金史

列傳第十: 婁室 銀朮可 習古乃

列傳第十: 婁室 銀朮可 習古乃

列傳第十 ○婁室(子:活女、謀衍、仲(本名石古乃)、族子:海里) 銀朮可(子:彀英(本名撻懶)、母弟:麻吉(子:沃側)、弟:拔離速) 習古乃

婁室

原文婁室

婁室、字は斡里衍、完顔かんがん部の人なり。二十一歳の時、父白荅に代わりて七水諸部の長となった。太祖が甯江州を攻克した際、婁室に命じて系遼籍の女直じょちょくを招撫せしめ、遂に移燉益海路の太彎照撒等を降した。婆刺趕山において遼兵を破った。再び遼兵を破り、両将軍を生け捕りにした。やがて益改、捺末懶の両路ともに降伏した。進軍して鹹州を攻め、これを克した。諸部相次いで来降し、遼の北女直系籍の戸を獲得した。遼の都統耶律訛里朵が二十余万の兵を率いて辺境を守備しに来た。太祖は達魯古城に向かい、甯江州の西に駐屯し、婁室を召し寄せた。婁室は軍中において上(太祖)に謁見した。上は婁室の馬が多く疲弊しているのを見て、三百頭を与え、右翼の宗翰軍に隷属させ、銀朮可と共に兵を縦横に駆ってその中堅を衝かせた。凡そ九たび陣を陥とし、皆力戦して出でた。再び銀朮可と共に辺境を守備した。

原文婁室,字斡里衍,完顏部人。年二十一,代父白荅為七水諸部長。太祖克甯江州,使婁室招輸系遼籍女直,遂降移燉益海路太彎照撒等。敗遼兵於婆刺趕山。複敗遼兵,擒兩將軍。既而益改、捺末懶兩路皆降。進兵鹹州,克之。諸部相繼來降,獲遼北女直系籍之戶。遼都統耶律訛里朵以二十餘萬眾來戍邊。太祖趨達魯古城,次甯江州西,召婁室。婁室見上於軍中。上見婁室馬多疲乏,以三百給之,使隸右翼宗翰軍,與銀朮可縱兵沖其中堅,凡九陷陣,皆力戰而出。複與銀朮可戍邊。

九百奚営等の部が来降すると、婁室は銀朮可と共に黄龍府を攻め、上は完顔渾黜、婆盧火、石古乃に兵四千を率いてこれを助けさせ、白馬濼において遼兵一万余を破った。宗雄等が金山県を下すと、婁室に分兵二千を与え、沿山の逃散の人々を招撫させた。耶律捏里が軍を蒺藜山に置くと、斡魯古、婁室等がこれを破り、遂に顯州を取った。太祖が黄龍府を取ると、婁室は請うて言った、「黄龍は一つの都会であり、かつ僻遠の地である。もし変事あれば、隣郡が相扇いで起こるでしょう。どうか臣の率いる部衆をもって屯守させてください」。太祖はこれをよしとし、なお諸路の謀克ぼうこくを合わせ、婁室を万戸とし、黄龍府を守らせた。都統に進み、杲に従って中京を取り、希尹等と共に迪六、和尚、雅里斯等を襲撃して敗走させ、奚王霞末を破り、奚部の西陳度訛里刺を降した。遼主が鴛鴦濼より西走すると、婁室等は追撃して白水濼に至り、その内庫の宝物を獲得した。数えきれぬほどに闍母と共に西京を攻め破った。再び闍母と共に天徳、雲内、甯辺、東勝に至ると、その官吏は皆降伏し、阿疏を捕らえた。

原文及九百奚營等部來降,則與銀朮可攻黃龍府,上使完顏渾黜、婆盧火、石古乃以兵四千助之,敗遼兵萬余于白馬濼。宗雄等下金山縣,使婁室分兵二千,招沿山逃散之人。耶律捏里軍蒺藜山,斡魯古、婁室等破之,遂取顯州。太祖取黃龍府,婁室請曰:「黃龍一都會,且僻遠,苟有變,則鄰郡相扇而起。請以所部屯守。」太祖然之,仍合諸路謀克,命婁室為萬戶,守黃龍府。進都統,從杲取中京,與希尹等襲走迪六、和尚、雅里斯等,敗奚王霞末,降奚部西陳度訛里刺。遼主自鴛鴦濼西走,婁室等追至白水濼,獲其內庫寶物。數字遂與闍母攻破西京。複與闍母至天德、雲內、甯邊、東勝,其官吏皆降,獲阿疏。

夏人が遼を救援し、兵を天徳に駐屯させた。婁室は突撚、補攧に騎兵二百を率いて斥候兵とさせたが、夏人に敗れ、ほとんど全滅した。阿士罕が再び二百騎を率いて往ったが、伏兵に遇い、ただ阿士罕のみが脱出して帰った。時に長雨が続き、諸将はしばらく休息しようとしたが、婁室は言った、「彼は再び我が騎兵を破った。我らがもし再び往かなければ、彼は我らを臆病と思い、すぐに攻めて来るだろう」。そこで千騎を選び、習失、拔離速と共に往った。斡魯はその言葉を壮とし、従った。婁室は夜明け前に陵野嶺を出で、拔離速に兵二百を留めて険要を占め守らせた。生け捕りにした者を尋ねると、その帥は李良輔であった。野谷に至らんとする時、高みに登ってこれを望見した。夏人は衆を恃んで整わず、ちょうど水を渡って陣を為そうとしていた。そこで人をやって斡魯に報告させた。婁室は軍を二つに分け、代わる代わる出で入り、進退転戦すること三十里。宜水を過ぎると、斡魯の軍もまた至り、合撃してこれを破った。

原文夏人救遼,兵次天德,婁室使突撚、補攧以騎二百為候兵,夏人敗之,幾盡。阿士罕複以二百騎往,遇伏兵,獨阿士罕脫歸。時久雨,諸將欲且休息,婁室曰:「彼再破吾騎兵,我若不復往,彼將以我怯,即來攻我矣。」乃選千騎,與習失、拔離速往。斡魯壯其言,從之。婁室遲明出陵野嶺,留拔離速以兵二百據險守之。獲生口問之,其帥李良輔也。將至野谷,登高望之。夏人恃眾而不整,方濟水為陣,乃使人報斡魯。婁室分軍為二,迭出迭入,進退轉戰三十里。過宜水,斡魯軍亦至,合擊敗之。

遼の都統大石が奉聖州を侵犯し、龍門の東二十五里に陣営を構えた。婁室、照里、馬和尚等が兵を率いてこれを取り、大石を生け捕りにし、その衆は遂に降伏した。遼の辟里刺が奉聖州を守っていたが、城を棄てて遁走した。後に宗望と共に遼帝を追撃し、婁室、蒲宗が二十騎で敵情を偵察し、三山においてその軍三千人を破った。千人の将兵が奉聖州に向かおうとしたが、蒲察ほさつが再びこれを破り、その主帥を生け捕りにして還った。夏人が可敦館に兵を屯させたので、宗翰は婁室を遣わして朔州を守備させ、霸徳山西南二十里に城を築かせた。遂に朔州西山の兵二万を破り、その帥趙公直を生け捕りにした。その後、再び余都谷において遼帝を襲撃し、これを捕らえた。鉄券を賜わり、死罪のみはこれを鞭打つも、その他の罪は問わなかった。

原文遼都統大石犯奉聖州,壁龍門東二十五里,婁室、照里、馬和尚等以兵取之,生獲大石,其眾遂降。遼辟里刺守奉聖州,棄城遁去。後與宗望追遼帝,婁室,蒲宗以二十騎候敵,敗其軍三千人於三山,有千人將趨奉聖州,蒲察複敗之,擒其主帥而還。夏人屯兵於可敦館,宗翰遣婁室戍朔州,築城於霸德山西南二十里,遂破朔州西山兵二萬,擒其帥趙公直。其後複襲遼帝于余都谷,獲之。賜鐵券,惟死罪乃笞之,餘罪不問。

銀朮可が太原を包囲した時、宋の統制劉臻が太原を救援し、衆十万を率いて寿陽より出でた。婁室がこれを撃破し、続いて榆次において宋兵数千を破った。宋の張灝が軍を汾州より出したので、拔離速がこれを撃退した。灝が再び文水に営を構えると、婁室は突葛速、拔離速と共に戦い、灝は大敗した。宗翰が太原を平定すると、婁室は汾、石の二州及びその属県たる温泉、方山、離石を取り、蒲察が寿陽を降し、平定軍及び楽平を取り、再び遼州及び榆社、遼山、和順の諸県を招降した。宗翰が汴州に向かうと、婁室等に平陽道より先に河南に向かわせ、言った、「もし澤州に至り、賽里、婆盧火、習失と遇えば、必ず彼らと共に進め」。習失の前軍三謀克が襄垣において宋兵三千を破り、伏兵二千に遇い、またこれを破った。撒刺荅が天井関を破り、再び孔子廟の南において歩兵を破り、遂に河陽を降した。婁室の軍が至り、既に河を渡ると、遂に西京に迫った。城中の兵が来て拒戦したので、習失が迎撃してこれを破り、西京は降伏した。婁室は偃師を取り、永安軍、鞏県は降った。撒刺荅が汜水において宋兵を破った。ここにおいて、滎陽、滎沢、鄭州、中牟が相次いで皆降った。宗翰は既に宗望と汴において会軍し、婁室に師を率いて陝津に向かわせ、未だ下らざる河東の郡県を攻めさせた。阿離士罕が河上において敵を破り、撒按が陝城下において敵を破り、鶻沙虎が虢州の城壁を守る卒三百人を降し、遂に陝府を克した。習古乃、桑袞が平陸の西北において陝の散卒を破った。活女が別に平陸において敵を破った。婁室が蒲、解の軍二万を破り、これをことごとく覆滅し、安邑、解州は皆降り、遂に河中府を克し、絳、慈、隰、石等の州を降した。

原文銀朮可圍太原,宋統制劉臻救太原,率眾十萬出壽陽,婁室擊破之,繼敗宋兵數千於榆次。宋張灝軍出汾州,拔離速擊走之。灝複營文水,數室也突葛速、拔離速與戰,灝大敗。宗翰定太原,婁室取汾、石二州,及其屬縣溫泉、方山、離石,蒲察降壽陽,取平定軍及樂平,複招降遼州及榆社、遼山、和順諸縣。宗翰趨汴州,使婁室等自平陽道先趨河南,曰:「若至澤州,與賽里、婆盧火、習失遇,當與俱進。」習失之前軍三謀克,敗宋兵三千於襄垣,遇伏兵二千,又敗之。撒刺荅破天井關,複破步兵于孔子廟南,遂降河陽。婁室軍至,既渡河,遂薄西京。城中兵來拒戰,習失逆擊敗之,西京降。婁室取偃師,永安軍、鞏縣降。撒刺荅敗宋兵于汜水。於是,滎陽、滎澤、鄭州、中牟相次皆降。宗翰已與宗望會軍於汴,使婁室率師趨陝津,攻河東郡縣之未下者。阿離士罕敗敵於河上,撒按敗敵於陝城下,鶻沙虎降虢州守陴卒三百人,遂克陝府。習古乃、桑袞破陝之散卒于平陸西北。活女別破敵于平陸。婁室破蒲、解之軍二萬,盡覆之,安邑、解州皆降,遂克河中府,降絳、慈、隰、石等州。

宗翰は洛陽に向かい、婁室に陝西を取らせ、宋の将範致虛の軍を破り、同州・華州の二州を下し、京兆府を克し、宋の制置使傅亮を捕らえ、ついに鳳翔を克した。阿鄰らは河中において宋の大軍を破り、斡魯は馮翊において宋の劉光烈の軍を破り、訛特刺・桑袞は渭水において敵を破り、ついに下邽を下した。宗翰は京輔で康王を討つべく会し、婁室・蒲察に専ら陝西の事を任せ、婆盧火・繩果に戦闘を監督させた。繩果らは蒲城及び同州において敵に遭遇し、いずれもこれを破った。婁室・蒲察は丹州を克し、臨真を破り、進んで延安府を克し、ついに綏徳軍及び静辺・懐遠などの城寨十六を降し、さらに青澗城を破った。宋の安撫使折可求は麟・府・豊の三州及び堡寨九を以て、婁室に降った。晋寧の管轄する九寨は皆降り、しかし晋寧軍は久しく下らず、婁室は去ろうとしたが、賽里は不可として言うには、「これは夏と隣接しており、かつ他変を生ずるであろう。」城中に井戸がなく、日々河水を取って飲料としていたので、東に渠を決してその水を泄らし、城中はついに困窮した。李位・石乙が郭門を開いて降り、諸将は兵を率いて城に入った。守将徐徽言は子城に拠り、三日戦って衆は潰え、徽言は出奔したが、これを捕らえた。拝礼させようとしたが聴かず、兵を以て臨んでも動じず、軍中に拘束した。先に降った者に諭して降らせようとしたが、徽言は大罵し、統制の孫昂とともに皆屈せず、ついに併せてこれを殺した。ついに定安堡・渭平寨及び鄜州・坊州の二州を降した。ここにおいて、婁室・婆盧火は延安を守り、折可求は綏徳に屯し、蒲察は還って蒲州を守った。延安・鄜州・坊州は皆残破し、人民の存する者は僅かであり、婁室は官府を置いてこれを安輯した。別将の斡論は建昌軍を降した。京兆府が叛いたので、婁室は再び討ってこれを平定した。ついに阿盧補・謀里也とともに三原に至り、訛哥金・阿骨欲は淳化の兵を撃ち、これを破った。婁室は乾州を攻め、すでに甬道を築き、鹈駁具を列ねたが、州は降った。ついに進兵して邠州を克し、京兆に軍した。

原文宗翰往洛陽,使婁室取陝西,敗宋將範致虛軍,下同、華二州,克京兆府,獲宋制置使傅亮,遂克鳳翔。阿鄰等破宋大兵於河中,斡魯破宋劉光烈軍于馮翊,訛特刺、桑袞敗敵于渭水,遂取下邽。宗翰會京輔伐康王,命婁室、蒲察專事陝西,以婆盧火、繩果監戰。繩果等遇敵于蒲城及同州,皆破之。婁室、蒲察克丹州,破臨真,進克延安府,遂降綏德軍及靜邊、懷遠等城寨十六,複破青澗城。宋安撫使折可求以麟、府、豐三州,及堡寨九,降于婁室。晉寧所部九寨皆降,而晉寧軍久不下,婁室欲去之,賽里不可,曰:「此與夏鄰,且生他變。」城中無井,日取河水以為飲,乃決渠於東,泄其水,城中遂困。李位、石乙啟郭門降,諸將率兵入城。守將徐徽言據子城,戰三日,眾潰,徽言出奔,獲之。使之拜,不聽,臨之以兵,不為動,縶之軍中。使先降者諭之使降,徽言大罵,與統制孫昂皆不屈,乃並殺之。遂降定安堡、渭平寨及鄜、坊二州。於是,婁室、婆盧火守延安,折可求屯綏德,蒲察還守蒲州。延安、鄜、坊州皆殘破,人民存者無幾,婁室置官府輯安之。別將斡論降建昌軍。京兆府叛,婁室複討平之。遂與阿盧補、謀里也至三原,訛哥金、阿骨欲擊淳化兵,敗之。婁室攻乾州,已築甬道,列鹈駁具,而州降。遂進兵克邠州,軍於京兆。

陝西の城邑で既に降定したものが、しばしば再び叛いたので、ここにおいて睿宗は右副元帥として、陝西征伐を総べた。時に婁室は既に病を患っており、睿宗は張浚と富平で戦い、宗弼の左翼軍は既に退いたが、婁室は右翼で力戦し、軍勢は再び振るい、張浚軍はついに敗れた。睿宗は言うには、「病を押して激戦し、以て王事に殉じ、ついに巨敵を破った。古の名将といえども何を以てかこれに加えようか。」用いた犀玉金銀の器及び甲冑、併せて馬七匹をこれに与えた。

原文陝西城邑已降定者,輒複叛,於是睿宗以右副元帥,總陝西征伐。時婁室已有疾,睿宗與張浚戰于富平,宗弼左翼軍已卻,婁室以右翼力戰,軍勢複振,張浚軍遂敗。睿宗曰:「力疾鏖戰,以徇王事,遂破巨敵,雖古名將何以加也。」以所用犀玉金銀器,及甲胄,並馬七匹與之。

天会八年、薨去した。十三年、泰寧軍節度使を贈られ、侍中を兼ね、太子太師を加えられた。皇統元年、開府儀同三司を贈られ、莘王を追封された。正隆の例に以て改めて金源郡王を贈られ、太宗廟廷に配享され、諡して壮義といった。子に活女・謀衍・石古乃がいる。

原文天會八年,薨。十三年,贈泰甯軍節度使,兼侍中,加太子太師。皇統元年,贈開府儀同三司,追封莘王。以正隆例改贈金源郡王,配享太宗廟廷,諡壯義。子活女、謀衍、石古乃。

子 活女

原文子 活女

活女は、十七歳で甯江州攻めに従い、力戦して傷甚だしく、陣間から扶け出された。太祖は高みに憑って望見し、これを問うて、婁室の子であると知り、親しく撫慰して薬を賜い、歎じて言うには、「この児は他日に必ず名将とならん。」その済州攻めにおいて、敵八千を破った。信州において敵と遭遇し、移刺本が陣中に陥ったが、活女は力戦してこれを救い出し、敵はついに敗走した。瀋州において耶律佛頂らの兵を破った。また宗翰が兵を以て奚王霞末を襲った時、活女は兵三百を以て、敵二千を破った。乙室部攻めに従い、これを破り、その二営を破った。迭刺部族が叛いたので、二謀克を率いて突入し、これを大破した。

原文活女,年十七從攻甯江州,力戰創甚,扶出陣間。太祖憑高望見,問之,知是婁室子,親撫慰賜藥,歎曰:「此兒他日必為名將。」其攻濟州,敗敵八千。與敵遇於信州,移刺本陷於陣,活女力戰出之,敵遂北。敗耶律佛頂等兵於瀋州。及宗翰以兵襲奚王霞末,活女以兵三百,敗敵二千。從攻乙室部,敗之,破其二營。迭刺部族叛,率二謀克突入,大破之。

活女は常に婁室に従って太原を囲み、宋の将种師中が兵十万を以て来援したが、活女はこれを撃破した。大軍は河に至ったが、船がなく、渡ることができなかった。婁室は活女に水の上下を循わせた。活女は軍三百を率い、孟津から下り、渡ることができると測り、ついに軍を引いて渡河し、大軍はここにおいて皆これに続いた。宋の将郭京が兵数万を出して、婁室の営に趨ったが、活女は傍らから奮撃し、敵は乱れ、ついにこれを破った。師が還る時、平陸渡において敵を破り、その船を得て渡河した。また兵を以て張店原において敵を破った。時に屯留・太平・翼城には皆重敵がおり、併せてこれを破った。また兵を分けて陝西を取らせ、蒲州は降り、活女を留めてこれを鎮守させた。鳳翔を攻め、活女は先登した。睿宗が陝西を定めた時、活女は都統となり、進んで涇州を攻め、その兵を破った。王開山が兵を以て帰路を拒み、邀撃して戦ったが、再び撃ち、再びこれを破り、ついに京兆・鳳翔の諸県を降した。

原文活女常從婁室圍太原,宋將种師中以兵十萬來援,活女擊敗之。大軍至河,無船,不得渡。婁室遣活女循水上下,活女率軍三百,自孟津而下,度其可渡,遂引軍以濟,大軍於是皆繼之。宋將郭京出兵數萬,趨婁室營,活女從旁奮擊,敵亂,遂破之。師還,破敵于平陸渡,得其船以濟。又以兵破敵于張店原。時屯留、太平、翼城皆有重敵,並破之。又分兵取陝西,蒲州降,留活女鎮之。攻鳳翔,活女先登。睿宗定陝西,活女為都統,進攻涇州,敗其兵。王開山以兵拒歸路,邀戰,再擊,再敗之,遂降京兆、鳳翔諸縣。

婁室が薨じると、合紮猛安もうあんを襲い、代わって黄龍府路万戸となった。天眷二年、元帥右都監となり、左監軍に遷った。元帥府が罷められると、安化軍節度使に改まった。京兆尹を歴任し、広平郡王に封ぜられ、正隆の例に以て代国公に改封され、隋国公に進封され、諡して貞済といった。卒年六十一。

原文婁室薨,襲合紮猛安,代為黃龍府路萬戶。天眷二年,為元帥右都監,遷左監軍。元帥府罷,改安化軍節度使。曆京兆尹,封廣平郡王,以正隆例,改封代國公,進封隋國公,諡貞濟。卒年六十一。

子 謀衍

原文子 謀衍

謀衍は、勇力人に過ぎ、長矛を用いて突戦することを善くした。天眷年間、牌印祗候を充てられ、顕武将軍を授けられ、符宝郎に抜擢された。皇統四年、その兄活女が済州路万戸を襲ったが、親管の奥吉猛安を謀衍に譲り、朝廷はこれに従い、権済州路万戸とした。八年、元右都監となった。天徳三年、順天軍節度使となり、河間・臨潢の尹を歴任し、数月にして婆速路兵馬都総管に改まった。

原文謀衍,勇力過人,善用長矛突戰。天眷間,充牌印祗候,授顯武將軍,擢符寶郎。皇統四年,其兄活女襲濟州路萬戶,以親管奧吉猛安讓謀衍,朝廷從之,權濟州路萬戶。八年,為元右都監。天德三年,為順天軍節度使,曆河間、臨潢尹,數月改婆速路兵馬都總管。

撒八が反すると、謀衍はこれを討ちに往った。この時世宗は東京留守として、自ら将いて括里を討ち還り、常安県において謀衍に遇い、甲士こうしを尽くしてこれを付与した。世宗は東京に還り、完顔福寿・高忠建は率いる所の南征軍を率い、亡帰して東京に至った。謀衍もまたその軍を率いて来附し、即ち臣礼を以て上謁し、ついに高存福・李彦隆らを殺した。謀衍・福寿・忠建及び諸将吏民は進むことを勧め、世宗が即位すると、右副元帥に拝された。都統の白彦敬、副統の紇石烈志寧は北京におり、命を受けることを拒んだので、謀衍はこれを伐ち、その衆と建州の境において遇ったが、皆戦おうとせず、彦敬・志寧はついに降った。

原文撒八反,謀衍往討之,是時世宗為東京留守,自將討括里還,遇謀衍于常安縣,盡以甲士付之。世宗還東京,完顏福壽、高忠建率所部南征軍,亡歸東京。謀衍亦率其軍來附,即以臣禮上謁,遂殺高存福、李彥隆等。謀衍、福壽、忠建及諸將吏民勸進,世宗即位,拜右副元帥。都統白彥敬,副統紇石烈志寧在北京,拒不受命,謀衍伐之,遇其眾於建州之境,皆不肯戰,彥敬、志寧遂降。

二年正月、謀衍は諸軍を率いて窩斡を討ち、済州において兵を会し、甲士一万三千人を合わせ、泰州を過ぎ、術虎崖に至り、ここにおいて輜重しちょうを捨て、数日の糧を持ち、軽騎でこれを追った。この時窩斡は泰州において新たに敗れ、済州に走らんとしていた。謀衍の兵は長濼の南に至り、その諜者を捕らえ、敵が別路より糧運を邀えんとすることを知り、ついに軍を分けてこれを迎えに往かせた。敵の吏者が来降し、謀衍はその計を用い、因って夜に急ぎ往って敵の輜重を邀えんとしたが、忽ち大風が起こり、燧火することができず、路は暗く互いに弁ずることができず、暁に及んでようやく三十余里を行った。敵営に将せんとする時、将士は少し休んだ。謀衍は善射の者数十騎を率い、往ってこれを覗った。しかし都統の志寧・克寧らは、既に長濼において敵衆二万余を破り、追撃して殺すこと甚だ多く、敵はついに西に遁走した。志寧軍は先に霿{箣松}河において追い及び、急撃してこれを破った。しかし謀衍は鹵掠を貪り、再び追わず、以て故に敵は縦たれて去ることができ、ついに懿州界に渉り、霊山・同昌・惠和などの県を陥し、北京を窺い取り、西に三韓県を破った。ただ克寧軍のみが追躡し、謀衍は馬が弱いことを托して、引き還って懿州に至った。上はこれを聞き、詔を下して謀衍を切責し、僕散忠義を右副元帥としてこれに代え、紇石烈志寧を右監軍として完顔福寿に代えた。そして謀衍の子斜哥が軍中で暴横したので、詔して本貫に帰らしめた。

原文二年正月,謀衍率諸軍討窩斡,會兵於濟州,合甲士萬三千人,過泰州,至術虎崖,乃舍輜重,持數日糧,輕騎追之。是時窩斡新敗於泰州,將走濟州。謀衍兵至長濼南,獲其諜者,知敵將由別路邀糧運,遂分軍往迎之。敵吏者來降,謀衍用其計,因夜亟往邀敵輜重,忽大風,不能燧火,路暗莫相辨,比曉才行三十餘里。將至敵營,將士少憩,謀衍率善射者數十騎,往覘之。而都統志甯、克寧等,已敗敵眾二萬餘於長濼,追殺甚眾,敵遂西遁。志甯軍先追及於霿{箣松}河,急擊敗之。而謀衍貪鹵掠,不復追,以故敵得縱去,遂涉懿州界,陷靈山、同昌、惠和等縣,窺取北京,西敗三韓縣。惟克寧軍追躡,謀衍托馬弱,引還懿州。上聞之,下詔切責謀衍,以僕散忠義為右副元帥代之,紇石烈志寧為右監軍代完顏福壽。而謀衍子斜哥暴橫軍中,詔勒歸本貫。

謀衍が京師に至ると、同判大宗正事に任ぜられた。世宗は彼を責めて言った、「朕は汝を将と為さんとしたが、汝は賊を追わず、汝の罪を正すべきであった。汝の父婁室が大功あるを以て、特に汝の死を免ずる。汝は宗室に非ざれども、この職を授く、汝はこれを勉めよ。」間もなく、速頻路の軍士朮里古が、斜哥が謀衍に謀反を謀る書を寄せしと告げ、有司は併せてその書を上った。世宗はその誣告なるを察し、告者を鞫問することを詔し、朮里古は自ら伏したので、遂にこれを誅した。謀衍を召してこれに謂いて言った、「人が汝の子が反謀を為すと告げたが、朕は汝が必ずこれを為さざるを知った。今、告者が果たして自ら服罪した。宜しくこの意を悉くせよ。」

原文謀衍至京師,以為同判大宗正事,世宗責之曰:「朕以汝為將,汝不追賊,當正汝罪。以汝父婁室有大功,特免汝死。汝雖非宗室,而授此職,汝其勉之。」未幾,速頻路軍士朮里古,告斜哥寄書與謀衍謀反,有司並上其書,世宗察其誣,詔鞫告者,朮里古款伏,遂誅之。召謀衍謂之曰:「人有告卿子為反謀者,朕知卿必不為此,今告者果自服罪,宜悉此意。」

初め、窩斡が盛んな時、上は溫蒂罕阿魯帶を使わして、古北口を守らせた。窩斡が陷泉で敗れ、奚の中に入り、諸奚を率いて古北口を攻めた時、阿魯帶はその妻の生日に因り、輒ち軍を離れて六十里に至り、賊衆はこれを聞き、来襲して士卒を殺傷すること甚だ衆かった。阿魯帶はこれに坐して除名された。詔して謀衍、蒲察烏里雅、蒲察通に兵三千を以て、旧屯兵と会し、これを撃たしめた。賊党の猛安合住を擒えた。間もなく、窩斡が平定され、乃ち還った。

原文初,窩斡方熾,上使溫蒂罕阿魯帶,守古北口。及窩斡敗於陷泉,入于奚中,率諸奚攻古北口。阿魯帶因其妻生日,輒離軍六十里,賊眾聞之,來襲,殺傷士卒甚眾。阿魯帶坐除名。詔謀衍,蒲察烏里雅、蒲察通以兵三千,會舊屯兵,擊之。擒賊党猛安合住。未幾,窩斡平,乃還。

七年、出でて北京留守と為り、上は便殿に御し、食を賜い、及び御服の衣帯佩刀を賜い、これに謂って言った、「卿が故老なるを以て、労逸を均しくせんと欲し、故にこの職を授く。卿はこれを勉めよ。」東京留守に改め、栄国公に封ぜられた。大定十一年、薨じ、年六十四。

原文七年,出為北京留守,上禦便殿,賜食,及禦服衣帶佩刀,謂之曰:「以卿故老,欲以均勞逸,故授此職,卿其勉之。」改東京留守,封榮國公。大定十一年,薨,年六十四。

謀衍は性質忠厚にして、球を撃ち猟を射ることを善くし、時の論は以て、智略はその父に及ばざれども、勇敢はこれに似たりと云う。

原文謀衍性忠厚,善擊球射獵,時論以為雖智略不及其父,而勇敢肖之雲。

子に仲あり。

原文子 仲

仲は、本名を石古乃という。体貌魁偉にして、女直・契丹・漢字に通じた。その兄の斡魯が統軍であった時、仲の才を愛し、吏事を通ぜしめんと欲し、事を視る毎に、常に左右に在らしめ、事に遇うや輒ちこれを問うと、応対響くが如く、斡魯は歎じて言った、「この子必ず令器と為らん。」皇統初年、護衛に充てられ、世襲謀克を授かった。天徳元年、その兄の活女の済州万戸を摂行し、部内に治まりと称された。濱州刺史を除され、母憂のため官を去った。起復して積石軍事を知り、転じて同知河南尹と為った。

原文仲,本名石古乃。體貌魁偉,通女直、契丹、漢字。其兄斡魯為統軍,愛仲才,欲使通吏事,每視事,常在左右,遇事輒問之,應對如響,斡魯歎曰:「此子必為令器。」皇統初,充護衛,授世襲謀克。天德元年,攝其兄活女濟州萬戶,部內稱治。除濱州刺史,以母憂去官。起複知積石軍事,轉同知河南尹。

正隆六年、宋を伐つに当たり、神勇軍副都総管と為った。大軍と共に北還し、同知大興尹を除され、兵二千を将いて遵化の屯軍を益し、契丹に備えた。西南路招討使に遷り、天徳軍節度使を兼ね、政は忠信を尚び、獄を決するに公平にして、蕃部敢えて辺を寇すこと無し。召されて左副都点検と為り、宿衛は厳謹にして、事毎に規矩あり、後来の者はその法を守り、易うること能わざりき。世宗は常に侍臣に謂って言った、「石古乃が入直すれば、朕の寝は益々安し。」

原文正隆六年,伐宋,為神勇軍副都總管。與大軍北還,除同知大興尹,將兵二千,益遵化屯軍。備契丹。遷西南路招討使,兼天德軍節度使,政尚忠信,決獄公平,蕃部不敢寇邊。召為左副都點檢,宿衛嚴謹,每事有規矩,後來者守其法,莫能易也。世宗常謂侍臣曰:「石古乃入直,朕寢益安。」

五年、宋人が和を請い、侄国と為り、臣と称せず、仲は報問使と為った。仲は宋主と相見ゆる礼儀を請うと、世宗は言った、「宋主親しく起立して書を接すれば、則ちこれを授けよ。」宋に至ると、一一礼の如くであった。正隆の兵を用いた時、宋人が商州刺史完顔守能を執いて帰したが、この時に至り、仲は守能を取って俱に還りしを、上はこれを嘉した。都点検に転じ、侍衛親軍都指揮使を兼ね、河南路統軍使に遷った。上は言った、「卿は禁近に在りて、小心畏慎たり。河南は江・淮を控制し、国の重地と為る。卿は益々これを勉めよ。」廄馬・金帯・玉吐鶻を賜う。後に罪有りて、職を解かれた。久しくして、起用されて西北路招討使と為り、北京留守に改め、卒した。

原文五年,宋人請和,為侄國,不稱臣,仲為報問使。仲請與宋主相見禮儀,世宗曰:「宋主親起立接書,則授之。」及至宋,一一如禮。正隆用兵,宋人執商州刺史完顏守能以歸,至是,仲取守能與俱還,上嘉之。轉都點檢,兼侍衛親軍都指揮使,遷河南路統軍使,上曰:「卿在禁近,小心畏慎。河南控制江、淮,為國重地,卿益勉之。」賜廄馬、金帶、玉吐鶻。後有罪,解職。久之,起為西北路招討使,改北京留守,卒。

族子に海里あり。

原文族子 海里

海里は、婁室の族子である。体貌豊偉にして、槊を用いることを善くした。婁室が黄龍府万戸であった時、海里は徙って孰吉訛母に従った。婁室に従って朔州阿敦山において遼主に追い及び、遼主は数十騎を従えて逸去した。婁室は海里及び朮得を遣わし、往って遼主を見、これを諭して降らしめんとした。遼主は已に窮蹙し、阿敦山の東に待っていたので、婁室は因ってこれを獲た。海里に金五十両・銀五百両・幣帛二百匹・綿三百両を賞した。睿宗が陝西を経略した時、海里は涇・邠の南において呉玠の軍を戦い卻け、尋ち棧道を修めしめると、宋人は棧道の成るを恐れ、兵を以て来拒したが、その兵を破り、銀百五十両・奴婢十人を賞した。

原文海里,婁室族子。體貌豐偉,善用槊。婁室為黃龍府萬戶,海里從徙于孰吉訛母。從婁室追及遼主于朔州阿敦山,遼主從數十騎逸去,婁室遣海里及朮得,往見遼主,諭之使降。遼主已窮蹙,待于阿敦山之東,婁室因獲之,賞海里金五十兩、銀五百兩、幣帛二百匹、綿三百兩。睿宗經略陝西,海里戰卻吳玠軍於涇、邠之南,尋遣修棧道,宋人恐棧道成,以兵來拒,破其兵,賞銀百五十兩、奴婢十人。

天眷元年、宿直将軍に擢でられた。宗磐・宗雋の乱を定めるに与り、再び広威将軍に遷り、都水使者を除された。西北路招討都監に改め、複州刺史・灤州刺史を歴任した。耶盧椀群牧使、迭刺部族節度使、同知大興尹・兼中都路兵馬都総管、武寧軍節度使、広寧尹に改め、卒し、年六十二。

原文天眷元年,擢宿直將軍。與定宗磐、宗雋之亂,再遷廣威將軍,除都水使者。改西北路招討都監,曆複州、灤州刺史。耶盧椀群牧使,迭刺部族節度使,同知大興尹、兼中都路兵馬都總管,改武甯軍節度使,廣甯尹。卒,年六十二。

銀朮可

原文銀朮可

銀朮可は、宗室の子である。太祖が位を嗣ぐと、蒲家奴ほかどを使わして遼に如き阿疏を取らしめたが、事久しく決せず、乃ち習古乃・銀朮可を継いで往かしめた。当時、遼主は政に荒み、上下解体していた。銀朮可等は還り、具に遼の政事人情を太祖に告げ、且つ遼国が伐つべき状を言った。太祖が遼を伐つ決意をしたのは、蓋し銀朮可等よりこれを発したのである。

原文銀朮可,宗室子。太祖嗣位,使蒲家奴如遼取阿疏,事久不決,乃使習古乃、銀朮可繼往。當是時,遼主荒於政,上下解體。銀朮可等還,具以遼政事人情告太祖,且言遼國可伐之狀。太祖決意伐遼,蓋自銀朮可等發之。

太祖が耶律訛里朵と達魯古城において戦うと、遼兵二十余万、銀朮可・婁室は衆を率いてその中堅を沖き、凡そ九たび陣を陷れ、輒ち戦いて出で、大いに遼軍を敗った。銀朮可は謀克と為り、遂に婁室と共に辺を戍り、また婁室・渾黜・婆盧火・石古乃等と共に黄龍府を攻め、白馬濼において遼兵万余を敗った。太祖が遼兵を拒ぐと、銀朮可は達魯古城を守った。収国二年、鴨撻・阿懶の遷せし謀克二千戸を分ち、銀朮可を以て謀克と為し、甯江州に屯せしめた。

原文太祖與耶律訛里朵戰于達魯古城,遼兵二十余萬,銀朮可、婁室率眾沖其中堅,凡九陷陣,輒戰而出,大敗遼軍。銀朮可為謀克,遂與婁室戍邊,複與婁室、渾黜、婆盧火、石古乃等攻黃龍府,敗遼兵萬余于白馬濼。太祖拒遼兵,銀朮可守達魯古城。收國二年,分鴨撻、阿懶所遷謀克二千戶,以銀朮可為謀克,屯甯江州。

遼の大冊使習泥烈を遣り返すに当たり、七月半に至るを約したが、九月尽くしても習泥烈来たらず、上は諸軍に江を過ぎて屯駐せしめた。遼の曳刺・麻答十三人、兵士八人が渾河において火を放ち、芻牧を絶たんとした。銀朮可がこれを獲たので、乃ち遼の辺吏乙薛のこれを使わしめたことを知り、太祖は命じてこれを釈放せしめた。都統杲に従って中京を克つと、銀朮可は習古乃・蒲察・胡巴魯と兵三千を率い、京西七十里において奚王霞末を撃ち、霞末は兵を棄てて遁れた。遼主は西に奔って天徳に向かうと、銀朮可は兵を以てその後を絶ち、遼主は遂に獲らるる所と為った。

原文遼大冊使習泥烈遣回,約以七月半至,而盡九月習泥烈未來,上使諸軍過江屯駐。遼曳刺、麻答十三人,兵士八人縱火於渾河,以絕芻牧。銀朮可獲之,乃知遼邊吏乙薛使之,太祖命釋之。從都統杲克中京,銀朮可與習古乃、蒲察、胡巴魯率兵三千,擊奚王霞末於京西七十里,霞未棄兵遁。遼主西奔天德,銀朮可以兵絕其後,遼主遂見獲。

その後、宗翰に従って宋を伐ち、太原を包囲し、宗翰が進軍して澤州に至り、また宗翰が西京に還る時、太原は未だ陥ちず、皆銀朮可に命じて兵を留めてこれを囲ませた。招討都監馬五が文水において宋兵を破る。節度使耿守忠らが西都穀において宋の黄迪の兵を破り、殺戮すること計り知れず。宋の樊夔・施詵・高豊らの軍が太原を救援せんと来たり、近隣の地に分拠す。銀朮可は習失・杯魯・完速らと共にこれを大破す。索里乙室、太谷において宋兵を破る。宋兵は太谷・祁県を占拠す。阿鶻懶・拔離速がこれを再び奪取す。种師中が井陘より出で、榆次を占拠し、太原を救援す。銀朮可は斡論を遣わしてこれを撃ち、その軍を破る。活女が師中を殺熊嶺に斬る。隆州穀において宋の制置使姚古の軍を攻撃し、これを大いに破る。撒里土が回馬口において宋軍を破り、郭企忠が五台において宋軍を殲滅す。宗翰が太原を平定するに及び、宗望と汴において会兵す。銀朮可らは汴城を攻め、これを陥す。師が還るに及び、銀朮可は岢嵐・寧化等の軍を降し、嵐州を攻めてこれを抜き、火山軍を招降す。希尹と共に鉄券を賜わる。

原文後從宗翰伐宋,圍太原,宗翰進兵至澤州,及宗翰還西京,太原未下,皆命銀朮可留兵圍之。招討都監馬五破宋兵于文水。節度使耿守忠等敗宋黃迪兵于西都穀,所殺不可勝計。宋樊夔、施詵、高豐等軍來救太原,分據近部,銀朮可與習失、杯魯、完速大破之。索里乙室,破宋兵於太谷。宋兵據太谷、祁縣,阿鶻懶、拔離速複取之。种師中出井陘,據榆次,救太原,銀朮可使斡論擊之,破其軍。活女斬師中于殺熊嶺,進攻宋制置使姚古軍于隆州穀,大敗之。撒里土敗宋軍于回馬口,郭企忠殲宋軍於五台。及宗翰定太原,與宗望會兵於汴,銀朮可等攻汴城,克之。師還,銀朮可降岢嵐、寧化等軍,攻嵐州拔之,招降火山軍。與希尹同賜鐵券。

宗翰は洛陽に向かい、賽里は汝州を取り、銀朮可は鄧州を取り、その将李操らを殺す。薩謀魯は襄陽に入り、拔離速は均州に入り、馬五は房州を取り、転運使劉吉・鄧州通判王彬を擒らえる。拔離速は唐・蔡・陳の三州を破り、潁昌府を克ち、沙古質別克は旧潁昌を克つ。

原文宗翰趨洛陽,賽里取汝州,銀朮可取鄧州,殺其將李操等。薩謀魯入襄陽,拔離速入均州,馬五取房州,擒轉運使劉吉、鄧州通判王彬。拔離速破唐、蔡、陳三州,克潁昌府,沙古質別克舊潁昌。

宗翰は康王を伐つべく会兵す。銀朮可は太原を守る。天会十年、燕京留守となる。天会十三年、致仕し、保大軍節度使を加えられ、同中書門下平章事となり、中書令に遷り、蜀王に封ぜられる。天眷三年、薨ず、年六十八。正隆の例により金源郡王を贈られ、太宗廟廷に配饗される。大定十五年、武襄と諡され、改めて太祖廟廷に配享される。子に彀英あり。

原文宗翰會伐康王,銀朮可守太原。天會十年,為燕京留守。天會十三年,致仕,加保大軍節度使,同中書門下平章事,遷中書令,封蜀王。天眷三年,薨,年六十八。以正隆例贈金源郡王,配饗太宗廟廷。大定十五年,諡武襄,改配享太祖廟廷,子彀英。

子 彀英

原文子 彀英

彀英、本名は撻懶。幼くして機敏にして志膽あり、初めて丱角の時、太祖これを見て奇とす。年十六、父銀朮可甲を授け、遼を伐つに従わしむ。常に先鋒となり、世襲謀克を授かる。

原文彀英,本名撻懶。幼警敏有志膽,初丱角,太祖見而奇之。年十六,父銀朮可授以甲,使從伐遼,常為先鋒,授世襲謀克。

宗翰が太原より西京に還る時、銀朮可はこれを囲んで守り、彀英は行間に在りて、屡々功あり。宋兵数万太原を救援し、南関に至る。銀朮可は弟拔離速・完顏婁室らとこれを撃つ。隘路の巷間に当たり、一卒が刀を揮って拔離速に向かう。彀英は刀を以てその手首を断つ。一卒また傍らより槍を以てこれを刺す。彀英はその槍を断ち、これを追い殺す。太原を抜き、河東諸州を下し、汴京を攻むるに、皆功あり。都統馬五と共に漢上を徇地し、上蔡に至り、先鋒として孔家軍を破る。睿宗が開州を攻むるに、彀英先登し、流矢その口に中る。睿宗親しくこれを視る。創未だ癒えず、強いてこれを起し、大名府を攻む。功を第すに、宗弼第一、彀英これに次ぐ。東平を攻むるに、彀英最も上となる。

原文宗翰自太原還西京,銀朮可圍守之,彀英在行間,屢有功。宋兵數萬救太原,至南關,銀朮可與弟拔離速、完顏婁室等擊之,當隘巷間,一卒揮刀向拔離速,彀英以刀斷其腕,一卒複從旁以槍刺之,彀英斷其槍,追殺之。拔太原,下河東諸州,攻汴京,皆有功。與都統馬五徇地漢上,至上蔡,以先鋒破孔家軍。睿宗攻開州,彀英先登,流矢中其口,睿宗親視之,創未愈,強起之,攻大名府。第功,宗弼第一,彀英次之。攻東平,彀英居最。

拔離速が揚州において宋の康王を襲うに、彀英は先鋒となる。拔離速が江南において宋の孟後を追うに、彀英は前行して潭州に向かう。宋の大兵は常武に在り。彀英は選兵を以てその城に迫り、千余人を敗る。明日、城中より兵を出して来戦す。彀英は五百騎を以てこれを破り、馬二百匹を獲、遂に常武を攻む。拔離速は諸軍を以て大陣と為し、その後に居る。彀英は五百騎を以て小陣と為し、前行に当たる。即ち兵を麾して宋軍に馳せ、宋軍乱れ、遂にこれを大破す。拔離速その周旋を見て、歎賞す。

原文拔離速襲宋康王於揚州,彀英為先鋒。拔離速追宋孟後於江南,彀英前行趨潭州。宋大兵在常武,彀英以選兵薄其城,敗千餘人。明日,城中出兵來戰,彀英以五百騎敗之,獲馬二百匹,遂攻常武。拔離速以諸軍為大陣,居其後,彀英以五百騎為小陣,當前行,即麾兵馳宋軍,宋軍亂,遂大敗之。拔離速觀其周旋,歎賞之。

その後、河東の郡県多く叛く。彀英は先鋒として絳州を攻め、これを克つ。また沁州を攻む。飛砲その石脅を撃ち、営中に帰る。諸軍沁州を攻め、三日下さず。別将骨赧が彀英を強いて起し、士卒を指麾せしむ。遂にこれを克つ。

原文其後河東郡縣多叛,彀英以先鋒攻絳州,克之。複攻沁州,飛砲擊其石脅,歸營中。諸軍攻沁州,三日不能下,別將骨赧強起彀英指麾士卒,遂克之。

河東路都統を摂し、左監軍移刺餘睹に従い西北諸部を招く。彀英は騎三千五百を将い、その九部を平らげ、生口三千、馬牛羊十五万を獲る。先鋒として宋の呉山軍を破り、再戦再勝す。遂に隘路において宋兵を恤み、死者計り知れず。宋兵遁去す。

原文攝河東路都統,從左監軍移刺餘睹招西北諸部。彀英將騎三千五百,平其九部,獲生口三千,馬牛羊十五萬。以先鋒破宋吳山軍,再戰再勝,遂恤宋兵于隘,死者不可勝計,宋兵遁去。

宗弼が再び和尚原を取るに、彀英は本部を以て宋の五万人を破り、遂に新叉口を奪う。宗弼は兵を留めてこれを守る。是の夜、大雪、道路皆氷る。和尚原の宋兵勢重くして径に取るべからず。宗弼は彀英の策を用い、傍近の高山の叢薄翳薈の間より入り、その不意に出で、遂に和尚原を取る。

原文宗弼再取和尚原,彀英以本部破宋五萬人,遂奪新叉口,宗弼留兵守之。是夜,大雪,道路皆冰,和尚原宋兵勢重不可徑取,宗弼用彀英微,入自傍近高山叢薄翳薈間,出其不意,遂取和尚原。

彀英は速やかに大散関に入ることを請う。自ら本部を以て殿と為し、伏兵に備う。宗弼が仙人関に至る。彀英先ずこれを攻む。宗弼これを止む。彀英止まず。宗弼は刀背を以てその兜鍪を撃ち、これを退かしむ。彀英曰く「敵気已に沮む。この機に乗じて取らざれば、後必ずこれを悔いん。」已にして果たして然り。宗弼歎じて曰く「既往は咎めず。」乃ち師を班す。彀英殿たり、且つ戦い且つ退き、遂に秦中に達す。

原文彀英請速入大散關,自以本部為殿,以備伏兵。宗弼至仙人關,彀英先攻之,宗弼止之,彀英不止,宗弼以刀背擊其兜鍪,使之退,彀英曰:「敵氣巳沮,不乘此而取之,後必悔之。」已而果然。宗弼歎曰:「既往不咎。」乃班師。彀英殿,且戰且卻,遂達秦中。

齊国初めて廃せらる。元帥右監軍撒離喝が馳驛して諸郡を撫治し、同州に至る。故齊の観察使李世輔出迎え、陽に馬より墜ちて臂を折ると称し、帰る。撒離喝城に入る。世輔は詐って通判をして甲を献ぜしめ、壮士十人に甲を被らせて上査事す。世輔は壁後より突出し、撒離喝を執る。彀英は外にて馬を索むるに方り、変起こるや倉卒、入ることを得ず。城門已に閉ざされ、皆兵衛あり。東門に至る。合荅雅が騎三十余を領し、彀英と遇う。遂に門者を斬って出づ。而して世輔は衆を擁して西門より出づ。彀英と合荅雅はこれを襲い、一進一退して世輔を綴り、速やかにせしめず。世輔は救兵の至るを慮り、乃ち撒離喝を要してこれと盟し、追わしむるなからしむ。撒離喝を道側に留む。彀英その声を識り、騎を以て帰る。安遠大将軍を除かれ、太原尹を摂す。四境ことごとく治まり、兼ねて河東南・北両路兵馬都総管を摂す。

原文齊國初廢,元帥右監軍撒離喝馳驛撫治諸郡,至同州,故齊觀察使李世輔出迎,陽墜馬稱折臂,歸。撒離喝入城,世輔詐使通判獻甲,以壯士十人,被甲上査事,世輔自壁後突出,執撒離喝。彀英方索馬於外,變起倉卒,不得入。城門已閉,皆有兵衛,至東門,合荅雅領騎三十餘,與彀英遇,遂斬門者出。而世輔擁眾自西門出,彀英與合荅雅襲之,一進一退以綴世輔,使不得速。世輔慮救兵至,乃要撒離喝與之盟,勿使追之。留撒離喝於道側,彀英識其聲,與騎而歸。除安遠大將軍,攝太原尹,四境鹹治,兼攝河東南、北兩路兵馬都總管。

朝廷は河南・陝西を宋に与う。已にしてまたこれを取る。師は耀州に至る。宋人は毎朝城を出で、旗を張り隊を閲し、暮れに及んで還る。道隘り、騎は逞うこと能わず。彀英は兵五百を請い、薄暮先ず五十人をして山巔に趨らしめ、これに令して曰く「旦日に敵の出づるを見て、幟を挙げてその向かう所を指せ。」乃ち余兵を山谷の間に伏せしむ。明日、城中の人出でて前に如く閲す。山巔に旗挙がる。伏兵発す。宋兵は争って馳せて城に入らんとす。彀英は軍を麾して城に登り、宋の幟を抜き、金軍の旗幟を立てる。宋兵の後るる者はこれを見て敢えて入らず、遂に降る。城中の人もまた降る。

原文朝廷以河南、陝西與宋,已而複取之,師至耀州。宋人每旦出城,張旗閱隊,抵暮而還。道隘,騎不得逞。彀英請兵五百,薄暮先使五十人趨山巔,令之曰:「旦日視敵出,舉幟指其所向。」乃以餘兵伏山谷間。明日,城中人出閱如前,山巔旗舉,伏兵發,宋兵爭馳入城。彀英麾軍登城,拔宋幟,立金軍旗幟。宋兵後者望見之不敢入,遂降,城中人亦降。

宋の呉玠が重兵を擁して涇州に拠り、涇原以西は多くこれに応じた。元帥撒離喝は京兆に退守し、河南・河東の軍を待たんと欲した。彀英曰く、「我らが退守すれば、呉玠は必ずや鳳翔・京兆・同州・華州を取って潼関に拠り、我らは生き残れないでしょう」と。撒離喝曰く、「計いはどうすべきか」と。彀英曰く、「事は危うい。速やかに戦うに如かず。我が軍は涇水の南原に陣し、宋兵は必ず西原より来るでしょう。彀英と斜補出は各々選りすぐりの騎兵五百をもってその両翼を摧き、元帥はその中央を撃たれるがよい。これで成功できます」と。監軍抜離速曰く、「二子(彀英・斜補出)がその左右を当たるなら、抜離速は願わくばその中央を当たりましょう。元帥は岡阜に拠り、多く旗幟を張って疑兵と為されば、成功できます」と。撒離喝はこれに従った。呉玠の兵は果たして西原より来たり、彀英・斜補出はその左右を撃ち、朝から正午まで戦い、呉玠の左右軍は少し退いた。抜離速がその前を当たって衝撃を加えると、遂に呉玠軍を破り、死体は枕を並べ、大澗も皆満ちた。ここより蜀人は気を喪い、敢えて再び出でず、関中・陝西は遂に平定された。

原文宋吳玠擁重兵據涇州,涇原以西多應之。元帥撒離喝欲退守京兆,俟河南、河東軍。彀英曰:「我退守,吳玠必取鳳翔、京兆、同、華,據潼關,吾屬無類矣。」撒離喝曰:「計將安出?」彀英曰:「事危矣,不如速戰。我軍陣涇之南原,宋兵必自西原來。彀英與斜補出各以選騎五百摧其兩翼,元帥當其中擊之,可以得志。」監軍拔離速曰:「二子當其左右,拔離速願當其中。元帥據岡阜,多張旗幟為疑兵,可以得志。」撒離喝從之。吳玠兵果自西原來,彀英、斜補出擊其左右,自旦至午,吳玠左右軍少退,拔離速當其前衝擊之,遂敗玠軍,僵屍枕藉,大澗皆滿。自此蜀人喪氣,不敢複出,關、陝遂定。

行台吏部工部侍郎を歴任し、宗弼に従って辺境を巡り、刑部尚書に遷り、元帥左都監に転じた。天徳二年、右監軍に遷る。元帥府が廃止されると、山西路統軍使に改められ、西南・西北両路招討兵馬を領したが、功無きを坐して臨海軍節度使に降格され、平陽・太原尹を歴任した。正隆末、中都留守となり、西北面都統を兼ね、契丹の撒八を討ち、帰化州に駐軍した。

原文曆行台吏部工部侍郎,從宗弼巡邊,遷刑部尚書,轉元帥左都監。天德二年,遷右監軍。元帥府罷,改山西路統軍使,領西南、西北兩路招討兵馬,坐無功,降臨海軍節度使,曆平陽、太原尹。正隆末,為中都留守,兼西北面都統,討契丹撒八,駐軍歸化州。

世宗が遼陽で即位すると、彀英の甥阿魯瓦を使いとして帰化州に詔を持たせて行かせ、彀英を左副元帥に任じ、就いて使者を遣わして陝西統軍徒単合喜を召し、大定と改元した詔と赦を西南・西北招討司、河東・河北・山東諸路州鎮に宣べさせ、猛安軍を京畿に屯させた。阿魯瓦が彀英に会うと、彀英は躊躇して決せず、士卒は皆世宗に帰することを欲した。彀英やむを得ず、乃ち詔を受けた。元帥の令をもって諸路に下し、急ぎ馬槽二万具を泥で作らせた。諸路はこれを聞き、大軍が将に至らんとすると思い、その後人を遣わして赦を宣べると、至る所皆命を聴いた。

原文世宗即位于遼陽悻使彀英侄阿魯瓦持詔往歸化,命彀英為左副元帥,就遣使召陝西統軍徒單合喜,宣大定改元詔、赦於西南、西北招討司,河東、河北、山東諸路州鎮,調猛安軍屯京畿。阿魯瓦見彀英,彀英猶豫未決,士卒皆欲歸世宗,彀英不得已,乃受詔。以元帥令下諸路,亟泥馬槽二萬具,諸路聞之,以為大軍且至,然後遣人宣赦,所至皆聽命。

大定元年十一月、彀英は軍を率いて中都に至ると、同知留守の璋が府に至って議事することを請うた。彀英は璋に謀りごとありと疑い、乃ち偽って承諾し、節仗を整えて将に行かんとする如くし、遂に騎従を率いて施仁門を出で、通州に兵を駐めた。三河において世宗に謁見した。詔して彀英に河南・陝西・山東の辺事を便宜に規画措置することを許した。二年正月、南京に至り、遂に汝州・潁州・嵩州等の州県を回復し、世襲猛安を授けられた。入朝して平章政事を拝し、罷められて東京留守となったが、未だ行かず、済南尹に改められた。

原文大定元年十一月,彀英以軍至中都,同知留守璋請至府議事。彀英疑璋有謀,乃陽許諾,排節仗若將往者,遂率騎從出施仁門,駐兵通州。見世宗於三河。詔彀英以便宜規措河南、陝西、山東邊事。二年正月,至南京,遂複汝、潁、嵩等州縣,授世襲猛安。入拜平章政事,罷為東京留守,未行,改濟南尹。

初め、彀英は宿将として功を恃み、南京において頗る貨を瀆し、軍民を恤れみなかった。詔使が辺事を問うたが、彀英は答えず、詔使に謂って曰く、「お前は何事を解するのか、我が闕に到って奏上するのを待て」と。及んで召し入られると、竟に一言も辺事に及ぶ者は無かった。相位にあって多く自ら専断し、己の欲する所は即ち自ら奏して行った。留守に除されると、忿忿として賓客に接せず、近臣が往くも亦見えなかった。上怒り、遂に済南に改めた。上その罪を数えて曰く、「朕は卿の父が国に大功あるを思い、卿も旧将として功ある故に、この職を改めて授ける。卿宜しく知るべし。若し復た悔い改めざれば、官爵を保たぬのみならず、身も亦保つことができぬであろう」と。彀英頓首して謝した。

原文初,彀英宿將恃功,在南京頗瀆貨,不恤軍民。詔使問以邊事,彀英不答,謂詔使曰:「爾解何事,待我到闕奏陳。」及召入,竟無一語及邊事者。在相位多自專,己所欲輒自奏行之。除留守,輒忿忿不接賓客,雖近臣往亦不見。上怒,遂改濟南。上數之曰:「朕念卿父有大功于國,卿舊將亦有功,故改授此職,卿宜知之。若複不悛,非但不保官爵,身亦不能保也。」彀英頓首謝。

久しくして、平陽尹に改められ、致仕した。起用されて西京留守となり、母の憂いにより官を去った。尋ねて本官のまま起復された。俄かに復た東京留守となり、上京留守を歴任し、詔して曰く、「上京は王業の起こる所であるが、風俗日々に詭薄に趨き、宗室聚居し、治め難しと号せられている。卿は元老大臣にして、衆の聴服する所、当に風俗を正し、宗室を検制し、大體を以て持すべし」と。十五年、致仕した。

原文久之,改平陽尹,致仕。起為西京留守,以母憂去官。尋以本官起複。俄複為東京,曆上京,詔曰:「上京王業所起,風俗日趨詭薄,宗室聚居,號為難治。卿元老大臣,眾所聽服,當正風俗,檢制宗室,持以大體。」十五年。致仕。

久しくして、史臣が『太宗実録』『睿宗実録』を上進すると、上曰く、「当時の旧人で親しく見た者は、惟だ彀英のみ在り」と。詔して修撰の温蒂罕締達を北京に遣わし、その家に就いてこれを問わせ、多く更定させた。

原文久之,史臣上《太宗》、《睿宗實錄》,上曰:「當時舊人親見者,惟彀英在。」詔修撰溫蒂罕締達往北京就其家問之,多更定焉。

十九年、薨去した。年七十四。最前後功により賞せられたる者は十有一度、金は両にて二百五十、銀は両にて六千五百、絹は疋にて八百、綿は両にて二千、馬三百十有四頭、牛羊六千五百頭、奴婢百三十人。

原文十九年,薨,年七十四。最前後以功被賞者十有一,金為兩二百五十,銀為兩六千五百,絹為疋八百,綿為兩二千,馬三百十有四,牛羊六千五百,奴婢百三十人。

同母弟 麻吉

原文母弟 麻吉

麻吉は、銀朮可の同母弟である。年十五、軍中に隷し、高麗兵を破り、甯江州を下し、系遼女直を平げ、黄龍府を克つに従い、皆身先して力戦し、功により謀克となり、継いで猛安を領した。奚兵千余を破った。斡魯古に従って鹹州・信州・瀋州及び東京諸城を攻め下すに、麻吉は皆功があった。都統杲が中京を取るに、稍合・胡拾答と別れて楚里迪部を降し、高州に屯兵した。兵を以て蒙刮勃堇を援け、大いに敵兵を破り、変じて恩州兵五万人を敗った。中京の山谷に聚まる遼人を討平し、三千余人を降した。高州の境上に戦い、伏せた矢が目に中り、遂に卒した。

原文麻吉,銀朮可之母弟也。年十五,隸軍中,從破高麗兵,下甯江州,平系遼女直,克黃龍府,皆身先力戰,以功為謀克,繼領猛安。破奚兵千餘。自斡魯古攻下鹹、信、瀋州及東京諸城,麻吉皆有功。都統杲取中京,與稍合、胡拾答別降楚里迪部,屯兵高州。以兵援蒙刮勃堇,大破敵兵,變敗恩州兵五萬人。討平遼人聚中京山谷者,降三千餘人。戰于高州境上,伏矢射之中目,遂卒。

麻吉は大小三十余戦し、至る所皆捷した。皇統中、銀青光禄大夫を追贈され、諡して毅敏と曰う。子に沃側。

原文麻吉大小三十余戰,所至皆捷。皇統中,贈銀青光祿大夫,諡毅敏。子沃側。

子 沃側

原文子 沃側

沃側は、年十七、軍中に隷し、抜離速に従って遼の将馬五を撃ち、これを敗った。麻吉の死後、その職を領した。宗望が宋を伐ち、河上に至る。宋兵は河の外に屯し、二舟をもって我が師を伺わんとした。乃ち沃側に勇士数輩を率いさせ、一舟をもってこれを迎えに行かせ、尽く俘虜として還った。江・淮の間にて康王を襲うに、沃側は皆これに与った。師還り、東平に駐った。及び齊が廃されると、河北に屯兵し、旁近の諸営を招降し、多く畜産兵仗を獲た。軍帥これを嘉し、甲馬を以て賞した。

原文沃側,年十七,隸軍中,從拔離速擊遼將馬五,敗之。麻吉死,領其職。宗望伐宋,至河上。宋兵屯於河外,以二舟來伺我師,乃遣沃側率勇士數輩,以一舟往迎之,盡俘以還。襲康王于江、淮間,沃側皆與焉。師還,駐東平。及廢齊,屯兵河北,招降旁近諸營,多獲畜產兵仗,軍帥嘉之,賞以甲馬。

後に陝西を攻め、右翼都統となり、城を攻め敵を破るに、皆功有りと与った。師還り、正しく謀克を授けられた。華州防禦使に遷る。関中が凶年に属し、盗賊充斥するに、沃側は兵を募り討平し、部内は事無く治まった。郡人が状を列ねて留まることを請うたが、報いられなかった。未だ幾ばくもなく、迪列部族節度使に除され、迭刺部に改められた。廉潔により都水使者に入り、秩満ちて、同知燕京留守事となり、西北路招討使となった。

原文後攻陝西,為右翼都統,攻城破敵,皆與有功。師還,正授謀克。遷華州防禦使,屬關中歲饑,盜賊充斥,沃側募兵討平之,部以無事。郡人列狀丐留,不報。未幾,除迪列部族節度使,改迭刺部。用廉入為都水使者,秩滿,同知燕京留守事,為西北路招討使。

撒八は秩満して已に数月、その俸祿を冒し、即時に解去せず、沃側はその事を発した。撒八が反すると、沃側は害に遇った。

原文撒八秩滿已數月,冒其俸祿,不即解去,沃側發其事。撒八反,沃側遇害。

弟の抜離速。

原文弟 拔離速

抜離速は、銀朮可の弟である。天輔六年、宗翰が北安州におり、斜也しゃやと奚王嶺で会おうとしたとき、遼兵が古北口に急に迫ったので、婆盧火と渾黜にそれぞれ二百の兵を率いさせてこれを撃たせた。渾黜が援軍を求めたので、宗翰は自ら行こうとしたが、希尹と婁室が言うには、「これは容易に対処できる者です。どうか千人をもってあなたのためにこれを打ち破らせてください」と。渾黜は騎兵三十人を率いて先に進み、古北口に至ると、その遊撃兵に出会い、これを追って山谷に入った。遼人は歩騎一万余りで追撃して戦い、騎兵五人を失い、渾黜は関口を占拠して退いた。希尹と婁室が到着すると、抜離速と訛謀罕と胡実海が先鋒を推し進めて奮戦し、これを大いに破り、斬首と捕虜は甚だ多く、甲冑と輜重をことごとく獲た。希尹は撒里古独と裴満突撚とともにその伏兵を破り、千余人を殺し、馬百余匹を獲た。婁室が夏人を陵野嶺に出て防ぎ、抜離速に兵二百を留めて、険しい地を占拠して守らせた。

原文拔離速,銀朮可弟。天輔六年,宗翰在北安州,將會斜也于奚王嶺,遼兵奄至古北口,使婆盧火、渾黜各領兵二百,擊之。渾黜請濟師,宗翰欲自往,希尹、婁室曰:「此易與耳,請以千人為公破之。」渾黜以騎士三十人前行,至古北口,遇其遊兵,逐入山谷,遼人以步騎萬余迫戰,亡騎五人,渾黜退據關口。希尹、婁室至,拔離速、訛謀罕、胡實海推鋒奮擊,大破之,斬馘甚眾,盡獲甲胄輜重。希尹與撒里古獨、裴滿突撚敗其伏兵,殺千餘人,獲馬百餘匹。婁室拒夏人出陵野嶺,留拔離速以兵二百,據險守之。

銀朮可が太原を包囲したとき、近県はすでに先に降伏していたが、太原を救おうとする宋軍が再び太谷と祁県を占拠したので、抜離速と阿鶻懶がこれを再び奪取した。宋の姚古の軍が隆州穀におり、抜離速がこれを破った。張灝の兵が汾州から出てきたので、またこれを撃退した。天会四年、太原を攻略し、抜離速は管勾太原府路兵馬事となり、また婁室とともに文水で宋兵を破り、ついで宗翰に従って汴を包囲した。銀朮可とともに襄・鄧の地を攻略し、均州に入り、帰還して唐・蔡・陳の三州を攻め、ことごとくこれを破り、潁昌府を攻略した。ついで泰欲と馬五とともに揚州で宋の康王を襲撃し、康王は江を渡って建康に入った。

原文銀朮可圍太原,近縣先已降,宋軍來救太原者複據太谷、祁縣,拔離速、阿鶻懶複取之。宋姚古軍隆州穀,拔離速敗之,張灝兵出汾州,又擊走之。天會四年,克太原,拔離速為管勾太原府路兵馬事,複與婁室敗宋兵于文水,遂從宗翰圍汴。與銀朮可略地襄、鄧,入均州,還攻唐、蔡、陳三州,皆破之,克潁昌府。遂與泰欲、馬五襲宋康王于揚州,康王渡江入于建康。

天会十五年、元帥左都監に遷った。宗弼が再び河南を平定し、撒離喝が陝西を経略し、涇州に至ったとき、抜離速は渭州で宋軍を大いに破り、渭州と徳順軍はともに降伏し、陝西は平定された。元帥左監軍に遷り、金吾衛上將軍を加えられ、卒し、諡して敏定といった。

原文天會十五年,遷元帥左都監。宗弼再定河南,撒離喝經略陝西,至涇州,拔離速大破宋軍於渭州,渭州、德順軍皆降,陝西平。遷元帥左監軍,加金吾衛上將軍,卒,諡敏定。

習古乃。

原文習古乃

習古乃は、また実古乃とも書かれる。かつて銀朮可とともに遼国に赴いて阿疏を迎えに行き、帰還して遼人が攻め取れる情勢を述べ、太祖は初めて遼を討つことを決意した。婆盧火が居庸関を取ると、蕭妃は古北口から出奔したので、太祖は習古乃を使わしてこれを追わせたが、追いつかなかった。後に臨潢府軍帥となり、迭刺を討伐して平定し、その群官が衆を率いて降伏した者については、そのまま諸部を統領させるよう請うた。太宗は空名の宣頭と銀牌を賜い、便宜をもってこれを授けさせた。遼の許王莎邏と駙馬都尉蕭乙辛を捕らえた。遼の梁王雅里が紇里水で自立していたが、果たしてどこにいるか知らなかったが、この時になって初めて知った。そこで、遼の降人を泰州に移そうとしたが、時は暑く移すことができなかったので、習古乃はしばらく嶺西に置くよう請うた。習古乃が契丹の周特城に新城を築くと、詔して会平州を置いた。

原文習古乃,亦書作實古乃。嘗與銀朮可俱往遼國取阿疏,還言遼人可取之狀,太祖始決意伐遼矣。婆盧火取居庸關,蕭妃自古北口出奔,太祖使習古乃追之,不及。後為臨潢府軍帥,討平迭刺,其群官率眾降者,請使就領諸部。太宗賜以空名宣頭及銀牌,使以便宜授之。獲遼許王莎邏、駙馬都尉蕭乙辛。遼梁王雅里在紇里水自立,不知果在何處,至是始知之。於是,徙遼降人於泰州,時暑未可徙,習古乃請姑處之嶺西。及習古乃築新城于契丹周特城,詔置會平州。

烏虎里部の人迪烈と劃沙が部族を率いて降伏したので、朝廷は撻僕野を本部節度使とし、烏虎を都監とした。習古乃は撻僕野らの宣誥を封をして返上し、便宜をもって撻僕野に散官を加え、空名の告身を填めてこれを授け、また降附して功労のある旧官八百九十三人を記録して上奏した。朝廷はこれに従った。そこで、迪烈に防禦使を加えて本部節度使とし、劃沙に諸司使を加えて節度副使とし、迪烈底部の事を知らせた。撻離答に左金吾衛上將軍を加えて節度副使とし、突鞠部の事を知らせた。阿枲に観察使を加えて本部節度使とした。その他は遷授に差等があった。厖葛城の地を分けて烏虎里と迪烈底の二部および契丹人に賜い、その未墾の地は力に任せて占拠開墾することを許した。

原文烏虎里部人迪烈、劃沙率部族降,朝廷以撻僕野為本部節度使,烏虎為都監。習古乃封還撻僕野等宣誥,以便宜加撻僕野散官,填空名告身授之,及錄上降附有勞故官八百九十三人,朝廷從之。於是,迪烈加防禦使,為本部節度使。劃沙加諸司使,為節度副使,知迪烈底部事。撻離答加左金吾衛上將軍,節度副使,知突鞠部事。阿枲加觀察使,為本部節度使。其餘遷授有差。以厖葛城地分賜烏虎里、迪烈底二部及契丹人,其未墾者聽任力占射。

久しくして、鹹州の煙火事を領した。天会六年、完顔慎思の所部およびその他未だ猛安謀克を置いていない戸口について、習古乃に通覧して詳細な籍を作成して上奏するよう命じた。天会十年、南京路軍帥司を東南路都統司と改め、習古乃を都統とし、治所を東京に移し、高麗を鎮撫した。

原文久之,領鹹州煙火事。天會六年,完顏慎思所部及其餘未置猛安謀克戶口,命習古乃通閱具籍以上。天會十年,改南京路軍帥司為東南路都統司,習古乃為都統,移治東京,鎮高麗。

賛して言う。金が疆土を開くにあたり、斡魯と斡魯古の方面の功績が最も先に顕著であり、婆盧火と婁室が最も先に封ぜられ、泰州の辺境、黄龍の要衝は、委ねられた任もまた重かった。闍母の南路における勤労、婁室の陝西における経営、銀朮可の太原における包囲守備は、その労苦もまた極まったものである。斡魯古の治績の悪さ、闍母の敗北に対して、譴罰が速やかであったので、諸将は恐れおののいた。弱小をもって強大を終に制することができたのは、その効果が現れたのであろうか。銀朮可と習古乃は人の国を観察してその討伐可能を知った。古語に「国に八観あり」というが、善いことである。

原文贊曰:金啟疆土,斡魯、斡魯古方面功最先著,婆盧火、婁室最先封,泰州之邊圉,黃龍之沖要,寄亦重矣。若闍母之勤勞南路,婁室之經營陝西,銀朮可之圍守太原,勞亦至矣。斡魯古之不治,闍母之敗,譴罰之亟,諸將慴焉。夫能以弱小終制強大,其效驗與。銀朮可、習古乃觀人之國而知其可伐,古語雲「國有八觀」,善矣夫。