金史

列傳第一: 后妃上(始祖明懿皇后・德帝思皇后・安帝節皇后・獻祖恭靖皇后・昭祖威順皇后・景祖昭肅皇后・世祖翼簡皇后・肅宗靖宣皇后・穆宗貞惠皇后・康宗敬僖皇后・太祖聖穆皇后・太祖光懿皇后・太祖欽憲皇后・太祖宣獻皇后・太祖崇妃蕭氏・太宗欽仁皇后・熙宗悼平皇后・海陵嫡母徒單氏・海陵母大氏・海陵後徒單氏)

列傳第一: 后妃上(始祖明懿皇后・德帝思皇后・安帝節皇后・獻祖恭靖皇后・昭祖威順皇后・景祖昭肅皇后・世祖翼簡皇后・肅宗靖宣皇后・穆宗貞惠皇后・康宗敬僖皇后・太祖聖穆皇后・太祖光懿皇后・太祖欽憲皇后・太祖宣獻皇后・太祖崇妃蕭氏・太宗欽仁皇后・熙宗悼平皇后・海陵嫡母徒單氏・海陵母大氏・海陵後徒單氏)

古より天子が后を娶るには、三国より媵ともが来て、皆娣姪を伴い、凡そ十二女と為す。諸侯は一娶して九女と為す。これ嫡妾を正し、継嗣を広め、妬忌を息め、淫慝を防ぎ、禍乱を塞ぐ所以である。后が亡くなれば、媵が継室と為り、各々その序に従う。三媵がなければ、娣姪が継室と為り、これも各々その序に従う。継室たる者は、その内政を治めるも、敢えてその位号を正さず。礼に、廟に両祔無く、並び尊ばざるなり。魯の成風より始めて両祔し、宋国は三媵を以てし、斉の管氏は三帰せり、『春秋』皆これを譏る。『周礼』の内宰、その属は則ち内小臣・閽人・寺人次いで、九嬪・世婦・女御・女祝・女史・典婦功・典絲・典枲・内司服又次ぐ。『昏義』に「后六宮・三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一御妻を立つ」と称す、『春秋』・『周礼』と合わず、後世その説に因循し、後宮遂に数千に至る。

原文古者天子娶后,三國來媵,皆有娣侄,凡十二女。諸侯一娶九女。所以正嫡妾,廣繼嗣,息妒忌,防淫慝,塞禍亂也。后亡,則媵為繼室,各以其敘。無三媵,則娣侄繼室,亦各以其敘。繼室者,治其內政,不敢正其位號。禮,廟無兩祔,不並尊也。魯成風始兩祔,宋國三媵,齊管氏三歸,《春秋》皆譏之。《周禮》內宰,其屬則內小臣、閽人、寺人次之,九嬪、世婦、女御、女祝、女史、典婦功、典絲、典枲、內司服又次之。《昏義》稱「后立六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻」,不與《春秋》、《周禮》合,后世因仍其說,后宮遂至數千。

金代は、后に庶族を娶らず、甥舅の家に周の姫・斉の姜の義あり。国初の諸妃は皆位号無く、熙宗より始めて貴妃・賢妃・徳妃の号あり。海陵は淫嬖にして、後宮漸く多く、元妃・姝妃・恵妃・貴妃・賢妃・宸妃・麗妃・淑妃・徳妃・昭妃・温妃・柔妃凡そ十二位。大定の後宮は簡少にして、明昌以後大いに備わる。

原文金代,后不娶庶族,甥舅之家有周姬、齊薑之義。國初諸妃皆無位號,熙宗始有貴妃、賢妃、德妃之號。海陵淫嬖,后宮浸多,元妃、姝妃、惠妃、貴妃、賢妃、宸妃、麗妃、淑妃、德妃、昭妃、溫妃、柔妃凡十二位。大定后宮簡少,明昌以后大備。

内官の制度:諸妃は正一品に視え、三夫人に比す。昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛は正二品に視え、九嬪に比す。婕妤九人は正三品に視え、美人九人は正四品に視え、才人九人は正五品に視え、二十七世婦に比す。宝林二十七人は正六品に視え、御女二十七人は正七品に視え、采女二十七人は正八品に視え、八十一御妻に比す。又尚宮・尚儀・尚服・尚食・尚寝・尚功有り、皆内官なり。

原文內官制度:諸妃視正一品,比三夫人。昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容充媛視正二品,比九嬪。婕妤九人視正三品。美人九人視正四品,才人九人視正五品,比二十七世婦。寶林二十七人視正六品,御女二十七人視正七品,采女二十七人視正八品,比八十一御妻。又有尚宮、尚儀、尚服、尚食、尚寢、尚功,皆內官也。

太祖の嫡后聖穆は景宣を生み、光懿は宗幹を生み、定策の功有り、欽憲は保佑の功有り、故に熙宗の時より聖穆・光懿・欽憲皆祔す。宣獻は睿宗を生み、大定に祔す。故に太祖廟は四后を祔し、睿・世・顯・宣は皆両后を祔す。惟だ太宗・景宣・熙宗・章宗の室は一后を祔す。貞・慈・光献・昭聖は庶姓と雖も、皆子を以て貴し。宣宗は温敦氏を冊し、乃ち姓を賜う、古を変ずること甚だし。故に初め起りより国亡びるに至るまで、その世次を列ね、その族裏を著し、考鑒すべきなり。世道に与せざる者は、置いて録せず。

原文太祖嫡后聖穆生景宣,光懿生宗幹,有定策功,欽憲有保佑之功,故自熙宗時聖穆、光懿、欽憲皆祔。宣獻生睿宗,大定祔焉。故太祖廟祔四后,睿、世、顯、宣皆祔兩后,惟太宗、景宣、熙宗、章宗室祔一后。貞、慈、光獻、昭聖雖庶姓,皆以子貴。宣宗冊溫敦氏,乃賜姓,變古甚矣。故自初起至於國亡,列其世次,著其族裏,可考鑒焉。其無與于世道者,置不錄。

始祖明懿皇后

原文始祖明懿皇后

始祖明懿皇后は、完顔かんがん部の人なり。年六十余にして始祖に嫁す。天会十五年追諡す。

原文始祖明懿皇后,完顏部人。年六十餘嫁始祖。天會十五年追諡。

徳帝思皇后

原文德帝思皇后

徳帝思皇后は、何部の人なるかを知らず。天会十五年追諡す。

原文德帝思皇后,不知何部人。天會十五年追諡。

安帝節皇后

原文安帝節皇后

安帝節皇后は、何部の人なるかを知らず。天会十五年追諡す。

原文安帝節皇后,不知何部人。天會十五年追諡。

獻祖恭靖皇后

原文獻祖恭靖皇后

獻祖恭靖皇后は、何部の人なるかを知らず。天会十五年追諡す。

原文獻祖恭靖皇后,不知何部人。天會十五年追諡。

昭祖威順皇后

原文昭祖威順皇后

昭祖威順皇后徒単氏、諱いみなは烏古論都葛、活刺渾水敵魯郷徒単部の人なり。その父は拔炭都魯海。后は性剛毅にして、人敢えて以て室と為す者なし。獻祖、将に昭祖の為に婦を娶らんとし、曰く「此の子勇断異常なり、柔弱の女は以て配と為すべからず」と。乃ち昭祖の為に娶る。天会十五年、追諡す。

原文昭祖威順皇后徒單氏,諱烏古論都葛,活刺渾水敵魯鄉徒單部人。其父拔炭都魯海。后性剛毅,人莫敢以為室。獻祖將為昭祖娶婦,曰:「此子勇斷異常,柔弱之女不可以為配。」乃為昭祖娶焉。天會十五年追諡。

景祖昭肅皇后

原文景祖昭肅皇后

景祖昭肅皇后、唐括氏、帥水隈鴉村唐括部の人、諱は多保真。父は石批德撒骨只、巫者なり。后は識度有り、父母の家に在りて賓客を待つことを好み、父母出ずれば、則ち多く酒饌を置きて鄰里を享し、行旅に及ぶ。景祖は飲食人に過ぎ、時に人は之を「活羅」と名づく、解は『景祖紀』に在り。昭祖曰く「儉嗇の女は酒食を吝しみ惜しむ、以て配と為すべからず」と。烏古乃、后の性度かくの如しと聞き、乃ち娶る。

原文景祖昭肅皇后,唐括氏,帥水隈鴉村唐括部人,諱多保真。父石批德撒骨只,巫者也。后有識度,在父母家好待賓客,父母出,則多置酒饌享鄰里,迨於行旅。景祖飲食過人,時人名之「活羅」,解在《景祖紀》。昭祖曰:「儉嗇之女吝惜酒食,不可以配。」烏古乃聞后性度如是,乃娶焉。

遼の使同幹来たりて五國浦聶部を伐つ。景祖、后と劾孫をして拔乙門に質と為し、而して同幹とともに之を襲い取らしむ。遼主、景祖を以て節度使と為す。

原文遼使同幹來伐五國浦聶部,景祖使后與劾孫為質于拔乙門,而與同幹襲取之,遼主以景祖為節度使。

后は賓客を喜ぶと雖も、自らは酒を飲まず。景祖、客と飲むに、后専ら之を聴く。翌日、枚数す其の人の為す所を、一も其の肯綮に中らざるは無し。酔いて喧呶する者有れば、輒ち自ら歌いて以て其の忿争を釈す。軍中に笞罰せらるる者有れば、毎に酒食を以て慰諭す。景祖、部を行くに、輒ち与に偕に行き、政事獄訟皆与に決す。

原文后雖喜賓客,而自不飲酒。景祖與客飲,后專聽之。翌日,枚數其人所為,無一不中其啟肯。有醉而喧呶者,輒自歌以釋其忿爭。軍中有被笞罰者,每以酒食慰諭之。景祖行部,輒與偕行,政事獄訟皆與決焉。

景祖没した後、世祖兄弟凡そ兵を用うるに、皆后に稟して而して後に行い、勝負皆懲勸有り。農月には、親しく耕耘刈獲を課し、遠ければ則ち馬に乗り、近ければ則ち杖を策き、事に勤むる者は之を勉め、晏に出で早く休む者は之を訓勵す。

原文景祖沒後,世祖兄弟凡用兵,皆稟於后而后行,勝負皆有懲勸。農月,親課耕耘刈獲,遠則乘馬,近則策杖,勤於事者勉之,晏出早休者訓勵之。

后、邑屯村に往く。世祖、肅宗皆従う。会に桓赧、散達偕に来る。是の時既に隙有り、酒に被り、語相侵して平らかならず、遂に刃を挙げて相向う。后起ち、両つて其の手を執り、桓赧、散達に謂ひて曰く「汝等皆吾が夫の時の旧人なり、奈何ぞ一旦遽かに吾が夫の恩を忘れ、小兒子輩と忿争するや」と。因りて自ら歌を作す。桓赧、散達の怒り乃ち解く。其の後桓赧兄弟兵を起こして来たり攻む。当に是の時、肅宗先ず已に再び利を失ひ、世祖已に烏春の兵を退け、桓赧と北隘甸に戦ふ。部人失束寬逃げ帰り、甲を袒して至り、告げて曰く「軍敗れたり」と。后方に憂懣す、会に康宗来たりて捷を報ず。后乃ち喜ぶ。既にして桓赧、散達皆降る。

原文后往邑屯村,世祖、肅宗皆從。會桓赧、散達偕來,是時已有隙,被酒,語相侵不能平,遂舉刃相向。后起,兩執其手,謂桓赧、散達曰:「汝等皆吾夫時舊人,奈何一旦遽忘吾夫之恩,與小兒子輩忿爭乎。」因自作歌,桓赧、散達怒乃解。其後桓赧兄弟起兵來攻,當是時,肅宗先已再失利矣,世祖已退烏春兵,與桓赧戰於北隘甸。部人失束寬逃歸,袒甲而至,告曰:「軍敗矣。」后方憂懣,會康宗來報捷,后乃喜。既而桓赧、散達皆降。

后は妒忌せず、女工を闊略にし、能く宗族を輯睦し、当時以て丈夫の度有りと為す。天会十五年、追諡す。

原文后不妒忌,闊略女工,能輯睦宗族,當時以為有丈夫之度云。天會十五年追諡。

世祖翼簡皇后

原文世祖翼簡皇后

世祖翼簡皇后、拿懶氏。大安元年癸酉の歳卒す。天会十五年、追諡す。

原文世祖翼簡皇后,拿懶氏。大安元年癸酉歲卒。天會十五年追諡。

肅宗靖宣皇后

原文肅宗靖宣皇后

肅宗靖宣皇后、蒲察ほさつ氏。太祖将に兵を挙げんとし、入りて后に告ぐ。后曰く「汝は邦家の長なり、見る可き有れば則ち行へ。吾は老いたり、吾に憂ひを貽す無かれ、汝も亦必ず是に至らじ」と。太祖觴を奉じて寿を為し、即ち后を奉じて門を出で、酒を驩びて天に禱る。后、太祖をして正坐せしめ、諸将に号令す。是より太祖毎に出師して還れば、輒ち諸将を率いて上謁し、俘獲を献ず。天会十五年、追諡す。

原文肅宗靖宣皇后,蒲察氏。太祖將舉兵,入告於后。后曰:「汝邦家之長,見可則行。吾老矣,無貽我憂,汝亦必不至是。」太祖奉觴為壽,即奉后出門,驩酒禱天。后命太祖正坐,號令諸將。自是太祖每出師還,輒率諸將上謁,獻所俘獲。天會十五年追諡。

穆宗貞惠皇后

原文穆宗貞惠皇后

穆宗貞惠皇后、烏古論氏。天会十五年、追諡す。

原文穆宗貞惠皇后,烏古論氏。天會十五年追諡。

康宗敬僖皇后

原文康宗敬僖皇后

康宗敬僖皇后は、唐括氏である。天会十五年(1137年)に追諡された。

原文康宗敬僖皇后,唐括氏。天會十五年追諡。

太祖

原文太祖

聖穆皇后

原文聖穆皇后

太祖聖穆皇后は、唐括氏である。天会十三年(1135年)に追諡された。また、后の父の留速に太尉・栄国公を、祖父の迭胡本に司徒・英国公を、曽祖父の劾乃に司空・温国公を追贈した。

原文太祖聖穆皇后,唐括氏。天會十三年追諡。仍贈后父留速太尉、榮國公,祖迭胡本司徒、英國公,曾禱劾乃司空、溫國公。

光懿皇后

原文光懿皇后

太祖光懿皇后は、裴満氏である。天会十三年(1135年)に追諡された。

原文太祖光懿皇后,裴滿氏。天會十三年追諡。

欽憲皇后

原文欽憲皇后

太祖欽憲皇后は、紇石烈氏である。天会十三年(1135年)、太皇太后に尊称され、宮号を慶元宮とした。十四年(1136年)正月己巳朔(一日)、熙宗は慶元宮に朝見し、その後、乾元殿に出御して群臣の賀を受けた。同月丁丑(九日)、慶元宮で崩御した。二月癸卯(六日)、睿陵に合葬された。

原文太祖欽憲皇后,紇石烈氏。天會十三年,尊為太皇太后,宮號慶元。十四年正月己巳朔,熙宗朝于慶元宮,然後御乾元殿,受群臣賀。是月丁丑,崩于慶元宮。二月癸卯,祔葬睿陵。

宣献皇后

原文宣獻皇后

太祖宣献皇后は、僕散氏であり、睿宗の母である。天会十三年(1135年)、徳妃と追冊された。大定元年(1161年)に追諡された。

原文太祖宣獻皇后,僕散氏,睿宗母也。天會十三年,追冊曰德妃。大定元年追諡。

崇妃蕭氏

原文崇妃蕭氏

崇妃は、蕭氏である。熙宗の時に貴妃に封ぜられた。天徳二年(1150年)正月、元妃に封ぜられた。同月、太妃に尊封された。海陵王の母の大氏は蕭氏に仕えて甚だ謹んでいた。海陵王が簒奪して即位すると、大氏を皇太后に尊び、永寧宮に住まわせた。宴集がある度に、太妃は上座に座り、大氏は婦礼を執った。海陵王は次第に我慢できなくなり、宗義らを殺害した際、太妃に隠れた悪事があると誣い、これを殺し、併せてその子の任王隈喝も殺害した。

原文崇妃,蕭氏。熙宗時封貴妃。天德二年正月,封元妃。是月,尊封太妃。海陵母大氏事蕭氏甚謹。海陵篡立,尊大氏為皇太后,居永甯宮。每有宴集,太妃坐上坐,大氏執婦禮。海陵積不能平,及殺宗義等,誣太妃以隱惡,殺之,並殺所生子任王隈喝。

大定十九年(1179年)、詔して改葬させた。大宗正丞の宗安が葬事を監護し、使者を遣わして祭らせた。上(世宗)は太妃の旧号を復そうとし、礼官に議させた。「前代に太妃と称する者は皆、子が貴くなることによる。古より、廟に入れば『后』と称するのは夫に係り、朝廷にあって『太』と称するのは子に係る。今の蕭妃の事とは異なるので、『太』と称することは得ず、ただ妃号を追封すべきであろう。」詔してこれに従い、そこで崇妃と封じたのである。

原文大定十九年,詔改葬。大宗正丞宗安監護葬事,遣使致祭。上欲復太妃舊號,下禮官議。「前代稱太妃者皆以子貴。古者入廟稱『后』係夫,在朝稱『太』係子,與今蕭妃事不同,恐不得稱『太』,止當追封妃號。」詔從之,乃封崇妃云。

太宗欽仁皇后

原文太宗欽仁皇后

太宗欽仁皇后は、唐括氏である。熙宗が即位すると、太祖欽憲皇后と共に太皇太后に尊称され、宮号を明徳宮とした。后の父の阿魯束に太尉・宋国公を、祖父の寛匹に司徒・英国公を、曽祖父の阿魯瑣に司空・温国公を追贈した。十四年(1136年)正月己巳朔(一日)、上(熙宗)は両宮の太后に朝見し、その後、乾元殿に出御して賀を受け、以後、毎年これを常例とした。皇統元年(1141年)、上は燕京から京師に還り、明徳宮に朝謁した。翌年、上が天開殿に行幸した際、皇子が生まれたので、使者を馳せて太后に報せた。太后が大開殿に至ると、上と皇后が親しくこれを迎えた。三年(1143年)、明徳宮で崩御した。諡して欽仁皇后と曰い、恭陵に合葬された。

原文太宗欽仁皇后,唐括氏。熙宗即位,與太祖欽憲皇后俱尊為太皇太后,號明德宮。贈后父阿魯束太尉、宋國公,祖寬匹司徒、英國公,曾祖阿魯瑣司空、溫國公。十四年正月己巳朔,上朝兩宮太后,然後御乾元殿受賀,自後歲以為常。皇統元年,上自燕京還京師,朝謁于明德宮。明年,上如天開殿,皇子生,使使馳報太后。太后至大開殿,上與皇后親迎之。三年,崩于明德宮。諡曰欽仁皇后,祔葬恭陵。

熙宗悼平皇后

原文熙宗悼平皇后

熙宗悼平皇后は、裴満氏である。熙宗が即位すると、貴妃に封ぜられた。天眷元年、皇后に立てられた。父の忽達は太尉に任ぜられ、曾祖の斜也しゃやには司空、祖父の鶻沙には司徒が追贈された。皇統元年、熙宗が尊号を受けるに及び、冊立されて慈明恭孝順德皇后となった。二年、太子済安が生まれた。この年、熙宗は二十四歳で、大いに喜び、大赦を行い、天地宗廟に告げた。満月に及び、皇太子に冊立されたが、一歳に満たずに薨去した。

原文熙宗悼平皇后,裴滿氏。熙宗即位,封貴妃。天眷元年,立為皇后。父忽達拜太尉,贈曾祖斜也司空,祖鶻沙司徒。皇統元年,熙宗受尊號,冊為慈明恭孝順德皇后。二年,太子濟安生。是歲,熙宗年二十四,喜甚,乃肆赦,告天地宗廟。彌月,冊為皇太子,未一歲薨。

熙宗の在位中、宗翰・宗幹・宗弼が相次いで政権を執り、帝は朝廷に臨んでも端然として沈黙していた。初年こそ国家多事であったが、廟堂の策謀は勝利を制し、斉国は慶賀に服し、宋人は臣下を請い、吏は清く政は簡素で、百姓は業を楽しんだ。宗弼が没すると、旧臣も多く物故し、后は政事に干預し、憚るところなく、朝官は往々にして彼女によって宰相の位を得た。済安が薨じた後、数年を経ても継嗣が立てられず、后は熙宗を大いに掣肘した。熙宗は内心穏やかでなく、無聊に因り、酒を縦にし怒りを酔って、自ら刃を執って人を殺した。左丞相の亮の誕生日に、上は大興国を遣わして司馬光の画像・玉吐鶻・廄馬を賜ったが、后もまた付加して誕生日の礼物を賜った。熙宗はこれを聞いて怒り、遂に興国を杖ち、賜ったものを奪い返した。海陵は元より覬覦の念を抱いており、これによって疑懼がますます甚だしくなり、蕭牆の変はここから萌芽した。近侍の高寿星が例に随って燕南に遷屯することとなり、后に訴え入ると、后は熙宗を激怒させ、左司郎中の三合を殺し、平章政事の秉徳を杖ち、寿星は結局遷らなかった。秉徳・唐括辯の奸謀はここから起こり、海陵はこれに乗じて、逆乱の計を成すに至った。

原文熙宗在位,宗翰、宗幹、宗弼相繼秉政,帝臨朝端默。雖初年國家多事,而廟算制勝,齊國就慶,宋人請臣,吏清政簡,百姓樂業。宗弼既沒,舊臣亦多物故,后干預政事,無所忌憚,朝官往往因之以取宰相。濟安薨後,數年繼嗣不立,后頗掣制熙宗。熙宗內不能平,因無聊,縱酒酗怒,手刃殺人。左丞相亮生日,上遣大興國以司馬光畫像、玉吐鶻、廄馬賜之,后亦附賜生日禮物。熙宗聞之,怒,遂杖興國而奪回所賜。海陵本懷覬覦,因之疑畏愈甚,蕭牆之變,從此萌矣。近侍高壽星隨例遷屯燕南,入訴於后,后激怒熙宗,殺左司郎中三合,杖平章政事秉德,而壽星竟得不遷。秉德、唐括辯之奸謀起焉,海陵乘之,以成逆亂之計。

久しくして、熙宗は積もる怒りを発し、遂に后を殺し、代わって胙王常勝の妃の撒卯を納れて宮中に入れた。また徳妃烏古論氏、妃夾谷氏・張氏・裴満氏を殺した。翌日、熙宗は弑逆に遇った。海陵は既に熙宗を弑した後、人心を収めんと欲し、后が罪なくして死んだことを以て、熙宗を東昏王に降し、后を追諡して悼皇后とし、后の父忽達を王に封じた。大定年間、熙宗の帝号を復し、后に加諡して悼平皇后とし、思陵に祔葬した。

原文久之,熙宗積怒,遂殺后,而納胙王常勝妃撒卯入宮繼之。又殺德妃烏古論氏,妃夾谷氏、張氏、裴滿氏。明日,熙宗遇弑。海陵已弑熙宗,欲收人心,以后死無罪,降熙宗為東昏王,追諡后為悼皇后,封后父忽達為王。大定間,復熙宗帝號,加諡后為悼平皇后,祔葬思陵。

海陵嫡母徒単氏

原文海陵嫡母徒單氏

海陵の嫡母は、徒単氏である。宗幹の正室である。徒単には子がなく、次室の李氏が長子の鄭王充を生み、次室の大氏が三人の子を生み、長子が即ち海陵庶人である。徒単氏は賢明で、下に遇するに恩意をもってし、大氏はこれを事えるに甚だ謹んで、互いに得て甚だ歓んだ。徒単は充を養って己が子としていたが、充と海陵はともに熙宗の宰相となり、充は酒を嗜み、徒単は常にこれを責め怒り、特に海陵を愛した。海陵は自らその母大氏と徒単との間に嫡妾の分があることを以て、心に常に安んぜず。熙宗を弑するに及んで、徒単と太祖の妃蕭氏はこれを聞き、互いに顧みて愕然として曰く、「帝は道を失えりといえども、人臣にしてかくのごとくに至るべけんや」と。徒単は宮中に入って海陵に謁したが、賀しなかったので、海陵はこれを恨んだ。

原文海陵嫡母,徒單氏。宗幹之正室也。徒單無子,次室李氏生長子鄭王充,次室大氏生三子,長即海陵庶人也。徒單氏賢,遇下有恩意,大氏事之甚謹,相得歡甚。徒單雖養充為己子,充與海陵俱為熙宗宰相,充嗜酒,徒單常責怒之,尤愛海陵。海陵自以其母大氏與徒單嫡妾之分,心常不安。及弑熙宗,徒單與太祖妃蕭氏聞之,相顧愕然曰:「帝雖失道,人臣豈可至此。」徒單入宮見海陵,不曾賀,海陵銜之。

天徳二年正月、徒単と大氏はともに皇太后と尊ばれた。徒単は東宮に居し、号して永寿宮とし、大氏は西宮に居し、号して永寧宮とした。天徳二年、太后の父蒲帯と大氏の父はともに太尉を追贈され、王に封ぜられた。徒単太后の誕生日に、酒酣のとき、大氏は起立して寿を祝した。徒単はちょうど座客と語っているところで、大氏は長く跪いていた。海陵は怒って退出した。翌日、諸公主・宗婦で太后と語った者を皆召し出して杖った。大氏はこれを不可とすべしとした。海陵曰く、「今日の事、豈に尚ほ前日のごとくならんや」と。ここより嫌隙ますます深まった。

原文天德二年正月,徒單與大氏俱尊為皇太后。徒單居東宮,號永壽宮,大氏居西宮,號永甯宮。天德二年,太后父蒲帶與大氏父俱贈太尉,封王。徒單太后生日,酒酣,大氏起為壽。徒單方與坐客語,大氏跽者久之。海陵怒而出。明日,召諸公主宗婦與太后語者皆杖之。大氏以為不可。海陵曰:「今日之事,豈能尚如前日邪。」自是嫌隙愈深。

天徳四年、海陵は中都に遷ったが、徒単だけを上京に留めた。徒単は常に憂懼し、中使が至るごとに、必ず衣を更えて命を待った。大氏は中都で常に徒単太后を思念し、海陵に謂って曰く、「永寿宮は吾が母子を待つこと甚だ厚し、慎んで相忘るるなかれ」と。十二月十四日、徒単氏の誕生日に、海陵は秘書監納合椿年を使わして上京に往かせ、太后のために寿を上らせた。貞元元年、大氏は病篤く、恨むらくは一見を得ざることを。臨終に、海陵に謂って曰く、「汝は我が故を以て、永寿宮をして中都に偕に来ることを令せず。我死なば、必ず迎え致し、永寿宮を事うること我を事うるがごとくすべし」と。

原文天德四年,海陵遷中都,獨留徒單于上京。徒單常憂懼,每中使至,必易衣以俟命。大氏在中都常思念徒單太后,謂海陵曰:「永壽宮待吾母子甚厚,慎毋相忘也。」十二月十四日,徒單氏生日,海陵使秘書監納合椿年往上京為太后上壽。貞元元年,大氏病篤,恨不得一見。臨終,謂海陵曰:「汝以我之故,不令永壽宮偕來中都。我死,必迎致之,事永壽宮當如事我。」

三年、右丞相僕散師恭・大宗正丞胡抜魯が上京に往き山陵を奉遷することとなり、海陵は因って永寿宮太后に命じてともに来らしめた。続いて平章政事蕭玉を使わして広寧において祖宗の梓宮を迎え祭らしめ、海陵は玉に謂って曰く、「医巫閭山は佳致多し。祭奠の礼畢りなば、太后に奏して山水の佳処に遊覧せしむべし」と。沙流河に至ると、海陵は梓宮を迎え謁し、遂に太后に謁見した。海陵は左右に命じて約杖二束を自ら随えさせ、太后の前に跪き、謝罪して曰く、「亮不孝にして、久しく温靖を闕けたり。願わくは太后痛くこれを笞せられよ。然らずんば、且つ安んぜず」と。太后は親しくこれを扶け起こし、約杖の者を叱って去らしめた。太后曰く、「今庶民に克家の子ありて、百金の産を立てば、尚ほこれを愛して笞するに忍びず。我が子かくのごとくあるに、寧んぞ笞するに忍ばんや」と。十月、太后は中都に至り、海陵は百官を帥いて郊外に迎え、寿康宮に入居させた。この日、海陵及び後宮・宰臣以下は觴を奉じて寿を上り、歓を極めて罷んだ。

原文三年,右丞相僕散師恭、大宗正丞胡拔魯往上京奉遷山陵,海陵因命永壽宮太后與俱來。繼使平章政事蕭玉迎祭祖宗梓宮于廣寧,海陵謂玉曰:「醫巫閭山多佳致。祭奠禮畢,可奏太后于山水佳處遊覽。」及至沙流河,海陵迎謁梓宮,遂謁見太后。海陵命左右約杖二束自隨,跪于太后前,謝罪曰:「亮不孝,久闕溫靖,願太后痛笞之。不然,且不安。」太后親扶起之,叱約杖者使去。太后曰:「今庶民有克家子,立百金之產,尚且愛之不忍笞。我有子如此,寧忍笞乎。」十月,太后至中都,海陵帥百官郊迎,入居壽康宮。是日,海陵及后宮、宰臣以下奉觴上壽,極歡而罷。

海陵は宮中において太后に侍し、外には極めて恭順で、太后が坐起するときは、自らその腋を扶け、常に輿輦に徒歩して従い、太后の用いる物は時に自らこれを執った。見る者は至孝と為し、太后もまた誠然と以為った。宋を伐たんと謀るに及んで、太后はこれを諫めて止めさせようとしたが、海陵は心中ますます悦ばず、太后に謁するごとに帰れば必ず忿怒し、人はその所以を知らなかった。

原文海陵侍太后于宮中,外極恭順,太后坐起,自扶腋之,常從輿輦徒行,太后所御物或自執之。見者以為至孝,太后亦以為誠然。及謀伐宋,太后諫止之,海陵心中益不悅,每謁太后還,必忿怒,人不知其所以。

汴京に至り、太后は寧徳宮に居住した。太后は侍女の高福娘を遣わして海陵の起居を問わせたが、海陵は彼女を寵幸し、よって太后の動静を窺わせた。太后の挙動や事柄の大小を問わず、福娘の夫特末哥が福娘に教えて、その言葉を誇張して海陵に報告させた。枢密使僕散師恭が契丹の撒八を征討するにあたり、太后に辞謁したとき、太后は師恭としばらく語った。おおよそ『国家は代々上京に居住し、中都に遷り、また中都から汴に至り、今また兵を起こして江・淮を渡り宋を伐つ。中国を疲弊させている。私はかつて諫めて止めようとしたが、聞き入れられなかった。契丹の事もまたこのようである。どうしたものか』と言った。福娘はこれを海陵に告げた。海陵は、太后が充(宗峻)を子とし、充の四子は皆成人しており、師恭が兵を率いて外にいることを恐れ、太后に異心があるかもしれないと考えた。そこで点検の大懐忠、翰林待制の斡論、尚衣局使の虎特末、武庫直長の習失を召し、寧徳宮で太后を殺すよう命じ、護衛の高福、辞勒、浦速斡に兵士四十人を従わせ、かつ戒めて言った。『汝らは太后に会えば、ただ詔があると言い、太后に跪いて受けさせ、即ち撃ち殺せ。苦しませるな。太后の同乳妹の安特は、口が多く必ず妄言を吐くであろう。速やかに死なせよ』。また太后の側近数名を指名し、皆殺すよう命じた。太后がちょうど樗蒲をしていると、大懐忠らが到着し、太后に跪いて詔を受けるよう命じた。太后は愕然とし、ようやく跪こうとしたとき、虎特末が後ろからこれを撃ち、倒れては再び起き上がることを繰り返した。高福らが絞め殺した。五十三歳であった。安特および郡君の白散、阿魯瓦、叉察、乳母の南撒、侍女の阿斯、斡裏保、寧徳宮護衛の温迪罕査刺、直長の王家奴、撒八、小底の忽沙らを併せて殺した。海陵は命じて太后を宮中で焼き、その骨を水に棄てた。また充の子の檀奴、阿裏白、元奴を殺した。耶補兒は逃れて隠れ、世宗のもとに帰った。軍中から師恭を召還し、殺した。また阿斯の子孫、撒八の二子、忽沙の二子を殺した。高福娘を鄖国夫人に封じ、特末哥を沢州刺史とした。海陵は福娘に、南征から帰還したら妃とすることを約束し、銀二千両を賜った。特末哥に戒めて勅した。『酒に酔って福娘を殴るな。福娘を殴れば必ず汝を殺す』。

原文及至汴京,太后居甯德宮。太后使侍婢高福娘問海陵起居,海陵幸之,因使伺太后動靜。凡太后動止,事無大小,福娘夫特末哥教福娘增飾其言以告海陵。及樞密使僕散師恭征契丹撒八,辭謁太后,太后與師恭語久之。大概言「國家世居上京,既徙中都,又自中都至汴,今又興兵涉江、淮伐宋,疲弊中國,我嘗諫止之,不見聽。契丹事復如此,奈何」。福娘以告海陵。海陵意謂太后以充為子,充四子皆成立,恐師恭將兵在外,太后或有異圖。乃召點檢大懷忠、翰林待制斡論、尚衣局使虎特末、武庫直長習失使殺太后于甯德宮,命護衛高福、辭勒、浦速斡以兵士四十人從,且戒之曰:「汝等見太后,但言有詔,令太后跪受,即擊殺之,匆令艱苦。太后同乳妹安特,多口必妄言,當令速死。」及指名太后左右數人,皆令殺之。太后方樗浦,大懷忠等至,令太后跪受詔。太后愕然,方下跪,虎特末從後擊之,僕而復起者再。高福等縊殺之,年五十三。並殺安特及郡君白散、阿魯瓦、叉察,乳母南撒,侍女阿斯、斡裏保,甯德宮護衛溫蒂罕查刺,直長王家奴、撒八,小底忽沙等。海陵命焚太后于宮中,棄其骨于水。並殺充之子檀奴、阿裏白、元奴,耶補兒邇匿,歸於世宗。自軍中召師恭還,殺之。及殺阿斯子孫、撒八二子、忽沙二子。封高福娘為鄖國夫人,以特末哥為澤州刺史。海陵許福娘征南回以為妃,賜銀二千兩。敕戒特末哥:「無酗酒毆福娘,毆福娘必殺汝。」

大定年間、徒単氏に哀皇后と諡し、沢州から特末哥と福娘を檻送して中都で誅殺した。その後、海陵を庶人に貶した。宗幹の帝号を除き、再び遼王に封じ、徒単氏は降封されて遼王妃とした。

原文大定間,諡徒單氏曰哀皇后,自澤州械特末哥、福娘至中都誅之。其後貶海陵為庶人。宗斡去帝號,復封遼王,徒單氏降封遼王妃云。

海陵の母、大氏

原文海陵母大氏

海陵の母は大氏である。天徳二年正月、徒単氏とともに尊ばれて皇太后となった。大氏は永寧宮に居住した。曾祖父の堅嗣は司空を追贈され、祖父の臣宝は司徒を追贈され、父の昊天は太尉・国公を追贈され、兄の興国奴は開府儀同三司・衛国公を追贈された。十一月、昊天は王に進封された。

原文海陵母,大氏。天德二年正月,與徒單氏俱尊為皇太后。大氏居永甯宮。曾祖堅嗣贈司空,祖臣寶贈司徒,父昊天贈太尉、國公,兄興國奴贈開府儀同三司、衛國公。十一月,昊天進封為王。

三年正月十六日、海陵の誕生日に、武徳殿で宗室百官を宴した。大氏は大いに喜び、酒を飲み尽くして酔った。翌日、海陵は中使を使わして奏上させた。『太后はご高齢であり、普段は酒を数杯以上飲まれないが、昨日は酒を飲んで深く酔われた。子が天子であることは確かに喜ばしいことではあるが、もし聖体が不快であれば、子の心は安らかでなく、その楽しみはどこにあろうか。至福は心にあり、酒にあるのではない』。中都に遷都したとき、永寿宮だけが上京に留まったため、大氏は常にこれを言っていた。

原文三年正月十六日,海陵生日,宴宗室百官于武德殿。大氏歡甚,飲盡醉。明日,海陵使中使奏曰:「太后春秋高,常日飲酒不過數杯,昨見飲酒沉醉。兒為天子,固可樂,若聖體不和,則子心不安,其樂安在。至樂在心,不在酒也。」及遷中都,永壽宮獨留上京,大氏常以為言。

貞元元年四月、大氏が病気となり、詔を下して銭十万貫で方薬を求めた。病が篤くなると、海陵に遺言して、永寿宮(徒単太后)をよく仕えよと言った。戊寅の日、崩御した。尚書省に詔した。『朝官は五月一日になって初めて政務を執るべし。中都では四月十九日から始め、一ヶ月楽を禁ず。外路では詔書が到着した日から、官司は三日間政務を執らず、一ヶ月楽を禁じ、七昼夜鐘を鳴らすべし』。

原文貞元元年四月,大氏有疾,詔以錢十萬貫求方藥。及病篤,遺言海陵,當善事永壽宮。戊寅,崩。詔尚書省:「應隨朝官至五月一日方治事。中都自四月十九日為始,禁樂一月。外路自詔書到日後,官司三日不治事,禁樂一月,聲鐘七晝夜。」

貞元三年、大祥の祭りに、海陵は後宮を率いて菆宮で奠哭した。海陵は山陵を大房山に遷そうとしていたため、大氏はなお菆宮にあった。九月、太祖、太宗、徳宗の梓宮が中都に到着した。慈憲皇后と尊諡した。海陵は自ら冊礼を行い、徳宗と大房山に合葬し、太廟に昇祔した。大定七年、海陵太妃に降封し、皇后の諡号を削った。宗幹が帝号を降格され遼王に封ぜられると、詔して徒単氏を妃とし、大氏は順妃李氏、寧妃蕭氏、文妃徒単氏とともに追降されて遼王夫人となった。

原文貞元三年,大祥,海陵率後宮奠哭于菆宮。海陵將遷山陵於大房山,故大氏猶在菆宮也。九月,太祖、太宗、德宗梓宮至中都。尊諡曰慈憲皇后。海陵親行冊禮,與德宗合葬於大房山,升祔太廟。大定七年,降封海陵太妃,削去皇后諡號。及宗幹降帝號,封遼王,詔徒童單氏為妃,而大氏與順妃李氏、甯妃蕭氏、文妃徒單氏並追降為遼王夫人。

海陵の后、徒単氏

原文海陵后徒單氏

廃帝海陵の后は徒単氏である。太師斜也の女。初め岐国妃となり、天徳二年に恵妃に封ぜられ、九月、皇后に立てられた。三年十一月二十一日、后の誕生日に、百官が武徳殿で祝賀した。しばらくして、海陵の後宮が次第に多くなり、后の寵愛はかなり衰え、進見する機会は稀になった。沈璋の妻張氏はかつて光英の保母を務め、耶律徹は北京で海陵と交遊していたが、海陵は璋の妻および徹の妻侯氏を宮中に入れて后に仕えさせた。徹は本名を神涅といい、官銭二千六百余万を負っていたが、海陵は皆これを免除した。正隆六年、海陵は南京に行幸した。六月癸亥、左丞相張浩が百官を率いて迎謁した。海陵は法駕を整え、玉輅に乗り、后および太子光英と共に車に乗って入城した。海陵が宋を伐つとき、后は光英とともに居守した。海陵が害されると、陀満訛裏也が汴で光英を殺した。后は中都に至り、海陵の母大氏の故宮に居住した。まもなく、世宗はその無依を憐れみ、上京の父母の家に帰ることを詔し、毎年銭二千貫を賜い、奴婢には皆官廩を与えた。大定十年に卒した。

原文廢帝海陵后,徒單氏。太師斜也之女。初為岐國妃,天德二年封為惠妃,九月,立為皇后。三年十一月二十一日,后生日,百僚稱賀于武德殿。久之,海陵后宮浸多,后寵頗衰,希得進見。沈璋妻張氏嘗為光英保母,耶律徹在北京與海陵遊從,海陵使璋妻及徹妻侯氏入宮侍后。徹本名神涅,負官錢二千六百餘萬,海陵皆免之。正隆六年,海陵幸南京。六月癸亥,左丞相張浩率百官迎謁。海陵備法駕,乘玉輅,與后及太子光英共載而入。海陵伐宋,后與光英居守。海陵遇害,陀滿訛裏也殺光英於汴。后至中都,居於海陵母大氏故宮。頃之,世宗憐其無依,詔歸父母家于上京,歲賜錢二千貫,奴婢皆給官廩。大定十年卒。

海陵の諸嬖(寵愛を受けた者たち)附

原文海陵諸嬖附

海陵は人となり、巧みに偽りを飾り、初め宰相であったときは、妾媵は三、四人に過ぎなかった。大位に即くと、欲望を逞しくして飽くことなく、後宮の諸妃は十二位、また昭儀から充媛まで九位、婕妤・美人・才人が三位、殿直が最も下位で、その他は数え上げることができないほどであった。即位の初め、岐国妃徒単氏を恵妃に封じ、後に皇后とした。第二娘子の大氏を貴妃に封じ、第三娘子の蕭氏を昭容に封じ、耶律氏を修容に封じた。その後、貴妃大氏は恵妃に進封され、貞元元年に姝妃に進封され、正隆二年に元妃に進封された。昭容蕭氏は天徳二年に特に淑妃に封ぜられ、貞元二年に宸妃に進封された。修容耶律氏は天徳四年に昭媛に進み、貞元元年に昭儀に進み、三年に麗妃に進封された。即位の初めは、後宮はこの三人のみであり、尊卑の序列、等威の区別には、見るべきものがあった。しかしその奢侈の心が既に萌し、淫蕩で惑わすに至っては、再び振るわすことはできなかった。

原文海陵為人善飾詐,初為宰相,妾媵不過三數人。及踐大位,逞欲無厭,后宮諸妃十二位,又有昭儀至充媛九位,婕妤美人才人三位,殿直最下,其他不可舉數。初即位,封岐國妃徒單氏為惠妃,後為皇后。第二娘子大氏封貴妃,第三娘子蕭氏封昭容,耶律氏封修容。其後貴妃大氏進封惠妃,貞元元年,進封姝妃,正隆二年,進封元妃。昭容蕭氏,天德二年,特封淑妃,貞元二年,進封宸妃。修容耶律氏,天德四年,進昭媛,貞元元年,進昭儀,三年,進封麗妃。即位之初,後宮止此三人,尊卑之敘,等威之辨,若有可觀者。及其侈心既萌淫肆蠱惑,不可復振矣。

昭妃阿裏虎は、蒲察氏の姓で、駙馬都尉没裏野の女。初め宗盤の子阿虎迭に嫁いだ。阿虎迭が誅殺されると、再び宗室の南家に嫁いだ。南家が死んだとき、南家の父突葛速は元帥都監として南京におり、海陵もまた梁王宗弼に従って南京にいた。海陵は阿裏虎を娶ろうとしたが、突葛速が従わなかったので、遂に止めた。帝位を簒して三日目に、詔して阿裏虎を父母の家に帰らせた。二ヶ月経って、婚礼の礼をもってこれを納れた。数ヶ月後、特に賢妃に封じ、さらに昭妃に封じた。阿裏虎は酒を嗜み、海陵が責め諫めたが聞き入れず、これによって寵愛は衰えた。

原文昭妃阿裏虎,姓蒲察氏,駙馬都尉沒裏野女。初嫁宗盤子阿虎迭。阿虎迭誅,再嫁宗室南家。南家死,是時南家父突葛速為元帥都監,在南京,海陵亦從梁王宗弼在南京,欲取阿裏虎,突葛速不從,遂止。及篡位方三日,詔遣阿裏虎歸父母家。閱兩月,以婚禮納之。數月,特封賢妃,再封昭妃。阿裏虎嗜酒,海陵責讓之,不聽,由是寵衰。

昭妃は初め阿虎迭に嫁ぎ、女の重節を生んだ。海陵は重節と淫乱の関係を持ち、阿裏虎は重節を怒り、その頬を打ち、甚だしく誹謗する言葉を吐いた。海陵はこれを聞き、ますます快く思わなかった。阿裏虎が衣服を前夫の子に贈ったとき、海陵は彼女を殺そうとしたが、徒単后が諸妃嬪を率いて哀願したので、ようやく免れることができた。

原文昭妃初嫁阿虎迭,生女重節。海陵與重節亂,阿裏虎怒重節,批其頰,頗有詆訾之言。海陵聞之,愈不悅。阿裏虎以衣服遺前夫之子,海陵將殺之,徒單后率諸妃嬪求哀,乃得免。

凡そ諸妃の位は皆侍女に男子の衣冠を服させ、『仮廝児』と号す。勝哥という者あり、阿裏虎はこれと同臥起し、夫婦の如し。厨婢の三娘これを告げしむ。海陵は過ちと為さず、唯だ阿裏虎に三娘を笞箠せざるを戒む。阿裏虎これを榜殺す。海陵、昭妃の閤に死者あるを聞き、意度して是三娘ならんとし、曰く「もし果して然らば、吾必ず阿裏虎を殺さん」と。問うに、果たして然り。是の月、光英生月なり。海陵の私忌、戮を行わず。阿裏虎、海陵の将に己を殺さんとするを聞き、即ち食わず、日々香を焚きて禱祝し、死を脱せんことを冀う。月を踰えて、阿裏虎已に委頓して為す所を知らず。海陵、人をして縊殺せしめ、併せて侍婢の三娘を撃ちし者を殺す。

原文凡諸妃位皆以侍女服男子衣冠,號「假廝兒」。有勝哥者,阿裏虎與之同臥起,如夫婦。廚婢三娘以告海陵,海陵不以為過,惟戒阿裏虎勿笞箠三娘。阿裏虎榜殺之。海陵聞昭妃閤有死者,意度是三娘,曰:「若果爾,吾必殺阿裏虎。」問之,果然。是月,光英生月,海陵私忌,不行戮。阿裏虎聞海陵將殺之也,即不食,日焚香禱祝,冀脫死。逾月,阿裏虎已委頓不知所為,海陵使人縊殺之,並殺侍婢擊三娘者。

貴妃定哥、姓は唐括氏。容色有り。崇義節度使烏帯の妻。海陵旧に嘗て私せしこと有り。侍婢貴哥これを知る。烏帯鎮に在り、元会・生辰に遇う毎に、家奴葛魯・葛温をして闕に詣りて寿を上せしむ。定哥も亦た貴哥をして海陵及び両宮太后の起居を候問せしむ。海陵、貴哥に因りて定哥に伝語して曰く「古より天子も亦た両后ある者あり。能く汝が夫を殺して我に従わんか」と。貴哥帰り、具に海陵の言を以て定哥に告ぐ。定哥曰く「少時醜悪、事已に恥づべし。今児女已に成立す。豈に此れを為すべけんや」と。海陵これを聞き、謂いて定哥に曰く「汝、汝が夫を殺すに忍びずば、我将に汝が家を族滅せん」と。定哥大いに恐れ、乃ち子烏荅補を以て辞と為し、曰く「彼常に其の父に侍し、便を得ず」と。海陵即ち烏荅補を召して符宝祗候と為す。定哥曰く「事止むべからざるなり」と。烏帯の酒に酔えるに因り、葛温・葛魯をして烏帯を縊殺せしむ。天徳四年七月なり。海陵、烏帯の死を聞き、詐りて哀傷と為す。已に烏帯を葬り、即ち定哥を納れて宮中に娘子と為す。貞元元年、貴妃に封ぜられ、大いに愛幸せられ、后と為さんことを許さる。毎に同輦して瑶池に游び、諸妃歩従す。海陵嬖寵愈多し、定哥見ることを得ること稀なり。一日独り楼上に居るに、海陵他の妃と同輦して楼下を過ぐ。定哥望み見て、号呼して去らんことを求め、海陵を詛罵す。海陵陽に聞かざるを為して去る。

原文貴妃定哥,姓唐括氏。有容色。崇義節度使烏帶之妻。海陵舊嘗有私,侍婢貴哥與知之幔烏帶在鎮,每遇元會生辰,使家奴葛魯、葛溫詣闕上壽,定哥亦使貴哥候問海陵及兩宮太后起居。海陵因貴哥傳語定哥曰:「自古天子亦有兩后者,能殺汝夫以從我乎?」貴哥歸,具以海陵言告定哥。定哥曰:「少時醜惡,事已可恥。今兒女已成立,豈可為此。」海陵聞之,使謂定哥:「汝不忍殺汝夫,我將族滅汝家。」定哥大恐,乃以子烏荅補為辭,曰:「彼常侍其父,不得便。」海陵即召烏荅補為符寶祗候。定哥曰:「事不可止矣。」因烏帶醉酒,令葛溫、葛魯縊殺烏帶,天德四年七月也。海陵聞烏帶死,詐為哀傷。已葬烏帶,即納定哥宮中為娘子。貞元元年,封為貴妃,大愛幸,許以為后。每同輦游瑤池,諸妃步從之。海陵嬖寵愈多,定哥希得見。一日獨居樓上,海陵與他妃同輦從樓下過,定哥望見,號呼求去,詛罵海陵,海陵陽為不聞而去。

定哥、其の夫の時より、家奴閻乞児と通じ、嘗て衣服を以て乞児に遺す。貴妃と為るに及び、乞児は妃家の旧人を以て、本位に給事す。定哥既に海陵の己を疎んずるを怨み、復た乞児と通ぜんと欲す。比丘尼三人宮中に出入りす。定哥、比丘尼をして乞児に向かい、所遺の衣服を索めて以てこれを調う。乞児其の意を識り、笑いて曰く「妃今日富貴して我を忘るるか」と。定哥計を以て乞児を宮中に納れんと欲すも、閽者のこれを索むるを恐れ、乃ち侍児をして大篋を以て褻衣を其中に盛らしめ、人を遣わしてこれを載せて宮中に入らしむ。閽者これを索むるに、篋中皆褻衣なるを見て、固より已に悔懼す。定哥人をして閽者を詰責せしめて曰く「我は天子の妃なり。親体の衣、爾故に玩視す、何ぞや。我且つこれを奏せん」と。閽者惶恐して曰く「死罪。請う後敢えてせず」と。定哥乃ち人をして篋を以て乞児を盛り載せて宮中に入らしむ。閽者果たして敢えて復た索めず。乞児宮中に入ること十余日、婦人の衣を着せ、諸の宮婢に雑え、暮に抵って出だし遣わす。貴哥以て海陵に告ぐ。定哥縊死し、乞児及び比丘尼三人皆誅せらる。貴哥を莘国夫人に封ず。

原文定哥自其夫時,與家奴閻乞兒通,嘗以衣服遺乞兒。及為貴妃,乞兒以妃家舊人,給事本位。定哥既怨海陵疏己,欲復與乞兒通。有比丘尼三人出入宮中,定哥使比丘尼向乞兒索所遺衣服以調之。乞兒識其意,笑曰:「妃今日富貴忘我耶。」定哥欲以計納乞兒宮中,恐閽者索之,乃令侍兒以大篋盛褻衣其中,遣人載之入宮。閽者索之,見篋中皆褻衣,固已悔懼。定哥使人詰責閽者曰:「我,天子妃。親體之衣,爾故玩視,何也?我且奏之。」閽者惶恐曰:「死罪。請後不敢。」定哥乃使人以篋盛乞兒載入宮中,閽者果不敢復索。乞兒入宮十餘日,使衣婦人衣,雜諸宮婢,抵暮遣出。貴哥以告海陵。定哥縊死,乞兒及比丘尼三人皆伏誅。封貴哥莘國夫人。

初め、海陵既に定哥をして其の夫烏帯を殺さしめ、小底薬師奴をして定哥に旨を伝えしめ、これを納るの意を告ぐ。薬師奴、定哥の閻乞児と奸有るを知る。定哥奴婢十八口を以て薬師奴に賂し、乞児との私事を言わざらしむ。定哥敗るるや、薬師奴を杖つこと百五十。是に先立ち、薬師奴嘗て玉帯を盗みて死に当たる。海陵其の罪を釈し、逐い去る。中都に遷るに及び、復た召して小底と為す。薬師奴既に定哥の奸事を匿すことを以て杖せられ、後に秘書監文と俱に霊寿県主と奸有り。文は杖二百・除名、薬師奴は斬に当たる。海陵之を杖せんと欲し、近臣に謂いて曰く「薬師奴は朕に功有り。再び之を杖すれば即ち死せん」と。丞相李睹等執奏して薬師奴は法に於いて恕すべからずとす。遂に誅せらる。海陵葛温・葛魯を護衛と為す。葛温累官して常安県令、葛魯累官して襄城県令、大定初め、皆除名せらる。

原文初,海陵既使定哥殺其夫烏帶,使小底藥師奴傳旨定哥,告以納之之意。藥師奴知定哥與閻乞兒有奸,定哥以奴婢十八口賂藥師奴使無言與乞兒私事。定哥敗,杖藥師奴百五十。先是,藥師奴嘗盜玉帶當死,海陵釋其罪,逐去。及遷中都,復召為小底。及藥師奴既以匿定哥奸事被杖,後與秘書監文俱與靈壽縣主有奸,文杖二百除名,藥師奴當斬。海陵欲杖之,謂近臣曰:「藥師奴于朕有功,再杖之即死矣。」丞相李睹等執奏藥師奴於法不可恕,遂伏誅。海陵以葛溫、葛魯為護衛,葛溫累官常安縣令,葛魯累官襄城縣令,大定初,皆除名。

麗妃石哥は、定哥の妹、秘書監文の妻なり。海陵これを私し、宮中に納れんと欲す。乃ち文の庶母按都瓜をして文の家を主たらしむ。海陵按都瓜に謂いて曰く「必ず而が婦を出だせ。然らずば我将に別に所行有らん」と。按都瓜以て文に語る。文これを難ず。按都瓜曰く「上、別に所行有らんと謂うは、是れ汝を殺さんと欲するなり。豈に一妻を以て其の身を殺さんや」と。文已むを得ず、石哥と相い持って慟哭して訣す。是の時、海陵都を遷して中京に至る。石哥を遣わして中都に至らしめ、俱にこれを納る。海陵文を便殿に召し、石哥をして穢談を以て文を戯れしめて以て笑いと為す。定哥死し、石哥を遣わして宮を出だす。数日を経ずして復た召し入れ、修容に封ず。貞元三年、昭儀に進む。正隆元年、柔妃に進封す。二年、麗妃に進む。

原文麗妃石哥者,定哥之妹,秘書監文之妻也。海陵私之,欲納宮中。乃使文庶母按都瓜主文家。海陵謂按都瓜曰:「必出而婦,不然我將別有所行。」按都瓜以語文,文難之。按都瓜曰:「上謂別有所行,是欲殺汝也。豈以一妻殺其身乎。」文不得已,與石哥相持慟哭而訣。是時,海陵遷都至中京,遣石哥至中都,俱納之。海陵召文至便殿,使石哥穢談戲文以為笑。定哥死,遣石哥出宮。不數日復召入,封為修容。貞元三年,進昭儀。正隆元年,進封柔妃。二年,進麗妃。

柔妃弥勒、姓は耶律氏。天徳二年、礼部侍郎蕭拱をして汴にこれを取らしむ。燕京を過ぐるに、拱の父仲恭燕京留守たり。弥勒の身形処女の若く非ざるを見て、歎じて曰く「上必ず疑いを以て拱を殺さん」と。宮に入るに及び、果たして処女に非ず。明日これを出だして宮を遣わす。海陵心に蕭拱を疑い、竟に之を死に致す。弥勒宮を出づること数月、復た召し入れ、充媛に封ず。其の母張氏を莘国夫人に封じ、伯母蘭陵郡君蕭氏を鞏国夫人に封ず。蕭拱の妻択特懶は、弥勒の女兄なり。海陵既に文の妻石哥を奪い、却って択特懶を以て文に妻とす。既にして詭りて弥勒の召しを以て、択特懶を召し入れて宮中に乱る。其の後、弥勒進封して柔妃と云う。

原文柔妃彌勒,姓耶律氏。天德二年,使禮部侍郎蕭拱取之於汴。過燕京,拱父仲恭為燕京留守,見彌勒身形非若處女者,歎曰:「上必以疑殺拱矣。」及入宮,果非處女,明日遣出宮。海陵心疑蕭拱,竟致之死。彌勒出宮數月,復召入,封為充媛,封其母張氏莘國夫人,伯母蘭陵郡君蕭氏為鞏國夫人。蕭拱妻擇特懶,彌勒女兄也。海陵既奪文妻石哥,卻以擇特懶妻文。既而詭以彌勒之召,召擇特懶入宮,亂之。其後,彌勒進封柔妃云。

昭妃阿懶は、海陵の叔曹国王宗敏の妻なり。海陵宗敏を殺して阿懶を宮中に納る。貞元元年、昭妃に封ず。大臣奏す「宗敏は尊行に属近し。不可なり」と。乃ち宮を出ださしむ。

原文昭妃阿懶,海陵叔曹國王宗敏妻也。海陵殺宗敏而納阿懶宮中,貞元元年,封為昭妃。大臣奏「宗敏屬近尊行,不可」。乃令出宮。

修儀高氏は、秉徳の弟糺裏の妻なり。海陵諸宗室を殺し、其の婦女を釈す。宗本の子莎魯刺の妻、宗固の子胡裏刺の妻、胡失来の妻及び糺裏の妻、皆宮中にこれを納れんと欲し、宰相を諷して奏請してこれを行わしむ。徒単貞をして蕭裕に諷して曰く「朕嗣続未だ広からず。此の党人の婦女に朕の中外の親有り。宮中にこれを納るるは如何」と。裕曰く「近く宗室を殺し、中外異議紛紜たり。奈何ぞ復た此れを為さんや」と。海陵曰く「吾固より裕の肯て従わざるを知る」と。乃ち貞をして自ら己が意を以て裕に諷せしめ、必ず裕等に其の事を請わしめんとす。貞裕に謂いて曰く「上意已に属する所あり。公固よりこれを止めば、将に疾を成さん」と。裕曰く「必ず肯て已まずば、唯だ上択ばん」と。貞曰く「必ず公等のこれを白さんことを欲す」と。裕已むを得ず、乃ち其の奏を上す。遂にこれを納る。未だ幾ばくもあらず、高氏を修儀に封じ、其の父高耶魯瓦に輔国上将軍を加え、母完顔氏を密国夫人に封ず。高氏家事を以て海陵に訴う。海陵熙宗の時より悼后の政を幹るを見て悻み、心にこれを悪む。故に即位より、母・后の政事に預かるを得しめず。是に於いて、高氏を遣わして父母の家に還す。詔して尚書省に、凡そ后妃に宰相に請う有る者は、其の使を収めて以て聞かしむ。

原文修儀高氏,秉德弟糺裏妻也。海陵殺諸宗室,釋其婦女。宗本子莎魯刺妻、宗固子胡裏刺妻、胡失來妻及糺裏妻,皆欲納之宮中,諷宰相奏請行之。使徒單貞諷蕭裕曰:「朕嗣續未廣,此党人婦女有朕中外親,納之宮中何如?」裕曰:「近殺宗室,中外異議紛紜,奈何復為此邪。」海陵曰:「吾固知裕不肯從。」乃使貞自以己意諷裕,必欲裕等請其事。貞謂裕曰:「上意已有所屬,公固止之,將成疾矣。」裕曰:「必不肯已,唯上擇焉。」貞曰:「必欲公等白之。」裕不得已,乃其奏,遂納之。未幾,封高氏為修儀,加其父高耶魯瓦輔國上將軍,母完顏氏封密國夫人。高氏以家事訴於海陵。海陵自熙宗時悻見悼后幹政,心惡之,故自即位,不使母、后得預政事。於是,遣高氏還父母家。詔尚書省,凡后妃有請于宰相者,收其使以聞。

昭媛の察八は、姓は耶律氏。かつて奚人の蕭堂古帯に嫁ぐことを許されていたが、海陵がこれを納れて昭媛に封じた。堂古帯は護衛となり、察八は侍女の習撚に軟金の鵪鶉袋数枚を彼に贈らせた。事が発覚した。この時、堂古帯は河間の駅で休暇を取っていたが、召し出して問いただした。堂古帯は実状を答えたので、海陵はその罪を赦した。海陵は宝昌門の楼閣に登り、察八を諸后妃の前で引き回し、自ら刃で打ち据えて門下に堕ち死なせ、侍女の習撚も誅殺した。

原文昭媛察八,姓耶律氏。嘗許嫁奚人蕭堂古帶。海陵納之,封為昭媛。堂古帶為護衛,察人使侍女習撚以軟金鵪鶉袋數枚遺之。事覺。是時,堂古帶謁告在河間驛,召問之。堂古帶以實對,海陵釋其罪。海陵登寶昌門樓,以察八徇諸后妃,手刃擊之,墮門下死,並誅侍女習撚。

寿寧県主の什古は、宋王宗望の娘である。静楽県主の蒲刺および習撚は、梁王宗弼の娘である。師姑児は、宗雋の娘である。皆、従姉妹にあたる。混同郡君の莎裏古真とその妹の余都は、太傅宗本の娘で、再従姉妹である。郕国夫人の重節は、宗磐の孫娘で、再従兄の娘である。および母方の大氏の従兄である張定安の妻の奈刺忽、麗妃の妹の蒲魯胡只は、いずれも夫がいたが、ただ什古のみ夫を失っていた。海陵は何ら忌憚も恥じるところもなく、高師姑・内哥・阿古らに言葉を伝えさせ、皆と私通した。かつて私通した妃主や宗室の婦人は、皆、諸妃に分属させ、その位下に出入りさせた。奈刺忽は元妃の位に出入りし、蒲魯胡只は麗妃の位に出入りし、莎裏古真・余都は貴妃の位に出入りし、什古・重節は昭妃の位に出入りし、蒲刺・師姑児は淑妃の位に出入りした。海陵は内哥に什古を召し出させた。先に暖位の小殿に琴と阮咸を置き、それから彼女を召した。什古はすでに色衰えていたので、常にその老い衰えを嘲笑の種にした。ただ習撚と莎裏古真が最も寵愛され、その勢いを恃んで夫を鞭打って裁決させた。海陵は習撚の夫の稍喝に護衛の宿直を監督させ、莎裏古真の夫の撒速に近侍局の宿直をさせた。撒速に言うには、「汝の妻は年少である。汝が宿直の際は、家に宿泊させてはならず、常に妃の位に宿泊させよ。」と。召し入れるたびに、必ず自ら廊下で伺候し、長く立っていると、高師姑の膝の上に座った。高師姑が「天子が何故このように労苦なさるのですか」と言うと、海陵は「私はもともと天子の位は得やすいと思っている。このような逢瀬は得難く、それゆえ貴いのだ」と言った。臥内にはいつも一面に敷物を敷き、裸で追いかけ回して戯れた。莎裏古真は外で淫らな行いをした。海陵はこれを聞いて大いに怒り、莎裏古真に言うには、「汝は貴官を愛するが、天子ほど貴い者がいるか。汝は人材を愛するが、文武を兼ねた才が私に似た者がいるか。汝は娯楽を愛するが、豊かで偉岸なのが私を超える者がいるか」と。怒りは甚だしく、息が詰まって言葉が出なかった。しばらくして、ようやく慰めて言うには、「私が知ったからといって、恥じ入ることはない。宴会の際は、立ち居振る舞いを普段通りにせよ。人々に推し量られて、嘲笑を招く恐れがある」と。その後もたびたび召し入れた。余都は、牌印の松古刺の妻である。海陵はかつて「余都は容貌は見栄えしないが、肌膚が潔白で可愛らしい」と言った。蒲刺は寿康公主に進封され、什古は昭寧公主に進封され、莎裏古真は寿陽県主に進封され、重節は蓬萊県主に進封された。重節はすなわち昭妃蒲察氏の生んだ子で、蒲察は重節が海陵と淫らなことをしたことに怒り、その頬を打った。海陵は蒲察氏に怒り、ついに彼女を殺した者である。

原文壽甯縣主什古,宋王宗望女也。靜樂縣主蒲刺及習撚,梁王宗弼女也。師姑兒,宗雋女也。皆從姊妹。混同郡君莎裏古真及其妹余都,太傅宗本女也,再從姊妹。郕國夫人重節,宗磐女孫,再從兄之女。及母大氏表兄張定安妻奈刺忽、麗妃妹蒲魯胡只,皆有夫,唯什古喪夫。海陵無所忌恥,使高師姑、內哥、阿古等傳達言語,皆與之私。凡妃主宗婦嘗私之者,皆分屬諸妃,出入位下。奈刺忽出入元妃位,蒲魯胡只出入麗妃位,莎裏古填、余都出入貴妃位,什古、重節出入昭妃位,蒲刺、師姑兒出入淑妃位。海陵使內哥召什古。先於暖位小殿置琴阮其中,然後召之。什古已色衰,常譏其衰老以為笑。唯習撚、莎裏古真最寵,恃勢笞決其夫。海陵使習撚夫稍喝押護衛直宿,莎裏古真夫撒速近侍局直宿。謂撒速曰:「爾妻年少,遇爾直宿,不可令宿于家,常令宿於妃位。」每召入,必親伺候廊下,立久,則坐于高師姑膝上。高師姑曰:「天子何勞苦如此。」海陵曰:「我固以天子為易得耳。此等期會難得,乃可貴也。」每於臥內遍設地衣,倮逐以為戲。莎裏古真在外為淫泆。海陵聞之大怒,謂莎裏古真曰:「爾愛貴官,有貴如天子者乎。爾愛人才,有才兼文武似我者乎。爾愛娛樂,有豐富偉岸過於我者乎。」怒甚,氣咽不能言。少頃,乃撫慰之曰:「無謂我聞知,便爾慚恧。遇燕會,當行立自如,無為眾所測度也,恐致非笑。」後亦屢召入焉。余都,牌印松古刺妻也。海陵嘗曰:「餘都貌雖不揚,而肌膚潔白可愛。」蒲刺進封壽康公主,什古進封昭甯公主,莎裏古真進封壽陽縣主,重節進封蓬萊縣主。重節即昭妃蒲察氏所生,蒲察怒重節與海陵淫,批其頰,海陵怒蒲察氏,終殺之者也。

宮人で外に夫がいる者は、皆、交代で出入りした。海陵は思いのままに彼女らを寵幸しようと、その夫をことごとく上京に派遣し、婦人たちは皆、外出することを許さなかった。常に教坊に宮中で宿直させ、婦人を寵幸するたびに、必ず楽を奏させ、その帷帳を撤け、あるいは人の前で淫らな言葉を言わせた。かつて処女を寵幸しようとして思い通りにならず、元妃に手で左右させた。あるいは妃嬪が列座していると、思いのままに淫らな乱行をし、皆に見させた。あるいは人にその形状を真似させて笑いの種にした。座中に嬪御がいる時は、海陵は必ず自ら一物を地に投げ、近侍に周囲を見回させ、他を見た者は殺した。宮中に仕える男子に戒めて、妃嬪の位で顔を上げた者はその目をえぐるとした。出入りは独りで行ってはならず、用を足すにも、必ず四人一緒に行き、担当の者が刀を執って監督し、決められた道を通らない者は斬った。日が暮れた後、階段や石段を歩く者は死罪とし、告発した者には賞銭二百万を与えた。男女が慌てて誤って触れ合った時、先に声を上げた者には三品官の賞を与え、後から言った者は死罪とし、同時に言った者は皆、釈放した。

原文凡宮人在外有夫者,皆分番出入。海陵欲率意幸之,盡遣其夫往上京,婦人皆不聽出外。常令教坊番直禁中,每幸婦人,必使奏樂,撤其幃帳,或使人說淫穢語於其前。嘗幸室女不得遂,使元妃以手左右之。或妃嬪列坐,輒率意淫亂,使共觀。或令人效其形狀以為笑。凡坐中有嬪御,海陵必自擲一物於地,使近侍環視之,他視者殺。誡宮中給使男子,於妃嬪位舉首者刓其目。出入不得獨行,便旋,須四人偕往,所司執刀監護,不由路者斬之。日入後,下階砌行者死,告者賞錢二百萬。男女倉猝誤相觸,先聲言者賞三品官,後言者死,齊言者皆釋之。

女使の辟懶には外に夫がいたが、海陵は彼女を県君に封じ、寵幸しようとした。妊娠しているのを嫌い、麝香水を飲ませ、自らその腹を揉み引き伸ばして、胎児を堕とそうとした。辟懶が哀願し、命を全うさせてほしい、もし出産できても、必ず育てないと請うた。海陵は顧みず、ついにその胎児を堕とした。

原文女使辟懶有夫在外,海陵封以縣君,欲幸之,惡其有娠,飲以麝香水,躬自揉拉其腹,欲墮其胎。辟懶乞哀,欲全性命,苟得乳免,當不舉。海陵不顧,竟墮其胎。

蒲察阿虎迭の娘の叉察は、海陵の姉の慶宜公主が生んだ子で、秉徳の弟の特裏に嫁いだ。秉徳が誅殺された時、連座すべきところを、太后が梧桐に命じて海陵に請願させたため、これによって免れた。海陵は太后に叉察を娶りたいと申し出た。太后は「この子が生まれた時、先帝が自ら抱いて我が家で養い、成人に至った。帝は舅ではあるが、父のようなものだ。いけない」と言った。その後、宗室の安達海の子の乙刺補に嫁いだ。海陵はたびたび人を遣わして乙刺補に彼女を離縁するようほのめかし、それによって彼女を娶った。叉察は完顔守誠と姦通し、守誠は本名を遏裏來といったが、事が発覚し、海陵は守誠を殺した。太后が叉察のために哀願したので、ようやく釈放した。叉察の家奴が叉察が不道な言葉を口にしたと告発した。海陵は自ら臨んで問いただし、叉察を責めて「お前は守誠が死んだことで私を罵ったのか」と言い、ついに彼女を殺した。

原文蒲察阿虎迭女叉察,海陵姊慶宜公主所生,嫁秉德之弟特裏。秉德誅,當連坐,太后使梧桐請於海陵,由是得免。海陵白太后欲納叉察。太后曰:「是兒始生,先帝親抱至吾家養之,至於成人。帝雖舅,猶父也,不可。」其後,嫁宗至安達海之子乙刺補。海陵數使人諷乙刺補出之,因而納之。叉察與完顏守誠有奸,守誠本名遏裏來,事覺,海陵殺守誠,太后為叉察求哀,乃釋之。叉察家奴告叉察語涉不道,海陵自臨問,責叉察曰:「汝以守誠死詈我邪?」遂殺之。

同判大宗正の阿虎里の妻の浦速碗は、元妃の妹で、元妃に面会するために宮中に入った際、海陵が無理に淫らなことを迫った。浦速碗はこれ以降、再び宮中に入らなかった。

原文同判大宗正阿虎里妻浦速碗,元妃之妹,因入見元妃,海陵逼淫之。浦速碗自是不復入宮。

世宗が済南尹であった時、海陵が夫人の烏林荅氏を召し出した。夫人は世宗に「私が行かなければ、上は必ず王を殺すでしょう。私は自ら努めます。王に累を及ぼしません」と言った。夫人は良郷まで行って自殺した。このため、世宗が在位二十九年の間、再び后を立てなかったのである。

原文世宗為濟南尹,海陵召夫人烏林荅氏。夫人謂世宗曰:「我不行,上必殺王。我當自勉,不以相累也。」夫人行至良鄉自殺,是以世宗在位二十九年,不復立后焉。