石顯
石顯は、孩懶水の烏林荅部の人である。昭祖が條教をもって諸部を約束したとき、石顯は跳梁して制することができなかった。昭祖が逼刺紀村で没すると、部人が柩を帰す途中、孩懶水に至った。石顯は完顔部の窩忽窩出とともに路で邀え撃ち、攻めてその柩を奪い、声高に言った。「汝らは石魯を能ある者として推し尊んだが、我は今これを得た。」昭祖の徒衆は蒲馬太彎に告げ、馬紀嶺の劾保村の完顔部蒙葛巴土らと軍を募って追い及び、戦って再び柩を得た。衆は景祖を諸部長に推し、白山、耶悔、統門、耶懶、土骨論、五國は皆従服した。
やがて遼の使者曷魯林牙が逃亡人を索めに来たが、石顯はことごとく拒み阻んで命令を聴かなかった。景祖はこれを攻めたが、勝つことができなかった。景祖は力で取れないと自ら考え、遂に詭計をもってこれを取ろうとした。そこで石顯が海東路を阻絶していることを遼に請うた。遼帝は人を遣わしてこれを責めて言った。「汝はどうして鷹路を阻絶するのか。他意が確かに無いなら、その酋長を遣わして来い。」石顯はその長子婆諸刊を入朝させ、「大国の命に背くことは致しません」と言った。遼人は厚く賜って帰し、婆諸刊に言った。「汝の父に確かに他意が無いなら、自ら身を入朝させるべきである。」石顯はこれを信じ、翌年春蒐で謁見し、婆諸刊が従った。遼主は石顯に言った。「罪は汝にのみあり、汝の子にはない。」そこで婆諸刊を還すことを命じ、石顯を辺地に流した。これは景祖が計略をもって石顯を除き、その子と部人を撫有しようとしたのである。
婆諸刊は怨みを蓄えて未だ発せず、ちょうど活刺渾水の紇石烈部の臘醅・麻産が兵を起こしたので、婆諸刊はこれに従った。暮棱水で敗れたとき、麻産は先に遁走し、婆諸刊と臘醅は捕らえられ、その党類とともに皆遼主に献じられた。久しくして、世祖がまた人を遣わして言った。「婆諸刊が還らなければ、その部人は自ら罪重きを知り、これによって恐懼して帰服しようとしないでしょう。」遼主はもっともだと思い、遂に婆諸刊および前後して献じた罪人を皆還した。
桓赧 弟散達
桓赧・散達兄弟は、国相雅達の子である。完顔部の邑屯村に居住した。雅達は国相と称したが、その由来は知られていない。景祖はかつて幣と馬をもって雅達に国相の地位を求め、雅達はこれを許した。景祖はこれを得て、肅宗に命じ、その後撒改もこの官に居た。
桓赧兄弟はかつて景祖に仕えた。世祖の初め、季父の跋黒に異志があり、ひそかに桓赧を誘って乱を為そうとした。昭肅皇后が邑屯村に行ったとき、世祖・肅宗も皆従行し、桓赧・散達がそれぞれ酒に酔い、言葉が紛争して遂に殴り合い、刃を挙げて相向かった。昭肅皇后が親しくこれを解き、やっと止んだ。これより謀りごとはますます甚だしくなった。
この時、烏春・窩謀罕もまた跋黒と結び、詭計をもって烏不屯の売甲を兵端とし、世祖は已むを得ずしてこれと和した。数年を隔てて、烏春はその衆を率いて活論・来流の二水を渡り、世祖は親しくこれを拒ぎに行った。桓赧・散達は遂に兵を起こした。
肅宗は偏師をもって桓赧・散達を拒いだ。世祖はその合勢を恐れ、戒めて言った。「和すべきならば和し、そうでなければ戦え。」斡魯紺出水に至り、陣を成して列をなしたとき、肅宗は盆德勃堇をして和を議させた。桓赧もまた北に烏春がいるのを恃み、和の意思が無かった。盆德は肅宗に報じて言った。「敵は戦おうとしています。」ある者は言った。「戦地は村墟に迫っており、勝っても敵を尽くすことはできない。軍を退いて広い地に誘うべきである。」肅宗はこれに惑わされ、軍を少し退かせたが、列を成すことができなかった。桓赧・散達はこれに乗じ、肅宗は敗れた。桓赧は勝ちに乗じて、大いに掠奪した。この役で、烏春は長雨のため前進できず、兵を罷めた。
世祖は肅宗の敗北を聞き、自ら将となり、舍很・貼割の両水を経て桓赧・散達の家を取ったが、桓赧・散達は知らなかった。世祖はその居所を焼き、百人ほどを殺掠して還った。軍に至らないうちに、肅宗の軍はまた敗れた。世祖が至り、肅宗の失利の様子を責め、歡都・冶訶にその本部の七謀克を率いて助けさせ、また人を遣わして和を議した。桓赧・散達は盈歌の大赤馬と辭不失の紫騮馬を得ようとしたが、世祖は許さず、遂に不術魯部の卜灰・蒲察部の撒骨出および混同江左右の匹古敦水以北の諸部の兵が皆会し、厚く集まって陣をなし、鼓を鳴らして気勢を上げて馳せた。桓赧はその衆を恃み、必勝の心があり、命令して言った。「今天門開けた。悉く汝らの車を自ら随えよ。凡そ烏古乃夫婦の宝貨財産は恣に汝らが取るがよい。従わない者は俘掠して去れ。」ここにおいて婆多吐水の裴満部の斡不勃堇が世祖に附き、桓赧らは火を放ってこれを焼いた。斡不は死に、世祖はその家を厚く撫で、桓赧を平定した後、旧地を還した。
桓赧の軍がまた来た。蒲察部の沙祗勃堇・胡補荅勃堇が阿喜に間道を通って来させて告げ、かつ問うて言った。「寇が将に至らんとしています。我らはどうしてこれを待つべきでしょうか。」世祖はまた命じて言った。「事ここに至っては、謀るに及ばない。衆を率いてこれに従い、自ら救うがよい。ただ旗幟をもって自ら別けるのみである。」兵が至るたびに、すなわち阿喜を遣わして林を穿ち潜り来させ、畢察と往還する大道、すなわちかつて林中を潜り往来した路に就かせた。桓赧が北隘甸に至ったとき、世祖は将に出兵せんとしたが、跋黒が馳満村で食して死んだと聞いた。そこで安術虎水に沿って行き、かつ海故術烈速勃堇の衆をも併せ取ってから戦おうとした。偵察者が来て報じて言った。「敵が至りました。」世祖は辭不失に軍を整えて速やかに進むよう戒め、脫豁改原で待たせた。この時、桓赧の兵は多く、世祖の兵は少なく、衆寡敵せず。世祖が軍に至ったとき、士気は甚だしく萎えていた。世祖は心の中でこれを知っていたが敢えて言わず、ただ甲を解いて少し休ませ、水で顔を洗わせ、鮮水を飲ませた。しばらくして、士気は少し蘇生した。この時、肅宗は遼に救援を求めており、軍中にいなかった。将に戦わんとするとき、世祖は人を屏いて独り穆宗と私語し、兵が敗れたならば、すみやかに肅宗のもとに行って師を乞い、仇を報ぜよと言った。なお穆宗に戦事に預からせず、馬に甲を着けて勝負を観察し、先に去就を図るよう命じた。そこで袖を袒ぎ、弓袋に矢を入れ、縕袍の下幅で前後の心を護り、三度旗を揚げ、三度鼓を撾ち、旗を棄てて剣を提げ、自ら軍の鋒となり、鋭を尽くして搏戦した。桓赧の歩軍が幹盾を以て進むと、世祖の衆は長槍でこれを撃ち、歩軍は大敗した。辭不失が後から奮撃すると、桓赧の騎兵もまた敗れた。世祖は勝ちに乗じて北を逐い、多退水を破り、水はこれによって赤くなった。世祖は軍を止めて追うことを禁じ、棄てられた車・甲・馬・牛・軍実をことごとく獲、戦勝を天地に告げ、獲たものを将士に頒ち、各々功に差等をつけた。
未だ幾ばくもなく、桓赧・散達はともにその属を率いて来降した。卜灰はなお撒阿辣村を保ち、招いても出なかった。撒骨出は阿魯紺出村に拠った。世祖は人を遣わしてこれと和を議したが、撒骨出は謾言をもって戯れ、答えて言った。「我は本心和しようと思ったが、壮士の巴的懣が和することを肯まず、泣いて我に謂うには、『もし果たして和すれば、美衣肥羊は再び得られない』と。これをもって命に従うことができない。」遂に兵を放って隣近の村墅を俘掠した。ある人が道傍からこれを射て、口に中りて死んだ。
卜灰の属たる石魯は、石魯の母が丁馳満部の達魯罕勃堇に嫁いで妾となった。達魯罕は族兄弟の抹腮引勃堇とともに世祖に仕えたが、世祖は石魯を卜灰から離間せんと欲し、達魯罕に謂って曰く、「汝の我に事えることは、抹腮引の堅固さに及ばない」と。蓋し石魯母子は一方は彼に、一方は此に在ることを謂い、以て石魯を動揺させんとしたのである。石魯これを聞き、遂に卜灰を殺して降った。
石魯は卜灰の妾と私通し、常に罪を得ることを恐れていた。世祖の言を聞くに及んで惑わされ、達魯罕に告げさせて曰く、「将に卜灰を殺して来たらん、汝は江において我を待て」と。卜灰の睡熟するを伺い、胸に刃を刺してこれを殺した。追手急なりしも、白日に鼻を露わして水中に匿れ、夜に至りて江に到り、漸く泳ぎて渡った。達魯罕が人をしてこれを待たしめたので、乃ち免れることを得た。久しくして、酒に酔い、達魯罕と激しく争い、達魯罕に殺された。
烏春
烏春は、阿跋斯水の温都部の人にして、鍛鉄を業としていた。凶歳のため、杖を策き簷を負い、その族属を率いて来帰した。景祖は彼らを処遇し、本業をもって自給させた。既にしてその果敢にして善く断ずるを知り、命じて本部の長とし、仍って族人の盆徳を遣わして旧部に送り帰した。盆徳は烏春の甥である。
世祖が初めて節度使を嗣いだ時、叔父の跋黒が陰に覬覦を懐き、桓赧・散達兄弟及び烏春・窩謀罕らを間隙に誘った。烏春は跋黒が肘腋に居て変を為さんとするを以て、これを信じ、ここより頗る世祖に貳し、その部人を虐用した。部人が世祖に訴えると、世祖は人を遣わして譲って曰く、「我が父は汝を信任し、汝を部長とした。今、人が汝に実状有りと告ぐ、無罪の人を殺し、訟を聴くに平らかならず。自今より復た爾くの如く為すべからず」と。烏春曰く、「我は汝が父と等輩の旧人なり。汝が長たること幾日ぞ、汝に何事かあらん」と。世祖は内に跋黒を畏れ、郡朋が変を為さんことを恐れ、故に意を曲げて懐撫し、婚姻を以てその歓心を結ばんと欲した。使わして婚を約せしむると、烏春は欲せず、笑って曰く、「狗彘の子同処するも、豈に生育せんや。胡裏改と女直と豈に親と為すべけんや」と。烏春は兵を発せんと欲したが、世祖は初めの如く彼を待遇し、端緒と為すべきもの無かりき。
加古部の烏不屯もまた鉄工にして、甲冑九十を以て来りて売った。烏春これを聞き、人を遣わして譲って曰く、「甲は我が甲なり。来流水以南、匹古敦水以北は、皆我が土なり。何故ぞ輒く我が甲を取る。其れ急ぎ以て我に帰せよ」と。世祖曰く、「彼は甲を以て来りて市す。我は直を与えてこれを売る」と。烏春曰く、「汝、肯て我に甲を与えて和解せずんば、則ち汝が叔の子たる斜葛及び廝勒を来らせよ」と。斜葛は蓋し跋黒の子なり。世祖その意が真に肯て議和する者に非ず、将に為すところ有らんとするを度り、遣わさんと欲せず。衆固く請うて曰く、「遣わさずんば必ず兵を用いん」と。已むを得ず、これを遣わした。廝勒に謂って曰く、「斜葛は害無からん。彼は将に汝を執らんとす。半途に疾を辞して往く勿れ」と。既に行きて、廝勒曰く、「我疾発作す。将に止まりて往かざらん」と。斜葛曰く、「我も亦た独り往く能わず」と。同行する者強いて之を行かしむ。既に烏春に見ゆると、烏春は斜葛と厚く礼を為し、而して果たして廝勒を執りて曰く、「甲を得れば則ち生く、然らずんば汝を殺さん」と。世祖その甲を与うるに及び、廝勒乃ち帰るを得た。烏春は此より益々憚る所無し。
後数年、烏春兵を挙げて来戦し、斜寸嶺を道とし、活論・来流水を渉り、術虎部の阿裏矮村の滓布乃勃堇の家に宿った。是の時十月中、大雨累晝夜止まず、氷澌地を覆い、烏春進む能わず、乃ち引き去った。ここにおいて桓赧・散達も亦た兵を挙げた。世祖自ら烏春を拒ぎ、而して肅宗をして桓赧を拒がしめた。巳にして烏春雨に遇いて帰り、叔父の跋黒も亦た死んだ。故に世祖は力を桓赧・散達に併せ得て、一戦にして遂にこれを敗った。
斡勒部の人杯乃は、旧く景祖に事え、是に至りて亦た他志有り、南畢懇忒村に徙り、遂に放火を以て歡都を誣い、この因を以てこれを除去せんと欲した。語は『歡都伝』中に在り。世祖は杯乃を獲て、その罪を釈したが、杯乃終に自ら安からず、吐窟村に徙居し、烏春・窩謀罕と結約した。烏春兵を挙げて嶺を度ると、世祖は軍を屋辟村に駐めてこれを待った。進んで蘇素海甸に至り、両軍皆陣し、将に戦わんとす。世祖は親しく戦わず、命じて肅宗に左軍を以て戦わしめ、斜列・辞不失これを助けしむ。異夢に徴するなり。肅宗は束縕して火を放ち、大風後より起こり、火熾烈なり。時に八月、野草尚青し、火尽く燎え、煙焰天に張る。烏春の軍は下風に在り、肅宗は上風よりこれを撃ち、烏春大いに敗れ、復た杯乃を獲て、遼に献じ、而して蘇素海甸に城して以てこれに拠った。
紇石烈の臘醅・麻産は世祖と野鵲水に戦う。世祖四創を受け、軍敗れたり。臘醅は旧賊の禿罕らをして青嶺を過ぎしめ、烏春を見え、諸部を賂してこれと交結せしむ。臘醅・麻産は烏春に助けを求め、烏春は姑裏甸の兵百十七人を以てこれを助けた。世祖は臘醅を擒えて遼主に献じ、並びに烏春の兵を助けたる状を言い、仍って鷹道を修めざる罪を以てこれを責めた。遼主は人を烏春に遣わして状を問わしむ。烏春懼れ、乃ち讕言を為して告げて曰く、「未だ嘗て臘醅と助けを為さず。徳鄰石の北、姑裏甸の民の管するは此に及ばず」と。
臘醅既に敗れ、世祖は烏春の姑裏甸の助兵一百十七人を尽く得て、その卒長の斡善・斡脱を遣わしてその衆を招かしめ、継いて斜缽勃堇を遣わしてこれを撫定せしむ。斜缽その人を訓斉する能わず、蒲察部の故石・跋石ら三百余人を誘いて城に入り、尽くこれを陥れた。世祖は鷹道を治めて還り、斜列来りて告ぐ。世祖は歡都を都統と為し、烏春・窩謀罕を斜堆に破り、故石・跋石皆就擒せらる。世祖自ら将いて烏紀嶺を過ぎ、窩謀海村に至る。胡論加古部の勝昆勃堇の居、烏延部の富者郭赧は一軍を分かちてその部を由りて烏春を伐たんことを請う。蓋しその部は烏春に近く、以て自ら蔽わんと欲する故なり。乃ち斜列・躍盤をして支軍を以てその居る所を道せしめ、世祖自ら大軍を将いて歡都と合す。阿不塞水に至ると、嶺東の諸部皆会し、石土門も亦たその部の兵を以て来たる。
是の時、烏春は前に死に、窩謀罕は世祖の来伐するを知り、遼人に訴え、和解を乞う。使者已にその家に至る。世祖の軍至ると、窩謀罕は師を緩めんことを請い、尽く前に納めたる亡人をこれに帰さんとす。世祖は烏林荅の故德黒勃堇を遣わして遣わさんとする亡者を受けしむ。窩謀罕は三百騎を以て懈に乗じて来攻す。世祖これを敗る。遼使はその信無きを悪み、復た和を主とせず、乃ち進軍してこれを囲む。太祖は短甲を衣て行囲し、諸軍に号令す。窩謀罕は太峪をして潜かに城を出でてこれを攻めしむ。太峪は馬を馳せ槍を援け、将に太祖に及ばんとす。活臘胡その槍を撃ちて断ち、太祖乃ち免るるを得たり。斜列は斜寸水に至り、郭赧の計を用い、先ず烏春の軍に在りし者二十二人を取る。烏春の軍これを覚り、二人を殺すも、余の二十人皆これを得、益々土軍を以て来助す。窩謀罕は自ら敵せざるを知り、乃ち遁去す。遂にその城を克ち、尽く資産を分かちて軍中に賚い、功を以て次と為す。諸部皆安輯せり。穆宗は常に郭赧の功を嘉し、後に斜列の女の守甯を以てその子の胡裏罕に妻せしむ。
温敦蒲刺(附)
烏春の後は温敦氏と為り、裔孫を蒲刺と曰う。
温敦蒲刺は初め長白山阿不辛河に住み、後に隆州移里閔河に移った。蒲刺は初め希尹に従って征伐し、猛安謀克の事を摂行し、賊が突出するに遇い、力を尽くしてこれを撃破し、自ら二十余人を殺し、これにより修武校尉に抜擢された。天徳初年、護衛を充てられ、宿直将軍に遷り、衆護衛と遠射を行い、皆及ぶ者なく、海陵は玉鞍・銜を賜ってこれを賞した。曷懶路に往きて護衛に充てうる者を選び、使いより還って旨に叶い、耶盧椀群牧使に遷り、遼州刺史に改めた。正隆年間宋を伐つに当たり、召されて武翼軍副都総管となり、兵二千を将いて汝州の南に至り、宋兵二万余に遇い、邀撃してこれを破り、自ら将士十余人を殺した。この時、嵩・汝両州の百姓多く逃散し、蒲刺は招集してその業を復させた。莫州刺史に改め、征されて太子左衛率府率となり、再び遷って隴州防禦使となり、鎮西・胡里改・顕徳軍節度使を歴任した。致仕し、卒した。
臘醅、弟麻産
臘醅・麻産兄弟は、活刺渾水訶鄰郷紇石烈部の人である。兄弟七人、平素より名声があり、人々は推服していた。烏春・窩謀罕らが難を為すに及び、臘醅兄弟はこの機に乗じて陶温水の民を結び、次第に制しがたくなった。その同郷の中にこれを避けて苾罕村の野居女直の中に徙った者があった。臘醅は怒り、これを攻めんとし、すなわち烏古論部の騒臘勃堇・富者撻懶・胡什満勃堇・海羅勃堇・斡茁火勃堇と約した。海羅・斡茁火は間隙を窺って人を遣わし野居女直に告げたので、野居女直は備えがあり、臘醅らは敗れて帰った。臘醅はすなわち南路より再び野居女直を襲い、これを勝ち、俘略すること甚だ多かった。海羅・斡茁火・胡什満は臘醅を畏れ、世祖に援を求めた。斜列は軽兵を以て臘醅らを屯睦吐村に邀撃し、これを破り、俘虜とした者を尽く得た。
臘醅・麻産は来流水の牧馬を駆り掠めた。世祖は混同江に至り、穆宗と軍を分けた。世祖は妒骨魯津より倍道兼行し、馬多く疲弊し、皆路傍に留め、五六十騎を従え、野鵲水にて臘醅に遇った。日は既に暮れ、臘醅の兵は多く、世祖の兵は少なく、歓都は激戦し、出入りすること数四、馬は創を受け、死する者十数に及んだ。世祖は陣を突いて力戦し、四箇所の創を受け、軍を為すことができなかった。穆宗は庵吐渾津より江を渡り、蒲盧買水にて敵に遇った。敵は誰ぞと問うた。これに応えて「歓都なり」と答えた。問うた者は穆宗を射た。矢は弓箙に着いた。この年、臘醅・麻産はその徒の旧賊禿罕及び馳朵を使わして戸魯不濼の牧馬四百及び富者粘罕の馬合わせて七百余匹を剽取させ、青嶺の東を過ぎ、烏春・窩謀罕と交結した。世祖は自ら将いてこれを伐ち、臘醅らは偽って降り、軍を還した。臘醅は再び烏春・窩謀罕に助けを求めた。窩謀罕は姑里甸の兵百十七人を以てこれを助けた。臘醅は暮棱水に拠り、険阻を保って固め、石顕の子婆諸刊もまた往きてこれに従った。世祖は兵を率いてこれを囲み、その軍を克ち、麻産は遁れ去り、ついに臘醅及び婆諸刊を擒らえ、皆これを遼に献じた。その兵を尽く獲、その卒長斡善・斡脱を使わしてその衆を招撫させ、斜缽を使わしてこれを撫定させた。また阿離合懣を使わして暮棱水の人情を察させ、併せて兵を募り斜缽と合わせさせた。語は『烏春伝』にある。
世祖既に没し、粛宗が節度使を襲った。麻産は直屋鎧水に拠り、営堡を繕い完うし、亡命を招納し、往来する者を杜絶した。陶温水の民を恃みとしてこれを助けとし、招いても聴かず、康宗を使わしてこれを伐たせた。この年、白山混同江大いに溢れ、水は岸と斉しく、康宗は阿鄰岡より舟に乗り帥水に至り、舟を捨て帥水に沿って進んだ。太祖を使わして東路より麻産の家族を取らせ、尽くこれを獲た。康宗が麻産を囲むこと急なるに、太祖来たりて軍に会した。ここにおいて麻産は先に外に亡命し、その者は夜乗じて包囲を突き遁れ去った。太祖曰く「麻産の家は蕩尽した。走って何に帰らん」と。これを追った。麻産は太祖が急に己を求めていることを知らず、三騎を従えて来たりて軍を窺った。その一人が馬より墜ちた。太祖はこれを識り、状を問うた。その人曰く「我は麻産に従い来たりて軍を窺う。彼の走る者二人、麻産はその中にあり」と。麻産はその人と分かれて道を走った。太祖は劾魯古に命じて東に走る者を追わせ、自らは西に走る者を追った。直屋鎧水に至り、麻産を見失い、急ぎこれを追い、路上に遺された甲を得、跡を追って往き、前に大沢に至り、濘淖であった。麻産は馬を棄てて萑葦に入った。太祖もまた馬を棄てて追い及び、これと挑戦した。烏古論の壮士活臘胡が馬に乗って来たり、問うて曰く「此は何人ぞ」と。太祖は初め麻産を識らず、偽って応えて曰く「麻産なり」と。活臘胡曰く「今またこの人に追い及んだか」と。すなわち馬より下り槍を援って進み戦った。麻産は連ねて活臘胡を射た。活臘胡は二矢を受け、戦うことができなかった。しばらくして軍至り、これを囲んだ。歓都が麻産の首に射中て、ついにこれを擒らえた。これを識る者なく、活臘胡すなわち前に進みその首を扶けて視ると、その鹵豁なるを見て曰く「真に麻産なり」と。麻産は目を見開いて曰く「公らの事は定まった」と。すなわちこれを殺した。太祖は馘を遼に献じた。
鈍恩
鈍恩は、阿裏民忒石水紇石烈部の人である。祖父は劾魯古、父は納根涅といい、代々その部の勃堇であった。斡准部の人冶刺勃堇・海葛安勃堇がその族人の斡達罕勃堇及び諸弟の屋裏黒・屋徒門を暴虐にし、その家を抄略し、及び阿活裏勃堇の家を抄略し、侵して納根涅の所部に及んだ。穆宗は納根涅を使わして本部の兵を以て往きて冶刺らを治めさせた。行きて蘇濱水に至り、すなわち人を募って兵とし、主たる者はこれを拒んだので、すなわちその人を抄略した。ついに烏古論部の敵庫徳を攻め、米里迷石罕城に入った。斡賽・冶訶が来て状を問うに及び、蘇濱水西の納木汗村に止まり、納根涅は蘇濱水東の屋邁村に止まった。納根涅は款伏するも償いを征することを肯わず、時に甲戌の歳十月であった。明年八月、納根涅は遁れ去り、斡賽が追ってこれを殺し、その母及び妻子を執って帰り、鈍恩を使わしてその所を復させた。
留可
留可は、統門・渾蠢水の合流する地の烏古論部の人で、忽沙渾勃堇の子である。詐都は、渾蠢水の安春の子である。間隙を窺って奥純・塢塔両部の民を誘い乱を為した。敵庫徳・鈍恩は皆叛いて留可・詐都と合した。両党は揚言して曰く「徒単部の党十四部を以て一と為し、烏古論部の党十四部を以て一と為し、蒲察部の党七部を以て一と為し、凡そ三十五部なり。完顔部は十二のみ。三十五部を以て十二部と戦えば、三人して一人と戦うなり。勝つこと必せり」と。世祖が降附させた諸部も亦皆離心を有した。この時に当たり、ただ烏延部の斜勒勃堇及び統門水溫蒂痕部の阿裏保勃堇・撒葛周勃堇等のみが皆人を使わして来たりて難を告げた。斜勒は達紀保の子で、先にその兄保骨臘を使わし、既にしてその甲を以て来帰した。阿裏保等曰く「吾らは必ず乱に従わず。ただ兵を乞いて援けと為さんことを請う」と。
穆宗は撒改をして留可を討伐させ、謾都訶をして敵庫徳を討伐させた。やがて太祖は七十の甲兵を率いて撒改の軍に赴き、途中で四十の甲兵を謾都訶に与えた。石土門の軍は謾都訶と米里迷石罕城下で合流した。ところが鈍恩が留可を救援しようとし、謾都訶の兵が少ないと聞き、備えがないと思い、石土門が来て合流したことを知らず、まず謾都訶を攻撃しようとした。謾都訶と石土門は迎撃し、鈍恩を大いに破った。米里迷石罕城はついに降伏し、鈍恩と敵庫徳を捕らえたが、皆釈放して誅殺しなかった。太祖は撒改の軍に到着し、翌日にはついに留可城を攻め落とし、城中の首領は皆誅殺し、その妻子や財産を奪って帰還した。塢塔城もまた守備を撤いて降伏した。留可は先に遼にいて、塢塔はすでに身を脱して外におり、このためいずれも捕らえられなかった。詐都もまた蒲家奴のもとに赴いて降伏し、太祖はこれを釈放した。ここにおいて、諸部は皆以前のように安穏な生業に就いた。久しくして、留可と塢塔は共に来て降伏した。
阿疏
阿疏は、星顕水紇石烈部の人である。父の阿海勃堇は景祖と世祖に仕えた。世祖が烏春を破って帰還すると、阿海は官属と士民を率いて双宜大濼で迎え謁し、黄金五斗を献上した。世祖はこれを諭して言った、「烏春はもと微賤であったが、我が父が撫育して部長とし、しかるに大恩を忘れ、かえって我に怨みを結び、ついに大乱となり、自ら滅亡を招いた。我と汝ら三十部の人々は、今より安寧を保ち休息することができる。我が大数もまた終わろうとしている。我が死んだならば、汝らは我を思い、力を尽くして我が子弟を補佐せよ。もし乱心が一度生じれば、烏春のように滅亡するであろう」。阿海は衆と共に跪いて泣いて言った、「太師に万一のことがあれば、衆人は誰を頼りに生きるのでしょうか、そのようなことをおっしゃらないでください」。間もなく、世祖が没し、阿海も死に、阿疏がこれを継いだ。
阿疏はその父の時から常に用事で来ており、昭粛皇后は大いにこれを憐れみ愛し、来るたびに必ず一月余り留めてから帰らせた。阿疏が勃堇となってから、かつて徒単部の詐都勃堇と序列を争い、粛宗がこれを裁くと、阿疏を上位とした。
穆宗が節度使を継ぐと、阿疏に異心があると聞き、そこで阿疏を召して鞍馬を賜り、深く慰撫して諭し、ひそかにその意向を探った。阿疏は帰ると、謀りごとをますます進め、ついにその事をあばかれた。再び召すと、阿疏は来ず、ついに同部の毛睹祿勃董らと共に兵を起こした。
穆宗は馬紀嶺から出兵してこれを攻めた。撒改は胡論嶺から進んで略奪し、潺春・星顕の両路を平定し、鈍恩城を攻め落とした。穆宗は阿茶檜水を略奪し、さらに軍を募り、阿疏城に至った。この日辰巳の刻ごろ、突然暴雨が降り、暗く曇り、雷電が阿疏の居所に下った。その後また大いなる光があり、声は雷のようで、阿疏の城中に墜ちた。識者はこれを破亡の兆しとした。
阿疏は穆宗が来ると聞き、その弟の狄故保と共に遼に訴え出た。遼人が来て攻撃を止めさせた。穆宗はやむなく、劾者勃堇に阿疏城を守らせて帰還した。金の初めにもまた二人の劾者がおり、一人は撒改の父で、韓國公を追贈された。一人は阿疏城を守った者で、後に特進を追贈されたという。
阿疏は穆宗が計略をもって遼の使者を退け、その城を破り、狄故保を殺したと聞き、再び遼に訴えた。遼の使者である奚節度使乙烈が来て状況を問い、かつ阿疏に対する賠償を備えるよう命じた。穆宗はまた主隈・禿荅水の人々に偽って鷹路を遮断したふりをさせ、一方で鱉故徳部節度使をして遼に言わせ、鷹路を平らげるには自分でなければならないとさせた。遼人はこれを察知せず、信じた。穆宗は土溫水で狩猟し、遼人に言った、「我は鷹路を平らげた」。遼人はこれを功とし、使者を遣わして賞を与えた。穆宗はその物をすべて主隈・禿荅の人々に与え、阿疏に対する賠償を再び備えなかった。遼人もまた再び問わなかった。
太祖が遼を討伐するに及び、遼の罪状を天地に告げ、阿疏が亡命したのに遼人が引き渡さなかったことを言い立て、遼との往来する書状や命令には必ずこれに言及した。天輔六年、闍母と婁室が天徳・雲内・甯邊・東勝などの州を平定し、阿疏を捕らえた。軍士がこれに問うて言った、「お前は誰か」。答えて言った、「我は遼を破る鬼である」。
賛に曰く、金の興隆には、由来があった。世祖が臘醅と婆諸刊を捕らえ、すでに遼に献じて功としたが、また言った、「もし返還しなければ、その部人は疑懼し、かつ乱の端となるであろう」。遼人はこれを察知せず、前後して献上した罪人をすべて帰した。景祖は曷魯林牙を止め、同幹を止め、穆宗は遼の使者を阿疏城で止め、終始鷹路をもって遼人を誤らせたが、遼人は悟らなかった。景祖には黄馬があり、乗りこなすのに快適であったが、景祖が没すると、遼の貴人が争ってこれを得ようとした。世祖は与えず、言った、「難はまだ止んでいない、馬を人に与えることはできない」。そこでその両耳を切り落とし、これを禿耳馬と呼んだので、遼の貴人はついに取らなかった。その前に諸部を平定するときは遼を借りて自らの威勢とし、献上してから求めるときは取引して自らの威勢とした。戦陣の一良馬は終に遼人に与えず、遼人は終に悟らなかった。これはまさに興亡には数があり、天がその魂を奪ったのであろうか。
奚王回離保
奚は、契丹と共に興起し、元魏の時には庫莫奚と号し、宇文周・隋・唐を経て、皆兵強と号した。その後契丹が奚を破って走らせ、奚は西に冷陘を保ち、その残留者は契丹に臣服し、東奚・西奚と号した。その後遼太祖が称帝すると、諸部は皆内属した。鉄勒は、古い部族の称号であり、奚がその地を有し、鉄勒州と称し、また鉄驪州と書かれた。奚には五王族があり、代々遼人と婚姻し、これにより述律氏の姓に附し、事は『遼史』に詳しいが、今は載せない。
奚には十三部・二十八落・一百一帳・三百六十二族があった。甲午の歳、太祖が耶律謝十を破り、諸将が連戦して皆勝利し、奚の鉄驪王回離保はその部を率いて降伏したが、間もなく、遼に逃れて帰った。遼主が使者を遣わして和を請うと、太祖は言った、「我が叛人阿疏と降人回離保・迪裏等を帰せ、その余の事は徐々に議論しよう」。久しくして、遼主は鴛鴦濼に至り、都統杲がこれを襲い、天徳に亡走した。
回離保は遼の大臣らとともに秦晉國王耶律捏裏を燕京に擁立した。捏裏が死ぬと、蕭妃が国事を代行した。太祖が居庸関に入ると、蕭妃は古北口から出奔した。回離保は盧龍嶺に至り、そこで留まって進まず、越裏部において諸奚の吏民を集め、帝を僭称し、元号を天複と改め、官属を改めて置き、渤海・奚・漢の丁壮を籍して軍とした。太祖は回離保に詔して曰く、「汝が吏民を脅迫誘惑し、位号を僭窃したと聞く。遼主は草莽に逃れ、大福は再び訪れぬ。汝の先世は遼に臣服し、今来て臣属するも、昔と何の異なることがあろう。汝は餘睹と不和あり、故にその来るを難くする。餘睹に仮に些細な恨みがあろうとも、朕はどうしてそれに従おうか。もし速やかに降るならば、汝の罪をことごとく釈し、なお六部族を主とし、山前の奚の衆を総べさせ、その官属・財産を還す。もしなお執迷するならば、兵を遣わして討伐し、必ずや汝を赦さぬ」と。回離保は従わなかった。天輔七年五月、回離保は南に燕地を侵し、景・薊の間で敗れ、その衆は奔り潰えた。耶律奧古哲及び甥の八斤・家奴の白底哥らがこれを殺した。その妻阿古はこれを聞き、自ら剄して死んだ。
先に、速古部の者が劾山を占拠し、奚路都統撻懶がこれを招いたが服従せず、討伐に向かった。鉄泥部の衆は険阻な地を扼して戦いを拒み、これを殺戮すること殆んど尽くした。ここに至り、速古・啜裏・鉄泥の三部の占拠する十三岩をことごとく討平した。達魯古部節度使乙列は降伏したが再び叛き、奚の馬和尚が達魯古及び五院司等の諸部を討ち、諸部は皆降伏し、遂に乙列を捕らえ、これを杖一百し、その父及びその家人で先に捕らえられた者は皆これを還した。
初め、太祖が達魯古城において遼兵を破ると、九百の奚営が来降した。ここに至り、回離保が死ぬと、奚人は次第に附屬し、また各々猛安謀克を置いてこれを統率させた。
賛に曰く、庫莫奚・契丹は漢末に起こり、隋・唐の間に盛んとなり、ともに強国として隣国となり、合併して群臣となり、八百余年の間、相終始した。奚には五部あり、大定年間、類族の著姓に遙裏氏・伯德氏・奧裏氏・梅知氏・揣氏があった。