鶻謀琶
鶻謀琶は、術吉水斜卯部の人である。性質は忠直で寬厚、節義を重んじ、戦いを勇んだ。父の阿鶻土は、金吾衛上將軍を追贈された。穆宗の時、鶻謀琶は內附し、先に子の甯吉を間道より遣わして誠意を伝えさせた。遂に活里疃を使わして鶻謀琶と合軍させ諸部を攻め降し、その衆を率い、弟の胡麻谷・渾坦・甥の阿里等と共に諸城を攻め落とし、撒改に従って塢塔城を破り、穆宗はしばしばこれを賞した。高麗の戍兵を破る。石適歡と共に諸部を討ち平らげる。蒲察部の雅里孛堇がその兄弟の胡八・雙括等と謀り遼に帰順せんとすると、鶻謀琶はこれを捕らえ、康宗に送り、賜賚甚だ厚かった。高麗の曷懶甸を破り、及び陀魯城を下す功があった。天輔六年に卒す、年七十二。天眷年中、銀青光祿大夫を追贈された。
迪姑迭
迪姑迭は、溫蒂罕部の人である。祖父は紮古乃、父は阿胡迭、代々胡論水部の部長であった。迪姑迭は二十余歳で父の謀克を代わりに領し、甯江州を攻め、遼の援兵を破り、甲冑・馬・財物を獲た。奚の営を攻め破り、韓州に戻る途中、敵二千人に遇い、これを撃ち走らせた。斡魯古が咸州において遼人と戦い、兵は既に退却していたが、迪姑迭は本部の兵をもって力戦し、諸軍は再び奮い立ち、遂にこれを大破した。護歩答岡の役に、乙里補孛堇が敵中に陥った時、迪姑迭はこれを救い出した。黄龍府を攻め、身に数箇所の創傷を受け、猛安を授けられた。天輔七年、上(太祖)に従って山西に至り、病にて卒す、年四十七。天眷年中、光祿大夫を追贈された。
阿徒罕
阿徒罕は、溫蒂罕部の人である。十七歳の時、撒改・斡帶等に従って諸部を討ち平らげ、常に身を以て先頭に立ち力戦した。高麗が曷懶甸に九城を築くと、斡塞がこれを防ぎ、阿徒罕は前鋒となった。高麗が海島に屯する者があったので、阿徒罕は衆三十人を率いて夜に渡り、その営柵・戦艦を焼き、これを大破し、遂に陀吉城を下した。やがて八城皆下り、功は最も多かった。遼兵が甯江州の東門より出ると、阿徒罕はこれを迎え撃ち、ことごとく殲滅し、功により謀克を授けられた。黄龍府攻めに従い、力戦し、身に数十の創傷を受けながらも、遂にその城に登った。後に烏論石準と共に照散城を救援し、阿徒罕は不意を衝いて急撃することを請うた。遂に夜に益褪水を渡り、翌朝、これを大敗させた。斡魯がその功を上奏し、幣と馬を賜った。天輔四年五月に疾病し、良馬一匹を賜り、詔して曰く、「汝が安らかならばこれに乗れ」と。年六十五で卒す。上(太祖)はこれを悼み惜しみ、使者を遣わして弔祭し、馬を贈った。阿徒罕は人となり孝弟にして、施し恵むことを好み、健捷で弋獵に長け、角牴・撃鞠に至るまで、皆その能に精しかった。
夾谷謝奴
夾谷謝奴は、隆州納魯悔河の人である。国初、祖父の阿海が率いる部衆を率いて来帰し、器用・甲仗を献じた。父の不剌速は、本部の勃堇を襲い、太祖に従って遼を伐ち、世襲猛安・親管謀克を授かり、曷懶路都統となった。謝奴はその長子であり、背が高く髯が多く、騎射に長け、女直・契丹の大小字及び漢字に通じていた。元服後、その父に従って太祖に謁見し、金牌を佩びることを命じられ、左翼護衛を総領した。西京が未だ下らぬ時、謝奴は城中の生口を捕らえ、城中が密かに人を遣わして外に救援を求めていることを知った。都統府はこれに備え、その救兵を退け、西京は遂に陥落した。燕京より還る途中、判泥恩納阿を過ぎ、隘路で敵に遇う。謝奴は士卒に先立ち、敵中の先鋒二人を射殺し、敵は潰走した。総管の蒲魯虎は甲冑と馬を以てこれを贈った。後にその父の猛安を領し、和尚原を攻め、仙人関より出ることに従う。宋兵が険阻に拠ると、猛安の雛訛只が突撃して戦うも勝てず、謝奴は麾下五十人を選んで戦い、これを制した。呉玠と対峙し、烏里雅の行陣が整わぬ時、呉玠がこれに乗じたので、謝奴は兵を率いて迎え撃ち、遂に敵を大破した。前後の功を計り、その父の猛安謀克を襲いだ。宗弼が再び河南・陝西を取ると、宋人が密かに兵を潜ませて石閏諸営を襲取せんとしたので、謝奴は渭南の大禹鎮よりその伏兵を掩い、その軍帥を射中て、宋兵は敗走し、多くの旗幟・兵仗を獲た。帥府はこれを厚く賞した。華州防禦使に除せられる。入朝して工部侍郎となり、本部尚書に遷る。平涼尹・昭義軍節度使に改める。大定初年に卒す。
阿勒根沒都魯
黃摑敵古本
黃摑敵古本は、世々星顕水に居住した。甯江を破り、咸州を取り、東京路及び諸山寨柵を平らげることに従い、皆功があった。麻吉に従い、上京において遼将の和尚節使の兵七千を破り、また那野の軍二万を破る。再び麻吉に従い阿鄰甸で敵に遇い、麻吉が創傷を受け戦えぬ時、敵古本は兵を率いてこれを撃ち破り、殲滅すること殆んど尽くした。回鶻城を攻めることに従い、その兵九万を破り、山后において木匠直撒の兵を破り、俘獲甚だ多かった。昭古牙の兵三千を破り、その家屬を獲て還る。平州の張覚を攻め、吾春が西山に包囲された時、敵古本は兵を率いてこれを救い、その包囲を解き、併せて糧五千斛を獲、戸口を招降すること甚だ多かった。興中を平らげることに従い、その民人を撫安す。天會年間、大軍が宋を伐つ時、敵古本は浚・開徳・大名を取り、及び済南・高唐・棣・密等州を取ることに従う。皇統年間、功により謀克を襲い、寿光県界に移り屯して千戸となる。六年、世襲千戸・棣州防禦使を授かる。卒す。
蒲察胡盞
夾穀吾里補
夾穀吾里補は、暗土渾河の人で、天徳に移った。父兀屯は、烏春・窩謀罕を討って功があった。吾里補は婁室の帳下に属し、系遼女直を攻め、太彎照三らを降伏させた。婁室に従って鹹州において斡魯古を救い、遼兵を押魯虎城で破った。遼軍が遼水に営を張ると、吾里補は五謀克の軍を率いて夜襲をかけ、遼軍は驚いて潰走し、殺戮捕獲することほぼ尽くした。斡魯が高永昌を伐つに当たり、吾里補は数騎をもって遼水の上で奮撃し、また四十騎を津要に伏せさせ、その斥候騎兵に遭遇してこれを撃ち、生口を獲、これにより永昌の虚実を尽く知った。太祖はこれを賞し、奴婢八人を賜った。永昌が兔児陀に軍を駐め、先に津要を占拠したため、軍は渡河できなかった。吾里補と撒八がその先鋒二人を射殺すると、永昌の衆はやや退き、大軍は遂に遼水を渡った。広寧を攻めるに当たり、軍帥が勇士を選んで先登させると、吾里補と赤盞忽沒渾は各々自部を率いてその陣に突入し、大軍がこれに続き、遂に広寧を抜いた。太祖が臨潢を攻めるに、吾里補は顔面に重傷を負いながらも奮撃して自若とし、遼の宮女二人を賞賜された。遼王杲が既に中京を取ると、吾里補は四十騎をもって敵情を偵察し、遼の喉舌人(情報官)を捕らえ、これにより遼主の所在を知った。後に都統斡魯に従って雲中を平定し、宗翰に従って応州に駐屯した。遼軍が近境にいたので、吾里補は自部をもってこれを撃破した。宗望が宋を伐つに、宋の安撫使蔡靖が吾里補のもとに来て降った。婁室が陝西を攻めると、諸郡はしばしば再び叛き、吾里補はこれを攻め破った。張浚軍を富平で破るに、吾里補は先登し、睿宗は金器と名馬を賞賜した。遂に先鋒として蘭州を攻め、その城を下した。昭武大将軍を加えられ、世襲猛安を授けられた。累官して孛特本部族節度使となり、老いて致仕し、芮国公に封ぜられた。
吾里補は智略多く、膂力人に過ぎ、甚だ老いてもなお勇健少しも衰えなかった。大定初年、大勢の賊徒が嘯聚し、特鄙関を出たので、吾里補は郷里の年少者を率いて迎え撃ち、賊党は遂に潰走した。事が聞こえ、賞賜は甚だ厚かった。大定二十六年に卒す、一百五歳。
王伯龍
六年、還って莫州を攻め、これを降し、太子少保・莫州安撫使を加えられた。濮州において李固寨の衆十余万を破った。濮城が守りを固め、城中は鉄を熔かして我が軍に揮い、攻めても克てなかった。伯龍は重甲を着け、首に大釜を冠り、槍を挺して先登し、城壁の守兵二十余人を殺した。大軍が相継いで登り、遂にこれを克った。徐州を進攻するに、伯龍はまた先登し、徐・宿・邳三路軍馬都統を充てられた。清河において高托山の衆十五万余を破った。進んで韓世忠を邳州において撃ち、これを走らせ、大軍と宿遷で会し、世忠を揚州まで追撃した。還って泗州を攻めた。泗州守将は城を以て降った。嵫陽に屯軍し、陳宏の賊衆四十余万を破った。単州において黄戩を破った。帰徳を進攻するに、軍帥は伯龍に攻城具を立てさせた。伯龍が二十余騎を従えて地形を視察していると、城中より忽ち兵千余が出て、伯龍を生け捕りにしようとした。伯龍は騎兵を縦してこれに馳せ、敵兵は乱れ、堀に落ちて死ぬ者ほぼ二百人に及んだ。巣県において王善の衆を破り、廬州・和州を取るに、伯龍の功が多かった。軍が採石を渡り、岳飛・劉立・路尚等の兵を撃破し、芻糧数百万を獲た。還って真・揚を通る途中、道で酈瓊・韓世忠軍に遭遇し、また戦ってこれを破った。また莫州安撫となり、澤州知州に改めた。太行の群賊がしばしば嘯聚したが、伯龍は皆これを平定した。
高彪
高彪、本名は召和失、辰州の渤海人である。祖父の安國は、遼の興・辰・開三鎮の節度使であった。父の六哥は左承制に任じられ、刺史にまで至った。彪が生まれた時、その父は術者の言葉を用い、その日時が己に不利であるとして、養育しようとしなかったが、その母が庇護した。数年が過ぎ、ついに彼を追い出し、彪は母方の実家に匿われた。遼が東京で兵を徴発した時、六哥はすでに老いており、従軍すべきであったが、慨然として親しい者に言った、「我が子がもしおれば、兵役に代わることができように」。親しい者が実情をことごとく告げたので、彪は父に代わって出征した。出河店で戦い、遼兵は敗走したが、彪はただ一人奮戦し、軍帥はこれを見て言った、「これは勇士である」。生け捕りにするよう命じた。斡魯が東京を攻めると、六哥はその郷人を率いて迎え降り、これをもって榆河州千戸に任じられた。久しくして老齢を告げ、彪が代わってその衆を統領した。
都統の杲が中京を攻めると、彪は謀克を率い、斡魯に従って高・恵の境で遼の将軍合魯燥及び韓慶民を破った。やがて武安に駐軍し、合魯燥が精兵二万をもって来襲したので、斡魯に従って出戦し、配下の兵とともに皆馬を離れて先登し、奮撃してこれを破った。奚人は険阻を頼みとして命令に背き、各地に屯結していたが、彪は屡々戦って功績があった。宗望が平州を攻めると、彪は西北道を巡行して地を略し、敵を破り、石家山寨を招き降した。再び宗望に従って宋を伐ち、猛安となった。軍が真定に至ると、彪は兵士七十人を率い、城に臨んで甬道を築いた。城中が夜に兵を出して攻撃具を焼こうとしたが、彪はこれを撃退した。大軍が汴を包囲した時、五十騎をもって東南の水門に屯した。宋軍が再び重兵をもって出戦したが、彪はことごとくこれを破った。軍が帰還し、鎮河朔に屯すると、再び霸州で敵を破り、その副将の祝昂を生け捕りにした。河間が夜に兵二万を出して我が営塁を襲ったが、彪は三謀克の兵を率いてこれを撃破した。天会五年、静江軍節度使・寿州刺史を授けられた。
翌年、宋を伐ち、帥府に従って山東の地を巡行し、城を攻め敵を克ち、数度にわたり重賞を賜った。七年、軍が睢に至ると、彪は配下の兵をもって京西の人民を招誘した。柘城県に至ると、その官吏が出て降伏したので、彪はただ五十余騎とともに城に入った。やがて城中の三千余人が再び叛いたが、彪はその衆を率いて力戦してこれを破り、その民を慰撫して安んじて帰還した。梁王宗弼に従って康王を襲い、杭州に至った。軍が帰還する時、宋の将軍韓世忠が戦艦数百をもって江北を扼した。宗弼は軍を引き西に向かい、将に黄天蕩に至らんとした時、敵船三十余隻が南岸に迫って来た。そのうち先に至った一隻には兵士二百余人が乗っていた。彪はまさに及ばんとするのを測り、鉤でこれを引き寄せ、勇士数十人を率いて敵船に躍り込み、殺すところ甚だ多く、残りは皆水中に追い詰められて死んだ。翌年、陝西攻めに従い、軍が寧州に至ると、彪は同族の昂とともに兵三千を率いて廓州を取った。初めて到着した時、降伏して来た者が言うには、「城の東北隅の守兵が謀って内応しようとしている」。彪は即ち夜に家奴二人を従えて登城し、左右の守兵がこれに気づいたが、彪と従者は皆決死の戦いをし、諸軍が続いて進み、ついにその城を陥れた。和尚原及び仙人関の攻撃に従った。阿里とともに漕糧と戦艦を護送して亳州に至ると、宋軍が船五十艘をもって河路を阻んだが、これを撃破し、その将軍蕭通を生け捕りにした。漣水の賊の水寨を攻撃し、進んで漣水軍を取ろうとしたが、その官民はすでに逃げ去っており、ことごとく招き降した。
彪は勇健人に絶し、一日に三百里を行くことができ、重鎧を身にまとい、険路を飛ぶが如く進んだ。敵に臨むに及んでは、身を士卒に先んじ、未だ顧みることはなく、大小数十戦、常に寡をもって衆を撃ち、勝捷しなかったことはなかった。
齊國が既に廃されると、滕陽軍以東諸路兵馬都統を摂行し、徐・宿・曹・単を撫諭し、滕陽及びその属邑は皆従前の如く安堵した。武寧軍節度使となり、頗る賄賂を退けたが、嘗て贓罪に坐し、海陵はその勲旧を以て、杖罰して釈放した。沂州防禦使に改め、安化・安国・武勝軍節度使を歴任し、行台兵部尚書に遷り、京兆尹に改め、郜国公に封ぜられた。憂いにより官を去り、起復して武定軍節度使、帰徳尹となった。正隆の例により金紫光禄大夫を授けられた。久しくして致仕し、再び起用されて枢密副使・舒国公となり、彪の名を賜った。六十七歳で卒し、諡して桓壮といった。彪は性質機巧にして、音律に通じ、人は貴賤を問わず、皆温顔をもって接した。
溫蒂罕蒲里特
伯德特離補
伯德特離補は、奚五王族の人であり、遼の禦院通進であった。天会初年、父の撻不也とともに帰朝し、世襲謀克を授けられ、後に京兆尹をもって致仕した。
特離補は人となり孝行で謹み深く、政務は簡素で静かであり、財を蓄積せず、常に言うには、「俸祿は既に廉潔を養うに足り、衣食以外に、何のために蓄積する必要があろうか」と。凡そ官職を転任する際、携行する荷物は車一乗と婢僕数人に過ぎなかった。
耶律懷義
耶律懷義、本名は孛迭、遼の宗室の子である。二十四歳の時、戦功により累進して同知點檢司事に至った。宗翰が既に西京を取ると、遼主は夏に奔ることを謀り、懷義は諫めて止めさせようとしたが、聞き入れられず、ひそかに遼主の厩舎の馬を取って来降した。太祖が燕より軍を返すと、宗翰と斡魯を留めて西方を経略させ、懷義は謀克を率いて従軍した。天会初年、帥府は新たに降った諸部の大小遠近が一様でないため、懷義にこれを配置換えさせ、詔命を受けて西南路招討使とした。そこで諸部の要衝の地を選び、城市を建て、商賈を通わせた。諸部は兵乱の余り、人々は多く困窮していたが、これより衣食は年々豊かとなり、畜牧も繁殖した。
宗翰に従って宋を伐ち、馬邑を降し、雁門を破り、兵を屯し、進んで太原を攻めた。配下の兵を率いて別働し、清源県徐溝鎮を降し、遂に諸将と共に汾州の境に列屯した。時に河東・陝西路の兵が太原を救おうと来援し、劉光世と折可求が文水の西山に柵を築いた。懷義は生け捕りを得て、宋兵の要害に屯守する様をことごとく知り、兵を分けて襲撃しこれを破った。翌年、再び宋を伐ち、婁室に従って汾州及びその属邑を取り、遂に平陽を過ぎ、沢州・潞州を出て河陽に向かい、至る所皆降った。及び大軍が汴を包囲すると、懷義は京西に屯し、汴城が既に陥ちると、出奔する宋兵を邀撃してことごとく殲滅した。鄭州・鄧州を攻め、及び鄭州の叛者を討ち平らげることに従い、濮州及び雷沢県を攻め下し、大名・東平府・徐・兗等の州を破ることに従い、皆功があった。七年、鎮に還る。十年、尚書左僕射を加えられ、西北路招討使に改める。
懷義は西陲に幾十年、撫育統御に恩恵があり、去る時には、老幼が道を遮って引き留め慕い、数日発つことができなかった。天眷初年、太原尹となり、治績に能吏の名声があった。中京留守に改める。宗弼に従って烏納水を渡り、中京に還り、老齢を理由に致仕を乞うたが、許されなかった。大名尹に改め、命じて治所に赴かせず、ただ俸給と従者手当を給するのみとした。毎年春の水辺行幸には扈従し、その余は自便を聴した。翌年、再び老齢を理由に致仕を請い、許され、俸給と従者手当の半分を給された。海陵が即位すると、漆水郡王に封じられ、進んで莘王に封ぜられた。久しくして、進んで蕭王に封ぜられた。正隆の例により景国公に封ぜられた。その子の神都斡は西北路招討都監となり、官に迎えて侍らせた。神都斡が海陵に従って南征すると、懷義は雲中で卒し、八十二歳であった。
蕭王家奴
田顥
趙隇
趙隇、字は徳固、遼陽の人である。その婦翁は優伶として遼主に寵愛され、隇は閣門祗候に補され、累遷して太子左衛率となった。後に灤州に居住した。宗望が張覚を討つと、隇は城を逾えて出降し、洛苑副使を授けられ、灤州千戸となった。洛苑使に遷り、検校工部尚書となった。宋を伐つことに従い、汴に至り、棣州刺史・侍衛歩軍都虞候に遷った。及び再び宋を伐ち、真定を攻め、功に与り、商州刺史に改め、検校尚書右僕射となった。五年、同知信徳府路統押軍兵、兼沿辺安撫司事となった。明年、権知済州事となった。八年、河南平定に従い、隴州団練使を授けられた。十年、石州知事に改めた。隇は久しく軍旅の間にあり、民を治めることは善くせず、誹謗の議論に坐し、平州甜水塩の監に貶謫された。齊国が廃されると、河南は皆宿将をもってこれを守らせ、隇は宿州防禦使を授けられ、本路の軍兵を統率した。隇は義を重んじ、儒士を接遇した。嘗て事有って汴に至った時、故人の子が官銭百万を負うと、隇は囊中の金を贈ったが、その子が悉く私費に費やしたので、再び代わってこれを納めた。間もなく、徐帥の不法を訟える者が有り、朝廷は隇にこれを審理させたが、隇は委曲を尽くして庇護し、この事に坐して廃罷され、燕に寓居した。海陵が行台省を領して出ると、燕に至り、隇は往ってこれに面会し、因ってその事を訴えた。及び海陵が即位すると、起用されて保大軍節度使となった。貞元初年、内省使に改めた。未だ幾ばくもなく、中都路都転運使となった。明年、再び順義・興平に転じ、入朝して太子詹事となり、沁南を鎮め、疾病により卒し、六十六歳であった。
後十余年、隇の子孫と司徒張通古の子孫は皆不肖で淫蕩、資産を破り、田宅を売った。世宗はこれを聞き、詔して曰く、「今後より官民の祖先が亡没した場合、子孫は居宅を分割してはならず、ただ嫡子の幼い者がこれを主とし、売り払うに至らせぬこと」と。仍ってこれを令に著した。