盧彥倫
盧彥倫は臨潢の人である。遼の天慶初年、蕭貞一が上京留守となった時、吏に抜擢され、才幹をもって称された。この時、臨潢の境内には賊が多く、城中の兵には統轄する者がいなかったので、府は彦倫を有能とみて朝廷に推薦し、直ちに殿直・勾當兵馬公事を授けられた。
遼兵が出河店で敗れ、臨潢に戻って来ると、兵士を民家に分散して住まわせ、養わせるよう命じたが、軍士はほしいままに侵掠・騒擾し、至らぬ所はなく、百姓は甚だこれを苦にした。留守耶律赤狗兒はこれを禁圧できず、軍民を召して諭して言うには、「契丹と漢人は久しく一家となっている。今、辺境に警報があり、国用が足りないので、兵士を長く父老の間に雑居させている。侵掠があっても相容れるべきである」と。皆、敢えて言う者はなかった。彦倫のみが言うには、「兵乱以来、民間の財力は困窮している。今またこれに兵士を養わせるのは、国家に多難があるからであり、義として敢えて辞すべきではない。しかし、この輩がほしいままに強暴をなすのは、人は堪えられない。かつ、蕃・漢の民は皆赤子である。これを奪ってあれに与えるとは、どういうことか」と。
初め臨潢を取った時、軍中に辛訛特刺という者がいた。以前は臨潢の駅吏であり、彦倫と親しかったので、招諭に使わされたが、彦倫はこれを殺した。遼は彦倫に団練使・勾當留守司公事を授けた。
天輔四年、彦倫は留守撻不野に従って降伏した。夏州観察使を授けられ、権発遣上京留守事を兼ねた。軍が帰還すると、撻不野は城を挙げて叛いたので、彦倫は率いる部衆を率いて撻不野を追い払い、城中の契丹をことごとく殺し、使者を遣わして報告した。間もなく、遼の将耶律馬哥が兵を率いて臨潢を奪おうとしたので、彦倫は防ぎ守ること七月に及んだ。援軍が来ると、敵は包囲を解いて去ったので、これにより朝廷に赴いた。
子 璣
璣は字を正甫といい、蔭補により閤門祗候となり、累遷して客省使、兼東上閤門使となり、提点太醫・教坊・司天に改め、大定十五年宋主生日副使を充て、同知宣徽院事に遷った。母の喪に服し、起復して太府監となり、開遠軍節度使に改め、入朝して右宣徽使となった。章宗が即位すると、左宣徽使に転じ、致仕した。明昌四年、起復して左宣徽使となり、定武軍節度使に改め、再び左宣徽使となった。
子 亨嗣
亨嗣は弟の亨益と、友愛の道を尽くした。亨嗣は初め祖父の蔭により官を得たが、大定十六年、父の璣が同知宣徽院事となった時、子に蔭を与えるべきところ、亨嗣はこれを弟の亨益に譲った。亨益は早く卒し、子に兟があった。兟は幼かったので、亨嗣は旧業の田宅・奴畜・財物をことごとくこれに与えた。
毛子廉
毛子廉は本名を八十といい、臨潢長泰の人で、才勇に優れ弓術に長けていた。遼の末期に群盗が蜂起すると、勇士を募集し、子廉は応募した。遼主が召し出して甲冑兵器を賜り、百人を率いて、所在の官兵とともに盗賊を捕らえた。功により東頭供奉官を授けられ、良馬を賜った。
天輔四年、謀克の辛斡特刺と移刺窟斜を遣わして臨潢を招諭させると、子廉は二千六百戸を率いて帰順した。直ちにその衆を統領させ、銀牌を佩用し、未降の軍民を招くこととした。盧彦倫は子廉が先に降ったことを怒り、子廉の妻と二人の子を殺し、騎兵二千を遣わして子廉を捕らえようと待ち伏せさせた。子廉は窟斜とともに険阻な道を通ったところ、騎兵に包囲され、二騎が突進して直ちに子廉に襲いかかった。子廉は弓を引いてその一人を射殺し、もう一人は槍を突き出してほとんど子廉の脇の下に当たるところであった。子廉はその槍を避け、組み打ちして生け捕りにしたが、それは彦倫の健将孫延寿であった。残りの衆は潰走した。
李三錫
李三錫は字を懷邦といい、錦州安昌の人で、財産によって官を得た。遼の末期、盗賊が錦州を攻めると、州人は三錫を推して兵事を主管させ、機略を設けて応変し、城はこれによって保全された。功績を記録して左承制を授けられた。遼主が天徳に逃れると、劉彦宗が三錫を辟召して兵を将いて白雲山を保たせた。
三錫は政事に強明で、赴任先ごとに治績を称えられた。世宗はかねてその名を聞いており、大定初年、起用して北京路都転運使とした。制書が下った時、すでに三錫は卒去していた。
孔敬宗
李師夔
李師夔は字を賢佐といい、奉聖永興の人である。若い頃から倜儻として大志があった。蔭官によって入仕し、本州の監となった。天輔六年、太祖が鴛鴦濼において遼主を襲撃すると、郡守は城を捨てて遁走し、衆は帰属するところがなく、相い叩門して師夔に郡事を主管するよう請うた。師夔はこれを許し、そこで兵卒を捜索し兵を治めた。
迪古乃の兵が奉聖州に至ると、師夔はその旧友の沈璋と密謀して降伏しようとし、言うには、「一城の命はこの挙に懸かっている」と。璋は言う、「君の言う通りだ。もし軍民が従わなければ、どうするか」と。師夔は直ちに親信十数人を率いて翌朝出城し、余睹に会い、これと約して言うには、「今や服従した。どうか兵を以て城に入り、境内を俘掠することなきを願う」と。余睹は承諾した。詔して師夔に節度を領させ、璋を以てこれを補佐させた。師夔に駿馬二頭を賜り、未だ附かざる者を招かせ、便宜を以て事を行うことを許した。翌年、左監門衛大將軍を加えられた。
大賊の張勝が万人を以て城に迫ると、師夔は衆寡敵せずと見て、偽ってこれと和し、日々饋給を送り、勝はこれを信じた。師夔はその不備に乗じ、人を遣わして勝を刺し、これを殺した。その首を掲げて示して言うには、「汝らは皆良民なり、脅従してここに至った。今や元悪は既に誅せられた。兵を棄ててその所に帰り復せよ」と。賊衆は大いに驚き、皆散去した。別賊の焦望天・尹智穆が兵数千を率いて来寇した。師夔は兵を以てこれに臨み、帰路に伏兵を設け、人を遣わして反間を行った。智穆は果たして疑い、望天は先に引き去った。智穆は勢い孤となり、また還ったが、伏兵に遇って敗れ、遂に捕らえて斬った。この後、賊衆は敢えて境内に入らなかった。労により静江軍節度留後に遷り、累遷して武平軍節度使となり、東京路転運使に改められ、陝西東路転運使に移った。致仕し、任国公に封ぜられた。卒去し、年八十五であった。
沈璋
沈璋は字を之達といい、奉聖州永興の人である。進士の学業を修めた。迪古乃の軍が上穀に至ると、璋は李師夔と謀り、城門を開いて迎え降った。翌日、守と為すべき者を選ぶに、衆皆璋を推したが、璋は固より李師夔を称した。ここにおいて師夔を武定軍節度使に授け、璋を以てその副と為した。太常少卿を授け、鴻臚卿に遷る。母の憂いに遭い、起復して山西路都転運副使となり、衛尉卿を加えられた。宋を伐つに従う。汴京平定の後、衆は争って財貨に趨ったが、璋のみは何も取らず、ただ書物数千巻を載せて還ったのみであった。
太行の賊が潞州を陥落させ、その守の姚璠を殺した。官軍がこれを討ち平らげ、璋に命じて州事を権知せしめた。璋が至ると、逃亡した者を招き復帰させ、困窮し飢えた者を賑い養い、横たわる屍を収めて葬った。未だ幾ばくもせず、民は大いに安んじ集まった。初め、賊党が城を占拠した時、潞州の軍卒で連座に当たる者は七百人に及んだ。帥府が牒を下し璋に尽く誅殺せよと命じたが、璋は従わなかった。帥府はこれを聞き、大いに怒り、璋を召し呵責し、かつ璋を殺さんとした。左右は震え恐れたが、璋の顔色は動かず、従容として対して言うには、「逃亡者を招き、残存者を撫するは、璋の職務であります。この者どもは初めより叛心はなく、賊に脅迫されたものであり、已むを得ざる者であった。故に招けば復び来たのです。今これを殺さんとすれば、降伏者を殺すことになります。もし衆に利あらば、璋が死すること何の憾みがありましょうか。」しばらくして怒りは解けた。そこで潞州の軍卒を召して言うには、「我は始め汝らを誅殺せよと命じたが、今汝らの使君が汝らを生かしたのだ。」皆感泣して去った。朝廷はこれを聞いて嘉し、左諫議大夫に拝し、潞州事を知らせた。百姓はそのために祠を立てた。忻州知事に移り、同知太原尹に改め、尚書礼部侍郎を加えられた。
時に介休の人張覚が党を集めて山谷に亡命し、邑県を掠奪していた。招いても肯じて降らず、言うには、「前に嘗て降った者が皆殺された。今好言を以て我を誘うのは、我を殺さんとするのだ。ただ侍郎沈公の一言を得るならば、我は疑わない。」ここにおいて、璋を命じて往き招かしめると、覚は即日降った。
賛して曰く、危難の際、両軍方に争う時、城を専有する将は、国家の軽重これに係る。李師夔は君命有るに非ず、衆に推され、又能くその人を全活した。猶いわゆる有りと言うべし。盧彦倫の降は、城潰れたりと云うも、初志確かならず、何ぞ毛子廉を尤めん。至りては子廉の海陵に仕えざる、沈璋の片言を以て張覚を降す、一善称すに足る。何ぞ掩うべけんや。
左企弓
左企弓は字を君材という。八世の祖皓は、後唐の棣州刺史で、行軍司馬として燕に戍り、遼が燕を取ると、薊を守らせ、ここに家を定めた。企弓は書を読み、『左氏春秋』に通じた。進士に及第し、再び遷って来州観察判官となった。蕭英弼が昭懐太子を賊害し、党与を窮めて治めると、多く連引された。企弓はその冤罪を弁析し、甚だ衆くを免れた。御史より知難事に出て、中京副留守となり、遼陽にて刑獄を按ずる。獄事で本来軽いのに重く入れた者がおり、既に奏上して報を待っていたが、企弓はこれを釈放して上聞した。累遷して三司使事を知った。天慶末、広陵軍節度使に拝し、同中書門下平章事・知枢密院事となる。
金兵が既に上京を抜くと、北枢密院は旨に忤るを恐れ、時に奏上しなかった。遼の故事では、軍政は皆北枢密院に関決し、然る後に奏上する。企弓はこれを聞かせた。遼主は言う、「兵事は卿の職に非ずや?」対えて言う、「国勢この如し、豈に例に循りて自らを容れる計を為さんや。」ここにおいて守備の策を陳べた。中書侍郎平章事に拝し、国史を監修した。時に遼主は金が既に中京を克ったと聞き、将に西幸してこれを避けんとした。企弓は諫めたが聴かれなかった。
遼主は鴛鴦濼より亡走して陰山に保った。秦晋国王耶律捏裏が燕に自立し、遼主を廃して湘陰王と為し、元を徳興と改めた。企弓は司徒を守り、燕国公に封ぜられた。虞仲文は参知政事となり、西京留守・同中書門下平章事・内外諸軍都統を領した。曹勇義は中書侍郎平章事・枢密使・燕国公となった。康公弼は参知政事・簽枢密院事となり、「忠烈翊聖功臣」の号を賜う。徳妃が政を摂ると、企弓に侍中を加えた。宋兵が燕を襲い、忽ち城中に至ったが、已に敗走した。或いは内応者有りと疑い、根株を絶たんとしたが、企弓がこれを争い、乃ち止んだ。
太祖が居庸関に至ると、蕭妃は古北口より遁去した。都監高六らが太祖に款を送り、太祖は径ちに城下に至った。高六らは門を開いてこれを待った。太祖が城に入り降を受けるも、企弓らは猶知らなかった。太祖が燕京城南に駐蹕すると、企弓らは表を奉じて降り、太祖は旧職に復せしめ、皆金牌を受けた。企弓は太傅・中書令を守り、仲文は枢密使・侍中・秦国公となり、勇義は旧官を以て司空を守り、公弼は同中書門下平章事・枢密副使権知院事・簽中書省となり、陳国公に封ぜられた。遼の致仕宰相張琳が降表を進上し、詔して曰く、「燕京に応ずる琳の田宅財物は並びにこれを給還すべし。」琳は年高く、入見できず、ただその子弟を来させたのみであった。
太祖が既に燕を定め、初めの約に従い、これを宋人に与えんとした。企弓は詩を献じ、略して曰く、「君王莫だ燕を捐つるの議を聴くことなかれ、一寸の山河一寸の金。」太祖は聴かなかった。
虞仲文
曹勇義
康公弼
左泌
企弓の子は泌・瀛・淵である。
泌は字を長源といい、企弓の長子である。遼に仕え、官は棣州刺史に至った。太祖が燕を平定すると、泌は企弓に従って朝廷に帰順した。やがて東遷して平州に至り、企弓が張覚に害されると、泌は再び燕に戻った。この時、燕を宋に与えたため、宣撫司が汴に派遣したが、泌は平州の仇人がそこにいるので、間道をとって駆け戻った。朝廷はこれを嘉し、西上閤門使に抜擢した。宋王宗望に従って南伐し、真定を破って功績があり、祁州知州となり、沢州・隰州などの刺史を歴任した。貞元初年、浚州防禦使となり、陝西路転運使に遷り、戴国公に封じられた。
泌の性質は平穏で淡泊、『荘子』・『老子』を読むことを好み、六十一歳で即座に致仕を請うた。親友の中には早すぎると考える者もいたが、泌は嘆息して言った、「私は三十歳で節鉞を執り、仕途をたどることまた三十年、名を成して身を退くは、可なり」。当時の人は彼を高く評価した。七十四歳で卒した。
弟 淵
子 光慶
光慶は字を君錫といい、幼少より聡明で悟りが早く、沈着で重厚、言葉少なかった。淵は親しい者に言った、「我が家を継ぐ者は、この子なり」。蔭官により、閤門祗候に補され、西上閤門副使に遷った。父の喪に服し、起復して東上閤門副使となり、再び転じて西上・東上閤門使となり、太廟署令を兼ねた。
光慶は古を好み、書を読んで大義を識り、詩を作ることを喜び、篆書・隷書に優れ、特に大字を巧みにした。世宗が郊祀の礼を行い、尊号を受け、及び受命宝を受けるとき、皆光慶が篆書を書いた。凡そ宮廟の榜額で光慶が書いたものは、人々がその法度があると称した。原廟・坤厚陵・寿安宮の工役を統率し、苛酷峻烈とせず、労逸を均しくした。身に数職を兼ね、勤勉で慎重周密、自ら誇ることはなく、世宗のみがこれを察知した。
初め、御史大夫の璋が大金受命宝の制作を請うたとき、有司が秦の璽の文を進上したので、上は「大金受命万世之宝」を文とするよう命じた。径四寸八分、厚さ一寸四分、蟠龍鈕、高さと厚さは各々四寸六分半。礼部尚書の張景仁・少府監の張僅言が工事を統率し、詔して光慶に篆書を書かせた。同知宣徽院事に遷り、少府監に改めた。母の喪に服し、起復して右宣徽使となった。世宗が上京に幸したとき、光慶は上京に赴いて儀仗の制度を整え、当時の人は適切であると考えた。
二十五年、卒す。年五十一。上、使を遣わして祭りに至らしめ、賻として銀三百両・重彩十端・絹百匹を賜う。平素より善言を為すを喜び、善薬を蓄え、「善善道人」と号す。晩年、浮屠の法を信じ、自ら真賛を作り、語は皆任達なりという。
賛に曰く、左企弓・虞仲文・曹勇義・康公弼の四子は、皆才識有るの士にして、其の遼主に事うるや、数に論建有り。其の爵を受けて僭位し、質を二君に委ね、身を逆党に隕すに及びては、三者胥しく之を失えり。哀しいかな。