鋒となった。海陵が諸将に方略を授けると、安国は前に奏して曰く、「趙構が王師の至るを聞けば、その勢い必ず逃竄せん。臣等は遠近を問わず、これを追いて獲て後已まんが、但だこれを何れの地に置くべきか」と。海陵は大いに喜んで曰く、「卿の言は是なり。構を得れば即ちこれを寺観に置き、厳兵をしてこれを守らしめん」と。及んで世宗の即位を聞き、海陵は北還を謀り、更に浙西道兵馬都統制府を置き、完顔元宜を都統制とし、安国をその副とした。及んで海陵が弑害に遇うと、衆は安国の為したるを悪み、李通の輩と共に皆これを殺した。

原文安國性輕躁,本無方略。海陵將伐宋,以安國將家子,擢拜兵部尚書,改刑部尚書。軍興,領武捷軍都總管,與武勝、武平軍為前鋒。海陵授諸將方略,安國前奏曰:「趙構聞王師至,其勢必逃竄。臣等不以遠近,追之獲而後已,但置之何地?」海陵大喜曰:「卿言是也。得構即置之寺觀,嚴兵守之。」及聞世宗即位,海陵謀北還,更置浙西道兵馬都統制府,以完顏元宜為都統制,安國副之。及海陵遇弑,眾惡安國所為,與李通輩皆殺之。

賛して曰く、郭薬師は、遼の余孽、宋の厲階、金の功臣なり。一臣の身を以て三国の禍福と為すこと、是の如く其れ相侔わざるなり。魏の公叔痤が其の君に勧めて衛鞅を殺さしむるは、豈に所見無からんや。

原文贊曰:郭藥師者,遼之餘孽,宋之厲階,金之功臣也。以一臣之身而為三國之禍福,如是其不侔也。魏公叔痤勸其君殺衛鞅,豈無所見歟!

耶律塗山

原文耶律塗山

耶律塗山は、遙輦氏の系を出で、遼の世に於いて顕族たり。塗山は仕えて金吾衛大将軍・遙里相温に至る。遼帝が天徳に奔ると、塗山は所部を以て降り、宗翰は制を承けて尚書を授け、西北路招討使とした。宗翰が宋を伐つに、塗山は本部を率いて先鋒となった。汾州に至り、宋将折家軍に遇い、師の済るを請い併せ力を以てこれを破った。太原・隆徳府を攻めるに従い、汴に入るに従い、洛陽を克った。及び婁室ろうしつに従って陝右を平げる。天会七年、太子少保を授かる。十年、尚書左僕射に遷る。致仕し、卒す。年九十一。正隆の例にて特進・郜国公を贈られる。

原文耶律塗山,系出遙輦氏,在遼世為顯族。塗山仕至金吾衛大將軍、遙里相溫。遼帝奔天德,塗山以所部降,宗翰承制授尚書,為西北路招討使。宗翰伐宋,塗山率本部為先鋒。至汾州,遇宋將折家軍,請濟師並力破之。從攻太原、隆德府,從入汴,克洛陽。及從婁室平陝右。天會七年,授太子少保。十年,遷尚書左僕射。致仕,卒,年九十一。正隆例贈特進、郜國公。

烏延胡里改

原文烏延胡里改

烏延胡里改は、曷懶路星顕水の人である。後に愛也窟謀克ぼうこくを授かり、因ってここに家した。闍母に従って平州を囲み、功有り。及び宋を伐ち、汴を囲むに、五謀克が宋兵一万人と城南に遇い、胡里改は先駆けしてこれを撃破し、元帥府は遂に良馬一匹を賞した。天会五年、宗城県を攻め、敵は城を棄てて恩州に走り、胡里改は追撃して千余人を殺し、車四百両を獲た。帥府は牛三十頭・馬一匹を賞した。七年、泰山の群盗を討ち、これを平げ、その営柵を毀った。兗州の群寇三千余が山険を保拠するを、胡里改は復たこれを破った。牛二十二頭・馬四匹を賞した。八年、廬州を攻め、柘皋鎮に至り、胡里改は甲士こうし三十を領して前鋒と為り、宋の遣わして劉四廂錡に書を持たせし者七人を執った。復た先鋒軍を以て和州を攻め、含山県五里に比するに、甲士二人を獲て、乃ち宋の三将が兵を将いて将に至らんとするを知った。胡里改は其の軍を伏せ、遂に姚観察を獲た。帥府は馬二匹を賞した。九年、陝右を定め、胡里改は所部を以て敵千人に遇い、これを破り、甲士一人を生擒し、敵の虚実を尽く得た。又た蒲魯渾に従って熙秦の地を徇い、秦州にて敵兵二千を破り、馬一匹を賞した。宋人が襄陽府に屯すと、監軍按補は胡里改を遣わして四猛安もうあんを領して往きこれを攻めしめた。宋兵三千は既に江を渡り、方に営壁を営み、その未だ成らざるに乗じ、突戦してこれを破った。梁王宗弼が河南を復し、将に陳州を攻めんとし、胡里改を遣わして甲士三十を以て偵候人を捕らしめた。蔡州の西に至り、兵八十余に遇い、戦ってこれを破り、南頓県令を獲た。及び陳州を攻むるに、夜将に四更、忽ち敵が門を開き潰走するを聞き、胡里改は急ぎ二謀克の軍を領して追い及び、而して猛安突葛速も亦た軍を領して継ぎ至り、大いにこれを破った。皇統二年、定遠大将軍に遷る。八年、臨洮少尹を授かり、熙秦路兵馬副都総管を兼ねる。九年、同知京兆尹に改め、本路兵馬都総管を兼ねる。天徳に同知平陽尹に改め、河東南路兵馬都総管を兼ねる。貞元三年、同知曷懶路総管に改める。大定四年、胡里改節度使を授かる。七年、帰徳軍節度使に改める。十年、顕徳に移鎮す。官に卒す。年六十九。十九年、詔して其の子五十六に武功将軍を授け、本路婆朶火河謀克を世襲せしむ。

原文烏延胡里改,曷懶路星顯水人也。後授愛也窟謀克,因家焉。從闍母圍平州,有功。及伐宋,圍汴,五謀克與宋兵萬人遇于城南,胡里改先馳擊敗之,元帥府遂賞良馬一匹。天會五年,攻宗城縣,敵棄城走恩州,胡里改追殺千餘人,獲車四百兩。帥府賞牛三十頭、馬一匹。七年,討泰山群盜,平之,毀其營柵。兗州群寇三千餘保據山險,胡里改複破之。賞牛二十二頭、馬四匹。八年,攻廬州,至柘皋鎮,胡里改領甲士三十為前鋒,執宋所遣持書與劉四廂錡者七人。複以先鋒軍攻和州,比至含山縣五里,獲甲士二人,乃知宋三將將兵且至。胡里改伏其軍,遂獲姚觀察。帥府賞馬二匹。九年,定陝右,胡里改以所部遇敵千人,敗之,生擒甲士一人,盡得敵之虛實。又從蒲魯渾徇地熙秦,敗敵兵二千于秦州,賞馬一匹。宋人屯襄陽府,監軍按補遣胡里改領四猛安往攻之。宋兵三千已渡江,方營壁壘,乘其未就,突戰破之。梁王宗弼複河南,將攻陳州,遣胡里改以甲士三十捕偵候人。至蔡州西,遇兵八十餘,戰敗之,獲南頓縣令。及攻陳州,夜將四更,忽聞敵開門潰走,胡里改亟領二謀克軍追及之,而猛安突葛速亦領軍繼至,大敗之。皇統二年,遷定遠大將軍。八年,授臨洮少尹,兼熙秦路兵馬副都總管。九年,改同知京兆尹,兼本路兵馬都總管。天德改同知平陽尹,兼河東南路兵馬都總管。貞元三年,改同知曷懶路總管。大定四年,授胡里改節度使。七年,改歸德軍節度使。十年,移鎮顯德。卒官,年六十九。十九年,詔授其子五十六武功將軍,世襲本路婆朵火河謀克。

烏延吾里補

原文烏延吾里補

烏延吾里補は、曷懶路禅嶺の人である。大名路に移住した。天会年間、その父達吉補に従って元帥右監軍の麾下に隷属した。撻懶たつらんが事のため朝廷に赴くに当たり、達吉補を自ら随伴させた。吾里補はその父の謀克を領し、大軍に従って滄州を攻めた。ちょうど濠堀を埋めていると、城中の兵が来て抵抗したので、吾里補は本部をもってこれを撃退した。王師が青州を下すに当たり、力戦して功があり、馬百匹を獲て献上し、賊党を降伏・捕獲すること甚だ多かった。青州の戍将覿吉補は、萊州の兵が衆多であることを理由に、帥府に援軍を請うた。吾里補は十二謀克の兵を率いて往きこれを救った。遂にその四営を降し、その一営を抜き、戸四千を得た。また恩州において賊兵五万を破り、その営を攻め破り、戸五万を降し、牛畜一万余を獲た。臨清県に至らんとする時、敵兵三千に遇い、またこれを破り、俘獲甚だ多く、賊の首領を生け捕りにして献上した。帥府はその功を嘉し、奴婢百人・牛三十頭をもってこれを賞した。時に覿吉補が恩州の境で敗れたので、吾里補はまた兵四千をもって往きこれを救い、敵一万余を破った。宋兵十万が単父の間にあり、総管宗室移剌屋が歩卒一万・騎兵四千を選んで往きこれを討とうとした。吾里補はその親管謀克を率いてこれに従い、敵に遇って先登し、力戦して功があった。大軍が密州を経略するに当たり、吾里補は兵二千を率いて前鋒となり、高密において敵一万人に遇い、遂にその衆を破り、城下まで追撃し、殺戮すること殆ど尽き、馬牛三千余を獲た。吾里補は孛太欲とともに州の南において賊王義の軍十余万を破った。この夜、賊兵数千が来て営を襲ったので、吾里補は兵をもって横撃しこれを走らせた。後に大軍に従って楚・揚・通・泰等の州を攻めた。天眷二年、その父の世襲猛安を襲い、寧遠大将軍を授けられた。皇統七年、親管謀克を加えられた。天徳三年、同知帰徳尹に除せられた。正隆初年、唐古部族節度使となった。大定二年、保大軍節度使となった。この年、通遠に鎮を改めた。この時、宋軍十万余が河・隴に入り、険要を占拠し、郡邑を攻めた。元帥左都監合喜が増兵を上奏した。詔して兵七千を増やし、吾里補と彰化軍節度使宗室璋ら七人を遣わして共に往かせ、任使に備えさせた。龍虎衛上将軍に進階した。軍中において卒した。

原文烏延吾里補,曷懶路禪嶺人也。徙大名路。天會中,從其父達吉補隸元帥右監軍麾下。撻懶以事赴闕,以達吉補自隨。吾里補領其父謀克,從大軍攻滄州。方夷濠隍,城中兵來拒,吾里補以本部擊卻之。王師下青州,力戰有功,獲馬百匹以獻,降獲賊黨甚眾。青州戍將覿吉補以萊州兵眾,請濟于帥府。吾里補將十二謀克兵往救之。遂降其四營,拔其一營,得戶四千。又敗賊兵五萬於恩州,攻破其營,降戶五萬,獲牛畜萬餘。將至臨清縣,遇敵兵三千,又敗之,俘獲甚眾,生擒賊首以獻。帥府嘉其功,以奴婢百、牛三十賞之。時覿吉補敗於恩州之境,吾里補複以兵四千往救之,破敵萬餘。宋兵十萬在單父間,總管宗室移剌屋選步卒一萬、騎兵四千往討之。吾里補領其親管謀克以從,遇敵先登,力戰有功。大軍經略密州,吾里補將兵二千為前鋒,遇敵萬人于高密,遂敗其眾,追至城下,殺戮殆盡,獲馬牛三千餘。吾里補與孛太欲敗賊王義軍十余萬于州南。是夜,賊兵數千來襲營,吾里補以兵橫擊走之。後從大軍攻楚、揚、通、泰等州。天眷二年,襲其父世襲猛安,授甯遠大將軍。皇統七年,益以親管謀克。天德三年,除同知歸德尹。正隆初,為唐古部族節度使。大定二年,為保大軍節度使。是歲改鎮通遠。是時,宋軍十萬餘入河、隴,據險要,攻郡邑。元帥左都監合喜奏益兵。詔益兵七千,遣吾里補與彰化軍節度使宗室璋等七人偕往,以備任使。進階龍虎衛上將軍。卒於軍中。

蕭恭

原文蕭恭

蕭恭、字は敬之、乃烈奚王の後裔である。父の翊は、天輔年間に帰朝し、興中攻めに従い、遂に興中尹とされた。師が還ると、恭を質子とした。宗望が宋を伐つに当たり、翊は建・興・成・川・懿の五州の兵を率いて万戸となるはずであったが、軍帥は恭の才勇を以て、その父に代わって行かせた。時に年二十三。中山に至ると、宋兵が出戦したので、恭は先ず配下部隊をもってこれを撃破した。山東を経て、淮を渡り、康王を襲うこと、皆軍中に在った。師が還ると、帥府が承制して德州防禦使を授け、濱・棣の間に屯する奚人は皆これに隷属させた。棣州防禦使に改めた。皇統年間、同知横海軍節度使に改めた。父の喪に服し、起復して太原少尹となった。廉潔をもって用いられ、同知中京留守事に遷った。累遷して兵部侍郎となり、世襲謀克を授けられた。禁中の起居の状を問うた罪に坐し、杖刑に処せられ、一官を奪われた。貞元二年、同知大興尹となった。一年余りして、兵部尚書に遷り、宋国生日使となった。母の喪により官を去り、起復して侍衛親軍馬歩軍都指揮使となった。正隆四年、光禄大夫に遷り、また兵部尚書となった。この年、夏国の辺界を経画し、還る途上臨潼を過ぎた時、佩用していた金牌を失った。太原に至り、憂い憤って病となった。時に既にその事を駅伝をもって朝廷に聞かせており、海陵はまた命じてこれを給し、なお恭に諭して言わせた、「汝が信牌を失うは、亦た謹まざるが如し。朕まさに汝を待ち、委使せんと欲するに、乃ち疾を称するか。必ずや去る日に身に信牌を佩き、帰れば以て言うべきこと無からんとし、朕に先ず知らしめんと欲するのみ。」使いが至った時、恭は既に病篤く、稽顙して命を受け、俄かにして卒した。海陵はまさに使いをその子の護衛九哥とともに馳せて視させようとし、乃ち府官に命じて善くこれを護らせた。保州に至った時、既に訃報を聞いたので、海陵は深く悼み惜しんだ。九哥に命じて喪を護って還らせ、過ぐる州府に奠を設けさせた。喪が都に至ると、百官に命じて祭を致させた。親しく臨奠し、賻贈甚だ厚く、併せて廄馬一頭を賜った。九哥に謂って曰く、「爾が父は命を奉じ、道途に卒す。甚だ悼惜すべきなり。朕この馬に乗ること十年、今汝が父に賜う。常に控えて柩の前まで至るべし。既に葬れば、汝則ちこれに乗れ。」

原文蕭恭,字敬之,乃烈奚王之後也。父翊,天輔間歸朝,從攻興中,遂以為興中尹。師還,以恭為質子。宗望伐宋,翊當領建、興、成、川、懿五州兵為萬戶,軍帥以恭材勇,使代其父行,時年二十三。至中山,宋兵出戰,恭先以所部擊敗之。經山東,及渡淮,襲康王,皆在軍中。師還,帥府承制授德州防禦使,奚人之屯濱、棣間者皆隸焉。改棣州防禦使。皇統間,改同知橫海軍節度使。丁父憂,起複為太原少尹。用廉,遷同知中京留守事。累遷兵部侍郎,授世襲謀克。坐問禁中起居狀,決杖,奪一官。貞元二年,為同知大興尹。歲餘,遷兵部尚書,為宋國生日使。以母憂去官,起複為侍衛親軍馬步軍都指揮使。正隆四年,遷光祿大夫,複為兵部尚書。是歲,經畫夏國邊界,還過臨潼,失所佩金牌。至太原,憂恚成疾。時已具其事驛聞於朝,海陵複命給之,仍遣諭恭曰:「汝失信牌,亦猶不謹。朕方俟汝,欲有委使,乃稱疾耶?必以去日身佩信牌,歸則無以為辭,欲朕先知耳。」使至,恭已疾篤,稽顙受命,俄頃而卒。海陵方遣使與其子護衛九哥馳視,乃戒府官使善護之。至保州,已聞訃矣,海陵深悼惜之。命九哥護喪以還,所過州府設奠。喪至都,命百官致祭。親臨奠,賻贈甚厚,並賜廄馬一。謂九哥曰:「爾父銜命,卒於道途,甚可悼惜。朕乘此馬十年,今賜汝父,可常控至柩前。既葬,汝則乘之。」

完顔習不主

原文完顏習不主

完顔習不主、年十六にして、宋征伐に従い、懐仁県を攻め下し、功最も上であった。睿宗に従って陝西を経略し、兵七百人をもって丹州の諸山に入り、盗賊三千に遇い、これを撃破した。また賊四千を破り、その将帥を生け捕りにした。隴州を出て、兵四百をもって敵数千を破った。宋兵七千が鞏州を取らんとして来たので、またこれを撃退した。また五千の兵をもって呉玠の衆三万を破り、白塔口において敵五千に遇い、またこれを破った。別に定遠等の寨を降した。皇統二年、同知臨洮尹を授けられ、憂いにより官を去った。期に満たず、旧職をもって起復し、孟州防禦使に改め、臨洮尹に遷った。また罪により罷免された。正隆三年、起用されて京兆尹となり、河南尹に改めた。卒す。年五十八。

原文完顏習不主,年十六,從伐宋,攻下懷仁縣,功居最。從睿宗經略陝西,以兵七百人入丹州諸山,遇盜三千,擊敗之。又破賊四千,生擒其將帥。出隴州,以兵四百敗敵數千。宋兵七千來取鞏州,複擊走之。又以五千兵敗吳玠之眾三萬,白塔口遇敵五千,複敗之。別降定遠等寨。皇統二年,授同知臨洮尹,以憂去官。未期,以舊職起複,改孟州防禦使,遷臨洮尹。複以罪罷。正隆三年,起為京兆尹,改河南尹。卒,年五十八。

紇石烈胡剌

原文紇石烈胡剌

紇石烈胡剌は、晦発川唵敦河の人で、西北路に移住した。契丹文字を識り、帥府の小吏となった。梁王宗弼が陝西を回復した時、久しく音信が通じなかった。睿宗が燕京におり、胡剌を遣わしてその様子を伺わせた。この時、宗弼は鳳翔より和尚原を攻め、胡剌に彼の地の地形を視察させ、道を修め城を築かせた。天会十二年、濱州に往き密かに南辺の事態を訪れ、及び劉豫が斉を治める様子を観察し、その虚実を尽く得た。睿宗は甚だこれを嘉した。皇統初年、宗弼に従って淮を渡り、及び廬・和の二州を下し、張浚・韓世忠等の軍を大破した。胡剌を馳せて奏上させ、金盂・重彩五端・絹五匹をもって賞した。七年、同知景州軍州事を授けられ、廉潔をもって忠武校尉を加えられた。天徳初年、監察御史として分司行台に任じ、歴任して同知済州防禦使事となり、入朝して監察御史となった。任期満了して再任された。大定二年、刑部員外郎に遷り、御史大夫白彦敬とともに西北部族に馬を買いに行った。累転して泗州防禦使となり、三遷して蒲与路節度使となり、寧昌軍に移り、卒した。

原文紇石烈胡剌,晦發川唵敦河人,徙西北路。識契丹字,為帥府小吏。梁王宗弼複陝西,久不通問。睿宗在燕京,遣胡剌往候之。是時,宗弼自鳳翔攻和尚原,使胡剌視彼中地形,修道築城。天會十二年,往濱州密訪南邊事體,及觀劉豫治齊狀,盡得其虛實。睿宗甚嘉之。皇統初,從宗弼渡淮,及下廬、和二州,大破張浚、韓世忠等軍。遣胡剌馳奏,賞以金盂、重彩五端、絹五匹。七年,授同知景州軍州事,以廉,加忠武校尉。天德初,以監察禦史分司行台,曆同知濟州防禦使事,入為監察禦史。秩滿再任。大定二年,遷刑部員外郎,與御史大夫白彥敬往西北部族市馬。累轉泗州防禦使,三遷蒲與路節度使,移甯昌軍,卒。

耶律恕

原文耶律恕

耶律恕、字は忠厚、本名は耨里、遼の横帳秦王の族裔なり。人となり謹み深く志あり、書を読むを喜び、契丹の大小字に通ず。耶律高八と共に来帰す。婁室、高八に問うて曰く、「爾と同来の者に、誰か軍旅の事を任用し治むるに足るや」と。高八封じて曰く、「耨里可なり」と。婁室、宗翰と宋を伐つに、恕は前鋒に隷し、和尚原を取り、仙人関を攻め、特に睿宗に知られ、再び太原・真定少尹を除せらる。撒離喝、陝西参謀に辟署し、軍務を委ね、行台兵部侍郎に遷り、再び尚書左司郎中に遷る。海陵、平章政事たりし時、恕に謂いて曰く、「君も亦た党有りや」と。恕正色して曰く、「窮すれば則ち独り其の身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を善くす。其の道を以て之を得ざれば、恕が志に非ず、何ぞ朋党の有らんや」と。海陵徐に曰く、「前言は之を戯れしのみ」と。久しきの後、沁南軍節度使となり、行台工部尚書に遷る。行台罷まるに及び、安国軍節度使に改め、参知政事となる。疾を以て解くを求め、興中尹となり、入りて太子少保となる。正隆元年致仕す。広平郡王に封ぜらる。薨ず、年六十九。二年、例に依り銀青光禄大夫を贈らる。

原文耶律恕,字忠厚,本名耨里,遼橫帳秦王之族也。為人謹願有志,喜讀書,通契丹大小字。與耶律高八來歸。婁室問高八曰:「與爾同來者,誰可任用治軍旅事?」高八封曰:「耨里可。」婁室與宗翰伐宋,恕隸前鋒,取和尚原,攻仙人關,特為睿宗所知,再除太原、真定少尹。撒離喝辟署陝西參謀,委以軍務,遷行台兵部侍郎,再遷尚書左司郎中。海陵為平章政事,謂恕曰:「君亦有黨乎?」恕正色曰:「窮則獨善其身,達則兼善天下。不以其道得之,非恕之志也,何朋黨之有!」海陵徐曰:「前言戲之耳。」久之,為沁南軍節度使,遷行台工部尚書。行台罷,改安國軍節度使,為參知政事。以疾求解,為興中尹,入為太子少保。正隆元年致仕。封廣平郡王。薨,年六十九。二年,例贈銀青光祿大夫。

郭企忠

原文郭企忠

郭企忠、字は元弼、唐の汾陽王郭子儀の後なり。郭氏は子儀より承勳に至るまで、皆北方を節鎮す。唐の季、承勳は遼に入り、子孫相継ぎて天徳軍節度使となり、昌金に至り降って副使となる。企忠幼くして孤となり、母に事えて孝謹なり。年十三、母の喪に居り、哀毀すること成人の如し。服除け、父の官を襲ぎ、左散騎常侍を加う。天輔中、大軍雲中に至り、耶律坦を遣わして諸部を招撫す。企忠来降す。軍帥命じて天徳軍節度使事を同勾当せしめ、其の部を徙して韓州に居らしむ。及び太祖に謁見し、其の家世を知るを問うて、礼遇優厚にし、白鷹を以て之を賜う。天会三年、宋を伐ち、西南諸部の番・漢軍兵を領し、猛安となり、雁門を破るに従い、兵を屯し、桂州管内観察留後を加えられ、代州を鎮む。明年、賊楊麻胡等、衆数千を五台に聚めしを、企忠は同知州事迪里と共に討ち平げ之。汾州事を知るに遷る。是の時汾州初めて下り、居民多く軍士に掠め去られ、城邑蕭然たり。企忠、帥府に詣り力請し、其の親旧の贖い還るを聴かんことを願う。帥府之に従う。未だ幾ばくもあらざるに、完実すること旧の如し。石州の賊閻先生、衆数万を以て城下に至る。僚属内変有るを慮り、備えを為さんことを請う。企忠曰く、「吾れ汾人に徳有り、他無きを保つ」と。乃ち吏民を率いて城守す。会うに援至り、合撃して之を破る。六年、静江軍節度留後に改め、天徳軍節度使・汴京歩軍都指揮使に遷り、累遷して金吾衛上将軍となる。秩満し、権沁州刺史となる。官に到ること歳余にして卒す、年六十八。

原文郭企忠,字元弼,唐汾陽王子儀之後。郭氏自子儀至承勳,皆節鎮北方。唐季,承勳入於遼,子孫繼為天德軍節度使,至昌金降為副使。企忠幼孤,事母孝謹。年十三,居母喪,哀毀如成人。服除,襲父官,加左散騎常侍。天輔中,大軍至雲中,遣耶律坦招撫諸部。企忠來降。軍帥命同勾當天德軍節度使事,徙所部居於韓州。及見太祖,問知其家世,禮遇優厚,以白鷹賜之。天會三年,伐宋,領西南諸部番、漢軍兵,為猛安,從破雁門,屯兵,加桂州管內觀察留後,鎮代州。明年,賊楊麻胡等聚眾數千於五台,企忠與同知州事迪里討平之。遷知汾州事。是時汾州初下,居民多為軍士掠去,城邑蕭然。企忠詣帥府力請,願聽其親舊贖還。帥府從之。未幾,完實如故。石州賊閻先生眾數萬至城下,僚屬慮有內變,請為備。企忠曰:「吾於汾人有德,保無他。」乃率吏民城守。會援至,合擊,破之。六年,改靜江軍節度留後,遷天德軍節度使、汴京步軍都指揮使,累遷金吾衛上將軍。秩滿,權沁州刺史。到官歲餘,卒,年六十八。

烏孫訛論

原文烏孫訛論

烏孫訛論、騎射に善くし、父撒改の謀克を襲ぎ、蒙刮に従い東京及び広寧を攻め、北京の山賊を撃ち、皆功有り。蕭霸哲来たりて恩州を攻むるに、訛論は六十騎を以て之を偵る。夜に逮うて、敵数百騎に遇い、掩撃し、三人を生獲す。霸哲の衆九万将に至らんとするを知る。故に蒙刮以て備えを為すを得、遂に霸哲を破る。宗望、宋を伐ち、已に汴に至るに、訛論は尉氏・中牟の援兵を破り、其の城を取る。久しきの後、兵百五十人を以て敵一千を滄州西に破る。明年、再び宋を伐つ。蒙刮は開州を戍り、訛論は騎四百を以て河を守り、復た千余人を敗り、首七百を斬る。宗弼、淮を渡るに、阿里先ず舟を江上に具す。王善の兵其の前を扼すを聞く。宗弼、訛論に師を済ませしめて王善を和州北に敗る。李成、兵七万を以て烏江に拠るに、訛論は二千人を帥いて直前に進み之を敗る。宗弼遂に江を渡り江寧に至る。十五年、沂州の竇防御叛く。訛論之を敗り、竇防御を獲る。前後の功を録し、猛安を授け、昭武大将軍を加う。宗弼再び河南を取るに、訛論は五十騎を以て楊家賊五百を徐州東に敗る。功を以て賞を受くること、勝げて計ふべからず。天徳二年、唐州刺史を除せられ、淄州に移り、石壘部族節度使に遷る。行きて北京に至り、病にて卒す。

原文烏孫訛論,善騎射,襲父撒改謀克,從蒙刮攻東京及廣寧,擊北京山賊,皆有功。蕭霸哲來攻恩州,訛論以六十騎偵之。逮夜,遇敵數百騎,掩擊之,生獲三人,知霸哲眾九萬且至,故蒙刮得以為備,遂破霸哲。宗望伐宋,已至汴,訛論破尉氏、中牟援兵,取其城。久之,以兵百五十人破敵一千於滄州西。明年,再伐宋。蒙刮戍開州,訛論以騎四百守河,複敗千餘人,斬首七百餘。宗弼渡淮,阿里先具舟于江上,聞王善兵扼其前。宗弼使訛論濟師敗王善於和州北。李成以兵七萬據烏江,訛論帥二千人直前敗之。宗弼遂渡江至江寧。十五年,沂州竇防禦叛。訛論敗之,獲竇防禦。錄前後功,授猛安,加昭武大將軍。宗弼再取河南,訛論以五十騎敗楊家賊五百於徐州東。以功受賞,不可勝計。天德二年,除唐州刺史,移淄州,遷石壘部族節度使。行至北京,病卒。

顔盞門都

原文顏盞門都

顔盞門都、隆州帕里幹山の人なり。身長く、須髯美なり。天会の間、其の兄羊艾に従い軍中に在り。方に汴京を取らんとする時、其の兄戦歿す。遂に甲を擐ぎて其の兄に代わり軍に充つ。睿宗陝右を定むるに、門都を以て蒲輦と為し、監軍杲の親管万戸に隷し、饒風関を攻む。坊州に至り、杲、総管蒲魯虎と鳳翔に会せんと欲し、門都に六十騎を領して先ず往き期会せしむ。還るに及び、地形の険厄を備へ得、銀五十両を賞す。其の後、樑王宗弼、軍を山東に駐め、人を陝西に詣らしめ、特に門都を召し至らしむ。廃斉及び百姓を安撫する詔書を齎し、往きて監軍宗室杲を諭せしむ。門都既に還る。宗弼良馬銀絹を以て賞す。事畢り、復た杲に従わしむ。天眷初、叛将定国軍節度使李世輔、偽りて杲を私署に邀え、甲を献ずるを名と為し、遂に兵を以て劫し執りて去る。門都突出し、以て押軍猛安完顔撻懶に告ぐ。同率兵追ひ及び、首を出して戦ふ。杲此に由りて脱するを得、功を以て明威将軍に遷る。復た杲に従ひ陝西を招復し、進みて鳳翔に至る。斉国初めて廃せらる。諸路多く反復一ならず。杲門都に牌劄を授け、往きて撫定せしむ。門都の至る所、多く甲兵を張り、従ふ者は之を安んじ、違ふ者は之を討つ。帖然として復た叛く者無し。杲甚だ之を嘉す。皇統初、広威将軍に遷る。四年、同知通遠軍節度使事を授けられ、保安軍事を知るに改む。天徳三年、丹州刺史兼知軍事と為る。正隆初、甯州刺史と為る。大定初、宋将呉璘等、軍数十万人を以て秦・隴に拠る。元帥府制を承け門都を以て勇烈軍都総管と為し、軍を領して之を討たしむ。宋人徳順に保拠す。都監合喜、武威軍副都総管夾谷査剌を遣わし、宗室璋と会し、征討の策を議す。璋及び門都に曰く、「須らく都監親しく至らば、敵必ず退かん」と。合喜、軍四万を領して来赴す。遂に徳順州を復す。明年、秦・隴平ぐ。功を以て金吾衛上将軍に遷り、通遠軍節度使を授けらる。五年、慶陽尹に改め、本路兵馬都総管を兼ね、官にて卒す。十九年、功を録し、子六哥を以て本路曷懶兀主猛安敵骨論窟申謀克を世襲せしめ、武功将軍を授く。

原文顏盞門都,隆州帕里幹山人也。身長,美須髯。天會間,從其兄羊艾在軍中。方取汴京,其兄戰歿,遂擐甲代其兄充軍。睿宗定陝右,以門都為蒲輦,隸監軍杲親管萬戶,攻饒風關。至坊州,杲欲與總管蒲魯虎會於鳳翔,遣門都領六十騎先往期會。及還,備得地形險厄,賞銀五十兩。其後樑王宗弼駐軍山東,遣人詣陝西,特召門都至。令齎廢齊及安撫百姓詔書,往諭監軍宗室杲。門都既還,宗弼賞以良馬銀絹。事畢,複遣從杲。天眷初,叛將定國軍節度使李世輔偽邀杲至私署,以獻甲為名,遂以兵劫執而去。門都突出,以告押軍猛安完顏撻懶,同率兵追及,首出與戰,杲由此得脫,以功遷明威將軍。複從杲招複陝西,進至鳳翔。齊國初廢,諸路多反復不一。杲授門都牌劄,令往撫定。門都所至,多張甲兵,從者安之,違者討之,帖然無複叛者,杲甚嘉之。皇統初,遷廣威將軍。四年,授同知通遠軍節度使事,改知保安軍事。天德三年,為丹州刺史兼知軍事。正隆初,為甯州刺史。大定初,宋將吳璘等以軍數十萬人據秦、隴,元帥府承制以門都為勇烈軍都總管,領軍討之。宋人保據德順。都監合喜遣武威軍副都總管夾谷查剌,會宗室璋,議征討之策。璋及閘都曰:「須都監親至,敵必退矣。」合喜領軍四萬來赴,遂複德順州。明年,秦、隴平,以功遷金吾衛上將軍,授通遠軍節度使。五年,改慶陽尹,兼本路兵馬都總管,卒于官。十九年,錄功,以子六哥世襲本路曷懶兀主猛安敵骨論窟申謀克,授武功將軍。

門都、性忠厚謹愨にして、営壁を安置するに、尤も能く慎密なり。敵忽ち来たる有りと雖も、矢石前に至るも、泰然自若たり。乃ち士卒に号令すること平時の如し。是に由りて人益々安んじて附き、而して功成り易し。

原文門都性忠厚謹愨,安置營壁,尤能慎密。有敵忽來,雖矢石至前,泰然自若,乃號令士卒如平時,由是人益安附,而功易成焉。

僕散渾坦

原文僕散渾坦

僕散渾坦は、蒲與路挾懣の人である。身長七尺、勇健にして力あり、騎射を善くす。十六歳の時、その父胡沒速に従い征伐に従う。初め修武校尉を授けられ、宗弼の紮也となる。天眷二年、宋の岳飛と相拒す。渾坦は六十騎を率い、深く入りて覘伺し、鄢陵に至り、宋の護糧餉軍七百余人を破り、多く俘獲す。皇統九年、慈州刺史を除され、再び利涉軍節度使に遷り、世襲の濟州和術海鸞猛安涉里斡設謀克を授かる。貞元初め、憂いにより官を去る。旧職に起復され、泰寧・永定軍を歴任し、咸平尹に改む。海陵が渾坦の弟の樞密使忽土を殺し、渾坦を南京に召す。既に謁見し、沈思すること久しく、これに謂いて曰く、「汝は功労旧きあり、忽土によりて官を得たるにあらず、これによりて罪を得るは、甚だ矜憫すべきなり」と。遂にこれを釈す。興平軍節度使に改む。世宗即位し、広寧尹と為す。窩斡反し、行軍都統と為り、曷懶路総管徒単克寧と倶に左翼に在り、窩斡を長濼にて破る。臨潢尹に改む。賊平ぎ、金帛を賜う。曷懶路兵馬都総管に改む。顯徳軍・慶陽尹に徙す。致仕す。大定十二年、上旧功を思い、利涉軍節度使として起用し、復た金紫光禄大夫をもって致仕す。卒す。年七十二。

原文僕散渾坦,蒲與路挾懣人也。身長七尺,勇健有力,善騎射。年十六,從其父胡沒速征伐。初授修武校尉,為宗弼紮也。天眷二年,與宋岳飛相拒。渾坦領六十騎,深入覘伺,至鄢陵,敗宋護糧餉軍七百餘人,多所俘獲。皇統九年,除慈州刺史,再遷利涉軍節度使,授世襲濟州和術海鸞猛安涉里斡設謀克。貞元初,以憂去官。起復舊職,曆泰寧、永定軍,改咸平尹。海陵殺渾坦弟樞密使忽土,召渾坦至南京。既見,沈思久之,謂之曰:「汝有功舊,不因忽土得官,以此致罪,甚可矜憫。」遂釋之。改興平軍節度使。世宗即位,以為廣甯尹。窩斡反,為行軍都統,與曷懶路總管徒單克寧俱在左翼,敗窩斡於長濼。改臨潢尹。賊平,賜金帛。改曷懶路兵馬都總管。徙顯德軍、慶陽尹。致仕。大定十二年,上思舊功,起為利涉軍節度使,複以金紫光祿大夫致仕。卒,年七十二。

渾坦は十七の官を歴任し、未だ嘗て佐貳たることなし。性沈厚にして識あり、未だ嘗て学問せざれども、聴断に明らかにして、至る所に治声ありという。

原文渾坦曆一十七官,未嘗為佐貳。性沈厚有識,雖未嘗學問,明於聽斷,所至有治聲雲。

鄭建充

原文鄭建充

鄭建充、字は仲実、その先は京兆の人、鄜州に籍を占む。宋に仕え、累官して延安府事を知る。天会七年来降し、仍って延安府を知り、兵三千を屯す。宋の劉光烈兵八万来たりて建充を攻め、四十余日相拒す。攻め益々急なり、建充は人を遣わして斜喝の軍と会し、夾撃してこれを破り、その裨将ひしょう賀貴を俘虜す。節制司統制軍馬に遷る。京兆府路兵馬都監に改む。宋の曲端を彭原にて破る。高昌宗延安に拠り、宋のために守る、建充これを撃ち、尽く城邑を回復す。復た延安軍府事を知る。斉国建つ、累遷して博州団練使、寧州を知る。斉国廃され、朝廷地を以て宋に賜う、宋の環慶路経略安撫副使と為り、仍って寧州を知る。天眷、再び陝西を取る、仍って経略安撫使と為し、慶陽を知る。甘穀城を破るに従い、平涼尹に改む。是の時、南京宮室を営建し、大いに河東・陝西の材木を発し、河を浮かびて下り、砥柱の険を経る、筏工多く沈溺し、有司敢えて以て聞かず、乃ち逃亡を誣いて、その家を錮す。建充その事を白し、砥柱に至り筏を解き、順流に散らして下し、善く遊ぶ者に下流にて接ぎ出さしめ、而して錮せられたる者釈かる。正隆軍興し、筋角を括りて軍器を造る、百姓往々にして牛を椎きてこれを取り、或いは生にその角を抜き取り、牛泣き下る者有り。建充その事を朝に白す。

原文鄭建充,字仲實,其先京兆人,占籍鄜州。仕宋,累官知延安府事。天會七年來降,仍知延安府,屯兵三千。宋劉光烈兵八萬來攻建充,相距四十餘日。攻益急,建充遣人會斜喝軍,夾擊破之,俘其裨將賀貴。遷節制司統制軍馬。改京兆府路兵馬都監。敗宋曲端于彭原。高昌宗據延安,為宋守,建充擊之,盡複城邑。複知延安軍府事。齊國建,累遷博州團練使,知寧州。齊國廢,朝廷以地賜宋,為宋環慶路經略安撫副使,仍知寧州。天眷複取陝西,仍以為經略安撫使,知慶陽。從破甘穀城,改平涼尹。是時營建南京宮室,大發河東、陝西材木,浮河而下,經砥柱之險,筏工多沉溺,有司不敢以聞,乃誣以逃亡,錮其家。建充白其事,請至砥柱解筏,順流散下,令善遊者下流接出之,而錮者得釋。正隆軍興,括筋角造軍器,百姓往往椎牛取之,或生拔取其角,牛有泣下者。建充白其事於朝。

建充の性剛暴にして、常に猘犬十数を畜い、奴僕罪有れば既に笞し、已にして復た犬を嗾けてこれを齧ましめ、骨肉尽くす。謙遜して下士すと雖も、己に敵する上には一も屈する所なし。省部の文移に法度に応ぜざる有れば、輒ちこれを坐の下に置き、或いは即ち毀裂す、ここにおいて在位者これを銜む。軍胥の李換公帑を窃用し、自ら度り免れ得ざるを、乃ち建充が甲を蔵し反せんと欲すと誣う、更に再び鞫すも、皆状無し。方に奏上せんとす、摂事者素より建充と隙有り、その釈かるるを得んことを恐れ、吏をして文書を持たしめ建充に紿いて曰く、「朝省に命有り、奈何」と。建充曰く、「惟だ汝の為す所なり」と。是の夜、獄中に死す。長子訴うるも亦た死す。

原文建充性剛暴,常畜猘犬十數,奴僕有罪既笞,已複嗾犬齧之,骨肉都盡。雖謙遜下士,于敵己上一無所屈。省部文移有不應法度,輒置之坐下,或即毀裂,由是在位者銜之。軍胥李換竊用公帑,自度不得免,乃誣建充藏甲欲反,更再鞫,皆無狀。方奏上,攝事者素與建充有隙,恐其得釋,使吏持文書紿建充曰:「朝省有命,奈何?」建充曰:「惟汝所為。」是夜,死於獄中。長子訴亦死焉。

烏古論三合

原文烏古論三合

烏古論三合は、曷懶路愛也窟河の人、後に真定に徙る。睿宗右副元帥と為り、三合の勇略を聞き、選びて紮也に充つ。後に宗弼に従い征伐し、曲院都監を補す。未だ幾ばくもせず、宋を伐つに従う。宋兵と潁州にて遇い、三合先登してこれを破る。皇統元年、漢軍千戸を領し、帥府再び軍四千を以てこれに隷す。同知鄭州防禦使事を除され、再び太子少詹事に遷る。大定六年、洺州防禦使に改む。上曰く、「卿昔睿宗に事え、労苦を積む。朕に逮り事え、太子を輔佐し、力を宣ぶること多し。今名郡を典とす、以て卿を労する所以なり」と。永定軍節度使に遷り、臨潢・鳳翔尹、陝西路統軍使、東平尹を歴任す。州郡を節制し、躬り倹約を行い、政は寛簡を先とし、辺庭久しく寧んじ、人民安んずるを得たり。召されて簽書枢密院事と為る。卒す。

原文烏古論三合,曷懶路愛也窟河人,後徙真定。睿宗為右副元帥,聞三合勇略,選充紮也。後從宗弼征伐,補曲院都監。未幾,從伐宋。與宋兵遇於潁州,三合先登破之。皇統元年,領漢軍千戶,帥府再以軍四千隸焉。除同知鄭州防禦使事,再遷太子少詹事。大定六年,改洺州防禦使。上曰:「卿昔事睿宗,積勞苦。逮事朕,輔佐太子,宣力多矣。今典名郡,所以勞卿也。」遷永定軍節度使,曆臨潢、鳳翔尹,陝西路統軍使,東平尹。節制州郡,躬行儉約,政先寬簡,邊庭久寧,人民獲安。召為簽書樞密院事。卒。

十八年、世宗三合の旧労を追録し、その子大興に河北西路愛也窟河世襲猛安阿里門河謀克を授け、階は武功将軍。

原文十八年,世宗追錄三合舊勞,授其子大興河北西路愛也窟河世襲猛安阿里門河謀克,階武功將軍。

移剌溫

原文移剌溫

移剌溫は本名阿撒、遼の横帳の人、契丹小字に工なり。睿宗左副元帥として宋を伐ち、溫は大抃に従い江を渡り、江寧府都巡検を辟かる。江寧・太平初めて下り、宋は諜人を遣わし百姓を扇構し、応ずる者数万人。溫その諜者を擒え、遂に敢えて窃かに発せず。宗弼これを嘉し、銀千両・重彩百端・絹二百匹を賜う。宗弼毎に出征伐するも、未だ嘗て行間に在らざることなし。同知河北西路転運使事を除す。会に宗弼辺を巡り、溫軍に従い、之に官せず。宗弼朝に入り、熙宗群臣を宴し、宗弼奏請せんと欲すれども、已に酒に被りて次を失い、溫掖して宮を出づ。明日、熙宗宗弼に謂いて曰く、「阿撒叔に事えること甚だ謹み、左右を去るべからず」と。ここにより宗弼益々これを親信す。嘗て女婿の紇石烈志寧に謂いて曰く、「汝阿撒の人と為るを效うべし、以て古人に幾うべし」と。未だ幾ばくもせず、同知中京路都転運使事を除され、累遷して左諫議大夫兼修起居注。正隆宋を伐ち、本官を以て済州路行軍万戸と為り、揚州に至るに従う。軍還り、同知宣徽院事を除す。世宗の御饌口に適わず、溫を召してこれを嘗めしむ。奏して曰く、「味は美からざるに非ず、蓋し南北の辺事未だ息まず、聖慮の在る所有るが故なり」と。上の意遂に釈る。永定・震武・崇義節度使を歴任し、臨海軍に移る。州治水に近く、秋雨、水潦暴かに城下に至り、城頗る決す、百姓惶駭し、為す所を知らず。溫躬り役夫を督してこれを繕完し、不測に臨むと雖も、避くるところ無し。僚属或いは溫を止むるも、溫曰く、「政に疵癘有り、水泛溢して災いと為るは、守臣の罪なり。当に此の身を以て百姓に謝すべく、死すと雖も恨み無し」と。武定に移鎮し、歳旱えて且つ蝗有り、溫指を割き、血を以て酒中に瀝ぎ、禱りてこれを酹す。既にして雨足に沾い、群鴉蝗を啄みて且つ尽くす、ここによりて歳熟し、人は至誠の感と為すという。老いて致仕し、卒す。

原文移剌溫本名阿撒,遼橫帳人,工契丹小字。睿宗為左副元帥伐宋,溫從大抃渡江,辟江寧府都巡檢。江甯、太平初下,宋遣諜人扇構百姓,應者數萬人。溫擒其諜者,遂不敢竊發。宗弼嘉之,賜銀千兩、重彩百端、絹二百匹。宗弼每出征伐,未嘗不在行間。除同知河北西路轉運使事。會宗弼巡邊,溫從軍,不之官。宗弼入朝,熙宗宴群臣,宗弼欲有奏請,已被酒失次,溫掖而出宮。明日,熙宗謂宗弼曰:「阿撒事叔甚謹,不可去左右。」由是宗弼益親信之。嘗謂女婿紇石烈志寧曰:「汝可效阿撒之為人也,可以幾古人矣。」未幾,除同知中京路都轉運使事,累遷左諫議大夫兼修起居注。正隆伐宋,以本官為濟州路行軍萬戶,從至揚州。軍還,除同知宣徽院事。世宗禦饌不適口,召溫嘗之。奏曰:「味非不美也,蓋南北邊事未息,聖慮有所在耳。」上意遂釋。曆永定、震武、崇義節度使,移臨海軍。州治近水,秋雨,水潦暴至城下,城頗決,百姓惶駭,不知所為。溫躬督役夫繕完之,雖臨不測,無所避。僚屬或止溫,溫曰:「為政疵癘,水泛溢為災,守臣之罪。當以此身為百姓謝,雖死不恨。」移鎮武定,歲旱且蝗,溫割指,以血瀝酒中,禱而酹之。既而雨沾足,有群鴉啄蝗且盡,由是歲熟,人以為至誠之感雲。以老致仕,卒。

賛に曰く、軍旅の事、鋒鏑前に在りて、その死を計わず。耳は金鼓に属し、目は旌旗に属し、心は号令に属す、これ行列の任なり。収国より兵を用い、大定に至り宋と和する以前、命を用いるの士、細きと雖も必ず録す、以て功を明らかにする所以なり。

原文贊曰:軍旅之事,鋒鏑在前,不計其死。耳屬金鼓,目屬旌旗,心屬號令,此行列之任也。自收國用兵,至於大定和宋以前,用命之士,雖細必錄,所以明功也。

蕭仲恭

原文蕭仲恭

蕭仲恭は、本名を術里者という。祖父の撻不也は遼に仕えて枢密使となり、司徒を守り、蘭陵郡王に封ぜられた。父の特末は中書令となり、司空を守り、公主を娶った。仲恭は性質恭謹にして、動作に礼節があり、甲冑を着て駱駝を飛び越えることができた。遼の故事として、宗戚の子弟は別に一班を成し、「孩児班」と号したが、仲恭はかつて班使を務め、宮使、本班詳穏を歴任した。遼帝が西に天徳へ奔ったとき、仲恭は護衛太保となり、軍事を兼ねて領した。霍里底泊に至り、大軍が急に到来し、慌てて逃走した。仲恭の母の馬が疲れて進めず、仲恭兄弟に言うには、「汝らは国家に節を尽くせ、我を顧みるな」と。仲恭の母は、遼道宗の末娘である。遼主はこれを哀しみ、弟の仲宣に命じてその母に侍らせた。仲恭は従って西へ向かった。時に大雪、寒さ甚だしく、遼主は食を欠き、仲恭は衣を進め、また乾飯を進めた。遼主が疲弊すると、仲恭は氷雪の中に伏し、遼主はその上に寄りかかって休んだ。凡そ六日を経て天徳に至り、ようやく食を得た。後に遼主とともに捕らえられ、太宗は仲恭がその主に忠であることを以て、特に礼遇を加えた。天会四年、仲恭は宋に使した。帰還しようとしたとき、宋人は仲恭と耶律余睹がともに亡国の憂いを有し、しかも余睹は監軍として兵権を有するから、誘って用いることができると考え、蠟丸の書を以て仲恭に余睹に届けさせ、内応させようとした。仲恭は平素より忠信にして、反覆の志はなかったが、ただ宋人に留め置かれて帰されぬことを恐れ、偽って承諾した。帰って宗望に会うと、直ちに蠟丸の書を献じた。宗望は仲恭に他意なきを察し、軽く罰した。ここにおいて再び宋を伐ち、二帝を捕らえて帰った。累遷して右宣徽使となり、都点検に改めた。宗磐が宗幹と熙宗の前で争論し、宗磐が刀を抜いて宗幹に向かうと、仲恭が叱って止めた。やがて宗磐は反逆の罪で誅せられ、仲恭は禁衛に備えがあったため、功により銀青光禄大夫を加えられ、尚書右丞に遷った。皇統初め、蘭陵郡王に封ぜられ、世襲猛安を授けられ、平章政事に進み、同監修国史となり、済王に封ぜられた。詔して遼の豫王を広寧に葬らせると、仲恭は会葬に赴くことを請い、熙宗はその義を認めて許した。行台左丞相に改めた。間もなく、入朝して尚書右丞相となり、太傅を拝し、三省事を領し、曹王に封ぜられた。天徳二年、越国王に封ぜられ、燕京留守を除かれた。海陵は自ら書を為し、玉山子を賜った。この歳、薨去、六十一歳。諡して貞簡という。正隆の例により王爵を降格し、儀同三司・鄭国公に改めた。子に拱あり。

原文蕭仲恭,本名術里者。祖撻不也,仕遼為樞密使,守司徒,封蘭陵郡王。父特末,為中書令,守司空,尚主。仲恭性恭謹,動有禮節,能被甲超橐駝。遼故事,宗戚子弟別為一班,號「孩兒班」,仲恭嘗為班使,曆宮使、本班詳穩。遼帝西奔天德,仲恭為護衛太保,兼領軍事。至霍里底泊,大軍奄至,倉卒走。仲恭母馬乏,不能進,謂仲恭兄弟曰:「汝等盡節國家,無以我為也。」仲恭母,遼道宗季女也。遼主傷之,命弟仲宣留侍其母。仲恭從而西。時大雪,寒甚,遼主乏食,仲恭進衣並進乾糒。遼主困,仲恭伏冰雪中,遼主藉之以憩。凡六日,乃至天德,始得食。後與遼主俱獲,太宗以仲恭忠於其主,特加禮待。天會四年,仲恭使宋。且還,宋人意仲恭、耶律餘睹皆有亡國之戚,而餘睹為監軍,有兵權,可誘而用之,乃以蠟丸書令仲恭致之餘睹,使為內應。仲恭素忠信,無反覆志,但恐宋人留不遣,遂陽許。還見宗望,即以蠟丸書獻之。宗望察仲恭無他,薄罰之。於是再舉伐宋,執二帝以歸。累遷右宣徽使,改都點檢。宗磐與宗幹爭辯于熙宗前,宗磐拔刀向宗幹,仲恭呵之乃止。既而宗磐以反罪誅,仲恭衛禁有備,以功加銀青光祿大夫,遷尚書右丞。皇統初,封蘭陵郡王,授世襲猛安,進拜平章政事,同監修國史,封濟王。詔葬遼豫王于廣甯,仲恭請往會葬,熙宗義而許之。改行台左丞相。居無何,入為尚書右丞相,拜太傅,領三省事,封曹王。天德二年,封越國王,除燕京留守。海陵親為書,以玉山子賜之。是歲,薨,年六十一。諡貞簡。正隆例降王爵,改儀同三司、鄭國公。子拱。

子 拱

原文子 拱

拱は本名を迪輦阿不といい、初め蘭子山の猛安であった。海陵が宰相のとき、人望を博さんとして、大臣の子を推挙して達官とし、ここにおいて拱を礼部侍郎とした。耶律彌勒は、拱の妻の妹である。海陵はこれを妃に納れんとし、拱に命じて汴より迎えさせた。帰途燕を過ぎたとき、この時仲恭は燕京留守であったが、彌勒の体つきが処女に似ず、密かに憂えて言うには、「上は猜疑心多く、拱は禍に及ぶであろう」と。拱が去って数日も経たぬうちに、仲恭は卒した。拱が上京に至り、訃報を聞き、本官のまま起復し、信牌を佩び、燕京に赴いて葬事を治めようとした。未だ発たず、彌勒が宮中に入ると、果たして仲恭が見た通りであり、直ちに宮中より出された。夜半、拱を禁中に召し、詰問して罪状を得ず。海陵は終にこれを疑い、ここにおいて拱の礼部侍郎を罷め、その信牌を奪った。拱は待命し、一年を過ぎても返答なく、蘭子山に帰って猛安の事を治めた。この時、蕭恭と張九が禁中の事を語った罪に坐し、拱が蘭子山に至り、客と会してこれを語った。阿納という者が拱と不和あり、ここにおいて拱が「張九は無罪にして誅せられた」と語り、言葉に怨謗の意を含むと誣告した。海陵は使者を遣わしてこれを糾問し、使者に戒めて言うには、「この子は狂妄なり、かかる言葉あるべきなり、然らずんば彼の地にてどうしてこの事を知らんや」と。使者は再び拱を問わず、ただその左証を拷打し、告げた通りに証言させ、ここにおいて拱は誅殺された。

原文拱本名迪輦阿不,初為蘭子山猛安。海陵為宰相,徼取人譽,薦大臣子以為達官,遂以拱為禮部侍郎。耶律彌勒,拱妻女弟也,海陵將納為妃,使拱自汴取之。還過燕,是時仲恭為燕京留守,見彌勒身形不類處子,竊憂之,曰:「上多猜嫌,拱其及禍矣。」拱去不數日,仲恭卒。拱至上京,聞訃,以本官起複,佩信牌,往燕京治葬事。未行,彌勒入宮,果如仲恭所相度,即遣出宮。夜半召拱至禁中,詰問無狀。海陵終疑之,乃罷拱禮部侍郎,奪其信牌。拱待命,逾年不報,歸蘭子山治猛安事。是時,蕭恭、張九坐語禁中事得罪,拱至蘭子山,與客會語及之。有阿納與拱有隙,乃誣拱言張九無罪被誅,語涉怨謗。海陵遣使鞫之,戒使者曰:「此子狂妄,宜有此語,不然彼中安得知此事。」使者不復問拱,但榜掠其左驗,使如告語證之,拱遂見殺。

蕭仲宣

原文蕭仲宣

仲宣は、本名を野里補といい、仲恭の同母弟である。聡敏にして学を好み、沈厚にして寡言であった。五歳で遥かに郡刺史を授けられ、累進して太子少師を加えられ、本班詳穏となった。天祚帝に従って西へ行き、護衛太保左右班詳穏となった。石輦鐸に至り、遼主は仲宣に母に侍るよう留め置き、ここにおいてその母とともに捕らえられた。太宗はこれを嘉し、かつ仲宣が遼国の故事を知り得ると言って、権宣徽使を命じ、睿宗に従って康王を伐った。師が還ると、長く家居した。皇統二年、特旨を以て鎮国上将軍を授けられ、順義・永定・昭義・武寧の四鎮節度使を歴任した。政は平易にして、小吏は敢えて奸を行わず、賄賂は禁絶され、奴婢が郡に入っても、人はその面を知らなかった。朔・潞の百姓は皆祠を立て石に刻んでこれを称えた。正隆二年、卒去、六十四歳。

原文仲宣,本名野里補,仲恭母弟。聰敏好學,沉厚少言。五歲,遙授郡刺史,累加太子少師,為本班詳穩。從天祚西,為護衛太保左右班詳穩。至石輦鐸,遼主留仲宣侍母,遂與其母皆見獲。太宗嘉之,且謂仲宣能知遼國故事,命權宣徽使,從睿宗伐康王。師還,家居者久之。皇統二年,特授鎮國上將軍,曆順義、永定、昭義、武甯四鎮節度使。為政平易,小吏不敢為奸。賄賂禁絕,奴婢入郡,人莫識其面。朔、潞百姓皆為立祠刻石頌之。正隆二年,卒,年六十四。

高松

原文高松

高松は、本名を檀朵といい、澄州析木の人である。十九歳で軍に従い蒲輦となり、力強く戦を善くし、宗弼はその名を聞き、召して左右に置き、汴京及び和尚原を破るに従い、累官して咸平総管府判官となった。世宗が即位すると、管押東京路渤海万戸を充てた。兵部尚書の可喜が謀反を図り、前同知延安尹の李老僧が言うには、「我は万戸高松とこれを謀れば、必ず我に従わん」と。衆は言うには、「もしこの軍を得れば、挙事容易なり」と。老僧は往って松に会い、松を説いて言うには、「君は功ある旧人なり、今に至るも大官を得ず、何ぞや」と。松は言うには、「我は一県令なり、毎に聖恩を思い、累世報いる能わず、尚敢えて望みあらんや」と。老僧は遂に敢えて言わず。可喜・布輝・阿瑣は事成り難きを知り、ここにおいて変を上告し、共に斡論を捕らえて有司に赴かせた。松は窩斡征討に従い、功により咸平少尹に遷り、四遷して崇義軍節度使となった。卒去、七十四歳。

原文高松,本名檀朵,澄州析木人。年十九,從軍為蒲輦,有力善戰,宗弼聞其名,召置左右,從破汴京及和尚原,累官咸平總管府判官。世宗即位,充管押東京路渤海萬戶。兵部尚書可喜謀反,前同知延安尹李老僧曰:「我與萬戶高松謀之,必從我矣。」眾曰:「若得此軍,舉事易矣。」老僧往見松,說松曰:「君有功舊人,至今不得大官,何也?」松曰:「我一縣令也,每念聖恩,累世不能報,尚敢有望乎!」老僧遂不敢言。可喜、布輝、阿瑣知事不可成,遂上變,共捕斡論赴有司。松從征窩斡,以功遷咸平少尹,四遷崇義軍節度使。卒,年七十四。

賛して言う:忠信をもって己を行う、豈に大ならずや!蕭仲恭は故主に心を尽くし、富貴福沢これに向かい、宗室の旧臣と等しかった。仲恭は朝廷で宗磐を叱って朝廷を尊び、高松は義をもって李老僧を止めて社稷を安んじ、皆古の烈丈夫の風有り。

原文贊曰:忠信行己,豈不大哉!蕭仲恭盡心故主,而富貴福澤向之,與宗室舊臣等矣。仲恭廷叱宗磐而朝廷尊,高松誼遏李老僧而社稷安,皆有古烈丈夫之風焉。

海陵諸子

原文海陵諸子

海陵の后徒単氏は太子光英を生み、元妃大氏は崇王元寿を生み、柔妃唐括氏は宿王矧思阿補を生み、才人南氏は滕王広陽を生んだ。

原文海陵後徒單氏生太子光英,元妃大氏生崇王元壽,柔妃唐括氏生宿王矧思阿補,才人南氏生滕王廣陽。

光英

原文光英

光英は本名を阿魯補といい、徒単后の生んだ子である。この時燕京転運使趙襲慶に男子多く、故にまた趙六とも名付けた。同判大宗正の方の家で養われ、故に崇徳大夫沈璋の妻張氏がかつて光英の保母を務めたため、ここにおいて璋に銀青光禄大夫を贈り、宗正方に銭千万を賜った。

原文光英本名阿魯補,徒單後所生。是時燕京轉運使趙襲慶多男,故又名曰趙六。養于同判大宗正方之家,故崇德大夫沈璋妻張氏嘗為光英保母,於是贈璋銀青光祿大夫,賜宗正方錢千萬。

天徳四年二月、光英を立てて皇太子とした。この月、太祖の画像を武徳殿に安置し、国初に太祖に従って寧江州を破り功有った者を尽く召し、百七十六人を得て、皆宣武将軍を加え、酒帛を賜った。その中に忽里罕という者あり、その衣を解いて光英に進めて言うには、「臣は今年百歳なり、子十人有り。願わくは太子寿考にして男子多く、小臣の如からんことを」と。海陵は光英にその衣を受けさせ、海陵は即ち自らの服し佩びし刀を忽里罕に賜い、その厚意に答えた。後に「英」の字が「鷹隼」の字と音が近いため、「鷹坊」を「馴鷙坊」と改めた。国号に「英国」有りまた「応国」有り、ここにおいて「英国」を「寿国」と改め、「応国」を「杞国」と改めた。宋もまた「光州」を「蔣州」と改め、「光山県」を「期思県」と改め、「光化軍」を「通化軍」と改めたという。

原文天德四年二月,立光英為皇太子。是月,安置太祖畫像于武德殿,盡召國初嘗從太祖破甯江州有功者,得百七十六人,並加宣武將軍,賜酒帛。其中有忽里罕者,解其衣進光英曰:「臣今年百歲矣,有子十人。願太子壽考多男子與小臣等。」海陵使光英受其衣,海陵即以所服並佩刀賜忽里罕,答其厚意。後以「英」字與「鷹隼」字聲相近,改「鷹坊」為「馴鷙坊」。國號有「英國」又有「應國」,遂改「英國」為「壽國」,「應國」為「杞國」。宋亦改「光州」為「蔣州」,「光山縣」為「期思縣」,「光化軍」為「通化軍」雲。

太医院保全郎李中、保和大夫薛遵義はともに医薬をもって光英に侍り、李中は超換して宣武将軍・太子左衛副率となり、薛遵義は丁憂したが起復して宣武将軍・太子右衛副率となった。光英は繈褓の時、宗正方の家で養われ、その後は永寧宮及び徒単斜也しゃやの家で養われた。貞元元年、詔して朝官・京官五品以下の者は奉引に従い通天門より入り、東宮に居住せしめた。

原文太醫院保全郎李中、保和大夫薛遵義俱以醫藥侍光英,李中超換宣武將軍、太子左衛副率,薛遵義丁憂,起複宣武將軍、太子右衛副率。光英繈褓時,養于宗正方家,其後養于永甯宮及徒單斜也家。貞元元年,詔朝官,京官五品以下奉引自通天門入,居於東宮。

正隆元年三月二十七日、光英の誕生日に、神龍殿において百官を宴し、京師に大酺一日を賜う。四年八月、光英が鴉を射てこれを獲た。海陵は大いに喜び、原廟に薦げることを命じ、光英に馬一匹・黄金三斤を賜い、従者に班賜すること差等あり。正隆六年、海陵は行幸して南京に至り、安粛州に次ぐ。光英は二兎を獲、使者を遣わして山陵に薦ぐ。数日を居て、また麞兔を獲、従官皆賀す。光英に名馬弓矢を賜い、また使者を遣わして山陵に薦ぐ。六月、海陵は南京に至り、群臣迎謁す。海陵は徒単后・光英と共に車に載って入る。

原文正隆元年三月二十七日,光英生日,宴百官于神龍殿,賜京師大酺一日。四年八月,光英射鴉,獲之。海陵大喜,命薦原廟,賜光英馬一匹,黃金三斤,班賜從者有差。正隆六年,海陵行幸南京,次安肅州。光英獲二兔,遣使薦于山陵。居數日,複獲麞兔,從官皆稱賀。賜光英名馬弓矢,複遣使薦于山陵。六月,海陵至南京,群臣迎謁,海陵與徒單後、光英共載而入。

海陵は嘗て言う、「太子年十八を俟ち、以て天下をこれに付せん。朕は当に日を宮掖苑囿の中に游宴して以て自ら楽しむべし」と。光英は頗る警悟なり。海陵は侍臣に謂いて曰く、「上智は学ばずして能くし、中性は学びに由らざるは未だあらざるなり。太子は宜しく碩徳宿学の士を択び、使いてこれを輔導せしめ、庶幾くは古今を知り、過失を防がん。詩文は小技、何ぞ必ずしも作さんや。騎射の事に至っては、また習わざるべからず、その懦柔を恐るるなり」と。将に親征せんとし、后と光英は衣を挽き号慟す。海陵もまた泣下して曰く、「吾行きて帰らん」と。

原文海陵嘗言:「俟太子年十八,以天下付之。朕當日游宴于宮掖苑囿中以自娛樂。」光英頗警悟,海陵謂侍臣曰:「上智不學而能,中性未有不由學而成者。太子宜擇碩德宿學之士,使輔導之,庶知古今,防過失。詩文小技,何必作耶。至於騎射之事,亦不可不習,恐其懦柔也。」及將親征,後與光英挽衣號慟,海陵亦泣下曰:「吾行歸矣。」

后は『孝経』を誦す。一日、忽ち人に謂いて曰く、「『経』に三千の罪は孝ならざるより大なるは莫しと云う。何をか孝ならざると為す」と。対する者曰く、「今民家の子、博弈飲酒し、父母を養わざるは、皆孝ならざるなり」と。光英は默然として良久くして曰く、「これ豈に足って孝ならざると為さんや」と。蓋し海陵の母を弑する事を指して言うなり。

原文後誦《孝經》。一日,忽謂人曰:「《經》言三千之罪,莫大于不孝,何為不孝?」對者曰:「今民家子博弈飲酒,不養父母,皆不孝也。」光英默然良久,曰:「此豈足為不孝耶!」蓋指言海陵弑母事。

宋を伐つに及び、光英は居守し、陀満訛里也を以て太子少師兼河南路統軍使とし、以てこれを衛護せしむ。完顔元宜の軍変あり、海陵は害に遇う。都督ととく府は文を移して訛里也に、光英を汴京に於いて殺さしむ。死する時年十二。后は海陵とともに大房山の諸王墓次に葬らる。

原文及伐宋,光英居守,以陀滿訛里也為太子少師兼河南路統軍使,以衛護之。完顏元宜軍變,海陵遇害,都督府移文訛里也,殺光英於汴京,死時年十二。後與海陵俱葬于大房山諸王墓次。

訛里也は咸平路窟吐忽河の人、その父忽土の猛安を襲ぐ。邳州刺史を除され、三遷して昌武軍節度使・帰徳尹・南京留守・河南路統軍使・太子少師となる。大定二年、元帥右都監に遷る。宋人陳・蔡を陥す。訛里也師久しく功無し、已にして兵宋に敗れ、職を解かる。俄かに起ちて京兆尹となる。世宗これに謂いて曰く、「卿河南統軍たりしとき、門に私謁多く、百姓これを悪む。その後陳・蔡を経略し、惟だ功無きのみならず、且つまた敗を致す。汝が旧労を以て、故にまた汝を用う。京兆の地は南辺に近し、宜しく善くこれを理すべし」と。大定三年、卒す。

原文訛里也,咸平路窟吐忽河人,襲其父忽土猛安。除邳州刺史,三遷昌武軍節度使、歸德尹、南京留守、河南路統軍使、太子少師。大定二年,遷元帥右都監。宋人陷陳、蔡,訛里也師久無功,已而兵敗于宋,解職。俄起為京兆尹。世宗謂之曰:「卿為河南統軍,門多私謁,百姓惡之。其後經略陳、蔡,不惟無功,且複致敗。以汝舊勞,故複用汝。京兆地近南邊,宜善理之。」大定三年,卒。

元寿

原文元壽

元寿は天徳元年に崇王に封ぜらる。三年、薨ず。

原文元壽,天德元年封崇王。三年,薨。

矧思阿補

原文矧思阿補

矧思阿補は正隆元年四月に生まる。小底東勝の家これを保養す。東勝に銭千万を賜い、仍って第を起つ。五月己酉、弥月、その母唐括氏を柔妃に封じ、京師の貧者五千人に銭を賜う。人ごとに銭二百。二年、矧思阿補の誕生日に、海陵は永寿太后及び皇后・太子光英とともに東勝の家に幸す。三年正月五日、矧思阿補薨ず。海陵は太医副使謝友正・医者安宗義及びその乳母を殺し、東勝を杖一百し、名を除く。明日、矧思阿補を追封して宿王とし、大房山に葬る。

原文矧思阿補,正隆元年四月生。小底東勝家保養之,賜東勝錢千萬,仍為起第。五月已酉,彌月,封其母唐括氏為柔妃,賜京師貧者五千人錢,人錢二百。二年,矧思阿補生日,海陵與永壽太后及皇后、太子光英幸東勝家。三年正月五日,矧思阿補薨。海陵殺太醫副使謝友正、醫者安宗義及其乳母,杖東勝一百,除名。明日,追封矧思阿補為宿王,葬大房山。

諫議大夫楊伯雄は禁中に入直し、因って同直の者と相語る。伯雄曰く、「宿王の死は、蓋し宮外に養わるるにあり。供護は謹みと雖も、父母の膝下に若かず。豈に国家の風俗素よりかくの如くを尚ぶや」と。或人この言を以て海陵に告ぐ。海陵は大いに怒り、伯雄に謂いて曰く、「爾臣子なり。君父の為す所、豈に風俗を言うを得んや。宮禁中の事、豈に爾の当に言うべきところならんや。朕或いは体中佳からず、間々朝を視ず。只だ人幾拜を得るを少くするのみ。而して庶事は皆便殿に奏決し、縦え死刑ありと雖も即ち論決せず、蓋し囚者をしてその死を緩むるを得しむるなり。除授宣勅に至っては、雖複稽緩すと雖も、何の利害かあらん。朕毎に閑暇に当たり、頗る教坊の声楽を閲し、聊か以て自ら娯しむ。『書』に云う、'内に色荒を作し、外に禽荒を作し、酒に酣え音を嗜み、宇を峻にし牆を雕る。一つ此に於けり、未だ或いは亡びざるは莫し'と。これは人君の国事を恤みずこれに溺るる者を戒むるのみ。我が如きは、声楽をして喧動天地せしむると雖も、宰相敢えて濫りに人に官を与え、而して吏敢えて賕を受くる者あらんや。外間敢えて窃に議する者あらんや。爾諫官なり。言うべき事あらば、当に公にこれを言うべし。言いて従わざれば、朕の非なり。而して乃ち私に議す、可ならんや」と。伯雄対えて曰く、「陛下の至徳明聖、固より窃に議する者無し。愚臣失言す。罪当に万死す。惟うらくは陛下哀憐せんことを」と。海陵曰く、「本汝を殺さんと欲す。今只だ汝を杖二百せん」と。既に決杖四十に至り、近臣をして詔を伝え諭して伯雄に曰く、「爾が籓邸に旧ありを以て、今特にこれを釈す」と。

原文諫議大夫楊伯雄入直禁中,因與同直者相語,伯雄曰:「宿王之死,蓋養于宮外,供護雖謹,不若父母膝下。豈國家風俗素尚如此。」或以此言告海陵。海陵大怒,謂伯雄曰:「爾臣子也,君父所為,豈得言風俗。宮禁中事,豈爾當言。朕或體中不佳,間不視朝,只是少得人幾拜耳。而庶事皆奏決便殿,縱有死刑不即論決,蓋使囚者得緩其死。至於除授宣敕雖複稽緩,有何利害。朕每當閒暇,頗閱教坊聲樂,聊以自娛。《書》雲:'內作色荒,外作禽荒,酣酒嗜音,峻宇雕牆,有一於此,未或不亡。'此戒人君不恤國事溺於此者耳。如我雖使聲樂喧動天地,宰相敢有濫與人官而吏敢有受賕者乎。外間敢有竊議者乎。爾諫官也,有可言之事,當公言之。言而不從,朕之非也。而乃私議,可乎?」伯雄對曰:「陛下至德明聖,固無竊議者。愚臣失言,罪當萬死,惟陛下哀憐。」海陵曰:「本欲殺汝,今只杖汝二百。」既決杖至四十,使近臣傳詔諭伯雄曰:「以爾籓邸有舊,今特釋之。」

広陽

原文廣陽

滕王広陽、母は南氏、本大抃の家の婢、元妃大氏に随い宮に入る。海陵これに幸し、及び娠あり、即ち殿直と為すことを命ず。正隆二年九月二十六日、広陽を生む。十月満月、海陵は在京の貧民に分施す。凡そ銭千貫を用う。三年二月、南氏を才人に封ず。七月、広陽を滕王に封ず。九月、薨ず。

原文滕王廣陽,母南氏,本大抃家婢,隨元妃大氏入宮,海陵幸之,及有娠,即命為殿直。正隆二年九月二十六日,生廣陽。十月滿月,海陵分施在京貧民,凡用錢千貫。三年二月,封南氏為才人。七月,封廣陽為滕王。九月,薨。

賛して曰く、海陵宋を伐ち、光英居守す。陀満訛里也をして宮師兼統軍の任を以てせしむ。計至って悉しなり。豈にその手に死せんことを料らんや。荀首言有り、「人子を以てせずんば、吾子其れ得べけんや」と。海陵は人の子を睨むこと魚肉に翅せず、而して独り己が子の謀安をのみす。得べからざるなり。

原文贊曰:海陵伐宋,光英居守,使陀滿訛里也以宮師兼統軍之任,計至悉也,豈料死其手乎。荀首有言:「不以人子,吾子其可得耶?」海陵睨人之子不翅魚肉,而獨己子之謀安,不可得矣。