撒改
撒改は、景祖の孫、韓國公劾者の長子、世祖の兄の子である。劾者は兄弟の中では最年長であった。景祖が諸部を平定しようとしていた時、世祖の胆勇と才略を愛した。諸子が成長すると、國俗に従って別々の宮に住むこととなったが、劾者に命じて世祖と同邸とさせ、劾者は家務を専管し、世祖は外事を主管させた。世祖が節度使を襲い、劾孫を越えて肅宗、穆宗に伝えたのは、皆景祖の意志であった。穆宗が初めて位を襲ぐと、劾者が長兄でありながら立つことができなかったことを思い、遂に撒改を國相に任じた。
穆宗は父兄の基業を踏み継ぎ、強梗で己に服さない者を鋤き除き、撒改に馬紀嶺の道を取らせて阿疏を攻めさせ、穆宗は自ら将となり、阿疏城下で軍を会することを期した。撒改が行き阿不塞水に至ると、烏延部の斜勒勃堇が来謁し、撒改に言うには、「國相が太師と阿疏城下で軍を会せんとしていると聞く。これは深入りして必ず取る策である。先ず潺蠢、星顯の路を撫定し、その党附を落とし、その民人を奪い、然る後に合軍するのが遅くない」と。撒改はこれに従い、鈍恩城を攻め、援軍を請うた。穆宗はこれに与え、撒改は遂に鈍恩城を攻め落とし、穆宗と来会して阿疏城下に至った。鈍恩は南にあり、阿疏は北にある。穆宗は初め撒改を分道させ、即ち会して阿疏を攻めさせた。その斜勒の計を用いて先に鈍恩城を取ったと聞き、初めの議と合わず、頗る然らずとした。及んで遼の使いが来て阿疏を攻めることを止めさせてから、初めて先に鈍恩城を取ったことを功としたのである。また國相として都統となり、留可、詐都、塢塔等の軍を討ったが、阿疏は遼に亡命し、終に敢えて帰らず、留可、詐都、塢塔、鈍恩は皆降った。
康宗が没し、太祖が都勃極烈と称し、撒改と分かれて諸部を治め、匹脫水以北は太祖が統べ、來流水の人民は撒改が統べた。明年甲午、節度使を嗣ぐ命がようやく至った。
太祖が即位した後、群臣が奏事するに、撒改等が前に跪くと、上は立ち上がり、泣いてこれを止めて言うには、「今日の成功は、皆諸君の協輔の力である。吾は大位に処すと雖も、旧俗を易え難い」と。撒改等は感激し、再拝して謝した。凡そ臣下の宴集には、太祖は嘗てこれに赴き、主人が拝すれば、上もまた答拝した。天輔の後、初めて君臣の礼を正したのである。七月、太宗は諳版勃極烈と為り、撒改は國論勃極烈、辭不失は阿買勃極烈、杲は國論昊勃極烈と為った。勃極烈は女直の尊官である。太祖が正位号して以来、凡そ半年、封拜の聞こえなかった。太宗は介弟として優礼絶等、杲は母弟の最も幼き者、撒改、辭不失は宗室を以て、同封拜された。九月、國論胡魯勃極烈を加えられた。天輔五年、薨去した。太祖は往吊し、白馬に乗り、額を剺いて慟哭した。葬に及んで、また親臨し、自らの御馬を賵とした。
子 宗憲
宗憲は本名阿懶である。女直字書が頒行されると、年十六で選ばれて学に入った。太宗が学に幸すると、宗憲は諸生と共に謁し、宗憲の進止は恂雅であり、太宗は召して前に至らせ、習う所を誦せしめると、語音清亮にして、応対に善かった。侍臣が奏して言うには、「これは左副元帥宗翰の弟です」と。上は久しく嗟賞した。兼ねて契丹、漢字に通じた。未だ冠せず、後に宗翰が宋を伐ち、汴京が破れると、衆人は府庫を争って財物を取ったが、宗憲は独り図書を載せて帰った。朝廷が制度礼楽を議するに、往々にして遼の旧を因襲した。宗憲は言うには、「方今遼、宋を奄有するに当たり、遠く前古を引き、時に因りて宜しきを制し、一代の法を成すべきである。何ぞ遼人の制度を近く取るのか」と。希尹は言うには、「而の意は甚だ我と合う」と。これより器重された。
撻懶、宗雋が斉の地を宋に与えることを唱議すると、宗憲は廷争してこれを折った。当時その言を用いなかったが、その後宗弼が再び河南、陝西の地を取り、宗憲の策の如くであった。宗磐、宗雋を捕らえた功により、昭武大將軍を授けられ、國史を修し、累官して尚書左丞となった。熙宗は従容としてこれに謂うには、「向に河南、陝西の地を宋人に与えようとした時、卿は与うべからずと為した。今これを取り戻すのは、猶お卿の言を用いるようなものである。卿の識慮は深遠である。今より以往、其れ言を尽くして隠すことなかれ」と。宗憲は拝謝し、遂に門下侍郎を摂った。
初め、熙宗は疑いに因って左丞相希尹を殺したが、久しくしてその無罪なることを察し、深く閔惜して、宗憲に謂うには、「希尹は国に大功あり、無罪にして死す。朕その孫を録用せんとす。如何」と。宗憲は対えて言うには、「陛下深く希尹を念い、その孫を録用されるは幸甚である。若し先ず死者の無罪なることを明らかにせずんば、生者何に由って仕え得ん」と。上は言うには、「卿の言是なり」と。即日希尹の官爵を復し、その孫守道を用いて応奉翰林文字とした。皇統五年、将に赦を肆わんとし、覃恩は女直人のみに及ぶと議した。宗憲は奏して言うには、「王臣に非ざるは莫く、慶倖豈に間あらんや」と。遂にその文を改め、均しくこれに被らしめた。行台平章政事に転じた。天德初、中京留守、安武軍節度使となった。河内郡王に封ぜられた。太原尹に改め、進んで钜鹿郡王に封ぜられた。正隆の例により王爵を奪われ、再び震武、武定軍節度使に遷った。
世宗が即位すると、使者を遣わして彼を召し、詔して曰く、「叔父もし来ることができれば、速やかにここに至るべし。もし紇石烈志寧や白彥敬に阻まれるならば、叔父の憂いとするに及ばない」と。宗憲は世宗の即位を聞き、先んじて既に官を棄てて帰還し、使者と中都で出会い、遂に小遼口において上に謁見した。中都留守に任じられ、即ち赴任を遣わされた。詔して元帥完顏彀英と共に軍事を議することを命じた。翌年、西京留守に改める。八月、南京に改める。僕散忠義が行台より京師に朝したので、宗憲が行台尚書省事を摂行した。召されて太子太師となり、上は宗憲に謂って曰く、「卿は年老いた旧人にして、事に経ること多し。皇太子は年尚少なき、謹んで訓導せよ」と。俄かに平章政事を拝し、太子太師は元の如し。詔して『太祖実録』を宗憲及び平章政事完顏元宜、左丞紇石烈良弼、判秘書監溫王爽に各一冊賜う。
移刺高山奴は前に寧州刺史たりしも、貪污を以て免ぜられたり。世宗は功臣の子孫宗族の中に顕仕する者なきを以て、秘書少監となす。是の時、母の喪未だ除かざるに、有司其の事を奏す。宗憲曰く、「高山奴は傲狠貪墨にして、左右に致すべからず」と。世宗曰く、「朕は其の父祖の功有るを以てするのみ。既に人として此の如くんば、豈に職位を玷すべけんや」と。制命を追還し、因りて右丞蘇保衡、参知政事石琚を顧みて曰く、「此れ朕の過挙なり、改めざるべからず。卿等は心を尽くして以て朕を輔けよ」と。有司言う、諸路の猛安謀克は、其の世襲を恃みて多く民を擾わす、流官と同じく、三十月を以て考と為さんことを請う、と。詔して尚書省に下して議せしむ。宗憲乃ち議を上して曰く、「昔、太祖皇帝天下を撫定し、功臣に誓いて猛安謀克を襲封せしむ。今若し改めて遷調と為さば、太祖の約に非ず。臣謂う、凡そ猛安謀克は、善悪を明らかに核し、賢を進め不肖を退け、職に任ぜざる者あらば、其の弟姪の中に更に賢者を択びて之に代うべし」と。上其の議に従う。右丞相に進み拝す。大定六年、薨ず。年五十九。上朝を輟め、悼惜すること久し。百官に命じて奠せしめ、賻として銀一千五百両、重彩五十端、絹五百匹を賜う。
習不失
習不失は本は辞不失と作し、後に習不失と定む。昭祖の孫、烏骨出の次子なり。初め、昭祖久しく継嗣無く、威順皇后徒単氏と巫に祷りて、景祖及び烏骨出を生む。烏骨出長じて酗酒し、屡々其の母に悖る。昭祖没し、徒単氏は景祖と謀りて之を殺す。部人怒り、景祖を害せんと欲す。徒単氏自ら事と為し、而して景祖乃ち免るるを得たり。
習不失は健捷にして、能く左右に射る。世祖節度を襲ぎ、肅宗は桓赧・散達を拒ぎ、斡魯紺出水に戦いて、已に再び利を失う。世祖軍に至り、吏士人色無し。世祖は習不失をして先ず脱豁改原に陣せしめ、而して身を出して搏戦し、其の歩軍を敗る。習不失は陣後より奮撃して之を敗り、其の騎軍を破る。乗する馬九矢に中り、馳すること能わず、遂に歩趨して出づ。方に戦うに、其の外兄烏葛名は善く射、敵騎の中に居り、将に射んとす。習不失熟視して之を識り、呼んで曰く、「此の小児、是れ汝一人の事か、何を為してか鋒を推して前に居ること此の如き」と。弓の弰を以て馬首を撃ちて去る。是の役、習不失の功多くを占む。桓赧・散達既に敗れ、習不失の馬陣中に棄てたる者も亦自ら帰る。
子鶻沙虎、国初功有り。天会の間、真定留守と為る。
子撻不也。
孫 宗亨
孫 宗賢
宗賢は本名を賽里といい、習不失の孫である。都統の杲に従って中京を攻め取り、鴛鴦濼において遼帝を襲撃した。宗翰が撻懶に耶律馬哥を襲撃させた際、都統は蒲家奴及び賽里らに兵を率いてこれを助けさせた。蒲家奴は賽里、斜野、裴満胡撻、達魯古廝列、耶律吳十らにそれぞれ兵を率いて分かれ行き、招諭させた。遼の留守迪越の家族と輜重を捕獲し、併せて群牧官の木盧瓦を降伏させ、多くの馬を得て、水草を追って牧養させた。賽里らは業迭へ向かい、遂に偏師を率いて深く侵入したが、敵が邀撃し、撒合は戦死した。蒲家奴が旺國崖の西に至ると、賽里の兵がこれと合流した。累官して左副點檢に至った。
賽里は護衛から出発し、十年も経たぬうちに将相を兼ねる地位に至り、常に感激し、朝廷に報いるため自ら尽力しようと考えた。悼后の母方の親族ではあったが、后が政権を専断するようになると、大臣たちはこれに依って進用を得る者もあったが、賽里は決してこれに附かなかった。皇太子済安が薨じ、魏王道済が死に、熙宗には嗣子がなかったので、賽里は熙宗に後宮を選んで継嗣を広げるよう勧め、后に対して少しも顧慮しなかったため、后はこれによって彼を怨んだ。海陵と共に宰相の位にあったが、少しも譲るところがなく、海陵は専横であったが内心賽里を畏れ、外では尊属として礼敬を加えながら内では常に彼を忌んでいた。海陵は悼后が賽里を怨んでいることを知り、これと力を合わせて彼を排斥したが、賽里もこれによって少しも態度を変えなかった。
胙王常勝が死ぬと、熙宗はその妻を宮中に納れた。間もなく、悼后及び妃数人を殺し、常勝の妻を后に立てようとしたが、果たせなかった。海陵が熙宗を弑した時、熙宗が后を立てようと議していると偽って諸王大臣を召集した。賽里は召集を聞き、真実であると思い、宮中に入ろうとして人に言った。「上は必ずや常勝の妻を后に立てようとされている。私は力を尽くして争おう。」捕らえられた時も、なお熙宗が常勝の妻を立てようとして先に自分を殺すのだと思い、言った。「誰か私のために言上してくれる者はないか。私の死は惜しむに足らぬが、ただ主上の左右に助ける者がいないことを思うのみである。」遂に害された。
石土門
石土門は、漢字では一に神徒門と作り、耶懶路完顔部の人で、代々その部の長であった。父は直離海、始祖の弟保活里の四世孫であり、同じ宗族ではあるが、長らく音信を通わせていなかった。景祖の時、直離海が部人邈孫を使者として来させ、宗系の交流を再開するよう請うた。景祖は邈孫を一年余り留め、食糧を厚く与えて飲食させ、手厚く遇した。帰る際には、幣帛数篚を贈り物として、厚い好意を結んだ。久しくして、耶懶が凶作に遭うと、景祖は彼らに馬牛を与え、買い入れの費用を助け、世祖を使者としてこれを届けさせた。ちょうど世祖が病気にかかり、石土門は昼夜を分かたず側を離れず、世祖の病気が癒えて帰ろうとする時、握手して別れを告げ、他日互いに忘れないことを約束した。石土門は体貌魁偉で、勇敢にして戦を善くし、質直で孝友に厚く、記憶力が強く弁舌速やかで、事に臨んで果断であった。
世祖が位を襲ぐと、交誼は益々深まり、隣接する部族はこれを快く思わず、遂に兵を合わせて攻撃した。石土門は弟の阿斯懣に二百人を率いて南下させ敵を防がせ、敵兵千人は既にその東に出て高台を占拠していたので、石土門は五千人を率いて迎撃した。敵将の斡里本は勇士であったが、出て来て挑戦し、石土門がその馬を射ると、斡里本が反射して石土門の腹を射た。石土門は矢を抜き、ますます力強く戦った。阿斯懣は勇士七人と徒歩で戦い、斡里本を殺し、諸部の兵は遂に敗れた。石土門はこれによって諸部を招諭し、世祖に附くようさせ、世祖はこれを称えた。後に烏春、窩謀罕及び鈍恩、狄庫德らを討伐した時、皆その部兵を率いて従軍し、功績があった。
弟の阿斯懣は間もなく卒去した。喪が終わると、大いにその一族を集め、太祖は官属を率いてこれに臨み、ついでに遼に代わることの議について意見を求めた。ちょうど会祭している時、飛ぶ鳥が燕から西へ飛んで来た。太祖がこれを射ると、矢は左翼を貫いて墜ちた。石土門はこれを持って上前に進み慶賀して言った。「烏鳶は人の甚だ憎むところである。今これを射て獲た。これは吉兆である。」即座に金版を献上した。後に本部の兵を率いて高麗を撃つことに従った。遼を討伐する時には、功績が特に多かった。王師が西京を攻め落とすと、金牌を賜った。その子の蟬蠢が従軍していた時、上は彼に語って言った。「我が妃の妹の白散が遼にいる。彼女が捕らえられたなら、必ずや汝の妻としよう。」果たしてその言葉の通りになった。
弟 忠
子 習室
習室。康宗の時、高麗が曷懶甸に九城を築くと、習室は斡賽の軍に従った。太祖が甯江州を攻撃した時、習室は先鋒を推して力戦し、猛安を授けられた。後に斜也に従って中京を攻克し、鴛鴦濼において遼主を襲撃し、山囗を平定し、夏の将李良輔の兵を破り、婁室と共に余睹穀において遼帝を捕らえた。
宗翰が宋を伐つに当たり、銀朮可と共に太原を包囲して守った。翌年、襄垣を攻め、潞城を陥落させ、西京を降伏させ、汴に至った。元帥府は、懐州・孟州が北は太行山に阻まれ、南は黄河に臨み、険要の地を制しているとして、習室に十二猛安の軍を統率させてこれを鎮撫させた。」そこで、寇賊を殲滅平定し、流亡の民を招集し、四境は安寧となった。天会五年、薨去した。熙宗の時、特進を追贈された。大定年間、威敏と諡された。
世宗は太祖・太宗の創業の艱難を思い、当時の群臣の中で勲功業績が最も顕著な者の画像を衍慶宮に掲げた:遼王斜也・金源郡王撒改・遼王宗幹・秦王宗翰・宋王宗望・梁王宗弼・金源郡王習不失・金源郡王斡魯・金源郡王希尹・金源郡王婁室・楚王宗雄・魯王闍母・金源郡王銀朮可・隋国公阿離合懣・金源郡王完顏忠・豫国公蒲家奴・金源郡王撒離喝・兗国公劉彥宗・特進斡魯古・斉国公韓企先、並びに習室、合わせて二十一人である。
初め、海陵王が諸路の万戸を廃止し、蘇濱路節度使を置いた。世宗の時、近臣が蘇濱を耶懶節度使に改めるよう奏請し、旧功を忘れないようにした。上は言った。「蘇濱と耶懶の二水は千里も離れており、節度使は蘇濱を治めるので、改める必要はない。石土門が親しく管轄した猛安の子孫で襲封している者は、耶懶猛安と改めてよい。その初めを忘れないためである。」
子に思敬あり。
思敬は本名を撒改といい、押懶河の人で、金源郡王神土懣の子、習失の弟である。初めは思恭といったが、顕宗の諱を避けて改めた。体貌は雄偉で、美しい鬚髯があり、純直で材幹があった。十一歳の時、父に従って太祖に謁見した。太祖は納鄰澱におり、ちょうど狩猟中であったため、詔して狩猟に従わせ、黄羊を射てこれを獲た。太祖は従馬を賜った。
熙宗が混同江で魚を捕らえた時、網の綱が切れた。曹国王宗敏が酔いに乗じて、馬に鞭打って江に入り、手で網の大綱を引っ張り、水中に沈んだ。熙宗は左右に呼んでこれを救わせたが、慌てて応じる者がいなかった。思敬が躍り込んで水に入り、宗敏を引き出した。熙宗は称賛し、賞賜は甚だ厚かった。右衛将軍に抜擢され、押懶路万戸を襲封し、世襲謀克を授けられた。七年、召されて謁見し、襲衣・廄馬・銭一万貫を賜った。帰る時、また使者を遣わして弓剣を賜った。この年、入朝して工部尚書となり、殿前都点検に改められた。間もなく、吏部尚書となった。
思敬が以前真定尹であった時、その子が部民の女を妾にした。この時、その兄が離縁を乞うたが、その妾は思敬が宰相の位にあるのを恐れ、去ることを敢えなかった。詔してその家に帰らせた。
孫の吾侃術特は、大定二十四年、明威将軍に除され、速濱路宝鄰山猛安を授けられた。
賛して言う:劾者は国を世祖に譲り、以て帝業を開いた。撒改は国家を治め、社稷を定め、太祖を尊立し、深謀遠略、一代の宗臣たり、賢いことかな。習不失は前人の過ちを覆い、勲功を五世に著す。『易』に「子有りて考に咎無し」とあるが、これを言うのであろうか。始祖は季弟と部を異にして処り、子孫ともに強宗となり、而して遼を取る策は、遂に迪古乃によって定まった。豈に天道陰に以て之を相する有りしや。