文字サイズ
金史
志第三十: 食貨四 塩 酒 酢稅 茶 諸征商 金銀之稅
塩
金の制度において、専売貨物の項目は十あり、酒・麹・茶・酢・香・礬・丹・錫・鉄というが、塩がその筆頭と称された。貞元初年、蔡松年が戸部尚書となって、初めて鈔引法を復活させ、官を設け庫を置いて鈔と引を造らせた。鈔は、塩司の帳簿の符契に合致するものである。引は、司県の批繳の数に合わせるものである。七年ごとに一度これを整理改革した。初め、遼・金の旧地は海に臨んで塩の産出が多く、上京・東北の二路は肇州の塩を食し、速頻路は海塩を食し、臨潢の北に大塩濼があり、烏古裏石壘部に塩池があって、皆境内の民を養うに足り、かつてその税を徴収した。中土を得てからは、塩場は倍加したので、官を設け法を立ててより詳細にした。しかしながら増減は一定せず、廃置は恒常的でなく、また時勢に応じて弊害を救うのみであった。益都・濱州には旧来二つの塩司を置いていたが、大定十三年四月、山東塩司に併合した。二十一年、滄州及び山東の各務が増益を貪り、禁を犯して塩を売り、朝議はそのままでは久しければ法が廃れることを憂い、遂に海豊塩使司に併合した。十一月、また遼東等路の諸塩場を併せて、二つの塩司とした。大定二十五年、狗濼を西京塩司と改称した。この後は山東・滄・宝坻・莒・解・北京・西京の七塩司のみを置いた。
山東・滄・宝坻では三百斤を一袋とし、袋二十五を一大套とし、鈔・引・公据の三者が全て揃って初めて売ることを許した。小套は袋十、あるいは五、あるいは一で、毎套に鈔一、引は袋の数と同じである。宝坻の零塩はその斤数を比較し、六分の三、あるいは六分の一とし、また小鈔引を与えて、その売買を便利にした。解塩は二百五十斤を一席とし、席五を一套とし、鈔引は陝西転運司と共に売り、その陝西軍営への粟の輸送を許す者は、公牒をもって鈔引と交換することを許した。西京等の塩場の塩は石を単位とし、大套は石五、小套は石三である。北京は大套が石四、小套が石一である。遼東は大套が石十で、皆一套に鈔一、一石に引一である。零塩が十石積もれば、また鈔一で引十である。
その塩を行商する区域は、それぞれその地の実情に合わせて定める。山東・滄州の塩場は九つで、山東・河北・大名・河南・南京・帰徳の諸府路、及び許・亳・陳・蔡・潁・宿・泗・曹・睢・鈞・単・寿の諸州に行く。莒の塩場は十二で、濤洛場は莒州に行き、臨洪場は贛楡県に行き、独木場は海州司候司・朐山・東海県に行き、板浦場は漣水・沐陽県に行き、信陽場は密州に行く。この五場はまた大塩場と共に沂・邳・徐・宿・泗・滕の六州に行く。西由場は萊州録事司及び招遠県に行き、衡村場は既墨・萊陽県に行く。この二場の鈔引及び半袋小鈔引は、当該州県で売ることを許す。寧海州の五場は皆零塩を売り、引目を用いない。黄県場は黄県に行き、巨風場は登州司候司・蓬萊県に行き、福山場は福山県に行く。この三場はまた傍県の棲霞にも行く。寧海州場は司候司・牟平県に行き、文登場は文登県に行く。宝坻塩は中都路に行き、平州副使が馬城県に局を置いて銭を貯蔵する。解塩は河東南北路、陝西東、及び南京河南府・陝・鄭・唐・鄧・嵩・汝の諸州に行く。西京・遼東塩はそれぞれその地に行く。北京の宗・錦の末塩は、本路及び臨潢府・肇州・泰州の境に行き、接壤する地もこれに加わる。
世宗大定三年二月、軍が私的に塩を煮、及び官塩を盗む法を定め、猛安謀克に巡捕させた。三年十一月、詔して銀牌を益都・濱・滄塩使司に給する。十一年正月、西京塩判宋俁の言を用い、狗濼塩場を改めて六品使司と定め、俁を以て使とし、順聖県令白仲通を副とし、この年の入銭を以て定額とした。四月、烏古裏石壘の民が飢えたので、その塩池の税を罷めた。十二年十月、詔して西北路招討司猛安の管轄する貧民及び富人の奴婢に、皆食塩を給する。宰臣が言うには、「塩濼から遠い者は、得るものが道里の費用に償わない。」そこで命じて口数を計って代価を給し、富家の奴婢は二十口までとした。
十三年二月、永塩の専売を宝坻使司に併合し、平・灤の塩銭を罷めた。滄州の旧廃海阜塩場について、三月、州人李格が再設置を請うたので、詔して使者を遣わして視察させた。有司が言うには、「この場が興れば滄塩の課税を損ない、かつ食塩戸は旧来のままで、塩貨が歳ごとに増えれば、必ずや多く積むだけで売れなくなるであろう。」遂にその議を止めた。三月、大塩濼に塩税官を設けた。また烏古裏石壘部の塩池の税を免じた。二十一年八月、参知政事梁肅が言うには、「宝坻及び傍県は食糧が欠乏することが多いので、塩価を減じ粟価を増し、粟をもって塩と交換させることができる。」上は宰臣に議わせたが、皆言うには、「塩は多く食する物ではなく、もし価を減じて粟と交換させれば、久しく売れず、課税を損なうに至ることを恐れる。今年の糧は七十余万石が通州に至り、近くまた恩・献等六州の粟百余万石が続いて至り、賑済するに足りるので、交換の煩わしさはない。」遂に罷めた。十二月、平州の椿配塩課を罷めた。二十三年七月、博興県の民李孜が日炙塩を収集したので、大理寺が私塩及び鹹土を刮ぐの二法を具えて上奏した。宰臣は私塩と比べるに及ばないと言い、張仲愈のみが言うには、「私塩の罪は重いが、犯す者はなお多く、これを放ってはならない。」上は言うには、「鹼を刮ぐのは煎じるのではなく、どうして私塩と同じにできようか。」仲愈は言うには、「そうすると渤海の人は恣に鹼を刮いで食し、官課を侵すことになるであろう。」力説して止まないので、上は遂に孜を鹼を刮ぐ罪と同じに処した。後に犯せば私塩法と同じに論ずる。
十一月、張邦基が言うには、「宝坻の塩課は、もし毎石正課百五十斤を収めれば、風乾による折耗を憂う。」そこで石ごとに耗塩二十二斤半を加えることを命じ、なお一年先に貸し支払い代価を償い、以て竈戸を優遇した。
二十四年七月、上は上京に在りて、丞相烏古論元忠等に謂ひて曰く、「會甯尹蒲察通言ふ、其の地の猛安謀克戶甚だ艱し。舊速頻以東は海鹽を食す。蒲與・胡裏改等路は肇州鹽を食し、初め定額萬貫、今二萬七千に増す。若し鹽引を罷め、竈戶を添へば、庶幾く易く得べし」と。元忠對へて曰く、「已に嘗て使を遣はし咸平府以東に規畫せしむ」と。上曰く、「此を待つ須ひず、宜しく亟に之を為すべし」と。通又言ふ、「上京酒務を罷め、民に自ら造りて稅を輸せしむることを聽く可し」と。上曰く、「先に灤州諸地も亦た嘗て民に鹽を煮しめしも、後に以て便ならずして之を罷む、今豈に民に自ら沽はしむ可けんや」と。
二十五年十月、上還りて上京より、宰臣に謂ひて曰く、「朕聞く、遼東、凡そ人家鹽を食するも、但だ引目の無き者は、既に私を以て罪を治むと。夫れ細民徐に買ひて之を食するも、何ぞ由て引目有らん。止むるに散辦を令し、或は諸の民に詢ひて、其の欲する所に從ふ可し」と。因りて之が為に北京・遼東鹽使司を罷む。
二十八年、尚書省鹽の事を論ず。上曰く、「鹽使司官課を辦すと雖も、然れども素より民を擾す。鹽官每に出巡するに、而して巡捕人往々私に官鹽を懷き、至る所賄及び酒食を求め、稍不如意なれば則ち以て所懷を誣ひて私鹽と為す。鹽司苟くも羨増を圖るに、其の誣なりと知るも亦た復た刑を加ふ。宜しく別に巡捕官を設け、鹽司と關涉せしめざるべく、庶幾く其の弊を革むべし」と。五月、巡捕使を創め、山東・滄・寶坻各二員、解・西京各一員。山東は則ち濰州・招遠縣に置き、滄は深州及び寧津縣に置き、寶坻は易州及び永濟縣に置き、解は澄城縣に置き、西京は兜答館に置く。秩從六品、直に省部に隷し、各銀牌を給し、鹽使司の弓手を取て巡捕人と充て、且つ人家に於て搜索することを禁ず。若し食鹽一斗以下は究治するを得ず、惟だ盜販煮するは則ち之を捕ふ。三百里内に在る者は轉運司に屬し、外なる者は即ち路府提點所に隨ひて罪を治む。盜みて課鹽する者も亦た之の如し。
章宗大定二十九年十月、上朝す隆慶宮に、有司に諭して曰く、「比に獵に因りて、百姓多く鹽禁に獲罪する者有るを知る。民何を以て堪へん。朕平・灤・太原均辦の例に依り、民に自ら煎ぜしめんと欲す。其れ百官をして之を議せしめよ」と。十二月、戶部尚書鄭儼等謂ふ、「若し民をして口を計りて課を定めしむれば、民既に幹辦錢を輸し、又必ず別に市して食せん。是れ民財を重く費し、而して徒らに煎販者の利を増すなり。且つ今の鹽價は、蓋し昔日錢幣易く得る時の定むる所なり。今日向と異なり、況んや太平日久しく、戶口蕃息す。食鹽の歲課宜しく羨増有るべし。而して反つて之無きは、何ぞや。官估高きに縁り、貧民私鹽の賤きを利し、致して官課を虧く爾。近く已に寶坻・山東・滄鹽價を減じて斤を三十八文と為す。乞ふ更に八文を減じ、歲一百二十餘萬貫を減ずるに過ぎず。官價既に賤ければ、售る所必ず多く、自ら羨餘有り、亦た全く減ずる所の數を失はざらん。況んや今府庫の金銀約錢萬萬貫有奇に折す。設ひ鹽課足らざるとも、亦た百有餘年の經用を補ふに足らん。若し量入爲出せば、必ず不足の患無からん。乞ふ平・灤幹辦鹽課も亦た價を減ずる宜しく、各路巡鹽弓手自ら專ら巡捕するを得ざらしめ、庶幾く誣罔の弊を革むべし」と。禮部尚書李晏等曰く、「所謂幹辦は、既に美名に非ず、又た良法に非ず。必ず私煮盜販の弊を杜絶せんと欲せば、每斤を減じて二十五文と為すに若かず。公私價同じからしむれば、則ち私將ち自己す。又た巡鹽兵吏往々私鹽を挾みて以て人を誣ふ。可く與に所屬司縣期會し、方に巡捕を許すべし。違ふ者は按察司之を罪すべし」と。刑部尚書郭邦傑等則ち謂ふ、「平・滦瀕海及び太原鹵地は舊の如く幹辦す可く、餘は儼の議に同じ」と。御史中丞移剌仲方則ち謂ふ、「私煎盜販の徒は、皆禁を知りて之を犯す者なり。能吏を選びて巡捕使に充つ可く、而して人家に搜索に入ることを得ざらしむべし」と。同知大興府事王翛請ふ、每斤を減じて二十文と為し、巡鹽官を罷む。左諫議大夫徒單鎰則ち幹辦を以て便と為す。宰臣奏す、「每斤官本十文を以て、若し二十五文に減作すれば、得中と為すに似たり。巡鹽弓手三分の一を減ず可く、鹽官出巡するには須らく所屬を約して同往すべし。同じからざれば獲るも坐せず。可く自ら來歲五月一日より之を行ふべし」と。上遂に命ず、寶坻・山東・滄鹽每斤を減じて三十文と為し、已に鈔引を發して未だ支はざる者は新價に准じて之を足し、餘は請ふ所に從ふ。
十二月、遂に西京・解鹽巡捕使を罷む。時に既に詔して幹辦鹽錢を罷む。十二月、大理司直移剌九勝奴・廣甯推官宋扆を以て北京・遼東鹽司の利病を議せしめ、遂に復た北京・遼東鹽使司を置く。北京路歲を以て十萬餘貫を額とし、遼東路十三萬を以て額とす。西京及び解州巡捕使を罷む。
十一月、旧制において猛安謀克が私塩・酒麴を犯した者は、転運司が罪を按ずるものとしたが、ここに軍民が私塩を犯す者はすべて塩司に属させ、私酒麴は転運司に属させ、三百里以外の者は提点所に付すことと改めて定め、もし犯人を逮捕尋問しようとして所属する役所が吝んで遣わさない者は二年の徒罪に処すこととした。
十二月、尚書省が議して、山東・滄州の旧法では毎斤四十一文、宝坻は毎斤四十三文であったが、大定二十九年の赦恩および特旨により、三十文に減額され、計百八十五万四千余貫を減じた。後に国用が充たされないため、遂に奏して毎斤三文を加えて三十三文と定めた。承安三年十二月に至り、尚書省が奏上して言うには、「塩の利益は極めて大きい。今、天下の戸口は繁殖し、食する者は以前の倍となり、軍需を支給する引換券も甚だ多い。況んや日用欠くべからざる物である。価格の高低によって多寡があるべきではない。もし時機に応じて利を取らなければ、恐らく徒らに失うのみである」と。遂に山東・宝坻・滄州の三塩司の価格を毎斤四十二文に加増して定めた。解州の旧法は毎席五貫文であったが、六貫四百文に増額した。遼東・北京の旧法は毎石九百文であったが、一貫五百文に増額した。西京の煎塩は旧来二貫文であったが、二貫八百文に増額し、撈塩は旧来一貫五百文であったが、二貫文に増額した。価格を増した上、さらに売り捌く数量を加えた。七塩司の旧来の課税額は歳入六百二十二万六千六百三十六貫五百六十六文であったが、これにより一千七十七万四千五百十二貫百三十七文二分に増額した。山東の旧課は歳入二百五十四万七千三百三十六貫であったが、四百三十三万四千百八十四貫四百文に増額した。滄州の旧課は歳入百五十三万一千二百貫であったが、二百七十六万六千六百三十六貫に増額した。宝坻の旧入は八十八万七千五百五十八貫六百文であったが、百三十四万八千八百三十九貫に増額した。解州の旧入は八十一万四千六百五十七貫五百文であったが、百三十二万一千五百二十貫二百五十六文に増額した。遼東の旧入は十三万一千五百七十二貫八百七十文であったが、三十七万六千九百七十貫二百五十六文に増額した。北京の旧入は二十一万三千八百九十二貫五百文であったが、三十四万六千百五十一貫六百十七文二分に増額した。西京の旧入は十万四百十九貫六百九十六文であったが、二十八万二百六十四貫六百八文に増額した。
四月、宰臣が奏上して言うには、「法において、猛安謀克が私塩を告発しながら捕らえない者は杖刑に処し、その部人が犯して失察した者は、数の多寡によって罪を論ずる。今、自らこれを犯す者があり、私酒麴・牛殺しを犯す者とともに、皆世襲の権貴の家である。禁じざるを得ない」と。遂に徒罪の年数・杖数を定め、贖罪をもって論ぜず、徒罪に至らない者は五十の杖刑に処することとした。
八月、山東・宝坻・滄州の三塩司に対し、毎春秋に使者を派遣して按察司および州県に私塩巡察を督させることを命じた。
泰和元年九月、省臣が滄・浜両司の塩袋について、歳に百二十万枚の席を買い、すべて民から取っていることを以て、清州北靖海県に新たに設置した滄塩場は、もと狩猟地であり、沮洳地で蘆が多いので、その禁令を緩めて民に時折採集させて織らせるべきであると上言した。
十一月、陝西路転運使高汝礪が言うには、「旧制において、私塩・酒麴を捕らえ告発した者は、斤数を計って賞銭を与え、すべて犯人から徴収する。しかし塩官がこれを獲れば正課に充当し、巡捕官には賞を与えない。巡捕軍は常人の半減、免役弓手はさらにその半減であり、これは罪は同じながら賞が異なる。司県巡捕官が賞を受けない分および巡捕弓手が減額された分を、すべて官に徴収して入れることを請う。そうすれば罪と賞が均しくなる」と。詔してこれに従わせた。三年二月、解塩司の使を本州に治めさせ、副使を安邑に治めさせた。十一月、進士が塩使司の官に授けられる場合、榜の順位および入仕の先後によって擬注することを定めた。
四年六月、七塩使司の課税額を七年ごとに一定の制とし、毎斤を四十四文に増額した。時に桓州刺史張煒が塩をもって米と交換することを請うたので、詔して省臣にこれを議させた。
六月、詔して山東・滄州塩司が新課を増額して以来、歳々積もる欠損は、官が経画せず、管勾・監同と合幹人が互いに奸弊をなすによるものであるとし、ただちに才幹ある者を選んで両司の使副を代えさせ、進士および部令史・訳人・書史・訳史・律科・経童・諸局分出身の廉慎なる者を管勾とし、その旧官を罷免した。
十月、西北路に花鹼の禁令を犯す者がおり、塩禁の罪と同じにしようとしたが、宰臣が「私塩に比するには異なる」と言った。詔して制を定め、鹼を収める者は杖八十、十斤ごとに一等を加え、罪は徒一年に止め、賞は私礬の例と同じとした。五年六月、山東・滄州両塩司が課税を侵しているため、戸部員外郎石鉉を派遣してこれを按視させた。還って言うには、両司に分けて弁ずるのが便宜であると。詔して周昂に河北東西路・大名府・恩州・南京・睢・陳・蔡・許・潁州を滄塩司に隷属させ、山東東西路・開・濮州・帰徳府・曹・単・亳・寿・泗州を山東塩司に隷属させ、それぞれ戸口を計って課税を承けさせた。十月、河北東西大名路按察司事張徳輝が言うには、「海浜の民は私塩を得やすく、故に法を犯す者が多い。戸口を量って均配すべきである」と。尚書省が山東按察司にその利便を議させたところ、「萊・密等州は近年凶作であり、戸口を計って塩を売り徴収する額は微少ながらも、民は重いと感じ、流亡を招く恐れがある。かつ私煮する者は皆無籍の者であり、配給購買によって止めるであろうか」と言った。遂に制を定め、滄塩司とともに駅伝を馳せて境内を巡察させることを命じた。
六年三月、右丞相内族宗浩・参知政事賈鉉が言うには、「国家の経費は塩課に頼るのみである。今、山東は五十余万貫を欠損している。これは私煮盗販の者が徒党をなすためであり、塩司は既に捕らえられず、統軍司・按察司も禁じない。もし単に私塩を犯す者の数を論じて罰俸降職するのみならば、彼らは抑えて申告せず、ますます制し難くなる。各官が在職時に増減した実績を以て、塩司が省部に達し、昇降の基準とする制を立てるべきである」と。遂に詔して諸統軍・招討司、京府州軍の官に対し、所部に犯人がいる場合、二度ならば半月の俸禄を奪い、一年に五度ならば奏上して裁断を請い、巡捕官は犯せば直ちに決罰し、按察司御史にこれを察させることとした。
四月、涿州刺史夾谷蒲乃の言に従い、萊州の民が納める塩銭を絲綿銀鈔で輸納することを聴許した。七年九月、西北京・遼東の塩使判官および諸場の管勾について、増減による昇降の格を定めた。凡そ文資官吏員、諸局署の承応人で資歴を検証して注擬される者について、増額が分に及ばない者は本等の首位に昇進させ、一分減じれば一資を減じ、二分減じれば両資を減じて一官を遷し、四分減じれば両資を減じて両官を遷し、欠損の場合はこれを見て降格とする。任を終えて官を検証して注擬される者については、増額が分に及ばない者は本等の首位に昇進させ、一分減じれば一資を減じ、二分減じれば一資を減じて一階を遷し、四分減じれば両資を減じて両階を遷し、欠損の場合もこれを見て降格とする。
十二月、尚書省は盧附翼の言上したところにより、ついに竈戸が課塩を盗売する法を定めた。もし応納すべき塩課の外に余剰があれば、すべて官に申告すべし。もし留保する者は盗罪より一等を減ずる。もし鹼土を刮って煎じて食し、黄穂草を採って灰を焼き鹵を淋し、および酵粥をもって酒となす者は、杖八十とする。八年七月、宋克俊が言上するには、「塩管勾は進士諸科の人を改めて注任して以来、監官は県令の階を超えて昇進する機会を失い、そのため怠慢となって課額を欠損する。旧制に復するを便宜と乞う」と。有司は泰和四年に改注した時、当時部に到着した人を以って截替としたことを以って、ついに秋季に部に到着する人を以って注代することを擬した。八年七月、詔して淮河沿いの諸榷場に、官民が塩を以って市易することを聴す。
宣宗貞祐二年十月、戸部が言上するには、「陽武・延津・原武・滎澤・河陰の諸県は鹼鹵に富み、民が私煎して禁ずることができない」と。ついで詔して場を置き、判官・管勾を各一名設け、戸部に隷属させた。まもなく、御史台が奏上するには、「諸県は皆有力な者に奪われ、商販が行われない」と。ついで勅して御史に分かれて行き、禁約を申明させた。三年十二月、河東南路権宣撫副使烏古論慶壽が言上するには、「絳・解の民は多く塩の販売を業とし、大陽関を経由して陝・虢の粟と交易し、帰還して河を渡る時、官がその八分を邀糴する。旅費の外に残るものは幾何か。しかるに河南行部はまた自ら運搬して陝で粟と交易し、民利をことごとく奪う。近年河東は旱魃・蝗害があり、加えて邀糴により物価は高騰し、人民は流亡する。誠に憐れむべきである。邀糴を罷めてその患いを緩和することを乞う」と。四年七月、慶壽がまた言上するには、「河中は食糧が乏しく、既に救済できないのに、さらに邀糴してこれを奪う。塩は官物である。有司が陸路で河まで運び、さらに舟で京兆・鳳翔に達し、商人と貿易するのは、得難くして甚だ労苦である。しかるに陝西行部は毎石さらに二斗を邀糴する。これは官物でありながら自ら糴するのである。塩を転じて物と交易するのは、本来河中を救済するためであるのに、陝西がまた強いてこれを取るのは、奪わないと何であろうか。彼是ともに民の便に任せることを聴し、そうすれば公私ともに救済される」と。上はこれに従った。興定二年六月、延安行六部員外郎盧進の建言により、「綏徳の嗣武城・義合・克戎寨の河に近い地は多く塩を産する。塩場管勾を一名設け、歳に十三万余斤を獲、二万貫を輸送して軍費を補佐することを請う」と。三年、詔してその言を用い、官を設けて塩を売り、辺境の用に供した。四年、李複享が言上するには、「河中西岸の解塩が旧来交易した粟麦一万七千石を以って関東の用に充てる」と。まもなく解塩が陝西に通じることを許さず、北方に警報があり、河禁がまさに厳しかったためである。元光二年、内族の訛可が言うには、民が解塩を運搬することは軍食を助けると。詔して石牆を修築してこれを固めしむ。
酒
金の榷酤は遼・宋の旧制に因る。天会三年、初めて榷官を命じて周歳を以って満期とす。世宗大定三年、詔して宗室で私醸する者は、転運司に従ってこれを鞫治せしむ。三年、省が奏上するには、中都の酒戸は多く逃亡し、このため課額はますます欠損すると。上曰く、「これは官が私醸を厳禁しないことによる」と。軍百人を設け、兵馬司に隷属させ、酒使副と合わせ千人で巡察せしめ、権要の家であっても搜索を許す。奴婢が禁を犯せば、その主人を杖百とする。かつ大興少尹に酒戸を招き回復させしむ。八年、酒使司の課が五万貫以上、塩場が五万貫に及ばないものを改めて定め、旧例に従って文武官を通注し、その余はみな右職で才能あり、累次差遣して欠損なき者を以ってこれに当たらしむ。九年、大興県官は広陽鎮務の課が欠損したことを以って、その俸禄を奪われることを懼れ、酒を部民に分け与え、その税を輸納させた。大理寺は財物が自己に入っていないことを以って、贖罪を以って論ずることを請うた。上曰く、「私贓ではないが、貧民もまたその害を受けた。もし贖罪に従うのみならば、何を以って後を懲らしめようか」と。特に解職を命ず。二十六年、省が奏上するには、塩鉄酒麴は課額を定めて以来、それぞれ差があるが増加していると。上曰く、「朕がかつて上京にいた時、酒の味は良くなかった。朕は中都の曲院のように課を取って、民に美酒を得させたいと思う。朕の日々の御膳も減省し、嘗て一人の公主が来たが、余分の御膳を与えることができなかった。朕が一日に五十羊を用いようと何の難事かあろう。費用はすべて民から出ることを慮り、忍びないのである。監臨官はただ己の利を知るのみで、利がどこから来るかを知らない。もし恢辦して増羨があれば酬遷し、欠損すれば懲殿し、なおかつ併せて増加し併せて欠損する課を改めて定め、元額を失わないようにせよ。横班でただ欠損する者は、余差と一例に降罰し、そうすれば激励があるであろう。かつ功酬で二万貫を合辦すべきところ、ただ一万七八千を得るのみで、難しくして両酬を迭ることができない者は、必ず一万貫のみを納め、すぐに余銭を自己に入れる。今後は見差使内で迭酬できない余銭を、後差使内で増加する銭と通算して酬とし、そうすれば銭は官に入るであろう。および監官の食直は、もし先に与えなければ、何を以って廉潔を責めよう。今後及格限に至る者は、すなわちこの法を用いよ」と。また杓欄人を罷めることを奏上した。二十七年、天下の院務を、中都の例に依り、曲課を収めるように改め、民に酤することを聴することを議す。戸部は官を遣わして遼東の来遠軍、南京路の新息・虞城、西京路の西京酒使司・白登県・迭剌部族・天成県の七か所に問い合わせたところ、税課の外に、自ら課を承けて酒を売ることを願う。上曰く、「昔から監官は多く官銭を私する。もし百姓に承辦させれば、この弊を革められるであろう。試みに行わせよ」と。
明昌元年正月、新課を改めて定め、即日収辦せしむ。中都曲使司は、大定年間、歳に銭三十六万一千五百貫を獲、承安元年は歳に四十万五千百三十三貫を獲。西京酒使司は、大定年間、歳に銭五万三千四百六十七貫五百八十八文を獲、承安元年は歳に銭十万七千八百九十三貫を獲。七月、中都曲使司を大定二十一年から明昌六年までを界とし、通比して一年の数を均しく取りて額とす。五年四月、省が奏上するには、「旧来随処の酒税務に設けた杓欄人は、射糧軍で随朝の差役を歴任した者を以って充てたが、大定二十六年に罷去した。その随朝で応役する軍人は、各々添支の銭粟を与えてその労を酬いた。今、元来収めた杓欄銭を以って添支に代え、各院務に収めた数の百分中三を験し、課に随って代輸させ、さらに比に入れず、歳に約三十余万銭を得て、国用を補佐することを擬す」と。泰和四年九月、省が奏上するには、「在都の曲使司は、課を定めて以来八年ともに増加している。旧法に依り、八年の課程を通該し、その一年の数を均しくし、なお新たに増加した諸物の一分税銭を併せて入れ、通じて課額とすべきである。以後の課は、五年ごとにその制を定む」と。また随処の酒務に、元額の上に三分を通取して糟酵銭とす。六年、院務の売酒数にそれぞれ差がある制を定め、もし定数外に売り、および定数を過ぎて携帯する者はこれを罪す。宣宗貞祐三年十二月、御史田迥秀が言上するには、「大定中、酒税が歳に十万貫に及ぶものはじめて使司を設け、その後二万貫でも設けた。今、河南の使司も五十余員あり、月廩を虚費する。大定の制に依るべきである」と。元光元年、曲使司を再び設く。
醋税
大定の初年より、国用の不足により、官を設けて専売とし、経費を補助した。二十三年に至り、府庫が充満したので、遂にこれを廃止した。章宗の明昌五年、有司の収入が支出に満たないため、言事者が酢の利子を専売にすることを請い、遂に官を設けて専売とすることを命じ、その課額は、当該の官が定めることとした。後に廃止した。承安三年三月、省臣が国用が膨大であることを理由に、遂に再び専売とした。五百貫以上には都監を設け、千貫以上には同監一員を設けた。
茶
宋人の歳供のほかは、すべて宋の境界にある専売場で交易した。世宗の大定十六年、私販が多いため、香と茶の罪と賞の規定を改めて定めた。章宗の承安三年八月、国費を浪費し敵国を利すると考え、遂に官を設けて製造することを命じた。尚書省令史の承徳郎劉成を河南に派遣して官製のものを視察させたが、彼は自らその味を試さず、ただ民衆の言葉を採り上げて温桑であると言い、実は茶ではないとし、帰還してすぐに上奏した。上は不適任と見なし、杖七十で罷免した。四年三月、淄・密・寧海・蔡の各州に一つの作坊を設置し、新茶を製造し、南方の例に倣って一斤ごとに袋とし、値段を六百文とした。商人たちがすぐには販運しないため、山東・河北の四路転運司に命じ、各路の戸口に応じてその袋数を均等に配分し、各司県に売らせた。引(販売許可証)を買う者は、銭を納めるか物品で代納するか、それぞれの都合に従うことを許した。
五月、山東の人戸が私茶を造り売りし、専売品を侵害しているため、遂に私礬を煎じる例に準じて、罪を徒刑二年と定めた。
泰和四年、上は宰臣に言った。「朕は新茶を賞味したが、味は良くないとはいえ、食べられないわけでもない。近侍に察させたところ、山東・河北の四路がすべて人々に押し付けていることがわかった。強制であると言うなら、罪に当たるべきである。この措置が運司と県官のどちらが行ったのかはわからないが、所属する按察司もまた罪に連座すべきである。実情を調査して報告せよ。今後は毎袋の価格を三百文引き下げ、来年四月までに売れなければ、腐敗しても構わない。」五年春、茶を製造する作坊を廃止した。三月、上は省臣に諭して言った。「今は茶を製造しないが、その樹を伐採してはならない。その土地は民衆に耕作や薪取りを自由にさせよ。」六年、河南で茶樹が枯れたものは、補植することを命じた。十一月、尚書省が奏上した。「茶は飲食の余興であり、必需の品物ではない。近年、上下を問わず競って飲み、農民が特に甚だしく、市井の茶店が連なっている。商人たちは多く絹織物で茶と交換し、年間の費用は百万を下らず、これは有用の物で無用の物と交換しているのである。禁止しなければ、財の消耗がさらに甚だしくなる恐れがある。」そこで七品以上の官の家のみが茶を飲むことを許し、なお売買や贈呈はできないこととした。所持すべきでない者が所持した場合は、斤両に応じて罪と賞を定めた。七年、茶を飲む制度を改めて定めた。八年七月、言事者が、茶は宋の土地の草の芽であり、中国の絹・錦・綾などの有益な物と交換するのは良くないと主張した。国家の塩貨は鹵水から出て、毎年採取しても尽きることがないので、茶と交換させることができる。省臣は、交換できる範囲が広くないとし、遂に雑物も用いて交易することを奏上して命じた。宣宗の元光二年三月、省臣が国家が逼迫し財が枯渇していることを理由に奏上した。「金幣・銭・穀物は、世の中に一日も欠くことができないものである。茶は本来宋の地から出るもので、飲食の急務ではなく、昔から商人が金帛でこれを交換しており、これは無駄な消耗である。泰和年間に、一度禁止したが、後に宋人が和を求めたので廃止した。戦乱が起こって以来、再び施行したが、犯す者が少なくならず、辺境の民衆もまた利を窺って国境を越えて私的に交換し、軍情が漏れる原因となったり、盗賊が国境を越える恐れがある。今、河南・陝西の五十余りの郡では、郡ごとに一日平均二十袋の茶を消費し、一袋の値段が銀二両であるから、これは一年のうちに民衆の銀三十万余両を無駄に費やしていることになる。どうして我が有用の貨物で敵国を利することがあろうか。」そこで親王・公主および現任の五品以上の官で、以前から蓄えているものはそのまま保有することを認め、売買・贈呈を禁じ、その他の者はすべて禁止することとした。違反者は徒刑五年、告発者には宝泉一万貫を賞与する。
諸種の商税
海陵王の貞元元年五月、都城内の空地を随朝の大小職官および護駕軍に賜り、七月、それぞれ差等に応じて銭を徴収した。大定二年、院務の欠損創設および功労に対する報酬の規定を制定した。八月、諸路の関税を廃止し、ただ監視・検査のみを行わせた。三年、尚書省が奏上した。「山東西路転運司が言うには、坊場・河渡で未納が多い。」詔して監臨官の制度に倣い、年数の遠近に応じて差等をつけ、減免した。また尚書工部令史の劉行義の建言により、城郭の家屋賃貸税の制度を定めた。五年、以前に河や湖沼で官を廃止していたが、再び民衆に競売させ、両界(十年)の後は、従前通り官を設置することとした。二十年正月、商税法を定め、金銀は百分の一を徴収し、諸物品は百分の三を徴収した。章宗の大定二十九年、戸部が言うには、天下の河泊は既に民衆と利益を共有することを許しており、七か所に設置された官は廃止でき、所属する役所に豪強が勝手にその利益を独占しないよう禁じさせるべきである。
明昌元年正月、尚書省に勅して、院務の商税額を定めさせ、諸路の使司院務千六百十六か所のほか、旧額より九十四万一千余貫減額し、遂に坊場を廃止し、家屋賃貸税を免除した。十月、尚書省が奏上した。「今天下の使司務は、既に課額を減額し、監官の増減に対しては既に昇進・降格の制度があるので、提点所が与える賞罰・俸給の制度は廃止し、ただ提刑司に委ね、提点官が場務を侵害する者は、規定通り処罰すべきである。」詔してこれに従った。二年、詔して南京の官有家屋および地基銭を減額した。三年、提刑司に諭して、勢力家が山沢の利を独占することを禁じた。また司竹監は毎年五十万竿の割竹を採り入れ、春秋二回都水監に輸送して河防に備え、残りの辺刀・筍皮などは三千貫で売り、葦は二千貫を売上額とした。明昌五年、建言者が旧来の坊場設置を復活することを請うたが、上は許さず、ただ院務の増設を許し、詔して尚書省に参酌して規定を定めさせ、遂に遼東・北京は従前通り人々に分担させることを許し、中都など十一路は官を派遣して視察させ、二十三か所に院務を適宜増設し、今年九月一日より界(任期)を立てることを提案し、制可された。大定年間、中都税使司の歳入は十六万四千四百四十余貫であったが、承安元年の歳入は二十一万四千五百七十九貫であった。泰和六年五月、院務の課税欠損について、運司に監視・専売の官を派遣させる制度を定めた。
金銀の税
大定三年、金銀の坑冶は民衆に採掘を許し、二十分の一を税とする制度を定めた。泰和四年、言事者が、金銀は百分の一、諸物品は百分の三を徴収しているが、今の物価は旧来より高いので、金銀を除けば定額では全てを網羅できず、金銀以外の物品はすべて一分を加えるべきだと主張した。詔してこれに従った。七年三月、戸部尚書の高汝礪が言った。「旧制では、小商人の諸物品取引には四分の税を収めるが、金銀は貴重で細かな物品で、多くは富裕な家から出るものであり、なお三分に止まっているのは不均衡である。これも一例に倣って収めることを請う。」省臣が議して、このようにすると匿隠が多くなる恐れがあると考え、遂に旧制に従うこととした。