金史

列傳第十一: 阿離合懣 宗道 宗雄 希尹

列傳第十一: 阿離合懣 宗道 宗雄 希尹

列傳第十一 ○阿離合懣(子:晏(本名斡論)、孫:宗尹(本名阿里罕) 宗甯(本名阿土古)) 宗道(本名八十) 宗雄(本名:謀良虎、子:阿鄰 按荅海) 希尹(本名:穀神、孫:守貞(本名左靨) 守能(本名胡刺))

阿離合懣

原文阿離合懣

阿離合懣は、景祖の第八子である。強健敏捷で戦を善くした。十八歳の時、臘醅・麻産が兵を起こして暮棱水を占拠し、烏春・窩謀罕が姑里甸の兵をもってこれを助けた。世祖が臘醅を擒えたが、暮棱水の人々はなお動揺し、自ら安んぜず、阿離合懣を遣わしてこれを慰撫せしめ、斜缽と合兵して窩謀罕を攻撃させた。烏春は既に死んでおり、窩謀罕は城を棄てて遁走した。後に撒改に従い留可を討ち平らげ、阿離合懣の功績が多かった。

原文阿離合懣,景祖第八子也。健捷善戰。年十八,臘醅、麻產起兵據暮棱水,烏春、窩謀罕以姑里甸兵助之。世祖擒臘醅,暮棱水人尚反側,不自安,使阿離合懣往撫差之,與斜缽合兵攻窩謀罕。烏春已死,窩謀罕棄城遁去。後從撒改討平留可,阿離合懣功居多。

太祖が蕭海里を擒え、阿離合懣をして遼に馘を献上せしめた。太祖が遼を伐たんと謀り、阿離合懣は実際にこれを賛成した。挙兵するに及んで、阿離合懣は軍中にあって屡々戦い功績があった。太宗らが進めるを勧めた時、太祖は未だこれを許さなかった。阿離合懣・昱・宗翰らが言うには、「今大功は既に集まり、もし時に応じて号を建てざれば、天下の心を繋ぐこと無からん」と。太祖は言う、「吾考えん」と。收國元年、太祖即位す。阿離合懣と宗翰は耕具九を以て献じ、祝して言う、「陛下に稼穡の艱難を忘れさせざらんことを」と。太祖は敬ってこれを受けた。間もなく、国論乙室勃極烈ぼっきょくれつとなる。

原文太祖擒蕭海里,使阿離合懣獻馘於遼。太祖謀伐遼,阿離合懣實贊成之。及舉兵,阿離合懣在行間屢戰有功。及太宗等勸進,太祖未之許也。阿離合懣、昱、宗翰等曰:「今大功已集,若不以時建號,無以系天下心。〕太祖曰:「吾將思之。」收國元年,太祖即位。阿離合懣與宗翰以耕具九為獻,祝曰:「使陛下毋忘稼穡之艱難。」太祖敬而受之。頃之,為國論乙室勃極烈。

人となり聰敏で弁給に富み、凡そ一たび聞見すれば、終身忘れず。初め文字無く、祖宗の族属や時事を並びに能く默記し、斜葛と共に本朝の譜牒を修めた。旧より未だ嘗て識らざる人を見て、その父祖の名を聞けば、即ちその部族の世次と出処を道うことができた。或いは積年の旧事、偶々他に因りてこれに及べば、人は或いは遺忘するも、輒ち一一辨析してこれを言い、質疑する者あれば皆その意義を釈した。世祖は嘗てその強記を称え、人は及ぶべからざるとした。

原文為人聰敏辨給,凡一聞見,終身不忘。始未有文字,祖宗族屬時事並能默記,與斜葛同修本朝譜牒。見人舊未嘗識,聞其父祖名,即能道其部族世次所出。或積年舊事,偶因他及之,人或遺忘,輒一一辨析言之,有質疑者皆釋其意義。世祖嘗稱其強記,人不可及也。

天輔三年、病臥す。宗翰は日ごとに往きてこれを問い、祖宗の旧俗法度を尽く得た。病篤く、上(太祖)その家に幸して病を問い、国家の事を以て問う。対えて言う、「馬は甲兵の用たるもの、今四方未だ平らかならず、而るに国俗多く良馬を以て殉葬す、これを禁止すべし」と。乃ち平生乗用の戦馬を献ず。及び馬を太宗に献ぜんとし、その子蒲里迭をして代わりに奏せしむ。奏に誤語あれば、即ちこれを哂い、宗翰が傍らよりこれを改定す。進奏終わりて、薨ず。年四十九。

原文天輔三年,寢疾,宗翰日往問之,盡得祖宗舊俗法度。疾病,上幸其家問疾,問以國家事,對曰:「馬者甲兵之用,今四方未平,而國俗多以良馬殉葬,可禁止之。」乃獻平生所乘戰馬。及以馬獻太宗,使其子蒲里迭代為奏,奏有誤語,即哂之,宗翰從傍為改定。進奏訖,薨,年四十九。

上(太祖)阿離合懣の臨終に奏事有りと聞き、言う、「臨終に乱れず、国家の事を念い及ぶ、真の賢臣なり」と。これを哭すること慟く。葬るに及び、上親しく臨む。熙宗の時、隋国王を追封す。天徳中、開府儀同三司・隋国公を改めて贈る。大定年間、太祖廟廷に配饗し、諡して剛憲と曰う。子に賽也・斡論あり。賽也の子は宗尹。

原文上聞阿離合懣臨薨有奏事,曰:「臨終不亂,念及國家事,真賢臣也。」哭之慟。及葬,上親臨。熙宗時,追封隋國王。天德中,改贈開府儀同三司、隋國公。大定間,配饗太祖廟廷,諡曰剛憲。子賽也、斡論。賽也子宗尹。

子 晏

原文子 晏

晏は本名を斡論といい、景祖の孫、阿離合懣の次子である。明敏で謀略多く、契丹字に通ず。天会初年、烏底改叛く。太宗北京に幸し、晏に籌策有りとし、召して問う。旨に称い、乃ち命じて扈従の諸軍を督し往きてこれを討たしむ。混同江に至り、将士に諭して言う、「今叛衆は山谷に依り、地勢険阻、林木深密、吾が騎卒は列を成すを得ず、歳月を以て破るべからず」と。乃ち舟楫を具え江に艤し、諸軍をして高山に拠らしめ、木を連ねて柵と為し、多く旗幟を張り、持久の計を示し、声言して大軍畢集して発せんと俟つ。乃ち潜かに舟師を以て江を浮かび下り、直ちにその営を搗ち、遂にこれを大破す。険に拠る衆は戦わずして潰ゆ。月余にして、一境皆定まる。師還り、左監門衛上將軍を授けられ、広甯尹となり、入りて吏・礼両部尚書となる。

原文晏本名斡論,景祖之孫,阿離合懣次子也。明敏多謀略,通契丹字。天會初,烏底改叛。太宗幸北京,以晏有籌策,召問,稱旨,乃命督扈從諸軍往討之。至混同江,諭將士曰:「今叛眾依山谷,地勢險阻,林木深密,吾騎卒不得成列,未可以歲月破也。」乃具舟楫艤江,令諸軍據高山,連木為柵,多張旗幟,示以持久計,聲言俟大軍畢集而發。乃潛以舟師浮江而下,直搗其營,遂大破之,據險之眾不戰而潰。月餘,一境皆定。師還,授左監門衛上將軍,為廣甯尹,入為吏、禮兩部尚書。

皇統元年、北京留守となり、咸平尹に改め、東京に徙る。天徳初年、葛王に封ぜられ、入りて同判大宗正事を拝し、進んで宋王に封ぜられ、世襲猛安もうあんを授かる。海陵遷都す。晏は上京を留守し、金牌一・銀牌二を授かり、累ねて豫王・許王に封ぜられ、また越王に改む。貞元初年、進んで斉王に封ぜらる。時に近郊に囲猟を禁ずるも、特ち晏に三百人を畀えて従猟せしむ。上京に在ること凡そ五年。正隆二年、例に依り王爵を削ぎ、西京留守に改む。未だ幾ばくもなく、臨潢尹となり、遂に致仕し、会寧に還り居す。

原文皇統元年,為北京留守,改咸平尹,徙東京。天德初,封葛王,入拜同判大宗正事,進封宋王,授世襲猛安。海陵遷都,晏留守上京,授金牌一、銀牌二,累封豫王、許王,又改越王。貞元初,進封齊。時近郊禁圍獵,特畀晏三百人從獵。在上京凡五年。正隆二年,例削王爵,改西京留守。未幾,為臨潢尹,遂致仕,還居會寧。

海陵南伐す。世宗東京留守たり。将士皆淮南より来帰す。晏の子恧里乃もまた軍前より衆を率いて来り世宗に帰す。白彦敬ら北京に在りて恧里乃らの逃還を聞き、会甯同知高国勝をして晏の家族を拘えしむ。上(世宗)即位するや、使を遣わし晏を召す。既にしてまた晏の兄の子鶻魯補を駅伝に馳せてこれを促す。晏遂に宗室数人を率いて入見し、即ち左丞相を拝し、広平郡王に封ぜられ、宴労すること弥日。未だ幾ばくもなく、都元帥を兼ぬ。

原文海陵南伐,世宗為東京留守,將士皆自淮南來歸,晏之子恧里乃亦自軍前率眾來歸世宗。白彥敬等在北京聞恧里乃等逃還,使會甯同知高國勝拘晏家族。上既即位,遣使召晏,既又遣晏兄子鶻魯補馳驛促之。晏遂率宗室數人入見,即拜左丞豐,封廣平郡王,宴勞彌日。未幾,兼都元帥。

大定二年正月、上(世宗)山陵に詣づ。礼畢り、上将に猟せんとす。有司既に夙く備う。晏諫めて言う、「辺事未だ甯からず、畋遊は宜しき所に非ず」と。上嘉してこれを納る。因りて晏らに謂いて言う、「古の帝王虚心に諫を受けしを、朕常にこれを慕う。卿等は言を尽くして隠すことなかれ」と。進んで太尉を拝す。再び致仕し、郷里に還る。是歳、薨ず。詔して有司に祭を致さしめ、賻贈の銀幣甚だ厚し。

原文大定二年正月,上如山陵。禮畢,上將獵,有司已夙備。晏諫曰:「邊事未甯,畋遊非所宜也。」上嘉納之。因謂晏等曰:「古者帝王虛心受諫,朕常慕之。卿等盡言毋隱。」進拜太尉。複致仕,還鄉里。是歲,薨。詔有司致祭,賻贈銀幣甚厚。

孫 宗尹

原文孫 宗尹

宗尹、本名は阿里罕。宗室の子として護衛に充てられ、牌印祗候に改め、世襲謀克ぼうこくを授かり、右衛将軍となった。順天、帰徳、彰化、唐古部族、横海軍の節度使を歴任した。正隆の南伐に際し、神略軍都総管を領し、先鋒として淮を渡り、揚州及び瓜洲渡を取った。大定二年、河南路副都統に改め、許州の境に駐軍した。

原文宗尹,本名阿里罕。以宗室子充護衛,改牌印祗候,授世襲謀克,為右衛將軍。曆順天、歸德、彰化、唐古部族、橫海軍節度使。正隆南伐,領神略軍都總管,先鋒渡淮,取揚州及瓜洲渡。大定二年,改河南路副都統,駐軍許州之境。

この時、宋が汝州を陥落させ、刺史烏古孫麻潑及び漢軍二千人を殺害した。宗尹は万戸の孛術魯定方、完顔かんがん阿喝懶、夾穀清臣、烏古論三合、渠雛訛只に騎兵四千を率いてこれを攻撃させ、遂に汝州を奪回した。大名尹に任じられ、副統の職は元の如し。間もなく、河南路統軍使となり、元帥左都監に遷り、南京留守に任じられた。上(世宗)は言った、「卿は年少壮健であるが、心の働きに滞りが多い。前任の点検京尹の時は、勤勉で怠らず、しかし事を処するに迷い誤りがあった。職務に励み、朕の意に副うように」。通犀帯と廄馬を賜った。八年、山東路統軍司を設置し、宗尹がその使となった。枢密副使に遷る。その父の功績を記録し、世襲蒲与路屯河猛安を授け、併せて親管謀克とした。太子太保を加え、枢密副使は元の如し。

原文是時,宋陷汝州,殺刺史烏古孫麻潑及漢軍二千人。宗尹遣萬戶孛術魯定方、完顏阿喝懶、夾穀清臣、烏古論三合、渠雛訛只將騎四千往攻之,遂複取汝州。除大名尹,副統如故。頃之,為河南路統軍使,遷元帥左都監,除南京留守。上曰:「卿年少壯,而心力多滯。前任點檢京尹,勤力不怠,而處事迷錯。勉修職業,以副朕意。」賜通犀帶、廄馬。八年,置山東路統軍司,宗尹為使。遷樞密副使。錄其父功,授世襲蒲與路屯河猛安,並親管謀克。隊太子太保,樞密副使如故。

上は宰臣に問うた、「宗尹は才能において大いに人に勝る所はないが、性質行いは淳朴篤厚であり、かつ国の旧臣であって、昔高官であった時、卿等はまだ仕官していなかった。朕が平章政事に任じようと思うがどうか」。宰執は皆言った、「宗尹が相となることは、甚だ衆望に叶います」。即日に平章政事を拝し、代国公に封ぜられ、太子太傅を兼ねた。

原文上問宰臣曰:「宗尹雖才無大過人者,而性行淳厚,且國之舊臣,昔為達官,卿等尚未仕也。朕欲以為平章政事何如?」宰執皆曰:「宗尹為相,甚協眾望。」即日拜平章政事,封代國公,兼太子太傅。

この時、民間は銭幣の流通しないことを苦しんでいた。上が宗尹に問うと、答えて言った、「銭は有限の物であり、上に積もれば下に滞り、それ故流通しないのです。海陵王が軍を興した時、一律の賦として、菜園税、房税、養馬銭がありました。大定の初めは、軍事が未だ止まず、調度が続かず、故にそのまま改めませんでした。今、天下に事無く、府庫は充満積蓄しています。全て廃止すべきです」。上は言った、「卿が百姓に留意するなら、朕はまた何を憂えようか。太尉守道は老いた。卿を措いて他に誰があろう」。ここにおいて、養馬等の銭は初めて廃止された。

原文是時民間苦錢幣不通,上問宗尹,對曰:「錢者有限之物,積於上者滯於下,所以不通。海陵軍興,為一切之賦,有菜園、房稅、養馬錢。大定初,軍事未息,調度不繼,故因仍不改。今天下無事,府庫充積,悉宜罷去。」上曰:「卿留意百姓,朕複何慮。太尉守道老矣,舍卿而誰。」於是,養馬等錢始罷。

ある日、上は宰臣に言った、「宗尹は家を治めるに厳密で、他人は及ばない」。宗尹を顧みて言った、「政事もまたこのようであるべきだ」。しばらくして、北方が凶作に陥り、軍糧が不足した。朝廷で粟を輸送して救済することを議した。或る者は、近年は不作ではあるが、旧来の蓄えがあり、秋の収穫が近いので、更に輸送の労をかける必要はないと言った。宗尹は言った、「国家が平時に粟を蓄積するのは、本来、凶年に備えるためである。必ず秋の収穫を待つなら、疲弊する者が多くなるであろう。人が飢え衰えるなら、防戍をどうしようか」。上はこれに従った。

原文他日,上謂宰臣曰:「宗尹治家嚴密,他人不及也。」顧謂宗尹曰:「政事亦當如此矣。」有頃,北方歲饑,軍食不足,廷議輸粟賑濟。或謂比雖不登,而舊積有餘,秋成在近,不必更勞輸挽,宗尹曰:「國家平時積粟,本以備凶歲也,必待秋成,則憊者眾矣。人有捐瘠,其如防戍何。」上從之。

宗尹は子の銀術可にその猛安を世襲させることを請うた。時に太尉守道もまた子の神果奴にその謀克を世襲させることを請うた。凡そ承襲する者で女真文字を識らない者は、習学を強制した。世宗は言った、「この二人の子は、朕はその一人が漢字を習ったことを知っているが、女真文字は習っていない。今後は、女真、契丹、漢字のいずれかをかつて学んだ者があれば、即ち承襲を許す」。遂にこれを令として定めた。

原文宗尹乞令子銀術可襲其猛安,會太尉守道亦乞令其子神果奴襲其謀克。凡承襲人不識女直字者,勒令習學。世宗曰:「此二子,吾識其一習漢字,未習女直字。自今女直、契丹、漢字曾學其一者,即許承襲。」遂著於令。

宗尹は病気で、朝に出仕できなかった。上は宰臣に問うた、「宗尹はどうして入朝しないのか」。太尉守道が病気であると答えた。上は言った、「丞相志寧はかつて、『もし詔を以て征伐に遣わされば、敢えて辞さない。宰相の職は、実に敢えて当たることができない』と言った。宗尹もまたこの意なのか」。

原文宗尹有疾,不能赴朝。上問宰臣曰:「宗尹何為不入朝?」太尉守道以疾對。曰:「丞相志甯嘗言,'若詔遣征伐,所不敢辭。宰相之職,實不敢當'。宗尹亦豈此意耶。」

二十四年、世宗は上京に行幸しようとした。上は言った、「臨潢、烏古里石壘は毎年収穫が上がらない。朕は南道より往きたい。三月に東京を過ぎ、太后の陵寢を拝謁し、五月に上京に達することができる。春の月は鳥獣が繁殖し、農作業が始まろうとしている。必ずしも狩猟をして軍事を講ずる必要はない。卿等はどう思うか」。宗尹は言った、「南道は豊作で、秣粟が安い。聖旨の通りにすべきです」。遂に南道より往った。世宗が上京に至り、同簽大宗正事の宗寧が上京の宗室を撫治することができず、宗室の子が往々にして生業に従事しないと聞いた。上は宗尹に言った、「汝はその事を察し、懲戒すべきである」。宗尹は奏上して言った、「任に随って仕える子は、父が没しても本土に還らず、これによって多く遊蕩を好むのです」。上は召還することを命じた。皇武殿で宗室を宴し、撃球をして楽しんだ。上は言った、「宗室に賞賜するのも小さな恵みであり、また一概に官を遷すこともできない。諸局分に収補させたいが、その間の人材で誰が適任か」。宗尹は答えて言った、「奉国斡准の子の按出虎、豫国公昱の曾孫の阿魯が任用に堪えます」。上は言った、「どの職に任ずるのが適当か考えよ。更に他の者を訪れて奏上せよ」。詔して按出虎、阿魯を奉禦とした。

原文二十四年,世宗將幸上京。上曰:「臨潢、烏古里石壘歲皆不登,朕欲自南道往,三月過東京,謁太后陵寢,五月可達上京。春月烏獸孳孕,東作方興,不必搜田講事,卿等以為何如?」宗尹曰:「南道歲熟,芻粟賤,宜如聖旨。」遂由南道往焉。世宗至上京,聞同簽大宗正事宗寧不能撫治上京宗室,宗室子往往不事生業。上謂宗尹曰:「汝察其事,宜懲戒之。」宗尹奏曰:「隨仕之子,父沒不還本土,以此多好遊蕩。」上命召還。宴宗室于皇武殿,擊球為樂。上曰:「賞賜宗室,亦是小惠,又不可一概遷官,欲令諸局分收補,其間人材孰可者?」宗尹對曰:「奉國斡准之子按出虎、豫國公昱之曾孫阿魯可任使。」上曰:「度可任何職,更訪其餘以聞。」詔以按出虎、阿魯為奉禦。

二十七年、致仕を請うた。世宗は言った、「この老は事を為さない。その請いに従ってもよい」。宰臣が奏上して言った、「旧臣は左右にいるべきです」。上は言った、「宰相は天下の事を総べるもので、老を養う地ではない。もしその職に堪えられなければ、朕もまた愧じるところがある。賢者が朝に在れば、利益は百姓に及び、四方が瞻仰し、朕もまたその光栄と美を共にするのだ」。宰臣は答える言葉がなかった。宗尹が入って謝した。上は言った、「卿は長く外官を務め、過失を聞いたことがない。ただ卿を用いるのが少し遅かったことを恨む。今は精力が衰えたようだ。省の事は甚だ煩わしい。もし無理に卿を留めるなら、四方が朕を私とするであろう。卿もまた自ら安んじられないであろう」。間もなく、上は宗尹の子に問うた、「汝の父が致仕するなら、どこに住むつもりか」。その子は言った、「家族が既に多く、再び京師にいることはできません」。上は使者を遣わして宗尹に問うた、「朕は卿を留め、時々従って遊びたい。卿の子の言葉がこのようであるが、今どう決めるか」。宗尹は言った、「臣はここに在りたくないわけではございません。ただ余命のある年、なお輦下にあれば、恐らく聖主の心を煩わせましょう。既に老臣を哀れんで棄てず、時々天顔を瞻望することができるなら、臣はどうして他へ往くことがありましょう。郷里の故老は存命する者なく、たとえ彼の地に到っても、尚誰と遊ぶことができましょうか」。ここにおいて甲第一区を賜い、凡そ宴集や畋獵には皆従わせた。二十八年、薨去した。

原文二十七年,乞致仕。」世宗曰:「此老不事事,從其請可也。」宰臣奏曰:「舊臣宜在左右。」上曰:「宰相總天下事,非養老之地。若不堪其職,朕亦有愧焉。如賢者在朝,利及百姓,四方瞻仰,朕亦與其光美。」宰臣無以對。宗尹入謝。上曰:「卿久任外官,不聞有過失,但恨用卿稍晚,今精力似衰矣。省事至煩,若勉留卿,則四方以朕為私,卿亦不自安也。」頃之,上問宗尹子:「汝父致仕,將居何所?」其子曰:「聚屬既多,不能複在京師。」上遣使問宗尹曰:「朕欲留卿,時相從遊,卿子之言如此,今定何如?」宗尹曰:「臣豈不欲在此,但餘閒之年,猶在輦下,恐聖主心困耳。既哀老臣不忍擯棄,時時得瞻望天顏,臣豈敢他往。鄉里故老無存者,雖到彼,尚將與誰遊乎。」於是賜甲第一區,凡宴集畋獵皆從焉。二十八年,薨。

孫 宗甯

原文孫 宗甯

宗甯、本名は阿土古、景祖の系譜に出で、太尉阿離合懣の孫。性質は勤勉篤厚で、大志があった。初め海陵王の征南都統として起ち、瓜洲渡で戦い、功績が最もあった。祁州刺史を歴任した。

原文宗甯本名阿土古,系出景祖,太尉阿離合懣之孫。性勤厚,有大志。起家為海陵征南都統,戰瓜洲渡,功最。曆祁州刺史。

大定二年、会寧府路押軍万戸となり、帰徳軍節度使に抜擢された。時に旱魃と蝗害こうがいがあり、守寧は民を督してこれを捕らえ、死んだ蝗一斗を得れば粟一斗を与え、数日で捕り尽くした。鎮を寧昌軍に移し、臨潢府事を知ることに改め、天徳軍に移った。世宗はかつて宰臣に言った、「宗甯の智慮は浅いが、しかしその任地では人皆彼を愛する」。即ち行軍右翼都統と為し、賀宋正旦使となった。累遷して兵部尚書となり、隆州路和団猛安烈里沒世襲謀克を授かった。大名府事を知って出向し、鎮を利涉軍に移し、間もなく同簽大睦親府事となった。

原文大定二年,為會甯府路押軍萬戶,擢歸德軍節度使。時方旱蝗,守寧督民捕之,得死蝗一斗,給粟一斗,數日捕絕。移鎮寧昌軍,改知臨潢府事,移天德軍。世宗嘗謂宰臣曰:「宗甯智慮雖淺,然所至人皆愛之。」即命為行軍右翼都統,為賀宋正旦使。累遷兵部尚書,授隆州路和團猛安烈里沒世襲謀克。出知大名府事,徙鎮利涉軍,俄同簽大睦親府事。

宗甯は病が多く、世宗は涼しい地に処そうとし、咸平を知らしめようとした。詔してその子の符宝郎畝を韓州刺史とし、養い易くした。間もなく、入朝して同判大睦親府事を授かり、平章政事を拝した。明昌二年、薨去した。宗甯は家に居ては質素倹約で寒素の如く、事に臨んでは明敏であった。その臨潢を鎮守した時、隣国に警報があり、宗甯は糧食が乏しいと聞き知ると、即ち倉粟を出し、牛と交換することを命じた。敵は粟を得たことを知ると、即ち逃げ去った。辺境の人は窩斡の乱の後、牛が無いことを苦しんでいた。宗寧はまた民に粟を納めさせて牛と交換させた。既にして民は牛を得、倉粟は旧に倍した。その経営計画はこのようであった。

原文宗寧多病,世宗欲以涼地處之,俾知咸平,詔以其子符寶郎畝為韓州刺史,以便養。無幾,入授同判大睦親府事,拜平章政事。明昌二年,薨。宗甯居家約儉如寒素,臨事明敏。其鎮臨潢,鄰國有警,宗甯聞知乏糧,即出倉粟,令以牛易之,敵知得粟,即遁去。邊人以窩斡亂後,苦無牛,宗寧複令民入粟易牛,既而民得牛而倉粟倍於舊,其經畫如此。

宗道

原文宗道

宗道は本名を八十といい、上京司属司の人で、景祖の系譜に連なり、太尉訛論の末子である。『周易』『孟子』に通じ、騎射に優れ、大定五年に閤門祗候に充てられ、累進して近侍局使となった。

原文宗道本名八十,上京司屬司人,系出景祖,太尉訛論之少子也。通《周易》、《孟子》,善騎射,大定五年,充閤門祗候,累除近侍局使。

右丞相烏古論元忠・左衛将軍僕散揆らがかつて宴会を開き、ひそかに議論したことがあったが、宗道はただちに密かにこれを上奏した。世宗はこれを賞賛し、右衛将軍を授け、西南路副招討として出向させた。章宗が即位すると、同知平陽府事に改任された。陝西路副統軍・左宣徽使移刺仲方が自らの後任として推挙したため、西北路招討使に任じられた。旧例では、諸部族が祝賀の馬八百余頭を献上するが、宗道は辞退して受け取らず、諸部族は喜んで服従し、辺境は平穏に治まった。提刑司が廉潔を察知し、召還されて殿前右副都点検となった。まもなく陝西路統軍使に任じられ、鎮静さをもって軍民の心を得、特に三階を進級し、京兆府事を兼ねた。時に夏に旱魃があり、長安県令に太白湫の水を取らせ、遠郊まで歩いて迎え、城に至ると雨が降った。この年は大豊作となり、人々はその誠意が天に通じたものとし、石碑を刻んでこれを記した。

原文右丞相烏古論元忠、左衛將軍僕散揆等嘗燕集,有所竊議,宗道即密以聞。世宗嘉之,授右衛將軍,出為西南路副招討。章宗即位,改同知平陽府事。陝西路副統軍、左宣徽使移刺仲方舉以自代,除西北路招討使。故事,諸部賀馬八百余疋,宗道辭不受,諸部悅服,邊鄙順治。提刑司察廉,召為殿前右副都點檢。尋除陝西路統軍使,以鎮靜得軍民心,特遷三階,兼知京兆府事。時夏早,俾長安令取太白湫水,步迎於遠郊,及城而雨。是歲大稔,人以為精意所感,刊石紀之。

承安二年、賀宋正旦使となり、まもなく河南路統軍使を授かった。泗州の民張偉が宋人王万を捕らえ、向こうの事情を語ったが、宗道はその冤罪を疑い、尋問して実情を得た。王万は楚州の商人で、張偉が王万の貨物五千余貫を借りて三年返済せず、王万が返済を求めると、張偉に誣告されたのである。そこで張偉を罪に処し王万を帰国させ、当時の人々はその明察に敬服した。後に致仕を願い出たが、朝廷は本意でないと知り、知河中府に改任した。善政を施し、民は層観にその像を立て、時を定めてこれを祭った。臨洮知府に移ったが、病により解任された。泰和四年に卒去した。龍虎衛上将軍を追贈された。

原文承安二年,為賀宋正旦使,尋授河南路統軍使。泗州民張偉獲宋人王萬,言彼界事情,宗道疑其冤,乃廉問得實。萬,楚州賈人,偉負萬貨五千餘貫,三年不償,萬理索,為偉所誣。乃坐偉而歸萬,時人服其明。後乞至仕,朝廷知非本心,改知河中府,有惠政,民立像於層觀,以時祭之。移知臨洮,以病解。泰和四年,卒。贈龍虎衛上將軍。

宗雄

原文宗雄

宗雄は本名を謀良虎といい、康宗の長子である。生まれた時、世祖はこれを見て異とし、「この児は風骨並ならず、いずれ必ず国家の器とならん」と言った。そこで佩刀を解き、常にその傍らに置かせ、「成人したならば佩用させよ」と言った。九歳で逃げる兎を射ることができた。十一歳で走る鹿を射当てた。世祖はこれを膝の上に座らせて言った、「児は幼いながらすでにこのようである、すでに同輩を抜きん出ている」と。銀の酒器を賜った。成長すると、風貌は奇偉で、談弁に優れ、智略多く、孝順で謙虚謹直、人々はこれを愛敬した。康宗が没すると、遼の使者阿息保が来て、馬に乗ったまま霊帷の階下まで来て、贈賻の馬を選び取った。太祖は怒り、阿息保を殺そうとしたが、宗雄が諫めたので、太祖はやめた。

原文宗雄本名謀良虎,康宗長子。其始生也,世祖見而異之,曰:「此兒風骨非常,他日必為國器。」因解佩刀,使常置其側,曰:「俟其成人則使佩之。」九歲能射逸兔。年十一,射中奔鹿。世祖坐之膝上曰:「兒幼已然,異已出倫輩矣。」以銀酒器賜之。既長,風表奇偉,善談辯,多智略,孝敬謙謹,人愛敬之。康宗沒,遼使阿息保來,乘馬至靈帷階下,擇取賵贈之馬。太祖怒,欲殺阿息保,宗雄諫,太祖乃止。

太祖が挙兵しようとした時、宗雄は言った、「遼主は驕侈で、人は兵を知らず、取るべし。一蕭海里さえ捕らえられず、我が兵はこれを捕らえた」と。太祖はその言葉を良しとした。寧江州を攻めた時、渤海兵は非常に精鋭であった。宗雄は配下の兵をもって渤海兵を破り、功により世襲千戸謀克を授かった。太祖が出河店で遼兵を破ると、宗雄は先鋒を推して力戦し、功績多かった。達魯古城の戦いでは、宗雄は右軍を率い、自ら士卒に先んじて戦い、右軍に当たった遼兵はすでに退却し、上は宗雄に左軍を助けて遼兵を撃つよう命じた。宗雄は遼兵の背後に回ってこれを撃ち、遼兵はついに大敗し、勝ちに乗って敗走兵を追撃した。日はすでに暮れ、これを包囲した。夜明けに、遼兵は包囲を突破して出たが、乙呂白石まで追撃して討ち、帰還した。上はその背を撫でて言った、「朕にこの子あり、何事か成らざらん」と。御服を賜った。

原文太祖將舉兵,宗雄曰:「遼主驕侈,人不知兵,可取也。不能擒一蕭海里,而我兵擒之。」太祖善其言。攻甯江州,渤海兵銳甚。宗雄以所部敗渤海兵,以功授世襲千戶謀克。太祖敗遼兵於出河店,宗雄推鋒力戰,功多。達魯古城之役,宗雄將右軍,身先士卒戰,遼兵當右軍者已卻,上命宗雄助左軍擊遼兵。宗雄繞遼兵後擊之,遼兵遂大潰,乘勝逐北。日已暮,圍之。黎明,遼兵突圍出,追殺至乙呂白石而還。上撫其背曰:「朕有此子,何事不濟。」以禦服賜之。

遼帝が七十万の兵を率いて馳門に至ると、諸将は皆言った、「遼軍の勢いは甚だ盛ん、速戦すべからず」と。宗雄は言った、「然らず。遼兵は多けれども皆庸将であり、士卒はおののき恐れて、畏るるに足らず。戦えばこれを掌握の間に破らん」と。上は言った、「善し」。護歩荅岡で遼帝に追いついた。宗雄は衆を率いてまっすぐに進み、短兵相接した。宗雄は先を行く者に棒を持たせて遼兵の馬の頭を打たせ、後を行く者にこれを射させ、大いに遼兵を破った。上は宗雄の功を賞し、その手を執って労い、御用の甲冑および御戦馬・宝貨・奴婢を賜った。

原文及遼帝以七十萬眾至馳門,諸將皆曰:「遼軍勢甚盛,不宜速戰。」宗雄曰:「不然。遼兵雖眾,而皆庸將,士卒惴惴,不足畏也。戰則破之掌握間耳。」上曰:「善。」追及遼帝于護步荅岡。宗雄率眾直前,短兵接。宗雄令前行持挺擊遼兵馬首,後行者射之,大敗遼兵。上嘉宗雄功,執其手勞之,以禦介胄及禦戰馬、寶貨、奴婢賜之。

斜也しゃやが春州を攻めると、宗雄は宗幹・婁室ろうしつとともに金山県を取った。白鷹林に近づいた時、斥候七人を捕らえ、その一人を放して帰らせた。県人は大軍の来るを聞き、ついに潰走し、これにより金山県を陥れた。斜也とともに泰州を取った。

原文斜也攻春州,宗雄與宗幹、婁室取金山縣。行近白鷹林,獲候者七人,縱其一人使歸。縣人聞大軍至,乃潰,遂下金山縣。與斜也俱取泰州。

太祖が自ら将兵を率いて臨潢府を取ろうとし、宗雄を先に行かせた。遼兵五千に出会い、宗雄はこれと戦い、大軍もまた至り、大いにこれを破った。留守撻不野が降伏すると、上はその娘を宗雄に与え、先発して遼の援兵を破った功を賞した。まもなく蒲家奴ほかどとともに泰州の土地を視察し、宗雄はその土を包んで来て奏上した、「その土はこのようであり、植え付けるべし」と。上はこれに従った。これにより万余家を移して泰州に屯田させたのは、宗雄らのその地が耕作に適すると言ったによるのである。

原文太祖自將取臨潢府,遣宗雄先啟行,遇遼兵五千,宗雄與戰,大軍亦至,大破之。及留守撻不野降,上以其女與宗雄,賞其啟行破遼援兵之功也。既而與蒲家奴按視泰州地土,宗雄包其土來奏曰:「其土如此,可種植也。」上從之。由是徙萬餘家屯田泰州,以宗雄等言其地可種藝也。

西京が降伏した後また叛いた時、糧秣が尽きようとしており、攻撃をやめようと議論した。宗雄は言った、「西京は都会なり、これを捨て去らば、降伏した者は心を離し、遼の残党と夏人が窺う機会を得ん」と。そこで重賞を立てて士卒の心を奮い立たせた。まもなく、夜中に斗のごとき大きさの火が城中に墜ちた。宗雄は言った、「これは城の破れる象なり」と。西京を攻克すると、宗雄に黄金百両・衣十襲および奴婢などを賜った。

原文西京既降複叛,時糧餉垂盡,議欲罷攻。宗雄曰:「西京,都會也,若委而去之,則降者離心,遼之餘黨與夏人得以窺伺矣。」乃立重賞以激士心。既而,夜中有火,大如鬥,墜於城中。宗雄曰:「此城破之象也。」及克西京,賜宗雄黃金百兩,衣十襲及奴婢等。

宗翰らとともに西京の東四十里で耿守忠の兵七千を撃ち、大いにこれを破った。鴛鴦濼で太祖を迎え拝し、帰化州まで従った。病が重くなり、宗幹が何か言いたいことがあるかと問うた。宗雄は言った、「国家の大業すでに成り、主上は万歳を保たれ、四方を粛清せられん、死すとも恨みなし」と。天輔六年に薨去した。年四十。太祖が病を見舞いに来たが、間に合わず、これを慟哭した。群臣に言った、「この子は謀略人に過ぎ、臨陣勇決、比類少なし」と。賻贈を加等した。詔して合紮千戸駙馬石家奴に喪を護送させて帰らせ、帰化州に葬り、なお死んだ地に仏寺を建立した。

原文與宗翰等擊耿守忠兵七千於西京之東四十里,大破之。迎謁太祖于鴛鴦濼,從至歸化州。疾篤,宗幹問所欲言。宗雄曰:「國家大業既成,主上壽考萬年,肅清四方,死且無恨。」天輔六年,薨,年四十。太祖來問疾,不及見,哭之慟。謂群臣曰:「此子謀略過人,臨陣勇決,少見其比。賻贈加等。詔合紮千戶駙馬石家奴護喪歸,葬於歸化州,仍於死所建佛寺。

宗雄は学問を好み書物を嗜み、かつて上に従って狩りをした時、誤って流れ矢に当たったが、神色変らず、上に知られて射た者が罪に及ぶことを恐れた。矢を抜き去った後、病気と称して帰宅し、二か月臥せ、その間に契丹の大小字を学び、ことごとく通じた。金国が初めて建てられた時、法を立て制を定めること、皆宗幹とともに建議して行われた。遼と和議を結ぶ時、契丹字・漢字の詔書は、宗雄と宗翰・希尹がそのことを主管した。また武勇に優れ身軽で、強弓を引き遠くを射ること、およそ三百歩に及んだ。かつて走る馬上から三頭の麞を射ようとし、すでに二頭を射当て、再び弓を引き絞ろうとした時、馬がつまずき、跳び下りたが、弦を引くことはもとどおり、ついに満月に引き絞って歩射してこれを獲た。宗雄が兎を追っている時、撻懶たつらんもまた後からこれを射ようとし、すでに矢を放ち、撻懶が大声で呼んだ、「矢が届くぞ」と。宗雄は振り返り、手でその矢を受け止め、そのまま兎を射て、これに当てた。その軽捷はこのようであった。

原文宗雄好學嗜書,嘗從上獵,誤中流矢,而神色不變,恐上知之而罪及射者。既拔去其矢,托疾歸家,臥兩月,因學契丹大小字,盡通之。凡金國初建,立法定制,皆與宗幹建白行焉。及與遼議和,書詔契丹、漢字,宗雄與宗翰、希尹主其事。而材武蹻捷,挽強射遠,幾三百步。嘗走馬射三麞,已中其二,複彎弓,馬蹶,躍而下,控弦如故,遂彀滿步射獲之。宗雄方逐兔,撻懶亦從後射之,已發矢,撻懶大呼曰:「矢及矣。」宗雄反顧,以手接其矢,就射兔,中之,其輕健如此。

天眷年間に、太師・斉国王を追封された。天徳二年に、秦漢国王を加封された。正隆二年に、太傅・金源郡王に改封された。大定二年に、楚王を追封され、諡して威敏といい、太祖廟廷に配享された。十五年、詔して衍慶宮に画像を描かせた。子に蒲魯虎・按荅海・阿鄰。孫に常春・胡里刺・胡刺・鶻魯・茶紮・怕八・訛出。

原文天眷中,追封太師、齊國王。天德二年,加秦漢國王。正隆二年,改太傅、金源郡王。大定二年,追封楚王,諡威敏,配享太祖廟廷。十五年,詔圖像于衍慶宮。子蒲魯虎、按荅海、阿鄰。孫常春、胡里刺、胡刺、鶻魯、茶紮、怕八、訛出。

初め、宗幹が宗雄の妻を娶ったため、海陵はこれを恨んだ。帝位を簒奪すると、宿直将軍晁霞・牌印閭山を河間に遣わし、府署に宗雄の妻を監禁し、翌日、その子の妻および常春兄弟・茶紮の子七人を皆殺して焼き、その骨を濠水に棄てた。大定十七年、詔して有司に収葬させた。

原文初,宗幹納宗雄妻,海陵銜之。及篡位,使宿直將軍晁霞、牌印閭山往河間,囚宗雄妻于府署,明日,與其子婦及常春兄弟、茶紮之子七人皆殺而焚之,棄其骨于濠水。大定十七年,詔有司收葬。

初め、蒲魯虎は猛安を襲封した。蒲魯虎が卒すると、金紫光禄大夫を追贈され、子の桓端がこれを襲封し、官は金吾衛上將軍に至った。桓端が卒すると、子の嫋頻は未だ襲封せずして死んだ。章宗は宗雄の孫の蒲帯にこれを襲封せしめた。

原文初,蒲魯虎襲猛安。蒲魯虎卒,贈金紫光祿大夫,子桓端襲之,官至金吾衛上將軍。桓端卒,子嫋頻未襲而死。章宗命宗雄孫蒲帶襲之。

蒲帯は、大定末年に累官して同簽大睦親府事となった。章宗が即位し、初めて九路提刑司を設置すると、蒲帯は北京臨潢提刑使となった。詔して曰く、「朕即位の初め、万民を憂い労する。常に刑獄未だ平らかならず、農桑未だ勧められず、吏あるいは法度に循わず、以て吾が治を隳すを念う。朝廷より使者を遣わして廉問すれども、事周悉なるは難し。惟だ提刑・勧農・採訪の官は、古よりこれ有り。今九路に分かち専らこの職を設く。爾其れ心を尽くし、往きて乃ち事を懋めよ」と。熙宗の時より、使者を遣わして吏治の得失を廉問す。世宗即位して、凡そ数歳ごとに輒ち一たび黜陟の使を遣わす。故に大定の間、郡県の吏皆法を奉じ、百姓は殖え滋し、号して小康と為す。或いは廉問の使者、頗る愛憎を以て殿最を立てると謂う。以て宰相に問う。宰相曰く、「臣等復た陛下の為にこれを察せん」と。是を以て世宗嘗て提刑司を立てんと欲して未だ果たさず。章宗は先朝を追述し、遂に即位の初めに行う。

原文蒲帶,大定末,累官同簽大睦親府事。章宗即位,初置九路提刑司,蒲帶為北京臨潢提刑使。詔曰:「朕初即位,憂勞萬民,每念刑獄未平,農桑未勉,吏或不循法度,以隳吾治。朝廷遣使廉問,事難周悉。惟提刑勸農採訪之官,自古有之。今分九路專設是職,爾其盡心,往懋乃事。」自熙宗時,遣使廉問吏治得失。世宗即位,凡數歲輒一遣黜陟之,故大定之間,郡縣吏皆奉法,百姓滋殖,號為小康。或謂廉問使者,頗以愛憎立殿最,以問宰相。宰相曰:「臣等複為陛下察之。」是以世宗嘗欲立提刑司而未果。章宗追述先朝,遂于即位之初行之。

及び九路提刑使が慶和殿にて朝辞す。上曰く、「官制を建立するは、寛猛中を得べし。凡そ軍民事相い渉る者は、均平に決遣し、家人部曲ぶきょくを鈐束し、郡県の事を沮擾せしむるなかれ。今司獄を提刑司に隷せしむるは、惟だ獄犴冤無きを冀うのみ」と。既に退き、復た近臣を遣わしてこれを諭して曰く、「卿等皆妙簡の才良、専責を付す。心を尽くし職を挙ぐれば、別に旌賞有らん。然らずんば罰有り」と。明年、蒲帯乃ち猛安を襲封すと云う。

原文及九路提刑使朝辭于慶和殿,上曰:「建立官制,當寬猛得中。凡軍民事相涉者,均平決遣,鈐束家人部曲,勿使沮擾郡縣事。今以司獄隸提刑司,惟翼獄犴無冤耳。」既退,複遣近臣諭之曰:「卿等皆妙簡才良,付以專責,盡心舉職,別有旌賞,否則有罰。」明年,蒲帶乃襲猛安雲。

子に阿隣

原文子 阿鄰

阿隣は、穎悟辯敏にして、女直じょちょく・契丹の大小字及び漢字に通ず。幼時に嘗て宮中に入り、熙宗見てこれを奇とし、曰く、「是の児他日必ず能く国家に力を宣べん」と。年十八、定遠大将軍を授けられ、順天軍節度使と為る。天徳二年、廉を用いられ、益都尹兼山東東路兵馬都総管に遷り、泰寧・定海・鎮西・安国等軍節度を歴任す。

原文阿鄰,穎悟辯敏,通女直、契丹大小字及漢字。幼時嘗入宮,熙宗見而奇之,曰:「是兒他日必能宣力國家。」年十八,授定遠大將軍,為順天軍節度使。天德二年,用廉,遷益都尹兼山東東路兵馬都總管,曆泰寧、定海、鎮西、安國等軍節度。

海陵南伐に、神勇・武平等軍都総管と為し、寿州道より淮を渡り、勧農使移刺元宜と兵三万を合して先鋒と為る。是の歳十月、廬州に至り、宋将王権の軍十余万と柘皋鎮・渭子橋にて戦い、これを破る。和州の南に至り、復た王権の軍八万余と会戦し、またこれを破り、江上に追い殺し、首級数千を斬る。

原文海陵南伐,以為神勇、武平等軍都總管,由壽州道渡淮,與勸農使移刺元宜合兵三萬為先鋒。是歲十月,至廬州,與宋將王權軍十余萬戰於柘皋鎮,渭子橋,敗之。至和州南,複與王權軍八萬餘會戰,又敗之,追殺至江上,斬首數千級。

上遼陽にて即位す。海陵死し、大軍北還す。将に淮を渡らんとすれども舟楫甚だ少なく、軍士舟を争いて亟に渡るを得ず。阿隣は生口を得て、渉ること能う処を知り、柳枝を以て標識し、本部を命じて渉り済ましむ。既に北岸に至りて、諸軍の渡りを争う者果たして宋人の邀撃を受く。及び入見す。上阿隣の淮上の戦功を聞き、又以て全軍を還すにより、兵部尚書に遷し、征窩斡諸軍の糧餉を経画するを監督し、金牌一・銀牌四を授く。窩斡敗れ、懿州に還り至り、疾を以て卒す。喪京師に至る。上永安寺に致祭せしめ、百官赴吊せしめ、賻として銀五百両・重彩三十端・絹百匹を賜う。

原文上即位于遼陽。海陵死,大軍北還。將渡淮而舟楫甚少,軍士爭舟不得亟渡。阿鄰得生口,知可涉處,識以柳枝,命本部涉濟。既至北岸,而諸軍之爭渡者果為宋人邀擊之。及入見,上聞阿鄰淮止戰功,又以全軍還,遷兵部尚書,監督經畫征窩斡諸軍糧餉,授以金牌一、銀牌四。窩斡敗,還至懿州,以疾卒。喪至京師,上命致祭于永安寺,百官赴吊,賻銀五百兩、重彩三十端、絹百匹。

子に按荅海

原文子 按荅海

按荅海、またの名は阿魯綰、宗雄の次子なり。性端重にして、軽く発せず、父の風有り。年十五、太祖一品の傘を賜う。二十余、御球場にて朋を分ち球を撃ち、連勝三算す。宗工旧老皆これを異とす。進めて勝ちたる所の礼物を呈す。按荅海は班首と為る。太宗喜びて曰く、「今日の勝ちは、この孫の力なり」と。賞力独り厚し。

原文按荅海,又名阿魯綰,宗雄次子也。性端重,不輕發,有父之風。年十五,太祖賜以一品傘。二十餘,禦球場分朋擊球,連勝三算,宗工舊老鹹異之。進呈所勝禮物,按荅海為班首,太宗喜曰:「今日之勝,此孫之力也。」賞力獨厚。

天眷二年、父の猛安を襲封す。大宗正丞を除し、猛安を兄の子喚端に譲り、武定軍節度使を加えられ、朝請を奉ず。侍衛親軍都指揮使に改め、金源郡王に封ぜられ、譚王に進封し、同判大宗正事に遷り、別に世襲猛安を授かる。

原文天眷二年,襲父猛安。除大宗正丞,以猛安讓兄子喚端,加武定軍節度使,奉朝請。改侍衛親軍都指揮使,封金源郡王,進封譚王,遷同判大宗正事,別授世襲猛安。

海陵将に中都に遷らんとす。按荅海諫めて曰く、「祖宗の興王の地を棄てて他に徙るは、義に非ず」と。海陵悦ばず、上京に留む。久しくして、鄆王に進封し、魏王に改封し、済南尹を除す。按荅海は卑湿に堪えず、多く病告に在り。海陵これを聞き、西京留守に改む。正隆の例にて王爵を奪い、広寧尹に改む。

原文海陵將遷中都,按荅海諫曰:「棄祖宗興王之地而他徙,非義也。」海陵不悅,留之上京。久之,進封鄆王,改封魏王,除濟南尹。按荅海不堪卑濕,多在病告,海陵聞之,改西京留守。正隆例奪王爵,改廣甯尹。

世宗東京にて即位す。赦令広寧に至る。弟の燕京、按荅海を勧めて拒み受けざらしむ。按荅海これを受く。会うこと海陵の使い城下に至る。按荅海城を頓して使者に告げて曰く、「この府は遼陽に迫近し、勢い抗う能わず。聊か且つ命に従うのみ。已むを得ざるなり」と。燕京も亦譙楼に登りて使者と語り、指斥して遜らず。及び諸郡皆東京に詣る。按荅海兄弟も亦上謁す。有司議す。既に赦令を拝し、復た異言有り、両端を持すと。並びにこれを誅せんことを請う。上曰く、「正隆は宗室を剪刈す。朕は尤を效うべからず。按荅海は弟に惑わされたるのみ」と。ここに於いて按荅海を釈し、乃ち燕京を誅す。数日ならずして、復た大宗正事を判じ、再び太子太保に遷り、蘭陵郡王に封ぜられる。勧農使に改む。

原文世宗即位于東京,赦令至廣甯,弟燕京勸按荅海拒弗受。按荅海受之。會海陵遣使至城下,按荅海頓城告使者曰:「此府迫近遼陽,勢不能抗,聊且從命,非得已也。」燕京亦登譙樓與使者語,指斥不遜。及諸郡皆詣東京,按荅海兄弟亦上謁。有司議,既拜赦令,複有異言,持兩端,請並誅之。上曰:「正隆剪刈宗室,朕不可效尤。按荅海為弟所惑耳。」於是釋按荅海,乃誅燕京。不數日,複判大宗正事,再遷太子太保,封蘭陵郡王。改勸農使。

海陵の時、上京より河間に徙る。土瘠せり。詔して按荅海一族二十五家、便に従い近地に遷居せしむ。乃ち平州に徙る。詔して平州の官田三百頃・屋三百間、宗州の官田一百頃を給す。金源郡王に進み、致仕す。

原文海陵時,自上京徙河間,土瘠,詔按荅海一族二十五家,從便遷居近地,乃徙平州。詔給平州官田三百頃,屋三百間,宗州官田一百頃。進金源郡王,致仕。

大定八年、召見す。上曰く、「宗室の耆老卿の如き者は、能く幾人かあるか」と。銭一万貫・甲第一区を賜い、京師に留め、巡幸・球獵・宴会に預からしむ。十四年、薨ず。年六十七。臨終、諸子に戒めて曰く、「汝輩、生を富貴の中に在りて暴戾を為すことなかれ。宜しく自ら謙退すべし。海陵は猜忌を以て宗室を剪滅せり。我は純謹を以て死を免るることを得たるのみ。汝輩惟だ日々善を為し、吾が家を墜すことなかれ」と。

原文大定八年,召見,上曰:「宗室耆老如卿者,能幾人邪。」賜錢萬貫,甲第一區,留京師,使預巡幸球獵宴會。十四年,薨,年六十七。臨終,戒諸子曰:「汝輩勿以生富貴中而為暴戾,宜自謙退。海陵以猜忌剪滅宗室,我以純謹得免死耳。汝輩惟日為善,勿墜吾家。」

希尹

原文希尹

完顔希尹は本名を穀神といい、歡都の子である。太祖が挙兵して以来、常に軍陣にあり、時に太祖に従い、時に撒改に従い、あるいは諸将とともに征伐し、功績を重ねた。

原文完顏希尹本名穀神,歡都之子也。自太祖舉兵,常在行陣,或從太祖、或從撒改,或與諸將征伐,比有功。

金人は初め文字を持たず、国勢が日に日に強まり、隣国と交好するにつれ、契丹の文字を用いるようになった。太祖は希尹に命じて本国の文字を作り、制度を整えさせた。希尹は漢人の楷書字を模倣し、契丹の文字制度に基づき、本国の言語を合わせて、女直字を作った。天輔三年八月、字書が完成すると、太祖は大いに喜び、頒布施行を命じた。希尹に馬一匹、衣一襲を賜った。その後、熙宗もまた女直字を作り、希尹の作った字とともに用いられた。希尹の撰したものを女直大字といい、熙宗の撰したものを小字という。

原文金人初無文字,國勢日強,與鄰國交好,乃用契丹字。太祖命希尹撰本國字,備制度。希尹乃依仿漢人楷字,因契丹字制度,合本國語,制女直字。天輔三年八月,字書成,太祖大悅,命頒行之。賜希尹馬一匹、衣一襲。其後熙宗亦制女直字,與希尹所制字俱行用。希尹所撰謂之女直大字,熙宗所撰謂之小字。

遼人の迪六、和尚、雅里斯が中京から逃走したので、希尹は迪古乃、婁室、餘睹とともにこれを襲撃した。迪六らは希尹の軍勢を聞き、再び逃走した。そこでその近傍の人民を降伏させて帰還した。奚人の落虎が降伏してきたので、希尹は落虎に命じてその父の西節度使訛里刺を招かせた。訛里刺は本部を率いて降伏した。

原文遼人迪六、和尚、雅里斯充中京走,希尹與迪古乃、婁室、餘睹襲之。迪六等聞希尹兵,複走。遂降其旁近人民而還。奚人落虎來降,希尹使落虎招其父西節度使訛里刺。訛里刺以本部降。

宗翰が北安に駐軍し、希尹に近地を経略させたところ、遼の護衛耶律習泥烈を捕らえ、遼主が鴛鴦濼で狩猟していることを知った。宗翰は進兵を請うた。宗翰は奚王嶺で都統杲と会おうとした。遼兵が古北口に駐屯していた。婆盧火に兵二百を率いてこれを撃たせ、渾黜もまた二百人を率いて後詰めとした。渾黜は遼兵が多いと聞き、増兵を請うた。宗翰は自ら行こうとしたが、希尹と婁室が言うには、「これは小敵です。千の兵をもって公のためにこれを破りましょう」。渾黜が古北口に至ると、遼の遊兵に遭遇し、これを谷の中に追い込んだ。遼の歩騎一万余が迫って戦い、死者数人を出した。渾黜が関口を占拠し、希尹らが到着すると、大いに遼兵を破り、斬首捕虜は甚だ多く、甲冑輜重しちょうをことごとく獲た。さらにその伏兵を破り、千余人を殺し、馬百余匹を獲た。そこで宗翰とともに奚王嶺に至り、羊城濼で会合することを約した。

原文宗翰駐軍北安,使希尹經略近地,獲遼護衛耶律習泥烈,知遼主獵於鴛鴦濼。宗翰遂請進兵。宗翰將會都統杲于奚王嶺。遼兵屯古北口。使婆盧火將兵二百擊之,渾黜亦將二百人為後援。渾黜聞遼兵眾,請益兵。宗翰欲親往,希尹、婁室曰:「此小寇,請以千兵為公破之。」渾黜至古北口,遇遼遊兵,逐之入穀中。遼步騎萬余迫戰,死者數人。渾黜據關口,希尹等至,大破遼兵,斬馘甚眾,盡獲甲胄輜重。複敗其伏兵,殺千餘人,獲馬百餘匹。遂與宗翰至奚王嶺,期會於羊城濼。

宗翰が五院司で遼帝を襲撃したとき、希尹は先鋒となり、率いるのはわずか八騎であったが、遼主と戦い、一日に三度これを破った。翌日、希尹は降人麻哲を得て、遼主が砂漠におり、輜重を捨て、西京へ逃げていると聞いた。白水濼の南で遼主にほとんど追いついた。遼主は軽騎で遁走した。その内庫の宝物をことごとく獲て、西京に至った。西京は降伏し、蒲察ほさつにこれを守らせた。希尹は乙室部に至ったが、遼主に及ばず帰還した。宗翰が入朝すると、希尹は西南・西北両路都統を代行した。

原文宗翰襲遼帝于五院司,希尹為前驅,所將才八騎,與遼主戰,一日三敗之。明日,希尹得降人麻哲,言遼主在漠,委輜重,獎奔西京。幾及遼主于白水濼南。遼主以輕騎遁去。盡獲其內庫寶物,遂至西京。西京降,使蒲察守之。希尹至乙室部,不及遼主而還。及宗翰入朝,希尹權西南、西北兩路都統。

この時、夏人はすでに盟約を受け入れ、遼主は捕らえられていたが、耶律大石が自立し、夏国が婁室に書を送って諸帥が盟約を棄て、軍がその境に入り、多く掠奪したことを責めた。希尹はその書を上奏し、かつ奏上して言うには、「夏の使者が大石と約して山西の諸郡を取ると聞きます。臣の見るところ、夏の盟約は信じがたいものです」。上(太宗)は言った、「夏のことは適宜に行え。軍がその境に入ったのは、信ずるか否かを知らなかったのだ。大石との合謀は察せざるを得ない、厳重に備えよ」。

原文是時,夏人已受盟,遼主已獲,耶律大石自立,而夏國與婁室書責諸帥棄盟,軍入其境,多掠取者。希尹上其書,且奏曰:「聞夏使人約大石取山西諸郡,以臣觀之,夏盟不可信也。」上曰:「夏事酌宜行之。軍入其境,不知信與否也。大石合謀,不可不察,其嚴備之。」

大挙して宋を伐つとき、希尹は元帥右監軍となった。再び宋を伐ち、二主を捕らえて帰還した。師が還ると、希尹に鉄券を賜い、常赦に免れない罪を除き、その他は釈放して問わなかった。宗翰が康王を伐つとき、希尹は揚州でこれを追撃したが、康王は遁走した。後に宗翰とともに京師に朝し、熙宗を儲嗣として立てることを請うたので、太宗はついに熙宗を諳班あんばん勃極烈とした。

原文及大舉伐宋,希尹為元帥右監軍。再伐宋,執二主以歸。師還,賜希尹鐵券,除常赦不原之罪,餘釋不問。宗翰伐康王,希尹追之于揚州,康王遁去。後與宗翰俱朝京師,請立熙宗為儲嗣,太宗遂以熙宗為諳班勃極烈。

熙宗が即位すると、希尹は尚書左丞相兼侍中となり、開府儀同三司を加えられた。希尹が宰相となってから、大きな政事があればみな自ら率先してその責めを執った。天眷元年、致仕を乞うたが許されず、興中尹に罷免された。二年、再び左丞相兼侍中となり、まもなく陳王に封ぜられた。宗幹とともに宗磐、宗雋を誅殺した。三年、希尹に詔を賜って言うには、「帥臣が密奏するに、奸状すでに萌し、心は君無きにあり、言は不道を宣す。燕居に及んで窃かに議し、神器を以て何に帰すべきかを謂い、聴聞に稔り、ついに章敗を致す」。そこで死を賜い、右丞蕭慶および希尹の子で同修国史の把荅、符宝郎の漫帯をともに殺した。この時、熙宗にはまだ皇子がなかったので、希尹を嫉む者がこの言葉をもってこれを讒したのである。

原文熙宗即位,希尹為尚書左丞相兼侍中,加開府儀同三司。希尹為相,有大政皆身先執咎。天眷元年,乞致仕,不許,罷為興中尹。二年,複為左丞相兼侍中,俄封陳王。與宗幹共誅宗磐、宗雋。三年,賜希尹詔曰:「帥臣密奏,奸狀已萌,心在無君,言宣不道。逮燕居而竊議,謂神器以何歸,稔於聽聞,遂致章敗。」遂賜死,並殺右丞蕭慶並希尹子同修國史把荅、符寶郎漫帶。是時,熙宗未有皇子,故嫉希尹者以此言譖之。

皇統三年、上(熙宗)は希尹に実際に異心がなく、その死が罪に当たらないことを知り、希尹に儀同三司・邢国公を追贈し、改葬し、蕭慶には銀青光禄大夫を贈った。天徳三年、豫王を追封した。正隆二年、例により金源郡王に降格した。大定十五年、貞憲と諡した。孫に守道、守貞、守能がいる。守道は別に伝がある。

原文皇統三年,上知希尹實無他心,而死非其罪,贈希尹儀同三司、邢國公,改葬之,蕭慶銀青光祿大夫。天德三年,追封豫王。正隆二年,例降金源郡王。大定十五年,諡貞憲。孫守道、守貞、守能。守道自有傳。

孫 守貞

原文孫 守貞

守貞は本名を左靨といい、貞元二年、祖父穀神の謀克を襲封した。大定に改元すると、符宝祗候に収め充てられ、通進を授けられ、彰徳軍節度副使に任ぜられ、北京留守に遷り、上京に移った。契丹戸民を部内に安置し娶妻した罪により、杖一百を受け、除名された。二十五年、西京警巡使として起用された。世宗はその剛直を愛し、中都左警巡使を授け、大興府治中に遷り、同知に進み、同知西京留守事に改めた。御史台が守貞の治績に善状があると奏上したので、世宗は侍臣に言った、「守貞は勲臣の子であり、また才能があり、その兄守道に完全に勝っている。将来用いることができる」。

原文守貞本名左靨,貞元二年,襲祖穀神謀克。大定改元,收充符寶祗候,授通進,除彰德軍節度副使,遷北京留守,移上京。坐安置契丹戶民部內娶妻,杖一百,除名。二十五年,起為西京警巡使。世宗愛其剛直,授中都左警巡使,遷大興府治中,進同知,改同知西京留守事。禦史台奏守貞治有善狀,世宗因謂侍臣曰:「守貞勳臣子,又有材能,全勝其兄守道,它日可用也。」

章宗が即位すると、刑部尚書として召され、右諫議大夫を兼ねた。守貞は修起居注の張暐とともに奏上して言うには、「唐では中書門下が入閤するとき、諫官がこれに従い、政事を予め聞き、開陳説諫することを欲した。また起居郎、起居舍人は、皇帝が朝を見るごとに、左右に対立し、命令があれば階に臨んで俯聴し、退いてこれを書き、起居注とした。侍従官は毎回視朝に遇えば、まさに侍立すべきである。従来、左司が上殿するとき、諫官、修起居注は避けず、あるいは侍従官の除授や議便遣の際に、初めてこれを避けさせた。近ごろ一律に臣らに回避を命じ、また香閤で奏陳言文字するときも、臣らに侍立を許さない。すると凡そ聖訓および議する政事があれば、臣らは知る由がなく、何を記録し、何を開説すればよいのか、本来設けられた官の意義に似ていない。もし政事を漏泄すれば、すでに不密の罪がある」。上はこれに従った。まもなく賀宋生日使となり、還って参知政事に拝された。時に上は新たに政を即し、治めようとする意気込みが頗る鋭く、かつて漢宣帝の綜核名実の道を問い、その施行の実は果たしてどうであったか。守貞は「枢機周密にして、品式詳備なり」と誦して答え、上は言った、「行うには果たして何から始めるか」。守貞は言った、「陛下が励精倦まずにあることによります」。久しくして、尚書左丞に進み、上京世襲謀克を授けられた。

原文章宗即位,召為刑部尚書,兼右諫議大夫。守貞與修起居注張暐奏言:「唐中書門下入閤,諫官隨之,欲其預聞政事,有所開說。又起居郎、起居舍人,每皇帝視朝,左右對立,有命則臨階俯聽,退而書之,以為起居注。緣侍從官每遇視朝,正合侍立。自來左司上殿,諫官、修起居注不避,或侍從官除授及議便遣,始令避之。比來一例令臣等回避,及香閤奏陳言文字,亦不令臣等侍立。則凡有聖訓及所議政事,臣等無緣得知,何所記錄,何所開說,似非本設官之義。若漏泄政事,自有不密罪。」上從之。尋為賀宋生日使,還拜參知政事。時上新即政,頗銳意於治,嘗問漢宣帝綜核名實之道,其施行之實果何如。守貞誦「樞機周密,品式詳備」以對,上曰:「行之果何始?」守貞曰:「在陛下厲精無倦耳。」久之,進尚書左丞,授上京世襲謀克。

明昌三年の夏、旱魃があり、天子は詔を下して己を罪した。守貞は恐れおののき、上表して職務の解任を乞うた。詔して曰く、「天が時に雨を惜しみ、連年災害となるのは、未だ及ばざるを警戒させるためである。今まさに二三の輔弼と共に遺闕を図り回らせんとし、朕が政を修めるを助くる所以を思うべきである。上は天戒に答え、災いを消して和を召し、以て百姓を安んずるべし。卿は機務に通達し、朕が親しく倚る所なり。然るに咎を引き去らんことを求むるは、思助の如きは如何なるか」と。守貞が懇ろに辞したので、乃ち出でて東平府事を知らしむ。参知政事夾穀衡に命じてこれを諭さしめて曰く、「卿は勲臣の裔にして、早く潆無に登り仕え、才用と声績は朕が素より知る所なり。故に嗣位の初めに政府に擢任し、今に数年に至り、毗贊実に多し。既に久しく繁劇を任じたれば、宜しく逸安に均しく適すべし。況んや内外の職も亦た当に更治すべく、今特に卿に是の命を授く。東平は素より雄藩と号し、兼ねて比年饑歉あり、正に経画に頼る所なり。卿其れ朕が為に往きて綏撫せよ」と。仍て金幣・廄馬を賜い、以て其の行を寵す。他日、上、宰臣に問う、「守貞の東平を治むるは如何」と。対えて曰く、「亦た力を労せず」と。上曰く、「彼の才を以て一路を治むるは誠に余り有り」と。右丞劉瑋曰く、「方今人材は守貞に出ずる者無し。外に淹留するは誠に惜しむべし」と。上は黙然たり。尋いで西京留守に改む。

原文明昌三年夏,旱,天子下詔罪己。守貞惶恐,表乞解職。詔曰:「天牆時雨,薦歲為災,所以警懼不逮。方與二三輔弼圖回遺闕,宜思有以助朕修政。上答天戒,消沴召和,以康百姓。卿達機務,朕所親倚,而引咎求去,其如思助何。」守貞懇辭,乃出知東平府事。命參知政事夾穀衡諭之曰:「卿勳臣之裔,早登潆無仕,才用聲績,朕所素知。故嗣位之初,擢任政府,於今數載,毗贊實多。既久任繁劇,宜均適逸安,矧內外之職,亦當更治,今特授卿是命。東平素號雄籓,兼比年饑歉,正賴經畫,卿其為朕往綏撫之。」仍賜金幣、廄馬,以寵其行。它日,上問宰臣:「守貞治東平如何?」對曰:「亦不勞力。」上曰:「以彼之才,治一路誠有餘矣。」右丞劉瑋曰:「方今人材無出守貞者,淹留於外,誠可惜也。」上默然。尋改西京留守。

監察御史蒲刺都が劾奏して、守貞が前に北部を宴賜するに取受の事有りとす。報いず。右拾遺路鐸が上章してこれを弁ず。四年、召して平章政事に拝し、蕭国公に封ず。上、後閤に御し、守貞を召して曰く、「朕は卿が太師の挙げし所なるを以て、故に特に委用を加う。然るに比者の行事多く過ぎ、門下の人少しく慎択し、復た丞相と協せず。是を以て卿を外に補せしむ。載念するに我が昭祖・太祖の開創以来、乃祖は命を佐け、勲労を積む。茲に故に召用す。卿其れ乃心を勉め尽くし、丞相と議事するに宜しく相和諧し、旧章に率循し、軽々しく改革すべからず」と。因って玉帯を賜い、並びに蒲刺都の弾ぜし事をこれに与えて曰く、「朕は卿必ず爾らずと度る。故に以て卿に示す」と。

原文監察禦史蒲刺都劾奏守貞前宴賜北部有取受事,不報。右拾遺路鐸上章辯之。四年,召拜平章政事,封蕭國公。上禦後閤,召守貞曰:「朕以卿乃太師所舉,故特加委用。然比者行事多太過,門下人少慎擇,複與丞相不協,以是令卿補外。載念我昭祖、太祖開創以來,乃祖佐命,積有勳勞,茲故召用。卿其勉盡乃心,與丞相議事宜相和諧,率循舊章,無輕改革。」因賜玉帶,並以蒲刺都所彈事與之,曰:「朕度卿必不爾,故以示卿。」

旧制、監察御史は凡そ八員、漢人四員は皆進士、而して女直四員は則ち文資右職より参注す。守貞曰く、「監察は乃ち清要の職、流品自ら異なり、倶に宜しく一体に純かに進士を用うべし」と。一日、事を奏する次に、上、司吏の移転の事を問う。守貞曰く、「今、吏の権重くして積弊深し。移転は便なり」と。上嘗て文士で党懐英に如く者は卒いて無しと歎ず。守貞、進士の中の趙渢・王庭筠の如きは甚だ時に誉有りと奏す。上曰く、「倫を出す者は得難し」と。守貞曰く、「間世の才は、古より難し。然れども国家培養久しければ、則ち人材将に自ら出づ」と。守貞因って言う、「国家選挙の法は、惟だ女直・漢人進士の得人多く居る。此の挙は更に宜しく増取すべし。其の諸司局の承応人は旧より出身無く、大定の後初めて叙使を許す。経童の科は、古より常に設けず。唐は諸道の表薦を以て、或いは五人より十人を取る。近代は以て補う無しと為し、これを罷む。本朝皇統の間、及び五十人を取り、因って常選と為す。天徳の間、尋いで以て停罷す。陛下即位し、復た是の科を立て、朝廷寛大にして、及び百数に放つ。誠に積久して銓擬に勝えざるを恐る。宜しく稍々裁減し、以て流品を清くすべし」と。又た節用省費の道を言う。並びに嘉納す。

原文舊制,監宗禦史凡八員,漢人四員皆進士,而女直四員則文資右職參注。守貞曰:「監察乃清要之職,流品自異,俱宜一體純用進士。」一日奏事次,上問司吏移轉事。守貞曰:「今吏權重而積弊深,移轉為便。」上嘗歎文士卒無如党懷英者,守貞奏進士中若趙渢、王庭筠甚有時譽。上曰:「出倫者難得耳。」守貞曰:「間世之才,自古所難。然國家培養久,則人材將自出矣。」守貞因言:「國家選舉之法,惟女直、漢人進士得人居多,此舉更宜增取。其諸司局承應人舊無出身,大定後才許敘使。經童之科,古不常設,唐以諸道表薦,或取五人至十人。近代以為無補,罷之。本朝皇統間,取及五十人,因為常選。天德間,尋以停罷。陛下即位,複立是科,朝廷寬大,放及百數,誠恐積久不勝銓擬。宜稍裁減,以清流品。」又言節用省費之道,並嘉納焉。

先に、鄭王允蹈等が伏誅せらる。上、其の家産を以て諸王に均しく給す。戸部郎中李敬義、恐らくはこれに因りて事を生ずと言う。上又た董寿を宮籍監都管勾と為す。並びに尚書省に下して議せしむ。守貞奏す、「陛下、允蹈等の家産を分かちて懿親に賜わんと欲し、恩命已に出づ。恐らくは改むべからず。今已に諸王の弓矢を減じ、府慰司其の出入をす。臣は賜うも害無しと以為う。董寿の如きは罪人なり。特恩を以てこれを釈し、已に幸いと為す。宜しく更に爵賞を加うべからず」と。上、守貞の言う所を是とす。

原文先是,鄭王允蹈等伏誅,上以其家產均給諸王,戶部郎中李敬義言恐因之生事,上又以董壽為宮籍監都管勾,並下尚書省議。守貞奏:「陛下欲以允蹈等家產分賜懿親,恩命已出,恐不可改。今已減諸王弓矢,府慰司其出入,臣以為賜之無害。如董壽罪人也,特恩釋之,已為幸矣,不宜更加爵賞。」上是守貞所言。

明昌の初めより、北辺屡々警有り。或いは出兵してこれを撃たんことを請う。上曰く、「今方に南にて河を塞ぐを議し、而して復た北に用兵す。可ならんや」と。守貞曰く、「彼は屡々吾が圉を突軼す。今一たびこれを懲らしめば、後当に復た来らず。明年にて見るべし」と。上因って守禦の法を論ず。守貞曰く、「惟だ皇統以前の故事有り。此を捨てて法無し」と。

原文自明昌初,北邊屢有警,或請出兵擊之。上曰:「今方南議塞河,而複用兵於北,可乎?守貞曰:「彼屢突軼吾圉,今一懲之,後當不復來,明年可以見矣。」上因論守禦之法。守貞曰:「惟有皇統以前故事,舍此無法耳。」

守貞は書を読み、法律に通じ、国朝の故事に明習す。時に金は国を持つこと七十年、礼楽刑政は遼・宋の旧制に因り、雑乱して貫無し。章宗即位し、乃ち更定修正して一代の法と為す。其の儀式条約は多く守貞の裁訂する所、故に明昌の治は清明と号せらる。又た善類を推轂し、後進を接援するを喜び、朝廷の正人は多く其の門下に出入す。

原文守貞讀書,通法律,明習國朝故事。時金有國七十年,禮樂刑政因遼、宋舊制,雜亂無貫,章宗即位,乃更定修正,為一代法。其儀式條約,多守貞裁訂,故明昌之治,號稱清明。又喜推轂善類,接援後進,朝廷正人,多出入門下。

先に、上は疑忌を以て鄭王允蹈を誅す。後、張汝弼の妻高陀幹の獄起こり、意は又た鎬王允中に在るが若し。時に右諫議大夫賈守謙が上疏して時事を陳び、上意を寛解せんとする所以を思う。右拾遺路鐸これに継ぎ、言尤も切直なり。帝悦ばず。守貞其の事を持し、獄久しく決せず。帝は党有りと疑い、乃ち守貞を出でて済南府事を知らしむ。仍て命じて即辞せしむ。前に守貞を挙げし者董師中・路鐸等は皆外に補せらる。上、宰臣に語りて曰く、「守貞は固より才力有り。其の書を読むに至りては、真儒に方ぶれば則ち未だならず。然れども太だ権誉を邀え、彼の才を以てして能く平心守正せば、朝廷豈に少しく離るべけんや。今茲に令を出すは、蓋し之を熟思せしなり」と。俄かに政府に在りし日に嘗て近侍と窃かに宮掖の事を語り、而して妄りに奏下と称せしを以て、上、有司に命じて鞫問せしむ。守貞款伏し、官一階を奪い、職を解く。中使を遣わし詔を持して責諭して曰く、「奸を挟み上を罔くすは、古より常刑有り。援を結び交を養うは、臣の大戒なり。孰か予の相たる者、乃ち其の辜を蹈むとは謂わんや。爾は本より勲門に出で、浸く膴仕に登る。朕初めて嗣位し、亟に卿を用いんと欲す。歳時を閲せずして宰輔に升る。毎に誨を納れて共に太平を致さんことを期す。蓋し其の長を求め、其の素を考へず。抜擢峻からずと為さず、任用専からずと為さず。曾て報效の綽思に報いず、輒ち私権の自ら樹つるす。近侍と交通し、密かに起居を問い、上心を窺測し、預め趨向を図る。患失の心重きに繇り、故に欺君の罪彰る。所有らざる事を指して妄りに以て肆に誣う。実に未だ始めて言有らずして之を嘗て諫めりと謂う。義豈に帰美を知らんや。意専ら要君に在り。其の詐を飾るの若然るは、豈に臣の当に為す所ならんや。復た弾奏を観れば、益々私情を見る。親識の援を求めて列布宮中し、罪廢の余を縦して出入門下す。而して又た凡そ官使有る者は、斂めて己が恩と為し、皆回邪に渉ると謂いて、宜しく中外に任ずべからずとす。清議に質すれば、固に容るる所ならず。乃心を揆うれば、烏んぞ愧無からんや。姑く軽典に従い、庸く蒲懲を示す」と。仍て守貞の不公の事を以て、百官に尚書省に於いて宣諭す。

原文先是,上以疑忌誅鄭王允蹈,後張汝弼妻高陀斡獄起,意又若在鎬王允中。時右諫議大夫賈守謙上疏陳時事,思有以寬解上意。右拾遺路鐸繼之,言尤切直。帝不悅。守貞持其事,獄久不決。帝疑有黨,乃出守貞知濟南府事,仍命即辭,前舉守貞者董師中、路鐸等皆補外,上語宰臣曰:「守貞固有才力,至其讀書,方之真儒則未也。然太邀權譽,以彼之才而能平心守正,朝廷豈可少離。今茲令出,蓋思之熟矣。」俄以在政府日嘗與近侍竊語宮掖事,而妄稱奏下,上命有司鞫問,守貞款伏,奪官一階,解職。遣中使持詔責諭之曰:「挾奸罔上,古有常刑,結援養交,臣之大戒。孰謂予相,乃蹈厥辜。爾本出勳門,浸登膴仕。朕初嗣位,亟欲用卿。未閱歲時,升為宰輔,每期納誨,共致太平。蓋求所長,不考其素,拔擢不為不峻,任用不為不專。曾報效之綽思,輒私權之自樹,交通近侍,密問起居,窺測上心,預圖趨向。繇患失之心重,故欺君之罪彰,指所無之事而妄以肆誣,實未始有言而謂之嘗諫。義豈知於歸美,意專在於要君。其飾詐之若然,豈為臣之當耳。複觀彈奏,益見私情,求親識之援而列布宮中,縱罪廢之余而出入門下。而又凡有官使,斂為己恩,謂皆涉於回邪,不宜任之中外。質之清議,固所不容,揆之乃心,烏得無愧。姑從輕典,庸示蒲懲。」仍以守貞不公事,宣諭百官於尚書省。

承安元年、降授して河中防禦使と為す。五年、部羅火紮石合節度使に改む。闕を過ぐるに、上、手詔を賜いて責諭し、職に赴かしむ。久しくして、都府事を知るに遷る。時に南鄙に用兵有り。上、山東の重地なるを以て、須らく大臣の安撫するを以てす。乃ち移して済南府を知らしむ。卒す。上聞きてこれを悼む。有司に勅して致祭せしめ、賻贈の礼物は故平章政事蒲察通の例に依る。諡して曰く肅。

原文承安元年,降授河中防禦使。五年,改部羅火紮石合節度使。過闕,上賜手詔責諭之,令赴職。久之,遷知都府事。時南鄙用兵,上以山東重地,須大臣安撫,乃移知濟南府,卒。上聞而悼之。敕有司致祭,賻贈禮物依故平章政事蒲察通例。諡曰肅。

守貞は剛直にして明らかであり、朝廷の議論や上(皇帝)の問いに対しては、すべて経典を根拠として答えた。上はかつて人材について広く論じたことがあり、守貞はその心術と行いを跡づけ、善悪を少しも隠さずに評したので、胥持国らに忌まれることとなり、ついに直諫のゆえに罷免された。後に趙秉文が地方官から翰林院に入ると、すぐに上書して言うには、「願わくは陛下、君子を進め小人を退けられんことを」と。上が「君子と小人とは誰を指すのか」と問うと、秉文は答えて、「君子は故相の完顔守貞、小人は今の参知政事胥持国でございます」と言った。彼が天下に推重されたのはこのような次第である。

原文守貞剛直明亮,凡朝廷論議及上有所問,皆傳經以對。上嘗與泛論人材,守貞乃跡其心術行事,臧否無少隱,故為胥持國輩所忌,竟以直罷。後趙秉文由外官入翰林,遽上書言:「願陛下進君子退小人。」上問君子小人謂誰。」秉文對:「君子故相完顏守貞,小人今參知政事胥持國。」其為天下推重如此。

孫 守能

原文孫 守能

守能は本名を胡刺といい、累官して商州刺史となった。正隆の末、宋人が商州を陥落させ、守能は捕らえられた。大定五年、宋人が和を請い、誓書に「捕虜となった者は、ことごとく送還する」とあった。完顔仲が報問国信使となり、守能と新息県令の完顔按辰を宋に求めたところ、ついにともに帰還した。守能らが京師に至り、入見すると、詔して旧官の俸禄を与えた。

原文守能本名胡刺,累官商州刺史。正隆末,宋人陷商州,守能被執。大定五年,宋人請和,誓書曰:「俘虜之人,盡數發還。」完顏仲為報問國信使,求守能及新息縣令完顏按辰于宋,遂與俱歸。守能等至京師,入見,詔給舊官之俸。

大定十九年、西北路招討使となった。この時、詔して窩斡の残党を臨潢・泰州に移すこととなった。押刺民列はかつて窩斡に従ったことがあり、その弟の閘敵も移住の対象であったが、偽って死亡したと称し、馬で守能に賄賂を贈り、固く匿って送らなかった。また、賄賂を受けて賽也蕃部の通事に補任したが、事が発覚した。この時、烏古里石壘部族節度副使の奚沙阿補が無罪の鎮辺猛安を杖殺し、尚書省がともにその事を奏上した。上は言った、「守能は刺史から超擢されてこの地位に至ったのに、敢えて貪欲をほしいままにしている。以前、招討司の官は多く良馬・駱駝・鷹・鷂などを進上したが、これはおそらくこれを口実に徴収したものであろう。今後はすべてこれを廃止せよ」と。そこでその兄の守道を責めて言った、「守能は刺史から飛び級で招討使となり、地方官としての尊さはこれ以上ない。前の招討使哲典は貪欲の罪で誅殺された。守能は知らないはずがないのに、敢えてこのようなことをするのは、その意図はどこにあるのか。お前の実弟であるのに、なぜ先に訓戒しなかったのか」と。上は宰臣に言った、「監察御史は専ら糾弾を任とする。宗州節度使の阿思懣が初めて任地に赴く途中、百姓を侵擾し、任地に着いてからの挙動もすべて法度に違反していた。完顔守能は招討使として、貪欲狼藉を極めた。しかし、すべての高官貴人については、いまだかつて挙劾したことがない。一方、斡睹只群牧副使の僕散那也が部民から球杖二本を取っただけで、すぐに弾劾奏上した。今後は、監察御史が職務をよく行ってから、遷除するようにせよ。職務を果たさない者は、重ければ降格・処罰、軽ければ決罰とし、それでも去職させてはならない」と。尚書省が奏上したところ、守能の二つの贓罪はいずれも五十貫に至らず、罪に当たる。奚沙阿補は現職を解き、併せて世襲謀克も解かれることとなった。上は言った、「これは旧制の誤りである。官職にある者が除名に当たる罪を犯した場合は、世襲とともに罷免するが、除名に当たる罪を犯していない者は罷免してはならない」と。そこでこれを令に明記した。特に詔して守能を杖二百に処し、除名した。

原文大定十九年,為西北路招討使。是時,詔徙窩斡餘黨於臨潢、泰州。押刺民列嘗從窩斡,其弟閘敵也當徙,偽稱身亡,以馬賂守能,固匿不遣。及受賕補賽也蕃部通事,事覺。是時,烏古里石壘部族節度副使奚沙阿補杖殺無罪鎮邊猛安,尚書省俱奏其事。上曰:「守能由刺史超擢至此,敢恣貪墨。向者招討司官多進良馬、橐駝、鷹鶻等物,蓋假此以率斂爾,自今並罷之。」因責其兄守道曰:「守能自刺史躐遷招討,外官之尊,無以逾此。前招討哲典以貪墨伏誅,守能豈不知,乃敢如此,其意安在。爾之親弟,何不先訓戒之也。」上謂宰臣曰:「監察專任糾彈。宗州節度使阿思懣初之官,途中侵擾百姓,到官舉動皆違法度。完顏守能為招討使,貪冒狼籍。凡達官貴人,皆未嘗舉劾。斡睹只群牧副使僕散那也取部人球杖兩枝,即便彈奏。自今,監察禦史職事修舉,然後遷除。不舉職者,大則降罰,小則決責,仍不得去職。」尚書省奏,守能兩贓俱不至五十貫,抵罪。奚沙阿補解見居官,並解世襲謀克。上曰:「此舊制之誤。居官犯除名者,與世襲並罷之,非犯除名者勿罷。」遂著於令。特詔守能杖二百,除名。

賛して言う。阿離合懣の善頌、宗雄の強識、希尹の敏学、これに征伐の功を加えれば、偉大でないと言えようか。

原文贊曰:阿離合懣之善頌,宗雄之強識,希尹之敏學,益之以征伐之功,豈不偉哉。