宗弼
宗望が宋を伐つに及び、宗弼は軍に従った。湯陰県を取り、その兵卒三千人を降した。禦河に至ると、宋人はすでに橋を焼いており、渡ることができず、合盧梭が七十騎でこれを渡り、宋の橋を焼く軍五百人を殺した。宗望は呉孝民を先に汴に入れて宋人を諭させ、宗弼は三千騎で汴城に迫った。宋の上皇が出奔したので、百騎を選んでこれを追ったが、及ばず、馬三千を獲て還った。
宗望が薨じ、宗輔が右副元帥となり、淄・青の地を巡行した。宗弼は宋の鄭宗孟の数万の衆を破り、ついに青州を陥れた。また賊将趙成を臨朐で破り、黄瓊の軍を大破し、ついに臨朐を取った。宗輔の軍が還るに、河上で敵三万の衆に遇い、宗弼がこれを撃ち破り、一万余人を殺した。詔して宋の康王を伐たしめ、宗輔は河北より発し、宗弼は開徳府を攻め、糧食が乏しく、転じて濮州を攻めた。前鋒の烏林答泰欲が王善の二十万の衆を破り、ついに濮州を陥とし、傍近の五県を降した。開徳府を攻め、宗弼はその軍を以て先に登り、奮撃してこれを破った。大名府を攻め、宗弼の軍がまた先に登り、その城を破った。河北平らぐ。
宋主が揚州より江南に奔ったので、宗弼らは分道してこれを伐った。進軍して帰徳に至り、城中西門・北門より出づる者あり、当海がまたこれを破った。そこで堀を埋めて道を築き、砲を堀の上に並べ、これを攻めんとした。城中の人が懼れ、ついに降った。先に阿裏・蒲盧渾を寿春に遣わし、宗弼の軍がこれに続いた。宋の安撫使馬世元が官属を率いて出で降った。進んで盧州を降し、また巢県の王善の軍を降した。当海らが酈瓊の一万余の衆を和州で破り、ついに和州より江を渡った。江寧の西二十里に至らんとするに、宋の杜充が歩騎六万を率いて来て拒戦し、鶻盧補・当海・迪虎・大抃が合撃してこれを破った。宋の陳邦光が江寧府を以て降った。長安奴・斡裏也を留めて江寧を守らせた。阿魯補・斡裏也をして別に将兵して地を巡行せしめ、太平州・濠州及び句容・溧陽等の県を下し、江を溯って西し、しばしば張永らの兵を破り、杜充はついに降った。
宗弼は江寧より広徳軍路を取り、越州において宋主を追襲した。湖州に至り、これを取った。先に阿裏・蒲盧渾を杭州に趨らせ、銭塘江に舟を備えさせた。宗弼が杭州に至ると、官守の巨室は皆逃げ去り、ついに杭州を攻め、これを取った。宋主は杭州が守られないと聞き、ついに越より明州に奔った。宗弼は杭州に留まり、阿裏・蒲盧渾に精兵四千を以てこれを襲わせた。訛魯補・朮列速が越州を降した。大抃が宋の周汪の軍を破り、阿裏・蒲魯渾が宋兵三千を破り、ついに曹娥江を渡った。明州より二十五里のところで、宋兵を大破し、その城下まで追った。城中より兵を出し、戦い利あらず、宋主は海に走り入った。宗弼は麾下の兵を中分し、明州を会攻し、これを陥れた。阿裏・蒲盧渾は海を渡って昌国県に至り、宋の明州守趙伯諤を捕らえ、伯諤は言う、「宋主は温州に奔り、将に温州より福州に趨らんとす」と。ついに海を行って三百余里を追ったが、及ばず、阿裏・蒲盧渾は乃ち還った。
宗弼は杭州より還り、ついに秀州を取った。赤盞暉が平江において宋軍を破り、ついに平江を取った。阿裏が兵を率いて先に鎮江に趨り、宋の韓世忠が舟師を以て江口を扼した。宗弼の舟は小さく、契丹・漢軍で没する者二百余人あり、ついに鎮江より流れを溯って西上した。世忠がこれを襲い、世忠の大舟十艘を奪い、ここにおいて宗弼は南岸に沿い、世忠は北岸に沿い、且つ戦い且つ行った。世忠の艨艟大艦は宗弼の軍の数倍あり、宗弼の軍の前後数里に出で、撃柝の声は夜より暁に達した。世忠が軽舟を以て来たり挑戦し、一日に数度接戦した。将に黄天蕩に至らんとするに、宗弼は乃ち老鸛河の故道に因り三十里を開き秦淮に通じ、一日一夜にして成り、宗弼は乃ち江寧に至ることができた。撻懶が移剌古をして天長より江寧に趨らせて宗弼を援けさせ、烏林答泰欲もまた兵を以て来たり会し、連ねて宋兵を破った。
宗弼は江寧より発し、将に江を渡って北せんとした。宗弼の軍は東より渡り、移剌古は西より渡り、世忠と江渡において戦った。世忠は舟師を分かち江流の上下を絶ち、将に左右より掩撃せんとした。世忠の舟は皆五糸兩を張り、宗弼は善射の者を選び、軽舟に乗じ、火箭を以て世忠の舟上の五糸兩を射た。五糸兩に火箭が着くと、皆自ら焚け、煙焰江に満ち、世忠は軍をなすことができず、北に七十里を追い、舟軍は殲滅され、世忠は僅かに自ら免れることができた。
宗弼は江を渡り北還し、ついに宗輔に従って陝西を定めた。張浚と富平において戦った。宗弼は重囲の中に陥り、韓常は流れ矢に目を中てられ、怒ってその矢を抜き去り、血淋漓として、土を以て創を塞ぎ、馬を躍らせ奮呼して搏戦し、ついに囲みを解き、宗弼とともに出た。既に富平において張浚の軍を破り、ついに阿盧補とともに熙河・涇原の両路を招降した。及び和尚原において呉玠を攻むるに、険に抵り進むべからず、乃ち軍を退く。伏兵起こり、且つ戦い且つ走る。三十里を行き、将に平地に至らんとするに、宋軍が山口に陣し、宗弼大敗し、将士多く戦没した。明年、また和尚原を攻め、これを陥れた。天会十五年、右副元帥となり、沈王に封ぜられた。
詔して「諸州郡の軍旅の事は、帥府に決す。民訟・銭穀は、行台尚書省これを治む」と。宗弼はこれを兼ねて総べ、ついに南伐を議した。太師宗幹以下皆曰く、「構(宋主)は再造の恩を蒙りながら、徳に報いるを思わず、妄りに自ら鴟張し、祈求厭くことなし。今もし取らざれば、後ち恐らく図り難からん」と。上曰く、「彼は将に我が河南の地を奄有する能わざるを謂わん。且つ都元帥久しく方面に在り、利害を深く究む。宜しく即ち兵を挙げてこれを討つべし」と。ついに元帥府に命じて河南の疆土を復せしめ、中外に詔した。
宗弼、朝に入る。是の時、上は燕京に幸す。宗弼は行在所にて見ゆ。再旬を居る。宗弼、軍に還る。上は起立し、酒を酌みてこれを飲ませ、甲冑弓矢及び馬二匹を賜う。宗弼既に発行すること四日、召し還す。至る日、希尹誅さる。五日を越え、宗弼軍に還り、進んで淮南を伐ち、廬州を克つ。
上は燕京に幸す。宗弼は燕京に朝し、江南を取ることを乞う。上はこれに従う。制詔す、都元帥宗弼は軍を還すに及び、宰臣とともに入り奏事すべしと。俄かに尚書左丞相兼侍中と為り、太保・都元帥・行台領は故の如し。詔して燕京路を尚書省に隷せしめ、西京及び山後諸部族を元帥府に隷せしむ。乃ち軍を還し、遂に江南を伐つ。既に淮を渡り、書を以て宋人を責め譲る。宋人は書を答えて寛宥を加うることを乞う。宗弼は宋主に信臣を遣わして来たり議を稟せしむ。宋主は「先ず兵を斂め、弊邑をして表を闕下に拝せしむることを許せ」と乞う。宗弼は便宜に淮水を画して界と為すことを約す。上は護衛将軍撒改を遣わして軍中に往きてこれを労う。
宗弼は進んで太傅に拝せらる。乃ち左宣徽使劉筈を使宋せしめ、袞冕・圭宝・佩璲・玉冊を以て康王を冊し宋帝と為す。その冊文に曰く、「皇帝若しく曰く、爾宋康王趙構に咨る。天の弔わざるに、喪を爾邦に降す。亟に斉盟を瀆し、自ら顛覆を貽す。爾をして江表に越在せしむ。用て我が師旅を勤しむ、蓋し十有八年茲に於ける。朕用て震悼す、斯の民その何の罪ぞ。今、天その禍を悔い、誕に爾の衷を誘い、封奏狎より至り、身を藩輔に列せんことを願う。今、光禄大夫・左宣徽使劉筈等を遣わし、節を持ちて爾を冊命して帝と為す。国号は宋、世に臣職に服し、永く屏翰と為れ。嗚呼欽かなるかな、其れ恭しく朕が命を聴け。」仍て天下に詔す。宗弼に人口・牛馬各千・駱駝百・羊一万を賜い、仍て毎年宋国の進貢の内に銀・絹二千両・匹を与う。
宗弼は表して致仕を乞う。許さず、優詔を以てこれに答え、金券を賜う。皇統七年、太師と為り、三省事を領し、都元帥・行台尚書省事領は故の如し。皇統八年、薨ず。大定十五年、忠烈と諡す。十八年、太宗廟廷に配享す。子に孛迭あり。
子に亨あり。
亨、本名は孛迭。熙宗の時、芮王に封ぜられ、猛安と為り、銀青光禄大夫を加う。天徳初、特進を加う。海陵は太宗の諸子を忌み、将に太廟に謁せんとし、亨を以て右衛将軍と為す。語は『太宗諸王伝』に在り。海陵は良弓を賜う。亨は性直にして、材勇人に絶え、自ら負うを喜び、辞して曰く、「賜わる所の弓は弱くして用いるべからず。」海陵遂にこれを忌む。出でて真定尹と為す。亨に謂いて曰く、「太宗の諸子方に強く、多く河朔・山東に在り。真定はその衝要に据わる。もしその変有らば、卿を倚りて重しと為さんと欲するのみ。」実は亨を忌むなり。中京・東京留守を歴任す。家奴の梁遵、亨が衛士の符公弼と謀反すと告ぐ。考験するに状無し、遵は坐して誅さる。海陵益々これを疑う。広寧尹に改め、再び李老僧を任じて亨の動静を伺察せしめ、且つその罪状を構えしむ。
亨が初め広寧を除かるるや、諸公主・宗婦その母徒単氏を賀しに往く。太祖の長女兀魯曰く、「孛迭は稍々下遷すと雖も、嫌うこと勿れ。国家は京府を一と視る。況んや孛迭は年富り、何ぞ貴顕ならざるを患えんや。」是の時、兀魯は徒単斜也と室と為り、斜也の妾忽撻は徒単后に得幸す。忽撻、后に詣でて告ぐ、「兀魯の語は怨望に渉り、且つ指斥し、又孛迭は当に大貴すべしと言う。」と。海陵は蕭裕にこれを鞫せしむ。左験皆敢えて言わず。遂に兀魯を殺し斜也を杖ち、その官を免ず。兀魯の怨望、斜也の先だって奏聞せざる故なり。乃ち忽撻を莘国夫人に封ず。
久しくして、亨の家奴六斤頗る黠なり。諸奴を総べて給使す。老僧、六斤に謂いて曰く、「爾は渤海の大族、不幸にして累に坐して奴と為る。寧ろ良と為らんことを念わざるか。」六斤その意を識る。六斤嘗て亨の侍妾と私通す。亨これを知り、怒りて曰く、「必ずこの奴を殺さん。」六斤これを聞きて懼る。密かに老僧と謀りて亨の謀逆を告ぐ。亨に良馬有り、将に海陵の生辰に因りてこれを進めんとす。生辰に馬を進むる者衆しと以て、良馬を以て自ら異なる能わずと謂い、他日入見するに及びてこれを進めんと欲す。六斤は亨が海陵の馬を識らざるを笑い、進むるに足らずと言う。亨の奴に京師より来たる者有り、具に徒単阿裏出虎の誅死を言う。亨曰く、「彼には貸死の誓券有り、安んぞこれを誅せん。」奴曰く、「必ずこれを殺さんと欲せば、誓券安んぞ用いるに足らんや。」亨曰く、「然らば則ち将に我に及ばん。」六斤即ち以て怨望と為し、遂に亨が間隙に因りて海陵を刺さんと欲すと誣う。老僧即ち亨を捕え繫ぎて以て聞す。工部尚書耶律安礼・大理正忒裏等これを鞫す。亨、嘗て鉄券の事を論ずと言い、実に反心無し。而して六斤も亦自ら引伏して妾と私通し、亨が嘗てこれを殺さんと欲すの状を言う。安礼等還りて奏す。海陵怒り、復た老僧とともにこれを鞫せしむ。その家奴と並びに榜掠を加う。皆伏せず。老僧夜に亨の囚する所に至り、人をしてその陰間を蹴らしめて殺す。亨、比し死に至るまで、楚痛に勝えず、声外に達す。海陵亨の死を聞き、佯りて泣下し、人を遣わしてその母に諭して曰く、「爾が子の犯す所の法、当に考掠すべし。意わず飲水して死す。」
正隆六年、海陵王は使者を遣わして諸宗室を殺害させ、ここに亨の妃徒単氏、次妃大氏及び子の羊蹄等三人を殺した。大定初年、亨の官爵を追復し、韓王に封じた。十七年、有司に詔して亨及び妻子を改葬させた。
賛して曰く、宗弼は宋主を海島に窮迫せしめ、ついに淮水を境とする約を定めた。熙宗は河南・陝西を挙げて宋人に与えたが、これを矯めて正したのは宗弼である。宗翰の死後、宗磐・宗雋・撻懶は富貴に溺れ、人々に自ら為さんとする心あり、宗幹は孤立してこれを如何ともすることができず、時に宗弼無くば、金の国勢もまた危うきに至らんと曰うべきであった。世宗は嘗て言うこと有り、「宗翰の後は、惟だ宗弼一人のみ」と。虚言にあらず。
張邦昌
張邦昌は『宋史』に伝有り。天会四年、宗望の軍は汴を包囲し、宋の少帝は三鎮の地を割き、歳幣を輸納し、人質を納めて和好を修めることを請うた。ここにおいて、邦昌は宋の太宰となり、粛王枢とともに人質として来朝した。しかるに少帝は書を以て耶律余睹を誘い、宗翰・宗望は再び宋を伐ち、二帝を執って帰還した。劉彦宗は趙氏を再び立てることを乞うたが、太宗は許さず。宋の吏部尚書王時雍等は邦昌に国事を治めさせることを請い、天会五年三月、邦昌を大楚皇帝に立てた。
初め、少帝は康王構と邦昌を人質としたが、やがて粛王枢と交替させ、康王は帰国した。及んで宗望が再び兵を挙げると、少帝はまた康王に玉冊玉宝袞冕を奉じ、太宗の尊号を増上して和を請わしめた。康王が磁州に至った時、宗望はすでに魏県より河を渡り汴を包囲していた。二帝が汴州を出て大軍に従い北来するに及び、邦昌は汴に至り、康王は帰徳に入った。邦昌は帰徳において康王に即位を勧めたが、康王はすでに即位し、隠れた事を罪として邦昌を殺した。
邦昌の死を太宗聞き、大いに怒り、元帥府に詔して宋を伐たしめ、宋主は揚州に走り、事は宗翰等の伝に具わる。その後、太宗はまた劉豫を立てて邦昌に継がしめ、大斉と号した。
劉豫
劉豫、字は彦游、景州阜城の人。宋の宣和末、河北西路提刑に仕えた。浙西に転じた。儀真に至り、妻翟氏に喪に遭い、続いて父の憂いに値した。康王が揚州に至ると、枢密使張愨が済南府知府に推薦した。この時、山東には盗賊が野に満ち、豫は江南の一郡を得んとしたが、宰相は与えず、忿忿として去った。撻懶が済南を攻めると、関勝という者あり、済南の驍将なり、屡々城を出て拒戦し、豫は遂に関勝を殺して出降した。ここにおいて京東東・西、淮南安撫使、東平府知府兼諸路馬歩軍都総管と為り、河外諸軍を節制した。豫の子麟を以て済南府知府と為した。撻懶は要衝に兵を屯し、以て鎮撫した。
初め、康王は張邦昌を殺し、自ら帰徳より揚州に奔ったので、左右副元帥に詔して合兵してこれを討たしめ、詔して曰く、「宋平らぐを俟ち、当に籓輔を援立て、以て南服を鎮めん、張邦昌の如き者を」と。宋主が明州より海に入り亡去し、宗弼が北還するに及び、乃ちその人を更に立てることを議した。衆議は折可求・劉豫ともに立てるべしとし、而して豫もまたその心あり。撻懶が豫のために封を求め、太宗は張邦昌を封じた故事を用い、九月朔旦に策を授けた。策を受けた後、籓王の礼を以て使者に謁見した。臣宗翰・臣宗輔議す、「既に籓輔と策せられ、臣を称し表を奉ずれば、朝廷の報諭詔命は、正位を避け使人と抗礼し、その余の礼は並びに帝者の礼に従うべし」と。詔して曰く、「今豫を子皇帝と立て、既に隣国の君たり、また大朝の子たり、その大朝の使介を見るには、惟だ使者始めて見るに躬て起居を問い、面辞して奏する有れば則ち立ち、その余は並びに皇帝の礼を行え」と。
元帥府は蕭慶を汴に使わし、豫とともに宋を伐つ事を議し、豫は報じて曰く、「宋主の軍帥韓世忠は潤州に屯し、劉光世は江寧に屯す。今大兵を挙げ、採石に往きて江を渡らんと欲するも、劉光世は江寧を拒守す。若し宿州より出でて揚州に抵らば、則ち世忠必ず海船を聚めて瓜洲渡を截たん。若し軽兵を以て直ちに採石に趨かば、彼に備え無く、我必ず径に江を渡らん。光世の海船もまた潤州に在り、韓世忠必ず先ずこれを取らん、二将ここより必ず和せず。これを以て宋主を逼れば、其れ可なり」と。
未だ幾ばくもせず、宋主の閣門宣賛舎人徐文が大小船六十隻、軍兵七百余人を将いて来奔し、密州の界中に至り、将佐を率いて汴に至った。豫は元帥府に書して曰く、「徐文一行は久しく海中に在り、尽く江南の利害を知る。文言く、宋主は杭州に在り、その候潮門外銭塘江内に船二百隻有り。宋主初めて海に入り走る時、ここに於いて船に上り、銭塘江を過ぎ別に河有りて越州に入り、明州定海口に向かい迤邐として昌国県に前去す。その県は海中に在り、宋人の船を聚め糧を積む処なり。今大軍は先ず昌国県に往き、船糧を攻め取り、還って明州城下に趨き、宋主の御船を奪い取り、直ちに銭塘江口に抵るべし。今密州より船に上り、風勢順なれば、五日夜にして昌国県に到るべく、或いは風勢稍々慢なれば、十日或いは半月にして至るべし」と。
初め、宗弼は江南より北還し、宗翰は朝に入らんとし、再び宋を伐つ事を議した。宗翰は堅く執って伐つべしと為した。宗弼曰く、「江南は卑湿にして、今士馬困憊し、糧儲未だ豊足せず、成功無からんことを恐る」と。宗翰曰く、「都監は務めて安きを偸むのみ」と。豫が書を以て報ずるに及び、而して睿宗もまた豫の策を用いず、撻懶に師を帥いて瓜洲に至らしめて還らしめた。
天会十四年、制詔して「斉国と本朝の軍民相訴え、文移に関渉するは、年を署するに止めて天会を用いよ」と。天会十五年、詔して斉国を廃し、豫を降封して蜀王と為した。豫が大号を称すること凡そ八年。ここにおいて、行台尚書省を汴に置き、豫の弊政を除去し、人情大いに悦んだ。故斉の宰相張孝純を以て行台左丞相に権と為し、遂に豫の家屬を臨潢府に遷した。
麟は字を元瑞といい、劉豫の子である。宋の宣和年間、父の蔭により将仕郎に補され、累進して承務郎となった。天会七年、劉豫が済南を以て降伏すると、麟はこれに従って軍に加わり、水賊の王江を討ち、これを破って降した。劉豫が東平を節制すると、麟を以て済南府の知事とした。斉国が建てられると、済南を興平軍とし、麟を節度使・開府儀同三司・梁国公とし、諸路兵馬大総管を充て、済南府の事を判じた。翌年、斉の尚書左丞相となった。翌年、劉豫に従って汴に遷り、済南判の任を罷め、前の如く開府とし、参謀を置くことを聴された。劉豫が麟を立てて太子とすべく請うたが、朝廷は許さず、「もし我がために宋を伐つ功あれば、則ちこれを立てん」と言った。ここにおいて、麟は連年兵を帥いて南伐したが、皆功なくして還った。
朝廷が斉を廃することを議し、南伐の期日を報じて、劉豫に先に兵を遣わして淮上に駐めしめた時、撻懶は軍を以て劉豫を廃し、刁馬河に止まった。麟は数百騎を従えて出迎えたが、撻懶は麟に諭し、従騎を南岸に止め、独り麟を召して河を渡らせ、因って麟を捕らえた。劉豫が廃されると、麟は臨潢に遷された。間もなく、北京路都転運使を授かり、中京・燕京路都転運使・参知政事・尚書左丞を歴任し、再び興平軍節度使・上京路転運使・開府儀同三司となり、韓国公に封ぜられた。薨去、年六十四。正隆年間、二品以上の官封を降格し、特進・息国公に改めて贈られた。
昌
昌、本名は撻懶、穆宗の子である。宗翰が遼主を鴛鴦濼に襲撃した時、遼の都統馬哥は搗裏に奔り、撻懶はその群牧を収めた。宗翰は撻懶にこれを追撃させたが、及ばず、遼の枢密使得裏底とその子の磨哥・那野を獲て還った。太祖自ら将として遼主を大魚濼に襲おうとし、輜重を草濼に留め、撻懶と牙卯にこれを守らせた。奚路の兵官渾黜はその衆を安輯することができず、遂に撻懶を以て奚六路軍帥とし、これを鎮めさせた。習古乃と婆盧火が常勝軍及び燕京の豪族工匠を護送して松亭関より内地に入る時、上はこれを戒めて曰く、「若し険厄に遇えば、則ち兵を分けて往け」と。習古乃と婆盧火は乃ち撻懶と合流した。
久しくして、劾山速古部の奚人を討った。奚人は険に拠って戦い、殺戮すること殆ど尽くし、速古・啜裏・鐵尼の十三砦を皆平定した。詔して曰く、「朕は奚路の険阻を以て、経略すること難しと為し、汝を命じてその事に往かしむ。而して克く託する所に副い、良く嘉歎を用う。今、回離保の部族来附し、余衆は奔潰し、為す能う已む無し。比に習古乃・波盧火を命じて降人を獲送せしむ。若し険阻に遇えば、即ち兵を分けて以て行き、余衆は悉く汝と合せよ。降詔二十、未だ降らざるを招諭す。汝まさにその事を審度し、宜しきに従ってこれを処せよ」と。その後、奚部を撫定し及び南路の辺界を分かつに当たり、表を上って官を設けて鎮守することを請うた。上曰く、「東京の渤海の列に依り、千戸・謀克を置け」と。
遼の外戚遙輦昭古牙の部族が建州に在った時、斜野が襲撃してこれを走らせ、その妻子及び官豪の族を獲た。撻懶はまたこれを撃ち、その隊将曷魯燥・白撒葛を擒え、これを殺し、民戸千余を降し、進んで金源県を降した。詔して銀牌十を増賜した。また遙輦の二部を降し、再び興中の兵を破り、建州の官属を降し、山砦二十、村堡五百八十を得た。阿忽がまた昭古牙を破り、その官民を降すこと尤も多かった。昭古牙は勢い窮まって亦降り、興中・建州は皆平定された。詔して将士の功賞を第し、新民を撫安した。
撻懶は遙輦九営を以て九猛安とすべく請うた。上は奪鄰に功有りと為し、四猛安を領せしめ、昭古牙は仍って親管猛安とした。五猛安の都帥には、撻懶に人を択んでこれを授けしむることを命じた。撻懶は劉彥宗とともに蕭公翊を挙げて興中尹とし、郡府各々契丹・漢官を以て摂治せしめ、上は皆これに従った。宗翰・宗望が宋を伐つに及び、撻懶は六部路都統となった。宗望が既に宋の盟を受け、軍を還すと、撻懶は乃ち中京に帰った。
天会四年八月、再び宋を伐った。閏月、宗翰・宗望の軍は皆汴州に至った。撻懶と阿裏刮は杞において宋兵二万を破り、その三営を覆し、京東路都総管胡直孺とその二子及び南路都統制隋師元とその三将を獲、遂に拱州を克ち、寧陵を降し、睢陽を破り、亳州を下した。宋兵が睢陽を復たんと来たるを、また撃ち走らせ、その将石瑱を擒えた。
宋の二帝が既に降伏し、大軍北還するに及び、撻懶は元帥左監軍となり、山東の地を徇い、密州を取った。迪虎は単州を取り、撻懶は巨鹿を取り、阿裏刮は宗城を取り、迪古不は清平・臨清を取り、蒙刮は趙州を取り、阿裏刮は浚・滑・恩及び高唐を徇下し、諸将を分遣して磁・信徳に向かわしめ、皆これを降した。劉豫が済南府を以て降ると、詔して豫を安撫使とし、東平を治めしめ、撻懶は左監軍としてこれを鎮撫し、大事は専ら決断した。後に右副元帥となった。天会十五年、左副元帥となり、魯国王に封ぜられた。
初め、宋人が既に張邦昌を誅した時、太宗は諸将に詔し、邦昌の如き者を復求めてこれを立てしめ、或いは折可求を挙げたが、撻懶は力を尽くして劉豫を挙げた。劉豫は立てられて帝と為り、号して大斉とした。劉豫が帝となって数年、尺寸の功も無く、遂に劉豫を廃して蜀王とした。撻懶は右副元帥宗弼とともに河南に在り、宋の使者王倫が撻懶に河南・陝西の地を求めた。翌年、撻懶は京師に朝し、廃斉の旧地を宋に与えることを倡議し、熙宗は群臣に議せしめた。会に東京留守宗雋が来朝し、撻懶と合力し、宗幹等はこれを争うも得ず。宗雋曰く、「我が地を以て宋に与えれば、宋必ず我を徳とす」と。宗憲これを折りて曰く、「我は宋人の父兄を俘えり、怨み一日に非ず。若し復た土地を以て資すれば、是れ仇を助くるなり、何の徳か之有らん。与えざる便なり」と。撻懶の弟勖も亦与えざるを以て可と為した。既に退きて、撻懶は勖を責めて曰く、「他人に尚お我に従う者有るに、汝は乃ち異議を為すか」と。勖曰く、「苟も国に利あらば、豈に敢えて私せんや」と。是の時、太宗の長子宗磐が宰相と為り、位は宗幹の上に在り、撻懶・宗雋これに附き、竟に議を執って河南・陝西の地を宋に与えた。張通古を詔諭江南使とした。
久しくして、宗磐の跋扈すること尤も甚だしく、宗雋も亦丞相と為り、撻懶は兵柄を握り、謀反の状有り。宗磐・宗雋は皆誅せられ、詔して撻懶は属尊にして大功有りと為し、因ってこれを釈して問わず、出でて行台尚書左丞相と為し、手詔を以て慰め遣わした。撻懶は燕京に至り、愈々驕肆して法に背き、復た翼王鶻懶と謀反し、而して朝議漸くその初め宋と交通し河南・陝西の地を割くことを倡議したるを知る。宗弼は河南・陝西を復取すべく請うた。会に上変して撻懶を告ぐる者有り、熙宗は乃ち詔を下してこれを誅した。撻懶は燕京より南走し、追って祁州においてこれを殺し、並びに翼王及び宗人の活離胡土・撻懶の二子の斡帯・烏達補を殺し、而してその党与を赦した。
宗弼が都元帥となり、再び河南・陝西を定めた。宋を伐って淮を渡り、宋の康王が和を乞うたので、遂に臣を称し、淮を画して界と為し、乃ち兵を罷めた。
賛に曰く、君臣の位は、冠履の定分の如く、片時も易うべからざるなり。五代乱極まり、綱常斁れ壊る。遼の太宗、神器を慢褻し、冠履を倒置し、石晉を援立し、臣を以て君に易え、宇宙以来の一大変なり。金人、尤を效い、而して張邦昌・劉豫の事出づ。邦昌は本心に非ざるも、死を以て之を辞せば、孰か曰く不可ならんや。豫は時に乗じて利を徼め、金人、以て功を為さんと倚らんと欲す、豈に是の理あらんや。撻懶、初め劉豫を薦め、後に陝西・河南を以て宋に帰す、猶儻来の如く視て、初め固き志無く以て此れを処す。其の軽躁を積み、終に逆図に陥り、事敗れて南に奔る、適に以て宋に通ずるの事を実するに足るのみ、哀しいかな。