始祖以下の諸子
勗
女直には初め文字がなく、遼を破り、契丹人・漢人を獲て、初めて契丹・漢字に通じ、ここにおいて諸子は皆これを学んだ。宗雄は両月で契丹の大小字をことごとく通じることができ、完顔希尹は契丹字に依拠模倣して女直字を制定した。女直は未だ文字がなく、また記録もなかったため、祖宗の事績は皆載せられていなかった。宗翰は女直の老人を訪問することを好み、多く祖宗の遺事を得た。太宗が初めて即位すると、進士の挙を復活し、韓昉らは皆朝廷にあり、文学の士は次第に抜擢任用された。天会六年、詔書を下し祖宗の遺事を求訪し、国史に備え、勗と耶律迪越にこれを掌らせた。勗らは遺言旧事を採集し、始祖以下の十帝について、総合して三巻とした。凡そ部族については、既に某部と言い、また某水の某と言い、また某郷某村と言って、区別して識別した。凡そ契丹との往来及び諸部征伐については、その間の詐謀詭計を、一切隠さなかった。事柄には詳しいもの略しいものがあり、皆その実を得た。
太祖が高麗と和議を結んで以来、凡そ女直人で高麗に入った者は皆これを索還し、十数年を経て、索還が止まなかった。勗は上書して諫めて言った、「臣は聞く、徳は天に楽しむより大なるはなく、仁は下に恵むより先なるはなしと。索還する戸口は、皆前世の奸宄叛亡の徒、烏蠢・訛謨罕・阿海・阿合束の末裔である。先世は四方を綏撫懐柔したが、未だ賓服せず、先君の時に高麗と通交し、我が将に大いにならんとするを聞き、本より同出であることを謂い、次第に款附した。高麗は既に聴許せず、遂に辺境の争いを生じ、これにより交兵に至り、久しくしてようやく連和し、およそ三十年である。当時の壮者は今皆物故し、子孫は土俗に安んじ、婚姻は膠固である。征索して止まず、彼らは固より敢えて稽留せず、骨肉は乖離し、誠に衆の願いではない。人情の怨み甚だ憫れむべきものであるのに、必ずや己が有とせんと欲するは、特なる彼我の蔽であり、一視同仁の大なるものではない。国家の民物は繁夥で、幅員は万里、この者を得て果たして何の益があるか知らない。今これを索還して還らずとも、我が強兵勁卒をもってこれを取るに難からず。然れども兵は兇器、戦は危事、已むを得ずして後用いるものである。高麗は藩を称し、職貢は欠かさず、国は臣属し、民もまた外ではない。聖人の義を行うには、小過を責めず、理の在る所は、終日を俟たない。臣愚かには、宜しく恵下の仁を施し、楽天の徳を弘め、征索を免ずることを聴き、則ち彼らは己が有と謂わず、我よりこれを得たるが如くなるであろう」と。これに従った。
十五年、尚書左丞となり、鎮東軍節度使・同中書門下平章事を加えられた。宗磐の難を平定することに参与し、賜与甚だ多く、儀同三司を加えられ、「皇叔祖」の字をその官銜の冠とした。勗は皆力辞して受けなかった。
熙宗が海島で狩猟し、三日の間に、親しく五頭の虎を射てこれを獲た。勗は『東狩射虎賦』を献じ、上は喜び、佩刀・玉帯・良馬を賜った。契丹字で詩文を作ることができ、凡そ遊宴に言うべきことがあれば、すなわち詩を作って意を表した。時に上は日々近臣と酣飲し、あるいは夜に継ぎ、これを諫める者はいなかった。勗が上疏して諫めると、ようやく酒を止めた。左丞相に進拝され、兼ねて侍中・監修はもと通りであった。八年、『太祖実録』二十巻を奏上し、黄金八十両、銀百両、重彩五十端、絹百匹、通犀・玉鉤帯各一を賜った。出て行台尚書省事を領し、召されて太保に拝され、三省を領し、行台を領するはもと通り、魯国王に封ぜられた。
勗は剛正で寡言であった。海陵がまさに権勢を振るい、朝臣多くこれに附く者がいた。ある日、大臣が会議し、海陵が後から来た。勗は面と向かってこれを責めて言った、
「我は五十余歳でも、なお後れを取ることを敢えず、汝は少年で強健なのに、どうして敢えてこのようであるか」。海陵は跪いて謝した。九年、太師に進拝され、漢国王に進封された。海陵が簒立すると、大臣に恩を加えて人望を収め、秦漢国王に封じ、三省を領し、監修はもと通りであった。
『女直郡望姓氏譜』及びその他の文章を多く撰定した。大定二十年、詔して曰く、「太師勗の諫表詩文は甚だ典則あり、朕の即位以来未だ見ざる所なり。その諫表は『実録』に入れるべく、その『射虎賦』詩文等の篇什は、版を鏤じてこれを伝えるべし」と。子に宗秀あり。
子 宗秀
宗秀、字は實甫、本名は撕里忽。経史に渉猟し、契丹の大小字に通じた。騎射を善くし、宗磐・宗雋の乱を平定することに与り、定遠大将軍を授けられ、宗磐の世襲猛安を以てこれを授けられた。
隈可
康宗敬僖皇后は楚王謀良虎を生む。次室の温都氏は昭武大将軍同喬茁を生む。次室の僕散氏は事に坐して早く死に、龍虎衛上将軍隈可を生む。
宗室
始祖兄弟三人、保活里の後は神士懣・迪古乃、別に伝有り。
胡十門
子の鉤室は、嘗て顕州を攻むるに従い、四謀克の軍を領し、梁魚務を破り、功最も優れ、その父の管する所の七部を以て曷蘇館都勃堇と為す。
合住
合住と称する者有り、亦た始祖の兄の苗裔と称す。但だ胡十門と相去ること幾従なるかを知らず。
合住は、曷速館苾里海水の人なり。遼に仕え、辰・複二州の漢人・渤海を領す。
曾孫 布輝
子の蒲速越は、父の職を襲い、再び静江中正軍節度使に遷り、金牌を佩び、曷速館女直部長と為る。
子の余里也は胡十門と同時に帰朝し、しばしば糧餉を以て高永昌及び高麗・新羅征伐を助けた。後に宗望に従い宋を伐ち、功により真定府路安撫使兼曹州防禦使に遷り、金牌を佩びた。苾里海水世襲猛安を授けられた。
長子の布輝は、女直・契丹・漢字を識り、騎射に長じた。十八歳の時、宗弼に選ばれて紮也となり、阿里・蒲盧渾に従い明州において宋の康王を追った。睿宗その才を聞き、召して麾下に置き、山東・河北・陝西を経略するに従い、その父の猛安を襲い、昭勇大将軍を授けられた。海陵が宋を伐つに当たり、本猛安の兵を率いて従軍したが、途中で南征万戸完顔福寿等と共に亡帰し、遼陽において世宗に謁した。
世宗即位すると、同知曷蘇館節度使事を除された。刑部侍郎斜哥が都統となり、布輝がその副となったが、官吏を擅に署置し、官中の財物を私用した罪により、両階を削られ解職された。十日も経たぬうちに、世宗は山陵に献享せんとした。兵部尚書可喜・昭毅大将軍斡論・中都同知完顔璋等が謀反を企て、上が山陵を謁する機に乗じて挙事せんとした。斡論は布輝と親旧であり、之と謀議した。事は『可喜伝』に具わる。既に事の成らざるを知ると、乃ち可喜・璋と共に斡論等を執り上変した。可喜は始めの謀を尽く首肯することを肯ぜず、遂に併せて誅せられ、而して布輝・璋は賞せられた。布輝を除して浚州防禦使とし、累遷して順天軍節度使に至った。致仕し、卒す。年六十七。
摑保
昭祖の族人摑保は、昭祖に従い青嶺・白山において武を耀した。還って姑里甸に至り、昭祖疾を得て、村舎に寝す。洞に門扉無く、乃ち車輪を以て門に当てて蔽いとし、摑保は輪下に臥して捍禦した。已にして賊至り、刃輪輻の間に交わった。摑保は腹を洞かせて膏を見るも、昭祖の知るを恐れ、乃ち薪を然して膏を取って炙と為し、問うと、他肉と以て対えた。昭祖心に之を知り、遂に中夜啓行した。
衷
衷、本名は醜漢、中都司属司の人、世祖の曾孫。祖の霸合布里は鄆王に封ぜられ、父の悟烈は官特進に至る。大定中、収められて閤門祗候に充てられ、代州宣鋭軍都指揮使を授けられた。歳旱し、州より五台霊潭に雨を祷むことを委ねられ、歩いて其の水を致すと、雨随いて下り、人の為に刻石して之を紀す。四遷して引進使となり、兼ねて典客署令を領し、尚輦局使に改む。北幸に扈従し、廄馬二匹を賜わりて其の勤を旌す。尋いで夏国王李仁孝の封冊使となり、寧海・蠡州刺史を歴任し、入って大睦親府丞となる。順義軍節度使を除され、陛辞に際し金幣を賜わり、特ちに寵異せられた。鎮西に移鎮す。泰和六年、致仕し、卒す。
衷は孝悌貞謹にして、深く本朝の婚禮に悉くし、皇族の婚嫁には毎度衷をして之を相せしめた。治め方復た能称有り、其の寧海・蠡州に在りし時は、賦役を平らかにして擾わず、民石を立てて遺愛を頌す。大安初、輔国上将軍を追贈された。
齊
齊、本名は掃合、穆宗の曾孫。父は胡八魯、寧州刺史。大定中、族次を以て司属司将軍に充てられ、同知複州軍州事を授かり、累遷して刑部員外郎に至る。上諭して曰く、「本朝以来、未だ嘗て内族が六部郎官となった者は無い。卿が歴職廉能なるを以て、故に之を授く」と。先んずるに、複州合廝罕関の地方七百八里、囲猟に因りて民の樵捕を禁ず。齊言う、其の地肥衍なり、民に賦して開種せしめば則ち公私益有りと。上然り之を為し、禁を弛む。即ち民を牧して居らしめ、田収甚だ利有り、因りて其の地を名づけて合廝罕猛安と曰う。
章宗立つと、戸部員外郎に改められ、出でて磁州刺史となり、治め方寛簡を以てし、未だ嘗て獄を留めず。属邑武安に、道士観宇を視ること謹まず、吏民為に隣郡の王師なる者を請いて代わりに之を主たせしむ。道士忿みて其の利を奪われ、王が私に禁銅器を置くを告ぐ。法徒に当たる。県令其の人を悪み、反って之に坐し、獄を具えて上る。齊其の誣を審らかにす。又王に徳有るを以て、之を坐するに忍びず、同僚に問うも、以て対うる無し。齊曰く、「道士同請すれば即ち同居なり、首に准うべく、倶に其の罪を釈すべし」と。其の寛明にして体有ること、皆此の類なり。
朮魯
朮魯、宗室の子。鄭王斡賽に従い曷懶において高麗を破り、亜魯城を取り、甯江州を克ち、黄龍府を取る。出河店の役・達魯古城の役・護歩荅岡の役に皆力戦して功有り。東京降るに及び、本路招安副使と為る。遼兵を破り、同刮営を破る。蘇州の漢民叛走す、朮魯追いて之を復し、功により謀克と為る。天輔四年卒す。年四十一。皇統中、鎮国上将軍を贈られた。
胡石改
胡石改は宗室の子である。太祖に従い甯江を攻め、達魯古城において遼兵を破り、遼主の親兵を撃破し、いずれも功績があった。遼軍が済州を救援に来ると、胡石改はその兄実古乃とともに兵を率いて迎撃し、これを破った。還って済州を攻め、流れ矢に当たったが、戦いをますます奮い、その城を陥落させた。軍中ではその勇を称えた。春州・泰州を攻め降伏させ、併せて境内の諸部族を降伏させ、降伏しない者はすべて攻め落とした。遼主が西走すると、胡石改は中京まで追撃し、その宮人・輜重あわせて八百両を獲得した。
思泥古という者が、またその本部を率いて叛き去ったので、胡石改は兵五百を率いて追い及び、その親属部人を獲得して還った。德州がまた叛くと、胡石改は兵五千でその城を陥落させた。婁室に従い帰化の南で敵兵二万を撃破し、併せて帰化を降伏させた。居庸関を取るのに従い、併せて燕の属県およびその山谷の諸屯を降した。移失部は既に降伏したが、また叛き去ったので、胡石改は兵を率いて追い及び、戦ってこれを破り、俘獲は甚だ多かった。沢州の諸部に逃亡した者がいたが、すべて追って回復した。また叛人を臨潢で破り、その酋領を誅してその人民を安撫した。
宗賢
宗賢、本名は阿魯である。太祖が遼を伐つとき、従って甯江州・臨潢府を攻めた。太宗が監国すると、側近に選ばれ侍し、甚だ親信された。臨潢がまた叛くと、宗望に従ってこれを再び取り戻した。内庫都提点となり、再び帰徳軍節度使に遷った。政は寛大簡素で、境内は大いに治まった。任期が満ちると、士民数百人が相率いて朝廷に赴き留任を請願した。武定軍に改められたとき、百姓は老いを扶け幼を携えて数十里を見送り、悲しみ号泣して去った。永定軍に改められた。秉徳が官吏を廉訪したとき、士民が盆の水と鏡を持ち、前に進み拝して言うには、「使君の廉明清直はこれに類い、民は実にこれを頼りにしております」と。秉徳は言った、「私は郡の官僚が廉能で一様であると聞くが、汝らはどう思うか」と。衆は答えて言うには、「公勤清倹は皆使君を法則としております」と。そこで宗賢に言うには、「人が君が善く治めると言い、甲乙に在るべきとしていたが、果たして賢い使君である」と。これによって二階を超えて昇進した。
天徳初め、世襲謀克を授けられ、駅伝を馳せて召された。雄州の父老が相率いて青い縄を張り明鏡を公署に懸け、老幼が門を埋め、三日にしてようやく去ることができた。定国公に封ぜられ、再び忠順軍節度使に任じられ、玉帯を賜った。捕盗司が数人を捕らえて府に連行すると、宗賢は問うて言った、「罪状は明白か」と。答えて言うには、「獄は具わっております」と。宗賢はその案を閲覧し、僚佐に言うには、「私はこの輩は必ず冤罪であると察する」と。数日も経たないうちに、賊は果たして捕らえられ、人はその明察に服した。曷懶路兵馬都総管に改め、広寧尹を歴任し、広平郡王に封ぜられた。崇義軍節度使に改め、兼ねて北京の宗室事を領した。正隆の例により王爵を奪われ、金紫光禄大夫を加えられ、臨海軍に改められた。大定初め、使者を遣わして召された。宗賢は諸宗室を率いて遼陽で謁見し、同簽大宗正事に任じられ、景国公に封ぜられ、致仕した。起用されて婆速路兵馬都総管となり、また致仕した。卒去。
撻懶
特進撻懶は、宗室の子である。十六歳のとき、太祖に仕え、左右を離れなかった。出河店の戦役で、太祖が親しく戦おうとしたとき、撻懶はその馬を押さえてこれを止めて言うには、「主君は何ゆえに敵を軽んじられるのか。臣が力を尽くすことを請う」と。即ち槍を挺して前に進み、手ずから七人を殺した。やがて槍が折れると、騎士を引きずり下ろすこと九人。太祖はこれを壮として言うには、「誠にこのような輩数十人を得れば、たとえ万衆でも当たることができないであろう」と。達魯古城での戦いでは、遼兵一千が営外に陣を布いていたので、太祖は撻懶を遣わしてこれを撃たせた。撻懶は敵陣に突出し、その衆を大いに破った。臨潢府・春州・泰州・中京・西京の二京を攻め、いずれも功績があった。天輔六年、謀克を授けられた。
天会四年、宋を伐つに従い、しばしば功績により賞を受けた。翌年、再び挙兵して汴に至った。宗望は宋人が諸路の援兵を睢陽に集結させると聞き、撻懶と阿里刮に兵二千を率いて往きこれを防がせた。杞県においてその前鋒軍三万を破り、また三寨を破り、宋の京東路都総管胡直孺・南路都統制隋師元およびその三将、併せて直孺の二子を生け捕りにし、遂に拱州を取り、寧陵を降した。また二万を睢陽で破り、進んで亳州を取った。宋兵十万が将に到らんとするのを聞き、宗望が兵四千を増派して合流し、これを大いに破った。その兵卒二千は、陣を布いて立ち、馬を馳せて攻めても動かず、即ち軍を指揮して馬を下りてこれを撃ち、ことごとく殲滅し、その将石瑱を生け捕りにして還った。帥府はその功を嘉し、賞賜は厚かった。睿宗が熙州に駐兵し、諸将を分遣して地を攻略させた。撻懶は軍五百を率いて六盤山の十六寨に入り、その官八十余人を降し、民戸四千、馬二千疋を獲得した。
皇統年間、累次加えて銀青光禄大夫となった。天徳初め、特進を加えられ、世襲猛安を授けられた。卒去、年六十五。海陵が諸陵を大房山に遷すとき、撻懶がかつて太祖に給事したことから、石像を作らせ、睿陵の前に置かせた。
卞
𠅿
𠅿、本名は阿里刺、上京司属司に隷属した。大定十年、皇家の近親として、東宮護衛に収め充てられた。十人長に転じ、御院通進を授けられ、世宗に従って上京に幸した。時に皇太子が国を守って薨去したので、世宗は𠅿が親密で委ねられるべきと考え、特に滕王府長史台とともに駅伝を馳せて往き喪を護らせた。時に章宗が金源郡王であり、また中都に留まっていたので、かつて𠅿らに保護を命じ、これを諭して言うには、「郡王はこの家難に遭い、哀哭は礼をもってこれを節し、飲食は特に謹んで視るべきである」と。世宗が都に還ると、符宝郎に遷り、吏部郎中に任じられた。
弈
弈は人となり貪欲で卑しく、たびたび贓罪で失脚したが、帝はその囲場を治める能力を愛でたため、進用して信任を委ねたのである。
阿喜
阿喜は宗室の子で、学問を好んだ。父の北京路筈柏山猛安を襲い、訴訟を明快に裁決したため、人々は信頼してこれを愛した。廉能を察せられ、彰國軍節度副使に除され、上京留守判官に改められた。提刑司が彰國軍の治績を奏上したため、同知速頻路節度事に遷り、帰徳軍に改められ、海州・邳州の刺史を歴任し、いずれも総押軍馬を兼ねた。
賛して言う。金の諸宗室は、始祖から康宗に至るまで凡そ八世である。獻祖は海姑水の納葛里村に移り住み、再び安出虎水に移った。世祖が海姑兄弟と称したのは、その居住地を指したものである。完顔十二部は皆、部をもって氏としたが、宣宗は詔して宗室は皆姓氏を書かしめた。しかしまた、部人が部をもって氏とする、宗室同姓でない者もあり、遂には区別がつかなくなったのである。