婁室
婁室、字は斡里衍、完顔部の人なり。二十一歳の時、父白荅に代わりて七水諸部の長となった。太祖が甯江州を攻克した際、婁室に命じて系遼籍の女直を招撫せしめ、遂に移燉益海路の太彎照撒等を降した。婆刺趕山において遼兵を破った。再び遼兵を破り、両将軍を生け捕りにした。やがて益改、捺末懶の両路ともに降伏した。進軍して鹹州を攻め、これを克した。諸部相次いで来降し、遼の北女直系籍の戸を獲得した。遼の都統耶律訛里朵が二十余万の兵を率いて辺境を守備しに来た。太祖は達魯古城に向かい、甯江州の西に駐屯し、婁室を召し寄せた。婁室は軍中において上(太祖)に謁見した。上は婁室の馬が多く疲弊しているのを見て、三百頭を与え、右翼の宗翰軍に隷属させ、銀朮可と共に兵を縦横に駆ってその中堅を衝かせた。凡そ九たび陣を陥とし、皆力戦して出でた。再び銀朮可と共に辺境を守備した。
九百奚営等の部が来降すると、婁室は銀朮可と共に黄龍府を攻め、上は完顔渾黜、婆盧火、石古乃に兵四千を率いてこれを助けさせ、白馬濼において遼兵一万余を破った。宗雄等が金山県を下すと、婁室に分兵二千を与え、沿山の逃散の人々を招撫させた。耶律捏里が軍を蒺藜山に置くと、斡魯古、婁室等がこれを破り、遂に顯州を取った。太祖が黄龍府を取ると、婁室は請うて言った、「黄龍は一つの都会であり、かつ僻遠の地である。もし変事あれば、隣郡が相扇いで起こるでしょう。どうか臣の率いる部衆をもって屯守させてください」。太祖はこれをよしとし、なお諸路の謀克を合わせ、婁室を万戸とし、黄龍府を守らせた。都統に進み、杲に従って中京を取り、希尹等と共に迪六、和尚、雅里斯等を襲撃して敗走させ、奚王霞末を破り、奚部の西陳度訛里刺を降した。遼主が鴛鴦濼より西走すると、婁室等は追撃して白水濼に至り、その内庫の宝物を獲得した。数えきれぬほどに闍母と共に西京を攻め破った。再び闍母と共に天徳、雲内、甯辺、東勝に至ると、その官吏は皆降伏し、阿疏を捕らえた。
夏人が遼を救援し、兵を天徳に駐屯させた。婁室は突撚、補攧に騎兵二百を率いて斥候兵とさせたが、夏人に敗れ、ほとんど全滅した。阿士罕が再び二百騎を率いて往ったが、伏兵に遇い、ただ阿士罕のみが脱出して帰った。時に長雨が続き、諸将はしばらく休息しようとしたが、婁室は言った、「彼は再び我が騎兵を破った。我らがもし再び往かなければ、彼は我らを臆病と思い、すぐに攻めて来るだろう」。そこで千騎を選び、習失、拔離速と共に往った。斡魯はその言葉を壮とし、従った。婁室は夜明け前に陵野嶺を出で、拔離速に兵二百を留めて険要を占め守らせた。生け捕りにした者を尋ねると、その帥は李良輔であった。野谷に至らんとする時、高みに登ってこれを望見した。夏人は衆を恃んで整わず、ちょうど水を渡って陣を為そうとしていた。そこで人をやって斡魯に報告させた。婁室は軍を二つに分け、代わる代わる出で入り、進退転戦すること三十里。宜水を過ぎると、斡魯の軍もまた至り、合撃してこれを破った。
遼の都統大石が奉聖州を侵犯し、龍門の東二十五里に陣営を構えた。婁室、照里、馬和尚等が兵を率いてこれを取り、大石を生け捕りにし、その衆は遂に降伏した。遼の辟里刺が奉聖州を守っていたが、城を棄てて遁走した。後に宗望と共に遼帝を追撃し、婁室、蒲宗が二十騎で敵情を偵察し、三山においてその軍三千人を破った。千人の将兵が奉聖州に向かおうとしたが、蒲察が再びこれを破り、その主帥を生け捕りにして還った。夏人が可敦館に兵を屯させたので、宗翰は婁室を遣わして朔州を守備させ、霸徳山西南二十里に城を築かせた。遂に朔州西山の兵二万を破り、その帥趙公直を生け捕りにした。その後、再び余都谷において遼帝を襲撃し、これを捕らえた。鉄券を賜わり、死罪のみはこれを鞭打つも、その他の罪は問わなかった。
銀朮可が太原を包囲した時、宋の統制劉臻が太原を救援し、衆十万を率いて寿陽より出でた。婁室がこれを撃破し、続いて榆次において宋兵数千を破った。宋の張灝が軍を汾州より出したので、拔離速がこれを撃退した。灝が再び文水に営を構えると、婁室は突葛速、拔離速と共に戦い、灝は大敗した。宗翰が太原を平定すると、婁室は汾、石の二州及びその属県たる温泉、方山、離石を取り、蒲察が寿陽を降し、平定軍及び楽平を取り、再び遼州及び榆社、遼山、和順の諸県を招降した。宗翰が汴州に向かうと、婁室等に平陽道より先に河南に向かわせ、言った、「もし澤州に至り、賽里、婆盧火、習失と遇えば、必ず彼らと共に進め」。習失の前軍三謀克が襄垣において宋兵三千を破り、伏兵二千に遇い、またこれを破った。撒刺荅が天井関を破り、再び孔子廟の南において歩兵を破り、遂に河陽を降した。婁室の軍が至り、既に河を渡ると、遂に西京に迫った。城中の兵が来て拒戦したので、習失が迎撃してこれを破り、西京は降伏した。婁室は偃師を取り、永安軍、鞏県は降った。撒刺荅が汜水において宋兵を破った。ここにおいて、滎陽、滎沢、鄭州、中牟が相次いで皆降った。宗翰は既に宗望と汴において会軍し、婁室に師を率いて陝津に向かわせ、未だ下らざる河東の郡県を攻めさせた。阿離士罕が河上において敵を破り、撒按が陝城下において敵を破り、鶻沙虎が虢州の城壁を守る卒三百人を降し、遂に陝府を克した。習古乃、桑袞が平陸の西北において陝の散卒を破った。活女が別に平陸において敵を破った。婁室が蒲、解の軍二万を破り、これをことごとく覆滅し、安邑、解州は皆降り、遂に河中府を克し、絳、慈、隰、石等の州を降した。
宗翰は洛陽に向かい、婁室に陝西を取らせ、宋の将範致虛の軍を破り、同州・華州の二州を下し、京兆府を克し、宋の制置使傅亮を捕らえ、ついに鳳翔を克した。阿鄰らは河中において宋の大軍を破り、斡魯は馮翊において宋の劉光烈の軍を破り、訛特刺・桑袞は渭水において敵を破り、ついに下邽を下した。宗翰は京輔で康王を討つべく会し、婁室・蒲察に専ら陝西の事を任せ、婆盧火・繩果に戦闘を監督させた。繩果らは蒲城及び同州において敵に遭遇し、いずれもこれを破った。婁室・蒲察は丹州を克し、臨真を破り、進んで延安府を克し、ついに綏徳軍及び静辺・懐遠などの城寨十六を降し、さらに青澗城を破った。宋の安撫使折可求は麟・府・豊の三州及び堡寨九を以て、婁室に降った。晋寧の管轄する九寨は皆降り、しかし晋寧軍は久しく下らず、婁室は去ろうとしたが、賽里は不可として言うには、「これは夏と隣接しており、かつ他変を生ずるであろう。」城中に井戸がなく、日々河水を取って飲料としていたので、東に渠を決してその水を泄らし、城中はついに困窮した。李位・石乙が郭門を開いて降り、諸将は兵を率いて城に入った。守将徐徽言は子城に拠り、三日戦って衆は潰え、徽言は出奔したが、これを捕らえた。拝礼させようとしたが聴かず、兵を以て臨んでも動じず、軍中に拘束した。先に降った者に諭して降らせようとしたが、徽言は大罵し、統制の孫昂とともに皆屈せず、ついに併せてこれを殺した。ついに定安堡・渭平寨及び鄜州・坊州の二州を降した。ここにおいて、婁室・婆盧火は延安を守り、折可求は綏徳に屯し、蒲察は還って蒲州を守った。延安・鄜州・坊州は皆残破し、人民の存する者は僅かであり、婁室は官府を置いてこれを安輯した。別将の斡論は建昌軍を降した。京兆府が叛いたので、婁室は再び討ってこれを平定した。ついに阿盧補・謀里也とともに三原に至り、訛哥金・阿骨欲は淳化の兵を撃ち、これを破った。婁室は乾州を攻め、すでに甬道を築き、鹈駁具を列ねたが、州は降った。ついに進兵して邠州を克し、京兆に軍した。
陝西の城邑で既に降定したものが、しばしば再び叛いたので、ここにおいて睿宗は右副元帥として、陝西征伐を総べた。時に婁室は既に病を患っており、睿宗は張浚と富平で戦い、宗弼の左翼軍は既に退いたが、婁室は右翼で力戦し、軍勢は再び振るい、張浚軍はついに敗れた。睿宗は言うには、「病を押して激戦し、以て王事に殉じ、ついに巨敵を破った。古の名将といえども何を以てかこれに加えようか。」用いた犀玉金銀の器及び甲冑、併せて馬七匹をこれに与えた。
子 活女
活女は、十七歳で甯江州攻めに従い、力戦して傷甚だしく、陣間から扶け出された。太祖は高みに憑って望見し、これを問うて、婁室の子であると知り、親しく撫慰して薬を賜い、歎じて言うには、「この児は他日に必ず名将とならん。」その済州攻めにおいて、敵八千を破った。信州において敵と遭遇し、移刺本が陣中に陥ったが、活女は力戦してこれを救い出し、敵はついに敗走した。瀋州において耶律佛頂らの兵を破った。また宗翰が兵を以て奚王霞末を襲った時、活女は兵三百を以て、敵二千を破った。乙室部攻めに従い、これを破り、その二営を破った。迭刺部族が叛いたので、二謀克を率いて突入し、これを大破した。
活女は常に婁室に従って太原を囲み、宋の将种師中が兵十万を以て来援したが、活女はこれを撃破した。大軍は河に至ったが、船がなく、渡ることができなかった。婁室は活女に水の上下を循わせた。活女は軍三百を率い、孟津から下り、渡ることができると測り、ついに軍を引いて渡河し、大軍はここにおいて皆これに続いた。宋の将郭京が兵数万を出して、婁室の営に趨ったが、活女は傍らから奮撃し、敵は乱れ、ついにこれを破った。師が還る時、平陸渡において敵を破り、その船を得て渡河した。また兵を以て張店原において敵を破った。時に屯留・太平・翼城には皆重敵がおり、併せてこれを破った。また兵を分けて陝西を取らせ、蒲州は降り、活女を留めてこれを鎮守させた。鳳翔を攻め、活女は先登した。睿宗が陝西を定めた時、活女は都統となり、進んで涇州を攻め、その兵を破った。王開山が兵を以て帰路を拒み、邀撃して戦ったが、再び撃ち、再びこれを破り、ついに京兆・鳳翔の諸県を降した。
子 謀衍
撒八が反すると、謀衍はこれを討ちに往った。この時世宗は東京留守として、自ら将いて括里を討ち還り、常安県において謀衍に遇い、甲士を尽くしてこれを付与した。世宗は東京に還り、完顔福寿・高忠建は率いる所の南征軍を率い、亡帰して東京に至った。謀衍もまたその軍を率いて来附し、即ち臣礼を以て上謁し、ついに高存福・李彦隆らを殺した。謀衍・福寿・忠建及び諸将吏民は進むことを勧め、世宗が即位すると、右副元帥に拝された。都統の白彦敬、副統の紇石烈志寧は北京におり、命を受けることを拒んだので、謀衍はこれを伐ち、その衆と建州の境において遇ったが、皆戦おうとせず、彦敬・志寧はついに降った。
謀衍が京師に至ると、同判大宗正事に任ぜられた。世宗は彼を責めて言った、「朕は汝を将と為さんとしたが、汝は賊を追わず、汝の罪を正すべきであった。汝の父婁室が大功あるを以て、特に汝の死を免ずる。汝は宗室に非ざれども、この職を授く、汝はこれを勉めよ。」間もなく、速頻路の軍士朮里古が、斜哥が謀衍に謀反を謀る書を寄せしと告げ、有司は併せてその書を上った。世宗はその誣告なるを察し、告者を鞫問することを詔し、朮里古は自ら伏したので、遂にこれを誅した。謀衍を召してこれに謂いて言った、「人が汝の子が反謀を為すと告げたが、朕は汝が必ずこれを為さざるを知った。今、告者が果たして自ら服罪した。宜しくこの意を悉くせよ。」
初め、窩斡が盛んな時、上は溫蒂罕阿魯帶を使わして、古北口を守らせた。窩斡が陷泉で敗れ、奚の中に入り、諸奚を率いて古北口を攻めた時、阿魯帶はその妻の生日に因り、輒ち軍を離れて六十里に至り、賊衆はこれを聞き、来襲して士卒を殺傷すること甚だ衆かった。阿魯帶はこれに坐して除名された。詔して謀衍、蒲察烏里雅、蒲察通に兵三千を以て、旧屯兵と会し、これを撃たしめた。賊党の猛安合住を擒えた。間もなく、窩斡が平定され、乃ち還った。
七年、出でて北京留守と為り、上は便殿に御し、食を賜い、及び御服の衣帯佩刀を賜い、これに謂って言った、「卿が故老なるを以て、労逸を均しくせんと欲し、故にこの職を授く。卿はこれを勉めよ。」東京留守に改め、栄国公に封ぜられた。大定十一年、薨じ、年六十四。
謀衍は性質忠厚にして、球を撃ち猟を射ることを善くし、時の論は以て、智略はその父に及ばざれども、勇敢はこれに似たりと云う。
子に仲あり。
正隆六年、宋を伐つに当たり、神勇軍副都総管と為った。大軍と共に北還し、同知大興尹を除され、兵二千を将いて遵化の屯軍を益し、契丹に備えた。西南路招討使に遷り、天徳軍節度使を兼ね、政は忠信を尚び、獄を決するに公平にして、蕃部敢えて辺を寇すこと無し。召されて左副都点検と為り、宿衛は厳謹にして、事毎に規矩あり、後来の者はその法を守り、易うること能わざりき。世宗は常に侍臣に謂って言った、「石古乃が入直すれば、朕の寝は益々安し。」
五年、宋人が和を請い、侄国と為り、臣と称せず、仲は報問使と為った。仲は宋主と相見ゆる礼儀を請うと、世宗は言った、「宋主親しく起立して書を接すれば、則ちこれを授けよ。」宋に至ると、一一礼の如くであった。正隆の兵を用いた時、宋人が商州刺史完顔守能を執いて帰したが、この時に至り、仲は守能を取って俱に還りしを、上はこれを嘉した。都点検に転じ、侍衛親軍都指揮使を兼ね、河南路統軍使に遷った。上は言った、「卿は禁近に在りて、小心畏慎たり。河南は江・淮を控制し、国の重地と為る。卿は益々これを勉めよ。」廄馬・金帯・玉吐鶻を賜う。後に罪有りて、職を解かれた。久しくして、起用されて西北路招討使と為り、北京留守に改め、卒した。
族子に海里あり。
海里は、婁室の族子である。体貌豊偉にして、槊を用いることを善くした。婁室が黄龍府万戸であった時、海里は徙って孰吉訛母に従った。婁室に従って朔州阿敦山において遼主に追い及び、遼主は数十騎を従えて逸去した。婁室は海里及び朮得を遣わし、往って遼主を見、これを諭して降らしめんとした。遼主は已に窮蹙し、阿敦山の東に待っていたので、婁室は因ってこれを獲た。海里に金五十両・銀五百両・幣帛二百匹・綿三百両を賞した。睿宗が陝西を経略した時、海里は涇・邠の南において呉玠の軍を戦い卻け、尋ち棧道を修めしめると、宋人は棧道の成るを恐れ、兵を以て来拒したが、その兵を破り、銀百五十両・奴婢十人を賞した。
銀朮可
銀朮可は、宗室の子である。太祖が位を嗣ぐと、蒲家奴を使わして遼に如き阿疏を取らしめたが、事久しく決せず、乃ち習古乃・銀朮可を継いで往かしめた。当時、遼主は政に荒み、上下解体していた。銀朮可等は還り、具に遼の政事人情を太祖に告げ、且つ遼国が伐つべき状を言った。太祖が遼を伐つ決意をしたのは、蓋し銀朮可等よりこれを発したのである。
遼の大冊使習泥烈を遣り返すに当たり、七月半に至るを約したが、九月尽くしても習泥烈来たらず、上は諸軍に江を過ぎて屯駐せしめた。遼の曳刺・麻答十三人、兵士八人が渾河において火を放ち、芻牧を絶たんとした。銀朮可がこれを獲たので、乃ち遼の辺吏乙薛のこれを使わしめたことを知り、太祖は命じてこれを釈放せしめた。都統杲に従って中京を克つと、銀朮可は習古乃・蒲察・胡巴魯と兵三千を率い、京西七十里において奚王霞末を撃ち、霞末は兵を棄てて遁れた。遼主は西に奔って天徳に向かうと、銀朮可は兵を以てその後を絶ち、遼主は遂に獲らるる所と為った。
その後、宗翰に従って宋を伐ち、太原を包囲し、宗翰が進軍して澤州に至り、また宗翰が西京に還る時、太原は未だ陥ちず、皆銀朮可に命じて兵を留めてこれを囲ませた。招討都監馬五が文水において宋兵を破る。節度使耿守忠らが西都穀において宋の黄迪の兵を破り、殺戮すること計り知れず。宋の樊夔・施詵・高豊らの軍が太原を救援せんと来たり、近隣の地に分拠す。銀朮可は習失・杯魯・完速らと共にこれを大破す。索里乙室、太谷において宋兵を破る。宋兵は太谷・祁県を占拠す。阿鶻懶・拔離速がこれを再び奪取す。种師中が井陘より出で、榆次を占拠し、太原を救援す。銀朮可は斡論を遣わしてこれを撃ち、その軍を破る。活女が師中を殺熊嶺に斬る。隆州穀において宋の制置使姚古の軍を攻撃し、これを大いに破る。撒里土が回馬口において宋軍を破り、郭企忠が五台において宋軍を殲滅す。宗翰が太原を平定するに及び、宗望と汴において会兵す。銀朮可らは汴城を攻め、これを陥す。師が還るに及び、銀朮可は岢嵐・寧化等の軍を降し、嵐州を攻めてこれを抜き、火山軍を招降す。希尹と共に鉄券を賜わる。
宗翰は洛陽に向かい、賽里は汝州を取り、銀朮可は鄧州を取り、その将李操らを殺す。薩謀魯は襄陽に入り、拔離速は均州に入り、馬五は房州を取り、転運使劉吉・鄧州通判王彬を擒らえる。拔離速は唐・蔡・陳の三州を破り、潁昌府を克ち、沙古質別克は旧潁昌を克つ。
子 彀英
彀英、本名は撻懶。幼くして機敏にして志膽あり、初めて丱角の時、太祖これを見て奇とす。年十六、父銀朮可甲を授け、遼を伐つに従わしむ。常に先鋒となり、世襲謀克を授かる。
拔離速が揚州において宋の康王を襲うに、彀英は先鋒となる。拔離速が江南において宋の孟後を追うに、彀英は前行して潭州に向かう。宋の大兵は常武に在り。彀英は選兵を以てその城に迫り、千余人を敗る。明日、城中より兵を出して来戦す。彀英は五百騎を以てこれを破り、馬二百匹を獲、遂に常武を攻む。拔離速は諸軍を以て大陣と為し、その後に居る。彀英は五百騎を以て小陣と為し、前行に当たる。即ち兵を麾して宋軍に馳せ、宋軍乱れ、遂にこれを大破す。拔離速その周旋を見て、歎賞す。
その後、河東の郡県多く叛く。彀英は先鋒として絳州を攻め、これを克つ。また沁州を攻む。飛砲その石脅を撃ち、営中に帰る。諸軍沁州を攻め、三日下さず。別将骨赧が彀英を強いて起し、士卒を指麾せしむ。遂にこれを克つ。
河東路都統を摂し、左監軍移刺餘睹に従い西北諸部を招く。彀英は騎三千五百を将い、その九部を平らげ、生口三千、馬牛羊十五万を獲る。先鋒として宋の呉山軍を破り、再戦再勝す。遂に隘路において宋兵を恤み、死者計り知れず。宋兵遁去す。
宗弼が再び和尚原を取るに、彀英は本部を以て宋の五万人を破り、遂に新叉口を奪う。宗弼は兵を留めてこれを守る。是の夜、大雪、道路皆氷る。和尚原の宋兵勢重くして径に取るべからず。宗弼は彀英の策を用い、傍近の高山の叢薄翳薈の間より入り、その不意に出で、遂に和尚原を取る。
彀英は速やかに大散関に入ることを請う。自ら本部を以て殿と為し、伏兵に備う。宗弼が仙人関に至る。彀英先ずこれを攻む。宗弼これを止む。彀英止まず。宗弼は刀背を以てその兜鍪を撃ち、これを退かしむ。彀英曰く「敵気已に沮む。この機に乗じて取らざれば、後必ずこれを悔いん。」已にして果たして然り。宗弼歎じて曰く「既往は咎めず。」乃ち師を班す。彀英殿たり、且つ戦い且つ退き、遂に秦中に達す。
齊国初めて廃せらる。元帥右監軍撒離喝が馳驛して諸郡を撫治し、同州に至る。故齊の観察使李世輔出迎え、陽に馬より墜ちて臂を折ると称し、帰る。撒離喝城に入る。世輔は詐って通判をして甲を献ぜしめ、壮士十人に甲を被らせて上査事す。世輔は壁後より突出し、撒離喝を執る。彀英は外にて馬を索むるに方り、変起こるや倉卒、入ることを得ず。城門已に閉ざされ、皆兵衛あり。東門に至る。合荅雅が騎三十余を領し、彀英と遇う。遂に門者を斬って出づ。而して世輔は衆を擁して西門より出づ。彀英と合荅雅はこれを襲い、一進一退して世輔を綴り、速やかにせしめず。世輔は救兵の至るを慮り、乃ち撒離喝を要してこれと盟し、追わしむるなからしむ。撒離喝を道側に留む。彀英その声を識り、騎を以て帰る。安遠大将軍を除かれ、太原尹を摂す。四境ことごとく治まり、兼ねて河東南・北両路兵馬都総管を摂す。
朝廷は河南・陝西を宋に与う。已にしてまたこれを取る。師は耀州に至る。宋人は毎朝城を出で、旗を張り隊を閲し、暮れに及んで還る。道隘り、騎は逞うこと能わず。彀英は兵五百を請い、薄暮先ず五十人をして山巔に趨らしめ、これに令して曰く「旦日に敵の出づるを見て、幟を挙げてその向かう所を指せ。」乃ち余兵を山谷の間に伏せしむ。明日、城中の人出でて前に如く閲す。山巔に旗挙がる。伏兵発す。宋兵は争って馳せて城に入らんとす。彀英は軍を麾して城に登り、宋の幟を抜き、金軍の旗幟を立てる。宋兵の後るる者はこれを見て敢えて入らず、遂に降る。城中の人もまた降る。
宋の呉玠が重兵を擁して涇州に拠り、涇原以西は多くこれに応じた。元帥撒離喝は京兆に退守し、河南・河東の軍を待たんと欲した。彀英曰く、「我らが退守すれば、呉玠は必ずや鳳翔・京兆・同州・華州を取って潼関に拠り、我らは生き残れないでしょう」と。撒離喝曰く、「計いはどうすべきか」と。彀英曰く、「事は危うい。速やかに戦うに如かず。我が軍は涇水の南原に陣し、宋兵は必ず西原より来るでしょう。彀英と斜補出は各々選りすぐりの騎兵五百をもってその両翼を摧き、元帥はその中央を撃たれるがよい。これで成功できます」と。監軍抜離速曰く、「二子(彀英・斜補出)がその左右を当たるなら、抜離速は願わくばその中央を当たりましょう。元帥は岡阜に拠り、多く旗幟を張って疑兵と為されば、成功できます」と。撒離喝はこれに従った。呉玠の兵は果たして西原より来たり、彀英・斜補出はその左右を撃ち、朝から正午まで戦い、呉玠の左右軍は少し退いた。抜離速がその前を当たって衝撃を加えると、遂に呉玠軍を破り、死体は枕を並べ、大澗も皆満ちた。ここより蜀人は気を喪い、敢えて再び出でず、関中・陝西は遂に平定された。
世宗が遼陽で即位すると、彀英の甥阿魯瓦を使いとして帰化州に詔を持たせて行かせ、彀英を左副元帥に任じ、就いて使者を遣わして陝西統軍徒単合喜を召し、大定と改元した詔と赦を西南・西北招討司、河東・河北・山東諸路州鎮に宣べさせ、猛安軍を京畿に屯させた。阿魯瓦が彀英に会うと、彀英は躊躇して決せず、士卒は皆世宗に帰することを欲した。彀英やむを得ず、乃ち詔を受けた。元帥の令をもって諸路に下し、急ぎ馬槽二万具を泥で作らせた。諸路はこれを聞き、大軍が将に至らんとすると思い、その後人を遣わして赦を宣べると、至る所皆命を聴いた。
初め、彀英は宿将として功を恃み、南京において頗る貨を瀆し、軍民を恤れみなかった。詔使が辺事を問うたが、彀英は答えず、詔使に謂って曰く、「お前は何事を解するのか、我が闕に到って奏上するのを待て」と。及んで召し入られると、竟に一言も辺事に及ぶ者は無かった。相位にあって多く自ら専断し、己の欲する所は即ち自ら奏して行った。留守に除されると、忿忿として賓客に接せず、近臣が往くも亦見えなかった。上怒り、遂に済南に改めた。上その罪を数えて曰く、「朕は卿の父が国に大功あるを思い、卿も旧将として功ある故に、この職を改めて授ける。卿宜しく知るべし。若し復た悔い改めざれば、官爵を保たぬのみならず、身も亦保つことができぬであろう」と。彀英頓首して謝した。
久しくして、平陽尹に改められ、致仕した。起用されて西京留守となり、母の憂いにより官を去った。尋ねて本官のまま起復された。俄かに復た東京留守となり、上京留守を歴任し、詔して曰く、「上京は王業の起こる所であるが、風俗日々に詭薄に趨き、宗室聚居し、治め難しと号せられている。卿は元老大臣にして、衆の聴服する所、当に風俗を正し、宗室を検制し、大體を以て持すべし」と。十五年、致仕した。
久しくして、史臣が『太宗実録』『睿宗実録』を上進すると、上曰く、「当時の旧人で親しく見た者は、惟だ彀英のみ在り」と。詔して修撰の温蒂罕締達を北京に遣わし、その家に就いてこれを問わせ、多く更定させた。
十九年、薨去した。年七十四。最前後功により賞せられたる者は十有一度、金は両にて二百五十、銀は両にて六千五百、絹は疋にて八百、綿は両にて二千、馬三百十有四頭、牛羊六千五百頭、奴婢百三十人。
同母弟 麻吉
麻吉は、銀朮可の同母弟である。年十五、軍中に隷し、高麗兵を破り、甯江州を下し、系遼女直を平げ、黄龍府を克つに従い、皆身先して力戦し、功により謀克となり、継いで猛安を領した。奚兵千余を破った。斡魯古に従って鹹州・信州・瀋州及び東京諸城を攻め下すに、麻吉は皆功があった。都統杲が中京を取るに、稍合・胡拾答と別れて楚里迪部を降し、高州に屯兵した。兵を以て蒙刮勃堇を援け、大いに敵兵を破り、変じて恩州兵五万人を敗った。中京の山谷に聚まる遼人を討平し、三千余人を降した。高州の境上に戦い、伏せた矢が目に中り、遂に卒した。
麻吉は大小三十余戦し、至る所皆捷した。皇統中、銀青光禄大夫を追贈され、諡して毅敏と曰う。子に沃側。
子 沃側
沃側は、年十七、軍中に隷し、抜離速に従って遼の将馬五を撃ち、これを敗った。麻吉の死後、その職を領した。宗望が宋を伐ち、河上に至る。宋兵は河の外に屯し、二舟をもって我が師を伺わんとした。乃ち沃側に勇士数輩を率いさせ、一舟をもってこれを迎えに行かせ、尽く俘虜として還った。江・淮の間にて康王を襲うに、沃側は皆これに与った。師還り、東平に駐った。及び齊が廃されると、河北に屯兵し、旁近の諸営を招降し、多く畜産兵仗を獲た。軍帥これを嘉し、甲馬を以て賞した。
後に陝西を攻め、右翼都統となり、城を攻め敵を破るに、皆功有りと与った。師還り、正しく謀克を授けられた。華州防禦使に遷る。関中が凶年に属し、盗賊充斥するに、沃側は兵を募り討平し、部内は事無く治まった。郡人が状を列ねて留まることを請うたが、報いられなかった。未だ幾ばくもなく、迪列部族節度使に除され、迭刺部に改められた。廉潔により都水使者に入り、秩満ちて、同知燕京留守事となり、西北路招討使となった。
撒八は秩満して已に数月、その俸祿を冒し、即時に解去せず、沃側はその事を発した。撒八が反すると、沃側は害に遇った。
弟の抜離速。
抜離速は、銀朮可の弟である。天輔六年、宗翰が北安州におり、斜也と奚王嶺で会おうとしたとき、遼兵が古北口に急に迫ったので、婆盧火と渾黜にそれぞれ二百の兵を率いさせてこれを撃たせた。渾黜が援軍を求めたので、宗翰は自ら行こうとしたが、希尹と婁室が言うには、「これは容易に対処できる者です。どうか千人をもってあなたのためにこれを打ち破らせてください」と。渾黜は騎兵三十人を率いて先に進み、古北口に至ると、その遊撃兵に出会い、これを追って山谷に入った。遼人は歩騎一万余りで追撃して戦い、騎兵五人を失い、渾黜は関口を占拠して退いた。希尹と婁室が到着すると、抜離速と訛謀罕と胡実海が先鋒を推し進めて奮戦し、これを大いに破り、斬首と捕虜は甚だ多く、甲冑と輜重をことごとく獲た。希尹は撒里古独と裴満突撚とともにその伏兵を破り、千余人を殺し、馬百余匹を獲た。婁室が夏人を陵野嶺に出て防ぎ、抜離速に兵二百を留めて、険しい地を占拠して守らせた。
銀朮可が太原を包囲したとき、近県はすでに先に降伏していたが、太原を救おうとする宋軍が再び太谷と祁県を占拠したので、抜離速と阿鶻懶がこれを再び奪取した。宋の姚古の軍が隆州穀におり、抜離速がこれを破った。張灝の兵が汾州から出てきたので、またこれを撃退した。天会四年、太原を攻略し、抜離速は管勾太原府路兵馬事となり、また婁室とともに文水で宋兵を破り、ついで宗翰に従って汴を包囲した。銀朮可とともに襄・鄧の地を攻略し、均州に入り、帰還して唐・蔡・陳の三州を攻め、ことごとくこれを破り、潁昌府を攻略した。ついで泰欲と馬五とともに揚州で宋の康王を襲撃し、康王は江を渡って建康に入った。
天会十五年、元帥左都監に遷った。宗弼が再び河南を平定し、撒離喝が陝西を経略し、涇州に至ったとき、抜離速は渭州で宋軍を大いに破り、渭州と徳順軍はともに降伏し、陝西は平定された。元帥左監軍に遷り、金吾衛上將軍を加えられ、卒し、諡して敏定といった。
習古乃。
習古乃は、また実古乃とも書かれる。かつて銀朮可とともに遼国に赴いて阿疏を迎えに行き、帰還して遼人が攻め取れる情勢を述べ、太祖は初めて遼を討つことを決意した。婆盧火が居庸関を取ると、蕭妃は古北口から出奔したので、太祖は習古乃を使わしてこれを追わせたが、追いつかなかった。後に臨潢府軍帥となり、迭刺を討伐して平定し、その群官が衆を率いて降伏した者については、そのまま諸部を統領させるよう請うた。太宗は空名の宣頭と銀牌を賜い、便宜をもってこれを授けさせた。遼の許王莎邏と駙馬都尉蕭乙辛を捕らえた。遼の梁王雅里が紇里水で自立していたが、果たしてどこにいるか知らなかったが、この時になって初めて知った。そこで、遼の降人を泰州に移そうとしたが、時は暑く移すことができなかったので、習古乃はしばらく嶺西に置くよう請うた。習古乃が契丹の周特城に新城を築くと、詔して会平州を置いた。
烏虎里部の人迪烈と劃沙が部族を率いて降伏したので、朝廷は撻僕野を本部節度使とし、烏虎を都監とした。習古乃は撻僕野らの宣誥を封をして返上し、便宜をもって撻僕野に散官を加え、空名の告身を填めてこれを授け、また降附して功労のある旧官八百九十三人を記録して上奏した。朝廷はこれに従った。そこで、迪烈に防禦使を加えて本部節度使とし、劃沙に諸司使を加えて節度副使とし、迪烈底部の事を知らせた。撻離答に左金吾衛上將軍を加えて節度副使とし、突鞠部の事を知らせた。阿枲に観察使を加えて本部節度使とした。その他は遷授に差等があった。厖葛城の地を分けて烏虎里と迪烈底の二部および契丹人に賜い、その未墾の地は力に任せて占拠開墾することを許した。
久しくして、鹹州の煙火事を領した。天会六年、完顔慎思の所部およびその他未だ猛安謀克を置いていない戸口について、習古乃に通覧して詳細な籍を作成して上奏するよう命じた。天会十年、南京路軍帥司を東南路都統司と改め、習古乃を都統とし、治所を東京に移し、高麗を鎮撫した。
賛して言う。金が疆土を開くにあたり、斡魯と斡魯古の方面の功績が最も先に顕著であり、婆盧火と婁室が最も先に封ぜられ、泰州の辺境、黄龍の要衝は、委ねられた任もまた重かった。闍母の南路における勤労、婁室の陝西における経営、銀朮可の太原における包囲守備は、その労苦もまた極まったものである。斡魯古の治績の悪さ、闍母の敗北に対して、譴罰が速やかであったので、諸将は恐れおののいた。弱小をもって強大を終に制することができたのは、その効果が現れたのであろうか。銀朮可と習古乃は人の国を観察してその討伐可能を知った。古語に「国に八観あり」というが、善いことである。