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金史
志第二十八:食貨二(田制・租賦・牛頭稅)
田制
田を量るには営造尺を用い、五尺を歩とし、幅一步、長さ二百四十歩を畝とし、百畝を頃とする。民の田地の所有はそれぞれの便に従い、人に売買・質入れすることを禁じず、ただその地に随って租を納めさせるのみである。凡そ桑や棗は、民戸は多く植えることを勤めとし、少ない者は必ずその地の十分の三を植え、猛安謀克戸で少ない者は必ずその地の十分の一を課して植えさせ、枯れたものは補い新たに植えて、欠けることのないようにする。凡そ官地は、猛安謀克及び貧民が請け射る(耕作権を申請する)場合、広い郷では一丁あたり百畝、狭い郷では十畝とし、中男(未成年男子)はその半分とする。荒地を請け射る者は、最も下の第五等の租額を半減して定め、八年目から徴収する。自己の業とする者は第七等の租額を半減して税とし、七年目から徴収する。自首して隣接の地を冒して佃う(小作する)者は、官租の三分の二を納める。黄河の退灘地を佃う者は、翌年に租を納める。
太宗天会九年五月、初めて諸路に勧農の使者を分遣した。熙宗天眷十四年、来流・混同の間の護邏地を廃し、民に耕牧させた。海陵正隆元年二月、刑部尚書の紇石烈婁室ら十一人を派遣し、大興府・山東・真定府に分行して、官に係るものあるいは荒閑の牧地、及び官民が占め射た逃亡・絶戸の地、戍兵が占め佃った宮籍監・外路官の本業外に増置した土田、並びに大興府・平州路の僧尼道士女冠などの地を拘括し、もって遷してきた猛安謀克戸に授け、かつ民に請け射らせ、官がその租を得るようにした。
世宗大定五年十二月、上は京畿の両猛安の民戸が自ら耕墾せず、及び桑棗を伐って薪とし売ることを以て、大興少尹の完顔譲に巡察させた。十年四月、囲場の地を侵して耕すことを禁じた。十一年、侍臣に謂いて曰く、「往年、山西に清暑した時、道の傍らは皆禾稼であり、ほとんど牧地がなかった。嘗て下令して、民に五里の外にして初めて耕墾を得させた。今聞くところによれば、その民はこれによって他所へ去り、甚だ憫れむべきである。その旧に従って耕種することを令し、失業に至らしめないようにせよ。凡そ民を害する事は知らざることを患う、知れば朕は必ず為さない。今より事にこの類いあるは、卿等は即ち告げて隠すことなかれ」と。十三年、有司に勅して、「毎年官を遣わして猛安謀克の農事を勧めるのは、煩擾あるを恐れる。今よりはただ各管の職官に勧督させ、弛慢なる者は挙劾して聞かせよ」と。十七年六月、刑州の男子趙迪簡が言うには、「諸路の籍に附さない官田及び河灘地は、皆豪強に占められ、貧民は土瘠く税重し。官を遣わして冒佃する者を拘籍し、租課を定立し、また人戸の税数を量り減らし、庶幾くば軽重均平を得んことを乞う」と。詔して有司に付し、行わんとしたが止んだ。また近都の猛安謀克に給した官地は率ね皆薄瘠であり、豪民が官田を租佃すること年久しく、往々にして己が業と冒すことを以て、拘籍することを令した。また省臣に謂いて曰く、「官地は民でなければ誰が種えようか、然れども女直人戸は郷土より三四千里移来し、尽く薄地を得ている。もし良田を拘刷して給さなければ、久しければ必ず貪乏するであろう。その官を遣わしてこれを察せよ」と。また参知政事の張汝弼に謂いて曰く、「先に嘗て女直の土地を問わしめたが、皆良田と言った。及んで朕が出猟し、因ってこれを問うと、則ち起移して此に至りてより、種蒔することができず、蘆を斫って席とし、或いは芻を斬って自給すると言う。卿等そのこれを議せよ」と。省臣奏して、「官地は人が多く蔽匿し盗耕する所以は、その罪軽きが故である」と。乃ち条約を改め、限を立てて人に自陳させ、限を過ぐれば則ち人能く告ぐる者に賞有りとした。同知中都路転運使の張九思を遣わして往きてこれを拘籍させた。十九年二月、上は春水に行き、民の桑が多く牧畜に齧み毀されるを見て、詔して親王・公主及び勢要の家で、牧畜が民桑を犯す有るは、所属の県官に立って加えて懲断することを許した。
十二月、宰臣に謂いて曰く、「亡遼の時に撥給した地は、本朝の元帥府が既に嘗て拘籍した。民或いは無主地と指射し、租佃及び新たに開墾して己が業とする者は拘括することができる。その間に播種すること年久しく、若し遽かにこれを奪わば、民の失業を恐れる」と。因って詔して括地官の張九思にこれを戒めしめた。また宰臣に謂いて曰く、「朕聞く、括地の事の行わるる所は極めて不當なりと。例えば皇后莊・太子務の類い、ただ名称を以て便ち官地と為し、百姓の執る所の憑験は一切問わず、その相鄰して官地を冒占する者、また倖免する者有り。軍戸をして稍々給し、民をして失業せしめざるは、乃ち朕の心なり」と。二十年四月、行幸の道隘く、扈従の人便ならざるを以て、詔して戸部に沿路の頓舎の側近の官地を、民に租与して耕種せしめざらしむ。また詔して、故太保の阿裏が先に山東路に於いて地百四十頃を撥給され、大定初年に又中都路に於いて田百頃を賜わりしを、山東の地を拘えて官に入れしむ。五月、有司に諭して曰く、「白石門より野狐嶺に至るまで、その間の澱濼多くは民に耕植せられ、而して官民雑畜往来して牧放する所無し。官を差して元の荒地及び冒佃の数を括せしむべし」と。
二十一年正月、上は宰臣に謂ひて曰く、「山東・大名等路の猛安謀克戸の民は、往々にして驕り縦にして、自ら稼穡に親しまず、家人に農作をさせず、尽く漢人に佃蒔せしめ、租を取るのみなり。富家は尽く紈綺を服し、酒食遊宴に耽り、貧者は争ひて慕ひ倣ふ、家給人足ならんことを望むは、難きかな。近く已に奴婢を売ることを禁じ、其の凶吉の礼を約し、更に官を委して戸数を閲実せしめ、口を計りて地を授け、必ず自ら耕さしむべし。力贍はざる者のみ、方て人に佃するを許すべし。仍て其の農時に酒を飲むことを禁ず。」又曰く、「奚人の六猛安は、已に咸平・臨潢・泰州に徙居せり。其の地は肥沃にして、且つ精勤に農務に励み、各其の居に安んず。女直人にして奚地に徙居する者は、菽粟収穫を得るや否や。」左丞守道対へて曰く、「聞く、皆自ら耕し、歳用も亦足れりと。」上曰く、「彼の地は肥美にして、他処に異なり。惟だ都に附ける民にて水害にて稼を損なひたる者を賑はふのみ。」三月、言を陳ぶる者言ふ、豪強の家多く田を占奪すと。上曰く、「前参政納合椿年は地八百頃を占め、又聞く山西の田も亦多く権要に占められ、一家一口に至る三十頃ある者あり、以て小民田を耕すこと無く、陰山の悪地に徙居す、何を以て自ら存せん。其れ官地十頃以上を占むる者を皆括して籍に官に入れ、将に貧民に均しく賜はんとす。」省臣又奏す、「椿年の子猛安参謀合・故太師耨碗溫敦思忠の孫長寿等、親属計り七十余家、占むる所の地三千余頃。」上曰く、「秋に至り、牛頭地を除く外、仍て各十頃を与へ、余は皆官に拘入すべし。山後招討司の括むる所も、亦当に此に同じくすべし。」又宰臣に謂ひて曰く、「山東路の括むる所の民田は、已に女直屯田人戸に分け与へ、復た官閑地を籍する有り、元の数に依りて民に還し、仍て租税を免ず。」六月、上省臣に謂ひて曰く、「近く大興府平・灤・薊・通・順等州、水災を経るの地は、今年の税租を免ず。水災に罹らざる者は姑く夏税を停め、稔歳を俟ちて之を征す。」時に中都大水有り、而して濱・棣等州及び山後大熟す。命じて懐来以南の道路を修治せしめ、以て糶者を来らしむ。又命じて都城に減価して以て糶せしむ。又曰く、「近く使を遣はして秋稼を閲視せしむ。聞く、猛安謀克の人惟だ酒を是れ務め、往々にして田を人に租し、而して三二年の租課を預借する者有り。或ひは種して耘さず、其の荒蕪に聴く者有り。今より皆各戸の人力を閲実せしめ、幾頃畝を耨すべきかを計り、必ず自ら耕耘せしむべし。其の力果して及ばざる者のみ方て租賃を許すべし。惰農にして酒を飲むが如きは、勧農謀克及び本管の猛安謀克並びに都管、各等第を以て罪を科すべし。収穫数多き者は、則ち亦等第を以て遷賞すべし。」七月、上宰臣に謂ひて曰く、「前に宗室戸を河間に徙し、地を撥ちて之を処せり。而して旧地を回納せず、豈に両地皆占むるの理あらんや。今より当に一処を以て之を賜ふべし。山東に民田を刷りて已に女直屯田戸に分け与へ、復た余有る地有り、当に民に還して是歳の租を免ずべし。」八月、尚書省山東の刷る所の地数を奏す。上梁肅に謂ひて曰く、「朕嘗て此を以て卿に問ふ、卿言を以てせず。此れ民地と称すと雖も、然れども皆明証無し、括して官地と為すも何ぞ不可ならん。」又曰く、「黄河已に故道を移し、梁山濼水退き、地甚だ広し。已に嘗て使を遣はして屯田を安置せしむ。民昔嘗て恣意に之を種せり。今官已に其の地を籍す。而して民其の租を征せられんことを懼れ、逃るる者衆し。若し其の租を征し、而して冒佃して即ち出首せざる罪を以て之を論ずるは、固より宜し。然れども若し遽かに之を取らば、恐らくは失所を致さん。其の征を免じ、其の罪を赦し、別に官地を以て之を与ふべし。」御史台奏す、「大名・済州梁山濼の官地を刷るに因り、或は民地を以て刷らるる者有り。」上復た宰臣を召して曰く、「嘗て通検を経て税を納むと雖も、而して明験無き者は、復た刷問すべし。公据有る者は、本人に付すと雖も、仍て体問すべし。」十月、復た張仲愈と冒占田の事を論ず。
二十二年、都に附ける猛安戸自ら種せず、悉く民に租与し、一家百口壟に一苗無き者有り。上曰く、「勧農官、何をか勧諭と為さん、其れ治罪せしめよ。」宰臣奏して曰く、「自ら種せずして輒ち人に与ふるは、合して違例を科すべし。」上曰く、「太重し、愚民安んぞ知らん。」遂に大興少尹王修の奏する所に従ひ、種せざる者杖六十、謀克四十、租を受くる百姓は罪無しとす。又命じて梁山濼の流民を招複せしめ、官田を以て之を与ふ。時に人戸契拠を執り墳壟を指して験と為す者有り、亦官に拘す。先づ恩州刺史奚晦に委ねて之を招かしめ、復た安粛州刺史張国基を遣はして験実して之を与へしむ。如し已に猛安に撥系せらるれば、則ち官田を以て償ふ。上曰く、「工部尚書張九思は強く執りて通ぜず。向に官田を刷らしむるを遣はし、凡そ秦・漢以来の名称を犯すもの、長城・燕子城の類の如き者は、皆官田と為せり。此の田百姓の己業と為ること幾百年を知らず、所見此の如し、何ぞ通ぜざること甚だしきや。」八月、趙王永中等四王府の官田を冒占するを以て、其の各府の長史府掾及び安次・新城・宛平・昌平・永清・懐柔の六県の官を罪し、皆罰贖有差。
九月、刑部尚書移剌慥を山東路猛安内に遣はし八謀克の民を摘み、河北東路酬斡・青狗児両猛安の旧居の地に徙す。牛無き者は官之を与ふ。河間の宗室未だ徙さざる者を尽く平州に徙さしめ、力無き者は官津発す。土薄き者は良田を以て之に易ふ。先に嘗て豊年を俟ちて則ち官地を括籍せしむるを令せり。是の歳に至り、省臣復た以て奏す。上曰く、「本新に徙す四猛安の貧窮の為め、須く官田を刷りて之に与ふべし。若し張仲愈等の擬する条約太だ刻なれば、但だ民初め地を得るの由無く、撫定後に未だ嘗て税を輸せず、妄りに己業と通ずる者を刷る。此くの如くせば、恐らくは民之を苦しまん。酬直と為すべし。且つ先づ猛安謀克の人戸に、宜しきに随ひ分処せしめ、其の丁壮牛具を計り、合すべき土田の実数を給ふ。足らざれば、則ち前に刷る所の地二万余頃を以て之を補ふ。復た足らざれば、則ち続いて当に議せん。」時に落兀なる者婆薩等と懿州の地六万頃を争ふ。皆拠験無きを以て、遂に官に没入す。
二十七年、各地の官豪の家は多く官地を請け占め、他人に転じて耕作させ、租課の利を規取する。有司に命じて現数を拘刷し、貧困無地の者に与え、毎丁五十畝を授け、庶幾くは失所せざらしめ、余りの佃作不尽の分は初めて豪家に験丁して租佃を許す。章宗大定二十九年五月、再び限を立て、貧民に官地を請佃せしめんと擬す。縁るに今已に期を過ぎ、計らくは已に数足れりとす。其の占めて余り有る者は、若し告訐を容るれば、恐らくは奸弊を滋さん。況んや続告漏通地は、敕旨已に革む。今限外告する者は宜しく之を却くべく、只元の佃に付すべし。兼ねて平陽一路は地狭く人稠し、官地は当に尽数拘籍し、丁を験して貧民に給すべし。上曰く、「限外に指告して多佃官地する者は、之を却くは当たりたり。若し主無くして承佃を顧みざるは、初めて諸人の告請を許すべし。其の平陽路は宜しく丁を計り田を限るべし。一家三丁、己業止まり三十畝なれば、則ち更に存する所の佃官地一頃二十畝を許し、余りは拘籍して貧民に給付すべし。」七月、尚書省に論旨して曰く、「唐・鄧・潁・蔡・宿・泗等の処は、水陸膏腴の地なり。若し等級を験え、量りに歳租を立て、其の征納の限を寛かにし、民を募りて之を佃わしむれば、公私益有らん。今河南沿辺の地は多く豪民の冒占する所と為り、若し民或は流移して彼に至り、就きて募りて耕さしむれば、惟だ貧民贍う有るのみならず、亦官租の羨を増さん。其の丁壮なる者に田及び耕具を与え、而して其の租税を免ずべし。」八月、尚書省奏す、「河東は地狭く、稍々凶荒有れば則ち流亡相継ぐ。窃かに謂う、河南は地広く人稀なり。若し令して他の路の流民を招集し、量りに閑田を与えれば、則ち河東の饑民減少し、河南且つ曠地無からん。」上請に従う。九月戊寅、又奏す、「制に在り、諸人の官閑地を請佃する者は五年の租課を免ず。今八年を免ぜんことを乞う。則ち或は多く墾らん。」並びに之に従う。十一月、尚書省奏す、「民、丁を験えて河南の荒閑官地を佃う者は、願わくは官地と作らば則ち租を八年免じ、願わくは己業と為らば則ち税を三年免ず。並びに貿易典売を許さず。若し豪強及び公吏輩に冒佃する者有らば、両月を限りて陳首せしめ、罪を免じて全く之を与え、其の税は則ち其の鄰地を視て之を定め、三分を率として一分を減ず。限外は諸人の告詣を許して之を与う。」制可す。
明昌元年二月、有司に諭旨して曰く、「水に瀕する民地、已に種蒔して水に浸される者は、近き所の官田を以て対給せしむべし。」三月、敕す、「当軍人の受くる田は、只だ自種せしめ、力足らざる者は初めて人の承佃を許す。亦た只だ地の産するに随いて租を納め、自ら折銭して輸納せんと欲する者は民の欲する所に従い、承佃を願わざる者は強うること毋れ。」六月、尚書省奏す、「近制、猛安謀克戸は桑果を栽植せずと為り、已に毎十畝に須らく一畝を栽植せしむるを令す。今再び各路の提刑及び所属州県に下し、民戸を勧諭せんことを乞う。若し栽えざる及び栽えて十の三に及ばざる有らば、並びに事の怠慢軽重を以て罪を科すべし。」詔して可とす。八月、敕す、「随処の系官閑地、百姓已に請佃する者は仍って旧の如く、未だ佃わざる者は以て屯田猛安謀克に付す。」三年六月、尚書省奏す、「南京・陝西路提刑司言う、旧牧馬地久しく分撥せず、以て軍民訴訟を起こすに至る。比に官を差して各路に往きて之を定む。凡そ民戸に憑験己業及び宅井墳園有る者は、已に改正して給付し、而して其の中に復た官地有る者も、亦た数を験えて対易せり。両路の牧地、南京路六万三千五百二十余頃、陝西路三万五千六百八十余頃。」五年、尚書省に諭旨して曰く、「遼東等路の女直・漢兒百姓は、並びに量力して蠶桑為さしむべし。」二月、陳言人、長吏の農を勧むるを以て殿最を立つるを乞う。遂に定制す、「能く農田を勧むる者は、毎年謀克は銀絹十両匹を賞し、猛安は之を倍にし、県官は本等に於いて五人を升す。三年怠らざる者は猛安謀克一官を遷し、県官一等を升す。田荒ること十の一に及ぶ者は笞三十、分数加わりて徒一年に至る。三年皆な荒るる者は、猛安謀克一官を追い、県官は升等の法を以て之を降す。」永格と為す。六年二月、詔して陝西の地を括るを罷む。又陝西提刑司言う、「本路戸民の安水磨・油栿する、占むる所の歩数は私地に在りては税有り、官田に在りては則ち租有り。若し更に水利銭銀を輸せば、是れ重並なり。之を除かんことを乞う。」省臣奏す、「水利銭銀は以て本路の用を輔う。未だ除くべからず。宜しく実に占むる地数を視て、税租を除くべし。」命じて他の路此を視て法と為さしむ。
承安二年、戸部郎中上官瑜を遣わして西京並びに沿辺に往かしめ、軍民の耕種を勧挙せしむ。又戸部郎中李敬義を差して臨潢等路に往かしめ、農事を規画せしむ。旧令、軍人の授くる所の地は人に租賃することを得ず。違う者は苗を地主に付す。泰和四年九月定制す、撥ぐ所の地土十里内の自種の数は、毎丁四十畝、続進丁も此に同じ。余りは便宜租賃及び両和分種を許し令す。違う者は銭業を主に還す。上聞く、六路括地の時、其の間の屯田軍戸は多く名を冒し口を増し、以て官地を請い、及び民田を包取し、而して民に空しく税賦を輸し、虚しく物力を抱く者有り。応詔陳言人多く之を論ず。五年二月、尚書省奏す、「若し復た官を遣わし分かれて往き、案憑を追照せば、訟言紛紛、何時にてか已まん。」遂に虚しく税石を抱き已に輸送入官する者を令し、税内に於いて毎歳之を続克せしむ。泰和七年、民を募りて清河等処の地を種佃せしめ、其の租を以て諸春水処の餌鵝鴨の食と為し分つ。八年八月、戸部尚書高汝礪言う、「旧制、人戸荒地を請佃する者は、各路の最下第五等を以て半減して租を定め、仍って八年の輸納を免ず。若し己業と作らば、並びに第七等の税銭に依り半減し、亦た三年の輸納を免ず。自首して鄰田を冒佃するは、租を定めて三分の二を納む。其の黄河退灘地を請佃する者は、次年租を納む。向者小民久計と為さず、比し租を納むるの時に至れば多く巧みに避匿し、或は復た告退す。蓋し元の限太だ遠く、請佃の初め人保識無き故なり。今請佃する者は三年を免し、己業と作る者は一年を免すべし。自首冒佃並びに退灘地を請う者は、並びに当年租を輸せしめ、鄰首保識を以て長制と為すべし。」
宣宗貞祐三年七月、河北の軍戸を河南に移した後、その処置について議論した。宰臣は言う、「官田及び牧地を指し示して分け与えるべきであり、既に民が耕作しているものは秋の収穫を待ってから、なお一日に米一升を給し、分鈔で折支すべきである」と。太常丞石抹世績は言う、「荒田や牧地は開墾に労力を要する。民が従来耕作していた土地を奪えば民は生活の基盤を失う。況して軍戸は概して牛を持たない。軍戸の一部を帰還させて本来の生業を守らせ、春に再び戻らせるのが、固守の策として適当である」と。上はついに宰臣の議に従い、土地を検括しようとした。侍御史劉元規が上書して言う、「朝廷に括地の議があると拝見し、聞く者は皆驚愕している。以前河北・山東で既にこの措置を行い、民の墳墓・井戸・竈は全て軍の所有となり、怨嗟と争訟は今日に至るまで絶えない。もし再びこれを行えば、大いに衆心を失うであろう。荒田は耕せず、ただ得地の名があるだけで、実利を享受することはできない。たとえ熟田を得ても、自ら耕すことはできず、再び民に耕作させれば、得る所は僅かで、かえって紛々として互いに弊害を生じるのみである」と。上は大いに悟り、これを中止した。
八月、先に括地の事が未だ定論を得ず、北方の侵攻が河南に及び、これにより諸路の軍戸を尽く起こして南来させた。共に保守を図るも、軍糧を得る術を知ることができない。衆議は官を分遣して耆老を集めて問うべきであり、賦税を増やすか、あるいは軍田を与えるか、この二者のどちらが便であるかを論じた。参政汝礪は言う、「河南では官地と民地が半ばし、また官地を全幅耕作している家が多い。一旦これを奪えば、どうして自活できようか。小民は動かし易く安んじ難く、一時的に賦税を避けようとして田を捨てる言葉があっても、人に与えて後悔しないことがあろうか、後悔すれば忿心が生じる。山東で土地を割り当てた時のように、肥沃な地は全て富家に入り、瘠せた地が貧戸に付され、軍には益なく、民には損害があった。ただ官租を倍増して軍食に充てるべきである。また官有の荒田・牧地を量を計って与え、自ら耕作させれば、民は失業せず、官は民を虐げない」と。これに従った。三年十月、高汝礪が言う、「河北から河南に移住した軍戸はほぼ百万口、一人一日に米一升を給すれば、歳費は三百六十万石、半額を代価で支給しても、なお粟三百万石を支払う。河南の租地は総計二十四万頃、歳租はわずか百五十六万石である。経費の外に倍征してこれを給することを乞う」と。そこで右司諫馮開ら五人を命じて諸郡に分遣し、荒官田及び耕作可能な牧地を就いて授け、一人三十畝とした。
十一月、また荒田及び牧馬地を検括して軍に給することを議した。尚書右丞高汝礪に総括させた。汝礪は還って奏上した、「現在の頃畝の数は旧籍と比べて甚だ少なく、また瘠悪で耕作できない。耕作可能なものを均等に与えても、一人当たりの得る所は僅かである。また僻遠の地では必ず移住してこれに就かねばならず、彼らは皆自ら耕作できず、必ず人に与え、また数百里の外から租を取らねばならない。況んや今、農田すら尽く開墾できないのに、どうして叢薄が交錯し固く、草根が糾結した荒地を耕す余力があろうか。軍がこれに頼って食を得ることはできないのは明らかである。今、諸軍戸に尋ねると、皆言う、『半糧を得ればなお自養に足りる。田を得ても耕せず、さらにその廩給を罷められれば、何に頼ろうか』と。臣は知る、初めに土地を籍没した時、実状を検閲せず、そのため数が合わず、その場所も得られなかったのである。もし再び州県に考計させれば、必ず各々妄りに風旨を承け、追呼究結して命令に応じようとするであろう。数が足りなければ、妄りに民田を指してこれを充て、則ち所在騒然となるであろう。今、民の賦役は平時の三倍、飛挽転輸に日が暇なく、さらにこの挙に出れば、どうして堪えられようか。かつ軍戸は暫く遷っただけで、行くに還期あり、どうしてこれをもって民を苦しめようか。民を苦しめて軍が利益を得るのでさえ、なすべからざることであり、況んや利益がないことをや。惟うに陛下はご明察を加えられよ」と。そこで詔して田を与えることを罷め、ただ半額を糧食で、半額を実物の代価で給することとした。四年、再び官を遣わして河南の牧馬地を検括した。その数を籍没した後、上は省院に命じて軍に給する方法を議させた。宰臣は言う、「今、糧食を給すべき軍戸は四十四万八千余口、計算上は一口当たり六畝余りを占めることになるが、後から来る者は含まれない。しかし数百里離れている者が、どうして六畝の故に遠くから来られようか。兼ねて月々支給する口糧を急に罷めることはできない。臣等は窃かに考えるに、軍戸で耕作を願う者には即ち口数を計って給すべきである。その余の僻遠で願わない者は、近時の制に准じ、官有荒地は軍民の開墾を許す例により、軍民に占拠して植え付けさせるべきである」と。院官は言う、「牧馬地は少なく、かつ久しく荒れて耕し難い。軍戸はまた農具に乏しい。しかし与えなければ、彼らは自ら支給される糧食の外、さらに食を得る術がなく、敵に備えて鋭気を蓄える計ではない。与えてもまた急にその糧食を減らすことはできず、もし歳月をかけて待ち、漸く順序が成り立てば、漸く官の廩給を省くことができるであろう。今、有力者から奪って、即ち無力者に授ければ、恐らく耕作できないであろう。司県官に命じて民戸を勧め率い、牛を借りて荒れ地を開墾させ、来春になってからこれを給することを乞う。司県官が民戸を率いて助耕し、騒動なく行えば、官賞を量り加え、おそらく激励することができるであろう」と。宰臣はまた言う、「もし言う如くならば、司県官は官賞を貪り慕い、必ず抑配し、民を擾乱に至らせるであろう。今、民家の牛は、土地の量に応じて畜っている。況んや比年以来、農作業が終われば力を合わせて転輸に当たり、なお及ばないことを恐れているのに、どうして他人の田を耕す暇があろうか。ただ臣等の前の奏の如くが便である」と。詔して再議させた。そこで、民で牧馬地及び官荒地を開いて熟田とすることができる者は、その半分を与えて永業とし、半分を軍戸に給することを擬した。奏上して許可された。四年、省が奏上した、「古より兵を用いるには、耕しながら戦い、これにより兵糧共に足りた。今、諸帥が分兵すること百万に止まらず、一旦軍伍に充てれば皆官に仰ぎ、妻子が家に居て安坐して哺を待つに至っては、屯田が経久の計であることを知らないのである。願わくは明詔を下し、諸帥府に各々その軍をもって耕耨させ、また以逸待労の策とせられよ」と。詔してこれに従った。
興定三年正月、尚書右丞で三司事を兼ねる侯摯が言うには、「河南の軍民の田地は総計百九十七万頃余りあり、現に耕作しているのは九十六万余頃である。上田は一石二斗、中田は一石、下田は八斗を収穫でき、十分の一を徴収すれば、毎年九百六十万石を得ることができ、自ら歳支を十分に賄うことができ、かつ貧富を均しくし、大小各々その所を得させることができる。臣は東平で試みに二三年行ったが、民は疲れずして軍用は足りた」と。詔して有司に議わせてこれを施行させた。四年十月、移剌不が言うには、「軍戸は河南に移住して以来、数年を経てもなお田地を与えられず、加えて移転が常ならず、安居を得ることができないので、貧しい者が甚だ多い。諸屯所の官田を調査し、一人に三十畝を与え、なお屯所を他に移さないようにすれば、このようにすれば軍戸はその所を得ることができ、官糧は次第に節約できる」と。宰臣が上奏して言うには、「以前にも田地を授けることを言う者があったが、枢密院は事態が緩和するのを待って行うべきであるとしていた。今、河南は水害に遭い、流亡する者が多く、植えられた麦は五万頃に及ばず、往年の大半を減じており、歳入はほとんど足りないであろう。もしこれを撥授して永業とし、収穫があればその家の糧を廃止するならば、これも費用を省く一端である」と。上はこれに従った。また河南は水害により、租税を滞納する戸が大半で、田野は荒蕪し、租税の収入が少なく国用が乏しくなることを恐れ、そこで唐・鄧・裕・蔡・息・寿・潁・亳および帰徳府の水害を受けた田地で、すでに乾いたものには種を播き、まだ水が引かないものには稲を植えさせ、復業した戸には本租および一切の差発を免除し、代わりに耕作する者にも同様にし、有司が勝手に課税した者は違制の罪に問い、牛や食糧が不足する者は富者に率いられて借りるようにさせた。五年正月、京南行三司の石抹斡魯が言うには、「京南・京東・京西の三路には、屯軍の老幼四十万口がおり、毎年糧食百四十余万石を費やし、皆民租を坐して食っているのは、甚だ良策ではない。租税を滞納した戸の旧耕田を調査し、南京一路の旧墾田は三十九万八千五百余頃あり、そのうち官田で民が耕作しているのは九万九千頃余りである。今、飢民で流離している者は大半であり、京東・京西路も同様である。朝廷は復業を招いているが、民は復業した後に生計が定まらないうちに賦斂が続くことを恐れ、しばしば隠れて出てこない。もし軍戸に一人三十畝ずつ分け与え、自ら耕作させ、あるいは人を召し佃作させれば、数年後には蓄積が次第に豊かになり、官糧は廃止できる」と。省臣に議わせたが、結局施行できなかった。
租賦
金の制度では、官地は租を納め、私田は税を納めた。租の制度は伝わっていないが、おおよそ田地の等級を九つに分けて差等をつけた。夏税は一畝あたり三合を徴収し、秋税は一畝あたり五升を徴収し、さらに稲藁一束を納め、束は十五斤である。夏税は六月から八月まで、秋税は十月から十二月までを、初限・中限・末限の三限とし、州から三百里外は期限を一月延ばした。屯田戸で官地を佃作する者は、有司が猛安謀克に移して監督させた。泰和五年、章宗が宰臣に諭して言うには、「十月に民の収穫がまだ終わらないのに、急いで納税を命じるのはよいことか」と。秋税の期限を十一月を初限に改めた。中都・西京・北京・上京・遼東・臨潢・陝西は地が寒く、農作物の成熟が遅いので、夏税の期限を七月を初限とした。粟や麦を輸送する場合、三百里外は一石につき五升を減免し、それ以上は三百里ごとに五升ずつ減免する。粟を稲藁百称に折納する場合、百里以内は三称を減じ、二百里は五称を減じ、三百里に満たない場合は八称を減じ、三百里および本色の槁草を輸送する場合は、それぞれ十称を減じる。民の田園・邸宅・車両・牧畜・種植の資産、蓄えられた銭の数を計算し、差等に応じて銭を徴収し、これを物力銭といった。差科に際しては、必ず版籍に照らし、まず富者に及び、勢力が同等であれば丁の多寡によって甲乙を定めた。臨時の課税(横科)がある場合は、物力を見て、大から小へと順に均等に課した。もし分割できない場合は、概ね次の戸で補った。凡そ民の物力については、居住している宅地は算入しない。猛安謀克戸・監戸・官戸は居住地以外に、自ら民田宅を購入した場合は、その数を算入した。墓田・学田は、租税・物力ともに免除された。
民が水害・旱害により免除を訴える場合、河南・山東・河東・大名・京兆・鳳翔・彰徳の部内支郡では、夏田は四月、秋田は七月、その他の路では夏は五月、秋は八月、水田は一律に八月を期限とし、閏月に当たれば期限を半月延長し、期限外の訴えは受理しない。季節外の災害には期限はない。損害が十分の八の場合は全額免除、七分の場合は損害分を免除、六分の場合は全額徴収する。桑が被害を受けて養蚕できない場合は、絲綿絹税を免除する。諸路の雨雪および禾稼の収穫数は、月ごとに捷歩で戸部に申告する。凡そ叙使の品官の家は、雑役を免除し、物力に応じて納めるべきものは、雇銭を出すのみとする。進納により官を補われたがまだ子孫に蔭が及ばない者、および凡そ出身のある者(司吏・訳人などをいう)、出職して官を帯び自身が叙される者、雑班叙使五品以下、および正品の承応で既に散官を帯びながら出職していない者、その子孫および同居の兄弟、下って終場挙人、系籍学生・医学生は、皆一身の役を免除する。三代同居で、既に門を旌表された者は差発を免除し、三年後に雑役を免除する。
太宗天会元年、有司に命じて徭役賦税を軽減し、農耕を奨励させた。十年、遼人の士庶の族で賦役の等差が一様でないため、詔して有司に命じて悉く均等にさせた。熙宗天眷五年十二月、詔して民戸の残欠租税を免除した。皇統三年、民税で未納のものを免除した。世宗大定二年五月、宰臣に言うには、「凡そ徭役がある場合は、強戸に均等に課し、貧民に押し付けてはならない」と。用度不足を理由に、河北東西路・中都の租税を前借りするよう上奏する者があったが、上は国用は乏しいが民力はなお艱難であるとして、遂に許可しなかった。三年、凶作のため、詔して二年の租税を免除した。また詔して言うには、「朕はこれまで元帥府に便宜行事させてきたが、今聞くところによれば河南・陝西・山東・北京以東、および北辺の州郡では、調発が甚だ多く、省部がまた他州と一様に賦役を徴収しているのは、重なる擾乱である。元帥府が既に徴収した例に基づき、これを免除せよ」と。五年、有司に命じ、「凡そ蝗害・旱害・水害に遭った土地は、その賦税を免除せよ」と。六年、河北・山東が水害に遭ったため、その租を免除した。八年十月、彰徳軍節度使の高昌福が上書して租税が甚だ重いと言うと、上は翰林学士の張景仁に諭して言うには、「今の租税法は近代に比べて甚だ軽いのに、重いとするのはなぜか」と。景仁は言うには、「今の税斂は殊の外軽く、税斂がなければ国用はどこから出るのでしょうか」と。二年二月、尚書省が上奏して言うには、「天下の倉廩に貯蔵されている粟は二千七十九万余石である」と。上は言うには、「朕は聞く、国に九年の蓄えがなければ国はその国ではないと。朕はこのため天下の田を調査してその賦を均しくし、毎年九百万石を徴収するが、経費七百万石の外、二百万石はまた水害・旱害による免除および賑貸に用いられ、残りはわずか百万石に過ぎない。朕は蓄積を広くし、飢饉に備えているのである。小民は税が重いと思い、小臣は民の称賛を買おうとして、また多くこれを議論する。国家の緩急の備えを考慮しないからである」と。
十二年正月、水旱の災により中都・西京・南京・河北・河東・山東・陝西の去年の租税を免ず。十三年、宰臣に謂ひて曰く、「民間の科差、計ふるに免ぜられたる已に半を過ぎたり。慮ふらくは小民詳らかに知ること能はず、吏奸を縁りて、仍ほ舊の如く征取するを。其れ所在に榜を掲げて之を諭すべし」と。十月、州縣官税租を盡力して催督せず、以て逋懸を致す者は、其の俸を止むることを可とし、之をして征足せしめ、然る後に之を給すべしと敕す。十六年正月、詔して去年水旱を被りたる路分の租税を免ず。十七年、上宰臣に問ひて曰く、「遼東の賦税舊六萬余石、通檢後幾二十萬石。六萬石の時何を以て仰給せしや、二十萬石の後積みたる幾何ぞ」と。戶部契勘して謂ふ、「先づ官吏の數少なきを以て故に能く給す。今官吏兵卒及び孤老の數多く、此を以て費大なり」と。上曰く、「當に其の實を察し、妄りに費やすこと毋からしむべし」と。十七年三月、詔して河北・山東・陝西・河東・西京・遼東等十路の去年旱蝗を被りたる租税を免ず。十八年正月、中都・河北・河東・山東・河南・陝西等路の前年被災の租税を免ず。十九年秋、中都・西京・河北・山東・河東・陝西水旱を以て民田十三萬七千七百余頃を傷つく。詔して其の租を蠲す。二十年三月、中都・西京・河北・山東・河東・陝西路の前歳被災を以て、詔して其の租税を免ず。戶部尚書曹望之の言に依り、詔して鄜延及び河東南路の稅五十二萬余石を減じ、河北西路の稅八萬八千石を増す。又詔す、諸の稅粟邊要の地に關せざる者は、儲むべき數を除く外、民に從便に折納するを聽す。二十一年九月、中都水災を以て租を免ず。前時近官路の百姓牛夫を以て遞運に充つる者は、復た它處未だ嘗て就役せざるの家に錢を征して之を償ふ。二十三年、宗州の民王仲規、征還せんことを乞ひて所役の牛夫錢を告ぐ。省臣以て奏す。上曰く、「此れ既に就役し、復た彼に錢を征す。前は此くの如く之を行へども、復た恐らくは所給の錢未だ必ずしも本戶に到らざらん、是れ兩不便なり。若し止むるに所役を計ひ、租税及び鋪馬錢を免ずるを以て便と爲すに若かず。其れ預め實數を計ひて以て聞せしめよ。若し和雇の價直も亦た須らく裁定すべし」と。有司其の數を上る。歲約六萬四千余貫を給し、計ふるに粟八萬六千余石に折す。上復た命ず、今より牛夫を役するの家、道を去ること三十里内に居る者を以て役に充つべしと。二十六年、軍民の地水旱の災に罹れる者、二十一萬頃、稅を免ずること凡そ四十九萬余石。二十七年六月、中都・河北等路嘗て河決水災を被りたる軍民の租税を免ず。十一月、詔す、河水泛溢し、農田災を被る者は、差稅を一年免ず。懷・衛・孟・鄭四州の河を塞ぐ勞役は、並びに今年の差稅を免ず。章宗大定二十九年、民租の十の一を赦す。河東南北路は則ち量りて之を減ず。尚書省奏す、兩路の田多く峻阪にし、磽瘠なる者は往々再歲一易す。若し地の等級を以て蠲除せずんば、則ち均しからざる有らんと。遂に敕して赦書に特ち一分を免する外、中田は復た一分を減じ、下田は二分を減ず。舊制、夏・秋稅は麥・粟・草の三色を納む。各處須ふる所の物一ならざるを以て、戶部復た令して諸の所用の物を以て折納せしむ。上封事者其の不可なるを言ふ。戶部謂ふ、此くの如くせば則ち諸路須ふる所の物要當和市し、轉た民を擾すと。遂に太府監を命ず、應に折納すべきの物宮禁に祗承する爲の者は、治むる黃河の薪芻直を增し二錢を以て折納す。黃河岸の用ふる所の木石の如きは固より土産に非ず、乃ち所屬をして計置せしめ、而して它の應に折納すべき者を罷む。
明昌元年四月、上封事者民の租稅を薄くせんことを乞ひ、慮ふらくは廩粟積み久しく腐敗すと。省臣奏して曰く、「臣等議す、大定十八年戶部尚書曹望之奏す、河東及び鄜延兩路の稅頗る重しと。遂に五十二萬余石を減ず。去年赦して十の一とし、而して河東の瘠地又た之を減ず。今歲入を以て度支するに余ること無きに幾し。萬一水旱の災有らば、既に其の入る所を蠲免し、復た粟を出して以て之を賑はさば、備有るに非ざれば可ならず。若し復た減せんと欲せば、將た何を以て之を待たん。腐敗を慮ふるが如きは、諸路をして時を以て曝晾せしめ、致して壞るる毋からしめ、違ふ者は律に論ずべし」と。制して可とす。
十一月、尚書省奏す、「河南の荒閑官地、人を許して丁を計ひて請佃せしめ、願はくは仍ほ官と爲らん者は租を八年免じ、願はくは己業と爲らん者は稅を三年免ずべし」と。詔して之に從ふ。明昌二年二月、敕す、今より民水旱災傷を訴ふる者有らば、即ち官を委して其の實を按視せしめ、所屬の州府に申し、提刑司に移報し、所屬と同しく檢畢りて、始めて翻耕せしむべしと。三年六月、有司言ふ、河州災傷し、食を闕くの民未だ租を輸せざる者猶有りと。詔して之を蠲す。九月、山東・河北三路災を被るを以て、其の權閣の租及び借貸の粟、令して歲豐の日を俟ちて續征せしむ。上秋山に如く、圍場經過の人戶の今歲夏秋租稅の半を免ず。四年冬十月、上行幸し、尚書省に諭旨して曰く、「海壖石城等縣、地瘠しく民困し、種くる所惟だ黍稗のみ。及び官に賦するに、必ず易ふるに粟を以て之を輸す。或は令して止むるに所産を課し、或は河東路に依りて稅を減じ、京に還るに至りて當に議を定めて以て聞せしむべし」と。五年、敕して河決に災を被れる民の秋租を免ず。泰和四年四月、久旱を以て詔を下して躬を責め、旱れたる州縣の今年夏稅を免ず。九月、陳言者謂ふ、「河間・滄州の逃戶、物力錢數千貫に至る。而して其の差發、有司止だ見戶に取辦す。民堪ふること能はざるなり」と。詔して按察司を令し、地土の物力は命じて其の業に隨はしめ、而して權りに其の浮財の物力を止む。五年正月、詔して有司に曰く、「泰和三年嘗て行幸せし所より三次に至る者は、科を被れる民特ち半年の租稅を免ずべし」と。八年五月、宋謀和するを以て、天下に詔し、河南・山東・陝西六路の今年夏稅を免じ、河東・河北・大名等五路は之を半とす。八月、詔す、諸路の農民荒田を請佃する者は、租賦を三年免じ、己業と作す者は一年免ず。自首して冒佃し、及び黃河の退灘地を請佃する者は、免するの例に在らずと。
宣宗貞祐三年十月、御史田迥秀が言うには、「方今軍国に必要なものは、一切河南に責めている。有司は民力を惜しまず、徴調が余りに急で、その期限を促し、その棰楚を痛める。民は既にその所有を尽くしてなお足らず、遂に奔走して他境に求め、力は尽き財は尽き、相踵いで散亡し、禁じても止めることができない。乞う、今より凡そ科征は必ず期を先に告げ、不急なものは皆罷め、庶幾くば民力は寛ぎて逋亡者は復業せん」と。詔してこれを行わせた。十二月、詔して逃戸の租税を免ず。四年三月、陝西の逃戸租を免ず。五月、山東行省僕散安貞が言うには、「泗州は災害を受け、道に殣が相望み、食するものは草根木皮のみである。しかるに邳州の戍兵数万、急征重役は悉く三県より出で、官吏は酷暴にして、擅かに宿蔵を括り、以て一切の命に応ずる。民は皆逋竄し、又別に進納閑官を遣わして相迫督せしむ。皆勢を怙て私を営み、実に官に到るものは十の一に過ぎず、徒らに国家に厚斂の名有らしむるのみ。乞う、信臣を命じて此の弊を革め、以て百姓を安んぜしめよ」と。詔してこれに従う。興定元年二月、中京・嵩・汝等の逋租十六万石を免ず。四年、御史中丞完顔伯嘉が奏す、「亳州は大水に遭い、計らくは租三十万石を免ずべきところ、三司官は実を以て報ぜず、止むところ十万のみ」と。詔して三司官の虚妄の罪を治めしむ。七月、河南が大水のため、詔を下して租を免じ種を勧め、且つ参知政事李複亨を宣慰使とし、中丞完顔伯嘉を副えしむ。十月、久雨のため、民の輸税の限を寛げしむるを令す。十一月、上曰く、「聞くに百姓多く逃れ、而して逋賦は皆見戸に抑配す、人何を以てか堪えん。軍儲既に足れり、宜しく悉く除免すべし。今又軍須銭を添うること太多し、亡者詎んで肯て復業せんや」と。遂に行部官に命じて実を閲し免じ、已に代納したる者には恩例を給し、或いは他の役を除き、仍く桑皮故紙銭を四分の一減ず。三年、逃戸の復業する者には但だ本租を輸せしめ、余の差役一切皆免ず。代耕し得る者は、復戸の如く免ず。有司が信を失い擅かに科する者は、違制を以て論ず。
四年十二月、鎮南軍節度使温蒂罕思敬が上書して言うには、「今民の輸税、その法は大抵三あり、上戸は遠倉に輸し、中戸はこれに次ぎ、下戸は最も近し。然れども近きものも百里を下らず、遠きものは数百里に及び、道路の費は輸する所に倍し、而して雨雪には稽違の責有り。賊に遇えば死傷の患い有り。本郡に止めて輸するに若かず、有司に令して倉の積む所を検算せしめ、屯兵の数に称し、就食せしむべし。若し足らざれば、則ち民に増斂し、民は斂する所の道里の費に及ばざるを計り、将に忻然としてこれに従わん」と。五年十月、上宰臣に諭して曰く、「比来民に多く麦を種えしめんと欲し、故に所在の官に令して麦種を貸易せしむ。今聞くに実は貸与せず、而して虚しく案簿を立て、反ってその数を収めて以て足らざる租を補うと。其れ使いを遣わして究治せしめよ」と。
元光元年、上聞く、向者有司が租税を徴するの急なるため、民は熟するを待たずしてこれを刈り、以て限に応ぜしむと。今麦将に熟せんとす、其れ州県に諭せ、犯す者有らば慢軍儲を以て罪を治めしめよ。九月、権りに職官の田有りて租を納れざる罪を立てる。京南司農卿李蹊が言うには、「『斉民要術』を按ずるに、麦は晩種すれば則ち粒小さくして実らず、故に必ず八月にこれを種う。今南路は秋税百余万石、草四百五十余万束を輸すべきに当たり、皆八月を以て終限とす。若し遠倉及び泥淖に輸すれば、往返二十日を下らず、民をして時に趨く暇無からしめ、是れ来歳の食を妨ぐるなり。乞う、征斂の限を寛げ、先ず二麦に力を尽くさしめよ」と。朝廷従わず。元光二年、宰臣奏す、「去歳正月京師の見糧纔か六十余万石、今三倍す、計らく国用頗る足るに、而して民間の租税征して絶えず、貧民の輸す所無くして逋亡するを恐る」と。遂に中旨を以て遍く諭してこれを止めしむ。
牛頭税
即ち牛具税、猛安謀克部女直戸の輸する所の税なり。その制は毎に耒牛三頭を一具と為し、民口二十五を限りて田四頃四畝有奇を受け、歳に粟を輸すること大約一石を過ぎず、官民の田を占むるは四十具を過ぎず。天会三年、太宗は歳稔るを以て、官に儲積無くして以て饑謹に備え無し、詔して一耒に粟一石を賦し、毎謀克別に一廩を為してこれを貯えしむ。四年、詔して内地諸路に、毎牛一具に粟五斗を賦し、定制と為す。
世宗大定元年、詔して諸猛安の遷移せざる者には、牛具税粟を征し、就て謀克に命じてその倉を監せしめ、虧損すれば則ちこれを坐す。十二年、尚書省奏す、「唐古部の民は旧く猛安謀克と同く税を定め、その後州県と同く改め、畝を履み税を立て、頗る重しと為す」と。遂に命じて旧制に従わしむ。二十年、功を定めて世襲謀克を授くるには、親族を以て従行するを許し、地を給すべきに当たる者は、牛九具以下は全く給し、十具以上四十具以下なる者は、則ち官豪の家に於いて量りに地六具を撥ちてこれに与う。二十一年、世宗宰臣に謂いて曰く、「前時は一歳の収むる所三年を支うる可く、比聞くに今歳山西豊稔にして、獲る所三年を支うる可し。此の間の地は一歳の獲る所半歳を支うること能わず、而して又牛頭税粟は、毎牛一頭に止めて各三斗を輸せしめ、又多に逋懸す、此れ皆遞互に隠匿するに由る、当に尽く実を以てこれを輸せしむべし」と。二十三年、有司その事を奏す、世宗左丞完顔襄に謂いて曰く、「卿が家は旧く止むところ七具、今四十具と定む、朕始めて卿等に此れを議せしむるに、而して卿等皆欲せず、蓋し各その私を顧みるのみ。是より後は民口二十五を限り、牛一具を算す」と。七月、尚書省復たその事を奏す、上は版籍歳久しく貧富同じからず、猛安謀克又皆年少にして、時事に練れざるを慮り、一旦軍興すれば、籍を按じてこれを征せば必ず不均の患い有らんと。乃ち実を験して推排せしむ。その戸口・畜産の数を閲し、その上京二十二路を以て来上せしむ。八月、尚書省奏す、推排して猛安謀克の戸口・田畝・牛具の数を定む。猛安二百二、謀克千八百七十八、戸六十一万五千六百二十四、口六百十五万八千六百三十六、内正口四百八十一万二千六百六十九、奴婢口百三十四万五千九百六十七、田百六十九万三百八十頃有奇、牛具三十八万四千七百七十一。都の宗室将軍司に在りては、戸百七十、口二万八千七百九十、内正口九百八十二、奴婢口二万七千八百八、田三千六百八十三頃七十五畝有奇、牛具三百四。迭剌・唐古二部五颭は、戸五千五百八十五、口十三万七千五百四十四、内正口十一万九千四百六十三、奴婢口一万八千八十一、田四万六千二十四頃十七畝、牛具五千六十六。後に二十六年、尚書省奏して牛頭税粟を並征せんとす、上曰く、「五年を積圧し、一たび並征せば、民何を以てか堪えん。其れ民に年を随いて輸納せしめよ。災に被る者はこれを蠲し、貸す者は豊年を俟って征還せよ」と。