金史

列傳第八: 撒改 習不失 石土門

列傳第八 ○撒改(子:宗憲(本名阿懶)) 習不失(孫:宗亨(本名撻不也) 宗賢(本名賽里)) 石土門(弟:忠(本名迪古乃) 子:習室 思敬(本名撒改))

撒改

撒改は、景祖の孫、韓國公劾者の長子、世祖の兄の子である。劾者は兄弟の中では最年長であった。景祖が諸部を平定しようとしていた時、世祖の胆勇と才略を愛した。諸子が成長すると、國俗に従って別々の宮に住むこととなったが、劾者に命じて世祖と同邸とさせ、劾者は家務を専管し、世祖は外事を主管させた。世祖が節度使を襲い、劾孫を越えて肅宗、穆宗に伝えたのは、皆景祖の意志であった。穆宗が初めて位を襲ぐと、劾者が長兄でありながら立つことができなかったことを思い、遂に撒改を國相に任じた。

穆宗は父兄の基業を踏み継ぎ、強梗で己に服さない者を鋤き除き、撒改に馬紀嶺の道を取らせて阿疏を攻めさせ、穆宗は自ら将となり、阿疏城下で軍を会することを期した。撒改が行き阿不塞水に至ると、烏延部の斜勒勃堇が来謁し、撒改に言うには、「國相が太師と阿疏城下で軍を会せんとしていると聞く。これは深入りして必ず取る策である。先ず潺蠢、星顯の路を撫定し、その党附を落とし、その民人を奪い、然る後に合軍するのが遅くない」と。撒改はこれに従い、鈍恩城を攻め、援軍を請うた。穆宗はこれに与え、撒改は遂に鈍恩城を攻め落とし、穆宗と来会して阿疏城下に至った。鈍恩は南にあり、阿疏は北にある。穆宗は初め撒改を分道させ、即ち会して阿疏を攻めさせた。その斜勒の計を用いて先に鈍恩城を取ったと聞き、初めの議と合わず、頗る然らずとした。及んで遼の使いが来て阿疏を攻めることを止めさせてから、初めて先に鈍恩城を取ったことを功としたのである。また國相として都統となり、留可、詐都、塢塔等の軍を討ったが、阿疏は遼に亡命し、終に敢えて帰らず、留可、詐都、塢塔、鈍恩は皆降った。

康宗が没し、太祖が都勃極烈と称し、撒改と分かれて諸部を治め、匹脫水以北は太祖が統べ、來流水の人民は撒改が統べた。明年甲午、節度使を嗣ぐ命がようやく至った。

遼主は遊畋にふけり、政事は怠り廃れた。太祖は遼が伐つべきことを知り、遂に兵を起こした。九月、遼人と境上で戦い、謝十を獲た。太祖は使いをして撒改に勝利を告げさせると、獲た謝十の乗馬を以てし、撒改及び将士は皆歓呼して言うには、「義兵が初めて遼界に至り、一戦にして勝つ。遼を滅ぼすは必ず此より始まるであろう」と。子の宗翰及び完顏希尹を遣わして来賀せしめ、因って進むことを勧めたが、太祖は未だ従わなかった。十月、師は甯江州を克ち、鴨子河において遼師十万を破り、師は還った。十二月、太宗及び撒改、辭不失は諸将を率いて再び進むことを勧めた。收國元年正月朔、太祖は即位し、撒改は従前の如く國相を行った。遼を伐つ計は迪古乃に決し、大計を賛成するは実に撒改より啓いたのである。撒改は自ら宗室の近属にして、且つ長房であり、肅宗に継いで國相となり、既に貴く且つ重きを以て、故に身を大計に任せ、かくの如く賛成し、諸人これに先んずる者はなかった。

太祖が即位した後、群臣が奏事するに、撒改等が前に跪くと、上は立ち上がり、泣いてこれを止めて言うには、「今日の成功は、皆諸君の協輔の力である。吾は大位に処すと雖も、旧俗を易え難い」と。撒改等は感激し、再拝して謝した。凡そ臣下の宴集には、太祖は嘗てこれに赴き、主人が拝すれば、上もまた答拝した。天輔の後、初めて君臣の礼を正したのである。七月、太宗は諳版勃極烈と為り、撒改は國論勃極烈、辭不失は阿買勃極烈、杲は國論昊勃極烈と為った。勃極烈は女直の尊官である。太祖が正位号して以来、凡そ半年、封拜の聞こえなかった。太宗は介弟として優礼絶等、杲は母弟の最も幼き者、撒改、辭不失は宗室を以て、同封拜された。九月、國論胡魯勃極烈を加えられた。天輔五年、薨去した。太祖は往吊し、白馬に乗り、額を剺いて慟哭した。葬に及んで、また親臨し、自らの御馬を賵とした。

撒改の人となりは、敦厚にして智多く、人を用いるに長け、家居は純粋に倹しく、稼穡を好んだ。始めて國相となってより、能く諸部を馴服させ、訟獄はその情を得、当時に言うには、「國相を見ずして、事何に従って決せん」と。及んで兵を挙げて遼を伐つに及び、撒改は常に宗臣として内外の倚重と為り、戦が多いことを以てその功としなかった。天會十五年、燕國王を追封された。正隆に陳國公に降封された。大定三年、金源郡王に改めて贈られ、太祖廟廷に配饗され、諡して忠毅といった。十五年、詔して衍慶宮に圖像せしめた。子に宗翰、宗憲がいる。宗翰は別に傳がある。

子 宗憲

宗憲は本名阿懶である。女直字書が頒行されると、年十六で選ばれて学に入った。太宗が学に幸すると、宗憲は諸生と共に謁し、宗憲の進止は恂雅であり、太宗は召して前に至らせ、習う所を誦せしめると、語音清亮にして、応対に善かった。侍臣が奏して言うには、「これは左副元帥宗翰の弟です」と。上は久しく嗟賞した。兼ねて契丹、漢字に通じた。未だ冠せず、後に宗翰が宋を伐ち、汴京が破れると、衆人は府庫を争って財物を取ったが、宗憲は独り図書を載せて帰った。朝廷が制度礼楽を議するに、往々にして遼の旧を因襲した。宗憲は言うには、「方今遼、宋を奄有するに当たり、遠く前古を引き、時に因りて宜しきを制し、一代の法を成すべきである。何ぞ遼人の制度を近く取るのか」と。希尹は言うには、「而の意は甚だ我と合う」と。これより器重された。

撻懶、宗雋が斉の地を宋に与えることを唱議すると、宗憲は廷争してこれを折った。当時その言を用いなかったが、その後宗弼が再び河南、陝西の地を取り、宗憲の策の如くであった。宗磐、宗雋を捕らえた功により、昭武大將軍を授けられ、國史を修し、累官して尚書左丞となった。熙宗は従容としてこれに謂うには、「向に河南、陝西の地を宋人に与えようとした時、卿は与うべからずと為した。今これを取り戻すのは、猶お卿の言を用いるようなものである。卿の識慮は深遠である。今より以往、其れ言を尽くして隠すことなかれ」と。宗憲は拝謝し、遂に門下侍郎を摂った。

初め、熙宗は疑いに因って左丞相希尹を殺したが、久しくしてその無罪なることを察し、深く閔惜して、宗憲に謂うには、「希尹は国に大功あり、無罪にして死す。朕その孫を録用せんとす。如何」と。宗憲は対えて言うには、「陛下深く希尹を念い、その孫を録用されるは幸甚である。若し先ず死者の無罪なることを明らかにせずんば、生者何に由って仕え得ん」と。上は言うには、「卿の言是なり」と。即日希尹の官爵を復し、その孫守道を用いて応奉翰林文字とした。皇統五年、将に赦を肆わんとし、覃恩は女直人のみに及ぶと議した。宗憲は奏して言うには、「王臣に非ざるは莫く、慶倖豈に間あらんや」と。遂にその文を改め、均しくこれに被らしめた。行台平章政事に転じた。天德初、中京留守、安武軍節度使となった。河内郡王に封ぜられた。太原尹に改め、進んで钜鹿郡王に封ぜられた。正隆の例により王爵を奪われ、再び震武、武定軍節度使に遷った。

世宗が即位すると、使者を遣わして彼を召し、詔して曰く、「叔父もし来ることができれば、速やかにここに至るべし。もし紇石烈志寧や白彥敬に阻まれるならば、叔父の憂いとするに及ばない」と。宗憲は世宗の即位を聞き、先んじて既に官を棄てて帰還し、使者と中都で出会い、遂に小遼口において上に謁見した。中都留守に任じられ、即ち赴任を遣わされた。詔して元帥完顏彀英と共に軍事を議することを命じた。翌年、西京留守に改める。八月、南京に改める。僕散忠義が行台より京師に朝したので、宗憲が行台尚書省事を摂行した。召されて太子太師となり、上は宗憲に謂って曰く、「卿は年老いた旧人にして、事に経ること多し。皇太子は年尚少なき、謹んで訓導せよ」と。俄かに平章政事を拝し、太子太師は元の如し。詔して『太祖実録』を宗憲及び平章政事完顏元宜、左丞紇石烈良弼、判秘書監溫王爽に各一冊賜う。

移刺高山奴は前に寧州刺史たりしも、貪污を以て免ぜられたり。世宗は功臣の子孫宗族の中に顕仕する者なきを以て、秘書少監となす。是の時、母の喪未だ除かざるに、有司其の事を奏す。宗憲曰く、「高山奴は傲狠貪墨にして、左右に致すべからず」と。世宗曰く、「朕は其の父祖の功有るを以てするのみ。既に人として此の如くんば、豈に職位を玷すべけんや」と。制命を追還し、因りて右丞蘇保衡、参知政事石琚を顧みて曰く、「此れ朕の過挙なり、改めざるべからず。卿等は心を尽くして以て朕を輔けよ」と。有司言う、諸路の猛安謀克は、其の世襲を恃みて多く民を擾わす、流官と同じく、三十月を以て考と為さんことを請う、と。詔して尚書省に下して議せしむ。宗憲乃ち議を上して曰く、「昔、太祖皇帝天下を撫定し、功臣に誓いて猛安謀克を襲封せしむ。今若し改めて遷調と為さば、太祖の約に非ず。臣謂う、凡そ猛安謀克は、善悪を明らかに核し、賢を進め不肖を退け、職に任ぜざる者あらば、其の弟姪の中に更に賢者を択びて之に代うべし」と。上其の議に従う。右丞相に進み拝す。大定六年、薨ず。年五十九。上朝を輟め、悼惜すること久し。百官に命じて奠せしめ、賻として銀一千五百両、重彩五十端、絹五百匹を賜う。

習不失

習不失は本は辞不失と作し、後に習不失と定む。昭祖の孫、烏骨出の次子なり。初め、昭祖久しく継嗣無く、威順皇后徒単氏と巫に祷りて、景祖及び烏骨出を生む。烏骨出長じて酗酒し、屡々其の母に悖る。昭祖没し、徒単氏は景祖と謀りて之を殺す。部人怒り、景祖を害せんと欲す。徒単氏自ら事と為し、而して景祖乃ち免るるを得たり。

習不失は健捷にして、能く左右に射る。世祖節度を襲ぎ、肅宗は桓赧・散達を拒ぎ、斡魯紺出水に戦いて、已に再び利を失う。世祖軍に至り、吏士人色無し。世祖は習不失をして先ず脱豁改原に陣せしめ、而して身を出して搏戦し、其の歩軍を敗る。習不失は陣後より奮撃して之を敗り、其の騎軍を破る。乗する馬九矢に中り、馳すること能わず、遂に歩趨して出づ。方に戦うに、其の外兄烏葛名は善く射、敵騎の中に居り、将に射んとす。習不失熟視して之を識り、呼んで曰く、「此の小児、是れ汝一人の事か、何を為してか鋒を推して前に居ること此の如き」と。弓の弰を以て馬首を撃ちて去る。是の役、習不失の功多くを占む。桓赧・散達既に敗れ、習不失の馬陣中に棄てたる者も亦自ら帰る。

世祖嘗て術甲孛里篤或いは烏春等と変を為さんことを疑い、習不失をして単騎往きて観せしむ。孛里篤は忽魯と酒を楼上に置きて以て之を飲ます。習不失其の私語昵昵たるを聞き、若し将に己を執らんとするが如きを、一躍して楼を下り、傍ら籓籬の外に出で、馬を棄てて帰る。其の勇此の如し。杯乃ち烏春を約して兵を挙ぐ。世祖蘇素海甸に至りて烏春に遇う。肅宗前に戦い、斜列・習不失之を佐く。束縕して火を縱ち、煙焰天を蔽い、大いに烏春を敗り、杯乃を執えて帰る。太祖麻産を獲、馘を遼に献ず。遼人功を賞し、穆宗・太祖・歡都・習不失皆詳隱と為す。後に阿里合懣・斡帶と俱に撒改を佐けて留可城を攻め、之を下す。太祖遼を伐つに、兵千人を領して左右に夾侍せしむ。出河店の役、惟だ習不失の策のみ太祖と合い、卒に十万の師を破り、其の軍鋒を挫く。遂に太宗・撒改等と俱に進むを勧む。收国元年七月、太宗・撒改・杲と俱に勃極烈と為り、習不失は阿買勃極烈と為る。

天輔七年、太宗と習不失居守す。鄆王昂紀律に違いて衆を失い、法当に死すべし。是の時に、遼人燕京を以て降り、宋人歳幣を約す。三月、世宗生まる。習不失太宗に謂って曰く、「兄弟骨肉は、恩を以て義を掩い、寧ろ法を屈して以て之を全うすべし。今国家迭に大慶有り、昂を減じて以て死無からしむべし。若し主上責言有らば、我を以て説と為せ」と。太宗之を然りとし、遂に昂を杖ちて以て聞かしむ。太祖毎に遼を伐つに、輒ち習不失と太宗に命じて居守せしむ。方面の功無きと雖も、倚任は撒改に比侔す。是の歳七月、薨ず。会す太祖班師して道病す。太宗奉迎して謁見す。恐らくは太祖感動して疾転じて甚だしからんことを、敢えて薨を告げず。太祖輒ち問うて曰く、「阿買勃極烈安在ぞ」と。太宗紿えて対えて曰く、「今即ち至らん」と。正隆二年、開府儀同三司を贈る。曹国公を追封す。大定三年、金源郡王に進封し、太祖廟廷に配饗し、諡して忠毅と曰う。

子鶻沙虎、国初功有り。天会の間、真定留守と為る。

子撻不也。

孫 宗亨

宗亨は本名撻不也、性忠謹なり。天眷初め、宗室の子を以て、護衛に充つ。宗磐・宗雋を擒えるに功有り、忠勇校尉こういを加えられ、昭信校尉・尚廄局直長に遷る。三年、本局副使に升る。父憂に丁る。時に宗正官属、例に材を以て選ぶ。宗亨選中に在り、遂に起復し、淑溫特宗室将軍と為る。会寧府少尹に改め、登州刺史を歴、献州刺史に改め、特満群牧使・同知北京路転運使と為り、澤州定国軍節度使に改む。海陵庶人南伐するに、本職を以て武揚軍都総管を領し、淮を過ぐ。

世宗即位し、手詔を以て宗亨に賜う。宗亨詔を得て、即ち朝に入る。大定二年、右宣徽使を授けられ、未だ幾ばくもせず、北京路兵馬都統と為り、以て契丹賊を討つ。右副元帥僕散忠義は窩斡と花道に遇う。宗亨は左翼万戸蒲察世傑等と、七謀克の軍を以て之と戦い、利を失う。窩斡敗るるに及び、其の党括里・紮八衆を率いて南奔す。宗亨追い及び之。紮八詐りて降る。宗亨之を信ず。紮八詭りて曰く、「括里遁る、願わくは往きて邀えん」と。宗亨其の去るを聴す。大いに軍士を縱ち、賊の棄てたる囊橐人畜を取り、多く自ら之を有す。括里・紮八亡びて宋に入る。是に坐し、寧州刺史に降す。

孫 宗賢

宗賢は本名を賽里といい、習不失の孫である。都統の杲に従って中京を攻め取り、鴛鴦濼において遼帝を襲撃した。宗翰が撻懶に耶律馬哥を襲撃させた際、都統は蒲家奴及び賽里らに兵を率いてこれを助けさせた。蒲家奴は賽里、斜野、裴満胡撻、達魯古廝列、耶律吳十らにそれぞれ兵を率いて分かれ行き、招諭させた。遼の留守迪越の家族と輜重を捕獲し、併せて群牧官の木盧瓦を降伏させ、多くの馬を得て、水草を追って牧養させた。賽里らは業迭へ向かい、遂に偏師を率いて深く侵入したが、敵が邀撃し、撒合は戦死した。蒲家奴が旺國崖の西に至ると、賽里の兵がこれと合流した。累官して左副點檢に至った。

天眷二年、ちょうど宗雋を捕らえようとした時、賽里はその家で酒宴を共にした罪に坐し、官爵を剥奪された。間もなく、官職に復した。皇統四年、世襲謀克を授けられ、都點檢に転じ、豳國公に封ぜられた。平章政事に拝された。進んで右丞相に拝され、中書令を兼ねた。進んで太保・左丞相に拝され、國史の監修を務めた。左副元帥に罷免された。ほどなく、再び太保・左丞相となり、左副元帥は元の如くであった。進んで太師となり、三省事を領し、都元帥を兼ね、國史の監修を務めた。出て南京留守となり、行台尚書省事を領した。再び左副元帥となり、西京留守を兼ねた。再び太保となり、三省事を領した。再び左丞相となり、都元帥を兼ねた。

賽里は護衛から出発し、十年も経たぬうちに将相を兼ねる地位に至り、常に感激し、朝廷に報いるため自ら尽力しようと考えた。悼后の母方の親族ではあったが、后が政権を専断するようになると、大臣たちはこれに依って進用を得る者もあったが、賽里は決してこれに附かなかった。皇太子済安が薨じ、魏王道済が死に、熙宗には嗣子がなかったので、賽里は熙宗に後宮を選んで継嗣を広げるよう勧め、后に対して少しも顧慮しなかったため、后はこれによって彼を怨んだ。海陵と共に宰相の位にあったが、少しも譲るところがなく、海陵は専横であったが内心賽里を畏れ、外では尊属として礼敬を加えながら内では常に彼を忌んでいた。海陵は悼后が賽里を怨んでいることを知り、これと力を合わせて彼を排斥したが、賽里もこれによって少しも態度を変えなかった。

胙王常勝が死ぬと、熙宗はその妻を宮中に納れた。間もなく、悼后及び妃数人を殺し、常勝の妻を后に立てようとしたが、果たせなかった。海陵が熙宗をしいした時、熙宗が后を立てようと議していると偽って諸王大臣を召集した。賽里は召集を聞き、真実であると思い、宮中に入ろうとして人に言った。「上は必ずや常勝の妻を后に立てようとされている。私は力を尽くして争おう。」捕らえられた時も、なお熙宗が常勝の妻を立てようとして先に自分を殺すのだと思い、言った。「誰か私のために言上してくれる者はないか。私の死は惜しむに足らぬが、ただ主上の左右に助ける者がいないことを思うのみである。」遂に害された。

石土門

石土門は、漢字では一に神徒門と作り、耶懶路完顔部の人で、代々その部の長であった。父は直離海、始祖の弟保活里の四世孫であり、同じ宗族ではあるが、長らく音信を通わせていなかった。景祖の時、直離海が部人邈孫を使者として来させ、宗系の交流を再開するよう請うた。景祖は邈孫を一年余り留め、食糧を厚く与えて飲食させ、手厚く遇した。帰る際には、幣帛数篚を贈り物として、厚い好意を結んだ。久しくして、耶懶が凶作に遭うと、景祖は彼らに馬牛を与え、買い入れの費用を助け、世祖を使者としてこれを届けさせた。ちょうど世祖が病気にかかり、石土門は昼夜を分かたず側を離れず、世祖の病気が癒えて帰ろうとする時、握手して別れを告げ、他日互いに忘れないことを約束した。石土門は体貌魁偉で、勇敢にして戦を善くし、質直で孝友に厚く、記憶力が強く弁舌速やかで、事に臨んで果断であった。

世祖が位を襲ぐと、交誼は益々深まり、隣接する部族はこれを快く思わず、遂に兵を合わせて攻撃した。石土門は弟の阿斯懣に二百人を率いて南下させ敵を防がせ、敵兵千人は既にその東に出て高台を占拠していたので、石土門は五千人を率いて迎撃した。敵将の斡里本は勇士であったが、出て来て挑戦し、石土門がその馬を射ると、斡里本が反射して石土門の腹を射た。石土門は矢を抜き、ますます力強く戦った。阿斯懣は勇士七人と徒歩で戦い、斡里本を殺し、諸部の兵は遂に敗れた。石土門はこれによって諸部を招諭し、世祖に附くようさせ、世祖はこれを称えた。後に烏春、窩謀罕及び鈍恩、狄庫德らを討伐した時、皆その部兵を率いて従軍し、功績があった。

弟の阿斯懣は間もなく卒去した。喪が終わると、大いにその一族を集め、太祖は官属を率いてこれに臨み、ついでに遼に代わることの議について意見を求めた。ちょうど会祭している時、飛ぶ鳥が燕から西へ飛んで来た。太祖がこれを射ると、矢は左翼を貫いて墜ちた。石土門はこれを持って上前に進み慶賀して言った。「烏鳶は人の甚だ憎むところである。今これを射て獲た。これは吉兆である。」即座に金版を献上した。後に本部の兵を率いて高麗を撃つことに従った。遼を討伐する時には、功績が特に多かった。王師が西京を攻め落とすと、金牌を賜った。その子の蟬蠢が従軍していた時、上は彼に語って言った。「我が妃の妹の白散が遼にいる。彼女が捕らえられたなら、必ずや汝の妻としよう。」果たしてその言葉の通りになった。

上の西征に際し、諸将は皆従軍したが、石土門は善射の者三百人を率いて来て京師を守衛した。時に太宗が居守しており、その到着を喜び、自ら出迎えて労った。続いて黄龍府の反乱を聞き、睿宗と共にこれを討ち平らげた。睿宗は奴婢五百人を賜い、軍が帰還すると、賞賜は甚だ厚かった。ここに至って卒去した。六十一歳。正隆二年、金源郡王に封ぜられた。子に習失、思敬がいる。

弟 忠

完顔忠は本名を迪古乃といい、字は阿思魁である。石土門の弟である。太祖は彼を重んじ、兵を挙げて遼を伐とうとしたが、決断できずにいた。迪古乃と事を計りたいと思い、ここに宗斡、宗幹、完顔希尹らが皆従った。数日過ごし、少し間を置いて、太祖は迪古乃と肩を並べて語って言った。「我がこの来訪は徒然ではない。汝に謀りごとがある。汝は我のためにこれを決断せよ。遼は大国と名乗っているが、その実は空虚で、主は驕り兵士は臆病、戦陣に勇なく、取るに足りぬ。我は兵を挙げ、義を杖として西征したい。君はどう思うか。」迪古乃は言った。「主公英武をもってし、士衆は喜んで用いられんとします。遼帝は狩猟にふけり、政令は常なく、容易に対処できます。」太祖はこれを然りとした。翌年、太祖が遼を伐つと、婆盧火を使者として兵を徴発させ、迪古乃は兵を率いて師に会した。收國元年十二月、上は遼主の兵を禦ぎ、爻刺に駐屯した。迪古乃は銀術哥と共に達魯古路を守った。二年、斡魯、蒲察と会して斡魯古と合流し、高永昌を討ち、その兵を破り、東京は降伏した。遂に斡魯古らと共に耶律捏里を防ぎ、蒺藜山においてこれを破り、顯州を抜き、乾州、惠州などが降伏した。

天輔二年、婁室と共に入朝して謁見した。上は言った。「遼主は近く中京にいるのに、敢えて軽々しく来た。各々三十回杖打て。」太祖が草濼に軍を駐屯させると、迪古乃は敢えて奉聖州を攻め、雞鳴山においてその兵五千を破り、奉聖州は降伏した。太祖が燕京に入ると、迪古乃は德勝口から出て、石土門に代わって耶懶路都勃堇となった。天會二年、耶懶の地が塩鹹地であるため、その部を蘇濱水に移し、なお術実勒の田地を加えて与えた。

熙宗が即位すると、太子太師を加えられた。十四年、保大軍節度使、同中書門下平章事を加えられ、薨去した。天德二年、迪古乃は太祖廟廷に配饗された。大定二年、金源郡王を追封された。

子 習室

習室。康宗の時、高麗が曷懶甸に九城を築くと、習室は斡賽の軍に従った。太祖が甯江州を攻撃した時、習室は先鋒を推して力戦し、猛安を授けられた。後に斜也に従って中京を攻克し、鴛鴦濼において遼主を襲撃し、山囗を平定し、夏の将李良輔の兵を破り、婁室と共に余睹穀において遼帝を捕らえた。

宗翰が宋を伐つに当たり、銀朮可と共に太原を包囲して守った。翌年、襄垣を攻め、潞城を陥落させ、西京を降伏させ、汴に至った。元帥府は、懐州・孟州が北は太行山に阻まれ、南は黄河に臨み、険要の地を制しているとして、習室に十二猛安の軍を統率させてこれを鎮撫させた。」そこで、寇賊を殲滅平定し、流亡の民を招集し、四境は安寧となった。天会五年、薨去した。熙宗の時、特進を追贈された。大定年間、威敏と諡された。

世宗は太祖・太宗の創業の艱難を思い、当時の群臣の中で勲功業績が最も顕著な者の画像を衍慶宮に掲げた:遼王斜也・金源郡王撒改・遼王宗幹・秦王宗翰・宋王宗望・梁王宗弼・金源郡王習不失・金源郡王斡魯・金源郡王希尹・金源郡王婁室・楚王宗雄・魯王闍母・金源郡王銀朮可・隋国公阿離合懣・金源郡王完顏忠・国公蒲家奴・金源郡王撒離喝・兗国公劉彥宗・特進斡魯古・斉国公韓企先、並びに習室、合わせて二十一人である。

初め、海陵王が諸路の万戸を廃止し、蘇濱路節度使を置いた。世宗の時、近臣が蘇濱を耶懶節度使に改めるよう奏請し、旧功を忘れないようにした。上は言った。「蘇濱と耶懶の二水は千里も離れており、節度使は蘇濱を治めるので、改める必要はない。石土門が親しく管轄した猛安の子孫で襲封している者は、耶懶猛安と改めてよい。その初めを忘れないためである。」

子に思敬あり。

思敬は本名を撒改といい、押懶河の人で、金源郡王神土懣の子、習失の弟である。初めは思恭といったが、顕宗の諱を避けて改めた。体貌は雄偉で、美しい鬚髯があり、純直で材幹があった。十一歳の時、父に従って太祖に謁見した。太祖は納鄰澱におり、ちょうど狩猟中であったため、詔して狩猟に従わせ、黄羊を射てこれを獲た。太祖は従馬を賜った。

宗翰が太原から宋を伐つ時、その兄習室に従って太原を攻めた。宗翰が河南を取ると、思敬は完顔活女に従って河を渡り、洛陽らくようを陥落させ、汴を包囲するなど、いずれも功があった。軍が帰還すると、遼王宗幹の麾下に隷属した。太宗が東京の温湯に行幸した時、思敬は護衛を代行し、衛卒百人を率いて従行した。謀克を領した。術虎麟を征討するのに従って功があり、遂に護衛に充てられた。天眷二年、宗磐・宗雋を捕らえた功により、顕武将軍に遷った。

熙宗が混同江で魚を捕らえた時、網の綱が切れた。曹国王宗敏が酔いに乗じて、馬に鞭打って江に入り、手で網の大綱を引っ張り、水中に沈んだ。熙宗は左右に呼んでこれを救わせたが、慌てて応じる者がいなかった。思敬が躍り込んで水に入り、宗敏を引き出した。熙宗は称賛し、賞賜は甚だ厚かった。右衛将軍に抜擢され、押懶路万戸を襲封し、世襲謀克を授けられた。七年、召されて謁見し、襲衣・廄馬・銭一万貫を賜った。帰る時、また使者を遣わして弓剣を賜った。この年、入朝して工部尚書となり、殿前都点検に改められた。間もなく、吏部尚書となった。

天徳初年、報諭宋国使となった。宋人は旧例により、銭塘江の潮を見ることを請うたが、思敬は見ず、言った。「我が国には東に巨海があり、江水で銭塘より大きいものがある。」遂に行かなかった。使節から帰還し、尚書右丞に拝され、罷免されて真定尹となった。廉潔を用いられ、河内郡王に封ぜられ、钜鹿に転封された。母の喪に服し、本官に起復され、益都尹に改められた。正隆二年、例により王爵を奪われ、慶陽尹に改められた。

大定二年、西南路招討使に授けられ、済国公に封ぜられ、天徳軍節度使を兼ねた。間もなく北路都統となり、金牌一つと銀牌二つを佩びた。西北路招討使唐括孛古底がその副となった。本路の兵二千を率い、孛古底と会し、地形の要衝を見て、あるいは狗濼に屯駐し、契丹賊の出没する地を伺い、守備を置き、遠く斥候を出し、賊が来れば戦い、昼夜を限りとしなかった。詔して孛古底に言った。「汝の兵は少ない。思敬が到着するまでは、先に戦ってはならない。」僕散忠義が窩斡を陷泉で破った。詔して思敬に新馬三千を選び、追撃に備えさせた。窩斡が奚の中に入ると、思敬は元帥右都監となり、旧来率いていた軍を率いて奚の地の張哥宅に入り、大軍と会してこれを討った。偽節度使特末也を破り、二百余人を捕獲した。賊の降将稍合住がその同党の神独斡と共に、窩斡とその母徐輦・妻子弟侄の家族及び金銀牌印を捕らえて思敬のもとに降った。思敬は京師に俘虜を献上し、金百両・銀千両・重彩四十端・玉帯・廄馬・名鷹を賜った。右副元帥に拝され、南辺を経略し、山東に駐屯した。罷免されて北京留守となった。また右副元帥に拝され、引き続き山東を経略した。

初め、猛安謀克が山東に屯田し、それぞれ受け取った土地に従い、州県に散在していた。世宗は猛安謀克が民戸と雑居するのを好まず、彼らを集まって居住させようとし、戸部郎中完顔譲を元帥府に遣わしてこれを議させた。思敬は山東路総管徒単克寧と議して言った。「大軍は今まさに宋を伐とうとしている。家属は暫く州県に寓居させ、軍衆を適量留めて備えとすべきである。辺境の事が寧息するのを待ち、猛安謀克をそれぞれ聚居させれば、軍民ともに便利である。」帰って奏上すると、上はこれに従った。その後、遂に猛安謀克が自ら保聚をなし、その田土が民田と犬牙のごとく入り組んでいるものは、互いに交換した。三年四月、京師に召還され、北京留守とされ、金鞍・勒馬を賜った。七年、召されて平章政事となった。先に、猛安謀克を省併し、及び海陵王の時に功なくして猛安・謀克を授けられた者を、皆罷免したため、職を失う者が多かった。思敬は才量に応じて用いるよう請うた。上はその請いに従った。

思敬が以前真定尹であった時、その子が部民の女を妾にした。この時、その兄が離縁を乞うたが、その妾は思敬が宰相の位にあるのを恐れ、去ることを敢えなかった。詔してその家に帰らせた。

九年、枢密使に拝され、五事について上疏して論じた:第一に、女直人は漢人のように文理によって選試することができる。第二に、契丹人は女直猛安に分属させることができる。第三に、塩濼官は罷去できる。第四に、猛安と同勾当する副千戸官もまた罷免できる。第五に、親王府の官属は文資官をもって擬注し、女直の言語文字を教える。上は皆これに従った。その後、女直人が進士を試み、夾谷衡・尼厖古鑒・徒単鎰・完顔匡らは、皆これによって宰相に至った。実に思敬がこれを啓いたのである。

久しくして、上は思敬に言った。「朕は『熙宗実録』を修めようと思う。卿はかつて侍従であったから、必ずその事蹟を記憶しているであろう。」答えて言った。「熙宗の時は、内外ともに人を得、風雨は時にかない、年穀は豊かで、盗賊は止み、百姓は安らかであった。これがその大概です。どうして余事を必要としましょう。」上は大いに喜んだ。世宗は事を立てるのを好んだので、その微かな諫言はこのようであった。大定十三年、薨去した。上は朝を停め、自ら喪に臨み、慟哭した。言った。「旧臣である。」賻贈を厚く加え、葬礼は全て官から給するに従った。

孫の吾侃術特は、大定二十四年、明威将軍に除され、速濱路宝鄰山猛安を授けられた。

賛して言う:劾者は国を世祖に譲り、以て帝業を開いた。撒改は国家を治め、社稷を定め、太祖を尊立し、深謀遠略、一代の宗臣たり、賢いことかな。習不失は前人の過ちを覆い、勲功を五世に著す。『易』に「子有りて考に咎無し」とあるが、これを言うのであろうか。始祖は季弟と部を異にして処り、子孫ともに強宗となり、而して遼を取る策は、遂に迪古乃によって定まった。豈に天道陰に以て之を相する有りしや。