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金史
志第二十九: 食貨三 銭幣
銭幣
銭幣。金の初めは遼・宋の旧銭を用い、天会の末には、劉豫の「阜昌元宝」「阜昌重宝」もまたこれを用いた。海陵庶人貞元二年(1154年)遷都の後、戸部尚書蔡松年が鈔引法を復し、交鈔を制定して、銭と併用させた。正隆二年(1157年)、四十余歳を経て、初めて鼓鋳を議す。冬十月、初めて銅の外界を越えることを禁じ、罪賞の格を掲げる。民間の銅鍮器を徴発し、陝西・南京のものは京兆に輸送させ、他の路は悉く中都に輸送させた。三年(1158年)二月、中都に銭監二つを置く。東を宝源、西を宝豊と曰う。京兆に監一つを置く。利用と曰う。三監が銭を鋳造し、文を「正隆通宝」と曰い、軽重は宋の小平銭の如く、而して肉好字文は峻整にしてこれを過ぎ、旧銭と通用す。
世宗大定元年(1161年)、吏部尚書張中彦の言を用い、陝西路に宋の旧鉄銭を参用することを命ず。四年(1164年)、次第に行われず、詔して陝西行戸部及び両路の通検官に、詳しくその事を究めしむ。皆言う、「民間銭を用うるに、名は鉄銭と兼用すと雖も、其の実は准数と為さず、公私便ならず」と。遂にこれを罷む。八年(1168年)、民に銅禁を犯す者有り。上曰く、「銭を銷して銅と作すは、旧に禁令有り。然るに民間猶お鏡を鋳する者有り、銭を銷するに非ずして何ぞや」と。遂に併せてこれを禁ず。十年(1170年)、上戸部臣に諭して曰く、「官銭積みて散ぜざれば、則ち民間銭重く、貿易必ず艱し。宜しく金銀及び諸物を市せしむべし。其の諸路の酤榷の貨も、亦た物を以て平折してこれを輸せしむべし」と。十月、上戸部官を責めて曰く、「先に官銭率多く、民間流通を得ざるを恐れ、諸処に金銀絲帛を貿易せしめ、以て流転を図る。今知るに乃ち抑配を以て反って百姓を害する者有り。前に許すに院務の軽齎の物を折納するを得て以て民に便ならしむ、是れ皆朕の思いて後に行う所なり。此れ尚お朕より出づ、安んぞ若を用いんや。又随処時に賑済有り、往々近地に糧無く、他の処に取り、往返既に遠く、人愈々之を難しとす。何ぞ随処に倉を起さざる。年豊なれば則ち多く糴して以て賑贍に備え、設い緩急有らば、亦た豈に易く弁ぜざらんや。而して徒らに銭をして府庫に充たしめ、将に安んぞ之を用いん。天下の大なる、朕豈に一一遍く知らんや。凡そ此の数事、汝等何を為して而して此に至らしむ。且つ戸部は他の部と同からず、宜しく従うべきを以て計るべし。若し但だ因循を務めて、以て其の職を守らば、則ち戸部官誰か能く為さざらん」と。十一年(1171年)二月、私に銅鏡を鋳することを禁ず。旧に銅器有るは悉く官に送り、其の直の半を与う。惟だ神仏像・鐘・磬・鈸・鈷・腰束帯・魚袋の属は、則ちこれを存す。十二年(1172年)正月、銅少なきを以て、尚書省に命じて使者を諸路に遣わし銅貨を規措せしむ。能く坑冶を指して実を得る者は賞す。上宰臣と鼓鋳の術を議す。宰臣曰く、「言う者有り、所在に金銀坑冶有り、皆采りて以て銭を鋳すべしと。臣窃かに謂う、工費所得の数倍を過ぐ、恐らく行うべからずと」と。上曰く、「金銀は山沢の利、当に民に与うべし。惟だ銭は私鋳すべからず。今国家の財用豊盈たり。若し四方に流布せしむれば、官に在るに何の異ならん。所費多くと雖も、但だ民間に在りて、而して新銭日々に増すのみ。其れ能吏を遣わして之を経営せしめよ」と。左丞石琚進みて曰く、「臣聞く、天子の富は天下に蔵る。銭貨泉の如く、正に流通せんと欲す」と。上復た琚に問うて曰く、「古にも亦た民自ら銭を鋳する者有りしや」と。琚対えて曰く、「民若し自ら鋳せば、則ち小人利を図り、銭益々薄悪なり。此れ古の禁ずる所以なり」と。十三年(1173年)、兵を屯せざる州府に命じ、銭を以て金帛を市易し、京師に運致せしめ、銭幣を流通せしめて以て民用を済さしむ。十五年(1175年)十一月、上宰臣に謂いて曰く、「或いは言う、銭を鋳すること益無く、所得所費に償わずと。朕謂う、然らず。天下一家の如し、何ぞ公私の間あらん。公家の費は私家之を得、但だ新幣日々に増し、公私俱に便なり」と。十六年(1176年)三月、使者を遣わし分路して銅鉱の苗脈を訪察せしむ。十八年(1178年)、代州に監を立てて銭を鋳す。震武軍節度使李天吉・知保徳軍事高季孫を命じて往きて之を監せしむ。而して鋳する所斑駁黒澀にして用うべからず。詔して天吉・季孫等の官を両階削り、職を解き、仍て季孫を八十杖す。更に工部郎中張大節・吏部員外郎麻珪を命じて鋳を監せしむ。其の銭の文を「大定通宝」と曰い、字文肉好又た正隆の制に勝る。世に其の銭料微かに銀を用うと伝う。十九年(1179年)、初めて鋳して万六千余貫に至る。二十年(1180年)、詔して先ず五千を以て進呈せしめ、而して後命じて旧銭と併用せしむ。
初めに、新銭が未だ行はれざる時、宋の大観銭を以て五銭に当てて用ゐたり。二月、上聞く、上京修内所にて、市民の物を買ひて直ちに其の価を与へず、又短銭を用ゐたりと。宰臣を責めて曰く、「此の如き小事、朕豈に悉く知らんや。卿等何ぞ察せざる。」時に民間は八十を陌と為し、之を短銭と謂ひ、官は足陌を用ゐ、之を長銭と謂ふ。大名の男子斡魯補なる者上言して、官私の用ゐる銭は皆当に八十を以て陌と為すべしと謂ひ、遂に定制と為れり。二十年十一月、代州の監を名づけて阜通と曰ひ、監一員を設け、正五品、州の節度を以て兼ねて領せしむ。副監一員、正六品、州の同知を以て兼ねて領せしむ。丞一員、正七品、観察判官を以て兼ねて領せしむ。勾当官二員を設け、従八品。銀牌を与へ、副監及び丞に命じて更に馳驛して経理せしむ。二十二年十月、参知政事粘割斡特剌を以て代州阜通監を提控せしむ。二十三年、上、阜通監の鼓鑄年久しくして、而るに銭加はらずと為すは、蓋し代州の長貳・庁幕を以て兼ねて領し、而して州務に奪はれ、専意綜理するを得ざる故なりと。遂に副監・監丞を正員と為して設け、而して節度を以て監事を領せしむ。二十六年、上曰く、「中外皆銭難しと言ふ。朕嘗て之を計るに、京師に銭を積むこと五百万貫と雖も亦多しと為さず、外路に有ると雖も終に亦用無し。諸路の官銭、屯兵せざる処は尽く京師に運ぶべし。」太尉丞相克寧曰く、「民間の銭固より已に艱難に得たり。若し尽く京師に帰せば、民益々艱難に得ん。其の半を起こして都に至らしめ、余半を変折軽齎するに若かず。然らば中外皆便なり。」十一月、上宰臣に諭して曰く、「国家銅禁久し。尚ほ聞く、民私に腰帯及び鏡を造り、旧物に托し、公然之を市すと。宜しく禁約を加ふべし。」二十七年二月、曲陽県に銭を鑄るを別に一監と為し、利通を以て名と為し、副監・監丞を設け、驛を与へて更に出でて銅事を経営せしむ。二十八年、上宰臣に謂ひて曰く、「今者外路の見銭其の数甚だ多し。聞くに六千余万貫有りと、皆僻処に積貯す。既に流散せず、公私益無く、無きに等し。今中都歳費三百万貫、支用継がず。若し之を京師に致さば、少しく挽運の費有るに過ぎず。縦ひ所費多しと雖も、亦惟だ民に散在するのみ。」章宗大定二十九年十二月、雁門・五台の民劉完等訴ふ、「監を立てて銭を鑄る以来、銅礦の地有ると雖も官運と曰ふも、其の雇直足らざれば則ち民をして共に償はしむ。本州の司県と均しく差配せんことを乞ふ。」遂に甄官署丞丁用楫を命じて往きて其の利病を審にせしむ。還りて言ふ、「運ぶ所の銅礦、民物力を以て科差し之を済すは、願ふ所に非ず。其の雇直即ち低く、又刻剝の弊有り。而して苗脈工匠を相視し、妄りに人の垣屋及び寺観を指して開採すべしと謂ひ、因りて賄を取り、又冶夫匠に随ひ、日ごとに浄銅四両を弁ず。多く数に及ばず、復た銅器及び旧銭を銷して、官に送り以て之を足す。今阜通・利通両監、歳に銭十四万余貫を鑄るも、而るに歳の費る所乃ち八十余万貫に至る。民を病ませて費多く、未だ其の利便を見ず。」宰臣以て聞く。遂に代州・曲陽の二監を罷む。
初めに、貞元の間既に鈔引法を行ひ、遂に印造鈔引庫及び交鈔庫を設く。皆使・副・判各一員、都監二員を設け、而して交鈔庫副は則ち専ら書押・搭印合同の事を主とす。一貫・二貫・三貫・五貫・十貫の五等を印し、之を大鈔と謂ひ、一百・二百・三百・五百・七百の五等を印し、之を小鈔と謂ふ。銭と並び行はしめ、七年を以て限と為し、旧を納れて新に易へしむ。猶ほ宋の張詠の四川交子の法に循ひて其の期を紳げしのみ。蓋し亦銅少きを以て、権制の法なり。時に之を罷めんと欲する者有り。是に至り二監既に罷まり、有司言ふ、「交鈔旧く見銭と同じく、商旅遠きに致すに利有り。往々銭を以て鈔を買ふ。蓋し公私俱に便なるの事、豈に罷め去るべけんや。只だ厘革年限有るに因り、疑無からず。七年厘革の法を削り、民をして常用するを得しめんことを乞ふ。若し歳久しく字文磨滅せば、所在の官庫に於て旧を納れて新に換ふるを許し、或は便に随ひ銭を支ふるを聴せよ。」遂に七年厘革の限を罷め、交鈔字昏れて方に換ふ。法此より始まり、而して収斂の術無く、出多きに入少く、民漸く之を軽んず。厥の後其の法屡更るも、而して革むること能はず。弊亦此より始まる焉。
交鈔の制、外は闌と為し、花紋を作る。其の上衡に貫例を書く。左に曰く「某字料」。右に曰く「某字型大小」。料號の外、篆書にて曰く「交鈔を偽造する者は斬り、告げ捕ふる者には銭三百貫を賞す」。料號衡闌の下に曰く「中都交鈔庫、尚書戸部の符に准じ、都堂の劄付を承け、戸部覆点勘し、令史姓名押字す」。又曰く「聖旨路毎の交鈔を印造し、某処の庫に於て銭を納れて鈔に換へ、更に某処の庫に於て鈔を納れて銭に換ふるを許す。官私見銭と同じく流転す」。其の鈔年月行用を限らず。如し字文故暗にし、鈔紙擦磨せば、所属の庫司に於て旧を納れて新に換ふるを許す。若し庫に到りて銭を支ひ、或は新鈔に倒換せんには、毎貫工墨銭若干文を克む。庫掐・攢司・庫副・副使・使各押字し、年月日。印造鈔引庫の庫子・庫司・副使各押字し、上は尚書戸部官に至るも亦押字す。其の搭印支銭する処は合同とし、余は印を用ふるに常例に依る。
初めに、大定の間定制す、民間応に存留を許す銅鍮器物、若し申し売りて官に入るれば、毎斤銭二百文を与ふ。其の蔵匿す応に禁ずべき器物、首納する者は毎斤銭百文を与ふ。器物に非ざる銅貨は一百五十文、斤に及ばざる者は計ひて之を与ふ。都の官局及び外路に造り売る銅器の価、運司の佐貳に檢校せしむ。鏡毎斤三百十四文、鍍金禦仙花腰帯十七貫六百七十一文、五子荔支腰帯十七貫九百七十一文、抬鈒羅文束帯八貫五百六十文、魚袋二貫三百九文、鈸鈷鐃磬毎斤一貫九百二文、鈴杵坐銅の者は二貫七百六十九文、鍮石の者は三貫六百四十六文。明昌二年十月、勅して鏡の売価を減ず。私鑄し銭を銷すを防がんとす。旧嘗て夫匠を以て天山の北界外に踰えて銅を采る。明昌三年、監察御史李炳言ふ、「頃聞く、有司奏す、在官の銅数十年を支ふる可しと。若し復た毎歳夫匠をして界を過ぎ遠く采らしむれば、惟だ多費なるのみならず、復た恐らくは或は辺釁を生ぜん。若し支用将に尽くんとするの日には、止だ界内に於て采煉する可し」。上其の言を是とす。遂に出界を許さず。
五月、尚書省に勅して曰く、「民間に流転する交鈔は、その数を制限すべし、現銭より多くするなかれ」と。四年、上、宰臣に諭して曰く、「随処に無用の官物あり、計置すべきもの、鉄銭の類これなり」と。或いは鉄銭に破損あるものは、当に所司をして銅銭を以てこれを償わしむべしと言う者あり、参知政事胥持国は不可とし、上曰く、「償わしむるを令しても尚ほ壊る、償わざれば将に尽く壊れんとす。もし果たして無用ならば、何ぞ別に計らざるや」と。持国曰く、「江南の銅銭を用い、江北・淮南の鉄銭を用いるが如きは、蓋し銅銭を隔絶して界を過ごさしめざるがためなり。陝西の市易も亦た銀・布・姜・麻を用いるが如し。もし旧に鉄銭あらば、宜しく姑く収貯し、以て緩急に備うべし」と。遂に有司をして鉄銭及び諸の無用の物を籍し、庫に貯えしむ。
八月、提刑司言う、「降給したる陝西交鈔は現銭より多く、民をして流転に艱難せしむ」と。宰臣以て聞こえ、遂に本路の榷税及び諸の名色銭をして、交鈔に折納せしむ。官兵の俸は、銭・絹・銀・鈔各半ずつを許し、もし銭銀の数少なければ、即ち全く交鈔を給す。五年三月、宰臣奏す、「民間の銭が艱難にして得られざる所以は、官豪の家多く積むが故なり。唐の元和年間に、嘗て富家の銭五千貫を過ぐるを限りて死罪とし、王公は重く貶し没収し、その五分の一を以て告者に賞せり」と。上、参酌して定制を令し、官民の家は品従と物力に従い現銭を限り、多くとも二万貫を過ぎず、猛安謀克は則ち牛具を差として、一万貫を過ぐるを得ず、凡そ余りある所は、尽く諸物に易えてこれを収貯せしむ。数外に銭を留むる者を告げ得る者は、奴婢は良に免じ、傭者は出離し、その十分の一を賞とし、余は皆没収す。又、有司に旨を諭し、凡そ高麗より還る者、得たる銅器は尽くこれを買わしむ。
承安二年十月、宰臣奏す、「旧に交鈔法を立て、凡そ旧を以て新に易える者は、毎貫工墨銭十五文を取る。大定二十三年に至り、貫例に拘わらず、毎張八文を収む。既に官に益なく、亦た鈔法を妨ぐ。宜しく旧制に従うべし。もし鈔を以て塩引を買わば、毎貫権りに一貫五十文と作し、庶く多く售げしむべし」と。上曰く、「工墨銭は、貫ごとに十二文を収むべし。塩引を買う者は、毎貫権りに一貫一百文と作すべし」と。時に交鈔の出づる数多く、民間に成貫例のものは流転に艱難し、詔して西北二京・遼東路には宜に従い小鈔を給し、且つ官庫において銭に換えることを許し、他の路と通行せしむ。
十二月、尚書省議し、時に給する所の官兵の俸及び辺戍の軍須は、皆銀鈔相兼ね、旧例銀は毎鋌五十両、その直ち百貫、民間或いは截鑿する者あり、その価も亦た低昂に随う。遂に銀を改めて鋳し「承安宝貨」と名づけ、一両より十両まで五等に分ち、毎両銭二貫に折り、公私ともに現銭の如く用い、仍た銷鑄及び接受稽留の罪賞格を定む。
承安三年正月、省奏す、「随処の榷場もし現銭の越境を許さば、銷毀に非ざれども、即ち銷毀と異ならず」と。遂に制を立て、銭を外方の人使及び交易する者に与うれば、徒五年、三斤以上は死罪、駔儈も同罪とす。捕告する人の賞は、官先んじて代わりに銭五百貫を給す。その逮及及び接引・館伴、先排・通引・書表等は以て次第に坐罪し、仍た均しく償わしむ。時に交鈔稍々滞り、西京・北京・臨潢、遼東等路には一貫以上は俱に銀鈔・宝貨を用い、銭を用いることを許さず、一貫以下は民の便に聴す。時に既に限銭法を行い、人多く遵わず、上曰く、「已に条約を定め、重からざるに非ず。御史台及び提刑司をしてこれを察せしめよ」と。九月、民間の鈔滞るを以て、尽く一貫以下の交鈔を銭に易えて用い、遂に元の限りの数を復た減じ、更に官民の存留銭法を定め、三分を率とし、親王・公主・品官は一分を留むるを許し、余は皆その半とし、その贏余の数は五十日の期限を以て尽く諸物に易え、違う者は違制を以て論じ、その銭を以て告者に賞す。両行部に各々回易務を置き、綿絹物段を以て銀鈔に易え、亦た本務に銀鈔を納むるを許す。榷貨に赴き塩引を出し、鈔を山東・河北・河東等路に納め、便に従い銭に易えしむ。各々補官及び徳号の空勅三百、度牒一千を降し、両行部の指定する処に従い、四月を限り進納補換せしむ。又、一百例の小鈔を更に造り、並びに官庫において銭に易えるを許す。一貫・二貫例は並びに小鈔を支払い、三貫例は則ち銀一両・小鈔一貫を支払い、もし五貫・十貫例は則ち四分を小鈔、六分を銀に支払い、宝貨を得んと欲する者は聴す。阻滞し及び輒ち価を減ずる者はこれを罪す。四年三月、又、銀鈔の阻滞を以て、乃ち権りに山東諸路の銀鈔と綿絹塩引を便に従い銭に易えるの制を止む。院務の諸科名銭を令し、京師・河南・陝西の銀鈔は便に従い、余の路は並びに銀鈔各半を収むるを許し、仍た鈔の四分の一はその本路に納むるを許す。随路の収むる所の交鈔は、本路のものは復た支発せず、余の通行するものは並びに循環してこれを用う。榷貨所の鬻ぐ塩引は、宝貨と鈔を相半ば収納し、銀は毎両止だ鈔二貫に折る。省は人に旧の如く庫に詣り鈔を納むるを許し、随路漕司の収むる所も、額外の羨余ある者は、亦たこれの如し。支給する官銭も、銀鈔相兼ね、銀は已に零截したるものは交鈔庫に復た支給せず、もし宝貨の数少なければ、浸く増鋳すべし。銀鈔既に通ずれば則ち物価自ら平らかになり、禁法有りと雖も亦た安くか施さん、遂に銀鈔阻滞の罪制を除く。四年、戸部の言を以て、都に在る官銭・榷貨務の塩引は、並びに宝貨を収むるを聴し、附近の塩司の貼銭数も亦た帯納を許す。民間の宝貨帰する所あり、自然に通行し、銷毀に至らず。先んずるに、四庫を設け小鈔を印して以て鈔本に代え、人をして便に小鈔を齎し庫に赴き銭に換えしめ、即ち現銭を支給するに異ならず。今更に印造を須いず、その換え尽くるを俟ち、四庫を罷むべし。但だ大鈔を以て銭数を験し現銭を支易す。時に私に「承安宝貨」を鋳する者多く銅錫を雑え、浸く行う能わず、京師は肆を閉ず。五年十二月、宰臣奏す、「比来軍儲を調発し、支出する交鈔数多し。遂に宝貨を鋳し、銭と兼ね用い、以て鈔本に代う。蓋し権時の制にして、経久の法に非ず」と。遂に「承安宝貨」を罷む。
泰和元年六月、通州刺史盧構が言うには、「民間では交鈔は既に流通しているが、ただ銀の価格が安定せず、官が定めた価格は毎鋌を十万銭を基準としているが、市場ではわずか八万銭の価値しかなく、これは銀が出回る量が多く、回収される量が少ないためである。もし諸税を銭・銀・交鈔の三分で均等に納入させるならば、おそらくその弊害を改められるであろう。」と。尚書省に下して議させた。宰臣は言うには、「軍事行動が始まって以来、全く交鈔の補助に頼っており、出回り過ぎて停滞したので、先ごろ院務に交鈔七分で収納させたところ、次第に流通するようになった。もし銀と均等に納入させれば、あちらが増えればこちらが減り、理の上で必ず一方に偏り、交鈔の法に支障を来すであろう。必ず銀価を安定させたいならば、諸名目、例えば『鋪馬』・『軍須』などの銭について、銀半分の納入を許し、持たない者は随意に納めさせるのがよい。」と。先に、三合同交鈔を行ったことがあったが、泰和二年に至り、民間でのみ流通し、官は回収しなかった。朝廷は民を苦しめることを憂慮し、そこで諸税それぞれに一分を帯納させ、たとえ本来その路に限定されるものであっても、路分を限らず通納することを許した。戸部が現在累年にわたって徴収している鋪馬銭も、その半分を収納することを許した。閏十二月、上は交鈔の事について、戸部尚書孫鐸・侍郎張複亨を召し出し、内殿で議させた。複亨は三合同鈔を実行可能とし、孫鐸は廃止して用いないよう請うたが、やがて複亨の意見は結局退けられた。この時以降、国は空虚で民は貧しく、経費が不足し、専ら交鈔で百姓を愚弄し、しかも法も常ならず、世宗の業績は衰えた。泰和三年に至って、その弊害はますます甚だしくなり、上は宰臣に言った、「大定年間には、銭は十分に足りていた。今、民間に銭が少なく、しかも官にもないのは、どうしてか。百官を集めて問いただせば、必ず知っている者がいるであろう。」と。四年七月、限銭法を廃止した。これは戸部尚書上官瑜の請いに従ったものである。四年、銭の鋳造を増やそうとし、百官に銅を充足させる方策を議させた。中丞孟鑄は言うには、「銭を溶かして銅とし、及び盗んで境外に持ち出す者が後を絶たない。その官及び隣人を罪にすべきである。」と。太府監梁絪らは言うには、「銭を鋳造するのは非常に費用がかかり、およそ十銭の費用で一銭を得るに過ぎない。識者は、費用が多くともなお一銭を増やすことになると言う。銅を採掘し、器物を没収して鋳造することを乞う。」と。宰臣は言うには、「鼓鋳(貨幣鋳造)は急いで行うことはできない。その銅鉱は民に煎錬させ、官がこれを買い取るのがよい。すべての寺観で十人に満たないものは、法器を保有することを許さない。民間の鍮石・銅器は、二ヶ月の期限を設けて官に送り、代価を支給する。隠匿した者は私法によって処罰する。期限外に他人が告発した場合、知りながら糾弾しなかったとしてその官を処罰する。寺観については、童行(修行中の少年)の告発を許し、賞を与える。銅が多くなったら、別に上奏して聞かせる。」と。八月、従便易銭法を定め、人々が京師に輸納することを許し、山東・河北・大名・河東等の路ではその数に応じて支給する。後に大銭を鋳造し、一銭で十銭の価値とし、篆文で「泰和重宝」と記し、交鈔と併用して流通させた。五年、上は交鈔の工墨銭を廃止しようとしたが、再び印刷時の経常費を考慮し、一貫あたり六文のみを収めるよう命じた。
六年四月、陝西で交鈔が流通しなくなったため、現銭十万貫を鈔本(準備金)とし、交鈔と交換させ、さらに小鈔十万貫を併用させた。六年十一月、再び諸路にそれぞれ小鈔を流通させることを許した。中都路では中都及び保州、南京路では南京・帰徳・河南府、山東東路では益都・済南府、山東西路では東平・大名府、河北東路では河間府・冀州、河北西路では真定・彰徳府、河東南路では平陽、河東北路では太原・汾州、遼東では上京・咸平、西京では西京・撫州、北京では臨潢府の官庫で銭と交換させる。戸部に小鈔五等を印刷させ、各路に付けて現銭とともに用いさせた。七年正月、勅を下し、官においては大鈔を支出してはならず、民間にあるものは庫に赴かせ、その多寡に応じて定められた数だけ小鈔及び現銭と交換させ、院務の商税及び諸名目の銭については、三分の一を大鈔で納入させることとした。ただし遼東は便宜に従う。当時、民は貨幣がたびたび変わるため、しばしば怨み嘆き、市場で集まって語り合った。上はこれを知り、御史台に旨を諭して言った、「今後、都市で敢えて集まって交鈔法の実行困難を論じる者がいれば、人に捕らえ告発することを許し、賞銭三百貫を与える。」と。五月、戸部尚書高汝礪の議により、「鈔法条約」を制定し、大小の交鈔の印刷を増やした。交鈔庫が至って緊急を要するため、副使を一名増員した。汝礪はまた中都路転運使孫鐸と銭幣について論じ、上は中丞孟鑄・礼部侍郎喬宇・国子司業劉昂ら十人に議させたが、一ヶ月余り決まらなかった。七月、上は泰和殿で議論を召集し、汝礪に諭して言った、「今後、交鈔が多いからといって、価値を高めずに軽々しく交換してはならない。その価値を銭よりも高くすることは、可能である。」と。翌日、勅を下した、「民間の取引・質入れで、一貫以上はすべて交鈔を用い、銭を用いてはならない。契約を立てる必要がある場合は、三分の一を諸物で納める。六盤山以西・遼河以東では五分の一を交鈔で、東境の屯田戸では六分の一を交鈔で納める。契約を立てる必要のない場合は、ただ遼東では銭・交鈔を随意に用いる。違反した者は二年の徒刑に処し、告発した者には差等に応じて賞を与える。監臨の官が違反した場合は杖刑に処し、かつ解職する。県官がよく奉行して流通させた者は昇進・任用し、そうでない者は降格・処罰する。衆を集めて法を阻害した者は違制の罪に問う。工墨銭は毎張わずか二銭を収める。商人・旅人が現銭を持ち運ぶのは十貫を超えてはならない。所司は偽造防止のため、交鈔を鑑別する者を登録する。品官及び民家が保有する現銭は、以前よりその数を減らし、もし以前から現銭を多く保有している者は、官に送って交鈔と交換することを許す。十貫以上は京を出てはならない。」と。また制度を定め、按察司は交鈔法の流通を職務に適うものとし、河北按察使斜不出が巡按の際に支給される券で得るべき交鈔一貫について、支用が困難であるとして、現銭の受け取りを命じた。御史が交鈔法を阻害・破壊したとしてこれを弾劾した。上は言った、「糾察の官がまず法を破るとは、その情状は許し難い。」と。杖七十に処し、官階を一階削り、解職した。
戸部尚書高汝礪が言うには、「交鈔法は必ず実行されることを務めとすべきである。府・州・県・鎮はそれぞれ交鈔鑑別人を登録し、条印を与え、人々と鑑別・検証することを許し、一貫ごとに二銭を量り与え、一貫の例であっても多くとも六銭で止める。毎朝、官が出使する際には、流通・停滞の状況を調査して報告させる。民間に旧来ある宋の会子も、現銭と同様に用いることを命じ、十貫以上は持ち歩くことを許さない。塩の専売には銀・絹の使用を許し、その他の市場取引及び俸給はすべて交鈔を用い、端数は小鈔で補う。支給すべき銀・絹で不足する場合も交鈔で給付する。」と。上は近侍を遣わし、尚書省に旨を諭した、「今や既に按察司が交鈔法の流通が順調であることを職務に適うものとし、そうでなければ職務に適わないものとし、なお州・府・司・県の官の給由(勤務評定書)の中に、犯した罪の数を明記し、ただ交鈔法を犯した者は、たとえ監察御史がその有能さを推挙しても、任用を認めない。」と。十月、楊序が言うには、「交鈔の料号(種類・番号)が不明瞭で、年月が古くて暗く、庫に赴いて新しいものと交換せよと命じられているが、外路には設定された庫司がなく、交換したくても場所がなく、遠方の者はまさに都に赴かねばならない。」と。上は汝礪にこれを問うた。汝礪は答えて言った、「各所の州府の庫内には、それぞれ交鈔鑑別庫子がおり、交鈔がたとえ破損していても偽造でなければ、収納することもできる。都から遠い城邑には、既に合同(交換契約)を設置して銭と交換しており、客商が経由すれば皆交換できる。さらに合同のない地を憂慮し、交換が困難な場合は、官庫に古びた交鈔を納める者には受け取るだけで支給せず、交鈔の裏面に官吏の姓名を印記し、半年分を積み上げて都に赴き新しい交鈔と交換させる。このようにすれば、古びた交鈔は帰着する所があり、停滞することはないであろう。」と。
十一月、上は戸部の官に諭して曰く、「今、鈔法は行われているが、卿らもまた審らかに察すべし、少しでも滞りがあれば、即ち聞くべきであり、既に行われているからといって改めることを憚ってはならない」と。汝礪は対えて曰く、「今、諸処に置かれた庫は多くが公廨の内にあり、小民の出入りは甚だ難しく、商賈がこれを易えることはあれども、鈔本が豊かでないことを患う。近ごろ河北西路転運司が言うには、一つの富民がその存留すべき銭の外に、現銭十四万貫を出首した。他の路も推してこのような者があるであろう。臣らは謂うに、州県に官及び庫典を委して、市肆の要処に庫を置き支換させるべし。出首した銭を以て鈔本と為し、十万戸以上の州府には三万貫を与え、次第に差等を付け、鈔を易える者は一人二貫を過ぎざるべし。得た工墨銭を以て庫典の食直に充て、なお州府の佐貳及び転運司の官一員に提控せしむべし」と。上はこれを是とし、遂に命じて庫を市肆の会する所に移し、民に鈔を以て銭を易えしむ。
この月、偽造交鈔を捕獲した者には、皆交鈔を以て賞とすべしと勅す。
時にまた鈔法を改めることを議し、上は高汝礪の言に従い、官にある大鈔は今後出さざることを命ず。民に五貫十貫の例の者を庫に赴かせて小鈔に易えしめ、銭を得んと欲する者には五貫内に一緡を与え、十貫内に二緡を与うることを聴す。ただ遼東は便に従う。河南・陝西・山東及び他の鈔を行わるる諸路においては、院務の諸税及び諸科名銭は、並びに三分を率とし、一分は十貫例の者を納め、二分は五貫例の者を納め、余は並びに現銭を収む。
八年正月、京師の鈔の滞りを以て、所司の賞罰の格を定む。時に新制として、按察司及び州県の官は、例として鈔の通滞を以て升降と為す。遂に命じて監察御史の賞罰は外道按察司と同じくし、大興府警巡院の官は外路州県の官と同じくす。
この月、大鈔を収め毀ち、小鈔を行わる。
八月、遼東按察司楊雲翼の言に従い、咸平・東京両路は商旅の集まる所なるを以て、遂に都南の例に従い、一貫以上は皆交鈔を用い、銭を用いることを得ず。十月、孫鐸また言う、「民間に鈔多きは、正に収斂すべきに当たり、院務税諸名銭は、尽く鈔を収むべく、秋夏税は本色を納むる外、また鈔を収むることを令し、貫例に拘わらず。農民これを知れば則ち漸く鈔を重んじ、以て流通すべし。近来州県が市肆に抑配して鈔を買わしむるは、徒らに騒擾を増すのみ、諸処に創設したる鈔局を罷め、ただ省庫に赴かせて換易せしむべし。今、小鈔は各々路分を限るも、また甚だ便ならず、通用せしむべし」と。上は命じて亟に行わしむ。
十二月、宰臣奏す、「旧制、内外の官兵の俸は皆鈔を与う。必ず銭を用いて数足すべき者は、十分を率とし、軍兵には三分を与え、官員承応人には二分を与え、多きも十貫を過ぎず。凡そ前に収めたる大鈔は、通行に至るを俟って当に復た計り造るべく、その終には須らく精緻を以て経久を図るべし。民間の旧鈔で故暗なる者は、所在の庫に於いて新鈔に易えることを許すことを乞う。もし官吏勢要の家に賤く交鈔を買い、而して院務に於いて銭に換え興販する者有らば、違制を以て論ず。また官を遣わし分路巡察せしむ。その限銭過数は奴婢に告げしむることを許すと雖も、乃ち所属が其の主に黙して蔵匿せしめ実を首さざる者有らば、按察司に察せしむべし。もし旧限已に満つれば、当に更に五十日を展べ、再び鈔引諸物を変易せしむることを許すべし」。この制既に行われたる後、章宗尋いで崩じ、衛紹王継いで立ち、大安三年会河の役に至りては、八十四車を以て軍賞と為すに至り、兵衂国残り、弊を救う遑あらず、交鈔の軽きは幾くんか市易すること能わざるに至れり。宣宗貞祐二年二月に至り、重んぜんとする思有りて、乃ち更に二十貫より百貫例の交鈔を作り、また二百貫より千貫例の者を造る。然れども泰和以来、凡そ交鈔を更むるに、初めは重しと雖も、数年ならずして則ち軽くして行われず、是に至りては則ち愈々更めて愈々滞る。南遷の後、国蹙み民困み、軍旅息まず、供億度無く、軽きまた甚だし。
三年四月、河東宣撫使胥鼎上言して曰く、「今の物重きは、その弊は鈔の窒るるに在り、出づること有りて入ること無きなり。院務税数倍を增收すと雖も、而して納むる所は皆十貫例の大鈔なり、これ何の益かあらん。今、十貫例の者は民間に甚だ多く、帰する所無きを以て、故に市易多く現銭を用い、而して鈔は毎貫僅かに一銭に直るのみ、曾て工墨の費に及ばず。臣愚かに謂う、宜しく現銭を権めて禁じ、且つ計司に軍須を名として、民力を量りて征斂せしむべく、則ち泉貨流通し、而して物価平らかならん」と。是より、銭貨用いられず、富家は内に蔵鏹の限に困み、外に交鈔の屡変に弊し、皆窘敗に至り、これを「坐化」と謂う。商人は往往舟を運びて江淮に貿易し、銭多く宋に入る。宋人は以て喜びと為し、而して金人は禁ぜず、識者は其の既に用無き楮を重んずること能わず、而して又古より流行の宝を棄つるを惜しむ。
五月、権西安軍節度使烏林達與言う、「関陝軍多く、供億足らず、仰ぐ所の交鈔は則ち京師に取り、徒らに煩費を成すのみ、板を降して就き造らしめて便ならんことを乞う」と。また言う、「懐州旧鉄銭钜万、今既に用無し、願わくは貫きて甲と為し、以て戦士に給せん」と。時に有司軽罪を議罰し、率ね鉄を以て贖わしむ。而して当罪平らかならず、遂に命じて銅を贖わしめ、臓を計るは皆銀価を以て准と為す。
六月、交鈔の利便を議することを勅す。七月、交鈔の名を「貞祐宝券」と改め、仍って沮阻の罪を立つ。九月、御史台言う、「多故以来、全く交鈔を藉りて以て軍需を助く。然れども入る所は出づる所に及ばず、則ち其の価浸く減じ、卒に法無く以て禁ず、これ必然の理なり。近ごろ『貞祐宝券』を用いて其の弊を革す。又慮うに既に多きを以て民軽んずれば、旧鈔と異なること無からんと。乃ち民間の市易に悉く時估に従わしめ、厳しく罪賞を立て、必行を期す。遂に商旅を行わず、四方の物敢えて入らず。夫れ京師百万の衆、日費貲しからず、物価寧ろ日々貴からざらんや。且つ時估は月に再びこれを定む。而して民間の価は旦暮一ならず。今、有司強いて之を為せば、而して市肆尽く閉ず。また隠匿を捜括するを議し、必ず估の如くして之を鬻がしめんとす。則ち京師の物指日に尽き、而して百姓重く困らん。臣等謂う、惟だ官の和買計臓の類は時估を用うるべく、余は宜しく便に従うべし」と。制可す。
十二月、上聞く、近京の郡県多く京師に於いて糴し、穀価翔踴すと。尚書省に命じて戸部・講議所・開封府・転運司を集め、以て之を制する所以を議せしむ。戸部及び講議所は言う、五斗を以て城を出づる者は其の半を闌糴すべしと。転運司は謂う、宜しく其の出づるを悉く禁ずべしと。上は開封府の議に従い、謂う、「宝券初めて行わるる時、民甚だ之を重んず。但だ河北・陝西諸路の支ふる所既に多きを以て、人遂に之を軽んず。商賈争いて京に収入し、以て金銀を市う。銀価昂り、穀また之に随う。もし宝券路各々制を殊にせしめば、則ち復た河南に入ること能わず、則ち河南の金銀賤くして穀自ずから軽し。もし直ちに京城の粟出でざるを閉ざせば、則ち外もまた自ら守り、復た京に入らず、穀当に益々貴からん。宜しく郡県の小民に諭し、妄りに価を増すこと無からしめ、官為に定制し、務めて其の便に従うべし」と。
四年正月、監察御史田迥秀が言うには、「国家の調度は皆宝券に頼っているが、発行して僅か数ヶ月で、また滞る。これは規制が厳しくなく、執行が謹んでいないからではない。銭幣が流通しようとすれば、必ず軽重を相権え、散斂に術があってこそ可能である。今の患いは、出すことが多く、入ることが少ないことにある。もし時宜に応じて支出を削減し、収入を増やせば、あるいは可能であろう」と。そこで五事を条陳した。第一は冗官を省くこと、第二は酒使司を減らすこと、第三は兵士の俸給を節約すること、第四は寄治官を廃止すること、第五は酒税及び納粟補官は皆宝券を用いるべきことである。詔して酒税は大定の旧制に従い、その他は従わなかった。まもなくまた偽造宝券捕獲の官賞を改定した。
三月、翰林侍講学士趙秉文が言うには、「近頃宝券が滞塞するのは、朝廷が改張を議しようとしたため、やがて妄りに用いないと伝えられ、それによって抑圧され、次第に廃絶に至ったのであり、これは権が小民に帰したのである。汴に遷都して以来、回易務を廃したが、臣愚かにも再び設置すべきと考える。職官で市道に通じた者にこれを掌らせ、銀鈔・粟麦・縑帛の類を与え、その高低を権えて出納させる。なお良き監当官を自選して営為させ、もし半年過ちなく、かつ券法が通流すれば、その指す所に任せて便宜に差遣させる」と。詔してこれを議して行わせた。
四月、河東行省胥鼎が言うには、「交鈔は流通を貴ぶ。今諸路の造る所は支出に充たず、術をもってこれを収めなければ、欠誤がないわけではない。民力を量って征斂し、軍用を補うべきである。河中宣撫司もまた宝券の出が多いため、民がこれを貴ばず、民の貧富を検べてこれを徴収することを乞うている。陝西であっても、もし一様に徴収すれば、彼の地の所有するものが日に河東に湊することとなり、収斂しないのと何が異なるか。また河北宝券は河南で行うことを許されないため、これによってますます滞る」と。宰臣が言うには、「先に河北宝券について、商旅が携帯販売して続々と南渡したため、遂に物価が高騰したので、やむを得ず路分を限ったのである。今、鼎が既に本路の用度が繁殷であるため、軍須銭を徴収しようとしているので、その請いに従うべきである。陝西で徴収できるか否かは、詔を行省に議定させてから行うべきである」と。五月、上は河北州府の官銭が散失し、多く民間にあることを以て、尚書省にこれを経画させた。
八月、平章高琪が奏上して言うには、「軍興以来、用度は資すべからざるほどで、ただ宝券に頼っているが、収入は支出に敷かず、これによって次第に軽くなり、今や千銭の券は僅か数銭の値しかなく、造るに随って尽き、工物は日増しである。これを救う術がなければ、弊害はますます甚だしくなるであろう。新券を更に造り、旧券と権めて子母とし、兼ねて行うべきである。そうすれば工物ともに省かれ、用も乏しくならないであろう」と。濮王守純以下は皆改変を憚り、奏上して言うには、「古来より軍旅の費用は皆民から取ってきた。以前、朝廷は小鈔が甚だ軽いため、権宜に宝券に変更し、また銭の使用を禁じた。小民は浅慮で、楮幣は壊れやすいが、銭は長持ちすると考え、そこで銭を得れば珍藏し、券は急いで用い、ただ破れて廃れることを恐れるのである。今、朝廷は支払うことを知って収めることを知らないため、銭は日に貴く、券は日に軽くなるのである。しかし券が軽いのは民が軽んじるのではなく、国家がそうさせたのである。支出を量って再び民から収斂し、出入りを循環させれば、彼らは必ず用いられるものと知って愛重するであろう。今ただ軽いことを患えて即座に更造しようとするのは、信令が行われないばかりでなく、新券の軽さがまた旧券と同じになることを恐れる」と。やがて、隴州防禦使完顔宇及び陝西行省令史惠吉が相次いで券法の弊を言上した。宇は暫く印造を罷め、現存するもので流通させ、もし滞塞すれば丁口の多寡・物力の高下を検べてこれを徴収することを請うた。吉は言うには、「券は一時の弊を救うものであり、現銭と比べて通流させることはできず、必ず通流させようとすれば、多く収斂し少なく支出するに過ぎない。しかし収斂が多ければ民を傷つけ、支出が少なければ用が足りず、二者ともに不可である。今日の計としては、更に造り、『貞祐通宝』を名とし、百から三千まで十等に分け、各路の転運司に印造させ、なお五千貫を過ぎず、旧券と参用させれば、ほぼ可能であろう」と。詔して百官を集めて議させた。戸部侍郎奥屯阿虎・礼部侍郎楊雲翼・郎中蘭芝・刑部侍郎馮鶚は皆更造を主張した。戸部侍郎高夔・員外郎張師魯・兵部侍郎徒單歐裏白は皆征斂を請うた。ただ戸部尚書蕭貢は旧のままにすべきとし、工部尚書李元輔は二者を併行すべきとした。太子少保張行信もまた更造すべきでなく、ただ不行の罪を厳しく立てれば足りると言った。侍御史趙伯成は言うには、「更造の法は、陰に民利を奪い、その弊は征斂より甚だしい。征斂の法は、特に農民から徴するのは不可であるが、市肆の商賈の家から徴するのは、これも本を敦くし末を抑える一端である」と。刑部主事王壽寧は言うには、「そうではない。今、銭を重んじ券を軽んじる者は皆農民である。その収斂は必ず民に先んじて後に行うべきである」と。転運使王擴は言うには、「凡そ事を論ずるにはその本を究めるべきである。今年、軍士の家口糧四万余石を支給しているが、もしこの者たちを地著させ、民力を少し緩めてから徴収すれば、行うのは難しくない」と。榷貨司楊貞もまた無名の費を節し、閑冗の官を罷めようとした。あるいは大銭を鋳造して百に当て、別に小鈔を造って費を省くことを請う者もいた。あるいは県官は人を択ぶべきだと言う者もいた。ただ吏部尚書溫蒂罕思敬が上書して言うには、「国家が法を立てるには、備え具わることなく、ただ有司がこれを奉じられないだけである。誠に臣に便宜従事させ、凡そ外路の四品以下の官は皆杖決を許し、三品以上は奏聞し、なお監察二人を付けて馳駅往来させれば、法を変える必要もなく、民を徴する必要もなく、一号令するだけで、上下法を奉ぜざる者なくすることができる。もしそうでなければ、重刑に就くことを請う」と。上は宰臣に示して言うには、「彼は自らこのように言うが、試みに委ねることはできるか」と。宰臣は処する術がなく、監察御史陳規・完顔素蘭が交諍して、「行い難き事あり、聖哲すらこれを病む。思敬は何を為そうとするのか、ただ人を害するだけである」と考えた。上は衆議が紛々として月余り決まらないことを厭い、乃ち詔して旧の如くとし、その征斂の期を緩めた。間もなく、竟に惠吉の言を用い、「貞祐通宝」を造った。
興定元年二月、始めて詔してこれを行い、凡そ一貫を以て千貫に当て、偽造沮阻の罪及び捕獲の賞を増重した。
五月、紙幣の法が度々変わり、発行するや否や崩壊し、紙の原料となる桑皮や故紙(古紙)は全て民から徴収していたが、この頃になると甚だ入手困難となったため、遂にその価格を計算させ、ただ宝券と通宝を徴収し、名付けて「桑皮故紙銭」といった。これによって民の輸送の労を免れ、工物の費用を省くことができると称した。高汝礪が言うには、「河南は徴発が繁重で、徴収する租税は旧来の三倍に及び、僅かに供給に応じ得るのみであり、その重さはこのようなものである。しかるに今年五月、省部は歳収の通宝が用に足りないとして、民間から桑皮故紙鈔七千万貫を徴収してこれを補ったが、これまた甚だしい。近頃また通宝の流通がやや滞ったため、さらに二倍を増徴した。河南の人戸のうち農家は三分の二を占めるが、今年の租税の徴収がまだ完了せぬうちに、またこれ(桑皮故紙銭)を出させようとすれば、民はもし納めるべき租に充てる穀物を売らなければ、自ら食する粟を売ることになり、これを除いて他に何を得ようか。今、急にして得難いものは秣と糧食であり、民から出るもので有限である。緩やかで為し易いものは交鈔(紙幣)であり、国から出るもので変更可能である。国家自ら行うべきものを民に強いて求めようとは、どうしようというのか。以前、大鈔が滞れば小鈔に改め、小鈔が弊害を生じれば宝券に改め、宝券が行なわれなければ通宝に替えた。制度を変えるのは我にあり、どうして民を煩わせる必要があろうか。民は既に全力を尽くして軍に奉じても足りず、また戸口・租税・物品・生業に応じて加徴する。このように収奪すれば、彼らが供給できなければ逃亡するのみである。民が逃げ田が荒れ、兵士の食糧が供給されなければ、軍の備蓄と紙幣の法の両方が廃れることになる。臣は紙幣の法に意を用いないわけではなく、故意に省部に逆らうわけでもない。ただ、紙幣の滞りと物価高騰の害は軽く、民の離散と軍の飢餓の害は重いからである。」時に採用されなかった。
三年(1219年)十月、省臣が上奏した。「以前、物価が高く銭価が低かったため、贓罪を犯した者を銭で計算して罪を論ずるとあまりに重すぎたので、銀を基準とし、毎両を銭二貫とし、通宝による贓罪を犯した者は直接通宝で論じた。もし軍興による調発に際し、通宝三十貫を受けた者は、既に死刑に相当するが、金銀の価格に準ずれば、わずか銭四百余りにしかならず、杖刑に当たる。軽重の間の隔たりがこのように甚だしい。」そこで、犯罪時の銀価に準じて罪を論ずるよう命じた。四年(1220年)三月、参知政事李複亨が言う。「近時の制度では、通宝による贓罪を犯した者は全て物価を銀に換算して罪を定め、毎両を銭二貫としている。しかし、法により銅を贖うべき者は、ただ通宝の現銭を納めるのみである。これも同様に上記のように銀を納めさせるよう願う。これで十分に悪を懲らしめ、かつ官にも補益がある。」詔して省臣に議わせ、遂に命じて公務上の過失・誤りを犯した者はただ通宝の現銭を徴収し、贓汚を故意に犯した者は銀を納めさせた。
十二月、鎮南軍節度使溫蒂罕思敬が上書して言う。「銭は泉(流通するもの)である。流通を貴び塞ぐべからず、官に積もって散らなければ民を害し、民に散って収まらなければ用を欠く。必ず多寡軽重が物と釣り合ってこそ可能である。大定の世(世宗の治世)、民間には銭が多く鈔が少なかったので、価値が高くて流通しやすかった。軍興以来、官にあるものは極めて少なく、民もほとんど持たない。軍旅の調度は全て鈔に頼り、一日に出るものは動けば万単位に及び、市肆に充満するに至って、軽くならないことがあろうか。銭の使用制限を解き、民に自ら銅を採って銭を鋳造することを許し、官が模型を制定し、薄く粗悪で法にかなわないものは民に使用させなければ、銭は必ず日増しに多くなり、鈔は少なく発行でき、少なく発行すれば価値が高く流通しやすくなる。今日はますます多く発行し、民は日増しに軽んじる。役人はこれを重くしようとしてその法を得ず、ついには官吏の俸給を計算し、百姓の物力を検分して徴収するに至るが、結局は価値を増すことができず、かえって銭が少ない弊害を知らない。臣は、民に銭を鋳造させ、かつ鈔を徴収すべき場合にも銀の納入を認めるべきと考える。民はこれによって銀で銭を鋳造し、数等級に分け、文様を「興定元宝」とし、価値を定めて軍の賞賜に備えさせるのも、弊害を救う一法である。」朝廷は従わなかった。
五年(1221年)閏十二月、宰臣が上奏した。「以前、宝券が既に弊害を生じたため、『貞祐通宝』を造ってこれを救ったが、今に至るまで五年、その弊害はまた宝券の末期のようになってしまった。初め、通宝四貫が銀一両であったが、今は八百余貫である。宜しく再び『興定宝泉』を造り、子母相権(大小貨幣の補完関係)とし、通宝と併行させ、毎貫を通宝四百貫に当て、二貫を銀一両とし、随所に庫を置き、人に通宝と交換することを許す。県官が民に流通させることができた者は官位一階を進め、職一等を昇進させる。もしも姑息にして流通を滞らせた者は、また追って降格し、決杖の差等を定める。州府の官は所属の司県の定罪賞に従う。監察御史及び諸路の行部官にこれを監察させ、法を撹乱し糾挙を失する法を定め、糾挙を失すれば御史は降格・決杖、行部官は降格・罰とし、徒党を組んで妄りに難行を議する者は二年の徒刑とし、告発・逮捕した者には賞銭三百貫を与える。」元光元年(1222年)二月、始めて詔してこれを施行した。二年(1223年)五月、さらに造り直して毎貫を通宝五十に当て、また綾に印刷して「元光珍貨」を製し、銀鈔及びその他の鈔と共に行わせた。施行して間もなく、銀価は日々高騰し、宝泉は日々下落し、民はただ銀で価格を論ずるようになった。元光二年(1223年)に至り、宝泉はほとんど用いられなくなり、そこで法を定め、銀一両は宝泉三百貫を超えてはならず、全ての物品で銀三両以下の価値のものは銀の使用を許さず、それ以上のものは三分の率とし、一分は銀を用い、二分は宝泉及び珍貨・重宝を用いることとした。京師及び州郡に平准務を置き、宝泉と銀を交換させ、私的に交換し及び法に違反した者を告発した者には罪と賞に差等を設けた。この法令が下ると、市肆は昼間でも閉鎖し、商旅は通行しなくなった。朝廷はこれを憂い、そこで市易における銀の使用及び銀と宝泉の私的取引を禁止する法を廃止した。しかし、上には使用制限の名目がありながら、下には命令に従う実態がなく、役人も知りながら制止できなかった。義宗(哀宗)の正大年間(1224-1231年)、民間はただ銀で取引した。天興二年(1233年)十月、蔡州で「天興宝会」を印刷し、一銭から四銭までの四等級とし、現銀と共に流通させたが、数ヶ月も経たずに国は滅亡した。