金史

列傳第十三: 盧彥倫 毛子廉 李三錫 孔敬宗 李師夔 沈璋 左企弓 虞仲文 曹勇義 康公弼 左泌

列傳第十三: 盧彥倫 毛子廉 李三錫 孔敬宗 李師夔 沈璋 左企弓 虞仲文 曹勇義 康公弼 左泌

列傳第十三 ○盧彥倫(子:璣(子:亨嗣)) 毛子廉 李三錫 孔敬宗 李師夔 沈璋 左企弓 虞仲文 曹勇義 康公弼 左泌(弟:淵(子:光慶))

盧彥倫

原文盧彥倫

盧彥倫は臨潢の人である。遼の天慶初年、蕭貞一が上京留守となった時、吏に抜擢され、才幹をもって称された。この時、臨潢の境内には賊が多く、城中の兵には統轄する者がいなかったので、府は彦倫を有能とみて朝廷に推薦し、直ちに殿直・勾當兵馬公事を授けられた。

原文盧彥倫,臨潢人。遼天慶初,蕭貞一留守上京,置為吏,以材幹稱。是時,臨潢之境多盜,而城中兵無統屬者,府以彥倫為材,薦之於朝,即授殿直、勾當兵馬公事。

遼兵が出河店で敗れ、臨潢に戻って来ると、兵士を民家に分散して住まわせ、養わせるよう命じたが、軍士はほしいままに侵掠・騒擾し、至らぬ所はなく、百姓は甚だこれを苦にした。留守耶律赤狗兒はこれを禁圧できず、軍民を召して諭して言うには、「契丹と漢人は久しく一家となっている。今、辺境に警報があり、国用が足りないので、兵士を長く父老の間に雑居させている。侵掠があっても相容れるべきである」と。皆、敢えて言う者はなかった。彦倫のみが言うには、「兵乱以来、民間の財力は困窮している。今またこれに兵士を養わせるのは、国家に多難があるからであり、義として敢えて辞すべきではない。しかし、この輩がほしいままに強暴をなすのは、人は堪えられない。かつ、蕃・漢の民は皆赤子である。これを奪ってあれに与えるとは、どういうことか」と。

原文遼兵敗於出河店,還至臨潢,散居民家,令給養之,而軍士縱恣侵擾,無所不至,百姓殊厭苦之。留守耶律赤狗兒不能禁戢,乃召軍民諭之曰:「契丹、漢人久為一家,今邊方有警,國用不足,致使兵士久溷父老間,有侵擾亦當相容。」眾皆無敢言者。彥倫獨曰:「兵興以來,民間財力困竭,今複使之養土,以國家多故,義固不敢辭。而此輩恣為強暴,人不能堪。且番、漢之民皆赤子也,奪此與彼,謂何。」

初め臨潢を取った時、軍中に辛訛特刺という者がいた。以前は臨潢の駅吏であり、彦倫と親しかったので、招諭に使わされたが、彦倫はこれを殺した。遼は彦倫に団練使・勾當留守司公事を授けた。

原文初取臨潢,軍中有辛訛特刺者,舊為臨潢驛吏,與彥倫善,使往招諭,彥倫殺之。遼授彥倫團練使、勾當留守司公事。

天輔四年、彦倫は留守撻不野に従って降伏した。夏州観察使を授けられ、権発遣上京留守事を兼ねた。軍が帰還すると、撻不野は城を挙げて叛いたので、彦倫は率いる部衆を率いて撻不野を追い払い、城中の契丹をことごとく殺し、使者を遣わして報告した。間もなく、遼の将耶律馬哥が兵を率いて臨潢を奪おうとしたので、彦倫は防ぎ守ること七月に及んだ。援軍が来ると、敵は包囲を解いて去ったので、これにより朝廷に赴いた。

原文天輔四年,彥倫從留守撻不野出降。授夏州觀察使,權發遣上京留守事。師還,撻不野以城叛,彥倫乃率所部逐撻不野,盡殺城中契丹,遣使來報。未幾,遼將耶律馬哥以兵取臨潢,彥倫拒守者七月。會援兵至,敵解圍去,因赴闕。

天会二年、新城の知事となった。城邑が初めて建てられた時、彦倫が経画し、民居・公宇にみな法があった。静江軍節度留後に改め、咸州煙火事を知った。間もなく、静江軍節度使に遷った。天眷初年、行少府監兼都水使者となり、提点京城大内所を充て、利渉軍節度使に改めた。一月も経たないうちに、還り、再び提点大内所となった。彦倫は性質が機巧で、悼后の意に迎合することができ、これにより頗る寵用された。一年余りして、侍衛親軍馬歩軍都指揮使に遷り、宋国歳元使となった。礼部尚書に改め、特進を加えられ、郇国公に封ぜられた。天徳二年、大名尹として出た。翌年、詔により彦倫は燕京宮室の営造を命ぜられ、病により卒した。年六十九。子に璣がある。

原文天會二年,知新城事。城邑初建,彥倫為經畫,民居、公宇皆有法。改靜江軍節度留後,知鹹州煙火事。未幾,遷靜江軍節度使。天眷初,行少府監兼都水使者,充提點京城大內所,改利涉軍節度使。未閱月,還,複為提點大內所。彥倫性機巧,能迎合悼合意,由是頗見寵用。歲餘,遷侍衛親軍馬步軍都指揮使,為宋國歲元使。改禮部尚書,加特進,封郇國公。天德二年,出為大名尹。明年,詔彥倫營造燕京宮室,以疾卒,年六十九。子璣。

子 璣

原文子 璣

璣は字を正甫といい、蔭補により閤門祗候となり、累遷して客省使、兼東上閤門使となり、提点太醫・教坊・司天に改め、大定十五年宋主生日副使を充て、同知宣徽院事に遷った。母の喪に服し、起復して太府監となり、開遠軍節度使に改め、入朝して右宣徽使となった。章宗が即位すると、左宣徽使に転じ、致仕した。明昌四年、起復して左宣徽使となり、定武軍節度使に改め、再び左宣徽使となった。

原文璣字正甫,以廕補閤門祗候,累遷客省使,兼東上閤門使,改提點太醫、教坊、司天,充大定十五年宋主生日副使,遷同知宣徽院事。丁母憂,起複太府監,改開遠軍節度使,入為右宣徽使。章宗即位,轉左宣徽使,致仕。明昌四年,起複左宣徽使,改定武軍節度使,複為左宣徽使。

この時、璣は年すでに七十であり、詔により朝参の際に廊下に座ることを許された。再び致仕した。泰和初年、詔により璣は天寿節に宴会に参列した。二年、元妃李氏が皇子を生み、満三月となった時、章宗は璣が老いてなお康強であるので、その用いる杖を洗児の礼物とすることを命じた。章宗が玉泉山に行幸した時、詔により璣は致仕した宰相とともに会食し、杖を許され扶持を与えられた。後に天寿節に参列し、上は璣に命じて大臣と握槊の戯れをさせ、璣は勝ちを得た。上に従って秋山に行き、名馬を賜った。上は言うには、「卿の博戯の勝ちを報いるものである」と。その眷遇はこのようなものであった。泰和六年に卒した。年八十。子に亨嗣がある。

原文是時,璣年已七十,詔許朝參得坐於廊下。複致仕。泰和初,詔璣天壽節預宴。二年,元妃李氏生皇子,滿三月,章宗以璣老而康強,命以所策杖為洗兒禮物。章宗幸玉泉山,詔璣與致仕宰相俱會食,許策杖給扶。後預天壽節,上命璣與大臣握槊戲,璣獲勝焉。從上秋山,賜名馬。上曰:「酬卿博直。」其眷遇如此。泰和六年卒,年八十。子亨嗣。

子 亨嗣

原文子 亨嗣

亨嗣は字を継祖といい、蔭補により閤門祗候・内供奉となった。同監平涼府醋務に調ぜられ、同監天山塩場に改まった。母の喪に服し、服喪が終わると、萊州酒課を監し、累調して豊州・任丘・汲県・東平の酒務を監した。課税の成績が最も優れ、白登県令に遷った。明昌四年、行六部として軍前糧料の差規措を務め、入朝して典給直長となり、西京戸籍判官に改まり、歴官して西京・中都太倉使、中都戸籍判官、尚醖署丞となった。父の喪に服した。大安初年、再び典給署丞兼太子家令となった。崇慶元年、同知順天軍節度使事に遷った。この時、兵乱が起こり、徴調が煩雑で急を要したので、亨嗣は事務処理が最も優れていたため、定遠大将軍に遷り、入朝して戸部員外郎となった。貞祐二年、莒州刺史に遷った。三年、山東宣撫司が楊安児を討った時、亨嗣は行六部を務め、兵が罷むと、州に還った。興定二年に卒した。年六十一。

原文亨嗣字繼祖,以廕補閤門祗候,內供奉。調同監平涼府醋務,改同監天山鹽場。丁母憂,服闋,監萊州酒課,累調監豐州、任丘、汲縣、東平酒務。課最,遷白登縣令。明昌四年,行六部差規措軍前糧料,入為典給直長,改西京戶籍判官,曆官西京、中都太倉使,中都戶籍判官,尚醖署丞。丁父憂。大安初,複為典給署丞兼太子家令。崇慶元年,遷同知順天軍節度使事。是時,兵興,徵調煩急,亨嗣以辦最,遷定遠大將軍,入為戶部員外郎。貞祐二年,遷莒州刺史。三年,山東宣撫司討楊安兒,亨嗣行六部,兵罷,還州。興定二年,卒,年六十一。

亨嗣は弟の亨益と、友愛の道を尽くした。亨嗣は初め祖父の蔭により官を得たが、大定十六年、父の璣が同知宣徽院事となった時、子に蔭を与えるべきところ、亨嗣はこれを弟の亨益に譲った。亨益は早く卒し、子に兟があった。兟は幼かったので、亨嗣は旧業の田宅・奴畜・財物をことごとくこれに与えた。

原文亨嗣與弟亨益,盡友愛之道。亨嗣初以祖廕得官,大定十六年,父璣為同知宣徽院事,當廕子,亨嗣以讓弟亨益。亨益早卒,子兟。兟幼稚,亨嗣盡以舊業田宅奴畜財物與之。

毛子廉

原文毛子廉

毛子廉は本名を八十といい、臨潢長泰の人で、才勇に優れ弓術に長けていた。遼の末期に群盗が蜂起ほうきすると、勇士を募集し、子廉は応募した。遼主が召し出して甲冑兵器を賜り、百人を率いて、所在の官兵とともに盗賊を捕らえた。功により東頭供奉官を授けられ、良馬を賜った。

原文毛子廉本名八十,臨潢長泰人,材勇善射。遼季群盜起,募勇士,子廉應募。遼主召見,賜甲仗,率百人,會所在官兵捕盜。以功授東頭供奉官,賜良馬。

天輔四年、謀克ぼうこくの辛斡特刺と移刺窟斜を遣わして臨潢を招諭させると、子廉は二千六百戸を率いて帰順した。直ちにその衆を統領させ、銀牌を佩用し、未降の軍民を招くこととした。盧彦倫は子廉が先に降ったことを怒り、子廉の妻と二人の子を殺し、騎兵二千を遣わして子廉を捕らえようと待ち伏せさせた。子廉は窟斜とともに険阻な道を通ったところ、騎兵に包囲され、二騎が突進して直ちに子廉に襲いかかった。子廉は弓を引いてその一人を射殺し、もう一人は槍を突き出してほとんど子廉の脇の下に当たるところであった。子廉はその槍を避け、組み打ちして生け捕りにしたが、それは彦倫の健将孫延寿であった。残りの衆は潰走した。

原文天輔四年,遣謀克辛斡特刺、移刺窟斜招諭臨潢,子廉率戶二千六百來歸。今就領其眾,佩銀牌,招未降軍民。盧彥倫怒于廉先降,殺子廉妻及二子,使騎兵二千伺取子廉。子廉與窟斜經險阻中,騎兵圍之,兩騎突出直犯子廉。子廉引弓斃其一人,其一人挺槍幾中子廉腋。子廉避其槍,與搏戰,生擒之,乃彥倫健將孫延壽也。餘眾潰去。

天会三年、上京副留守に任じられた。しばらくして、塩鉄事を兼ねた。天眷年間、燕京院都監に任じられた。遼王宗幹が宰相に問うて言うには、「子廉は功績があるのに、なぜ低い官に遷すのか」と。宰相は先例に従ったと答えた。宗幹は言う、「盧彦倫はなぜこの職に任じられないのか。子廉の功績は彦倫の十倍であり、臨潢に十余年いて、吏民が畏敬親愛する様は一日の如く、誰がこれに及ぼうか」と。この時、盧彦倫はすでに少府監から節度使に任じられていたので、宗幹はこれを引き合いに出して比べたのである。甯昌軍節度使に任じられた。海陵王が熙宗を弑すると、子廉はこれを聞き、嘆いて言うには、「かつて国王(宗幹)の策定の功を思わなかったのか」と。そこで致仕した。大定二年、卒去した。

原文天會三年,除上京副留守。久之,兼鹽鐵事。天眷中,除燕京院都監。遼王宗幹問宰相曰:「子廉有功,何為下遷。」;宰相以例對。宗幹曰:「盧彥倫何不除此職?子廉之功十倍彥倫,在臨潢十餘年,吏民畏愛如一日,誰能及此。」是時盧彥倫已以少府監除節度使,故宗幹引以為比。除甯昌軍節度使。海陵弑熙宗,子廉聞之,歎曰:「曾不念國王定策之功耶。」乃致仕。大定二年,卒。

李三錫

原文李三錫

李三錫は字を懷邦といい、錦州安昌の人で、財産によって官を得た。遼の末期、盗賊が錦州を攻めると、州人は三錫を推して兵事を主管させ、機略を設けて応変し、城はこれによって保全された。功績を記録して左承制を授けられた。遼主が天徳に逃れると、劉彦宗が三錫を辟召して兵を将いて白雲山を保たせた。

原文李三錫字懷邦,錦州安昌人,以貲得官。遼季,盜攻錦州,州人推三錫主兵事,設機應變,城賴以完。錄功授左承制。遼主走天德,劉彥宗辟三錫將兵保白雲山。

金兵が来州に駐屯すると、三錫はその衆を率いて降伏した。臨海軍節度副使を摂行し、元帥府軍事に参預し、厳州知事に改められた。宗望が宋を伐つと、三錫は行軍猛安もうあんを領し、白河において郭薬師の軍を破った。官を進めて安州防禦使となった。再び汴京を陥落させると、三錫は闍母に従って宋の二主を護衛して北帰した。再び厳州知事となり、帰徳軍節度副使に改められた。詔して斉国を廃し、吏三十人を選んでともに行かせると、三錫はその選中にあった。還って慶州刺史となり、三遷して武勝軍節度使となった。廉察で第一となり、三階を進められ、安国軍節度使に改められ、河北西路転運使に任じられ、致仕した。

原文金兵次來州,三錫以其眾降。攝臨海軍節度副使,參預元帥府軍事,改知嚴州。宗望伐宋,三錫領行軍猛安,敗郭藥師軍于白河。進官安州防禦使。再克汴京,三錫從闍母護宋二主北歸。複知嚴州,改歸德軍節度副使。詔廢齊國,擇吏三十人與俱行,三錫在選中。還為慶州刺史,三遷武勝軍節度使。察廉第一,遷三階,改安國軍節度使,除河北西路轉運使,致仕。

三錫は政事に強明で、赴任先ごとに治績を称えられた。世宗はかねてその名を聞いており、大定初年、起用して北京路都転運使とした。制書が下った時、すでに三錫は卒去していた。

原文三錫政事強明,所至稱治。世宗舊聞其名,大定初,起為北京路都轉運使。制下,而三錫已卒。

孔敬宗

原文孔敬宗

孔敬宗は字を仲先といい、その先祖は東垣の人で、後晋の末年に遼陽に移住した。遼の末期、敬宗は甯昌の劉宏の幕官であった。斡魯古の兵が境上に至ると、敬宗は劉宏を勧めて迎え降り、そこで敬宗を郷導として顕州を抜き、功により順安令に補せられた。天輔二年、詔して敬宗と劉宏に懿州の民を率いて内地に移住させ、世襲猛安を授け、安州事を知らせた。兵千人を将いて宗望に従い宋を伐った。汴京が平定されると、宗望は敬宗に命じて汴を守らせた。かつて汴から駅伝を馳せて河北に至り、河上に戻った時、日が暮れて舟がなく、敬宗は馬に鞭打って流れを乱し渡り、遂に南岸に達した。静江軍節度使に遷り、石・辰・信・磁の四州刺史を歴任し、階は光禄大夫となった。

原文孔敬宗字仲先,其先東垣人,石晉末,徙遼陽。遼季,敬宗為甯昌劉宏幕官。斡魯古兵至境上,敬宗勸劉宏迎降,遂以敬宗為鄉導,拔顯州,以功補順安令。天輔二年,詔敬宗與劉宏率懿州民徙內地,授世襲猛安,知安州事。將兵千人從宗望伐宋。汴京平,宗望命敬宗守汴。嘗自汴馳驛至河北,還至河上,會日暮無舟,敬宗策馬亂流,遂達南岸。遷靜江軍節度使,曆石、辰、信、磁四州刺史,階光祿大夫。

海陵王が張浩に問うて言うには、「卿は孔敬宗を知っているか、なぜ階は高いのに職は低いのか」と。浩は答えて言うには、「国初、敬宗は劉宏を勧めて懿州を効順させ、その後軍に従って功労を積んだが、有司が知らず、故に一律に常調としたのです」と。翌日、甯昌軍節度使に任じられた。帰徳軍に移り、致仕した。大定二年、卒去した。

原文海陵問張浩曰:「卿識孔敬宗否,何階高職下也。」浩對曰:「國初,敬宗勸劉宏以懿州效順,其後從軍積勞,有司不知,故一概常調耳。」明日,除甯昌軍節度使。徙歸德軍,致仕。大定二年,卒。

李師夔

原文李師夔

李師夔は字を賢佐といい、奉聖永興の人である。若い頃から倜儻として大志があった。蔭官によって入仕し、本州の監となった。天輔六年、太祖が鴛鴦濼において遼主を襲撃すると、郡守は城を捨てて遁走し、衆は帰属するところがなく、相い叩門して師夔に郡事を主管するよう請うた。師夔はこれを許し、そこで兵卒を捜索し兵を治めた。

原文李師夔字賢佐,奉聖永興人。少倜儻,有大志。以廕入仕,為本州監。天輔六年,太祖襲遼主於鴛鴦濼,郡守委城遁去,眾無所屬,相與叩門請師夔主郡事。師夔許之,乃搜卒治兵。

迪古乃の兵が奉聖州に至ると、師夔はその旧友の沈璋と密謀して降伏しようとし、言うには、「一城の命はこの挙に懸かっている」と。璋は言う、「君の言う通りだ。もし軍民が従わなければ、どうするか」と。師夔は直ちに親信十数人を率いて翌朝出城し、余睹に会い、これと約して言うには、「今や服従した。どうか兵を以て城に入り、境内を俘掠することなきを願う」と。余睹は承諾した。詔して師夔に節度を領させ、璋を以てこれを補佐させた。師夔に駿馬二頭を賜り、未だ附かざる者を招かせ、便宜を以て事を行うことを許した。翌年、左監門衛大將軍を加えられた。

原文迪古乃兵至奉聖州,師夔與其故人沈璋密謀出降,曰:「一城之命懸於此舉。」璋曰:「君言是矣。如軍民不從,奈何。」師夔即率親信十數輩詰旦出城,見餘睹,與之約曰:「今已服從,願無以兵入城及俘掠境內。」餘睹許諾。詔以師夔領節度,以璋佐之。賜師夔駿馬二,俾招未附者,許以便宜從事。明年,加左監門衛大將軍。

大賊の張勝が万人を以て城に迫ると、師夔は衆寡敵せずと見て、偽ってこれと和し、日々饋給を送り、勝はこれを信じた。師夔はその不備に乗じ、人を遣わして勝を刺し、これを殺した。その首を掲げて示して言うには、「汝らは皆良民なり、脅従してここに至った。今や元悪は既に誅せられた。兵を棄ててその所に帰り復せよ」と。賊衆は大いに驚き、皆散去した。別賊の焦望天・尹智穆が兵数千を率いて来寇した。師夔は兵を以てこれに臨み、帰路に伏兵を設け、人を遣わして反間を行った。智穆は果たして疑い、望天は先に引き去った。智穆は勢い孤となり、また還ったが、伏兵に遇って敗れ、遂に捕らえて斬った。この後、賊衆は敢えて境内に入らなかった。労により静江軍節度留後に遷り、累遷して武平軍節度使となり、東京路転運使に改められ、陝西東路転運使に移った。致仕し、任国公に封ぜられた。卒去し、年八十五であった。

原文劇賊張勝以萬人逼城,師夔度眾寡不敵,乃偽與之和,日致饋給,勝信之。師夔乘其不備,使人刺勝,殺之。以其首徇曰:「汝輩皆良民,脅從至此,今元惡已誅,可棄兵歸複其所。」賊眾大驚,皆散去。別賊焦望天、尹智穆率兵數千來寇。師夔以兵臨之,設伏歸路,使人反間之。智穆果疑,望天先引去。智穆勢孤,亦還,遇伏而敗,遂執斬之。是後賊眾不敢入境。以勞遷靜江軍節度留後,累遷武平軍節度使,改東京路轉運使,徙陝西東路轉運使。致仕,封任國公。卒,年八十五。

沈璋

原文沈璋

沈璋は字を之達といい、奉聖州永興の人である。進士の学業を修めた。迪古乃の軍が上穀に至ると、璋は李師夔と謀り、城門を開いて迎え降った。翌日、守と為すべき者を選ぶに、衆皆璋を推したが、璋は固より李師夔を称した。ここにおいて師夔を武定軍節度使に授け、璋を以てその副と為した。太常少卿を授け、鴻臚卿に遷る。母の憂いに遭い、起復して山西路都転運副使となり、衛尉卿を加えられた。宋を伐つに従う。汴京平定の後、衆は争って財貨に趨ったが、璋のみは何も取らず、ただ書物数千巻を載せて還ったのみであった。

原文沈璋字之達,奉聖州永興人也。學進士業。迪古乃軍至上穀,璋與李師夔謀,開門迎降。明日,擇可為守者,眾皆推璋,璋固稱李師夔,於是授師夔武定軍節度使,以璋副之。授太常少卿,遷鴻臚卿。丁母憂,起複山西路都轉運副使,加衛尉卿。從伐宋。汴京平,眾爭趨貲貨,璋獨無所取,惟載書數千卷而還。

太行の賊が潞州を陥落させ、その守の姚璠を殺した。官軍がこれを討ち平らげ、璋に命じて州事を権知せしめた。璋が至ると、逃亡した者を招き復帰させ、困窮し飢えた者を賑い養い、横たわる屍を収めて葬った。未だ幾ばくもせず、民は大いに安んじ集まった。初め、賊党が城を占拠した時、潞州の軍卒で連座に当たる者は七百人に及んだ。帥府が牒を下し璋に尽く誅殺せよと命じたが、璋は従わなかった。帥府はこれを聞き、大いに怒り、璋を召し呵責し、かつ璋を殺さんとした。左右は震え恐れたが、璋の顔色は動かず、従容として対して言うには、「逃亡者を招き、残存者を撫するは、璋の職務であります。この者どもは初めより叛心はなく、賊に脅迫されたものであり、已むを得ざる者であった。故に招けば復び来たのです。今これを殺さんとすれば、降伏者を殺すことになります。もし衆に利あらば、璋が死すること何の憾みがありましょうか。」しばらくして怒りは解けた。そこで潞州の軍卒を召して言うには、「我は始め汝らを誅殺せよと命じたが、今汝らの使君が汝らを生かしたのだ。」皆感泣して去った。朝廷はこれを聞いて嘉し、左諫議大夫に拝し、潞州事を知らせた。百姓はそのために祠を立てた。忻州知事に移り、同知太原尹に改め、尚書礼部侍郎を加えられた。

原文太行賊陷潞州,殺其守姚璠,官軍討平之,命璋權知州事。璋至,招複逋逃,賑養困餓,收其橫屍葬之。未幾,民頗軍輯。初,賊黨據城,潞之軍卒當緣坐者七百人,帥府牒璋盡誅之,璋不從。帥府聞之,大怒,召璋呵責,且欲殺璋,左右震恐,璋顏色不動,從容對曰:「招亡撫存,璋之職也。此輩初無叛心,蓋為賊所脅,有不得已者,故招之複來。今欲殺之,是殺降也。苟利於眾,璋死何憾。」少頃,怒解。因召潞軍曰:「吾始命戮汝,今汝使君活爾矣。」皆感泣而去。朝廷聞而嘉之,拜左諫議大夫,知潞州事。百姓為之立祠。移知忻州,改同知太原尹,加尚書禮部侍郎。

時に介休の人張覚が党を集めて山谷に亡命し、邑県を掠奪していた。招いても肯じて降らず、言うには、「前に嘗て降った者が皆殺された。今好言を以て我を誘うのは、我を殺さんとするのだ。ただ侍郎沈公の一言を得るならば、我は疑わない。」ここにおいて、璋を命じて往き招かしめると、覚は即日降った。

原文時介休人張覺聚黨亡命山谷,鈔掠邑縣,招之不肯降,曰:「前嘗有降者,皆殺之。今以好言誘我,是欲殺我耳。獨得侍郎沈公一言,我乃無疑。」於是,命璋往招之,覺即日降。

転じて尚書吏部侍郎・西京副留守・同知平陽尹となり、利渉軍節度使に遷り、東京路都転運使と為り、鎮西軍節度使に改められた。天徳元年、病を以て致仕した。卒す。年六十。

原文轉尚書吏部侍郎、西京副留守、同知平陽尹,遷利涉軍節度使,為東京路都轉運使,改鎮西軍節度使。天德元年,以病致仕。卒,年六十。

子の宜中は、天徳三年、楊建中の榜に及第を賜う。

原文子宜中,天德三年,賜楊建中榜及第。

賛して曰く、危難の際、両軍方に争う時、城を専有する将は、国家の軽重これに係る。李師夔は君命有るに非ず、衆に推され、又能くその人を全活した。猶いわゆる有りと言うべし。盧彦倫の降は、城潰れたりと云うも、初志確かならず、何ぞ毛子廉を尤めん。至りては子廉の海陵に仕えざる、沈璋の片言を以て張覚を降す、一善称すに足る。何ぞ掩うべけんや。

原文贊曰:危難之際,兩軍方爭,專城之將,國家之輕重系焉。李師夔非有君命,為眾所推,又能全活其人,猶有說也。盧彥倫之降,雖雲城潰,初志不確,何尤乎毛子廉。至如子廉不仕海陵,沈璋以片言降張覺,一善足稱,何可掩也。

左企弓

原文左企弓

左企弓は字を君材という。八世の祖皓は、後唐の棣州刺史で、行軍司馬として燕に戍り、遼が燕を取ると、薊を守らせ、ここに家を定めた。企弓は書を読み、『左氏春秋』に通じた。進士に及第し、再び遷って来州観察判官となった。蕭英弼が昭懐太子を賊害し、党与を窮めて治めると、多く連引された。企弓はその冤罪を弁析し、甚だ衆くを免れた。御史より知難事に出て、中京副留守となり、遼陽にて刑獄を按ずる。獄事で本来軽いのに重く入れた者がおり、既に奏上して報を待っていたが、企弓はこれを釈放して上聞した。累遷して三司使事を知った。天慶末、広陵軍節度使に拝し、同中書門下平章事・知枢密院事となる。

原文左企弓字君材。八世祖皓,後唐棣川刺史,以行軍司馬戍燕,遼取燕,使守薊,因家焉。企弓讀書,通《左氏春秋》。中進士,再遷來州觀察判官。蕭英弼賊昭懷太子,窮治黨與,多連引。企弓辨析其冤,免其甚眾。自禦史知難事,出為中京副留守,按刑遼陽。有獄本輕而入之重者,已奏待報,企弓釋之以聞。累遷知三司使事。天慶末,拜廣陵軍節度使,同中書門下平章事、知樞密院事。

金兵が既に上京を抜くと、北枢密院は旨に忤るを恐れ、時に奏上しなかった。遼の故事では、軍政は皆北枢密院に関決し、然る後に奏上する。企弓はこれを聞かせた。遼主は言う、「兵事は卿の職に非ずや?」対えて言う、「国勢この如し、豈に例に循りて自らを容れる計を為さんや。」ここにおいて守備の策を陳べた。中書侍郎平章事に拝し、国史を監修した。時に遼主は金が既に中京を克ったと聞き、将に西幸してこれを避けんとした。企弓は諫めたが聴かれなかった。

原文金兵已拔上京,北樞密院恐忤旨,不以時奏。遼故事,軍政皆關決北樞密院,然後奏禦。企弓以聞。遼主曰:「兵事無乃非卿職邪?」對曰:「國勢如此,豈敢循例為自容計。」因陳守備之策。拜中書侍郎平章事,監修國史。時遼主聞金已克中京,將西幸以避之。企弓諫不聽。

遼主は鴛鴦濼より亡走して陰山に保った。秦晋国王耶律捏裏が燕に自立し、遼主を廃して湘陰王と為し、元を徳興と改めた。企弓は司徒を守り、燕国公に封ぜられた。虞仲文は参知政事となり、西京留守・同中書門下平章事・内外諸軍都統を領した。曹勇義は中書侍郎平章事・枢密使・燕国公となった。康公弼は参知政事・簽枢密院事となり、「忠烈翊聖功臣」の号を賜う。徳妃が政を摂ると、企弓に侍中を加えた。宋兵が燕を襲い、忽ち城中に至ったが、已に敗走した。或いは内応者有りと疑い、根株を絶たんとしたが、企弓がこれを争い、乃ち止んだ。

原文遼主自鴛鴦濼亡保陰山。秦晉國王耶律捏裏自立于燕,廢遼主為湘陰王,改元德興。企弓守司徒,封燕國公。虞仲文參知政事,領西京留守、同中書門下平章事、內外諸軍都統。曹勇義中書侍郎平章事、樞密使、燕國公。康公弼參知政事、簽樞密院事,賜號「忠烈翊聖功臣」。德妃攝政,企弓加侍中。宋兵襲燕,奄至城中,已而敗走。或疑有內應者,欲根株之,企弓爭之,乃止。

太祖が居庸関に至ると、蕭妃は古北口より遁去した。都監高六らが太祖に款を送り、太祖は径ちに城下に至った。高六らは門を開いてこれを待った。太祖が城に入り降を受けるも、企弓らは猶知らなかった。太祖が燕京城南に駐蹕すると、企弓らは表を奉じて降り、太祖は旧職に復せしめ、皆金牌を受けた。企弓は太傅・中書令を守り、仲文は枢密使・侍中・秦国公となり、勇義は旧官を以て司空を守り、公弼は同中書門下平章事・枢密副使権知院事・簽中書省となり、陳国公に封ぜられた。遼の致仕宰相張琳が降表を進上し、詔して曰く、「燕京に応ずる琳の田宅財物は並びにこれを給還すべし。」琳は年高く、入見できず、ただその子弟を来させたのみであった。

原文太祖至居庸關,蕭妃自古北口遁去。都監高六等送款于太祖,太祖徑至城下。高六等開門待之。太祖入城受降,企弓等猶不知。太祖駐蹕燕京城南,企弓等奉表降,太祖俾復舊職,皆受金牌。企弓守太傅、中書令,仲文樞密使、侍中、秦國公,勇義以舊官守司空,公弼同中書門下平章事、樞密副使權知院事、簽中書省、封陳國公。遼致仕宰相張琳進上降表,詔曰:「燕京應琳田宅財物並給還之。」琳年高,不能入見,止令其子弟來。

太祖が既に燕を定め、初めの約に従い、これを宋人に与えんとした。企弓は詩を献じ、略して曰く、「君王莫だ燕を捐つるの議を聴くことなかれ、一寸の山河一寸の金。」太祖は聴かなかった。

原文太祖既定燕,從初約,以與宋人。企弓獻詩,略曰:「君王莫聽捐燕議,一寸山河一寸金。」太祖不聽。

是の時、枢密院を広寧府に置いた。企弓ら将に広寧に赴かんとするに、張覚が平州に異志有り、太祖は兵を以て送らんとした。企弓らは兵を辞して言う、「此くの如くせば、是れ乱を促すなり。」平州を過ぎるに及び、栗林の下に宿った時、張覚が人を遣わしてこれを殺した。企弓は年七十三、諡して恭烈という。天会七年、守太師を贈り、使いを遣わして奠せしめた。正隆二年、特進・済国公に改めて贈った。

原文是時,置樞密院于廣寧府。企弓等將赴廣甯,張覺在平州有異志,太祖欲以兵送之。企弓等辭兵曰:「如此,是促之亂也。」及過平州,舍于栗林下,張覺使人殺之。企弓年七十三,諡恭烈。天會七年,贈守太師,遣使致奠。正隆二年,改贈特進、濟國公。

虞仲文

原文虞仲文

虞仲文は字を質夫といい、武州寧遠の人である。七歳にして詩を作ることを知り、十歳で文章を綴ることができ、日に千言を記し、刻苦して学問に励んだ。進士に及第し、州県の官を歴任し、廉潔で有能と称された。賢良方正に挙げられ、対策は優等であった。起居郎・史館修撰に抜擢され、三度の昇進を経て太常少卿に至った。宰相が左遷されたとき、仲文はただ一人見送りに出た。ある者がこれを党派と指摘したので、仲文は親を養うことを求めた。久しくして、前の職に復帰するよう召された。宰相が文行第一と推薦し、権知制誥となり、中書舎人に任じられた。白嵆を討伐平定し、枢密直学士を拝命し、権翰林学士となり、翰林侍講学士となった。五十五歳で卒し、諡は文正。天会七年、兼中書令を追贈された。正隆二年、特進・濮国公に改めて追贈された。

原文虞仲文字質夫,武州寧遠人也。七歲知作詩,十歲能屬文,日記千言,刻苦學問。第進士,累仕州縣,以廉能稱。舉賢良方正,對策優等。擢起居郎、史館修撰,三遷至太常少卿。宰相有左降,仲文獨出餞之。或指以為党,仲文乃求養親。久之,召複前職。宰相薦文行第一,權知制誥,除中書舍人。討平白嵆,拜樞密直學士,權翰林學士,為翰林侍講學士。年五十五,卒,諡文正。天會七年,贈兼中書令。正隆二年,改贈特進、濮國公。

曹勇義

原文曹勇義

曹勇義は広寧の人である。進士に及第し、長春令に任じられた。枢密府が令史に辟召した。上書して時政を述べ、累進して館閣の職に至り、枢密副都承旨に遷り、権燕京三司使となり、給事中を加えられた。枢密副使として召され、太子少保を加えられた。大公鼎・虞仲文・龔誼と親しく交わった。虞仲文とともに枢密に在ったとき、群小が彼らを排斥した。再び出て三司使となり、宣政殿大学士を加えられた。卒し、諡は文荘。天会七年、守太保を追贈された。正隆二年、特進・定国公に改めて追贈された。

原文曹勇義,廣寧人。第進士,除長春令。樞府辟令史。上書陳時政,累擢館閣,遷樞密副都承旨,權燕京三司使,加給事中。召為樞密副使,加太子少保。與大公鼎、虞仲文、龔誼友善。與虞仲文同在樞密,群小擠之。複出為三司使,加宣政殿大學士。卒,諡文莊。天會七年,贈守太保。正隆二年,改贈特進、定國公。

康公弼

原文康公弼

康公弼は字を伯迪といい、その先祖は応州の人である。曾祖父の胤は、遼の保寧年間に戦功により質券を授かり、燕の宛平に家を構えた。公弼は学問を好み、二十三歳で進士に及第し、著作郎・武州軍事判官に任じられた。枢密府令史に辟召されたが、外補を求め、出て寧遠令となった。県内に霜が降りて禾稼を害し、漕司が賦税の徴収を急ぎ、彼を獄につないだ。公弼が上書すると、朝廷は彼を釈放し、それにより県内の租賦を免除し、県人は彼のために生祠を建立した。平州の銭帛庫を監査し、川州に役糧を調達した。大盗の侯概が川州を陥落させたとき、公弼を護送して境外に出し、「良吏なり」と言った。権乾州節度使となった。卒し、諡は忠粛。天会七年、侍中を追贈された。正隆二年、特進・道国公に改めて追贈された。

原文康公弼字伯迪,其先應州人。曾祖胤,遼保甯間以戰功授質券,家于燕之宛平。公弼好學,年二十三中進士,除著作郎、武州軍事判官。辟樞府令史,求外補,出為寧遠令。縣中隕霜殺禾稼,漕司督賦急,系之獄。公弼上書,朝廷乃釋之,因免縣中租賦,縣人為立生祠。監平州錢帛庫,調役糧於川州。大盜侯概陷川州,使護送公弼出境,曰:「良吏也。」權乾州節度使。卒,諡忠肅。天會七年,贈侍中。正隆二年,改贈特進、道國公。

左泌

原文左泌

企弓の子は泌・瀛・淵である。

原文企弓子泌、瀛、淵。

泌は字を長源といい、企弓の長子である。遼に仕え、官は棣州刺史に至った。太祖が燕を平定すると、泌は企弓に従って朝廷に帰順した。やがて東遷して平州に至り、企弓が張覚に害されると、泌は再び燕に戻った。この時、燕を宋に与えたため、宣撫司が汴に派遣したが、泌は平州の仇人がそこにいるので、間道をとって駆け戻った。朝廷はこれを嘉し、西上閤門使に抜擢した。宋王宗望に従って南伐し、真定を破って功績があり、祁州知州となり、沢州・隰州などの刺史を歴任した。貞元初年、浚州防禦使となり、陝西路転運使に遷り、戴国公に封じられた。

原文泌字長源,企弓長子也。仕遼,官至棣州刺史。太祖平燕,泌從企弓歸朝。既而東遷至平州,企弓為張覺所害,泌複還燕。是時,以燕與宋,宣撫司遣至汴,泌以平州仇人在是,乃間道奔還。朝廷嘉之,擢西上閤門使。從宋王宗望南伐,破真定有功,知祁州,曆刺澤、隰等州。貞元初,為浚州防禦使,遷陝西路轉運使,封戴國公。

泌の性質は平穏で淡泊、『荘子』・『老子』を読むことを好み、六十一歳で即座に致仕を請うた。親友の中には早すぎると考える者もいたが、泌は嘆息して言った、「私は三十歳で節鉞を執り、仕途をたどることまた三十年、名を成して身を退くは、可なり」。当時の人は彼を高く評価した。七十四歳で卒した。

原文泌性夷澹,好讀《莊》、《老》,年六十一,即請致仕。親友或以為早,泌歎曰:「予年三十秉旄鉞,侵尋仕路又三十年,名遂身退,可矣。」時人高之。卒年七十四。

弟 淵

原文弟 淵

淵は累進して燕京副留守・中京路都転運使となり、河北東路・中都路都転運使を歴任した。淵は貪欲で卑劣であり、三度漕事を担当し、ひたすら銭穀をもって自らを営んだ。中都に在ること凡そ八年、昇進を求めなかった。李通・許霖と結託して賄賂を取り、漕司の諸物を不正に納入し、財利を貪った。世宗が即位すると、淵はその子の貽慶を遣わして東京に上表させ、特に貽慶に任忠傑の榜の第三甲進士を賜り、従仕郎に任じられた。貽慶が中都に戻ると、世宗は淵に詔して言った、「凡そ殿位の張設は全て旧に従い、増益するなかれ。一人の夫役も使役せず、以て百姓を擾すことなかれ。謹んで宮禁の出入りをせよ」。大定二年、沁南軍節度使に改めた。世宗は平素よりその人となりを知っており、戒めて言った、「卿は宰相の子であり、朝政に習熟しているが、以前漕司であったとき、朕は甚だこれを卑しんだ。百姓を刻削することあるなかれ、もし再び敢えてこのようなことをすれば、再び用いられることを思うな」。淵が懐州に到着して間もなく、以前中都転運使として官の材木を盗用した罪により、除名された。子は光慶。

原文淵累官燕京副留守、中京路都轉運使,曆河北東路、中都路都轉運使。淵貪鄙,三任漕事,務以錢穀自營。在中都凡八年,不求遷。與李通、許霖交關賄賂,詭納漕司諸物,規取財利。世宗即位,淵使其子貽慶詣東京上表,特賜貽慶任忠傑榜第三甲進士,授從仕郎。貽慶還中都,世宗詔淵曰:「凡殿位張設悉依舊,毋增益。不得役使一夫,以擾百姓。謹宮禁出入而已。」大定二年,改沁南軍節度使。世宗素知其為人,戒之曰:「卿宰相子,練習朝政,前為漕司,朕甚鄙之。毋或刻削百姓,若複敢爾,勿思再用。」淵到懷州未幾,坐前為中都轉運嘗盜用官材木,除名。子光慶。

子 光慶

原文子 光慶

光慶は字を君錫といい、幼少より聡明で悟りが早く、沈着で重厚、言葉少なかった。淵は親しい者に言った、「我が家を継ぐ者は、この子なり」。蔭官により、閤門祗候に補され、西上閤門副使に遷った。父の喪に服し、起復して東上閤門副使となり、再び転じて西上・東上閤門使となり、太廟署令を兼ねた。

原文光慶字君錫,幼潁悟,沉厚少言。淵嘗謂所親曰:「世吾家者,此子也。」以廕,補閤門祗候,遷西上閤門副使。丁父憂,起複東上閤門副使,再轉西上、東上閤門使,兼太廟署令。

光慶は古を好み、書を読んで大義を識り、詩を作ることを喜び、篆書・隷書に優れ、特に大字を巧みにした。世宗が郊祀の礼を行い、尊号を受け、及び受命宝を受けるとき、皆光慶が篆書を書いた。凡そ宮廟の榜額で光慶が書いたものは、人々がその法度があると称した。原廟・坤厚陵・寿安宮の工役を統率し、苛酷峻烈とせず、労逸を均しくした。身に数職を兼ね、勤勉で慎重周密、自ら誇ることはなく、世宗のみがこれを察知した。

原文光慶好古,讀書識大義,喜為詩,善篆隸,尤工大字。世宗行郊禮,受尊號,及受命寶,皆光慶篆。凡宮廟榜署經光慶書者,人稱其有法。典領原廟、坤厚陵、壽安宮工役,不為苛峻,使勞逸相均。身兼數職,勤慎周密,未嘗自伐,世宗獨察之。

初め、御史大夫の璋が大金受命宝の制作を請うたとき、有司が秦の璽の文を進上したので、上は「大金受命万世之宝」を文とするよう命じた。径四寸八分、厚さ一寸四分、蟠龍鈕、高さと厚さは各々四寸六分半。礼部尚書の張景仁・少府監の張僅言が工事を統率し、詔して光慶に篆書を書かせた。同知宣徽院事に遷り、少府監に改めた。母の喪に服し、起復して右宣徽使となった。世宗が上京に幸したとき、光慶は上京に赴いて儀仗の制度を整え、当時の人は適切であると考えた。

原文初,御史大夫璋請制大金受命寶,有司以秦璽文進,上命以「大金受命萬世之寶」為文。徑四寸八分,厚一寸四分,蟠龍紐,高厚各四寸六分有半。禮部尚書張景仁、少府監張僅言典領工事,詔光慶篆之。遷同知宣徽院事,改少府監。丁母憂,起複右宣徽使。世宗幸上京,光慶往上京治儀仗制度,時人以為得宜。

二十五年、卒す。年五十一。上、使を遣わして祭りに至らしめ、賻として銀三百両・重彩十端・絹百匹を賜う。平素より善言を為すを喜び、善薬を蓄え、「善善道人」と号す。晩年、浮屠の法を信じ、自ら真賛を作り、語は皆任達なりという。

原文二十五年,卒,年五十一。上遣使至祭,賻銀三百兩、重彩十端、絹百匹。平時喜為善言,蓄善藥,號「善善道人」。晚信浮屠法,自作真贊,語皆任達雲。

賛に曰く、左企弓・虞仲文・曹勇義・康公弼の四子は、皆才識有るの士にして、其の遼主に事うるや、数に論建有り。其の爵を受けて僭位し、質を二君に委ね、身を逆党に隕すに及びては、三者胥しく之を失えり。哀しいかな。

原文贊曰:左企弓、虞仲文、曹勇義、康公弼四子者,皆有才識之士,其事遼主數有論建。及其受爵僭位,委質二君,隕身逆黨,三者胥失之,哀哉。