金史

列傳第二: 后妃下(睿宗欽慈皇后・睿宗貞懿皇后・世宗昭德皇后・世宗元妃張氏・世宗元妃李氏・顯宗孝懿皇后・顯宗昭聖皇后・章宗欽懷皇后・章宗元妃李氏・衛紹王后徒單氏・宣宗皇后王氏・宣宗明惠皇后・哀宗徒單皇后)

列傳第二: 后妃下(睿宗欽慈皇后・睿宗貞懿皇后・世宗昭德皇后・世宗元妃張氏・世宗元妃李氏・顯宗孝懿皇后・顯宗昭聖皇后・章宗欽懷皇后・章宗元妃李氏・衛紹王后徒單氏・宣宗皇后王氏・宣宗明惠皇后・哀宗徒單皇后)

睿宗

原文睿宗

欽慈皇后

原文欽慈皇后

睿宗欽慈皇后は、蒲察ほさつ氏なり。睿宗の元配なり。后の母は、太祖の妹なり。睿宗は左副元帥たりしが、天會十三年に薨じ、潞王を追封され、后は潞遷妃に封ぜらる。皇統六年、冀國王妃の号を進めらる。天徳年間、国号を進む。正隆の例に依り、親王は一字王に止まるに、睿宗は許王に封ぜられ、后は許王妃に封ぜらる。世宗即位し、睿宗は升祔せられ、欽慈皇后と追諡せらる。后の曾祖賽補に司空・韓國公を、祖蒲刺に司徒・鄭國公を、父按補に太尉・曹國公を贈る。大定二年、景陵に祔葬せらる。

原文睿宗欽慈皇后,蒲察氏。睿宗元配。后之母,太祖之妹也。睿宗為左副元帥,天會十三年薨,追封潞王,后封路遷妃。皇統六年,進號冀國王妃。天德間,進國號。正隆例,親王止封一字王,睿宗封許王,后封許王妃。世宗即位,睿宗升祔,追諡欽慈皇后。贈后曾祖賽補司空、韓國公,祖蒲刺司徒、鄭國公,父按補太尉、曹國公。大定二年,祔葬景陵。

世宗嘗て曰はく、「今の女直じょちょくは、先輩に比ぶるに及ばず、親戚の世敘と雖も、亦其の詳を知ること能はざるなり。太后の母は、太祖の妹なりと雖も、人亦知ること能はざるなり」と。宗敘に謂ひて曰はく、「亦是れ卿が父譚王の妹なり、知るか」と。宗敘曰はく、「臣知ること能はざるなり」と。上曰はく、「父の妹すら知らず、其れ疏遠なる者を如何せん」と。十九年、后の族人勸農使莎魯窩致仕を請ふ。宰相、莎魯窩未だ嘗て外官を歴ねずとし、一外官を除き以て労佚を均さんことを請ふ。上曰はく、「莎魯窩は政事に閑ならず、民を治めしむべからず。太后の戚屬と雖も、富貴に之をすべし」と。聴かず。

原文世宗嘗曰:「今之女直,不比前輩,雖親戚世敘,亦不能知其詳。太后之母,太祖之妹,人亦不能知也。」謂宗敘曰:「亦是卿父譚王之妹,知之乎?」宗敘曰:「臣不能知也。」上曰:「父之妹且不知,其如疏遠何」。十九年,后族人勸農使莎魯窩請致仕,宰相以莎魯窩未嘗曆外,請除一外官,以均勞佚。上曰:「莎魯窩不閑政事,不可使治民。雖太后戚屬,富貴之可也。」不聽。

貞懿皇后

原文貞懿皇后

貞懿皇后は、李氏、世宗の母、遼陽の人なり。父雛訛只は、遼に仕へ、官は桂州觀察使に至る。天輔年間、東京の士族の女子に姿徳有る者を選び上京に赴かしむ。后は睿宗の邸に入る。七年、世宗生まる。天會十三年、睿宗薨じ、世宗時に年十三なり。后之を教ふるに義方有り、嘗て密かに親しき者に謂ひて曰はく、「吾が兒に奇相有り、貴ぶべからず言ふ」と。上京に居り、内治謹嚴にして、臧獲皆規矩を守り、衣服飲食器皿精潔ならざる無く、親族を敦睦し、貧乏を周給し、宗室の中甚だ之を敬ふ。后の性明敏にして、剛正決有り、容貌端整にして、言妄りに發せず。

原文貞懿皇后,李氏,世宗母,遼陽人。父雛訛只,仕遼,官至桂州觀察使。天輔間,選東京士族女子有姿德者赴上京,后入睿宗邸。七年,世宗生。天會十三年,睿宗薨,世宗時年十三。后教之有義方,嘗密謂所親曰:「吾兒有奇相,貴不可言。」居上京,內治謹嚴,臧獲皆守規矩,衣服飲食器皿無不精潔,敦睦親族,周給貧乏,宗室中甚敬之。后性明敏,剛正有決,容貌端整,言不妄發。

舊俗、婦女寡居すれば、宗族之を接續す。后乃ち祝髮して比丘尼と為り、號を通慧圓明大師とし、紫衣を賜はり、遼陽に歸り、清安禪寺を營建し、別に尼院を為りて之に居る。貞元三年、世宗は東京留守と為る。正隆六年五月、后卒す。世宗哀毀禮を過ぎ、喪を以て官を去る。未だ幾ばくもあらず、起復して留守と為る。是の歲十月、后の弟李石策を定め、世宗は東京に即帝位し、貞懿皇后と尊諡し、其の寢園を孝甯宮と曰ふ。

原文舊俗,婦女寡居,宗族接續之。后乃祝發為比丘尼,號通慧圓明大師,賜紫衣,歸遼陽,營建清安禪寺,別為尼院居之。貞元三年,世宗為東京留守。正隆六年五月,后卒。世宗哀毀過禮,以喪去官。未幾,起複為留守。是歲十月,后弟李石定策,世宗即位于東京,尊諡為貞懿皇后,其寢園曰孝甯宮。

大定二年、睿宗を景陵に改葬す。初め、后自ら浮圖を遼陽に建つ、是を垂慶寺と為す。臨終に世宗に謂ひて曰はく、「郷土の念は、人情同じき所なり、吾已に浮屠法を用ひ此に塔を置く、必ずしも合葬せずとも可なり。我死なば、此の言を忘るる毋なかれ」と。世宗深く遺命を念ひ、乃ち即ち東京清安寺に神禦殿を建て、有司に詔して舊塔を增大せしめ、奉茲殿を塔の前に起す。禮部尚めと書王競を敕して塔銘を為らしめ、其の意を敘せしむ。后の曾祖參君に司空・潞國公を、祖波に司徒・衛國公を、父雛訛只に太尉・隋國公を贈る。四年、后の妹を邢國夫人に封じ、銀千兩・錦綺二十端・絹五百匹を賜ふ。九年、神禦殿の名を報德殿と曰ふ。翰林學士張景仁に詔して『清安寺碑』を作らしむ。其の文旨に稱はず、左丞石琚に詔して共に之を修めしむ。十三年、東京垂慶寺に神禦殿を起す。寺地褊狹なり、傍近の民地を賈ひ、優に其の直を与へ、鬻ぐを願はざる者は官地を以て之に易ふることを詔す。二十四年、世宗東京に至り、清安・垂慶寺に幸す。

原文大定二年,改葬睿宗于景陵。初,后自建浮圖于遼陽,是為垂慶寺,臨終謂世宗曰:「鄉土之念,人情所同,吾已用浮屠法置塔於此,不必合葬也。我死,毋忘此言。」世宗深念遺命,乃即東京清安寺建神禦殿,詔有司增大舊塔,起奉茲殿於塔前。敕禮部尚書王競為塔銘以敘其意。贈后曾祖參君司空、潞國公,祖波司徒、衛國公,父雛訛只太尉、隋國公。四年,封后妹為邢國夫人,賜銀千兩、錦綺二十端、絹五百匹。九年,神禦殿名曰報德殿。詔翰林學士張景仁作《清安寺碑》,其文不稱旨,詔左丞石琚共修之。十三年,東京垂慶寺起神禦殿,寺地褊狹,詔賈傍近民地,優與其直,不願鬻者以官地易之。二十四年,世宗至東京,幸清安、垂慶寺。

世宗

原文世宗

昭德皇后

原文昭德皇后

世宗昭德皇后。烏林荅氏、其の先は羅伊河に居り、世々烏林荅部長と為り、部族を率ひ來歸し、上京に居り、本朝と婚姻家と為る。曾祖勝管は、康宗の時累次やど高麗に使す。父石土黑は、騎射絕倫にして、太祖に從ひ遼を伐ち、行軍猛安もうあんを領す。行伍の間に在りと雖も、人を殺すを嗜まず。功を以て世襲謀克ぼうこくを授けられ、東京留守と為る。

原文世宗昭德皇后。烏林荅氏,其先居羅伊河,世為烏林荅部長,率部族來歸,居上京,與本朝為婚姻家。曾祖勝管,康宗時累使高麗。父石土黑,騎射絕倫,從太祖伐遼,領行軍猛安。雖在行伍間,不嗜殺人。以功授世襲謀克,為東京留守。

后は聰敏孝慈にして、容儀整肅、父母の家に在りし時、宗族皆之を敬重す。既に世宗に歸りて後、舅姑に事ふるに孝謹にして、家を治むるに敘有り、甚だ婦道を得たり。睿宗宋を伐ち、白玉帶を得たり、蓋し帝王の服禦なり。睿宗沒したる後、世宗之を寶畜す。后世宗に謂ひて曰はく、「此れ王邸の宜しく有る所に非ず、當に之を天子に獻ずべし」と。世宗然りと以為ひ、之を熙宗に獻ず、是に於て悼后大いに喜ぶ。熙宗晚年頗る酗酒すれども、獨り世宗に於ては間然無し。

原文后聰敏孝慈,容儀整肅,在父母家,宗族皆敬重之。既歸世宗,事舅姑孝謹,治家有敘,甚得婦道。睿宗伐宋,得白玉帶,蓋帝王之服禦也。睿宗沒後,世宗寶畜之。后謂世宗曰:「此非王邸所宜有也,當獻之天子。」世宗以為然,獻之熙宗,於是悼后大喜。熙宗晚年頗酗酒,獨于世宗無間然。

海陵篡立し、深く宗室を忌む。烏帶、秉德を譖りて以て意は葛王に在りと為す。秉德誅死す。后世宗を勸めて多に珍異を獻じ以て其の心を說かしむ、故遼の骨睹犀佩刀・吐鶻良玉茶器の類の如きは、皆奇寶なり。海陵、世宗の恭順己を畏るるを以て、是に由りて忌刻の心頗る解く。

原文海陵篡立,深忌宗室。烏帶譖秉德以為意在葛王。秉德誅死,后勸世宗多獻珍異以說其心,如故遼骨睹犀佩刀、吐鶻良玉茶器之類,皆奇寶也。海陵以世宗恭順畏己,由是忌刻之心頗解。

后は嫉妬せず、世宗のために後宮を選び、継嗣を広くし、たとえ顕宗が后の後に生まれてもこの心は変わらなかった。后がかつて病気になったとき、世宗は医薬を見守り、数日間離れなかった。后は言った、「大王が妾を見るのはあまりに厚い、知る者は病気を見舞うと思い、知らぬ者は必ずや専房の嫉妬の嫌疑を持つでしょう」。また言った、「婦道は家を正すことを大とし、ただ徳が薄く、内治に補うことがないことを恐れるのみで、どうして嬪妾のなすところをまね、ただ己の厚遇を望むことができようか」。

原文后不妒忌,為世宗擇后房,廣繼嗣,雖顯宗生後而此心不移。后嘗有疾,世宗為視醫藥,數日不離去。后曰:「大王視妾過厚,其知者以為視疾,不知者必有專妒之嫌。」又曰:「婦道以正家為大,第恐德薄,無補內治,安能效嬪妾所為,惟欲己厚也。」

世宗が済南にいたとき、海陵が后を中都に召し出した。后は考えた、もし済南で死ねば、海陵は必ず世宗を殺すであろう、ただ詔を奉じて済南を離れて死ねば、世宗は免れることができると。世宗に言った、「私は自ら努めます、大王をお累わせしてはなりません」。王府の臣僕張僅言を召して諭して言った、「汝は王の腹心の者である。私のために東嶽に祈ってくれ、私は王に背かず、皇天后土にわが心を明らかに照らし知らせてほしい」。家人を召して言った、「私は初年に嫁いでから今日に至るまで、王が道に背くことをなさるのを見たことがない。今、宗室がしばしば疑われるのは、みな奴僕が不良で、その主を恨み、誣告するからである。汝らは皆、先の国王の時の旧人であるから、旧恩を思い、妄りに図ることはないように。この言葉に背く者は、私が死んだ後、冥界であなたがたの行いを見守ろう」。皆涙を流した。后が済南を離れた後、従者は后が必ずや海陵に会うことを肯わず、自らを処するであろうことを知り、防護を厳重にした。良郷に至り、中都から七十里のところで、従者の防備がやや緩んだとき、后は隙を得て即座に自殺した。海陵はなおも世宗が教えてそうさせたのではないかと疑った。

原文世宗在濟南,海陵召后來中都。后念若身死濟南,海陵必殺世宗,惟奉詔,去濟南而死,世宗可以免。謂世宗曰:「我當自勉,不可累大王也。」召王府臣僕張僅言諭之曰:「汝,王之腹心人也。為我禱諸東嶽,我不負王,使皇天后土明鑒我心。」召家人謂之曰:「我自初年為婦以至今日,未嘗見王有違道之事。今宗室往往被疑者,皆奴僕不良,傲恨其主,以誣陷之耳。汝等皆先國王時舊人,當念舊恩,無或妄圖也。違此言者,我死後於冥中觀汝所為。」眾皆泣下。后既離濟南,從行者知后必不肯見海陵,將自為之所,防護甚謹。行至良鄉,去中都七十裏,從行者防之稍緩,后得間即自殺。海陵猶疑世宗教之使然。

世宗は済南から西京留守に改められ、良郷を通り過ぎるとき、魯国公主に命じて后を宛平県の土魯原に葬らせた。大定二年、昭徳皇后と追冊し、別廟を立てた。三代を贈官し、曾祖父の勝管は司空・徐国公、曾祖母の完顔かんがん氏は徐国夫人、祖父の術思黒は司徒・代国公、祖母の完顔氏は代国夫人、父の石土黒は太尉・瀋国公、母の完顔氏は瀋国夫人とした。有司に命じて改葬させ、皇太子に命じて奠をさせた。后の兄の暉の子の天錫を太尉とし、石土黒の後には世襲猛安を授けた。上は天錫に言った、「朕が四五歳の時に皇后と婚約したとき、そなたの祖父の太尉は朕を膝の上に乗せて言った、『我が婿は七人いるが、この婿は最も幼く、後には必ずや我が門を大きくするであろう』と。今、葬地を卜する期があり、昔の言葉が験した」。

原文世宗自濟南改西京留守,過良鄉,使魯國公主葬后於宛平縣土魯原。大定二年,追冊為昭德皇后,立別廟。贈三代,曾祖勝管司空、徐國公,曾祖母完顏氏徐國夫人,祖術思黑司徒、代國公,祖母完顏氏,代國夫人,父石土黑太尉、瀋國公,母完顏氏瀋國夫人。敕有司改葬,命皇太子致奠。以后兄暉子天錫為太尉,石土黑後授世襲猛安。上謂天錫曰:「朕四五歲時與皇后訂婚,乃祖太尉置朕于膝上曰:'吾婿七人,此婿最幼,後來必大吾門。'今卜葬有期,疇昔之言驗矣。」

六年、利渉軍節度副使の烏林荅鈔兀が逃亡兵を捕らえて賄賂を受け、死刑に当たった。有司が奏上した、鈔兀は后の大功の親であるから、議すべきであると。詔して法の如く論ずべしと述べた。

原文六年,利涉軍節度副使烏林荅鈔兀捕逃軍受贓,當殆。有司奏,鈔兀,后大功親,當議。詔論如法。

八年七月、章宗が生まれ、世宗は大いに喜んだ。顕宗に言った、「社稷の嫡嗣を得て、朕の楽しみは極まりない。これは皇后がそなたに陰徳を遺したのである」。

原文八年七月,章宗上,世宗喜甚。謂顯宗曰:「得社稷塚嗣,朕樂何極。此皇后貽爾以陰德也。」

十年十月、太尉石土黒を改葬しようとしたとき、有司が礼儀を奏上し、唐が太尉李良器・司徒馬燧を葬った故事を引き合いに出し、百官が便服で都門外五里まで送ることを請うた。上は言った、「以前に太后の父母を改葬したとき、この故事を用いたことはない。ただ本朝の礼をもって改葬し、親戚のみが皆送るようにせよ」。詔して皇太子に臨奠させた。

原文十年十月,將改葬太尉石土黑,有司奏禮儀,援唐葬太尉李良器、司徒馬燧故事,百官便服送至都門外五裏。上曰:「前改葬太后父母,未嘗用此故事。但以本朝禮改葬之,惟親戚皆送。」詔皇太子臨奠。

十一年、皇太子の誕生日に、世宗は東宮で宴を開いた。酒が酣になったとき、豫国公主に命じて舞を踊らせた。上は涙を流して言った、「この女の母である皇后は、婦道を極めた。朕が中宮を立てないのは、皇后の徳に今比ぶるものがないからである」。

原文十一年,皇太子生日,世宗宴於東宮。酒酣,命豫國公主起舞。上流涕曰:「此女之母皇后,婦道至矣。朕所以不立中宮者,念皇后之德今無其比故也。」

十二年四月、皇后の別廟を太廟の東北隅に立てた。この年の五月、車駕は土魯原に行幸して奠をした。十九年、大房山に改めて卜葬した。十一月甲寅、皇后の梓宮が近郊に至り、百官が奉迎した。乙卯、車駕は楊村に行き致祭した。丙辰、上は車に登って送り、慟哭した。戊午、磐寧宮に奉安した。庚申、坤厚陵に葬り、諸妃を祔葬した。二十九年、興陵に祔葬した。章宗の時、有司が奏上して太祖の諡に「昭徳」の字があるため、諡を明徳皇后と改めた。

原文十二年四月,立皇后別廟于太廟東北隅。是歲五月,車駕幸士魯原致奠。十九年,改卜於大房山。十一月甲寅,皇后梓宮至近郊,百官奉迎。乙卯,車駕如楊村致祭。丙辰,上登車送,哭之慟。戊午,奉安于磐甯宮。庚申,葬於坤厚陵,諸妃祔焉。二十九年,祔葬興陵。章宗時,有司奏太祖諡有「昭德」字,改諡明德皇后。

元妃張氏

原文元妃張氏

元妃張氏、父は玄征。母の高氏は、世宗の母である貞懿皇后と葭莩の親であった。世宗が次室として娶り、趙王永中を生んだが、張氏は卒去した。大定二年、宸妃を追封した。この年の十月、恵妃を追進した。十九年、元妃を追進した。

原文元妃張氏,父玄征。母高氏,與世宗母貞懿皇后葭莩親。世宗納為次室,生趙王永中,而張氏卒。大定二年,追封宸妃。是歲十月,追進惠妃。十九年,追進元妃。

大定二十五年、皇太子が薨去した。永中は諸子の中で最も年長であったが、世宗は徒単克寧と議して章宗を太孫に立てた。世宗はかつて言った、「克寧は永中と親戚であるのに、太孫を立てることを建議したのは、真に社稷の臣である」。尚書左丞の汝弼は、玄征の子で、永中の母方の叔父である。汝弼の妻の高陀斡がしばしば邪言をもって永中を脅かし、元妃の像を描き、朝夕にこれを祀り、微福を覬望し、左道を挟んだ。明昌五年、高陀斡は誅殺され、事は汝弼と永中に連座し、汝弼は死後に事が発覚したため、官爵を追削されることはなかったが、章宗は永中を疑い、数年も疑念を解かなかった。諫官の賈守謙・路鐸が上疏して上意を寛解しようとしたが、章宗はますます悦ばなかった。平章政事の完顔守貞がその事を堅持して決しようとせず、章宗は守貞を怒り、済南府知事に左遷し、諸諫官は皆外任に斥け、永中に死を賜った。金代の外戚の禍いは、張氏のみであるという。

原文大定二十五年,皇太子薨。永中于諸子最長,而世宗與徒單克甯議立章宗為太孫。世宗嘗曰:「克寧與永中有親,而建議立太孫,真社會稷臣也。」尚書左丞汝弼者,玄征子,永中每舅。汝弼妻高陀斡屢以邪言怵永中,畫元妃像,朝夕事之,覬望徼福,及挾左道。明昌五年,高陀斡誅死,事連汝弼及永中,汝弼以死後事覺,得不追削官爵,而章宗心疑永中,累年不釋。諫官賈守謙、路鐸上疏欲寬解上意,章宗愈不悅。平章政事完顏守貞持其事不肯決,章宗怒守貞,罷知濟南府,諸諫官皆斥外,賜永中死。金代外戚之禍,惟張氏雲。

元妃李氏

原文元妃李氏

元妃李氏は、南陽郡王李石の女である。鄭王允蹈・衛紹王允済・潞王允徳を生んだ。豫王允成の母である昭儀梁氏が早くに卒去したので、上は命じて允成を妃の養子とした。大定元年、賢妃に封じた。二年、貴妃に進封した。七年、元妃に進封した。世宗が即位し、昭徳皇后を感念して、再び后を立てなかった。かつて言った、「朕が再び后を立てないのは、今後宮に皇后の賢さを持つ者がいないからである」。元妃は皇后の一等下で、諸妃の上にあった。石には定策の功があり、世宗は厚遇しながらも深く制し、尚書令の位をもって寵遇したが、左右丞相以下に責を成させ、妃は貴くとも政に預からせず、宮中には事がなかった。

原文元妃李氏,南陽郡王李石女。生鄭王允蹈、衛紹王允濟、潞王允德。豫王允成母昭儀梁氏早卒,上命允成為妃養子。大定元年,封賢妃。二年,進封貴妃。七年,進封元妃。世宗即位,感念昭德皇后,不復立后。嘗曰:「朕所以不復立后者,今後宮無皇后之賢故也。」元妃下皇后一等,在諸妃上。石有定策功,世宗厚而深制之,寵以尚書令之位,而責成左右丞相以下,妃雖貴,不得預政,宮壺無事。

大定二十一年二月、上は春水に行幸し、長春宮に駐まった。戊子、妃は病気のため薨去した。詔して允成・允蹈・允済・允徳に皆衰絰を着せて喪に服させた。己丑、皇太子および扈従の臣僚が、芳明殿で奉慰した。辛卯、留守官の平章政事唐括安礼・曹王允功らが上表して奉慰した。御史中丞の張九思が殯事を提控し、少府監の左光慶・大興少尹の王翛が鹵簿儀仗を典領した。宮籍監が別に殯所を治め、京師に還って殯した。乙未、崇智門より入り、百官が郊迎し、親戚が道路で迎奠し、興徳宮西位の別室に殯した。庚子、上は京師に至り、興徳宮に行幸して奠をした。この葬儀には、三たび尊を致した。詔して平章政事の烏古論元忠に葬事を監護させた。癸未、啓取し、上は朝を輟めた。皇太子・親王・宗戚・百官が送葬した。甲申、海王荘に葬った。丙戌、上は海王荘に行き焼飯した。二十八年九月、賢妃石抹氏・徳妃徒単氏・柔妃大氏とともに坤厚陵に陪葬した。衛紹王が即位し、光献皇后と追諡し、妃の弟の献可に特進を贈った。貞祐三年九月、皇后の号を削った。

原文大定二十一年二月,上如春水,次長春宮。戊子,妃以疾薨。詔允成、允蹈、允濟、允德皆服衰絰居喪。己丑,皇太子及扈從臣僚,奉慰於芳明殿。辛卯,留守官平章政事唐括安禮、曹王允功等上表奉慰。禦史中丞張九思提控殯事,少府監左光慶、大興少尹王翛典領鹵簿儀仗。宮籍監別治殯所,還殯京師。乙未,入自崇智門,百官郊迎,親戚迎奠道路,殯于興德宮西位別室。庚子,上至京師,幸興德宮致奠。此葬,三致尊焉。詔平章政事烏古論元忠監護葬事。癸未,啟取,上輟朝。皇太子、親王、宗戚、百官送葬。甲申,葬于海王莊。丙戌,上如海王莊燒飯。二十八年九月,與賢妃石抹氏、德妃徒單氏、柔妃大氏俱陪葬於坤厚陵。衛紹王即位,追諡光獻皇后,贈妃弟獻可特進。貞祐三年九月,削皇后號。

顕宗

原文顯宗

孝懿皇后

原文孝懿皇后

顯宗孝懿皇后は、徒單氏である。その先祖は忒裏辟刺の人であった。曾祖父の抄は、太祖に従って遼を取る功があり、命じられてその部を以て猛安と為し、世襲した。祖父の婆盧火は、戦功多く、累官して開府儀同三司に至り、司徒・斉国公を贈られた。父の貞は、遼王宗幹の女梁国公主を尚り、駙馬都尉を加えられ、太師・広平郡王を贈られた。

原文顯宗孝懿皇后,徒單氏。其先忒裏辟刺人也。曾祖抄,從太祖取遼有功,命以所部為猛安,世襲之。祖婆盧火,以戰功多,累官開府儀同三司,贈司徒、齊國公。父貞,尚遼王宗幹女梁國公主,加駙馬都尉,贈太師、廣平郡王。

后は皇統七年に遼陽に生まれた。母は神人が宝珠を授ける夢を見、光焰が部屋に満ち、目覚めて後に生まれると、紅光が庭を照らした。后の性質は荘重で寡言であり、父母は嘗て家事を総べさせたが、細大ことごとく処理し、諸男も及ばなかった。

原文后以皇統七年生於遼陽。母夢神人授以寶珠,光焰滿室,既寤而生,紅光燭於庭。后性莊重寡言,父母嘗令總家事,細大畢辦,諸男不及也。

世宗が初めて即位すると、貞は御史大夫であり、南京より馳せて参見した。世宗は喜んで之に謂いて曰く、「卿は廃主の腹心の臣なりと雖も、然れども未だ嘗て彼を助けて虐を為さず、況んや卿の家法は尚ぶべきものあり。其れ卿の女を以て朕が子の妃と為せ」と。及んで顯宗が皇太子となると、大定四年九月、礼を備えて貞の邸に親迎した。世宗は宴に臨み、歓を尽くして罷めた。是の年十一月、顯宗の生辰に、初めて皇太子妃に封ぜられた。

原文世宗初即位,貞為御史大夫,自南京馳見。世宗喜謂之曰:「卿雖廢主腹心臣,然未嘗助彼為虐,況卿家法可尚,其以卿女為朕子妃。」及顯宗為皇太子,大定四年九月,備禮親迎于貞弟。世宗臨宴,盡歡而罷。是年十一月,顯宗生辰,初封為皇太子妃。

八年七月、上は宣徽使移刺神獨斡を遣わし、名馬・宝刀・御饍を以て太子及び妃に賜い、仍なお之に諭して曰く、「妃今臨蓐す、願わくは平安に雄を得んことを。慶有りての後は、宜しく此の刀を左右に置くべし」と。既にして皇孫生まる、是れ章宗なり。時に上は金蓮川に幸し、冰井に次る。翌日、上は臨幸して撫視し、宴甚だ歓ばし。又た御服佩刀等の物を賜い、顯宗に謂いて曰く、「祖宗慶を積み、且つ皇后の陰徳至って厚くして、今日有り、社稷の洪福なり」と。又た李石・紇石烈志寧に謂いて曰く、「朕が諸子多しと雖も、皇后には太子一人のみ有り。今幸いに嫡孫を得たり、其の骨相凡ならざるを観る。又た麻達葛山に生まる、山勢衍のびて気清し、朕甚だ之を嘉す」と。因りて山名を以て章宗の小字と為す。

原文八年七月,上遣宣徽使移刺神獨斡以名馬、寶刀、禦饍賜太子及妃,仍諭之曰:「妃今臨蓐,願平安得雄。有慶之後,宜以此刀置左右。」既而皇孫生,是為章宗。時上幸金蓮川,次冰井,翌日,上臨幸撫視,宴甚歡。又賜禦服佩刀等物,謂顯宗曰:「祖宗積慶,且皇后陰德至厚,而有今日,社稷之洪福也。」又謂李石、紇石烈志寧曰:「朕諸子雖多,皇后止有太子一人而已。今幸得嫡孫,觀其骨相不凡,又生麻達葛山,山勢衍氣清,朕甚嘉之。」因以山名為章宗小字。

后は平素謙譲謹慎、常に其の家世の崇寵を畏れ、父母を見て流涕して言うには、「高明の家は、古人の忌む所、願わくは善く自ら保持せよ」と。其の後、家は果たして海陵の事に因りて敗れ、其の遠慮此の如し。世宗は嘗て諸王妃・公主に謂いて曰く、「皇太子妃は容止度に合い、服飾中を得たり、爾等当に之を法効すべし」と。章宗即位し、尊んで皇太后と為し、居ます所の仁寿宮の名を改めて隆慶宮と曰う。詔して有司に歳ごとに金千両・銀五千両・重幣五百端・絹二千疋・綿二万両・布五百疋・銭五万貫を奉らしむ。他の所用は、内庫之を奉り、其の数に拘わらず。

原文后素謙謹,每畏其家世崇寵,見父母流涕而言曰:「高明之家,古人所忌,願善自保持。」其後,家果以海陵事敗,盡其遠慮如此。世宗嘗謂諸王妃、公主曰:「皇太子妃容止合度,服飾得中,爾等當法效之。」章宗即位,尊為皇太后,更所居仁壽宮名曰隆慶宮。詔有司歲奉金千兩、銀五千兩、重幣五百端、絹二千疋、綿二萬兩、布五百疋、錢五萬貫。他所應用,內庫奉之,毋拘其數。

上は月に或いは五朝六朝すれども、后は愈々敬儉を加え、諸大長公主を見るに、礼平時の如く、九族を惇睦し、恩紀皆合す。過ちを聞くことを殊に悪み、諛佞の言入るを得ず。恕を以て物を容れ、未だ嘗て喜慍を見せず。然れども下を禦するに公平にして、至親と雖も阿徇する所無し。嘗て諸侄を誡めて曰く、「皇帝我が故を以て、乃ち恩を外家に推す、当に忠を尽くして図り報ずべし。小善を益無しと謂いて為さず、小悪を傷無しと謂いて去らざる勿れ。吾が貴を藉りて、輒すなわち非違を肆ほしいままにし、以て国家の常憲を干おかす毋れ」と。一日、妹並国夫人・嫂涇国夫人等側に侍す。因りて之に諭して曰く、「爾が家累素より重く、且つ豊厚に非ず、宜しく財用を節約すべし。吾を恃む可しと為す勿れ。吾は天下の養いを受く、豈に私積する所有らんや。況んや財用は、天下の財用なり。吾は終に多く取りて以て爾が私室を富ます能わず」と。家人玉盂を以て進むる者有り、之を退け、且つ曰く、「異物を貴びて財用を殫つくすは、我が欲する所に非ず。況んや我が賜与には度有り、今爾此を以て献ず、何を以て自ら給せん。徒らに汝が財を費やすのみ、我は実に用無し、後復た爾の如くする勿れ」と。明昌元年、礼官議して五月を以て冊宝を奉上せんとす、后許さず。上屡之が為に請う、后曰く、「今世宗の服未だ終わらず、遽にわかに錦繡を衣、珠玉を佩くは、礼に於いて何の安からん。当に服闋を俟ちて之を行うべし」と。上有司に諭して曰く、「太后の執意甚だ堅し、其れ来年を待て」と。明昌二年正月、隆慶宮に崩ず、年四十五。諡して孝懿と曰い、裕陵に祔葬す。

原文上月或五朝六朝,而后愈加敬儉,見諸大長公主,禮如平時,惇睦九族,恩紀皆合。尤惡聞人過,諛佞之言無所得入。恕以容物,未嘗見喜慍。然禦下公平,雖至親無所阿徇。嘗誡諸侄曰:「皇帝以我故,乃推恩外家,當盡忠圖報。勿謂小善為無益而弗為,小惡為無傷而弗去。毋藉吾之貴,輒肆非違,以幹國家常憲。」一日,妹並國夫人、嫂涇國夫人等侍側,因諭之曰:「爾家累素重,且非豐厚,宜節約財用,勿以吾為可恃。吾受天下之養,豈有所私積哉。況財用者,天下之財用也。吾終不能多取以富爾之私室。」家人有以玉盂進者,卻之,且曰:「貴異物而殫財用,非我所欲也。況我之賜予有度,今爾以此為獻,何以自給。徒費汝財,我實無用,後勿複爾。」明昌元年,禮官議以五月奉上冊寶,后弗許。上屢為之請,后曰:「今世宗服未終,遽衣錦繡、佩珠玉,于禮何安。當俟服闋行之。」上諭有司曰:「太后執意甚堅,其待來年。」明昌二年正月,崩于隆慶宮,年四十五。諡曰孝懿,祔葬裕陵。

后は『詩』・『書』を好み、殊に『老』・『莊』を喜び、学は純淡清懿にして、造次も心礼に在り。嬪禦に逮およぶまで和を以てし、其の子を生みて母亡き者有らば、之を己が生む所の如く視て、慈訓間無し。上時として安否を問い、事未だ当らざる有るを見れば、必ず之に厳誡を加うと云う。

原文后好《詩》、《書》,尤喜《老》、《莊》,學純淡清懿,造次心於禮。逮嬪禦以和平,其有生子而母亡者,視之如己所生,慈訓無間。上時問安,見事有未當者,必加之嚴誡雲。

昭聖皇后

原文昭聖皇后

昭聖皇后は、劉氏、遼陽の人である。天眷二年九月己亥の夜、后の家では黄衣の女子が其の母の室に入るを見るが如く、俄頃、后生まる。性質聡慧、凡そ字は過目忘れず。初めて『孝経』を読み、旬日にて巻を終う。最も仏書を喜ぶ。世宗が東京留守たりし時、球を撃つに因り、見て之を奇とし、府中にて貞懿皇后に見えしめしに、進退閑雅、恣睢の色無し。大定元年、東宮に選び入れらる、時に年二十三。

原文昭聖皇后,劉氏,遼陽人。天眷二年九月己亥夜,后家若見有黃衣女子入其母室中者,俄頃,后生。性聰慧,凡字過目不忘。初讀《孝經》,旬日終卷。最喜佛書。世宗為東京留守,因擊球,見而奇之,使見貞懿皇后于府中,進退閒雅,無恣睢之色。大定元年,選入東宮,時年二十三。

三年三月十三日、宣宗生まる。是の日、大雨震電有り、后驚悸して疾を得、尋いで卒す。承安五年、裕陵昭華を贈られる。宣宗即位し、追尊して皇太后と為し、顯宗廟に升祔し、追諡して昭聖皇后と曰う。

原文三年三月十三日,宣宗生。是日,大雨震電,后驚悸得疾,尋卒。承安五年,贈裕陵昭華。宣宗即位,追尊為皇太后,升祔顯宗廟,追諡昭聖皇后。

章宗

原文章宗

欽懷皇后

原文欽懷皇后

章宗欽懷皇后は、蒲察氏、上京路曷速河の人である。曾署祖の太神は、国初に功有り、累階して光禄大夫に至り、司空・応国公を贈られる。祖父の阿胡迭は、官特進に至り、司徒・譙国公を贈られる。父の鼎壽は熙宗の鄭国公主を尚り、駙馬都尉・中都路昏得渾山猛安・曷速木單世襲謀克を授けられ、累官して金吾衛上將軍に至り、太尉・越国公を贈られる。

原文章宗欽懷皇后,蒲察氏,上京路曷速河人也。曾署祖太神,國初有功,累階光祿大夫,贈司空、應國公。祖阿胡迭,官至特進,贈司徒、譙國公。父鼎壽尚熙宗鄭國公主,授駙馬都尉、中都路昏得渾山猛安、曷速木單世襲謀克,累官至金吾衛上將軍,贈太尉、越國公。

后の始めて生まるるや、紅光体に被おおわれ、時を移しても退かず。姨の冀国公主に就き養わる。既に長ずるや、孝謹事を為すこと生む所の如し。大定二十三年、章宗金源郡王たりし時、納采の礼を行う。世宗は近侍局使徒單懷忠を遣わし就きて賜うに金百両・銀千両・廄馬六匹・重彩三十端を以てす。命を拝する間に、慶雲日の側に見え、観る者之を異とす。是の年十一月、礼を備えて親迎す。詔して親王宰執三品已上の官及び命婦をして礼に会せしめ、金源郡王夫人に封ぜられ、后は進んで妃に封ぜられ、崩ず。

原文后之始生,有紅光被體,移時不退。就養于姨冀國公主,既長,孝謹如事所生。大定二十三年,章宗為金源郡王,行納采禮。世宗遣近侍局使徒單懷忠就賜金百兩、銀千兩、廄馬六匹、重彩三十端。拜命間,慶雲見於日側,觀者異之。是年十一月,備禮親迎。詔親王宰執三品已上官及命婦會禮,封金源郡王夫人,后進封妃,崩。

后は淑明の性を有し、風儀は粹穆にして、書を読み文を為すことを知る。帝即位し、遂に追冊を加え、仍詔して中外に告げ、神主を坤甯宮に奉安し、歳時に祭祀を致す。大安初年、道陵に祔す。

原文后性淑明,風儀粹穆,知讀書為文。帝即位,遂加追冊,仍詔告中外,奉安神主于坤甯宮,歲時致祭。大安初,祔於道陵。

元妃李氏

原文元妃李氏

元妃李氏師兒、其の家罪有り、宮籍監に沒入せらる。父湘、母王盻兒、皆微賤なり。大定末、監戸の女子を以て宮中に入る。是の時宮教張建宮中に教ふ、師兒諸の宮女と皆之に従ひて学ぶ。故事に、宮教は青紗の隔障を以て内外を蔽ひ、宮教は障外に居り、諸の宮女は障内に居り、面見することを得ず。字を識らず及び義を問ふ有れば、皆障内より紗を映して字を指し請問し、宮教は障外より口説きて之を教ふ。諸の女子の中に惟師兒のみ領解することを為し易く、建其の誰なるかを知らず、但其の音声の清亮なるを識る。章宗嘗て建に問ふ、宮教中の女子に誰か教ふ可き者あるや。建対へて曰く、「中就くに音声清亮なる者最も教ふ可し。」章宗建の言を以て之を求め得たり。宦者梁道師兒の才美を誉め、章宗を勧めて之を納れしむ。章宗文辞を好み、妃は性慧黠にして、字を作ることを能くし、文義を知り、尤も善く顔色に伺候し、旨意に迎合す、遂に大いに愛幸せらる。明昌四年、昭容に封ぜらる。明年、淑妃に進封せられ、父湘は金紫光禄大夫・上柱国・隴西郡公を追贈せらる。祖父・曾祖父皆追贈せらる。

原文元妃李氏師兒,其家有罪,沒入宮籍監。父湘,母王盻兒,皆微賤。大定末,以監戶女子入宮。是時宮教張建教宮中,師兒與諸宮女皆從之學。故事,宮教以青紗隔障蔽內外,宮教居障外,諸宮女居障內,不得面見。有不識字及問義,皆自障內映紗指字請問,宮教自障外口說教之。諸女子中惟師兒易為領解,建不知其誰,但識其音聲清亮。章宗嘗問建,宮教中女子誰可教者。建對曰:「就中聲音清亮者最可教。」章宗以建言求得之。宦者梁道譽師兒才美,勸章宗納之。章宗好文辭,妃性慧黠,能作字,知文義,尤善伺候顏色,迎合旨意,遂大愛幸。明昌四年,封為昭容。明年,進封淑妃,父湘追贈金紫光祿大夫、上柱國、隴西郡公。祖父、曾祖父皆追贈。

兄喜兒旧嘗て盗を為し、弟鉄哥と共に皆顕近に擢げられ、勢朝廷に傾き、風采四方を動かし、利を射て競ひ進むの徒争ひて其の門に趨走し、南京の李炳・中山の李著は譜系を通じ、顕美を超取す。胥持国は附依して以て宰相に至る。財に怙り位を固め、上下紛然たり、其の奸蠹を知れども、敢へて之を撃たず、仮令ひ之を撃つも、能く去ること莫し。紇石烈執中は貪愎にして法に従はず、章宗其の跋扈なるを知るも、而して屡斥し屡起し、終に天下を乱す。

原文兄喜兒舊嘗為盜,與弟鐵哥皆擢顯近,勢傾朝廷,風采動四方,射利競進之徒爭趨走其門,南京李炳、中山李著與通譜系,超取顯美。胥持國附依以致宰相。怙財固位,上下紛然,知其奸蠹,不敢擊之,雖擊之,莫能去也。紇石烈執中貪愎不法,章宗知其跋扈,而屢斥屢起,終亂天下。

欽懐皇后の没世より、中宮位虚きこと久しく、章宗の意は李氏に属す。而して国朝の故事、皆徒単・唐括・蒲察・拏懶・僕散・紇石烈・烏林荅・烏古論諸部の部長の家、世々姻婚を為し、后を娶り主を尚ぶ、而して李氏は甚だ微なり。是に至り、章宗果たして之を立てんと欲す、大臣固執して従はず、台諫以て言と為す、帝已むを得ず、元妃に進封し、而して勢位熏赫、皇后に侔し。一日、章宗宮中に宴し、優人瑇瑁頭なる者前にて戯る。或人問ふ、「上国に何の符瑞か有る。」優曰く、「汝鳳皇の見るを聞かざるや。」其の人曰く、「知る、而未だ其の詳を聞かず。」優曰く、「其の飛ぶに四有り、応ずる所も亦異なり。若し上に向かひて飛べば則ち風雨時を順ひ、下に向かひて飛べば則ち五穀豊登し、外に向かひて飛べば則ち四国来朝し、裏に向かひて飛べば則ち官を加へ禄を進む。」上笑ひて罷む。

原文自欽懷皇后沒世,中宮虛位久,章宗意屬李氏。而國朝故事,皆徒單、唐括、蒲察、拏懶僕散、紇石烈、烏林荅、烏古論諸部部長之家,世為姻婚,娶后尚主,而李氏微甚。至是,章宗果欲立之,大臣固執不從,台諫以為言,帝不得已,進封為元妃,而勢位熏赫,與皇后侔矣。一日,章宗宴宮中,優人瑇瑁頭者戲於前。或問:「上國有何符瑞?」優曰:「汝不聞鳳皇見乎。」其人曰:「知之,而未聞其詳。」優曰:「其飛有四,所應亦異。若響上飛則風雨順時,響下飛則五穀豐登,響外飛則四國來朝,向裏飛則加官進祿。」上笑而罷。

欽懐后及び妃姬嘗て子有り、或は二三歳或は数月にして輒ち夭す。承安五年、帝継嗣未だ立たざるを以て、太廟・山陵に禱礼す。少府監張汝猷転対に因り、奏す「皇嗣未だ立たず、乞ふらくは聖主親しく礼事を行ひたる後、近臣をして諸の嶽観廟に詣り祈祷せしめん。」詔して司空襄をして亳州に往き太清宮に禱らしむ、既にして之を止め、刑部員外郎完顔匡をして往かしむ。

原文欽懷后及妃姬嘗有子,或二三歲或數月輒夭。承安五年,帝以繼嗣未立,禱禮太廟、山陵。少府監張汝猷因轉對,奏「皇嗣未立,乞聖主親行禮事之後,遣近臣詣諸嶽觀廟祈禱。」詔司空襄往亳州禱太清宮,既而止之,遣刑部員外郎完顏匡往焉。

泰和二年八月丁酉、元妃皇子忒鄰を生む、群臣表を上りて賀を称す。五品以上を神龍殿に宴し、六品以下を東廡下に宴す。詔して平章政事徒単鎰に太廟に報謝せしめ、右丞完顔匡に山陵に報謝せしめ、使をして亳州に太清宮に報謝せしむ。既に弥月し、詔して名を賜ひ、葛王に封ず。葛王は、世宗初めに封ぜらる、大定後は臣下に封ぜず、是より三等の国号に葛無し。尚書省奏し、瀛王の下に葛の国号を附するを請ふ、上之に従ふ。十二月癸酉、忒鄰生れて満三月に及び、勅して僧道の度牒三千道を放ち、醮を玄真観に設け、忒鄰の為に祈福す。丁丑、慶和殿に御し、皇子を浴す。詔して百官に元旦の礼儀を用ひて酒を進め賀を称せしめ、五品以上は礼物を進む。生れて凡そ二歳にして薨ず。

原文泰和二年八月丁酉,元妃生皇子忒鄰,群臣上表稱賀。宴五品以上于神龍殿,六品以下宴於東廡下。詔平章政事徒單鎰報謝太廟,右丞完顏匡報謝山陵,使使亳州報謝太清宮。既彌月,詔賜名,封為葛王。葛王,世宗初封,大定後不以封臣下,由是三等國號無葛。尚書省奏,請于瀛王下附葛國號,上從之。十二月癸酉,忒鄰生滿三月,敕放僧道度牒三千道,設醮于玄真觀,為忒鄰祈福。丁丑,禦慶和殿,浴皇子。詔百官用元旦禮儀進酒稱賀,五品以上進禮物。生凡二歲而薨。

兄喜兒、累官して宣徽使・安国軍節度使に至る。弟鉄哥、累官して近侍局使・少府監に至る。

原文兄喜兒,累官宣徽使、安國軍節度使。弟鐵哥,累官近侍局使、少府監。

八年に至り、承禦賈氏及び範氏皆娠有り、未だ乳月に及ばず、章宗已に嗽疾を得、頗る困す。是の時衛王永済武定軍より来朝す。章宗父兄の中に最も衛王を愛し、継体をして之を立たしめんと欲す、語は『衛紹王紀』に在り。衛王朝辞す、是の日、章宗力疾を以て之と球を撃ち、衛王に謂ひて曰く、「叔王主人と作らんと欲せず、遽に去らんと欲するや。」元妃傍に在り、帝に謂ひて曰く、「此れ軽言す可からざる者なり。」十一月乙卯、章宗大漸す、衛王未だ発せず、元妃は黄門李新喜と議りて衛王を立て、内侍潘守恆をして之を召さしむ。守恆頗る書を知り、大体を識り、元妃に謂ひて曰く、「此れ大事、当に大臣と議すべし。」乃ち守恆をして平章政事完顔匡を召さしむ。匡は、顕宗の侍読、最も旧臣たり、征伐の功有り、故に独り之を召す。匡至り、遂に策を定めて衛王を立てる。丙辰、章宗崩ず、遺詔して皇叔衛王即皇帝位せしむ。詔して曰く、「朕が内人、見るに娠有る者兩位。若し其中に男有らば、当に儲貳に立つべし。若し皆男子なれば、立つ可き者を択びて之を立てよ。」

原文至八年,承禦賈氏及範氏皆有娠,未及乳月,章宗已得嗽疾,頗困。是時衛王永濟自武定軍來朝。章宗於父兄中最愛衛王,欲使繼體立之,語在《衛紹王紀》。衛王朝辭,是日,章宗力疾與之擊球,謂衛王曰:「叔王不欲作主人,遽欲去邪?」元妃在傍,謂帝曰:「此非輕言者。」十一月乙卯,章宗大漸,衛王未發,元妃與黃門李新喜議立衛王,使內侍潘守恆召之。守恆頗知書,識大體,謂元妃曰:「此大事,當與大臣議。」乃使守恆召平章政事完顏匡。匡,顯宗侍讀,最為舊臣,有征伐功,故獨召之。匡至,遂與定策立衛王。丙辰,章宗崩,遺詔皇叔衛王即皇帝位。詔曰:「朕之內人,見有娠者兩位。如其中有男,當立為儲貳。如皆是男子,擇可立者立之。」

衛紹王即位す、大安元年二月、詔して曰く、「章宗皇帝は天下の重器を眇躬に畀へ、遺旨に掖庭内人に娠有る者兩位と謂ふ、若し男を得ば則ち儲貳に立つべし。多方に申諭し、天日の如く皎たり。朕涼菲と雖も、実に付託を受け、遺意に克く副はんことを思ひ、毎に曲く之が為に心を尽くし、静舍を択びて以て居らしめ、懿親を遣はして守視せしむ。欽懐皇后の母鄭国公主及び乳母蕭国夫人は昼夜離れず。昨て安養に爽有るを聞き、已に軫憂を用ひて寧からず、爰に大臣を命じて専ら調護を為さしむ。今者平章政事僕散端・左丞孫即康奏言す、承禦賈氏は当に十一月を以て免乳すべく、今則已に三月を出づ、来事未だ度知す可からず。範氏の産期は、正月に合すべく、而して太医副使儀師顏言ふ、年前十一月より診するに範氏の胎気損有るを得、調治今に至る迄、脈息和かなりと雖も、胎形已に失ふ。及び範氏自ら神御前に於いて髪を削りて尼と為らんことを願ふ。重ねて先皇帝の重ねて大事を属せしめしを念ふ、豈に期して此れを聞かんや、深く用ひて怛然たり。今範氏既に已に損有り、而して賈氏は猶或は冀ふ可きか、先帝に告げ、願くは霊禧を降し、黙して賜ひ保全し、早く聖嗣を生ましめん。尚ほ恐らくは衆庶未だ端由を究めず、要は播敷に匿れず、使ひ咸く吾が意を明かにせしめん。」

原文衛紹王即位,大安元年二月,詔曰:「章宗皇帝以天下重器畀於眇躬,遺旨謂掖庭內人有娠者兩位,如得男則立為儲貳。申諭多方,皎如天日。朕雖涼菲,實受付託,思克副於遺意,每曲為之盡心,擇靜舍以俾居,遣懿親而守視。欽懷皇后母鄭國公主及乳母蕭國夫人晝夜不離。昨聞有爽于安養,已用軫憂而弗寧,爰命大臣專為調護。今者平章政事僕散端、左丞孫即康奏言,承禦賈氏當以十一月免乳,今則已出三月,來事未可度知。範氏產期,合在正月,而太醫副使儀師顏言,自年前十一月診得範氏胎氣有損,調治迄今,脈息雖和,胎形已失。及范氏自願於神御前削髮為尼。重念先皇帝重屬大事,豈期聞此,深用怛然。今範氏既已有損,而賈氏猶或可冀,告於先帝,願降靈禧,默賜保全,早生聖嗣。尚恐眾庶未究端由,要不匿於播敷,使咸明於吾意。」

四月、詔して曰く、「近頃元妃李氏が密かに計略をめぐらし恩に背いたと訴える者あり。泰和七年正月より、章宗が暫く違豫(病臥)された折、李氏は新喜とひそかに議し、儲嗣(皇太子)が未だ立てられぬことを以て、宮人に偽り懐妊したとさせ、他家の児を計略で取り、偽って皇嗣と充てんと欲す。遂に年前閏月十日、賈承禦が病み嘔吐し、腹中に積塊あるが如きに因り、李氏はその母王盻児及び李新喜と謀り、賈氏に偽り懐妊を称せしめ、臨月に及ばんとするを俟ち、李家より児を取り入るべしとし、月日が合わざれば別に取ることを図り、以て皇嗣と為さんとす。章宗崩御し、謀は行われるに及ばず。先帝が弥留の際に当たり、平章政事完顔匡に中外の事務を都提点せしめ、明らかに敕旨あり、『我に両宮人娠はらみあり』と、更に平章を召すことを令し、左右並びにこの語を聞く。李氏並びに新喜は乃ち敢えて敕旨に依らず、喜児・鉄哥を喚ばんと欲し、事既に克たず、ひそかに提点近侍局烏古論慶寿を呼び計らう。諸王を品藻し、議復定まらず。近侍局副使徒単張僧が人を遣わし平章を召し、既に宣華門外に到るを知り、始めて勘同を発す。平章内に入り、一に遺旨に遵い、以て大事を定む。方に先帝疾危し、数たび李氏を召すも、李氏到らず。及び衣服を索むるに、李氏召しに承けても即ち来らず、猶おその母と私議す。先皇平昔或いは幸禦(寵幸)あらんとするも、李氏嫉妬し、女巫李定奴に紙木人・鴛鴦符を作らせて以て魘魅えんみを事とし、聖嗣を絶たしむ。為すところ不軌にして、殫陳すべからず。事既に発露し、大臣を遣わし按問せしむるに、俱に已に款服す。宰臣を往かせ審にせしむるも、亦た之の如し。有司議す、法当に極刑に処すべし。其の久しく先帝に侍えるを以て、其の死を免れんと欲す。王公百僚、執奏堅確なり。今李氏に自尽を賜う。王盻児・李新喜は各々正典刑に処す。李氏の兄安国軍節度使喜児・弟少府監鉄哥は律の如くし、仍って追い除き復た監籍に系し、遠地に安置す。諸連坐は並びに律令に依り施行す。承禦賈氏も亦た自尽を賜う。」と。

原文四月,詔曰:「近者有訴元妃李氏,潛計負恩,自泰和七年正月,章宗暫嘗違豫,李氏與新喜竊議,為儲嗣未立,欲令宮人詐作有身,計取他兒詐充皇嗣。遂於年前閏月十日,因賈承禦病嘔吐,腹中若有積塊,李氏與其母王盻兒及李新喜謀,令賈氏詐稱有身,俟將臨月,于李家取兒以入,月日不偶則規別取,以為皇嗣。章宗崩,謀不及行。當先帝彌留之際,命平章政事完顏匡都提點中外事務,明有敕旨,'我有兩宮人有娠',更令召平章,左右並聞斯語。李氏並新喜乃敢不依敕旨,欲喚喜兒、鐵哥,事既不克,竊呼提點近侍局烏古論慶壽與計,因品藻諸王,議複不定。知近侍局副使徒單張僧遣人召平章,已到宣華門外,始發勘同。平章入內,一遵遺旨,以定大事。方先帝疾危,數召李氏,李氏不到。及索衣服,李氏承召亦不即來,猶與其母私議。先皇平昔或有幸禦,李氏嫉妒,令女巫李定奴作紙木人、鴛鴦符以事魘魅,致絕聖嗣。所為不軌,莫可殫陳。事既髮露,遣大臣按問,俱已款服。命宰臣往審,亦如之。有司議,法當極刑。以其久侍先帝,欲免其死。王公百僚,執奏堅確。今賜李氏自盡。王盻兒、李新喜各正典刑。李氏兄安國軍節度使喜兒、弟少府監鐵哥如律,仍追除複系監籍,於遠地安置。諸連坐並依律令施行。承禦賈氏亦賜自盡。」

蓋し章宗崩じて三日にして範氏の胎気損なわる有りと称す。章宗疾弥留するも、亦た完顔匡に中外の事務を都提点せしむる敕旨無し。或いは完顔匡が定策の功を奪わんと欲し、構えて此の如く致すと謂う。自ら後天下復た元妃と称せず、但だ李師児と呼ぶ。

原文蓋章宗崩三日而稱範氏胎氣有損。章宗疾彌留,亦無完顏匡都提點中外事務敕旨。或謂完顏匡欲奪定策功,構致如此。自後天下不復稱元妃,但呼曰李師兒。

及び胡沙虎が衛王を弑し、宣宗を立て、衛王の貶降を請う。東海郡侯に降す。其の詔に曰く、「大安の初め、天下に諭を頒ち、李氏が其の母王盻児及び李新喜と同謀し、賈氏に虚しく身有りと称せしむと謂う。各々罪法に正す。朕惟うに章宗皇帝聖徳聡明、豈に此の欺紿を容れんや。近く集議に因り、武衛軍副使兼提点近侍局完顔達・霍王傅大政徳皆賈氏の事内に冤有りと言う。此時、達は職近侍に在り、政徳は賈氏を護り、以て之を知る所以なり。朕親臨問し佐証す、其の事曖昧にして拠無し。当時に被罪貶責せられたる者は俱に令して放免し家に還るべし。」と。是れ由りて李氏の家族皆還るを得たり。

原文及胡沙虎弑衛王,立宣宗,請貶降衛王,降為東海郡侯。其詔曰:「大安之初,頒諭天下,謂李氏與其母王盻兒及李新喜同謀,令賈氏虛稱有身,各正罪法。朕惟章宗皇帝聖德聰明,豈容有此欺紿。近因集議,武衛軍副使兼提點近侍局完顏達、霍王傅大政德皆言賈氏事內有冤。此時,達職在近侍,政德護賈氏,所以知之。朕親臨問佐證,其事暖昧無據,當時被罪貶責者可俱令放免還家。」由是李氏家族皆得還。

衛紹王后徒単氏

原文衛紹王后徒單氏

衛紹王后徒単氏、大安元年、立てられ皇后と為る。至寧元年、胡沙虎乱を起こし、衛王と俱に衛邸に遷る。帝弑せられ、宣宗即位し、衛王は東海郡侯に降され、徒単氏は皇后の号を削らる。貞祐二年、都を汴に遷す。詔して凡そ衛紹王及び鄗厲王の家人は皆鄭州に徙し、仍って禁錮し、出入を不得せしむ。男女婚嫁を不得する者十九年。天興元年、詔して禁錮を釈す。是の時、河南已に守る能わず、子孫終わる所を知らず。

原文衛紹王后徒單氏,大安元年,立為皇后。至甯元年,胡沙虎亂,與衛王俱遷于衛邸。帝遇弑,宣宗即位,衛王降為東海郡侯,徒單氏削皇后號。貞祐二年,遷都汴,詔凡衛紹王及鄗厲王家人皆徙鄭州,仍禁錮,不得出入。男女不得婚嫁者十九年。天興元年,詔釋禁錮。是時,河南已不能守,子孫不知所終。

宣宗皇后王氏

原文宣宗皇后王氏

宣宗皇后王氏、中都の人、明恵皇后の妹なり。其の父微時に嘗て二つの玉梳が月と化すを夢み、已にして二后を生む。及び没し、芝が柩に生ず。初め、宣宗翼王に封ぜられ、章宗諸王に詔し民家の子を求め、以て継嗣を広めしむ。是の時、后は龐氏と偕に王邸に入り、及び后の姉に姿色有るを見て、又之を納る。貞祐元年九月、后を元妃に封じ、姉を淑妃とし、龐氏を真妃とす。淑妃は哀宗を生み、真妃は守純を生む。后は子無く、哀宗を養いて己が子と為す。貞祐二年七月、姓を温敦氏と賜い、立てられ皇后と為る。后の曾祖得寿を司空・冀国公に追封し、曾祖母劉氏を冀国夫人とし、祖璞を司徒・益国公とし、祖母楊氏を益国夫人とし、父彦昌を太尉・汴国公とし、母馬氏を汴国夫人とす。

原文宣宗皇后王氏,中都人,明惠皇后妹也。其父微時嘗夢二玉梳化為月,已而生二后,及沒,有芝生於柩。初,宣宗封翼王,章宗詔諸王求民家子,以廣繼嗣。是時,后與龐氏偕入王邸,及見后姊有姿色,又納之。貞祐元年九月,封后為元妃,姊為淑妃,龐氏為真妃。淑妃生哀宗,真妃生守純,后無子,養哀宗為己子。貞祐二年七月,賜姓溫敦氏,立為皇后。追封后曾祖得壽司空、冀國公,曾祖母劉氏冀國夫人,祖璞司徒、益國公,祖母楊氏益國夫人,父彥昌太尉、汴國公,母馬氏汴國夫人。

三年、荘献太子薨じ、哀宗皇太子と為る。宣宗崩じ、哀宗即位す。正大元年、后を尊び皇太后と為し、其の宮を仁聖と号し、進めて后の父を南陽郡王と封ず。

原文三年,莊獻太子薨,哀宗為皇太子。宣宗崩,哀宗即位。正大元年,尊后為皇太后,號其宮曰仁聖,進封后父曰南陽郡王。

或いは曰く、宣宗諸王たる時、荘献太子の母を正妃と為し、及び即位し、尊び皇后と為す。貞祐元年九月、詔して曰く、「元妃某氏久しく潜籓に奉侍し、已に国号に封を賜う。立つべく皇后と為す。」と。其の名氏蓋し考うべからざるなり。或いは又曰く、王氏の姊妹宮に入りて而后の寵衰え、尋いで尼と為り、王氏遂に立てられ后と為る。皆后の姉明恵の謀なりと。

原文或曰:宣宗為諸王時,莊獻太子母為正妃,及即位,尊為皇后。貞祐元年九月,詔曰:「元妃某氏久奉侍於潛籓,已賜封於國號,可立為皇后。」其名氏蓋不可考也。或又曰:自王氏姊妹入宮而后寵衰,尋為尼,王氏遂立為后,皆后姊明惠之謀也。

初め、王氏の姊妹封を受くるの日、大風昏霾し、黄気天地に充塞す。已にして、后は丐者数万其の後に踵くを夢み、心甚だ之を悪む。占う者曰く、「后は者、天下の母なり。百姓貧窶、将に誰にか訴えん。」と。后遂に有司に敕し、京城に粥と冰薬を設けしむ。及び壬辰・癸巳の歳、河南饑饉す。大元兵汴を囲み、大疫を加う。汴城の民、死する者百余万、后皆目睹す。

原文初,王氏姊妹受封之日,大風昏霾,黃氣充塞天地。已而,后夢丐者數萬踵其後,心甚惡之。占者曰:「后者,天下之母也。百姓貧窶,將誰訴焉?」后遂敕有司,京城設粥與冰藥。及壬辰、癸巳歲,河南饑饉。大元兵圍汴,加以大疫,汴城之民,死者百余萬,后皆目睹焉。

哀宗釈服し、将に太廟に禘饗せんとす。先だって期し、有司冕服成るを奏す。上仁聖・慈聖両宮太后に請い内殿に禦し、因り衣を試み之以て見る。両宮大いに悦ぶ。上更に便服し、觴を奉りて両宮の寿と為す。仁聖太后上に諭して曰く、「祖宗初め天下を取ること甚だ易からず。何れの時にか四方承平し、百姓安楽し、天子此の法服を服し、中都の祖廟に於いて禘饗を行わん。」と。上曰く、「阿婆此の意有らば、臣亦た何ぞ嘗て忘れん。」と。慈聖太后も亦た曰く、「恒に此の心有らば、則ち此を見る当に期有らん。」と。遂に酒を酌みて上寿と為し、歓然として罷む。

原文哀宗釋服,將禘饗太廟,先期,有司奏冕服成,上請仁聖、慈聖兩宮太后禦內殿,因試衣之以見,兩宮大悅。上更便服,奉觴為兩宮壽。仁聖太后諭上曰:「祖宗初取天下甚不易。何時使四方承平,百姓安樂,天子服此法服,于中都祖廟行禘饗乎?」上曰:「阿婆有此意,臣亦何嘗忘。」慈聖太后亦曰:「恆有此心,則見此當有期矣。」遂酌酒為上壽,歡然而罷。

天興元年冬、哀宗帰徳に遷る。二年正月、近侍徒単四喜・術甲荅失不を遣わし両宮を奉迎せしむ。后仁安殿に禦し、鋌金及び七宝金洗を出し、従行の忠孝軍に分かち賜う。是の夜、両宮及び柔妃裴満氏等馬に乗り宮を出で、行きて陳留に至る。城左右火起こり、兵有るを疑い、進むを敢えず。后亟に命じて宮に還らしむ。明日、京に入り四喜の家に憩う。少頃、輦迎えて宮に入る。方に再び行かんと謀るに、京城破れ、后及び諸妃嬪北遷し、終わる所を知らず。惟だ宝符李氏従いて宣徳州に至り、摩訶院に居る。李氏自ら院に入り、止めて仏殿中に寝し、幡旆を作る。会いて当に后妃と同く北行せんとし、将に発せんとするに、仏像の前自縊して死す。且つ自ら門の紙に書して曰く「宝符禦侍此処に身故す。」と。

原文天興元年冬,哀宗遷歸德。二年正月,遣近侍徒單四喜、術甲荅失不奉迎兩宮。后禦仁安殿,出鋌金及七寶金洗,分賜從行忠孝軍。是夜,兩宮及柔妃裴滿氏等乘馬出宮,行至陳留,城左右火起,疑有兵,不敢進。后亟命還宮。明日,入京憩四喜家。少頃,輦迎入宮。方謀再行,京城破,后及諸妃嬪北遷,不知所終。惟寶符李氏從至宣德州,居摩訶院。李氏自入院,止寢佛殿中,作為幡旆。會當同后妃北行,將發,佛像前自縊死,且自書門紙曰「寶符禦侍此處身故。」

明恵皇后

原文明惠皇后

宣宗明恵皇后、王皇后の姉なり。哀宗を生む。宣宗即位し、封ぜられ淑妃と為る。及び妹立てられ后と為り、進められ元妃と封ず。哀宗即位し、詔して尊び皇太后と為し、其の宮を慈聖と号す。

原文宣宗明惠皇后,王皇后之姊也。生哀宗。宣宗即位,封為淑妃。及妹立為后,進封元妃。哀宗即位,詔尊為皇太后,號其宮曰慈聖。

后の性質は端厳にして、古今に頗る通暁す。哀宗既に皇太子に立てらるるや、過ちあれば尚ほ切にこれを責め、即位するに及びて初めて箠楚を免る。一日、宮中にて食すに、尚器に玉碗楪三あり、一は太后に奉じ、二は帝及び中宮に奉ず。荊王の母真妃龐氏、瑪瑙の器を以て食を進む。后これを見て怒り、主者を召して責めて曰く、「誰か汝に妄りに分別を生ぜしむ。荊王の母豈に我が児婦を卑しむるや。飲食の細故に非ずせば、已に有司をして汝を杖殺せしめんとす」と。是より後、宮中にて真妃を奉ずること有加えたり。或る者荊王の不軌を謀るを告ぐ。獄に下し、議已に決す。帝后に言ふ。后曰く、「汝は唯一の兄あるのみ。奈何ぞ讒言を以て之を害せんと欲する。章宗伯と叔とを殺し、享年永からず、皇嗣又絶ゆ。何を為してか之に效はんと欲するや。趣へに赦して出だし、来りて我を見しめよ。時に移りて至らざれば、吾汝を見ざらん」と。帝起つ。后立ちて待つ。王至る。涕泣して之を慰撫す。

原文后性端嚴,頗達古今。哀宗已立為皇太子,有過尚切責之,及即位,始免郐賈楚。一日,宮中就食,尚器有玉碗楪三,一奉太后,二奉帝及中宮。荊王母真妃龐氏以瑪瑙器進食,后見之怒,召主者責曰:「誰令汝妄生分別,荊王母豈卑我兒婦耶。非飲食細故,已令有司杖殺汝矣。」是後,宮中奉真妃有加。或告荊王謀不軌者,下獄,議已決。帝言於后,后曰:「汝止一兄,奈何以讒言欲害之。章宗殺伯與叔,享年不永,皇嗣又絕,何為欲效之耶。趣赦出,使來見我。移時不至,吾不見汝矣。」帝起,后立待,王至,涕泣慰撫之。

哀宗甚だ一宮人を寵し、立后せんと欲す。后其の微賤なるを悪み、固く命じて之を出ださしむ。上已むを得ず、命じて之を放ち出宮せしめ、使者に語りて曰く、「爾東華門を出で、何人を計ひず、首に遇ふ者即ち之に賜へ」と。是に於て一販繒者に遇ひ、遂に賜ひて妻と為す。点検撒合輦、上に騎鞠を教ふ。后旨を伝へて之を戒めて云く、「汝人臣と為りては、当に主を輔けて以て正しくすべし。顧みて乃ち之に戯れを教ふるか。再び聞かば、必ず大杖を以て汝をせん」と。

原文哀宗甚寵一宮人,欲立為后。后惡其微賤,固命出之。上不得已,命放之出宮,語使者曰:「爾出東華門,不計何人,首遇者即賜之。」於是遇一販繒者,遂賜為妻。點檢撒合輦教上騎鞠,后傳旨戒之雲:「汝為人臣,當輔主以正,顧乃教之戲耶。再有聞,必大杖汝矣。」

比年小捷あり、国勢頗る振ふ。文士に賦頌を奏し以て聖徳中興を言ふ者有り。后聞きて悦ばずして曰く、「帝年少にして気鋭し、懼るる心無ければ則ち驕怠生ず。今幸ひに一勝す。何等の中興ぞ。而して若輩かくの如く之に諂ふ」と。

原文比年小捷,國勢頗振,文士有奏賦頌以聖德中興為言者。后聞不悅曰:「帝年少氣銳,無懼心則驕怠生。今幸一勝,何等中興,而若輩諂之如是。」

正大八年九月丙申、后崩ず。遺命す園陵の制度、務めて儉約に従へと。十二月己未、汴城迎朔門外五里荘献太子の墓の西に葬る。諡して明恵皇后と曰ふ。

原文正大八年九月丙申,后崩,遺命園陵制度,務從儉約。十二月己未,葬汴城迎朔門外五裏莊獻太子墓之西。諡明惠皇后。

哀宗徒単皇后

原文哀宗徒單皇后

哀宗の皇后、徒単氏。宣宗及び后疾有りしとき、后嘗て膚を刲りて以て進む。宣宗聞きて之を嘉す。興定四年、后の父鎮南軍節度使頑僧罪有り。宣宗后の純孝なるを以て、因りて曲げて之を赦し、其の致仕を聴く。正大元年、詔して立后せしむ。哀宗帰徳に遷る。后の弟四喜等を遣わし汴に詣で奉迎せしむ。夜陳留に至り、敢へて進まず、復た汴に帰る。未だ幾ばくもせず、城破れ北遷す。知る所終を終はず。

原文哀宗皇后,徒單氏。宣宗及后有疾,后嘗刲膚以進,宣宗聞而嘉之。興定四年,后父鎮南軍節度使頑僧有罪,宣宗以后純孝,因曲赦之,聽其致仕。正大元年,詔立為皇后。哀宗遷歸德,遣后弟四喜等詣汴奉迎,夜至陳留,不敢進,複歸於汴。未幾,城破北遷,不知所終。

賛に曰く、『周礼』に「九嬪、婦学の法を掌り、婦徳・婦言・婦容・婦功」と。班昭氏之を論じて曰く、「婦徳は、必ずしも才明絶異なるに非ず。婦言は、必ずしも便口利辞なるに非ず。婦容は、必ずしも顔色美麗なるに非ず。婦功は、必ずしも功巧人に過ぐるに非ず。清閑貞静、節を守り整斉、己を行ふに恥有り、動静法有り、是れを婦徳と謂ふ。辞を択びて説き、悪語を道はず、時に然る後に言ひ、人に厭はれず、是れを婦言と謂ふ。盥浣塵穢、服飾鮮潔、沐浴時を以てし、身垢辱せず、是れを婦容と謂ふ。心を紡績に専らにし、戯笑を好まず、酒食を潔斉にして、以て賓客に奉ず、是れを婦功と謂ふ」と。後世婦学修まらず、麗色を以て相高め、巧言を以て相傾け、能を銜ひて恩を市ひ、逢迎を以て寵を固む。是の故に悼平は皇統を掣頓し、以て其の身を隕さしめ、海陵は群嬖を蠱惑し、幾くんか其の国を亡ぼさんとす。道陵李氏寵を擅にし政を蠹し、卒に其の宗を憤らしむ。嗚呼、戒めざるべけんや。

原文贊曰:《周禮》「九嬪,掌婦學之法,婦德、婦言、婦容、婦功。」班昭氏論之曰:「婦德,不必才明絕異也。婦言,不必便口利辭也。婦容,不必顏色美麗也。婦功,不必功巧過人也。清閒貞靜,守節整齊,行己有恥,動靜有法,是謂婦德。擇辭而說,不道惡語,時然後言,不厭於人,是謂婦言。盥浣塵穢,服飾鮮潔,沐浴以時,身不垢辱,是謂婦容。專心紡績,不好戲笑,潔齊酒食,以奉賓客,是謂婦功。」後世婦學不修,麗色以相高,巧言以相傾,銜能以市恩,逢迎以固寵。是故悼平掣頓皇統,以隕其身,海陵蠱惑群嬖,幾亡其國。道陵李氏擅寵蠹政,卒憤其宗。嗚呼,可不戒哉。

註釋

原文註釋