金史

志第三十二: 選挙一 進士諸科

進士諸科

三代の郷挙裏選の法が廃されて以来、秦・漢以来は各々一代の宜しきに因り、以て一時の才を尽くし、苟くも用に足れば即ち已む。故に法度の一ならざるは、其の来ること遠し。漢の世に在りては、賢良方正諸科有りて以て士を取るも、推択して吏と為し、是れ由りて以て公卿に致り、公卿の子弟は宿衛に備へ入り、因りて寵遇を被り、以て位を通顕す。魏・晋而下互いに因革有り、唐・宋に至りては、進士盛んなり。当時士君子の進むや、是れの塗に由らざれば則ち自ら慊と為す。此れ時君の好尚に由る。故に人心の趣向然り。遼は唐季に起り、頗る唐の進士法を用ひて人を取り、然れども其の国に仕ふる者、其の身を致す所の自りを考ふるに、進士才に十の二三のみ。金は遼の後に承け、凡そ事遼世を軼せんと欲す。故に進士科目は兼ねて唐・宋の法を采り而して之を増損す。其の及第出身は、前代を視て特重く、而して法亦密なり。若し夫れ策論進士を以て其の国人を取り、而して女直文字を用ひて以て程文と為すは、斯れ蓋し其の長きに就きて以て其の用を収め、又其の国字を行ひ、人を通習せしめて而して廃せざらしめんと欲するなり。金の代を終ふるまで、科目人を得ること盛んなり。諸宮護衛、及び省台部訳史・令史・通事、仕進皆正班に列す。斯れ則ち唐・宋以来の無き所にして、豈に時に因りて制を宜しくし、而して漢法を以て依據と為さざらんや。金の治の純駁、議者は是に於て毎に別有り。宣宗南渡し、吏習日盛んに、苛刻風と成り、殆ど亦多故の秋、事功に急なるに由り、免れず爾くか。是れより厥の後、仕進の岐既に広く、僥倖の俗益々熾なり、軍伍の労効、雑に令祿を置き、門廕右職、迭りに朝著に居り、科挙士を取るも亦復氾濫し、而して金の治衰へたり。其の経を立て紀を陳ぬるの初めを原れば、為す所の升転の格、考察の方、井井然として条有りて紊れず、百有餘年才具乏しからず、豈に其の效に非ざらんや。詔を奉じて《金史》を作り、其の《選挙》を志し、因りて得て而して之を詳論す。司天・太醫・内侍等の法は歴代所有する所、斯に附著す。鬻爵・進納は、金季の弊甚だしきは焉より莫し。蓋し財用の足らざるに由りて然るなり。特《食貨志》に載す。

金の科を設くるは皆遼・宋の制に因り、詞賦・経義・策試・律科・経童の制有り。海陵天徳三年、策試科を罷む。世宗大定十一年、女直進士科を創設し、初め但だ策を試み、後に論を試むるを増す。所謂策論進士なり。明昌初、又制挙宏詞科を設け、以て非常の士を待つ。故に金の士を取るの目七有り。其の詞賦・経義・策論を試み中選する者、之を進士と謂ふ。律科・経童中選する者、挙人と曰ふ。凡そ士を養ふの地を国子監と曰ひ、始めて天徳三年に置き、後に定制と為し、詞賦・経義生百人、小学生百人、宗室及び外戚皇后大功以上の親・諸功臣及び三品以上官の兄弟子孫、年十五以上の者を入学せしめ、十五に及ばざる者は小学に入る。大定六年始めて太学を置き、初め士百六十人を養ひ、後に五品以上官の兄弟子孫百五十人、曾て府薦を得及び終場の人二百五十人、凡そ四百人と定む。府学も亦大定十六年に置き、凡そ十七処、千人を共にす。初め嘗て廷試に与り及び宗室皇家袒免以上の親、並びに解を得たる挙人を以て之と為す。後に州学を増し、遂に五品以上官・曾て随朝の六品官に任ぜし者の兄弟子孫を加へ、余官の兄弟子孫府薦を得たる者、同境内の挙人試補の三の一とし、闕里廟宅の子孫年十三以上は数に限らず、府薦を得及び終場免試の者は二十人を過ぐるを得ず。凡そ学生を試補するは、太学は則ち礼部之を主とし、州府は則ち提挙学校学官之を主とす。曾て府薦を得及び終場の挙人は、皆免試とす。

凡そ経は、《易》は則ち王弼・韓康伯の注を用ひ、《書》は孔安国の注を用ひ、《詩》は毛萇の注・鄭玄の箋を用ひ、《春秋左氏伝》は杜預の注を用ひ、《礼記》は孔穎達の疏を用ひ、《周礼》は鄭玄の注・賈公彦の疏を用ひ、《論語》は何晏の集注・邢昺の疏を用ひ、《孟子》は趙岐の注・孫奭の疏を用ひ、《孝経》は唐玄宗の注を用ひ、《史記しき》は裴駰の注を用ひ、《前漢書かんじょ》は顔師古の注を用ひ、《後漢書ごかんじょ》は李賢の注を用ひ、《三国志》は裴松之の注を用ひ、及び唐太宗の《晋書》・沈約の《宋書》・蕭子顕の《斉書》・姚思廉の《梁書》《陳書》・魏収の《後魏書》・李百薬の《北斉書》・令狐徳棻の《周書》・魏徴の《隋書》・新旧《唐書》・新旧《五代史》、《老子》は唐玄宗の注疏を用ひ、《荀子》は楊倞の注を用ひ、《揚子》は李軌・宋鹹・柳宗元・呉秘の注を用ふ。皆国子監に於て之を印し、諸学校に授く。凡そ学生会課は、三日に策論一道を作り、又三日に賦及び詩各一篇を作り、三月に一私試有り。季月の初めに先づ賦を試み、一日を間ひて策論を試み、中選する者以上五名を部に申す。旬休・節辰に遇ふれば皆假有り、病すれば則ち假を給し、省親遠行すれば則ち程を給す。学規に犯す者は罰し、教に率はざる者は黜す。喪に遭ふて百日後に学に入らんと求むる者は、釈奠の礼に与るを得ず。凡そ国子学生三年に貢に充つること能はざれば、諸局に就きて承応せんと欲するは、学官試み、能く粗く大小各一経を通ずる者は聴す。

章宗大定二十九年、上封事者(上奏文を提出する者)が学校を興し、三舎法を施行し、また郷里において八行をもって春官(礼部)に貢士し、制挙宏詞科を設けることを請うた。事は尚書省に下され、百官を集めて議せしめたところ、戸部尚書鄧儼らは言うには、「三舎の法は宋の熙寧年間に起こり、王安石が詩賦を廃し、専ら経術を尊んだ。太学生は初め外舎に補せられ、定員はない。外舎より内舎に昇るのは二百人を限りとし、内舎より上舎に昇るのは百人を限る。各々一経を治め、毎月試験を行い、あるいは特に解試を免じ、あるいは保挙して官に補する。その法は行われたが、多くは勢力を頼み、奔走を尊ぶ弊害があり、故に蘇軾に『三舎既に興り、貨賂公行す』との言葉がある。このため元祐年間にこれを廃し、後に復活したが、宣和三年に遂に廃止された。臣らは考えるに、立法は久しく行えることを貴ぶ。あの三舎の法は学官に選試を委ね、僥倖の門を開くもので、法とすべきではない。唐の文皇(太宗)は士を養って八千人に至り、亡宋では両学(太学・国子学)で五千人、今は策論・詞賦・経義の三科で士を取るが、太学が養う者はわずか百六十人、外の京府では十人に至る所もあり、天下で僅かに千人に及ぶ。今もし毎州に学を設け、専ら教授を除授し、毎月試験を加え、毎回の挙において取る数が多い者にはその学官を賞する。月試を三等に定めて籍に記し、一年のうち頻りに上等にある者は優遇して賦役を免じ、教えに従わず、行いの悪い者は退けるならば、おおよそ人を得る道であろう。また成周(周代)の郷挙里選の法は遂に復活できず、科を設けて士を取るのは各々その時による。八行とは亡宋が『周礼』の六行(孝・友・睦・姻・任・恤)を取り、これに中・和を加えて八としたものである。およそ人の行いで孝廉より大なるはなく、今すでに孝廉を挙げる法があり、また民に才能德行ある者があれば県官にこれを推薦させている。今の制度では、十悪・姦盗を犯した者は応試を許さないが、これも六徳六行の遺意である。制挙宏詞は、天子が非常の士を待つものであり、もしこの科を設け、進士に限らず、並びに選人(候補者)をも試験し、中選した者を台閣に抜擢すれば、人は自ら勉めるであろう。」上(章宗)はその議に従った。そこで州府の戸口を計り、士を養う数を増やし、大定の旧制である京府十七か所千人に加えて、節鎮・防禦州学六十か所を置き、千人を増養した。各々教授一員を設け、五挙終場または進士で年五十以上なる者をこれに選んだ。府学は二十四、学生九百五人。大興・開封・平陽・真定・東平府は各六十人、太原・益都府は各五十人、大定・河間・済南・大名・京兆府は各四十人、遼陽・彰徳府は各三十人、河中・慶陽・臨洮・河南府は各二十五人、鳳翔・平涼・延安・咸平・広寧・興中府は各二十人。節鎮学は三十九、合わせて六百十五人。絳・定・衛・懐・滄州は各三十人、萊・密・潞・汾・冀・邢・兗州は各二十五人、代・同・邠州は各二十人、奉聖州は十五人、その余二十三節鎮は皆十人。防禦州学は二十一、合わせて二百三十五人。博・徳・洺・棣・亳州は各十五人、その余十六州は各十人。総計千八百人。

女直学。大定四年より、女直大小字で経書を訳して頒布した。後に猛安謀克内の良家の子弟を選んで学生とし、諸路で三千人に至った。九年、そのうち特に俊秀なる者百人を選んで京師に至らせ、編修官の溫蒂罕締達にこれを教えさせた。十三年、策・詩をもって士を取り、初めて女直国子学を設け、諸路に女直府学を設け、新進士を教授とした。国子学の策論生は百人、小学生は百人。府州学は二十二、中都・上京・胡裏改・恤頻・合懶・蒲與・婆速・咸平・泰州・臨潢・北京・冀州・開州・豊州・西京・東京・蓋州・隆州・東平・益都・河南・陝西にこれを置いた。国子学生・府学生を取る制度は、皆詞賦・経義生と同じである。また制度を定め、毎謀克ごとに二人を取り、もし宗室で二十戸の内に学びたい者がいなければ、物力ある家の子弟で年十三以上二十以下なる者を充てる。会課(定期試験)は、三日ごとに策論一道を作し、季月の私試は漢生の制度の如くである。大定二十九年、勅して凡そ京府鎮州の諸学は、各々女直・漢人の進士長貳官(正副長官)にその事を提控させ、官銜に具入せしめた。河南・陝西の女直学は、承安二年にこれを廃し、その余は旧の如くである。

凡そ諸進士挙人は、郷より府へ、府より省へ、及び殿廷に至るまで、凡そ四試皆中選すれば、則ち官に任ずる。廷試に至り五度黜落されれば、則ち第(及第)を賜い、これを恩例という。また特命により及第する者あり、これを特恩という。恩例はただ文の高下を考えて第とし、再び黜落しない。凡そ詞賦進士は、賦・詩・策論各一道を試す。経義進士は、治むる一経の義・策論各一道を試す。その設置は、太宗天会元年十一月に始まり、時に急に漢士を得て新附の民を撫輯せんと欲し、初め定数なく、また定期もなく、故に二年二月・八月に凡そ再び行った。五年、河北・河東が初めて降ったため、職員多く闕け、遼・宋の制度同じからず、詔して南北各々その素より習う所の業に因って士を取り、号して南北選という。熙宗天眷元年五月、詔して南北選各々経義・詞賦の両科をもって士を取る。海陵庶人天徳二年、初めて殿試の制を増し、また試期を更定した。三年、南北選を一つに併せ、経義・策試の両科を廃し、専ら詞賦をもって士を取る。貞元元年、貢挙程試条理格法を定む。正隆元年、命じて『五経』『三史』の正文の内より出題し、始めて三年一辟と定む。

大定四年、宰臣に命じて曰く、「進士は文が優れれば取れ、人数を限るな」と。十八年、宰臣に謂いて曰く、「文士が偶々魁選に中り、操履を問わず、直ちに翰苑の職を授けることがある。例えば趙承元、朕はその士行なきを聞くが、果たして敗露した。今後は榜首に対し、先ずその郷行を訪察し、取るべきならば応奉に授け、然らざれば常調に従わせよ」と。十九年、宰臣に謂いて曰く、「従来の御試の賦題は、皆士人の嘗て擬作したものである。先般朕自ら一題を選び、人の料いざる所を出だした故に、中選する者多く名士であり、庸才は及ばなかった。これにより題難しければ名儒も擅場し、題易しければ庸流も僥倖し易いと知る」と。平章政事唐括安禮奏して曰く、「臣が先日言うには、士人が策論を意としないのは、正にこの為である。各場を通考し、文理ともに優れた者を選ぶべきです」と。上曰く、「時務策に並び答えさせ、その議論を観れば、材は自ら見える。卿等其れこれを議せよ」と。二十年、宰臣に謂いて曰く、「朕嘗て進士は数限るべからずと諭したが、則ち取る所の外に合格の文なしと答え、故に中選する者少ない。豈に題難しきが故に然らざらんや?若し果たして多く合格し、而して有司妄りにこれを黜するならば、甚だ理に非ざるなり」と。又曰く、「古は郷挙に行者あれば、官を授けた。今その考満に、郷曲の実行倫を出だす者を察してこれを擢げよ」と。又曰く、「旧は策を選ばず、今は兼ねて選ぶ。然れども今後府会の両試には策を試すを須いず、既に策に中った後は、則ち制策を以て試し、学士院の官を試せよ」と。二十二年、宰臣に謂いて曰く、「漢進士の魁は、例として応奉を授ける。若し行い名に副わず、制誥の文に習わざる者は、即ち外除とする」と。二十三年、宰臣に謂いて曰く、「漢進士は、皇統年間の人材は殆ど復た見られず、今応奉を以て状元に授くるは、蓋し資に循うのみである。制誥の文字は、各職事を以て鋪叙し、皆定式有り、故に易しい。赦詔を撰するに至っては、則ち能くする者鮮し」と。参知政事粘哥斡特剌対えて曰く、「旧人は既に登第しても尚学びて輟まず、今人は一たび及第すれば輒ち廃して学ばず、故に爾るなり」と。上は聴政の隙に、参知政事張汝霖、翰林直学士李晏を召して新進士の対したる策を読み、県令の員闕を取るの何の道ぞと至る。上曰く、「朕夙夜これ思い、未だ出だす所を知らず」と。晏対えて曰く、「臣窃に久しく念う!国朝科を設け、始めて南北両選に分つ。北選は詞賦進士一百五十人を擢げ、経義五十人、南選は百五十人、計三百五十人。嗣場、北選は詞賦進士七十人、経義三十人、南選は百五十人、計二百五十人。以て入仕する者多き故に、員闕せず。その後南北通選し、止めて詞賦科を設け、六七十人を取るを過ぎず。以て入仕する者少き故に、県令の員闕するなり」と。上曰く、「今後は文理採るべき者を取り、数に限るなかれ」と。二十八年、経義科を復す。

章宗明昌元年正月、言事者謂う、「挙人は四試するも郷試は虚設に似て、固より罷去すべきである。其の府会試は乞うらくは十人に一人を取り、群経を以て題を出だし、而して本伝を示注すべし」と。上は其の言を是とし、詔して郷試を免じ、府試は五人に一人を取り、仍て有司に命じて外路に試験院を添うるを議し、及び群経出題の制を議せしむ。有司言う、「会試の取る所の数は、旧は五百人に止まる。比来世宗の格に中る者を取れとの勅に比し、乞うらくは此の制に依りて行え。府試は旧六処、中に地遠き者有り、命じて特ち三処を添う。上京・咸平府路は則ち遼陽に試し、河東南北路は則ち平陽に試し、山東東路は則ち益都に試す。《六経》、《十七史》、《孝経》、《論語》、《孟子》、及び《荀子》、《揚子》、《老子》の内より題を出だし、皆題下に其の本伝を注するを命ず」と。又た有司に諭して曰く、「挙人の程文の用いる故事は、恐らくは考試官或いは遽かに憶う能わず、誤って人材を失うあらん。自ら出処を注すべし。注字の誤りは、塗注乙の数に在らず」と。

明昌二年、官或いは職五品に至る者は、直ちに御試に赴くことを勅す。四年、平章政事守貞言う、「国家官人の路は、惟だ女直・漢人進士の得て人居むる多し。諸司局の承応は、旧は出身無く、大定後より始めて使を叙し、今に至るまで鮮かに可用の者有り。近来進士第を放つ数稍多し、此の挙更に宜しく増取すべし。若し会試止めて五百人を限りとすれば、則ち廷試多く取らんと欲すとも、得べからざるなり」と。上乃ち有司に詔し、会試は人数を限らず、文合格なれば則ち取れと。

六年、言事者謂う、「学者率ね有司の全く本伝を注して之を示すを恃み、故に勉めて書を読まず。乞うらくは子史の本伝を注するの制を減ぜよ。又た経義中選の文多く膚浅なり。乞うらくは学官を択び、及び本科の人を充てて試官とせよ」と。省臣謂う、「若し本伝を与えざれば、恐らくは碩学の者に偶忘の失有らん。但だ題意を知るのみと令すべし」と。遂に命じて前の経義進士で衆の推する所、才識優長なる者を学官と為し、差して考試官するの際に遇えば、則ち治むる所の経を験して参用せしむ。詞賦進士は、題に本伝を注し、五十字を過ぐるを得ず。経義進士は、御試第二場、論を試す日に策一道を添えて試す。

承安四年、上宰臣に諭して曰く、「一場に二状元を放つは、是に非ず。後場の廷試に、詞賦・経義に時務策を通試せしめ、止めて一状元を選べ。余りは明経・法律等の科有りと雖も、諸科と同なるのみである」と。至って宋の王安石相と為り、新経を作り、始めて経義を以て人を取る。且つ詞賦・経義は、人の素より習う所の本業なり。策論は則ち兼ねて習う所なり。今本を捨てて兼習を取れば、恐らくは陛下の公選の意に副わざらん」と。遂に御試同日に各々本業を試すことを定め、詞賦は旧に依り、甲次を分ち立ち、第一を状元と為し、経義の魁之に次ぐ。恩例は詞賦第二人と同じくし、余りは両甲の中下人に分ち、並びに詞賦の下に在らしむ。五年、詔して詞賦の考試官に各々程文一道を作らしめ、挙人の式を示し、試後省に赴きて之を蔵せしむ。時に宰臣奏す、「大定二十五年以前より、詞賦進士は五百人を過ぎず。二十八年に人数を限らざるを以て、五百八十六人に取り至る。先に聖訓を承り合格なれば則ち取ると、故に承安二年九百二十五人を取る。兼ねて今四挙終場の恩例有り。若し会試の取る人数過多なれば、則ち氾濫に渉らん」と。遂に策論・詞賦・経義の人数を定め、多くと雖も六百人を過ぎず、少なければ則ち其の闕くを聴く。時に太常丞郭人傑転対して言う、詞賦挙人は別名を以て兼ねて経義を試すを得ず、及び学生に入るに精しく試選を加え、濫補に至らしむるなかれと。上宰臣に勅して曰く、「近く已に奏定す。後場の詞賦経義は同日に之を試す。若し府会試更に兼試せしめざれば、恐らくは経義を試むる者少なく、是れ此の科を虚設するなり。別名の弊は、則ち当に之を禁ずべし。学生員を補試するは、已に旧条有り。恐らくは之を行うに滅裂なるのみ。宜しく厳に防閑すべし」と。張行簡転対して言う、「程文を擬作するは、本考試の式と為さんと欲するなり。今会試の考試官・御試の読巻官皆顕職に居り、擢第後筆硯を離るること久しく、復た常に習わず。今臨試に擬作するの文、稍しく工ならざれば、徒らに謗議を起こすのみ」と。詔して之を罷む。

泰和元年、平章政事の徒単鎰は時文の弊害を憂え、言上した。「諸生は経史を究めず、ただ末学に事とし、そのため志行が浮薄に至っている。進士に策試を行う日に、時務策のほか、さらに経典の旨についての疑難を交えて問うことを命じ、聖賢の微旨と古今の事変を発揮させるべきである。」詔して永制とした。先に楽人には進士の挙を許さないと勅していたが、奴隷で免良された者で不良でない者はこれを許していた。尚書省が奏上した。「旧来、工楽と称するのは、配隷の色及び倡優の家を指す。今、少府監の工匠、太常大楽署の楽工は、皆民であるのに、試験に参与できない。前代の令では、諸選人の身及び祖父・父がかつて免良された者は、官にあっても清貫に居り民に臨むことを得ずとしていた。今、かえって試験を許すのは、まことに清論を汚すものである。」詔して定制とし、放良人は諸科挙に応じることを許さず、その子孫は許すこととした。上はまた言われた。「德行才能は進士科で尽くせるものではない。保挙の制を広く行うことができる。」省が奏上した。「『周礼』に、『大司徒しとは郷三物をもって万民を教え賓興す』とある。いわゆる万民とは、農工商賈すべてである。前代には賢を立てるに方なく、版築の士、鼓刀の叟のごとき、簡策に光を垂れる者は挙げ尽くせない。今、草沢の隠逸で才行兼備の者については、謀克及び司県に挙げさせ、按察司が詳細に上聞し、これを旌用するよう、既に令文を降している。」上は命じて再び旨を宣べさせてこれを申し明かさせた。

宣宗貞祐二年、御史台が言上した。「来年の省試は、中都・遼東・西北京等の路は道が阻まれているため、中都・南京の両処で試験を行うのが適当である。」三年、宰臣に諭して言われた。「国初に科挙を設けた時は、平素厳密と号していた。今聞くところでは、会試に至って雑坐喧嘩するという。どうして弊害を防ぐのか。」考官及び監察の罪を治めるよう命じた。興定二年、御史中丞の把胡魯が言上した。「国家は数路で人材を収めるが、ただ進士の選が最も重んじられ、数が揃うことを求めず、ただ賢を得ることに務めている。今、場屋の会試では、策論進士は二人に満たず一人を取り、詞賦・経義は二人で一人を取る。以前に聖訓があったとはいえ、大定の制に依り、中選すれば即ち収め、多寡を問わないとすべきである。しかし大定年間に赴試する者は時に三千に至り、取る者は五百を超えなかった。泰和年中には、策論進士は三人で一人、詞賦・経義は四人で一人を取った。かつて貞祐初年、詔して府試を免じ、会試に赴く者が九千人近くに及んだが、取った者は八百余り、すなわち十分の一に過ぎなかった。当時すでに大定の制に依るべきとの意見があったが、何嘗て二人で一人を取ったことがあろうか。今、考官がこのように氾濫しているのは、賢を求める道ではない。会試の前に、取るべき数を奏請し、恩を上より出させるのがよい。」詔して文資官を集めて議させ、結局泰和の例に従った。また宰臣に言われた。「従来、廷試進士は日晡後には即ち宮中から出していたが、文思の遅い者がその才を尽くせない恐れがある。暮時まで待たせるようにせよ。」特に経義進士の王彪ら十三人に及第を賜い、上はその程文を覧て、その辞藻を愛で、しばしば嘆賞された。そこで学者がますます少ないことを怪しまれ、監試官の左丞高汝礪に言われた。「士を養う学糧は、歳が少しでも豊熟すれば即ち本色で給するようにせよ。そうでなければこの科は廃止するであろう。」五年、省試の経義進士で、考官が常格の外に十余人を多く取った。上は命じて特恩をもって及第を賜うた。また河北の挙人で、今度の府試に中選したが兵のために阻まれた者は、次の府試を免ずるよう命じた。

策論進士は、女直人を選ぶ科である。初め大定四年、世宗は女直大小字で訳した経書を頒行するよう命じた。毎謀克ごとに二人を選んで習わせた。まもなく女直字学校を興そうとし、猛安謀克の内から多く良家の子を選んで生員とし、諸路で三千人に至った。九年、異等の者百人を選び、京師に推薦し、廩給を与えた。温迪罕締達に命じて古書を教えさせ、詩・策を作らせ、後に再試し、徒単鎰以下三十余人を得た。十一年、初めて策選の制を行おうと議し、十三年に至って始めて定め、毎場策一道、五百字以上で成すものとし、郷試府試を免じ、ただ会試御試に赴くのみとした。かつ詔して京師に女直国子学を、諸路に女直府学を設け、新進士を以て教授に充て、士民の子弟で学びたい者を教えさせた。これを行って久しく学ぶ者が多くなれば、漢人進士と同じく三年に一度試験する制とするとした。そこで憫忠寺で徒単鎰らを試し、その策問は「賢は世に生まれ、世は賢によって資けられる。世は未だ嘗て賢を生まざるはなく、賢は未だ嘗て世を輔けざるはない。蓋し世に賢無きに非ず、ただ用いるか否かのみ。伊尹の成湯を佐け、傅説の高宗を輔け、呂望の文王に遇うが如きは、皆耕築漁釣の間より起こり、その功業卓然として後世企て及ぶべからざるは、蓋し殷・周の君その人を用い、その才を尽くしたからである。本朝は神武をもって天下を定め、聖上は文徳をもって海内を綏んじ、文武並び用い、言の小善といえども必ず従い、事の小便といえども棄てず、蓋し人を取るの道尽きている。しかるに尚ほ賢能が草沢に遺ることを憂えている。今、天下の賢を尽く得て用い、また賢者をして各々その能を尽くさしめんと欲する。いずれの道を以てかここに至らんとするか。」憫忠寺には旧来双塔があり、進士が入院した夜半、東塔の上に音楽のような声がして、西の宮中に入るのを聞いた。考試官の侍御史完顔蒲涅らは「文路開かれて始めてこの祥あり、賢を得る瑞である」と言った。中選した者は徒単鎰以下二十七人を得た。十六年、皇家の両従以上の親及び宰相の子は、直ちに御試に赴くことを命じた。皇家の袒免以上の親及び執政官の子は、直ちに会試に赴くことを命じた。二十年に至り、徒単鎰らを中外に教授させたので、その学は大いに振るった。遂に定制とし、今後は策・詩をもって三場を試み、策は女直大字を用い、詩は小字を用い、程試の期日は全て漢人進士の例に依るものとした。省臣が奏上した。「漢人進士は来年三月二十日郷試、八月二十日府試、次年正月二十日会試、三月十二日御試である。」勅して来年八月二十五日に中都・上京・咸平・東平府等の路の四か所で府試を行い、その他は前例に従うとした。上は言われた。「契丹文字は年代が遠く、その撰んだ詩を観ると、義理深微である。当時何故契丹進士科挙を立てなかったのか。今、女直字科を立てたとはいえ、女直字は創制されて日が浅く、義理が漢字のように深奥でないことを慮り、後人の議論となることを恐れる。」丞相の守道が言った。「漢文字も恐らく初めは必ずしもこのようではなかったでしょう。歴代の聖賢が漸く加えて修め挙げたのです。聖主は天姿明哲で、経書を訳して天下に教えさせ、これを久しく行えば、漢人の文章と同じくすることもできます。」上は言われた。「漢人進士の例と同じくせよ。程文に訳して、漢官に覧せしめよ。」二十二年三月、女直進士を策試した。四月癸丑に至り、上は宰臣に言われた。「女直進士の試験はすでに久しいのに、何故まだ考定していないのか。」参知政事の斡特剌が答えて「その訳文を付けて検討しているためです」と言った。上は速やかに行うよう命じた。二十三年、上は言われた。「女直進士の科を設けて未だ久しくない。もし積習精通させれば、能・否は自ずから現れるであろう。」二十八年、宰臣に諭して言われた。「女直進士はただ策をもって試みるのみで、これを既に久しく行えば、人は予め準備できる。今、もし経義をもって試みることはできるか。」宰臣が答えて「『五経』の中の『書』・『易』・『春秋』は既に訳してあります。『詩』・『礼』の訳を待って、試験を行うのがよいでしょう。」と言った。

礼の儀式が終わった後、試験を行うのがよい。」 上(章宗)は言った。「大経の義理は深遠であり、年月を加えなければ貫通できない。今は経書の中から姑く論題を試み、後で徐々に経義を試すべきである。」

章宗の大定二十九年、詔して諸人に策論進士の挙を試みることを許す。七月、省が奏上した。「もし詩・策・論を全て一日の日程で試験すれば、力が及ばない恐れがある。詩と策を一日、論を一日とし、詩と策が合格した者を中選とし、論によってその名次を定める。」上は言った。「論は新たに加えたものであり、第三挙の時に至って初めて通して去留を定めるべきである。」明昌元年、猛安謀克で進士の試験を受けたい者は、余人の例に準じて擬定し、直ちに御試に赴かせることはできない。」上は言った。「これは女直進士のみを許し、漢進士の試験を受けさせないということである。」また定制を定め、余官で第五品の散階にある者は、直ちに会試に赴くことを許し、官職ともに五品に至った者は、直ちに御試に赴くことを許した。承安二年、勅して策論進士は丁数に制限を設けて習学させる。遂に定制を定め、内外の官員・諸局分の承応人・武衛軍、及び猛安謀克の女直並びに諸色の人で、戸に一丁のみの者は試験を受けることを許さず、二丁の者は一人を許し、四丁の者は二人、六丁以上の者は三人までを許す。三回終場した者は、丁数を検証する限りに在らず。三年、定制を定め、女直人で年四十五以下の者が進士挙を試みる場合、府試の十日前に、佐貳官で善射の者に射を試みさせる。その制は、六十歩に垛を立て、射者から十五歩離れて二本の竿を対立させ、竿の間は二十歩、地面から二丈の高さに縄を横に張る。弓は強弱を限らず、的中の有無を計らず、弓を張る巧便さ、矢を放つ迅速さと正確さを以て熟練とする。十矢中二矢が的(垛)に中ち、縄の下から垛に至る者を中選とする。その他の路は提刑司に委ね、都では監察に体究させる。もし会試・御試に赴くべき者については、大興府の佐貳官が試験し、三挙終場の者はこれを免ずる。四年、礼部尚書賈鉉が言う。「策論進士が程試で弓箭を試みる場合、両挙終場及び年十六以下の未成丁の者について、もし弓箭の故に退落させれば、賢路を失うことになる。及第後にこれを試み、中った者には別に任用を加え、或いは昇遷させ、否なる者は降格させることを乞う。」省臣が謂う。「旧制では三挙終場は試験を免ずるが、今両挙も免ずるのは不可である。もし未成丁を以て試験を免ずれば、必ず妄りに年齢を隠す者がいる。もし真に幼ければ、徐々に習わせるのに遅くはない。及第後の試験による昇降については、既に定格がある。」詔して旧制に従う。泰和の格においては、更に時務策に故事を参じ、及び経旨の疑難を問う制があった。

宣宗が南遷し、興定元年、中都・西京等の路について制し、策論進士及び武挙人は権(仮)に南京・東平・婆速・上京の四箇所で府試を行う。五年、上は進士の斡勒業德等二十八人に及第を賜う。上は程文を覧て、その数が少ないのを怪しみ、宰臣に問うた。答えて言う。「大定の制では随処に学を設け、諸謀克は三人或いは二人を生員として貢し、銭米を以て贍給した。泰和の中に至っては、人例として地六十畝を授けた。給する所が既に優厚であったから、学ぶ者が多かった。今、京師には府学が存するが、月に通宝五十貫を与えるのみである。もし諸路の総管府及び軍戸のある処に学を置いて養えば、おそらく増やすことができる。京師の府学には既に六十人を設けているが、更に四十人を増やすことを乞う。中京・亳州・京兆府には総府に学官を置き、謀克内で軍籍に隷属しない者を学生とし、人ごとに地四十畝を与える。漢学生で在京の者も同様に扱うことを乞い、その他の州府は旧制のままとする。」上はこれに従った。

会試の数について、大定二十五年、詞賦進士は五百人を超えてはならない。二十八年、人数を限らなかったため、遂に五百八十六人に至った。章宗は合格すれば取るよう命じたため、承安二年には九百二十五人に達した。当時、四挙終場の者を更に加えたため、数が甚だ濫雑となり、遂に取る者は六百人を超えてはならないと命じた。泰和二年、上は会試諸科の取る人数を定めるよう命じた。司空しくうの襄が言う。「詞賦・経義を試みる者は多く、五つに一つを取ることができる。策論は極めて少なく、四つに一つを取ることができる。恩榜は本来、場屋に老いた者を優遇するものである。四挙で恩を受けるのは余りに優遇し過ぎであり、年齢で制限すれば異材を妨げる。五挙で恩を授けるのがよい。」平章の徒單鎰等が言う。「大定二十五年から明昌初年にかけて、概ね三、四人に一人を取った。」平章の張汝霖も言う。「五人に一人を取れば、府試百人中わずか五人を得るに過ぎない。」遂に定制を定め、策論は三人に一人、詞賦・経義は五人に一人を取り、五挙終場で年四十五以上、四挙終場で年五十以上の者は恩を受ける。

試験官について、大定年間、府試は六箇所で、各々詞賦試官三員、策論試官二員を差し出した。明昌初年、九箇所に増やし、路ごとに九員を差し出し、大興府は十一員とした。承安四年、更に太原を加えて十箇所とした。有司がこれを省くよう請うたため、遂に策論進士・女直経童で千人以上は四員、五百人以上は三員、五百に及ばない者は二員を差し出すと定めた。各々職官の高い者一人を考試官とし、残りを同考試官とする。詞賦進士と律科挙人と合わせて三千以上は五員、二千は四員、二千に及ばない者は三員とする。経義進士及び経童挙人で千人以上は四員、五百以上は三員、百人以上は二員、百人に及ばない者は詞賦考官が兼ねる。後にまた定制を定め、策論試官は、上京・咸平・東平は各三員、北京・西京・益都は各二員とする。律科は、監試官一員、試律官二員で、詞賦考試院に隷属させる。経童は、試官一員で、経義考試院に隷属させ、会試と同じとする。その弥封並びに謄録官・検搜懐挟官・その他試院を修治する者・門官を監押する者は、全て会試の制と同じとする。大定二十年、上は往年遠地の官を試験官とするのが不便なことが多かったため、遂に近い者を差すよう命じた。

会試について、知貢挙官・同知貢挙官は、詞賦では旧来十員であったが、承安五年に七員とした。経義では六員であったが、承安五年に四員に省いた。詮読官は二員。泰和三年、上は弥封官が挙人に言葉を漏らすことを以て、今後女直司では右選の漢人を用いて封じ、漢人司では女直司で封じるよう勅した。宣宗の貞祐三年、会試の賦題が既に出題されたことがあるのに、格に犯しながら中選した者がおり、更に考官が多く親しい者を取るため、その不公正を怒り、これを究治するよう命じた。

御試について、読巻官は、策論・詞賦進士は各七員、経義は五員、その他の職事官は各二員とする。制挙宏詞は合わせて三員。泰和七年、礼部尚書張行簡が言う。「旧例では、読巻官は親族を避けず、親族がいるに至っては、敢えてその去留を定められない者があり、或いは力を加えて庇護し、同列に疑われることがある。もし読巻官に進士と親族関係にある者を用いなければ、読巻の際に平心に商確することができる。」上は遂に臨時に多く擬定し、その中に親族がいる者は淘汰するよう命じた。

府試の策論進士については、大定二十年に中都・上京・咸平・東平の四箇所と定めた。明昌元年に至り、北京・西京・益都を加えて七箇所とし、兼ねて女直経童を試験した。凡そ上京・合懶・速頻・胡裏改・蒲與・東北招討司等の路の者は、会寧府で試験に赴く。咸平・隆州・婆速・東京・蓋州・懿州の者は、咸平府で試験に赴く。中都・河北東西路の者は、大興府で試験に赴く。西京並びに西南・西北の二招討司の者は、大同府で試験に赴く。北京・臨潢・宗州・興州・全州の者は、大定府で試験に赴く。山東西・大名・南京の者は、東平府で試験に赴く。山東東路は則ち益都で試験する。凡そ詞賦・経義進士及び律科・経童の府試の場所は、大定年間には、大興・大定・大同・開封・東平・京兆の凡そ六箇所であった。明昌初年に、遼陽・平陽・益都を増やして九箇所とした。承安四年に再び太原を増やして十箇所とした。中都・河北は則ち大興府で試験し、上京・東京・咸平府等の路は則ち遼陽府で試験し、その余は各々その境域で試験する。

凡そ郷試の期日は、三月二十日とする。府試の期日は、もし策論進士であれば則ち八月二十日に策を試験し、三日を隔てて詩を試験する。詞賦進士は則ち二十五日に賦及び詩を試験し、また三日を隔てて策論を試験する。経義進士はまた詞賦の後三日を隔てて経義を試験し、また三日を隔てて策を試験する。次に律科、次に経童、毎場皆三日を隔ててこれを試験する。会試は、則ち策論進士は正月二十日に策を試験し、皆順次に三日を隔て、前と同じとする。御試は、則ち三月二十日に策論進士が策を試験し、二十三日に詩論を試験し、二十五日に詞賦進士が賦詩論を試験し、而して経義進士もまたこの日に経義を試験し、二十七日に乃ち策論を試験する。もし試験日に雨雪に遇えば、則ち晴日を待つ。御試で唱名の後、策を試験する者は則ち奏聞し、宏詞は則ち二日の日程で試験する。旧制では、女直進士の試験は漢進士の再試験の後であった。大定二十九年に経義科を復設したことを以て、この制を改定した。

凡そ監検の制は、大興府は則ち武衛軍を差し出す。その余の府は則ち附近の猛安内から差し摘まし、平陽府は則ち順徳軍を差し出す。凡そ府会試では、四人の挙人ごとに一人を差し出し、また官一人を以て弾圧する。御試の策進士は則ち弩手及び随局の承応人を差し、漢進士は則ち親軍を差し、各々一名ずつとし、皆字を知らざる者を用い、護衛十人を以てする。親軍の百人長・五十人長各一人が巡護する。泰和元年、省臣が奏上して言う、「搜検の際は厳切であるべきだが、然しながら袒衣を解き発し、耳鼻にまで及んで索くことは、則ち過甚であり、豈に士を待遇する礼であろうか。故に大定二十九年に既に嘗て前の故事に依り、沐浴に就かせ、官が衣を置いてこれを更えさせた。既に濫りを防ぐことができ、且つ礼を虧かさない。」上はその説に従い、これを行わせることを命じた。

恩例。明昌元年に定制し、省元は直ちに御試に就き、及第せざる者は榜末に綴ることを許す。解元は但だ府試を免じ、四挙終場は五挙の恩例に依る。試験した文巻は惟だ御名廟諱を犯し、文理を成さざる者は則ちこれを黜し、その余は並びに文の優劣を以て次第とする。仍って一日に三題を試験し、その五挙者は止だ賦詩を試験する。女直進士もまたこの例と同じとする。承安五年に、進士四挙で恩に該る者は、詞賦・経義は各科を以て場数とすべく、通数してはならぬと勅した。又恩榜の人で官を授かるべき者は、監試官が試験時に数を具えて奏上し、特恩の者はこれを授ける。泰和三年に、経義の会元は策論詞賦進士と異なり、もし御試で黜せられれば則ち榜末に附するのは、太だ優しすぎる。もし同じ恩例とすれば、また四挙者と異なる。遂に定制し、嘗て府試の解元が府試を免じた例に依り、会試で下第し、再挙すれば直ちに御試に赴く。

律科

律科進士は、また諸科と称し、その法は律令内より出題し、府試は十五題、五人ごとに一人を取る。大定二十二年に定制し、会試は毎場十五題、三場通じて三十六条以上、文理優れ、擬断当たり、用字切なる者を、中選とする。臨時に約してこれを取り、初め定数無し。その制は初めて海陵庶人の正隆元年に見え、章宗の大定二十九年に至り、有司が言う、「律科は只だ律を読むことを知るのみで、教化の源を知らず、『論語』『孟子』を通治せしめ、以てその気度を涵養すべし。」遂に今より挙げた後、また『論語』『孟子』内に小義一道を試験し、府会試は別に一日を設けて引試し、経義試官に命じて題を出させ、本科と通考してこれを定める。

経童科

経童の制は、凡そ士庶の子で年十三以下、二大経・三小経を能く誦し、また『論語』諸子及び五千字以上を誦し、府試十五題通じ十三以上、会試毎場十五題、三場通じて四十一以上を、中選とする。貴ぶところは幼くして誦するもの多く、若し年同じければ、則ち大経を誦するもの多き者を最とする。初め、天会八年の時、太宗は東平の童子劉天驥が、七歳にして『詩』『書』『易』『礼』『春秋左氏伝』及び『論語』『孟子』を能く誦するを以て、上は教養することを命じたが、然し選挙の制は未だ無かった。熙宗即位の二年、詔して貢挙を辟き、始めてその列を備え、百二十二人を取った。天徳年間に、これを廃した。章宗大定二十九年、上は宰臣に謂いて言う、「経童は豈に急に人無からんや、その議して復置せよ。」明昌元年、益都府が申す、「童子劉住兒年十一歳、詩賦を能くし、大小六経を誦し、書く行草頗る法有り、孝行夙に成る。宋の童子李淑の出身を賜うるに依り、且つ恩詔を加えんことを乞う。」内殿に召し至り、『鳳凰来儀』の賦・『魚在藻』の詩を試験し、また『旱』の詩を賦せしむ。上これを嘉し、本科の出身を賜い、錢粟官舍を給し、太学に肄業せしむ。明昌三年、平章政事完顔守貞が言う、「経童の科は古に非ず。唐より諸道表薦し、或いは五人より十人を取る。近代宋の仁宗は補うこと無しと為し、これを罷む。本朝皇統年間に五十人を取り、因って常と為し、天徳時に復た廃す。聖主復た置き、百数を以て取る。久しく積もり多きを恐れ、銓擬に勝えず。旨を諭して約省してこれを取ることを乞う。」上曰く、「若し誦する所皆及格せば、如何。」守貞曰く、「最も幼くして誦するに訛らざる者を視て精選すれば、則ち人数も亦至って多からざるなり。」また参知政事胥持国に問う。対えて曰く、「誦する所通ずるか否かは見易く、豈に濫り有るを容れんや。」上曰く、「三十或いは四十人に限る。若し百人皆通ずれば、亦た復たその精なる者を取るべし。」持国曰く、「この科は蓋し教えを資するの術のみ。夫れ幼くしてその文を習い、長じてその義を玩し、これに政を蒞ましめれば、人材出ず。若し中選する者、これに修習して進士の挙業を加えれば、則ち記する所皆用いるを得べし。臣謂う、急に仕途に登らしむるを令せず、必ず挙業を習わしめ、而して後に官使うべし。若し能く進士第を擢ばば、自ら進士と同じく任用すべし。若し府薦或いは会試に中れば、その次数を視て、その等級を優にする。幾挙かして薦められざる者は、本の出身に従う。似たるは以て激勧して人を得べし。」詔してこれを議して行わしむ。

制挙

制挙には賢良方正、能直言極諫、博学宏材、達于従政などの科があり、試験は定まった時期がない。皇帝が行おうと意図すれば、ただちに天下に告げる。内外の文武六品以下の職官で公私の過失がない者は、内外の五品以上の官が所属する所に推薦し、詔によって試験させることを聴く。もし草沢の士で、徳行が郷里で敬服される者であれば、府州が推薦する。凡そ試験するには、まずその業とする策論三十道を学士院に投じ、その文辞と道理の優れた者を見て、委官が群経子史の内から出題し、一日に論三道を試し、もし可とすれば、庭試で策一道を試し、常務に拘わらず、通貫しないところのない者を取って、優等として遷擢する。宏詞科は詔・誥・章・表・露布・檄書を試験し、これらは皆四六を用いる。誡・諭・頌・箴・銘・序・記は、あるいは古今の体に依り、あるいは四六を参用する。毎回の挙で賜第した後の進士および在官六品以下で公私の罪のない者について、在外の官が推薦し、試験策官に命じて出題し就いて考査させ、四題を通して試験し、二等に分けて遷擢する。二科はともに章宗明昌元年に創設されたものである。

武挙

武挙は、かつて皇統の時に設けられ、その制は『泰和式』に見え、上中下の三等がある。一石の力弓を引き、重さ七銭の竹箭を用い、百五十歩の距離に立って貼(的)を射ち、十箭の内、府試では一箭中てることを欲し、省試では二箭、程試では三箭中てる。また遠射二百二十歩の垛(的)を射ち、三箭の内一箭が至る者。また百五十歩の内、五十歩ごとに高さ五寸、長さ八寸の臥鹿二つを設け、七斗の弓と二つの大鑿頭鉄箭を用いて馳射し、府試では四反射つことを許し、省試では三反、程試では二反とし、皆二箭中てる者。また百五十歩の内、三十歩ごとに、左右に錯いて高三尺の木偶人で五寸の方板を戴くものを四つ置き、槍で馳せて刺し、府試では三反馳することを許し、省試では二反、程試では三反とし、左右各々一板を刺し落とす者。また蔭例に依って律一条を問い、また『孫子』『呉子』の書十条を問い、五つを説くことができる者を上等とする。凡そ程試では、もし一つでも中てないものがあれば、皆罷免する。もし貼を射る弓が八斗、遠射が二百一十歩、鹿を射る弓が六斗、『孫子』『呉子』の書十条を通じるものが四つであれば、中等とする。貼を射る弓が七斗、遠射が二百五歩、鹿を射る弓が五斗、『孫子』『呉子』の書十条を通じるものが三つであれば、下等とする。律を解すること、板を刺すことは、皆前に同じくすることを欲する。凡そ書を知らない者は、たとえ上等であっても中等とし、中等であれば下等とする。凡そ中下等に試験に及第し、再び試験を願う者は聴く。旧制では、上等に就いて試験し及第しなければ、再び中下等を試験することを許さなかった。泰和元年、定制として、旧等を分かたず、ただその願う所に従い、試験に及第すれば三等を次第とする。二年、省が奏上して言う、「武挙の程式は進士と同時に行うべきである。今年八月に府試を行い、各路に試験所を設けようとするが、臨時に官を差すのは、創立されて間もないため応試者の数が見えないことを恐れ、暫く各処で就いて考査させることを命じたい」。宣宗貞祐三年、進士の例に同じくし、敕命と章服を賜う。時に各所の武挙で入試する者は、現に職任に居る者および既に軍前に用いられている者でない限り、郡県に尽く京師に遣わさせ、別に一軍とし、緩急に備えさせた。その推薦されながらまだ官を授かっていない者も、材量に応じて任用した。元光二年、東京総帥の紇石烈牙吾塔が言う、「武挙で仕官する者は、皆巡尉・軍轄を授かる。この連中は騎射に長けていても、行陣を経ず、軍旅を知らない。一朝敵に臨めば、敗事を招く恐れがある。ことごとく徴発して軍前に付し、長校とし、功があればこれを昇進させてほしい」。宰臣が奏上して言う、「国家がこの科を設けて進士と同等にしているのに、ことごとく軍中に置こうとするのは、人材を奨励し進める道ではない」。そこで丁憂・待闕・去職の者を籍に載せてこれに付した。

学士院官の試験

学士院官の試験。大定二十八年、科を設けて士を取って学士院官とすることを敕した。礼部が太常に下し、唐の典に按ずるに、初めて学士院に入る例はまず試験する。今もし進士で既に仕官している者を、随朝の六品、外路の五品の職事官が推薦し、制詔誥などの文字三道を試験し、文理の優れた者を取って応奉に充てる。これによって翰苑の選は精となった。明昌五年、学士院で文字を撰する人が少ないため、尚書省に命じて文采ある者を訪ねて勾取し、暫く試験させた。

司天・医学の試験科

凡そ司天臺の学生は、女直二十六人、漢人五十人とし、官民の家で年十五以上、三十以下の者を聴いて試験補う。また三年に一度、草沢の人を選んで試験補う。その試験の制は、『宣明暦』で推歩を試し、および『婚書』・『地理新書』で合婚・安葬を試し、並びに『易』の筮法、六壬課、三命五星の術を試す。凡そ医学十科は、大興府の学生三十人、その他の京府二十人、散府節鎮十六人、防御州十人とし、毎月疑難を試験し、その答える優劣によって懲戒と勧励を加え、三年に一度諸太医を試験し、学生に系わらない者も、聴いて試験補う。