古より天子が后を娶るには、三国より媵が来て、皆娣姪を伴い、凡そ十二女と為す。諸侯は一娶して九女と為す。これ嫡妾を正し、継嗣を広め、妬忌を息め、淫慝を防ぎ、禍乱を塞ぐ所以である。后が亡くなれば、媵が継室と為り、各々その序に従う。三媵がなければ、娣姪が継室と為り、これも各々その序に従う。継室たる者は、その内政を治めるも、敢えてその位号を正さず。礼に、廟に両祔無く、並び尊ばざるなり。魯の成風より始めて両祔し、宋国は三媵を以てし、斉の管氏は三帰せり、『春秋』皆これを譏る。『周礼』の内宰、その属は則ち内小臣・閽人・寺人次いで、九嬪・世婦・女御・女祝・女史・典婦功・典絲・典枲・内司服又次ぐ。『昏義』に「后六宮・三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一御妻を立つ」と称す、『春秋』・『周礼』と合わず、後世その説に因循し、後宮遂に数千に至る。
金代は、后に庶族を娶らず、甥舅の家に周の姫・斉の姜の義あり。国初の諸妃は皆位号無く、熙宗より始めて貴妃・賢妃・徳妃の号あり。海陵は淫嬖にして、後宮漸く多く、元妃・姝妃・恵妃・貴妃・賢妃・宸妃・麗妃・淑妃・徳妃・昭妃・温妃・柔妃凡そ十二位。大定の後宮は簡少にして、明昌以後大いに備わる。
内官の制度:諸妃は正一品に視え、三夫人に比す。昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛は正二品に視え、九嬪に比す。婕妤九人は正三品に視え、美人九人は正四品に視え、才人九人は正五品に視え、二十七世婦に比す。宝林二十七人は正六品に視え、御女二十七人は正七品に視え、采女二十七人は正八品に視え、八十一御妻に比す。又尚宮・尚儀・尚服・尚食・尚寝・尚功有り、皆内官なり。
太祖の嫡后聖穆は景宣を生み、光懿は宗幹を生み、定策の功有り、欽憲は保佑の功有り、故に熙宗の時より聖穆・光懿・欽憲皆祔す。宣獻は睿宗を生み、大定に祔す。故に太祖廟は四后を祔し、睿・世・顯・宣は皆両后を祔す。惟だ太宗・景宣・熙宗・章宗の室は一后を祔す。貞・慈・光献・昭聖は庶姓と雖も、皆子を以て貴し。宣宗は温敦氏を冊し、乃ち姓を賜う、古を変ずること甚だし。故に初め起りより国亡びるに至るまで、その世次を列ね、その族裏を著し、考鑒すべきなり。世道に与せざる者は、置いて録せず。
始祖明懿皇后
始祖明懿皇后は、完顔部の人なり。年六十余にして始祖に嫁す。天会十五年追諡す。
徳帝思皇后
徳帝思皇后は、何部の人なるかを知らず。天会十五年追諡す。
安帝節皇后
安帝節皇后は、何部の人なるかを知らず。天会十五年追諡す。
獻祖恭靖皇后
獻祖恭靖皇后は、何部の人なるかを知らず。天会十五年追諡す。
昭祖威順皇后
昭祖威順皇后徒単氏、諱は烏古論都葛、活刺渾水敵魯郷徒単部の人なり。その父は拔炭都魯海。后は性剛毅にして、人敢えて以て室と為す者なし。獻祖、将に昭祖の為に婦を娶らんとし、曰く「此の子勇断異常なり、柔弱の女は以て配と為すべからず」と。乃ち昭祖の為に娶る。天会十五年、追諡す。
景祖昭肅皇后
景祖昭肅皇后、唐括氏、帥水隈鴉村唐括部の人、諱は多保真。父は石批德撒骨只、巫者なり。后は識度有り、父母の家に在りて賓客を待つことを好み、父母出ずれば、則ち多く酒饌を置きて鄰里を享し、行旅に及ぶ。景祖は飲食人に過ぎ、時に人は之を「活羅」と名づく、解は『景祖紀』に在り。昭祖曰く「儉嗇の女は酒食を吝しみ惜しむ、以て配と為すべからず」と。烏古乃、后の性度かくの如しと聞き、乃ち娶る。
遼の使同幹来たりて五國浦聶部を伐つ。景祖、后と劾孫をして拔乙門に質と為し、而して同幹とともに之を襲い取らしむ。遼主、景祖を以て節度使と為す。
后は賓客を喜ぶと雖も、自らは酒を飲まず。景祖、客と飲むに、后専ら之を聴く。翌日、枚数す其の人の為す所を、一も其の肯綮に中らざるは無し。酔いて喧呶する者有れば、輒ち自ら歌いて以て其の忿争を釈す。軍中に笞罰せらるる者有れば、毎に酒食を以て慰諭す。景祖、部を行くに、輒ち与に偕に行き、政事獄訟皆与に決す。
景祖没した後、世祖兄弟凡そ兵を用うるに、皆后に稟して而して後に行い、勝負皆懲勸有り。農月には、親しく耕耘刈獲を課し、遠ければ則ち馬に乗り、近ければ則ち杖を策き、事に勤むる者は之を勉め、晏に出で早く休む者は之を訓勵す。
后、邑屯村に往く。世祖、肅宗皆従う。会に桓赧、散達偕に来る。是の時既に隙有り、酒に被り、語相侵して平らかならず、遂に刃を挙げて相向う。后起ち、両つて其の手を執り、桓赧、散達に謂ひて曰く「汝等皆吾が夫の時の旧人なり、奈何ぞ一旦遽かに吾が夫の恩を忘れ、小兒子輩と忿争するや」と。因りて自ら歌を作す。桓赧、散達の怒り乃ち解く。其の後桓赧兄弟兵を起こして来たり攻む。当に是の時、肅宗先ず已に再び利を失ひ、世祖已に烏春の兵を退け、桓赧と北隘甸に戦ふ。部人失束寬逃げ帰り、甲を袒して至り、告げて曰く「軍敗れたり」と。后方に憂懣す、会に康宗来たりて捷を報ず。后乃ち喜ぶ。既にして桓赧、散達皆降る。
后は妒忌せず、女工を闊略にし、能く宗族を輯睦し、当時以て丈夫の度有りと為す。天会十五年、追諡す。
世祖翼簡皇后
肅宗靖宣皇后
肅宗靖宣皇后、蒲察氏。太祖将に兵を挙げんとし、入りて后に告ぐ。后曰く「汝は邦家の長なり、見る可き有れば則ち行へ。吾は老いたり、吾に憂ひを貽す無かれ、汝も亦必ず是に至らじ」と。太祖觴を奉じて寿を為し、即ち后を奉じて門を出で、酒を驩びて天に禱る。后、太祖をして正坐せしめ、諸将に号令す。是より太祖毎に出師して還れば、輒ち諸将を率いて上謁し、俘獲を献ず。天会十五年、追諡す。
穆宗貞惠皇后
穆宗貞惠皇后、烏古論氏。天会十五年、追諡す。
康宗敬僖皇后
康宗敬僖皇后は、唐括氏である。天会十五年(1137年)に追諡された。
太祖
聖穆皇后
光懿皇后
欽憲皇后
宣献皇后
崇妃蕭氏
大定十九年(1179年)、詔して改葬させた。大宗正丞の宗安が葬事を監護し、使者を遣わして祭らせた。上(世宗)は太妃の旧号を復そうとし、礼官に議させた。「前代に太妃と称する者は皆、子が貴くなることによる。古より、廟に入れば『后』と称するのは夫に係り、朝廷にあって『太』と称するのは子に係る。今の蕭妃の事とは異なるので、『太』と称することは得ず、ただ妃号を追封すべきであろう。」詔してこれに従い、そこで崇妃と封じたのである。
太宗欽仁皇后
熙宗悼平皇后
熙宗の在位中、宗翰・宗幹・宗弼が相次いで政権を執り、帝は朝廷に臨んでも端然として沈黙していた。初年こそ国家多事であったが、廟堂の策謀は勝利を制し、斉国は慶賀に服し、宋人は臣下を請い、吏は清く政は簡素で、百姓は業を楽しんだ。宗弼が没すると、旧臣も多く物故し、后は政事に干預し、憚るところなく、朝官は往々にして彼女によって宰相の位を得た。済安が薨じた後、数年を経ても継嗣が立てられず、后は熙宗を大いに掣肘した。熙宗は内心穏やかでなく、無聊に因り、酒を縦にし怒りを酔って、自ら刃を執って人を殺した。左丞相の亮の誕生日に、上は大興国を遣わして司馬光の画像・玉吐鶻・廄馬を賜ったが、后もまた付加して誕生日の礼物を賜った。熙宗はこれを聞いて怒り、遂に興国を杖ち、賜ったものを奪い返した。海陵は元より覬覦の念を抱いており、これによって疑懼がますます甚だしくなり、蕭牆の変はここから萌芽した。近侍の高寿星が例に随って燕南に遷屯することとなり、后に訴え入ると、后は熙宗を激怒させ、左司郎中の三合を殺し、平章政事の秉徳を杖ち、寿星は結局遷らなかった。秉徳・唐括辯の奸謀はここから起こり、海陵はこれに乗じて、逆乱の計を成すに至った。
久しくして、熙宗は積もる怒りを発し、遂に后を殺し、代わって胙王常勝の妃の撒卯を納れて宮中に入れた。また徳妃烏古論氏、妃夾谷氏・張氏・裴満氏を殺した。翌日、熙宗は弑逆に遇った。海陵は既に熙宗を弑した後、人心を収めんと欲し、后が罪なくして死んだことを以て、熙宗を東昏王に降し、后を追諡して悼皇后とし、后の父忽達を王に封じた。大定年間、熙宗の帝号を復し、后に加諡して悼平皇后とし、思陵に祔葬した。
海陵嫡母徒単氏
海陵の嫡母は、徒単氏である。宗幹の正室である。徒単には子がなく、次室の李氏が長子の鄭王充を生み、次室の大氏が三人の子を生み、長子が即ち海陵庶人である。徒単氏は賢明で、下に遇するに恩意をもってし、大氏はこれを事えるに甚だ謹んで、互いに得て甚だ歓んだ。徒単は充を養って己が子としていたが、充と海陵はともに熙宗の宰相となり、充は酒を嗜み、徒単は常にこれを責め怒り、特に海陵を愛した。海陵は自らその母大氏と徒単との間に嫡妾の分があることを以て、心に常に安んぜず。熙宗を弑するに及んで、徒単と太祖の妃蕭氏はこれを聞き、互いに顧みて愕然として曰く、「帝は道を失えりといえども、人臣にしてかくのごとくに至るべけんや」と。徒単は宮中に入って海陵に謁したが、賀しなかったので、海陵はこれを恨んだ。
海陵は宮中において太后に侍し、外には極めて恭順で、太后が坐起するときは、自らその腋を扶け、常に輿輦に徒歩して従い、太后の用いる物は時に自らこれを執った。見る者は至孝と為し、太后もまた誠然と以為った。宋を伐たんと謀るに及んで、太后はこれを諫めて止めさせようとしたが、海陵は心中ますます悦ばず、太后に謁するごとに帰れば必ず忿怒し、人はその所以を知らなかった。
汴京に至り、太后は寧徳宮に居住した。太后は侍女の高福娘を遣わして海陵の起居を問わせたが、海陵は彼女を寵幸し、よって太后の動静を窺わせた。太后の挙動や事柄の大小を問わず、福娘の夫特末哥が福娘に教えて、その言葉を誇張して海陵に報告させた。枢密使僕散師恭が契丹の撒八を征討するにあたり、太后に辞謁したとき、太后は師恭としばらく語った。おおよそ『国家は代々上京に居住し、中都に遷り、また中都から汴に至り、今また兵を起こして江・淮を渡り宋を伐つ。中国を疲弊させている。私はかつて諫めて止めようとしたが、聞き入れられなかった。契丹の事もまたこのようである。どうしたものか』と言った。福娘はこれを海陵に告げた。海陵は、太后が充(宗峻)を子とし、充の四子は皆成人しており、師恭が兵を率いて外にいることを恐れ、太后に異心があるかもしれないと考えた。そこで点検の大懐忠、翰林待制の斡論、尚衣局使の虎特末、武庫直長の習失を召し、寧徳宮で太后を殺すよう命じ、護衛の高福、辞勒、浦速斡に兵士四十人を従わせ、かつ戒めて言った。『汝らは太后に会えば、ただ詔があると言い、太后に跪いて受けさせ、即ち撃ち殺せ。苦しませるな。太后の同乳妹の安特は、口が多く必ず妄言を吐くであろう。速やかに死なせよ』。また太后の側近数名を指名し、皆殺すよう命じた。太后がちょうど樗蒲をしていると、大懐忠らが到着し、太后に跪いて詔を受けるよう命じた。太后は愕然とし、ようやく跪こうとしたとき、虎特末が後ろからこれを撃ち、倒れては再び起き上がることを繰り返した。高福らが絞め殺した。五十三歳であった。安特および郡君の白散、阿魯瓦、叉察、乳母の南撒、侍女の阿斯、斡裏保、寧徳宮護衛の温迪罕査刺、直長の王家奴、撒八、小底の忽沙らを併せて殺した。海陵は命じて太后を宮中で焼き、その骨を水に棄てた。また充の子の檀奴、阿裏白、元奴を殺した。耶補兒は逃れて隠れ、世宗のもとに帰った。軍中から師恭を召還し、殺した。また阿斯の子孫、撒八の二子、忽沙の二子を殺した。高福娘を鄖国夫人に封じ、特末哥を沢州刺史とした。海陵は福娘に、南征から帰還したら妃とすることを約束し、銀二千両を賜った。特末哥に戒めて勅した。『酒に酔って福娘を殴るな。福娘を殴れば必ず汝を殺す』。
大定年間、徒単氏に哀皇后と諡し、沢州から特末哥と福娘を檻送して中都で誅殺した。その後、海陵を庶人に貶した。宗幹の帝号を除き、再び遼王に封じ、徒単氏は降封されて遼王妃とした。
海陵の母、大氏
海陵の后、徒単氏
海陵の諸嬖(寵愛を受けた者たち)附
昭妃阿裏虎は、蒲察氏の姓で、駙馬都尉没裏野の女。初め宗盤の子阿虎迭に嫁いだ。阿虎迭が誅殺されると、再び宗室の南家に嫁いだ。南家が死んだとき、南家の父突葛速は元帥都監として南京におり、海陵もまた梁王宗弼に従って南京にいた。海陵は阿裏虎を娶ろうとしたが、突葛速が従わなかったので、遂に止めた。帝位を簒して三日目に、詔して阿裏虎を父母の家に帰らせた。二ヶ月経って、婚礼の礼をもってこれを納れた。数ヶ月後、特に賢妃に封じ、さらに昭妃に封じた。阿裏虎は酒を嗜み、海陵が責め諫めたが聞き入れず、これによって寵愛は衰えた。
昭妃は初め阿虎迭に嫁ぎ、女の重節を生んだ。海陵は重節と淫乱の関係を持ち、阿裏虎は重節を怒り、その頬を打ち、甚だしく誹謗する言葉を吐いた。海陵はこれを聞き、ますます快く思わなかった。阿裏虎が衣服を前夫の子に贈ったとき、海陵は彼女を殺そうとしたが、徒単后が諸妃嬪を率いて哀願したので、ようやく免れることができた。
凡そ諸妃の位は皆侍女に男子の衣冠を服させ、『仮廝児』と号す。勝哥という者あり、阿裏虎はこれと同臥起し、夫婦の如し。厨婢の三娘これを告げしむ。海陵は過ちと為さず、唯だ阿裏虎に三娘を笞箠せざるを戒む。阿裏虎これを榜殺す。海陵、昭妃の閤に死者あるを聞き、意度して是三娘ならんとし、曰く「もし果して然らば、吾必ず阿裏虎を殺さん」と。問うに、果たして然り。是の月、光英生月なり。海陵の私忌、戮を行わず。阿裏虎、海陵の将に己を殺さんとするを聞き、即ち食わず、日々香を焚きて禱祝し、死を脱せんことを冀う。月を踰えて、阿裏虎已に委頓して為す所を知らず。海陵、人をして縊殺せしめ、併せて侍婢の三娘を撃ちし者を殺す。
定哥、其の夫の時より、家奴閻乞児と通じ、嘗て衣服を以て乞児に遺す。貴妃と為るに及び、乞児は妃家の旧人を以て、本位に給事す。定哥既に海陵の己を疎んずるを怨み、復た乞児と通ぜんと欲す。比丘尼三人宮中に出入りす。定哥、比丘尼をして乞児に向かい、所遺の衣服を索めて以てこれを調う。乞児其の意を識り、笑いて曰く「妃今日富貴して我を忘るるか」と。定哥計を以て乞児を宮中に納れんと欲すも、閽者のこれを索むるを恐れ、乃ち侍児をして大篋を以て褻衣を其中に盛らしめ、人を遣わしてこれを載せて宮中に入らしむ。閽者これを索むるに、篋中皆褻衣なるを見て、固より已に悔懼す。定哥人をして閽者を詰責せしめて曰く「我は天子の妃なり。親体の衣、爾故に玩視す、何ぞや。我且つこれを奏せん」と。閽者惶恐して曰く「死罪。請う後敢えてせず」と。定哥乃ち人をして篋を以て乞児を盛り載せて宮中に入らしむ。閽者果たして敢えて復た索めず。乞児宮中に入ること十余日、婦人の衣を着せ、諸の宮婢に雑え、暮に抵って出だし遣わす。貴哥以て海陵に告ぐ。定哥縊死し、乞児及び比丘尼三人皆誅せらる。貴哥を莘国夫人に封ず。
初め、海陵既に定哥をして其の夫烏帯を殺さしめ、小底薬師奴をして定哥に旨を伝えしめ、これを納るの意を告ぐ。薬師奴、定哥の閻乞児と奸有るを知る。定哥奴婢十八口を以て薬師奴に賂し、乞児との私事を言わざらしむ。定哥敗るるや、薬師奴を杖つこと百五十。是に先立ち、薬師奴嘗て玉帯を盗みて死に当たる。海陵其の罪を釈し、逐い去る。中都に遷るに及び、復た召して小底と為す。薬師奴既に定哥の奸事を匿すことを以て杖せられ、後に秘書監文と俱に霊寿県主と奸有り。文は杖二百・除名、薬師奴は斬に当たる。海陵之を杖せんと欲し、近臣に謂いて曰く「薬師奴は朕に功有り。再び之を杖すれば即ち死せん」と。丞相李睹等執奏して薬師奴は法に於いて恕すべからずとす。遂に誅せらる。海陵葛温・葛魯を護衛と為す。葛温累官して常安県令、葛魯累官して襄城県令、大定初め、皆除名せらる。
修儀高氏は、秉徳の弟糺裏の妻なり。海陵諸宗室を殺し、其の婦女を釈す。宗本の子莎魯刺の妻、宗固の子胡裏刺の妻、胡失来の妻及び糺裏の妻、皆宮中にこれを納れんと欲し、宰相を諷して奏請してこれを行わしむ。徒単貞をして蕭裕に諷して曰く「朕嗣続未だ広からず。此の党人の婦女に朕の中外の親有り。宮中にこれを納るるは如何」と。裕曰く「近く宗室を殺し、中外異議紛紜たり。奈何ぞ復た此れを為さんや」と。海陵曰く「吾固より裕の肯て従わざるを知る」と。乃ち貞をして自ら己が意を以て裕に諷せしめ、必ず裕等に其の事を請わしめんとす。貞裕に謂いて曰く「上意已に属する所あり。公固よりこれを止めば、将に疾を成さん」と。裕曰く「必ず肯て已まずば、唯だ上択ばん」と。貞曰く「必ず公等のこれを白さんことを欲す」と。裕已むを得ず、乃ち其の奏を上す。遂にこれを納る。未だ幾ばくもあらず、高氏を修儀に封じ、其の父高耶魯瓦に輔国上将軍を加え、母完顔氏を密国夫人に封ず。高氏家事を以て海陵に訴う。海陵熙宗の時より悼后の政を幹るを見て悻み、心にこれを悪む。故に即位より、母・后の政事に預かるを得しめず。是に於いて、高氏を遣わして父母の家に還す。詔して尚書省に、凡そ后妃に宰相に請う有る者は、其の使を収めて以て聞かしむ。
昭媛の察八は、姓は耶律氏。かつて奚人の蕭堂古帯に嫁ぐことを許されていたが、海陵がこれを納れて昭媛に封じた。堂古帯は護衛となり、察八は侍女の習撚に軟金の鵪鶉袋数枚を彼に贈らせた。事が発覚した。この時、堂古帯は河間の駅で休暇を取っていたが、召し出して問いただした。堂古帯は実状を答えたので、海陵はその罪を赦した。海陵は宝昌門の楼閣に登り、察八を諸后妃の前で引き回し、自ら刃で打ち据えて門下に堕ち死なせ、侍女の習撚も誅殺した。
寿寧県主の什古は、宋王宗望の娘である。静楽県主の蒲刺および習撚は、梁王宗弼の娘である。師姑児は、宗雋の娘である。皆、従姉妹にあたる。混同郡君の莎裏古真とその妹の余都は、太傅宗本の娘で、再従姉妹である。郕国夫人の重節は、宗磐の孫娘で、再従兄の娘である。および母方の大氏の従兄である張定安の妻の奈刺忽、麗妃の妹の蒲魯胡只は、いずれも夫がいたが、ただ什古のみ夫を失っていた。海陵は何ら忌憚も恥じるところもなく、高師姑・内哥・阿古らに言葉を伝えさせ、皆と私通した。かつて私通した妃主や宗室の婦人は、皆、諸妃に分属させ、その位下に出入りさせた。奈刺忽は元妃の位に出入りし、蒲魯胡只は麗妃の位に出入りし、莎裏古真・余都は貴妃の位に出入りし、什古・重節は昭妃の位に出入りし、蒲刺・師姑児は淑妃の位に出入りした。海陵は内哥に什古を召し出させた。先に暖位の小殿に琴と阮咸を置き、それから彼女を召した。什古はすでに色衰えていたので、常にその老い衰えを嘲笑の種にした。ただ習撚と莎裏古真が最も寵愛され、その勢いを恃んで夫を鞭打って裁決させた。海陵は習撚の夫の稍喝に護衛の宿直を監督させ、莎裏古真の夫の撒速に近侍局の宿直をさせた。撒速に言うには、「汝の妻は年少である。汝が宿直の際は、家に宿泊させてはならず、常に妃の位に宿泊させよ。」と。召し入れるたびに、必ず自ら廊下で伺候し、長く立っていると、高師姑の膝の上に座った。高師姑が「天子が何故このように労苦なさるのですか」と言うと、海陵は「私はもともと天子の位は得やすいと思っている。このような逢瀬は得難く、それゆえ貴いのだ」と言った。臥内にはいつも一面に敷物を敷き、裸で追いかけ回して戯れた。莎裏古真は外で淫らな行いをした。海陵はこれを聞いて大いに怒り、莎裏古真に言うには、「汝は貴官を愛するが、天子ほど貴い者がいるか。汝は人材を愛するが、文武を兼ねた才が私に似た者がいるか。汝は娯楽を愛するが、豊かで偉岸なのが私を超える者がいるか」と。怒りは甚だしく、息が詰まって言葉が出なかった。しばらくして、ようやく慰めて言うには、「私が知ったからといって、恥じ入ることはない。宴会の際は、立ち居振る舞いを普段通りにせよ。人々に推し量られて、嘲笑を招く恐れがある」と。その後もたびたび召し入れた。余都は、牌印の松古刺の妻である。海陵はかつて「余都は容貌は見栄えしないが、肌膚が潔白で可愛らしい」と言った。蒲刺は寿康公主に進封され、什古は昭寧公主に進封され、莎裏古真は寿陽県主に進封され、重節は蓬萊県主に進封された。重節はすなわち昭妃蒲察氏の生んだ子で、蒲察は重節が海陵と淫らなことをしたことに怒り、その頬を打った。海陵は蒲察氏に怒り、ついに彼女を殺した者である。
宮人で外に夫がいる者は、皆、交代で出入りした。海陵は思いのままに彼女らを寵幸しようと、その夫をことごとく上京に派遣し、婦人たちは皆、外出することを許さなかった。常に教坊に宮中で宿直させ、婦人を寵幸するたびに、必ず楽を奏させ、その帷帳を撤け、あるいは人の前で淫らな言葉を言わせた。かつて処女を寵幸しようとして思い通りにならず、元妃に手で左右させた。あるいは妃嬪が列座していると、思いのままに淫らな乱行をし、皆に見させた。あるいは人にその形状を真似させて笑いの種にした。座中に嬪御がいる時は、海陵は必ず自ら一物を地に投げ、近侍に周囲を見回させ、他を見た者は殺した。宮中に仕える男子に戒めて、妃嬪の位で顔を上げた者はその目をえぐるとした。出入りは独りで行ってはならず、用を足すにも、必ず四人一緒に行き、担当の者が刀を執って監督し、決められた道を通らない者は斬った。日が暮れた後、階段や石段を歩く者は死罪とし、告発した者には賞銭二百万を与えた。男女が慌てて誤って触れ合った時、先に声を上げた者には三品官の賞を与え、後から言った者は死罪とし、同時に言った者は皆、釈放した。
女使の辟懶には外に夫がいたが、海陵は彼女を県君に封じ、寵幸しようとした。妊娠しているのを嫌い、麝香水を飲ませ、自らその腹を揉み引き伸ばして、胎児を堕とそうとした。辟懶が哀願し、命を全うさせてほしい、もし出産できても、必ず育てないと請うた。海陵は顧みず、ついにその胎児を堕とした。
蒲察阿虎迭の娘の叉察は、海陵の姉の慶宜公主が生んだ子で、秉徳の弟の特裏に嫁いだ。秉徳が誅殺された時、連座すべきところを、太后が梧桐に命じて海陵に請願させたため、これによって免れた。海陵は太后に叉察を娶りたいと申し出た。太后は「この子が生まれた時、先帝が自ら抱いて我が家で養い、成人に至った。帝は舅ではあるが、父のようなものだ。いけない」と言った。その後、宗室の安達海の子の乙刺補に嫁いだ。海陵はたびたび人を遣わして乙刺補に彼女を離縁するようほのめかし、それによって彼女を娶った。叉察は完顔守誠と姦通し、守誠は本名を遏裏來といったが、事が発覚し、海陵は守誠を殺した。太后が叉察のために哀願したので、ようやく釈放した。叉察の家奴が叉察が不道な言葉を口にしたと告発した。海陵は自ら臨んで問いただし、叉察を責めて「お前は守誠が死んだことで私を罵ったのか」と言い、ついに彼女を殺した。
同判大宗正の阿虎里の妻の浦速碗は、元妃の妹で、元妃に面会するために宮中に入った際、海陵が無理に淫らなことを迫った。浦速碗はこれ以降、再び宮中に入らなかった。
世宗が済南尹であった時、海陵が夫人の烏林荅氏を召し出した。夫人は世宗に「私が行かなければ、上は必ず王を殺すでしょう。私は自ら努めます。王に累を及ぼしません」と言った。夫人は良郷まで行って自殺した。このため、世宗が在位二十九年の間、再び后を立てなかったのである。