酈瓊
酈瓊、字は國寶、相州臨漳の人である。州學生に補せられた。宋の宣和年間、盜賊が起こると、瓊はさらに撃刺や強弓を学び、弓馬を試み、宗澤の軍に隷し、磁州に駐屯した。間もなく帰郷を告げ、義軍七百人を集め、再び宗澤に従い、澤は瓊を七百人長に任じた。澤が死ぬと、滑州の守備に転じた。時に宗望が宋を伐ち、河を渡らんとした。守備軍が乱を起こし、その統制趙世彥を殺し、瓊を主に推した。瓊はそこで衆を誘い、勤王と号し、行くに従い兵を収めた。淮を渡る頃には、衆一万余りを有していた。康王は彼を楚州安撫使・淮南東路兵馬鈐轄とし、累遷して武泰軍承宣使となった。間もなく、率いる所領の歩騎十余万を率いて斉に附き、静難軍節度使を授けられ、拱州の知事となった。斉國が廃されると、博州防禦使とされた。廉潔を用いられ、驃騎上將軍に遷った。宗弼が河南を回復すると、瓊を山東路弩手千戸とし、亳州の事を掌らせた。母の喪に遭い、官を去った。
宗弼が再び江南を伐つに当たり、瓊が元より南方の山川の険易を知っているので、軍に召し寄せて事を計らせた。瓊は従容として同列に語って曰く、「瓊は嘗て大軍に従い南伐し、毎に元帥國王が親しく陣に臨み督戦するのを見る。矢石が交錯する中、王は冑を免れ、三軍を指揮し、意気自若たり。兵を用いて勝を制するは、皆孫子・呉子に合致し、世に命ぜられた雄材と謂うべし。さらに鋒鏑を親しく冒し、進んで難を避けず、将士これを見て、誰か敢えて死を惜しまんや。その向かう所前に敵無きは宜なるかな、日に国を千里開く所以なり。江南の諸帥は、才能中人に及ばず。毎に出兵するに当たり、必ず身を数百里外に置き、これを持重と謂う。あるいは軍旅を督召し、将校を易置するも、僅かに一介の士を以て虚文を持しこれを諭し、これを調発と謂う。敵を制し勝を決するは偏裨に委ね、これをもって智者は解体し、愚者は師を喪う。幸いに一小捷すれば、則ち露布を飛馳し、俘虜の級を増加して己が功と為し、将士の怨みを斂む。仮に親しく臨むも、亦必ず先ず遁る。しかるに国政は綱紀無く、才だ微功あれば、已に厚賞を加え、あるいは大罪有れば、乃ちこれを置いて誅せず。即時に覆亡せざるは、已に天幸と為す、何ぞ能く振起せんや」と。衆はこれを確論と為した。元帥とは、宗弼を謂う。
宗弼が瓊に江南の成敗を問い、誰か敢えて相拒ぐ者あるかと尋ねると、瓊は曰く、「江南の軍勢は怯弱にして、皆敗亡の余り、また良帥無し、何を以て我を禦がん。秦檜が国政を当て事を用いるを頗る聞く。檜は老儒にして、所謂亡国の大夫、兢兢として自ら守り、惟だ顛覆を懼るるのみ。我が大軍を以てこれに臨めば、彼の君臣、方に心破れ胆裂け、将に哀鳴する暇無からん、蓋し傷弓の鳥は虚弦を以て下すべし」と。既にして江南果たして臣を称し、宗弼は瓊が言を知るを喜んだ。
李成
李成、字は伯友、雄州帰信の人である。勇力絶倫にして、三百斤の弓を引くことができた。宋の宣和初め、弓手を試み、強弓を引いて異等となる。累官して淮南招捉使となった。成は乃ち衆を聚めて盗賊と為し、江南を鈔掠し、宋は兵を遣わしてこれを破り、成は遂に斉に帰し、累除して開徳府の知事となり、大軍に従い宋を伐った。斉が廃されると、再び除されて安武軍節度使となった。
成は降附した諸将の中で最も勇猛で、号令甚だ厳しく、衆敢えて犯す者無し。陣に臨んでは身を諸将に先んず。士卒未だ食せざれば先に食せず、病ある者は親しくこれを視る。雨具を持たず、たとえ濡れても自ら平然たり。成の謀反を告げる者ありしも、宗弼はその誣を察し、成に自ら治めさせ、成は杖罰してこれを釈し、その不校この如し。これをもって士卒は用いられるを楽とし、至る所克捷した。
宗弼が再び河南を取るに当たり、宋の李興が河南府を占拠した。成は軍を率いて孟津に入る。興は衆を率いて城に迫り、鼓噪して戦を請うたが、成は応じなかった。日が西に傾き、興の士卒は倦み且つ飢えると、成は門を開いて急撃し、これを大破した。興は漢南に走り、成は遂に洛陽・嵩・汝等を取った。河南が平定されると、宗弼は成を河南尹とし、都管押本路兵馬に奏した。嘗て官の羨粟を取って公費に充てた罪で、両官を奪われ、解職された。正隆年間、起用されて真定尹となり、郡王に封ぜられ、例に従い済国公に封ぜられた。卒す。年六十九。
孔彥舟
孔彥舟、字は巨済、相州林慮の人である。無頼にして、生業に事えず、罪を避けて汴に至り、軍中に籍を占めた。事に坐して獄に繋がれ、守者を説いてその縛を解かせ、夜に乗じて城を逾えて遁去した。已にして人を殺し、亡命して盗賊と為った。宋の靖康初め、募に応じ、累官して京東西路兵馬鈐轄となった。大軍が将に山東に至らんとするを聞き、遂に率いる所部を以て、居民を劫殺し、廬舎を焼き、財物を掠め、河を渡り南去した。宋人は再びこれを招き、沿江招捉使と為した。彥舟は暴横にして、約束に奉ぜず、宋人は兵を以てこれを執らんとし、彥舟は斉に走り、劉麟に従い宋を伐ち、行軍都統となり、行営左総管に改めた。
斉國が廃されると、累官して淄州の知事となった。宗弼に従い河南を取り、鄭州を克ち、その守劉政を擒にし、登封において孟邦傑を破り、鄭州防禦使を授けられた。太行の車轅嶺の賊を討平した。江南征伐に従い、淮を渡り、孫暉の兵万余りを破り、安豊・霍丘を下す。及び濠州を攻むるに、彥舟を先鋒と為し、流れに順って城に迫り、その水軍統制邵青を擒にし、遂に濠州を克った。師が還ると、累官して工部・兵部尚書、河南尹となり、広平郡王に封ぜられた。正隆の例により金紫光禄大夫に降格され、西京留守に改められた。
彦舟は色欲に耽り、禽獣の行いがあった。妾が生んだ娘は容姿美麗であったが、彦舟はその母を苦しめて虐待し、自らが己の娘ではないと陳述させ、遂にこれを妾として納れた。その官属が官銭を負い、その妻と私通して証文を破棄した。ただ濠州を陥落させた時、諸軍は捕虜を皆殺しにしたが、彦舟は号令して妄りに殺すなとし、免れた者は数千人に及び、人々はこれを以て彼を称えることが多かった。しかし幼少より老いに至るまで常に行伍に在り、兵事に習熟し、利鈍を知っていた。海陵王は彼を征南の将佐にしようとし、正隆五年、南京留守に任じた。
彦舟が病に罹ると、朝臣の中に彦舟の死を伝える者がいたが、彦舟は尚無事であった。海陵王は彦舟の死を妄りに伝えた者を尽く杖罰し、以て彼を激励した。間もなく遂に汴で死去した。享年五十五。遺表に「宋を伐つには先ず淮南を取るべし」と云う。
徐文
徐文、字は彦武、萊州掖県の人、膠水に移住した。若い時は塩の密売を業とし、瀕海の数州を往来し、剛勇で気概を尊び、同輩は皆彼を畏れた。宋末に盗賊が蜂起すると、戦士を募集し、密州板橋左十将となった。勇力は人に過ぎ、重さ五十斤の巨刀を揮い、向かう所前に敵なく、人は「徐大刀」と呼んだ。後に王龍図の麾下に隷属し、夏人と戦い、一将を生け捕りにし、進武校尉に補された。東還し、群賊の楊進等を破り、承信郎に転じた。
宗弼が再び河南を取ると、文は濮陽で宋将の李宝を、登封で孟邦傑を破った。宋の蒋知軍が河陽を占拠すると、文は夜明け前にその城下に至り、別将に城の東北を攻めさせ、自ら精鋭を将いて潜師して南門を襲った。城中は衆を悉くして東北を救い、文は乃ち南門より関を斬って城に入った。宋軍は潰走し、追撃してこれを破った。汝州において郭清・郭遠を破った。鄭州が叛くと、再びこれを取り、宋将の戚方を撃退した。河南が既に平定されると、宗弼は将士を労い賞し、文に銀幣鞍馬を賞した。行軍万戸を充て、宗弼に従って廬・濠等州を取り、武義将軍に超格転任した。済州知州となり、在職七年、泰安軍知軍に移った。海陵王が即位すると、旧功を録し、累遷して中都兵馬都指揮使となり、金帯を賜い、浚州防禦使に改めた。間もなく、海陵王が宋征伐を謀り、行都水監に改め、通州において戦船を監造させた。
東海県の徐元・張旺が乱を起こし、県人の房真等三人が海州に、及び総管府に走り、変事を上告した。州・府は皆使者を遣わし、真等に随って東海に赴き賊の形勢を観察させたが、皆賊に害された。州・府は兵を合わせてこれを攻めたが、累月下らなかった。海陵王は且つ宋を伐たんと欲し、この事を聞くのを厭い、詔して文と歩軍指揮使の張弘信・同知大興尹の李惟忠・宿直将軍の蕭阿窊に舟師九百を率い海を渡って討伐させ、文等に謂って曰く「朕の意は一邑に在らず、将に舟師を試さんとするのみ」と。文等は東海に至り、賊と戦い、これを破り、首級五千余を斬り、徐元・張旺を獲、余衆は降を請うた。この役に、張弘信は萊州に行き至り、疾有りと称して留まり止まり、日々妓楽と酒を飲んだ。海陵王はこれを聞き、師が還ると、弘信を二百回杖罰した。文は定海軍節度使に遷った。房真三人には官賞に差等有り。賊に死した者は皆官三級を贈り、銀百両・絹百匹を以てその家に賜った。
施宜生
四年冬、宋国正旦使となった。宜生は自ら罪を得て北走したことを以て、宋人に会うのを恥じ、力辞したが、許されなかった。宋は張燾を命じて都亭に館させ、機会を窺って首丘の風を以てほのめかした。宜生はその介(副使)が傍に居ないのを顧み、廋辞(隠語)を為して曰く「今日は北風甚だ勁し」と。又几上の筆を取って叩きながら曰く「筆来たれ、筆来たれ」と。ここに於いて宋は始めて警戒した。その副使の耶律辟離剌が使いより還りこれを聞かせたため、この罪に坐して烹殺の刑に処せられた。
張中孚
張中孚、字は信甫、其の先祖は安定より張義堡に徙居した。父の達は、宋に仕えて太師に至り、慶国公に封ぜられた。中孚は父の任により承節郎に補された。宗翰が太原を囲むと、其の父は戦没し、中孚は泣涕して父の屍を尋ねることを請い、乃ち独り部曲十余りを率いて大軍の中に入り、竟に其の屍を得て還った。累官して鎮戎軍知軍兼安撫使となり、屡々呉玠・張浚に従って兵を以て大軍に抗した。浚が巴蜀に走ると、中孚は権帥事となった。天会八年、睿宗が左副元帥として涇州に次すと、中孚は其の将吏を率いて来降し、睿宗は之を鎮洮軍節度使渭州知州とし、兼ねて涇原路経略安撫使とした。
斉国が建てられ、什一法をもって民田を調査し、壮丁を登録して郷軍とした。中孚は、涇原の地は痩せて良田がなく、かつ保甲の法はすでに慣行されており、今急に変更すれば、人は必ず逃散し、その害を見るのみで利は見られないと考えた。ついにこれを執行しなかった。当時斉の政令は甚だ急峻で、敢えて違う者なく、人は中孚の身を危ぶんだが、中孚はこれを顧みなかった。間もなく斉国は廃され、一路のみが搾取の禍を免れた。
中孚は天性孝友剛毅であり、弟中彥と同居して、未だかつて不和の言葉がなかった。読書を好み、頗る書翰を能くした。その士卒を統御するは厳にして恩あり、西人は特に畏れ愛した。葬儀の日、老幼柩を扶けて流涕する者数万人に及び、市を罷めるに至った。その西人の望みを得ることかくの如し。正隆の例により崇進・原国公に封ぜられた。
張中彥
張中彥、字は才甫、中孚の弟。若くして父の任により宋に仕え、涇原副将・徳順軍知事となった。睿宗が陝西を経略するに及び、中彥は降り、招撫使に任ぜられた。熙州・河州・階州・成州を下すに従い、彰武軍承宣使を授けられ、本路兵馬鈐轄となり、都総管に遷った。
宋の将関師古が鞏州を包囲すると、秦鳳の李彥琦と兵を合わせてこれを攻撃した。王師が饒風関を下し、金州・洋州等の諸州を得ると、中彥に興元尹を領させ、新たに帰附した者を撫慰した。軍が還ると、彥琦に代わって秦鳳経略使となった。秦州は要衝に当たるが城は守れず、中彥は治所を北山に移し、険阻に因って塁を築いた。これが今の秦州である。臘家等の諸城を築き、蜀への道を扼した。秦を統帥すること凡そ十年、涇原路経略使・平涼府知事に改めた。
朝廷が河南・陝西を宋に賜うと、中孚は官守として例により関中に留まるべきであった。熙河経略使慕洧が夏に入ろうと謀り、関中・陝西を窺わんとしたので、中彥は環慶の趙彬と両路の兵を合わせてこれを討ち、慕洧は敗れて夏に入った。中彥は兄中孚とともに臨安に至り、留め置かれ、龍神衛四廂都指揮使・清遠軍承宣使・提挙佑神観・靖海軍節度使とされた。
皇統初年、河南が回復され、詔して中彥兄弟を北帰させ、静難軍節度使とし、彰化軍・鳳翔尹を歴任し、慶陽尹に改め、慶原路兵馬都総管・寧州刺史を兼ねた。宗室の宗淵が僚佐の梁鬱を毆打死させた。梁鬱は遠方の出身で、家が貧しく訴え出る者がいなかった。中彥は力を尽くしてその罪を正し、ついに法に置いた。彰徳軍節度使に改まり、賦調法を均しくし、奸豪は隠匿する所なく、人はその明察に服した。
正隆年間、汴京新宮を営むに当たり、中彥は関中の材木を採運した。青峰山に巨木が最も多かったが、高深にして阻絶し、唐・宋以来致すことができなかった。中彥は崖を構え壑に橋を架け、十数里の長橋を起こし、車で木材を運び、平地を行くが如くし、六盤山の水洛への路を開き、ついに汴梁に通じた。翌年、河上に浮橋を作り、再びその役を統領した。舟の製造開始時、工匠はその法を得ず、中彥は手ずから数寸ばかりの小舟を作り、膠漆を借りずして首尾自ら相鉤帯し、これを「鼓子卯」と称した。諸匠は驚き服さざるはなく、その智巧かくの如し。浮橋用の巨艦が完成し、傍郡の民を発してこれを水に曳かせようとした。中彥は役夫数十人を召集し、地勢を治めて河に順下傾瀉させ、新たな秫秸を密かに地に敷き、さらに大木をその傍らに限り、早朝に霜の滑るに乗じて衆を督してこれを曳かせた。甚だ労力を要せずして諸艦を水に致した。
間もなく平陽に遷った。海陵が宋を伐たんとし、駅伝で召し出して闕に赴かせ、西蜀道行営副都統制を授け、細鎧を賜い、先に散関を取って後命を待たせた。世宗が即位し、赦書が鳳翔に至ると、諸将は惶惑して去就を決し得ず、中彥がこれを諭し、諸将は感悟して詔を受けた。上は中彥を召し入朝させ、軍を統軍の合喜に付した。謁見すると、上は自ら用いる通犀帯を賜い、宗国公に封ぜられた。まもなく吏部尚書となった。上疏して言う、「古えは関市では譏(調べ)て征(税)せず、今は関市を掌る者に征せしめて譲ぜず。行旅を苛め留め、袋や笥を披剔すること掠奪よりも甚だしく、国体を傷つけます。禁止を乞います」。従われた。
一年余りして、南京留守に任ぜられた。当時淮楚で用兵があり、土民と戍兵が雑居し、訴訟の文書が紛紜として、所管の役所は皆依違して決しなかった。中彥は戍兵で盗みを働いた者を得て、悉く法の如く論じた。帥府はその専決を怒り、弾劾して奏上したが、朝廷は置いて問わなかった。任期が満ち、真定尹兼河北西路兵馬都総管に転じた。間もなく致仕し、西帰して京兆に至った。翌年、起用されて臨洮尹兼熙秦路兵馬都総管となった。鞏州の劉海が乱を構え、既に敗れた後、乱に従った民数千人を籍没したが、中彥は首謀者のみを論じて誅戮した。
西羌の吹折・密臧・隴逋・龐拜の四族が険阻を恃んで服さず、侍御史の沙醇之を中彥のもとに遣わして方略を論じさせた。中彥は言う、「この羌は服叛常ならず、もし中彥自ら行かねば、勢い必ず叶わない」。即ち積石の達南寺に至ると、酋長四人が来て、これと降伏を約し、事はついに定まり、賞を与えてこれを遣わした。還って奏上すると、上は大いに喜び、張汝玉を駅伝で馳せさせて労い、球文の金帯を賜い、郊祀の恩典により儀同三司を加えられた。病により官に卒す。年七十五。百姓は哀号して市を廃し、像を立ててこれを祀った。
賛して言う、古来より健将武夫で、その不才なる者は、世の変遷に遭い、売り降りんことを恐れ後れず。これがその常態であり、君子の責めざるところである。酈瓊・徐文がこれである。施宜生は反覆の壬人、李成は盗賊の靡、孔彥舟は漁色親出(みずから好色を極め)、自ら人類を絶つ。また何を責めんや。張中孚・中彥は小恵有りて称すべきものあるも、然れども宋の大臣の子として、父は金に戦没す。金なり斉なり、義は皆不倶戴天の仇なり。金が地を斉に与うれば甘心して斉に臣し、地を宋に帰すれば忍恥して宋に臣し、金がその地を取ればまた比肩して金に臣す。市場に趨くが如く、唯だ利の在る所にあり。この時に当たりて、豈にまた綱常と謂う所を知らんや。ああ。
宇文虚中
虚中は才を恃み軽率で放肆、好んで譏諷し、凡そ女直人を見れば必ず粗野なる者と目し、貴人達官は往々にして積もって平らかならず。虚中は嘗て宮殿の榜署を撰したが、本は皆嘉美の名であった。虚中を憎む者が其の字を擿げて以て朝廷を謗訕するものと為し、ここより媒糵して以て其の罪を成した。六年二月、唐括酬斡の家奴杜天佛留が虚中の謀反を告げ、詔して有司に鞫治せしむるも状無く、乃ち虚中の家の図書を羅織して反具と為す。虚中曰く、「死は吾が分なり。図籍に至っては、南来の士大夫の家々に之れ有り、高士談の図書は尤も我が家より多し、豈に亦た反するや」と。有司は風旨に承順して士談を併せ殺し、今に至るまで之を冤しむ。
士談は字を季默といい、高瓊の後である。宣和末、忻州戸曹参軍となった。朝に入り、官は翰林直学士に至る。虚中・士談は倶に文集が世に行わる。
王倫
王倫は字を正道といい、故宋の宰相王旦の弟王勉の玄孫である。俠邪にして無頼、年四十余にして尚ほ市井の悪少と群れ遊び汴中に在り。天会五年、宋人は倫を仮の刑部侍郎と為し、閣門舎人朱弁と共に通問使を充てた。是の時、方に宋を伐つことを議し、凡そ宋の使者たる倫及び宇文虚中・魏行可・顧縦・張邵等は、皆留めて遣わさず。数年を居るに、倫久しく困し、乃ち和議を唱えて帰らんことを求む。元帥府人をして之に謂わしめて曰く、「此れ江南の情実に非ず、特だ汝自ら此の言を為すのみ」と。倫曰く、「使事指有り、然らずんば何を為して来らんや。惟だ元帥之を察せよ」と。
天会十年、劉豫連年出師するも皆功無く、撻懶は元帥左監軍として南辺を経略し、密かに和議を主とし、乃ち倫を帰らしむ。此れに先立ち、宋は已に使を遣わして和を乞うたが、朝廷未だ之を許さず。倫は康王に見えて和議の事を言うと、康王大いに喜び、倫の官を遷し、併せて其の子弟に官す。宋は方に斉と兵を用い、未だ和すべからず。
明年、宋は倫を端明殿学士・簽書枢密院事と為し、金器千両・銀器万両を進め、復た来りて天水郡王の喪柩及び母韋氏兄弟宗族等を請う。保信軍節度使藍公佐之に副う。是の歳、宗磐・宗雋・撻懶は皆謀反を以て吏に属せられ、熙宗は宗磐・宗雋を誅し、撻懶は属尊なるを以て其の死を赦し、行台尚書省事左丞相と為し、其の兵権を奪う。右副元帥宗弼奏して曰く、「撻懶・宗磐は陰に宋人と交通し、遂に河南・陝西の地を宋人に与えたり」と。会うに撻懶復た謀反を図り、捕えて之を祁州に殺す。倫は上京に至り、有司は詳しく康王の表文を読み、年を書かず、進奉状を閲し、礼物と称して職貢と言わず。上は宰相をして倫を責問せしめて曰く、「汝は但だ元帥の有るを知るのみ、豈に上国の有るを知らんや」と。遂に留めて遣わさず、其の副藍公佐を帰らしむ。
四年、倫を平州路転運使と為す。倫は已に命を受け、復た辞遜す。上曰く、「此れ反復の人なり」と。遂に之を上京に殺す。年六十一。
賛に曰く、孔子云う、「行いに恥有り、四方に使いして君命を辱しめず、士と謂うべし」と。宇文虚中は朝に上京に至り、夕に官爵を受く。王倫は紈袴の子にして、市井を徒と為す。此れ豈に「行いに恥有り」の士、以て専ら使すべき者ならんや。二子の死は冤なれども、其の自ら取る所亦た多し。