金史

列傳第十一: 阿離合懣 宗道 宗雄 希尹

列傳第十一 ○阿離合懣(子:晏(本名斡論)、孫:宗尹(本名阿里罕) 宗甯(本名阿土古)) 宗道(本名八十) 宗雄(本名:謀良虎、子:阿鄰 按荅海) 希尹(本名:穀神、孫:守貞(本名左靨) 守能(本名胡刺))

阿離合懣

阿離合懣は、景祖の第八子である。強健敏捷で戦を善くした。十八歳の時、臘醅・麻産が兵を起こして暮棱水を占拠し、烏春・窩謀罕が姑里甸の兵をもってこれを助けた。世祖が臘醅を擒えたが、暮棱水の人々はなお動揺し、自ら安んぜず、阿離合懣を遣わしてこれを慰撫せしめ、斜缽と合兵して窩謀罕を攻撃させた。烏春は既に死んでおり、窩謀罕は城を棄てて遁走した。後に撒改に従い留可を討ち平らげ、阿離合懣の功績が多かった。

太祖が蕭海里を擒え、阿離合懣をして遼に馘を献上せしめた。太祖が遼を伐たんと謀り、阿離合懣は実際にこれを賛成した。挙兵するに及んで、阿離合懣は軍中にあって屡々戦い功績があった。太宗らが進めるを勧めた時、太祖は未だこれを許さなかった。阿離合懣・昱・宗翰らが言うには、「今大功は既に集まり、もし時に応じて号を建てざれば、天下の心を繋ぐこと無からん」と。太祖は言う、「吾考えん」と。收國元年、太祖即位す。阿離合懣と宗翰は耕具九を以て献じ、祝して言う、「陛下に稼穡の艱難を忘れさせざらんことを」と。太祖は敬ってこれを受けた。間もなく、国論乙室勃極烈となる。

人となり聰敏で弁給に富み、凡そ一たび聞見すれば、終身忘れず。初め文字無く、祖宗の族属や時事を並びに能く默記し、斜葛と共に本朝の譜牒を修めた。旧より未だ嘗て識らざる人を見て、その父祖の名を聞けば、即ちその部族の世次と出処を道うことができた。或いは積年の旧事、偶々他に因りてこれに及べば、人は或いは遺忘するも、輒ち一一辨析してこれを言い、質疑する者あれば皆その意義を釈した。世祖は嘗てその強記を称え、人は及ぶべからざるとした。

天輔三年、病臥す。宗翰は日ごとに往きてこれを問い、祖宗の旧俗法度を尽く得た。病篤く、上(太祖)その家に幸して病を問い、国家の事を以て問う。対えて言う、「馬は甲兵の用たるもの、今四方未だ平らかならず、而るに国俗多く良馬を以て殉葬す、これを禁止すべし」と。乃ち平生乗用の戦馬を献ず。及び馬を太宗に献ぜんとし、その子蒲里迭をして代わりに奏せしむ。奏に誤語あれば、即ちこれを哂い、宗翰が傍らよりこれを改定す。進奏終わりて、薨ず。年四十九。

上(太祖)阿離合懣の臨終に奏事有りと聞き、言う、「臨終に乱れず、国家の事を念い及ぶ、真の賢臣なり」と。これを哭すること慟く。葬るに及び、上親しく臨む。熙宗の時、隋国王を追封す。天徳中、開府儀同三司・隋国公を改めて贈る。大定年間、太祖廟廷に配饗し、諡して剛憲と曰う。子に賽也・斡論あり。賽也の子は宗尹。

子 晏

晏は本名を斡論といい、景祖の孫、阿離合懣の次子である。明敏で謀略多く、契丹字に通ず。天会初年、烏底改叛く。太宗北京に幸し、晏に籌策有りとし、召して問う。旨に称い、乃ち命じて扈従の諸軍を督し往きてこれを討たしむ。混同江に至り、将士に諭して言う、「今叛衆は山谷に依り、地勢険阻、林木深密、吾が騎卒は列を成すを得ず、歳月を以て破るべからず」と。乃ち舟楫を具え江に艤し、諸軍をして高山に拠らしめ、木を連ねて柵と為し、多く旗幟を張り、持久の計を示し、声言して大軍畢集して発せんと俟つ。乃ち潜かに舟師を以て江を浮かび下り、直ちにその営を搗ち、遂にこれを大破す。険に拠る衆は戦わずして潰ゆ。月余にして、一境皆定まる。師還り、左監門衛上將軍を授けられ、広甯尹となり、入りて吏・礼両部尚書となる。

皇統元年、北京留守となり、咸平尹に改め、東京に徙る。天徳初年、葛王に封ぜられ、入りて同判大宗正事を拝し、進んで宋王に封ぜられ、世襲猛安を授かる。海陵遷都す。晏は上京を留守し、金牌一・銀牌二を授かり、累ねて王・許王に封ぜられ、また越王に改む。貞元初年、進んで斉王に封ぜらる。時に近郊に囲猟を禁ずるも、特ち晏に三百人を畀えて従猟せしむ。上京に在ること凡そ五年。正隆二年、例に依り王爵を削ぎ、西京留守に改む。未だ幾ばくもなく、臨潢尹となり、遂に致仕し、会寧に還り居す。

海陵南伐す。世宗東京留守たり。将士皆淮南より来帰す。晏の子恧里乃もまた軍前より衆を率いて来り世宗に帰す。白彦敬ら北京に在りて恧里乃らの逃還を聞き、会甯同知高国勝をして晏の家族を拘えしむ。上(世宗)即位するや、使を遣わし晏を召す。既にしてまた晏の兄の子鶻魯補を駅伝に馳せてこれを促す。晏遂に宗室数人を率いて入見し、即ち左丞相を拝し、広平郡王に封ぜられ、宴労すること弥日。未だ幾ばくもなく、都元帥を兼ぬ。

大定二年正月、上(世宗)山陵に詣づ。礼畢り、上将に猟せんとす。有司既に夙く備う。晏諫めて言う、「辺事未だ甯からず、畋遊は宜しき所に非ず」と。上嘉してこれを納る。因りて晏らに謂いて言う、「古の帝王虚心に諫を受けしを、朕常にこれを慕う。卿等は言を尽くして隠すことなかれ」と。進んで太尉を拝す。再び致仕し、郷里に還る。是歳、薨ず。詔して有司に祭を致さしめ、賻贈の銀幣甚だ厚し。

孫 宗尹

宗尹、本名は阿里罕。宗室の子として護衛に充てられ、牌印祗候に改め、世襲謀克を授かり、右衛将軍となった。順天、帰徳、彰化、唐古部族、横海軍の節度使を歴任した。正隆の南伐に際し、神略軍都総管を領し、先鋒として淮を渡り、揚州及び瓜洲渡を取った。大定二年、河南路副都統に改め、許州の境に駐軍した。

この時、宋が汝州を陥落させ、刺史烏古孫麻潑及び漢軍二千人を殺害した。宗尹は万戸の孛術魯定方、完顔阿喝懶、夾穀清臣、烏古論三合、渠雛訛只に騎兵四千を率いてこれを攻撃させ、遂に汝州を奪回した。大名尹に任じられ、副統の職は元の如し。間もなく、河南路統軍使となり、元帥左都監に遷り、南京留守に任じられた。上(世宗)は言った、「卿は年少壮健であるが、心の働きに滞りが多い。前任の点検京尹の時は、勤勉で怠らず、しかし事を処するに迷い誤りがあった。職務に励み、朕の意に副うように」。通犀帯と廄馬を賜った。八年、山東路統軍司を設置し、宗尹がその使となった。枢密副使に遷る。その父の功績を記録し、世襲蒲与路屯河猛安を授け、併せて親管謀克とした。太子太保を加え、枢密副使は元の如し。

上は宰臣に問うた、「宗尹は才能において大いに人に勝る所はないが、性質行いは淳朴篤厚であり、かつ国の旧臣であって、昔高官であった時、卿等はまだ仕官していなかった。朕が平章政事に任じようと思うがどうか」。宰執は皆言った、「宗尹が相となることは、甚だ衆望に叶います」。即日に平章政事を拝し、代国公に封ぜられ、太子太傅を兼ねた。

この時、民間は銭幣の流通しないことを苦しんでいた。上が宗尹に問うと、答えて言った、「銭は有限の物であり、上に積もれば下に滞り、それ故流通しないのです。海陵王が軍を興した時、一律の賦として、菜園税、房税、養馬銭がありました。大定の初めは、軍事が未だ止まず、調度が続かず、故にそのまま改めませんでした。今、天下に事無く、府庫は充満積蓄しています。全て廃止すべきです」。上は言った、「卿が百姓に留意するなら、朕はまた何を憂えようか。太尉守道は老いた。卿を措いて他に誰があろう」。ここにおいて、養馬等の銭は初めて廃止された。

ある日、上は宰臣に言った、「宗尹は家を治めるに厳密で、他人は及ばない」。宗尹を顧みて言った、「政事もまたこのようであるべきだ」。しばらくして、北方が凶作に陥り、軍糧が不足した。朝廷で粟を輸送して救済することを議した。或る者は、近年は不作ではあるが、旧来の蓄えがあり、秋の収穫が近いので、更に輸送の労をかける必要はないと言った。宗尹は言った、「国家が平時に粟を蓄積するのは、本来、凶年に備えるためである。必ず秋の収穫を待つなら、疲弊する者が多くなるであろう。人が飢え衰えるなら、防戍をどうしようか」。上はこれに従った。

宗尹は子の銀術可にその猛安を世襲させることを請うた。時に太尉守道もまた子の神果奴にその謀克を世襲させることを請うた。凡そ承襲する者で女真文字を識らない者は、習学を強制した。世宗は言った、「この二人の子は、朕はその一人が漢字を習ったことを知っているが、女真文字は習っていない。今後は、女真、契丹、漢字のいずれかをかつて学んだ者があれば、即ち承襲を許す」。遂にこれを令として定めた。

宗尹は病気で、朝に出仕できなかった。上は宰臣に問うた、「宗尹はどうして入朝しないのか」。太尉守道が病気であると答えた。上は言った、「丞相志寧はかつて、『もし詔を以て征伐に遣わされば、敢えて辞さない。宰相の職は、実に敢えて当たることができない』と言った。宗尹もまたこの意なのか」。

二十四年、世宗は上京に行幸しようとした。上は言った、「臨潢、烏古里石壘は毎年収穫が上がらない。朕は南道より往きたい。三月に東京を過ぎ、太后の陵寢を拝謁し、五月に上京に達することができる。春の月は鳥獣が繁殖し、農作業が始まろうとしている。必ずしも狩猟をして軍事を講ずる必要はない。卿等はどう思うか」。宗尹は言った、「南道は豊作で、秣粟が安い。聖旨の通りにすべきです」。遂に南道より往った。世宗が上京に至り、同簽大宗正事の宗寧が上京の宗室を撫治することができず、宗室の子が往々にして生業に従事しないと聞いた。上は宗尹に言った、「汝はその事を察し、懲戒すべきである」。宗尹は奏上して言った、「任に随って仕える子は、父が没しても本土に還らず、これによって多く遊蕩を好むのです」。上は召還することを命じた。皇武殿で宗室を宴し、撃球をして楽しんだ。上は言った、「宗室に賞賜するのも小さな恵みであり、また一概に官を遷すこともできない。諸局分に収補させたいが、その間の人材で誰が適任か」。宗尹は答えて言った、「奉国斡准の子の按出虎、豫国公昱の曾孫の阿魯が任用に堪えます」。上は言った、「どの職に任ずるのが適当か考えよ。更に他の者を訪れて奏上せよ」。詔して按出虎、阿魯を奉禦とした。

二十七年、致仕を請うた。世宗は言った、「この老は事を為さない。その請いに従ってもよい」。宰臣が奏上して言った、「旧臣は左右にいるべきです」。上は言った、「宰相は天下の事を総べるもので、老を養う地ではない。もしその職に堪えられなければ、朕もまた愧じるところがある。賢者が朝に在れば、利益は百姓に及び、四方が瞻仰し、朕もまたその光栄と美を共にするのだ」。宰臣は答える言葉がなかった。宗尹が入って謝した。上は言った、「卿は長く外官を務め、過失を聞いたことがない。ただ卿を用いるのが少し遅かったことを恨む。今は精力が衰えたようだ。省の事は甚だ煩わしい。もし無理に卿を留めるなら、四方が朕を私とするであろう。卿もまた自ら安んじられないであろう」。間もなく、上は宗尹の子に問うた、「汝の父が致仕するなら、どこに住むつもりか」。その子は言った、「家族が既に多く、再び京師にいることはできません」。上は使者を遣わして宗尹に問うた、「朕は卿を留め、時々従って遊びたい。卿の子の言葉がこのようであるが、今どう決めるか」。宗尹は言った、「臣はここに在りたくないわけではございません。ただ余命のある年、なお輦下にあれば、恐らく聖主の心を煩わせましょう。既に老臣を哀れんで棄てず、時々天顔を瞻望することができるなら、臣はどうして他へ往くことがありましょう。郷里の故老は存命する者なく、たとえ彼の地に到っても、尚誰と遊ぶことができましょうか」。ここにおいて甲第一区を賜い、凡そ宴集や畋獵には皆従わせた。二十八年、薨去した。

孫 宗甯

宗甯、本名は阿土古、景祖の系譜に出で、太尉阿離合懣の孫。性質は勤勉篤厚で、大志があった。初め海陵王の征南都統として起ち、瓜洲渡で戦い、功績が最もあった。祁州刺史を歴任した。

大定二年、会寧府路押軍万戸となり、帰徳軍節度使に抜擢された。時に旱魃と蝗害があり、守寧は民を督してこれを捕らえ、死んだ蝗一斗を得れば粟一斗を与え、数日で捕り尽くした。鎮を寧昌軍に移し、臨潢府事を知ることに改め、天徳軍に移った。世宗はかつて宰臣に言った、「宗甯の智慮は浅いが、しかしその任地では人皆彼を愛する」。即ち行軍右翼都統と為し、賀宋正旦使となった。累遷して兵部尚書となり、隆州路和団猛安烈里沒世襲謀克を授かった。大名府事を知って出向し、鎮を利涉軍に移し、間もなく同簽大睦親府事となった。

宗甯は病が多く、世宗は涼しい地に処そうとし、咸平を知らしめようとした。詔してその子の符宝郎畝を韓州刺史とし、養い易くした。間もなく、入朝して同判大睦親府事を授かり、平章政事を拝した。明昌二年、薨去した。宗甯は家に居ては質素倹約で寒素の如く、事に臨んでは明敏であった。その臨潢を鎮守した時、隣国に警報があり、宗甯は糧食が乏しいと聞き知ると、即ち倉粟を出し、牛と交換することを命じた。敵は粟を得たことを知ると、即ち逃げ去った。辺境の人は窩斡の乱の後、牛が無いことを苦しんでいた。宗寧はまた民に粟を納めさせて牛と交換させた。既にして民は牛を得、倉粟は旧に倍した。その経営計画はこのようであった。

宗道

宗道は本名を八十といい、上京司属司の人で、景祖の系譜に連なり、太尉訛論の末子である。『周易』『孟子』に通じ、騎射に優れ、大定五年に閤門祗候に充てられ、累進して近侍局使となった。

右丞相烏古論元忠・左衛将軍僕散揆らがかつて宴会を開き、ひそかに議論したことがあったが、宗道はただちに密かにこれを上奏した。世宗はこれを賞賛し、右衛将軍を授け、西南路副招討として出向させた。章宗が即位すると、同知平陽府事に改任された。陝西路副統軍・左宣徽使移刺仲方が自らの後任として推挙したため、西北路招討使に任じられた。旧例では、諸部族が祝賀の馬八百余頭を献上するが、宗道は辞退して受け取らず、諸部族は喜んで服従し、辺境は平穏に治まった。提刑司が廉潔を察知し、召還されて殿前右副都点検となった。まもなく陝西路統軍使に任じられ、鎮静さをもって軍民の心を得、特に三階を進級し、京兆府事を兼ねた。時に夏に旱魃があり、長安ちょうあん県令に太白湫の水を取らせ、遠郊まで歩いて迎え、城に至ると雨が降った。この年は大豊作となり、人々はその誠意が天に通じたものとし、石碑を刻んでこれを記した。

承安二年、賀宋正旦使となり、まもなく河南路統軍使を授かった。泗州の民張偉が宋人王万を捕らえ、向こうの事情を語ったが、宗道はその冤罪を疑い、尋問して実情を得た。王万は楚州の商人で、張偉が王万の貨物五千余貫を借りて三年返済せず、王万が返済を求めると、張偉に誣告されたのである。そこで張偉を罪に処し王万を帰国させ、当時の人々はその明察に敬服した。後に致仕を願い出たが、朝廷は本意でないと知り、知河中府に改任した。善政を施し、民は層観にその像を立て、時を定めてこれを祭った。臨洮知府に移ったが、病により解任された。泰和四年に卒去した。龍虎衛上将軍を追贈された。

宗雄

宗雄は本名を謀良虎といい、康宗の長子である。生まれた時、世祖はこれを見て異とし、「この児は風骨並ならず、いずれ必ず国家の器とならん」と言った。そこで佩刀を解き、常にその傍らに置かせ、「成人したならば佩用させよ」と言った。九歳で逃げる兎を射ることができた。十一歳で走る鹿を射当てた。世祖はこれを膝の上に座らせて言った、「児は幼いながらすでにこのようである、すでに同輩を抜きん出ている」と。銀の酒器を賜った。成長すると、風貌は奇偉で、談弁に優れ、智略多く、孝順で謙虚謹直、人々はこれを愛敬した。康宗が没すると、遼の使者阿息保が来て、馬に乗ったまま霊帷の階下まで来て、贈賻の馬を選び取った。太祖は怒り、阿息保を殺そうとしたが、宗雄が諫めたので、太祖はやめた。

太祖が挙兵しようとした時、宗雄は言った、「遼主は驕侈で、人は兵を知らず、取るべし。一蕭海里さえ捕らえられず、我が兵はこれを捕らえた」と。太祖はその言葉を良しとした。寧江州を攻めた時、渤海兵は非常に精鋭であった。宗雄は配下の兵をもって渤海兵を破り、功により世襲千戸謀克を授かった。太祖が出河店で遼兵を破ると、宗雄は先鋒を推して力戦し、功績多かった。達魯古城の戦いでは、宗雄は右軍を率い、自ら士卒に先んじて戦い、右軍に当たった遼兵はすでに退却し、上は宗雄に左軍を助けて遼兵を撃つよう命じた。宗雄は遼兵の背後に回ってこれを撃ち、遼兵はついに大敗し、勝ちに乗って敗走兵を追撃した。日はすでに暮れ、これを包囲した。夜明けに、遼兵は包囲を突破して出たが、乙呂白石まで追撃して討ち、帰還した。上はその背を撫でて言った、「朕にこの子あり、何事か成らざらん」と。御服を賜った。

遼帝が七十万の兵を率いて馳門に至ると、諸将は皆言った、「遼軍の勢いは甚だ盛ん、速戦すべからず」と。宗雄は言った、「然らず。遼兵は多けれども皆庸将であり、士卒はおののき恐れて、畏るるに足らず。戦えばこれを掌握の間に破らん」と。上は言った、「善し」。護歩荅岡で遼帝に追いついた。宗雄は衆を率いてまっすぐに進み、短兵相接した。宗雄は先を行く者に棒を持たせて遼兵の馬の頭を打たせ、後を行く者にこれを射させ、大いに遼兵を破った。上は宗雄の功を賞し、その手を執って労い、御用の甲冑および御戦馬・宝貨・奴婢を賜った。

斜也が春州を攻めると、宗雄は宗幹・婁室とともに金山県を取った。白鷹林に近づいた時、斥候七人を捕らえ、その一人を放して帰らせた。県人は大軍の来るを聞き、ついに潰走し、これにより金山県を陥れた。斜也とともに泰州を取った。

太祖が自ら将兵を率いて臨潢府を取ろうとし、宗雄を先に行かせた。遼兵五千に出会い、宗雄はこれと戦い、大軍もまた至り、大いにこれを破った。留守撻不野が降伏すると、上はその娘を宗雄に与え、先発して遼の援兵を破った功を賞した。まもなく蒲家奴とともに泰州の土地を視察し、宗雄はその土を包んで来て奏上した、「その土はこのようであり、植え付けるべし」と。上はこれに従った。これにより万余家を移して泰州に屯田させたのは、宗雄らのその地が耕作に適すると言ったによるのである。

西京が降伏した後また叛いた時、糧秣が尽きようとしており、攻撃をやめようと議論した。宗雄は言った、「西京は都会なり、これを捨て去らば、降伏した者は心を離し、遼の残党と夏人が窺う機会を得ん」と。そこで重賞を立てて士卒の心を奮い立たせた。まもなく、夜中に斗のごとき大きさの火が城中に墜ちた。宗雄は言った、「これは城の破れる象なり」と。西京を攻克すると、宗雄に黄金百両・衣十襲および奴婢などを賜った。

宗翰らとともに西京の東四十里で耿守忠の兵七千を撃ち、大いにこれを破った。鴛鴦濼で太祖を迎え拝し、帰化州まで従った。病が重くなり、宗幹が何か言いたいことがあるかと問うた。宗雄は言った、「国家の大業すでに成り、主上は万歳を保たれ、四方を粛清せられん、死すとも恨みなし」と。天輔六年に薨去した。年四十。太祖が病を見舞いに来たが、間に合わず、これを慟哭した。群臣に言った、「この子は謀略人に過ぎ、臨陣勇決、比類少なし」と。賻贈を加等した。詔して合紮千戸駙馬石家奴に喪を護送させて帰らせ、帰化州に葬り、なお死んだ地に仏寺を建立した。

宗雄は学問を好み書物を嗜み、かつて上に従って狩りをした時、誤って流れ矢に当たったが、神色変らず、上に知られて射た者が罪に及ぶことを恐れた。矢を抜き去った後、病気と称して帰宅し、二か月臥せ、その間に契丹の大小字を学び、ことごとく通じた。金国が初めて建てられた時、法を立て制を定めること、皆宗幹とともに建議して行われた。遼と和議を結ぶ時、契丹字・漢字の詔書は、宗雄と宗翰・希尹がそのことを主管した。また武勇に優れ身軽で、強弓を引き遠くを射ること、およそ三百歩に及んだ。かつて走る馬上から三頭の麞を射ようとし、すでに二頭を射当て、再び弓を引き絞ろうとした時、馬がつまずき、跳び下りたが、弦を引くことはもとどおり、ついに満月に引き絞って歩射してこれを獲た。宗雄が兎を追っている時、撻懶もまた後からこれを射ようとし、すでに矢を放ち、撻懶が大声で呼んだ、「矢が届くぞ」と。宗雄は振り返り、手でその矢を受け止め、そのまま兎を射て、これに当てた。その軽捷はこのようであった。

天眷年間に、太師・斉国王を追封された。天徳二年に、秦漢国王を加封された。正隆二年に、太傅・金源郡王に改封された。大定二年に、楚王を追封され、諡して威敏といい、太祖廟廷に配享された。十五年、詔して衍慶宮に画像を描かせた。子に蒲魯虎・按荅海・阿鄰。孫に常春・胡里刺・胡刺・鶻魯・茶紮・怕八・訛出。

初め、宗幹が宗雄の妻を娶ったため、海陵はこれを恨んだ。帝位をさんさんだつすると、宿直将軍晁霞・牌印閭山を河間に遣わし、府署に宗雄の妻を監禁し、翌日、その子の妻および常春兄弟・茶紮の子七人を皆殺して焼き、その骨を濠水に棄てた。大定十七年、詔して有司に収葬させた。

初め、蒲魯虎は猛安を襲封した。蒲魯虎が卒すると、金紫光禄大夫を追贈され、子の桓端がこれを襲封し、官は金吾衛上將軍に至った。桓端が卒すると、子の嫋頻は未だ襲封せずして死んだ。章宗は宗雄の孫の蒲帯にこれを襲封せしめた。

蒲帯は、大定末年に累官して同簽大睦親府事となった。章宗が即位し、初めて九路提刑司を設置すると、蒲帯は北京臨潢提刑使となった。詔して曰く、「朕即位の初め、万民を憂い労する。常に刑獄未だ平らかならず、農桑未だ勧められず、吏あるいは法度に循わず、以て吾が治を隳すを念う。朝廷より使者を遣わして廉問すれども、事周悉なるは難し。惟だ提刑・勧農・採訪の官は、古よりこれ有り。今九路に分かち専らこの職を設く。爾其れ心を尽くし、往きて乃ち事を懋めよ」と。熙宗の時より、使者を遣わして吏治の得失を廉問す。世宗即位して、凡そ数歳ごとに輒ち一たび黜陟の使を遣わす。故に大定の間、郡県の吏皆法を奉じ、百姓は殖え滋し、号して小康と為す。或いは廉問の使者、頗る愛憎を以て殿最を立てると謂う。以て宰相に問う。宰相曰く、「臣等復た陛下の為にこれを察せん」と。是を以て世宗嘗て提刑司を立てんと欲して未だ果たさず。章宗は先朝を追述し、遂に即位の初めに行う。

及び九路提刑使が慶和殿にて朝辞す。上曰く、「官制を建立するは、寛猛中を得べし。凡そ軍民事相い渉る者は、均平に決遣し、家人部曲を鈐束し、郡県の事を沮擾せしむるなかれ。今司獄を提刑司に隷せしむるは、惟だ獄犴冤無きを冀うのみ」と。既に退き、復た近臣を遣わしてこれを諭して曰く、「卿等皆妙簡の才良、専責を付す。心を尽くし職を挙ぐれば、別に旌賞有らん。然らずんば罰有り」と。明年、蒲帯乃ち猛安を襲封すと云う。

子に阿隣

阿隣は、穎悟辯敏にして、女直・契丹の大小字及び漢字に通ず。幼時に嘗て宮中に入り、熙宗見てこれを奇とし、曰く、「是の児他日必ず能く国家に力を宣べん」と。年十八、定遠大将軍を授けられ、順天軍節度使と為る。天徳二年、廉を用いられ、益都尹兼山東東路兵馬都総管に遷り、泰寧・定海・鎮西・安国等軍節度を歴任す。

海陵南伐に、神勇・武平等軍都総管と為し、寿州道より淮を渡り、勧農使移刺元宜と兵三万を合して先鋒と為る。是の歳十月、廬州に至り、宋将王権の軍十余万と柘皋鎮・渭子橋にて戦い、これを破る。和州の南に至り、復た王権の軍八万余と会戦し、またこれを破り、江上に追い殺し、首級数千を斬る。

上遼陽にて即位す。海陵死し、大軍北還す。将に淮を渡らんとすれども舟楫甚だ少なく、軍士舟を争いて亟に渡るを得ず。阿隣は生口を得て、渉ること能う処を知り、柳枝を以て標識し、本部を命じて渉り済ましむ。既に北岸に至りて、諸軍の渡りを争う者果たして宋人の邀撃を受く。及び入見す。上阿隣の淮上の戦功を聞き、又以て全軍を還すにより、兵部尚書に遷し、征窩斡諸軍の糧餉を経画するを監督し、金牌一・銀牌四を授く。窩斡敗れ、懿州に還り至り、疾を以て卒す。喪京師に至る。上永安寺に致祭せしめ、百官赴吊せしめ、賻として銀五百両・重彩三十端・絹百匹を賜う。

子に按荅海

按荅海、またの名は阿魯綰、宗雄の次子なり。性端重にして、軽く発せず、父の風有り。年十五、太祖一品の傘を賜う。二十余、御球場にて朋を分ち球を撃ち、連勝三算す。宗工旧老皆これを異とす。進めて勝ちたる所の礼物を呈す。按荅海は班首と為る。太宗喜びて曰く、「今日の勝ちは、この孫の力なり」と。賞力独り厚し。

天眷二年、父の猛安を襲封す。大宗正丞を除し、猛安を兄の子喚端に譲り、武定軍節度使を加えられ、朝請を奉ず。侍衛親軍都指揮使に改め、金源郡王に封ぜられ、譚王に進封し、同判大宗正事に遷り、別に世襲猛安を授かる。

海陵将に中都に遷らんとす。按荅海諫めて曰く、「祖宗の興王の地を棄てて他に徙るは、義に非ず」と。海陵悦ばず、上京に留む。久しくして、鄆王に進封し、魏王に改封し、済南尹を除す。按荅海は卑湿に堪えず、多く病告に在り。海陵これを聞き、西京留守に改む。正隆の例にて王爵を奪い、広寧尹に改む。

世宗東京にて即位す。赦令広寧に至る。弟の燕京、按荅海を勧めて拒み受けざらしむ。按荅海これを受く。会うこと海陵の使い城下に至る。按荅海城を頓して使者に告げて曰く、「この府は遼陽に迫近し、勢い抗う能わず。聊か且つ命に従うのみ。已むを得ざるなり」と。燕京も亦譙楼に登りて使者と語り、指斥して遜らず。及び諸郡皆東京に詣る。按荅海兄弟も亦上謁す。有司議す。既に赦令を拝し、復た異言有り、両端を持すと。並びにこれを誅せんことを請う。上曰く、「正隆は宗室を剪刈す。朕は尤を效うべからず。按荅海は弟に惑わされたるのみ」と。ここに於いて按荅海を釈し、乃ち燕京を誅す。数日ならずして、復た大宗正事を判じ、再び太子太保に遷り、蘭陵郡王に封ぜられる。勧農使に改む。

海陵の時、上京より河間に徙る。土瘠せり。詔して按荅海一族二十五家、便に従い近地に遷居せしむ。乃ち平州に徙る。詔して平州の官田三百頃・屋三百間、宗州の官田一百頃を給す。金源郡王に進み、致仕す。

大定八年、召見す。上曰く、「宗室の耆老卿の如き者は、能く幾人かあるか」と。銭一万貫・甲第一区を賜い、京師に留め、巡幸・球獵・宴会に預からしむ。十四年、薨ず。年六十七。臨終、諸子に戒めて曰く、「汝輩、生を富貴の中に在りて暴戾を為すことなかれ。宜しく自ら謙退すべし。海陵は猜忌を以て宗室を剪滅せり。我は純謹を以て死を免るることを得たるのみ。汝輩惟だ日々善を為し、吾が家を墜すことなかれ」と。

希尹

完顔希尹は本名を穀神といい、歡都の子である。太祖が挙兵して以来、常に軍陣にあり、時に太祖に従い、時に撒改に従い、あるいは諸将とともに征伐し、功績を重ねた。

金人は初め文字を持たず、国勢が日に日に強まり、隣国と交好するにつれ、契丹の文字を用いるようになった。太祖は希尹に命じて本国の文字を作り、制度を整えさせた。希尹は漢人の楷書字を模倣し、契丹の文字制度に基づき、本国の言語を合わせて、女直字を作った。天輔三年八月、字書が完成すると、太祖は大いに喜び、頒布施行を命じた。希尹に馬一匹、衣一襲を賜った。その後、熙宗もまた女直字を作り、希尹の作った字とともに用いられた。希尹の撰したものを女直大字といい、熙宗の撰したものを小字という。

遼人の迪六、和尚、雅里斯が中京から逃走したので、希尹は迪古乃、婁室、餘睹とともにこれを襲撃した。迪六らは希尹の軍勢を聞き、再び逃走した。そこでその近傍の人民を降伏させて帰還した。奚人の落虎が降伏してきたので、希尹は落虎に命じてその父の西節度使訛里刺を招かせた。訛里刺は本部を率いて降伏した。

宗翰が北安に駐軍し、希尹に近地を経略させたところ、遼の護衛耶律習泥烈を捕らえ、遼主が鴛鴦濼で狩猟していることを知った。宗翰は進兵を請うた。宗翰は奚王嶺で都統杲と会おうとした。遼兵が古北口に駐屯していた。婆盧火に兵二百を率いてこれを撃たせ、渾黜もまた二百人を率いて後詰めとした。渾黜は遼兵が多いと聞き、増兵を請うた。宗翰は自ら行こうとしたが、希尹と婁室が言うには、「これは小敵です。千の兵をもって公のためにこれを破りましょう」。渾黜が古北口に至ると、遼の遊兵に遭遇し、これを谷の中に追い込んだ。遼の歩騎一万余が迫って戦い、死者数人を出した。渾黜が関口を占拠し、希尹らが到着すると、大いに遼兵を破り、斬首捕虜は甚だ多く、甲冑輜重をことごとく獲た。さらにその伏兵を破り、千余人を殺し、馬百余匹を獲た。そこで宗翰とともに奚王嶺に至り、羊城濼で会合することを約した。

宗翰が五院司で遼帝を襲撃したとき、希尹は先鋒となり、率いるのはわずか八騎であったが、遼主と戦い、一日に三度これを破った。翌日、希尹は降人麻哲を得て、遼主が砂漠におり、輜重を捨て、西京へ逃げていると聞いた。白水濼の南で遼主にほとんど追いついた。遼主は軽騎で遁走した。その内庫の宝物をことごとく獲て、西京に至った。西京は降伏し、蒲察にこれを守らせた。希尹は乙室部に至ったが、遼主に及ばず帰還した。宗翰が入朝すると、希尹は西南・西北両路都統を代行した。

この時、夏人はすでに盟約を受け入れ、遼主は捕らえられていたが、耶律大石が自立し、夏国が婁室に書を送って諸帥が盟約を棄て、軍がその境に入り、多く掠奪したことを責めた。希尹はその書を上奏し、かつ奏上して言うには、「夏の使者が大石と約して山西の諸郡を取ると聞きます。臣の見るところ、夏の盟約は信じがたいものです」。上(太宗)は言った、「夏のことは適宜に行え。軍がその境に入ったのは、信ずるか否かを知らなかったのだ。大石との合謀は察せざるを得ない、厳重に備えよ」。

大挙して宋を伐つとき、希尹は元帥右監軍となった。再び宋を伐ち、二主を捕らえて帰還した。師が還ると、希尹に鉄券を賜い、常赦に免れない罪を除き、その他は釈放して問わなかった。宗翰が康王を伐つとき、希尹は揚州でこれを追撃したが、康王は遁走した。後に宗翰とともに京師に朝し、熙宗を儲嗣として立てることを請うたので、太宗はついに熙宗を諳班勃極烈とした。

熙宗が即位すると、希尹は尚書左丞相兼侍中となり、開府儀同三司を加えられた。希尹が宰相となってから、大きな政事があればみな自ら率先してその責めを執った。天眷元年、致仕を乞うたが許されず、興中尹に罷免された。二年、再び左丞相兼侍中となり、まもなく陳王に封ぜられた。宗幹とともに宗磐、宗雋を誅殺した。三年、希尹に詔を賜って言うには、「帥臣が密奏するに、奸状すでに萌し、心は君無きにあり、言は不道を宣す。燕居に及んで窃かに議し、神器を以て何に帰すべきかを謂い、聴聞に稔り、ついに章敗を致す」。そこで死を賜い、右丞蕭慶および希尹の子で同修国史の把荅、符宝郎の漫帯をともに殺した。この時、熙宗にはまだ皇子がなかったので、希尹を嫉む者がこの言葉をもってこれを讒したのである。

皇統三年、上(熙宗)は希尹に実際に異心がなく、その死が罪に当たらないことを知り、希尹に儀同三司・邢国公を追贈し、改葬し、蕭慶には銀青光禄大夫を贈った。天徳三年、豫王を追封した。正隆二年、例により金源郡王に降格した。大定十五年、貞憲と諡した。孫に守道、守貞、守能がいる。守道は別に伝がある。

孫 守貞

守貞は本名を左靨といい、貞元二年、祖父穀神の謀克を襲封した。大定に改元すると、符宝祗候に収め充てられ、通進を授けられ、彰徳軍節度副使に任ぜられ、北京留守に遷り、上京に移った。契丹戸民を部内に安置し娶妻した罪により、杖一百を受け、除名された。二十五年、西京警巡使として起用された。世宗はその剛直を愛し、中都左警巡使を授け、大興府治中に遷り、同知に進み、同知西京留守事に改めた。御史台が守貞の治績に善状があると奏上したので、世宗は侍臣に言った、「守貞は勲臣の子であり、また才能があり、その兄守道に完全に勝っている。将来用いることができる」。

章宗が即位すると、刑部尚書として召され、右諫議大夫を兼ねた。守貞は修起居注の張暐とともに奏上して言うには、「唐では中書門下が入閤するとき、諫官がこれに従い、政事を予め聞き、開陳説諫することを欲した。また起居郎、起居舍人は、皇帝が朝を見るごとに、左右に対立し、命令があれば階に臨んで俯聴し、退いてこれを書き、起居注とした。侍従官は毎回視朝に遇えば、まさに侍立すべきである。従来、左司が上殿するとき、諫官、修起居注は避けず、あるいは侍従官の除授や議便遣の際に、初めてこれを避けさせた。近ごろ一律に臣らに回避を命じ、また香閤で奏陳言文字するときも、臣らに侍立を許さない。すると凡そ聖訓および議する政事があれば、臣らは知る由がなく、何を記録し、何を開説すればよいのか、本来設けられた官の意義に似ていない。もし政事を漏泄すれば、すでに不密の罪がある」。上はこれに従った。まもなく賀宋生日使となり、還って参知政事に拝された。時に上は新たに政を即し、治めようとする意気込みが頗る鋭く、かつて漢宣帝の綜核名実の道を問い、その施行の実は果たしてどうであったか。守貞は「枢機周密にして、品式詳備なり」と誦して答え、上は言った、「行うには果たして何から始めるか」。守貞は言った、「陛下が励精倦まずにあることによります」。久しくして、尚書左丞に進み、上京世襲謀克を授けられた。

明昌三年の夏、旱魃があり、天子は詔を下して己を罪した。守貞は恐れおののき、上表して職務の解任を乞うた。詔して曰く、「天が時に雨を惜しみ、連年災害となるのは、未だ及ばざるを警戒させるためである。今まさに二三の輔弼と共に遺闕を図り回らせんとし、朕が政を修めるを助くる所以を思うべきである。上は天戒に答え、災いを消して和を召し、以て百姓を安んずるべし。卿は機務に通達し、朕が親しく倚る所なり。然るに咎を引き去らんことを求むるは、思助の如きは如何なるか」と。守貞が懇ろに辞したので、乃ち出でて東平府事を知らしむ。参知政事夾穀衡に命じてこれを諭さしめて曰く、「卿は勲臣の裔にして、早く潆無に登り仕え、才用と声績は朕が素より知る所なり。故に嗣位の初めに政府に擢任し、今に数年に至り、毗贊実に多し。既に久しく繁劇を任じたれば、宜しく逸安に均しく適すべし。況んや内外の職も亦た当に更治すべく、今特に卿に是の命を授く。東平は素より雄藩と号し、兼ねて比年饑歉あり、正に経画に頼る所なり。卿其れ朕が為に往きて綏撫せよ」と。仍て金幣・廄馬を賜い、以て其の行を寵す。他日、上、宰臣に問う、「守貞の東平を治むるは如何」と。対えて曰く、「亦た力を労せず」と。上曰く、「彼の才を以て一路を治むるは誠に余り有り」と。右丞劉瑋曰く、「方今人材は守貞に出ずる者無し。外に淹留するは誠に惜しむべし」と。上は黙然たり。尋いで西京留守に改む。

監察御史蒲刺都が劾奏して、守貞が前に北部を宴賜するに取受の事有りとす。報いず。右拾遺路鐸が上章してこれを弁ず。四年、召して平章政事に拝し、蕭国公に封ず。上、後閤に御し、守貞を召して曰く、「朕は卿が太師の挙げし所なるを以て、故に特に委用を加う。然るに比者の行事多く過ぎ、門下の人少しく慎択し、復た丞相と協せず。是を以て卿を外に補せしむ。載念するに我が昭祖・太祖の開創以来、乃祖は命を佐け、勲労を積む。茲に故に召用す。卿其れ乃心を勉め尽くし、丞相と議事するに宜しく相和諧し、旧章に率循し、軽々しく改革すべからず」と。因って玉帯を賜い、並びに蒲刺都の弾ぜし事をこれに与えて曰く、「朕は卿必ず爾らずと度る。故に以て卿に示す」と。

旧制、監察御史は凡そ八員、漢人四員は皆進士、而して女直四員は則ち文資右職より参注す。守貞曰く、「監察は乃ち清要の職、流品自ら異なり、倶に宜しく一体に純かに進士を用うべし」と。一日、事を奏する次に、上、司吏の移転の事を問う。守貞曰く、「今、吏の権重くして積弊深し。移転は便なり」と。上嘗て文士で党懐英に如く者は卒いて無しと歎ず。守貞、進士の中の趙渢・王庭筠の如きは甚だ時に誉有りと奏す。上曰く、「倫を出す者は得難し」と。守貞曰く、「間世の才は、古より難し。然れども国家培養久しければ、則ち人材将に自ら出づ」と。守貞因って言う、「国家選挙の法は、惟だ女直・漢人進士の得人多く居る。此の挙は更に宜しく増取すべし。其の諸司局の承応人は旧より出身無く、大定の後初めて叙使を許す。経童の科は、古より常に設けず。唐は諸道の表薦を以て、或いは五人より十人を取る。近代は以て補う無しと為し、これを罷む。本朝皇統の間、及び五十人を取り、因って常選と為す。天徳の間、尋いで以て停罷す。陛下即位し、復た是の科を立て、朝廷寛大にして、及び百数に放つ。誠に積久して銓擬に勝えざるを恐る。宜しく稍々裁減し、以て流品を清くすべし」と。又た節用省費の道を言う。並びに嘉納す。

先に、鄭王允蹈等が伏誅せらる。上、其の家産を以て諸王に均しく給す。戸部郎中李敬義、恐らくはこれに因りて事を生ずと言う。上又た董寿を宮籍監都管勾と為す。並びに尚書省に下して議せしむ。守貞奏す、「陛下、允蹈等の家産を分かちて懿親に賜わんと欲し、恩命已に出づ。恐らくは改むべからず。今已に諸王の弓矢を減じ、府慰司其の出入をす。臣は賜うも害無しと以為う。董寿の如きは罪人なり。特恩を以てこれを釈し、已に幸いと為す。宜しく更に爵賞を加うべからず」と。上、守貞の言う所を是とす。

明昌の初めより、北辺屡々警有り。或いは出兵してこれを撃たんことを請う。上曰く、「今方に南にて河を塞ぐを議し、而して復た北に用兵す。可ならんや」と。守貞曰く、「彼は屡々吾が圉を突軼す。今一たびこれを懲らしめば、後当に復た来らず。明年にて見るべし」と。上因って守禦の法を論ず。守貞曰く、「惟だ皇統以前の故事有り。此を捨てて法無し」と。

守貞は書を読み、法律に通じ、国朝の故事に明習す。時に金は国を持つこと七十年、礼楽刑政は遼・宋の旧制に因り、雑乱して貫無し。章宗即位し、乃ち更定修正して一代の法と為す。其の儀式条約は多く守貞の裁訂する所、故に明昌の治は清明と号せらる。又た善類を推轂し、後進を接援するを喜び、朝廷の正人は多く其の門下に出入す。

先に、上は疑忌を以て鄭王允蹈を誅す。後、張汝弼の妻高陀幹の獄起こり、意は又た鎬王允中に在るが若し。時に右諫議大夫賈守謙が上疏して時事を陳び、上意を寛解せんとする所以を思う。右拾遺路鐸これに継ぎ、言尤も切直なり。帝悦ばず。守貞其の事を持し、獄久しく決せず。帝は党有りと疑い、乃ち守貞を出でて済南府事を知らしむ。仍て命じて即辞せしむ。前に守貞を挙げし者董師中・路鐸等は皆外に補せらる。上、宰臣に語りて曰く、「守貞は固より才力有り。其の書を読むに至りては、真儒に方ぶれば則ち未だならず。然れども太だ権誉を邀え、彼の才を以てして能く平心守正せば、朝廷豈に少しく離るべけんや。今茲に令を出すは、蓋し之を熟思せしなり」と。俄かに政府に在りし日に嘗て近侍と窃かに宮掖の事を語り、而して妄りに奏下と称せしを以て、上、有司に命じて鞫問せしむ。守貞款伏し、官一階を奪い、職を解く。中使を遣わし詔を持して責諭して曰く、「奸を挟み上を罔くすは、古より常刑有り。援を結び交を養うは、臣の大戒なり。孰か予の相たる者、乃ち其の辜を蹈むとは謂わんや。爾は本より勲門に出で、浸く膴仕に登る。朕初めて嗣位し、亟に卿を用いんと欲す。歳時を閲せずして宰輔に升る。毎に誨を納れて共に太平を致さんことを期す。蓋し其の長を求め、其の素を考へず。抜擢峻からずと為さず、任用専からずと為さず。曾て報效の綽思に報いず、輒ち私権の自ら樹つるす。近侍と交通し、密かに起居を問い、上心を窺測し、預め趨向を図る。患失の心重きに繇り、故に欺君の罪彰る。所有らざる事を指して妄りに以て肆に誣う。実に未だ始めて言有らずして之を嘗て諫めりと謂う。義豈に帰美を知らんや。意専ら要君に在り。其の詐を飾るの若然るは、豈に臣の当に為す所ならんや。復た弾奏を観れば、益々私情を見る。親識の援を求めて列布宮中し、罪廢の余を縦して出入門下す。而して又た凡そ官使有る者は、斂めて己が恩と為し、皆回邪に渉ると謂いて、宜しく中外に任ずべからずとす。清議に質すれば、固に容るる所ならず。乃心を揆うれば、烏んぞ愧無からんや。姑く軽典に従い、庸く蒲懲を示す」と。仍て守貞の不公の事を以て、百官に尚書省に於いて宣諭す。

承安元年、降授して河中防禦使と為す。五年、部羅火紮石合節度使に改む。闕を過ぐるに、上、手詔を賜いて責諭し、職に赴かしむ。久しくして、都府事を知るに遷る。時に南鄙に用兵有り。上、山東の重地なるを以て、須らく大臣の安撫するを以てす。乃ち移して済南府を知らしむ。卒す。上聞きてこれを悼む。有司に勅して致祭せしめ、賻贈の礼物は故平章政事蒲察通の例に依る。諡して曰く肅。

守貞は剛直にして明らかであり、朝廷の議論や上(皇帝)の問いに対しては、すべて経典を根拠として答えた。上はかつて人材について広く論じたことがあり、守貞はその心術と行いを跡づけ、善悪を少しも隠さずに評したので、胥持国らに忌まれることとなり、ついに直諫のゆえに罷免された。後に趙秉文が地方官から翰林院に入ると、すぐに上書して言うには、「願わくは陛下、君子を進め小人を退けられんことを」と。上が「君子と小人とは誰を指すのか」と問うと、秉文は答えて、「君子は故相の完顔守貞、小人は今の参知政事胥持国でございます」と言った。彼が天下に推重されたのはこのような次第である。

孫 守能

守能は本名を胡刺といい、累官して商州刺史となった。正隆の末、宋人が商州を陥落させ、守能は捕らえられた。大定五年、宋人が和を請い、誓書に「捕虜となった者は、ことごとく送還する」とあった。完顔仲が報問国信使となり、守能と新息県令の完顔按辰を宋に求めたところ、ついにともに帰還した。守能らが京師に至り、入見すると、詔して旧官の俸禄を与えた。

大定十九年、西北路招討使となった。この時、詔して窩斡の残党を臨潢・泰州に移すこととなった。押刺民列はかつて窩斡に従ったことがあり、その弟の閘敵も移住の対象であったが、偽って死亡したと称し、馬で守能に賄賂を贈り、固く匿って送らなかった。また、賄賂を受けて賽也蕃部の通事に補任したが、事が発覚した。この時、烏古里石壘部族節度副使の奚沙阿補が無罪の鎮辺猛安を杖殺し、尚書省がともにその事を奏上した。上は言った、「守能は刺史から超擢されてこの地位に至ったのに、敢えて貪欲をほしいままにしている。以前、招討司の官は多く良馬・駱駝・鷹・鷂などを進上したが、これはおそらくこれを口実に徴収したものであろう。今後はすべてこれを廃止せよ」と。そこでその兄の守道を責めて言った、「守能は刺史から飛び級で招討使となり、地方官としての尊さはこれ以上ない。前の招討使哲典は貪欲の罪で誅殺された。守能は知らないはずがないのに、敢えてこのようなことをするのは、その意図はどこにあるのか。お前の実弟であるのに、なぜ先に訓戒しなかったのか」と。上は宰臣に言った、「監察御史は専ら糾弾を任とする。宗州節度使の阿思懣が初めて任地に赴く途中、百姓を侵擾し、任地に着いてからの挙動もすべて法度に違反していた。完顔守能は招討使として、貪欲狼藉を極めた。しかし、すべての高官貴人については、いまだかつて挙劾したことがない。一方、斡睹只群牧副使の僕散那也が部民から球杖二本を取っただけで、すぐに弾劾奏上した。今後は、監察御史が職務をよく行ってから、遷除するようにせよ。職務を果たさない者は、重ければ降格・処罰、軽ければ決罰とし、それでも去職させてはならない」と。尚書省が奏上したところ、守能の二つの贓罪はいずれも五十貫に至らず、罪に当たる。奚沙阿補は現職を解き、併せて世襲謀克も解かれることとなった。上は言った、「これは旧制の誤りである。官職にある者が除名に当たる罪を犯した場合は、世襲とともに罷免するが、除名に当たる罪を犯していない者は罷免してはならない」と。そこでこれを令に明記した。特に詔して守能を杖二百に処し、除名した。

賛して言う。阿離合懣の善頌、宗雄の強識、希尹の敏学、これに征伐の功を加えれば、偉大でないと言えようか。