睿宗
欽慈皇后
世宗嘗て曰はく、「今の女直は、先輩に比ぶるに及ばず、親戚の世敘と雖も、亦其の詳を知ること能はざるなり。太后の母は、太祖の妹なりと雖も、人亦知ること能はざるなり」と。宗敘に謂ひて曰はく、「亦是れ卿が父譚王の妹なり、知るか」と。宗敘曰はく、「臣知ること能はざるなり」と。上曰はく、「父の妹すら知らず、其れ疏遠なる者を如何せん」と。十九年、后の族人勸農使莎魯窩致仕を請ふ。宰相、莎魯窩未だ嘗て外官を歴ねずとし、一外官を除き以て労佚を均さんことを請ふ。上曰はく、「莎魯窩は政事に閑ならず、民を治めしむべからず。太后の戚屬と雖も、富貴に之をすべし」と。聴かず。
貞懿皇后
世宗
昭德皇后
世宗昭德皇后。烏林荅氏、其の先は羅伊河に居り、世々烏林荅部長と為り、部族を率ひ來歸し、上京に居り、本朝と婚姻家と為る。曾祖勝管は、康宗の時累次高麗に使す。父石土黑は、騎射絕倫にして、太祖に從ひ遼を伐ち、行軍猛安を領す。行伍の間に在りと雖も、人を殺すを嗜まず。功を以て世襲謀克を授けられ、東京留守と為る。
后は聰敏孝慈にして、容儀整肅、父母の家に在りし時、宗族皆之を敬重す。既に世宗に歸りて後、舅姑に事ふるに孝謹にして、家を治むるに敘有り、甚だ婦道を得たり。睿宗宋を伐ち、白玉帶を得たり、蓋し帝王の服禦なり。睿宗沒したる後、世宗之を寶畜す。后世宗に謂ひて曰はく、「此れ王邸の宜しく有る所に非ず、當に之を天子に獻ずべし」と。世宗然りと以為ひ、之を熙宗に獻ず、是に於て悼后大いに喜ぶ。熙宗晚年頗る酗酒すれども、獨り世宗に於ては間然無し。
海陵篡立し、深く宗室を忌む。烏帶、秉德を譖りて以て意は葛王に在りと為す。秉德誅死す。后世宗を勸めて多に珍異を獻じ以て其の心を說かしむ、故遼の骨睹犀佩刀・吐鶻良玉茶器の類の如きは、皆奇寶なり。海陵、世宗の恭順己を畏るるを以て、是に由りて忌刻の心頗る解く。
后は嫉妬せず、世宗のために後宮を選び、継嗣を広くし、たとえ顕宗が后の後に生まれてもこの心は変わらなかった。后がかつて病気になったとき、世宗は医薬を見守り、数日間離れなかった。后は言った、「大王が妾を見るのはあまりに厚い、知る者は病気を見舞うと思い、知らぬ者は必ずや専房の嫉妬の嫌疑を持つでしょう」。また言った、「婦道は家を正すことを大とし、ただ徳が薄く、内治に補うことがないことを恐れるのみで、どうして嬪妾のなすところをまね、ただ己の厚遇を望むことができようか」。
世宗が済南にいたとき、海陵が后を中都に召し出した。后は考えた、もし済南で死ねば、海陵は必ず世宗を殺すであろう、ただ詔を奉じて済南を離れて死ねば、世宗は免れることができると。世宗に言った、「私は自ら努めます、大王をお累わせしてはなりません」。王府の臣僕張僅言を召して諭して言った、「汝は王の腹心の者である。私のために東嶽に祈ってくれ、私は王に背かず、皇天后土にわが心を明らかに照らし知らせてほしい」。家人を召して言った、「私は初年に嫁いでから今日に至るまで、王が道に背くことをなさるのを見たことがない。今、宗室がしばしば疑われるのは、みな奴僕が不良で、その主を恨み、誣告するからである。汝らは皆、先の国王の時の旧人であるから、旧恩を思い、妄りに図ることはないように。この言葉に背く者は、私が死んだ後、冥界であなたがたの行いを見守ろう」。皆涙を流した。后が済南を離れた後、従者は后が必ずや海陵に会うことを肯わず、自らを処するであろうことを知り、防護を厳重にした。良郷に至り、中都から七十里のところで、従者の防備がやや緩んだとき、后は隙を得て即座に自殺した。海陵はなおも世宗が教えてそうさせたのではないかと疑った。
六年、利渉軍節度副使の烏林荅鈔兀が逃亡兵を捕らえて賄賂を受け、死刑に当たった。有司が奏上した、鈔兀は后の大功の親であるから、議すべきであると。詔して法の如く論ずべしと述べた。
八年七月、章宗が生まれ、世宗は大いに喜んだ。顕宗に言った、「社稷の嫡嗣を得て、朕の楽しみは極まりない。これは皇后がそなたに陰徳を遺したのである」。
十年十月、太尉石土黒を改葬しようとしたとき、有司が礼儀を奏上し、唐が太尉李良器・司徒馬燧を葬った故事を引き合いに出し、百官が便服で都門外五里まで送ることを請うた。上は言った、「以前に太后の父母を改葬したとき、この故事を用いたことはない。ただ本朝の礼をもって改葬し、親戚のみが皆送るようにせよ」。詔して皇太子に臨奠させた。
十一年、皇太子の誕生日に、世宗は東宮で宴を開いた。酒が酣になったとき、豫国公主に命じて舞を踊らせた。上は涙を流して言った、「この女の母である皇后は、婦道を極めた。朕が中宮を立てないのは、皇后の徳に今比ぶるものがないからである」。
元妃張氏
大定二十五年、皇太子が薨去した。永中は諸子の中で最も年長であったが、世宗は徒単克寧と議して章宗を太孫に立てた。世宗はかつて言った、「克寧は永中と親戚であるのに、太孫を立てることを建議したのは、真に社稷の臣である」。尚書左丞の汝弼は、玄征の子で、永中の母方の叔父である。汝弼の妻の高陀斡がしばしば邪言をもって永中を脅かし、元妃の像を描き、朝夕にこれを祀り、微福を覬望し、左道を挟んだ。明昌五年、高陀斡は誅殺され、事は汝弼と永中に連座し、汝弼は死後に事が発覚したため、官爵を追削されることはなかったが、章宗は永中を疑い、数年も疑念を解かなかった。諫官の賈守謙・路鐸が上疏して上意を寛解しようとしたが、章宗はますます悦ばなかった。平章政事の完顔守貞がその事を堅持して決しようとせず、章宗は守貞を怒り、済南府知事に左遷し、諸諫官は皆外任に斥け、永中に死を賜った。金代の外戚の禍いは、張氏のみであるという。
元妃李氏
顕宗
孝懿皇后
顯宗孝懿皇后は、徒單氏である。その先祖は忒裏辟刺の人であった。曾祖父の抄は、太祖に従って遼を取る功があり、命じられてその部を以て猛安と為し、世襲した。祖父の婆盧火は、戦功多く、累官して開府儀同三司に至り、司徒・斉国公を贈られた。父の貞は、遼王宗幹の女梁国公主を尚り、駙馬都尉を加えられ、太師・広平郡王を贈られた。
后は皇統七年に遼陽に生まれた。母は神人が宝珠を授ける夢を見、光焰が部屋に満ち、目覚めて後に生まれると、紅光が庭を照らした。后の性質は荘重で寡言であり、父母は嘗て家事を総べさせたが、細大ことごとく処理し、諸男も及ばなかった。
世宗が初めて即位すると、貞は御史大夫であり、南京より馳せて参見した。世宗は喜んで之に謂いて曰く、「卿は廃主の腹心の臣なりと雖も、然れども未だ嘗て彼を助けて虐を為さず、況んや卿の家法は尚ぶべきものあり。其れ卿の女を以て朕が子の妃と為せ」と。及んで顯宗が皇太子となると、大定四年九月、礼を備えて貞の邸に親迎した。世宗は宴に臨み、歓を尽くして罷めた。是の年十一月、顯宗の生辰に、初めて皇太子妃に封ぜられた。
八年七月、上は宣徽使移刺神獨斡を遣わし、名馬・宝刀・御饍を以て太子及び妃に賜い、仍之に諭して曰く、「妃今臨蓐す、願わくは平安に雄を得んことを。慶有りての後は、宜しく此の刀を左右に置くべし」と。既にして皇孫生まる、是れ章宗なり。時に上は金蓮川に幸し、冰井に次る。翌日、上は臨幸して撫視し、宴甚だ歓ばし。又た御服佩刀等の物を賜い、顯宗に謂いて曰く、「祖宗慶を積み、且つ皇后の陰徳至って厚くして、今日有り、社稷の洪福なり」と。又た李石・紇石烈志寧に謂いて曰く、「朕が諸子多しと雖も、皇后には太子一人のみ有り。今幸いに嫡孫を得たり、其の骨相凡ならざるを観る。又た麻達葛山に生まる、山勢衍て気清し、朕甚だ之を嘉す」と。因りて山名を以て章宗の小字と為す。
后は平素謙譲謹慎、常に其の家世の崇寵を畏れ、父母を見て流涕して言うには、「高明の家は、古人の忌む所、願わくは善く自ら保持せよ」と。其の後、家は果たして海陵の事に因りて敗れ、其の遠慮此の如し。世宗は嘗て諸王妃・公主に謂いて曰く、「皇太子妃は容止度に合い、服飾中を得たり、爾等当に之を法効すべし」と。章宗即位し、尊んで皇太后と為し、居ます所の仁寿宮の名を改めて隆慶宮と曰う。詔して有司に歳ごとに金千両・銀五千両・重幣五百端・絹二千疋・綿二万両・布五百疋・銭五万貫を奉らしむ。他の所用は、内庫之を奉り、其の数に拘わらず。
后は『詩』・『書』を好み、殊に『老』・『莊』を喜び、学は純淡清懿にして、造次も心礼に在り。嬪禦に逮ぶまで和を以てし、其の子を生みて母亡き者有らば、之を己が生む所の如く視て、慈訓間無し。上時として安否を問い、事未だ当らざる有るを見れば、必ず之に厳誡を加うと云う。
昭聖皇后
章宗
欽懷皇后
章宗欽懷皇后は、蒲察氏、上京路曷速河の人である。曾署祖の太神は、国初に功有り、累階して光禄大夫に至り、司空・応国公を贈られる。祖父の阿胡迭は、官特進に至り、司徒・譙国公を贈られる。父の鼎壽は熙宗の鄭国公主を尚り、駙馬都尉・中都路昏得渾山猛安・曷速木單世襲謀克を授けられ、累官して金吾衛上將軍に至り、太尉・越国公を贈られる。
后は淑明の性を有し、風儀は粹穆にして、書を読み文を為すことを知る。帝即位し、遂に追冊を加え、仍詔して中外に告げ、神主を坤甯宮に奉安し、歳時に祭祀を致す。大安初年、道陵に祔す。
元妃李氏
元妃李氏師兒、其の家罪有り、宮籍監に沒入せらる。父湘、母王盻兒、皆微賤なり。大定末、監戸の女子を以て宮中に入る。是の時宮教張建宮中に教ふ、師兒諸の宮女と皆之に従ひて学ぶ。故事に、宮教は青紗の隔障を以て内外を蔽ひ、宮教は障外に居り、諸の宮女は障内に居り、面見することを得ず。字を識らず及び義を問ふ有れば、皆障内より紗を映して字を指し請問し、宮教は障外より口説きて之を教ふ。諸の女子の中に惟師兒のみ領解することを為し易く、建其の誰なるかを知らず、但其の音声の清亮なるを識る。章宗嘗て建に問ふ、宮教中の女子に誰か教ふ可き者あるや。建対へて曰く、「中就くに音声清亮なる者最も教ふ可し。」章宗建の言を以て之を求め得たり。宦者梁道師兒の才美を誉め、章宗を勧めて之を納れしむ。章宗文辞を好み、妃は性慧黠にして、字を作ることを能くし、文義を知り、尤も善く顔色に伺候し、旨意に迎合す、遂に大いに愛幸せらる。明昌四年、昭容に封ぜらる。明年、淑妃に進封せられ、父湘は金紫光禄大夫・上柱国・隴西郡公を追贈せらる。祖父・曾祖父皆追贈せらる。
兄喜兒旧嘗て盗を為し、弟鉄哥と共に皆顕近に擢げられ、勢朝廷に傾き、風采四方を動かし、利を射て競ひ進むの徒争ひて其の門に趨走し、南京の李炳・中山の李著は譜系を通じ、顕美を超取す。胥持国は附依して以て宰相に至る。財に怙り位を固め、上下紛然たり、其の奸蠹を知れども、敢へて之を撃たず、仮令ひ之を撃つも、能く去ること莫し。紇石烈執中は貪愎にして法に従はず、章宗其の跋扈なるを知るも、而して屡斥し屡起し、終に天下を乱す。
欽懐皇后の没世より、中宮位虚きこと久しく、章宗の意は李氏に属す。而して国朝の故事、皆徒単・唐括・蒲察・拏懶・僕散・紇石烈・烏林荅・烏古論諸部の部長の家、世々姻婚を為し、后を娶り主を尚ぶ、而して李氏は甚だ微なり。是に至り、章宗果たして之を立てんと欲す、大臣固執して従はず、台諫以て言と為す、帝已むを得ず、元妃に進封し、而して勢位熏赫、皇后に侔し。一日、章宗宮中に宴し、優人瑇瑁頭なる者前にて戯る。或人問ふ、「上国に何の符瑞か有る。」優曰く、「汝鳳皇の見るを聞かざるや。」其の人曰く、「知る、而未だ其の詳を聞かず。」優曰く、「其の飛ぶに四有り、応ずる所も亦異なり。若し上に向かひて飛べば則ち風雨時を順ひ、下に向かひて飛べば則ち五穀豊登し、外に向かひて飛べば則ち四国来朝し、裏に向かひて飛べば則ち官を加へ禄を進む。」上笑ひて罷む。
欽懐后及び妃姬嘗て子有り、或は二三歳或は数月にして輒ち夭す。承安五年、帝継嗣未だ立たざるを以て、太廟・山陵に禱礼す。少府監張汝猷転対に因り、奏す「皇嗣未だ立たず、乞ふらくは聖主親しく礼事を行ひたる後、近臣をして諸の嶽観廟に詣り祈祷せしめん。」詔して司空襄をして亳州に往き太清宮に禱らしむ、既にして之を止め、刑部員外郎完顔匡をして往かしむ。
兄喜兒、累官して宣徽使・安国軍節度使に至る。弟鉄哥、累官して近侍局使・少府監に至る。
八年に至り、承禦賈氏及び範氏皆娠有り、未だ乳月に及ばず、章宗已に嗽疾を得、頗る困す。是の時衛王永済武定軍より来朝す。章宗父兄の中に最も衛王を愛し、継体をして之を立たしめんと欲す、語は『衛紹王紀』に在り。衛王朝辞す、是の日、章宗力疾を以て之と球を撃ち、衛王に謂ひて曰く、「叔王主人と作らんと欲せず、遽に去らんと欲するや。」元妃傍に在り、帝に謂ひて曰く、「此れ軽言す可からざる者なり。」十一月乙卯、章宗大漸す、衛王未だ発せず、元妃は黄門李新喜と議りて衛王を立て、内侍潘守恆をして之を召さしむ。守恆頗る書を知り、大体を識り、元妃に謂ひて曰く、「此れ大事、当に大臣と議すべし。」乃ち守恆をして平章政事完顔匡を召さしむ。匡は、顕宗の侍読、最も旧臣たり、征伐の功有り、故に独り之を召す。匡至り、遂に策を定めて衛王を立てる。丙辰、章宗崩ず、遺詔して皇叔衛王即皇帝位せしむ。詔して曰く、「朕が内人、見るに娠有る者兩位。若し其中に男有らば、当に儲貳に立つべし。若し皆男子なれば、立つ可き者を択びて之を立てよ。」
四月、詔して曰く、「近頃元妃李氏が密かに計略をめぐらし恩に背いたと訴える者あり。泰和七年正月より、章宗が暫く違豫(病臥)された折、李氏は新喜とひそかに議し、儲嗣(皇太子)が未だ立てられぬことを以て、宮人に偽り懐妊したとさせ、他家の児を計略で取り、偽って皇嗣と充てんと欲す。遂に年前閏月十日、賈承禦が病み嘔吐し、腹中に積塊あるが如きに因り、李氏はその母王盻児及び李新喜と謀り、賈氏に偽り懐妊を称せしめ、臨月に及ばんとするを俟ち、李家より児を取り入るべしとし、月日が合わざれば別に取ることを図り、以て皇嗣と為さんとす。章宗崩御し、謀は行われるに及ばず。先帝が弥留の際に当たり、平章政事完顔匡に中外の事務を都提点せしめ、明らかに敕旨あり、『我に両宮人娠みあり』と、更に平章を召すことを令し、左右並びにこの語を聞く。李氏並びに新喜は乃ち敢えて敕旨に依らず、喜児・鉄哥を喚ばんと欲し、事既に克たず、ひそかに提点近侍局烏古論慶寿を呼び計らう。諸王を品藻し、議復定まらず。近侍局副使徒単張僧が人を遣わし平章を召し、既に宣華門外に到るを知り、始めて勘同を発す。平章内に入り、一に遺旨に遵い、以て大事を定む。方に先帝疾危し、数たび李氏を召すも、李氏到らず。及び衣服を索むるに、李氏召しに承けても即ち来らず、猶おその母と私議す。先皇平昔或いは幸禦(寵幸)あらんとするも、李氏嫉妬し、女巫李定奴に紙木人・鴛鴦符を作らせて以て魘魅を事とし、聖嗣を絶たしむ。為すところ不軌にして、殫陳すべからず。事既に発露し、大臣を遣わし按問せしむるに、俱に已に款服す。宰臣を往かせ審にせしむるも、亦た之の如し。有司議す、法当に極刑に処すべし。其の久しく先帝に侍えるを以て、其の死を免れんと欲す。王公百僚、執奏堅確なり。今李氏に自尽を賜う。王盻児・李新喜は各々正典刑に処す。李氏の兄安国軍節度使喜児・弟少府監鉄哥は律の如くし、仍って追い除き復た監籍に系し、遠地に安置す。諸連坐は並びに律令に依り施行す。承禦賈氏も亦た自尽を賜う。」と。
蓋し章宗崩じて三日にして範氏の胎気損なわる有りと称す。章宗疾弥留するも、亦た完顔匡に中外の事務を都提点せしむる敕旨無し。或いは完顔匡が定策の功を奪わんと欲し、構えて此の如く致すと謂う。自ら後天下復た元妃と称せず、但だ李師児と呼ぶ。
及び胡沙虎が衛王を弑し、宣宗を立て、衛王の貶降を請う。東海郡侯に降す。其の詔に曰く、「大安の初め、天下に諭を頒ち、李氏が其の母王盻児及び李新喜と同謀し、賈氏に虚しく身有りと称せしむと謂う。各々罪法に正す。朕惟うに章宗皇帝聖徳聡明、豈に此の欺紿を容れんや。近く集議に因り、武衛軍副使兼提点近侍局完顔達・霍王傅大政徳皆賈氏の事内に冤有りと言う。此時、達は職近侍に在り、政徳は賈氏を護り、以て之を知る所以なり。朕親臨問し佐証す、其の事曖昧にして拠無し。当時に被罪貶責せられたる者は俱に令して放免し家に還るべし。」と。是れ由りて李氏の家族皆還るを得たり。
衛紹王后徒単氏
宣宗皇后王氏
初め、王氏の姊妹封を受くるの日、大風昏霾し、黄気天地に充塞す。已にして、后は丐者数万其の後に踵くを夢み、心甚だ之を悪む。占う者曰く、「后は者、天下の母なり。百姓貧窶、将に誰にか訴えん。」と。后遂に有司に敕し、京城に粥と冰薬を設けしむ。及び壬辰・癸巳の歳、河南饑饉す。大元兵汴を囲み、大疫を加う。汴城の民、死する者百余万、后皆目睹す。
哀宗釈服し、将に太廟に禘饗せんとす。先だって期し、有司冕服成るを奏す。上仁聖・慈聖両宮太后に請い内殿に禦し、因り衣を試み之以て見る。両宮大いに悦ぶ。上更に便服し、觴を奉りて両宮の寿と為す。仁聖太后上に諭して曰く、「祖宗初め天下を取ること甚だ易からず。何れの時にか四方承平し、百姓安楽し、天子此の法服を服し、中都の祖廟に於いて禘饗を行わん。」と。上曰く、「阿婆此の意有らば、臣亦た何ぞ嘗て忘れん。」と。慈聖太后も亦た曰く、「恒に此の心有らば、則ち此を見る当に期有らん。」と。遂に酒を酌みて上寿と為し、歓然として罷む。
明恵皇后
宣宗明恵皇后、王皇后の姉なり。哀宗を生む。宣宗即位し、封ぜられ淑妃と為る。及び妹立てられ后と為り、進められ元妃と封ず。哀宗即位し、詔して尊び皇太后と為し、其の宮を慈聖と号す。
后の性質は端厳にして、古今に頗る通暁す。哀宗既に皇太子に立てらるるや、過ちあれば尚ほ切にこれを責め、即位するに及びて初めて箠楚を免る。一日、宮中にて食すに、尚器に玉碗楪三あり、一は太后に奉じ、二は帝及び中宮に奉ず。荊王の母真妃龐氏、瑪瑙の器を以て食を進む。后これを見て怒り、主者を召して責めて曰く、「誰か汝に妄りに分別を生ぜしむ。荊王の母豈に我が児婦を卑しむるや。飲食の細故に非ずせば、已に有司をして汝を杖殺せしめんとす」と。是より後、宮中にて真妃を奉ずること有加えたり。或る者荊王の不軌を謀るを告ぐ。獄に下し、議已に決す。帝后に言ふ。后曰く、「汝は唯一の兄あるのみ。奈何ぞ讒言を以て之を害せんと欲する。章宗伯と叔とを殺し、享年永からず、皇嗣又絶ゆ。何を為してか之に效はんと欲するや。趣へに赦して出だし、来りて我を見しめよ。時に移りて至らざれば、吾汝を見ざらん」と。帝起つ。后立ちて待つ。王至る。涕泣して之を慰撫す。
哀宗甚だ一宮人を寵し、立后せんと欲す。后其の微賤なるを悪み、固く命じて之を出ださしむ。上已むを得ず、命じて之を放ち出宮せしめ、使者に語りて曰く、「爾東華門を出で、何人を計ひず、首に遇ふ者即ち之に賜へ」と。是に於て一販繒者に遇ひ、遂に賜ひて妻と為す。点検撒合輦、上に騎鞠を教ふ。后旨を伝へて之を戒めて云く、「汝人臣と為りては、当に主を輔けて以て正しくすべし。顧みて乃ち之に戯れを教ふるか。再び聞かば、必ず大杖を以て汝をせん」と。
比年小捷あり、国勢頗る振ふ。文士に賦頌を奏し以て聖徳中興を言ふ者有り。后聞きて悦ばずして曰く、「帝年少にして気鋭し、懼るる心無ければ則ち驕怠生ず。今幸ひに一勝す。何等の中興ぞ。而して若輩かくの如く之に諂ふ」と。
正大八年九月丙申、后崩ず。遺命す園陵の制度、務めて儉約に従へと。十二月己未、汴城迎朔門外五里荘献太子の墓の西に葬る。諡して明恵皇后と曰ふ。
哀宗徒単皇后
賛に曰く、『周礼』に「九嬪、婦学の法を掌り、婦徳・婦言・婦容・婦功」と。班昭氏之を論じて曰く、「婦徳は、必ずしも才明絶異なるに非ず。婦言は、必ずしも便口利辞なるに非ず。婦容は、必ずしも顔色美麗なるに非ず。婦功は、必ずしも功巧人に過ぐるに非ず。清閑貞静、節を守り整斉、己を行ふに恥有り、動静法有り、是れを婦徳と謂ふ。辞を択びて説き、悪語を道はず、時に然る後に言ひ、人に厭はれず、是れを婦言と謂ふ。盥浣塵穢、服飾鮮潔、沐浴時を以てし、身垢辱せず、是れを婦容と謂ふ。心を紡績に専らにし、戯笑を好まず、酒食を潔斉にして、以て賓客に奉ず、是れを婦功と謂ふ」と。後世婦学修まらず、麗色を以て相高め、巧言を以て相傾け、能を銜ひて恩を市ひ、逢迎を以て寵を固む。是の故に悼平は皇統を掣頓し、以て其の身を隕さしめ、海陵は群嬖を蠱惑し、幾くんか其の国を亡ぼさんとす。道陵李氏寵を擅にし政を蠹し、卒に其の宗を憤らしむ。嗚呼、戒めざるべけんや。
註釋