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金史
志第二十五: 兵 兵制 禁軍之制 養兵之法
兵制
金が興り、用兵は神の如く、戦に勝ち功を取って、当世に敵無く、未だ十年を経ずして遂に大業を定めた。その成功の速やかなる所以を推原すれば、俗は元来鷙猛で勁く、人多く沈雄であり、兄弟子孫の才は皆良将たり、部落の保伍の技は皆鋭兵たり。加うるに地狭く産薄く、事無き時は苦耕して衣食を給し、事有る時は苦戦して俘獲を致し、その筋骨を労して寒暑に耐え、徴発調遣の事は一家の如し。是故に将は勇にして志一なり、兵は精にして力斉しく、一旦奮起して、弱を変じて強と為し、寡を以て衆を制するは、この道を用いるによる。及び中国を得志するに及び、自らその宗族国人の尚少なるを顧みて、乃ち土地を割き、位号を崇めて以て漢人に仮し、之をして効力して之を守らしむ。猛安謀克を漢地に雑廁し、契丹・漢人と婚姻するを聴いて以て相固結せしむ。国勢漸く盛んなるに及んで、則ち土地を帰し、位号を削ぎ、遼東渤海・漢人の猛安謀克を襲ぐる者を罷め、漸く兵柄をその内族に帰す。然れども枢府は簽軍募軍して漢制を兼采し、宋を伐つ役には漢軍及び諸部族を参用して国人を以て統べたり、志一の将、力斉しき兵に在るを知らざるに非ざるも、第に土宇既に広し、豈に尽く其の親しむ所を任せんや!極盛に馴致して、乃ち自らその宗族国人の多きを患え、その猜疑を積み、卒に自ら戕賊し、遂に強本刊落し、醇風鍥薄し、将帥携離し、兵士驕惰す。その亡に至るまで、「忠孝」等軍は内に難を構え、颭軍雑人は外に禍を召す、向の所謂志一にして力斉しき者は、恃むべき勢いを見る可からず。豈に自らその家法を壊して是に致すに非ずや?抑やこの道は新造の邦に用いる可く、長久の天下を保つに可からずや?金は兵を以て国を得、詔を奉じて『金史』を作る、故に金の『兵志』に於いてその興亡得失の跡を考へ、特ちに斯に著す。兵制・馬政・養兵等の法旧史に載する所のものは、暼戸篇に列す。
金の初年、諸部の民は他の徭役無く、壮者は皆兵たり、平居は則ち佃漁射獵を以て労事を習うを聴し、警有れば則ち部内に令を下し、及び使を諸孛堇に詣して兵を徴し、凡そ歩騎の仗糗は皆備えを取る。その部長を孛堇と曰い、行兵するときは則ち猛安・謀克と称し、その多寡に従って以て号と為す、猛安は千夫長なり、謀克は百夫長なり。謀克の副を蒲裏衍と曰い、士卒の副従を阿裏喜と曰う。部卒の数は、初め定制無し。太祖即位の二年に至り、既に二千五百を以て耶律謝十を破り、始めて三百戸を以て謀克と為すを命じ、謀克十を以て猛安と為す。継いて諸部来降し、率ね猛安・謀克の名を用いて以てその首領に授け、而してその人を部伍す。出河の戦いに兵始めて万に満ち、而して遼は敵す可からず!来流・鴨水・鉄驪・鱉古の民皆附き、東京既に平らぎ、山西継いて定まり、内には遼・漢の降卒を収め、外には部族の健士を籍す。嘗て遼人訛裏野を用いて北部百三十戸を以て一謀克と為し、漢人王六児を以て諸州漢人六十五戸を以て一謀克と為し、王伯龍及び高従祐等並びにその部を領して一猛安と為す。天会二年に至り、平州既に平らぎ、宗望は風俗揉雑し、民情便ならざるを恐れ、乃ちこの制を罷む。諸部降人は但だ長吏を置き、以下漢官の号に従う。四年、宋を伐つ役、燕山・雲中・中京・上京・東京・遼東・平州・遼西・長春八路の民兵を調べ、諸万戸に隷し、その間万戸にも専ら漢軍を統ぶる者有り。熙宗皇統五年、又た遼東漢人・渤海の猛安謀克承襲の制を罷め、漸く兵柄をその国人に移し、乃ち猛安謀克を上中下三等に分ち、宗室を上と為し、余はこれに次ぐ。海陵庶人天徳二年に至り、中京・東京・臨潢・咸平・泰州等路の節鎮及び猛安謀克を省併し、上中下の名を削ぎ、但だ「諸猛安謀克」と称し、旧制に循って間年一徴発し、以て老疾死亡の数を補う。貞元遷都、遂に上京路の太祖・遼王宗幹・秦王宗翰の猛安を徙し、並びに合紮猛安と為し、及び右諫議烏裏補猛安、太師勣・宗正宗敏の族を、中都に処す。斡論・和尚・胡剌三国公、太保昂、詹事烏裏野、輔国勃魯骨、定遠許烈、故杲国公勃迭八猛安を山東に処す。阿魯の族を北京に処す。按達の族属を河間に処す。正隆二年、兵部尚書蕭恭等に命じ、旧軍と皆分ちて諸総管府・節度使に隷し、田牛を授けて之を耕食せしめ、以て京国を蕃衛せしむ。六年、南伐し、三道都統制府及び左右領軍大都督を立て、三十二軍を将い、神策・神威・神捷・神鋭・神毅・神翼・神勇・神果・神略・神鋒・武勝・武定・武威・武安・武捷・武平・武成・武毅・武鋭・武揚・武翼・武震・威定・威信・威勝・威捷・威烈・威毅・威震・威略・威果・威勇を以て名と為し、軍に都総管・副総管及び巡察使・副各一員を置く。而して沿辺の契丹は妻子が隣寇に鈔掠されるを恐れ、尽く行う可からず、遂に皆背判す。而して大名続授甲の士は還って東京に於いて世宗を迎え立てたり。
大定の初年に及び、窩斡が既に平定された後、契丹人を諸猛安謀克に隷属させて分散させた。三年に至り、詔して河北・山東等路で徴発した軍のうち、父兄が既に共に甲軍に充てられ、子弟がまた阿裏喜となっている者については、その家に更に丁男が無く、農耕に支障を来すことを恐れ、一丁を免じ、驅丁を以て阿裏喜に充て、驅丁の無い者は本猛安謀克内で富強で驅丁を持つ者を検分して徴発充てるように命じた。十三年、東北等の辺境を守る漢軍を内地に移した。十五年十月、吏部郎中蒲察兀虎ら十人を派遣して天下に分行させ、猛安謀克戸を再び定め、毎謀克戸は三百を超えず、七謀克から十謀克に一猛安を置いた。十七年、また西南・西北招討司の契丹余党は心根が元来狠戾であり、再び事を生ずることを恐れ、将来或いは辺境に隙あれば我が用に供さないであろうから、彼らを烏十裏石壘部及び上京の地に移すよう命じた。上(世宗)が宰臣に言うには、「北辺で交代で守備する者は、毎年寒暑を冒して千里を往来し、甚だ労苦である。仮に一二の馬牛があっても、一度往けば還る道理がなく、またその農時を奪って耕種させることができない。故に嘗て卿らに議させ、如何なる術をもってその役を罷め、田裏に安んぜしめるか、卿らの議が如何なるものか知らない。」左丞相良弼が対えて言うには、「北辺の地は耕種に堪えず、長期の戍守はできません。故に交代で守備する必要があるのです。」上は言う、「朕は一日に万機を処理するが、どうして遍く及ぶことができようか。卿らは既に宰相であるのに、この急務をかえって末事とし、竟に一言もなく、甚だ朕の慮りを労する。往年、参政宗敘が屡々朕に言った。もし貧戸をして永く辺境に屯させ、彼らに耕種させ、官が糧食を給すれば、貧者は救済され、富戸は交代の労から免れ、勤めて農務に従事することができる、と。宗敘のような者は、心を尽くして国に尽くしたと言えよう。朕は嘗てこれを考え、両路招討司及び烏古裏石壘部族・臨潢府・泰州等路に分けて守備を定め、その数を具して奏聞させ、朕が親しく覧るのが宜しい。」十八年、部族・颭に命じて交代で辺境を守らせた。二十年、祖宗が天下を平定して以来、建立した猛安謀克は、因循すること既に久しく、その間に戸口の繁簡・地里の遠近が同じでなく、また正隆以後は授けるに度がなく、大定年間にも功多くして未だ酬いられていない者があるため、遂に改めて定めて天下に詔した。また新たに授ける者には皆就封せしめ、その謀克人内に六品以下の職及び諸局の承応人がいる者は、皆これを遷すように命じた。三従以上の族人で従行を願う者は、猛安では十戸を過ぎず、謀克では六戸を過ぎない。詔して、辺境を守る軍士で年五十五以上の者は、その子及び同居の弟・甥が代わることを許し、奴をもって代える者はこれを罪とした。二十一年三月、詔して大興尹完顔迪古速を派遣し河北東路の両猛安を移す。上は言う、「朕が始めてこれを移すことを命じたのは、女直戸と錯雑させ、安置して久しくなれば自ら婚姻し、異心を生じないようにしたいためである。これは長久の利である。今、移馬河猛安は錯雑して居住し、甚だ朕の意に符するが、遙落河猛安はこのようでない。再び兵部尚書張那也を派遣してその地を巡視させ、雑居させるようにせよ。」二十二年、山東の屯田戸が辺鄙に隣接しているため、一箇所に集め、協力して養蚕耕作させるよう命じた。右丞相烏古論元忠が言うには、「あの地方の人は得た地を家とし、兄弟でも同じ所に住まず、故に貧しい者が多い。」参政粘割斡特剌が言うには、「旧時は兄弟が分家してもなお集まって耕作したが、今はそうではない。これを取り締まるべきである。」また猛安謀克の旧籍が不明瞭で、徴兵や諸差役及び賑済に際し、実情に合わずに増減するため、その人口を調査し、実数をもって籍に登録するよう命じた。二十三年、刑部尚書移剌綎を派遣し山東東路の八謀克を河間に移し、その棄てた地に山東東路忒黒河猛安下の蘸荅謀克、移裏閔斡魯渾猛安下の翕浦謀克・什母溫山謀克の九村の人戸を劉僧・安和の二謀克の旧地に移した。その未だ移らざる者の地は皆瘠悪で且つ賊寇に隣接しているため、使者を派遣して移住を願う者に尋ね、居住に適した地を探し、図を描いて進上させた。
上(世宗)は嘗て速頻・胡裏改の人は驍勇で用いるに足ると考え、海陵王も嘗て彼らを移そうとしてできなかったが、二十四年に上京率・胡剌温の地が広くて肥沃であることから、遂に刑部尚書烏裏也を派遣し府庫の銭を出して行資や牛畜を助け、速頻一猛安・胡裏改二猛安二十四謀克を移してこれを充実させた。これは上京の兵を多くし、将来緩急の備えとしたいためである。この当時、河北・山東に屯する旧来のものを多く改易し、民地を収公してその産業とし、戸ごとに牛を頒ち耕させ、甲兵を蓄えて備えとし、乃ちその権を大いに重んじ、諸王に猛安の号を授け、或いは新たに置く者には特に名を賜った。その奢靡を制し、その飲酒を禁じ、その騎射を習わせ、その糧秣を儲え、その備えは極めて厳重であった。この時、宗室戸は百七十、猛安は二百二、謀克は千八百七十八、戸は六十一万五千六百二十四であった。東北路の部族颭軍は、迭剌部(承安三年に土魯渾尼石合節度使と改称)、唐古部(承安三年に部魯火劄石合節度使と改称)と言い、二部五颭、戸五千五百八十五。その他、助魯部族・烏魯古部族・石壘部族・萌骨部族・計魯部族・孛特本部族など、数はいずれもこれに相当した。西北・西南二路の颭軍は十あり、蘇謨典颭・耶刺都颭・骨典颭・唐古颭・霞馬颭・木典颭・萌骨颭・咩颭・胡都颭の九つがあり、その諸路は、曷懶・蒲與・婆速・恤頻・胡裏改・移懶(移懶は後に廃止)と言い、皆上京の辺鄙にあり、或いは総管府を置き、或いは節度使を置いた。章宗の明昌年間に至り、国人に文武兼備を求め、猛安謀克に進士を挙げさせ、策論及び騎射を試してその科甲の高下を定めさせた。承安四年、上(章宗)が宰臣に言うには、「人が《八陣図》を持って来て献上したが、その図は果たしてどういうものか?朕は嘗て宋白の編集した《武経》を観たが、攻守の法を具載し、また多くは実行し難いものであった。」右丞相清臣が言うには、「兵書は一定の法であり、変に応じるのは難しい。本朝の行兵はただ正奇の二軍を用い、敵に臨んで変を制し、正を以て奇と為し、奇を以て正と為す。故に往くところ克たざるはない。」上は言う、「古より用兵もまた奇正の二法を出でず。且つ古の兵法を学ぶことは囲碁を学ぶが如く、未だ自ら心に得られずして、旧い陣勢を用いて敵に接しようとするのは、疎である。敵の応ずる所が旧勢と異なれば、則ち必ず支えることができない。然れども《武経》の述べる所は遵行し難いとはいえ、知っていることは知らないよりはまだましである。」泰和年間、また武挙の制度を定め、その制度は詳しく《選挙志》にある。
いわゆる渤海軍とは、渤海八猛安の兵である。いわゆる奚軍とは、奚人遙輦昭古牙九猛安の兵である。奚軍は初め山西に移され、後に分かれて河東に遷された。その漢軍中都永固軍は、大定年間に設置されたものである。いわゆる鎮防軍とは、諸軍の中から取って交代で辺境を守備させる者である。西北辺境には分番屯戍軍及び永屯軍・驅軍の区別がある。驅軍とは、建国初期に免じた遼人の奴婢で、泰州に駐屯守備させた者である。辺鋪軍とは、河南・陝西で辺境を守備する者である。河東三虞候順德軍及び章宗の設置した諸路の效節軍は、京府・節鎮には三十人を設け、防州・刺史州には二十人を設ける。職掌は弓手と同じである。諸路で募集した射糧軍は、五年ごとに籍を作り、三十歳以下、十七歳以上の強壮な者を皆その欠(入れ墨)を施し、兼ねて雑役に充てるものである。京師防城軍は、世宗大定十七年三月に武衛軍と改められ、京師の巡捕を掌るものである。牢城軍というのは、かつて盗賊であった者を、防禦・築城の役務に充てたものである。土兵というのは、警備・捕縛の事務を司るものである。凡そ漢軍は、事あるときは民から徴発し、事が済めばあるいはまた放免することもあった。初め、天会年間、郭薬師が降伏し、長勝軍というものがあったが、皆遼水の畔の人で、郷土を離れて金に帰したため、皆愁怨して帰郷を思い、宗望はただちにこれを罷めて還させた。正隆年間、また諸路の漢軍を罷めたことがあったが、存続したものにはなお威勇・威烈・威捷・順徳及び「韓常の軍」の称号があった。
凡そ辺境に兵を置いた州は三十八:鳳翔・延安・鄧・鞏・熙・泗・潁・蔡・隴・秦・河・海・寿・唐・商・洮・蘭・会・積石・鎮戎・保安・綏徳・保徳・環・葭・庾・寧辺・東勝・淨・慶・来遠・桓・昌・曷懶・婆速・蒲与・恤品・胡里改である。要地の州に置いたのは十一:南京・東京・益都・京兆・太原・臨洮・臨潢・豊・泰・撫・蓋である。宣宗が南遷すると、颭軍は潰走して去り、兵勢はますます弱まり、遂に猛安戸の老幼をことごとく擁して黄河を渡り、諸総管府を僑置してこれを統率させたが、器械は既に欠け、糧秣は供給されず、民の膏血を搾り取っても足りず、ついに括糧の法を行い、一人が従軍すれば、一家挙げて食を待つ有様となった。また、戦士の心を堅固にする術がないとして、その家族をことごとく京師に入らせたが、数年も経たないうちに食するものなくなり、ついにその外出を許すようになり、国もまた窮した。しかし、初め南渡したとき、河朔の戦兵三十万をことごとく河南行枢密及び帥府に分属させたが、しばしば強壮な者を隠匿し、羸弱な者を駆り立てて戦わせたため、勝つことができなかった。後にはついに二十五人をもって一謀克とし、四謀克をもって一猛安とした。各謀克には旗鼓司・火頭五人を除き、戦闘に任ずる者はわずか十八人で、隊伍を成すに足らず、ただその名を存するのみであった。故に混源の劉祁は言う:「金の兵制は最も弊害が多く、征伐や辺境の事変があるごとに、ただちに下令して軍を徴発し、遠近を騒動させる。民家の丁男で強壮な者は、あるいはことごとく取り上げて残さず、号泣は隣里に動き、嗟怨は道路に満ち、これを駆り立てて戦わせ、その敵に勝たんと欲するは、難しいことである!」初め、貞祐のとき、軍徴発を下令し、ちょうど一時、任子で監当の者が春に吏部の選に赴く際、宰執が命じてこれを監官軍に取ろうとしたところ、皆憤り怨み哀号して台省に交々訴え、ついには宰相の鹵簿を突き破って告げるに至り、丞相僕散七斤は大いに怒り、左右に促して弓矢を取らせて射退けた。やがて、上はその用をなさぬことを知り、これを免ずるよう命じた。元光の末、潼関・黄河を守備するため、また軍を徴発し、諸使者は県邑を歴訪し、現任の官職以外は、文武の大小を問わず職事官は皆軍に充てた。許州に至っては、前侍御史劉元規、年齢六十に近く、また千戸に選ばれた。陳州に至っては、祁の父従益が以前監察御史であった者も千戸とされ、その他は全て記すことができない。既に部伍を立てれば、必ず軍律をもって臨むこととなり、世間の議論は紛然としたが、後にはこれも罷められた。
哀宗正大二年、諸路の精兵を選抜し、直ちに枢密院に隷属させることを議した。先に総領六員を設け、各路で選閲し、それによって合併させた。各総領司は数万人を率い、軍勢が既に張ると、総領の名を都尉と改め、随朝四品の列に班し、建威・虎威・破虜・振威・鷹揚・虎賁・振武・折沖・蕩寇・殄寇と称した。必ず先に帥権を執ったことのある者をこの職に就かせ、帥府・行院といえども貴重をもって臨むことは敢えてしなかった。天興初元、十五都尉があった。先に六人が昇任され、在京の建威は奧屯斡裏卜、許州の折沖は夾穀澤(本姓は樊)、陳州の振武は溫撒辛(本姓は李)、蔡州の蕩寇は蒲察打吉卜、申裕安平の完顏斜列、嵩汝の振武は唐括韓僧である。続いて封じられたのは、金昌府の虎威は紇石烈乞兒、宣権帰德の果毅は完顏豬兒、南京の殄寇は完顏阿拍である。宣権潼関都尉は三:虎賁完顏陳兒・鷹揚内族大婁室・全節である。また河朔諸路の帰正人を取り上げ、鞍馬の有無・訳語の能否を問わず、ことごとく枢密院に送り、月給を他の軍の三倍に増し、官馬を授け、千余人を得て、歳時に犒労・宴を設け、忠孝軍と名付けた。石抹燕山奴・蒲察定住にこれを統率させた。正大以後に諸路で捕虜にした者、戦陣で捕獲した者を加え、皆郷土に放ち帰らせ、忠孝軍と同じくその犒賞を与え、河朔の捕虜・連座の者にこれを知らしめた。故にこの軍は天興に至るまで七千に達し、千戸以上の将帥はまだこれに含まれない。また帰正人が過多となったため、忠孝の籍の中に係えて別に一軍とし、忠孝に給するものの半減とし、射ることができない者には一、二月閲習させ、その後試験して忠孝軍に補した、これがいわゆる合裏合軍である。また親衛馬軍は、旧時選んだものが精しくなかったため、必ず閲試を加え、忠孝軍のように武芸に優れた者を直ちに取り、五千人を得、残りは罷めて歩軍とした。凡そ進征するときは、忠孝軍が前陣に居り、馬軍がこれに次ぐ。正大以後に馬軍を改めて立てて以来、隊伍・鞍勒・兵甲一切が新しくなり、将相の旧人は国家全盛の際の馬数はあったが、軍士の精鋭・器仗の堅整については、今日と比べて及ばないものがあり、中興の期は望みがあると思われた。ある日、曹門内の教場に布列したところ、忠孝軍七千、馬軍五千、京師に駐屯する建威都尉軍一万、内族九住の統率する親衛軍三千、及び阿排の統率する四千、これらは皆哀宗が枢密院を統制した時に選んだもので、教場の地は約三十頃も尚容れることができず、他の都尉十三、四軍はなおこの数には含まれない。このほか、義軍を招集して忠義と名付けたが、要するに皆燕・趙の亡命者であり、近く用いられはしたが、終いに制御できず、後に北使唐慶を擅殺して金の滅亡を速めた者、即ちこの輩である。
禁軍の制度
合紮謀克に基づく。合紮とは親軍のことであり、近親が統領したため、この名で呼ばれた。貞元年間に都を遷した際、太祖・遼王宗幹・秦王宗翰の軍を合紮猛安と改め、これを侍衛親軍と称し、侍衛親軍司を立てて統轄させた。旧来は常に諸軍の武勇に優れた者を選んで護駕軍としていたが、海陵王はまた上京の龍翔軍を神勇軍と改称し、正隆二年に南征を企てた際にこれを廃止して帰還させ、僉調に就かせた。さらに侍衛親軍の四猛安(旧来は太祖・遼王・秦王の猛安、凡そ三つと言われていたが、今は四猛安と言う。詳細は不明である。太祖の猛安が二つあったのだろうか?)の中から、三十歳以下の者千六百人を選び、騎兵を龍翔、歩兵を虎歩と称し、宿衛に備えた。五年に親軍司を廃止し、その管掌事務を大興府に付し、左右驍騎を置いた。これがいわゆる従駕軍である。都指揮使・副指揮使を置いて点検司に隷属させ、歩軍都指揮使・副指揮使を置いて宣徽院に隷属させた。大定初年、親軍は四千人を置いた。二十二年に三千五百人に減員した。上京にも守衛軍を設置した。この年、尚書省が奏上して言うには、「上京には既に皇城提挙官を設置しておりますが、軍を置いて守衛すべきです。」上(世宗)は言った。「四百五十人、馬百二十頭を設置し、三番に分けて交替させよ。いずれ朕が上京に行った際には、二番として巡警させ、半年を限りに交替させる。兵士には一日あたり銭五十文・米一升半を支給し、馬には芻粟を与えよ。猛安・謀克の官は四十歳前後の者を差し、軍士はすべて三十歳以上の者を選んで充てよ。」章宗の承安四年に五千人に増員し、さらに六千人に増やした。また威捷軍があった。承安年間に弩手千人を増徴した。弩手を選ぶ制度は、まず営造尺で杖を造り、その長さ六尺のものを立てて等杖と称した。身長が杖と等しく、弩を三石まで踏み張ることができ、弦を掛け索を解き踏み張る動作に熟達し、六箭を射てすべて垛(的場)に上り、うち二箭が貼(中心)に中る者を選んだ。また親軍を選ぶには、身長五尺五寸で騎射に優れた者を選び、猛安・謀克がその名を兵部に上申し、点検司・宣徽院に移して試験し補任した。また護衛二百人を設けた。近侍で兵仗を執る者であり、五品から七品の官の子孫および宗室、ならびに親軍・諸局分の承応人の中から、身長五尺六寸の者を選び試験して補任した。また控鶴二百人を設けた。いずれも出入りの警備に充てる者である。
大将軍府を治める称号である。収国元年十二月、初めて咸州軍帥司を置き、遼地を経略し高永昌を討伐するためであり、南路都統司を置き、かつ張覚を討伐するためであった。天輔五年に遼主を襲撃した際、初めて内外諸軍都統の名があった。当時は奚が未平定であったため、また奚路都統司を置き、後に六部路都統司と改め、遙輦九営を九猛安としてこれに隷属させ、上京及び泰州と合わせて凡そ六箇所に設置し、各司は五六万人を統轄した。また渤海軍を八猛安とした。凡そ猛安の上に軍帥を置き、軍帥の上に万戸を置き、万戸の上に都統を置いた。しかし当時は軍帥を猛安とも称し、猛安を親管猛安と称することもあった。燕山を平定した後、遼の制度に倣い広寧府に枢密院を立て、漢軍を総轄した。太宗天会元年、遼主を襲撃するために立てた西南都統府を西南・西北両路都統府とした。三年、宋を伐つために元帥府と改め、元帥及び左・右副元帥、ならびに左・右監軍、左・右都監を置いた。金の制度では、都元帥は必ず諳版孛極烈がこれに任じ、常に守りにあって出陣しない。六年、二帥を還して方面を鎮守させる詔を下した。諸路にはそれぞれ兵馬都総管府を設け、州鎮には節度使を置き、辺境沿いの州には防禦使を置いた。凡そ州府が募った射糧軍・牢城軍は、五百人ごとに一指揮使司とし、指揮使を設け、四都に分け、各都には左右什将及び承局・押官を設けた。その軍数が余剰あるいは不足の場合は、近隣のものと合わせて設置し、合わせられない場合は三百人あるいは二百人でも指揮使を設け、百人の場合は軍使のみを設け、百人以上は都を立て、百人に満たない場合は什将及び承局管押官各一名のみを設けた。十年、南京路都統司を東南路都統司と改め、東京に治所を置いて高麗を鎮めた。後にまた大名府に統軍司を置いた。海陵王の天徳二年八月、諸京の兵馬都部署司を本路都総管府と改めた。九月、大名統軍司を廃止し、山西・河南・陝西の三路に統軍司を置いた。元帥府の都監・監軍を以て使とし、天下の兵を分統させた。また烏古迪烈路統軍司を招討司と改め、婆速路統軍司を総管府と改めた。三年、元帥府を枢密院と改め、万戸の官を廃止し、詔して言うには、「太祖が創業し、時宜に応じて制度を定め、衆を統べるに堪える材幹ある者に万戸を授け、次いで千戸及び謀克を授けた。当時は官賞も定まらず、城郭も未だ下らず、この職を設けて世襲を許したのは、権宜の制であって、経久の利ではなかった。今や子孫が相継いで威権を専攬し、その戸は数万に下らず、留守・総管と異ならず、しかも世襲の権はこれを過ぎている。この官を廃止せよ。もし旧来に千戸の職がなかった者があれば、引き続き考えて増置する。国初の時に国姓を賜った者で、子孫たる者は皆、旧姓に復させる。」正隆末年、また陝西統軍司を都統府に昇格させた。大定五年、また府を廃止し、統軍司に降格させた。まもなくまた両招討司を設け、前のものと合わせて凡そ三つとし、辺境を鎮守させた。東北路のものは、初め烏古迪烈部に置き、後に泰州に置いた。泰和年間、辺境からなお三百里離れているため、宗浩は命じて金山に分司を置かせた。西北路のものは応州に置き、西南路のものは桓州に置き、兵事に通じた重臣を以て使とし、城堡・濠牆を列ね、戍守を永制とした。枢密院は出兵のたびに元帥府と改め、罷めればまた院に復した。宣宗貞祐三年、代州の戍兵五千を徴発しようとしたが、胥鼎の建言に従い、平陽を屏藩するために代州に留めた。興定二年、河南・陝西の弩手軍二千人を選募して一軍とし、威勇の号を賜った。南遷に及んで、河北に九公を封じ、その兵に因り便宜従事の権を与え、沿河の諸城に行枢密院元帥府を置き、大なるものには「便宜」の号を、小なるものには「従宜」の名を付けた。元光年間、時に義軍を招集して三十人をもって一謀克とし、
五謀克をもって一千戸とし、四千戸をもって一万戸とし、四万戸をもって一副統とし、両副統をもって一都統とした。これは国初の名を復したものである。しかしまた外に一総領提控を設けたため、当時は皆、元帥を総領と称したのである。
金朝の初期は遼の諸抹に因って群牧を設置し、抹とは蚊蚋がおらず、水草の美しい地を言う。天徳年間に、迪河斡朵、斡裏保保(亦た本と作す)、蒲速裏、燕恩、兀者の五群牧所を置き、皆遼の旧名をそのまま用い、各々官を設けてこれを治めた。また諸色の人の中から、家が富み丁が多い者、及び品官の家の子、猛安謀克蒲輦軍と司吏の家の余丁及び奴を選び、これに牧畜を司らせ、「群子」と称し、馬・駱駝・牛・羊を分けて牧養させ、その繁殖と損耗について刑賞を定めた。後に漸次その数を増やして九とした。契丹の乱により遂に五つを失い、四所に残存するものは馬千余頭、牛二百八十余頭、羊八百六十頭、駱駝九十頭のみであった。世宗は七所を設置した:特満、忒満(撫州に在り)、斡睹只、蒲速碗(蒲速碗は本来斡睹只の地であり、大定七年にその地を分けてこれを置く。承安三年に板底因烏魯古と改む)、甌裏本(承安三年に烏鮮烏魯古と改む。烏魯古とは滋息を言う)、合魯碗、耶盧碗(武平県、臨潢、泰州の境に在り)。大定二十年三月、群牧官、詳穏脱朵、知把、群牧人の繁殖損耗に関する賞罰の格式を更に定めた。二十一年、諸所に勅して、三歳の馬は女直人に付けてこれを牧養させ、牛は或いは民に貸して耕させ、或いはまた民に羊を飼養させ、或いは貧戸を賑済するのに用いた。時に使者を遣わしてその数を検閲し実数とし、欠ければその官を杖ち、牧人に償わせ、実数を隠す者は監察が挙発してこれを覚知させた。二十八年、繁殖が久しく続き、馬は四十七万頭に至り、牛は十三万頭、羊は八十七万頭、駱駝は四千頭となった。明昌五年、騸馬を分散させ、中都、西京、河北東路・西路に命じて民の物力を検分して分けて飼養させた。また他の路の民で馬を飼養する者には、死んだ場合は前記の四路で飼養するものの中から給付して換えさせ、若し用いようとする時は悉く官に送らせた。これが金朝の馬政である。然しながら毎回大きな役事があると必ず民から徴発し、及び群官の余剰の騎馬を取って、戦士に供給した。宣宗興定元年、民間が潰走した軍の亡失馬を収容する法、及び馬を官に送って価を酬うる格式を定めた:「上等馬一匹に銀五十両、中下は十両ずつ逓減する。価を酬うることを願わない者は、上等二匹で一官を補し、雑班に任使し、中等は三匹、下等は四匹でこれに同じ。令下後十日間に陳首し、期限外に隠匿及び殺害した者は、並びに絞刑に処す。」また官を遣わして市民の馬を徴発し、賞格を立てて勧奨を示し、五百匹以上で鈔千貫、千匹以上で一官、二千匹以上で両官を与えた。
養兵の法
熙宗天眷三年正月、遼東の戍卒に歳毎に綢絹を差等を付けて給することを詔した。正隆四年、河南・陝西統軍司及び虞候司順徳軍に命じ、官兵の廩給を並びに増加させた。六年、南征に将するに当たり、絹一万匹を以て京城で衣襖穿膝一万を交易し、以て軍に給した。世宗大定三年、南征し、軍士が毎歳支給すべきは一千万貫、官府には二百万貫しかなく、外に官民戸から取ることができる、これが軍須銭の起こる所以である。時に言事者が、山東・河南・陝西等路が宋・斉の旧例に循い、州県の司吏・弓手が民間で物力を検分して均等に顧銭を敷き、「免役」と名付けていることを以て、この銭を以て軍を贍うことを請うた。ここに至り、省が数を具えて奏聞し、詔して弓手銭を罷め、その司吏銭は仍って旧の如くとした。四年六月、奏上し、元帥府が軍須銭の降給を乞うた。上曰く「帥府の支費は度を失い、例として皆民から科取するは、甚だ朕の意に非ず。軍須の支用し尽くさざる数を会計し、及び諸路転運司の現存するものに仰ぎ、若し実に欠用するならば、則ち別に具して以て聞かせよ。」十年四月、徳順州に命じて営屋を建て、屯軍を処置させた。十七年七月、歳毎に羊皮三万を以て西北路の戍兵に賜うた。承安三年、軍須の費する所が甚だ大なるを以て、天下の物力を検分して均等に徴収することを乞うた。黄河夫銭の例に依って軍須銭を徴収することを擬し、諸路の新たに籍した物力を検分し、毎貫ごとに銭四貫を徴収し、西京・北京・遼東路は毎貫ごとに銭二貫を徴収し、臨潢・全州は則ち徴収を免じ、周年三限で送納させる。期が遠いことを恐れ、遂に制度を作って半年三限で輸納させることと定めた。
凡そ河南・陝西・山東において老齢により放免する千戸・謀克・蒲輦・正軍・阿裏喜等の給賞の例は、旧軍の千戸は十年以上で銀五十両・絹三十匹を賞し、十年に及ばざる者は、十年以上の謀克に比附して支給する。謀克は十年以上で銀四十両・絹二十五匹、十年に及ばざる者は銀三十両・絹二十匹。蒲輦は十年以上で銀三十両・絹二十匹、十年に及ばざる者は銀二十両・絹一十五匹。馬歩正軍・阿裏喜等の勾当は年分に拘わらず、放免老齢の正軍は銀一十五両・絹一十匹、阿裏喜・旗鼓・吹笛・本司の火頭人等は同じく銀八両・絹五匹。三虞候の千戸は、十年以上で銀四十両・絹二十五匹。十年に及ばざる者は銀三十両・絹二十匹。謀克は二十年以上で銀五十両・絹三十匹、十年以上で銀三十両・絹二十匹、十年に及ばざる者は銀一十両・絹一十五匹。蒲輦は十年以上で銀二十両・絹一十五匹、十年に及ばざる者は銀一十五両・絹一十匹。正軍・阿裏喜・勾当は年分に拘わらず、放免老齢の正軍は銀一十両・絹七匹、阿裏喜・旗鼓・吹笛・本司の火頭人等は同じく銀五両・絹四匹。北辺の万戸・千戸・謀克等で、軍功を歴任し及び年老して放免罷免する者の給賞の例は、官を遷すことは吏部の格式に同じく従い、正千戸が万戸を管押し、勾当すること一十五年を過ぎれば、両官を遷して従五品に与える。一十五年に及ばず年老して放免罷免すれば、一官を遷して正六品に与える。若し十年以下ならば、一官を遷し銀絹六十両匹を賞する。正謀克が万戸を管押し、勾当すること一十五年ならば両官を遷して正六品に与え、一十五年に及ばず年老して放免罷免すれば、一官を遷して正七品に与え、若し十年以下ならば一官を遷し銀絹五十両匹を賞する。正千戸が千戸を官押し、勾当すること二十年を過ぎれば、一官を遷して正六品に与え、二十年に及ばず年老して放免罷免すれば、一官を遷して正七品に与え、若し十年以下ならば一官を遷し銀絹四十両匹を賞する。正謀克が千戸以下を管押する者は、河南・陝西の体例に依る。凡そ鎮防軍は、毎年試射を行い、射技が衆に抜きん出る者、上等は銀四両を賞し、特に衆に異なる者は銀十両の馬盂を賞する。武衛軍に簽充され、家を携えて京に赴く者は、人一日に六口の糧を給し、馬四匹に芻槁を給する。
諸々の招軍に対する月給の例物。辺鋪軍は銭五十貫、絹十匹。軍匠の上中等は銭五十貫、絹五匹、下等は銭四十貫、絹四匹。黄河の埽兵は銭三十貫、絹五匹、射糧軍及び溝渠等の処の埽兵水手は、銭二十貫、絹二匹、士兵は銭十貫、絹一匹。凡そ射糧軍指揮使及び黄・沁の埽兵指揮使は、銭粟七貫石、絹六匹、軍使は銭粟六貫石、絹は同上、什将は銭二貫、粟三石、春衣銭五貫、秋衣銭十貫。承局押官は銭一貫五百文、粟二石、春衣銭五貫、秋衣銭七貫。牢城並びに士兵は銭八百文、粟二石、春衣銭四貫、秋衣銭六貫。辺鋪軍の請給は射糧軍と同じ。河南・陝西・山東路統軍司の鎮防甲軍・馬軍は、猛安は銭八貫、米五石二斗、絹八匹、六馬の芻粟、謀克は銭六貫、米二石八斗、絹六匹、五馬の芻粟、蒲輦は銭四貫、米一石七斗、絹五匹、四馬の芻粟、正軍は銭二貫、米一石五斗、絹四匹、綿十五両、両馬の芻粟、阿裏喜は銭一貫五百文、米七斗、絹三匹、綿十両。歩軍は、猛安は馬二匹、謀克は馬一匹の芻粟。毎馬に芻一束、粟五升を給す、歳仲に青野に青草有りて馬を収養すべきときは則ち止む、惟だ毎猛安当差の馬七十二匹は、四時皆給す。又た定制す、河南・山東・河東は歳に五月を給し、陝西は六月。鎮防軍の補買馬銭は、河南路の正軍は五百文、阿裏喜随色人は三百文、陝西・山東路の正軍は三百文、阿裏喜随色人は二百文。諸々の屯田被差及び縁辺駐紮捉殺軍は、猛安は月に銭六貫、米一石八斗、五馬の芻粟を給し、謀克は銭四貫、米一石二斗、三馬の芻粟、蒲輦は銭二貫、米六斗、二馬の芻粟、正軍は銭一貫五百文、米四斗、一馬の芻粟、阿裏喜随色人は銭一貫、米四斗、一馬の芻粟。徳順軍指揮使は銭六貫、米二石八斗、絹六匹、三馬の芻粟、軍使什将は銭四貫、米一石七斗、絹五匹、両馬の料を給し、長行は銭二貫、米一石五斗、絹四匹、綿十五両、一馬の料を給し、奚軍謀克は銭一貫五百文、米一石五斗、綢絹春秋各一匹、三馬の料を給し、蒲輦は銭一貫、米二石七斗、綢絹は同上、二馬の料を給し、長行は銭一貫、米一石八斗、綢絹は同上、一馬を飼う。北辺臨潢等の処の永屯駐軍は、千戸は銭八貫、米五石二斗、絹八匹、馬六匹を飼い、歩軍は両馬を飼い、地五頃、謀克は銭六貫、米二石八斗、絹六匹、五馬を飼い、地四頃、蒲輦は銭四貫、米一石七斗、絹五匹、四馬を飼い、地三頃、正軍は銭二貫、米一石四斗五升、絹四匹、綿十五両、両馬を飼い、地二頃、阿裏喜は銭一貫五百文、米七斗、絹三匹、綿十両、地一頃、旗鼓司人は阿裏喜と同じ、交替軍は銭二貫、米四斗、阿裏喜は銭一貫五百文、米四斗。上番漢軍は、千戸は月に銭三貫、糧四石、絹八匹、四馬を飼い、謀克は銭二貫五百文、糧一石、絹六匹、二馬を飼い、正軍は銭二貫、米九斗五升、絹四匹。上京路永屯駐軍所の除授は、千戸は月に銭粟十五貫石、絹十匹、綿二十両、三馬を飼い、
謀克は銭六貫、米二石八斗、絹六匹、二馬を飼い、正軍は月に銭二貫五百文、米一石二斗、絹四匹、綿十五両、一馬を飼い、阿裏喜随色人は銭二貫、米一石二斗、絹四匹、綿十五両。諸々の北辺永駐軍は、月に補買馬銭四百文を給し、随色人は三百文。貞祐三年、軍前委差及び掌軍官は、糧料を規図し、職役を冒占し、皆実員無く、又た見職及び遙授の者は、既に俸給有り、又た職事無き者と同じく券糧を支ふ、故に時に議有りて員を省き給する所の数を減じ、征行を俟てば則ち全く之を給せんとす。及び興定二年、彰化軍節度使張行信言ふ、「一軍役に充つれば、挙家廩給す、蓋し士心を感悦せしめ、国に為りて尽力せしめんと欲するのみ。至るに軍無きの家、復た丁男無く、而るに其の妻女猶給を受くとは何の謂ぞや」と。五年、京南行三司官石抹斡魯言ふ、「京南・東・西の三路に見屯する軍戸、老幼四十万口、歳に糧百四十余万石を費し、皆民租を坐食す、甚だ善計に非ず」と。語は《田制》に在り。諸々の屯田軍人は、もし防送に差されば、日に銭一百五十文を給す。孝寧宮人を見管する者は、月に各々米五斗、柴一車、春秋衣粗布一段、秋絹二匹、綿一十五両を給す。諸々の黄院子年満の者は、元請の銭糧三分の内に、一貫石を給して老を養ふ。