金史

列傳第十四: 太宗諸子 宗磐(本名蒲魯虎) 宗固(本名胡魯) 宗本(本名阿魯,附:蕭玉) 杲 宗幹

列傳第十四 ○太宗諸子 宗磐(本名蒲魯虎) 宗固(本名胡魯) 宗本(本名阿魯,附:蕭玉) 杲 本名斜也 子:宗義(本名孛吉) 阿虎里 宗幹 本名斡本 子:充(本名神土懣 子:檀奴 永元(本名元奴)) 兗(本名梧桐) 襄(本名永慶) 袞(本名蒲甲)

太宗諸子

太宗の子は十四人:蒲魯虎、胡魯、斛魯補、阿魯帶、阿魯補、斛沙虎、阿鄰、阿魯、鶻懶、胡里甲、神土門、斛孛束、斡烈、鶻沙。

宗磐

宗磐は本名を蒲魯虎という。天輔五年、都統杲が中京を取ったとき、宗磐は斡魯、宗翰、宗幹とともにその副将であった。天會十年、國論忽魯勃極烈となった。熙宗が即位すると、尚書令しょうしょれいとなり、宋國王に封ぜられた。間もなく太師に任ぜられ、宗幹、宗翰とともに三省の事を領した。

熙宗は宗室を優遇したが、宗翰が没した後、宗磐は日増しに跋扈した。かつて宗幹と帝の前で論争し、即座に上表して退任を求めた。烏野が奏上して言うには、「陛下は春秋に富んでおられるのに、大臣が協調しないのは、国家の福ではないと思われます」と。熙宗はそこで両者を和解させた。宗磐はますます驕慢で勝手になった。その後、熙宗の前で宗幹に向かって馬を進めようとしたとき、都點檢蕭仲恭が叱って止めた。

やがて左副元帥撻懶、東京留守宗雋が朝廷に入ると、宗磐はひそかに彼らと党を結び、宗雋は右丞相となり、権力を握った。撻懶は家柄が尊く、功績も多かったが、先に劉を推薦して齊帝に立て、この時になって河南・陝西を宋に与えて臣と称させることを提唱した。熙宗が群臣に議論させると、宗室の大臣はそれができないと言った。宗磐、宗雋がこれを助け、ついに宋に与えることになった。その後、宗磐、宗雋、撻懶が乱を謀ると、宗幹、希尹がその事を発覚させ、熙宗は詔を下して彼らを誅殺した。宴飲に同席した者は皆、貶降・削奪・決罰の処分に差があった。その弟斛魯補ら九人は赦免し、また撻懶を赦して行台左丞相に出した。

皇后の誕生日に、宰相・諸王・妃・主・命婦が入朝して祝賀した。熙宗は音楽を止めるよう命じ、「宗磐らは皆近い親族でありながら、逆謀を構えたので、心情的に楽しむことができない」と言った。黄金の合子と二つの銀鼎を明德宮の太皇太后に献上し、また金の合子と銀鼎を宗幹と希尹に賜った。

宗固

宗固は本名を胡魯という。天會十五年、燕京留守となり、豳王に封ぜられた。宗雅は本名を斛魯補といい、代王に封ぜられた。宗偉は本名を阿魯補といい、虞王に封ぜられた。宗英は本名を斛沙虎といい、滕王に封ぜられた。宗懿は本名を阿鄰といい、薛王に封ぜられた。宗本は本名を阿魯といい、厚王に封ぜられた。鶻懶は翼王に封ぜられた。宗美は本名を胡里甲といい、豊王に封ぜられた。神土門は鄆王に封ぜられた。斛孛束は霍王に封ぜられた。斡烈は蔡王に封ぜられた。宗哲は本名を鶻沙といい、畢王に封ぜられた。皆、天眷元年に封を受けた。宗順は本名を阿魯帶といい、天會二年に薨じ、皇統五年に金紫光禄大夫を追贈され、後に徐王に封ぜられた。

宗磐が誅殺された後、熙宗は宗固の子の京を燕京に遣わして宗固を慰諭させた。やがて翼王鶻懶がまた行台左丞相撻懶と謀反を企てて誅殺された。詔して言うには、「燕京留守豳王宗固らについて、ある者は属籍を絶つべきだと言うが、朕はそれに忍びない。宗固らはただ皇叔と称することができないだけで、その母や妻の封号が従って降格される者は、よく旧典に照らして処理せよ」と。皇統二年、再び宗雅を代王に封じた。宗固は判大宗正となり、六年、太保・右丞相兼中書令となった。この年、薨じた。

海陵王は熙宗の時代に、太宗の諸子の勢力が強く、宗磐が特に跋扈し、鶻懶と相次いで皆逆罪で誅殺されたのを見て、心に忌み嫌った。熙宗は宗室に厚く、礼遇は衰えなかった。海陵王はかつて秉德、唐括辯とひそかに議論し、主上は太宗の諸子をあまりにも寵遇すべきではないと言った。帝位をさんさんだつして立つと、太廟に謁して奠した。韓王亨は平素から武勇に優れていると評されていたので、右衛将軍を摂行させ、密かに諭して言うには、「卿はこの職を軽んじてはならない。朕は太宗の諸子があまりにも強いのを疑っている。卿が左右を衛護すれば、憂いがなくなるであろう」と。そこで秘書監蕭裕と謀って宗本兄弟を除こうとした。太宗の子孫はここに尽き、その話は『宗本伝』の中にある。

宗本

宗本は本名を阿魯という。皇統九年、右丞相兼中書令となり、太保に進み、三省事を鄰した。海陵が帝位を簒奪すると、太傅に進み、三省事を領した。

初め、宗幹が宗磐を誅殺しようと謀ったので、海陵は太宗の諸子を内心忌んでいた。熙宗の時、海陵はひそかに宗本らの勢力が強いと論じ、主上はあまりに厚く寵遇すべきではないと言った。帝位を簒奪すると、猜疑の心はますます深まり、ついに秘書監蕭裕と謀って太宗の諸子を殺害した。秉徳が行台を領して出ることになり、宗本と別れる際、酒宴を開いて、内外呼応することを約したと誣告した。尚書省令史蕭玉を使わして、宗本が親しく蕭玉に言ったと告げさせた。「汝は我が旧知であるから、必ず他意はないであろう、腹心の事を告げることができる。鄰省(秉徳)が臨行に際し、彼は外で軍民に説き、外患を憂慮するなと言った。もし太傅が内応すれば、何事か成らざらん」と。また言った。「長子の鎖里虎は大いに貴ぶべきである、それゆえ主上に会わせないようにしている」と。宗本はまた言った。「左丞相(秉徳)は我及び我が妃のところで、主上が近ごろ彼を見るやすぐに喜ばれないので、常に心中恐れている、もし太傅が一日大位を得れば、この心は初めて安らぐであろう」と。唐括辯が宗本に言った。「内侍の張彦は相を見るのが上手く、太傅には天子の相があると言った」と。宗本は答えて言った。「宗本には兄の東京留守(宗懿)がいる、宗本にどうしてそんなことができようか」と。時に宗美が言った。「太傅こそまさに太宗の主家の子である、ただ太傅が便ち北京留守となるべきである」と。卞は臨行に宗本に言った。「事は遅らせることはできない」と。宗本は蕭玉に言った。「大計はただ近日の囲場内で決する」と。宗本はそこで馬一匹、袍一領を蕭玉に与え、表識の物とした。蕭玉は囲場の日が近づき、身が外に縛られて、親しく上奏できないことを恐れ、そこで秘書監蕭裕に告げた。蕭裕はことごとくこれを聞かせた。

蕭玉(附)

蕭玉は宗本の家に出入りし、親信は家人のようであった。海陵は既に蕭裕と謀って宗本・秉徳を殺害し、天下に詔を下したが、天下が宗本・秉徳らが皆懿親の大臣であり、本来反状がなく、蕭裕がその事を構成し、また蕭玉が宗本と厚く、人の知るところであることを恐れ、蕭玉に変事を上告させれば、ほぼ信を示すことができると考えた。そこで人を使わして宗本らを召し撃鞠をさせ、海陵は先に楼に登り、左衛将軍徒単特思及び蕭裕の妹婿で近侍局副使の耶律辟離刺小底に密かに宗本及び判大宗正事宗美を伺わせ、到着次第、即座に殺させた。宗美は本名を胡里甲といい、臨死に神色変ぜず。

宗本が既に死ぬと、蕭裕は人を使わして蕭玉を召した。この日、蕭玉は客を送って城外に出、酒に酔い、髪を露わにし衣を披き、車に載せられて蕭裕の弟の点検蕭祚の家に至った。日暮れに及んで、蕭玉は酒が醒め、軍士が囲んで守っているのを見て、人の累に連なって罪を得たと思い、故にここに至ったのだと考えた。頭で屋壁に触れ、号咷して言った。「臣は未だ罪を犯したことはありません、老母は年七十、哀れみ憐れんでください」と。蕭裕は耳に附けて告げて言った。「主上は宗本ら諸人を留めておくことはできないと考え、既に誅殺した、反罪を加えようとし、汝に主としてその事を告げさせようとしている。今汝の告款は既に具わっている、上は即座に汝に問うであろう、汝はただ宗本らが反逆したことを状の如く言い、再び異なる言葉を出すな、禍が汝の家に及ぶことを恐れる」と。蕭裕はそこで巾服を蕭玉に与え、引見して海陵に会わせた。海陵が蕭玉に問うと、蕭玉は宗本が反逆したと述べ、ことごとく蕭裕が教えた通りであった。

海陵は使者を遺わして東京留守宗懿・北京留守卞を殺させた。また益都尹畢王宗哲・平陽尹稟・左宣徽使京らを遷し、家屬を別の所に分置し、ただ各奴婢五人を以て自ら随うことを聴すのみとした。既にして人を使わして路上で要撃し、その子男子たるや少長無く皆殺した。而して中京留守宗雅は仏事を喜び、世に「善大王」と称されたが、海陵はその無能を知り、これを存して太宗に奉ぜしめようとした。後に召して関に至らせ、数日も経たず、ついにこれを殺した。太宗の子孫の死者は七十余人に及び、太宗の後は遂に絶えた。卞は本名を可喜という。稟は本名を胡離改という。京は宗固の子で、本名を胡石賚という。

蕭玉が既に蕭裕の教えの通り海陵に対すると、海陵は遂に宗本・秉徳らの罪を以て天下に詔し、蕭玉の上変を以てこれを実証した。

海陵は太府監完顔馮六に宗本諸家の籍没をさせ、戒めて言った。「珠玉金帛は官に入れ、什器は我が諸臣に分け賜わん」と。馮六はこれにより再び什器の籍没を拘わらず、往往人の持去るに任せ、馮六の家童もその檀木屏風を取った。少監劉景は以前監丞であった時、太府監が火災に遭い、案牘ことごとく焼失し、数ヶ月を経て諸司の簿帳を取ってこれを補い、監吏はこれにより稽緩の罪に坐し、罪を得るべきであった。劉景が吏として、年月を倒署した。太倉都監焦子忠は劉景と旧知であり、逋負の罪に坐し、久しく調を得られなかったが、劉景は尽力してこれを出した。久しくして、馮六と劉景が宮中で相忿争し、馮六は劉景の倒署年月及び焦子忠を出した事を言った。御史が劾奏して劉景を弾劾し、劉景の与党は馮六の家奴を誘って盗んだ屏風の事を発かせた。馮六は尚書省に自陳した。海陵は御史大夫趙資福・大理少卿許竑に雑治させた。資福らは馮六が自ら盗んだのではなく、また嘗て自首したと奏上した。海陵は平素より馮六が宗室と遊従することを悪み、宰臣に謂って言った。「馮六は嘗て盗んだ物を用いた、その自首はこれに及ばない。法によれば、宮中の物を盗めば死罪である、諸物は既に籍没して官に入った、宮中の物と何の異なることがあろうか」と。馮六に謂って言った。「太府は宮中の財賄を掌る、汝は奸欺を防制すべきであるのに、自ら盗物を用いた」と。ここにおいて、馮六は棄市に処し、資福・許竑は獄を鞫すること尽くさずの罪に坐し、決杖に差等があった。劉景もまた焦子忠より賂の金を受けたことを伏した。海陵は言った。「金を受けた事には左証がない、劉景が年月を倒署して、吏の罪を免れた、これは恕すべからざるである」と。遂にこれを殺した。

大定二年、宗固を追封して魯王とし、宗雅を曹王とし、宗順を隋王とし、宗懿を鄭王とし、宗美を衛王とし、宗哲を韓王とし、宗本を潞王とし、神土門を豳王とし、斛孛束を瀋王とし、斡烈を鄂王とし、胡里改・胡什賚・可喜には並びに金吾衛上将軍を贈った。ただ宗磐・阿魯補・斛沙虎・鶻懶の四人は再び加封しなかった。

蕭玉は奚人である。既に蕭裕に従って宗本の罪を誣ってから、海陵は大いに喜び、尚書省令史より礼部尚書に抜擢し特進を加え、銭二千萬・馬五百匹・牛五百頭・羊千口を賜い、数ヶ月で参知政事となった。母の喪に服したが、参知政事として起復し、俄かに猛安を授けられ、子は公主を娶った。海陵は蕭玉に謂って言った。「朕が天下を得た初め、常に太宗の諸子が方に強きを患えていたが、社稷の霊に頼り、卿がその奸を発した。朕はこの功に報いる術がなく、朕の女を卿の男の婦とし、朕に代わって卿に事えしめん」と。第一等の邸宅一区を賜い、宗本の家財を分けてこれを賜った。間もなく、張浩に代わって尚書右丞となり、平章政事を拝し、進んで右丞相を拝し、陳国公に封ぜられた。

文思署令閻拱と太子詹事張安の妻が姦通の罪に連座し、獄が決したが、訊問すべきでないのに訊問した。海陵は怒り、張玉と左丞蔡松年・右丞耶律安禮・御史中丞馬諷にそれぞれ決杖を下した。張玉らが入って謝罪した。海陵は言った、「人臣たる者が己の意のままに愛憎を抱き、妄りに威福をなして人を畏れさせることがある。唐の魏徴・狄仁傑・姚崇・宋璟のごときは、どうして威を立てて人を畏れさせようか。楊国忠の徒こそ威を立てて人を畏れさせたのだ。」左司郎中吾帯・右司郎中梁球を顧みて言った、「かつて徳宗が宰相であった時、蕭斛律が左司郎中、趙徳恭が右司郎中であったが、官吏の任免や法の議定に、多く己の意を用いた。汝らが己の意の愛憎によって予奪軽重をなさず、それもまた善いことではないか。朕は汝らを信任するが、過ちがあれば決責するのも、やむを得ないことだ。古より大臣に罪あれば、数千里外に貶謫し、往来奔走に疲れ、道路に死する者もあった。朕はそうではない。過ちあれば杖で打ち、杖を加えた後は初めのごとく任用する。もし赦すべからざる者があれば、あるいは死に処すことも、また知れない。汝ら自ら努めよ。」

正隆三年、司徒しとに拝し、大宗正事を判ず。五年、張玉は司徒として御史大夫を兼ねた。参知政事李通に命じて旨を諭させた、「判宗正の職は固より重いが、御史大夫は特にその人を得ることが難しい。朕はまさに南京に行幸せんとしているが、官吏多く不法に賄賂を受けている。卿は専ら糾劾に当たり、細務は責めるところではない。御史大夫と宰執とは遠からず、朕が南京に至れば、徐々に考えよう。」続いて司徒として大興尹を判ずることとなったが、張玉は固く司徒を辞した。海陵は言った、「朕は南巡せんとしている。京師の地は重く、大臣でなければ鎮撫できない。卿を留めて居守とし、多く譲るなかれ。」海陵が南京に至ると、張玉を尚書左丞相とし、呉国公に進封した。

海陵は宋を伐たんとし、群臣に宴を賜うに当たり、張玉を顧みて言った、「卿はかつて書を読んだことがあるか。」答えて言った、「かつて見たこともあります。」宴も中頃、海陵は立ち上がり、すぐに張玉を内閣に召し出し、そこで『漢書かんじょ』一冊を張玉に示した。やがてそれを投げ捨てて言った、「これは問うところではない。朕は卿と事を議したい。朕は今、江南を伐たんとしているが、卿はどう思うか。」張玉は答えて言った、「不可です。」海陵は言った、「朕は宋国を掌握の間に在るが如く見ている。どうして不可なのか。」張玉は言った、「天は長江をもって南北を限り、舟楫は我が長ずるところではありません。苻堅が百万をもって晋を伐ち、一騎も渡ることができなかった。これをもって不可と知るのです。」海陵は怒り、叱りつけて出させた。後に張浩が周福児を通じて奏上した時、海陵は張浩を杖打ちし、同時に張玉も杖打ちした。そこで群臣に言った、「張浩は大臣であるのに、面と向かって奏上せず、人を通じて言葉を伝えるとは、軽率も甚だしい。張玉が苻堅を朕に比べた。朕はその舌を断ち、釘で打ちつけて磔にせんとしたが、張玉に功があったので、今まで忍んできた。大臣を決責するのは、痛みは汝らの体に及ぶが、朕自身にあるが如く、やむを得ざる者がある。汝らよく心得よ。」

海陵が自ら将として南京を発つに及び、張玉と張浩は留まって省事を治めた。世宗が即位すると、奉国上将軍に降格し、田里に帰され、賜わった家産を奪われた。久しくして、孟州防禦使として起用された。世宗は戒めて言った、「かつて海陵は太宗の子孫を殺さんとし、汝を借りて証とし、遂に進用された。朕は思うに、海陵が暴虐をふるい、先に宗本ら諸人を殺し、その後で汝を用いてその事を質成したのだ。どうして専ら汝らの罪とせん。今再び汝を用いるが、過ちを改めることを思え。もしかつて要地に居たことを以て、今日を不足と考えるならば、必ず罰して赦さない。」定海軍節度使に転じ、太原尹に改めたが、少尹烏古論掃喝と互いに不公の事を訟え、それぞれ一官を削られ、解職された。まもなく卒した。

子に徳用がいる。大定二十四年、尚書省が張玉の子徳用を昇除すべきと奏上した。上は言った、「海陵は張玉を口実としてその毒を快くした。張玉の子をどうして昇除できようか。」

賛に曰く、宗磐はかつて斜也に従って中京を取った。功労がないとは言えない。世禄にして礼を欠くことは、古よりあることである。国家においては、善く保全の道を為すのみである。熙宗は宗磐を殺しながらその母后を存恤した。情を矯めたとはいえ、なお物論を畏れた。海陵は謀を造り、宗本兄弟を殺すに余力を遺さなかった。太宗は宋を挙げて中原を得た。金の百世遷らざる廟である。再伝して噍類無く、ここにおいて太祖の美意は再び幾微も存すること無し。春秋の世、宋公は与夷を捨ててその弟を立て、禍は数世に延び、害は五国に及んだ。誠に後世の鑑とすべきであろう。

杲は本名を斜也といい、世祖の第五子、太祖の同母弟である。収国元年、太宗が諳班勃極烈となり、杲は国論呉勃極烈となった。天輔元年、杲は兵一万をもって泰州を攻め、金山県を下し、女固・脾室四部及び渤海人皆来降し、遂に泰州を克した。城中の積粟を転じて烏林野に致し、先に降った諸部を賑い、これにより内地に移した。

天輔五年、忽魯勃極烈となり、内外諸軍を都統し、中京(実は北京)を取った。蒲家奴・宗翰・宗幹・宗磐が副となり、宗峻は合紮猛安を領し、皆金牌を受け、耶律余睹が郷導となった。詔して曰く、「遼の政綱を失い、人神共に棄つ。今、中外を一統せんと欲し、故に汝に命じて大軍を率い、討伐を行わしむ。汝は兵事を慎重にし、善謀を用いることを択べ。賞罰必ず行い、糧餉必ず継げ。降服する者を擾さず、俘掠を縦すなかれ。見るべきあれば進み、師期を淹留するなかれ。事に従権するありとも、煩わしく奏稟するなかれ。」また詔して曰く、「もし中京を克せば、得たる礼楽図書文籍は、並びに先次に律を発して闕に赴かしめよ。」

この時、中京を守る遼人は、師の期を知り、芻糧を焚き、住民を移して遁去せんとした。奚王霞末は、我が兵少なければ迎え戦い、もし敵わなければ退いて山西を保たんとした。杲は遼人に闘志無きを知り、輜重を委ね、軽兵をもってこれを撃った。六年正月、高・恩・回紇の三城を克し、中京に進んだ。遼兵は皆戦わずして潰え、遂に中京を克した。馬一千二百・牛五百・駝一百七十・羊四万七千・車三百五十両を獲た。乃ち兵を分けて要害の地に屯守せしめた。中京に兵を駐め、使者をして捷を奏し、俘を献ぜしめた。詔して曰く、「汝ら外に兵を提げ、任に克く副い、城邑を攻め下し、人民を撫安す。朕は甚だこれを嘉す。将士を分遣して山前諸部を招降し、計らくは既に撫定せり。山后もし往くべからざれば、即ち田を営み牧し、秋の大挙を俟て、更に熟議すべし。見るべきあれば行え。もし兵を益さんと欲すれば、数を具して上れ。一戦の勝ちに恃みて、輒ち自ら弛慢するなかれ。降附を善く撫存し、将士に宣諭して、朕の意を知らしめよ。」

完顔歓都の遊兵が中京の南に出て、騎兵三十余りに遇い、欺いて言った、「乞う、明朝ここに来て降らん。」杲はこれを信じ、温迪痕阿里出・納合鈍恩・蒲察婆羅偎・諸甲抜剔鄰をしてこれを迎えさせた。奚王霞末の兵が阿里出らを囲んだ。遂に坂に拠り馬を去り、皆殊死に戦い、霞末の兵を破り、暮れに至るまで追撃して還った。この役、納合鈍恩の功が多かった。

宗翰は北安州を降し、希尹は遼の護衛習泥烈を捕らえ、遼主が鴛鴦濼で狩猟中であると聞き、襲撃して捕らえることができると述べた。宗翰は杲に文書を送り、進軍を請うた。使者を再び遣わし、「機会を一度失えば、事を図るは難し」と言った。杲の意向はなお決していなかった。宗幹が杲に宗翰の策に従うべきことを勧め、杲はついに宗翰と奚王嶺で会合することを約した。会合後、初めて議を定め、杲は青嶺より出で、宗翰は瓢嶺より出で、羊城濼で軍を会することを期した。時に遼主は草濼におり、宗翰と宗幹に精兵六千を率いてこれを襲撃させた。遼主は西に走り、その都統馬哥は搗里に向かった。宗翰は撻懶に兵一千を率いてこれを撃たせた。撻懶は都統杲に増兵を請い、遼の枢密使得里底父子を捕らえた。

西京は既に降ったがまた叛き、杲は使者を遣わしてこれを招いたが従わず、ついにこれを攻撃した。留守蕭察刺は城を越えて降った。四月、再び西京を取る。杲は大軍を率いて白水濼に向かい、諸将を分遣して未だ降らざる州郡及び諸部族を招撫した。ここにおいて、遼の秦晉国王耶律捏里が燕京に自立した。山西の諸城は降ったが、人心は未だ固まらず、杲は宗望を遣わして事を奏し、なお上(皇帝)の軍への臨幸を請うた。耶律坦は西南招討司及び所属の諸部を招き、西は夏の境に至るまで皆降り、耶律佛頂もまた坦に降った。金肅・西平の二郡の漢軍四千が叛いて去り、坦は阿沙兀野・撻不野とともに新たに降った丁壮を選り分け、夜に及んでこれを襲った。翌朝、河上で戦い、その衆を大いに破り、皆武器を捨てて捕らえられた。

耶律捏里は杲に書を送って和を請い、杲は返書し、先に上国に命を稟せずして、みだりに大号を称したことを責め、もし自ら帰順するならば、燕京留守の処遇をもって遇すと述べた。捏里は再び書を寄こし、その要旨は、「先般即位の時は、両国が聘問を絶ち交戦中の際であった。奚王と文武百官が同心して推戴したので、どうして命を請う暇があろうか。今諸軍は既に集結した。もし兵を加えようとするならば、手を束ねて死を待つことはできない。昔、我が先世は、大金の人民を残害したことはなく、位階を寵賜して、日益強大となった。今この施しを忘れ、我が宗祀を絶たんと欲するは、義において如何なるものか。もし恵み顧みられれば、恩徳を感戴し、尽きることあらんや」というものであった。杲は返書して曰く、「閣下はかつて元帥たり、諸軍を統率し、任は重からざるにあらず、竟に尺寸の功も無し。一城を拠りて国兵に抗せんと欲するは、また難からずや。任用する者は、前に既に国に死せず、今誰か閣下のために用いられんとする者あらん。而して主辱しめば臣死すと言い、これに恃って成功せんと欲するは、計また疎なり。幕府は詔を奉じ、帰順する者は官とし、逆らう者は討つ。もし執迷して従わざれば、殄滅するに至るを期するのみ」と。捏里はついに使者を遣わして太祖に請うた。太祖は捏里に詔を賜い、「汝は遼に属し、位は将相に居りながら、国と存亡をともにすることができず、孤城を窃かに拠り、大号を僭称す。もし降附せざれば、後悔あらん」と。

六月、上は京師を発ち、都統に詔して曰く、「汝ら朕の親征を欲す、既に今月朔旦に啓行す。遼主は今定めて何処に在るか。何の計をもってこれを取るべきか、具に以て聞かせよ」と。杲は馬和尚をして撻魯河において太祖を奉迎せしむ。斡魯・婁室は夏の将李良輔を破り、杲は完顔希尹らをして捷を奏せしめ、かつ西南招討司諸部を内地に移すことを請わしむ。希尹らは大濼の西南において上に謁し、上はこれを嘉賞した。上は鴛鴦濼に至り、杲は謁見す。上は遼主を追って回離畛川に至り、南に燕京を伐ち、奉聖州にやどる。詔して曰く、「今より諸訴訟の書は都統杲に付して決遣せしめよ。もし大なる疑いあれば、即ち聞奏せしめよ」と。太祖は燕京を定め、還って鴛鴦濼に次ぎ、宗翰を都統とし、杲は上に従って京師に還る。

太宗即位し、杲は諳班勃極烈となり、宗幹とともに国政を治む。天会三年、宋を伐ち、杲は都元帥を領し、京師に居る。宗翰・宗望は分道して進兵す。四年、再び宋を伐ち、宋の二主を獲て帰る。

天会八年、薨ず。皇統三年、遼越国王を追封す。天徳二年、太祖廟廷に酏享す。正隆の例にて遼王に封ず。大定十五年、諡して智烈と曰う。子に孛吉あり。

宗義

宗義は本名を孛吉といい、斜也の第九子なり。天徳年間、平章政事となる。

海陵は既に太宗の子孫を殺し、特に斜也の諸子の盛強を忌み、宗室の勲旧大臣を尽く除かんと欲した。この時、左副元帥撒離喝は汴京において撻不野と隙あり、撻不野の女は海陵の妃たり、海陵は密かに撻不野に撒離喝を図らしむ。ここにおいて都元帥府令史の遙設が風指に迎合し、詐って撒離喝とその子宗安の家書を作り、宗女が誤って宮外に遺し、遙設がこれを拾い得て、変事を上告す。その書は契丹小字にて、その封題は既に開かれていた。その中に白紙一幅あり、白字が隠約として見え、水に浸したが如き状で、字画の読み得るものに至り、その上に撒離喝の手署及び某王の印あり。書の辞に云く、「阿渾、汝安楽か。早晚に闕下に到らん。前者走馬来たりし時、曾て議論せしが、我は汝の阿渾平章・謀里野阿渾等の処に事勢を覗わせ、再び往来を通じ、緩急に図謀せしむ。汝の既に嘗て備細に之を言えるを知る。謀里野阿渾の言う栎はまことに是なり、只だ撻不野を殺せば則ち南路は憂慮無し」と。詳略は互いに『撒離喝伝』に見ゆ。女直は子を「阿渾」と謂う。前の「阿渾」は撒離喝の子を謂い、その子は宗安。後の「阿渾平章」は宗義を指す。宗義は本宗室の子なれども、なお旧称あり。これにより宗義・謀里野を殺し、並びに宗安及び太祖妃蕭氏・任王隈喝及び魏王斡帶の孫活里甲を殺す。遙設の詐書には活里甲は無し。海陵はその坦率にして善く修飾するを見て、これを悪む。大臣は無罪を以て請うも、海陵曰く、「ただ殺せ、再び言うなかれ」と。斜也の子孫百余人、謀里野の子孫二十余人を殺す。謀里野は景祖の孫、謾都訶の次子なり。

斜也に幼子阿虎里あり、その妻は撻不野の女、海陵妃大氏の女兄なり。阿虎里を殺さんとし、使者はその面を見るに忍びず、衾を以て覆い縊り、その頤に当たるも、久しく死せず、及んで被を去り再び縊る。海陵は使者を遣わしてその死を赦し、遂に免る。後に王に封ぜられ、世襲千戸を授かる。

大定初年、宗義の官爵を追復し、特進を贈る。弟の蒲馬・孛論出・阿魯・隈喝は並びに龍虎衛上將軍を贈られる。

宗幹

宗幹は本名を斡本といい、太祖の庶長子なり。太祖が遼を伐つ時、遼人が来りて防ぎ、境上において遇う。宗幹に衆を率いて先に往きて塹を填めしむ、士卒は皆渡る。渤海軍は馳せ突きて前に進み、左翼の七謀克が少しく退き、遂に中軍を犯す。杲は即ち出でて戦わんとす。太祖曰く、「大敵に遇うは易うべからず」と。宗幹をして杲を止めしむ。宗幹は馳せ出でて杲の前に立ち、導騎哲垤の馬を控え止め、杲は乃ち還る。達魯古城の戦い、宗幹は中軍を以て疑兵とす。太祖は黄龍府を攻め下した後、即ち春州を取らんと欲す。遼主は黄龍の守られざるを聞き、大いに懼れ、即ち自ら将となり、宗戚豪右の少年と四方の勇士及び兵を言える者を籍し、皆軍中に隷す。宗幹は太祖に春州を攻めず、士卒を休息すべきことを勧む。太祖は然りと以為い、遂に班師す。

宗幹は降伏者を得て、春州・泰州に守備がなく、攻め取れると聞いた。そこで斜也は春州・泰州を取ると、宗雄・宗幹らは金山県を下した。宗雄は直ちに兵三千を宗幹に付属させ、未だ降伏せぬ諸部を招集させた。宗幹は土地の者で才幹ある者を選び、詔書をもってこれを諭した。そこで女固・脾室の四部及び渤海人は皆降伏した。

太祖が臨潢府を克つと、沃黒河に至った。宗幹が諫めて言うには、「地遠く時は暑く、兵は疲れ馬は疲弊している。もし深く敵境に入れば、糧秣が続かず、後難あるを恐れる」と。上はこれに従い、遂に軍を返した。都統杲に従って中京を取る。宗翰が北安州より杲に書を送る。この時、希尹が遼人を捕らえ、遼主が鴛鴦濼にいることを知り、襲撃して捕らえられることを知った。杲は決断できなかった。宗翰の使者が再び至る。宗幹が杲に言うには、「移賚勃極烈(宗翰)は事の機微を明らかに見て、再び使いを寄越して請うている。彼は必ず軽々しく挙兵する者ではない。かつ彼は既に兵を発している。中止すべきではない。その策に従うことを請う」と。再三これを言うと、杲はようやく宗翰に報じて奚王嶺で会うことにした。当時宗幹がなければ、杲は終に進兵の意思がなかったであろう。既に羊城濼で軍を合わせると、杲は宗幹と宗翰に精兵六千を率いさせて遼を襲撃させ、五院司に至った。遼主は既に遁走しており、遼の将耿守忠と西京城の東四十里で戦った。守忠は敗走した。

太宗が即位すると、宗幹は国論勃極烈となり、斜也と共に政を補佐した。天会三年、応州西の余睹穀で遼主を捕らえた。初めて礼制を議し、官名を正し、服色を定め、学校を興し、選挙を設け、暦を治め時を明らかにすることは、皆宗幹より始まった。四年、官制が施行され、内外に詔を下した。

十年、熙宗が諳班勃極烈となり、宗幹は国論左勃極烈となった。熙宗が即位すると、太傅に拝され、宗翰らと共に三省事を領した。天眷二年、太師に進み、梁宋国王に封ぜられ、朝に入っても拝礼せず、杖をついて殿上に上り、なお杖を賜わった。宗幹は足疾があり、詔して座を設けて奏事させた。間もなく、国史監修となった。皇統元年、宗幹に輦輿に乗って殿上に上ることを賜い、制詔では名を呼ばなかった。

上(熙宗)が燕京に行幸すると、宗幹は従った。病を得て、上は親しく見舞った。燕京より還り、野狐嶺に至ると、宗幹の病が重く進めず、上は親しく見舞い、軍国事について語り、上は悲泣して止まなかった。翌日、上と后が共に視に行き、后は親しく宗幹に食事を給仕し、暮れに帰った。そこで罪囚を赦し、宗幹のために病気除けの祈祷をした。数日居て、薨去した。上はこれを慟哭し、朝を七日間止めた。大臣の死で朝を止めるのは、宗幹より始まった。上は祭を致し、この日は庚戌であったが、太史が戌亥の日は哭すべからずと奏上したが、上は聞き入れず、「朕が幼少の時、太師には保傅の力があった。どうして哭さずにいられようか」と言い、慟哭した。上は誕生日に音楽を挙げなかった。上は上京に還り、その邸に臨んで殯事を視た。及び喪が上京に至ると、上は臨んで哭した。及び葬るとき、臨んでこれを視た。

海陵が簒奪して立つと、憲古弘道文昭武烈章孝睿明皇帝と追諡し、廟号を徳宗とし、旧邸を興聖宮とした。大定二年、廟号を除き、明粛皇帝と改諡した。及び海陵が庶人に廃されると、二十二年、皇太子允恭が上奏し、おおよそ次のように言った。「熙宗は世嫡として統緒を継いだことを思い、海陵は無道で帝をしいして自ら立ち、正しい昭穆を崇め、その王号を削ぎ、庶人の列に並べさせた。閑曠の地に埋め、封もせず樹もせず、既に大義を申し明らかな至公を明らかにした。海陵はその親を追崇し、廟に逆に配した。今海陵は既に庶人に廃されたが、明粛はなお帝尊の名を窃み、廟祧の数に列している。海陵の大逆は、名を正し罪を定めた。明粛もまた縁坐すべきである。当時明粛は既に殂え、乱に関与していない。臣は謂うに、明粛の帝号を削去し、ただ旧爵に従うべきである。或いは太祖の諸王で功ある例に従い、官封を加え、内外に明詔して、大義を知らしめるべきである」と。書が奏上されると、世宗は嘉納し、尚書省に議させた。そこで明粛の帝号を追削し、皇伯・太師・遼王に封じ、忠烈と諡し、妻子諸孫は皆従って降格した。明昌四年、太祖廟廷に配享された。

子は充・亮・兗・襄・袞。亮はこれが海陵庶人である。

充は本名を神士懣という。母は李氏、徒単氏はこれを己が子とした。熙宗の初め、光禄大夫を加えられた。天眷年間、汴京留守となった。皇統年間、淄国公に封ぜられ、吏部尚書となり、代王に進封され、同判大宗正事に遷った。九年、左丞相に拝された。この年、薨去した。鄭王を追封された。大定二十二年、儀同三司・左丞相に追降された。子は檀奴・元奴・耶補児・阿里白。

檀奴は帰徳軍節度使となった。阿里白は定遠大将軍・和魯忽土猛安忽鄰河謀克となった。海陵が徒単氏を弑すると、充がかつて徒単の養子であったため、これに因んで檀奴及び阿里白を併せて殺した。元奴・耶補児は世宗のもとに逃げ帰った。檀奴は栄禄大夫を贈られ、阿里白は輔国上将軍を贈られた。詔して有司に改葬させた。世宗の時、元奴は宗正丞となり、耶補児は鎮国上将軍となり、後に同知済南尹事となった。

子 永元

永元は字を惇礼といい、本名は元奴である。幼くして聡敏で、日に千言を誦した。皇統元年、宗室の子に詩を作らせて試験し、永元は合格した。『左氏春秋』に通じ、その大義を通暁した。天徳初め、百女山世襲謀克を授けられた。

海陵が宋を伐ち、既に淮を渡ったが、軍士多く亡帰し、契丹が叛いた。これにより宗室を疑うこと益々甚だしくなった。既に永元の弟檀奴・阿里白を殺し、永元は弟耶補児と共に逃げ匿れて免れた。

世宗が遼陽で即位すると、耶補児と共に来帰し、上は甚だ厚く慰労した。宗正丞を授けられ、符宝郎に改められ、灤州刺史となった。世襲猛安を授けられ、謀克を耶補児に与えることを乞うと、詔してこれを許した。棣州防禦使・泰寧軍節度使に転じた。

張弘信が山東を通検し、専ら民間の物力を多く得ることを功とし、督責は苛酷で急であった。永元は面と向かって弘信を責めて言った。「朝廷は差調が均しからぬことを以て、通検法を立てた。今使者の至る所、残酷を以て妄りに農民の田産に加え、百姓を箠撃して死に至る者がある。市肆の賈販貿易には損益があり、田園屋宇の利入には多寡がある。故官の子孫は門を閉じて自ら守り、商賈と同じく上役に処させるのは、豈に立法の本意であろうか」と。弘信は答える言葉がなかった。これにより棣州の賦税は実情を以て自ら申告することができた。震武軍節度使に遷った。

大定六年、母の喪に服し、起復して崇義軍節度使となり、順義軍に移る。朔州の西境には盗賊多く、狡猾な吏や豪族が訴訟を腐敗させ、賦役を混乱させていたが、永元はその宿弊を剔抉し、百姓は安堵した。駅人に馬を売り利を得た罪、及び浚州防禦使斡論が家畜を放って民田を踏み荒らした罪に連座し、共に解職された。間もなく、永元は起用されて保大軍節度使となり、昭義、絳陽、震武軍を歴任し、済南尹、北京副留守に遷った。

燈国家の婢の醜底が咸平の人化胡と私通し、醜底は主印の所で印を騙り取り、空紙に押印して化胡に与え、そこで永元と甯国の生年月日時辰を書き記し、永元と甯国が謀逆を企てたと誣告した。詔して有司に審問させたところ、醜底が良民となることを望み、化胡にさせたのであった。上(世宗)は言った、「化胡は醜底と私通し、悪言を捏造し、宗室を誣告して害した。化胡は斬首、醜底は処死せよ。」興中尹に改め、彰徳軍節度使となった。官にて卒す。享年五十一。喪が中都を過ぎるとき、使者を遣わして祭奠を致し、賻として銀三百両、彩十端、絹百匹を賜った。

永元は歴任して大藩を治め、民間の利害を多く知り、赴任先では治績を称えられ、相州、棣州、順義軍での政跡は特に顕著で、その民は共に祠堂を建立した。

兗は本名を梧桐という。皇統七年、左副点検となり、都点検に転ず。九年、会寧牧となり、左宣徽使に改める。海陵王が簒立すると、兗は宋より使いをして帰り、司徒兼都元帥に拝され、三省事を領し、進んで太尉に拝された。及び太祖妃蕭氏を殺害したとき、その財産を全て兗に賜った。都元帥府を廃し、枢密院を立てると、兗は枢密使となり、太尉・領三省事は元の如し。天徳四年十二月晦、薨去。翌日、貞元元年元旦、海陵王は兗のために朝を輟め、賀を受けず。宋、夏、高麗、回鶻の賀正旦使は、有司に命じてその貢献を受けさせた。追って兗に王爵を進めた。大定二十二年、追って特進に降格した。

兗の妻烏延氏は、正隆六年、奴隷と私通した罪に坐し、海陵王に殺された。その弟の南京兵馬副都指揮使習泥烈は、族弟の屋謀魯の妻と密通し、屋謀魯の奴隷が習泥烈を捕らえようと謀ったので、習泥烈はその奴隷を殺した。海陵王がこれを聞き、遂に習泥烈を殺した。

兗の子阿合は、大定年間に符宝祗候となり、間もなく同知定武軍節度使に遷った。上(世宗)は言った、「汝の年功は未だ満たず、朕は汝の祖父と父のことを思い汝を遷官する。不善を為すことなく、心を尽くして学ぶべし。」

襄は本名を永慶といい、海陵王の同母弟である。輔国上将軍となった。卒し、天徳二年、衛王を追封され、再び司徒を贈られた。大定二十二年、追って銀青光禄大夫に降格した。

子の和尚は応国公に封ぜられ、楽善と名を賜った。左宣徽使許霖の子知彰が和尚と争い、その母(襄の妃)は家奴に命じて引きずり込み凌辱させ、人を遣わして許霖を邸に曳き至らせ殴打罵詈した。翌日、許霖は朝廷に訴えた。詔して大興尹蕭玉、左丞良弼、権御史大夫張忠輔、左司員外郎王全に雑治させ、妃は杖一百、その家奴の首謀者は殺し、残りは杖刑を差等して決した。許霖はかつて妃の前に跪き、大臣の体を失い、及び訴えに虚偽があったので、笞二十に処した。

大定年間、家奴の小僧月一が和尚が熟睡している間に異様な兆しがあったと妄言し、襄の妃の僧酷はこれを真に受け、占い師の李端を召して卜わせた。李端は天子となるであろうと言い、司天の張友直も大貴すると言った。家奴の李添壽が変事を上告した。僧酷と和尚は吏に下して検問させると事実があり、皆誅殺された。上(世宗)は言った、「朕はかつて海陵が宗族を剪滅したことを痛んだ。今和尚がこのようなことをしたが、その罪を赦そうとすれば、妖妄が愚民を誤惑し、真実と信じさせてしまう。滅さざるを得ない。朕がこの子を処するのは、やむを得ざるものなり。」と、長く傷み哀れんだ。

袞は本名を蒲甲といい、また蒲家とも作る。桀驚(強情)で強悍であった。海陵王はその人となりを喜ばなかった。初め輔国上将軍となった。天徳初め、特進を加えられ、王に封ぜられ、吏部尚書となり、判大宗正事を兼ねた。禁中の起居の様子を語った罪に坐し、兵部侍郎蕭恭がまず尋ね、護衛の張九がこれを詳しく話した。海陵王が親しく問うた。蕭恭は官を奪われ解職、張九は実状を答えなかったので、特に処死、袞と翰林学士承旨宗秀、護衛麻吉、小底の王之章は皆杖刑を差等して決した。海陵王はこれよりますます彼を忌むようになった。間もなく、猛安を授かった。

及び中都に遷都するとき、途中西京留守として蒲家を任じた。西京兵馬の完顔謨盧瓦は蒲家と旧知で、共に西京にいたので、遂に往来するようになった。蒲家はかつて玉帯を彼に贈った。蒲家は謨盧瓦のぎょう勇は尉遅敬徳に劣らないと称した。編修官の円福奴の妻は蒲家と姻戚であり、円福奴はかつて蒲家に戒めて言った、「大王の名声はあまりに顕著です。少し謙遜して目立たぬようにすべきです。」と。蒲家は海陵王が自分を忌んでいることを心に知り、かつて占い師を召して吉凶を問うた。家奴の喝里は海陵王が蒲家を疑っているのを知り、変事を上告して、謨盧瓦らと謀反を企て、かつて占い師に天命を問うたと告げた。御史大夫高楨、刑部侍郎耶律慎須呂が西京に赴いて審問したが、証拠はなかった。海陵王は怒り、使者を遣わして蒲家らを中都に檻送させ、再び究問せず、市で斬首した。謨盧瓦、円福奴及び占い師は皆凌遅処死にされた。

賛して曰く、金が礼制を議し、制度を定め、爵禄を班ち、刑法を正し、暦を治めて時を明らかにし、天子の事を行い、一代の典を成したのは、杲と宗幹の経始の功が多い。杲の子の宗義は海陵王に殺され、宗幹の後裔はまた不幸にして海陵王を出した。故にその子孫の繁栄は既に少なく、また戮辱を免れなかった。秦、漢以下、宗臣の世家が国と休戚を共にした者は、何と少ないことか。君子はここにおいて、世の変遷を観ることができるであろう。