斡魯
高永昌は渤海人で、遼において裨将となり、兵三千を率いて東京の八甔口に屯した。永昌は遼の政が日に敗れるを見、太祖が兵を起こし、遼人が支えられないのを見て、遂に非常を覬覦した。この時、東京の漢人と渤海人には怨みがあり、多く渤海人を殺した。永昌は乃ち諸渤海を誘い、その戍卒と共に人をして東京を占拠せしめ、旬月の間に、遠近呼応し、兵八千人有り、遂に帝を僭称し、元号を隆基と改めた。遼人はこれを討ったが、久しく勝つことができなかった。
永昌は撻不野・杓合を使者として、幣を以て太祖に救いを求め、且つ曰く、「力を併せて遼を取ることを願う」と。太祖は胡沙補を遣わして往き諭して曰く、「力を同じくして遼を取るは固より可なり。東京は近き地、汝輒もこれを拠り、以て大号を僭るは可ならんや。もし能く帰款すれば、王爵を以て処すべし。仍って遼籍に系る女直の胡突古を遣わす」と。高永昌は撻不野をして胡沙補・胡突古と偕に来させたが、永昌の上表の言辞は遜らず、且つ俘虜とした渤海人の返還を請うた。太祖は胡突古を留めて遣わさず、大薬師奴を遣わして撻不野と共に往き招諭せしめた。
斡魯が東京に向かおうとしていた時、遼兵六万が照散城を攻め来たり、阿徒罕勃堇・烏論石准が益褪の地においてこれと戦い、大いにこれを破った。五月、斡魯は遼軍と瀋州において遭遇し、これを破り、瀋州に進攻し、これを取った。永昌は瀋州を取ったと聞き、大いに懼れ、家奴の鐸刺を使者として金印一つ・銀牌五十を持たせて来させ、名号を去り、藩と称することを願った。斡魯は胡沙補・撒八を遣わしてこれに報じさせた。時に渤海の高楨が降り、永昌は真の降伏ではなく、ただ師を緩めるためであると言った。斡魯が進兵すると、永昌は遂に胡沙補らを殺し、衆を率いて来て拒んだ。沃裏活水において遭遇し、我が軍が既に渡河すると、永昌の軍は戦わずして退却し、これを追って北に至り東京の城下に至った。翌日、永昌は尽くその衆を率いて来て戦い、また大いにこれを破り、遂に五千騎を以て長松島に奔った。
初め、太祖が甯江州を下した時、獲た東京の渤海人は皆これを釈放したが、往々にして途中で亡去した。諸将はこれを殺すことを請うたが、太祖は曰く、「既に敵に克ち城を下した以上、何ぞ多く殺さん。昔、先太師が嘗て敵を破り、百余人を獲て釈放したが、皆亡去した。既にして、往々にしてその部人を招き来降させた。今この輩が亡去しても、後日必ず効用する者あらん」と。ここに至り、東京の人恩勝奴・仙哥らが永昌の妻子を執えて城を降ったが、これ即ち甯江州で釈放した東京の渤海人である。先太師とは、蓋し世祖を謂うのであろう。間もなく、撻不野が永昌及び鐸刺を執えて献じ、皆これを殺した。ここにおいて、遼の南路の系籍女直及び東京の州県は尽く降った。
斡魯を以て南路都統・迭勃極烈と為し、烏蠢を留めて東京の事を知らしめた。詔して遼の法を除き、賦税を省き、猛安謀克を置くこと一に本朝の制の如くせしめた。九月、斡魯は婆魯買水において上謁し、上はこれを慰労した。辛亥、斡魯の第に幸し、宴を張り、官属は皆預かり、賜賚に差があった。
燭偎水部の實裏古達が、酬斡・僕忽得を殺したので、斡魯は胡刺古・烏蠢の兵を分けてこれを討った。酬斡は宗室の子で、魁偉にして戦を善くし、年十五にして軍中に隷し、多く任用された。兵五百を以て室韋を破り、その民衆を獲た。及び燭偎水部を招降し、功を以て謀克と為った。僕忽得は初め撒改に事え、蕭海裏を討つに従い、燭偎水部を降し、行軍千戸を領した。黄龍府を破り、達魯古城に戦うに従い、皆功があった。その甯江州を破った時、渤海の乙塞補が叛いて去ったが、僕忽得が追ってこれを回復した。ここに至り、酬斡と共に害された。
斡魯は石裏罕河に至り、實裏古達は遁去したが、合撻刺山において追い及び、その首悪四人を誅し、余衆を撫定した。詔して曰く、「汝は叛亂を討平し、師衆を労せず、朕甚だこれを嘉す。酬斡らは国事に死し、その屍が河に棄てられたと聞く。氷解を俟ち、必ず求めて以て葬らしめよ。その民は三百戸を以て一謀克と為し、衆の推服する者を以てこれを領せしめ、仍ってその子弟らを質とせよ」と。斡魯は乃ち還った。天眷年中、酬斡は奉國上將軍を贈られ、僕忽得は昭義大將軍を贈られた。
斡魯は都統に従って遼主を襲い、遼主は西に走り、西京は既に降りてまた叛き、敵は城西の浮図を拠り、下より攻城者を射た。斡魯は鶻巴魯と共に浮図を攻め、これを奪い、また精鋭を以て浮図に乗り下より城中を射て、遂に西京を破った。夏國王は李良輔を使者として兵三万を将いて来たり遼を救い、天徳の境に次いだ。婁室は斡魯と軍を合してこれを撃ち破り、野穀に追い至り、数千人を殺した。夏人は澗水を渡ったが、水が暴に至り、漂溺する者は勝えざるを得なかった。遼主は陰山・青塚の間に在り、斡魯は西南路都統と為り、往きてこれを襲った。勃刺淑・撒曷懣を遣わし兵二百を以て、遼の権六院司喝離質を白水濼において襲い、これを獲た。遼主は輜重を青塚に留め、兵一万を率いて応州に往かんとした。照裏・背答を遣わし各々兵を率いてこれを邀え、宗望が奄かに遼主の営に至り、その妻・子・宗族を尽く俘虜とし、その伝国璽を得た。斡魯は使者を遣わして捷を奏して曰く、「陛下の威霊に頼り、屡々敵兵を破り、遼主は帰する所なく、勢い必ず来降せん。已に隣境を厳戒し、宋人を納れざらしめ、軍糧を合して饋らしめ、銀術可をして代州に往きてこれを受けしめん」と。詔して曰く、「有功の将士に遍く諭せ。朕の彼に至るを俟ち、当に次第に推賞すべし。遼主の戚属はその輿帳を去らしむることなく、善く撫存せよ。遼主は伶俜として国を去り、悲を懐き恥を負い、その命を隕すを恐る。孽は自ら作るとはいえ、嘗て大位に居り、深く忍びざる所なり。もし招きて肯来すれば、その宗族をこれに付すべし。已に楊璞を遣わし宋に糧を征せしむ。銀術可は須らく往くことなからん。遼の趙王習泥烈及び諸官吏は、並びにその罪を釈し、且つこれを撫慰せよ」と。
子の撒八は、銀青光禄大夫。子の賽裏。
斡魯古勃堇
斡魯古勃堇は、宗室の子である。太祖が遼を伐つに当たり、斡魯古と阿魯を遣わして斡忽・急賽両路の系遼女直を撫諭させ、遼の節度使撻不也と戦い、これを破り、撻不也を斬り、酷輦嶺の阿魯台罕等十四太彎は皆降り、斡忽・急賽両路もまた降った。遼の都統実婁と鹹州の西で戦い、これを破り、実婁を陣中に斬り、婁室と共に鹹州を克った。陁満忽吐はその部を率いて斡魯古に降り、隣部の戸七千もまた来帰し、遂に遼の将喝補と戦い、その軍数万人を破った。太祖はこれを嘉し、咸州軍帥とした。
斡魯が東京において高永昌を伐つと、斡魯古は鹹州軍を以てこれを佐けた。遼の秦晋国王耶律捏裏が来伐し、迪古乃・婁室・婆盧火等が二万の衆を将い、斡魯古の鹹州兵と合してこれを撃ちに行った。
胡突古は嘗て叛いて遼に入り、東京に居たが、高永昌が東京を拠ると、太祖はこれを索めて帰した。斡魯古が永昌を伐つに当たり、便宜を以て胡突古を千戸に署した。散都魯・訛魯補は皆功が無かったが、また便宜を以て官を除いた。また便宜を以て権謀克の斛抜魯・黄哥・達及び保等の職を解いたが、皆その罪ではなかった。太祖がこれを聞き、尽く斛抜魯等の謀克を復し、胡突古等は皆罷め去らせた。
太祖は斡魯古の軍中に往々にして馬が欠け、官馬が多く私家に匿されていると聞き、遂にこれを検括した。耶律捏裏・仏頂が斡魯古に書を遺わし、和を請うた。斡魯古は捏裏の書及びそれに答えた書を来上し、且つ請うて曰く、「再び書問があれば、宜しく如何にこれを報ずべきか」と。詔して曰く、「若し彼が再び来て和を請わば、汝は阿疏等の叛亡を以てし、索めて獲られずして交兵に至り、我が行人賽刺もまた遣還せざることを告げよ。若し賽刺を帰し、及び阿疏等を送れば、則ち和好の議方ぞ敢えて奏聞すべし。仍って議和が実ならざるを恐れ、備禦を失うなかれ」と。
耶律捏裏が軍を蒺藜山に置くと、斡魯古は兵一万を以て東京を戍った。太祖は迪古乃・婁室を遣わし、重ねて兵一万を以てこれを益やし、詔して曰く、「遼主は道を失い、命を肆にして徂征す。惟れ爾が将士は、朕が意を体し、命を拒む者はこれを討ち、服する者はこれを撫安せよ。俘掠を貪る毋く、殺戮を肆にする毋かれ。賜う所の捏裏への詔書は、伝致すべし」と。捏裏に詔して曰く、「汝等誠に和を請わんと欲せば、当に昏主を廃黜し、賢者を択び立て、朕が吊伐の意に副い、然る後に和約を議すべし。然らずんば、当に尽く爾が国を併すべし。其れ審らかにこれを図れ」と。捏裏が重ねて斡魯古に書を送り、云うには、「降り去った人痕孛を還せば、則ち当に阿疏等を送らん」と。上曰く、「痕孛等は交兵の後に来降したものであり、阿疏は則ち平日に罪を以て亡れ去った者で、その事は特に異なる」と。重ねて捏裏に詔し、今月十三日に阿疏を顕州に送り至らしめ、各々重臣を遣わして疆場の事を議せしめよと。
斡魯古等が顕州を攻めると、東京知事完顔斡論が兵を率いて来会し、即ち兵三千を以て先んじて遼水を渡り、降戸千余を得、遂に顕州に迫った。郭薬師が夜に乗じて来襲したが、斡論がこれを撃ち走らせた。斡魯古等は遂に捏裏等と蒺藜山で戦い、大いに遼兵を破り、北に追って阿裏真陂に至り、仏頂の家眷を獲た。遂に顕州を囲み、その城の西南を攻め、軍士の神篤が城を逾えて先に入り、その仏寺を焼き、煙焰が人に撲り、守陴する者は立つことができず、諸軍がこれに乗じ、遂に顕州を抜いた。ここに於いて、乾・懿・豪・徽・成・川・恵等の州は皆降った。乾州は後に閭陽県となり、遼の諸陵多くここに在り、犯すこと無きを禁じた。成・川州の人を同・銀二州に徙して居らしめた。
捏裏が重ねて書を以て和を請うと、斡魯古は前の詔に承り、阿疏を言として、これに答えた。軍を顕州に駐めて命を聴いた。斡魯古等に馬十匹を賜い、詔して曰く、「汝等は力をもって大敵を摧き、諸城を攻め下し、朕は甚だこれを嘉す。遼主未だ獲られず、人心は動揺し易し。戦勝に恃んで備禦を失うべからず」と。遼の双州節度使張崇が降ると、斡魯古は便宜を以てその職を復することを命じ、仍って世襲せしめた。
斡魯古は久しく鹹州に在り、多く功を立てたが、また多く自ら恣にし、劾裏保・双古等が斡魯古の不法の事を告げた。遼帝が中京に在り追襲すべきなのに追襲せず、鹹州の糧草は豊かに足りているのに奏上の数は実を以てせず、顕州を攻めて獲た生口財畜を多く自ら取ったと。捏裏・孛刺束等もまた孛堇の瞢葛・麻吉・窩論・赤閏・阿刺本・乙刺等が多く生口財畜を取ったと告げた。遂に闍哥を以て代わりに咸州路都銑とした。
闍哥もまた宗室の子であり、既に斡魯古に代わって鹹州を治めた。初め、迪古乃・婁室が奏し、顕州の新たに降附した民は、その富める者を咸州路に遷し、その貧しき者を内地に徙すべしと。ここに於いて、詔して闍哥を使わし、その才幹事に堪える者を択び謀克を授け、その豪右で誠心帰附する者を猛安に擬し、その姓名を録して聞かせ、饑貧の民は官が賑給し、而して闍母をその副統と為すと云う。久しくして、遼の通・祺・双・遼四州の民八百余家が、鹹州都統に詣でて降った。上曰く、「遼人は賦斂に度無く、民は命に堪えず、相率いて生を求む。失望せしむべからず。諸部に分置し、善き地を択び以てこれを処せよ」と。
婆盧火
婆盧火は安帝の五代孫である。太祖が遼を討つに当たり、婆盧火をして迪古乃の兵を徴発させたが、期日に遅れたので、杖刑に処した。後に渾黜とともに四千人を率い、婁室・銀術哥を助けて黄龍府を攻撃した。辞勒罕・撒孛得兄弟は直攧裏部の人で、かつて耶懶路を寇掠し、穆宗は婆盧火を派遣してこれを討たせた。阿裏門河に至ると、辞勒罕は偽って降伏し、馬畜三百を略奪して去り、さらに兀勒部の二十五寨を掠奪した。太祖は再び婆盧火を派遣してこれを討たせた。婆盧火は蘇袞河を渡り、付近の諸部を招降し、壮丁を籍して軍とし、特滕呉水に至ると、轍孛得が偽って降伏し、再び叛いて去ったので、捕らえてこれを殺した。婆盧火は特鄰城に至り、これを包囲すると、辞勒罕は遁走した。婆盧火はその城を破り、その妻子を捕らえると、辞勒罕は遂に降伏し、「我が馬牛財貨は尽き果てた。何をもって生計を立てようか」と言った。婆盧火はこれに馬十匹を与えた。直攧裏部は良馬を産出し、太祖は紇石烈阿習罕をしてその畜牧を掌らせ、婆盧火およびその子婆速は、ともに謀克となった。
天輔五年、諸路の猛安から一万余戸を選び取り、泰州に屯田させ、婆盧火を都統とし、耕牛五十頭を賜った。婆盧火は旧く按出虎水に居住していたが、ここに至って泰州に移住し、拾得・査端・阿裏徒歓・奚撻罕らを派遣してともに移住させた。ただ族子の撒刺喝はかつて世祖の養子であったため、ただ一人移住しなかった。
太祖が燕京を取るに当たり、婆盧火は右翼となり、兵を率いて居庸関から出撃し、遼兵を大いに破り、遂に居庸を取った。蕭妃は遁走し、都監高六らが来て帰順を乞い降伏した。習古乃は蕭妃を古北口まで追ったが、蕭妃は既に三日過ぎており、追い及ばずに帰還した。上は婆盧火・胡実賚に軽騎を率いて追撃させたが、蕭妃は既に遠く去っており、その従官の統軍察刺・宣徽査刺およびその家族、ならびに銀牌二面・印十一個を獲た。
及び迭刺が叛くと、婆盧火・石古乃がこれを討平し、その群官で衆を率いて降伏した者は、そのままその部を統領させた。太宗は空名の宣頭および銀牌をこれに与えた。
同時に婆盧火という者がいた。婁室が陝西を平定する際、婆盧火・繩果が監戦した。後に平陽尹・西南路招討使となり、慶陽尹の任で没した。
吾紮忽
婆速は官は特進であり、子に吾紮忽がいた。
大定初、咸平尹に除され、泰州に駐軍した。まもなく臨潢尹に改め、元帥左都監を摂した。広寧尹僕散渾坦とともに元帥右都監神土懣に従い臨潢の包囲を解いた。契丹が衆を率いて東行すると、吾紮忽は窊歴山で追い及んだ。押軍猛安の契丹忽刺叔が配下の兵をもって敵を助け、官軍を攻撃したため、官軍は敗北した。泰州節度使烏裏雅が救援に来たが、未だ臨潢に至らず敵と遭遇し、烏裏雅は敗れ、僅かに数騎で脱出して帰還した。敵は泰州を攻め、その勢いは大いに振るい、城中は震駭し、将士は出戦しようとせず、敵は四面から城に登った。押軍猛安烏古孫阿裏補が軍士数人を率いて鈐刀を持ち城壁を巡り、敵に応じて力戦し、多くを斬り殺したので、敵は退き、泰州は保全された。吾紮忽は謀克蒲盧渾を使い、百姓を傍邑および険阻の地に移し、大軍を待った。翌年、甲士一万三千を済州に集結させ、元帥謀衍と会し、長濼において窩斡を破った。霿箣松河で戦い、陥泉で戦い、いずれも功績があり、胡裏改節度使に改められ、卒した。
吾紮忽は性質聡敏で才智があり、軍を用いることに長け、常に敵の不意を衝いたので、寡をもって衆に敵し、赴くところ克たざるはなく、「鶻軍」と号されたという。
闍母
及び斡魯古が罪により咸州を去ると、闍母氏がこれに代わり、ここにおいて闍母は咸州路副統となった。遼との和議が久しく成らず、太祖が進兵すると、咸州路都統司に詔し、斜葛に兵一千を留めて鎮守させ、闍母に余兵を率いて渾河で合流させた。太祖が上京(実は臨潢府)を攻撃し、降伏を諭したが下らなかった。遼人は蓄積を恃んで自らを固守した。上自ら陣に臨むと、闍母は衆を率いて先に登城し、その外城を攻克し、留守撻不野が衆を率いて出降した。都統杲の兵が中京に至ると、闍母は城西より土河に沿って進軍し、城中の兵はなお三千余りいたが、皆守ることができず、遂にこれを攻克した。
宗翰らが西京を攻撃し、闍母・婁室らは城東に木洞を築いて矢石を防ぎ、北隅では藁で壕を埋めた。城中より一万余の兵が出撃し、これを焼こうとした。温迪罕蒲匣が衆を率いて力戦し、旗を持つ者が傷つくと、蒲匣自ら旗を執り、奮撃してこれを退けた。また四輪の革車を作り、城壁より高くし、闍母は麾下と共に車に乗って先登し、諸軍がこれに続き、ついに西京を陥落させた。
朔州の境において遼の歩騎五千と戦い、三百級を斬首した。また河陰において遼の騎兵三百を破った。遼兵五千が馬邑県の南に駐屯していたが、再びこれを撃破し、その営塁を破壊し、車馬・器械をことごとく得た。遼兵三万が西京の西に陣営を布いていたので、闍母は三千の兵でこれを撃った。闍母は士卒に皆馬を下りさせ、溝塁の間に陣を布き、「一をもって十を撃つには、死地に至らしめなければ戦わせることはできない」と言い、衆に「もし敵に勝たなければ、生きることを求めることはできない」と告げた。そこで人々は皆必死で戦い、遼兵は遂に敗れ、その陣営まで追撃して止んだ。翌日、再びその兵七百余人を破った。
興中府宜州が再び叛いたので、闍母がこれを討ち、併せて詔を下して招諭した。詔に闍母に「遼の土地は皆我が有とするところであり、彼らがたとえ再び叛いても、結局は皆我が民である。その耕作を許し、侵掠してはならない」とある。勃堇の蒙刮・斜缽・吾撻らが契丹の九斤を捕らえ、興中は平定された。
闍母は南路都統となり、回離保を討った。詔に「回離保は烏合の衆をもって険阻な地を保拠しているが、その勢いは必ず自滅するであろう。もし彼が出て掠めなければ、攻討するには及ばない」とある。耶律奧古哲らが景州・薊州の間で回離保を殺害し、その衆は遂に潰走した。
張覚が平州を拠りて叛き、宋に入ったので、闍母は錦州より往きてこれを討った。張覚は兵をもって遷・来・潤・隰の四州の民を脅迫しようとしたが、闍母が潤州に至り、張覚軍を撃退し、敗走する敵を追って榆関に至り、捕虜に書を持たせて招諭した。また営州の東北で張覚の兵を破り、勝に乗じて南京を取ろうとした。時に暑雨の季節であったため、海鹆需に退いて屯し、水草を逐って休息し、僕虺・蒙刮の両猛安に潤州に屯させ、未だ降伏せぬ州県を制し、張覚と交通することを許さなかった。九月、闍母は新安で張覚の将王孝古を破り、楼峰口で張覚軍を破った。また兔耳山で張覚と戦い、闍母は大敗した。太宗は宗望を遣わして闍母の敗軍の状況を問わせ、宗望は遂に闍母の軍を率いて張覚を討った。宗望が張覚を破ると、太宗は闍母を赦し、宗望を朝廷に召し還した。
闍母は偽都統張敦固を連破し、遂に南京を陥落させ、張敦固を捕らえて殺した。上は使者を遣わしてこれを迎え労い、詔して「南京を下し、兵民を撫定したことは甚だ善い。諸軍の賞は、卿が差等を付けて与えよ」と言い、また詔して「南京の境界は旧の如く、兵を屯してこれを鎮めよ。有司に命じて米五万石を広寧に運ばせ、南京・潤州の戍卒に給せよ」と言った。遂に宜州を下し、叉牙山を抜き、その節度使韓慶民を殺し、糧五千石を得た。詔して南路が凶作であるため、田猟を許した。
その後、宋の童貫・郭薬師が兵を整えたが、闍母は降人を通じてこれを知るや、即時に詳細に奏上した。その言葉は宋事の中にある。そして宗翰・宗望は皆宋を伐つことを請うたので、ここにおいて闍母は宗望の副将として宋を伐ち、宗望は闍母が尊属であり、先皇帝に任用されて功績があったため、都統とし、己は戦事を監することとした。ここにおいて闍母は都統となり、掃喝がこれを副い、白河において郭薬師の兵を破り、遂に燕山を降し、先鋒として河を渡り汴を包囲した。宋人は盟を請うた。将士は安肅・雄・霸・広・信の境に分屯し、宗望は山西に還り、闍母は劉彥宗と共に燕京に留まり、諸軍を節制した。
八月、再び宋を伐ち、大軍は汴州を陥落させ、諸軍は城上に屯した。城中の諸軍が潰走して西に出た者は十三万人に及び、闍母・撻懶が分かれてこれを撃ち、大いに破った。軍が還ると、闍母は元帥左都監となり、河間を攻めてこれを下し、莫州において敵兵一万余を大破した。宗輔が右副元帥となり、淄・青の地を巡行した。闍母は宗弼と分兵して山谷の諸屯を破った。宋の李成が兵を率いて淄州を包囲したが、烏林荅泰欲がこれを破った。闍母は濰州を陥落させた。迪古補・術烈速が相次いで趙子昉らの兵を破り、河上に至った。烏林荅泰欲が霊城鎮において敵を破った。康王を伐つに及び、闍母は先ず河北を平定してから進討すべきとし、太宗は群議の中から斟酌し、婁室に陝西を取らせ、宗翰・宗輔に南伐させた。
子に宗敘あり。
子に宗敘あり。
宗敘は松亭関を出て、広寧において牛遞を取った。世宗の即位を聞き、これに帰順しようとした。広寧尹按荅海の弟燕京が宗敘を諫めたので、興中に還った。白彦敬・紇石烈志寧が宗敘を使者として降表を奉らせた。宗敘は梁魚務において世宗に謁し、寧昌軍節度使を授けられた。
翌年二月、契丹が寧昌を攻撃した。宗敘には女直・渤海の騎兵三十、漢兵百二十人しかおらず、自らこれを撃った。賊千余騎に遭遇し、漢兵は皆散走した。宗敘は女直・渤海の三十騎と共に鋭鋒を尽くして力戦し、身に二箇所の傷を受け、乗っていた馬は矢に中って倒れ、遂に捕らえられた。百余日を経て、賊中に臨潢の民移刺阿塔らがおり、馬を盗んで与えたので、脱出して帰還することができた。
宗敘は賊中に長く在って、その虚実をことごとく知り、元帥完顔謀衍・平章政事完顔元宜に会い、これに謂いて曰く、「賊の衆は烏合にして、紀律なく、これを破るは易きのみ」と。ここにおいて帥府は軍職を授けんと欲す。宗敘は謀衍の鹵掠を貪り、事機を失するを見て、帰りて上に白せんと欲し、職を受くるを肯ぜず、曰く、「我に機密あり、須らく面奏すべし」と。この夕、すなわち遁れ去り、広寧に至り、矯って駅馬を取り、馳せて京師に至る。しかるに帥府は先んじて事を以て聞かしむ。上は中使を遣わしてこれを詰めて曰く、「汝は節度たり、衆寡を度らず、戦いに敗れて獲らる。幸いに脱して帰るを得たり。乃ち帥府の命を拒み、輒ち自ら伝駅に乗りて都に赴く。朕は姑く汝の罪を置く。速やかに軍に還り、力を併せて賊を破れ」と。宗敘は奏を附して曰く、「臣は難きを辞する者に非ず。事須らく面奏すべし。来らざるを得ず」と。ここにおいて召し入れて、すなわち賊中の虚実及び諸軍の進退事機に合わざる状を条奏す。詔して大臣に議せしむ。皆その言を以て然りとす。この時、すでに詔して僕散忠義に謀衍に代わり元帥と為して進討せしむ。ここにおいて宗敘を兵部尚書に拝し、本職を以て右翼都統を領し、宗寧・烏延査刺・烏林荅刺撒の兵各千人を率い、号して三万とし、忠義の軍を佐けしむ。花道に至り、賊に遇い、これと戦う。左翼都統宗亨先ず敗走し、忠義も亦引いて却く。宗敘は本部を勒してこれを遮撃し、麾下の士三百を帳下にし、馬を捨てて歩戦す。賊は逞うするを得ず。大軍は整列して復た至り、勢いを合してこれを撃つ。賊はすなわち敗れ去る。しかして元帥右監軍紇石烈志寧は軍を率いて至り、窩斡を陷泉に追い及び、これを大破す。復た志寧及び徒単克寧とともに、七渡河に追い至り、復たこれを大敗す。元帥忠義はすなわち宗敘を留めて自ら従わしむ。賊平ぐ。入りて右宣徽使と為る。
宋兵は海州を拠り、将に深く入らんと謀る。詔して宗敘を以て元帥右監軍と為し、往きてこれを禦がしむ。宗敘は山東に駐り、兵を分かち要害を拠り守らしむ。敵は西するを得ず。尋いで詔を奉じ、左副元帥紇石烈志寧とともに軍事を参議す。四年、宗敘は朝に入り、奏して曰く、「暑月近し。兵を辺陲に頓す。飛挽頗る艱し。乞うらくは秋涼を俟ちて進発せん」と。上その請に従う。及び軍に還り、成算を授け、襲衣・弓矢を賜う。九月、淮を渡る。宗敘は唐・鄧より出で、襄陽に至るに及び、屡戦みな捷す。明年、宋人和を請う。軍還る。河南路統軍使を除く。
河は李固渡に決し、曹・単の間に分流す。詔して都水監梁肅を遣わして河決を視せしむ。宗敘言う、「河道填淤して水を受けず、故に決溢の患いあり。今、河をして故道に復せんと欲す。卒に難くして成功す。幸いに塞ぐべくんば、他日免れずして山東に決溢せん。曹・単の比に非ずなり。河に沿える数州、驟に大役を興せば、人心動揺し、恐らくは宋人間を乗じて扇ぎ誘い、辺患を構えん」と。梁肅も亦両河の分流を聴き、以て水勢を殺さんことを請う。ここにおいて止めて塞がず。
十年、京師に召し至らしめ、参知政事に拝す。上曰く、「卿の奏する黄河の利害、甚だ朕が意に合う。朕は百姓の差調、官吏の奸を為すを念う。率いて斂むること星火の如く、費うところ倍蓰し、委積ること経年、腐朽して復た用うべからず。若し此の等の類、百孔千瘡、百姓何を以てか之に堪えん。卿、朝政に参ず。利を択びて行い、以て朕が心に副えよ」と。及び上と南辺の事を論ずるに、宗敘曰く、「南人は諜を遣わし来たり、多く我が事情を得。我が諜人を遣わすは、多くその実を得ず。蓋れ彼は厚賞を以てする故なり」と。上曰く、「彼は厚利を以て諜人に資す。徒らにその財を費やすのみ。何か能く為さんや」と。
十一年、詔を奉じて辺を巡る。六月、軍中に至る。将に戦わんとす。疾あり。詔して右丞相紇石烈志寧に代わらしむ。宗敘還る。七月、病甚だ篤し。表を遺して朝政の得失及び辺防の利害を遺し、力を疾に疾め、その子をして上らしむ。薨ず。年四十六。上その遺表を見、傷悼已まず、朝を輟み、宣徽使敬嗣暉を遣わして祭を致し、賻として銀千両・彩四十端・絹四百匹を賜う。上、宰臣に謂いて曰く、「宗敘は国家に勤労す。他人及びぶべからざるなり」と。
初め、宗敘は嘗て貧民を募りて辺を戍り屯田せしめ、廩粟を給し、既に貧者は艱食の患いなく、而して富家は更代の労を免れ、専ら農業に得ることを請う。上その言を善しとす。しかれども未だ行わず。十七年、上、宰臣に謂いて曰く、「辺を戍るの卒、歳ごとに寒暑を冒し、往来して番休す。馬牛を以て往きて戍るは、往々にして皆死す。且つその農時を奪い、その生業を敗る。朕甚だ之を閔む。朕は百姓をして田裏に安んぜしめ、而して辺圉を強固にせんと欲す。卿等何の術を以てか致し得ん」と。左丞相良弼曰く、「辺地は耕種に堪えず、久しく戍るべからず。故に番代するのみ」と。上曰く、「卿等は此の急務を以て未だの事と為すか。往年、参政宗敘嘗て朕に此の事を言えり。宗敘の若きは、国に尽心すと謂うべし。今、両路招討司・烏古裏石壘部族・臨潢・泰州等の路を以て、分かち堡戍を置き、詳定して以て聞かしめよ。朕将に親しく覧ん」と。
上は宗敘を追念し、その子孫の家用給せざるを聞き、詔して銭三千貫を賜う。明昌五年、世宗廟廷に配享す。