金史

列傳第七: 太祖諸子(宗雋、宗傑、宗強、宗敏) 元

太祖の聖穆皇后は景宣帝(熙宗)・豊王烏烈・趙王宗傑を生む。光懿皇后は遼王宗幹を生む。欽憲皇后は宋王宗望・陳王宗雋・瀋王訛魯を生む。宣獻皇后は睿宗(世宗の父)・豳王訛魯朵を生む。元妃烏古論氏は梁王宗弼・衛王宗強・しょく王宗敏を生む。崇妃蕭氏は紀王習泥烈・息王甯吉・莒王燕孫を生む。娘子獨奴可は鄴王斡忽を生む。宗幹・宗望・宗弼はそれぞれ伝がある。

宗雋

宗雋、本名は訛魯観。天会十四年、東京留守となる。天眷元年、朝廷に入り、左副元帥撻懶とともに建議し、河南・陝西の地を宋に与える。まもなく尚書左丞相となり、開府儀同三司を加えられ、侍中を兼ね、陳王に封ぜられる。二年、太保に任ぜられ、三省事を領し、兗国王に進封されるが、やがて謀反を企てたとして誅殺される。

宗傑

宗傑、本名は没里野。天会五年、薨去。天会十三年、孝悼と諡される。天眷元年、越王を追封される。その長子奭を会寧牧とし、鄧王に封ず。後に上京留守となり、さらに燕京・西京に改任。皇統三年、薨去。子に阿楞・撻楞あり。海陵王が宰相の時、しいしいぎゃくを謀り、罪をでっち上げて彼らを殺害。海陵王が帝位をさんさんだつすると、宗傑の妻をも殺害。大定年間、宗傑に太師を贈り、趙王に進封。

宗強

宗強、本名は阿魯。天眷元年、紀王に封ぜられる。三年、宗固に代わって燕京留守となり、衛王に封ぜられ、太師となる。皇統二年十月、薨去、朝を七日間停止。喪が上京に至ると、上(熙宗)は自ら臨んで慟哭し、なお自ら喪事を監督。子に阿鄰・可喜・阿瑣あり。

爽、本名は阿鄰。天徳三年、世襲猛安を授かる。正隆二年、横海軍節度使に任ぜられ、安武軍に改め、京師に留まって朝請に奉ず。海陵王が宋を伐たんとし、酒禁を厳しくした時、爽は弟の阿瑣及び従父兄の京・徒単貞と会飲した罪で、杖罰を受け、降格して帰化州刺史となり、猛安を奪われる。まもなく、再び安武軍節度使に任ぜられる。

海陵王が淮河を渡り、使者を分遣して宗室を滅ぼそうとした時、爽は憂懼して方策を知らず。ちょうど世宗が東京で即位し、宗室の璋が爽の弟阿瑣を推して中都留守を行わせ、人を遣わして爽に報じた。爽は妻子を棄てて来奔し、弟の忻州刺史可喜とともに中都に至る。東へ車駕を迎え、梁魚務に至って謁見、世宗は大いに喜び、直ちに殿前馬歩軍都指揮使に任じ、温王に封じ、後に秘書監に改める。母の喪に服すが、まもなく起復し、太子太保に遷り、寿王に進封。

ほどなく、世宗の第五女蜀国公主が唐括鼎に降嫁する時、神龍殿で宴を賜り、爽に謂って曰く、「朕と卿兄弟とは、正隆の時、朝夕常に保たれぬことを懼れた。まさか今日、爾ら兄弟の福により安楽を享けようとは思わなかった。」爽は涙を流し、頓首して謝す。まもなく、大宗正事を判じ、太子太保はもとのまま。

爽が病むと、詔してその子の符宝祗候思列を忠順軍節度副使に任ず。爽が入謝すると、上は曰く、「朕は卿の病のため、卿の子を遷官させ、卿が喜びにより癒えることを望む。思列は年少で、政事に未だ熟さず、卿は義方をもって訓え、善く称すべき行いあらしめよ。別に昇擢を加えん。」爽の病が少し癒え、上に従って涼陘に行かんとする時、銭千万を賜り、英王に進封、太子太傅に転ず。再び世襲猛安となり、栄王に進封、太子太師に改める。

顕宗の長女鄴国公主が烏古論誼に降嫁する時、慶和殿で宴を賜り、爽は西向きに座し、夕日を迎えて顔が赤く酔ったようであった。上が問うて曰く、「卿は酔ったか。」対えて曰く、「未だ酔っておりませぬ。臣は面を日色に迎え、酒の赤さではございません。」上は悦び、群臣を顧みて曰く、「この弟の発言は、未だかつて実ならざることなく、幼少よりかくの如し。」因って顕宗の兄弟に謂って曰く、「汝らはこれを法とすべし。」爽の資用に欠けるところあり、特に銭一万貫を賜う。二十三年、爽の病が久しく癒えず、有司に勅して曰く、「栄王の告(休暇)が百日に満ちたら、王の俸禄を与うべし。」

既に薨去すると、上は悼み痛み、朝儀を停め、官を遣わして祭奠を致し、賻として銀千両・重彩四十端・絹四百匹を賜う。山陵に陪葬し、親王・百官が送葬した。他日、大臣に謂いて曰く、「栄王の葬儀、朕は親しく送ることが果たせなかったことを恨みとする」と。その友愛の見られること、かくの如し。

可喜

可喜は、宗室の子として、累官して唐括部族節度使となり、降って忻州刺史となった。海陵が使者を遣わして之を殺さしめようとしたが、可喜は世宗の即位を聞き、即ち州を棄てて来帰し、その兄の帰化州刺史阿鄰と中都において会した。是の時、弟の阿瑣が権中都留守事を務めており、可喜は阿鄰に謂って曰く、「阿瑣は愚かで頑なであり、恐らく撫治することができまい。少し留まってこれを助けたい」と。阿鄰は乃ち行った。可喜は中都に留まり、世宗が東京を発ったと聞き、乃ち麻吉鋪において迎え見えた。兵部尚書に除され、金牌を佩び、兵を将いて南京へ往かんとした。中都に至った時、南京が既に平定されたと聞き、遂に止まった。

可喜は材武人に過ぎ、狠戾にして乱を好み、自ら太祖の孫たるを恃み、頗る異志を有していた。世宗が初めて中都に至った時、倥傯として多事であり、扈従の諸軍は未だ賞を行なう暇がなく、或いは怨言があった。昭武大将軍の斡論は、正隆の末、詔を被って金牌を佩び、河南の兵四百人を取って、完顔彀英の軍を帰化において監し、次いで彰德に駐屯した。時に獨吉和尚が大定の赦文を持って至った。和尚は人を遣わして之を招いたが、斡論は聴かず、兵を率いて来迎した。和尚も亦た将いる所の蒲輦兵を以て、陣を列ねて之を待った。斡論の兵は皆戦おうとせず、遂に降伏を請うた。和尚は之を邀えて相州に入り、その甲兵を収め、酒を置いて労った。斡論は腹疾を托して、肯って飲まなかった。夜に至り、既に燈を張った時、時々門を出で、その心腹と密謀し、和尚を就きて執らんと欲した。稍々弓矢を具えると、和尚は之を覚り、知らぬ振りを装い、その従者をして迫って之を伺わしめたので、斡論は発することができなかった。上が中都の近郊に至ると、斡論は上謁し、上も亦た之を撫慰した。斡論は自ら慊き、初めより降る志が無かった。及び河南統軍司令史の斡里朵は、人となり狡険にして、事を図るを喜び、斡論は河南統軍使の陁満訛里也より兵を取ったが、斡里朵は之と俱に来り、俱に自ら安んぜず。同知延安尹の李惟忠は、熙宗の弑逆に与り、韓王亨を構えて殺し、世宗は之を疏斥した。同知中都留守の璋は、初め自らその職を領し、因って之を授けられた。完顔布輝は副統となり、罪を以て解職され、京師に居た。ここに於いて可喜・斡論・李惟忠・斡里朵・璋・布輝は謀り、扈従の軍士の怨望に因って乱を起こさんと欲した。斡論曰く、「押軍猛安の沃窟刺は、必ず我に違わぬであろう」と。惟忠曰く、「惟忠は嘗て神翼軍総管を為し、銀牌二枚尚在り、以て内蔵を矯発して士を賞することができる。万戸の高松は我と旧く、必ず聴くであろう」と。衆曰く、「若し此の軍を得れば、事を挙げるに難からん」と。斡論は往きて沃窟刺を約し、沃窟刺は之に従った。惟忠は往きて高松を説いたが、高松は聴かず、語は『松伝』に在り。

大定二年正月甲戌、上は山陵に謁したが、可喜は中道に疾を称して帰った。乙亥の夜、斡論・惟忠・斡里朵・璋・布輝を召してその家に会し、沃窟刺は兵を以て之に赴いた。璋曰く、「今高松の軍を得ずんば、事は成すべからず」と。可喜・璋・布輝は乃ち斡論・惟忠・斡里朵・沃窟刺を擒え、有司に詣でて自首した。既に詔獄に下ると、可喜は肯ってその始めの謀を自ら言わず、斡論と面質するに及び、然る後に款伏した。上は兄弟の少ないことを思い、太祖の孫は惟だ数人あるのみとて、惻然として之を傷んだ。詔して罪は可喜一身に止め、その兄弟子孫は皆縁坐せしめない。遂に斡論・惟忠・斡里朵・沃窟刺等を誅し、その沃窟刺の下の謀克士卒は皆釈放した。璋を彰化軍節度使に除し、布輝を浚州防禦使とした。辛巳、天下に詔した。是の日、扈従の万戸に銀百両を賜い、猛安に五十両、謀克に絹十匹、甲士に絹五匹・銭六貫を賜い、阿里喜以下賜与は各差等有り。

阿瑣

阿瑣は、宗強の幼子なり。長身にして力多し。天徳二年、宗室の子として奉国上将軍を授けられ、累加して金吾衛上将軍となり、中都に居す。

海陵が宋を伐つに当たり、左衛将軍の蒲察沙離只を以て同知中都留守事とし、金牌を佩び、管簽を守らしめた。世宗が東京に即位すると、阿瑣は璋等と守城軍官の烏林荅石家奴等と、留守府に入り、沙離只・府判の抹撚撒離喝を殺した。衆は阿瑣を行留守事とし、璋は自ら同知留守事を署し、即ち謀克の石家奴・烏林荅願・蒲察蒲查・大興少尹の李天吉の子の磐等を遣わし、表を奉じて東京に至らしめた。

大定二年、横海軍節度使を授けられ、剛なる名鷹を賜う。詔して曰く、「卿方に年少なり、宜しく自ら戒慎し、政事に留心すべし」と。武定軍に改め、母憂のため官を去る。起復して興平軍節度使となり、襲衣・廄馬を賜う。広寧尹に遷る。贓一万四千余貫に坐し、詔して杖八十、二階を削り、解職す。常武殿に於いて見え入る。上曰く、「朕は汝に才力有りと謂い、之をして民に臨ましむ。今汝は法に在りて当に死すべし。朕は親親の故を以て、曲く全貸す。当に自今より戒懼を思い、復た悪声をして朕の聴に達せしむること勿れ」と。平涼・済南尹に改め、官に卒す。年三十七。上は命じて有司に祭奠を致さしめ、賻として銀千両・重彩四十端・絹四百匹を賜う。

宗敏

宗敏、本名は阿魯補。天眷元年、邢王に封ぜらる。皇統三年、東京留守となり、左副元帥を拝し、兼ねて会寧牧と為る。進んで都元帥を拝し、兼ねて大宗正事を判ず。再び太保に遷り、三省事を領し、兼ねて左副元帥、行台尚書省事を領し、曹国王に封ぜらる。

海陵は弑立を謀り、宗敏の尊く且つ材勇なるを畏れ、構誣して以て之を除かんと欲した。時に熙宗は屡々大臣を殺し、宗敏は之を憂え、海陵に謂いて曰く、「主上は残殺を喜び、而して国家の事重し、奈何」と。宗敏が言う時、適た左右人無く、海陵は此れを以て指斥として之を構害せんとしたが、自ら証無ければ発すべからずと念い、乃ち止めた。

及び熙宗を弑し、葛王をして宗敏を召さしむ。葛王とは、世宗の初封なり。宗敏は海陵の召すを聞き、疑懼して敢えて往かず。葛王曰く、「叔父今即ち往かずんば、明日に至りて、如何にして之と相見えん」と。宗敏は宮に入る。海陵は之を殺さんと欲したが、尚猶し、以て左右に問う。烏帯曰く、「彼は太祖の子なり、之を殺さずんば、衆人必ず異議有らん、之を除くに如かず」と。乃ち僕散忽土をして之を殺さしむ。忽土が刃を以て宗敏を撃つと、宗敏の左右は走り避け、膚髪血肉、狼藉遍地たり。葛王は宗敏の殺されるを見、衆に問うて曰く、「国王何の罪有りて死するや」と。烏帯曰く、「天許の大事、尚已に行われたり、此れは蟣虱の如きもの、何をか足らんとして道うるに」と。天徳三年、海陵は宗敏を追封して太師とし、爵を進封す。妃の蒲察氏は、国号を進む。子の撒合輦を舒国公に封じ、名を褒と賜い、進めて王に封ず。阿里罕を密国公に封ず。正隆六年、契丹の撒八反す。海陵は使者を遣わして諸宗室を殺さしめ、阿里罕は遂に見殺された。大定の間、詔して官爵を復す。

胙王の元は、景宣皇帝の峻の子なり。本名は常勝。北京留守となり、弟の査刺は安武軍節度使と為る。

皇統七年四月戊午、左副点検蒲察阿虎特の子が公主を娶り、進物を献じ、便殿にて賜宴が行われた。熙宗は酒に酔い、酒を酌んで元に賜うたが、元は飲むことができず、上は怒り、剣を手に取り彼を脅したので、元は逃げ去った。左丞宗憲に命じて元を召し出させたが、宗憲は元と共に去り、上はますます怒った。この時戸部尚書宗礼が側にいたので、跪かせ、手ずからこれを殺した。

海陵と唐括辯は廃立を謀り、海陵は言った、「もし大事を挙げるならば、誰を立てるべきか。」海陵は己が太祖の長房の孫であるから、立つべきであると考えていた。しかし辯と秉德の当初の意図は海陵にはなく、常勝は熙宗の弟であったので、辯は答えて言った、「胙王常勝がおります。」海陵はさらに次を問うと、辯は言った、「鄧王の子の阿楞です。」海陵は言った、「阿楞は縁が疎遠である。」ここにおいて海陵は胙王に人望があると考え、これを除かなければ立つことができないとし、故に常勝と阿楞を心に忌んだ。この時、阿楞はちょうど奉国上将軍であった。

河南の軍士孫進が自ら「皇弟按察大王」と称した。熙宗は「皇弟」の二字があるいは常勝にあるかと疑い、特思にこれを訊問させたが、証拠はなかった。特思はかつて海陵と唐括辯がしばしば密かに議論しているのを疑い、悼后に告げた者であった。海陵は熙宗が常勝を疑う心があることを知り、これによって彼を除くことができると考え、熙宗に言った、「孫進の反逆には端緒があり、他人を称さず、皇弟大王と称しています。陛下の弟には常勝と查刺しかおりません。特思は実情をもって訊問せず、故意に彼らを出したのです。」熙宗はこれを然りとし、唐括辯と蕭肄に特思を審問させた。特思は自ら誣服し、常勝の罪を故意に免じたと。ここにおいて、常勝とその弟查刺を殺し、併せて特思をも殺した。海陵はこれに乗じて阿楞をも排して殺した。阿楞の弟撻楞は、熙宗は本来殺す意図はなかったが、海陵は言った、「その兄が既に誅殺された以上、その弟がどうして独り生き残ることができようか。」またこれを殺した。熙宗は海陵を忠臣と思い、ますます彼を信任したが、その詐りを知らなかった。

海陵が帝位を簒奪すると、常勝・查刺・阿楞の官爵を追封し、自ら葬所に臨んで祭った。大定十三年六月丁巳、世宗は皇太子と諸王を召し、清輝殿にて食事を共にし、言った、「ある者は海陵を多能と称するが、それは何故か。海陵は譎詐であり、睢盱として人を殺し、天下を三分の二空しくした。太祖の諸孫の中では、ただ胙王元のみが天性の賢者である。」

元の子の育、本名は合住、大定二十七年、南京副留守より大宗正丞に遷り、兼ねて勧農副使となった。上は宰臣に問うて言った、「合住の人物はどうか。」平章政事の襄と参政の宗浩は答えて言った、「清廉で事をよく治めます。」上は言った、「その父もまたそうであった。」また言った、「蒲陽温胙王元は、外見は愚鈍で訥弁のようであったが、事に臨むと明敏で人に勝っていた。朕は兄弟の中でも、元とは特に親密であった。」

賛して言う、「太祖自ら甲冑を身につけ、国家を定め、策を挙げて遺すところなく、諸子の勇略と材識は、父の志を遂げるに足りた。伝えて太宗に及び、諸孫はその成果を享受した。