金史

列傳第九: 斡魯 斡魯古勃堇 婆盧火 吾紮忽 闍母

列傳第九: 斡魯 斡魯古勃堇 婆盧火 吾紮忽 闍母

列傳第九 ○斡魯 斡魯古勃堇 婆盧火 吾紮忽 闍母(子 宗敘(本名德壽))

斡魯

原文斡魯

斡魯は、韓國公劾者の第三子である。康宗の初め、蘇濱水の含國部の斡豁勃堇及び斡准・聽備の二部に異志があり、斡帶がこれを治め、斡賽・斡魯がその補佐を為し、遂に斡豁を伐ち、その城を抜いて帰還した。高麗が曷懶甸に九城を築いた。斡賽の母が病み、斡魯が代わってその兵を将すること数ヶ月に及んだ。斡魯もまた対抗して九城を築き高麗と抗し、出れば戦い、入れば守り、斡賽はこれを用い、ついに高麗を城下にした。

原文斡魯,韓國公劾者第三子。康宗初,蘇濱水含國部斡豁勃堇及斡准、聽備二部有異志,斡帶治之,斡賽、斡魯為之佐,遂伐斡豁,拔其城以歸。高麗築九城於曷懶甸。斡賽母疾病,斡魯代將其兵者數月。斡魯亦對築九城與高麗抗,出則戰,入則守,斡賽用之,卒城高麗。

收國二年四月、詔して斡魯に諸軍を統率させ、闍母・蒲察ほさつ・迪古乃と共に咸州路都統の斡魯古らと合流し、高永昌を伐たしめた。詔に曰く、「永昌は戍卒を誘い脅し、一方を窃かに拠る。ただその隙に乗じてこれを取るのみである。これは遠大な計略があるわけではなく、その滅亡は立って待つことができる。東京の渤海人は我が旧恩を徳としているから、招き懐柔しやすい。もし従わなければ、すなわち進討を議し、多く殺すことはないようにせよ」。

原文收國二年四月,詔斡魯統諸軍,與闍母、蒲察、迪古乃合咸州路都統斡魯古等,伐高永昌。詔曰:「永昌誘脅戍卒,竊據一方,直投其隙而取之耳。此非有遠大計,其亡可立而待也。東京渤海人德我舊矣,易為招懷。如其不從,即議進討,無事多殺。」

高永昌は渤海人で、遼において裨将ひしょうとなり、兵三千を率いて東京の八甔口に屯した。永昌は遼の政が日に敗れるを見、太祖が兵を起こし、遼人が支えられないのを見て、遂に非常を覬覦した。この時、東京の漢人と渤海人には怨みがあり、多く渤海人を殺した。永昌は乃ち諸渤海を誘い、その戍卒と共に人をして東京を占拠せしめ、旬月の間に、遠近呼応し、兵八千人有り、遂に帝を僭称せんしょうし、元号を隆基と改めた。遼人はこれを討ったが、久しく勝つことができなかった。

原文高永昌渤海人,在遼為裨將,以兵三千,屯東京八甔口。永昌見遼政日敗,太祖起兵,遼人不能支,遂覬覦非常。是時,東京漢人與渤海人有怨,而多殺渤海人。永昌乃誘諸渤海,並其戍卒人據東京,旬月之間,遠近回應,有兵八千人,遂僭稱帝,改元隆基。遼人討之,久不能克。

永昌は撻不野・杓合を使者として、幣を以て太祖に救いを求め、且つ曰く、「力を併せて遼を取ることを願う」と。太祖は胡沙補を遣わして往き諭して曰く、「力を同じくして遼を取るは固より可なり。東京は近き地、汝輒もこれを拠り、以て大号を僭るは可ならんや。もし能く帰款すれば、王爵を以て処すべし。仍って遼籍に系る女直じょちょくの胡突古を遣わす」と。高永昌は撻不野をして胡沙補・胡突古と偕に来させたが、永昌の上表の言辞は遜らず、且つ俘虜とした渤海人の返還を請うた。太祖は胡突古を留めて遣わさず、大薬師奴を遣わして撻不野と共に往き招諭せしめた。

原文永昌使撻不野、杓合,以幣求救于太祖,且曰:「願並力以取遼。」太祖使胡沙補往諭之曰:「同力取遼固可。東京近地,汝輒據之,以僭大號可乎。若能歸款,當處以王爵。仍遣系遼籍女直胡突古來。」高永昌使撻不野與胡沙補、胡突古偕來,而永昌表辭不遜,且請還所俘渤海人。太祖留胡突古不遣,遣大藥師奴與撻不野往招諭之。

斡魯が東京に向かおうとしていた時、遼兵六万が照散城を攻め来たり、阿徒罕勃堇・烏論石准が益褪の地においてこれと戦い、大いにこれを破った。五月、斡魯は遼軍と瀋州において遭遇し、これを破り、瀋州に進攻し、これを取った。永昌は瀋州を取ったと聞き、大いに懼れ、家奴の鐸刺を使者として金印一つ・銀牌五十を持たせて来させ、名号を去り、藩と称することを願った。斡魯は胡沙補・撒八を遣わしてこれに報じさせた。時に渤海の高楨が降り、永昌は真の降伏ではなく、ただ師を緩めるためであると言った。斡魯が進兵すると、永昌は遂に胡沙補らを殺し、衆を率いて来て拒んだ。沃裏活水において遭遇し、我が軍が既に渡河すると、永昌の軍は戦わずして退却し、これを追って北に至り東京の城下に至った。翌日、永昌は尽くその衆を率いて来て戦い、また大いにこれを破り、遂に五千騎を以て長松島に奔った。

原文斡魯方趨東京,遼兵六萬來攻照散城,阿徒罕勃堇、烏論石准與戰於益褪之地,大破之。五月,斡魯與遼軍遇於瀋州,敗之,進攻瀋州,取之。永昌聞取瀋州,大懼,使家奴鐸刺以金印一、銀牌五十來,願去名號,稱籓。斡魯使胡沙補、撒八往報之。會渤海高楨降,言永昌非真降者,特以緩師耳。斡魯進兵,永昌遂殺胡沙補等,率眾來拒。遇於沃裏活水,我軍既濟,永昌之軍不戰而卻,逐北至東京城下。明日,永昌盡率其眾來戰,複大敗之,遂以五千騎奔長松島。

初め、太祖が甯江州を下した時、獲た東京の渤海人は皆これを釈放したが、往々にして途中で亡去した。諸将はこれを殺すことを請うたが、太祖は曰く、「既に敵に克ち城を下した以上、何ぞ多く殺さん。昔、先太師が嘗て敵を破り、百余人を獲て釈放したが、皆亡去した。既にして、往々にしてその部人を招き来降させた。今この輩が亡去しても、後日必ず効用する者あらん」と。ここに至り、東京の人恩勝奴・仙哥らが永昌の妻子を執えて城を降ったが、これ即ち甯江州で釈放した東京の渤海人である。先太師とは、蓋し世祖を謂うのであろう。間もなく、撻不野が永昌及び鐸刺を執えて献じ、皆これを殺した。ここにおいて、遼の南路の系籍女直及び東京の州県は尽く降った。

原文初,太祖下甯江州,獲東京渤海人皆釋之,往往中道亡去,諸將請殺之,太祖曰:「既以克敵下城,何為多殺。昔先太師嘗破敵,獲百餘人,釋之,皆亡去。既而,往往招其部人來降。今此輩亡,後日當有效用者。」至是,東京人恩勝奴、仙哥等,執永昌妻子以城降,即甯江州所釋東京渤海人也。先太師,蓋謂世祖雲。未幾,撻不野執永昌及鐸刺以獻,皆殺之。於是,遼之南路系籍女直及東京州縣盡降。

斡魯を以て南路都統・迭勃極烈ぼっきょくれつと為し、烏蠢を留めて東京の事を知らしめた。詔して遼の法を除き、賦税を省き、猛安もうあん謀克ぼうこくを置くこと一に本朝の制の如くせしめた。九月、斡魯は婆魯買水において上謁し、上はこれを慰労した。辛亥、斡魯の第に幸し、宴を張り、官属は皆預かり、賜賚に差があった。

原文以斡魯為南路都統、迭勃極烈,留烏蠢知東京事。詔除遼法,省賦稅,置猛安謀克一如本朝之制。九月,斡魯上謁于婆魯買水,上慰勞之。辛亥,幸斡魯第,張宴,官屬皆預,賜賚有差。

燭偎水部の實裏古達が、酬斡・僕忽得を殺したので、斡魯は胡刺古・烏蠢の兵を分けてこれを討った。酬斡は宗室の子で、魁偉にして戦を善くし、年十五にして軍中に隷し、多く任用された。兵五百を以て室韋を破り、その民衆を獲た。及び燭偎水部を招降し、功を以て謀克と為った。僕忽得は初め撒改に事え、蕭海裏を討つに従い、燭偎水部を降し、行軍千戸を領した。黄龍府を破り、達魯古城に戦うに従い、皆功があった。その甯江州を破った時、渤海の乙塞補が叛いて去ったが、僕忽得が追ってこれを回復した。ここに至り、酬斡と共に害された。

原文燭偎水部實裏古達,殺酬斡、僕忽得,斡魯分胡刺古、烏蠢之兵討之。酬斡宗室子,魁偉善戰,年十五,隸軍中,多見任用。以兵五百,敗室韋,獲其民眾。及招降燭偎水部,以功為謀克。僕忽得初事撒改,從討蕭海裏,降燭偎水部,領行軍千戶。從破黃龍府,戰達魯古城,皆有功。其破甯江州,渤海乙塞補叛去,僕忽得追複之。至是,與酬斡同被害。

斡魯は石裏罕河に至り、實裏古達は遁去したが、合撻刺山において追い及び、その首悪四人を誅し、余衆を撫定した。詔して曰く、「汝は叛亂を討平し、師衆を労せず、朕甚だこれを嘉す。酬斡らは国事に死し、その屍が河に棄てられたと聞く。氷解を俟ち、必ず求めて以て葬らしめよ。その民は三百戸を以て一謀克と為し、衆の推服する者を以てこれを領せしめ、仍ってその子弟らを質とせよ」と。斡魯は乃ち還った。天眷年中、酬斡は奉國上將軍を贈られ、僕忽得は昭義大將軍を贈られた。

原文斡魯至石裏罕河,實裏古達遁去,追及於合撻刺山,誅其首惡四人,撫定餘眾。詔曰:「汝討平叛亂,不勞師眾,朕甚嘉之。酬斡等死于國事,聞其屍棄於河,俟冰釋,必求以葬。其民可三百戶為一謀克,以眾所推服者領之,仍以其子弟等為質。」斡魯乃還。天眷中,酬斡贈奉國上將軍,僕忽得贈昭義大將軍。

斡魯は都統に従って遼主を襲い、遼主は西に走り、西京は既に降りてまた叛き、敵は城西の浮図を拠り、下より攻城者を射た。斡魯は鶻巴魯と共に浮図を攻め、これを奪い、また精鋭を以て浮図に乗り下より城中を射て、遂に西京を破った。夏國王は李良輔を使者として兵三万を将いて来たり遼を救い、天徳の境に次いだ。婁室ろうしつは斡魯と軍を合してこれを撃ち破り、野穀に追い至り、数千人を殺した。夏人は澗水を渡ったが、水が暴に至り、漂溺する者は勝えざるを得なかった。遼主は陰山・青塚の間に在り、斡魯は西南路都統と為り、往きてこれを襲った。勃刺淑・撒曷懣を遣わし兵二百を以て、遼の権六院司喝離質を白水濼において襲い、これを獲た。遼主は輜重しちょうを青塚に留め、兵一万を率いて応州に往かんとした。照裏・背答を遣わし各々兵を率いてこれを邀え、宗望が奄かに遼主の営に至り、その妻・子・宗族を尽く俘虜とし、その伝国璽を得た。斡魯は使者を遣わして捷を奏して曰く、「陛下の威霊に頼り、屡々敵兵を破り、遼主は帰する所なく、勢い必ず来降せん。已に隣境を厳戒し、宋人を納れざらしめ、軍糧を合して饋らしめ、銀術可をして代州に往きてこれを受けしめん」と。詔して曰く、「有功の将士に遍く諭せ。朕の彼に至るを俟ち、当に次第に推賞すべし。遼主の戚属はその輿帳を去らしむることなく、善く撫存せよ。遼主は伶俜として国を去り、悲を懐き恥を負い、その命を隕すを恐る。孽は自ら作るとはいえ、嘗て大位に居り、深く忍びざる所なり。もし招きて肯来すれば、その宗族をこれに付すべし。已に楊璞を遣わし宋に糧を征せしむ。銀術可は須らく往くことなからん。遼の趙王習泥烈及び諸官吏は、並びにその罪を釈し、且つこれを撫慰せよ」と。

原文斡魯從都統襲遼主,遼主西走,西京已降複叛,敵據城西浮圖,下射攻城者。斡魯與鶻巴魯攻浮圖,奪之,複以精銳乘浮圖下射城中,遂破西京。夏國王使李良輔將兵三萬來救遼,次於天德之境。婁室與斡魯合軍擊敗之,追至野穀,殺數千人。夏人渡澗水,水暴至,漂溺者不可勝計。遼主在陰山、青塚之間,斡魯為西南路都統,往襲之。使勃刺淑、撒曷懣以兵二百,襲遼權六院司喝離質於白水濼,獲之。遼主留輜重於青塚,領兵一萬,往應州。遣照裏、背答各率兵邀之,宗望奄至遼主營,盡俘其妻、子、宗族,得其傳國璽。斡魯使使奏捷曰:「賴陛下威靈,屢敗敵兵,遼主無歸,勢必來降。已嚴戒鄰境,毋納宋人,合饋軍糧,令銀術可往代州受之。」詔:「遍諭有功將士,俟朕至彼,當次第推賞。遼主戚屬勿去其輿帳,善撫存之。遼主伶俜去國,懷悲負恥,恐隕其命。孽雖自作,而嘗居大位,深所不忍。如招之肯來,以其宗族付之。已遣楊璞征糧于宋,銀術可不須往矣。遼趙王習泥烈及諸官吏,並釋其罪,且撫慰之。」

太祖が京師に還ると、宗翰は西北・西南両路都統となり、斡魯及び蒲家奴ほかどがこれを副えた。宗翰が京師に朝すると、詔して曰く、「夏人の言によれば、宋が新たに割譲した地を侵略しているので、便宜を以てこれを決せよ」と。斡魯が奏して曰く、「夏人は戸口と資財を尽く帰さず、また宋人が賜った地を侵すとして援兵を求めている。宋の辺境の臣が夏人に賜った疆土を取ろうとしているのは、異図があるからである」と。詔して曰く、「夏人が屡々援兵を求めるのは、あるいは我が戸口を帰したくないためであり、我が遼主を追襲する事を沮むためである。宋人が敢えて夏より自ら疆土を取ると言うのは、誠に異図がある。宜しく備えを謹み、夏に在る戸口を尽く索め、両国に通聞し、事を審らかに処すべし」と。斡魯が重ねて山西を宋に割かぬよう請うと、遼主は宋の郭薬師と交通できなくなる。重ねて詔して曰く、「宗翰が宋に山西の地を与えるなと請い、卿もまたこれに及ぶ。疆場の事は慎んで忽せにするなかれ」と。宗翰等が宋を伐つに及び、斡魯は西南・西北両路都統事を行った。天会五年、薨じた。皇統五年、鄭国王を追封された。天徳二年、太祖廟廷に酏享された。

原文太祖還京師,宗翰為西北、西南兩路都統,斡魯及蒲家奴副之。宗翰朝京師,詔:「以夏人言,宋侵略新割地,以便宜決之。」斡魯奏曰:「夏人不盡歸戶口資帑,又以宋人侵賜地求援兵。宋之邊臣將取所賜夏人疆土,蓋有異圖。」詔曰:「夏人屢求援兵者,或不欲歸我戶口,沮吾追襲遼主事也。宋人敢言自取疆土于夏,誠有異圖。宜謹守備,盡索在夏戶口,通聞兩國,事審處之。」斡魯複請弗割山西與宋,則遼主不能與宋郭藥師交通。複詔曰:「宗翰請毋與宋山西地,卿複及此,疆場之事當慎毋忽。」及宗翰等伐宋,斡魯行西南、西北兩路都統事。天會五年,薨。皇統五年,追封鄭國王。天德二年,酏享太祖廟廷。

子の撒八は、銀青光禄大夫。子の賽裏。

原文子撒八,銀青光祿大夫。子賽裏。

斡魯古勃堇

原文斡魯古勃堇

斡魯古勃堇は、宗室の子である。太祖が遼を伐つに当たり、斡魯古と阿魯を遣わして斡忽・急賽両路の系遼女直を撫諭させ、遼の節度使撻不也と戦い、これを破り、撻不也を斬り、酷輦嶺の阿魯台罕等十四太彎は皆降り、斡忽・急賽両路もまた降った。遼の都統実婁と鹹州の西で戦い、これを破り、実婁を陣中に斬り、婁室と共に鹹州を克った。陁満忽吐はその部を率いて斡魯古に降り、隣部の戸七千もまた来帰し、遂に遼の将喝補と戦い、その軍数万人を破った。太祖はこれを嘉し、咸州軍帥とした。

原文斡魯古勃堇,宗室子也。太祖伐遼,使斡魯古、阿魯撫諭斡忽、急賽兩路系遼女直,與遼節度使撻不也戰,敗之,斬撻不也,酷輦嶺阿魯台罕等十四太彎皆降,斡忽、急賽兩路亦降。與遼都統實婁戰於鹹州西,敗之,斬實婁於陣,與婁室克鹹州。陁滿忽吐以所部降于斡魯古,鄰部戶七千亦來歸,遂與遼將喝補戰,破其軍數萬人。太祖嘉之,以為咸州軍帥。

斡魯が東京において高永昌を伐つと、斡魯古は鹹州軍を以てこれを佐けた。遼の秦晋国王耶律捏裏が来伐し、迪古乃・婁室・婆盧火等が二万の衆を将い、斡魯古の鹹州兵と合してこれを撃ちに行った。

原文斡魯伐高永昌于東京,斡魯古以鹹州軍佐之。遼秦晉國王耶律捏裏來伐,迪古乃、婁室、婆盧火等將二萬眾,合斡魯古鹹州兵往擊之。

胡突古は嘗て叛いて遼に入り、東京に居たが、高永昌が東京を拠ると、太祖はこれを索めて帰した。斡魯古が永昌を伐つに当たり、便宜を以て胡突古を千戸に署した。散都魯・訛魯補は皆功が無かったが、また便宜を以て官を除いた。また便宜を以て権謀克の斛抜魯・黄哥・達及び保等の職を解いたが、皆その罪ではなかった。太祖がこれを聞き、尽く斛抜魯等の謀克を復し、胡突古等は皆罷め去らせた。

原文胡突古嘗叛入於遼,居於東京,高永昌據東京,太祖索之以歸。斡魯古伐永昌,以便宜署胡突古為千戶。散都魯、訛魯補皆無功,亦以便宜除官。及以便宜解權謀克斛拔魯、黃哥、達及保等職,皆非其罪。太祖聞之,盡複斛拔魯等謀克,胡突古等皆罷去。

太祖は斡魯古の軍中に往々にして馬が欠け、官馬が多く私家に匿されていると聞き、遂にこれを検括した。耶律捏裏・仏頂が斡魯古に書を遺わし、和を請うた。斡魯古は捏裏の書及びそれに答えた書を来上し、且つ請うて曰く、「再び書問があれば、宜しく如何にこれを報ずべきか」と。詔して曰く、「若し彼が再び来て和を請わば、汝は阿疏等の叛亡を以てし、索めて獲られずして交兵に至り、我が行人賽刺もまた遣還せざることを告げよ。若し賽刺を帰し、及び阿疏等を送れば、則ち和好の議方ぞ敢えて奏聞すべし。仍って議和が実ならざるを恐れ、備禦を失うなかれ」と。

原文太祖聞斡魯古軍中往往闕馬,而官馬多匿於私家,遂檢括之。耶律捏裏、佛頂遺斡魯古書,請和。斡魯古以捏裏書並所答書來上,且請曰:「複有書問,宜如何報之?」詔曰:「若彼再來請和,汝當以阿疏等叛亡,索而不獲至於交兵,我行人賽刺亦不遣還。若歸賽刺,及送阿疏等,則和好之議方敢奏聞。仍恐議和非實,無失備禦。」

耶律捏裏が軍を蒺藜山に置くと、斡魯古は兵一万を以て東京を戍った。太祖は迪古乃・婁室を遣わし、重ねて兵一万を以てこれを益やし、詔して曰く、「遼主は道を失い、命を肆にして徂征す。惟れ爾が将士は、朕が意を体し、命を拒む者はこれを討ち、服する者はこれを撫安せよ。俘掠を貪る毋く、殺戮を肆にする毋かれ。賜う所の捏裏への詔書は、伝致すべし」と。捏裏に詔して曰く、「汝等誠に和を請わんと欲せば、当に昏主を廃黜し、賢者を択び立て、朕が吊伐の意に副い、然る後に和約を議すべし。然らずんば、当に尽く爾が国を併すべし。其れ審らかにこれを図れ」と。捏裏が重ねて斡魯古に書を送り、云うには、「降り去った人痕孛を還せば、則ち当に阿疏等を送らん」と。上曰く、「痕孛等は交兵の後に来降したものであり、阿疏は則ち平日に罪を以て亡れ去った者で、その事は特に異なる」と。重ねて捏裏に詔し、今月十三日に阿疏を顕州に送り至らしめ、各々重臣を遣わして疆場の事を議せしめよと。

原文耶律捏裏軍蒺藜山,斡魯古以兵一萬,戍東京。太祖使迪古乃、婁室複以兵一萬益之,詔曰:「遼主失道,肆命徂征,惟爾將士,當體朕意,拒命者討之,服者撫安之。毋貪俘掠,毋肆殺戮。所賜捏裏詔書,可傳致也。」詔捏裏曰:「汝等誠欲請和,當廢黜昏主,擇立賢者,副朕吊伐之意,然後可議和約。不然,當盡並爾國。其審圖之。」捏裏複書斡魯古,雲:「降去人痕孛見還,則當送阿疏等。」上曰:「痕孛等乃交兵之後來降,阿疏則平日以罪亡去,其事特異。」複詔捏裏,令此月十三日送阿疏至顯州,各遣重臣議疆場事。

斡魯古等が顕州を攻めると、東京知事完顔かんがん斡論が兵を率いて来会し、即ち兵三千を以て先んじて遼水を渡り、降戸千余を得、遂に顕州に迫った。郭薬師が夜に乗じて来襲したが、斡論がこれを撃ち走らせた。斡魯古等は遂に捏裏等と蒺藜山で戦い、大いに遼兵を破り、北に追って阿裏真陂に至り、仏頂の家眷を獲た。遂に顕州を囲み、その城の西南を攻め、軍士の神篤が城を逾えて先に入り、その仏寺を焼き、煙焰が人に撲り、守陴する者は立つことができず、諸軍がこれに乗じ、遂に顕州を抜いた。ここに於いて、乾・懿・豪・徽・成・川・恵等の州は皆降った。乾州は後に閭陽県となり、遼の諸陵多くここに在り、犯すこと無きを禁じた。成・川州の人を同・銀二州に徙して居らしめた。

原文斡魯古等攻顯州,知東京事完顏斡論以兵來會,即以兵三千先渡遼水,得降戶千余,遂薄顯州。郭藥師乘夜來襲,斡論擊走之。斡魯古等遂與捏裏等戰於蒺藜山,大敗遼兵,追北至阿裏真陂,獲佛頂家屬。遂圍顯州,攻其城西南,軍士神篤逾城先入,燒其佛寺,煙焰撲人,守陴者不能立,諸軍乘之,遂拔顯州。於是、乾、懿、豪、徽、成、川、惠等州皆降。乾州後為閭陽縣,遼諸陵多在此,禁無所犯。徙成、川州人於同、銀二州居之。

捏裏が重ねて書を以て和を請うと、斡魯古は前の詔に承り、阿疏を言として、これに答えた。軍を顕州に駐めて命を聴いた。斡魯古等に馬十匹を賜い、詔して曰く、「汝等は力をもって大敵を摧き、諸城を攻め下し、朕は甚だこれを嘉す。遼主未だ獲られず、人心は動揺し易し。戦勝に恃んで備禦を失うべからず」と。遼の双州節度使張崇が降ると、斡魯古は便宜を以てその職を復することを命じ、仍って世襲せしめた。

原文捏裏再以書來請和,斡魯古承前詔,以阿疏為言,答之。駐軍顯州以聽命。賜斡魯古等馬十匹,詔曰:「汝等力摧大敵,攻下諸城,朕甚嘉之。遼主未獲,人心易搖,不可恃戰勝而失備禦。」遼雙州節度使張崇降,斡魯古以便宜命複其職,仍令世襲。

斡魯古は久しく鹹州に在り、多く功を立てたが、また多く自ら恣にし、劾裏保・双古等が斡魯古の不法の事を告げた。遼帝が中京に在り追襲すべきなのに追襲せず、鹹州の糧草は豊かに足りているのに奏上の数は実を以てせず、顕州を攻めて獲た生口財畜を多く自ら取ったと。捏裏・孛刺束等もまた孛堇の瞢葛・麻吉・窩論・赤閏・阿刺本・乙刺等が多く生口財畜を取ったと告げた。遂に闍哥を以て代わりに咸州路都銑とした。

原文斡魯古久在鹹州,多立功,亦多自恣,劾裏保、雙古等告斡魯古不法事:遼帝在中京可追襲而不追襲,鹹州糧草豐足而奏數不以實,攻顯州獲生口財畜多自取。捏裏、孛刺束等亦告孛堇瞢葛、麻吉、窩論、赤閏、阿刺本、乙刺等多取生口財畜。遂以闍哥代為咸州路都銑。

闍哥もまた宗室の子であり、既に斡魯古に代わって鹹州を治めた。初め、迪古乃・婁室が奏し、顕州の新たに降附した民は、その富める者を咸州路に遷し、その貧しき者を内地に徙すべしと。ここに於いて、詔して闍哥を使わし、その才幹事に堪える者を択び謀克を授け、その豪右で誠心帰附する者を猛安に擬し、その姓名を録して聞かせ、饑貧の民は官が賑給し、而して闍母をその副統と為すと云う。久しくして、遼の通・祺・双・遼四州の民八百余家が、鹹州都統に詣でて降った。上曰く、「遼人は賦斂に度無く、民は命に堪えず、相率いて生を求む。失望せしむべからず。諸部に分置し、善き地を択び以てこれを処せよ」と。

原文闍哥亦宗室子也,既代斡魯古治鹹州。初,迪古乃、婁室奏,攻顯州新降附之民,可遷其富者于咸州路,其貧者徙內地。於是,詔使闍哥擇其才可幹事者授之謀克,其豪右誠心歸附者擬為猛安,錄其姓名以聞,饑貧之民,官賑給之,而使闍母為其副統雲。久之,遼通、祺、雙、遼四州之民八百餘家,詣鹹州都統降。上曰:「遼人賦斂無度,民不堪命,相率求生,不可使失望,分置諸部,擇善地以處之。」

太祖は斡魯古を召して自らこれを問うと、斡魯古は伏すことを引いた。闍哥が窩論等を鞫いた。詔して斡魯古を謀克に降とし、而して窩論等を禁錮した。天輔六年、賊を牛心山に討ち、道中病に罹り卒した。天眷年中、特進を贈られた。天徳二年、太祖廟廷に配享された。大定十五年、諡して莊翼と為す。

原文太祖召斡魯古自問之,斡魯古引伏。闍哥鞫窩論等。詔降斡魯古為謀克,而禁錮窩論等。天輔六年,討賊于牛心山,道病卒。天眷中,贈特進。天德二年,配享太祖廟廷。大定十五年,諡莊翼。

婆盧火

原文婆盧火

婆盧火は安帝の五代孫である。太祖が遼を討つに当たり、婆盧火をして迪古乃の兵を徴発させたが、期日に遅れたので、杖刑に処した。後に渾黜とともに四千人を率い、婁室・銀術哥を助けて黄龍府を攻撃した。辞勒罕・撒孛得兄弟は直攧裏部の人で、かつて耶懶路を寇掠し、穆宗は婆盧火を派遣してこれを討たせた。阿裏門河に至ると、辞勒罕は偽って降伏し、馬畜三百を略奪して去り、さらに兀勒部の二十五寨を掠奪した。太祖は再び婆盧火を派遣してこれを討たせた。婆盧火は蘇袞河を渡り、付近の諸部を招降し、壮丁を籍して軍とし、特滕呉水に至ると、轍孛得が偽って降伏し、再び叛いて去ったので、捕らえてこれを殺した。婆盧火は特鄰城に至り、これを包囲すると、辞勒罕は遁走した。婆盧火はその城を破り、その妻子を捕らえると、辞勒罕は遂に降伏し、「我が馬牛財貨は尽き果てた。何をもって生計を立てようか」と言った。婆盧火はこれに馬十匹を与えた。直攧裏部は良馬を産出し、太祖は紇石烈阿習罕をしてその畜牧を掌らせ、婆盧火およびその子婆速は、ともに謀克となった。

原文婆盧火,安帝五代孫。太祖伐遼,使婆盧火征迪古乃兵,失期,杖之。後與渾黜以四千人,往助婁室、銀術哥攻黃龍府。辭勒罕、撒孛得兄弟,直攧裏部人,嘗寇耶懶路,穆宗遣婆盧火討之。至阿裏門河,辭勒罕偽降,遂略馬畜三百而去,複掠兀勒部二十五寨。太祖複使婆盧火討之。婆盧火渡蘇袞河,招降旁近諸部,因籍丁壯為軍,至特滕吳水,轍孛得偽降,複叛去,執而殺之。婆盧火至特鄰城,圍之,辭勒罕遁去。婆盧火破其城,執其妻子,辭勒罕遂降,曰:「我之馬牛財貨盡矣,何以為生。」婆盧火與之馬十匹。直攧裏部產良馬,太祖使紇石烈阿習罕掌其畜牧,婆盧火及子婆速,俱為謀克。

天輔五年、諸路の猛安から一万余戸を選び取り、泰州に屯田させ、婆盧火を都統とし、耕牛五十頭を賜った。婆盧火は旧く按出虎水に居住していたが、ここに至って泰州に移住し、拾得・査端・阿裏徒歓・奚撻罕らを派遣してともに移住させた。ただ族子の撒刺喝はかつて世祖の養子であったため、ただ一人移住しなかった。

原文天輔五年,摘取諸路猛安中萬餘家,屯田於泰州,婆盧火為都統,賜耕牛五十。婆盧火舊居按出虎水,自是徙居泰州,而遣拾得、查端、阿裏徒歡、奚撻罕等俱徙焉。唯族子撒刺喝嘗為世祖養子,獨得不徙。

太祖が燕京を取るに当たり、婆盧火は右翼となり、兵を率いて居庸関から出撃し、遼兵を大いに破り、遂に居庸を取った。蕭妃は遁走し、都監高六らが来て帰順を乞い降伏した。習古乃は蕭妃を古北口まで追ったが、蕭妃は既に三日過ぎており、追い及ばずに帰還した。上は婆盧火・胡実賚に軽騎を率いて追撃させたが、蕭妃は既に遠く去っており、その従官の統軍察刺・宣徽査刺およびその家族、ならびに銀牌二面・印十一個を獲た。

原文太祖取燕京,婆盧火為右翼,兵出居庸關,大敗遼兵,遂取居庸。蕭妃遁去,都監高六等來送款乞降。習古乃追蕭妃至古北口,蕭妃已過三日,不及而還。上令婆盧火、胡實賚率輕騎追之,蕭妃已遠去,獲其從官統軍察刺、宣徽查刺,並其家族,及銀牌二、印十有一。

及び迭刺が叛くと、婆盧火・石古乃がこれを討平し、その群官で衆を率いて降伏した者は、そのままその部を統領させた。太宗は空名の宣頭および銀牌をこれに与えた。

原文及迭刺叛,婆盧火、石古乃討平之,其群官率眾降者,就使領其所部。太宗以空名宣頭及銀牌給之。

同時に婆盧火という者がいた。婁室が陝西を平定する際、婆盧火・繩果が監戦した。後に平陽尹・西南路招討使となり、慶陽尹の任で没した。

原文同時有婆盧火者,婁室平陝西,婆盧火、繩果監戰。後為平陽尹,西南路招討使,終於慶陽尹。

泰州の婆盧火は辺境を守りしばしば功績があり、太宗は衣一襲を賜い、併せてその子剖叔にも賜った。八年、甲冑をその配下の諸謀克に賜った。天会十三年、同中書門下平章事を加えられた。天眷元年、烏骨迪烈の地に駐屯し、薨去した。開府儀同三司を追贈され、諡して剛毅といった。

原文泰州婆盧火守邊屢有功,太宗賜衣一襲,並賜其子剖叔。八年,以甲胄賜所部諸謀克。天會十三年,加同中書門下平章事。天眷元年,駐烏骨迪烈地,薨。贈開府儀同三司,諡剛毅。

子の剖叔は猛安を襲い、天眷二年、泰州副都統となり、子の斡帯は広威将軍であった。

原文子剖叔,襲猛安,天眷二年,為泰州副都統,子斡帶,廣威將軍。

吾紮忽

原文吾紮忽

婆速は官は特進であり、子に吾紮忽がいた。

原文婆速,官特進,子吾紮忽。

吾紮忽は騎射に優れ、二十歳で本班祗候郎君都管となり、征伐に従って功績があり、修武校尉を授けられた。皇統二年、泰州軍を権領した。陝西を平定し、涇州に至り、馬西鎮において宋兵を大破し、超遷して寧遠大将軍となり、猛安を襲った。再び本部の軍を率いて宗弼に従い、権都統となった。正隆末、海陵に従って宋を伐った。契丹が反乱すると、徳昌軍節度使移至懣とともに契丹を討ち、便宜処置を許された。

原文吾紮忽,善騎射,年二十,以本班祗候郎君都管,從征伐有功,授修武校尉。皇統二年,權領泰州軍。平陝西,至涇州,大破宋兵于馬西鎮,超遷甯遠大將軍,襲猛安。複以本部軍從宗弼,權都統。正隆末,從海陵伐宋。契丹反,與德昌軍節度使移至懣同討契丹,許以便宜從事。

大定初、咸平尹に除され、泰州に駐軍した。まもなく臨潢尹に改め、元帥左都監を摂した。広寧尹僕散渾坦とともに元帥右都監神土懣に従い臨潢の包囲を解いた。契丹が衆を率いて東行すると、吾紮忽は窊歴山で追い及んだ。押軍猛安の契丹忽刺叔が配下の兵をもって敵を助け、官軍を攻撃したため、官軍は敗北した。泰州節度使烏裏雅が救援に来たが、未だ臨潢に至らず敵と遭遇し、烏裏雅は敗れ、僅かに数騎で脱出して帰還した。敵は泰州を攻め、その勢いは大いに振るい、城中は震駭し、将士は出戦しようとせず、敵は四面から城に登った。押軍猛安烏古孫阿裏補が軍士数人を率いて鈐刀を持ち城壁を巡り、敵に応じて力戦し、多くを斬り殺したので、敵は退き、泰州は保全された。吾紮忽は謀克蒲盧渾を使い、百姓を傍邑および険阻の地に移し、大軍を待った。翌年、甲士こうし一万三千を済州に集結させ、元帥謀衍と会し、長濼において窩斡を破った。霿箣松河で戦い、陥泉で戦い、いずれも功績があり、胡裏改節度使に改められ、卒した。

原文大定初,除咸平尹,駐軍泰州。俄改臨潢尹,攝元帥左都監。與廣甯尹僕散渾坦俱從元帥右都監神土懣解臨潢之圍。契丹引眾東行,吾紮忽追及於窊曆山。押軍猛安契丹忽刺叔以所部助敵,攻官軍,官軍失利。泰州節度使烏裏雅來救,未至臨潢與敵遇,烏裏雅敗,僅以數騎脫歸。敵攻泰州,其勢大振,城中震駭,將士不敢出戰,敵四面登城。押軍猛安烏古孫阿裏補率軍士數人持钅算刀循城,應敵力戰,斫刈甚眾,敵乃退,泰州得完。吾紮忽乃使謀克蒲盧渾徙百姓旁邑及險厄之地,以俟大軍。明年,聚甲士萬三千於濟州,會元帥謀衍,敗窩斡於長濼。戰霿{箣松}河,戰陷泉,皆有功,改胡裏改節度使,卒。

吾紮忽は性質聡敏で才智があり、軍を用いることに長け、常に敵の不意を衝いたので、寡をもって衆に敵し、赴くところ克たざるはなく、「鶻軍」と号されたという。

原文吾紮忽性聰敏,有才智,善用軍,常出敵之不意,故能以寡敵眾,而所往無不克,號為「鶻軍」雲。

闍母

原文闍母

闍母は世祖の第十一子で、太祖の異母弟である。高永昌が東京を占拠すると、斡魯がこれを討伐に向かい、闍母らがその補佐をした。既に瀋州を攻克し、城中から出奔する者を闍母が邀撃してことごとく殲滅した。永昌と沃裏活水を隔てて対峙し、衆は泥濘に遇って進もうとしなかったが、闍母は配下の兵を率いて先に渡河し、諸軍はことごとく渡河した。軍を東京の城下に進めると、城中の者が出城して来戦し、闍母は首山においてこれを破り、その衆を殲滅し、馬五百匹を獲た。

原文闍母,世祖第十一子,太祖異母弟也。高永昌據東京,斡魯往伐之,闍母等為之佐。已克瀋州,城中出奔者闍母邀擊殆盡。與永昌隔沃裏活水,眾遇淖不敢進,闍母以所部先濟,諸軍畢濟。軍東京城下,城中人出城來戰,闍母破之於首山,殲其眾,獲馬五百匹。

及び斡魯古が罪により咸州を去ると、闍母氏がこれに代わり、ここにおいて闍母は咸州路副統となった。遼との和議が久しく成らず、太祖が進兵すると、咸州路都統司に詔し、斜葛に兵一千を留めて鎮守させ、闍母に余兵を率いて渾河で合流させた。太祖が上京(実は臨潢府)を攻撃し、降伏を諭したが下らなかった。遼人は蓄積を恃んで自らを固守した。上自ら陣に臨むと、闍母は衆を率いて先に登城し、その外城を攻克し、留守撻不野が衆を率いて出降した。都統杲の兵が中京に至ると、闍母は城西より土河に沿って進軍し、城中の兵はなお三千余りいたが、皆守ることができず、遂にこれを攻克した。

原文及斡魯古以罪去鹹州,闍母氏代之,於是闍母為咸州路副統。遼議和久不成,太祖進兵,詔咸州路都統司,令斜葛留兵一千鎮守,闍母以余兵會於渾河。太祖攻上京,實臨潢府,諭之不下。遼人恃儲蓄自固。上親臨陣,闍母以眾先登,克其外城,留守撻不野率眾出降。都統杲兵至中京,闍母自城西沿土河以進,城中兵尚餘三千,皆不能守,遂克之。

宗翰らが西京を攻撃し、闍母・婁室らは城東に木洞を築いて矢石を防ぎ、北隅では藁で壕を埋めた。城中より一万余の兵が出撃し、これを焼こうとした。温迪罕蒲匣が衆を率いて力戦し、旗を持つ者が傷つくと、蒲匣自ら旗を執り、奮撃してこれを退けた。また四輪の革車を作り、城壁より高くし、闍母は麾下と共に車に乗って先登し、諸軍がこれに続き、ついに西京を陥落させた。

原文宗翰等攻西京,闍母、婁室等於城東為木洞以捍蔽矢石,於北隅以芻茭塞其隍,城中出兵萬餘,將燒之。溫蒂罕蒲匣率眾力戰,執旗者被創,蒲匣自執旗,奮擊卻之。又為四輪革車,高出於堞,闍母與麾下乘車先登,諸軍繼之,遂克西京。

朔州の境において遼の歩騎五千と戦い、三百級を斬首した。また河陰において遼の騎兵三百を破った。遼兵五千が馬邑県の南に駐屯していたが、再びこれを撃破し、その営塁を破壊し、車馬・器械をことごとく得た。遼兵三万が西京の西に陣営を布いていたので、闍母は三千の兵でこれを撃った。闍母は士卒に皆馬を下りさせ、溝塁の間に陣を布き、「一をもって十を撃つには、死地に至らしめなければ戦わせることはできない」と言い、衆に「もし敵に勝たなければ、生きることを求めることはできない」と告げた。そこで人々は皆必死で戦い、遼兵は遂に敗れ、その陣営まで追撃して止んだ。翌日、再びその兵七百余人を破った。

原文與遼步騎五千戰於朔州之境,,斬首三百級。複敗遼騎三百于河陰。遼兵五千屯于馬邑縣南,複擊破之,隳其營壘,盡得其車馬、器械。遼兵三萬,列營於西京之西,闍母以三千擊之。闍母使士卒皆去馬,陣於溝塹之間,曰:「以一擊十,不致之死地,不可使戰也。」謂眾曰:「若不勝敵,不可以求生。」於是人皆殊死戰,遼兵遂敗,追至其營而止。明日,複敗其兵七百餘人。

興中府宜州が再び叛いたので、闍母がこれを討ち、併せて詔を下して招諭した。詔に闍母に「遼の土地は皆我が有とするところであり、彼らがたとえ再び叛いても、結局は皆我が民である。その耕作を許し、侵掠してはならない」とある。勃堇の蒙刮・斜缽・吾撻らが契丹の九斤を捕らえ、興中は平定された。

原文興中府宜州複叛,闍母討之,並下詔招諭,詔闍母曰:「遼之土地皆為我有,彼雖複叛,終皆吾民,可縱其耕稼,毋得侵掠。」勃堇蒙刮、斜缽、吾撻等獲契丹九斤,興中平。

闍母は南路都統となり、回離保を討った。詔に「回離保は烏合の衆をもって険阻な地を保拠しているが、その勢いは必ず自滅するであろう。もし彼が出て掠めなければ、攻討するには及ばない」とある。耶律奧古哲らが景州・薊州の間で回離保を殺害し、その衆は遂に潰走した。

原文闍母為南路都統,討回離保,詔曰:「回離保以烏合之眾,保據險阻,其勢必將自斃。若彼不出掠,毋庸攻討。」耶律奧古哲等殺回離保于景、薊之間,其眾遂潰。

張覚が平州を拠りて叛き、宋に入ったので、闍母は錦州より往きてこれを討った。張覚は兵をもって遷・来・潤・隰の四州の民を脅迫しようとしたが、闍母が潤州に至り、張覚軍を撃退し、敗走する敵を追って榆関に至り、捕虜に書を持たせて招諭した。また営州の東北で張覚の兵を破り、勝に乗じて南京を取ろうとした。時に暑雨の季節であったため、海鹆需に退いて屯し、水草を逐って休息し、僕虺・蒙刮の両猛安に潤州に屯させ、未だ降伏せぬ州県を制し、張覚と交通することを許さなかった。九月、闍母は新安で張覚の将王孝古を破り、楼峰口で張覚軍を破った。また兔耳山で張覚と戦い、闍母は大敗した。太宗は宗望を遣わして闍母の敗軍の状況を問わせ、宗望は遂に闍母の軍を率いて張覚を討った。宗望が張覚を破ると、太宗は闍母を赦し、宗望を朝廷に召し還した。

原文張覺據平州叛,入于宋,闍母自錦州往討之。覺將以兵脅遷、來、潤、隰四州之民闍母至潤州,擊走張覺軍,逐北至榆關,遣俘侍書招之。複敗覺兵于營州東北,欲乘勝進取南京。時方暑雨,退屯海鹆需,逐水草休息,使僕虺、蒙刮兩猛安屯潤州,制未降州縣,不得與覺交通。九月,闍母破覺將王孝古於新安,敗覺軍于樓峰口。複與覺戰於兔耳山,闍母大敗。太宗使宗望問闍母敗軍之狀,宗望遂以闍母軍討覺。及宗望破張覺,太宗乃赦闍母,召宗望赴闕。

闍母は偽都統張敦固を連破し、遂に南京を陥落させ、張敦固を捕らえて殺した。上は使者を遣わしてこれを迎え労い、詔して「南京を下し、兵民を撫定したことは甚だ善い。諸軍の賞は、卿が差等を付けて与えよ」と言い、また詔して「南京の境界は旧の如く、兵を屯してこれを鎮めよ。有司に命じて米五万石を広寧に運ばせ、南京・潤州の戍卒に給せよ」と言った。遂に宜州を下し、叉牙山を抜き、その節度使韓慶民を殺し、糧五千石を得た。詔して南路が凶作であるため、田猟を許した。

原文闍母連破偽都統張敦固,遂克南京,執敦固殺之。上遣使迎勞之,詔曰:「聞下南京,撫定兵民,甚善。諸軍之賞,卿差等以給之。」又詔曰:「南京疆場如舊,屯兵以鎮之。命有司運米五萬石于廣甯,給南京、潤州戍卒。」遂下宜州,拔叉牙山,殺其節度使韓慶民,得糧五千石。詔以南路歲饑,許田獵。

その後、宋の童貫・郭薬師が兵を整えたが、闍母は降人を通じてこれを知るや、即時に詳細に奏上した。その言葉は宋事の中にある。そして宗翰・宗望は皆宋を伐つことを請うたので、ここにおいて闍母は宗望の副将として宋を伐ち、宗望は闍母が尊属であり、先皇帝に任用されて功績があったため、都統とし、己は戦事を監することとした。ここにおいて闍母は都統となり、掃喝がこれを副い、白河において郭薬師の兵を破り、遂に燕山を降し、先鋒として河を渡り汴を包囲した。宋人は盟を請うた。将士は安肅・雄・霸・広・信の境に分屯し、宗望は山西に還り、闍母は劉彥宗と共に燕京に留まり、諸軍を節制した。

原文其後宋童貫、郭藥師治兵,闍母輒因降人知之,即具奏,語在宋事中。而宗翰、宗望皆請伐宋,於是闍母副宗望伐宋,宗望以闍母屬尊,先皇帝任使有功,請以為都統,己監戰事。於是闍母為都統,掃喝副之,敗郭藥師兵于白河,遂降燕山,以先鋒渡河圍汴,宋人請盟。將士分屯于安肅、雄、霸、廣、信之境,宗望還山西,闍母與劉彥宗留燕京,節制諸軍。

八月、再び宋を伐ち、大軍は汴州を陥落させ、諸軍は城上に屯した。城中の諸軍が潰走して西に出た者は十三万人に及び、闍母・撻懶たつらんが分かれてこれを撃ち、大いに破った。軍が還ると、闍母は元帥左都監となり、河間を攻めてこれを下し、莫州において敵兵一万余を大破した。宗輔が右副元帥となり、淄・青の地を巡行した。闍母は宗弼と分兵して山谷の諸屯を破った。宋の李成が兵を率いて淄州を包囲したが、烏林荅泰欲がこれを破った。闍母は濰州を陥落させた。迪古補・術烈速が相次いで趙子昉らの兵を破り、河上に至った。烏林荅泰欲が霊城鎮において敵を破った。康王を伐つに及び、闍母は先ず河北を平定してから進討すべきとし、太宗は群議の中から斟酌し、婁室に陝西を取らせ、宗翰・宗輔に南伐させた。

原文八月,複伐宋,大軍克汴州,諸軍屯於城上。城中諸軍潰而西出者十三萬人,闍母、撻懶分擊,大敗之。師還,闍母為元帥左都監,攻河間,下之,大破敵兵萬余于莫州。宗輔為右副元帥,徇地淄、青。闍母與宗弼分兵破山谷諸屯。宋李成兵圍淄州,烏林荅泰欲破之。闍母克濰州。迪古補、術烈速連破趙子昉等兵,至於河上。烏林荅泰欲破敵於靈城鎮。及儀伐康王,闍母欲先定河北,然後進討,太宗乃酌取群議之中,使婁室取陝西,宗翰、宗輔南伐。

天会七年に薨去した。享年四十。熙宗の時、追封して呉国王とした。天徳二年、太祖廟廷に配享された。正隆年間、譚王に改封された。大定二年、魯王に徙封され、諡して荘襄といった。

原文天會七年,薨,年四十。熙宗時,追封吳國王。天德二年,配享太祖廟廷。正隆,改封譚王。大定二年,徙封魯王,諡莊襄。

子に宗敘あり。

原文子 宗敘

子に宗敘あり。

原文子宗敘。

宗敘は本名を徳寿といい、闍母の第四子である。奇偉にして大志があり、兵を談ずることを好んだ。天徳二年、護衛に充てられ、武義将軍を授けられた。翌年、世襲謀克を授けられ、御院通進に抜擢され、翰林待制に遷り、兼ねて起居注を修め、転じて国子司業となり、兼ねて左補闕を務めた。正隆初年、符宝郎に転じ、宮職に在ること凡そ五年、皆帯剣して宿衛を押領した。大宗正丞に遷り、母の喪により官を去った。本官をもって起復され、間もなく侍衛親軍馬軍都指揮使に遷り、左驍騎都指揮使に改めた。翌年、海陵が南京に幸すると、宗敘は汴に至った。契丹の撒八が反すると、宗敘は咸平尹となり、兼ねて本路兵馬都総管とされ、甲仗四千を付与され、便宜を許された。

原文宗敘,本名德壽,闍母第四子也。奇偉有大志,喜談兵。天德二年,充護衛,授武義將軍。明年,授世襲謀克,擢禦院通進,遷翰林待制,兼修起居注,轉國子司業,兼左補闕。正隆初,轉符寶郎,在宮職凡五年,皆帶劍押領宿衛。遷大宗正丞,以母憂去官。以本官起複,未幾,遷侍衛親軍馬軍都指揮使,改左驍騎都指揮使。明年,海陵幸南京,宗敘至汴。契丹撒八反,宗敘為咸平尹,兼本路兵馬都總管,以甲仗四千付之,許以便宜。

宗敘は松亭関を出て、広寧において牛遞を取った。世宗の即位を聞き、これに帰順しようとした。広寧尹按荅海の弟燕京が宗敘を諫めたので、興中に還った。白彦敬・紇石烈志寧が宗敘を使者として降表を奉らせた。宗敘は梁魚務において世宗に謁し、寧昌軍節度使を授けられた。

原文宗敘出松亭關,取牛遞于廣寧。聞世宗即位,將歸之。廣甯尹按荅海弟燕京勸宗敘,乃還興中。白彥敬、紇石烈志甯使宗敘奉表降。宗敘見世宗于梁魚務,授甯昌軍節度使。

翌年二月、契丹が寧昌を攻撃した。宗敘には女直・渤海の騎兵三十、漢兵百二十人しかおらず、自らこれを撃った。賊千余騎に遭遇し、漢兵は皆散走した。宗敘は女直・渤海の三十騎と共に鋭鋒えいほうを尽くして力戦し、身に二箇所の傷を受け、乗っていた馬は矢に中って倒れ、遂に捕らえられた。百余日を経て、賊中に臨潢の民移刺阿塔らがおり、馬を盗んで与えたので、脱出して帰還することができた。

原文明年二月,契丹攻甯昌,宗敘止有女直、渤海騎兵三十、漢兵百二十人,自將擊之。遇賊千餘騎,漢兵皆散走,宗敘與女直、渤海三十騎盡銳力戰,身被二創,所乘馬中箭而僕,遂為所執。居百餘日,會賊中有臨潢民移刺阿塔等,盜馬授之,得脫歸。

宗敘は賊中に長く在って、その虚実をことごとく知り、元帥完顔謀衍・平章政事完顔元宜に会い、これに謂いて曰く、「賊の衆は烏合にして、紀律なく、これを破るは易きのみ」と。ここにおいて帥府は軍職を授けんと欲す。宗敘は謀衍の鹵掠を貪り、事機を失するを見て、帰りて上に白せんと欲し、職を受くるを肯ぜず、曰く、「我に機密あり、須らく面奏すべし」と。この夕、すなわち遁れ去り、広寧に至り、矯って駅馬を取り、馳せて京師に至る。しかるに帥府は先んじて事を以て聞かしむ。上は中使を遣わしてこれを詰めて曰く、「汝は節度たり、衆寡を度らず、戦いに敗れて獲らる。幸いに脱して帰るを得たり。乃ち帥府の命を拒み、輒ち自ら伝駅に乗りて都に赴く。朕は姑く汝の罪を置く。速やかに軍に還り、力を併せて賊を破れ」と。宗敘は奏を附して曰く、「臣は難きを辞する者に非ず。事須らく面奏すべし。来らざるを得ず」と。ここにおいて召し入れて、すなわち賊中の虚実及び諸軍の進退事機に合わざる状を条奏す。詔して大臣に議せしむ。皆その言を以て然りとす。この時、すでに詔して僕散忠義に謀衍に代わり元帥と為して進討せしむ。ここにおいて宗敘を兵部尚書に拝し、本職を以て右翼都統を領し、宗寧・烏延査刺・烏林荅刺撒の兵各千人を率い、号して三万とし、忠義の軍を佐けしむ。花道に至り、賊に遇い、これと戦う。左翼都統宗亨先ず敗走し、忠義も亦引いて却く。宗敘は本部を勒してこれを遮撃し、麾下の士三百を帳下にし、馬を捨てて歩戦す。賊は逞うするを得ず。大軍は整列して復た至り、勢いを合してこれを撃つ。賊はすなわち敗れ去る。しかして元帥右監軍紇石烈志寧は軍を率いて至り、窩斡を陷泉に追い及び、これを大破す。復た志寧及び徒単克寧とともに、七渡河に追い至り、復たこれを大敗す。元帥忠義はすなわち宗敘を留めて自ら従わしむ。賊平ぐ。入りて右宣徽使と為る。

原文宗敘陷賊久,盡得其虛實,見元帥完顏謀衍、平章政事完顏元宜,謂之曰:「賊眾烏合,無紀律,破之易耳。」於是帥府欲授軍職,宗敘見謀衍貪鹵掠,失事機,欲歸白上,不肯受職,曰:「我有機密,須面奏。」是夕,乃遁去,至廣寧,矯取驛馬,馳至京師。而帥府先事以聞,上遣中使詰之曰:「汝為節度,不度眾寡,戰敗被獲,幸得脫歸,乃拒帥府命,輒自乘傳赴都,朕姑置汝罪,可速還軍,並力破賊。」宗敘附奏曰:「臣非辭難者,事須面奏,不得不來。」遂召入,乃條奏賊中虛實,及諸軍進退不合事機狀。詔大臣議,皆以其言為然。是時,已詔僕散忠義代謀衍為元帥進討,於是拜宗敘為兵部尚書,以本職領右翼都統,率宗甯、烏延查刺、烏林荅刺撒兵各千人,號三萬,佐忠義軍。至花道,遇賊,與戰,左翼都統宗亨先敗走,忠義亦引卻,宗敘勒本部遮擊之,麾帳下士三百,舍馬步戰,賊不得逞。大軍整列複至,合勢擊之,賊遂敗去。而元帥右監軍紇石烈志寧率軍至,追及窩斡於陷泉,大破之。複與志甯及徒單克寧,追至七渡河,複大敗之。元帥忠義遂留宗敘自從。賊平,入為右宣徽使。

宋兵は海州を拠り、将に深く入らんと謀る。詔して宗敘を以て元帥右監軍と為し、往きてこれを禦がしむ。宗敘は山東に駐り、兵を分かち要害を拠り守らしむ。敵は西するを得ず。尋いで詔を奉じ、左副元帥紇石烈志寧とともに軍事を参議す。四年、宗敘は朝に入り、奏して曰く、「暑月近し。兵を辺陲に頓す。飛挽頗る艱し。乞うらくは秋涼を俟ちて進発せん」と。上その請に従う。及び軍に還り、成算を授け、襲衣・弓矢を賜う。九月、淮を渡る。宗敘は唐・鄧より出で、襄陽に至るに及び、屡戦みな捷す。明年、宋人和を請う。軍還る。河南路統軍使を除く。

原文宋兵據海州,將謀深入。詔以宗敘為元帥右監軍,往禦之。宗敘駐山東,分兵據守要害,敵不得西。尋奉詔,與左副元帥紇石烈志甯參議軍事。四年,宗敘入朝,奏曰:「暑月在近,頓兵邊陲,飛挽頗艱,乞俟秋涼進發。」上從其請。及還軍,授以成算,賜襲衣、弓矢。九月,渡淮,宗敘出唐、鄧,比至襄陽,屢戰皆捷。明年,宋人請和,軍還,除河南路統軍使。

河は李固渡に決し、曹・単の間に分流す。詔して都水監梁肅を遣わして河決を視せしむ。宗敘言う、「河道填淤して水を受けず、故に決溢の患いあり。今、河をして故道に復せんと欲す。卒に難くして成功す。幸いに塞ぐべくんば、他日免れずして山東に決溢せん。曹・単の比に非ずなり。河に沿える数州、驟に大役を興せば、人心動揺し、恐らくは宋人間を乗じて扇ぎ誘い、辺患を構えん」と。梁肅も亦両河の分流を聴き、以て水勢を殺さんことを請う。ここにおいて止めて塞がず。

原文河決李固渡,分流曹、單之間。詔遣都水監梁肅視河決,宗敘言:「河道填淤不受水,故有決溢之患。今欲河複故道,卒難成功,幸而可塞,它日不免決溢山東,非曹、單比也。沿河數州,驟興大役,人心動搖,恐宋人乘間扇誘,構為邊患。」梁肅亦請聽兩河分流,以殺水勢,遂止不塞。

十年、京師に召し至らしめ、参知政事に拝す。上曰く、「卿の奏する黄河の利害、甚だ朕が意に合う。朕は百姓の差調、官吏の奸を為すを念う。率いて斂むること星火の如く、費うところ倍蓰し、委積ること経年、腐朽して復た用うべからず。若し此の等の類、百孔千瘡、百姓何を以てか之に堪えん。卿、朝政に参ず。利を択びて行い、以て朕が心に副えよ」と。及び上と南辺の事を論ずるに、宗敘曰く、「南人は諜を遣わし来たり、多く我が事情を得。我が諜人を遣わすは、多くその実を得ず。蓋れ彼は厚賞を以てする故なり」と。上曰く、「彼は厚利を以て諜人に資す。徒らにその財を費やすのみ。何か能く為さんや」と。

原文十年,召至京師,拜參知政事,上曰:「卿奏黃河利害,甚合朕意。朕念百姓差調,官吏為奸,率斂星火,所費倍蓰,委積經年,腐朽不可複用,若此等類,百孔千瘡,百姓何以堪之。卿參朝政,擇利而行,以副朕心。」及與上論南邊事,宗敘曰:「南人遣諜來,多得我事情。我遣諜人,多不得其實。蓋彼以厚賞故也。」上曰:「彼以厚利資諜人,徒費其財,何能為也。」

十一年、詔を奉じて辺を巡る。六月、軍中に至る。将に戦わんとす。疾あり。詔して右丞相紇石烈志寧に代わらしむ。宗敘還る。七月、病甚だ篤し。表を遺して朝政の得失及び辺防の利害を遺し、力を疾に疾め、その子をして上らしむ。薨ず。年四十六。上その遺表を見、傷悼已まず、朝を輟み、宣徽使敬嗣暉を遣わして祭を致し、賻として銀千両・彩四十端・絹四百匹を賜う。上、宰臣に謂いて曰く、「宗敘は国家に勤労す。他人及びぶべからざるなり」と。

原文十一年,奉詔巡邊。六月,至軍中,將戰,有疾,詔以右丞相紇石烈志甯代,宗敘還。七月,病甚,遺表朝政得失,及邊防利害,力疾,使其子上之。薨,年四十六。上見其遺表,傷悼不已,輟朝,遣宣徽使敬嗣暉致祭,賻銀千兩、彩四十端、絹四百匹。上謂宰臣曰:「宗敘勤勞國家,他人不能及也。」

初め、宗敘は嘗て貧民を募りて辺を戍り屯田せしめ、廩粟を給し、既に貧者は艱食の患いなく、而して富家は更代の労を免れ、専ら農業に得ることを請う。上その言を善しとす。しかれども未だ行わず。十七年、上、宰臣に謂いて曰く、「辺を戍るの卒、歳ごとに寒暑を冒し、往来して番休す。馬牛を以て往きて戍るは、往々にして皆死す。且つその農時を奪い、その生業を敗る。朕甚だ之を閔む。朕は百姓をして田裏に安んぜしめ、而して辺圉を強固にせんと欲す。卿等何の術を以てか致し得ん」と。左丞相良弼曰く、「辺地は耕種に堪えず、久しく戍るべからず。故に番代するのみ」と。上曰く、「卿等は此の急務を以て未だの事と為すか。往年、参政宗敘嘗て朕に此の事を言えり。宗敘の若きは、国に尽心すと謂うべし。今、両路招討司・烏古裏石壘部族・臨潢・泰州等の路を以て、分かち堡戍を置き、詳定して以て聞かしめよ。朕将に親しく覧ん」と。

原文初,宗敘嘗請募貧民戍邊屯田,給以廩粟,既貧者無艱食之患,而富家免更代之勞,得專農業。上善其言,而未行也。十七年,上謂宰臣曰:「戍邊之卒,歲冒寒暑,往來番休,以馬牛往戍,往往皆死。且奪其農時,敗其生業,朕甚閔之。朕欲使百姓安于田裏,而邊圉強固,卿等何術可以致死。」左丞相良弼曰:「邊地不堪耕種,不能久戍,所以番代耳。」上曰:「卿等以此急務為未事耶。往歲,參政宗敘嘗為朕言此事。若宗敘,可謂盡心于國者矣。今以兩路招討司、烏古裏石壘部族、臨潢、泰州等路,分置堡戍,詳定以聞,朕將親覽。」

上は宗敘を追念し、その子孫の家用給せざるを聞き、詔して銭三千貫を賜う。明昌五年、世宗廟廷に配享す。

原文上追念宗敘,聞其子孫家用不給,詔賜錢三千貫。明昌五年,配享世宗廟廷。