金史

列傳第四: 始祖以下の諸子 勗 隈可 宗室 胡十門 合住 摑保 衷 齊 朮魯 胡石改 宗賢 撻懶 卞 膏 弈 阿喜

始祖以下の諸子

勗、字は勉道。本名は烏野、穆宗の第五子。学問を好み、国人は秀才と呼んだ。十六歳の時、太祖に従い甯江州を攻め、宗望に従い石輦鐸において遼主を襲撃した。太宗が位を嗣ぐと、軍中より召還され、政事を謀ることに参与した。宗翰・宗望が汴州を平定し、宋帝の降伏を受けた。太宗は勗をして軍中に往きこれを労わらせた。宗翰らがその欲する所を問うと、曰く、「ただ書物を好むのみ」と。数車を載せて還った。

女直には初め文字がなく、遼を破り、契丹人・漢人を獲て、初めて契丹・漢字に通じ、ここにおいて諸子は皆これを学んだ。宗雄は両月で契丹の大小字をことごとく通じることができ、完顔希尹は契丹字に依拠模倣して女直字を制定した。女直は未だ文字がなく、また記録もなかったため、祖宗の事績は皆載せられていなかった。宗翰は女直の老人を訪問することを好み、多く祖宗の遺事を得た。太宗が初めて即位すると、進士の挙を復活し、韓昉らは皆朝廷にあり、文学の士は次第に抜擢任用された。天会六年、詔書を下し祖宗の遺事を求訪し、国史に備え、勗と耶律迪越にこれを掌らせた。勗らは遺言旧事を採集し、始祖以下の十帝について、総合して三巻とした。凡そ部族については、既に某部と言い、また某水の某と言い、また某郷某村と言って、区別して識別した。凡そ契丹との往来及び諸部征伐については、その間の詐謀詭計を、一切隠さなかった。事柄には詳しいもの略しいものがあり、皆その実を得た。

太祖が高麗と和議を結んで以来、凡そ女直人で高麗に入った者は皆これを索還し、十数年を経て、索還が止まなかった。勗は上書して諫めて言った、「臣は聞く、徳は天に楽しむより大なるはなく、仁は下に恵むより先なるはなしと。索還する戸口は、皆前世の奸宄叛亡の徒、烏蠢・訛謨罕・阿海・阿合束の末裔である。先世は四方を綏撫懐柔したが、未だ賓服せず、先君の時に高麗と通交し、我が将に大いにならんとするを聞き、本より同出であることを謂い、次第に款附した。高麗は既に聴許せず、遂に辺境の争いを生じ、これにより交兵に至り、久しくしてようやく連和し、およそ三十年である。当時の壮者は今皆物故し、子孫は土俗に安んじ、婚姻は膠固である。征索して止まず、彼らは固より敢えて稽留せず、骨肉は乖離し、誠に衆の願いではない。人情の怨み甚だ憫れむべきものであるのに、必ずや己が有とせんと欲するは、特なる彼我の蔽であり、一視同仁の大なるものではない。国家の民物は繁夥で、幅員は万里、この者を得て果たして何の益があるか知らない。今これを索還して還らずとも、我が強兵勁卒をもってこれを取るに難からず。然れども兵は兇器、戦は危事、已むを得ずして後用いるものである。高麗は藩を称し、職貢は欠かさず、国は臣属し、民もまた外ではない。聖人の義を行うには、小過を責めず、理の在る所は、終日を俟たない。臣愚かには、宜しく恵下の仁を施し、楽天の徳を弘め、征索を免ずることを聴き、則ち彼らは己が有と謂わず、我よりこれを得たるが如くなるであろう」と。これに従った。

十五年、尚書左丞となり、鎮東軍節度使・同中書門下平章事を加えられた。宗磐の難を平定することに参与し、賜与甚だ多く、儀同三司を加えられ、「皇叔祖」の字をその官銜の冠とした。勗は皆力辞して受けなかった。

皇統元年、熙宗の尊号冊文を撰定した。上は勗を便殿に召して飲ませ、玉帯を賜った。撰した『祖宗実録』が完成し、凡そ三巻、進上すると、上は香を焚き立ってこれを受け、賞賚に差等があった。制詔して左丞勗・平章政事弈には職俸の外に別に二品親王の俸傔を給することとした。旧制では、皇兄弟・皇子が親王となる者は二品の俸を給し、宗室で一字王に封ぜられる者は三品の俸を給していた。勗らに別に親王の俸を給するは、皆異例のことであった。五雲楼において群臣を宴し、勗は進酒して謝した。帝が起立すると、宰臣が進言して言った、「至尊が臣下のために屡々起たれるは、礼として未だ安からず」。上は言った、「朕が己を屈して臣下を待つも、また何の害があろうか」。この日、上及び群臣はことごとく歓んだ。まもなく国史監修を兼ね、平章政事に進拝された。光懿皇后の忌辰に、熙宗が狩猟に出ようとしたのを、勗が諫めて止めた。

熙宗が海島で狩猟し、三日の間に、親しく五頭の虎を射てこれを獲た。勗は『東狩射虎賦』を献じ、上は喜び、佩刀・玉帯・良馬を賜った。契丹字で詩文を作ることができ、凡そ遊宴に言うべきことがあれば、すなわち詩を作って意を表した。時に上は日々近臣と酣飲し、あるいは夜に継ぎ、これを諫める者はいなかった。勗が上疏して諫めると、ようやく酒を止めた。左丞相に進拝され、兼ねて侍中・監修はもと通りであった。八年、『太祖実録』二十巻を奏上し、黄金八十両、銀百両、重彩五十端、絹百匹、通犀・玉鉤帯各一を賜った。出て行台尚書省事を領し、召されて太保に拝され、三省を領し、行台を領するはもと通り、魯国王に封ぜられた。

勗は剛正で寡言であった。海陵がまさに権勢を振るい、朝臣多くこれに附く者がいた。ある日、大臣が会議し、海陵が後から来た。勗は面と向かってこれを責めて言った、

「我は五十余歳でも、なお後れを取ることを敢えず、汝は少年で強健なのに、どうして敢えてこのようであるか」。海陵は跪いて謝した。九年、太師に進拝され、漢国王に進封された。海陵がさん立すると、大臣に恩を加えて人望を収め、秦漢国王に封じ、三省を領し、監修はもと通りであった。

宗本が無罪で誅せられると、勗の髭鬢はたちまち白くなり、これにより上表して老齢を請うた。海陵は許さず、玉帯を賜い、優詔をもって諭した。大事がある時は宰臣をして邸宅に就いて商議させ、入朝しても拝礼させなかった。勗は遂に病篤いと称して言わず、上表して請うこと愈々切であり、海陵は快く思わず、これに従った。本官のまま致仕し、周宋国王に進封された。正隆元年、宗室とともに中都に遷された。二年、例により金源郡王に降封された。薨去、年五十九。

『女直郡望姓氏譜』及びその他の文章を多く撰定した。大定二十年、詔して曰く、「太師勗の諫表詩文は甚だ典則あり、朕の即位以来未だ見ざる所なり。その諫表は『実録』に入れるべく、その『射虎賦』詩文等の篇什は、版を鏤じてこれを伝えるべし」と。子に宗秀あり。

子 宗秀

宗秀、字は實甫、本名は撕里忽。経史に渉猟し、契丹の大小字に通じた。騎射を善くし、宗磐・宗雋の乱を平定することに与り、定遠大将軍を授けられ、宗磐の世襲猛安を以てこれを授けられた。

宗弼が再び河南を取ると、宗秀は海陵と共に軍前に赴き任使に就いた。宋将岳飛が亳・宿の間に軍を置くと、宗秀は歩騎三千を率いてその要衝を扼し、遂に諸軍と共にこれを迎撃して敗った。師が還ると、太原尹となり、婆速路統軍使に改められたが、受けなかった。高麗が使者を遣わして土産を献じると、これを退けた。入朝して刑部尚書となり、御史中丞に改め、翰林学士を授けられた。天徳初め、承旨に転じ、宿国公に封ぜられ、玉帯を賜わった。平陽尹・昭義軍節度使を歴任し、広平郡王に封ぜられた。正隆二年、官にて卒す。年四十二。この年、例により二品以上の封爵を降格し、改めて金紫光禄大夫を贈られた。

隈可

康宗敬僖皇后は楚王謀良虎を生む。次室の温都氏は昭武大将軍同喬茁を生む。次室の僕散氏は事に坐して早く死に、龍虎衛上将軍隈可を生む。

隈可は亦た偎喝と作り、髯須美しく、勇健にして材略有り。太祖に従い遼を伐ち、寧江州を取り、出河店に戦う。天眷二年、驃騎上将軍を授けられ、迭魯苾撒糺詳隱を除かれ、忠順軍節度使・興平軍節度使に遷る。天徳二年、入朝して大宗正丞となる。四年、出でて昭徳軍節度使となる。兄謀良虎の孫喚端の合紮謀克余戸を以て、偎上京路紮里瓜猛安所属の世襲謀克を授けられる。徳昌軍節度使に改め、広平郡王に封ぜられる。正隆二年、例により王爵を奪われ、曷速館節度使に改め、再び忠順軍節度使に改まる。大定元年、宗国公に封ぜられ、勧農使となり、官にて卒す。年六十五。

宗室

始祖兄弟三人、保活里の後は神士懣・迪古乃、別に伝有り。

胡十門

胡十門は、曷蘇館の人なり。父は撻不野、遼に事えて太尉となる。胡十門は漢語に善く、契丹の大小字に通じ、勇にして善く戦う。高永昌が東京を拠すと、曷蘇館人を招くが、衆は高永昌の兵強きを畏れ、且つこれに帰せんと欲す。胡十門は肯えて従わず、その族人を召して謀りて曰く、「吾が遠祖兄弟三人、同しく高麗より出づ。今大聖皇帝の祖は女直に入り、吾が祖は高麗に留まり、高麗より遼に帰す。吾と皇帝は皆三祖の後なり。皇帝命を受けて即ち大位に即く、遼の敗亡には徴有り、吾豈に永昌の臣たるを得んや」と。始祖の兄阿古乃は高麗の中に留まる。胡十門自らかくの如く言う、蓋し自ら阿古乃の後と謂うなり。ここにおいてその族属部衆を率いて撒改、烏蠢に詣でて降り、馳回山の下に営す。永昌これを攻むると、胡十門力戦して敵する能わず、撒改に奔る。及び開州を攻むるに及び、胡十門は糧餉を以て軍に給す。後に保州を攻むるに、遼は舟師を以て遁るるを奨むると、胡十門邀撃してこれを破り、その士卒を降す。賞賜甚だ厚く、以て曷蘇館七部の勃堇と為し、銀牌一・木牌三を給す。天輔二年卒す。監門衛上将軍を贈られ、再び驃騎衛上将軍を贈られる。

子の鉤室は、嘗て顕州を攻むるに従い、四謀克の軍を領し、梁魚務を破り、功最も優れ、その父の管する所の七部を以て曷蘇館都勃堇と為す。

合住

合住と称する者有り、亦た始祖の兄の苗裔と称す。但だ胡十門と相去ること幾従なるかを知らず。

合住は、曷速館苾里海水の人なり。遼に仕え、辰・複二州の漢人・渤海を領す。

曾孫 布輝

子の蒲速越は、父の職を襲い、再び静江中正軍節度使に遷り、金牌を佩び、曷速館女直部長と為る。

子の余里也は胡十門と同時に帰朝し、しばしば糧餉を以て高永昌及び高麗・新羅征伐を助けた。後に宗望に従い宋を伐ち、功により真定府路安撫使兼曹州防禦使に遷り、金牌を佩びた。苾里海水世襲猛安を授けられた。

長子の布輝は、女直・契丹・漢字を識り、騎射に長じた。十八歳の時、宗弼に選ばれて紮也となり、阿里・蒲盧渾に従い明州において宋の康王を追った。睿宗その才を聞き、召して麾下に置き、山東・河北・陝西を経略するに従い、その父の猛安を襲い、昭勇大将軍を授けられた。海陵が宋を伐つに当たり、本猛安の兵を率いて従軍したが、途中で南征万戸完顔福寿等と共に亡帰し、遼陽において世宗に謁した。

世宗即位すると、同知曷蘇館節度使事を除された。刑部侍郎斜哥が都統となり、布輝がその副となったが、官吏を擅に署置し、官中の財物を私用した罪により、両階を削られ解職された。十日も経たぬうちに、世宗は山陵に献享せんとした。兵部尚書可喜・昭毅大将軍斡論・中都同知完顔璋等が謀反を企て、上が山陵を謁する機に乗じて挙事せんとした。斡論は布輝と親旧であり、之と謀議した。事は『可喜伝』に具わる。既に事の成らざるを知ると、乃ち可喜・璋と共に斡論等を執り上変した。可喜は始めの謀を尽く首肯することを肯ぜず、遂に併せて誅せられ、而して布輝・璋は賞せられた。布輝を除して浚州防禦使とし、累遷して順天軍節度使に至った。致仕し、卒す。年六十七。

摑保

昭祖の族人摑保は、昭祖に従い青嶺・白山において武を耀した。還って姑里甸に至り、昭祖疾を得て、村舎に寝す。洞に門扉無く、乃ち車輪を以て門に当てて蔽いとし、摑保は輪下に臥して捍禦した。已にして賊至り、刃輪輻の間に交わった。摑保は腹を洞かせて膏を見るも、昭祖の知るを恐れ、乃ち薪を然して膏を取って炙と為し、問うと、他肉と以て対えた。昭祖心に之を知り、遂に中夜啓行した。

衷、本名は醜漢、中都司属司の人、世祖の曾孫。祖の合布里は鄆王に封ぜられ、父の悟烈は官特進に至る。大定中、収められて閤門祗候に充てられ、代州宣鋭軍都指揮使を授けられた。歳旱し、州より五台霊潭に雨を祷むことを委ねられ、歩いて其の水を致すと、雨随いて下り、人の為に刻石して之を紀す。四遷して引進使となり、兼ねて典客署令を領し、尚輦局使に改む。北幸に扈従し、廄馬二匹を賜わりて其の勤を旌す。尋いで夏国王李仁孝の封冊使となり、寧海・蠡州刺史を歴任し、入って大睦親府丞となる。順義軍節度使を除され、陛辞に際し金幣を賜わり、特ちに寵異せられた。鎮西に移鎮す。泰和六年、致仕し、卒す。

衷は孝悌貞謹にして、深く本朝の婚禮に悉くし、皇族の婚嫁には毎度衷をして之を相せしめた。治め方復た能称有り、其の寧海・蠡州に在りし時は、賦役を平らかにして擾わず、民石を立てて遺愛を頌す。大安初、輔国上将軍を追贈された。

齊、本名は掃合、穆宗の曾孫。父は胡八魯、寧州刺史。大定中、族次を以て司属司将軍に充てられ、同知複州軍州事を授かり、累遷して刑部員外郎に至る。上諭して曰く、「本朝以来、未だ嘗て内族が六部郎官となった者は無い。卿が歴職廉能なるを以て、故に之を授く」と。先んずるに、複州合廝罕関の地方七百八里、囲猟に因りて民の樵捕を禁ず。齊言う、其の地肥衍なり、民に賦して開種せしめば則ち公私益有りと。上然り之を為し、禁を弛む。即ち民を牧して居らしめ、田収甚だ利有り、因りて其の地を名づけて合廝罕猛安と曰う。

章宗立つと、戸部員外郎に改められ、出でて磁州刺史となり、治め方寛簡を以てし、未だ嘗て獄を留めず。属邑武安に、道士観宇を視ること謹まず、吏民為に隣郡の王師なる者を請いて代わりに之を主たせしむ。道士忿みて其の利を奪われ、王が私に禁銅器を置くを告ぐ。法徒に当たる。県令其の人を悪み、反って之に坐し、獄を具えて上る。齊其の誣を審らかにす。又王に徳有るを以て、之を坐するに忍びず、同僚に問うも、以て対うる無し。齊曰く、「道士同請すれば即ち同居なり、首に准うべく、倶に其の罪を釈すべし」と。其の寛明にして体有ること、皆此の類なり。

磁は名郡たり、刺史は皆朝廷の遴選する所、郡人は以前の政に声有る者、劉徽柔・程輝・高徳裕の如きも皆及ばず。河北提刑司治状を以て聞こゆ。明昌三年、始めて諸王傅を置くを議し、頗る其の選を難し、乃ち齊を以て袞王の傅と為す。王将に任郡に至らんとするに、猛安迎接す、齊峻しく之を却く。王怪しみて故を問うと、曰く「王国は籓輔たり、猛安は皆総戎の職、王に何の利か有らん、之を却くは以て嫌を遠ざくるなり」と。王悦服す。王府の家奴法に不法を為せば、輒ち発して本猛安に還し、終更敢えて犯す者無し。

明年、山東東・西路副統軍を授かり、兼ねて同知益都府事を領す。恵愛有り、郡人の為に碑を立つ。転じて彰化軍節度使となる。六年、利涉軍に移る。召見せられ、労尉加うること有り。詔して上京を留守せしむ。承安二年、致仕し、卒す。齊は明法にして治体を識り、至る所声有り、内族中に丞相承暉と並び称せらる。

朮魯

朮魯、宗室の子。鄭王斡賽に従い曷懶において高麗を破り、亜魯城を取り、甯江州を克ち、黄龍府を取る。出河店の役・達魯古城の役・護歩荅岡の役に皆力戦して功有り。東京降るに及び、本路招安副使と為る。遼兵を破り、同刮営を破る。蘇州の漢民叛走す、朮魯追いて之を復し、功により謀克と為る。天輔四年卒す。年四十一。皇統中、鎮国上将軍を贈られた。

胡石改

胡石改は宗室の子である。太祖に従い甯江を攻め、達魯古城において遼兵を破り、遼主の親兵を撃破し、いずれも功績があった。遼軍が済州を救援に来ると、胡石改はその兄実古乃とともに兵を率いて迎撃し、これを破った。還って済州を攻め、流れ矢に当たったが、戦いをますます奮い、その城を陥落させた。軍中ではその勇を称えた。春州・泰州を攻め降伏させ、併せて境内の諸部族を降伏させ、降伏しない者はすべて攻め落とした。遼主が西走すると、胡石改は中京まで追撃し、その宮人・輜重あわせて八百両を獲得した。

思泥古という者が、またその本部を率いて叛き去ったので、胡石改は兵五百を率いて追い及び、その親属部人を獲得して還った。德州がまた叛くと、胡石改は兵五千でその城を陥落させた。婁室に従い帰化の南で敵兵二万を撃破し、併せて帰化を降伏させた。居庸関を取るのに従い、併せて燕の属県およびその山谷の諸屯を降した。移失部は既に降伏したが、また叛き去ったので、胡石改は兵を率いて追い及び、戦ってこれを破り、俘獲は甚だ多かった。沢州の諸部に逃亡した者がいたが、すべて追って回復した。また叛人を臨潢で破り、その酋領を誅してその人民を安撫した。

天眷二年、永定軍節度使に遷り、武定軍に改め、汴京留守に転じた。天徳三年、世襲猛安を授けられた。卒去、年六十八。

宗賢

宗賢、本名は阿魯である。太祖が遼を伐つとき、従って甯江州・臨潢府を攻めた。太宗が監国すると、側近に選ばれ侍し、甚だ親信された。臨潢がまた叛くと、宗望に従ってこれを再び取り戻した。内庫都提点となり、再び帰徳軍節度使に遷った。政は寛大簡素で、境内は大いに治まった。任期が満ちると、士民数百人が相率いて朝廷に赴き留任を請願した。武定軍に改められたとき、百姓は老いを扶け幼を携えて数十里を見送り、悲しみ号泣して去った。永定軍に改められた。秉徳が官吏を廉訪したとき、士民が盆の水と鏡を持ち、前に進み拝して言うには、「使君の廉明清直はこれに類い、民は実にこれを頼りにしております」と。秉徳は言った、「私は郡の官僚が廉能で一様であると聞くが、汝らはどう思うか」と。衆は答えて言うには、「公勤清倹は皆使君を法則としております」と。そこで宗賢に言うには、「人が君が善く治めると言い、甲乙に在るべきとしていたが、果たして賢い使君である」と。これによって二階を超えて昇進した。

天徳初め、世襲謀克を授けられ、駅伝を馳せて召された。雄州の父老が相率いて青い縄を張り明鏡を公署に懸け、老幼が門を埋め、三日にしてようやく去ることができた。定国公に封ぜられ、再び忠順軍節度使に任じられ、玉帯を賜った。捕盗司が数人を捕らえて府に連行すると、宗賢は問うて言った、「罪状は明白か」と。答えて言うには、「獄は具わっております」と。宗賢はその案を閲覧し、僚佐に言うには、「私はこの輩は必ず冤罪であると察する」と。数日も経たないうちに、賊は果たして捕らえられ、人はその明察に服した。曷懶路兵馬都総管に改め、広寧尹を歴任し、広平郡王に封ぜられた。崇義軍節度使に改め、兼ねて北京の宗室事を領した。正隆の例により王爵を奪われ、金紫光禄大夫を加えられ、臨海軍に改められた。大定初め、使者を遣わして召された。宗賢は諸宗室を率いて遼陽で謁見し、同簽大宗正事に任じられ、景国公に封ぜられ、致仕した。起用されて婆速路兵馬都総管となり、また致仕した。卒去。

撻懶

特進撻懶は、宗室の子である。十六歳のとき、太祖に仕え、左右を離れなかった。出河店の戦役で、太祖が親しく戦おうとしたとき、撻懶はその馬を押さえてこれを止めて言うには、「主君は何ゆえに敵を軽んじられるのか。臣が力を尽くすことを請う」と。即ち槍を挺して前に進み、手ずから七人を殺した。やがて槍が折れると、騎士を引きずり下ろすこと九人。太祖はこれを壮として言うには、「誠にこのような輩数十人を得れば、たとえ万衆でも当たることができないであろう」と。達魯古城での戦いでは、遼兵一千が営外に陣を布いていたので、太祖は撻懶を遣わしてこれを撃たせた。撻懶は敵陣に突出し、その衆を大いに破った。臨潢府・春州・泰州・中京・西京の二京を攻め、いずれも功績があった。天輔六年、謀克を授けられた。

天会四年、宋を伐つに従い、しばしば功績により賞を受けた。翌年、再び挙兵して汴に至った。宗望は宋人が諸路の援兵を睢陽に集結させると聞き、撻懶と阿里刮に兵二千を率いて往きこれを防がせた。杞県においてその前鋒軍三万を破り、また三寨を破り、宋の京東路都総管胡直孺・南路都統制隋師元およびその三将、併せて直孺の二子を生け捕りにし、遂に拱州を取り、寧陵を降した。また二万を睢陽で破り、進んで亳州を取った。宋兵十万が将に到らんとするのを聞き、宗望が兵四千を増派して合流し、これを大いに破った。その兵卒二千は、陣を布いて立ち、馬を馳せて攻めても動かず、即ち軍を指揮して馬を下りてこれを撃ち、ことごとく殲滅し、その将石瑱を生け捕りにして還った。帥府はその功を嘉し、賞賜は厚かった。睿宗が熙州に駐兵し、諸将を分遣して地を攻略させた。撻懶は軍五百を率いて六盤山の十六寨に入り、その官八十余人を降し、民戸四千、馬二千疋を獲得した。

皇統年間、累次加えて銀青光禄大夫となった。天徳初め、特進を加えられ、世襲猛安を授けられた。卒去、年六十五。海陵が諸陵を大房山に遷すとき、撻懶がかつて太祖に給事したことから、石像を作らせ、睿陵の前に置かせた。

卞、本名は吾母、上京司属司の人、大定二年、護衛に収め充てられ、労を積んで彰化軍節度副使を授けられ、入って都水監丞となり、累遷して中都・西京路提刑使となり、転じて帰徳府知事・河平軍節度使となった。王汝嘉が奏上して、卞が以前都水監において河を導く功労があったとし、北京留守に任じられた。間もなく、大興府知事に改められた。時に言うところがあり、尚書左丞夾穀衡が軍中で法に背くことがあると、詔して刑部に問状させた。事が大興府に下ると、卞はすぐに追捕を命じたので、上はこれを失体とし、四十回杖打った。久しくして致仕を乞うたが、許されなかった。御史大夫に拝された。先に、左司諫赤盞高門が上言して、御史大夫が久しく欠員で、憲紀が振るわない、剛正で悪を疾む人を選んで庶務を粛清すべきであると言った。上はこれによって卞を用いた。以前、孫鐸・賈鉉がともに尚書であったが、鉉は参知政事に拝され、鐸は再任となり、賀客に対して唐の張在の詩を誦し、鬱々とした意があった。卞がこれを劾奏したので、鐸は罪に坐して降格左遷された。やがてまた以前の請願を申し述べ、遂に金吾衛上将軍をもって致仕し、薨去した。

𠅿

𠅿、本名は阿里刺、上京司属司に隷属した。大定十年、皇家の近親として、東宮護衛に収め充てられた。十人長に転じ、御院通進を授けられ、世宗に従って上京に幸した。時に皇太子が国を守って薨去したので、世宗は𠅿が親密で委ねられるべきと考え、特に滕王府長史台とともに駅伝を馳せて往き喪を護らせた。時に章宗が金源郡王であり、また中都に留まっていたので、かつて𠅿らに保護を命じ、これを諭して言うには、「郡王はこの家難に遭い、哀哭は礼をもってこれを節し、飲食は特に謹んで視るべきである」と。世宗が都に還ると、符宝郎に遷り、吏部郎中に任じられた。

章宗が即位すると、御史大夫唐括貢の祝宴に参加し、夜禁を犯した罪により、官位一階を剥奪され、罷免された。明昌元年、同知棣州防禦使事に起用されたが、上書して執政を歴々に誹謗した。帝は小臣が敢えて宰輔を譏誹したとして、杖八十、官位一階を削り、罷免して本猛安に送還させた。

翌年、隆が同知宣德州事を授けられた。召されて武衛軍副都指揮使に任じられ、四度の転任を経て知大興府事となり、左右宣徽使に転じた。承安二年、尚書右丞に拝され、出向して泰定軍節度使となり、移って知済南府事となった。死去した。

弈は本名を三寶といい、梅堅塞吾司屬司に属した。大定七年、近親として東宮護衛十人長に充てられ、転じて尚廄局使となった。章宗が即位すると、左衛副將軍に遷り、累遷して右副都點檢となり、兼ねて提點尚廄局使を務めた。諭旨して言うには、「汝は過人たる才能があるわけではないが、ただ久しく在任したことで遷授したのである。謹んでその職務に当たり、再び非違の事があって朕に聞こえることのないようにせよ。」間もなく、廄馬を痩せさせた罪により、三十回の決罰を受けた。承安二年、左副都點檢に改められ、兼職は従前の通りであった。まもなく同簽大睦親府事を授けられ、死去した。

弈は人となり貪欲で卑しく、たびたび贓罪で失脚したが、帝はその囲場を治める能力を愛でたため、進用して信任を委ねたのである。

阿喜

阿喜は宗室の子で、学問を好んだ。父の北京路筈柏山猛安を襲い、訴訟を明快に裁決したため、人々は信頼してこれを愛した。廉能を察せられ、彰國軍節度副使に除され、上京留守判官に改められた。提刑司が彰國軍の治績を奏上したため、同知速頻路節度事に遷り、帰徳軍に改められ、海州・邳州の刺史を歴任し、いずれも総押軍馬を兼ねた。

宋の統領劉文謙が兵を率いて宿遷を侵犯すると、阿喜は迎撃してこれを破った。さらに戚春・夏興國の舟兵一万余を破り、陣中で夏興國を斬った。鎮國上將軍に遷り、再び銀幣を賜り、元帥左監軍紇石列執中の前鋒となった。淮河を渡り、寶應・天長の二県を破った。軍が帰還すると、同知帰徳府事に遷り、泗州防禦使に改められた。母の喪に服したが、起復した。大安二年、華州防禦使に改められ、鎮南軍節度使に遷った。貞祐二年、知大名府事に改められ、馬軍都提控を充て、横海軍・安化軍節度使を歴任し、宣差山東路左翼都提控を充てた。まもなく知済南府事となり、沁南軍節度使に移り、河南統軍使に遷り、昌武軍節度使を兼ねて死去した。

賛して言う。金の諸宗室は、始祖から康宗に至るまで凡そ八世である。獻祖は海姑水の納葛里村に移り住み、再び安出虎水に移った。世祖が海姑兄弟と称したのは、その居住地を指したものである。完顔十二部は皆、部をもって氏としたが、宣宗は詔して宗室は皆姓氏を書かしめた。しかしまた、部人が部をもって氏とする、宗室同姓でない者もあり、遂には区別がつかなくなったのである。