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金史
志第二十六: 刑
昔しより先王は人の畏れるを知りて刑を作り、人の恥づるを知りて法を作る。畏れと恥とは、五性の良知にして、七情の大閑なり。是の故に、刑は以て已然を治め、法は以て未然を禁じ、畏れは以て小人を処し、恥は以て君子を遇す。君子は恥を知り、小人は畏れを知れば、天下平らかなり。是の故に先王は其の威を養ひて之を用ゐ、畏れは以て愛を教ふべし。其の法を慎みて之を行ひ、恥は以て廉を立つべし。愛は以て仁を興し、廉は以て義を興す。仁義興れば、刑法措かざるに幾からんや。金の初め、法制簡易にして、軽重貴賤の別なく、刑と贖と並び行はる。此れ新たなる国に施すべく、経世久遠の規に非ず。天会以来、漸く吏議に従ひ、皇統に制を頒ち、古律を兼用す。其の後、正隆に又《続降制書》有り。大定に《権宜条理》有り、《重修制条》有り。明昌の世、《律義》、《勅条》並びに修まり、品式浸く備はるべし。既にして《泰和律義》成書す、遺憾無かるべし。然れども国脈の紓蹙、風俗の醇樗、世道の昇降、君子一代の刑法を観るに、毎に以て先づ知る所有り。金の法は杖を以て徒を折り、累ねて二百に及び、州県威を立て、甚だしきは刃を杖に置き、肉刑に虐なり。季年、君臣筐篋の故習を好み用ゐ、是を以て深文傅致を能吏と為し、惨酷に事を弁ずるを長才と為す。百司の奸贓真犯、此れ決すべし、而して微過も亦然り。風紀の臣、糾を失へば皆決す。考満に、其の受決の多寡を校へて以て殿最と為す。其の立法の初意を原れば、疏戚を同じくし、小大を一にして、之をして咸く律令の中に就きて縄約に就かしめ、公上の為す所を聴くに斉手並足せざる莫からしめんと欲するは、蓋し秦人の主威を強ふるの意なり。是を以て宗室を待つに恩少なく、大夫士を待つに礼少なし。金の代を終ふるまで、恥を忍びて功名に就くは、一時の名士と雖も免れざる所有り。辱を避けて遠く引くに至りては、其の人を聞くこと罕なり。知らずや、君子恥無くして義を犯せば、則ち小人畏れ無くして刑を犯すことを。是の故に論者は教愛立廉の道に於て、往々太息の意を致す。然りと雖も、世宗臨御し、法司讞を奏す、或は律を去りて経に援ひ、或は義を揆へて法を制す。古人君の聴断に近く、言幾く道に、之に及ぶ者鮮し。章宗、宣宗嘗て民事に親しみ、当寧に裁決し、寛猛出入時或は中を過ぐと雖も、其の矜恕の多きを跡づくれば、猶ほ祖風有り。簡牘に存する所、為すべく手を高く貴む者は、《本紀》、《刑志》詳略互ひに見ゆと云ふ。
金国の旧俗は、軽罪には柳の鞭で笞打ち、殺人及び盗劫の者はその脳を撃ち殺し、その家財を没収し、その十の四を官に納め、六を主に償い、併せて家人を奴婢とする。その親族が馬牛雑物をもって贖おうとする者はこれに従う。あるいは重罪もまた自ら贖うことを聴す。然れども斉民と区別がつかぬことを恐れ、則ち鼻や耳を削いで別と為す。その獄は則ち地を掘り深さ広さ数丈をこれと為す。太宗は太祖の旧風を変えざるの訓を承けながらも、亦稍々に遼・宋の法を用いる。天会七年、詔して凡そ窃盗は、但だ物を得れば三年の徒罪、十貫以上は五年の徒罪、刺字して下軍に充て、三十貫以上は終身とし、仍って贓満つるに及び命じて面に刺字せしめ、五十貫以上は死罪とし、償いを徴するは旧制の如しとす。熙宗天眷元年十月、親王以下の佩刀して宮に入ることを禁ず。衛禁の法は、実にここより始まる。三年、復た河南の地を取るや、乃ちその民に詔し、用いる刑法は皆律文に従うことを約し、獄卒の酷毒なる刑具を罷め、以て寛恕に従わしむ。皇統年間に至り、諸臣に詔し、本朝の旧制を以てし、兼ねて隋・唐の制を採り、遼・宋の法を参酌す。類を以て書を成し、名づけて『皇統制』と曰い、中外に頒行す。当時の制は、杖罪百に至れば、則ち臀と背に分けて決す。海陵庶人に及び、脊は心腹に近しと為すにより、遂にこれを禁じ、主たる者奴僕を決するも、亦た違制を論ず。又多く旧制を変易し、正隆年間に至り、著して『続降制書』と為し、『皇統制』と並行す。然れども二君は情に任せて法を用い、自ら是れに異なる者有り。世宗即位に及び、正隆の乱を以てし、盗賊公行し、兵甲未だ息まず、一時の制旨多く時宜に従うにより、遂に集めて『軍前権宜条理』と為す。大定四年、尚書省奏す:「大興の民男子李十・婦人楊仙哥並びに乱言を以て斬に当たる。」上曰く:「愚民典法を識らず、有司も亦た未だ嘗て丁寧に誥戒せず、豈に遽かに極刑を加えんや。」死罪を減じて論ず。五年、有司に命じ復た加えて『条理』を刪定せしめ、前の『制書』と兼用せしむ。七年、左蔵庫に夜盗有りて都監郭良臣を殺し金珠を盗み、盗を求め得ず。点検司に命じてこれを治め、その疑わしき者八人を執りてこれを鞫う。三人を掠ちて死せしめ、五人誣いて伏す。上これを疑い、同知大興府事移剌道に命じ雑治せしむ。既にして親軍百夫長阿思缽市に金を鬻ぐ。事覚え、誅に伏す。上これを聞きて曰く:「箠楚の下、何ぞ求め得ざらん、奈何ぞ獄を鞫うる者情を以てこれを求めざるや。」死者に銭人二百貫を賜い、死せざる者五十貫を賜う。ここにおいて護衛百夫長・五十夫長の直日に非ざれば刀を帯びて宮に入ることを得ざるを禁ず。是歳、死囚二十人を断ず。八年、品官の賭博を犯す法を制し、贓五十貫に満たざる者はその法杖し、贖うを聴す。再犯する者はこれを杖す。且つ曰く:「杖する者は以て小人を罰する所以なり。既に職官と為れば、当に先ず廉恥有るべし。既に廉恥無ければ、故に小人の罰を以てこれを罰す。」九年、御史台の獄事を奏するに因り、上曰く:「近く聞く法官或いは各おの見解を執り、或いは宰執の意を観望すと。今より制に正条無き者は皆律文を以て准と為せ。」復た杖百に至る者は臀と背に分けて受くことを命じ、旧法の如くす。已にして、上宰臣に謂いて曰く:「朕罪人の杖分受せざるを念い、深重に至るを恐れ、乃ち旧に復せしむ。今民間に欲せざる者有るを聞く。其れこれを罷めしめよ。」十年、尚書省奏す:「河中府張錦自ら父の仇を復せりと言う。法死に当たる。」上曰く:「彼父の仇を復し、又自らこれを言う。烈士なり。死を減じて論ず。」十一年、有司に詔諭して曰く:「応に司獄廨舎は須らく獄に近く安置し、囚禁の事は常に親しく提控し、その獄卒は必ず年深くして信実なる者を選び輪直せしめよ。」十二年、尚書省言う:「内丘令蒲察台補自ら部内の銭を科して徳政碑を立て、復たその余の銭二百余貫有り。罪名を除くに当たる。今赦に遇い叙すに当たり、仍って贓を徴するを免ず。」上貪偽を以てし、叙す勿れとし、且つ曰く:「乞取の贓、若し赦して原ゆる有らば、与うる者何の辜か有らん。今より可に併せてその主に追還すべし。惟だ官に入るべき者は徴するを免ず。」尚書省奏す、盗に塚を発する者有り。上曰く:「功臣の墳墓も亦た発せらるる者有り。蓋し告捕の賞無きにより、故に人畏るる所無し。今より実を得て告ぐる者は量りて賞を与えよ。」故咸平尹石抹阿没剌贓を以て獄に死す。上謂いて曰く:「その屍を諸市にせざるは已に厚幸と為す。貧窮にして盗賊と為るは、蓋し已むを得ざるなり。三品の職官贓を以て死に至るは、愚亦た甚だし。その諸子皆名を除くべし。」是に先立ち、詔して今より名を除かるる人の子孫に仕うる者有れば皆奏裁を取らしむ。十三年、詔して立春後・立秋前、及び大祭祀、月朔・望、上弦・下弦、二十四気、雨未だ晴れず、夜未だ明けず、休暇並びに屠宰を禁ずる日は、皆死刑を決するを聴さず。惟だ強盗は則ち秋後を待たず。十五年、有司に詔して曰く:「朕惟うに人命至重なり。而して制に窃盗の贓五十貫に至る者を死に処す。今より可に八十貫に至る者を死に処せしめよ。」十七年、陳言者提刑司を設け、以て諸路の刑獄の失を糾さんことを乞う。尚書省議し、久しければ恐らくは弊を滋さんと謂う。上乃ち京師より数千里外に距り冤を懐き上訴する者を命じ、その事を集めて以て選官の就き問うを待たしむ。
時に済南尹梁肅が言うには、徒罪に犯す者は杖刑を免ずべきであると。朝廷は以て、今の法は既に古より軽く、奸悪を滋長するを恐れ、従わず。嘗て宰臣に詔して、朝廷は毎年再び審録官を派遣し、本来は民の冤滞を伸ぶるためなり、然るに派遣する者は多く心を尽くさず、唯文書のみに過ぎず。審録の官は、重刑を理問するに止まらず、凡そ訴訟案牘は、皆当に是非を閲実し、囚徒が囚繫すべからざる者は則ち釈放すべく、官吏の罪は即ち状を以て聞こえ、糾察を失する者は厳しく懲断を加え、贖を以て論ぜず。又、監察御史が東北路の官吏を体察し、輒く訟牒を受くるを、不称職として、笞五十を加う。又、宰臣に謂いて曰く、「比来聞く、大理寺が獄を断ずるに、疑い無き者と雖も亦旬月を経ると、何ぞや」と。参知政事移剌道対えて曰く、「法に在りては、死囚を決するは七日を過ぎず、徒刑は五日、杖罪は三日なり」と。上曰く、「法に程限有りて、而して輒く之に違うは、弛慢なり」と。朝を罷け、御批を尚書省に送りて曰く、「凡そ法寺が重軽罪を断ずるに各期限有り、法官但だ犯せば皆的決すべし、豈敢て違うこと有らんや。但だ卿等の見解一ならず、再三の批送に至り、其の議定して奏する者の書奏牘も亦旬日に下らず、以て事多く滞留するに致る。自今より当に復た爾くすべからず」と。又曰く、「故に広寧尹高楨は政を為すに猛を尚び、小過と雖も、杖して之を殺す者有り。即ち罪死に至りて情或いは恕すべくんば、猶当に之を念うべし、況んや其の小過者をや。人の性命安んぞ軽んずべけんや」と。上は正隆の《続降制書》多く己が意を任じ、苛察に傷つくを以てす。而して皇統の《制》と並用し、是非淆乱し、適従すべきを知らず、奸吏因って上下其の手を得たり。遂に局を置き、命じて大理卿移剌綎に中外の明法者を総べさせて共に校正せしむ。乃ち皇統・正隆の《制》及び大定《軍前権宜条理》、後《続行条理》を以て、其の軽重を倫じ、繁を刪ぎ失を正す。制に闕くる者は律文を以て之を足す。制・律倶に闕け及び疑いて決すること能わざる者は、則ち旨を取って画定す。《軍前権宜条理》内に常行すべき有る者も亦定法と為し、余応ぜざる者も別に一部を為して之を存す。近く定めたる徒杖減半の法を参じ、凡そ校定千一百九十条、十二巻に分ち、以て《大定重修制条》と名付け、詔して頒行せしむ。
二十年、上、禾稼を蹂踐する者あるを見て、宰相に謂いて曰く、「今後民田を踐む者有らば杖六十、人の穀を盗む者は杖八十、並びに其の直を償わしむべし」と。二十一年、尚書省奏す、「鞏州の民馬俊の妻安姐、管卓と姦を通じ、俊、斧を以て之を撃殺す、罪死に当たる」と。上曰く、「死を減じて一等とし、以て風俗を敗る者を戒むべし」と。二十二年、上、宰臣に謂いて曰く、「凡そ尚書省の大理寺に送る文字は、一断して便ち聞奏すべし。烏古論公説の事の如きは、近く取りて之を観るに、初め法寺に送りて法の如く裁断し、再び司直に送りて披詳せしめ、又た闔寺に送りて参詳せしめ、反覆三たびし、妄かに情見を生じ、結絶を得ず。朕は国政の滞留すべからざるを以てす。昨たとえ艾を六百炷炙すと雖も、未だ嘗て一日も朝に坐せざること無く、卿等に勤政を知らしめんと欲す。自今より可に一次寺に送るに止め、闔寺に披詳せしめ、苟くも情見有らば即ち具さに以て聞こえ、滞留せしむること無からしむべし」と。二十三年、尚書省奏す、「益都の民範德、年七十六、劉祐に毆殺さる。祐は法死に当たるも、祐の父母の年倶に七十余、家に侍丁無きを以て、上請す」と。上曰く、「范德と祐の父母の年相若し、自ら父母の如く相待すべし、至りて之を毆殺すは、末減を議する難し、其の法の如く論ずべし」と。尚書省、招討司の官及び禿裏が本部の財物を乞い取るの制を奏す。上曰く、「遠人は止だ矜恤すべし、若し進貢闕けず、更に兵を以て之を邀え、強いて財物を取らば、盗と何ぞ異ならん。且つ或いは因って事を生ぜば、何ぞ懲めざらんや」と。又曰く、「朕の行う制条は、皆臣下の奏して行う所なり。天下の事多く、人力有限なり、豈能く一一之を尽くさんや。必ず一事に因りて奏聞し、方ち窒礙有るを知り、随いて更定す。今聖旨・条理有り、復た制条有り、是れ奸吏に軽重するを得しむるなり」と。大興府の民趙無事、酒を帯びて乱言し、父の千、捕告す、法死に当たる。上曰く、「父として其の子を恤わずして之を告捕するは、其の正しき此の如し、人の甚だ難き所なり。可に特た死を減じて一等とすべし」と。武器署丞奕・直長骨赧、草畔子の財を受くるに坐し、奕は杖八十、骨赧は笞二十、監察御史梁襄等は糾察を失するに坐して俸を一月罰す。上曰く、「監察は人君の耳目なり。事朕より発す、何を以て監察と為さんや」と。上は法寺の獄を断ずるに、漢字を以て女直字を訳し、会法又た復た各おの情見を出だし、妄かに穿鑿を生じ、徒らに稽緩を致すを以て、遂に詔して情見を罷む。二十五年二月、上は婦人の囚に在る者、輸作不便にして、而して杖を分決せず、殺すと異ならざるを以て、遂に命じて死を免じて輸作する者は、杖二百を決して輸作を免じ、臀・背を以て分決せしむ。時に後族に罪を犯す者有り、尚書省「八議」を引きて奏す。上曰く、「法は、天下に公に持平するの器なり。若し親者犯して従って減ずれば、是れ之をして此れを恃みて横恣せしむるなり。昔、漢の文、薄昭を誅す、取るに足る者有り。前二十年の時、後族済州節度使烏林達鈔兀嘗て大辟を犯す、朕未だ嘗て宥さず。今乃ち之を宥すは、是れ後世に軽重出入の門を開くなり」と。宰臣曰く、「古、親を議する所以は、天子を尊び、庶人を別つなり」と。上曰く、「外家は自ら宗室と異なり、漢の外戚は権太重く、国祚を移すに至る、朕の諸王・公主に権有らしめざる所以なり。夫れ国に功有るは、勳を議する可し。若し賢を議するに至りては、既に賢と曰う、肯て法を犯さんや。脱或いは縁坐するは、則ち固より減請すべし」と。二十六年、遂に奏して太子妃の大功以上の親、及び皇家と服無き者、及び賢にして私罪を犯す者を定め、皆議に入れず。上、宰臣に謂いて曰く、「法に倫にして倫ならざる者あり、其れ之を改定せよ」と。監察御史陶鈞、妓を携えて北苑に游び、歌飲池島の間、殿廷に迫近す。提控官石玠聞きて之を発す。鈞、其の友閻恕をして玠に属して緩むるを得しむ。既にして事覚る。法司奏す、徒二年半に当たると。詔して鈞を以て耳目の官、妓を携えて禁苑に入り、上下の分無しとして、杖六十、玠・恕皆之に坐す。二十八年、上は制条の旧律に拘わるるを以てし、間に難解の詞有り、命じて刪修して明白にし、人をして皆之を暁らしむ。
旧く民の制書を収むることを禁ず、告訐の弊を滋すを恐る。章宗大定二十九年、言事者、民に之を蔵するを許すを乞う。平章張汝霖曰く、「昔、子産刑書を鑄す、叔向之を譏る者は、蓋し預め民をして其の軽重を測らしむるを欲せざるなり。今不刊の典を著し、民をして暁然之を知らしむるは、猶お江・河の避け易くして犯し難きが如く、以て治を輔くるに足り、禁ぜざるを便とす」と。衆議多く欲せざるを以て、詔して姑く令して仍って旧く之を禁ぜしむ。
明昌元年、上(章宗)が宰臣に問うて曰く、「今何ぞ律文を専用せざるや」と。平章政事張汝霖曰く、「前代は律と令と各々分かちあり、其の令を犯す有るは、律を以て之を決す。今国家は制と律と混淆す、固より分つべし」と。遂に詳定所を置き、律と令とを審定するを命ず。承安二年、軍前受財法を制す、一貫以下は徒二年、以上は徒三年、十貫は死を処す。符宝典書北京奴、符宝局の金牌を盗み、誅に伏し、仍って属籍を除く。按虎・阿虎帯は失察し、各々杖七十。泰和二年、御史臺奏す、「監察御史史肅言う、『大定条理』は、二十年十一月四日以前より、奴良人の女を娶りて妻と為す者は、並びに已に娶りたるを准えて定めと為し、若し夫亡すれば、拘放その主に従う。夫を離れ摘売する者は本主に収贖せしめ、旧に依りて夫と同聚せしむ。放良・従良する者は即ち贖換を聴し、未だ贖換せざる間に夫の生める男女は並びに良と為すを聴す。而るに『泰和新格』は復た夫亡し服除を良人の例に准え、夫を離れ摘売し及び夫を放ちて良と為す者は、並びに良と為すを聴す。若し未だ出離せず再び奴に配し、或いは雑奸の生める男女は並びに良と為すを許す。此くの如く同じからず、皆編格官の妄りに増減を為すに由り、以て随処訴訟紛擾し、是れ違枉に渉る」と。」勅して所司に付して之を正さしむ。初め、詔して凡そ条格制文に入る者は、別巻に分つ。復た詔して制と律文と軽重同じからず、及び律に無き者は、各々校定して以て聞かしむ。屠宰を禁ずるの類の如きは、当に令に著くべし、慎みて忽せざれ、律令一定すれば、更ふべからずと。明昌三年七月、右司郎中孫鐸先ず詳定所の校する『名例篇』を進む、既にして諸篇皆成る、復た中都路転運使王寂・大理卿董師中等をして重ねて之を校せしむ。四年七月、上諸路の枷杖多く法の如くならざるを以てし、平章政事守貞曰く、「枷杖尺寸に制有り、提刑両月一巡察す、必ず敢えて法に違わざるべし」と。五年正月、復た制と律とを鉤校せしめ、即ち詳定所に付す。時に詳定官言う、「若し重修制文を式と為すに依らば、則ち条目の増減、罪名の軽重、律に異なるべし。既に定めて復た旧と同頌せば、則ち人をして惑はしめて奸を為し易からしむ!臣等謂う、今の制条を用い、時宜に参酌し、律文に准じて修定し、歴代の刑書今に宜しきを采り、以て遺闕を補い、『刑統』の疏文を取って以て之を釈し、常法と為して著し、名づけて『明昌律義』と曰う。別に榷貨・辺部・権宜等の事を編み、集めて『勅条』と為す」と。宰臣謂う、「先に定めたる令文尚ほ未完なり、皆通定するを俟ち、然る後に頒行すべし。若し律科挙人に至りては、則ち止だ旧律を習わしむ」と。遂に知大興府事尼厖古鑑・御史中丞董師中・翰林待制奥屯忠孝(小字牙哥)・提点司天臺張嗣・翰林修撰完顔撒剌・刑部員外郎李庭義・大理丞麻安上を校定官と為し、大理卿閻公貞・戸部侍郎李敬義・工部郎中賈鉉を覆定官と為し、新律を重修せしむ。時に獄を奏して法官に独り情見を出す者有り、上曰く、「或いは法官情見を出すべからずと言う、故に論者紛紛として已まず。朕謂う、情見は法外に出ずるに非ず、但だ折衷して法に従うのみ」と。平章守貞曰く、「是の制は大定二十三年より之を罷む。然れども律に起請諸条有り、是れ古も亦た情見を許せり」と。上曰く、「科条は限り有り、而して人情は窮まり無し、情見亦た豈に無くすべけんや」と。明昌五年、尚書省奏す、「制に在り、『名例』内徒年の律に、決杖の文無く便ち杖を用いず。縁りて先に流刑は今の宜しきに非ずと謂い、且つ流役に代うる四年以上は俱に杖を決し、而して徒三年以下は復た用いざるに難し。婦人は男子に比すれば差し軽しと雖も、亦た例に当りて減ずべし」と。遂に徒二年以下なる者は杖六十、二年以上は杖七十、婦人の犯す者は並びに五十を決し、『勅条』に著す。
承安三年、勅して尚書省に曰く、「今より特旨の事、律令程式の如き者は、始めて部に送るべし。自餘創行の事は、但だ部官を召して省に赴きて之を議せしめよ」と。四年四月、尚書省令文を再び覆定するを請う、上因りて宰臣に勅して曰く、「凡そ事理明白なる者は転奏すべし。文牘多き者は遍く覧むに難からんことを恐る、其の三推情疑を以て聞かしめよ」と。五月、上法の平に適せざるを以てし、常行の杖様多く用うる能わず。遂に分寸を定め、銅を鋳て杖式と為し、之を天下に頒つ。且つ曰く、「若し笞杖太だ軽しと以て、情理に恕し難き有るを恐るれば、訊杖は再び之を議すべし」と。五年五月、刑部員外郎馬復言う、「外官尚ほ苛刻なる者は銅杖式に遵わず、輒ち大杖を用い、多く人を致して死なしむ」と。詔して按察司に糾劾して之を黜せしむ。先に嘗て諸の死囚及び除名の罪、委ぬる所の官相去ること二百里外、並びに徒以下に犯し及び二十人以上に逮るる者を、並びに其の官をして就きて之を讞せしむ。刑部員外郎完顔綱言う、「是の制行はれてより、上京の最近の地の如き往還三・二千里に下らず、北京留守司の如きも亦た動もすれば数ヶ月を経、愈々稽留を致し、便ならず」と。詔して復た旧に従い、官を委ねて追取して之を鞫せしむ。
十二月、翰林修撰楊庭秀言う、「州県官往往権勢を以て自ら居り、喜怒を自ら任じ、訟を聴くの際、鮮しく克く審かに加う。但だ訳人をして往来し詞を伝えしむるのみ、罪の軽重、其の口に成り、貨賂公行し、冤ずる者至って三・二十年も正しむる能わざる者有り」と。上遂に条約を定立するを命じ、違う者は按察司之を糾せしむ。且つ宰臣に謂いて曰く、「長貳官幕職及び司吏に委ねて獄囚を推問し、命じて御史臺に申し聞奏せしむるの制、当に復た舉行すべし」と。又た前後の条制を編し、之を冊に書き、以て将来の考験に備うるを命ず。
泰和元年正月、尚書省奏す、見行の銅杖式軽細なるを以てし、奸宄畏れずと。遂に有司に命じ、犯す所に量りて大杖を用いしめ、且つ過ぐること五分を得ざるを禁ず。
十二月、編纂した律が完成し、凡そ十二篇あり:一を《名例》と曰い、二を《衛禁》と曰い、三を《職制》と曰い、四を《戸婚》と曰い、五を《廄庫》と曰い、六を《擅興》と曰い、七を《賊盜》と曰い、八を《鬥訟》と曰い、九を《詐偽》と曰い、十を《雑律》と曰い、十一を《捕亡》と曰い、十二を《斷獄》と曰う。実は《唐律》であるが、ただ贖銅を加えること皆これを倍にし、徒刑を四年・五年に増して七等とし、時に適さぬ四十七条を削り、時に用いる制百四十九条を増し、これにより略々損益ある者二百八十二条、余り百二十六条は皆その旧に従う。またその一を二に分ち、その一を四に分つ者六条を加え、凡そ五百六十三条、三十巻と為し、附注してその事を明らかにし、疏義してその疑いを釈き、《泰和律義》と名付く。《官品令》、《職員令》以下、《祠令》四十八条、《戸令》六十六条、《学令》十一条、《選挙令》八十三条、《封爵令》九条、《封贈令》十条、《宮衛令》十条、《軍防令》二十五条、《儀制令》二十三条、《衣服令》十条、《公式令》五十八条、《禄令》十七条、《倉庫令》七条、《廄牧令》十二条、《田令》十七条、《賦役令》二十三条、《関市令》十三条、《捕亡令》二十条、《賞令》二十五条、《医疾令》五条、《仮寧令》十四条、《獄官令》百六条、《雑令》四十九条、《釈道令》十条、《営繕令》十三条、《河防令》十一条、《服制令》十一条、年月の制を附し、《律令》二十巻と曰う。また《制勅》九十五条、《榷貨》八十五条、《蕃部》三十九条を定め、《新定勅条》三巻、《六部格式》三十巻と曰う。司空襄これを進め、詔して明年五月に頒行するを以てす。
貞祐三年、上宰臣に謂ひて曰く、「今より監察官罪を犯し、その事軍国の利害に関わる者は、並びに笞決すべし」。貞祐四年、詔して曰く、「凡そ監察糾劾を失する者は、本法に従い論ず。外国の使者入国して本国の事情を私通し、宿衛・近侍官・承応人が親王・公主・宰執の家に出入し、災害傷損に乏食し有司検核実ならずして人命を傷つけ、軍儲を転運して私載あり、挙人を試験して防閑厳ならず、その罰並びに決す。在京にて犯すこと両次に至る者は、台官監察一等を減じて治罪し、贖を論じ、余りは止だ坐すのみ、専差任満の日に議定す。若し任内曾て漏察を以て決せられたるあらば、格に依り職に称すと雖も、止だ平常に従い、平常なる者は降罰に従ふ」。興定元年八月、上宰臣に謂ひて曰く、「律に八議あり、今言者或いは応議の人即ち当に減等すべしと謂ふ、如何」。宰臣対へて曰く、「凡そ議する者は先づ坐する所及び応議の状を条して請ひ、必ず議定して然る後に奏裁す」。上然りて曰く、「若し軽重を論ぜずして輒くこれを減ずれば、則ち貴戚皆将にこれを恃みて民を虐げん、民何を以てか堪へん」と。