金史

列傳第二十: 郭藥師 蕭仲宣 高松 海陵諸子

列傳第二十 ○郭藥師(子:安國) 耶律塗山 烏延胡里改 烏延吾里補 蕭恭 完顏習不主 紇石烈胡剌 耶律恕 郭企忠 烏孫訛論 顏盞門都 僕散渾坦 鄭建充 烏古論三合 移剌溫 蕭仲恭(子:拱) 蕭仲宣 高松 海陵諸子(光英 元壽 矧思阿補 廣陽)

郭藥師

郭藥師は、渤海の鉄州の人である。遼国が遼東の人を募って兵とし、女直に怨みを報いさせ、「怨軍」と号したが、薬師はその渠帥となった。斡魯古が顕州を攻め、城下で薬師を破った。遼帝が天徳に逃れて保ち、耶律捏里が自立し、「怨軍」を「常勝軍」と改め、薬師を諸衛上将軍に抜擢した。捏里が死ぬと、その妻蕭妃が称制し、薬師は涿・易の二州を以て宋に帰した。薬師は宋兵六千人を率いて燕京に急襲し、甄五臣は五千人を以て迎春門を奪い、皆入城した。蕭妃は城門を閉じて宋兵と巷戦させた。薬師は大敗し、馬を失って徒歩で逃走し、城を越えて辛うじて免れた。宋人はなお厚くこれを賞した。

太祖が燕山六州を宋人に割譲すると、宋は薬師を王安中の副として燕山を守らせた。及んで安中が張覚を庇護できずにこれを殺し、その首を函に入れて宗望に与えるに及んで、薬師は宋人を深く怨み、自ら固める志が無くなった。宗望の軍が三河に至ると、薬師らは白河で拒戦した。兵敗れて、薬師は乃ち降伏した。宗望は遂に燕山を取った。太宗は薬師を燕京留守とし、金牌を与え、完顔氏の姓を賜った。宗望に従って宋を伐ち、凡そ宋の事の虚実は、薬師が悉く知っていた。宗望が懸軍を以て深く入り、汴城下に駐兵し、質を約し幣を納め、地を割いて全勝して帰ることができたのは、薬師が宋人の情を測り、その肯綮に中った故である。及んで両鎮が約束を受け付けず、諸将にこれを討たせると、薬師は順安軍の営を破り、三千余人を殺した。海陵が即位し、詔して諸姓を賜った者は皆本姓に復せよとし、故に薬師の子安国は仍く郭氏に姓した。

子 安国

郭安国は、薬師の子である。累遷して奉国上将軍・南京副留守となった。貞元三年、南京の大内が火災に遭い、海陵は右司郎中梁鉅・同知安武軍節度事王全をして失火の状を按問させた。留守馮長寧・都転運使左瀛は各々杖一百、除名された。安国及び留守判官大良順は各々杖八十、三官を削がれた。火の起きた処の勾当官である南京兵馬都指揮使呉浚は杖一百五十、除名された。失火の位の押宿兵吏十三人は並びに斬られた。これを諭して曰く、「朕は宮闕の壮麗を以てするのではない。即位以来、河南を巡省せんと欲するに、汝らは防慎を知らず、致して外方の奸細をして焼き延べて殆んど尽きしめた。本より汝らを死罪に処せんと欲したが、特に旧人なるを以て寛貸する。押宿人は兵法に当りて死を処すべし、この輩が奸細を容隠したかと疑う故に、皆斬るなり」と。

安国は性軽躁にして、本より方略無し。海陵が宋を伐たんとし、安国を将家の子として、抜擢して兵部尚書に拝し、刑部尚書に改めた。軍興して、武捷軍都総管を領し、武勝・武平軍と共に前鋒となった。海陵が諸将に方略を授けると、安国は前に奏して曰く、「趙構が王師の至るを聞けば、その勢い必ず逃竄せん。臣等は遠近を問わず、これを追いて獲て後已まんが、但だこれを何れの地に置くべきか」と。海陵は大いに喜んで曰く、「卿の言は是なり。構を得れば即ちこれを寺観に置き、厳兵をしてこれを守らしめん」と。及んで世宗の即位を聞き、海陵は北還を謀り、更に浙西道兵馬都統制府を置き、完顔元宜を都統制とし、安国をその副とした。及んで海陵がしい害に遇うと、衆は安国の為したるを悪み、李通の輩と共に皆これを殺した。

賛して曰く、郭薬師は、遼の余孽、宋の厲階、金の功臣なり。一臣の身を以て三国の禍福と為すこと、是の如く其れ相侔わざるなり。魏の公叔痤が其の君に勧めて衛鞅を殺さしむるは、豈に所見無からんや。

耶律塗山

耶律塗山は、遙輦氏の系を出で、遼の世に於いて顕族たり。塗山は仕えて金吾衛大将軍・遙里相温に至る。遼帝が天徳に奔ると、塗山は所部を以て降り、宗翰は制を承けて尚書を授け、西北路招討使とした。宗翰が宋を伐つに、塗山は本部を率いて先鋒となった。汾州に至り、宋将折家軍に遇い、師の済るを請い併せ力を以てこれを破った。太原・隆徳府を攻めるに従い、汴に入るに従い、洛陽らくようを克った。及び婁室に従って陝右を平げる。天会七年、太子少保を授かる。十年、尚書左僕射に遷る。致仕し、卒す。年九十一。正隆の例にて特進・郜国公を贈られる。

烏延胡里改

烏延胡里改は、曷懶路星顕水の人である。後に愛也窟謀克を授かり、因ってここに家した。闍母に従って平州を囲み、功有り。及び宋を伐ち、汴を囲むに、五謀克が宋兵一万人と城南に遇い、胡里改は先駆けしてこれを撃破し、元帥府は遂に良馬一匹を賞した。天会五年、宗城県を攻め、敵は城を棄てて恩州に走り、胡里改は追撃して千余人を殺し、車四百両を獲た。帥府は牛三十頭・馬一匹を賞した。七年、泰山の群盗を討ち、これを平げ、その営柵を毀った。兗州の群寇三千余が山険を保拠するを、胡里改は復たこれを破った。牛二十二頭・馬四匹を賞した。八年、廬州を攻め、柘皋鎮に至り、胡里改は甲士三十を領して前鋒と為り、宋の遣わして劉四廂錡に書を持たせし者七人を執った。復た先鋒軍を以て和州を攻め、含山県五里に比するに、甲士二人を獲て、乃ち宋の三将が兵を将いて将に至らんとするを知った。胡里改は其の軍を伏せ、遂に姚観察を獲た。帥府は馬二匹を賞した。九年、陝右を定め、胡里改は所部を以て敵千人に遇い、これを破り、甲士一人を生擒し、敵の虚実を尽く得た。又た蒲魯渾に従って熙秦の地を徇い、秦州にて敵兵二千を破り、馬一匹を賞した。宋人が襄陽府に屯すと、監軍按補は胡里改を遣わして四猛安を領して往きこれを攻めしめた。宋兵三千は既に江を渡り、方に営壁を営み、その未だ成らざるに乗じ、突戦してこれを破った。梁王宗弼が河南を復し、将に陳州を攻めんとし、胡里改を遣わして甲士三十を以て偵候人を捕らしめた。蔡州の西に至り、兵八十余に遇い、戦ってこれを破り、南頓県令を獲た。及び陳州を攻むるに、夜将に四更、忽ち敵が門を開き潰走するを聞き、胡里改は急ぎ二謀克の軍を領して追い及び、而して猛安突葛速も亦た軍を領して継ぎ至り、大いにこれを破った。皇統二年、定遠大将軍に遷る。八年、臨洮少尹を授かり、熙秦路兵馬副都総管を兼ねる。九年、同知京兆尹に改め、本路兵馬都総管を兼ねる。天徳に同知平陽尹に改め、河東南路兵馬都総管を兼ねる。貞元三年、同知曷懶路総管に改める。大定四年、胡里改節度使を授かる。七年、帰徳軍節度使に改める。十年、顕徳に移鎮す。官に卒す。年六十九。十九年、詔して其の子五十六に武功将軍を授け、本路婆朶火河謀克を世襲せしむ。

烏延吾里補

烏延吾里補は、曷懶路禅嶺の人である。大名路に移住した。天会年間、その父達吉補に従って元帥右監軍の麾下に隷属した。撻懶が事のため朝廷に赴くに当たり、達吉補を自ら随伴させた。吾里補はその父の謀克を領し、大軍に従って滄州を攻めた。ちょうど濠堀を埋めていると、城中の兵が来て抵抗したので、吾里補は本部をもってこれを撃退した。王師が青州を下すに当たり、力戦して功があり、馬百匹を獲て献上し、賊党を降伏・捕獲すること甚だ多かった。青州の戍将覿吉補は、萊州の兵が衆多であることを理由に、帥府に援軍を請うた。吾里補は十二謀克の兵を率いて往きこれを救った。遂にその四営を降し、その一営を抜き、戸四千を得た。また恩州において賊兵五万を破り、その営を攻め破り、戸五万を降し、牛畜一万余を獲た。臨清県に至らんとする時、敵兵三千に遇い、またこれを破り、俘獲甚だ多く、賊の首領を生け捕りにして献上した。帥府はその功を嘉し、奴婢百人・牛三十頭をもってこれを賞した。時に覿吉補が恩州の境で敗れたので、吾里補はまた兵四千をもって往きこれを救い、敵一万余を破った。宋兵十万が単父の間にあり、総管宗室移剌屋が歩卒一万・騎兵四千を選んで往きこれを討とうとした。吾里補はその親管謀克を率いてこれに従い、敵に遇って先登し、力戦して功があった。大軍が密州を経略するに当たり、吾里補は兵二千を率いて前鋒となり、高密において敵一万人に遇い、遂にその衆を破り、城下まで追撃し、殺戮すること殆ど尽き、馬牛三千余を獲た。吾里補は孛太欲とともに州の南において賊王義の軍十余万を破った。この夜、賊兵数千が来て営を襲ったので、吾里補は兵をもって横撃しこれを走らせた。後に大軍に従って楚・揚・通・泰等の州を攻めた。天眷二年、その父の世襲猛安を襲い、寧遠大将軍を授けられた。皇統七年、親管謀克を加えられた。天徳三年、同知帰徳尹に除せられた。正隆初年、唐古部族節度使となった。大定二年、保大軍節度使となった。この年、通遠に鎮を改めた。この時、宋軍十万余が河・隴に入り、険要を占拠し、郡邑を攻めた。元帥左都監合喜が増兵を上奏した。詔して兵七千を増やし、吾里補と彰化軍節度使宗室璋ら七人を遣わして共に往かせ、任使に備えさせた。龍虎衛上将軍に進階した。軍中において卒した。

蕭恭

蕭恭、字は敬之、乃烈奚王の後裔である。父の翊は、天輔年間に帰朝し、興中攻めに従い、遂に興中尹とされた。師が還ると、恭を質子とした。宗望が宋を伐つに当たり、翊は建・興・成・川・懿の五州の兵を率いて万戸となるはずであったが、軍帥は恭の才勇を以て、その父に代わって行かせた。時に年二十三。中山に至ると、宋兵が出戦したので、恭は先ず配下部隊をもってこれを撃破した。山東を経て、淮を渡り、康王を襲うこと、皆軍中に在った。師が還ると、帥府が承制して德州防禦使を授け、濱・棣の間に屯する奚人は皆これに隷属させた。棣州防禦使に改めた。皇統年間、同知横海軍節度使に改めた。父の喪に服し、起復して太原少尹となった。廉潔をもって用いられ、同知中京留守事に遷った。累遷して兵部侍郎となり、世襲謀克を授けられた。禁中の起居の状を問うた罪に坐し、杖刑に処せられ、一官を奪われた。貞元二年、同知大興尹となった。一年余りして、兵部尚書に遷り、宋国生日使となった。母の喪により官を去り、起復して侍衛親軍馬歩軍都指揮使となった。正隆四年、光禄大夫に遷り、また兵部尚書となった。この年、夏国の辺界を経画し、還る途上臨潼を過ぎた時、佩用していた金牌を失った。太原に至り、憂い憤って病となった。時に既にその事を駅伝をもって朝廷に聞かせており、海陵はまた命じてこれを給し、なお恭に諭して言わせた、「汝が信牌を失うは、亦た謹まざるが如し。朕まさに汝を待ち、委使せんと欲するに、乃ち疾を称するか。必ずや去る日に身に信牌を佩き、帰れば以て言うべきこと無からんとし、朕に先ず知らしめんと欲するのみ。」使いが至った時、恭は既に病篤く、稽顙して命を受け、俄かにして卒した。海陵はまさに使いをその子の護衛九哥とともに馳せて視させようとし、乃ち府官に命じて善くこれを護らせた。保州に至った時、既に訃報を聞いたので、海陵は深く悼み惜しんだ。九哥に命じて喪を護って還らせ、過ぐる州府に奠を設けさせた。喪が都に至ると、百官に命じて祭を致させた。親しく臨奠し、賻贈甚だ厚く、併せて廄馬一頭を賜った。九哥に謂って曰く、「爾が父は命を奉じ、道途に卒す。甚だ悼惜すべきなり。朕この馬に乗ること十年、今汝が父に賜う。常に控えて柩の前まで至るべし。既に葬れば、汝則ちこれに乗れ。」

完顔習不主

完顔習不主、年十六にして、宋征伐に従い、懐仁県を攻め下し、功最も上であった。睿宗に従って陝西を経略し、兵七百人をもって丹州の諸山に入り、盗賊三千に遇い、これを撃破した。また賊四千を破り、その将帥を生け捕りにした。隴州を出て、兵四百をもって敵数千を破った。宋兵七千が鞏州を取らんとして来たので、またこれを撃退した。また五千の兵をもって呉玠の衆三万を破り、白塔口において敵五千に遇い、またこれを破った。別に定遠等の寨を降した。皇統二年、同知臨洮尹を授けられ、憂いにより官を去った。期に満たず、旧職をもって起復し、孟州防禦使に改め、臨洮尹に遷った。また罪により罷免された。正隆三年、起用されて京兆尹となり、河南尹に改めた。卒す。年五十八。

紇石烈胡剌

紇石烈胡剌は、晦発川唵敦河の人で、西北路に移住した。契丹文字を識り、帥府の小吏となった。梁王宗弼が陝西を回復した時、久しく音信が通じなかった。睿宗が燕京におり、胡剌を遣わしてその様子を伺わせた。この時、宗弼は鳳翔より和尚原を攻め、胡剌に彼の地の地形を視察させ、道を修め城を築かせた。天会十二年、濱州に往き密かに南辺の事態を訪れ、及び劉が斉を治める様子を観察し、その虚実を尽く得た。睿宗は甚だこれを嘉した。皇統初年、宗弼に従って淮を渡り、及び廬・和の二州を下し、張浚・韓世忠等の軍を大破した。胡剌を馳せて奏上させ、金盂・重彩五端・絹五匹をもって賞した。七年、同知景州軍州事を授けられ、廉潔をもって忠武校尉こういを加えられた。天徳初年、監察御史として分司行台に任じ、歴任して同知済州防禦使事となり、入朝して監察御史となった。任期満了して再任された。大定二年、刑部員外郎に遷り、御史大夫白彦敬とともに西北部族に馬を買いに行った。累転して泗州防禦使となり、三遷して蒲与路節度使となり、寧昌軍に移り、卒した。

耶律恕

耶律恕、字は忠厚、本名は耨里、遼の横帳秦王の族裔なり。人となり謹み深く志あり、書を読むを喜び、契丹の大小字に通ず。耶律高八と共に来帰す。婁室、高八に問うて曰く、「爾と同来の者に、誰か軍旅の事を任用し治むるに足るや」と。高八封じて曰く、「耨里可なり」と。婁室、宗翰と宋を伐つに、恕は前鋒に隷し、和尚原を取り、仙人関を攻め、特に睿宗に知られ、再び太原・真定少尹を除せらる。撒離喝、陝西参謀に辟署し、軍務を委ね、行台兵部侍郎に遷り、再び尚書左司郎中に遷る。海陵、平章政事たりし時、恕に謂いて曰く、「君も亦た党有りや」と。恕正色して曰く、「窮すれば則ち独り其の身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を善くす。其の道を以て之を得ざれば、恕が志に非ず、何ぞ朋党の有らんや」と。海陵徐に曰く、「前言は之を戯れしのみ」と。久しきの後、沁南軍節度使となり、行台工部尚書に遷る。行台罷まるに及び、安国軍節度使に改め、参知政事となる。疾を以て解くを求め、興中尹となり、入りて太子少保となる。正隆元年致仕す。広平郡王に封ぜらる。薨ず、年六十九。二年、例に依り銀青光禄大夫を贈らる。

郭企忠

郭企忠、字は元弼、唐の汾陽王郭子儀の後なり。郭氏は子儀より承勳に至るまで、皆北方を節鎮す。唐の季、承勳は遼に入り、子孫相継ぎて天徳軍節度使となり、昌金に至り降って副使となる。企忠幼くして孤となり、母に事えて孝謹なり。年十三、母の喪に居り、哀毀すること成人の如し。服除け、父の官を襲ぎ、左散騎常侍さんきじょうじを加う。天輔中、大軍雲中に至り、耶律坦を遣わして諸部を招撫す。企忠来降す。軍帥命じて天徳軍節度使事を同勾当せしめ、其の部を徙して韓州に居らしむ。及び太祖に謁見し、其の家世を知るを問うて、礼遇優厚にし、白鷹を以て之を賜う。天会三年、宋を伐ち、西南諸部の番・漢軍兵を領し、猛安となり、雁門を破るに従い、兵を屯し、桂州管内観察留後を加えられ、代州を鎮む。明年、賊楊麻胡等、衆数千を五台に聚めしを、企忠は同知州事迪里と共に討ち平げ之。汾州事を知るに遷る。是の時汾州初めて下り、居民多く軍士に掠め去られ、城邑蕭然たり。企忠、帥府に詣り力請し、其の親旧の贖い還るを聴かんことを願う。帥府之に従う。未だ幾ばくもあらざるに、完実すること旧の如し。石州の賊閻先生、衆数万を以て城下に至る。僚属内変有るを慮り、備えを為さんことを請う。企忠曰く、「吾れ汾人に徳有り、他無きを保つ」と。乃ち吏民を率いて城守す。会うに援至り、合撃して之を破る。六年、静江軍節度留後に改め、天徳軍節度使・汴京歩軍都指揮使に遷り、累遷して金吾衛上将軍となる。秩満し、権沁州刺史となる。官に到ること歳余にして卒す、年六十八。

烏孫訛論

烏孫訛論、騎射に善くし、父撒改の謀克を襲ぎ、蒙刮に従い東京及び広寧を攻め、北京の山賊を撃ち、皆功有り。蕭哲来たりて恩州を攻むるに、訛論は六十騎を以て之を偵る。夜に逮うて、敵数百騎に遇い、掩撃し、三人を生獲す。霸哲の衆九万将に至らんとするを知る。故に蒙刮以て備えを為すを得、遂に霸哲を破る。宗望、宋を伐ち、已に汴に至るに、訛論は尉氏・中牟の援兵を破り、其の城を取る。久しきの後、兵百五十人を以て敵一千を滄州西に破る。明年、再び宋を伐つ。蒙刮は開州を戍り、訛論は騎四百を以て河を守り、復た千余人を敗り、首七百を斬る。宗弼、淮を渡るに、阿里先ず舟を江上に具す。王善の兵其の前を扼すを聞く。宗弼、訛論に師を済ませしめて王善を和州北に敗る。李成、兵七万を以て烏江に拠るに、訛論は二千人を帥いて直前に進み之を敗る。宗弼遂に江を渡り江寧に至る。十五年、沂州の竇防御叛く。訛論之を敗り、竇防御を獲る。前後の功を録し、猛安を授け、昭武大将軍を加う。宗弼再び河南を取るに、訛論は五十騎を以て楊家賊五百を徐州東に敗る。功を以て賞を受くること、勝げて計ふべからず。天徳二年、唐州刺史を除せられ、淄州に移り、石壘部族節度使に遷る。行きて北京に至り、病にて卒す。

顔盞門都

顔盞門都、隆州帕里幹山の人なり。身長く、須髯美なり。天会の間、其の兄羊艾に従い軍中に在り。方に汴京を取らんとする時、其の兄戦歿す。遂に甲を擐ぎて其の兄に代わり軍に充つ。睿宗陝右を定むるに、門都を以て蒲輦と為し、監軍杲の親管万戸に隷し、饒風関を攻む。坊州に至り、杲、総管蒲魯虎と鳳翔に会せんと欲し、門都に六十騎を領して先ず往き期会せしむ。還るに及び、地形の険厄を備へ得、銀五十両を賞す。其の後、樑王宗弼、軍を山東に駐め、人を陝西に詣らしめ、特に門都を召し至らしむ。廃斉及び百姓を安撫する詔書を齎し、往きて監軍宗室杲を諭せしむ。門都既に還る。宗弼良馬銀絹を以て賞す。事畢り、復た杲に従わしむ。天眷初、叛将定国軍節度使李世輔、偽りて杲を私署に邀え、甲を献ずるを名と為し、遂に兵を以て劫し執りて去る。門都突出し、以て押軍猛安完顔撻懶に告ぐ。同率兵追ひ及び、首を出して戦ふ。杲此に由りて脱するを得、功を以て明威将軍に遷る。復た杲に従ひ陝西を招復し、進みて鳳翔に至る。斉国初めて廃せらる。諸路多く反復一ならず。杲門都に牌劄を授け、往きて撫定せしむ。門都の至る所、多く甲兵を張り、従ふ者は之を安んじ、違ふ者は之を討つ。帖然として復た叛く者無し。杲甚だ之を嘉す。皇統初、広威将軍に遷る。四年、同知通遠軍節度使事を授けられ、保安軍事を知るに改む。天徳三年、丹州刺史兼知軍事と為る。正隆初、甯州刺史と為る。大定初、宋将呉璘等、軍数十万人を以て秦・隴に拠る。元帥府制を承け門都を以て勇烈軍都総管と為し、軍を領して之を討たしむ。宋人徳順に保拠す。都監合喜、武威軍副都総管夾谷査剌を遣わし、宗室璋と会し、征討の策を議す。璋及び門都に曰く、「須らく都監親しく至らば、敵必ず退かん」と。合喜、軍四万を領して来赴す。遂に徳順州を復す。明年、秦・隴平ぐ。功を以て金吾衛上将軍に遷り、通遠軍節度使を授けらる。五年、慶陽尹に改め、本路兵馬都総管を兼ね、官にて卒す。十九年、功を録し、子六哥を以て本路曷懶兀主猛安敵骨論窟申謀克を世襲せしめ、武功将軍を授く。

門都、性忠厚謹愨にして、営壁を安置するに、尤も能く慎密なり。敵忽ち来たる有りと雖も、矢石前に至るも、泰然自若たり。乃ち士卒に号令すること平時の如し。是に由りて人益々安んじて附き、而して功成り易し。

僕散渾坦

僕散渾坦は、蒲與路挾懣の人である。身長七尺、勇健にして力あり、騎射を善くす。十六歳の時、その父胡沒速に従い征伐に従う。初め修武校尉を授けられ、宗弼の紮也となる。天眷二年、宋の岳飛と相拒す。渾坦は六十騎を率い、深く入りて覘伺し、鄢陵に至り、宋の護糧餉軍七百余人を破り、多く俘獲す。皇統九年、慈州刺史を除され、再び利涉軍節度使に遷り、世襲の濟州和術海鸞猛安涉里斡設謀克を授かる。貞元初め、憂いにより官を去る。旧職に起復され、泰寧・永定軍を歴任し、咸平尹に改む。海陵が渾坦の弟の樞密使忽土を殺し、渾坦を南京に召す。既に謁見し、沈思すること久しく、これに謂いて曰く、「汝は功労旧きあり、忽土によりて官を得たるにあらず、これによりて罪を得るは、甚だ矜憫すべきなり」と。遂にこれを釈す。興平軍節度使に改む。世宗即位し、広寧尹と為す。窩斡反し、行軍都統と為り、曷懶路総管徒単克寧と倶に左翼に在り、窩斡を長濼にて破る。臨潢尹に改む。賊平ぎ、金帛を賜う。曷懶路兵馬都総管に改む。顯徳軍・慶陽尹に徙す。致仕す。大定十二年、上旧功を思い、利涉軍節度使として起用し、復た金紫光禄大夫をもって致仕す。卒す。年七十二。

渾坦は十七の官を歴任し、未だ嘗て佐貳たることなし。性沈厚にして識あり、未だ嘗て学問せざれども、聴断に明らかにして、至る所に治声ありという。

鄭建充

鄭建充、字は仲実、その先は京兆の人、鄜州に籍を占む。宋に仕え、累官して延安府事を知る。天会七年来降し、仍って延安府を知り、兵三千を屯す。宋の劉光烈兵八万来たりて建充を攻め、四十余日相拒す。攻め益々急なり、建充は人を遣わして斜喝の軍と会し、夾撃してこれを破り、その裨将賀貴を俘虜す。節制司統制軍馬に遷る。京兆府路兵馬都監に改む。宋の曲端を彭原にて破る。高昌宗延安に拠り、宋のために守る、建充これを撃ち、尽く城邑を回復す。復た延安軍府事を知る。斉国建つ、累遷して博州団練使、寧州を知る。斉国廃され、朝廷地を以て宋に賜う、宋の環慶路経略安撫副使と為り、仍って寧州を知る。天眷、再び陝西を取る、仍って経略安撫使と為し、慶陽を知る。甘穀城を破るに従い、平涼尹に改む。是の時、南京宮室を営建し、大いに河東・陝西の材木を発し、河を浮かびて下り、砥柱の険を経る、筏工多く沈溺し、有司敢えて以て聞かず、乃ち逃亡を誣いて、その家を錮す。建充その事を白し、砥柱に至り筏を解き、順流に散らして下し、善く遊ぶ者に下流にて接ぎ出さしめ、而して錮せられたる者釈かる。正隆軍興し、筋角を括りて軍器を造る、百姓往々にして牛を椎きてこれを取り、或いは生にその角を抜き取り、牛泣き下る者有り。建充その事を朝に白す。

建充の性剛暴にして、常に猘犬十数を畜い、奴僕罪有れば既に笞し、已にして復た犬を嗾けてこれを齧ましめ、骨肉尽くす。謙遜して下士すと雖も、己に敵する上には一も屈する所なし。省部の文移に法度に応ぜざる有れば、輒ちこれを坐の下に置き、或いは即ち毀裂す、ここにおいて在位者これを銜む。軍胥の李換公帑を窃用し、自ら度り免れ得ざるを、乃ち建充が甲を蔵し反せんと欲すと誣う、更に再び鞫すも、皆状無し。方に奏上せんとす、摂事者素より建充と隙有り、その釈かるるを得んことを恐れ、吏をして文書を持たしめ建充に紿いて曰く、「朝省に命有り、奈何」と。建充曰く、「惟だ汝の為す所なり」と。是の夜、獄中に死す。長子訴うるも亦た死す。

烏古論三合

烏古論三合は、曷懶路愛也窟河の人、後に真定に徙る。睿宗右副元帥と為り、三合の勇略を聞き、選びて紮也に充つ。後に宗弼に従い征伐し、曲院都監を補す。未だ幾ばくもせず、宋を伐つに従う。宋兵と潁州にて遇い、三合先登してこれを破る。皇統元年、漢軍千戸を領し、帥府再び軍四千を以てこれに隷す。同知鄭州防禦使事を除され、再び太子少詹事に遷る。大定六年、洺州防禦使に改む。上曰く、「卿昔睿宗に事え、労苦を積む。朕に逮り事え、太子を輔佐し、力を宣ぶること多し。今名郡を典とす、以て卿を労する所以なり」と。永定軍節度使に遷り、臨潢・鳳翔尹、陝西路統軍使、東平尹を歴任す。州郡を節制し、躬り倹約を行い、政は寛簡を先とし、辺庭久しく寧んじ、人民安んずるを得たり。召されて簽書枢密院事と為る。卒す。

十八年、世宗三合の旧労を追録し、その子大興に河北西路愛也窟河世襲猛安阿里門河謀克を授け、階は武功将軍。

移剌溫

移剌溫は本名阿撒、遼の横帳の人、契丹小字に工なり。睿宗左副元帥として宋を伐ち、溫は大抃に従い江を渡り、江寧府都巡検を辟かる。江寧・太平初めて下り、宋は諜人を遣わし百姓を扇構し、応ずる者数万人。溫その諜者を擒え、遂に敢えて窃かに発せず。宗弼これを嘉し、銀千両・重彩百端・絹二百匹を賜う。宗弼毎に出征伐するも、未だ嘗て行間に在らざることなし。同知河北西路転運使事を除す。会に宗弼辺を巡り、溫軍に従い、之に官せず。宗弼朝に入り、熙宗群臣を宴し、宗弼奏請せんと欲すれども、已に酒に被りて次を失い、溫掖して宮を出づ。明日、熙宗宗弼に謂いて曰く、「阿撒叔に事えること甚だ謹み、左右を去るべからず」と。ここにより宗弼益々これを親信す。嘗て女婿の紇石烈志寧に謂いて曰く、「汝阿撒の人と為るを效うべし、以て古人に幾うべし」と。未だ幾ばくもせず、同知中京路都転運使事を除され、累遷して左諫議大夫兼修起居注。正隆宋を伐ち、本官を以て済州路行軍万戸と為り、揚州に至るに従う。軍還り、同知宣徽院事を除す。世宗の御饌口に適わず、溫を召してこれを嘗めしむ。奏して曰く、「味は美からざるに非ず、蓋し南北の辺事未だ息まず、聖慮の在る所有るが故なり」と。上の意遂に釈る。永定・震武・崇義節度使を歴任し、臨海軍に移る。州治水に近く、秋雨、水潦暴かに城下に至り、城頗る決す、百姓惶駭し、為す所を知らず。溫躬り役夫を督してこれを繕完し、不測に臨むと雖も、避くるところ無し。僚属或いは溫を止むるも、溫曰く、「政に疵癘有り、水泛溢して災いと為るは、守臣の罪なり。当に此の身を以て百姓に謝すべく、死すと雖も恨み無し」と。武定に移鎮し、歳旱えて且つ蝗有り、溫指を割き、血を以て酒中に瀝ぎ、禱りてこれを酹す。既にして雨足に沾い、群鴉蝗を啄みて且つ尽くす、ここによりて歳熟し、人は至誠の感と為すという。老いて致仕し、卒す。

賛に曰く、軍旅の事、鋒鏑前に在りて、その死を計わず。耳は金鼓に属し、目は旌旗に属し、心は号令に属す、これ行列の任なり。収国より兵を用い、大定に至り宋と和する以前、命を用いるの士、細きと雖も必ず録す、以て功を明らかにする所以なり。

蕭仲恭

蕭仲恭は、本名を術里者という。祖父の撻不也は遼に仕えて枢密使となり、司徒しとを守り、蘭陵郡王に封ぜられた。父の特末は中書令となり、司空しくうを守り、公主を娶った。仲恭は性質恭謹にして、動作に礼節があり、甲冑を着て駱駝を飛び越えることができた。遼の故事として、宗戚の子弟は別に一班を成し、「孩児班」と号したが、仲恭はかつて班使を務め、宮使、本班詳穏を歴任した。遼帝が西に天徳へ奔ったとき、仲恭は護衛太保となり、軍事を兼ねて領した。霍里底泊に至り、大軍が急に到来し、慌てて逃走した。仲恭の母の馬が疲れて進めず、仲恭兄弟に言うには、「汝らは国家に節を尽くせ、我を顧みるな」と。仲恭の母は、遼道宗の末娘である。遼主はこれを哀しみ、弟の仲宣に命じてその母に侍らせた。仲恭は従って西へ向かった。時に大雪、寒さ甚だしく、遼主は食を欠き、仲恭は衣を進め、また乾飯を進めた。遼主が疲弊すると、仲恭は氷雪の中に伏し、遼主はその上に寄りかかって休んだ。凡そ六日を経て天徳に至り、ようやく食を得た。後に遼主とともに捕らえられ、太宗は仲恭がその主に忠であることを以て、特に礼遇を加えた。天会四年、仲恭は宋に使した。帰還しようとしたとき、宋人は仲恭と耶律余睹がともに亡国の憂いを有し、しかも余睹は監軍として兵権を有するから、誘って用いることができると考え、蠟丸の書を以て仲恭に余睹に届けさせ、内応させようとした。仲恭は平素より忠信にして、反覆の志はなかったが、ただ宋人に留め置かれて帰されぬことを恐れ、偽って承諾した。帰って宗望に会うと、直ちに蠟丸の書を献じた。宗望は仲恭に他意なきを察し、軽く罰した。ここにおいて再び宋を伐ち、二帝を捕らえて帰った。累遷して右宣徽使となり、都点検に改めた。宗磐が宗幹と熙宗の前で争論し、宗磐が刀を抜いて宗幹に向かうと、仲恭が叱って止めた。やがて宗磐は反逆の罪で誅せられ、仲恭は禁衛に備えがあったため、功により銀青光禄大夫を加えられ、尚書右丞に遷った。皇統初め、蘭陵郡王に封ぜられ、世襲猛安を授けられ、平章政事に進み、同監修国史となり、済王に封ぜられた。詔して遼の豫王を広寧に葬らせると、仲恭は会葬に赴くことを請い、熙宗はその義を認めて許した。行台左丞相に改めた。間もなく、入朝して尚書右丞相となり、太傅を拝し、三省事を領し、曹王に封ぜられた。天徳二年、越国王に封ぜられ、燕京留守を除かれた。海陵は自ら書を為し、玉山子を賜った。この歳、薨去、六十一歳。諡して貞簡という。正隆の例により王爵を降格し、儀同三司・鄭国公に改めた。子に拱あり。

子 拱

拱は本名を迪輦阿不といい、初め蘭子山の猛安であった。海陵が宰相のとき、人望を博さんとして、大臣の子を推挙して達官とし、ここにおいて拱を礼部侍郎とした。耶律彌勒は、拱の妻の妹である。海陵はこれを妃に納れんとし、拱に命じて汴より迎えさせた。帰途燕を過ぎたとき、この時仲恭は燕京留守であったが、彌勒の体つきが処女に似ず、密かに憂えて言うには、「上は猜疑心多く、拱は禍に及ぶであろう」と。拱が去って数日も経たぬうちに、仲恭は卒した。拱が上京に至り、訃報を聞き、本官のまま起復し、信牌を佩び、燕京に赴いて葬事を治めようとした。未だ発たず、彌勒が宮中に入ると、果たして仲恭が見た通りであり、直ちに宮中より出された。夜半、拱を禁中に召し、詰問して罪状を得ず。海陵は終にこれを疑い、ここにおいて拱の礼部侍郎を罷め、その信牌を奪った。拱は待命し、一年を過ぎても返答なく、蘭子山に帰って猛安の事を治めた。この時、蕭恭と張九が禁中の事を語った罪に坐し、拱が蘭子山に至り、客と会してこれを語った。阿納という者が拱と不和あり、ここにおいて拱が「張九は無罪にして誅せられた」と語り、言葉に怨謗の意を含むと誣告した。海陵は使者を遣わしてこれを糾問し、使者に戒めて言うには、「この子は狂妄なり、かかる言葉あるべきなり、然らずんば彼の地にてどうしてこの事を知らんや」と。使者は再び拱を問わず、ただその左証を拷打し、告げた通りに証言させ、ここにおいて拱は誅殺された。

蕭仲宣

仲宣は、本名を野里補といい、仲恭の同母弟である。聡敏にして学を好み、沈厚にして寡言であった。五歳で遥かに郡刺史を授けられ、累進して太子少師を加えられ、本班詳穏となった。天祚帝に従って西へ行き、護衛太保左右班詳穏となった。石輦鐸に至り、遼主は仲宣に母に侍るよう留め置き、ここにおいてその母とともに捕らえられた。太宗はこれを嘉し、かつ仲宣が遼国の故事を知り得ると言って、権宣徽使を命じ、睿宗に従って康王を伐った。師が還ると、長く家居した。皇統二年、特旨を以て鎮国上将軍を授けられ、順義・永定・昭義・武寧の四鎮節度使を歴任した。政は平易にして、小吏は敢えて奸を行わず、賄賂は禁絶され、奴婢が郡に入っても、人はその面を知らなかった。朔・潞の百姓は皆祠を立て石に刻んでこれを称えた。正隆二年、卒去、六十四歳。

高松

高松は、本名を檀朵といい、澄州析木の人である。十九歳で軍に従い蒲輦となり、力強く戦を善くし、宗弼はその名を聞き、召して左右に置き、汴京及び和尚原を破るに従い、累官して咸平総管府判官となった。世宗が即位すると、管押東京路渤海万戸を充てた。兵部尚書の可喜が謀反を図り、前同知延安尹の李老僧が言うには、「我は万戸高松とこれを謀れば、必ず我に従わん」と。衆は言うには、「もしこの軍を得れば、挙事容易なり」と。老僧は往って松に会い、松を説いて言うには、「君は功ある旧人なり、今に至るも大官を得ず、何ぞや」と。松は言うには、「我は一県令なり、毎に聖恩を思い、累世報いる能わず、尚敢えて望みあらんや」と。老僧は遂に敢えて言わず。可喜・布輝・阿瑣は事成り難きを知り、ここにおいて変を上告し、共に斡論を捕らえて有司に赴かせた。松は窩斡征討に従い、功により咸平少尹に遷り、四遷して崇義軍節度使となった。卒去、七十四歳。

賛して言う:忠信をもって己を行う、豈に大ならずや!蕭仲恭は故主に心を尽くし、富貴福沢これに向かい、宗室の旧臣と等しかった。仲恭は朝廷で宗磐を叱って朝廷を尊び、高松は義をもって李老僧を止めて社稷を安んじ、皆古の烈丈夫の風有り。

海陵諸子

海陵の后徒単氏は太子光英を生み、元妃大氏は崇王元寿を生み、柔妃唐括氏は宿王矧思阿補を生み、才人南氏は滕王広陽を生んだ。

光英

光英は本名を阿魯補といい、徒単后の生んだ子である。この時燕京転運使趙襲慶に男子多く、故にまた趙六とも名付けた。同判大宗正の方の家で養われ、故に崇徳大夫沈璋の妻張氏がかつて光英の保母を務めたため、ここにおいて璋に銀青光禄大夫を贈り、宗正方に銭千万を賜った。

天徳四年二月、光英を立てて皇太子とした。この月、太祖の画像を武徳殿に安置し、国初に太祖に従って寧江州を破り功有った者を尽く召し、百七十六人を得て、皆宣武将軍を加え、酒帛を賜った。その中に忽里罕という者あり、その衣を解いて光英に進めて言うには、「臣は今年百歳なり、子十人有り。願わくは太子寿考にして男子多く、小臣の如からんことを」と。海陵は光英にその衣を受けさせ、海陵は即ち自らの服し佩びし刀を忽里罕に賜い、その厚意に答えた。後に「英」の字が「鷹隼」の字と音が近いため、「鷹坊」を「馴鷙坊」と改めた。国号に「英国」有りまた「応国」有り、ここにおいて「英国」を「寿国」と改め、「応国」を「杞国」と改めた。宋もまた「光州」を「蔣州」と改め、「光山県」を「期思県」と改め、「光化軍」を「通化軍」と改めたという。

太医院保全郎李中、保和大夫薛遵義はともに医薬をもって光英に侍り、李中は超換して宣武将軍・太子左衛副率となり、薛遵義は丁憂したが起復して宣武将軍・太子右衛副率となった。光英は繈褓の時、宗正方の家で養われ、その後は永寧宮及び徒単斜也の家で養われた。貞元元年、詔して朝官・京官五品以下の者は奉引に従い通天門より入り、東宮に居住せしめた。

正隆元年三月二十七日、光英の誕生日に、神龍殿において百官を宴し、京師に大酺一日を賜う。四年八月、光英が鴉を射てこれを獲た。海陵は大いに喜び、原廟に薦げることを命じ、光英に馬一匹・黄金三斤を賜い、従者に班賜すること差等あり。正隆六年、海陵は行幸して南京に至り、安粛州に次ぐ。光英は二兎を獲、使者を遣わして山陵に薦ぐ。数日を居て、また麞兔を獲、従官皆賀す。光英に名馬弓矢を賜い、また使者を遣わして山陵に薦ぐ。六月、海陵は南京に至り、群臣迎謁す。海陵は徒単后・光英と共に車に載って入る。

海陵は嘗て言う、「太子年十八を俟ち、以て天下をこれに付せん。朕は当に日を宮掖苑囿の中に游宴して以て自ら楽しむべし」と。光英は頗る警悟なり。海陵は侍臣に謂いて曰く、「上智は学ばずして能くし、中性は学びに由らざるは未だあらざるなり。太子は宜しく碩徳宿学の士を択び、使いてこれを輔導せしめ、庶幾くは古今を知り、過失を防がん。詩文は小技、何ぞ必ずしも作さんや。騎射の事に至っては、また習わざるべからず、その懦柔を恐るるなり」と。将に親征せんとし、后と光英は衣を挽き号慟す。海陵もまた泣下して曰く、「吾行きて帰らん」と。

后は『孝経』を誦す。一日、忽ち人に謂いて曰く、「『経』に三千の罪は孝ならざるより大なるは莫しと云う。何をか孝ならざると為す」と。対する者曰く、「今民家の子、博弈飲酒し、父母を養わざるは、皆孝ならざるなり」と。光英は默然として良久くして曰く、「これ豈に足って孝ならざると為さんや」と。蓋し海陵の母を弑する事を指して言うなり。

宋を伐つに及び、光英は居守し、陀満訛里也を以て太子少師兼河南路統軍使とし、以てこれを衛護せしむ。完顔元宜の軍変あり、海陵は害に遇う。都督ととく府は文を移して訛里也に、光英を汴京に於いて殺さしむ。死する時年十二。后は海陵とともに大房山の諸王墓次に葬らる。

訛里也は咸平路窟吐忽河の人、その父忽土の猛安を襲ぐ。邳州刺史を除され、三遷して昌武軍節度使・帰徳尹・南京留守・河南路統軍使・太子少師となる。大定二年、元帥右都監に遷る。宋人陳・蔡を陥す。訛里也師久しく功無し、已にして兵宋に敗れ、職を解かる。俄かに起ちて京兆尹となる。世宗これに謂いて曰く、「卿河南統軍たりしとき、門に私謁多く、百姓これを悪む。その後陳・蔡を経略し、惟だ功無きのみならず、且つまた敗を致す。汝が旧労を以て、故にまた汝を用う。京兆の地は南辺に近し、宜しく善くこれを理すべし」と。大定三年、卒す。

元寿

元寿は天徳元年に崇王に封ぜらる。三年、薨ず。

矧思阿補

矧思阿補は正隆元年四月に生まる。小底東勝の家これを保養す。東勝に銭千万を賜い、仍って第を起つ。五月己酉、弥月、その母唐括氏を柔妃に封じ、京師の貧者五千人に銭を賜う。人ごとに銭二百。二年、矧思阿補の誕生日に、海陵は永寿太后及び皇后・太子光英とともに東勝の家に幸す。三年正月五日、矧思阿補薨ず。海陵は太医副使謝友正・医者安宗義及びその乳母を殺し、東勝を杖一百し、名を除く。明日、矧思阿補を追封して宿王とし、大房山に葬る。

諫議大夫楊伯雄は禁中に入直し、因って同直の者と相語る。伯雄曰く、「宿王の死は、蓋し宮外に養わるるにあり。供護は謹みと雖も、父母の膝下に若かず。豈に国家の風俗素よりかくの如くを尚ぶや」と。或人この言を以て海陵に告ぐ。海陵は大いに怒り、伯雄に謂いて曰く、「爾臣子なり。君父の為す所、豈に風俗を言うを得んや。宮禁中の事、豈に爾の当に言うべきところならんや。朕或いは体中佳からず、間々朝を視ず。只だ人幾拜を得るを少くするのみ。而して庶事は皆便殿に奏決し、縦え死刑ありと雖も即ち論決せず、蓋し囚者をしてその死を緩むるを得しむるなり。除授宣勅に至っては、雖複稽緩すと雖も、何の利害かあらん。朕毎に閑暇に当たり、頗る教坊の声楽を閲し、聊か以て自ら娯しむ。『書』に云う、'内に色荒を作し、外に禽荒を作し、酒に酣え音を嗜み、宇を峻にし牆を雕る。一つ此に於けり、未だ或いは亡びざるは莫し'と。これは人君の国事を恤みずこれに溺るる者を戒むるのみ。我が如きは、声楽をして喧動天地せしむると雖も、宰相敢えて濫りに人に官を与え、而して吏敢えて賕を受くる者あらんや。外間敢えて窃に議する者あらんや。爾諫官なり。言うべき事あらば、当に公にこれを言うべし。言いて従わざれば、朕の非なり。而して乃ち私に議す、可ならんや」と。伯雄対えて曰く、「陛下の至徳明聖、固より窃に議する者無し。愚臣失言す。罪当に万死す。惟うらくは陛下哀憐せんことを」と。海陵曰く、「本汝を殺さんと欲す。今只だ汝を杖二百せん」と。既に決杖四十に至り、近臣をして詔を伝え諭して伯雄に曰く、「爾が籓邸に旧ありを以て、今特にこれを釈す」と。

広陽

滕王広陽、母は南氏、本大抃の家の婢、元妃大氏に随い宮に入る。海陵これに幸し、及び娠あり、即ち殿直と為すことを命ず。正隆二年九月二十六日、広陽を生む。十月満月、海陵は在京の貧民に分施す。凡そ銭千貫を用う。三年二月、南氏を才人に封ず。七月、広陽を滕王に封ず。九月、薨ず。

賛して曰く、海陵宋を伐ち、光英居守す。陀満訛里也をして宮師兼統軍の任を以てせしむ。計至って悉しなり。豈にその手に死せんことを料らんや。荀首言有り、「人子を以てせずんば、吾子其れ得べけんや」と。海陵は人の子を睨むこと魚肉に翅せず、而して独り己が子の謀安をのみす。得べからざるなり。