劉彥宗
劉彥宗、字は魯開、大興宛平の人である。遠祖の怦は、唐の盧龍節度使であった。石晉が幽・薊を遼に割譲して以来、劉氏は六代にわたり遼に仕え、相継いで宰相となった。父の霄は、中京留守に至った。彥宗は進士乙科に擢第した。天祚帝が天徳に逃れた時、秦晉國王耶律捏裏が燕で自立し、彥宗を留守判官に抜擢した。蕭妃が摂政すると、簽書樞密院事に遷った。太祖が居庸関に至ると、蕭妃は古北口から遁走し、都監の高六が太祖に降伏を申し出た。太祖が急に到着し、城南に駐蹕すると、彥宗は左企弓らと共に降表を奉って降った。太祖は一目見て、その器量を重んじて遇し、旧職に復させ、左僕射に遷し、金牌を佩かせた。
張覚が南京留守となった時、太祖は張覚に異志あることを聞き、彥宗と斜缽をして慰撫させた。太祖が鴛鴦濼に至り、病に罹り、上京に還るに当たり、宗翰を留めて軍事を都統させ、彥宗を留めてこれを補佐させた。張覚が敗れて宋に奔ると、衆は張敦固を推して都統とし、使者を殺し、城に乗じて拒守したので、攻撃しても下すことができなかった。彥宗は同中書門下平章事、知樞密院事となり、侍中を加えられ、宗望の軍を補佐した。宗望が奏上して、攻取を図るに当たり、凡そ州県の事は彥宗に委ねて裁決させた。
子 萼
子 筈
筈は、彥宗の次子である。幼時に蔭により閣門に隷したが、就かず、去って学に従った。遼末に兵を調発した時、筈は選中にあった。遼兵が敗れ、左右多く散亡したので、乃ち筈を選んで扈従とし、左承制を授けた。遼主が西奔し、蕭妃が摂政すると、筈に進士第を賜り、尚書左司員外郎を授け、寄班閣門とした。
天輔七年、太祖が燕を取ると、筈はその父兄に従って出降し、尚書左司郎中に遷った。八年、殿中少監を授かった。太祖が崩じ、宋・夏が使者を遣わして弔慰した時、凡そ館見の礼儀は皆筈が詳定した。衛尉少卿に遷り、西上閣門使を授かり、仍って元帥府に従事した。元帥府は便宜を以て事を行い、凡そ約束の廃置及び四方の号令は多く筈の画策に従った。
六年、行台尚書右丞相となり、左宣徽使事を兼ねて判じ、京師に留まる。ある者が河南の官吏の濫雑なる者を厘革せんことを請うたが、筈は言う、「廃斉は江表に兵を用い、一切の近効を求め、その用いる人は必ずしも皆章程によるにあらず、故に科目によらずして大吏となり、弓馬を試みずして兵柄を握る者有り。今撫定して未だ久しからず、姑く人心を収むるのみ、奈何ぞ是の紛更を為さんや」と。遂にその旧を仍る。
七年、帥府が館陶に三城を築くことを議し、警有れば即ち北軍をして入居せしめんとす。筈は言う、「今天下一家、孰れか南北を為さん。設い或いは変有らば、軍人城に入り、独り能く安からんや。武備を厳にして以て奸を察すべし、彼此の間を示すこと無かれ」と。その後、竟に筈の議に従う。初め、河外の三州を以て夏人に賜う。或いは言う、夏に在る秦の人数千人、皆来帰を願うと。諸将これを約せんことを請う。筈は言う、「三小州は軽重を為すに足らず、恐らくは朝廷の大信を失わん。且つ蜀に在る秦人は此れに倍して多し、何ぞ独り彼を捨てて此れを取らんや」と。遂に筈の議に従う。陝西の辺帥が沿辺の城郭を完うして以て南寇に備えんことを請う。筈は言う、「我は車騎に利ありて城守に利あらず。今これを城すは、則ち民を労して怨を結ぶ。況んや盟已に定まれり、豈に妄りに動かんや」と。遂にこれを罷む。
子 仲誨
礼部侍郎兼左諭徳として入り、太子詹事兼左諫議大夫に遷る。上曰く、「東宮の官属は、尤も正人を選用すべし。行検修まらず及び位に称せざる者あれば、具に名を以て聞かしめよ」と。又曰く、「東宮に書を講じ或いは論議する間、当に孝倹德行正身の事を以て之に告ぐべし」と。頃くして、東宮より牧人及び張設什用を増さんことを請う。上仲誨に謂いて曰く、「太子は富貴に生る、毎に之に恭倹を教う。朕服禦未だ嘗て妄りに増益有らず。卿此の意を以て之を諭せよ」と。御史中丞に改む。
十四年、宋国歳元使となる。宋主、親しく起ちて書を接するの儀を変えんと欲し、館伴王抃を遣わして来り議す。曲弁強説し、必ず従わしめんと要せんとす。仲誨曰く、「使臣命を奉じ遠来し好を修むるは、固より礼を成さんと欲す。而して信約の載する所は、使臣輒ち敢えて変更すべからず。公等宋国の腹心、一時の僥倖を為すこと無かれ、大国の歓を失うことなかれ」と。往復再三、竟に旧儀を用い、親しく起ちて書を接し礼を成して還る。
再び太子詹事となり、吏部尚書に遷り、太子少師兼御史中丞に転ず。大長公主の事を糾挙するを失うに坐し、侍御史李瑜と各々一階を削らる。仲誨前後東宮の官と為ること且つ十五年、多く規戒を進む。顕宗特に礼敬を加う。大定十九年、卒す。
仲誨は朝に立ちて峻整、容色荘重たり。世宗嘗て曰く、「朕劉仲誨を見るに、嘗て将に切諫せんとする者の若し」と。其の剛厳を以て知らるること此の如し。
劉頍
時立愛
時立愛、字は昌寿、涿州新城の人。父は承謙、財を以て郷里に雄たり。歳饑えて倉廩を発し貧乏を賑い、仮貸する者に之に折券を与う。遼の太康九年、進士第に中り、泰州幕官に調ず。父憂に服す。服除けて、同知春州事に調ず。未だ年を逾えずして、雲内県令に遷り、再び文徳令を除せらる。枢密院選びて吏房副都承旨と為し、都承旨に転ず。累遷して御史中丞となり、剛正敢言、権貴に忤う。燕京副留守を除せられ、母憂に服す。起復して旧職に就き、遼興軍節度使兼漢軍都統に遷る。
太祖が既に燕京を平定した後、平州の人韓詢を訪ね求めて詔を持たせ、平州を招諭させた。この時、奚王回離保は盧能嶺におり、時立愛は直ちに朝見することを敢えず、先に人を遣わして帰順の意を伝えさせて言うには、「民情は愚かで固執しており、直ちに従うことはできません。どうか寛大な恩恵を降し、不安な者を慰撫して下さい」と。詔して言うには、「朕は親しく西土を巡り、全燕を平定した。号令の及ぶ所、城邑は皆降った。忠誠の帰順を嘉し、特に優れた恩恵を示す。そちらの大小官員は皆旧職に充てるべきであり、諸囚禁配隸の者は皆釈放せよ」と。この時、遼帝は尚天徳におり、平州は降ったとはいえ、民心は未だ固まっていなかった。奚王回離保の軍は所在で保聚し、薊州は降った後また叛いた。民間に流言があり、「金人の下した城邑は、始めは存撫するが、後には俘掠する」と言う。時立愛は開諭したが信じようとせず、乃ち上表して言うには、「明詔を下し、官を遣わして郡邑を分行させ、徳義を宣諭されることを乞います。他日、兵が宋に臨む時、順う者はこれを撫し、逆らう者はこれを討てば、兵は労せずして天下は定まるでしょう」と。上は表を覧てこれを嘉し、詔で答えて言うには、「卿は始め吏民を率いて帰附し、また利害を条陳したが、悉く朕の意に合致する。嘉賞して忘れない。山西の部族は遼主が未だ捕らえられていないため、ひそかに連結することを恐れ、故に嶺東に遷置した。西京の人民は既に異望がなく、皆按堵として故の如し。あるいは将卒の貪婪で悍猛な者が、紀律を冒犯し、降人を掠奪する者がある。既に諸部及び軍帥に諭し、兵士を約束させ、秋毫でも犯す者は必ず刑し赦さない。今、斡羅阿裏等を卿の副貳として遣わし、この民を撫せしめる。その部に告諭して、朕の意を知らしめよ」と。
その後、平州を南京とし、張覚を用いて留守と為したので、時立愛は遂に平州を去った。そして張覚は燕京人の東徙に乗じ、その衆が怨望したため、遂に叛いて宋に入った。立愛は平州を去って郷里に帰った後、太祖が燕・薊を宋に与えたので、新城は宋に入った。宋は累次詔を下して立愛を召したが、立愛は宋の政が日に日に壊れていくのを見て、起ち上がろうとせず、その宗族に仕官を求めることを禁じた。
宗望が再び燕山を取ると、立愛は幕府に詣でて上謁し、同中書門下平章事に拝され、その子・甥数人を任官させた。立愛は宗望の軍に数年従い、謀画が多い功績であった。陳国公に封ぜられた。表を上って機務の解任を求めたが、聞き入れられなかった。天会九年、侍中・知枢密院事となった。久しくして、中書令を加えられた。天会十五年、致仕し、開府儀同三司・鄭国公を加えられた。家で薨じ、八十二歳であった。賻贈として銭・布・繒帛を差等を付けて賜った。詔して同簽書燕京枢密院事趙慶に喪事を襲護させ、葬儀の費用は全て官から給された。
韓企先
韓企先は燕京の人である。九世の祖知古は遼に仕えて中書令となり、柳城に移り住み、代々貴顕であった。乾統年間、企先は進士第に及第したが、回翔して振るわなかった。都統杲が中京を平定すると、枢密副都承旨に抜擢され、次第に転運使に遷った。宗翰が都統として山西を経略した時、表上して西京留守に署任させた。天会六年、劉彥宗が薨じると、企先がこれを代わり、同中書門下平章事・知枢密院事となった。七年、尚書左僕射兼侍中に遷り、楚国公に封ぜられた。
初め、太祖が燕京を平定した時、始めて漢人官の宰相として左企弓等を賞用し、広寧府に中書省・枢密院を置いたが、朝廷の宰相は自ら女直の官号を用いた。太宗の初年、改変することはなかった。張敦固が誅殺された後、中書・枢密を平州に移し置き、蔡靖が燕山を以て降ると、燕京に移し置いた。凡そ漢地の選授・調発・租税は皆承制によって行われた。故に時立愛・劉彥宗及び企先の輩より、官は宰相であっても、その職掌は大抵このようなものであった。斜也・宗幹が国政を執る時、太宗を勧めて女直の旧制を改め、漢人の官制度を用いさせた。天会四年、始めて官制を定め、尚書省以下の諸司府寺を立てた。
十年、司空李徳固の孫の引慶がその祖の猛安を襲うことを求めた。世宗は言うには、「徳固には功が無い。その猛安は暫く欠員とする。漢人宰相では韓企先が最も賢く、他は及ばない」と。十一年、功臣の画像を衍慶宮に図ろうとした時、上は言うには、「丞相企先は、本朝の典章制度は多くこの人の手から出た。大政を関決し、大臣と謀議するに至っては、外人に知らせないので、これによってその功を知る者が無い。前後の漢人宰相で及ぶ者はいない。功臣画像の中に置くことも、亦た後人を勧めるに足る」と。十五年、簡懿と諡された。
子 鐸
韓鐸は字を振文といい、企先の次子である。皇統末、大臣の子として武義将軍を授けられた。熙宗はその儒学を聞き、進士第を賜り、宣徽判官に除した。再び刑部員外郎に遷った。海陵は中使を遣わして諭して言うには、「郎官は高選である。汝は勲賢の子であり、行いも官に蒞むも、よくその家を世継ぎできる。故に汝に命ずる。もし能く夙夜公に在れば、不次に擢用され、公相に至ることも可能である」と。鐸は感奮し、獄に疑わしいことがあれば、経に拠って議讞した。海陵が宋を伐つ時、兵部員外郎に改めた。大定初、本部郎中に遷り、累官して河州防禦使となり、親を養うことを求めて解任した。召されて左諫議大夫となり、中都路都転運使に遷った。間もなく、上は宰臣に言うには、「韓鐸は年が高く、繁劇に任じられない。且つその母も老いた。便郡を与えるがよい」と。そこで順天軍節度使に改めた。卒した。
賛して言う。太祖が燕に入り、始めて遼の南・北面官僚制度を用いた。この故に劉彥宗・時立愛の規画施設は、朝廷の上に見られない。軍旅の暇に、官政を治め、民事を庀い、農を務めて穀を積み、内には京師を供し、外には転餉を給した。これがその功である。韓企先は両朝に入相し、ほぼ二十年、成功を著し業績を上げた。世宗はその賢を称えた。