金史

列傳第十八:熙宗の二子 斜卯阿里 突合速 烏延蒲盧渾 赤盞暉 大㚖 磐 阿離補

列傳第十八:熙宗の二子 斜卯阿里 突合速 烏延蒲盧渾 赤盞暉 大㚖 磐 阿離補

熙宗の二子

原文熙宗二子

熙宗の諸子:悼平皇后は太子済安を生み、賢妃は魏王の道済を生む。

原文熙宗諸子:悼平皇后生太子濟安,賢妃生魏王道濟。

済安は、皇統二年二月戊子に天開殿において生まれた。帝は二十四歳にして初めて皇子を得て、大いに喜び、使者を馳せて明徳宮の太皇太后に報せしめた。五日にして命名し、天下に大赦を行った。三月甲寅、天地宗廟に告げる。丁巳、髪を切り、天地宗廟に奏告する。戊午、皇太子に冊立する。皇后の父である太尉胡塔を王に封じ、人口・馬牛五百・駝五十・羊五千を賜う。随朝の職官は皆一資を遷し、全てに賜物があった。己未、詔を天下に下す。十二月、済安の病が重篤となり、帝は皇后と共に仏寺に幸して香を焚き、涙を流して哀しく祈り、五百里内の罪囚を曲赦した。この夜、薨去。諡して英悼太子とし、興陵の側に葬り、帝は烏只黒水まで送って還った。工に命じてその像を儲慶寺に塑らせ、帝と皇后は寺に幸してこれを安置した。海陵が上京の宮室を毀つに及び、寺もまた毀たれた。

原文濟安,皇統二年二月戊子生於天開殿。上年二十四始有皇子,喜甚,遣使馳報明德宮太皇太后。五日命名,大赦天下。三月甲寅,告天地宗廟。丁巳,翦鬌,奏告天地宗廟。戊午,冊爲皇太子。封皇后父太尉胡塔爲王,賜人口、馬牛五百、駝五十、羊五千。隨朝職官並遷一資,皆有賜。已未,詔天下。十二月,濟安病劇,上與皇后幸佛寺焚香,流涕哀禱,曲赦五百里內罪囚。是夜,薨。諡英悼太子,葬興陵之側,上送至烏只黑水而還。命工塑其像于儲慶寺,上與皇后幸寺安置之。海陵毀上京宮室,寺亦隨毀。

道済は、皇統三年、中京留守に任ぜられ、直学士阿懶を都提点とし、張玄素を同提点として、左右よりこれを輔導せしめた。まもなく魏王に封ぜられ、その母を賢妃に封ず。初めは外に居たが、ここに至ってこれを宮中に養う。間もなく、熙宗は怒ってこれを殺した。

原文道濟,皇統三年,命爲中京留守,以直學士阿懶爲都提點,張玄素爲同提點,左右輔導之。俄封魏王,封其母爲賢妃。初居外,至是養之宮中。未幾,熙宗怒殺之。

賛して曰く:国初は制度未だ定まらず、太宗・熙宗は皆自ら諳班あんばん勃極烈ぼっきょくれつより帝位に即く。諳班勃極烈とは、漢語で最も尊い官という。熙宗が済安を皇太子に立てて、初めて名位を正し、制度を定めたのである。

原文贊曰:國初制度未立,太宗、熙宗皆自諳班勃極烈即帝位。諳班勃極烈者,漢語雲最尊官也。熙宗立濟安爲皇太子,始正名位,定制度焉。

斜卯阿里

原文斜卯阿里

斜卯阿里、父は渾坦、穆宗の時に内附し、数々の戦功があった。阿里は十七歳の時、その伯父胡麻谷に従って詐都を討ち、その弟沙里只を捕らえる。高麗が曷懶甸に九城を築くと、渾坦はこれを攻め、木里門甸において敵に遇い、長く力戦した。阿里は槍を挺てて馳せ、その将を陣中に刺し、敵は遂に潰走した。渾坦は石適歓と徒門水において合兵し、阿里は先ず敵兵を破り、その二城を取る。高麗が侵入し、我が兵が要害に屯守するにより、進むを得ず、乃ち還る。阿里は曷懶水において追い及び、高麗人は争って氷上を走る。阿里はこれに乗じ、殺戮略奪すること殆ど尽くし、遂に石適歓と合兵する。道中、敵兵五万に遇い、これを撃ち走らす。また石適歓と共に敵七万に遇い、阿里は先登し、奮撃してこれを大いに破る。石適歓曰く、「汝は一日の間に、三たび重敵を破る。その功を忘るるべけんや」と。乃ち厚くこれを賜う。

原文斜卯阿里,父渾坦,穆宗時內附,數有戰功。阿里年十七,從其伯父胡麻谷討詐都,獲其弟沙里只。高麗築九城於曷懶甸,渾坦攻之,遇敵於木里門甸,力戰久之,阿里挺槍馳刺其將於陣中,敵遂潰。渾坦與石適歡合兵于徒門水,阿里首敗敵兵,取其二城。高麗入寇,以我兵屯守要害,不得進,乃還。阿里追及于曷懶水,高麗人爭走冰上,阿里乘之,殺略幾盡,遂合兵于石適歡。道遇敵兵五萬,擊走之。又與石適歡遇敵七萬,阿里先登,奮擊大敗之。石適歡曰:「汝一日之間,三破重敵,功豈可忘。」乃厚賜之。

斡塞・烏睹本が駝吉城を攻むるに、阿里は城壁を穿って門と為し、日は既に暮れて入るべからず、兵をもってこれを守り、翌朝遂にその城を取る。烏睹本は鎧を着せ並びに乗馬を賜う。下って甯江州を攻め落とすに従い、猛安もうあんを授かる。また信州・賓州を攻め、皆これを克つ。遼人が来たりて孛堇忽沙里城を攻むるに、阿里は百余騎を率いてこれを救う。遼兵数万、阿里の兵は少なく、乃ち軍士に命じて衣を裂き多く旗幟と為し、山谷の間に出づ。遼兵これを見て遁去す。

原文斡塞、烏睹本攻駝吉城,阿里鑿墉爲門,日已暮,不可入,以兵守之,旦日遂取其城。烏睹本以被甲並乘馬賜之。從攻下甯江州,授猛安。又從攻信州、賓州,皆克之。遼人來攻孛堇忽沙里城,阿里率百餘騎救之。遼兵數萬,阿里兵少,乃令軍士裂衣多爲旗幟,出山谷間,遼兵望見,遁去。

蘇州・復州叛く、その衆十万に至る。傍近の女直じょちょくは皆太尉胡沙の家に保ち、塁を築いて固めとする。敵はこれを数重に囲み、守る者は糧秣ともに尽き、牛馬は互いにその鬣尾を食い、人は子を易えて食らう。夜、二人を縋り下して出し、阿里に急を告ぐ。阿里はこれに赴き、内外より合撃して、その衆を辟離密罕水上に破り、剿殺すること殆ど尽くし、水はこれがために流れず。蒲離古胡什吉水・馬韓島にて凡そ十余戦、数十万の衆を破る。契丹・奚人は舟千艘を聚め、将に海に入らんとす。阿里は二十七舟をもってこれを邀え撃ち、流れ矢に中り、舟中に臥す。夜半にして初めて蘇る。敵船は既に王家島に入る。即ち夜に海路を取りて追い及び、敵は険阻に走って拒ぐ。阿里は騎兵をもって邀え撃ち、再び流れ矢に中るも、力戦して退かず、竟にこれを破り、その舟を尽く獲る。ここにおいて、蘇州・復州・婆速路は皆平らぐ。

原文蘇、復州叛,眾至十萬。旁近女直皆保于太尉胡沙家,築壘爲固。敵圍之數重,守者糧芻俱盡,牛馬相食其鬃尾,人易子而食。夜,縋二人出,告急于阿里。阿里赴之,內外合擊之,破其眾於辟離密罕水上,剿殺幾盡,水爲之不流。蒲離古胡什吉水、馬韓島凡十余戰,破數十萬眾。契丹、奚人聚舟千艘,將入於海。阿里以二十七舟邀之,中流矢,臥舟中,中夜始蘇。敵船已入王家島,即夜取海路追及之,敵走險以拒,阿里以騎兵邀擊,再中流矢,力戰不退,竟破之,盡獲其舟。於是,蘇、復州、婆速路皆平。

顕州を攻め、霊山県を下し、梁魚務を取り、余睹の兵を破る。その功皆最も優る。後に散睹魯と高州に屯し、契丹の昭古牙・九斤が興中の兵数万を合わせて胡里特寨を攻むるに、阿里は八謀克ぼうこくの兵をもってこれを救う。胡里特は先に往きて城下に敗る。阿里は陣前の緋衣の者二十余人を指して曰く、「これ必ず賊の首領なり」と。兵を麾いて奮撃し、皆これを殺し、余衆大いに潰ゆ。来州・隰州の兵は胡里特城を囲むも、阿里の来援するを聞き、即ち囲みを解き去る。

原文攻顯州,下靈山縣,取梁魚務,敗餘睹兵,功皆最。後與散睹魯屯高州,契丹昭古牙、九斤合興中兵數萬攻胡里特寨,阿里以八謀克兵救之。胡里特先往,敗於城下。阿里指陣前緋衣者二十餘人曰:「此必賊酋也。」麾兵奮擊,皆殺之,餘眾大潰。來州、隰州兵圍胡里特城,聞阿里來救,即解圍去。

闍母が張覚を討つに、兵が楼峰口の山谷の間より出づ。阿里・散篤魯・忽盧補の三猛安これを撃ち破る。宗望が闍母に代わりて張覚を討つに、阿里は再び平州の兵を破る。及び宋を伐つに及び、阿里は別に宋兵を撃ち、これを破る。孟陽の役、阿里は橋渡りを扼して力戦す。明年、再び宋を伐ち、保州・中山に至り、累ねてこれを破る。進んで真定を囲み、阿里は婁室ろうしつ・豁魯と共に風に乗じて火を放ち、その楼櫓を焚き、諸軍ことごとく登り、その城を克つ。師は河上に至り、粘割胡撒は宋人を撃ち走らせ、河津を扼し、兵数千遂に河を渡る。諸将は大名の境を分かち出で、阿里は敵四百を破り尽く殪し、遂に汴を囲む。汴中、夜に兵を出して来たり攻具を焚く。阿里は謀克の常孫陽阿と共にこれを防ぎ、その衆大いに潰ゆ。還って趙州を攻め、これを降す。

原文闍母討張覺,有兵出樓峰口山谷間,阿里、散篤魯、忽盧補三猛安擊敗之。宗望代闍母討張覺,阿里再敗平州兵。及伐宋,阿里別擊宋兵,敗之。孟陽之役,阿里扼橋渡力戰。明年,再伐宋,至保州、中山,累破之。進圍真定,阿里與婁室、豁魯乘風縱火,焚其樓櫓,諸軍畢登,克其城。師至河上,粘割胡撒擊走宋人,扼河津,兵數千遂渡河。諸將分出大名境,阿里破敵四百盡殪,遂圍汴。汴中夜出兵來焚攻具,阿里與謀克常孫陽阿禦之,其眾大潰。還攻趙州,降之。

天会六年、宋を討伐し、陽穀・莘県を取る。海州の兵八万人を破り、海州は降る。梁山泊において賊船万余を破る。滕陽・東平・泰山の群盗を招降す。盗賊が範県を攻むるを撃ち走らせ、船七百艘を獲る。宗弼は睢陽を攻め下し、烏延蒲盧渾と先に二千人を率いて寿春を招撫せんと往き、淮水上に舟を具す。時に康民が賈船四百を集めて寿春に近し、朮列速は騎兵四百をもって康民を破り、数千を斬首す。当海・大㚖とともに淮南において賊十万を破る。江に至るまで、連戦して宋兵を破り、舟二百艘を獲る。宗弼は江寧に至り、阿里・蒲盧渾は別に広徳軍を降し、先に杭州に向かう。杭を去ること十余里、宋の伏兵二千に遇い、我が前駆の甲士こうし三十人を取らる。阿里は諸軍に命じて馬を去りて搏戦せしめ、伏兵は敗れ、皆水に逼死す。宗弼は余杭に至り、宋主は明州に走る。阿里と蒲盧渾は精騎四千をもってこれを襲い、東関の兵を破り、曹娥江を渡り、高橋鎮において宋兵を破る。明州に至り、頗る利を失う。宋主は既に海に入りたれば、乃ち軍を余姚に退く。宗弼は当海に師を渡らしめ、遂に明州を下し、宋の守臣趙伯諤を執り、進んで昌国県に至る。宋主は昌国より温州に走り、海路を由って三百余里を追うも、及ばず。遂に明州を隳し、宗弼とともに北に帰る。

原文天會六年,伐宋主,取陽穀、莘縣,敗海州兵八萬人,海州降。破賊船萬余於梁山泊。招降滕陽、東平、泰山群盜。盜攻範縣,擊走之,獲船七百艘。宗弼攻下睢陽,與烏延蒲盧渾先以二千人往招壽春,具舟淮水上。時康民聚賈船四百與壽春相近,朮列速以騎四百破康民,斬馘數千。與當海、大㚖破賊十萬於淮南。比至江,連破宋兵,獲舟二百艘。宗弼至江甯,阿里、蒲盧渾別降廣德軍,先趣杭州。去杭十餘里,遇宋伏兵二千,取我前驅甲士三十人。阿里使諸軍去馬搏戰,伏兵敗,皆逼死于水。宗弼至余杭,而宋主走明州,阿里與蒲盧渾以精騎四千襲之,破東關兵,濟曹娥江,敗宋兵于高橋鎮。至明州,頗失利。宋主已入於海,乃退軍余姚。宗弼使當海濟師,遂下明州,執宋守臣趙伯諤,進至昌國縣。宋主自昌國走溫州,由海路追三百餘里,弗及。遂隳明州,與宗弼俱北歸。

睿宗は陝西を経略し、涇州に駐す。阿里は先に渭州を取る。睿宗は熙河に向かい、阿里・斜喝・韓常の三猛安を前軍とす。十二年、高彪とともに水運を監護す。宋は舟師をもって亳州の河路を阻むを撃ち破り、六十余里を追撃し、その将蕭通を獲る。漣水の水寨賊を破り、その大船を尽く得、遂に漣水軍を取り、招徠安輯す。天眷年間、盗賊が石州を占拠す。阿里これを討つ。粘割胡撒はその部を率いて先登し、遂にその城を克ち、石州平ず。

原文睿宗經略陝西,駐涇州,阿里先取渭州。睿宗趨熙河,阿里、斜喝、韓常三猛安爲前軍。十二年,與高彪監護水運。宋以舟師阻亳州河路,擊敗之,追殺六十餘里,獲其將蕭通。破漣水水寨賊,盡得其大船,遂取漣水軍,招徠安輯之。天眷間,盜據石州,阿里討之。粘割胡撒與所部先登,遂克其城,石州平。

宗弼が再び宋を伐つに及び、阿里は既に老い、戦船の督造を掌る。宋は臣と称し、詔して阿里に銭千万を賜う。結髪より軍に従い、大小数十戦、特に舟楫に習熟し、江・淮の用兵に、役として従わざるはなく、時に人は水星をもってこれを目す。迭里部節度使となり、順義・泰寧軍、帰徳・済南尹を歴任す。天徳初、致仕し、特進を加えられ、王に封ぜらる。正隆の例に従い韓国公に封ぜられ、闕に召し赴かせ、戦船を造らしむ。疾を以て薨ず。年七十八。諡して智敏と曰う。

原文宗弼再伐宋,阿里已老,督造戰船。宋稱臣,詔賜阿里錢千萬。自結髮從軍,大小數十戰,尤習舟楫,江、淮用兵,無役不從,時人以水星目之。爲迭里部節度使,曆順義、泰寧軍,歸德、濟南尹。天德初,致仕,加特進,封王。正隆例封韓國公,召赴闕,命造戰船。以疾薨,年七十八,諡智敏。

阿里は性忠直にして、智略多し。兄弟相い友愛し、家は故に財に饒けり。己の猛安及び財物を尽く弟の愛抜里に与う。愛抜里は受けず、歳余逃避す。阿里は終にこれを与う。

原文阿里性忠直,多智略。兄弟相友愛,家故饒財,以己猛安及財物盡與弟愛拔里。愛拔里不肯受,逃避歲餘,阿里終與之。

突合速

原文突合速

突合速は宗室の子、拿罕塞の人なり。初め万戸石家奴の麾下に隷し、嘗て偏師を領いて雲中の諸山の寇盗を破る。宗望が平州を攻むるに、突合速を遣わして応州の賊を討たしめ、これを平らげ、その民を撫安して還る。及び宋を伐つに及び、宗翰の軍に在り、八謀克をもって石嶺関の屯兵数万を破り、殺戮幾くこと尽くす。師は太原に至り、祁県は降りて復た叛く。突合速これを攻め下す。進んで文水県を取り、後に諸帥に従って汾州の境に列屯す。宋の河東軍帥郝仲連・張思正、陝西軍帥張関索及びその統制馬忠、兵数万を合して来援す。皆これを敗る。

原文突合速,宗室子,拿罕塞人。初隸萬戶石家奴麾下,嘗領偏師破雲中諸山寇盜。宗望攻平州,遣突合速討應州賊,平之,撫安其民而還。及伐宋,在宗翰軍,以八謀克破石嶺關屯兵數萬,殺戮幾盡。師至太原,祁縣降而復叛,突合速攻下之。進取文水縣,後從諸帥列屯汾州之境。宋河東軍帥郝仲連、張思正,陝西軍帥張關索及其統制馬忠,合兵數萬來援,皆敗之。

宗翰は南伐して潞に至り還る。太原は未だ下らず、即ち完顔かんがん銀朮可ぎんじゅつかを留めて諸軍を総督せしめ、その地を経略せしむ。ここにおいて宋の援兵大いに至る。突合速は馬五・沃魯に従い、文水において宋兵四千を破る。宋将黄迪らが兵三十万をもって県の西山に柵を為すを聞き、復た耿守忠と兵九千を合してこれを撃ち、八万余りを殺し、馬及び資糧多くを獲る。宋の制置使姚古が兵を率いて隆州穀に至る。突合速は抜離速と歩騎万余りをもってこれを防ぐ。种師中の兵十万が榆次を占拠す。銀朮可は乃ち突合速を召し、その兵を中分して還らしめ、活女らと兵八千を合してこれを撃ち破り、師中を殺熊嶺に斬る。宋将張灝が兵十万をもって文水の近郊に営す。復た抜離速とこれを撃ち破る。潞州復た叛く。宋兵、号すること十七万。骨赧・突合速・抜離速皆囲まれる。突合速は軍士を麾し、下馬して力戦し、遂に囲みを潰して出づ。

原文宗翰南伐至潞還,太原猶未下,即留完顏銀朮可總督諸軍,經略其地。於是,宋援兵大至,突合速從馬五、沃魯破宋兵四千于文水。聞宋將黃迪等以兵三十萬柵於縣之西山,復與耿守忠合兵九千擊之,殺八萬餘人,獲馬及資糧甚眾。宋制置使姚古率兵至隆州穀,突合速與拔離速以步騎萬餘禦之。种師中兵十萬據榆次,銀朮可乃召突合速,使中分其兵而還,與活女等合兵八千擊敗之,斬師中于殺熊嶺。宋將張灝以兵十萬營于文水近郊,復與拔離速擊破之。潞州復叛,宋兵號十七萬,骨赧、突合速、拔離速皆被圍。突合速麾軍士,下馬力戰,遂潰圍而出。

及び再び挙げて宋を伐つに及び、宗翰は婁室に命じて軍を率いて先に汴に向かわしむ。婁室は沢州に至る。突合速・沃魯は五百騎をもって前駆とし、河陽を招撫せんと往く。先に黄河の津を占拠す。宋兵万余り背水の陣を為す。進撃してこれを破り、皆水に擠し、遂に河陽を降す。汴京平ず。諸将は西に陝津に向かい、河東の郡県を略定す。突合速は憲州を取り、その援軍に遇い、これを撃ち破り、その将を生擒す。孛堇濃瑰朮魯らは保徳を攻むるも、未だ下さず。突合速は進兵して助撃し、梯沖並びに進み、遂にその城を克つ。孛堇烏谷は石州を攻むるも、屡敗し、その三将を亡い、軍士歿する者数百人。突合速は烏穀に謂いて曰く、「敵は皆歩兵なり。吾は騎戦すべからず」と。烏穀曰く、「賊は妖術を挟み、馬を画いてその足を繫ぎ、疾きこと甚だ奔馬に甚しと聞く。歩戦豈にこれに及ぶべけんや」と。突合速笑いて曰く、「豈に是れ有らんや」と。乃ち諸軍に命じて馬を去りて戦わしめ、尽くこれを殪す。六年、宗輔は師を鄧州に駐す。突合速・馬五・抜離速は西に均・房を取り、遂にその城を下す。唐・蔡・陳州及び潁昌府を攻め、皆これを克つ。

原文及再舉伐宋,宗翰命婁室率軍先趨汴。婁室至澤州,突合速、沃魯以五百騎爲前驅,往招河陽。先據黃河津,宋兵萬余背水陣,進擊敗之,皆擠于水,遂降河陽。汴京平,諸將西趣陝津,略定河東郡縣。突合速取憲州,遇其援軍,擊敗之,生擒其將。孛堇濃瑰朮魯等攻保德,未下,突合速進兵助擊,梯沖並進,遂克其城。孛堇烏谷攻石州,屢敗,亡其三將,軍士歿者數百人。突合速謂烏穀曰:「敵皆步兵,吾不可以騎戰。」烏穀曰:「聞賊挾妖術,畫馬以系其足,疾甚奔馬,步戰豈可及之。」突合速笑曰:「豈有是耶!|㚖」乃令諸軍去馬戰,盡殪之。六年,宗輔駐師鄧州,突合速、馬五、拔離速西取均、房,遂下其城。攻唐、蔡、陳州及潁昌府,皆克之。

天眷初、彰徳軍節度使を除く。三年、元帥左監軍と為る。皇統八年、済南尹に改む。天徳年間、定国公に封ぜられ、世襲千戸を授かる。卒す。年七十二。正隆二年、応国公を贈らる。

原文天眷初,除彰德軍節度使。三年,爲元帥左監軍。皇統八年,改濟南尹。天德間,封定國公,授世襲千戶。卒,年七十二。正隆二年,贈應國公。

初め、突合速は次室の故をもって封を受けしにより、次室の子は因ってその猛安を襲うことを得たり。及び財を分かちて異居するに及び、次室の子は奴婢千二百口を取り、正室の子は八百口を得たり。久しくして、正室の子が襲封を争い、連年決せず、家財費え且つ尽き、正室の子の奴婢存する者は二百口、次室の子の奴婢存する者は纔かに五六十口。世宗は突合速の諸子の貧窘を聞き、近臣に問う。具に争襲の故を以て対う。世宗曰く、「次室の子豈に封を受くべけんや」と。遂に嫡妻の長子を以て襲封せしむ。

原文初,突合速以次室受封,次室子因得襲其猛安。及分財異居,次室子取奴婢千二百口,正室子得八百口。久之,正室子爭襲,連年不決,家貲費且盡,正室子奴婢存者二百口,次室子奴婢存者才五六十口。世宗聞突合速諸子貧窘,以問近臣,具以爭襲之故爲對,世宗曰:「次室子豈當受封邪!|㚖」遂以嫡妻長子襲。

烏延蒲盧渾

原文烏延蒲盧渾

烏延蒲盧渾は、曷懶路烏古敵昏山の人なり。父は孛古剌、龍虎衛上将軍。蒲盧渾は膂力人に絶え、強きを挽きて二百七十歩を射ることを能くす。兄の鶻沙虎とともに勇健を以て闍母の軍に隷し、帳下に居る。黄龍府を攻め、力戦して功有り。闍母は兔耳山に敗る。張覚は復た兵を整えて来る。諸将は皆敢えて戦わず。蒲盧渾は山に登りてこれを望み、乃ち諸将を紿して曰く、「敵軍少なし。急撃すれば破るべし。若し城に入らば、復た制すべからず」と。遂に合戦し、これを破る。

原文烏延蒲盧渾,曷懶路烏古敵昏山人。父孛古剌,龍虎衛上將軍。蒲盧渾膂力絕人,能挽強射二百七十步。與兄鶻沙虎俱以勇健隸闍母軍,居帳下。攻黃龍府,力戰有功。闍母敗於兔耳山,張覺復整兵來,諸將皆不敢戰。蒲盧渾登山望之,乃紿諸將曰:「敵軍少,急擊可破也。若入城,不可復製。」遂合戰,破之。

郭薬師・蔡靖は燕京を以て降る。蒲盧渾は九十騎を率いて先に城中の居民の去就を伺察す。遂に漢兵一千を将い、完顔蒙適に隷して真定を攻む。進んで賛皇を攻め、これを取り、人畜甲仗万余を獲る。汴城破る。日は既に暮れ、宋人は猶力戦す。槍蒲盧渾の手を刺し中つ。戦い益々力め、遂に宋軍を敗り、金五十両を賜う。

原文郭藥師、蔡靖以燕京降,蒲盧渾率九十騎先伺察城中居民去就。遂將漢兵千,隸完顏蒙適攻真定。進攻贊皇,取之,獲人畜甲仗萬餘。汴城破,日已暮,宋人猶力戰,槍刺中蒲盧渾手,戰益力,遂敗宋軍,賜金五十兩。

睿宗が右副元帥となり、既に関中・陝西を平定し、剣外諸州を取ることを議し、遂に和尚原を抜いた。元帥府が制を承けて蒲盧渾を河北西路兵馬都総管に任じた。宋の主が揚州に在った時、蒲盧渾は蒙適と共に万騎を率いてこれを襲い、宋の主は既に江を渡っており、その余兵を破った。後に斜卯阿里と共に宗弼に従い淮西より江を渡り江寧を取った。宗弼が杭州に入ると、宋の主は明州に走り、再び温州に走ったので、海道より三百余里を追い、明州を隳して帰還した。語は『阿里伝』にある。

原文睿宗爲右副元帥,已定關、陝,議取劍外諸州,遂拔和尚原。元帥府承制以蒲盧渾爲河北西路兵馬都總管。及宋主在揚州,蒲盧渾與蒙適將萬騎襲之,宋主已渡江,破其餘兵。後與斜卯阿里俱從宗弼自淮西渡江取江寧。宗弼入杭州,宋主走明州,再走溫州,由海道追三百餘里,隳明州而歸,語在《阿里傳》。

天眷二年、鎮国上将軍を授けられ、安国軍を除され、病により官を去った。皇統六年、世襲謀克を授けられ、起用されて延安尹となり、尚衣一襲を賜り、まもなく致仕した。海陵が中都に遷ると、起用されて帰徳尹となり、その家に就いてこれを授け、銀牌・襲衣・玉吐鶻を賜り、馳駅して官に赴いた。蒲盧渾は数十日留まり、既に程限に違したので、再び致仕を聴された。召されて京師に赴き、薊州に至り、狩猟の場所で海陵に謁見した。翌日、狩猟に従い、一狐を獲た。海陵は言った、「卿は年老いているが、尚よく馳逐して獣を撃ち、健捷なること此の如し。」と。御服を賜り、豳国公に封ぜられた。太子少師を除され、進んで太子太保となり、真定尹に改められ、入って大宗正事を判じた。

原文天眷二年,授鎮國上將軍,除安國軍,以疾去官。皇統六年,授世襲謀克,起爲延安尹,賜尚衣一襲,尋致仕。海陵遷中都,起爲歸德尹,就其家授之,賜銀牌、襲衣、玉吐鶻,馳驛之官。蒲盧渾留數十日,已違程,復聽致仕。召赴京師,至薊州,見海陵於獵所。明日,從獵,獲一狐。海陵曰:「卿年老,尚能馳逐擊獸,健捷如此。」賜以禦服,封豳國公。除太子少師,進太子太保,改真定尹,入判大宗正事。

まもなく宋を伐つに当たり、本官のまま右領軍副都督ととく事を行った。軍は西採石に駐屯し、海陵は江を渡ろうとしたが、蒲盧渾は言った、「宋軍の船は高大であり、我が船は低小である。恐らく急に渡ることはできまい。」と。海陵は怒って言った、「汝は昔、梁王に従って趙構を海島に追った時、皆大船であったのか!今、吾が兵事を沮むとは。仮に急に江を渡ることができなくとも、少しの損害があるに過ぎぬ。爾は年既に七十、たとえ自らを愛するとも、死なざる理があろうか。明日は奔睹と先に渡ろう。」既にしてまたこれを止め、別将を遣わして先に江を渡らせたが、舟が小さく戦えず、遂に利を失い、両猛安及び兵士二百余人が皆陥没した。海陵が害に遇い、軍は還った。

原文頃之伐宋,以本官行右領軍副都督事。師次西採石,海陵欲渡江,蒲盧渾曰:「宋軍船高大,我船庳小,恐不可遽渡。」海陵怒曰:「汝昔從梁王追趙構於海島,皆大舟耶!|㚖今乃沮吾兵事!設不能遽渡江,不過有少損耳。爾年已七十,縱自愛,豈有不死理耶。明日當與奔睹先濟。」既而復止之,乃遣別將先渡江,舟小不可戰,遂失利,兩猛安及兵士二百余人皆陷沒。海陵遇害,軍還。

大定二年、中都に至り上謁し、東京留守を除かれた。世宗が召して年齢を問うと、対えて言った、「臣、今年七十三歳でございます。」と。上は言った、「卿は宿将にして、久しく兵事を練り、年は老いているが、精神は衰えていない。」と。そこで官に到るよう命じ、毎旬月に一度視事することを許した。衣一襲を賜り、階を進めて開府儀同三司とし、仍って豳国公に封ぜられた。この年、卒した。十八年、孫の紮虎が広威将軍に遷り、烏古敵昏山世襲猛安を襲い、併せて親管謀克となった。

原文大定二年,至中都上謁,除東京留守。世宗召問年幾何,對曰:「臣今年七十三矣。」上曰:「卿宿將,久練兵事,年雖老,精神不衰。」因命到官,每旬月一視事。賜衣一襲,進階開府儀同三司,仍封豳國公。是歲,卒。十八年,孫紮虎遷廣威將軍,襲烏古敵昏山世襲猛安,並親管謀克。

赤盞暉

原文赤盞暉

赤盞暉、字は仲明、その先祖は遼に附き、張惶堡に居住したので、かつて張を氏とした。後に来州に家した。暉は体貌雄偉で、慷慨として志略があった。少くして郷校に遊んだ。遼の末年に賊を破った功により、礼賓副使を授けられ、来・隰・遷・潤の四州の屯兵を領した。天輔六年に降伏し、仍ってその衆を領することを命じられ、闍母に従い興中府及び義・錦等の州を定めた。張覚を破った時、皆これに功があり、粟一万五千石を以て軍を助け、洺州刺史を授けられた。

原文赤盞暉,字仲明,其先附于遼,居張惶堡,故嘗以張爲氏。後家來州。暉體貌雄偉,慷慨有志略。少遊鄉校。遼季以破賊功,授禮賓副使,領來、隰、遷、潤四州屯兵。天輔六年降,仍命領其眾,從闍母定興中府義、錦等州。及破張覺,皆與有功,以粟萬五千石助軍,授洺州刺史。

宗望が初めて宋を伐った時、孟陽の戦いで、敵の中軍が径ちに宗望の営に迫ったが、暉は諸将と共にこれを撃破し、城下まで追撃した。師が還るまで、数たび戦功を立てた。明年、再び挙兵して宋を伐ち、保州・真定を攻め下したが、暉は皆これに与った。進んで汴を囲むと、宋人が夜に兵二万を出して我が攻具を焼いたが、暉は二謀克の兵を以てこれを撃退した。凡そ城中より出兵して拒戦するものは、暉の当たる所、勝捷せざるはなかった。

原文宗望初伐宋,孟陽之戰,敵之中軍徑薄宗望營,暉與諸將擊敗之,追殺至城下。訖師還,數立戰功。明年,再舉伐宋,攻下保州、真定,暉皆與焉。進圍汴,宋人夜出兵二萬焚我攻具,暉以二謀克兵擊走之。凡城中出兵拒戰,暉之所當,無不勝捷。

既に宋を克ち還ると、河間を攻めるに従った。敵将李成が雄・莫の兵を率いて来援したが、暉は配下の兵を率いて迎撃し、馬が傷ついて落馬したが、暉は奮い立って歩戦し、遂に成の兵を敗った。この日、凡そ七戦して皆勝ち、敵人は多く濠や城壁の間に逼死し、暉の両臂も数たび流矢に中った。賊将劉先生が兵二万を率いて夜営を襲ったが、暉は力戦して夜明けに及び、賊は始めて敗走し、皆水に溺死した。暉はまた城に迫って力戦し、このように連月に及び、諸軍が四面より合攻したので、遂にこれを克った。桂州管内観察使を加えられ、因って留まって河間を撫した。当時、居民は皆軍士に掠められ、老幼で存する者は幾ばくもなかった。暉は軍中に令を下し、これを贖い還すことを聴した。まもなく、皆旧の如く安堵した。

原文既克宋還,從攻河間。敵將李成以雄、莫之兵來援,暉與所部迎擊,馬傷而墮,暉輒奮起步鬥,竟敗成兵。是日,凡七戰皆勝,敵人多逼死濠隍間,暉兩臂亦數中流矢。賊將劉先生以兵二萬夜襲營,暉力戰達旦,賊始敗走,皆溺死于水。暉復傅城力戰,如是連月,諸軍四面合攻,遂克之。加桂州管內觀察使,因留撫河間。時居民皆爲軍士所掠,老幼存者亡幾。暉下令軍中聽贖還之。未幾,皆按堵如故。

睿宗に従い山東を経略し、既に青州を攻め下すと、また闍母に従い濰州を攻めた。暉はその裨校を督して先登させたが、城中に積んだ芻茭が風に乗って火を放ち、発石機を発したので、暉は将士を率いて突撃して下り、力戦してこれを破った。軍が還ると、また三十騎を以て範橋で敵を破った。帥府が制を承けて静江軍節度使を加えた。進攻すると、城中より砲石が出て、ほとんど暉に中り、その甲裳を払って裂いた。暉は益々奮って攻め、遂にその城を破った。また泗州を攻めるに従い、これを克った。還って汶陽に屯し、梁山濼で賊衆を破り、舟千余を獲た。軍を移して済州を攻め、既に敵兵を敗ると、因って城に迫って禍福を諭したので、乃ち挙城して降った。暉は軍士を約束し、秋毫も犯さず、これより曹・単等の州は皆風を聞いて下った。

原文從睿宗經略山東,既攻下青州,復從闍母攻濰州。暉督其裨校先登,而城中積芻茭乘風縱火發機石,暉率將士沖冒而下,力戰敗之。軍還,復以三十騎破敵于範橋。帥府承制加靜江軍節度使。進攻,城中砲出,幾中暉,拂其甲裳裂之。暉益奮攻,卒破其城。又從攻泗州,克之。還屯汶陽,破賊眾於梁山濼,獲舟千餘。移軍攻濟州,既敗敵兵,因傅城諭以禍福,乃舉城降。暉約束軍士,無秋毫犯,自是曹、單等州皆聞風而下。

寿春・帰徳を攻めるに従い、及び淮を渡って先鋒となり、秀州・蘇州で重敵に遇ったが、皆これを撃破し、遂に余杭に至った。糧餉を通じ、橋道を治めることは、暉の力が多かった。乃ち還り、『資治通鑑』の版を載せて帰った。大軍が江寧を過ぎる時、その官民を北に渡らせたが、時は暑く疾疫多く、老弱は道路に転死し、その知府陳邦光なる者が宗弼に訴えたので、怒ってこれを殺そうとしたが、暉は言った、「これは義士なり。」と。力を尽くしてこれを営救し、竟に免れることを得た。

原文從攻壽春、歸德,及渡淮爲先鋒,遇重敵於秀州、蘇州,皆擊敗之,遂至余杭。通糧餉,治橋道,暉之力爲多。乃還,載《資治通鑒》版以歸。大軍過江寧,徙其官民北渡,時暑多疾疫,老弱轉死道路,其知府陳邦光者訴于宗弼,怒將殺之,暉曰:「此義士也。」力營救之,竟得免。

富平の戦いで、暉は右翼に在り、泥濘に遇って敗れたが、睿宗はその前功を念じ、杖罰して釈放した。師が熙河に至ると、暉は別に諸寨の将鈐轄及び吐蕃の酋長等を降し、併せて民戸一万五千余を得た。蘭州が叛くと、訛魯補等と共にこれを攻め下し、河州安撫使白常・熙河路副都総管劉維輔を獲て献じた。還って慶陽を攻め、二度重敵を敗り、その将戴巣を殺した。師が還り、帰徳軍節度使に遷った。

原文富平之戰,暉在右翼,遇濘而敗,睿宗念其前功,杖而釋之。師至熙河,暉別降諸寨將鈐轄及吐蕃酋長等,並民戶萬五千餘。蘭州叛,與訛魯補等攻下之,獲河州安撫使白常、熙河路副都總管劉維輔以獻。還攻慶陽,兩敗重敵,殺其將戴巢。師還,遷歸德軍節度使。

宋州は旧より学が無かったが、暉は学舎を営建し、生徒を勧督し、肄業する者はその身を復することを許したので、人々は勧んでこれに趨った。属県の民家の奴で王夔という者は、かつて進士を業としていたが、暉は銭五十万を以てこれを贖い、その業を卒えさせた。夔は後に顕官に至った。密州の吏龐乙が官に卒したが、その孤は貧しく、葬ることができなかったので、暉はその葬事を営み治め、且つその家を資給した。

原文宋州舊無學,暉爲營建學舍,勸督生徒,肄業者復其身,人勸趨之。屬縣民家奴王夔者,嘗業進士,暉以錢五十萬贖之,使卒其業,夔後至顯官。密州吏龐乙卒於官,其孤貧,不克葬,暉爲營治葬事,且資給其家。

十三年、また大軍に従い淮を渡った。還って鎮すると、母憂に遭い、まもなく旧職を以て起復した。既に斉が廃されると、安化軍節度使となった。天眷三年、河南が復されると、宋人が隙に乗じて海州を陥としたが、帥府は登・萊・沂・密の四州を暉に委ねて経画させたので、敵は敢えてその境を窺う者はなかった。定海軍節度使となり、まもなく済南尹に改められ、累遷して光禄大夫となった。俄かに罪により罷免された。久しくして、起用されて昌武軍節度使となった。天徳二年、南京留守に遷り、まもなく河南路統軍使に改められ、世襲猛安を授けられ、尚書右丞を拝し、河内郡王に封ぜられた。歳余りして、平章政事を拝し、戴王に封ぜられた。正隆初年、出て興平軍節度使となった。正隆が王爵を降すと、枢密副使となり、景国公に封ぜられた。まもなく、また左丞となり、済国公に封ぜられた。尋いで大興尹を除かれ、栄国公に封ぜられた。薨去、年六十五。大定の間に諡して武康と言う。子の師直は進士第に登った。

原文十三年,復從大軍渡淮。還鎮,丁母憂,尋以舊職起復。既廢齊,爲安化軍節度使。天眷三年,復河南,宋人乘間陷海州,帥府以登、萊、沂、密四州委暉經畫,敵無敢窺其境者。爲定海軍節度使,尋改濟南尹,累遷光祿大夫。俄以罪罷。久之,起爲昌武軍節度使。天德二年,遷南京留守,尋改河南路統軍使,授世襲猛安,拜尚書右丞,封河內郡王。歲餘,拜平章政事,封戴王。正隆初,出爲興平軍節度使。正隆降王爵,爲樞密副使,封景國公。未幾,復爲左丞,封濟國公。尋除大興尹,封榮國公。薨,年六十五。大定間諡曰武康。子師直,登進士第。

大㚖

原文大㚖

大㚖は、本名を撻不野といい、その先祖は遼陽の人で、代々遼に仕えて顕職に就いた者がいた。太祖が遼を討伐したとき、遼人は遼陽で兵を徴発し、当時㚖は二十余歳で、その選中にあった。遼兵は敗れ、㚖は身一つで逃げて甯江に至った。甯江が陥落すると、㚖は城を越えて逃げようとしたが、軍士に捕らえられた。太祖がその家柄を問うと、これに養われた。収国二年、東京奚民謀克となった。この時、高永昌を破ったばかりで、東京の近傍の郡邑はまだ全て服属しておらず、㚖に謀反の兆しを探らせた。聞き及ぶことがあれば必ず報告し、太祖は忠実であるとして猛安を授け、兼ねて同知東京留守事とした。

原文大㚖,本名撻不野,其先遼陽人,世仕遼有顯者。太祖伐遼,遼人徵兵遼陽,時㚖年二十餘,在選中。遼兵敗,㚖脫身走甯江。甯江破,㚖越城而逃,爲軍士所獲,太祖問其家世,因收養之。收國二年,爲東京奚民謀克。是時,初破高永昌,東京旁郡邑未盡服屬,使㚖伺察反側。有聞必達,太祖以爲忠實,授猛安,兼同知東京留守事。

中京と西京を取ると、闍母の軍に属した。遼軍二十万が戦いを挑んできたとき、呉王は㚖に本部の兵で営を守らせようとしたが、㚖は固く出戦を請うたが、許されなかった。ある者が㚖に言うには、「戦いは危険なことである。ひとり苦しんで請うのは、どうしてか」と。㚖は言った、「大丈夫たるもの、一度も勝負を決することができずして、なお何をなさん。もし戦いに臨んで勝利しなければ、たとえ死んでも生きているようなものだ」と。呉王はこれを聞いて壮とし、ついに出戦させた。合戦が始まると、闍母の軍は少し退いた。遼兵がその後を追うと、㚖は本部の兵を指揮して横から撃ち、数百人を殺した。これによって軍中に名を顕わした。

原文取中、西兩京,隸闍母軍。遼軍二十萬來戰,吳王使㚖以本部守營,㚖堅請出戰,不許。或謂㚖曰:「戰,危事,獨苦請,何也?」㚖曰:「丈夫不得一決勝負,尚何爲。苟臨戰不捷,雖死猶生也。」吳王聞而壯之,乃遣出戰。既合戰,闍母軍少卻,遼兵後躡之,㚖麾本部兵橫擊,殺數百人,由是顯名軍中。

天会三年、宗望が宋を伐つとき、信徳府は燕と汴の中間に位置し、軍を駐屯させて緩急に備えることができた。これを攻めようとしたが、直ちに陥とせぬことを恐れ、議論は決しなかった。㚖は独りで本部の兵を率い、善射の者を選んでその城楼を射させ、別に軽鋭の兵を潜ませて楼角の間に登らせ、ついにその城を陥とした。翌年、軍は浚州に至った。宋人はすでに河の橋を焼いており、宗望は「軍中で先に渡ることができた者の功を上とする」と下令した。㚖は十余りの舟を捕らえ、勇猛な者に直ちに渡らせ、その守備兵を撃って戍柵を奪い取らせた。これによって大軍はともに渡河した。

原文天會三年,宗望伐宋,信德府居燕、汴之中,可駐軍以濟緩急,欲遂攻之,恐不能亟下,議未決。㚖獨率本部兵,選善射者射其城樓,別以輕銳潛升于樓角之間,遂克其城。明年,軍至浚州,宋人已燒河橋,宗望下令,「軍中有能先濟者功爲上」。㚖捕得十餘舟,使勇悍者徑渡,擊其守者而奪其戍柵,由是大軍俱濟。

八月、再び宋を伐ち、万戸を授けられ、金牌を賜った。汴京を破ると、㚖は河間路都統となった。すでに河間を陥としたが、闍母はその早く降らなかったことを怒り、軍を放って大いに掠奪させた。㚖はこれを諫めて止めさせ、すでに掠奪されたものは官が代わって贖い戻した。河間尹に任じられ、襲慶府を攻撃するのに従った。前日のうちに、㚖は軍士に畚鍤と薪を準備させておいた。城に迫ると、諸将は攻撃の具を整えようとし、まだ鼓を鳴らさなかったが、㚖の軍は平素から準備していたので、先に登城した。軍帥は㚖がまだ鼓を鳴らさずに戦ったことを、軍令に従わないとして、㚖の罪を請うたが、朝廷はこれを釈して問わず、なお例によって賞を与えた。

原文八月,再伐宋,授萬戶,賜金牌。既破汴京,㚖爲河間路都統。已克河間,闍母怒其不早降,因縱軍大掠,㚖諫止之,已掠者官爲贖還。除河間尹,從攻襲慶府。先一日,㚖命軍士預備畚鍤及薪,既傅城,諸將方經營攻具,未鳴鼓,㚖軍有素備,遂先登。軍帥以㚖未鳴鼓輒戰,不如軍令,請罪㚖,朝廷釋弗問,仍例賞之。

宗弼が江南を伐ち、淮を渡ると、宋の将時康民が兵十七万を率いて防ぎに来た。㚖は本部を率いてこれに従い撃ち、これを破った。また騎兵二千をもって当海とともに淮南の賊十万を撃ち破り、一万余人を殺し、王善が降って来た。江を渡ろうとするとき、㚖の軍が先に渡った。舟が岸からまだ遠く離れているうちに、宋は兵を江口に列ねた。㚖はその水が徒渉できると見て、兵を指揮して舟を捨て岸に急ぎ趨りてこれを急撃した。宋兵は走り、大軍は相次いで渡河した。まもなく江寧の西で杜充の兵六万に遇うと、㚖は鶻盧補とともにこれを撃ち走らせた。師が還ると、㚖は留まって揚州都統となり、淮・海・高郵の間を経略した。再び河間尹となり、兼ねて河北東路兵馬を総べた。

原文宗弼伐江南,濟淮,宋將時康民率兵十七萬來拒,㚖率本部從擊,敗之。復以騎二千與當海擊敗淮南賊十萬,殺萬余人,王善來降。將渡江,㚖軍先渡,舟行去岸尚遠,宋列兵江口,㚖視其水可涉,則麾兵舍舟趨岸疾擊之,宋兵走,大軍相繼而濟。俄遇杜充兵六萬于江寧之西,㚖與鶻盧補擊走之。師還,㚖留爲揚州都統,經略淮、海、高郵之間。再爲河間尹,兼總河北東路兵馬。

十一年、入朝して謁見すると、太宗は座を賜い、久しく慰労し、特に太子太保に遷し、衣一襲・馬二匹および鞍轡鎧甲を賜い、元帥右都監に改めた。斉国が廃されると、㚖は汴京を守った。熙宗は㚖の久しい労を思い、御書を降して寵異とした。天眷三年、漢人・渤海人の千戸謀克を罷めたが、㚖は旧臣であるため、独り命じて旧に依り世襲千戸とさせた。この年、元帥右監軍に拝された。

原文十一年,入見,太宗賜坐,慰勞甚久,特遷太子太保,賜衣一襲、馬二匹及鞍轡鎧甲,改元帥右都監。齊國廢,㚖守汴京。熙宗念㚖久勞,降禦書寵異之。天眷三年,罷漢、渤海千戶謀克,以㚖舊臣,獨命依舊世襲千戶。是歲,拜元帥右監軍。

宗弼が再び宋を伐つと、宋人は臣と称して和を乞い、ついに師を還した。㚖は独り汴に留まり、行元帥府事を行った。皇統三年、開府儀同三司を加えられた。八年、左監軍に進んだ。天徳二年、右副元帥に改め、兼ねて行台左丞となった。平章行台省事に遷り、行台右丞相に進み、右副元帥はもとの通りとした。海陵は左副元帥撒離喝を疑い、行台左丞相として、㚖にその様子を探らせ、詔して軍事を撒離喝に知らせないようにさせた。撒離喝は海陵の意図を知らず、しばしば㚖と軍事を争って思い通りにならず、ついに㚖と不和となった。海陵はついに撒離喝を殺し、㚖を召し入朝させ、尚書右丞相に拝し、神麓郡王に封じた。

原文宗弼再伐宋,宋人稱臣乞和,遂班師,㚖獨留汴,行元帥府事。皇統三年,加開府儀同三司。八年,進左監軍。天德二年,改右副元帥,兼行台左丞。遷平章行台省事,進行台右丞相,右副元帥如故。海陵疑左副元帥撒離喝,以爲行台左丞相,使㚖伺察之,詔軍事不令撒離喝與聞。撒離喝不知海陵意旨,每與㚖爭軍事不能得,遂與㚖有隙。海陵竟殺撒離喝,召㚖入朝,拜尚書右丞相,封神麓郡王。

四年、老齢を理由に退職を請うて、東京留守となった。貞元三年、太傅に拝され、三省事を領し、累ねて漢国王に封じられた。十二月、病を得た。海陵はその邸に臨んでこれを問うた。この年、薨去した。六十八歳であった。海陵は親しく臨んでこれを哭し、詔して有司に三日間の政務停止を命じ、三日間の音楽を禁じた。その三日目に三国の使者の館で宴を賜うべきところ、教坊の楽を賜わないため、左宣徽使敬嗣暉に命じてこれを宣諭させた。太師・晋国王を追贈し、諡して傑忠といい、使者を遣わして喪を護り帰葬させた。正隆年間に王爵を奪われ、太傅・梁国公を追贈された。子に磐がいる。

原文四年,請老,爲東京留守。貞元三年,拜太傅,領三省事,累封漢國王。十二月,有疾,海陵幸其第問之。是歲,薨,年六十八。海陵親臨哭之,詔有司廢務三日,禁樂三日。其三日當賜三國使館燕,以不賜教坊樂,命左宣徽使敬嗣暉宣諭之。贈太師、晉國王,諡傑忠,遣使護喪歸葬。正隆奪王爵,贈太傅、梁國公。子磐。

磐

原文磐

磐は、本名を蒲速越といい、大臣の子として累ねて官に登り登州刺史となり、猛安を襲った。大定三年、嵩州刺史に任じられ、僕散忠義に従って宋を伐ち功があった。五年、召されて符宝郎となり、拱衛直都指揮使に遷った。

原文磐,本名蒲速越,以大臣子累官登州刺史,襲猛安。大定三年,除嵩州刺史,從僕散忠義伐宋有功。五年,召爲符寶郎,遷拱衛直都指揮使。

初め、磐は宋を伐った功により、官一階を進められたが、磐は内心これを少ないと思い、言葉に表わすことが多かった。上はこれを聞き、官吏に下して取り調べさせ、杖一百五十を加え、左衛将軍に改めた。詔して良弓を求めると、磐は多くを自ら取り、また護衛が入直する者を、しばしば己の意で交代させた。護衛の婁室がその事を告げると、詔して点検司に詰問させた。磐には妹が宮中にいて宝林となっていた。磐は内侍の僧児員思忠に頼み、宝林に言わせた、「私は罪がないのに、取り調べる者が私を迫り、自ら誣服させようとしている」と。宝林は上に訴えた。上は怒り、僧児を杖一百とし、磐を責めて隴州防禦使とした。上はこれを戒めて言った、「汝は近密にありながら、執迷して自らを用い、朕は卿の父の功績により、廃棄するに忍びず、暫く外補を命じる。よく考えて努めよ」と。亳州防禦使に改め、武寧軍節度使に遷ったが、事に坐して除名された。起用されて韓州刺史となった。祁州刺史に改めたが、また事に坐し、四官を削られ、解職された。

原文初,磐以伐宋功,進官一階,磐心少之,頗形於言。上聞之,下吏按問,杖一百五十,改左衛將軍。詔求良弓,磐多自取,及護衛入直者,輒以己意更代。護衛婁室告其事,詔點檢司詰問。磐有妹在宮中爲寶林,磐屬內侍僧兒員思忠使言于寶林曰:「我無罪,問事者迫我,使自誣服。」寶林訴於上,上怒,杖僧兒一百,磐責隴州防禦使。上戒之曰:「汝在近密,執迷自用,朕以卿父之功,不忍廢棄,姑令補外,其思勉之。」改亳州防禦使,遷武甯軍節度使,坐事除名。起爲韓州刺史。改祁州刺史,復坐事,削四官,解職。

久しくして、尚書省が「大磐は年功により叙用すべきである」と奏上すると、上は言った、「剛暴な人で、しばしば刑章を犯し、再び用いることはできない。太傅大㚖には、別に嫡嗣がおらず、その世襲猛安謀克は、変えることはできない」。

原文久之,尚書省奏「大磐以年當敘」,上曰:「剛暴之人,屢冒刑章,不可復用。太傅大㚖,別無嫡嗣,其世襲猛安謀克,不可易也。」

阿離補

原文阿離補

阿離補は、宗室の子で、景祖の系譜に出る。しばしば征伐に従い、遼を滅ぼし宋を挙げることにいずれも功があった。天会九年、睿宗が陝西を経略するとき、阿離補は左翼都統となり、右翼都統宗弼とともに鞏・洮・河・西寧・蘭・廓等の州軍、来賓・定遠・和政・甘峪・寧洮・安隴等の城寨、および鎮・堡・蕃・漢の営部四十余箇所を撫定し、漢官軍民蕃部の酋長は甚だ多く、ここに涇原・熙河の両路は皆平定された。詔して兄の猛安沙離質の親管謀克の余戸をもって、阿離補を世襲謀克とした。天会十二年、元帥右都監となった。十五年、左監軍に遷った。天眷三年、宗弼に従って河南を回復し、左副元帥に遷った。皇統三年、譚国公に封じられた。六年、行台左丞相となり、元帥はもとの通りとした。この年、薨去した。

原文阿離補,宗室子,系出景祖。屢從征伐,滅遼舉宋皆有功。天會九年,睿宗經略陝西,阿離補爲左翼都統,與右翼都統宗弼撫定鞏、洮、河、西寧、蘭、廓等州軍,來賓、定遠、和政、甘峪、甯洮、安隴等城寨,及鎮、堡、蕃、漢營部四十餘處,漢官軍民蕃部酋長甚眾,於是涇原、熙河兩路皆平。詔以兄猛安沙離質親管謀克之餘戶,以阿離補爲世襲謀克。天會十二年,爲元帥右都監。十五年,遷左監軍。天眷三年,從宗弼復河南,遷左副元帥。皇統三年,封譚國公。六年,爲行台左丞相,元帥如故。是歲,薨。

大定年間、功臣を大いに褒賞し、その像を衍慶宮に図した。歡都は康宗の時に死し、遼や宋の郊外を馳駆するのに及ばなかったが、しかし異姓の臣で彼に先んずる者はなかった。故に衍慶宮の功臣の次位を定めて、代國公歡都、金源郡王石土門、徐國公渾黜、鄭國公謾都訶、濮國公石古乃、濟國公蒲查、韓國公斜卯阿里、元帥左監軍拔離速、魯國公蒲察ほさつ石家奴、銀青光祿大夫蒙適、隨國公活女、特進突合速、齊國公婆盧火、開府儀同三司烏延蒲盧渾、儀同三司阿魯補、鎮國上將軍烏林答泰欲、太師領三省事勖、太傅大㚖、大興尹赤盞暉、金吾衛上將軍耶律馬五、驃騎衛上將軍韓常及び阿離補は皆勲功を顕著にした。子に言、方があり、言は別に伝がある。

原文大定間,大褒功臣,圖像衍慶宮。歡都死康宗時,不及與馳騖遼、宋之郊,然而異姓之臣莫先焉。故定衍慶亞次功臣:代國公歡都,金源郡王石土門,徐國公渾黜,鄭國公謾都訶,濮國公石古乃,濟國公蒲查,韓國公斜卯阿里,元帥左監軍拔離速,魯國公蒲察石家奴,銀青光祿大夫蒙適,隨國公活女,特進突合速,齊國公婆盧火,開府儀同三司烏延蒲盧渾,儀同三司阿魯補,鎮國上將軍烏林答泰欲,太師領三省事勖,太傅大㚖,大興尹赤盞暉,金吾衛上將軍耶律馬五,驃騎衛上將軍韓常並阿離補鹹著勳焉。子言、方,言別有傳。

子に方

原文子 方

方は宗室の子として累次官を経て京兆少尹となり、陝西路統軍都監に遷った。方は専ら財賄に事とし、軍旅を顧みず、詔してこれを戒めて曰く、「卿は宗室の旧人なり、しかるに恣肆して法を敗り、ただ利を営むのみ、朕は甚だこれを悪む。今より後日に至るまで、万一これを行わば、必ず罰して赦さじ」と。大定三年、元帥右都監に遷り、元帥左監軍に転じ、順天軍節度使に改めた。上曰く、「卿は本より功なく、顕仕を歴任し、僚友と接すること能わず、往々にして交わりを悪くし、京兆にて貪鄙なること聞こえ顕わにして、至って謂うべきなし。朕は卿が既に中年を過ぎたるを思い、必ず能く改悛せんとす、慎んでまた爾るなかれ」と。西南路招討使を除し、朝廷は兵部郎中高通を以て招討都監とし、これを補佐せしめた。通に詔して曰く、「卿、天徳に到るに、その官長に曲げて従うことなかれ。沿辺の士卒を簡閲し、孱弱の人を用いることなく、僕隸を以て役に代えることなかれ。女直の旧風、凡そ酒食会聚するに、騎射を以て楽しみとす。今は則ち弈棋・双陸す、宜しく悉く禁止し、騎射を習わしむべし。その居処の便に従い、また召集してこれを擾すべからず」と。久しくして、方は部人の馬二匹を強買した罪に坐し、一階を削られ、職を解かれ、耀州刺史に降った。通もまた贓罪に坐して除名された。方の後、横海軍節度使に遷り、入朝して同簽大宗正事となり、簽書樞密院事となった。

原文方以宗室子累官京兆少尹,遷陝西路統軍都監。方專事財賄,不恤軍旅,詔戒之曰:「卿宗室舊人,乃縱肆敗法,惟利是營,朕甚惡之。自今至於後日,萬一爲之,必罰無赦。」大定三年,遷元帥右都監,轉元帥左監軍,改順天軍節度使,上曰:「卿本無功,曆顯仕,不能接僚友,往往交惡,在京兆貪鄙彰聞,至無謂也。朕念卿已過中年,必能悛改,慎勿復爾。」除西南路招討使,朝廷以兵部郎中高通爲招討都監,以佐之。詔通曰:「卿到天德,毋以其官長曲從之也。簡閱沿邊士卒,毋用孱弱之人,毋以僕隸代役。女直舊風,凡酒食會聚,以騎射爲樂。今則弈棋雙陸,宜悉禁止,令習騎射。從其居處之便,亦不可召集擾之。」久之,方坐強買部人馬二匹,削一階,解職,降耀州刺史。通亦坐贓除名。方後遷橫海軍節度使,人爲同簽大宗正事,簽書樞密院事。

初め、阿魯補は謀克を授けられるべきであったが、封ぜられずに薨じ、烏帯がこれを受けた。烏帯が死ぬと、兀答補がこれを襲った。兀答補が死ぬと、烏也阿補が襲うべきであった。この時、既に海陵を庶人に降していたが、世宗は烏帯が熙宗の逆党の中にあったことを以て、その子孫は封を受くべからずとし、封を停めること久しく、しかし阿離補の功もまた廃絶すべからず、特に詔して方にこれを襲わせたという。

原文初,阿魯補當授謀克,未封而薨,烏帶受之。烏帶死,兀答補襲之。兀答補死,烏也阿補當襲。是時,已降海陵爲庶人,世宗以烏帶在熙宗逆黨中,其子孫不合受封,停封者久之,而阿離補功亦不可廢絕,特詔方襲之雲。

賛して曰く、斜卯阿里、突合速、烏延蒲盧渾、赤盞暉、大㚖、阿離補等六人は、皆収国以来の所謂熊羆の士、二心なき臣なり、その功に録すべきものあり。

原文贊曰:斜卯阿里、突合速、烏延蒲盧渾、赤盞暉、大㚖、阿離補等六人,皆收國以來所謂熊羆之士、不二心之臣也,其功有可錄者焉。