金史

列傳第十八:熙宗の二子 斜卯阿里 突合速 烏延蒲盧渾 赤盞暉 大㚖 磐 阿離補

熙宗の二子

熙宗の諸子:悼平皇后は太子済安を生み、賢妃は魏王の道済を生む。

済安は、皇統二年二月戊子に天開殿において生まれた。帝は二十四歳にして初めて皇子を得て、大いに喜び、使者を馳せて明徳宮の太皇太后に報せしめた。五日にして命名し、天下に大赦を行った。三月甲寅、天地宗廟に告げる。丁巳、髪を切り、天地宗廟に奏告する。戊午、皇太子に冊立する。皇后の父である太尉胡塔を王に封じ、人口・馬牛五百・駝五十・羊五千を賜う。随朝の職官は皆一資を遷し、全てに賜物があった。己未、詔を天下に下す。十二月、済安の病が重篤となり、帝は皇后と共に仏寺に幸して香を焚き、涙を流して哀しく祈り、五百里内の罪囚を曲赦した。この夜、薨去。諡して英悼太子とし、興陵の側に葬り、帝は烏只黒水まで送って還った。工に命じてその像を儲慶寺に塑らせ、帝と皇后は寺に幸してこれを安置した。海陵が上京の宮室を毀つに及び、寺もまた毀たれた。

道済は、皇統三年、中京留守に任ぜられ、直学士阿懶を都提点とし、張玄素を同提点として、左右よりこれを輔導せしめた。まもなく魏王に封ぜられ、その母を賢妃に封ず。初めは外に居たが、ここに至ってこれを宮中に養う。間もなく、熙宗は怒ってこれを殺した。

賛して曰く:国初は制度未だ定まらず、太宗・熙宗は皆自ら諳班勃極烈より帝位に即く。諳班勃極烈とは、漢語で最も尊い官という。熙宗が済安を皇太子に立てて、初めて名位を正し、制度を定めたのである。

斜卯阿里

斜卯阿里、父は渾坦、穆宗の時に内附し、数々の戦功があった。阿里は十七歳の時、その伯父胡麻谷に従って詐都を討ち、その弟沙里只を捕らえる。高麗が曷懶甸に九城を築くと、渾坦はこれを攻め、木里門甸において敵に遇い、長く力戦した。阿里は槍を挺てて馳せ、その将を陣中に刺し、敵は遂に潰走した。渾坦は石適歓と徒門水において合兵し、阿里は先ず敵兵を破り、その二城を取る。高麗が侵入し、我が兵が要害に屯守するにより、進むを得ず、乃ち還る。阿里は曷懶水において追い及び、高麗人は争って氷上を走る。阿里はこれに乗じ、殺戮略奪すること殆ど尽くし、遂に石適歓と合兵する。道中、敵兵五万に遇い、これを撃ち走らす。また石適歓と共に敵七万に遇い、阿里は先登し、奮撃してこれを大いに破る。石適歓曰く、「汝は一日の間に、三たび重敵を破る。その功を忘るるべけんや」と。乃ち厚くこれを賜う。

斡塞・烏睹本が駝吉城を攻むるに、阿里は城壁を穿って門と為し、日は既に暮れて入るべからず、兵をもってこれを守り、翌朝遂にその城を取る。烏睹本は鎧を着せ並びに乗馬を賜う。下って甯江州を攻め落とすに従い、猛安を授かる。また信州・賓州を攻め、皆これを克つ。遼人が来たりて孛堇忽沙里城を攻むるに、阿里は百余騎を率いてこれを救う。遼兵数万、阿里の兵は少なく、乃ち軍士に命じて衣を裂き多く旗幟と為し、山谷の間に出づ。遼兵これを見て遁去す。

蘇州・復州叛く、その衆十万に至る。傍近の女直は皆太尉胡沙の家に保ち、塁を築いて固めとする。敵はこれを数重に囲み、守る者は糧秣ともに尽き、牛馬は互いにその鬣尾を食い、人は子を易えて食らう。夜、二人を縋り下して出し、阿里に急を告ぐ。阿里はこれに赴き、内外より合撃して、その衆を辟離密罕水上に破り、剿殺すること殆ど尽くし、水はこれがために流れず。蒲離古胡什吉水・馬韓島にて凡そ十余戦、数十万の衆を破る。契丹・奚人は舟千艘を聚め、将に海に入らんとす。阿里は二十七舟をもってこれを邀え撃ち、流れ矢に中り、舟中に臥す。夜半にして初めて蘇る。敵船は既に王家島に入る。即ち夜に海路を取りて追い及び、敵は険阻に走って拒ぐ。阿里は騎兵をもって邀え撃ち、再び流れ矢に中るも、力戦して退かず、竟にこれを破り、その舟を尽く獲る。ここにおいて、蘇州・復州・婆速路は皆平らぐ。

顕州を攻め、霊山県を下し、梁魚務を取り、余睹の兵を破る。その功皆最も優る。後に散睹魯と高州に屯し、契丹の昭古牙・九斤が興中の兵数万を合わせて胡里特寨を攻むるに、阿里は八謀克の兵をもってこれを救う。胡里特は先に往きて城下に敗る。阿里は陣前の緋衣の者二十余人を指して曰く、「これ必ず賊の首領なり」と。兵を麾いて奮撃し、皆これを殺し、余衆大いに潰ゆ。来州・隰州の兵は胡里特城を囲むも、阿里の来援するを聞き、即ち囲みを解き去る。

闍母が張覚を討つに、兵が楼峰口の山谷の間より出づ。阿里・散篤魯・忽盧補の三猛安これを撃ち破る。宗望が闍母に代わりて張覚を討つに、阿里は再び平州の兵を破る。及び宋を伐つに及び、阿里は別に宋兵を撃ち、これを破る。孟陽の役、阿里は橋渡りを扼して力戦す。明年、再び宋を伐ち、保州・中山に至り、累ねてこれを破る。進んで真定を囲み、阿里は婁室・豁魯と共に風に乗じて火を放ち、その楼櫓を焚き、諸軍ことごとく登り、その城を克つ。師は河上に至り、粘割胡撒は宋人を撃ち走らせ、河津を扼し、兵数千遂に河を渡る。諸将は大名の境を分かち出で、阿里は敵四百を破り尽く殪し、遂に汴を囲む。汴中、夜に兵を出して来たり攻具を焚く。阿里は謀克の常孫陽阿と共にこれを防ぎ、その衆大いに潰ゆ。還って趙州を攻め、これを降す。

天会六年、宋を討伐し、陽穀・莘県を取る。海州の兵八万人を破り、海州は降る。梁山泊において賊船万余を破る。滕陽・東平・泰山の群盗を招降す。盗賊が範県を攻むるを撃ち走らせ、船七百艘を獲る。宗弼は睢陽を攻め下し、烏延蒲盧渾と先に二千人を率いて寿春を招撫せんと往き、淮水上に舟を具す。時に康民が賈船四百を集めて寿春に近し、朮列速は騎兵四百をもって康民を破り、数千を斬首す。当海・大㚖とともに淮南において賊十万を破る。江に至るまで、連戦して宋兵を破り、舟二百艘を獲る。宗弼は江寧に至り、阿里・蒲盧渾は別に広徳軍を降し、先に杭州に向かう。杭を去ること十余里、宋の伏兵二千に遇い、我が前駆の甲士三十人を取らる。阿里は諸軍に命じて馬を去りて搏戦せしめ、伏兵は敗れ、皆水に逼死す。宗弼は余杭に至り、宋主は明州に走る。阿里と蒲盧渾は精騎四千をもってこれを襲い、東関の兵を破り、曹娥江を渡り、高橋鎮において宋兵を破る。明州に至り、頗る利を失う。宋主は既に海に入りたれば、乃ち軍を余姚に退く。宗弼は当海に師を渡らしめ、遂に明州を下し、宋の守臣趙伯諤を執り、進んで昌国県に至る。宋主は昌国より温州に走り、海路を由って三百余里を追うも、及ばず。遂に明州を隳し、宗弼とともに北に帰る。

睿宗は陝西を経略し、涇州に駐す。阿里は先に渭州を取る。睿宗は熙河に向かい、阿里・斜喝・韓常の三猛安を前軍とす。十二年、高彪とともに水運を監護す。宋は舟師をもって亳州の河路を阻むを撃ち破り、六十余里を追撃し、その将蕭通を獲る。漣水の水寨賊を破り、その大船を尽く得、遂に漣水軍を取り、招徠安輯す。天眷年間、盗賊が石州を占拠す。阿里これを討つ。粘割胡撒はその部を率いて先登し、遂にその城を克ち、石州平ず。

宗弼が再び宋を伐つに及び、阿里は既に老い、戦船の督造を掌る。宋は臣と称し、詔して阿里に銭千万を賜う。結髪より軍に従い、大小数十戦、特に舟楫に習熟し、江・淮の用兵に、役として従わざるはなく、時に人は水星をもってこれを目す。迭里部節度使となり、順義・泰寧軍、帰徳・済南尹を歴任す。天徳初、致仕し、特進を加えられ、王に封ぜらる。正隆の例に従い韓国公に封ぜられ、闕に召し赴かせ、戦船を造らしむ。疾を以て薨ず。年七十八。諡して智敏と曰う。

阿里は性忠直にして、智略多し。兄弟相い友愛し、家は故に財に饒けり。己の猛安及び財物を尽く弟の愛抜里に与う。愛抜里は受けず、歳余逃避す。阿里は終にこれを与う。

突合速

突合速は宗室の子、拿罕塞の人なり。初め万戸石家奴の麾下に隷し、嘗て偏師を領いて雲中の諸山の寇盗を破る。宗望が平州を攻むるに、突合速を遣わして応州の賊を討たしめ、これを平らげ、その民を撫安して還る。及び宋を伐つに及び、宗翰の軍に在り、八謀克をもって石嶺関の屯兵数万を破り、殺戮幾くこと尽くす。師は太原に至り、祁県は降りて復た叛く。突合速これを攻め下す。進んで文水県を取り、後に諸帥に従って汾州の境に列屯す。宋の河東軍帥郝仲連・張思正、陝西軍帥張関索及びその統制馬忠、兵数万を合して来援す。皆これを敗る。

宗翰は南伐して潞に至り還る。太原は未だ下らず、即ち完顔銀朮可を留めて諸軍を総督せしめ、その地を経略せしむ。ここにおいて宋の援兵大いに至る。突合速は馬五・沃魯に従い、文水において宋兵四千を破る。宋将黄迪らが兵三十万をもって県の西山に柵を為すを聞き、復た耿守忠と兵九千を合してこれを撃ち、八万余りを殺し、馬及び資糧多くを獲る。宋の制置使姚古が兵を率いて隆州穀に至る。突合速は抜離速と歩騎万余りをもってこれを防ぐ。种師中の兵十万が榆次を占拠す。銀朮可は乃ち突合速を召し、その兵を中分して還らしめ、活女らと兵八千を合してこれを撃ち破り、師中を殺熊嶺に斬る。宋将張灝が兵十万をもって文水の近郊に営す。復た抜離速とこれを撃ち破る。潞州復た叛く。宋兵、号すること十七万。骨赧・突合速・抜離速皆囲まれる。突合速は軍士を麾し、下馬して力戦し、遂に囲みを潰して出づ。

及び再び挙げて宋を伐つに及び、宗翰は婁室に命じて軍を率いて先に汴に向かわしむ。婁室は沢州に至る。突合速・沃魯は五百騎をもって前駆とし、河陽を招撫せんと往く。先に黄河の津を占拠す。宋兵万余り背水の陣を為す。進撃してこれを破り、皆水に擠し、遂に河陽を降す。汴京平ず。諸将は西に陝津に向かい、河東の郡県を略定す。突合速は憲州を取り、その援軍に遇い、これを撃ち破り、その将を生擒す。孛堇濃瑰朮魯らは保徳を攻むるも、未だ下さず。突合速は進兵して助撃し、梯沖並びに進み、遂にその城を克つ。孛堇烏谷は石州を攻むるも、屡敗し、その三将を亡い、軍士歿する者数百人。突合速は烏穀に謂いて曰く、「敵は皆歩兵なり。吾は騎戦すべからず」と。烏穀曰く、「賊は妖術を挟み、馬を画いてその足を繫ぎ、疾きこと甚だ奔馬に甚しと聞く。歩戦豈にこれに及ぶべけんや」と。突合速笑いて曰く、「豈に是れ有らんや」と。乃ち諸軍に命じて馬を去りて戦わしめ、尽くこれを殪す。六年、宗輔は師を鄧州に駐す。突合速・馬五・抜離速は西に均・房を取り、遂にその城を下す。唐・蔡・陳州及び潁昌府を攻め、皆これを克つ。

天眷初、彰徳軍節度使を除く。三年、元帥左監軍と為る。皇統八年、済南尹に改む。天徳年間、定国公に封ぜられ、世襲千戸を授かる。卒す。年七十二。正隆二年、応国公を贈らる。

初め、突合速は次室の故をもって封を受けしにより、次室の子は因ってその猛安を襲うことを得たり。及び財を分かちて異居するに及び、次室の子は奴婢千二百口を取り、正室の子は八百口を得たり。久しくして、正室の子が襲封を争い、連年決せず、家財費え且つ尽き、正室の子の奴婢存する者は二百口、次室の子の奴婢存する者は纔かに五六十口。世宗は突合速の諸子の貧窘を聞き、近臣に問う。具に争襲の故を以て対う。世宗曰く、「次室の子豈に封を受くべけんや」と。遂に嫡妻の長子を以て襲封せしむ。

烏延蒲盧渾

烏延蒲盧渾は、曷懶路烏古敵昏山の人なり。父は孛古剌、龍虎衛上将軍。蒲盧渾は膂力人に絶え、強きを挽きて二百七十歩を射ることを能くす。兄の鶻沙虎とともに勇健を以て闍母の軍に隷し、帳下に居る。黄龍府を攻め、力戦して功有り。闍母は兔耳山に敗る。張覚は復た兵を整えて来る。諸将は皆敢えて戦わず。蒲盧渾は山に登りてこれを望み、乃ち諸将を紿して曰く、「敵軍少なし。急撃すれば破るべし。若し城に入らば、復た制すべからず」と。遂に合戦し、これを破る。

郭薬師・蔡靖は燕京を以て降る。蒲盧渾は九十騎を率いて先に城中の居民の去就を伺察す。遂に漢兵一千を将い、完顔蒙適に隷して真定を攻む。進んで賛皇を攻め、これを取り、人畜甲仗万余を獲る。汴城破る。日は既に暮れ、宋人は猶力戦す。槍蒲盧渾の手を刺し中つ。戦い益々力め、遂に宋軍を敗り、金五十両を賜う。

睿宗が右副元帥となり、既に関中・陝西を平定し、剣外諸州を取ることを議し、遂に和尚原を抜いた。元帥府が制を承けて蒲盧渾を河北西路兵馬都総管に任じた。宋の主が揚州に在った時、蒲盧渾は蒙適と共に万騎を率いてこれを襲い、宋の主は既に江を渡っており、その余兵を破った。後に斜卯阿里と共に宗弼に従い淮西より江を渡り江寧を取った。宗弼が杭州に入ると、宋の主は明州に走り、再び温州に走ったので、海道より三百余里を追い、明州を隳して帰還した。語は『阿里伝』にある。

天眷二年、鎮国上将軍を授けられ、安国軍を除され、病により官を去った。皇統六年、世襲謀克を授けられ、起用されて延安尹となり、尚衣一襲を賜り、まもなく致仕した。海陵が中都に遷ると、起用されて帰徳尹となり、その家に就いてこれを授け、銀牌・襲衣・玉吐鶻を賜り、馳駅して官に赴いた。蒲盧渾は数十日留まり、既に程限に違したので、再び致仕を聴された。召されて京師に赴き、薊州に至り、狩猟の場所で海陵に謁見した。翌日、狩猟に従い、一狐を獲た。海陵は言った、「卿は年老いているが、尚よく馳逐して獣を撃ち、健捷なること此の如し。」と。御服を賜り、豳国公に封ぜられた。太子少師を除され、進んで太子太保となり、真定尹に改められ、入って大宗正事を判じた。

まもなく宋を伐つに当たり、本官のまま右領軍副都督ととく事を行った。軍は西採石に駐屯し、海陵は江を渡ろうとしたが、蒲盧渾は言った、「宋軍の船は高大であり、我が船は低小である。恐らく急に渡ることはできまい。」と。海陵は怒って言った、「汝は昔、梁王に従って趙構を海島に追った時、皆大船であったのか!今、吾が兵事を沮むとは。仮に急に江を渡ることができなくとも、少しの損害があるに過ぎぬ。爾は年既に七十、たとえ自らを愛するとも、死なざる理があろうか。明日は奔睹と先に渡ろう。」既にしてまたこれを止め、別将を遣わして先に江を渡らせたが、舟が小さく戦えず、遂に利を失い、両猛安及び兵士二百余人が皆陥没した。海陵が害に遇い、軍は還った。

大定二年、中都に至り上謁し、東京留守を除かれた。世宗が召して年齢を問うと、対えて言った、「臣、今年七十三歳でございます。」と。上は言った、「卿は宿将にして、久しく兵事を練り、年は老いているが、精神は衰えていない。」と。そこで官に到るよう命じ、毎旬月に一度視事することを許した。衣一襲を賜り、階を進めて開府儀同三司とし、仍って豳国公に封ぜられた。この年、卒した。十八年、孫の紮虎が広威将軍に遷り、烏古敵昏山世襲猛安を襲い、併せて親管謀克となった。

赤盞暉

赤盞暉、字は仲明、その先祖は遼に附き、張惶堡に居住したので、かつて張を氏とした。後に来州に家した。暉は体貌雄偉で、慷慨として志略があった。少くして郷校に遊んだ。遼の末年に賊を破った功により、礼賓副使を授けられ、来・隰・遷・潤の四州の屯兵を領した。天輔六年に降伏し、仍ってその衆を領することを命じられ、闍母に従い興中府及び義・錦等の州を定めた。張覚を破った時、皆これに功があり、粟一万五千石を以て軍を助け、洺州刺史を授けられた。

宗望が初めて宋を伐った時、孟陽の戦いで、敵の中軍が径ちに宗望の営に迫ったが、暉は諸将と共にこれを撃破し、城下まで追撃した。師が還るまで、数たび戦功を立てた。明年、再び挙兵して宋を伐ち、保州・真定を攻め下したが、暉は皆これに与った。進んで汴を囲むと、宋人が夜に兵二万を出して我が攻具を焼いたが、暉は二謀克の兵を以てこれを撃退した。凡そ城中より出兵して拒戦するものは、暉の当たる所、勝捷せざるはなかった。

既に宋を克ち還ると、河間を攻めるに従った。敵将李成が雄・莫の兵を率いて来援したが、暉は配下の兵を率いて迎撃し、馬が傷ついて落馬したが、暉は奮い立って歩戦し、遂に成の兵を敗った。この日、凡そ七戦して皆勝ち、敵人は多く濠や城壁の間に逼死し、暉の両臂も数たび流矢に中った。賊将劉先生が兵二万を率いて夜営を襲ったが、暉は力戦して夜明けに及び、賊は始めて敗走し、皆水に溺死した。暉はまた城に迫って力戦し、このように連月に及び、諸軍が四面より合攻したので、遂にこれを克った。桂州管内観察使を加えられ、因って留まって河間を撫した。当時、居民は皆軍士に掠められ、老幼で存する者は幾ばくもなかった。暉は軍中に令を下し、これを贖い還すことを聴した。まもなく、皆旧の如く安堵した。

睿宗に従い山東を経略し、既に青州を攻め下すと、また闍母に従い濰州を攻めた。暉はその裨校を督して先登させたが、城中に積んだ芻茭が風に乗って火を放ち、発石機を発したので、暉は将士を率いて突撃して下り、力戦してこれを破った。軍が還ると、また三十騎を以て範橋で敵を破った。帥府が制を承けて静江軍節度使を加えた。進攻すると、城中より砲石が出て、ほとんど暉に中り、その甲裳を払って裂いた。暉は益々奮って攻め、遂にその城を破った。また泗州を攻めるに従い、これを克った。還って汶陽に屯し、梁山濼で賊衆を破り、舟千余を獲た。軍を移して済州を攻め、既に敵兵を敗ると、因って城に迫って禍福を諭したので、乃ち挙城して降った。暉は軍士を約束し、秋毫も犯さず、これより曹・単等の州は皆風を聞いて下った。

寿春・帰徳を攻めるに従い、及び淮を渡って先鋒となり、秀州・蘇州で重敵に遇ったが、皆これを撃破し、遂に余杭に至った。糧餉を通じ、橋道を治めることは、暉の力が多かった。乃ち還り、『資治通鑑』の版を載せて帰った。大軍が江寧を過ぎる時、その官民を北に渡らせたが、時は暑く疾疫多く、老弱は道路に転死し、その知府陳邦光なる者が宗弼に訴えたので、怒ってこれを殺そうとしたが、暉は言った、「これは義士なり。」と。力を尽くしてこれを営救し、竟に免れることを得た。

富平の戦いで、暉は右翼に在り、泥濘に遇って敗れたが、睿宗はその前功を念じ、杖罰して釈放した。師が熙河に至ると、暉は別に諸寨の将鈐轄及び吐蕃の酋長等を降し、併せて民戸一万五千余を得た。蘭州が叛くと、訛魯補等と共にこれを攻め下し、河州安撫使白常・熙河路副都総管劉維輔を獲て献じた。還って慶陽を攻め、二度重敵を敗り、その将戴巣を殺した。師が還り、帰徳軍節度使に遷った。

宋州は旧より学が無かったが、暉は学舎を営建し、生徒を勧督し、肄業する者はその身を復することを許したので、人々は勧んでこれに趨った。属県の民家の奴で王夔という者は、かつて進士を業としていたが、暉は銭五十万を以てこれを贖い、その業を卒えさせた。夔は後に顕官に至った。密州の吏龐乙が官に卒したが、その孤は貧しく、葬ることができなかったので、暉はその葬事を営み治め、且つその家を資給した。

十三年、また大軍に従い淮を渡った。還って鎮すると、母憂に遭い、まもなく旧職を以て起復した。既に斉が廃されると、安化軍節度使となった。天眷三年、河南が復されると、宋人が隙に乗じて海州を陥としたが、帥府は登・萊・沂・密の四州を暉に委ねて経画させたので、敵は敢えてその境を窺う者はなかった。定海軍節度使となり、まもなく済南尹に改められ、累遷して光禄大夫となった。俄かに罪により罷免された。久しくして、起用されて昌武軍節度使となった。天徳二年、南京留守に遷り、まもなく河南路統軍使に改められ、世襲猛安を授けられ、尚書右丞を拝し、河内郡王に封ぜられた。歳余りして、平章政事を拝し、戴王に封ぜられた。正隆初年、出て興平軍節度使となった。正隆が王爵を降すと、枢密副使となり、景国公に封ぜられた。まもなく、また左丞となり、済国公に封ぜられた。尋いで大興尹を除かれ、栄国公に封ぜられた。薨去、年六十五。大定の間に諡して武康と言う。子の師直は進士第に登った。

大㚖

大㚖は、本名を撻不野といい、その先祖は遼陽の人で、代々遼に仕えて顕職に就いた者がいた。太祖が遼を討伐したとき、遼人は遼陽で兵を徴発し、当時㚖は二十余歳で、その選中にあった。遼兵は敗れ、㚖は身一つで逃げて甯江に至った。甯江が陥落すると、㚖は城を越えて逃げようとしたが、軍士に捕らえられた。太祖がその家柄を問うと、これに養われた。収国二年、東京奚民謀克となった。この時、高永昌を破ったばかりで、東京の近傍の郡邑はまだ全て服属しておらず、㚖に謀反の兆しを探らせた。聞き及ぶことがあれば必ず報告し、太祖は忠実であるとして猛安を授け、兼ねて同知東京留守事とした。

中京と西京を取ると、闍母の軍に属した。遼軍二十万が戦いを挑んできたとき、呉王は㚖に本部の兵で営を守らせようとしたが、㚖は固く出戦を請うたが、許されなかった。ある者が㚖に言うには、「戦いは危険なことである。ひとり苦しんで請うのは、どうしてか」と。㚖は言った、「大丈夫たるもの、一度も勝負を決することができずして、なお何をなさん。もし戦いに臨んで勝利しなければ、たとえ死んでも生きているようなものだ」と。呉王はこれを聞いて壮とし、ついに出戦させた。合戦が始まると、闍母の軍は少し退いた。遼兵がその後を追うと、㚖は本部の兵を指揮して横から撃ち、数百人を殺した。これによって軍中に名を顕わした。

天会三年、宗望が宋を伐つとき、信徳府は燕と汴の中間に位置し、軍を駐屯させて緩急に備えることができた。これを攻めようとしたが、直ちに陥とせぬことを恐れ、議論は決しなかった。㚖は独りで本部の兵を率い、善射の者を選んでその城楼を射させ、別に軽鋭の兵を潜ませて楼角の間に登らせ、ついにその城を陥とした。翌年、軍は浚州に至った。宋人はすでに河の橋を焼いており、宗望は「軍中で先に渡ることができた者の功を上とする」と下令した。㚖は十余りの舟を捕らえ、勇猛な者に直ちに渡らせ、その守備兵を撃って戍柵を奪い取らせた。これによって大軍はともに渡河した。

八月、再び宋を伐ち、万戸を授けられ、金牌を賜った。汴京を破ると、㚖は河間路都統となった。すでに河間を陥としたが、闍母はその早く降らなかったことを怒り、軍を放って大いに掠奪させた。㚖はこれを諫めて止めさせ、すでに掠奪されたものは官が代わって贖い戻した。河間尹に任じられ、襲慶府を攻撃するのに従った。前日のうちに、㚖は軍士に畚鍤と薪を準備させておいた。城に迫ると、諸将は攻撃の具を整えようとし、まだ鼓を鳴らさなかったが、㚖の軍は平素から準備していたので、先に登城した。軍帥は㚖がまだ鼓を鳴らさずに戦ったことを、軍令に従わないとして、㚖の罪を請うたが、朝廷はこれを釈して問わず、なお例によって賞を与えた。

宗弼が江南を伐ち、淮を渡ると、宋の将時康民が兵十七万を率いて防ぎに来た。㚖は本部を率いてこれに従い撃ち、これを破った。また騎兵二千をもって当海とともに淮南の賊十万を撃ち破り、一万余人を殺し、王善が降って来た。江を渡ろうとするとき、㚖の軍が先に渡った。舟が岸からまだ遠く離れているうちに、宋は兵を江口に列ねた。㚖はその水が徒渉できると見て、兵を指揮して舟を捨て岸に急ぎ趨りてこれを急撃した。宋兵は走り、大軍は相次いで渡河した。まもなく江寧の西で杜充の兵六万に遇うと、㚖は鶻盧補とともにこれを撃ち走らせた。師が還ると、㚖は留まって揚州都統となり、淮・海・高郵の間を経略した。再び河間尹となり、兼ねて河北東路兵馬を総べた。

十一年、入朝して謁見すると、太宗は座を賜い、久しく慰労し、特に太子太保に遷し、衣一襲・馬二匹および鞍轡鎧甲を賜い、元帥右都監に改めた。斉国が廃されると、㚖は汴京を守った。熙宗は㚖の久しい労を思い、御書を降して寵異とした。天眷三年、漢人・渤海人の千戸謀克を罷めたが、㚖は旧臣であるため、独り命じて旧に依り世襲千戸とさせた。この年、元帥右監軍に拝された。

宗弼が再び宋を伐つと、宋人は臣と称して和を乞い、ついに師を還した。㚖は独り汴に留まり、行元帥府事を行った。皇統三年、開府儀同三司を加えられた。八年、左監軍に進んだ。天徳二年、右副元帥に改め、兼ねて行台左丞となった。平章行台省事に遷り、行台右丞相に進み、右副元帥はもとの通りとした。海陵は左副元帥撒離喝を疑い、行台左丞相として、㚖にその様子を探らせ、詔して軍事を撒離喝に知らせないようにさせた。撒離喝は海陵の意図を知らず、しばしば㚖と軍事を争って思い通りにならず、ついに㚖と不和となった。海陵はついに撒離喝を殺し、㚖を召し入朝させ、尚書右丞相に拝し、神麓郡王に封じた。

四年、老齢を理由に退職を請うて、東京留守となった。貞元三年、太傅に拝され、三省事を領し、累ねて漢国王に封じられた。十二月、病を得た。海陵はその邸に臨んでこれを問うた。この年、薨去した。六十八歳であった。海陵は親しく臨んでこれを哭し、詔して有司に三日間の政務停止を命じ、三日間の音楽を禁じた。その三日目に三国の使者の館で宴を賜うべきところ、教坊の楽を賜わないため、左宣徽使敬嗣暉に命じてこれを宣諭させた。太師・晋国王を追贈し、諡して傑忠といい、使者を遣わして喪を護り帰葬させた。正隆年間に王爵を奪われ、太傅・梁国公を追贈された。子に磐がいる。

磐は、本名を蒲速越といい、大臣の子として累ねて官に登り登州刺史となり、猛安を襲った。大定三年、嵩州刺史に任じられ、僕散忠義に従って宋を伐ち功があった。五年、召されて符宝郎となり、拱衛直都指揮使に遷った。

初め、磐は宋を伐った功により、官一階を進められたが、磐は内心これを少ないと思い、言葉に表わすことが多かった。上はこれを聞き、官吏に下して取り調べさせ、杖一百五十を加え、左衛将軍に改めた。詔して良弓を求めると、磐は多くを自ら取り、また護衛が入直する者を、しばしば己の意で交代させた。護衛の婁室がその事を告げると、詔して点検司に詰問させた。磐には妹が宮中にいて宝林となっていた。磐は内侍の僧児員思忠に頼み、宝林に言わせた、「私は罪がないのに、取り調べる者が私を迫り、自ら誣服させようとしている」と。宝林は上に訴えた。上は怒り、僧児を杖一百とし、磐を責めて隴州防禦使とした。上はこれを戒めて言った、「汝は近密にありながら、執迷して自らを用い、朕は卿の父の功績により、廃棄するに忍びず、暫く外補を命じる。よく考えて努めよ」と。亳州防禦使に改め、武寧軍節度使に遷ったが、事に坐して除名された。起用されて韓州刺史となった。祁州刺史に改めたが、また事に坐し、四官を削られ、解職された。

久しくして、尚書省が「大磐は年功により叙用すべきである」と奏上すると、上は言った、「剛暴な人で、しばしば刑章を犯し、再び用いることはできない。太傅大㚖には、別に嫡嗣がおらず、その世襲猛安謀克は、変えることはできない」。

阿離補

阿離補は、宗室の子で、景祖の系譜に出る。しばしば征伐に従い、遼を滅ぼし宋を挙げることにいずれも功があった。天会九年、睿宗が陝西を経略するとき、阿離補は左翼都統となり、右翼都統宗弼とともに鞏・洮・河・西寧・蘭・廓等の州軍、来賓・定遠・和政・甘峪・寧洮・安隴等の城寨、および鎮・堡・蕃・漢の営部四十余箇所を撫定し、漢官軍民蕃部の酋長は甚だ多く、ここに涇原・熙河の両路は皆平定された。詔して兄の猛安沙離質の親管謀克の余戸をもって、阿離補を世襲謀克とした。天会十二年、元帥右都監となった。十五年、左監軍に遷った。天眷三年、宗弼に従って河南を回復し、左副元帥に遷った。皇統三年、譚国公に封じられた。六年、行台左丞相となり、元帥はもとの通りとした。この年、薨去した。

大定年間、功臣を大いに褒賞し、その像を衍慶宮に図した。歡都は康宗の時に死し、遼や宋の郊外を馳駆するのに及ばなかったが、しかし異姓の臣で彼に先んずる者はなかった。故に衍慶宮の功臣の次位を定めて、代國公歡都、金源郡王石土門、徐國公渾黜、鄭國公謾都訶、濮國公石古乃、濟國公蒲查、韓國公斜卯阿里、元帥左監軍拔離速、魯國公蒲察石家奴、銀青光祿大夫蒙適、隨國公活女、特進突合速、齊國公婆盧火、開府儀同三司烏延蒲盧渾、儀同三司阿魯補、鎮國上將軍烏林答泰欲、太師領三省事勖、太傅大㚖、大興尹赤盞暉、金吾衛上將軍耶律馬五、驃騎衛上將軍韓常及び阿離補は皆勲功を顕著にした。子に言、方があり、言は別に伝がある。

子に方

方は宗室の子として累次官を経て京兆少尹となり、陝西路統軍都監に遷った。方は専ら財賄に事とし、軍旅を顧みず、詔してこれを戒めて曰く、「卿は宗室の旧人なり、しかるに恣肆して法を敗り、ただ利を営むのみ、朕は甚だこれを悪む。今より後日に至るまで、万一これを行わば、必ず罰して赦さじ」と。大定三年、元帥右都監に遷り、元帥左監軍に転じ、順天軍節度使に改めた。上曰く、「卿は本より功なく、顕仕を歴任し、僚友と接すること能わず、往々にして交わりを悪くし、京兆にて貪鄙なること聞こえ顕わにして、至って謂うべきなし。朕は卿が既に中年を過ぎたるを思い、必ず能く改悛せんとす、慎んでまた爾るなかれ」と。西南路招討使を除し、朝廷は兵部郎中高通を以て招討都監とし、これを補佐せしめた。通に詔して曰く、「卿、天徳に到るに、その官長に曲げて従うことなかれ。沿辺の士卒を簡閲し、孱弱の人を用いることなく、僕隸を以て役に代えることなかれ。女直の旧風、凡そ酒食会聚するに、騎射を以て楽しみとす。今は則ち弈棋・双陸す、宜しく悉く禁止し、騎射を習わしむべし。その居処の便に従い、また召集してこれを擾すべからず」と。久しくして、方は部人の馬二匹を強買した罪に坐し、一階を削られ、職を解かれ、耀州刺史に降った。通もまた贓罪に坐して除名された。方の後、横海軍節度使に遷り、入朝して同簽大宗正事となり、簽書樞密院事となった。

初め、阿魯補は謀克を授けられるべきであったが、封ぜられずに薨じ、烏帯がこれを受けた。烏帯が死ぬと、兀答補がこれを襲った。兀答補が死ぬと、烏也阿補が襲うべきであった。この時、既に海陵を庶人に降していたが、世宗は烏帯が熙宗の逆党の中にあったことを以て、その子孫は封を受くべからずとし、封を停めること久しく、しかし阿離補の功もまた廃絶すべからず、特に詔して方にこれを襲わせたという。

賛して曰く、斜卯阿里、突合速、烏延蒲盧渾、赤盞暉、大㚖、阿離補等六人は、皆収国以来の所謂熊羆の士、二心なき臣なり、その功に録すべきものあり。