金史

列傳第八: 撒改 習不失 石土門

列傳第八: 撒改 習不失 石土門

列傳第八 ○撒改(子:宗憲(本名阿懶)) 習不失(孫:宗亨(本名撻不也) 宗賢(本名賽里)) 石土門(弟:忠(本名迪古乃) 子:習室 思敬(本名撒改))

撒改

原文撒改

撒改は、景祖の孫、韓國公劾者の長子、世祖の兄の子である。劾者は兄弟の中では最年長であった。景祖が諸部を平定しようとしていた時、世祖の胆勇と才略を愛した。諸子が成長すると、國俗に従って別々の宮に住むこととなったが、劾者に命じて世祖と同邸とさせ、劾者は家務を専管し、世祖は外事を主管させた。世祖が節度使を襲い、劾孫を越えて肅宗、穆宗に伝えたのは、皆景祖の意志であった。穆宗が初めて位を襲ぐと、劾者が長兄でありながら立つことができなかったことを思い、遂に撒改を國相に任じた。

原文撒改者,景祖孫,韓國公劾者之長子,世祖之兄子也。劾者於次最長。景祖方計定諸部,愛世祖膽勇材略。及諸子長,國俗當異宮居,而命劾者與世祖同邸,劾者專治家務,世祖主外事。世祖襲節度使,越劾孫而傳肅宗、穆宗,皆景祖志也。穆宗初襲位,念劾者長兄不得立,遂命撒改為國相。

穆宗は父兄の基業を踏み継ぎ、強梗で己に服さない者を鋤き除き、撒改に馬紀嶺の道を取らせて阿疏を攻めさせ、穆宗は自ら将となり、阿疏城下で軍を会することを期した。撒改が行き阿不塞水に至ると、烏延部の斜勒勃堇が来謁し、撒改に言うには、「國相が太師と阿疏城下で軍を会せんとしていると聞く。これは深入りして必ず取る策である。先ず潺蠢、星顯の路を撫定し、その党附を落とし、その民人を奪い、然る後に合軍するのが遅くない」と。撒改はこれに従い、鈍恩城を攻め、援軍を請うた。穆宗はこれに与え、撒改は遂に鈍恩城を攻め落とし、穆宗と来会して阿疏城下に至った。鈍恩は南にあり、阿疏は北にある。穆宗は初め撒改を分道させ、即ち会して阿疏を攻めさせた。その斜勒の計を用いて先に鈍恩城を取ったと聞き、初めの議と合わず、頗る然らずとした。及んで遼の使いが来て阿疏を攻めることを止めさせてから、初めて先に鈍恩城を取ったことを功としたのである。また國相として都統となり、留可、詐都、塢塔等の軍を討ったが、阿疏は遼に亡命し、終に敢えて帰らず、留可、詐都、塢塔、鈍恩は皆降った。

原文穆宗履藉父兄址業,鋤除強梗不服己者,使撒改取馬紀嶺道攻阿疏,穆宗自將,期阿疏城下會軍。撒改行次阿不塞水,烏延部斜勒勃堇來謁,謂撒改曰:「聞國相將與太師會軍阿疏城下,此為深入必取之策,宜先撫定潺蠢、星顯之路,落其黨附,奪其民人,然後合軍未晚也。」撒改從之,攻鈍恩城,請濟師,穆宗與之,撒改遂攻下鈍恩城,而與穆宗來會阿疏城下。鈍恩在南,阿疏在北,穆宗初遣撒改分道,即會攻阿疏。聞其用斜勒計,先取鈍恩城,與初議不合,頗不然之。及遼使來止勿攻阿疏,然後深以先取鈍恩城為功也。及以國相都統討留可、詐都、塢塔等軍,而阿疏亡入於遼,終不敢歸,留可、詐都、塢塔、鈍恩皆降。

康宗が没し、太祖が都勃極烈ぼっきょくれつと称し、撒改と分かれて諸部を治め、匹脫水以北は太祖が統べ、來流水の人民は撒改が統べた。明年甲午、節度使を嗣ぐ命がようやく至った。

原文康宗沒,太祖稱都勃極烈,與撒改分治諸部,匹脫水以北太祖統之,來流水人民撒改統之。明年甲午,嗣節度命方至。

遼主は遊畋にふけり、政事は怠り廃れた。太祖は遼が伐つべきことを知り、遂に兵を起こした。九月、遼人と境上で戦い、謝十を獲た。太祖は使いをして撒改に勝利を告げさせると、獲た謝十の乗馬を以てし、撒改及び将士は皆歓呼して言うには、「義兵が初めて遼界に至り、一戦にして勝つ。遼を滅ぼすは必ず此より始まるであろう」と。子の宗翰及び完顏希尹を遣わして来賀せしめ、因って進むことを勧めたが、太祖は未だ従わなかった。十月、師は甯江州を克ち、鴨子河において遼師十万を破り、師は還った。十二月、太宗及び撒改、辭不失は諸将を率いて再び進むことを勧めた。收國元年正月朔、太祖は即位し、撒改は従前の如く國相を行った。遼を伐つ計は迪古乃に決し、大計を賛成するは実に撒改より啓いたのである。撒改は自ら宗室の近属にして、且つ長房であり、肅宗に継いで國相となり、既に貴く且つ重きを以て、故に身を大計に任せ、かくの如く賛成し、諸人これに先んずる者はなかった。

原文遼主荒于遊畋,政事怠廢,太祖知遼可伐,遂起兵。九月,與遼人戰於界上,獲謝十,太祖使告克於撒改,則以所獲謝十乘馬,撒改及將士皆歡呼曰:「義兵始至遼界,一戰面是勝,滅遼必自此始矣。」遣子宗翰及完顏希尹來賀捷,因勸進,太祖未之從也。十月,師克甯江州,破遼師十萬於鴨子河,師還。十二月,太宗及撒改、辭不失率諸將複勸進。收國元年正月朔,太祖即位,撒改行國相如故。伐遼之計決于迪古乃,贊成大計實自撒改啟之。撒改自以宗室近屬,且長房,繼肅宗為國相,既貴且重,故身任大計,贊成如此,諸人莫之或先也。

太祖が即位した後、群臣が奏事するに、撒改等が前に跪くと、上は立ち上がり、泣いてこれを止めて言うには、「今日の成功は、皆諸君の協輔の力である。吾は大位に処すと雖も、旧俗を易え難い」と。撒改等は感激し、再拝して謝した。凡そ臣下の宴集には、太祖は嘗てこれに赴き、主人が拝すれば、上もまた答拝した。天輔の後、初めて君臣の礼を正したのである。七月、太宗は諳版勃極烈と為り、撒改は國論勃極烈、辭不失は阿買勃極烈、杲は國論昊勃極烈と為った。勃極烈は女直じょちょくの尊官である。太祖が正位号して以来、凡そ半年、封拜の聞こえなかった。太宗は介弟として優礼絶等、杲は母弟の最も幼き者、撒改、辭不失は宗室を以て、同封拜された。九月、國論胡魯勃極烈を加えられた。天輔五年、薨去した。太祖は往吊し、白馬に乗り、額を剺いて慟哭した。葬に及んで、また親臨し、自らの御馬を賵とした。

原文太祖即位後,群臣奏事,撒改等前跪,上起,泣止之曰:「今日成功,皆諸君協輔之力,吾雖處大位,未易改舊俗也。」撒改等感激,再拜謝。凡臣下宴集,太祖嘗赴之,主人拜,上亦答拜。天輔後,始正君臣之禮焉。七月,,太宗為諳版勃極烈,撒改國論勃極烈,辭不失阿買勃極烈,杲國論昊勃極烈。勃極烈,女直之尊官也。太衣自正位號,凡半歲,未聞有封拜。太宗介弟優禮絕等,杲母弟之最幼者,撒改、辭不失以宗室,同封拜。九月,加國論胡魯勃極烈。天輔五年,薨。太祖往吊,乘白馬,剺額哭之慟。及葬,,複親臨之,賵以所禦馬。

撒改の人となりは、敦厚にして智多く、人を用いるに長け、家居は純粋に倹しく、稼穡を好んだ。始めて國相となってより、能く諸部を馴服させ、訟獄はその情を得、当時に言うには、「國相を見ずして、事何に従って決せん」と。及んで兵を挙げて遼を伐つに及び、撒改は常に宗臣として内外の倚重と為り、戦が多いことを以てその功としなかった。天會十五年、燕國王を追封された。正隆に陳國公に降封された。大定三年、金源郡王に改めて贈られ、太祖廟廷に配饗され、諡して忠毅といった。十五年、詔して衍慶宮に圖像せしめた。子に宗翰、宗憲がいる。宗翰は別に傳がある。

原文撒改為人,敦厚多智,長於用人,家居純儉,好稼穡。自始為國相,能馴服諸部,訟獄得其情,當時有言:「不見國相,事何從決。」及舉兵伐遼,撒改每以宗臣為內外倚重,不以戰多為其功也。天會十五年,追封燕國王。正隆降封陳國公。大定三年,改贈金源郡王,配饗太祖廟廷,諡忠毅。十五年,詔圖像于衍慶宮。子宗翰、宗憲。宗翰別有傳。

子 宗憲

原文子 宗憲

宗憲は本名阿懶である。女直字書が頒行されると、年十六で選ばれて学に入った。太宗が学に幸すると、宗憲は諸生と共に謁し、宗憲の進止は恂雅であり、太宗は召して前に至らせ、習う所を誦せしめると、語音清亮にして、応対に善かった。侍臣が奏して言うには、「これは左副元帥宗翰の弟です」と。上は久しく嗟賞した。兼ねて契丹、漢字に通じた。未だ冠せず、後に宗翰が宋を伐ち、汴京が破れると、衆人は府庫を争って財物を取ったが、宗憲は独り図書を載せて帰った。朝廷が制度礼楽を議するに、往々にして遼の旧を因襲した。宗憲は言うには、「方今遼、宋を奄有するに当たり、遠く前古を引き、時に因りて宜しきを制し、一代の法を成すべきである。何ぞ遼人の制度を近く取るのか」と。希尹は言うには、「而の意は甚だ我と合う」と。これより器重された。

原文宗憲本名阿懶。頒行女直字書,年十六,選入學。太宗幸學,宗憲與諸生俱謁,宗憲進止恂雅,太宗召至前,令誦所習,語音清亮,善應對。侍臣奏曰:「此左副元帥宗翰弟也。」上嗟賞久之。兼通契丹、漢字。未冠,後宗翰伐宋,汴京破,眾人爭府庫取財物,宗憲獨載圖書以歸。朝廷議制度禮樂,往往因仍遼舊,宗憲曰:「方今奄有遼、宋,當遠引前古,因時制宜,成一代之法,何乃近取遼人制度哉。」希尹曰:「而意甚與我合。」由是器重之。

撻懶たつらん、宗雋が斉の地を宋に与えることを唱議すると、宗憲は廷争してこれを折った。当時その言を用いなかったが、その後宗弼が再び河南、陝西の地を取り、宗憲の策の如くであった。宗磐、宗雋を捕らえた功により、昭武大將軍を授けられ、國史を修し、累官して尚書左丞となった。熙宗は従容としてこれに謂うには、「向に河南、陝西の地を宋人に与えようとした時、卿は与うべからずと為した。今これを取り戻すのは、猶お卿の言を用いるようなものである。卿の識慮は深遠である。今より以往、其れ言を尽くして隠すことなかれ」と。宗憲は拝謝し、遂に門下侍郎を摂った。

原文撻懶、宗雋唱議以齊地與宋,宗憲廷爭折之,當時不用其言,其後宗弼複取河南、陝西地,如宗憲策。以捕宗磐、宗雋功。授昭武大將軍」修國史,累官尚書左丞。熙宗從容謂之曰:「響以河南、陝西地與宋人,卿以為不當與,今複取之,是猶用卿言也。卿識慮深遠,自今以往,其盡言無隱。」宗憲拜謝,遂攝門下侍郎。

初め、熙宗は疑いに因って左丞相希尹を殺したが、久しくしてその無罪なることを察し、深く閔惜して、宗憲に謂うには、「希尹は国に大功あり、無罪にして死す。朕その孫を録用せんとす。如何」と。宗憲は対えて言うには、「陛下深く希尹を念い、その孫を録用されるは幸甚である。若し先ず死者の無罪なることを明らかにせずんば、生者何に由って仕え得ん」と。上は言うには、「卿の言是なり」と。即日希尹の官爵を復し、その孫守道を用いて応奉翰林文字とした。皇統五年、将に赦を肆わんとし、覃恩は女直人のみに及ぶと議した。宗憲は奏して言うには、「王臣に非ざるは莫く、慶倖豈に間あらんや」と。遂にその文を改め、均しくこれに被らしめた。行台平章政事に転じた。天德初、中京留守、安武軍節度使となった。河内郡王に封ぜられた。太原尹に改め、進んで钜鹿郡王に封ぜられた。正隆の例により王爵を奪われ、再び震武、武定軍節度使に遷った。

原文初,熙宗以疑似殺左丞相希尹,久之,察其無罪,深閔惜之,謂宗憲曰:「希尹有大功于國,無罪而死,朕將錄用其孫,如之何?」宗憲對曰:「陛下深念希尹,錄用其孫,幸甚。若不先明死者無罪,生者何由得仕。」上曰:「卿言是也。」即日複希尹官爵,用其孫守道為應奉翰林文字。皇統五年,將肆赦,議覃恩止及女直人,宗憲奏曰:「莫非王臣,慶倖豈可有間邪。」遂改其文,使均被焉。轉行台平章政事。天德初,為中京留守、安武軍節度使。封河內郡王。改太原尹,進封钜鹿郡王。正隆例奪王爵,再遷震武、武定軍節度使。

世宗が即位すると、使者を遣わして彼を召し、詔して曰く、「叔父もし来ることができれば、速やかにここに至るべし。もし紇石烈志寧や白彥敬に阻まれるならば、叔父の憂いとするに及ばない」と。宗憲は世宗の即位を聞き、先んじて既に官を棄てて帰還し、使者と中都で出会い、遂に小遼口において上に謁見した。中都留守に任じられ、即ち赴任を遣わされた。詔して元帥完顏彀英と共に軍事を議することを命じた。翌年、西京留守に改める。八月、南京に改める。僕散忠義が行台より京師に朝したので、宗憲が行台尚書省事を摂行した。召されて太子太師となり、上は宗憲に謂って曰く、「卿は年老いた旧人にして、事に経ること多し。皇太子は年尚少なき、謹んで訓導せよ」と。俄かに平章政事を拝し、太子太師は元の如し。詔して『太祖実録』を宗憲及び平章政事完顏元宜、左丞紇石烈良弼、判秘書監溫王爽に各一冊賜う。

原文世宗即位,遣使召之,詔曰:「叔若能來,宜速至此,若為紇石烈志甯、白彥敬所遏,亦不煩叔憂。」宗憲聞世宗即位,先已棄官來歸,與使者遇于中都,遂見上於小遼口,除中都留守,即遣赴任。詔與元帥完顏彀英同議軍事。明年,改西京留守。八月,改南京。僕散忠義自行台朝京師,宗憲攝行台尚書省事。召為太子太師,上謂宗憲曰:「卿年老舊人,更事多矣,皇太子年尚少,謹訓導之。」俄拜平章政,太子太師如故。詔以《太祖實錄》賜宗憲及平章政事完顏元宜、左丞紇石烈良弼、判秘書監溫王爽各一本。

移刺高山奴は前に寧州刺史たりしも、貪污を以て免ぜられたり。世宗は功臣の子孫宗族の中に顕仕する者なきを以て、秘書少監となす。是の時、母の喪未だ除かざるに、有司其の事を奏す。宗憲曰く、「高山奴は傲狠貪墨にして、左右に致すべからず」と。世宗曰く、「朕は其の父祖の功有るを以てするのみ。既に人として此の如くんば、豈に職位を玷すべけんや」と。制命を追還し、因りて右丞蘇保衡、参知政事石琚を顧みて曰く、「此れ朕の過挙なり、改めざるべからず。卿等は心を尽くして以て朕を輔けよ」と。有司言う、諸路の猛安もうあん謀克ぼうこくは、其の世襲を恃みて多く民を擾わす、流官と同じく、三十月を以て考と為さんことを請う、と。詔して尚書省に下して議せしむ。宗憲乃ち議を上して曰く、「昔、太祖皇帝天下を撫定し、功臣に誓いて猛安謀克を襲封せしむ。今若し改めて遷調と為さば、太祖の約に非ず。臣謂う、凡そ猛安謀克は、善悪を明らかに核し、賢を進め不肖を退け、職に任ぜざる者あらば、其の弟姪の中に更に賢者を択びて之に代うべし」と。上其の議に従う。右丞相に進み拝す。大定六年、薨ず。年五十九。上朝を輟め、悼惜すること久し。百官に命じて奠せしめ、賻として銀一千五百両、重彩五十端、絹五百匹を賜う。

原文移刺高山奴前為甯州刺史,以貪污免,世宗以功臣子孫宗族中無顯仕者,以為秘書少監。是時,母喪未除,有司奏其事,宗憲曰:「高山奴傲狠貪墨,不可致之左右。」世宗曰:「朕以其父祖有功耳,既為人如此,豈可玷職位哉。」追還制命,因顧右丞蘇保衡、參政石琚曰:「此朕之過舉,不可不改,卿等當盡心以輔朕也。」有司言,諸路猛安謀克,怙其世襲多擾民,請同流官,以三十月為考。詔下尚書省議,宗憲乃上議曰:「昔太祖皇帝撫定天下,誓封功臣襲猛安謀克,今若改為遷調,非太祖約。臣謂凡猛安謀克,當明核善惡,進賢退不肖,有不職者,其弟侄中更擇賢者代之。」上從其議。進拜右丞相。大定六年,薨,年五十九。上輟朝,悼惜者久之,命百官致奠,賻銀一千五百兩、重彩五十端、絹五百匹。

習不失

原文習不失

習不失は本は辞不失と作し、後に習不失と定む。昭祖の孫、烏骨出の次子なり。初め、昭祖久しく継嗣無く、威順皇后徒単氏と巫に祷りて、景祖及び烏骨出を生む。烏骨出長じて酗酒し、屡々其の母に悖る。昭祖没し、徒単氏は景祖と謀りて之を殺す。部人怒り、景祖を害せんと欲す。徒単氏自ら事と為し、而して景祖乃ち免るるを得たり。

原文習不失本作辭不失,後定為習不失,昭祖之孫,烏骨出之次子也。初,昭祖久無繼嗣,與威順皇后徒單氏禱于巫,而生景祖及烏骨出。烏骨出長而酗酒,屢悖其母。昭祖沒,徒單氏與景祖謀而殺之。部人怒,欲害景祖,徒單氏自以為事,而景祖乃得免。

習不失は健捷にして、能く左右に射る。世祖節度を襲ぎ、肅宗は桓赧・散達を拒ぎ、斡魯紺出水に戦いて、已に再び利を失う。世祖軍に至り、吏士人色無し。世祖は習不失をして先ず脱豁改原に陣せしめ、而して身を出して搏戦し、其の歩軍を敗る。習不失は陣後より奮撃して之を敗り、其の騎軍を破る。乗する馬九矢に中り、馳すること能わず、遂に歩趨して出づ。方に戦うに、其の外兄烏葛名は善く射、敵騎の中に居り、将に射んとす。習不失熟視して之を識り、呼んで曰く、「此の小児、是れ汝一人の事か、何を為してか鋒を推して前に居ること此の如き」と。弓の弰を以て馬首を撃ちて去る。是の役、習不失の功多くを占む。桓赧・散達既に敗れ、習不失の馬陣中に棄てたる者も亦自ら帰る。

原文習不失健捷,能左右射。世祖襲節度,肅宗與拒桓赧、散達,戰于斡魯紺出水,已再失利,世祖至軍,吏士無人色。世祖使習不失先陣於脫豁改原,而身出搏戰,敗其步軍。習不失自陣後奮擊之,敗其騎軍,所乘馬中九矢,不能馳,遂步趨而出。方戰,其外兄烏葛名善射,居敵騎中,將射,習不失熟視識之,呼曰:「此小兒,是汝一人之事乎,何為推鋒居前如此。」以弓弰擊馬首而去。是役也,習不失之功居多。桓赧、散達既敗,習不失馬棄陣中者亦自歸。

世祖嘗て術甲孛里篤或いは烏春等と変を為さんことを疑い、習不失をして単騎往きて観せしむ。孛里篤は忽魯と酒を楼上に置きて以て之を飲ます。習不失其の私語昵昵たるを聞き、若し将に己を執らんとするが如きを、一躍して楼を下り、傍ら籓籬の外に出で、馬を棄てて帰る。其の勇此の如し。杯乃ち烏春を約して兵を挙ぐ。世祖蘇素海甸に至りて烏春に遇う。肅宗前に戦い、斜列・習不失之を佐く。束縕して火を縱ち、煙焰天を蔽い、大いに烏春を敗り、杯乃を執えて帰る。太祖麻産を獲、馘を遼に献ず。遼人功を賞し、穆宗・太祖・歡都・習不失皆詳隱と為す。後に阿里合懣・斡帶と俱に撒改を佐けて留可城を攻め、之を下す。太祖遼を伐つに、兵千人を領して左右に夾侍せしむ。出河店の役、惟だ習不失の策のみ太祖と合い、卒に十万の師を破り、其の軍鋒を挫く。遂に太宗・撒改等と俱に進むを勧む。收国元年七月、太宗・撒改・杲と俱に勃極烈と為り、習不失は阿買勃極烈と為る。

原文世祖嘗疑術甲孛里篤或與烏春等為變,遣習不失單騎往觀,孛里篤與忽魯置酒樓上以飲之。習不失聞其私語昵昵,若將執己者,一躍下樓,傍出籓籬之外,棄馬而歸,其勇如此。杯乃約烏春舉兵,世祖至蘇素海甸與烏春遇,肅宗前戰,斜列、習不失佐之,束縕縱火,煙焰蔽天,大敗烏春,執杯乃以歸。太祖獲麻產,獻馘於遼,遼人賞功,穆宗、太祖、歡都、習不失皆為詳隱焉。後與阿里合懣、斡帶俱佐撒改攻留可城,下之。太祖伐遼,使領兵千人,夾侍左右。出河店之役,惟習不失之策與太祖合,卒破十萬之師,挫其軍鋒。遂與太宗、撒改等勸進。收國元年七月,與太宗、撒改、杲俱為勃極烈,習不失為阿買勃極烈雲。

天輔七年、太宗と習不失居守す。鄆王昂紀律に違いて衆を失い、法当に死すべし。是の時に、遼人燕京を以て降り、宋人歳幣を約す。三月、世宗生まる。習不失太宗に謂って曰く、「兄弟骨肉は、恩を以て義を掩い、寧ろ法を屈して以て之を全うすべし。今国家迭に大慶有り、昂を減じて以て死無からしむべし。若し主上責言有らば、我を以て説と為せ」と。太宗之を然りとし、遂に昂を杖ちて以て聞かしむ。太祖毎に遼を伐つに、輒ち習不失と太宗に命じて居守せしむ。方面の功無きと雖も、倚任は撒改に比侔す。是の歳七月、薨ず。会す太祖班師して道病す。太宗奉迎して謁見す。恐らくは太祖感動して疾転じて甚だしからんことを、敢えて薨を告げず。太祖輒ち問うて曰く、「阿買勃極烈安在ぞ」と。太宗紿えて対えて曰く、「今即ち至らん」と。正隆二年、開府儀同三司を贈る。曹国公を追封す。大定三年、金源郡王に進封し、太祖廟廷に配饗し、諡して忠毅と曰う。

原文天輔七年,太宗與習不失居守,鄆王昂違紀律失眾,法當死。於是,遼人以燕京降,宋人約歲幣。三月,世宗生。習不失謂太宗曰:「兄弟骨肉,以恩掩義,甯屈法以全之。今國家迭有大慶,可減昂以無死,若主上有責言,以我為說。」太宗然之,遂杖昂以聞。太祖每伐遼,輒命習不失與太宗居守,雖無方面功,而倚任與撒改比侔矣。是歲七月,薨會太祖班師道病,太宗奉迎謁見,恐太祖感動而疾轉甚,不敢以薨告。太祖輒問曰:「阿買勃極烈安在?」太宗紿對曰:「今即至矣。」正隆二年,贈開府儀同三司。追封曹國公。大定三年,進封金源郡王,配饗太祖廟廷,諡曰忠毅。

子鶻沙虎、国初功有り。天会の間、真定留守と為る。

原文子鶻沙虎,國初有功,天會間,為真定留守。

子撻不也。

原文子撻不也。

孫 宗亨

原文孫 宗亨

宗亨は本名撻不也、性忠謹なり。天眷初め、宗室の子を以て、護衛に充つ。宗磐・宗雋を擒えるに功有り、忠勇校尉を加えられ、昭信校尉・尚廄局直長に遷る。三年、本局副使に升る。父憂に丁る。時に宗正官属、例に材を以て選ぶ。宗亨選中に在り、遂に起復し、淑溫特宗室将軍と為る。会寧府少尹に改め、登州刺史を歴、献州刺史に改め、特満群牧使・同知北京路転運使と為り、澤州定国軍節度使に改む。海陵庶人南伐するに、本職を以て武揚軍都総管を領し、淮を過ぐ。

原文宗亨本名撻不也,性忠謹。天眷初,以宗室子,充護衛。擒宗磐、宗雋有功,加忠勇校尉,遷昭信校尉、尚廄局直長。三年,升本局副使。丁父憂,時宗正官屬,例以材選,宗亨在選中,遂起複,為淑溫特宗室將軍。改會甯府少尹,曆登州刺史,改獻州刺史,為特滿群牧使、同知北京路轉運使,改澤州定國軍節度使。海陵庶人南伐,以本職領武揚軍都總管,過淮。

世宗即位し、手詔を以て宗亨に賜う。宗亨詔を得て、即ち朝に入る。大定二年、右宣徽使を授けられ、未だ幾ばくもせず、北京路兵馬都統と為り、以て契丹賊を討つ。右副元帥僕散忠義は窩斡と花道に遇う。宗亨は左翼万戸蒲察ほさつ世傑等と、七謀克の軍を以て之と戦い、利を失う。窩斡敗るるに及び、其の党括里・紮八衆を率いて南奔す。宗亨追い及び之。紮八詐りて降る。宗亨之を信ず。紮八詭りて曰く、「括里遁る、願わくは往きて邀えん」と。宗亨其の去るを聴す。大いに軍士を縱ち、賊の棄てたる囊橐人畜を取り、多く自ら之を有す。括里・紮八亡びて宋に入る。是に坐し、寧州刺史に降す。

原文世宗即位,以手詔賜宗亨,宗亨得詔,即入朝。大定二年,授右宣徽使,未幾,為北京路兵馬都統,以討契丹賊。右副元帥僕散忠義與窩斡遇於花道,宗亨與左翼萬戶蒲察世傑等,以七謀克軍與之戰,失利。及窩斡敗,其黨括里、紮八率眾南奔,宗亨追及之。紮八詐降,宗亨信之。紮八詭曰:「括里遁,願往邀。」宗亨聽其去。大縱軍士,取賊所棄囊橐人畜,多自有之。括里、紮八亡入于宋。坐是,降為甯州刺史。

孫 宗賢

原文孫 宗賢

宗賢は本名を賽里といい、習不失の孫である。都統の杲に従って中京を攻め取り、鴛鴦濼において遼帝を襲撃した。宗翰が撻懶に耶律馬哥を襲撃させた際、都統は蒲家奴ほかど及び賽里らに兵を率いてこれを助けさせた。蒲家奴は賽里、斜野、裴満胡撻、達魯古廝列、耶律吳十らにそれぞれ兵を率いて分かれ行き、招諭させた。遼の留守迪越の家族と輜重しちょうを捕獲し、併せて群牧官の木盧瓦を降伏させ、多くの馬を得て、水草を追って牧養させた。賽里らは業迭へ向かい、遂に偏師を率いて深く侵入したが、敵が邀撃し、撒合は戦死した。蒲家奴が旺國崖の西に至ると、賽里の兵がこれと合流した。累官して左副點檢に至った。

原文宗賢本名賽里,習不失之孫也。從都統杲取中京,襲遼帝於鴛鴦濼。宗翰使撻懶襲耶律馬哥,都統使蒲家奴及賽里等,以兵助之。蒲家奴使賽里、斜野、裴滿胡撻、達魯古廝列、耶律吳十等各率兵分行招諭,獲遼留守迪越家人輜重,並降群牧官木盧瓦,得馬甚多,使逐水草牧之。賽里等趨業迭,遂以偏師深入,敵邀擊之,撒合戰沒。蒲家奴至旺國崖西,賽里兵會之。累官至左副點檢。

天眷二年、ちょうど宗雋を捕らえようとした時、賽里はその家で酒宴を共にした罪に坐し、官爵を剥奪された。間もなく、官職に復した。皇統四年、世襲謀克を授けられ、都點檢に転じ、豳國公に封ぜられた。平章政事に拝された。進んで右丞相に拝され、中書令を兼ねた。進んで太保・左丞相に拝され、國史の監修を務めた。左副元帥に罷免された。ほどなく、再び太保・左丞相となり、左副元帥は元の如くであった。進んで太師となり、三省事を領し、都元帥を兼ね、國史の監修を務めた。出て南京留守となり、行台尚書省事を領した。再び左副元帥となり、西京留守を兼ねた。再び太保となり、三省事を領した。再び左丞相となり、都元帥を兼ねた。

原文天眷二年,方捕宗雋,賽里坐會飲其家,奪官爵。未幾,複官。皇統四年,授世襲謀克,轉都點檢,封豳國公。拜平章政事。進拜右丞相,兼中書令。進拜太保、左丞相,監修國史。罷為左副元帥。無何,複為太保、左丞相,左副元帥如故。進太師,領三省事,兼都元帥,監修國史。出為南京留守,領行台尚書省事。複為左副元帥,兼西京留守。再為太保,領三省事。複為左丞相,兼都元帥。

賽里は護衛から出発し、十年も経たぬうちに将相を兼ねる地位に至り、常に感激し、朝廷に報いるため自ら尽力しようと考えた。悼后の母方の親族ではあったが、后が政権を専断するようになると、大臣たちはこれに依って進用を得る者もあったが、賽里は決してこれに附かなかった。皇太子済安が薨じ、魏王道済が死に、熙宗には嗣子がなかったので、賽里は熙宗に後宮を選んで継嗣を広げるよう勧め、后に対して少しも顧慮しなかったため、后はこれによって彼を怨んだ。海陵と共に宰相の位にあったが、少しも譲るところがなく、海陵は専横であったが内心賽里を畏れ、外では尊属として礼敬を加えながら内では常に彼を忌んでいた。海陵は悼后が賽里を怨んでいることを知り、これと力を合わせて彼を排斥したが、賽里もこれによって少しも態度を変えなかった。

原文賽里自護衛,未十年位兼將相,常感激,思自效以報朝廷。雖於悼後為母黨,後專政,大臣或因之以取進用,賽里未嘗附之。皇太子濟安薨,魏王道濟死,熙宗未有嗣子,賽里勸熙宗選後官以廣繼嗣,不少顧忌於後,後以此怨之。與海陵同在相位,未嘗少肯假借,海陵雖專而心憚賽里,外以屬尊加禮敬而內常忌之。海陵知悼後怨賽里,因與後共力排出之,賽里亦不以是少變。

胙王常勝が死ぬと、熙宗はその妻を宮中に納れた。間もなく、悼后及び妃数人を殺し、常勝の妻を后に立てようとしたが、果たせなかった。海陵が熙宗を弑した時、熙宗が后を立てようと議していると偽って諸王大臣を召集した。賽里は召集を聞き、真実であると思い、宮中に入ろうとして人に言った。「上は必ずや常勝の妻を后に立てようとされている。私は力を尽くして争おう。」捕らえられた時も、なお熙宗が常勝の妻を立てようとして先に自分を殺すのだと思い、言った。「誰か私のために言上してくれる者はないか。私の死は惜しむに足らぬが、ただ主上の左右に助ける者がいないことを思うのみである。」遂に害された。

原文胙王常勝死,熙宗納其妻宮中,頃之,殺悼後及妃數人,將以常勝妻為後,未果也。及海陵弑熙宗,詭以熙宗將議立後,召諸王大臣,賽里聞召,以為信然,將入宮,謂人曰:「上必欲立常勝妻為後,我當力爭之。」及被執,猶以為熙宗將立常勝妻,而先殺之也,曰:「誰能為我言者,我死固不足惜,獨念主上左右無助耳。」遂遇害。

石土門

原文石土門

石土門は、漢字では一に神徒門と作り、耶懶路完顔かんがん部の人で、代々その部の長であった。父は直離海、始祖の弟保活里の四世孫であり、同じ宗族ではあるが、長らく音信を通わせていなかった。景祖の時、直離海が部人邈孫を使者として来させ、宗系の交流を再開するよう請うた。景祖は邈孫を一年余り留め、食糧を厚く与えて飲食させ、手厚く遇した。帰る際には、幣帛数篚を贈り物として、厚い好意を結んだ。久しくして、耶懶が凶作に遭うと、景祖は彼らに馬牛を与え、買い入れの費用を助け、世祖を使者としてこれを届けさせた。ちょうど世祖が病気にかかり、石土門は昼夜を分かたず側を離れず、世祖の病気が癒えて帰ろうとする時、握手して別れを告げ、他日互いに忘れないことを約束した。石土門は体貌魁偉で、勇敢にして戦を善くし、質直で孝友に厚く、記憶力が強く弁舌速やかで、事に臨んで果断であった。

原文石土門,漢字一作神徒門,耶懶路完顏部人,世為其部長。父直離海,始祖弟保活里四世孫,雖同宗屬,不相通問久矣。景祖時,直離海使部人邈孫來,請複通宗系。景祖留邈孫歲餘,厚其餼廩飲食,善遇之。及還,以幣帛數篚為贈,結其厚意。久之,耶懶歲饑,景祖與之馬牛,為助糴費,使世祖往致之。會世祖有疾,石土門日夕不離左右,世祖疾愈辭歸,與握手為別,約它日無相忘。石土門體貌魁偉,勇敢善戰,質直孝友,強記辯捷,臨事果斷。

世祖が位を襲ぐと、交誼は益々深まり、隣接する部族はこれを快く思わず、遂に兵を合わせて攻撃した。石土門は弟の阿斯懣に二百人を率いて南下させ敵を防がせ、敵兵千人は既にその東に出て高台を占拠していたので、石土門は五千人を率いて迎撃した。敵将の斡里本は勇士であったが、出て来て挑戦し、石土門がその馬を射ると、斡里本が反射して石土門の腹を射た。石土門は矢を抜き、ますます力強く戦った。阿斯懣は勇士七人と徒歩で戦い、斡里本を殺し、諸部の兵は遂に敗れた。石土門はこれによって諸部を招諭し、世祖に附くようさせ、世祖はこれを称えた。後に烏春、窩謀罕及び鈍恩、狄庫德らを討伐した時、皆その部兵を率いて従軍し、功績があった。

原文世祖襲位,交好益深,鄰部不悅,遂合兵攻之。石土門使弟阿斯懣率二百人南下拒敵,敵兵千人,已出其東據高阜,石土門將五千人迎擊之。敵將斡里本者,勇土也,出挑戰,石土門射中其馬,斡里本反射,射中石土門腹,石土門拔箭,戰愈力。阿斯懣與勇士七人步戰,殺斡里本,諸部兵遂敗。石土門因招諭諸部,使附于世祖,世祖嘉之。後伐烏春、窩謀罕及鈍恩、狄庫德等,皆以所部從戰,有功。

弟の阿斯懣は間もなく卒去した。喪が終わると、大いにその一族を集め、太祖は官属を率いてこれに臨み、ついでに遼に代わることの議について意見を求めた。ちょうど会祭している時、飛ぶ鳥が燕から西へ飛んで来た。太祖がこれを射ると、矢は左翼を貫いて墜ちた。石土門はこれを持って上前に進み慶賀して言った。「烏鳶は人の甚だ憎むところである。今これを射て獲た。これは吉兆である。」即座に金版を献上した。後に本部の兵を率いて高麗を撃つことに従った。遼を討伐する時には、功績が特に多かった。王師が西京を攻め落とすと、金牌を賜った。その子の蟬蠢が従軍していた時、上は彼に語って言った。「我が妃の妹の白散が遼にいる。彼女が捕らえられたなら、必ずや汝の妻としよう。」果たしてその言葉の通りになった。

原文弟阿斯懣尋卒,及終喪,大會其族,太祖率官屬往焉,就以代遼之議訪之。方會祭,有飛鳥自燕而西,太祖射之,矢貫左翼而墜,石土門持至上前稱慶曰:「烏鳶人所甚惡,今射獲之,此吉兆也。」即以金版獻之,後以本部兵從擊高麗。及伐遼,功尤多。王師攻下西京,賜以金牌。其子蟬蠢從行,上語之曰:「吾妃之妹白散者在遼,俟其獲,當以為汝婦。」竟如其言。

上の西征に際し、諸将は皆従軍したが、石土門は善射の者三百人を率いて来て京師を守衛した。時に太宗が居守しており、その到着を喜び、自ら出迎えて労った。続いて黄龍府の反乱を聞き、睿宗と共にこれを討ち平らげた。睿宗は奴婢五百人を賜い、軍が帰還すると、賞賜は甚だ厚かった。ここに至って卒去した。六十一歳。正隆二年、金源郡王に封ぜられた。子に習失、思敬がいる。

原文上之西征,諸將皆從,石土門乃率善射者三百人來衛京師,時太宗居守,喜其至,親出迎勞。繼聞黃龍府叛,與睿宗討平之,睿宗賜以奴婢五百人,師還,賞賚良渥。至是卒,年六十一。正隆二年,封金源郡王。子習失、思敬。

弟 忠

原文弟 忠

完顔忠は本名を迪古乃といい、字は阿思魁である。石土門の弟である。太祖は彼を重んじ、兵を挙げて遼を伐とうとしたが、決断できずにいた。迪古乃と事を計りたいと思い、ここに宗斡、宗幹、完顔希尹らが皆従った。数日過ごし、少し間を置いて、太祖は迪古乃と肩を並べて語って言った。「我がこの来訪は徒然ではない。汝に謀りごとがある。汝は我のためにこれを決断せよ。遼は大国と名乗っているが、その実は空虚で、主は驕り兵士は臆病、戦陣に勇なく、取るに足りぬ。我は兵を挙げ、義を杖として西征したい。君はどう思うか。」迪古乃は言った。「主公英武をもってし、士衆は喜んで用いられんとします。遼帝は狩猟にふけり、政令は常なく、容易に対処できます。」太祖はこれを然りとした。翌年、太祖が遼を伐つと、婆盧火を使者として兵を徴発させ、迪古乃は兵を率いて師に会した。收國元年十二月、上は遼主の兵を禦ぎ、爻刺に駐屯した。迪古乃は銀術哥と共に達魯古路を守った。二年、斡魯、蒲察と会して斡魯古と合流し、高永昌を討ち、その兵を破り、東京は降伏した。遂に斡魯古らと共に耶律捏里を防ぎ、蒺藜山においてこれを破り、顯州を抜き、乾州、惠州などが降伏した。

原文完顏忠本名迪古乃,字阿思魁。石土門之弟。太祖器重之,將舉兵伐遼,而未決也,欲與,迪古乃計事,於是宗斡、宗幹、完顏希尹皆從。居數日,少間,太祖與迪古乃馮肩而語曰:「我此來豈徒然也,有謀於汝,汝為我決之。遼名為大國,其實空虛,主驕而士怯,戰陣無勇,可取也。吾欲舉兵,杖義而西,君以為如何?」迪古乃曰:「以主公英武,士眾樂為用。遼帝荒於畋獵,政令無常,易與也。」太祖然之。明年,太祖伐遼,使婆盧火來徵兵,迪古乃以兵會師。收國元年十二月,上禦遼主兵,次爻刺,迪古乃與銀術哥守達魯古路。二年,與斡魯、蒲察會斡魯古,討高永昌,破其兵,東京降。遂與斡魯古等禦耶律捏里,敗之於蒺藜山,拔顯州,乾、惠等州降。

天輔二年、婁室ろうしつと共に入朝して謁見した。上は言った。「遼主は近く中京にいるのに、敢えて軽々しく来た。各々三十回杖打て。」太祖が草濼に軍を駐屯させると、迪古乃は敢えて奉聖州を攻め、雞鳴山においてその兵五千を破り、奉聖州は降伏した。太祖が燕京に入ると、迪古乃は德勝口から出て、石土門に代わって耶懶路都勃堇となった。天會二年、耶懶の地が塩鹹地であるため、その部を蘇濱水に移し、なお術実勒の田地を加えて与えた。

原文天輔二年,與婁室俱入見,上曰:「遼主近在中京,而敢輒來,各杖之三十。」太祖駐軍草濼,迪古乃敢奉聖州,破其兵五千於雞鳴山,奉聖州降。太祖入燕京,迪古乃出德勝口,以代石土門為耶懶路都勃堇。天會二年,以耶懶地蒲斥鹵,遷其部于蘇濱水,仍以術實勒之田益之。

熙宗が即位すると、太子太師を加えられた。十四年、保大軍節度使、同中書門下平章事を加えられ、薨去した。天德二年、迪古乃は太祖廟廷に配饗された。大定二年、金源郡王を追封された。

原文熙宗即位,加太子太師。十四年,加保大軍節度使,同中書門下平章事,薨。天德二年,迪古乃配饗太祖廟廷。大定二年,追封金源郡王。

子 習室

原文子 習室

習室。康宗の時、高麗が曷懶甸に九城を築くと、習室は斡賽の軍に従った。太祖が甯江州を攻撃した時、習室は先鋒を推して力戦し、猛安を授けられた。後に斜也しゃやに従って中京を攻克し、鴛鴦濼において遼主を襲撃し、山囗を平定し、夏の将李良輔の兵を破り、婁室と共に余睹穀において遼帝を捕らえた。

原文習室。康宗時,高麗築九城於曷懶甸,習室從斡賽軍。太祖攻甯江州,習室推鋒力戰,授猛安。後從斜也克中京,襲遼主於鴛鴦濼,略定山囗,敗夏將李良輔兵,與婁室俱獲遼帝于余睹穀。

宗翰が宋を伐つに当たり、銀朮可ぎんじゅつかと共に太原を包囲して守った。翌年、襄垣を攻め、潞城を陥落させ、西京を降伏させ、汴に至った。元帥府は、懐州・孟州が北は太行山に阻まれ、南は黄河に臨み、険要の地を制しているとして、習室に十二猛安の軍を統率させてこれを鎮撫させた。」そこで、寇賊を殲滅平定し、流亡の民を招集し、四境は安寧となった。天会五年、薨去した。熙宗の時、特進を追贈された。大定年間、威敏と諡された。

原文宗翰伐宋,與銀術可圍守太原。明年,攻襄垣,下潞城,降西京,至汴。元帥府以懷、孟北阻太行,南瀕河,控制險要,使習室統十二猛安軍鎮撫之。」於是,殄平寇盜,招集流亡,四境以安。天會五年,薨。熙宗時,贈特進。大定間,諡威敏。

世宗は太祖・太宗の創業の艱難を思い、当時の群臣の中で勲功業績が最も顕著な者の画像を衍慶宮に掲げた:遼王斜也・金源郡王撒改・遼王宗幹・秦王宗翰・宋王宗望・梁王宗弼・金源郡王習不失・金源郡王斡魯・金源郡王希尹・金源郡王婁室・楚王宗雄・魯王闍母・金源郡王銀朮可・隋国公阿離合懣・金源郡王完顏忠・豫国公蒲家奴・金源郡王撒離喝・兗国公劉彥宗・特進斡魯古・斉国公韓企先、並びに習室、合わせて二十一人である。

原文世宗思太祖、太宗創業艱難,求當時群臣勳業最著者,圖像于衍慶宮:遼王斜也、金源郡王撒改、遼王宗幹、秦王宗翰、宋王宗望、梁王宗弼、金源郡王習不失、金源郡王斡魯、金源郡王希尹、金源郡王婁室、楚王宗雄、魯王闍母、金源郡王銀術可、隋國公阿離合懣、金源郡王完顏忠、豫國公蒲家奴、金源郡王撒離喝、兗國公劉彥宗、特進斡魯古、齊國公韓企先,並習室凡二十一人。

初め、海陵王が諸路の万戸を廃止し、蘇濱路節度使を置いた。世宗の時、近臣が蘇濱を耶懶節度使に改めるよう奏請し、旧功を忘れないようにした。上は言った。「蘇濱と耶懶の二水は千里も離れており、節度使は蘇濱を治めるので、改める必要はない。石土門が親しく管轄した猛安の子孫で襲封している者は、耶懶猛安と改めてよい。その初めを忘れないためである。」

原文初,海陵罷諸路萬戶,置蘇濱路節度使。世宗時,近臣奏請改蘇濱為耶懶節度使,不忘舊功。上曰:「蘇濱、耶懶二水相距千里,節度使治蘇濱,不必敗。石土門親管猛安于孫襲封者,可改為耶懶猛安,以示不忘其初。」

子に思敬あり。

原文子 思敬

思敬は本名を撒改といい、押懶河の人で、金源郡王神土懣の子、習失の弟である。初めは思恭といったが、顕宗の諱いみなを避けて改めた。体貌は雄偉で、美しい鬚髯があり、純直で材幹があった。十一歳の時、父に従って太祖に謁見した。太祖は納鄰澱におり、ちょうど狩猟中であったため、詔して狩猟に従わせ、黄羊を射てこれを獲た。太祖は従馬を賜った。

原文思敬本名撒改,押懶河人,金源郡王神土懣之子,習失弟也。初名思恭,避顯宗諱改焉。體貌雄偉,美須髯,純直有材幹。年十一,從其父謁見太祖。太祖在納鄰澱,方獵,因詔從獵,射黃羊獲之,太祖賜以從馬。

宗翰が太原から宋を伐つ時、その兄習室に従って太原を攻めた。宗翰が河南を取ると、思敬は完顔活女に従って河を渡り、洛陽を陥落させ、汴を包囲するなど、いずれも功があった。軍が帰還すると、遼王宗幹の麾下に隷属した。太宗が東京の温湯に行幸した時、思敬は護衛を代行し、衛卒百人を率いて従行した。謀克を領した。術虎麟を征討するのに従って功があり、遂に護衛に充てられた。天眷二年、宗磐・宗雋を捕らえた功により、顕武将軍に遷った。

原文宗翰自太原伐宋,從其兄習室攻太原。宗翰取河南,思敬從完顏活女涉渡河,下洛陽、圍汴皆有功。師還,隸遼王宗幹麾下。太宗幸東京溫湯,思敬權護衛,押衛卒百人從行。領謀克。從征術虎麟有功,遂充護衛。天眷二年,以捕宗磐、宗雋功,遷顯武將軍。

熙宗が混同江で魚を捕らえた時、網の綱が切れた。曹国王宗敏が酔いに乗じて、馬に鞭打って江に入り、手で網の大綱を引っ張り、水中に沈んだ。熙宗は左右に呼んでこれを救わせたが、慌てて応じる者がいなかった。思敬が躍り込んで水に入り、宗敏を引き出した。熙宗は称賛し、賞賜は甚だ厚かった。右衛将軍に抜擢され、押懶路万戸を襲封し、世襲謀克を授けられた。七年、召されて謁見し、襲衣・廄馬・銭一万貫を賜った。帰る時、また使者を遣わして弓剣を賜った。この年、入朝して工部尚書となり、殿前都点検に改められた。間もなく、吏部尚書となった。

原文熙宗捕魚混同江,網索絕,曹國王宗敏乘醉,鞭馬入江,手引系網大繩,沉于水中。熙宗呼左右救之,倉卒莫有應者,思敬躍入水,引宗敏出。熙宗稱歎,賞賚甚厚。擢右衛將軍,襲押懶路萬戶,授世襲謀克。七年,召見,賜以襲衣、廄馬、錢萬貫。及歸,複遣使賜弓劍。是年,入為工部尚書,改殿前都點檢。無何,為吏部尚書。

天徳初年、報諭宋国使となった。宋人は旧例により、銭塘江の潮を見ることを請うたが、思敬は見ず、言った。「我が国には東に巨海があり、江水で銭塘より大きいものがある。」遂に行かなかった。使節から帰還し、尚書右丞に拝され、罷免されて真定尹となった。廉潔を用いられ、河内郡王に封ぜられ、钜鹿に転封された。母の喪に服し、本官に起復され、益都尹に改められた。正隆二年、例により王爵を奪われ、慶陽尹に改められた。

原文天德初,為報諭宋國使。宋人以舊例,請觀錢塘江潮,思敬不觀,曰:「我國東有巨海,而江水有大於錢塘者。」竟不往。使還,拜尚書右丞,罷為真定尹。用廉,封河內郡王,徙封钜鹿。丁母憂,起複本官,改益都尹。正隆二年,例奪王爵,改慶陽尹。

大定二年、西南路招討使に授けられ、済国公に封ぜられ、天徳軍節度使を兼ねた。間もなく北路都統となり、金牌一つと銀牌二つを佩びた。西北路招討使唐括孛古底がその副となった。本路の兵二千を率い、孛古底と会し、地形の要衝を見て、あるいは狗濼に屯駐し、契丹賊の出没する地を伺い、守備を置き、遠く斥候を出し、賊が来れば戦い、昼夜を限りとしなかった。詔して孛古底に言った。「汝の兵は少ない。思敬が到着するまでは、先に戦ってはならない。」僕散忠義が窩斡を陷泉で破った。詔して思敬に新馬三千を選び、追撃に備えさせた。窩斡が奚の中に入ると、思敬は元帥右都監となり、旧来率いていた軍を率いて奚の地の張哥宅に入り、大軍と会してこれを討った。偽節度使特末也を破り、二百余人を捕獲した。賊の降将稍合住がその同党の神独斡と共に、窩斡とその母徐輦・妻子弟侄の家族及び金銀牌印を捕らえて思敬のもとに降った。思敬は京師に俘虜を献上し、金百両・銀千両・重彩四十端・玉帯・廄馬・名鷹を賜った。右副元帥に拝され、南辺を経略し、山東に駐屯した。罷免されて北京留守となった。また右副元帥に拝され、引き続き山東を経略した。

原文大定二年,授西南路招討使,封濟國公,兼天德軍節度使。俄為北路都統,佩金牌及銀牌二。西北路招討使唐括孛古底副之。將本路兵二千,會孛古底,視地形沖要,或於狗濼屯駐,伺契丹賊出沒之地,置守禦,遠斥候,賊至則戰,不以晝夜為限。詔孛古底曰:「爾兵少,思敬未至,不得先戰。」僕散忠義敗窩斡於陷泉,詔思敬選新馬三千,備追襲。窩斡入于奚中,思敬為元帥右都監,以舊領軍入奚地張哥宅,會大軍討之。敗偽節度特末也,獲二百餘人。賊降將稍合住與其黨神獨斡,執窩斡並其母徐輦、妻子弟侄家屬及金銀牌印詣思敬降。思敬獻俘于京師,賜金百兩、銀千兩、重彩四十端、玉帶、廄馬、名鷹。拜右副元帥,經略南邊,駐山東。罷為北京留守。複拜右副元帥,仍經略山東。

初め、猛安謀克が山東に屯田し、それぞれ受け取った土地に従い、州県に散在していた。世宗は猛安謀克が民戸と雑居するのを好まず、彼らを集まって居住させようとし、戸部郎中完顔譲を元帥府に遣わしてこれを議させた。思敬は山東路総管徒単克寧と議して言った。「大軍は今まさに宋を伐とうとしている。家属は暫く州県に寓居させ、軍衆を適量留めて備えとすべきである。辺境の事が寧息するのを待ち、猛安謀克をそれぞれ聚居させれば、軍民ともに便利である。」帰って奏上すると、上はこれに従った。その後、遂に猛安謀克が自ら保聚をなし、その田土が民田と犬牙のごとく入り組んでいるものは、互いに交換した。三年四月、京師に召還され、北京留守とされ、金鞍・勒馬を賜った。七年、召されて平章政事となった。先に、猛安謀克を省併し、及び海陵王の時に功なくして猛安・謀克を授けられた者を、皆罷免したため、職を失う者が多かった。思敬は才量に応じて用いるよう請うた。上はその請いに従った。

原文初,猛安謀克屯田山東,各隨所受地土,散處州縣。世宗不欲猛安謀克與民戶難處,欲使相聚居之,遣戶部郎中完顏讓往元帥府議之。思敬與山東路總管徒單克寧議曰:「大軍方進伐宋,宜以家屬權寓州縣,量留軍眾以為備禦。俟邊事寧息,猛安謀克各使聚居,則軍民俱便。」還奏,上從之。其後遂以猛安謀克自為保聚,其田土與民田犬牙相入者,互易之。三年四月,召還京師,以為北京留守,賜金鞍、勒馬。七年,召為平章政事。先是,省並猛安謀克,及海陵時無功授猛、克者,皆罷之,失職者甚眾。思敬請量才用之,上從其請。

思敬が以前真定尹であった時、その子が部民の女を妾にした。この時、その兄が離縁を乞うたが、その妾は思敬が宰相の位にあるのを恐れ、去ることを敢えなかった。詔してその家に帰らせた。

原文思敬前為真定尹,其子取部民女為妾。至是,其兄乞離異,其妾畏思敬在相位,不敢去。詔還其家。

九年、枢密使に拝され、五事について上疏して論じた:第一に、女直人は漢人のように文理によって選試することができる。第二に、契丹人は女直猛安に分属させることができる。第三に、塩濼官は罷去できる。第四に、猛安と同勾当する副千戸官もまた罷免できる。第五に、親王府の官属は文資官をもって擬注し、女直の言語文字を教える。上は皆これに従った。その後、女直人が進士を試み、夾谷衡・尼厖古鑒・徒単鎰・完顔匡らは、皆これによって宰相に至った。実に思敬がこれを啓いたのである。

原文九年,拜樞密使,上疏論五事:其一,女直人可依漢人以文理選試。其二,契丹人可分隸女直猛安。其三,鹽濼官可罷去。其四,與猛安同勾當副千戶官亦可罷。其五,親王府官屬以文資官擬注,教以女直語言文字。上皆從之。其後女直人試進士,夾谷衡、尼厖古鑒、徒單鎰、完顏匡輩,皆由此致宰相,實思敬啟之也。

久しくして、上は思敬に言った。「朕は『熙宗実録』を修めようと思う。卿はかつて侍従であったから、必ずその事蹟を記憶しているであろう。」答えて言った。「熙宗の時は、内外ともに人を得、風雨は時にかない、年穀は豊かで、盗賊は止み、百姓は安らかであった。これがその大概です。どうして余事を必要としましょう。」上は大いに喜んだ。世宗は事を立てるのを好んだので、その微かな諫言はこのようであった。大定十三年、薨去した。上は朝を停め、自ら喪に臨み、慟哭した。言った。「旧臣である。」賻贈を厚く加え、葬礼は全て官から給するに従った。

原文久之,上謂思敬曰:「朕欲修《熙宗實錄》,卿嘗為侍從,必能記其事蹟。」對曰:「熙宗時,內外皆得人,風雨時,年谷豐,盜賊息,百姓安,此其大概也,何必餘事。」上大悅。世宗喜立事,故其微諫如此。大定十三年,薨。上輟朝,親臨喪,哭之慟。曰:「舊臣也。」賻贈加厚,葬禮悉從官給。

孫の吾侃術特は、大定二十四年、明威将軍に除され、速濱路宝鄰山猛安を授けられた。

原文孫吾侃術特,大定二十四年,除明威將軍,授速濱路寶鄰山猛安。

賛して言う:劾者は国を世祖に譲り、以て帝業を開いた。撒改は国家を治め、社稷を定め、太祖を尊立し、深謀遠略、一代の宗臣たり、賢いことかな。習不失は前人の過ちを覆い、勲功を五世に著す。『易』に「子有りて考に咎無し」とあるが、これを言うのであろうか。始祖は季弟と部を異にして処り、子孫ともに強宗となり、而して遼を取る策は、遂に迪古乃によって定まった。豈に天道陰に以て之を相する有りしや。

原文贊曰:劾者讓國世祖,以開帝業。撒改治國家,定社稷,尊立太祖,深謀遠略,為一代宗臣,賢矣哉。習不失蓋前人之愆,著勳五世。《易》曰「有子考無咎」,其此之謂乎。始祖與季弟異部而處,子孫俱為強宗,而取遼之策,卒定于迪古乃,豈天道陰有以相之邪。