金史

列傳第十四: 太宗諸子 宗磐(本名蒲魯虎) 宗固(本名胡魯) 宗本(本名阿魯,附:蕭玉) 杲 宗幹

列傳第十四: 太宗諸子 宗磐(本名蒲魯虎) 宗固(本名胡魯) 宗本(本名阿魯,附:蕭玉) 杲 宗幹

列傳第十四 ○太宗諸子 宗磐(本名蒲魯虎) 宗固(本名胡魯) 宗本(本名阿魯,附:蕭玉) 杲 本名斜也 子:宗義(本名孛吉) 阿虎里 宗幹 本名斡本 子:充(本名神土懣 子:檀奴 永元(本名元奴)) 兗(本名梧桐) 襄(本名永慶) 袞(本名蒲甲)

太宗諸子

原文太宗諸子

太宗の子は十四人:蒲魯虎、胡魯、斛魯補、阿魯帶、阿魯補、斛沙虎、阿鄰、阿魯、鶻懶、胡里甲、神土門、斛孛束、斡烈、鶻沙。

原文太宗子十四人:蒲魯虎、胡魯、斛魯補、阿魯帶、阿魯補、斛沙虎、阿鄰、阿魯、鶻懶、胡里甲、神土門、斛孛束、斡烈、鶻沙。

宗磐

原文宗磐

宗磐は本名を蒲魯虎という。天輔五年、都統杲が中京を取ったとき、宗磐は斡魯、宗翰、宗幹とともにその副将であった。天會十年、國論忽魯勃極烈ぼっきょくれつとなった。熙宗が即位すると、尚書令となり、宋國王に封ぜられた。間もなく太師に任ぜられ、宗幹、宗翰とともに三省の事を領した。

原文宗磐本名蒲魯虎。天輔五年,都統杲取中京,宗磐與斡魯、宗翰宗幹皆為之副。天會十年,為國論忽魯勃極烈。熙宗即位,為尚書令,封宋國王。未幾,拜太師,與宗幹、宗翰並領三省事。

熙宗は宗室を優遇したが、宗翰が没した後、宗磐は日増しに跋扈した。かつて宗幹と帝の前で論争し、即座に上表して退任を求めた。烏野が奏上して言うには、「陛下は春秋に富んでおられるのに、大臣が協調しないのは、国家の福ではないと思われます」と。熙宗はそこで両者を和解させた。宗磐はますます驕慢で勝手になった。その後、熙宗の前で宗幹に向かって馬を進めようとしたとき、都點檢蕭仲恭が叱って止めた。

原文熙宗優禮宗室,宗翰沒後,宗磐日益跋扈。嘗與宗幹爭論於上前,即上表求退。烏野奏曰:「陛下富於春秋,而大臣不協,恐非國家之福。」熙宗因為兩解。宗磐愈驕恣。其後于熙宗前持馬向宗幹,都點檢蕭仲恭呵止之。

やがて左副元帥撻懶たつらん、東京留守宗雋が朝廷に入ると、宗磐はひそかに彼らと党を結び、宗雋は右丞相となり、権力を握った。撻懶は家柄が尊く、功績も多かったが、先に劉豫を推薦して齊帝に立て、この時になって河南・陝西を宋に与えて臣と称させることを提唱した。熙宗が群臣に議論させると、宗室の大臣はそれができないと言った。宗磐、宗雋がこれを助け、ついに宋に与えることになった。その後、宗磐、宗雋、撻懶が乱を謀ると、宗幹、希尹がその事を発覚させ、熙宗は詔を下して彼らを誅殺した。宴飲に同席した者は皆、貶降・削奪・決罰の処分に差があった。その弟斛魯補ら九人は赦免し、また撻懶を赦して行台左丞相に出した。

原文既而左副元帥撻懶、東京留守宗雋入朝,宗磐陰相黨與,而宗雋遂為右丞相,用事。撻懶屬尊,功多,先薦劉豫,立為齊帝,至是唱議以河南、陝西與宋,使稱臣。熙宗命群臣議,宗室大臣言其不可。宗磐、宗雋助之,卒以與宋。其後宗磐、宗雋、撻懶謀作亂,宗幹、希尹發其事,熙宗下詔誅之。坐與宴飲者,皆貶削決責有差。赦其弟斛魯補等九人,並赦撻懶,出為行台左丞相。

皇后の誕生日に、宰相・諸王・妃・主・命婦が入朝して祝賀した。熙宗は音楽を止めるよう命じ、「宗磐らは皆近い親族でありながら、逆謀を構えたので、心情的に楽しむことができない」と言った。黄金の合子と二つの銀鼎を明德宮の太皇太后に献上し、また金の合子と銀鼎を宗幹と希尹に賜った。

原文皇后生日,宰相諸王妃主命婦入賀。熙宗命去樂,曰:「宗磐等皆近屬,輒構逆謀,情不能樂也。」以黃金合及兩銀鼎獻明德宮太皇太后,並以金合、銀鼎賜宗幹、希尹焉。

宗固

原文宗固

宗固は本名を胡魯という。天會十五年、燕京留守となり、豳王に封ぜられた。宗雅は本名を斛魯補といい、代王に封ぜられた。宗偉は本名を阿魯補といい、虞王に封ぜられた。宗英は本名を斛沙虎といい、滕王に封ぜられた。宗懿は本名を阿鄰といい、薛王に封ぜられた。宗本は本名を阿魯といい、厚王に封ぜられた。鶻懶は翼王に封ぜられた。宗美は本名を胡里甲といい、豊王に封ぜられた。神土門は鄆王に封ぜられた。斛孛束は霍王に封ぜられた。斡烈は蔡王に封ぜられた。宗哲は本名を鶻沙といい、畢王に封ぜられた。皆、天眷元年に封を受けた。宗順は本名を阿魯帶といい、天會二年に薨じ、皇統五年に金紫光禄大夫を追贈され、後に徐王に封ぜられた。

原文宗固本名胡魯。天會十五年為燕京留守,封豳王。宗雅本名斛魯補,封代王。宗偉本名阿魯補,封虞王。宗英本名斛沙虎,封滕王。宗懿本名阿鄰,封薛王。宗本本名阿魯,封厚王。鶻懶封翼王。宗美本名胡里甲,封豐王。神土門封鄆王。斛孛束封霍王。斡烈封蔡王。宗哲本名鶻沙,封畢王。皆天眷元年受封。宗順本名阿魯帶,天會二年薨,皇統五年贈金紫光祿大夫,後封徐王。

宗磐が誅殺された後、熙宗は宗固の子の京を燕京に遣わして宗固を慰諭させた。やがて翼王鶻懶がまた行台左丞相撻懶と謀反を企てて誅殺された。詔して言うには、「燕京留守豳王宗固らについて、ある者は属籍を絶つべきだと言うが、朕はそれに忍びない。宗固らはただ皇叔と称することができないだけで、その母や妻の封号が従って降格される者は、よく旧典に照らして処理せよ」と。皇統二年、再び宗雅を代王に封じた。宗固は判大宗正となり、六年、太保・右丞相兼中書令となった。この年、薨じた。

原文宗磐既誅,熙宗使宗固子京往燕京慰諭宗固。既而翼王鶻懶複與行台左丞相撻懶謀反伏誅。詔曰:「燕京留守豳王宗固等或謂當絕屬籍,朕所不忍。宗固等但不得稱皇叔,其母妻封號從而降者,審依舊典。」皇統二年,複封宗雅為代王。宗固為判大宗正,六年,為太保、右丞相兼中書令。是歲,薨。

海陵王は熙宗の時代に、太宗の諸子の勢力が強く、宗磐が特に跋扈し、鶻懶と相次やどいで皆逆罪で誅殺されたのを見て、心に忌み嫌った。熙宗は宗室に厚く、礼遇は衰えなかった。海陵王はかつて秉德、唐括辯とひそかに議論し、主上は太宗の諸子をあまりにも寵遇すべきではないと言った。帝位を簒奪して立つと、太廟に謁して奠した。韓王亨は平素から武勇に優れていると評されていたので、右衛将軍を摂行させ、密かに諭して言うには、「卿はこの職を軽んじてはならない。朕は太宗の諸子があまりにも強いのを疑っている。卿が左右を衛護すれば、憂いがなくなるであろう」と。そこで秘書監蕭裕と謀って宗本兄弟を除こうとした。太宗の子孫はここに尽き、その話は『宗本伝』の中にある。

原文海陵在熙宗時,見太宗諸子勢強,而宗磐尤跋扈,與鶻懶相繼皆以逆誅,心忌之。熙宗厚於宗室,禮遇不衰。海陵嘗與秉德、唐括辯私議,主上不宜寵遇太宗諸子太甚。及篡立,謁奠太廟。韓王亨素號材武,使攝右衛將軍,密諭之曰:「爾勿以此職為輕,朕疑太宗諸子太強,得卿衛左右,可無慮耳。」遂與秘書監蕭裕謀去宗本兄弟。太宗子孫於是焉盡,語在《宗本傳》中。

宗本

原文宗本

宗本は本名を阿魯という。皇統九年、右丞相兼中書令となり、太保に進み、三省事を鄰した。海陵が帝位を簒奪すると、太傅に進み、三省事を領した。

原文宗本本名阿魯。皇統九年,為右丞相兼中書令,進太保,鄰三省事。海陵篡立,進太傅,領三省事。

初め、宗幹が宗磐を誅殺しようと謀ったので、海陵は太宗の諸子を内心忌んでいた。熙宗の時、海陵はひそかに宗本らの勢力が強いと論じ、主上はあまりに厚く寵遇すべきではないと言った。帝位を簒奪すると、猜疑の心はますます深まり、ついに秘書監蕭裕と謀って太宗の諸子を殺害した。秉徳が行台を領して出ることになり、宗本と別れる際、酒宴を開いて、内外呼応することを約したと誣告した。尚書省令史蕭玉を使わして、宗本が親しく蕭玉に言ったと告げさせた。「汝は我が旧知であるから、必ず他意はないであろう、腹心の事を告げることができる。鄰省(秉徳)が臨行に際し、彼は外で軍民に説き、外患を憂慮するなと言った。もし太傅が内応すれば、何事か成らざらん」と。また言った。「長子の鎖里虎は大いに貴ぶべきである、それゆえ主上に会わせないようにしている」と。宗本はまた言った。「左丞相(秉徳)は我及び我が妃のところで、主上が近ごろ彼を見るやすぐに喜ばれないので、常に心中恐れている、もし太傅が一日大位を得れば、この心は初めて安らぐであろう」と。唐括辯が宗本に言った。「内侍の張彦は相を見るのが上手く、太傅には天子の相があると言った」と。宗本は答えて言った。「宗本には兄の東京留守(宗懿)がいる、宗本にどうしてそんなことができようか」と。時に宗美が言った。「太傅こそまさに太宗の主家の子である、ただ太傅が便ち北京留守となるべきである」と。卞は臨行に宗本に言った。「事は遅らせることはできない」と。宗本は蕭玉に言った。「大計はただ近日の囲場内で決する」と。宗本はそこで馬一匹、袍一領を蕭玉に与え、表識の物とした。蕭玉は囲場の日が近づき、身が外に縛られて、親しく上奏できないことを恐れ、そこで秘書監蕭裕に告げた。蕭裕はことごとくこれを聞かせた。

原文初,宗幹謀誅宗磐,故海陵心忌太宗諸子。熙宗時,海陵私議宗本等勢強,主上不宜優寵太甚。及篡立,猜忌益深,遂與秘書監蕭裕謀殺太宗諸子。誣以秉德出領行台,與宗本別,因會飲,約內外相應。使尚書省令史蕭玉告宗本親謂玉言:「以汝於我故舊,必無它意,可布腹心事。鄰省臨行,言彼在外諭說軍民,無以外患為慮。若太傅為內應,何事不成。」又雲:「長子鎖里虎當大貴,因是不令見主上。」宗本又言:「左丞相于我及我妃處,稱主上近日見之輒不喜,故心常恐懼,若太傅一日得大位,此心方安。」唐括辯謂宗本言:「內侍張彥善相,相太傅有天子分。」宗本答曰:「宗本有兄東京留守在,宗本何能為是。」時宗美言「太傅正是太宗主家子,秪太傅便合為北京留守。」卞臨行與宗本言「事不可遲」。宗本與玉言「大計只於日近圍場內予決」。宗本因以馬一匹、袍一領與玉,充表識物。玉恐圍場日近,身縻於外,不能親奏,遂以告秘書監蕭裕。裕具以聞。

蕭玉(附)

原文蕭玉(附)

蕭玉は宗本の家に出入りし、親信は家人のようであった。海陵は既に蕭裕と謀って宗本・秉徳を殺害し、天下に詔を下したが、天下が宗本・秉徳らが皆懿親の大臣であり、本来反状がなく、蕭裕がその事を構成し、また蕭玉が宗本と厚く、人の知るところであることを恐れ、蕭玉に変事を上告させれば、ほぼ信を示すことができると考えた。そこで人を使わして宗本らを召し撃鞠をさせ、海陵は先に楼に登り、左衛将軍徒単特思及び蕭裕の妹婿で近侍局副使の耶律辟離刺小底に密かに宗本及び判大宗正事宗美を伺わせ、到着次第、即座に殺させた。宗美は本名を胡里甲といい、臨死に神色変ぜず。

原文蕭玉出入宗本家,親信如家人。海陵既與蕭裕謀殺宗本、秉德,詔天下,恐天下以宗本、秉德輦皆懿親大臣,本無反狀,裕構成其事,而蕭玉與宗本厚,人所共知,使玉上變,庶可示信。於是使人召宗本等擊鞠,海陵先登樓,命左衛將軍徒單特思及蕭裕妹婿近侍局副使耶律辟離刺小底密伺宗本及判大宗正事宗美,至,即殺之。宗美本名胡里甲,臨死神色不變。

宗本が既に死ぬと、蕭裕は人を使わして蕭玉を召した。この日、蕭玉は客を送って城外に出、酒に酔い、髪を露わにし衣を披き、車に載せられて蕭裕の弟の点検蕭祚の家に至った。日暮れに及んで、蕭玉は酒が醒め、軍士が囲んで守っているのを見て、人の累に連なって罪を得たと思い、故にここに至ったのだと考えた。頭で屋壁に触れ、号咷して言った。「臣は未だ罪を犯したことはありません、老母は年七十、哀れみ憐れんでください」と。蕭裕は耳に附けて告げて言った。「主上は宗本ら諸人を留めておくことはできないと考え、既に誅殺した、反罪を加えようとし、汝に主としてその事を告げさせようとしている。今汝の告款は既に具わっている、上は即座に汝に問うであろう、汝はただ宗本らが反逆したことを状の如く言い、再び異なる言葉を出すな、禍が汝の家に及ぶことを恐れる」と。蕭裕はそこで巾服を蕭玉に与え、引見して海陵に会わせた。海陵が蕭玉に問うと、蕭玉は宗本が反逆したと述べ、ことごとく蕭裕が教えた通りであった。

原文宗本已死,蕭裕使人召蕭玉。是日,玉送客出城,醉酒,露發披衣,以車載至裕弟點檢蕭祚家。逮日暮,玉酒醒,見軍士圍守之,意為人所累得罪,故至此。以頭觸屋壁,號咷曰:「臣未嘗犯罪,老母年七十,願哀憐之。」裕附耳告之曰:「主上以宗本諸人不可留,已誅之矣,欲加以反罪,令汝主告其事。今書汝告款已具,上即問汝,汝但言宗本輩反如狀,勿複異詞,恐禍及汝家也。」裕乃以巾服與玉,引見海陵。海陵問玉。玉言宗本反,具如裕所教。

海陵は使者を遺わして東京留守宗懿・北京留守卞を殺させた。また益都尹畢王宗哲・平陽尹稟・左宣徽使京らを遷し、家屬を別の所に分置し、ただ各奴婢五人を以て自ら随うことを聴すのみとした。既にして人を使わして路上で要撃し、その子男子たるや少長無く皆殺した。而して中京留守宗雅は仏事を喜び、世に「善大王」と称されたが、海陵はその無能を知り、これを存して太宗に奉ぜしめようとした。後に召して関に至らせ、数日も経たず、ついにこれを殺した。太宗の子孫の死者は七十余人に及び、太宗の後は遂に絶えた。卞は本名を可喜という。稟は本名を胡離改という。京は宗固の子で、本名を胡石賚という。

原文海陵遺使殺東京留守宗懿、北京留守卞。及遷益都尹畢王宗哲、平陽尹稟、左宣徽使京等,家屬分置別所,止聽各以奴婢五人自隨。既而使人要之于路,並其子男無少長皆殺之。而中京留守宗雅喜事佛,世稱「善大王」,海陵知其無能,將存之以奉太宗。後召至關,不數日,竟殺之。太宗子孫死者七十余人,太宗後遂絕。卞本名可喜。稟本名胡離改。京,宗固子,本名胡石賚。

蕭玉が既に蕭裕の教えの通り海陵に対すると、海陵は遂に宗本・秉徳らの罪を以て天下に詔し、蕭玉の上変を以てこれを実証した。

原文蕭玉既如蕭裕教對海陵,海陵遂以宗本、秉德等罪詔天下,以玉上變實之。

海陵は太府監完顔かんがん馮六に宗本諸家の籍没をさせ、戒めて言った。「珠玉金帛は官に入れ、什器は我が諸臣に分け賜わん」と。馮六はこれにより再び什器の籍没を拘わらず、往往人の持去るに任せ、馮六の家童もその檀木屏風を取った。少監劉景は以前監丞であった時、太府監が火災に遭い、案牘ことごとく焼失し、数ヶ月を経て諸司の簿帳を取ってこれを補い、監吏はこれにより稽緩の罪に坐し、罪を得るべきであった。劉景が吏として、年月を倒署した。太倉都監焦子忠は劉景と旧知であり、逋負の罪に坐し、久しく調を得られなかったが、劉景は尽力してこれを出した。久しくして、馮六と劉景が宮中で相忿争し、馮六は劉景の倒署年月及び焦子忠を出した事を言った。御史が劾奏して劉景を弾劾し、劉景の与党は馮六の家奴を誘って盗んだ屏風の事を発かせた。馮六は尚書省に自陳した。海陵は御史大夫趙資福・大理少卿許竑に雑治させた。資福らは馮六が自ら盗んだのではなく、また嘗て自首したと奏上した。海陵は平素より馮六が宗室と遊従することを悪み、宰臣に謂って言った。「馮六は嘗て盗んだ物を用いた、その自首はこれに及ばない。法によれば、宮中の物を盗めば死罪である、諸物は既に籍没して官に入った、宮中の物と何の異なることがあろうか」と。馮六に謂って言った。「太府は宮中の財賄を掌る、汝は奸欺を防制すべきであるのに、自ら盗物を用いた」と。ここにおいて、馮六は棄市に処し、資福・許竑は獄を鞫すること尽くさずの罪に坐し、決杖に差等があった。劉景もまた焦子忠より賂の金を受けたことを伏した。海陵は言った。「金を受けた事には左証がない、劉景が年月を倒署して、吏の罪を免れた、これは恕すべからざるである」と。遂にこれを殺した。

原文海陵使太府監完顏馮六籍宗本諸家,戒之曰:「珠玉金帛入於官,什器吾將分賜諸臣。」馮六以此不復拘籍什器,往往為人持去,馮六家童亦取其檀木屏風。少監劉景前為監丞時,太府監失火,案牘盡焚毀,數月方取諸司簿帳補之,監吏坐是稽緩,當得罪。景為吏,倒署年月。太倉都監焦子忠與景有舊,坐逋負,久不得調,景為盡力出之。久之,馮六與景就宮中相忿爭,馮六言景倒署年月及出焦子忠事。禦史劾奏景,景党誘馮六家奴發盜屏事。馮六自陳於尚書省。海陵使御史大夫趙資福、大理少卿許竑雜治。資福等奏馮六非自盜,又嘗自首。海陵素惡馮六與宗室遊從,謂宰臣曰:「馮六嘗用所盜物,其自首不及此。法,盜宮中物者死,諸物已籍入官,與宮中物何異。」謂馮六曰:「太府掌宮中財賄,汝當防制奸欺,而自用盜物。」於是,馮六棄市,資福、竑坐鞫獄不盡,決杖有差。景亦伏受焦子忠賂金。海陵曰:「受金事無左驗,景倒署年月,以免吏罪,是不可恕。」遂殺之。

大定二年、宗固を追封して魯王とし、宗雅を曹王とし、宗順を隋王とし、宗懿を鄭王とし、宗美を衛王とし、宗哲を韓王とし、宗本を潞王とし、神土門を豳王とし、斛孛束を瀋王とし、斡烈を鄂王とし、胡里改・胡什賚・可喜には並びに金吾衛上将軍を贈った。ただ宗磐・阿魯補・斛沙虎・鶻懶の四人は再び加封しなかった。

原文大定二年,追封宗固魯王、宗雅曹王、宗順隋王、宗懿鄭王、宗美衛王、宗哲韓王、宗本潞王、神土門豳王、斛孛束瀋王、斡烈鄂王,胡里改、胡什賚、可喜並贈金吾衛上將軍,惟宗磐、阿魯補、斛沙虎、鶻懶四人不復加封。

蕭玉は奚人である。既に蕭裕に従って宗本の罪を誣ってから、海陵は大いに喜び、尚書省令史より礼部尚書に抜擢し特進を加え、銭二千萬・馬五百匹・牛五百頭・羊千口を賜い、数ヶ月で参知政事となった。母の喪に服したが、参知政事として起復し、俄かに猛安もうあんを授けられ、子は公主を娶った。海陵は蕭玉に謂って言った。「朕が天下を得た初め、常に太宗の諸子が方に強きを患えていたが、社稷の霊に頼り、卿がその奸を発した。朕はこの功に報いる術がなく、朕の女を卿の男の婦とし、朕に代わって卿に事えしめん」と。第一等の邸宅一区を賜い、宗本の家財を分けてこれを賜った。間もなく、張浩に代わって尚書右丞となり、平章政事を拝し、進んで右丞相を拝し、陳国公に封ぜられた。

原文蕭玉,奚人。既從蕭裕誣宗本罪,海陵喜甚,自尚書省令史為禮部尚書加特進,賜錢二千萬、馬五百匹、牛五百頭、羊千口,數月為參知政事。丁母憂,以參政起複,俄授猛安,子尚公主。海陵謂玉曰:「朕始得天下,常患太宗諸子方強,賴社稷之靈,卿發其奸。朕無以報此功,使朕女為卿男婦,代朕事卿也。」賜第一區,分宗本家貲賜之。頃之,代張浩為尚書右丞,拜平章政事,進拜右丞相,封陳國公。

文思署令閻拱と太子詹事張安の妻が姦通の罪に連座し、獄が決したが、訊問すべきでないのに訊問した。海陵は怒り、張玉と左丞蔡松年・右丞耶律安禮・御史中丞馬諷にそれぞれ決杖を下した。張玉らが入って謝罪した。海陵は言った、「人臣たる者が己の意のままに愛憎を抱き、妄りに威福をなして人を畏れさせることがある。唐の魏徴・狄仁傑・姚崇・宋璟のごときは、どうして威を立てて人を畏れさせようか。楊国忠の徒こそ威を立てて人を畏れさせたのだ。」左司郎中吾帯・右司郎中梁球を顧みて言った、「かつて徳宗が宰相であった時、蕭斛律が左司郎中、趙徳恭が右司郎中であったが、官吏の任免や法の議定に、多く己の意を用いた。汝らが己の意の愛憎によって予奪軽重をなさず、それもまた善いことではないか。朕は汝らを信任するが、過ちがあれば決責するのも、やむを得ないことだ。古より大臣に罪あれば、数千里外に貶謫し、往来奔走に疲れ、道路に死する者もあった。朕はそうではない。過ちあれば杖で打ち、杖を加えた後は初めのごとく任用する。もし赦すべからざる者があれば、あるいは死に処すことも、また知れない。汝ら自ら努めよ。」

原文文思署令閻拱與太子詹事張安妻坐奸事,獄具,不應訊而訊之。海陵怒,玉與左丞蔡松年、右丞耶律安禮、禦史中丞馬諷決杖有差。玉等入謝罪。海陵曰:「為人臣以己意愛憎,妄作威福,使人畏之。如唐魏征、狄仁傑、姚崇、宋璟,豈肯立威使人畏哉,楊國忠之徒乃立威使人畏耳。」顧謂左司郎中吾帶、右司郎中梁球曰:「往者德宗為相,蕭斛律為左司郎中,趙德恭為右司朗中,除吏議法,多用己意。汝等能不以己意愛憎為予奪輕重,不亦善乎。朕信任汝等,有過則決責之,亦非得已。古者大臣有罪,貶謫數千里外,往來疲於奔走,有死道路者。朕則不然,有過則杖之,已杖則任之如初。如有不可恕,或處之死,亦未可知。汝等自勉。」

正隆三年、司徒に拝し、大宗正事を判ず。五年、張玉は司徒として御史大夫を兼ねた。参知政事李通に命じて旨を諭させた、「判宗正の職は固より重いが、御史大夫は特にその人を得ることが難しい。朕はまさに南京に行幸せんとしているが、官吏多く不法に賄賂を受けている。卿は専ら糾劾に当たり、細務は責めるところではない。御史大夫と宰執とは遠からず、朕が南京に至れば、徐々に考えよう。」続いて司徒として大興尹を判ずることとなったが、張玉は固く司徒を辞した。海陵は言った、「朕は南巡せんとしている。京師の地は重く、大臣でなければ鎮撫できない。卿を留めて居守とし、多く譲るなかれ。」海陵が南京に至ると、張玉を尚書左丞相とし、呉国公に進封した。

原文正隆三年,拜司徒,判大宗正事。五年,玉以司徒兼御史大夫。使參知政事李通諭旨曰:「判宗正之職固重,御史大夫尤難其人。朕將行幸南京,官吏多不法受賕,卿宜專糾劾,細務非所責也。御史大夫與宰執不相遠,朕至南京,徐當思之。」繼以司徒判大興尹,玉固辭司徒。海陵曰:「朕將南巡,京師地重,非大臣不能鎮撫,留卿居守,無為多讓。」海陵至南京,以玉為尚書左丞相,進封吳國公。

海陵は宋を伐たんとし、群臣に宴を賜うに当たり、張玉を顧みて言った、「卿はかつて書を読んだことがあるか。」答えて言った、「かつて見たこともあります。」宴も中頃、海陵は立ち上がり、すぐに張玉を内閣に召し出し、そこで『漢書』一冊を張玉に示した。やがてそれを投げ捨てて言った、「これは問うところではない。朕は卿と事を議したい。朕は今、江南を伐たんとしているが、卿はどう思うか。」張玉は答えて言った、「不可です。」海陵は言った、「朕は宋国を掌握の間に在るが如く見ている。どうして不可なのか。」張玉は言った、「天は長江をもって南北を限り、舟楫は我が長ずるところではありません。苻堅が百万をもって晋を伐ち、一騎も渡ることができなかった。これをもって不可と知るのです。」海陵は怒り、叱りつけて出させた。後に張浩が周福児を通じて奏上した時、海陵は張浩を杖打ちし、同時に張玉も杖打ちした。そこで群臣に言った、「張浩は大臣であるのに、面と向かって奏上せず、人を通じて言葉を伝えるとは、軽率も甚だしい。張玉が苻堅を朕に比べた。朕はその舌を断ち、釘で打ちつけて磔にせんとしたが、張玉に功があったので、今まで忍んできた。大臣を決責するのは、痛みは汝らの体に及ぶが、朕自身にあるが如く、やむを得ざる者がある。汝らよく心得よ。」

原文海陵將伐宋,因賜群臣宴,顧謂玉曰:「卿嘗讀書否?」對曰:「亦嘗觀之。」中宴,海陵起,即召玉至內閤,因以《漢書》一冊示玉。既而擲之曰:「此非所問也,朕欲與卿議事。朕今欲伐江南,卿以為如何?」玉對曰:「不可。」海陵曰:朕視宋國猶掌握間耳,何為不可。」玉曰:「天以長江限南北,舟楫非我所長。苻堅百萬伐晉,不能以一騎渡,以是知其不可。」海陵怒,叱之使出。及張浩因周福兒附奏,海陵杖張浩,並杖玉。因謂群臣曰:「浩大臣,不面奏,因人達語,輕易如此。玉以苻堅比朕,朕欲斷其舌,釘而礫之,以玉有功,隱忍至今。大臣決責,痛及爾體,如在朕躬,有不能已者,汝等悉之。」

海陵が自ら将として南京を発つに及び、張玉と張浩は留まって省事を治めた。世宗が即位すると、奉国上将軍に降格し、田里に帰され、賜わった家産を奪われた。久しくして、孟州防禦使として起用された。世宗は戒めて言った、「かつて海陵は太宗の子孫を殺さんとし、汝を借りて証とし、遂に進用された。朕は思うに、海陵が暴虐をふるい、先に宗本ら諸人を殺し、その後で汝を用いてその事を質成したのだ。どうして専ら汝らの罪とせん。今再び汝を用いるが、過ちを改めることを思え。もしかつて要地に居たことを以て、今日を不足と考えるならば、必ず罰して赦さない。」定海軍節度使に転じ、太原尹に改めたが、少尹烏古論掃喝と互いに不公の事を訟え、それぞれ一官を削られ、解職された。まもなく卒した。

原文及海陵自將發南京,玉與張浩留治省事。世宗即位,降奉國上將軍,放歸田里,奪所賜家產。久之,起為孟州防禦使。世宗戒之曰:「昔海陵欲殺太宗子孫,借汝為證,遂被進用。朕思海陵肆虐,先殺宗本諸人,然後用汝質成其事,豈得專罪汝等。今複用汝,當思改過。若謂嘗居要地,以今日為不足,必罰無赦。」轉定海軍節度使,改太原尹,與少尹烏古論掃喝互訟不公事,各削一官,解職,尋卒。

子に徳用がいる。大定二十四年、尚書省が張玉の子徳用を昇除すべきと奏上した。上は言った、「海陵は張玉を口実としてその毒を快くした。張玉の子をどうして昇除できようか。」

原文子德用。大定二十四年,尚書省奏玉子德用當升除,上曰:「海陵假口於玉以快其毒,玉子豈可升除邪。」

賛に曰く、宗磐はかつて斜也に従って中京を取った。功労がないとは言えない。世禄にして礼を欠くことは、古よりあることである。国家においては、善く保全の道を為すのみである。熙宗は宗磐を殺しながらその母后を存恤した。情を矯めたとはいえ、なお物論を畏れた。海陵は謀を造り、宗本兄弟を殺すに余力を遺さなかった。太宗は宋を挙げて中原を得た。金の百世遷らざる廟である。再伝して噍類無く、ここにおいて太祖の美意は再び幾微も存すること無し。春秋の世、宋公は与夷を捨ててその弟を立て、禍は数世に延び、害は五国に及んだ。誠に後世の鑑とすべきであろう。

原文贊曰:宗磐嘗從斜也取中京,不可謂無勞伐者,世祿鮮禮,自古有之,在國家善為保全之道耳。熙宗殺宗磐而存恤其母后,雖雲矯情,猶畏物論。海陵造謀,殺宗本兄弟不遺餘力。太宗舉宋而有中原,金百世不遷之廟也,再傳而無噍類,於是太祖之美意無複幾微存者。春秋之世,宋公舍與夷而立其弟,禍延數世,害及五國,誠足為後世監乎。

杲

原文杲

杲は本名を斜也といい、世祖の第五子、太祖の同母弟である。収国元年、太宗が諳班あんばん勃極烈となり、杲は国論呉勃極烈となった。天輔元年、杲は兵一万をもって泰州を攻め、金山県を下し、女固・脾室四部及び渤海人皆来降し、遂に泰州を克した。城中の積粟を転じて烏林野に致し、先に降った諸部を賑い、これにより内地に移した。

原文杲本名斜也,世祖第五子,太祖母弟。收國元年,太宗為諳班勃極烈,杲為國論吳勃極烈。天輔元年,杲以兵一萬攻泰州,下金山縣,女固、脾室四部及渤海人皆來降,遂克泰州。城中積粟轉致烏林野,賑先降諸部,因徙之內地。

天輔五年、忽魯勃極烈となり、内外諸軍を都統し、中京(実は北京)を取った。蒲家奴ほかど・宗翰・宗幹・宗磐が副となり、宗峻は合紮猛安を領し、皆金牌を受け、耶律余睹が郷導となった。詔して曰く、「遼の政綱を失い、人神共に棄つ。今、中外を一統せんと欲し、故に汝に命じて大軍を率い、討伐を行わしむ。汝は兵事を慎重にし、善謀を用いることを択べ。賞罰必ず行い、糧餉必ず継げ。降服する者を擾さず、俘掠を縦すなかれ。見るべきあれば進み、師期を淹留するなかれ。事に従権するありとも、煩わしく奏稟するなかれ。」また詔して曰く、「もし中京を克せば、得たる礼楽図書文籍は、並びに先次に律を発して闕に赴かしめよ。」

原文天輔五年,為忽魯勃極烈,都統內外諸軍,取中京實北京也,蒲家奴、宗翰、宗幹、宗磐副之,宗峻領合紮猛安,皆受金牌,耶律餘睹為鄉導。詔曰:「遼政不綱,人神共棄。今欲中外一統,故命汝率大軍,以行討伐。爾其慎重兵事,擇用善謀。賞罰必行,糧餉必繼。勿擾降服,勿縱俘掠。見可而進,無淹師期。事有從權,毋煩奏稟。」複詔曰:「若克中京,所得禮樂圖書文籍,並先次律發赴闕。」

この時、中京を守る遼人は、師の期を知り、芻糧を焚き、住民を移して遁去せんとした。奚王霞末は、我が兵少なければ迎え戦い、もし敵わなければ退いて山西を保たんとした。杲は遼人に闘志無きを知り、輜重しちょうを委ね、軽兵をもってこれを撃った。六年正月、高・恩・回紇の三城を克し、中京に進んだ。遼兵は皆戦わずして潰え、遂に中京を克した。馬一千二百・牛五百・駝一百七十・羊四万七千・車三百五十両を獲た。乃ち兵を分けて要害の地に屯守せしめた。中京に兵を駐め、使者をして捷を奏し、俘を献ぜしめた。詔して曰く、「汝ら外に兵を提げ、任に克く副い、城邑を攻め下し、人民を撫安す。朕は甚だこれを嘉す。将士を分遣して山前諸部を招降し、計らくは既に撫定せり。山后もし往くべからざれば、即ち田を営み牧し、秋の大挙を俟て、更に熟議すべし。見るべきあれば行え。もし兵を益さんと欲すれば、数を具して上れ。一戦の勝ちに恃みて、輒ち自ら弛慢するなかれ。降附を善く撫存し、将士に宣諭して、朕の意を知らしめよ。」

原文當是時,遼人守中京者,聞知師期,焚芻糧,欲徙居民遁去。奚王霞未則欲視我兵少則迎戰,若不敵則退保山西。杲知遼人無鬥志,乃委輜重,以輕兵擊之。六年正月,克高、恩回紇三城,進至中京。遼兵皆不戰而潰,遂克中京。獲馬一千二百、牛五百、駝一百七十、羊四萬七千、車三百五十兩。乃分兵屯守要害之地。駐兵中京,使使奏捷、獻俘。詔曰:「汝等提兵於外,克副所任,攻下城邑,撫安人民,朕甚嘉之。分遣將士招降山前諸部,計已撫定。山后若未可往,即營田牧,俟秋大舉,更當熟議,見可則行。如欲益兵,具數來上。無恃一戰之勝,輒自弛慢。善撫存降附,宣諭將士,使知朕意。」

完顔歓都の遊兵が中京の南に出て、騎兵三十余りに遇い、欺いて言った、「乞う、明朝ここに来て降らん。」杲はこれを信じ、温迪痕阿里出・納合鈍恩・蒲察ほさつ婆羅偎・諸甲抜剔鄰をしてこれを迎えさせた。奚王霞末の兵が阿里出らを囲んだ。遂に坂に拠り馬を去り、皆殊死しゅしに戦い、霞末の兵を破り、暮れに至るまで追撃して還った。この役、納合鈍恩の功が多かった。

原文完顏歡都遊兵出中京南,遇騎兵三十餘紿曰:「乞明旦來降於此。」杲信之,使溫蒂痕阿里出、納合鈍恩、蒲察婆羅偎、諸甲拔剔鄰往迎之。奚王霞末兵圍阿里出等。遂據阪去馬,皆殊死戰,敗霞末兵,追殺至暮而還。是役,納合鈍恩功為多。

宗翰は北安州を降し、希尹は遼の護衛習泥烈を捕らえ、遼主が鴛鴦濼で狩猟中であると聞き、襲撃して捕らえることができると述べた。宗翰は杲に文書を送り、進軍を請うた。使者を再び遣わし、「機会を一度失えば、事を図るは難し」と言った。杲の意向はなお決していなかった。宗幹が杲に宗翰の策に従うべきことを勧め、杲はついに宗翰と奚王嶺で会合することを約した。会合後、初めて議を定め、杲は青嶺より出で、宗翰は瓢嶺より出で、羊城濼で軍を会することを期した。時に遼主は草濼におり、宗翰と宗幹に精兵六千を率いてこれを襲撃させた。遼主は西に走り、その都統馬哥は搗里に向かった。宗翰は撻懶に兵一千を率いてこれを撃たせた。撻懶は都統杲に増兵を請い、遼の枢密使得里底父子を捕らえた。

原文宗翰降北安州,希尹獲遼護衛習泥烈,言遼主在鴛鴦濼畋獵,可襲取之。宗翰移書於杲,請進兵。使者再往,曰:「一失機會,事難圖矣。」杲意尚未決。宗幹勸杲當從宗翰策,杲乃約宗翰會奚王嶺。既會,始定議,杲出青嶺,宗翰出瓢嶺,期羊城濼會軍。時遼主在草濼,使宗翰與宗幹率精兵六千襲之。遼主西走,其都統馬哥趨搗里。宗翰遣撻懶以兵一千往擊之。撻懶請益兵於都統杲,而獲遼樞密使得里底父子。

西京は既に降ったがまた叛き、杲は使者を遣わしてこれを招いたが従わず、ついにこれを攻撃した。留守蕭察刺は城を越えて降った。四月、再び西京を取る。杲は大軍を率いて白水濼に向かい、諸将を分遣して未だ降らざる州郡及び諸部族を招撫した。ここにおいて、遼の秦晉国王耶律捏里が燕京に自立した。山西の諸城は降ったが、人心は未だ固まらず、杲は宗望を遣わして事を奏し、なお上(皇帝)の軍への臨幸を請うた。耶律坦は西南招討司及び所属の諸部を招き、西は夏の境に至るまで皆降り、耶律佛頂もまた坦に降った。金肅・西平の二郡の漢軍四千が叛いて去り、坦は阿沙兀野・撻不野とともに新たに降った丁壮を選り分け、夜に及んでこれを襲った。翌朝、河上で戦い、その衆を大いに破り、皆武器を捨てて捕らえられた。

原文西京已降得叛,杲使招之不從,遂攻之。留守蕭察刺逾城降。四月,複取西京。杲率大軍趨白水濼,分遣諸將招撫未降州郡及諸部族。於是,遼秦晉國王耶律捏里自立於燕京。山西諸城雖降,而人心未固,杲遣宗望奏事,仍請上臨軍。耶律坦招西南招討司及所屬諸部,西至夏境皆降,耶律佛頂亦降於坦。金肅、西平二郡漢軍四千叛去,坦與阿沙兀野、撻不野簡料新降丁壯,迨夜襲之。詰旦,戰於河上,大敗其眾,皆委仗就擒。

耶律捏里は杲に書を送って和を請い、杲は返書し、先に上国に命を稟せずして、みだりに大号を称したことを責め、もし自ら帰順するならば、燕京留守の処遇をもって遇すと述べた。捏里は再び書を寄こし、その要旨は、「先般即位の時は、両国が聘問を絶ち交戦中の際であった。奚王と文武百官が同心して推戴したので、どうして命を請う暇があろうか。今諸軍は既に集結した。もし兵を加えようとするならば、手を束ねて死を待つことはできない。昔、我が先世は、大金の人民を残害したことはなく、位階を寵賜して、日益強大となった。今この施しを忘れ、我が宗祀を絶たんと欲するは、義において如何なるものか。もし恵み顧みられれば、恩徳を感戴し、尽きることあらんや」というものであった。杲は返書して曰く、「閣下はかつて元帥たり、諸軍を統率し、任は重からざるにあらず、竟に尺寸の功も無し。一城を拠りて国兵に抗せんと欲するは、また難からずや。任用する者は、前に既に国に死せず、今誰か閣下のために用いられんとする者あらん。而して主辱しめば臣死すと言い、これに恃って成功せんと欲するは、計また疎なり。幕府は詔を奉じ、帰順する者は官とし、逆らう者は討つ。もし執迷して従わざれば、殄滅するに至るを期するのみ」と。捏里はついに使者を遣わして太祖に請うた。太祖は捏里に詔を賜い、「汝は遼に属し、位は将相に居りながら、国と存亡をともにすることができず、孤城を窃かに拠り、大号を僭称せんしょうす。もし降附せざれば、後悔あらん」と。

原文耶律捏里移書於杲請和,杲複書,責以不先稟命上國,輒稱大號,若能自歸,當以燕京留守處之。捏里複以書來,其略曰:「昨即位時,在兩國絕聘交兵之際。奚王與文武百官同心推戴,何暇請命。今諸軍已集,儻欲加兵,未能束手待斃也。昔我先世,未嘗殘害大金人民,寵以位呈,日益強大。今忘此施,欲絕我宗祀,於義何如也。儻蒙惠顧,則感戴恩德,何有窮已。」杲複書曰L:「閤下向為元帥,總統諸軍,任非不重,竟無尺寸之功。欲據一城,以抗國兵,不亦難乎。所任用者,前既不能死國,今誰肯為閤下用者。而雲主辱臣死,欲恃此以成功,計亦疏矣。幕府奉詔,歸者官之,逆者討之。若執迷不從,期於殄滅而後已。」捏里乃遣使請于太祖。賜捏里詔曰:「汝,遼之所屬,位居將相,不能與國存亡,乃竊據孤城,僭稱大號,若不降附,將有後悔。」

六月、上は京師を発ち、都統に詔して曰く、「汝ら朕の親征を欲す、既に今月朔旦に啓行す。遼主は今定めて何処に在るか。何の計をもってこれを取るべきか、具に以て聞かせよ」と。杲は馬和尚をして撻魯河において太祖を奉迎せしむ。斡魯・婁室ろうしつは夏の将李良輔を破り、杲は完顔希尹らをして捷を奏せしめ、かつ西南招討司諸部を内地に移すことを請わしむ。希尹らは大濼の西南において上に謁し、上はこれを嘉賞した。上は鴛鴦濼に至り、杲は謁見す。上は遼主を追って回離畛川に至り、南に燕京を伐ち、奉聖州に次る。詔して曰く、「今より諸訴訟の書は都統杲に付して決遣せしめよ。もし大なる疑いあれば、即ち聞奏せしめよ」と。太祖は燕京を定め、還って鴛鴦濼に次ぎ、宗翰を都統とし、杲は上に従って京師に還る。

原文六月,上發京師,詔都統曰:「汝等欲朕親征,已於今月朔旦啟行。遼主今定何在?何計可以取之,其具以聞。」杲使馬和尚奉迎太祖于撻魯河。斡魯、婁室敗夏將李良輔,杲使完顏希尹等奏捷,且請徙西南招討司諸部於內地。希尹等見上於大濼西南,上嘉賞之。上至鴛鴦濼,杲上謁。上追遼主至回離畛川,南伐燕京,次奉聖州。詔曰:「自今諸訴訟書付都統杲決遣。若有大疑,即令聞奏。」太祖定燕京,還次鴛鴦濼,以宗翰為都統,杲從上還京師。

太宗即位し、杲は諳班勃極烈となり、宗幹とともに国政を治む。天会三年、宋を伐ち、杲は都元帥を領し、京師に居る。宗翰・宗望は分道して進兵す。四年、再び宋を伐ち、宋の二主を獲て帰る。

原文太宗即位,杲為諳班勃極烈,與宗幹俱治國政。天會三年伐宋,杲領都元帥,居京師。宗翰、宗望分道進兵。四年,再伐宋,獲宋二主以歸。

天会八年、薨ず。皇統三年、遼越国王を追封す。天徳二年、太祖廟廷に酏享す。正隆の例にて遼王に封ず。大定十五年、諡して智烈と曰う。子に孛吉あり。

原文天會八年,薨。皇統三年,追封遼越國王。天德二年,酏享太祖廟廷。正隆例封遼王。大定十五年,諡曰智烈。子孛吉。

宗義

原文宗義

宗義は本名を孛吉といい、斜也の第九子なり。天徳年間、平章政事となる。

原文宗義本名孛吉,斜也之第九子。天德間,為平章政事。

海陵は既に太宗の子孫を殺し、特に斜也の諸子の盛強を忌み、宗室の勲旧大臣を尽く除かんと欲した。この時、左副元帥撒離喝は汴京において撻不野と隙あり、撻不野の女は海陵の妃たり、海陵は密かに撻不野に撒離喝を図らしむ。ここにおいて都元帥府令史の遙設が風指に迎合し、詐って撒離喝とその子宗安の家書を作り、宗女が誤って宮外に遺し、遙設がこれを拾い得て、変事を上告す。その書は契丹小字にて、その封題は既に開かれていた。その中に白紙一幅あり、白字が隠約として見え、水に浸したが如き状で、字画の読み得るものに至り、その上に撒離喝の手署及び某王の印あり。書の辞に云く、「阿渾、汝安楽か。早晚に闕下に到らん。前者走馬来たりし時、曾て議論せしが、我は汝の阿渾平章・謀里野阿渾等の処に事勢を覗わせ、再び往来を通じ、緩急に図謀せしむ。汝の既に嘗て備細に之を言えるを知る。謀里野阿渾の言う栎はまことに是なり、只だ撻不野を殺せば則ち南路は憂慮無し」と。詳略は互いに『撒離喝伝』に見ゆ。女直じょちょくは子を「阿渾」と謂う。前の「阿渾」は撒離喝の子を謂い、その子は宗安。後の「阿渾平章」は宗義を指す。宗義は本宗室の子なれども、なお旧称あり。これにより宗義・謀里野を殺し、並びに宗安及び太祖妃蕭氏・任王隈喝及び魏王斡帶の孫活里甲を殺す。遙設の詐書には活里甲は無し。海陵はその坦率にして善く修飾するを見て、これを悪む。大臣は無罪を以て請うも、海陵曰く、「ただ殺せ、再び言うなかれ」と。斜也の子孫百余人、謀里野の子孫二十余人を殺す。謀里野は景祖の孫、謾都訶の次子なり。

原文海陵已殺太宗子孫,尤忌斜也諸子盛強,欲盡除宗室勳舊大臣。是時,左副元帥撒離喝在汴京與撻不野有隙,撻不野女為海陵妃,海陵陰使撻不野圖撒離喝。於是都元帥府令史遙設迎合風指,詐為撒離喝與其子宗安家書,宗女誤遺宮外,遙設因拾得之,以上變。其書契丹小字,其封題已開。其中白紙一幅,有白字隱約,狀若經水浸,致字畫可讀者,上有撒離喝手署及某王印。書辭雲:「阿渾,汝安樂否。早晚到闕下。前者走馬來時,曾議論我教汝阿渾平章、謀里野阿渾等處覷事勢再通往來,緩急圖謀,知汝已嘗備細言之。謀里野阿渾所言栎煞是,只殺撻不野則南路無憂慮矣。」詳略互見《撒離喝傳》中。女直謂子「阿渾」。前「阿渾」謂撒離喝子,其子宗安。後「阿渾平章」指宗義,宗義本宗室子,猶有舊稱。以是殺宗義、謀里野,並殺宗安及太祖妃蕭氏、任王隈喝及魏王斡帶孫活里甲。遙設詐書無活里甲,海陵見其坦率善修飾,惡之。大臣以無罪為請,海陵曰:「第殺之,無複言也。」殺斜也子孫百餘人,謀里野子孫二十餘人。謀里野,景祖孫,謾都訶次子。

斜也に幼子阿虎里あり、その妻は撻不野の女、海陵妃大氏の女兄なり。阿虎里を殺さんとし、使者はその面を見るに忍びず、衾を以て覆い縊り、その頤に当たるも、久しく死せず、及んで被を去り再び縊る。海陵は使者を遣わしてその死を赦し、遂に免る。後に王に封ぜられ、世襲千戸を授かる。

原文斜也有幼子阿虎里,其妻撻不野女,海陵妃大氏女兄。將殺阿虎里,使者不忍見其面,以衾覆而縊之,當其頤,久不死,及去被再縊之,海陵遣使赦其死,遂得免。後封為王,授世襲千戶。

大定初年、宗義の官爵を追復し、特進を贈る。弟の蒲馬・孛論出・阿魯・隈喝は並びに龍虎衛上將軍を贈られる。

原文大定初,追複宗義官爵,贈特進。弟蒲馬、孛論出、阿魯、隈喝並贈龍虎衛上將軍。

宗幹

原文宗幹

宗幹は本名を斡本といい、太祖の庶長子なり。太祖が遼を伐つ時、遼人が来りて防ぎ、境上において遇う。宗幹に衆を率いて先に往きて塹を填めしむ、士卒は皆渡る。渤海軍は馳せ突きて前に進み、左翼の七謀克ぼうこくが少しく退き、遂に中軍を犯す。杲は即ち出でて戦わんとす。太祖曰く、「大敵に遇うは易うべからず」と。宗幹をして杲を止めしむ。宗幹は馳せ出でて杲の前に立ち、導騎哲垤の馬を控え止め、杲は乃ち還る。達魯古城の戦い、宗幹は中軍を以て疑兵とす。太祖は黄龍府を攻め下した後、即ち春州を取らんと欲す。遼主は黄龍の守られざるを聞き、大いに懼れ、即ち自ら将となり、宗戚豪右の少年と四方の勇士及び兵を言える者を籍し、皆軍中に隷す。宗幹は太祖に春州を攻めず、士卒を休息すべきことを勧む。太祖は然りと以為い、遂に班師す。

原文宗幹本名斡本,太祖庶長子。太祖伐遼,遼人來禦,遇於境上。使宗幹率眾先往填塹,士卒畢渡。渤海軍馳突而前,左翼七謀克少卻,遂犯中軍。杲輒出戰,太祖曰:「遇大敵不可易也。」使宗幹止杲。宗幹馳出杲前,控止導騎哲垤之馬,杲乃還。達魯古城之戰,宗幹以中軍為疑兵。太祖既攻下黃龍府,即欲取春州。遼主聞黃龍不守,大懼,即自將,籍宗戚豪右少年與四方勇士及能言兵者,皆隸軍中。宗幹勸太祖毋攻春州,休息士卒。太祖以為然,遂班師。

宗幹は降伏者を得て、春州・泰州に守備がなく、攻め取れると聞いた。そこで斜也は春州・泰州を取ると、宗雄・宗幹らは金山県を下した。宗雄は直ちに兵三千を宗幹に付属させ、未だ降伏せぬ諸部を招集させた。宗幹は土地の者で才幹ある者を選び、詔書をもってこれを諭した。そこで女固・脾室の四部及び渤海人は皆降伏した。

原文宗幹得降人,言春、泰州無守備,可取。於是斜也取春、泰州,宗雄、宗幹等下金山縣。宗雄即以兵三千屬宗幹,招集未降諸部。宗幹擇土人之材幹者,以詔書諭之。於是女固、脾室四部及渤海人皆降。

太祖が臨潢府を克つと、沃黒河に至った。宗幹が諫めて言うには、「地遠く時は暑く、兵は疲れ馬は疲弊している。もし深く敵境に入れば、糧秣が続かず、後難あるを恐れる」と。上はこれに従い、遂に軍を返した。都統杲に従って中京を取る。宗翰が北安州より杲に書を送る。この時、希尹が遼人を捕らえ、遼主が鴛鴦濼にいることを知り、襲撃して捕らえられることを知った。杲は決断できなかった。宗翰の使者が再び至る。宗幹が杲に言うには、「移賚勃極烈(宗翰)は事の機微を明らかに見て、再び使いを寄越して請うている。彼は必ず軽々しく挙兵する者ではない。かつ彼は既に兵を発している。中止すべきではない。その策に従うことを請う」と。再三これを言うと、杲はようやく宗翰に報じて奚王嶺で会うことにした。当時宗幹がなければ、杲は終に進兵の意思がなかったであろう。既に羊城濼で軍を合わせると、杲は宗幹と宗翰に精兵六千を率いさせて遼を襲撃させ、五院司に至った。遼主は既に遁走しており、遼の将耿守忠と西京城の東四十里で戦った。守忠は敗走した。

原文太祖克臨潢府,至沃黑河。宗幹諫曰:「地遠時暑,士罷馬乏,若深入敵境,糧餫不繼,恐有後艱。」上從之,遂班師。從都統杲取中京。宗翰自北安州移書於杲。是時,希尹獲遼人,知遼主在鴛鴦濼,可襲取之。杲不能決。宗翰使再至。宗幹謂杲曰:「移賚勃極烈灼見事機,再使來請,彼必不輕舉。且彼已發兵,不可中止,請從其策。」再三言之,杲乃報宗翰會奚王嶺。當時無宗幹,杲終無進兵意。既會軍於羊城濼,杲使宗幹與宗翰以精兵六千襲遼至五院司。遼主已遁去,與遼將耿守忠戰於西京城東四十里。守忠敗走。

太宗が即位すると、宗幹は国論勃極烈となり、斜也と共に政を補佐した。天会三年、応州西の余睹穀で遼主を捕らえた。初めて礼制を議し、官名を正し、服色を定め、学校を興し、選挙を設け、暦を治め時を明らかにすることは、皆宗幹より始まった。四年、官制が施行され、内外に詔を下した。

原文太宗即位,宗幹為國論勃極烈,與斜也同輔政。天會三年,獲遼主于應州西余睹穀。始議禮制度,正官名,定服色,興庠序,設選舉,治曆明時,皆自宗幹啟之。四年,官制行,詔中外。

十年、熙宗が諳班勃極烈となり、宗幹は国論左勃極烈となった。熙宗が即位すると、太傅に拝され、宗翰らと共に三省事を領した。天眷二年、太師に進み、梁宋国王に封ぜられ、朝に入っても拝礼せず、杖をついて殿上に上り、なお杖を賜わった。宗幹は足疾があり、詔して座を設けて奏事させた。間もなく、国史監修となった。皇統元年、宗幹に輦輿に乗って殿上に上ることを賜い、制詔では名を呼ばなかった。

原文十年,熙宗為諳班勃極烈,宗幹為國論左勃極烈。熙宗即位,拜太傅,與宗翰等並領三省事。天眷二年,進太師,封梁宋國王,入朝不拜,策杖上殿,仍以杖賜之。宗幹有足疾,詔設坐奏事。無何,監修國史。皇統元年,賜宗幹輦輿上殿,制詔不名。

上(熙宗)が燕京に行幸すると、宗幹は従った。病を得て、上は親しく見舞った。燕京より還り、野狐嶺に至ると、宗幹の病が重く進めず、上は親しく見舞い、軍国事について語り、上は悲泣して止まなかった。翌日、上と后が共に視に行き、后は親しく宗幹に食事を給仕し、暮れに帰った。そこで罪囚を赦し、宗幹のために病気除けの祈祷をした。数日居て、薨去した。上はこれを慟哭し、朝を七日間止めた。大臣の死で朝を止めるのは、宗幹より始まった。上は祭を致し、この日は庚戌であったが、太史が戌亥の日は哭すべからずと奏上したが、上は聞き入れず、「朕が幼少の時、太師には保傅の力があった。どうして哭さずにいられようか」と言い、慟哭した。上は誕生日に音楽を挙げなかった。上は上京に還り、その邸に臨んで殯事を視た。及び喪が上京に至ると、上は臨んで哭した。及び葬るとき、臨んでこれを視た。

原文上幸燕京,宗幹從。有疾,上親臨問。自燕京還,至野狐嶺,宗幹疾亟不行,上親臨問,語及軍國事,上悲泣不已。明日,上及後同往視,後親與宗幹饋食,至暮而還。因赦罪囚,與宗幹禳疾。居數日,薨。上哭之慟,輟朝七日。大臣死輟朝,自宗幹始。上致祭,是日庚戌,太史奏戌亥不宜哭,上不聽曰:「朕幼沖時,太師有保傅之力,安得不哭。」哭之慟。上生日不舉樂。上還上京,幸其第視殯事。及喪至上京,上臨哭之。及葬,臨視之。

海陵が簒奪して立つと、憲古弘道文昭武烈章孝睿明皇帝と追諡し、廟号を徳宗とし、旧邸を興聖宮とした。大定二年、廟号を除き、明粛皇帝と改諡した。及び海陵が庶人に廃されると、二十二年、皇太子允恭が上奏し、おおよそ次のように言った。「熙宗は世嫡として統緒を継いだことを思い、海陵は無道で帝を弑して自ら立ち、正しい昭穆を崇め、その王号を削ぎ、庶人の列に並べさせた。閑曠の地に埋め、封もせず樹もせず、既に大義を申し明らかな至公を明らかにした。海陵はその親を追崇し、廟に逆に配した。今海陵は既に庶人に廃されたが、明粛はなお帝尊の名を窃み、廟祧の数に列している。海陵の大逆は、名を正し罪を定めた。明粛もまた縁坐すべきである。当時明粛は既に殂え、乱に関与していない。臣は謂うに、明粛の帝号を削去し、ただ旧爵に従うべきである。或いは太祖の諸王で功ある例に従い、官封を加え、内外に明詔して、大義を知らしめるべきである」と。書が奏上されると、世宗は嘉納し、尚書省に議させた。そこで明粛の帝号を追削し、皇伯・太師・遼王に封じ、忠烈と諡し、妻子諸孫は皆従って降格した。明昌四年、太祖廟廷に配享された。

原文海陵篡立,追諡憲古弘道文昭武烈章孝睿明皇帝,廟號德宗,以故第為興聖宮。大定二年,除去廟號,改諡明肅皇帝。及海陵廢為庶人,二十二年,皇太子允恭奏,略曰:「追惟熙宗世嫡統緒,海陵無道,弑帝自立,崇正昭穆,削其斷王,俾齒庶人之列。瘞之閑曠,不封不樹,既已申大義而明至公矣。海陵追崇其親,逆配於廟。今海陵既廢為庶人,而明肅猶竊帝尊之名,列廟祧之數。海陵大逆,正名定罪,明肅亦當緣坐。是時明肅已殂,不與於亂,臣以謂當削去明肅帝號,止從舊爵。或從太祖諸王有功例,加以官封,明詔中外,俾知大義。」書奏,世宗嘉納,下尚書省議。於是追削明肅帝號,封為皇伯、太師、遼王,諡忠烈,妻子諸孫皆從降。明昌四年,配享太祖廟廷。

子は充・亮・兗・襄・袞。亮はこれが海陵庶人である。

原文子充、亮、兗、襄、袞。亮,是為海陵庶人。

充

原文充

充は本名を神士懣という。母は李氏、徒単氏はこれを己が子とした。熙宗の初め、光禄大夫を加えられた。天眷年間、汴京留守となった。皇統年間、淄国公に封ぜられ、吏部尚書となり、代王に進封され、同判大宗正事に遷った。九年、左丞相に拝された。この年、薨去した。鄭王を追封された。大定二十二年、儀同三司・左丞相に追降された。子は檀奴・元奴・耶補児・阿里白。

原文充本名神士懣。母李氏,徒單氏以為己子。熙宗初,加光祿大夫。天眷間,為汴京留守。皇統間,封淄國公,為吏部尚書,進封代王,遷同判大宗正事。九年,拜左丞相。是歲,薨。追封鄭王。大定二十二年,追降儀同三司、左丞相。子檀奴、元奴、耶補兒、阿里白。

檀奴は帰徳軍節度使となった。阿里白は定遠大将軍・和魯忽土猛安忽鄰河謀克となった。海陵が徒単氏を弑すると、充がかつて徒単の養子であったため、これに因んで檀奴及び阿里白を併せて殺した。元奴・耶補児は世宗のもとに逃げ帰った。檀奴は栄禄大夫を贈られ、阿里白は輔国上将軍を贈られた。詔して有司に改葬させた。世宗の時、元奴は宗正丞となり、耶補児は鎮国上将軍となり、後に同知済南尹事となった。

原文檀奴,為歸德軍節度使。阿里白,定遠大將軍、和魯忽土猛安忽鄰河謀克。海陵弑徒單氏,以充嘗為徒單養子,因並殺檀奴及阿里白。元奴、耶補兒逃歸於世宗。檀奴贈榮祿大夫,阿里白輔國上將軍。詔有司改葬。世宗時,元奴為宗正丞;耶補兒為鎮國上將軍,後為同知濟南尹事。

子 永元

原文子 永元

永元は字を惇礼といい、本名は元奴である。幼くして聡敏で、日に千言を誦した。皇統元年、宗室の子に詩を作らせて試験し、永元は合格した。『左氏春秋』に通じ、その大義を通暁した。天徳初め、百女山世襲謀克を授けられた。

原文永元字惇禮,本名元奴。幼聰敏,日誦千言。皇統元年,試宗室子作詩,永元中格。善《左氏春秋》,通其大義。天德初,授百女山世襲謀克。

海陵が宋を伐ち、既に淮を渡ったが、軍士多く亡帰し、契丹が叛いた。これにより宗室を疑うこと益々甚だしくなった。既に永元の弟檀奴・阿里白を殺し、永元は弟耶補児と共に逃げ匿れて免れた。

原文海陵伐宋,已渡淮,軍士多亡歸而契丹叛,由是疑宗室益甚。已殺永元弟檀奴、阿里白,永元與弟耶補兒逃匿得免。

世宗が遼陽で即位すると、耶補児と共に来帰し、上は甚だ厚く慰労した。宗正丞を授けられ、符宝郎に改められ、灤州刺史となった。世襲猛安を授けられ、謀克を耶補児に与えることを乞うと、詔してこれを許した。棣州防禦使・泰寧軍節度使に転じた。

原文世宗即位于遼陽,與耶補兒俱來歸,上慰勞甚厚。授宗正丞,改符寶郎,為灤州刺史。授世襲猛安,乞以謀克與耶補兒,詔許之。轉棣州防禦使、泰甯軍節度使。

張弘信が山東を通検し、専ら民間の物力を多く得ることを功とし、督責は苛酷で急であった。永元は面と向かって弘信を責めて言った。「朝廷は差調が均しからぬことを以て、通検法を立てた。今使者の至る所、残酷を以て妄りに農民の田産に加え、百姓を箠撃して死に至る者がある。市肆の賈販貿易には損益があり、田園屋宇の利入には多寡がある。故官の子孫は門を閉じて自ら守り、商賈と同じく上役に処させるのは、豈に立法の本意であろうか」と。弘信は答える言葉がなかった。これにより棣州の賦税は実情を以て自ら申告することができた。震武軍節度使に遷った。

原文張弘信通檢山東,專以多得民間物力為功,督責苛急。永元面責弘信曰:「朝廷以差調不均,立通檢法。今使者所至,以殘酷妄加農民田產,箠擊百姓有至死者。市肆賈販貿易有贏虧,田園屋宇利入有多寡,故官子孫閉門自守,使與商賈同處上役,豈立法本意哉。」弘信無以對。於是棣州賦稅得以實自占。遷震武軍節度使。

大定六年、母の喪に服し、起復して崇義軍節度使となり、順義軍に移る。朔州の西境には盗賊多く、狡猾な吏や豪族が訴訟を腐敗させ、賦役を混乱させていたが、永元はその宿弊を剔抉し、百姓は安堵した。駅人に馬を売り利を得た罪、及び浚州防禦使斡論が家畜を放って民田を踏み荒らした罪に連座し、共に解職された。間もなく、永元は起用されて保大軍節度使となり、昭義、絳陽、震武軍を歴任し、済南尹、北京副留守に遷った。

原文大定六年,丁母憂,起複崇義軍節度使,徙順義軍。朔州西境多盜,而猾吏大姓蠹獄訟,暋亂賦役,永元剔其宿奸,百姓安之。坐賣馬與驛人取贏利,及浚州防禦使斡論坐縱孳畜踐民田,俱解職。頃之,永元起為保大軍節度使,曆昭義、絳陽、震武軍,遷濟南尹、北京副留守。

燈国家の婢の醜底が咸平の人化胡と私通し、醜底は主印の所で印を騙り取り、空紙に押印して化胡に与え、そこで永元と甯国の生年月日時辰を書き記し、永元と甯国が謀逆を企てたと誣告した。詔して有司に審問させたところ、醜底が良民となることを望み、化胡にさせたのであった。上(世宗)は言った、「化胡は醜底と私通し、悪言を捏造し、宗室を誣告して害した。化胡は斬首、醜底は処死せよ。」興中尹に改め、彰徳軍節度使となった。官にて卒す。享年五十一。喪が中都を過ぎるとき、使者を遣わして祭奠を致し、賻として銀三百両、彩十端、絹百匹を賜った。

原文燈國家婢醜底與咸平人化胡有奸,醜底于主印處紹取印署空紙與化胡,遂寫作永元、甯國生甯日時辰,誣告永元、甯國謀逆。詔有司鞫問,乃醜底意望為良,使化胡為之。上曰:「化胡與醜底有奸,造作惡言,誣害宗室,化胡斬,醜底處死。」改興中尹,為彰德軍節度使。卒官,年五十一。喪過中都,遣使致祭,賻銀三百兩、彩十端、絹百匹。

永元は歴任して大藩を治め、民間の利害を多く知り、赴任先では治績を称えられ、相州、棣州、順義軍での政跡は特に顕著で、その民は共に祠堂を建立した。

原文永元曆典大籓,多知民間利害,所至稱治,相、棣、順義政跡尤著,其民並為立祠。

兗

原文兗

兗は本名を梧桐という。皇統七年、左副点検となり、都点検に転ず。九年、会寧牧となり、左宣徽使に改める。海陵王が簒立すると、兗は宋より使いをして帰り、司徒兼都元帥に拝され、三省事を領し、進んで太尉に拝された。及び太祖妃蕭氏を殺害したとき、その財産を全て兗に賜った。都元帥府を廃し、枢密院を立てると、兗は枢密使となり、太尉・領三省事は元の如し。天徳四年十二月晦、薨去。翌日、貞元元年元旦、海陵王は兗のために朝を輟め、賀を受けず。宋、夏、高麗、回鶻の賀正旦使は、有司に命じてその貢献を受けさせた。追って兗に王爵を進めた。大定二十二年、追って特進に降格した。

原文兗本名梧桐。皇統七年,為左副點檢,轉都點檢。九年,為會寧牧,改左宣徽使。海陵篡立,兗使宋還,拜司徒兼都元帥,領三省事,進拜太尉。及殺太祖妃蕭氏,盡以其財產賜兗。罷都元帥府,立樞密院,兗為樞密使,太尉、領三省事如故。天德四年十二月晦,薨。明日,貞元元年元旦,海陵為兗輟朝,不受賀。宋、夏、高麗、回鶻賀正旦使,命有司受其貢獻。追進兗王爵。大定二十二年,追降特進。

兗の妻烏延氏は、正隆六年、奴隷と私通した罪に坐し、海陵王に殺された。その弟の南京兵馬副都指揮使習泥烈は、族弟の屋謀魯の妻と密通し、屋謀魯の奴隷が習泥烈を捕らえようと謀ったので、習泥烈はその奴隷を殺した。海陵王がこれを聞き、遂に習泥烈を殺した。

原文兗妻烏延氏,正隆六年坐與奴有奸,海陵殺之。其弟南京兵馬副都指揮使習泥烈私于族弟屋謀魯之妻,屋謀魯之奴謀欲執習泥烈,習泥烈乃殺其奴。海陵聞之,遂殺習泥烈。

兗の子阿合は、大定年間に符宝祗候となり、間もなく同知定武軍節度使に遷った。上(世宗)は言った、「汝の年功は未だ満たず、朕は汝の祖父と父のことを思い汝を遷官する。不善を為すことなく、心を尽くして学ぶべし。」

原文兗子阿合,大定中為符寶祗候,俄遷同知定武軍節度使。上曰:「汝歲秩未滿,朕念乃祖乃父為汝遷官,勿為不善,當盡心學之。」

襄

原文襄

襄は本名を永慶といい、海陵王の同母弟である。輔国上将軍となった。卒し、天徳二年、衛王を追封され、再び司徒を贈られた。大定二十二年、追って銀青光禄大夫に降格した。

原文襄本名永慶,海陵母弟。為輔國上將軍。卒,天德二年,追封衛王,再贈司徒。大定二十二年,追降銀青光祿大夫。

子の和尚は応国公に封ぜられ、楽善と名を賜った。左宣徽使許霖の子知彰が和尚と争い、その母(襄の妃)は家奴に命じて引きずり込み凌辱させ、人を遣わして許霖を邸に曳き至らせ殴打罵詈した。翌日、許霖は朝廷に訴えた。詔して大興尹蕭玉、左丞良弼、権御史大夫張忠輔、左司員外郎王全に雑治させ、妃は杖一百、その家奴の首謀者は殺し、残りは杖刑を差等して決した。許霖はかつて妃の前に跪き、大臣の体を失い、及び訴えに虚偽があったので、笞二十に処した。

原文子和尚封應國公,賜名樂善。左宣徽使許霖之子知彰與和尚鬥爭,其母妃命家奴捽入淩辱之,使人曳霖至第毆詈之。明日,霖訴於朝。詔大興尹蕭玉、左丞良弼、權御史大夫張忠輔、左司員外郎王全雜治,妃杖一百,殺其家奴為首者,餘決杖有差。霖嘗跪於妃前,失大臣體,及所訴有妄,笞二十。

大定年間、家奴の小僧月一が和尚が熟睡している間に異様な兆しがあったと妄言し、襄の妃の僧酷はこれを真に受け、占い師の李端を召して卜わせた。李端は天子となるであろうと言い、司天の張友直も大貴すると言った。家奴の李添壽が変事を上告した。僧酷と和尚は吏に下して検問させると事実があり、皆誅殺された。上(世宗)は言った、「朕はかつて海陵が宗族を剪滅したことを痛んだ。今和尚がこのようなことをしたが、その罪を赦そうとすれば、妖妄が愚民を誤惑し、真実と信じさせてしまう。滅さざるを得ない。朕がこの子を処するのは、やむを得ざるものなり。」と、長く傷み哀れんだ。

原文大定間,家奴小僧月一妄言和尚熟寢之次有異征,襄妃僧酷以為信然,召日者李端卜之。端雲當為天子,司天張友直亦雲當大貴。家奴李添壽上變。僧酷、和尚下吏驗問有狀,皆伏誅。上曰:「朕嘗痛海陵翦滅宗族。今和尚所為如此,欲貸其罪,則妖妄誤惑愚民者,便以為真,不可不滅。朕于此子,蓋不得已也。」傷閔者久之。

袞

原文袞

袞は本名を蒲甲といい、また蒲家とも作る。桀驚(強情)で強悍であった。海陵王はその人となりを喜ばなかった。初め輔国上将軍となった。天徳初め、特進を加えられ、王に封ぜられ、吏部尚書となり、判大宗正事を兼ねた。禁中の起居の様子を語った罪に坐し、兵部侍郎蕭恭がまず尋ね、護衛の張九がこれを詳しく話した。海陵王が親しく問うた。蕭恭は官を奪われ解職、張九は実状を答えなかったので、特に処死、袞と翰林学士承旨宗秀、護衛麻吉、小底の王之章は皆杖刑を差等して決した。海陵王はこれよりますます彼を忌むようになった。間もなく、猛安を授かった。

原文袞本名蒲甲,亦作蒲家,桀驚強悍。海陵不喜其為人。初為輔國上將軍。天德初,加特進,封王,為吏部尚書,判大宗正事。坐語禁中起居狀,兵部侍郎蕭恭首問,護衛張九具言之。海陵親問。恭奪官解職,張九對不以實,特處死,袞與翰林學士承旨宗秀、護衛麻吉、小底王之章皆決杖有差。海陵自是愈忌之。未幾,授猛安。

及び中都に遷都するとき、途中西京留守として蒲家を任じた。西京兵馬の完顔謨盧瓦は蒲家と旧知で、共に西京にいたので、遂に往来するようになった。蒲家はかつて玉帯を彼に贈った。蒲家は謨盧瓦の驍勇は尉遅敬徳に劣らないと称した。編修官の円福奴の妻は蒲家と姻戚であり、円福奴はかつて蒲家に戒めて言った、「大王の名声はあまりに顕著です。少し謙遜して目立たぬようにすべきです。」と。蒲家は海陵王が自分を忌んでいることを心に知り、かつて占い師を召して吉凶を問うた。家奴の喝里は海陵王が蒲家を疑っているのを知り、変事を上告して、謨盧瓦らと謀反を企て、かつて占い師に天命を問うたと告げた。御史大夫高楨、刑部侍郎耶律慎須呂が西京に赴いて審問したが、証拠はなかった。海陵王は怒り、使者を遣わして蒲家らを中都に檻送させ、再び究問せず、市で斬首した。謨盧瓦、円福奴及び占い師は皆凌遅処死にされた。

原文及遷中都,道中以蒲家為西京留守。西京兵馬完顏謨盧瓦與蒲家有舊,同在西京,遂相往來。蒲家嘗以玉帶遺之。蒲家稱謨盧瓦驍勇不減尉遲敬德。編修官圓福奴之妻與蒲家姻戚,圓福奴嘗戒蒲家曰:「大王名太彰著,宜少謙晦。」蒲家心知海陵忌之,嘗召日者問休咎。家奴喝里知海陵疑蒲家,乃上變告之,言與謨盧瓦等謀反,嘗召日者問天命。御史大夫高楨、刑部侍郎耶律慎須呂就西京鞫之,無狀。海陵怒,使使者往械蒲家等至中都,不復究問,斬之於市。謨盧瓦、圓福奴並日者皆淩遲處死。

賛して曰く、金が礼制を議し、制度を定め、爵禄を班ち、刑法を正し、暦を治めて時を明らかにし、天子の事を行い、一代の典を成したのは、杲と宗幹の経始の功が多い。杲の子の宗義は海陵王に殺され、宗幹の後裔はまた不幸にして海陵王を出した。故にその子孫の繁栄は既に少なく、また戮辱を免れなかった。秦、漢以下、宗臣の世家が国と休戚を共にした者は、何と少ないことか。君子はここにおいて、世の変遷を観ることができるであろう。

原文贊曰:金議禮制度,班爵祿,正刑法,治曆明時,行天子之事,成一代之典,杲、宗幹經始之功多矣。杲子宗義為海陵所殺,宗幹之後又不幸而有海陵,故其子孫之昌熾既鮮,而亦不免於僇辱焉。秦、漢而下,宗臣世家與國匹休者,何其少歟。君子于此,可以觀世變矣。