金史

列傳第十七:酈瓊・李成・孔彥舟・徐文・施宜生・張中孚・張中彥・宇文虛中・王倫

列傳第十七 ○酈瓊・李成・孔彥舟・徐文・施宜生・張中孚・張中彥・宇文虛中・王倫

酈瓊

酈瓊、字は國寶、相州臨漳の人である。州學生に補せられた。宋の宣和年間、盜賊が起こると、瓊はさらに撃刺や強弓を学び、弓馬を試み、宗澤の軍に隷し、磁州に駐屯した。間もなく帰郷を告げ、義軍七百人を集め、再び宗澤に従い、澤は瓊を七百人長に任じた。澤が死ぬと、滑州の守備に転じた。時に宗望が宋を伐ち、河を渡らんとした。守備軍が乱を起こし、その統制趙世彥を殺し、瓊を主に推した。瓊はそこで衆を誘い、勤王と号し、行くに従い兵を収めた。淮を渡る頃には、衆一万余りを有していた。康王は彼を楚州安撫使・淮南東路兵馬鈐轄とし、累遷して武泰軍承宣使となった。間もなく、率いる所領の歩騎十余万を率いて斉に附き、静難軍節度使を授けられ、拱州の知事となった。斉國が廃されると、博州防禦使とされた。廉潔を用いられ、驃騎上將軍に遷った。宗弼が河南を回復すると、瓊を山東路弩手千戸とし、亳州の事を掌らせた。母の喪に遭い、官を去った。

宗弼が再び江南を伐つに当たり、瓊が元より南方の山川の険易を知っているので、軍に召し寄せて事を計らせた。瓊は従容として同列に語って曰く、「瓊は嘗て大軍に従い南伐し、毎に元帥國王が親しく陣に臨み督戦するのを見る。矢石が交錯する中、王は冑を免れ、三軍を指揮し、意気自若たり。兵を用いて勝を制するは、皆孫子・呉子に合致し、世に命ぜられた雄材と謂うべし。さらに鋒鏑を親しく冒し、進んで難を避けず、将士これを見て、誰か敢えて死を惜しまんや。その向かう所前に敵無きは宜なるかな、日に国を千里開く所以なり。江南の諸帥は、才能中人に及ばず。毎に出兵するに当たり、必ず身を数百里外に置き、これを持重と謂う。あるいは軍旅を督召し、将校を易置するも、僅かに一介の士を以て虚文を持しこれを諭し、これを調発と謂う。敵を制し勝を決するは偏裨に委ね、これをもって智者は解体し、愚者は師を喪う。幸いに一小捷すれば、則ち露布を飛馳し、俘虜の級を増加して己が功と為し、将士の怨みを斂む。仮に親しく臨むも、亦必ず先ず遁る。しかるに国政は綱紀無く、才だ微功あれば、已に厚賞を加え、あるいは大罪有れば、乃ちこれを置いて誅せず。即時に覆亡せざるは、已に天幸と為す、何ぞ能く振起せんや」と。衆はこれを確論と為した。元帥とは、宗弼を謂う。

宗弼が瓊に江南の成敗を問い、誰か敢えて相拒ぐ者あるかと尋ねると、瓊は曰く、「江南の軍勢は怯弱にして、皆敗亡の余り、また良帥無し、何を以て我を禦がん。秦檜が国政を当て事を用いるを頗る聞く。檜は老儒にして、所謂亡国の大夫、兢兢として自ら守り、惟だ顛覆を懼るるのみ。我が大軍を以てこれに臨めば、彼の君臣、方に心破れ胆裂け、将に哀鳴する暇無からん、蓋し傷弓の鳥は虚弦を以て下すべし」と。既にして江南果たして臣を称し、宗弼は瓊が言を知るを喜んだ。

初め、瓊が亳を去って間もなく、宋兵はこれを陥としたが守らず、再び棄て去り、乃ち州人宋超を以てこれを守らせた。大軍が至ると、超は再び州事をその鈐轄衛経に委ねて遁去した。帥府は人を遣わして経を招くも、経は下らなかった。城が潰えると、百姓は惶懼して命を待つ。瓊は元帥に請うて曰く、「城の下らざるは、凶豎がこれを劫かすによる。民に何の罪か有らん、願わくはこれを慰安せられん」と。元帥は瓊が先に嘗て亳を守ったことを以て、そこで経を戮するを止めてその州人を釈し、再び瓊に命じて亳を守らせた。凡そ六年、亳人はこれを徳とした。武寧軍節度使に遷る。八年、泰寧軍節度使となる。九年、帰徳尹に遷る。貞元元年、金紫光禄大夫を加えられ、官にて卒す。年五十。

李成

李成、字は伯友、雄州帰信の人である。勇力絶倫にして、三百斤の弓を引くことができた。宋の宣和初め、弓手を試み、強弓を引いて異等となる。累官して淮南招捉使となった。成は乃ち衆を聚めて盗賊と為し、江南を鈔掠し、宋は兵を遣わしてこれを破り、成は遂に斉に帰し、累除して開徳府の知事となり、大軍に従い宋を伐った。斉が廃されると、再び除されて安武軍節度使となった。

成は降附した諸将の中で最も勇猛で、号令甚だ厳しく、衆敢えて犯す者無し。陣に臨んでは身を諸将に先んず。士卒未だ食せざれば先に食せず、病ある者は親しくこれを視る。雨具を持たず、たとえ濡れても自ら平然たり。成の謀反を告げる者ありしも、宗弼はその誣を察し、成に自ら治めさせ、成は杖罰してこれを釈し、その不校この如し。これをもって士卒は用いられるを楽とし、至る所克捷した。

宗弼が再び河南を取るに当たり、宋の李興が河南府を占拠した。成は軍を率いて孟津に入る。興は衆を率いて城に迫り、鼓噪して戦を請うたが、成は応じなかった。日が西に傾き、興の士卒は倦み且つ飢えると、成は門を開いて急撃し、これを大破した。興は漢南に走り、成は遂に洛陽らくよう・嵩・汝等を取った。河南が平定されると、宗弼は成を河南尹とし、都管押本路兵馬に奏した。嘗て官の羨粟を取って公費に充てた罪で、両官を奪われ、解職された。正隆年間、起用されて真定尹となり、郡王に封ぜられ、例に従い済国公に封ぜられた。卒す。年六十九。

孔彥舟

孔彥舟、字は巨済、相州林慮の人である。無頼にして、生業に事えず、罪を避けて汴に至り、軍中に籍を占めた。事に坐して獄に繋がれ、守者を説いてその縛を解かせ、夜に乗じて城を逾えて遁去した。已にして人を殺し、亡命して盗賊と為った。宋の靖康初め、募に応じ、累官して京東西路兵馬鈐轄となった。大軍が将に山東に至らんとするを聞き、遂に率いる所部を以て、居民を劫殺し、廬舎を焼き、財物を掠め、河を渡り南去した。宋人は再びこれを招き、沿江招捉使と為した。彥舟は暴横にして、約束に奉ぜず、宋人は兵を以てこれを執らんとし、彥舟は斉に走り、劉麟に従い宋を伐ち、行軍都統となり、行営左総管に改めた。

斉國が廃されると、累官して淄州の知事となった。宗弼に従い河南を取り、鄭州を克ち、その守劉政を擒にし、登封において孟邦傑を破り、鄭州防禦使を授けられた。太行の車轅嶺の賊を討平した。江南征伐に従い、淮を渡り、孫暉の兵万余りを破り、安豊・霍丘を下す。及び濠州を攻むるに、彥舟を先鋒と為し、流れに順って城に迫り、その水軍統制邵青を擒にし、遂に濠州を克った。師が還ると、累官して工部・兵部尚書、河南尹となり、広平郡王に封ぜられた。正隆の例により金紫光禄大夫に降格され、西京留守に改められた。

彦舟は色欲に耽り、禽獣の行いがあった。妾が生んだ娘は容姿美麗であったが、彦舟はその母を苦しめて虐待し、自らが己の娘ではないと陳述させ、遂にこれを妾として納れた。その官属が官銭を負い、その妻と私通して証文を破棄した。ただ濠州を陥落させた時、諸軍は捕虜を皆殺しにしたが、彦舟は号令して妄りに殺すなとし、免れた者は数千人に及び、人々はこれを以て彼を称えることが多かった。しかし幼少より老いに至るまで常に行伍に在り、兵事に習熟し、利鈍を知っていた。海陵王は彼を征南の将佐にしようとし、正隆五年、南京留守に任じた。

彦舟が病に罹ると、朝臣の中に彦舟の死を伝える者がいたが、彦舟は尚無事であった。海陵王は彦舟の死を妄りに伝えた者を尽く杖罰し、以て彼を激励した。間もなく遂に汴で死去した。享年五十五。遺表に「宋を伐つには先ず淮南を取るべし」と云う。

徐文

徐文、字は彦武、萊州掖県の人、膠水に移住した。若い時は塩の密売を業とし、瀕海の数州を往来し、剛勇で気概を尊び、同輩は皆彼を畏れた。宋末に盗賊が蜂起すると、戦士を募集し、密州板橋左十将となった。勇力は人に過ぎ、重さ五十斤の巨刀を揮い、向かう所前に敵なく、人は「徐大刀」と呼んだ。後に王龍図の麾下に隷属し、夏人と戦い、一将を生け捕りにし、進武校尉こういに補された。東還し、群賊の楊進等を破り、承信郎に転じた。

宋の康王が江を渡ると、文を召して枢密院準備将とし、苗傅及び韓世績を擒らえ、功により淮東・浙西・沿海水軍都統制に遷った。諸将はその材勇を妬んだ。この時、李成・孔彦舟は皆斉に帰順し、宋人もまた文に北帰の志有りと疑い、大将の閻皋は文と隙有り、これに因って讒言した。宋は統制の硃師敏を使わして文を襲撃させたので、文は戦艦数十艘を率いて海を渡り斉に帰順した。斉は文を海・密二州滄海都招捉使兼水軍統制とし、海道副都統兼海道総管に遷し、金帯を賜った。文は策を以て劉に干し、海道より臨安を襲わんと欲したが、豫は用いなかった。斉国が廃されると、元帥府は制を承けて文を南京歩軍都虞候とし、権馬歩軍都指揮使を兼ねさせた。天眷元年、太行の賊梁小哥を破り、本職のまま水軍統制を兼ねた。朝廷が河南を宋に与えると、文は山東路兵馬鈐轄に任じられた。

宗弼が再び河南を取ると、文は濮陽で宋将の李宝を、登封で孟邦傑を破った。宋の蒋知軍が河陽を占拠すると、文は夜明け前にその城下に至り、別将に城の東北を攻めさせ、自ら精鋭を将いて潜師して南門を襲った。城中は衆を悉くして東北を救い、文は乃ち南門より関を斬って城に入った。宋軍は潰走し、追撃してこれを破った。汝州において郭清・郭遠を破った。鄭州が叛くと、再びこれを取り、宋将の戚方を撃退した。河南が既に平定されると、宗弼は将士を労い賞し、文に銀幣鞍馬を賞した。行軍万戸を充て、宗弼に従って廬・濠等州を取り、武義将軍に超格転任した。済州知州となり、在職七年、泰安軍知軍に移った。海陵王が即位すると、旧功を録し、累遷して中都兵馬都指揮使となり、金帯を賜い、浚州防禦使に改めた。間もなく、海陵王が宋征伐を謀り、行都水監に改め、通州において戦船を監造させた。

東海県の徐元・張旺が乱を起こし、県人の房真等三人が海州に、及び総管府に走り、変事を上告した。州・府は皆使者を遣わし、真等に随って東海に赴き賊の形勢を観察させたが、皆賊に害された。州・府は兵を合わせてこれを攻めたが、累月下らなかった。海陵王は且つ宋を伐たんと欲し、この事を聞くのを厭い、詔して文と歩軍指揮使の張弘信・同知大興尹の李惟忠・宿直将軍の蕭阿窊に舟師九百を率い海を渡って討伐させ、文等に謂って曰く「朕の意は一邑に在らず、将に舟師を試さんとするのみ」と。文等は東海に至り、賊と戦い、これを破り、首級五千余を斬り、徐元・張旺を獲、余衆は降を請うた。この役に、張弘信は萊州に行き至り、疾有りと称して留まり止まり、日々妓楽と酒を飲んだ。海陵王はこれを聞き、師が還ると、弘信を二百回杖罰した。文は定海軍節度使に遷った。房真三人には官賞に差等有り。賊に死した者は皆官三級を贈り、銀百両・絹百匹を以てその家に賜った。

大定二年、闕下に詣で自ら老いて目が昏いと陳述し、懇ろに致仕を求めた。これを許した。覃恩により龍虎衛上将軍に遷り、家で卒した。

施宜生

施宜生、字は明望、邵武の人である。博聞強記、弱冠に至らず、郷貢より太学に入る。宋の政和四年、上舎第に擢でられ、学官を試みられ、潁州教授を授かった。及んで王師が汴に入ると、宜生は江南に走った。再び罪により北走して斉に至り、上書して宋を取るの策を陳べ、斉は大総管府議事官とした。劉麟に失意し、左遷されて彰信軍節度判官となった。斉国が廃されると、太常博士に擢でられ、殿中侍御史に遷り、転じて尚書吏部員外郎となり、本部郎中となった。尋いで礼部に改め、出て隰州刺史となった。天徳二年、参知政事張浩の推薦により宜生が顧問に備え得るとし、海陵王は召して翰林直学士とし、『太師梁王宗弼墓銘』を撰し、官二階を進めた。正隆元年、出て深州知州となり、召されて尚書礼部侍郎となり、翰林侍講学士に遷った。

四年冬、宋国正旦使となった。宜生は自ら罪を得て北走したことを以て、宋人に会うのを恥じ、力辞したが、許されなかった。宋は張燾を命じて都亭に館させ、機会を窺って首丘の風を以てほのめかした。宜生はその介(副使)が傍に居ないのを顧み、廋辞(隠語)を為して曰く「今日は北風甚だ勁し」と。又几上の筆を取って叩きながら曰く「筆来たれ、筆来たれ」と。ここに於いて宋は始めて警戒した。その副使の耶律辟離剌が使いより還りこれを聞かせたため、この罪に坐して烹殺の刑に処せられた。

初め、宜生は場屋(科挙の試場)に困窮し、風鑒に善い僧に遇い、之に謂って曰く「子の面に権骨有り、公たり卿たりすべし。而して子の身の毛を視るに、皆逆上し、且つ腕を覆う、必ず此れに合する所以有りて後に貴ぶべし」と。宜生は其の言を聞き、大いに喜び、竟に范汝為に従って建・劍に在った。已にして汝為が敗れると、衣服を変えて傭となり泰の呉翁の家に三年いた。翁は之を異とし、一日人を屏いて其の姓名を詰ると、宜生曰く「我は傭事に服し謹み惟るのみ、主人乃ち亦疑いを置くや」と。翁固より之を詰ると、則ち其の故を請う。翁曰く「日者客を燕するに、執事皆餕(残り物を食う)す、而して汝独り諸儕に孫(遜る)し、且つ器を撤するに歎声有り、是を以て汝が真の傭に非ざるを識るなり」と。宜生は遂に故を告げた。翁は之に金を贐(餞別)し、夜に淮を渡って帰った。『一日獲熊三十六賦』を試みられ第一に擢でられ、其の後竟に僧の言の如くになった。

張中孚

張中孚、字は信甫、其の先祖は安定より張義堡に徙居した。父の達は、宋に仕えて太師に至り、慶国公に封ぜられた。中孚は父の任により承節郎に補された。宗翰が太原を囲むと、其の父は戦没し、中孚は泣涕して父の屍を尋ねることを請い、乃ち独り部曲十余りを率いて大軍の中に入り、竟に其の屍を得て還った。累官して鎮戎軍知軍兼安撫使となり、屡々呉玠・張浚に従って兵を以て大軍に抗した。浚がしょくはしょくに走ると、中孚は権帥事となった。天会八年、睿宗が左副元帥として涇州に次すと、中孚は其の将吏を率いて来降し、睿宗は之を鎮洮軍節度使渭州知州とし、兼ねて涇原路経略安撫使とした。

斉国が建てられ、什一法をもって民田を調査し、壮丁を登録して郷軍とした。中孚は、涇原の地は痩せて良田がなく、かつ保甲の法はすでに慣行されており、今急に変更すれば、人は必ず逃散し、その害を見るのみで利は見られないと考えた。ついにこれを執行しなかった。当時斉の政令は甚だ急峻で、敢えて違う者なく、人は中孚の身を危ぶんだが、中孚はこれを顧みなかった。間もなく斉国は廃され、一路のみが搾取の禍を免れた。

天眷初年、陝西諸路節制使・京兆府知事となり、朝廷が江南に地を賜うと、中孚はついに宋に入った。宗弼が再び河南・陝西を平定し、宋人に移文して中孚を帰還させた。汴に至り、行台兵部尚書に就任し、参知行台尚書省事に転じた。翌年、参知政事に任ぜられた。貞元元年、尚書左丞に遷り、南陽郡王に封ぜられた。三年、病を理由に老齢を告げ、済南尹となり、開府儀同三司を加えられ、宿王に封ぜられた。南京留守に移り、さらに崇王に進封された。卒去、年五十九、鄧王を加贈された。

中孚は天性孝友剛毅であり、弟中彥と同居して、未だかつて不和の言葉がなかった。読書を好み、頗る書翰を能くした。その士卒を統御するは厳にして恩あり、西人は特に畏れ愛した。葬儀の日、老幼柩を扶けて流涕する者数万人に及び、市を罷めるに至った。その西人の望みを得ることかくの如し。正隆の例により崇進・原国公に封ぜられた。

張中彥

張中彥、字は才甫、中孚の弟。若くして父の任により宋に仕え、涇原副将・徳順軍知事となった。睿宗が陝西を経略するに及び、中彥は降り、招撫使に任ぜられた。熙州・河州・階州・成州を下すに従い、彰武軍承宣使を授けられ、本路兵馬鈐轄となり、都総管に遷った。

宋の将関師古が鞏州を包囲すると、秦鳳の李彥琦と兵を合わせてこれを攻撃した。王師が饒風関を下し、金州・洋州等の諸州を得ると、中彥に興元尹を領させ、新たに帰附した者を撫慰した。軍が還ると、彥琦に代わって秦鳳経略使となった。秦州は要衝に当たるが城は守れず、中彥は治所を北山に移し、険阻に因って塁を築いた。これが今の秦州である。臘家等の諸城を築き、蜀への道を扼した。秦を統帥すること凡そ十年、涇原路経略使・平涼府知事に改めた。

朝廷が河南・陝西を宋に賜うと、中孚は官守として例により関中に留まるべきであった。熙河経略使慕洧が夏に入ろうと謀り、関中・陝西を窺わんとしたので、中彥は環慶の趙彬と両路の兵を合わせてこれを討ち、慕洧は敗れて夏に入った。中彥は兄中孚とともに臨安に至り、留め置かれ、龍神衛四廂都指揮使・清遠軍承宣使・提挙佑神観・靖海軍節度使とされた。

皇統初年、河南が回復され、詔して中彥兄弟を北帰させ、静難軍節度使とし、彰化軍・鳳翔尹を歴任し、慶陽尹に改め、慶原路兵馬都総管・寧州刺史を兼ねた。宗室の宗淵が僚佐の梁鬱を毆打死させた。梁鬱は遠方の出身で、家が貧しく訴え出る者がいなかった。中彥は力を尽くしてその罪を正し、ついに法に置いた。彰徳軍節度使に改まり、賦調法を均しくし、奸豪は隠匿する所なく、人はその明察に服した。

正隆年間、汴京新宮を営むに当たり、中彥は関中の材木を採運した。青峰山に巨木が最も多かったが、高深にして阻絶し、唐・宋以来致すことができなかった。中彥は崖を構え壑に橋を架け、十数里の長橋を起こし、車で木材を運び、平地を行くが如くし、六盤山の水洛への路を開き、ついに汴梁に通じた。翌年、河上に浮橋を作り、再びその役を統領した。舟の製造開始時、工匠はその法を得ず、中彥は手ずから数寸ばかりの小舟を作り、膠漆を借りずして首尾自ら相鉤帯し、これを「鼓子卯」と称した。諸匠は驚き服さざるはなく、その智巧かくの如し。浮橋用の巨艦が完成し、傍郡の民を発してこれを水に曳かせようとした。中彥は役夫数十人を召集し、地勢を治めて河に順下傾瀉させ、新たな秫秸を密かに地に敷き、さらに大木をその傍らに限り、早朝に霜の滑るに乗じて衆を督してこれを曳かせた。甚だ労力を要せずして諸艦を水に致した。

間もなく平陽に遷った。海陵が宋を伐たんとし、駅伝で召し出して闕に赴かせ、西蜀道行営副都統制を授け、細鎧を賜い、先に散関を取って後命を待たせた。世宗が即位し、赦書が鳳翔に至ると、諸将は惶惑して去就を決し得ず、中彥がこれを諭し、諸将は感悟して詔を受けた。上は中彥を召し入朝させ、軍を統軍の合喜に付した。謁見すると、上は自ら用いる通犀帯を賜い、宗国公に封ぜられた。まもなく吏部尚書となった。上疏して言う、「古えは関市では譏(調べ)て征(税)せず、今は関市を掌る者に征せしめて譲ぜず。行旅を苛め留め、袋や笥を披剔すること掠奪よりも甚だしく、国体を傷つけます。禁止を乞います」。従われた。

一年余りして、南京留守に任ぜられた。当時淮楚で用兵があり、土民と戍兵が雑居し、訴訟の文書が紛紜として、所管の役所は皆依違して決しなかった。中彥は戍兵で盗みを働いた者を得て、悉く法の如く論じた。帥府はその専決を怒り、弾劾して奏上したが、朝廷は置いて問わなかった。任期が満ち、真定尹兼河北西路兵馬都総管に転じた。間もなく致仕し、西帰して京兆に至った。翌年、起用されて臨洮尹兼熙秦路兵馬都総管となった。鞏州の劉海が乱を構え、既に敗れた後、乱に従った民数千人を籍没したが、中彥は首謀者のみを論じて誅戮した。

西羌の吹折・密臧・隴逋・龐拜の四族が険阻を恃んで服さず、侍御史の沙醇之を中彥のもとに遣わして方略を論じさせた。中彥は言う、「この羌は服叛常ならず、もし中彥自ら行かねば、勢い必ず叶わない」。即ち積石の達南寺に至ると、酋長四人が来て、これと降伏を約し、事はついに定まり、賞を与えてこれを遣わした。還って奏上すると、上は大いに喜び、張汝玉を駅伝で馳せさせて労い、球文の金帯を賜い、郊祀の恩典により儀同三司を加えられた。病により官に卒す。年七十五。百姓は哀号して市を廃し、像を立ててこれを祀った。

賛して言う、古来より健将武夫で、その不才なる者は、世の変遷に遭い、売り降りんことを恐れ後れず。これがその常態であり、君子の責めざるところである。酈瓊・徐文がこれである。施宜生は反覆の壬人、李成は盗賊のたぐい、孔彥舟は漁色親出(みずから好色を極め)、自ら人類を絶つ。また何を責めんや。張中孚・中彥は小恵有りて称すべきものあるも、然れども宋の大臣の子として、父は金に戦没す。金なり斉なり、義は皆不倶戴天の仇なり。金が地を斉に与うれば甘心して斉に臣し、地を宋に帰すれば忍恥して宋に臣し、金がその地を取ればまた比肩して金に臣す。市場に趨くが如く、唯だ利の在る所にあり。この時に当たりて、豈にまた綱常と謂う所を知らんや。ああ。

宇文虚中

宇文虚中、字は叔通、蜀の人。初め宋に仕え、累官して資政殿大学士となった。天会四年、宋の少帝が既に盟を結んだが、宗望が軍を班し孟陽に至ると、宋の姚平仲が夜乗じて来襲し、明日また進兵して汴を包囲した。少帝は虚中を宗望の軍に詣らせ、襲撃の兵は皆将帥の自ら為すところであると告げさせ、また和議を初めの如く請わせ、かつ康王の安否を視させた。間もなく、台諫が和議の罪を虚中に帰し、青州に罷免し、さらに祠職に左遷した。建炎元年、韶州に貶せられた。二年、康王が奉使に堪えうる者を求めると、虚中は貶謫の中より詔に応じ、再び資政殿大学士となり、祈請使となった。この時、兵を興して宋を伐ち、既に王倫・朱弁を留めて遣わさず、虚中もまた留め置かれた。実に天会六年である。朝廷は礼制度を議しており、頗る虚中の才芸を愛し、官爵を加えると、虚中は即ちこれを受け、韓昉らとともに詞命を掌った。翌年、洪皓が上京に至り、虚中に会い、甚だこれを鄙んだ。

天会十三年、熙宗が即位した。宗翰は太保となり三省事を領し、晋国王に封ぜられ、致仕を乞うた。批答は許さず、その文は虚中の作である。天眷年間、累官して翰林学士知制誥兼太常卿となり、河内郡開国公に封ぜられた。『太祖睿徳神功碑』を書き、階を進めて金紫光禄大夫となった。皇統二年、宋人が和を請い、その誓表に曰く、「従来流移して南に在る者、官に陳説し、自ら帰らんことを願う者は、更に禁止せず。上国の弊邑に対するも、亦た併せて此の約を用いることを乞う」と。ここにおいて、詔して尚書省に宋国に移文せしめ、張中孚・張中彦・鄭億年・杜充・張孝純・宇文虚中・王進の家屬を理索し、李正民・畢良史を発遣して宋に還し、惟だ孟庾の去留は其の欲する所に聴かしむ。時に虚中の子師瑗は宋に仕え、転運判官に至り、家を携えて北来した。四年、承旨に転じ、特進を加えられた。礼部尚書に遷り、承旨はもとの如し。

虚中は才を恃み軽率で放肆、好んで譏諷し、凡そ女直人を見れば必ず粗野なる者と目し、貴人達官は往々にして積もって平らかならず。虚中は嘗て宮殿の榜署を撰したが、本は皆嘉美の名であった。虚中を憎む者が其の字を擿げて以て朝廷を謗訕するものと為し、ここより媒糵して以て其の罪を成した。六年二月、唐括酬斡の家奴杜天佛留が虚中の謀反を告げ、詔して有司に鞫治せしむるも状無く、乃ち虚中の家の図書を羅織して反具と為す。虚中曰く、「死は吾が分なり。図籍に至っては、南来の士大夫の家々に之れ有り、高士談の図書は尤も我が家より多し、豈に亦た反するや」と。有司は風旨に承順して士談を併せ殺し、今に至るまで之を冤しむ。

士談は字を季默といい、高瓊の後である。宣和末、忻州戸曹参そうしん軍となった。朝に入り、官は翰林直学士に至る。虚中・士談は倶に文集が世に行わる。

王倫

王倫は字を正道といい、故宋の宰相王旦の弟王勉の玄孫である。俠邪にして無頼、年四十余にして尚ほ市井の悪少と群れ遊び汴中に在り。天会五年、宋人は倫を仮の刑部侍郎と為し、閣門舎人朱弁と共に通問使を充てた。是の時、方に宋を伐つことを議し、凡そ宋の使者たる倫及び宇文虚中・魏行可・顧縦・張邵等は、皆留めて遣わさず。数年を居るに、倫久しく困し、乃ち和議を唱えて帰らんことを求む。元帥府人をして之に謂わしめて曰く、「此れ江南の情実に非ず、特だ汝自ら此の言を為すのみ」と。倫曰く、「使事指有り、然らずんば何を為して来らんや。惟だ元帥之を察せよ」と。

天会十年、劉豫連年出師するも皆功無く、撻懶は元帥左監軍として南辺を経略し、密かに和議を主とし、乃ち倫を帰らしむ。此れに先立ち、宋は已に使を遣わして和を乞うたが、朝廷未だ之を許さず。倫は康王に見えて和議の事を言うと、康王大いに喜び、倫の官を遷し、併せて其の子弟に官す。宋は方に斉と兵を用い、未だ和すべからず。

天会十五年、康王は天水郡王の已に薨じたるを聞き、倫を以て仮の直学士として来り其の喪を請わしめ、倫をして撻懶に請わしめて曰く、「河南の地、上国既に自ら有せず、其れ劉豫に封ずるに、何ぞ趙氏に帰せんや」と。是の歳、劉豫封を受くる已に八年、自立して其の国を保つ能わず、尚ほ屯戍に勤しむ。朝廷其の無能なるを厭い、乃ち劉豫を廃す。撻懶は左副元帥として汴京を守り、ここにおいて倫適時に至る。撻懶は太祖の従父兄弟にして、熙宗に対しては祖の行である。太宗の長子宗磐は太師として三省事を領し、位は宗幹の上に在り。宗翰は薨じて已久しく、宗幹は宗磐に独り抗し能わず。明年、天眷元年、撻懶は東京留守宗雋と倶に朝に入り、熙宗は宗雋を左丞相と為す。宗雋は太祖の子なり。撻懶・宗磐・宗雋の三人は皆跋扈にして利を嗜み、陰に異図有り、遂に合議して以て斉の地を宋に与えんとす。宗幹以下之を争うも能わず。侍郎張通古を以て詔諭江南使と為し、倫を先に帰らしむ。

明年、宋は倫を端明殿学士・簽書枢密院事と為し、金器千両・銀器万両を進め、復た来りて天水郡王の喪柩及び母韋氏兄弟宗族等を請う。保信軍節度使藍公佐之に副う。是の歳、宗磐・宗雋・撻懶は皆謀反を以て吏に属せられ、熙宗は宗磐・宗雋を誅し、撻懶は属尊なるを以て其の死を赦し、行台尚書省事左丞相と為し、其の兵権を奪う。右副元帥宗弼奏して曰く、「撻懶・宗磐は陰に宋人と交通し、遂に河南・陝西の地を宋人に与えたり」と。会うに撻懶復た謀反を図り、捕えて之を祁州に殺す。倫は上京に至り、有司は詳しく康王の表文を読み、年を書かず、進奉状を閲し、礼物と称して職貢と言わず。上は宰相をして倫を責問せしめて曰く、「汝は但だ元帥の有るを知るのみ、豈に上国の有るを知らんや」と。遂に留めて遣わさず、其の副藍公佐を帰らしむ。

三年五月、宗弼は復た河南・陝西の地を取り、遂に江南を伐ち、已に淮を渡る。皇統元年、宋人は和を請う。二年二月、宋の端明殿学士何鑄・容州観察使曹勳が誓表を進む。三月、左副点検賽裏・山東西路都転運使劉祹を遣わして天水郡王の喪柩及び宋帝の母韋氏を江南に送還す。五月、李正明・畢良史は南帰す。七月、朱弁・張邵・洪皓は南帰す。

四年、倫を平州路転運使と為す。倫は已に命を受け、復た辞遜す。上曰く、「此れ反復の人なり」と。遂に之を上京に殺す。年六十一。

賛に曰く、孔子云う、「行いに恥有り、四方に使いして君命を辱しめず、士と謂うべし」と。宇文虚中は朝に上京に至り、夕に官爵を受く。王倫は紈袴の子にして、市井を徒と為す。此れ豈に「行いに恥有り」の士、以て専ら使すべき者ならんや。二子の死は冤なれども、其の自ら取る所亦た多し。