金史

志第二十七: 食貨一 戸口 通検推排

国家に食貨あるは、人の飲食あるが如し。人は飲食なくしては生ぜず、国は食貨なくしては立たず。然れども燧人・庖犧は飲食の道を為して人に教うる能くとも、人の飲食の疾無からしむる能わず。三王は食貨の政を為して後世に遺す能くとも、後世に食貨の弊無からしむる能わず。善く生を養う者は食啖せんと欲せざるが如くして、飲食自ら闕けず、故に饑飽の宜に適し、疾少なくして長寿なるべし。善く国を裕かにする者は初め貨殖を事とせずして、食貨自ら乏しからず、故に豊約の節を制し、弊少なくして長治なるべし。

金の食貨に於いて、其の法を立つるや周く、其の民を取るや審なり。太祖肇造し、遼の租税を減じ、規模遠し。熙宗・海陵の世、風気日開き、兼ねて遠略を務め、君臣財用の制を講求し、切切然として是を以て先務と為す。世宗の賢を以てすら、儲積の志何ぞ嘗て一日も之を忘れんや。章宗に至りては弥文煟興し、辺費亦広く、食貨の議急ならざるを得ず。宣宗南遷し、国土日蹙き、汚池数罟、往々にして然り。其の立国以来を考うるに、所謂食貨の法、犖犖たる大なる者は租税・銅銭・交鈔の三者のみ。三者の法数変じて数窮まる。官田を租と曰い、私田を税と曰う。租税の外、其の田園屋舎車馬牛羊樹芸の数及び其の蔵鏹多寡を算し、銭を徴するを物力と曰う。物力の征は、上は公卿大夫より、下は民庶に逮るまで、苟も免るる者無し。近臣外国に出使し、帰れば必ず物力銭を増すは、其の饋遺を受くるを以てなり。猛安謀克戸には又所謂牛頭税有り、宰臣此の税を納むる有り、庭陛の間其の増減を諮り、則ち州県の小民に徴求する蓋し知るべし。故に物力の外に又鋪馬・軍須・輸庸・司吏・河夫・桑皮故紙等の銭有り、名目瑣細にして、殫述すべからず。其の戸と為るに数等有り、課役戸・不課役戸・本戸・雑戸・正戸・監戸・官戸・奴婢戸・二税戸有り。有司初め三年一籍を以てし、後変じて通検と為り、又推排と為る。凡そ戸州県に隷する者は、猛安謀克に隷するに与り、其の輸納高下又各相同じからず。法の初め行わるるや、唯密ならざるを恐れ、言事者其の民を厲するを謂い、即ち命じて之を罷む。之を罷むること未だ久しからず、会計者用乏しきを告げ、又即ち挙行す。其の罷むるや志は民を便ならしめんとし、而して民未だ徳を見ず。其の行わるるや志は用を足さんとし、而して用加うるに饒ならず。一時君臣節用の言絶えず告誡す。嘗て自ら其の国用を計るに、数亦浩瀚にして、若し歴年を支うるに足る者、郡県稍々歳侵に遇えば、又遽かに足らず、竟に其の故を詰むる莫し。

銅銭・交鈔の弊に至っては、蓋し甚だしき者有り。初め遼・宋の旧銭を用い、劉の鑄する所と雖も、豫廢せられ、亦兼ねて之を用う。正隆以降、始めて鼓鑄を議し、民間銅禁甚だ厳しく、銅用に給せず、漸く窯冶を興す。凡そ銅を産する地脈、吏を遺わし境内訪察して遺る無く、且つ外界に及び、而して民用の銅器闕くべからざる者は、皆官に造りて之を鬻ぐ。既にして官煩に勝えず、民病に勝えず、乃ち民に銅を冶し器を造るを聴き、而して官為りに価を立つるを以て售ぐ、此れ銅法の変なり。若し銭法の変は、則ち鼓鑄未だ広からず、斂散方無く、已に壅滞を見る。初め官庫の多積を恐れ、銭民に及ばず、法を立つるに広布す。継いで民の多匿銭を恐れ、乃ち存留の限を設け、告訐の路を開き、犯する者重罰を以て縄し、卒に禁むる能わず。州県銭艱しく、民間自ら鑄し、私銭苦悪甚だ甚だし。乃ち官銭五百を以て其の一千に易え、其の策愈下る。及び大銭を改鑄するに及び、准える所加重し、百計流通すれども、卒に效を獲ず。鉄銭を以て済い、鉄用に堪えず、交鈔を以て権り、銭重く鈔軽く、相去ること懸絶し、物価騰踴し、鈔至りて行われず。銀貨を以て権り、銀弊又滋し、救う亦策無く、遂に銅銭を罷め、専ら交鈔・銀貨を用う。然れども二者の弊乃ち銭に甚だしく、官に在りては大鈔を用うるに利有り、而して大鈔出づること多し、民益々軽しきを見る。私に在りては小鈔を得るに利有り、而して小鈔入ること多し、国亦補う無し。ここに於いて、官の大鈔を用うるを得ざるを禁じ、已にして民の銀を用いて鈔を用いざるを恐れ、則ち又民に鈔を以て官に納むるを責め、以て必ず用いるを示す。先ず二十貫より百貫の例を造り、後二百貫より千貫の例を造り、先後軽重倫を同じくせず、民益々眩惑す。及び已むを得ざるに至り、則ち年数を以て限り、地方を以て限り、公私受納分數を以て限り、ここに由りて民疑日深し。其の間、交鈔を易えて宝券と為し、宝券未だ久しからずして更に通寶を造り、銀に准えて並び用う。通寶未だ久しからずして復た宝泉を造り、宝泉未だ久しからずして綾を織り鈔を印し、名づけて珍貨と曰う。珍貨未だ久しからずして復た宝會を造り、汔に定制無く、而して金の祚訖る。

歴代を見渡すに、財が集まり民が離散して国が滅亡する例は、鹿台や鉅橋の類など論ずるに足らず、国が滅び財が乏しくなることはしばしばあるが、国用の窮乏は金の末期ほど甚だしいものはない。金の政治には常に民を憐れむ志があったが、苛酷な徴税の令を止めることができず、ただ聚斂の名があるだけで、国を富ませる実を挙げられなかった。その滅亡に至っては、粟を徴発し、穀物の売買を制限し、あらゆる搾取の政策を為さないものはなかった。賦税を数倍に増やし、数年分を前借りし、あるいは紙幣を得ようとして来年の差役を前売りした。高琪が宰相となっては、油の専売まで議論した。官職を売り、濫りに官を授け、空名の任命書を売りさばき、あるいは五品の正班を与えようとした。僧侶や道士が穀物を納めて、初めは度牒から始まり、ついには徳号・綱副威儀・寺観の主席までも、その財産に応じて売り払った。甚だしきは、喪中にある者が官職を求めて売り、監戸が良民になるために売り、進士の出身者が及第するために売った。さらに甚だしきは、叛臣や大盗が帰順するのに、賞賜を激励する金帛がなく、動もすれば王爵をもってその心を固め、重い爵位でも足りなければ、国姓を賜うことさえあった。名と実が混淆し、倫理と法が崩壊しても、顧みる暇もなく、国が乱れないことがあろうか。やがて宋が歳幣を絶ち和を許さず、その淮南の蓄えを貪り、力ずくで奪おうと謀り、枢密府の武騎をことごとく南伐に費やした。訛可・時全の出撃は、初めは食糧を得る志であったが、後には寸土も補わず、三軍は敗亡し、敵軍が国境に迫り、兵も財もともに困窮し、防ぐ術がなかった。故に金の食貨を志す者は、巻を掩って慨嘆せざるを得ないのである。《伝》に曰く、「涼しきを法と作れば、その弊猶お貪りなり。貪りを法と作れば、弊将に何如んせん」と。金は東海より起こり、その俗は純朴で、古に返ることができた。初めて中夏に入った時、兵威の及ぶところ、民は多く流亡し、土地は多く荒れ、残った民はおののき、何を求めても得られなかった。この時に当たり、仮に井田や溝洫の制度を復活できなくとも、もし唐の永業田・口分田を用いて民の財産を定め、その租庸調の法にならって国計を充足させたならば、どうして百年の内に経営計画が紛然として、その国と相終始するようなことになろうか。その弊は一時の利を急ぎ、久しく壊れた法を踏襲したことにあり、その中葉に至り、遼の倹朴を卑しみ、宋の繁縟な文飾を襲い、宋の寛柔を戒め、遼の操切な政治を加えた。これは二国の長所を捨てて、その短所を併せ用いたのである。繁縟が勝てば必ず財を傷つけ、操切が勝てば必ず民を害し、金の世が終わるまで、国用は容易に乏しく、民心は容易に離れた。これによるのではないか。法を作るにその初めを慎まず、弊を救おうと法を変えても、ただますます甚だしくなるのみである。その他の塩策・酒麴・常平・和糴・茶税・征商・榷場などの法は、おおむね多くは宋の旧臣の建明したもので、損益定まらず、変更常なく、紙幣と何が異なろうか。田制・水利・区田などの項目は、あるいは急に行ってすぐに止め、あるいは屡試して効果なく、あるいは熟議して未だ行わず、皆ここに篇を著して、一代の制度を備える。

戸口

金の制度では、男女二歳以下を黄、十五以下を小、十六を中、十七を丁、六十を老とし、夫のない者を寡妻妾とし、諸々の篤疾・廃疾は丁としない。戸主はその長を推して充て、内に物力ある者を課役戸とし、無き者を不課役戸とする。民に五家を以て保とさせた。泰和六年、上は旧来定めた保伍法が、役所が粗略で行われていないとして、保を結ばせ、奸細・盗賊を匿う者があれば連坐させることを命じた。宰臣が、旧来五家を以て保としたのは、人が容易に計略を構えて覚知し難いと恐れ、遂に唐の制度に従い、五家を鄰、五鄰を保として、互いに検察させることを命じた。京・府・州・県の城郭内には坊正を置き、村社には戸数の多少に従って郷を置き裏正を置き、戸口を調査し、賦役を催促監督し、農桑を奨励させた。村社三百戸以上には主首四人を設け、二百戸以上には三人、五十戸以上には二人、以下には一人を設け、裏正を補佐して違法を取り締まらせた。壮丁を置き、主首を補佐して盗賊を巡邏警戒させた。猛安謀克部の村寨には、五十戸以上に寨使一人を設け、職掌は主首と同じとした。寺観には綱首を設けた。凡そ坊正・裏正は、その戸の十分の内三分を取り、富民が均等に出して雇銭とし、強幹で保証人のある者を募って充て、一人の費用は百貫を超えず、役期は一年を超えない。大定二十九年、章宗はかつて坊正・裏正を廃止しようとしたが、また主首が遠くから城に入って交替するのは農事に妨げて不便であるとして、物力があり謹直な者を二年ごとに交替させることとした。凡そ戸口の計帳は、三年ごとに籍を作る。正月の初めから、州県では裏正・主首が、猛安謀克では寨使が、編戸の家に赴いて手実を求め、男女老幼の年齢と姓名を具え、生者は増やし、死者は除く。正月二十日に実数を県に報告し、二月二十日に州に申し出、十日以内に上司に達し、遠近を問わず皆四月二十日に戸部に到着して尚書省に呈する。凡そ漢人・渤海人は猛安謀克戸に充てることができない。猛安謀克の奴婢で良民に免ぜられた者は、ただ本部に隷属して正戸とする。凡そ官に没収された良人は、宮籍監に隷属して監戸とし、官に没収された奴婢は、太府監に隷属して官戸とする。

収国二年の時、法制未だ定まらず、兵革未だ息まず、貧民多く権右に依りて苟安を為し、多く隠蔽して奴婢と為る者あり。太祖詔を下して曰く、「比年凶歳に民飢え、多く豪族に附き、因りて奴隷に陥る。及び法を犯す有り、征償弁ずる莫く、身を折りて奴と為る。或いは私に約して限を立て、人を以て対贖し、期を過ぐれば則ち奴と為す者あり。並びに両人を以て一を贖い良と為すを聴し、元約一人を以て贖う者は便に従え」と。天輔五年、境土既に拓け、而して旧部多く瘠鹵なるを以て、将に其の民を泰州に移さんとし、乃ち皇弟昱及び族子宗雄を遣わして其の地を按視せしむ。昱等其の土を苴して進め、種植す可しと言う。遂に諸猛安謀克中の民戸万余を摘し、宗人婆盧火をして之を統せしめ、泰州に屯種せしむ。婆盧火旧に阿注滸水(按出虎とも作す)に居す、是に至り遷る。其の甯江州に居る者は、拾得、査端、阿裏徒歓、奚撻罕等四謀克を遣わし、家属耕具を挈き、泰州に徙し、仍て婆盧火に耕牛五十を賜う。天輔六年、既に山西諸州を定め、上京を以て内地と為す。則ち其の民を移して之を実す。又耶律仏頂を命じて兵を以て諸降人を渾河路に護送せしめ、皇弟昂を以て之を監せしめ、便に従い以て居らしむ。七年、山西諸部族西北二辺に近く、且つ遼主未だ獲られず、陰に相結び誘わんことを恐れ、復た皇弟昂と孛堇稍喝等を命じて兵四千を以て護送せしめ、嶺東に処す。惟だ西京の民は安堵故の如く、且つ昂を命じて上京路を鎮守せしむ。既にして、上昂の已に上京を過ぎたるを聞き、而して降人復た其の侵擾を苦しみ多く叛亡する者有るを以て、遂に孛堇出裏底を命じて往き戒諭せしむ。比至るに、而して諸部已に叛き去る。又猛安詳穏留住所領の帰附の民を以て還り東京に至らしめ、有司を命じて常に撫慰せしめ、且つ一年の糧を貸し、其の親属虜せられたる者皆令し聚居せしむ。及び七年燕京路を取り、二月、六州氏族富強工技の民を尽く内地に徙す。太宗天会元年、旧に潤、隰等四州の民を沈州の境に徙したるを以て、新に遷りし戸艱苦自存能わざるに、詔して曰く、「比聞く民食に乏し子を鬻ぐに至る者と、丁力等しき者を以て之を贖うを聴せよ」と。又詔して孛堇阿実賚に曰く、「先皇帝同姓の人の昔自ら鬻ぎ及び身を典質せる者有るを以て、官を命じて為に贖わしむ。今聞く未だ復せざる者尚ありと、其れ悉く閲し之を贖え」と。又官粟を以て上京路新に遷り置かれたる甯江州戸口貧しくして身を売れる者六百余人を贖わしむ。二年、民自ら鬻ぎて奴と為る者有り、詔して丁力等しき者を以て之を易えしむ。三年、内外官及び宗室私に百姓を役することを得ざるを禁じ、権勢家貧民を買いて奴と為すことを得ざるを禁ず。其の脅買する者は一人十五人に償い、詐買する者は一人二人に償い、罪皆杖百。七年、詔して兵興以来、良人略されて驅と為される者、其の父母妻子の之を贖うを聴せよ。熙宗皇統四年詔して陝西、蒲、解、汝、蔡等州歳饑え、百姓流落して典雇して驅と為される者、官絹を以て贖い良と為せ。丁男三匹、婦人幼小二匹。

世宗大定二年、詔して二税戸を免じて民と為す。初め、遼人仏を佞うこと尤甚だしく、多く良民を以て諸寺に賜い、其の税を分ち一半官に輸し、一半寺に輸す。故に之を二税戸と謂う。遼亡び、僧多く其の実を匿し、抑えて賤と為す。援り佐証を以て告ぐる者有り、有司各執して以て聞す。上素より其の事を知る。故に特ち之を免ず。十七年五月、省奏す、「咸平府路一千六百余戸、自ら陳う皆長白山星顕、禅春河の女直人、遼の時簽して獵戸と為し、此に移居し、号して移典部と曰い、遂に契丹籍に附す。本朝義兵の興り、首めて軍に詣り降り、仍って本部に居る。今厘正を乞う」と。詔して之に従う。二十年、上京路女直人戸の物力を規避し、自ら其の奴婢を売り、耕田する者少なきを致し、遂に貧乏に至るを以て、詔して制を定めて之を禁ず。又宰臣に謂いて曰く、「猛安謀克人戸、兄弟親属若し各随所分の土に、漢人と錯居し、毎に四五十戸を結び保聚と為し、農作の時令し相助け済わしむ。此も亦た勧相の道なり」と。二十一年六月、銀山側の民を臨潢に徙す。又役を避くるの戸挙家して他所に逃るる者、元貫及び寓する所の司県官同罪と為すを命じ、定制と為す。二十三年、制を定む。女直奴婢もし得力有らば、本主婚娉を令するを許す者は、須らく房親及び村老に取問し給据せしめ、方に良人に娉するを許す。是の年八月、猛安謀克戸口、墾地、牛具の数を奏す。猛安二百二、謀克千八百七十八、戸六十一万五千六百二十四、口六百十五万八千六百三十六、内正口四百八十一万二千六百六十九、奴婢口百三十四万五千九百六十七。墾田百六十九万三百八十余頃、牛具三十八万四千七百七十一。都に在る宗室将軍司、戸百七十、口二万八千七百九十、内正口九百八十二、奴婢口二万七千八百八。墾田三千六百八十三頃七十五畝、牛具三百四。迭剌、唐西二部五颭、戸五千五百八十五、口十三万七千五百四十四、内正口十一万九千四百六十三、奴婢口一万八千八十一。墾田一万六千二十四頃十七畝、牛具五千六十六。二十五年、宰臣を命じて禄有る人の一子及び農民課役を避けて僧道と為る者を禁ぜしむ。大定初、天下の戸纔に三百余万、二十七年に至り天下の戸六百七十八万九千四百四十九、口四千四百七十万五千八十六。

章宗大定二十九年十一月、上封事を呈する者が言うには、二税戸を良民に放免することを乞うと。省臣は公の文書で証拠となるものを基準とすべしと欲したが、参知政事移剌履は謂う、「証拠の真偽は判別し難い。凡そ契丹の奴婢で今後生まれる者は全て良民とし、現存する者は売買質入れを許さぬこと。かくすれば三十年後には奴婢は皆良民となり、而して民もまた困窮せざるべし」と。上は履の言を未だ適当ならずとし、再議を命ず。省が奏上して謂うには、調査拘括しなければ訴訟は終に絶えぬと。遂に大興府治中烏古孫仲和と侍御史范楫を派遣し、北京路及び中都路の二税戸を分けて調査せしむ。凡そ証拠がなく、その主人が自ら言い出した者及び通検によって知られた者は、その税を半ばは官に納め、半ばは主人に納め、而して証拠のある者は悉く良民に放免す。明昌元年正月、上封事を呈する者が言う、「古より農桑を本とす。今、商賈の外にまた仏・老と他の遊食する者あり、浪費は百倍に及ぶ。農作は豊かならず、流民餓死者相望む。これ末業が農を害する者多き故なり」と。上は乃ち令を下し、自ら剃髪して僧・道となることを禁ず。是の歳、天下の戸は六百九十三万九千、口は四千五百四十四万七千九百、而して粟は僅かに五千二百二十六万一千余石に止まることを奏す。官兵の二年分の費用を除き、余りを口数に照らして計れば、一口月に五斗を食するとして、四十四日分の食糧に足る。上曰く、「蓄積多くあらず。これは農に力を入れる者少き故なり。其れ百官を集め、民をして本業に務めさせ蓄積を広げる方策を議し、以て奏聞せしめよ」と。六月、北京等路において免ぜられた二税戸は、凡そ一千七百余戸、一万三千九百余口であることを奏す。此れ以後は良民となるか奴婢となるか、皆既に裁断されたところに従って定む。明昌六年二月、上宰臣に謂いて曰く、「凡そ女直進士を言うには、女直の字を称する必要なし。卿等は誤って女直・契丹の語を回避せんとす。是れ非なり。今もし戸民を区別せんとすれば、則ち女直は本戸と称し、漢戸及び契丹は、余りを雑戸と謂うべし」と。明昌六年十二月、天下の女直・契丹・漢戸は七百二十二万三千四百、口は四千八百四十九万四百、物力銭は二百六十万四千七百四十二貫であることを奏す。泰和七年六月、勅す。中物力戸は、役務あるときは多く逃避し、官司は次戸を以て代えしむ。事畢われば則ち旧業に復す。以て逃げざるの戸に大いに損害を及ぼすに至る。省臣に詳議を命ず。宰臣奏上して曰く、「旧制は甚だ軽し」と。遂に課役を負う全戸が逃亡した者は二年の徒罪に処し、告発者には銭五万を賞与す。先に逃亡した者は百日以内に自首すれば、罪を免ず。もし実際に困窮疲弊している者は、内は御史台に従い、外は按察司に従い、実情を究明して免ず。十二月、天下の戸は七百六十八万四千四百三十八、口は四千五百八十一万六千七十九であることを奏す。戸数は大定二十七年より一百六十二万三千七百一十五増加し、口数は八百八十二万七千六十五増加す。此れ金の版籍の極めて盛んなりし時なり。

及んで衛紹王の時、軍旅止まず、宣宗立って南遷す。死滅流移の余り、所在虚しきものと為る。戸口は日々消耗し、軍費は日々急迫し、賦斂は繁重にして、皆河南に仰給す。民は命に堪えず、率い廬舎田畑を棄て、相継いで亡去す。及んで屡々詔を降して復業する者を招き、其の歳の租を免ず。然れども国用乏竭するを以て、逃亡者の租は皆居住する者に代わり出ださしむ。以て故に多く敢えて還らざるなり。興定元年十二月、宣宗は賞を懸けて人を募り逃亡戸を捕えんと欲す。而して復た騒動を慮り、遂いに已に降した詔書に依り、已に債逋を免じ、更に一月を招き、違いて来らざる者を然る後に捕獲して罪に治め、以て遺された地を人に賜うことを命ず。四年、省臣奏上す、「河南は歳の饑饉に因りて賦役止まず。逃亡した戸は官司をして之を招かしむ。来年三月に至り復業せざる者は、律に論ず」と。時に河畔を疆界と為し、烽火太鼓屡々警報あり。故に集慶軍節度使溫蒂罕達言う、「亳州の戸は旧く六万なりき。南遷以来、調発に勝えず、相継いで逃去り、存する者は曾って十一も無し。碭山の下邑は、野に居民無し」と。

通検推排

通検とは、即ち『周礼』の大司徒しとが三年に一度大比を行い、各々其の郷の衆寡・六畜・車輦を登録し、物を辨じて征役を行わしむる制度なり。金は国初に戸籍を定めて以来、大定四年に至り、正隆の師旅の余波を承け、民の貧富変更し、賦役均しからず。世宗詔を下して曰く、「粤に国初より、官司は常に大比を行えり。今に至るまで四十年なり。正隆の時、兵役並びに興り、調発度無し。富者は今貧しくして自ら存立できず、版籍に無き者は今富室と為りて猶幸いに免る。是を用いて信臣泰寧軍節度使張弘信等十三人を派遣し、分路天下の物力を通検して差等を定め、以て前の弊を革め、元元に均しからざるの歎き無からしめ、以て朕が意に称せしめん。凡そ措置条理は、尚書省に画一して行わしむるを命ず」と。又命ず、「凡そ監戸の事産は、官の撥賜したる所を除く外、余り凡そ百姓より置き得たる税有る田宅は、皆通検の数に入る」と。時に諸使は往々苛酷を以て多く物力を得ることを功と為す。弘信は山東州県を検査するに特に酷暴なり。棣州防禦使完顏永元、面を向かって之を責めて曰く、「朝廷は正隆以後差調均しからざるを以て、故に使者をして之を均しめんとす。今乃ち残暴にして、妄りに民の産業に数倍を加う。一旦申訴に来る者あれば、則ち血肉淋漓、甚だしきは即ち杖下に殞る。此れ何の理ぞや」と。弘信能く対せず。故に惟だ棣州は稍々平穏なり。五年、官司諸路の通検均しからざるを奏す。詔して再び戸口の多寡・貧富軽重に依り、適中に之を定む。既にして、又た通検地土の等第税法を定む。十五年九月、上は天下の物力が、通検以来十余年、貧富変易し、賦調軽重均しからざるを以て、済南尹梁肅等二十六人を派遣し、分路推排せしむ。

二十年四月、上は宰臣に謂ひて曰く、「猛安謀克の戸は、富貧差発均しからず、皆謀克の内よりこれを科す。暗き者は惟だ胥吏の言に従ひ、軽重一ならず。窩斡の叛せる後より、貧富反覆す。今まさにその夾戸を籍し、その家貲を推すべし。儻ひに軍役あらば、庶幾く均しからん」と。詔して百官を集めて議せしむ。右丞相克寧・平章政事安禮・枢密副使宗尹言ふ、「女直人は猛安謀克の僕従差使を除き、余は差役なし。今奴婢孳畜・地土の数目を推さず、止だ産業を験して科差するを便とす」と。左丞相守道等言ふ、「止だ財産を験し、多寡に分ちて四等と為し、籍を置きて以て科差し、庶幾く均しからん」と。左丞通・右丞道・都点検襄言ふ、「その奴婢の数を括れば、則ち貧富自ら見ゆ。緩急事有りて科差するは、一例に科差する者と同じからず。請ふ農隙を俟ち、地土牛具の数を拘括し、各おの見る所を以て上聞せしめん」と。上曰く、「一謀克の戸の貧富は、謀克豈に知らざらんや。一猛安の領する八謀克、一例に科差す。設ひ一謀克の内に、奴婢二三百口有る者有り、奴婢一二人有る者有り、科差同じくするは、豈に平均なるを得んや。正隆兵を興す時、朕が奴婢万数、孳畜数千、而して一人一馬を差さず、豈に平と謂ふべけんや。朕は庶事に未だ嘗て専行せず、卿らとこれを謀る。往年契丹戸を散置せしに、安禮極めて言ひて恐らくは擾動せんと、朕決行して、果たして安業を得たり。安禮は忠を尽くすと雖も、未だ長策を審らかにせず。左丞通等の見る所に従ひ、拘括推排せしむべし」と。十二月、上は宰臣に謂ひて曰く、「猛安謀克多くは新強旧弱、差役均しからず。その令して推排せしむべく、まさに中都路より始むべし」と。二十二年八月に至り、始めて詔して耆老を集め、貧富を推し、土地牛具奴婢の数を験し、分ちて上中下三等と為すことを令す。同知大興府事完顏烏裏也を以て先づ中都路を推せしめ、続けて戸部主事按帶等十四人を遣はし、外官と同く分路して推排せしむ。

九月、詔して曰く、「富者に畜産を匿れ隠さしむることなかれ、貧戸には或いは馬を養うことを敢へざる者あらん。昔、海陵の時、馬畜を拘括す、等級絶えて無く、富者は倖ひに免れ、貧者は尽く拘へて官に入る、大いに均しからず。今並びに貧富を核實して籍を造り、急あれば即ち籍に按じて之を取らば、幾くにか不均の弊無からん。」張汝弼・梁肅奏して曰く、「天下の民戸、通檢既に定まり、設ひ産物の移易有りと雖も、自ら業に随ひて輸納すべし。浮財に至りては、須らく増耗有るべく、貧者は自ら貧しく、富者は自ら富めり、屢推排するに似て必ずしもせず。」上曰く、「宰執の家に多く新富者有り、故に皆願はざるなり。」肅對へて曰く、「臣の如き者は、能く中都の物力を推排す。臣は嘗て南使と為りしを以て、先づ自ら物力錢を添へて六十餘貫に至る、他の奉使を見るに臣の多きに如かざる者なり。但だ小民無知にして、法出でて奸生じ、數動搖すれば則ち駭き易し。唐・宋及び遼の時の如く、或は三二十年測らず通比する有り。頻歲推排は、難きに似たり。」二十六年、復た李晏等を以て分路推排す。二十七年、晏等の定むる所の物力の数を奏す。上曰く、「朕は元より天下の物力錢三百五萬餘貫を推す、三百萬貫を除く外、五萬餘貫を減ぜしむ。今減じて數に及ばず、復た二萬餘貫を續收す、即ち是れ實に二萬貫なる爾、而して續收と曰ふは、何ぞや。」對へて曰く、「此れ舊に脫漏して今首出する者、及び民地舊に力無く耕種して、今耕種する者を謂ふなり。」上曰く、「通檢の舊數は、止だ其の營運の息耗と、房地の多寡とを視て、之を加減するに在り。彼の人地を賣り、此の人之を買ふは、皆舊數なり。營運に至りては、此れ強ければ則ち彼れ弱く、強者は之を增し、弱者は之を減ずるのみ。且つ物力の數は蓋し差役の法を定むるに在りて、其の大數は多寡に在らず。朕は實に營運する富家の當に出づる所の者、反つて貧者に分與するを恐るる爾。」

章宗大定二十九年六月、国信使の副使に任命された者は、物力の増加を免除された。また、農民に積粟がある場合は、物力に充当せず、銭貨の乏しい郡では、納める銭貨を粟帛に折納することを許した。九月、曹州で黄河が氾濫したため、馬百祿らを派遣し、水害に遭った州県の貧困者の推排を行わせた。明昌元年四月、刑部郎中・路伯達らが言上した。「民地は既に税を納め、さらに物力を定めている。浮財に基づく差役と比べれば、これは重複した負担である。」そこで民地の定める物力を詳細に斟酌し、十の二を減じた。尚書戸部が言上したところ、中都等路が水害を受けたため、詔して官を委ねて推排させ、旧額より銭五千六百余貫を減じた。明昌三年八月、尚書省に勅した。「百姓は豊作の時に蓄積に努めず、一度凶作・不作に遭えば直ちに飢饉に陥る。どのような法で民に穀物を重んじさせ、多く蓄積させることができるか。」宰臣が答えて言った。「二十九年に、既に農民が粟を蓄積できれば物力充当を免除する詔を下しました。明昌初年には、民の物力と土地を合わせて推排する場合も、十分の二を減ずることを命じました。これがその方策です。」承安元年、尚書省が奏上した。「この年九月に推排を行うべきでしたが、事故があったためできませんでした。」詔して、冬も既に深く、この事が終わる頃には農作業に支障を来す恐れがあるとして、暫く停止することとした。二年冬十月、通検を議するよう勅令が下り、宰臣が奏上した。「大定二十七年の通検後、今まで既に十年が経過し、旧来の戸で貧弱な者が多い。もし更定を遅らせれば、流亡を招く恐れがあります。」そこで制度を定め、既に典売した物業については、その物に随って推収するのみとし、分家して別居した者は別籍を許し、戸絶及び困弱者は減免し、新たに強くなった者は詳細に審査して増加させ、ただ実情に従うべきで、必ずしも元の数を満たす必要はないとした。辺城で寇賊の被害を受けた地域は、全て推排する必要がないとした。そこで、吏部尚書・賈執剛、吏部侍郎・高汝礪に命じて先ず都の両警巡院を推排させ、諸路の模範とした。各路ごとに官を一名差し出し、提刑司の官一名を副使とした。三年九月、十三路の籍定推排による物力銭二百五十八万六千七百二貫四百九十文を奏上した。旧額は三百二万二千七百十八貫九百二十二文で、貧困により免除されたのは六十三万八千百十一貫であった。上京、北京、西京路を除き、新たに強くなって増加した者はなく、その他の路で計二十万二千九十五貫を収めた。泰和二年閏十二月、上は推排の際、既に人戸の浮財・物力を問い、さらに比較勘案し、期限が迫り事柄が煩雑で、実情を得難いとして、尚書省に勅し、人戸の物力を随時推収する法を定め、今後は典売した事産についてはその業に随って推収し、別に標簿を設け、臨時には浮財・物力のみを拘束して増減させることとした。泰和四年十二月、上は職官が遠方に仕え、その家の物力で免除すべきものがあるのに免除されない場合があるとして、典売した実業は逐次推収し、もし浮財による営運がなく、免除すべきものは、その家に陳告させ、坊村の人戸を集めて推唱させ、実情を検証して免除することとした。籍を造った後、もし告げる者がいなければ、一月以内にその官の文牒によって推唱し、定標を籍に附することとした。五年、西京、北京の辺境地が常に兵乱・凶荒に遭うため、使者を派遣して推排させた。旧来の大定二十六年に定めた三十五万三千余貫を、二十八万七千余貫に減じた。五年六月、南京按察司事・李革が言上した。「近時の制度では、人戸に物力の推収を行わせ、簿に標題を記し、通推の時には、ただ新たに強くなった者を増やし、旧来の弱者を削除し、実情を得ようとしています。今、有司がこれを粗略に執行しており、臨時に煩雑になり、結局詳細な審査が難しいことを恐れます。期限を定め、罪を立てて督励すべきです。」そこで、今年十一月一日から、人戸に推収標附を告げ出させ、翌年二月一日までに終了し、期限に違反して申告しない者は罪に処することとした。かつ、諸処の税務に、税を納め終わった房・地について、半月ごとに数を具申して所属に報告させ、違反した者は怠慢軽事の罪に処することとした。なお、物力は既に業に随うので、通推の時にはただ浮財を定めるのみとせよ、と勅した。八年九月、吏部尚書・賈守謙、知済南府事・蒲察張家奴、莒州刺史・完顏百嘉、南京路転運使・宋元吉ら十三名を、各路ごとにその路の按察司官一名とともに、諸路を推排するため分遣した。上は香閣に召して、親しく諭して言った。「朕が卿らを選んで各路に推排に赴かせるのは、推収のほか、新たに強くなった戸と消乏した戸について、衆を集めて推唱するとはいえ、消乏した者は削り尽くさず、例えば一戸の物力が元々三百貫で、今二百五十貫を免除してもなお不適当な者があるように。新たに強くなった者は添え尽くさず、その力を酌量して残せ、例えば一戸に三百貫を添えることができても、ただ二百貫のみを添えるなど。卿らは各々心を尽くすべきである。一度の推排はその後十年の利害に関わる。もしその任に副わなければ、罪は軽くないであろう。」