金史

志第二十六: 刑

志第二十六: 刑

昔しより先王は人の畏れるを知りて刑を作り、人の恥づるを知りて法を作る。畏れと恥とは、五性の良知にして、七情の大閑なり。是の故に、刑は以て已然を治め、法は以て未然を禁じ、畏れは以て小人を処し、恥は以て君子を遇す。君子は恥を知り、小人は畏れを知れば、天下平らかなり。是の故に先王は其の威を養ひて之を用ゐ、畏れは以て愛を教ふべし。其の法を慎みて之を行ひ、恥は以て廉を立つべし。愛は以て仁を興し、廉は以て義を興す。仁義興れば、刑法措かざるに幾からんや。金の初め、法制簡易にして、軽重貴賤の別なく、刑と贖と並び行はる。此れ新たなる国に施すべく、経世久遠の規に非ず。天会以来、漸く吏議に従ひ、皇統に制を頒ち、古律を兼用す。其の後、正隆に又《続降制書》有り。大定に《権宜条理》有り、《重修制条》有り。明昌の世、《律義》、《勅条》並びに修まり、品式浸く備はるべし。既にして《泰和律義》成書す、遺憾無かるべし。然れども国脈の紓蹙、風俗の醇樗、世道の昇降、君子一代の刑法を観るに、毎に以て先づ知る所有り。金の法は杖を以て徒を折り、累ねて二百に及び、州県威を立て、甚だしきは刃を杖に置き、肉刑に虐なり。季年、君臣筐篋の故習を好み用ゐ、是を以て深文傅致を能吏と為し、惨酷に事を弁ずるを長才と為す。百司の奸贓真犯、此れ決すべし、而して微過も亦然り。風紀の臣、糾を失へば皆決す。考満に、其の受決の多寡を校へて以て殿最と為す。其の立法の初意を原れば、疏戚を同じくし、小大を一にして、之をして咸く律令の中に就きて縄約に就かしめ、公上の為す所を聴くに斉手並足せざる莫からしめんと欲するは、蓋し秦人の主威を強ふるの意なり。是を以て宗室を待つに恩少なく、大夫士を待つに礼少なし。金の代を終ふるまで、恥を忍びて功名に就くは、一時の名士と雖も免れざる所有り。辱を避けて遠く引くに至りては、其の人を聞くこと罕なり。知らずや、君子恥無くして義を犯せば、則ち小人畏れ無くして刑を犯すことを。是の故に論者は教愛立廉の道に於て、往々太息の意を致す。然りと雖も、世宗臨御し、法司讞を奏す、或は律を去りて経に援ひ、或は義を揆へて法を制す。古人君の聴断に近く、言幾く道に、之に及ぶ者鮮し。章宗、宣宗嘗て民事に親しみ、当寧に裁決し、寛猛出入時或は中を過ぐと雖も、其の矜恕の多きを跡づくれば、猶ほ祖風有り。簡牘に存する所、為すべく手を高く貴む者は、《本紀》、《刑志》詳略互ひに見ゆと云ふ。

原文昔者先王因人之知畏而作刑,因人之知恥而作法。畏也、恥也,五性之良知,七情之大閑也。是故,刑以治已然,法以禁未然,畏以處小人,恥以遇君子。君子知恥,小人知畏,天下平矣!是故先王養其威而用之,畏可以教愛。慎其法而行之,恥可以立廉。愛以興仁,廉以興義,仁義興,刑法不幾於措乎?金初,法制簡易,無輕重貴賤之別,刑、贖並行,此可施諸新國,非經世久遠之規也。天會以來,漸從吏議,皇統頒制,兼用古律。厥後,正隆又有《續降制書》。大定有《權宜條理》,有《重修制條》。明昌之世,《律義》、《敕條》並修,品式當浸備。既而《泰和律義》成書,宜無遺憾。然國脈紓蹙,風俗醇樗,世道升降,君子觀一代之刑法,每有以先知焉。金法以杖折徒,累及二百,州縣立威,甚者置刃於杖,虐於肉刑。季年,君臣好用筐篋故習,由是以深文傅致為能吏,以慘酷辦事為長才。百司奸贓真犯,此可決也,而微過亦然。風紀之臣,失糾皆決。考滿,校其受決多寡以為殿最。原其立法初意,欲以同疏戚、壹小大,使之咸就繩約於律令之中,莫不齊手並足以聽公上之所為,蓋秦人強主威之意也。是以待宗室少恩,待大夫士少禮。終金之代,忍恥以就功名,雖一時名士有所不免。至於避辱遠引,罕聞其人。殊不知君子無恥而犯義,則小人無畏而犯刑矣。是故論者於教愛立廉之道,往往致太息之意焉。雖然,世宗臨御,法司奏讞,或去律援經,或揆義制法。近古人君聽斷,言幾於道,鮮有及之者。章宗、宣宗嘗親民事,當寧裁決,寬猛出入雖時或過中,跡其矜恕之多,猶有祖風焉。簡牘所存,可為高抬貴手者,《本紀》、《刑志》詳略互見云。

金国の旧俗は、軽罪には柳の鞭で笞打ち、殺人及び盗劫の者はその脳を撃ち殺し、その家財を没収し、その十の四を官に納め、六を主に償い、併せて家人を奴婢とする。その親族が馬牛雑物をもって贖おうとする者はこれに従う。あるいは重罪もまた自ら贖うことを聴す。然れども斉民と区別がつかぬことを恐れ、則ち鼻や耳を削いで別と為す。その獄は則ち地を掘り深さ広さ数丈をこれと為す。太宗は太祖の旧風を変えざるの訓を承けながらも、亦稍々に遼・宋の法を用いる。天会七年、詔して凡そ窃盗は、但だ物を得れば三年の徒罪、十貫以上は五年の徒罪、刺字して下軍に充て、三十貫以上は終身とし、仍って贓満つるに及び命じて面に刺字せしめ、五十貫以上は死罪とし、償いを徴するは旧制の如しとす。熙宗天眷元年十月、親王以下の佩刀して宮に入ることを禁ず。衛禁の法は、実にここより始まる。三年、復た河南の地を取るや、乃ちその民に詔し、用いる刑法は皆律文に従うことを約し、獄卒の酷毒なる刑具を罷め、以て寛恕に従わしむ。皇統年間に至り、諸臣に詔し、本朝の旧制を以てし、兼ねて隋・唐の制を採り、遼・宋の法を参酌す。類を以て書を成し、名づけて『皇統制』と曰い、中外に頒行す。当時の制は、杖罪百に至れば、則ち臀と背に分けて決す。海陵庶人に及び、脊は心腹に近しと為すにより、遂にこれを禁じ、主たる者奴僕を決するも、亦た違制を論ず。又多く旧制を変易し、正隆年間に至り、著して『続降制書』と為し、『皇統制』と並行す。然れども二君は情に任せて法を用い、自ら是れに異なる者有り。世宗即位に及び、正隆の乱を以てし、盗賊公行し、兵甲未だ息まず、一時の制旨多く時宜に従うにより、遂に集めて『軍前権宜条理』と為す。大定四年、尚書省奏す:「大興の民男子李十・婦人楊仙哥並びに乱言を以て斬に当たる。」上曰く:「愚民典法を識らず、有司も亦た未だ嘗て丁寧に誥戒せず、豈に遽かに極刑を加えんや。」死罪を減じて論ず。五年、有司に命じ復た加えて『条理』を刪定せしめ、前の『制書』と兼用せしむ。七年、左蔵庫に夜盗有りて都監郭良臣を殺し金珠を盗み、盗を求め得ず。点検司に命じてこれを治め、その疑わしき者八人を執りてこれを鞫う。三人を掠ちて死せしめ、五人誣いて伏す。上これを疑い、同知大興府事移剌道に命じ雑治せしむ。既にして親軍百夫長阿思缽市に金を鬻ぐ。事覚え、誅に伏す。上これを聞きて曰く:「箠楚の下、何ぞ求め得ざらん、奈何ぞ獄を鞫うる者情を以てこれを求めざるや。」死者に銭人二百貫を賜い、死せざる者五十貫を賜う。ここにおいて護衛百夫長・五十夫長の直日に非ざれば刀を帯びて宮に入ることを得ざるを禁ず。是歳、死囚二十人を断ず。八年、品官の賭博を犯す法を制し、贓五十貫に満たざる者はその法杖し、贖うを聴す。再犯する者はこれを杖す。且つ曰く:「杖する者は以て小人を罰する所以なり。既に職官と為れば、当に先ず廉恥有るべし。既に廉恥無ければ、故に小人の罰を以てこれを罰す。」九年、御史台の獄事を奏するに因り、上曰く:「近く聞く法官或いは各おの見解を執り、或いは宰執の意を観望すと。今より制に正条無き者は皆律文を以て准と為せ。」復た杖百に至る者は臀と背に分けて受くことを命じ、旧法の如くす。已にして、上宰臣に謂いて曰く:「朕罪人の杖分受せざるを念い、深重に至るを恐れ、乃ち旧に復せしむ。今民間に欲せざる者有るを聞く。其れこれを罷めしめよ。」十年、尚書省奏す:「河中府張錦自ら父の仇を復せりと言う。法死に当たる。」上曰く:「彼父の仇を復し、又自らこれを言う。烈士なり。死を減じて論ず。」十一年、有司に詔諭して曰く:「応に司獄廨舎は須らく獄に近く安置し、囚禁の事は常に親しく提控し、その獄卒は必ず年深くして信実なる者を選び輪直せしめよ。」十二年、尚書省言う:「内丘令蒲察ほさつ台補自ら部内の銭を科して徳政碑を立て、復たその余の銭二百余貫有り。罪名を除くに当たる。今赦に遇い叙すに当たり、仍って贓を徴するを免ず。」上貪偽を以てし、叙す勿れとし、且つ曰く:「乞取の贓、若し赦して原ゆる有らば、与うる者何の辜か有らん。今より可に併せてその主に追還すべし。惟だ官に入るべき者は徴するを免ず。」尚書省奏す、盗に塚を発する者有り。上曰く:「功臣の墳墓も亦た発せらるる者有り。蓋し告捕の賞無きにより、故に人畏るる所無し。今より実を得て告ぐる者は量りて賞を与えよ。」故咸平尹石抹阿没剌贓を以て獄に死す。上謂いて曰く:「その屍を諸市にせざるは已に厚幸と為す。貧窮にして盗賊と為るは、蓋し已むを得ざるなり。三品の職官贓を以て死に至るは、愚亦た甚だし。その諸子皆名を除くべし。」是に先立ち、詔して今より名を除かるる人の子孫に仕うる者有れば皆奏裁を取らしむ。十三年、詔して立春後・立秋前、及び大祭祀、月朔・望、上弦・下弦、二十四気、雨未だ晴れず、夜未だ明けず、休暇並びに屠宰を禁ずる日は、皆死刑を決するを聴さず。惟だ強盗は則ち秋後を待たず。十五年、有司に詔して曰く:「朕惟うに人命至重なり。而して制に窃盗の贓五十貫に至る者を死に処す。今より可に八十貫に至る者を死に処せしめよ。」十七年、陳言者提刑司を設け、以て諸路の刑獄の失を糾さんことを乞う。尚書省議し、久しければ恐らくは弊を滋さんと謂う。上乃ち京師より数千里外に距り冤を懐き上訴する者を命じ、その事を集めて以て選官の就き問うを待たしむ。

原文金國舊俗,輕罪笞以柳篸,殺人及盜劫者,擊其腦殺之,沒其家貲,以十之四入官,其六償主,並以家人為奴婢。其親屬欲以馬牛雜物贖者從之。或重罪亦聽自贖,然恐無辨于齊民,則劓、刵以為別。其獄則掘地深廣數丈為之。太宗雖承太祖無變舊風之訓,亦稍用遼、宋法。天會七年,詔凡竊盜,但得物徒三年,十貫以上徒五年,刺字充下軍,三十貫以上終身,仍以贓滿盡命刺字於面,五十貫以上死,征償如舊制。熙宗天眷元年十月,禁親王以下佩刀入宮。衛禁之法,實自此始。三年,復取河南地,乃詔其民,約所用刑法皆從律文,罷獄卒酷毒刑具,以從寬恕。至皇統間,詔諸臣,以本朝舊制,兼采隋、唐之制,參遼、宋之法。類以成書,名曰《皇統制》,頒行中外。時制,杖罪至百,則臀、背分決。及海陵庶人以脊近心腹,遂禁之,雖主決奴牌,亦論以違制。又多變易舊制,至正隆間,著為《續降制書》,與《皇統制》並行焉。然二君任情用法,自有異於是者矣。及世宗即位,以正隆之亂,盜賊公行,兵甲未息,一時制旨多從時宜,遂集為《軍前權宜條理》。大定四年,尚書省奏:「大興民男子李十、婦人楊仙哥並以亂言當斬。」上曰:「愚民不識典法,有司亦未嘗丁寧誥戒,豈可遽加極刑。」以減死論。五年,命有司復加刪定《條理》,與前《制書》兼用。七年,左藏庫夜有盜殺都監郭良臣盜金珠,求盜不得。命點檢司治之,執其可疑者八人鞫之,掠三人死,五人誣伏。上疑之,命同知大興府事移剌道雜治。既而親軍百夫長阿思缽鬻金於市,事覺,伏誅。上聞之曰:「箠楚之下,何求不得,奈何鞫獄者不以情求之乎?」賜死者錢人二百貫,不死者五十貫。於是禁護衛百夫長、五十夫長非直日不得帶刀入宮。是歲,斷死囚二十人。八年,製品官犯賭博法,贓不滿五十貫者其法杖,聽贖。再犯者杖之。且曰:「杖者所以罰小人也。既為職官,當先廉恥,既無廉恥,故以小人之罰罰之。」九年,因御史臺奏獄事,上曰:「近聞法官或各執所見,或觀望宰執之意,自今制無正條者皆以律文為准。」復命杖至百者臀、背分受,如舊法。已而,上謂宰臣曰:「朕念罪人杖不分受,恐至深重,乃令復舊。今聞民間有不欲者,其令罷之。」十年,尚書省奏:「河中府張錦自言復父仇,法當死。」上曰:「彼復父仇,又自言之,烈士也。以減死論。」十一年,詔諭有司曰:「應司獄廨舍須近獄安置,囚禁之事常親提控,其獄卒必選年深而信實者輪直。」十二年,尚書省言:「內丘令蒲察台補自科部內錢立德政碑,復有其餘錢二百餘貫,罪當除名。今遇赦當敘,仍免徵贓。」上以貪偽,勿敘,且曰:「乞取之贓,若有赦原,予者何辜?自今可並追還其主,惟應入官者免徵。」尚書省奏,盜有發塚者,上曰:「功臣墳墓亦有被發者,蓋無告捕之賞,故人無所畏。自今告得實者量與給賞。」故咸平尹石抹阿沒剌以贓死於獄,上謂:「其不屍諸市已為厚幸。貧窮而為盜賊,蓋不得已。三品職官以贓至死,愚亦甚矣!其諸子可皆除名。」先是,詔自今除名人子孫有在仕者並取奏裁。十三年,詔立春後、立秋前,及大祭祀,月朔、望,上、下弦,二十四氣,雨未晴,夜未明,休暇並禁屠宰日,皆不聽決死刑,惟強盜則不待秋後。十五年,詔有司曰:「朕惟人命至重,而在制竊盜贓至五十貫者處死,自今可令至八十貫者處死。」十七年,陳言者乞設提刑司,以糾諸路刑獄之失。尚書省議,以謂久恐滋弊。上乃命距京師數千里外懷冤上訴者,集其事以待選官就問。

時に済南尹梁肅が言うには、徒罪に犯す者は杖刑を免ずべきであると。朝廷は以て、今の法は既に古より軽く、奸悪を滋長するを恐れ、従わず。嘗て宰臣に詔して、朝廷は毎年再び審録官を派遣し、本来は民の冤滞を伸ぶるためなり、然るに派遣する者は多く心を尽くさず、唯文書のみに過ぎず。審録の官は、重刑を理問するに止まらず、凡そ訴訟案牘は、皆当に是非を閲実し、囚徒が囚繫すべからざる者は則ち釈放すべく、官吏の罪は即ち状を以て聞こえ、糾察を失する者は厳しく懲断を加え、贖を以て論ぜず。又、監察御史が東北路の官吏を体察し、輒く訟牒を受くるを、不称職として、笞五十を加う。又、宰臣に謂いて曰く、「比来聞く、大理寺が獄を断ずるに、疑い無き者と雖も亦旬月を経ると、何ぞや」と。参知政事移剌道対えて曰く、「法に在りては、死囚を決するは七日を過ぎず、徒刑は五日、杖罪は三日なり」と。上曰く、「法に程限有りて、而して輒く之に違うは、弛慢なり」と。朝を罷け、御批を尚書省に送りて曰く、「凡そ法寺が重軽罪を断ずるに各期限有り、法官但だ犯せば皆的決すべし、豈敢て違うこと有らんや。但だ卿等の見解一ならず、再三の批送に至り、其の議定して奏する者の書奏牘も亦旬日に下らず、以て事多く滞留するに致る。自今より当に復た爾くすべからず」と。又曰く、「故に広寧尹高楨は政を為すに猛を尚び、小過と雖も、杖して之を殺す者有り。即ち罪死に至りて情或いは恕すべくんば、猶当に之を念うべし、況んや其の小過者をや。人の性命安んぞ軽んずべけんや」と。上は正隆の《続降制書》多く己が意を任じ、苛察に傷つくを以てす。而して皇統の《制》と並用し、是非淆乱し、適従すべきを知らず、奸吏因って上下其の手を得たり。遂に局を置き、命じて大理卿移剌綎に中外の明法者を総べさせて共に校正せしむ。乃ち皇統・正隆の《制》及び大定《軍前権宜条理》、後《続行条理》を以て、其の軽重を倫じ、繁を刪ぎ失を正す。制に闕くる者は律文を以て之を足す。制・律倶に闕け及び疑いて決すること能わざる者は、則ち旨を取って画定す。《軍前権宜条理》内に常行すべき有る者も亦定法と為し、余応ぜざる者も別に一部を為して之を存す。近く定めたる徒杖減半の法を参じ、凡そ校定千一百九十条、十二巻に分ち、以て《大定重修制条》と名付け、詔して頒行せしむ。

原文時濟南尹梁肅言,犯徒者當免杖。朝廷以為今法已輕于古,恐滋奸惡,不從。嘗詔宰臣,朝廷每歲再遣審錄官,本以為民伸冤滯也,而所遣多不盡心,但文具而已。審錄之官,非止理問重刑,凡訴訟案牘,皆當閱實是非,囚徒不應囚繫則當釋放,官吏之罪即以狀聞,失糾察者嚴加懲斷,不以贖論。又以監察御史體察東北路官吏,輒受訟牒,為不稱職,笞之五十。又謂宰臣曰:「比聞大理寺斷獄,雖無疑者亦經旬月,何耶?」參知政事移剌道對曰:「在法,決死囚不過七日,徒刑五日,杖罪三日。」上曰:「法有程限,而輒違之,弛慢也。」罷朝,御批送尚書省曰:「凡法寺斷重輕罪各有期限,法官但犯皆的決,豈敢有違。但以卿等所見不一,至於再三批送,其議定奏者書奏牘亦不下旬日,以致事多滯留,自今當勿復爾。」又曰:「故廣甯尹高楨為政尚猛,雖小過,有杖而殺之者。即罪至於死而情或可恕,猶當念之,況其小過者乎?人之性命安可輕哉!」上以正隆《續降制書》多任己意,傷於苛察。而與皇統之《制》並用,是非淆亂,莫知適從,奸吏因得上下其手。遂置局,命大理卿移剌綎總中外明法者共校正。乃以皇統、正隆之《制》及大定《軍前權宜條理》、後《續行條理》,倫其輕重,刪繁正失。制有闕者以律文足之。制、律俱闕及疑而不能決者,則取旨畫定。《軍前權宜條理》內有可以常行者亦為定法,余未應者亦別為一部存之。參以近所定徒杖減半之法,凡校定千一百九十條,分為十二卷,以《大定重修制條》為名,詔頒行焉。

二十年、上、禾稼を蹂踐する者あるを見て、宰相に謂いて曰く、「今後民田を踐む者有らば杖六十、人の穀を盗む者は杖八十、並びに其の直を償わしむべし」と。二十一年、尚書省奏す、「鞏州の民馬俊の妻安姐、管卓と姦を通じ、俊、斧を以て之を撃殺す、罪死に当たる」と。上曰く、「死を減じて一等とし、以て風俗を敗る者を戒むべし」と。二十二年、上、宰臣に謂いて曰く、「凡そ尚書省の大理寺に送る文字は、一断して便ち聞奏すべし。烏古論公説の事の如きは、近く取りて之を観るに、初め法寺に送りて法の如く裁断し、再び司直に送りて披詳せしめ、又た闔寺に送りて参詳せしめ、反覆三たびし、妄かに情見を生じ、結絶を得ず。朕は国政の滞留すべからざるを以てす。昨たとえ艾を六百炷炙すと雖も、未だ嘗て一日も朝に坐せざること無く、卿等に勤政を知らしめんと欲す。自今より可に一次寺に送るに止め、闔寺に披詳せしめ、苟くも情見有らば即ち具さに以て聞こえ、滞留せしむること無からしむべし」と。二十三年、尚書省奏す、「益都の民範德、年七十六、劉祐に毆殺さる。祐は法死に当たるも、祐の父母の年倶に七十余、家に侍丁無きを以て、上請す」と。上曰く、「范德と祐の父母の年相若し、自ら父母の如く相待すべし、至りて之を毆殺すは、末減を議する難し、其の法の如く論ずべし」と。尚書省、招討司の官及び禿裏が本部の財物を乞い取るの制を奏す。上曰く、「遠人は止だ矜恤すべし、若し進貢闕けず、更に兵を以て之を邀え、強いて財物を取らば、盗と何ぞ異ならん。且つ或いは因って事を生ぜば、何ぞ懲めざらんや」と。又曰く、「朕の行う制条は、皆臣下の奏して行う所なり。天下の事多く、人力有限なり、豈能く一一之を尽くさんや。必ず一事に因りて奏聞し、方ち窒礙有るを知り、随いて更定す。今聖旨・条理有り、復た制条有り、是れ奸吏に軽重するを得しむるなり」と。大興府の民趙無事、酒を帯びて乱言し、父の千、捕告す、法死に当たる。上曰く、「父として其の子を恤わずして之を告捕するは、其の正しき此の如し、人の甚だ難き所なり。可に特た死を減じて一等とすべし」と。武器署丞奕・直長骨赧、草畔子の財を受くるに坐し、奕は杖八十、骨赧は笞二十、監察御史梁襄等は糾察を失するに坐して俸を一月罰す。上曰く、「監察は人君の耳目なり。事朕より発す、何を以て監察と為さんや」と。上は法寺の獄を断ずるに、漢字を以て女直じょちょく字を訳し、会法又た復た各おの情見を出だし、妄かに穿鑿を生じ、徒らに稽緩を致すを以て、遂に詔して情見を罷む。二十五年二月、上は婦人の囚に在る者、輸作不便にして、而して杖を分決せず、殺すと異ならざるを以て、遂に命じて死を免じて輸作する者は、杖二百を決して輸作を免じ、臀・背を以て分決せしむ。時に後族に罪を犯す者有り、尚書省「八議」を引きて奏す。上曰く、「法は、天下に公に持平するの器なり。若し親者犯して従って減ずれば、是れ之をして此れを恃みて横恣せしむるなり。昔、漢の文、薄昭を誅す、取るに足る者有り。前二十年の時、後族済州節度使烏林達鈔兀嘗て大辟を犯す、朕未だ嘗て宥さず。今乃ち之を宥すは、是れ後世に軽重出入の門を開くなり」と。宰臣曰く、「古、親を議する所以は、天子を尊び、庶人を別つなり」と。上曰く、「外家は自ら宗室と異なり、漢の外戚は権太重く、国祚を移すに至る、朕の諸王・公主に権有らしめざる所以なり。夫れ国に功有るは、勳を議する可し。若し賢を議するに至りては、既に賢と曰う、肯て法を犯さんや。脱或いは縁坐するは、則ち固より減請すべし」と。二十六年、遂に奏して太子妃の大功以上の親、及び皇家と服無き者、及び賢にして私罪を犯す者を定め、皆議に入れず。上、宰臣に謂いて曰く、「法に倫にして倫ならざる者あり、其れ之を改定せよ」と。監察御史陶鈞、妓を携えて北苑に游び、歌飲池島の間、殿廷に迫近す。提控官石玠聞きて之を発す。鈞、其の友閻恕をして玠に属して緩むるを得しむ。既にして事覚る。法司奏す、徒二年半に当たると。詔して鈞を以て耳目の官、妓を携えて禁苑に入り、上下の分無しとして、杖六十、玠・恕皆之に坐す。二十八年、上は制条の旧律に拘わるるを以てし、間に難解の詞有り、命じて刪修して明白にし、人をして皆之を暁らしむ。

原文二十年,上見有蹂踐禾稼者,謂宰相曰:「今後有踐民田者杖六十,盜人穀者杖八十,並償其直。」二十一年,尚書省奏:「鞏州民馬俊妻安姐與管卓姦,俊以斧擊殺之,罪當死。」上曰:「可減死一等,以戒敗風俗者。」二十二年,上謂宰臣曰:「凡尚書省送大理寺文字,一斷便可聞奏。如烏古論公說事,近取觀之,初送法寺如法裁斷,再送司直披詳,又送闔寺參詳,反覆三次,妄生情見,不得結絕。朕以國政不宜滯留,昨雖炙艾六百炷,未嘗一日不坐朝,欲使卿等知勤政也。自今可止一次送寺,闔寺披詳,荀有情見即具以聞,毋使滯留也。」二十三年,尚書省奏:「益都民範德年七十六,為劉祐毆殺。祐法當死,以祐父母年俱七十餘,家無侍丁,上請。」上曰:「范德與祐父母年相若,自當如父母相待,至毆殺之,難議末減,其論如法。」尚書省奏招討司官及禿裏乞取本部財物制,上曰:「遠人止可矜恤,若進貢不闕,更以兵邀之,強取財物,與盜何異?且或因而生事,何可不懲。」又曰:「朕所行制條,皆臣下所奏行者,天下事多,人力有限,豈能一一盡之。必因一事奏聞,方知有所窒礙,隨即更定。今有聖旨、條理,復有制條,是使奸吏得以輕重也。」大興府民趙無事帶酒亂言,父千捕告,法當死。上曰:「為父不恤其子而告捕之,其正如此,人所甚難。可特減死一等。」武器署丞奕、直長骨赧坐受草畔子財,奕杖八十,骨赧笞二十,監察御史梁襄等坐失糾察罰俸一月。上曰:「監察,人君之耳目。事由朕發,何以監察為?」上以法寺斷獄,以漢字譯女直字,會法又復各出情見,妄生穿鑿,徒致稽緩,遂詔罷情見。二十五年二月,上以婦人在囚,輸作不便,而杖不分決,與殺無異,遂命免死輸作者,決杖二百而免輸作,以臀、背分決。時後族有犯罪者,尚書省引「八議」奏,上曰:「法者,公天下持平之器,若親者犯而從減,是使之恃此而橫恣也。昔漢文誅薄昭,有足取者。前二十年時,後族濟州節度使烏林達鈔兀嘗犯大辟,朕未嘗宥。今乃宥之,是開後世輕重出入之門也。」宰臣曰:「古所以議親,尊天子,別庶人也。」上曰:「外家自異於宗室,漢外戚權太重,至移國祚,朕所以不令諸王、公主有權也。夫有功于國,議勳可也。至若議賢,既曰賢矣,肯犯法乎?脫或緣坐,則固當減請也。」二十六年,遂奏定太子妃大功以上親,及與皇家無服者、及賢而犯私罪者,皆不入議。上謂宰臣曰:「法有倫而不倫者,其改定之。」監察御史陶鈞以攜妓游北苑,歌飲池島間,迫近殿廷,提控官石玠聞而發之。鈞令其友閻恕屬玠得緩。既而事覺,法司奏,當徒二年半。詔以鈞耳目之官,攜妓入禁苑,無上下之分,杖六十,玠、恕皆坐之。二十八年,上以制條拘於舊律,間有難解之詞,命刪修明白,使人皆曉之。

旧く民の制書を収むることを禁ず、告訐の弊を滋すを恐る。章宗大定二十九年、言事者、民に之を蔵するを許すを乞う。平章張汝霖曰く、「昔、子産刑書を鑄す、叔向之を譏る者は、蓋し預め民をして其の軽重を測らしむるを欲せざるなり。今不刊の典を著し、民をして暁然之を知らしむるは、猶お江・河の避け易くして犯し難きが如く、以て治を輔くるに足り、禁ぜざるを便とす」と。衆議多く欲せざるを以て、詔して姑く令して仍って旧く之を禁ぜしむ。

原文舊禁民不得收制書,恐滋告訐之弊,章宗大定二十九年,言事者乞許民藏之。平章張汝霖曰:「昔子產鑄刑書,叔向譏之者,蓋不欲預使民測其輕重也。今著不刊之典,使民曉然知之,猶江、河之易避而難犯,足以輔治,不禁為便。」以眾議多不欲,詔姑令仍舊禁之。

明昌元年、上(章宗)が宰臣に問うて曰く、「今何ぞ律文を専用せざるや」と。平章政事張汝霖曰く、「前代は律と令と各々分かちあり、其の令を犯す有るは、律を以て之を決す。今国家は制と律と混淆す、固より分つべし」と。遂に詳定所を置き、律と令とを審定するを命ず。承安二年、軍前受財法を制す、一貫以下は徒二年、以上は徒三年、十貫は死を処す。符宝典書北京奴、符宝局の金牌を盗み、誅に伏し、仍って属籍を除く。按虎・阿虎帯は失察し、各々杖七十。泰和二年、御史臺奏す、「監察御史史肅言う、『大定条理』は、二十年十一月四日以前より、奴良人の女を娶りて妻と為す者は、並びに已に娶りたるを准えて定めと為し、若し夫亡すれば、拘放その主に従う。夫を離れ摘売する者は本主に収贖せしめ、旧に依りて夫と同聚せしむ。放良・従良する者は即ち贖換を聴し、未だ贖換せざる間に夫の生める男女は並びに良と為すを聴す。而るに『泰和新格』は復た夫亡し服除を良人の例に准え、夫を離れ摘売し及び夫を放ちて良と為す者は、並びに良と為すを聴す。若し未だ出離せず再び奴に配し、或いは雑奸の生める男女は並びに良と為すを許す。此くの如く同じからず、皆編格官の妄りに増減を為すに由り、以て随処訴訟紛擾し、是れ違枉に渉る」と。」勅して所司に付して之を正さしむ。初め、詔して凡そ条格制文に入る者は、別巻に分つ。復た詔して制と律文と軽重同じからず、及び律に無き者は、各々校定して以て聞かしむ。屠宰を禁ずるの類の如きは、当に令に著くべし、慎みて忽せざれ、律令一定すれば、更ふべからずと。明昌三年七月、右司郎中孫鐸先ず詳定所の校する『名例篇』を進む、既にして諸篇皆成る、復た中都路転運使王寂・大理卿董師中等をして重ねて之を校せしむ。四年七月、上諸路の枷杖多く法の如くならざるを以てし、平章政事守貞曰く、「枷杖尺寸に制有り、提刑両月一巡察す、必ず敢えて法に違わざるべし」と。五年正月、復た制と律とを鉤校せしめ、即ち詳定所に付す。時に詳定官言う、「若し重修制文を式と為すに依らば、則ち条目の増減、罪名の軽重、律に異なるべし。既に定めて復た旧と同頌せば、則ち人をして惑はしめて奸を為し易からしむ!臣等謂う、今の制条を用い、時宜に参酌し、律文に准じて修定し、歴代の刑書今に宜しきを采り、以て遺闕を補い、『刑統』の疏文を取って以て之を釈し、常法と為して著し、名づけて『明昌律義』と曰う。別に榷貨・辺部・権宜等の事を編み、集めて『勅条』と為す」と。宰臣謂う、「先に定めたる令文尚ほ未完なり、皆通定するを俟ち、然る後に頒行すべし。若し律科挙人に至りては、則ち止だ旧律を習わしむ」と。遂に知大興府事尼厖古鑑・御史中丞董師中・翰林待制奥屯忠孝(小字牙哥)・提点司天臺張嗣・翰林修撰完顔かんがん撒剌・刑部員外郎李庭義・大理丞麻安上を校定官と為し、大理卿閻公貞・戸部侍郎李敬義・工部郎中賈鉉を覆定官と為し、新律を重修せしむ。時に獄を奏して法官に独り情見を出す者有り、上曰く、「或いは法官情見を出すべからずと言う、故に論者紛紛として已まず。朕謂う、情見は法外に出ずるに非ず、但だ折衷して法に従うのみ」と。平章守貞曰く、「是の制は大定二十三年より之を罷む。然れども律に起請諸条有り、是れ古も亦た情見を許せり」と。上曰く、「科条は限り有り、而して人情は窮まり無し、情見亦た豈に無くすべけんや」と。明昌五年、尚書省奏す、「制に在り、『名例』内徒年の律に、決杖の文無く便ち杖を用いず。縁りて先に流刑は今の宜しきに非ずと謂い、且つ流役に代うる四年以上は俱に杖を決し、而して徒三年以下は復た用いざるに難し。婦人は男子に比すれば差し軽しと雖も、亦た例に当りて減ずべし」と。遂に徒二年以下なる者は杖六十、二年以上は杖七十、婦人の犯す者は並びに五十を決し、『勅条』に著す。

原文明昌元年,上問宰臣曰:「今何不專用律文?」平章政事張汝霖曰:「前代律與令各有分,其有犯令,以律決之。今國家制、律混淆,固當分也。」遂置詳定所,命審定律、令。承安二年,制軍前受財法,一貫以下,徒二年,以上徒三年,十貫處死。符寶典書北京奴盜符寶局金牌,伏誅,仍除屬籍。按虎、阿虎帶失覺察,各杖七十。泰和二年,御史臺奏:「監察御史史肅言,《大定條理》:自二十年十一月四日以前,奴娶良人女為妻者,並准已娶為定,若夫亡,拘放從其主。離夫摘賣者令本主收贖,依舊與夫同聚。放良從良者即聽贖換,如未贖換間與夫所生男女並聽為良。而《泰和新格》復以夫亡服除准良人例,離夫摘賣及放夫為良者,並聽為良。若未出離再配與奴,或雜奸所生男女並許為良。如此不同,皆編格官妄為增減,以致隨處訴訟紛擾,是涉違枉。」敕付所司正之。初,詔凡條格入制文內者,分為別卷。復詔制與律文輕重不同,及律所無者,各校定以聞。如禁屠宰之類,當著於令也,慎之勿忽,律令一定,不可更矣。明昌三年七月,右司郎中孫鐸先以詳定所校《名例篇》進,既而諸篇皆成,復命中都路轉運使王寂、大理卿董師中等重校之。四年七月,上以諸路枷杖多不如法,平章政事守貞曰:「枷杖尺寸有制,提刑兩月一巡察,必不敢違法也。」五年正月,復令鉤校制、律,即付詳定所。時詳定官言:「若依重修制文為式,則條目增減,罪名輕重,當異於律。既定復與舊同頒,則使人惑而易為奸矣!臣等謂,用今制條,參酌時宜,准律文修定,歷采前代刑書宜於今者,以補遺闕,取《刑統》疏文以釋之,著為常法,名曰《明昌律義》。別編榷貨、邊部、權宜等事,集為《敕條》。」宰臣謂:「先所定令文尚有未完,俟皆通定,然後頒行。若律科舉人,則止習舊律。」遂以知大興府事尼厖古鑒、御史中丞董師中、翰林待制奧屯忠孝小字牙哥,提點司天臺張嗣、翰林修撰完顏撒剌、刑部員外郎李庭義、大理丞麻安上為校定官,大理卿閻公貞,戶部侍郎李敬義、工部郎中賈鉉為覆定官,重修新律焉。時奏獄而法官有獨出情見者,上曰:「或言法官不當出情見,故論者紛紛不已。朕謂情見非出於法外,但折衷以從法爾。」平章守貞曰:「是制自大定二十三年罷之。然律有起請諸條,是古亦許情見矣。」上曰:「科條有限,而人情無窮,情見亦豈可無也。」明昌五年,尚書省奏:「在制,《名例》內徒年之律,無決杖之文便不用杖。緣先謂流刑非今所宜,且代流役四年以上俱決杖,而徒三年以下難復不用。婦人比之男子雖差輕,亦當例減。」遂以徒二年以下者杖六十,二年以上杖七十,婦人犯者並決五十,著於《敕條》。

承安三年、勅して尚書省に曰く、「今より特旨の事、律令程式の如き者は、始めて部に送るべし。自餘創行の事は、但だ部官を召して省に赴きて之を議せしめよ」と。四年四月、尚書省令文を再び覆定するを請う、上因りて宰臣に勅して曰く、「凡そ事理明白なる者は転奏すべし。文牘多き者は遍く覧むに難からんことを恐る、其の三推情疑を以て聞かしめよ」と。五月、上法の平に適せざるを以てし、常行の杖様多く用うる能わず。遂に分寸を定め、銅を鋳て杖式と為し、之を天下に頒つ。且つ曰く、「若し笞杖太だ軽しと以て、情理に恕し難き有るを恐るれば、訊杖は再び之を議すべし」と。五年五月、刑部員外郎馬復言う、「外官尚ほ苛刻なる者は銅杖式に遵わず、輒ち大杖を用い、多く人を致して死なしむ」と。詔して按察司に糾劾して之を黜せしむ。先に嘗て諸の死囚及び除名の罪、委ぬる所の官相去ること二百里外、並びに徒以下に犯し及び二十人以上に逮るる者を、並びに其の官をして就きて之を讞せしむ。刑部員外郎完顔綱言う、「是の制行はれてより、上京の最近の地の如き往還三・二千里に下らず、北京留守司の如きも亦た動もすれば数ヶ月を経、愈々稽留を致し、便ならず」と。詔して復た旧に従い、官を委ねて追取して之を鞫せしむ。

原文承安三年,敕尚書省:「自今特旨事,如律令程式者,始可送部。自餘創行之事,但召部官赴省議之。」四年四月,尚書省請再覆定令文,上因敕宰臣曰:「凡事理明白者轉奏可也。文牘多者恐難遍覽,其三推情疑以聞。」五月,上以法不適平,常行杖樣,多不能用。遂定分寸,鑄銅為杖式,頒之天下。且曰:「若以笞杖太輕,恐情理有難恕者,訊杖可再議之。」五年五月,刑部員外郎馬復言:「外官尚苛刻者不遵銅杖式,輒用大杖,多致人死。」詔令按察司糾劾黜之。先嘗令諸死囚及除名罪,所委官相去二百里外,並犯徒以下逮及二十人以上者,並令其官就讞之。刑部員外郎完顏綱言:「自是制行,如上京最近之地往還不下三、二千里,如北京留守司亦動經數月,愈致稽留,未便。」詔復從舊,令委官追取鞫之。

十二月、翰林修撰楊庭秀言う、「州県官往往権勢を以て自ら居り、喜怒を自ら任じ、訟を聴くの際、鮮しく克く審かに加う。但だ訳人をして往来し詞を伝えしむるのみ、罪の軽重、其の口に成り、貨賂公行し、冤ずる者至って三・二十年も正しむる能わざる者有り」と。上遂に条約を定立するを命じ、違う者は按察司之を糾せしむ。且つ宰臣に謂いて曰く、「長貳官幕職及び司吏に委ねて獄囚を推問し、命じて御史臺に申し聞奏せしむるの制、当に復た舉行すべし」と。又た前後の条制を編し、之を冊に書き、以て将来の考験に備うるを命ず。

原文十二月,翰林修撰楊庭秀言:「州縣官往往以權勢自居,喜怒自任,聽訟之際,鮮克加審。但使譯人往來傳詞,罪之輕重,成於其口,貨賂公行,冤者至有三、二十年不能正者。」上遂命定立條約,違者按察司糾之。且謂宰臣曰:「長貳官委幕職及司吏推問獄囚,命申御史臺聞奏之制,當復舉行也。」又命編前後條制,書之於冊,以備將來考驗。

泰和元年正月、尚書省奏す、見行の銅杖式軽細なるを以てし、奸宄畏れずと。遂に有司に命じ、犯す所に量りて大杖を用いしめ、且つ過ぐること五分を得ざるを禁ず。

原文泰和元年正月,尚書省奏,以見行銅杖式輕細,奸宄不畏,遂命有司量所犯用大杖,且禁不得過五分。

十二月、編纂した律が完成し、凡そ十二篇あり:一を《名例》と曰い、二を《衛禁》と曰い、三を《職制》と曰い、四を《戸婚》と曰い、五を《廄庫》と曰い、六を《擅興》と曰い、七を《賊盜》と曰い、八を《鬥訟》と曰い、九を《詐偽》と曰い、十を《雑律》と曰い、十一を《捕亡》と曰い、十二を《斷獄》と曰う。実は《唐律》であるが、ただ贖銅を加えること皆これを倍にし、徒刑を四年・五年に増して七等とし、時に適さぬ四十七条を削り、時に用いる制百四十九条を増し、これにより略々損益ある者二百八十二条、余り百二十六条は皆その旧に従う。またその一を二に分ち、その一を四に分つ者六条を加え、凡そ五百六十三条、三十巻と為し、附注してその事を明らかにし、疏義してその疑いを釈き、《泰和律義》と名付く。《官品令》、《職員令》以下、《祠令》四十八条、《戸令》六十六条、《学令》十一条、《選挙令》八十三条、《封爵令》九条、《封贈令》十条、《宮衛令》十条、《軍防令》二十五条、《儀制令》二十三条、《衣服令》十条、《公式令》五十八条、《禄令》十七条、《倉庫令》七条、《廄牧令》十二条、《田令》十七条、《賦役令》二十三条、《関市令》十三条、《捕亡令》二十条、《賞令》二十五条、《医疾令》五条、《仮寧令》十四条、《獄官令》百六条、《雑令》四十九条、《釈道令》十条、《営繕令》十三条、《河防令》十一条、《服制令》十一条、年月の制を附し、《律令》二十巻と曰う。また《制勅》九十五条、《榷貨》八十五条、《蕃部》三十九条を定め、《新定勅条》三巻、《六部格式》三十巻と曰う。司空襄これを進め、詔して明年五月に頒行するを以てす。

原文十二月,所修律成,凡十有二篇:一曰《名例》,二曰《衛禁》,三曰《職制》,四曰《戶婚》五曰《廄庫》,六曰《擅興》,七曰《賊盜》,八曰《鬥訟》,九曰《詐偽》,十曰《雜律》,十一曰《捕亡》,十二曰《斷獄》。實《唐律》也,但加贖銅皆倍之,增徒至四年、五年為七,削不宜於時者四十七條,增時用之制百四十九條,因而略有所損益者二百八十有二條,餘百二十六條皆從其舊。又加以分其一為二、分其一為四者六條,凡五百六十三條,為三十卷,附注以明其事,疏義以釋其疑,名曰《泰和律義》。自《官品令》、《職員令》之下,曰《祠令》四十八條,《戶令》六十六條,《學令》十一條,《選舉令》八十三條,《封爵令》九條、《封贈令》十條,《宮衛令》十條,《軍防令》二十五條,《儀制令》二十三條,《衣服令》十條,《公式令》五十八條,《祿令》十七條,《倉庫令》七條,《廄牧令》十二條,《田令》十七條,《賦役令》二十三條,《關市令》十三條,《捕亡令》二十條,《賞令》二十五條,《醫疾令》五條,《假寧令》十四條,《獄官令》百有六條,《雜令》四十九條,《釋道令》十條,《營繕令》十三條,《河防令》十一條,《服制令》十一條,附以年月之制,曰《律令》二十卷。又定《制敕》九十五條,《榷貨》八十五條,《蕃部》三十九條,曰《新定敕條》三卷,《六部格式》三十卷。司空襄以進,詔以明年五月頒行之。

貞祐三年、上宰臣に謂ひて曰く、「今より監察官罪を犯し、その事軍国の利害に関わる者は、並びに笞決すべし」。貞祐四年、詔して曰く、「凡そ監察糾劾を失する者は、本法に従い論ず。外国の使者入国して本国の事情を私通し、宿衛・近侍官・承応人が親王・公主・宰執の家に出入し、災害傷損に乏食し有司検核実ならずして人命を傷つけ、軍儲を転運して私載あり、挙人を試験して防閑厳ならず、その罰並びに決す。在京にて犯すこと両次に至る者は、台官監察一等を減じて治罪し、贖を論じ、余りは止だ坐すのみ、専差任満の日に議定す。若し任内曾て漏察を以て決せられたるあらば、格に依り職に称すと雖も、止だ平常に従い、平常なる者は降罰に従ふ」。興定元年八月、上宰臣に謂ひて曰く、「律に八議あり、今言者或いは応議の人即ち当に減等すべしと謂ふ、如何」。宰臣対へて曰く、「凡そ議する者は先づ坐する所及び応議の状を条して請ひ、必ず議定して然る後に奏裁す」。上然りて曰く、「若し軽重を論ぜずして輒くこれを減ずれば、則ち貴戚皆将にこれを恃みて民を虐げん、民何を以てか堪へん」と。

原文貞祐三年,上謂宰臣:「自今監察官犯罪,其事關軍國利害者,並笞決之。」貞祐四年,詔:「凡監察失糾劾者,從本法論。外使入國私通本國事情,宿衛、近侍官、承應人出入親王、公主、宰執家,災傷乏食有司檢核不實致傷人命,轉運軍儲而有私載,考試舉人而防閑不嚴,其罰並決。在京犯至兩次者,台官減監察一等治罪,論贖,餘止坐,專差任滿日議定。若任內曾以漏察被決,依格雖為稱職,止從平常,平常者從降罰。」興定元年八月,上謂宰臣曰:「律有八議,今言者或謂應議之人即當減等,何如?」宰臣對曰:「凡議者先條所坐及應議之狀以請,必議定然後奏裁也。」上然之,曰:「若不論輕重而輒減之,則貴戚皆將恃此以虐民,民何以堪。」