金史

志第十三: 礼五 上尊諡

上尊諡

天会三年六月、諳班勃極烈杲等が表を奉りて先の大聖皇帝を追冊することを請う。十二月二十五日、玉冊・玉宝を奉り、恭しく尊諡を上めて大聖武元皇帝と曰い、廟号を太祖とす。天会十三年三月七日、摂太尉皇叔祖大司空しくう昱を遣わし、玉冊・玉宝を奉り、尊諡を上めて文烈皇帝と曰い、廟号を太宗とす。九月、皇考を追諡して景宣皇帝と曰い、廟号を徽宗とす。

十四年八月庚戌、文武百僚・太師宗磐等が議を上りて曰く、「国家は区夏を肇造し、四征して弗庭なりき。太祖武元皇帝は命を受け乱を撥ち、大業を光啓す。太宗文烈皇帝は志を継ぎ伐を卒え、皇威を奮張す。その積徳累功を原れば、由来する所遠し。且つ礼は多きを貴ぶは、固より前籍の美談。徳厚くして光を流すは、実に本朝の先務なり。伏して惟うに皇九代祖は、君人の量を廓め、御世の姿を挺つ。虞舜は馮に生まれ、負夏に遷り、太王は狄を避け、此の岐山に邑す。聖姥来帰し、天原肇発す。皇八代祖・皇七代祖は、家を承ぎ慶を襲い、後を裕くし芳を垂る。赫赫の名を求めず、終に振振の族を大にす。皇六代祖は、居を徒して得吉に至り、播種を是れ勤む。暴露を去りて棟宇の安を得、負載を釈して車輿の利を興す。皇五代祖孛堇は、雄姿世に邁り、美略時に斉し。百里日辟の功を成し、戎車既に飾り、五教在寛の訓を著し、人紀肇めて修まる。皇高祖こうそ太師は、質自ら天成り、徳民の望たり。騎射を兼ねて精しく、往いて摧かざる無し。始めて官師を置き、帰する者益々衆し。皇曾祖太師は、威霊遠く震い、機警人に絶る。雅く運籌を善くし、未だ甲を衿せず。敵に臨みて愈奮い、応変神の若し。皇曾叔祖太師は、機独り心を運び、公にして私物無し。四方聳動し、諸部帰懐す。徳威両く隆く、風俗大いに定まる。皇伯祖太師は、友于に愛を尽くし、国爾に惟忠なり。謀は必ず愆る無く、挙げて済わざる無し。累代の祖妣は、婦道警戒し、王業艱難に、俱に内助の労を殫くし、実に始基の漸を著す。是れ宜しく群臣の僉議を采り、故事を酌んで以て遵行し、帝を郊に款き、天を以て誄すべし。謹んで諡法を按ずるに、義を行い剛を布くを'景'と曰い、義を主とし徳を行うを'元'と曰い、民を保ち耆艾を'明'と曰い、温柔聖善を'懿'と曰う。請うらくは皇九代祖の尊諡を上めて景元皇帝と曰い、廟号を始祖とし、妣を明懿皇后と曰わん。中和純備を'徳'と曰い、道徳純一を'思'と曰う。請うらくは皇八代祖の尊諡を上めて徳皇帝と曰い、妣を思皇后と曰わん。好んで和し争わざるを'安'と曰い、廉を好み自ら克つを'節'と曰う。請うらくは皇七代祖の尊諡を上めて安皇帝と曰い、妣を節皇后と曰わん。民を安んじ古を治むるを'定'と曰い、明徳有りて労するを'昭'と曰い、賢を尊び善を譲るを'恭'と曰い、柔徳衆を好むを'靖'と曰う。請うらくは皇六代祖の尊諡を上めて定昭皇帝と曰い、廟号を献祖とし、妣を恭靖皇后と曰わん。民を愛し政を立つるを'成'と曰い、土を辟き徳有るを'襄'と曰い、強毅執正を'威'と曰い、慈仁民を和するを'順'と曰う。請うらくは皇五代祖孛堇の尊諡を上めて成襄皇帝と曰い、廟号を昭祖とし、妣を威順皇后と曰わん。民を愛し好んで与うるを'恵'と曰い、土を辟き国を兼ぬるを'桓'と曰い、明徳有りて労するを'昭'と曰い、心を執り決断するを'粛'と曰う。請うらくは皇高祖太師の尊諡を上めて恵桓皇帝と曰い、廟号を景祖とし、妣を昭粛皇后と曰わん。大にして之を化するを'聖'と曰い、剛徳克就を'粛'と曰い、思慮深遠を'翼'と曰い、一徳懈かざるを'簡'と曰う。請うらくは皇曾祖太師の尊諡を上めて聖粛皇帝と曰い、廟号を世祖とし、妣を翼簡皇后と曰わん。情を申べて貌を見るを'穆'と曰い、博聞多能を'憲'と曰い、柔徳衆を好むを'静'と曰い、聖善周聞を'宣'と曰う。請うらくは皇曾叔祖太師の尊諡を上めて穆憲皇帝と曰い、廟号を粛宗とし、妣を静宣皇后と曰わん。慈愛労を忘るるを'孝'と曰い、事を執り制有るを'平'と曰い、清白節を守るを'貞'と曰い、民を愛し好んで与うるを'恵'と曰う。請うらくは皇曾叔祖太師の尊諡を上めて孝平皇帝と曰い、廟号を穆宗とし、妣を貞恵皇后と曰わん。民を愛し長悌を'恭'と曰い、一徳懈かざるを'簡'と曰い、夙夜事を共にするを'敬'と曰い、小心畏忌を'僖'と曰う。請うらくは皇伯祖太師の尊諡を上めて恭簡皇帝と曰い、廟号を康宗とし、妣を敬僖皇后と曰わん。仍お請うらくは始祖景元皇帝・景祖恵桓皇帝・世祖聖粛皇帝・太祖武元皇帝・太宗文烈皇帝を以て、永永不祧の廟と為さんことを。廟室の告成を須ち、日を涓ぎて物を備え、宝冊を奉上し、天府に蔵し、施すこと罔極ならんことを。」丙辰、九代祖妣の尊諡廟号を奉上す。是の日、百僚表を上りて賀す。

皇統五年、太祖の尊諡を増上す。礼官議して曰く、「古より祀を弁ずるに、南北郊・太社・太稷・太廟を以て序と為す。若し太廟の神主造畢すれば、即ち尊諡を題し、日を択び奉安すべし。恐らくは郊社の前に在りては礼未だ倫ならん。郊兆の築畢を候ち、日を択び昊天上帝・皇地祇に奏告し、次ぎに社稷の神主を奉安し及び奏告し、其の次に恭しく太廟の神主を造り、号を題し奉安して室に入る。此を以て序と為す。元奉る勅旨に、上京に到りて礼を行うを候つと。元の奏目内に見えず、指定有りや無しや、太廟を修建し神主を奉安したる後礼を行うを候つか、或いは只だ慶元宮に於いて諡号を奉上するのみか。若し太廟神主奉安の礼畢を候ちて、方に諡号冊宝を奉上せば、即ち百官並びに法服を着すべく、兼ねて皇帝の御する殿には黄麾仗及び殿中省細仗を立つるに合い、太廟殿前も亦た黄麾仗を立つるに合い、其の冊宝路に在りても亦た量りに儀仗を設くべし。若し太廟未だ奉安せず、只だ慶元宮に冊宝を上ぐれば、即ち行事及び立班の官並びに常服を用い、及び例に依り量りに大小旗・甲騎・門仗官を用い、供奉官は冊宝を引従するに彩服す。若し奉安後に冊を発すれば、即ち御服は通天冠・絳紗袍なり。若し只だ慶元宮に就かば、即ち襆頭紅袍なり。並びに慶元宮に冊宝を上ぐれば、将に来たりて太廟本室の神主を題するに、便ち新諡を用う可し。若し太廟に於いて先に神主を奉安すれば、即ち先ず旧諡を題す。及び本室に冊宝を上ぐるに至りて、又た須らく新諡を改題すべし。両節相同じからず。五月九日に擬て太廟に奏告し、冊宝を上ぐ。窃かに慮うに法物楽舞弁じ難く、只だ慶元宮に冊宝を上ぐ。」之に従う。

十月三日、尊諡冊宝を奉上する儀式が行われた。前日、有司が辰居殿の神御床案を供え設けた。少府監・鉤盾署は殿庭の西南に燎薪を設け、その側に坎を掘った。儀鸞司は辰居殿下の東廂に小次を設け、また景輝門外の東仗舎に冊宝幄殿を設けた。殿前司・宣徽院は甲騎・大小旗鼓・門仗官・香輿を量り差し、冊宝を製造した所から冊宝を迎え奉り、幄殿に奉安した。行事官・製造官は皆騎馬で引従し、門下中書侍郎が前、侍中中書令が後、大礼使がさらにその後、冊宝を挙げ舁ぐ官・製造官は左右に分かれて夾侍し、北を上とし、皆人従に錦帽衫帯を与えた。この日未明、翰林使・大官令丞が神御前に香案酒果・供具牲体膳羞を鋪設し、儀鸞司が皇帝の拜褥四つを設けた。一つは阼階上、西面。一つは香案の南、北面。一つは殿上の東欄子内、西面。一つは燎薪の東、西面。黄道を設け、小次から阼階の褥位に至る。質明、有司が常行儀仗・駕頭扇筤を備え、常朝官は常服で騎馬し鞭を執り前導し、北を上とした。冊宝を造った官・排辦管勾官は常服で、慶元宮門外に立班し、駕を迎えて再拝した。皇帝は宮中より靴袍を服し御馬にて景暉門外に至り下馬、歩いて小次に入った。少頃、御史台が班を催し、大礼使・行事官が幄殿より冊宝を奉じて正門に入り、辰居殿西階下に置いた。大礼使は押班位に帰り、閤門使が奏した。「班斉なり。」太常卿が奏した。「皇帝に冊宝を奉上する礼を行わしめんことを請う。」宣徽使・太常卿が分かれて前導し、皇帝は黄道より阼階上に昇り西面の褥位に立った。贊が「再拝を請う」とし、閤門使が臚伝し、在位官は皆再拝した。乃ち皇帝を導き殿上の正門より殿に入り、香案前の褥位で再拝し、香を上け、また再拝し、退いて稍東の欄子内の西面褥位に立った。儀鸞司が香案前の拜褥を徹し、冊宝褥位を香案の南に設けた。冊を挙げる官・冊を舁ぐ官が冊匣を床より取り、対捧して西階より昇り、中書侍郎が左右に分かれて前導した。冊を奉ずる中書令・冊を読む中書令は共に後から従い、褥位にて待った。置き定めると、冊を奉ずる中書令は褥位の南で再拝し、退いて殿階上西南柱の外に立ち、東面した。冊を読む官・中書令は稍前進し、再拝した。冊を舁ぐ官が匣蓋を取り下ろし、西階下の冊床に置いた。冊を挙げる官が対して冊を挙げ、冊を読む官中書令が一拝して起ち、跪き、笏を搢ぎ、冊文を読んだ。「孝孫嗣皇帝臣某、謹んで拜手稽首して玉冊玉宝を奉り、恭しく尊諡を上りて曰く、応乾興運昭徳定功睿神荘孝仁明大聖武元皇帝。」冊を読み終え、拝し、興り、また再拝し、退いて冊を奉ずる中書令の次に立った。冊を奉ずる官が進み、中書侍郎と共に冊を挙げる官・冊を舁ぐ官を率い冊匣を奉じて西階より下り、引従は上の儀の如くし、再び冊床に置いた。置き定めると、宝を挙げる官が宝盝を進め、侍中が読み終わるに至り、西階より下り、再び床に置き、皆冊匣の儀の如くであった。有司が冊宝褥位を徹し、再び香案南に拜褥を設けた。宣徽使・太常卿が皇帝を導き進めて褥位に就かせ、再拝し、香・茶・酒を上け、楽作し、三たび酒を酹し、楽止んだ。太祝が祝文を読み、終わると、皇帝は再拝し、再び阼階の褥位に帰り、立った。大礼使が殿に昇り、香案南の宣徽使の処で福酒台盞を受け取り、皇帝の阼階褥位前に行き至り、宣徽使が贊した。「皇帝再拝して福を飲む。」閤門が臚伝した。「胙を賜い、再拝す。」応じて在位官は皆再拝した。大礼使が跪き、酒盞を進めて皇帝に授け、楽作し、飲み終わり、また再拝した。大礼使が酒盞を受け、再び宣徽使に授け終わり、西階より下り、押班位に帰った。太祝が祝版を奉じ、翰林使が酒を酌み、大官令丞が牲羞を量り取り、西階より下り、燎薪の上に置いた。文武班は皆班を回して燎所に向かい立ち、礼官が贊した。「皇帝に望燎位に就かしめんことを請う。」宣徽使が酒盞台を翰林使より取り、進めて皇帝に授けた。皇帝が燎薪の上に酒を酹し、執事者が燎を挙げ、半ば燎き、坎に瘞した。宣徽使が贊した。「皇帝再拝。」閤門が喝した。「百官皆再拝す。」太常卿・宣徽使が前導し、皇帝は小次に帰り、即ち御座に就き、簾を降ろした。太常卿が俯伏し、興り、跪いて奏した。「太常卿臣某言う、礼畢なり。」百官は皆班を巻いて西に出た。大礼使以下が冊宝床を奉じ、慶元宮の収掌去処に納めた。皇帝は別殿にて膳を進め、侍食官は旨を取り、有司は仗を転じて来路より、皇帝は便服で内に還り、教坊が楽を作して前導した。次日、大礼使が百官を率いて賀を称した。

この年閏十一月、祖宗の尊諡を増上し、始祖景元皇帝を懿憲景元皇帝と曰い、徳皇帝を淵穆玄徳皇帝と曰い、安皇帝を和靖慶安皇帝と曰い、献祖定昭皇帝を純烈定昭皇帝と曰い、昭祖成襄皇帝を武恵成襄皇帝と曰い、景祖恵桓皇帝を英烈恵桓皇帝と曰い、世祖聖粛皇帝を神武聖粛皇帝と曰い、粛宗穆憲皇帝を明睿穆憲皇帝と曰い、穆宗孝平皇帝を章順孝平皇帝と曰い、康宗恭簡皇帝を献敏恭簡皇帝と曰い、太宗文烈皇帝を体元応運世徳昭功哲恵仁聖文烈皇帝と曰い、徽宗景宣皇帝を允恭克譲孝徳玄功佑聖景宣皇帝と曰い、已上廟号は故の如し。十二月一日、儀の如く奏告した。

大定三年、睿宗の尊諡を増上した。先に、元年十一月十六日、皇考を追冊して簡粛皇帝と曰い、廟号を睿宗とし、皇妣蒲察氏を欽慈皇后、皇妣李氏を貞懿皇后とした。二年八月一日、有司が奏した。「祖宗の諡号は或いは十六字、或いは十四字、或いは十二字なり。即今睿宗皇帝は更に尊諡を増上すべく、升祔の前に冊宝を奉るに合う。」制可した。十七日、左平章元宜等が尊諡を増上することを奏請し、睿宗立德顕仁啓聖広運文武簡粛皇帝と曰う。有司が奏した。「睿宗皇帝は未だ升祔を経ず、衍慶宮聖武殿に神御床案を設くること無きに合うか。」旨を奉じて崇聖閣に正位を借り設けた。また奏した。「皇帝親しく冊宝を授け、太尉行事す。」制可した。

九月二十二日、太廟に奏告した。二十八日、大安殿に大楽を置き、閲習した。前一日、衍慶宮より冊宝を奉迎し、大安殿に安置した。

冊授の日、未明の三刻、有司は各々その所部を整え、儀衛を整肅し、群臣は殿門に集まり、行事官は各々法服を着し、陪位官は公服を着す。皇帝は宮中より常服にて輿に乗り、侍衛は儀式の如く、大安殿の後の更衣幄次に赴く。御史台は班を催し、通事舍人は太尉及び群臣を引いて位に就かせる。侍中は跪いて奏す、「中厳。」少頃、また跪いて奏す、「外辦。」皇帝は通天冠・絳紗袍を着して出づ。太常卿は跪いて奏し称す、「太常卿臣某言す、請う皇帝に冊宝を奉上するの礼を行わしめん。」奏し訖り、俯伏し、興る。宣徽使は左右に分かれて前導し、皇帝は歩みて冊宝幄次に詣づ。将に幄次に至らんとするに、登歌の楽作し、幄次の前に至りて北向し、宣徽使は贊す、「請う皇帝再拝。」典儀は贊す、「在位官再拝。」拝し訖り、奏す、「請う皇帝圭を搢げん。」三たび香を上げ、訖り、圭を執る。奏す、「請う皇帝再拝。」典儀は贊す、「在位官再拝。」訖り、各々班を分かち東西に序立す。奏す、「請う皇帝稍東の褥位に詣でん。」楽止む。中書令・中書侍郎は冊を奉引し、侍中・門下侍郎は宝を奉引し、行き、登歌の楽作す。宣徽使は贊導して皇帝に冊宝に随い西階より降らしめ、登歌の楽止み、宮県の楽作し、大安殿下の中の褥位に至る。中書令・侍中は冊宝を皇帝の褥位の西に奉じ、楽止む。宣徽使は奏す、「請う皇帝再拝。」典儀は贊す、「在位官皆再拝。」拝し訖り、中書令は笏を搢げ、冊匣を奉じ、宮県の楽作し、皇帝の褥位の前に至り、俯伏し、跪き、奉置し訖り、笏を執り、俯伏し、興り、退きて稍西に立ち、東向す。太常博士は太尉を引いて褥位に至らしめ、北向して立つ。宣徽使は奏す、「請う皇帝圭を搢げん。」跪きて冊匣を捧げて太尉に授く、太尉は笏を搢げ、跪きて受け訖り、笏を執り、稍東に立ち、宣徽使は奏す、「請う圭を執らん。」俯伏し、興る。冊を舁ぐ官は冊匣を捧げ、中書侍郎は冊匣を冊床に奉置し、楽止む。侍中は笏を搢げ、宝盝を奉じ、宮県の楽作し、皇帝の褥位の前に至り、俯伏し、跪き、奉置し訖り、笏を執り、俯伏し、興り、退きて稍西に立ち、東向す。太常博士は太尉を引いて褥位に至らしめ、北向して立つ。宣徽使は奏す、「皇帝圭を搢げん。」跪きて宝盝を捧げて太尉に授く、太尉は笏を搢げ、跪き、受け訖り、笏を執り、稍東に立つ。宣徽使は奏す、「請う圭を執らん。」俯伏し、興る。宝を舁ぐ官は宝盝を捧げ、門下侍郎は宝床に奉置し、楽止む。宣徽使は奏す、「皇帝再拝。」典儀は贊す、「在位官再拝。」皇帝は南向して立ち、宮県の楽作す。太常博士は太尉を引いて冊宝を奉じて出づ、主節者は節を持ち前導し、冊床は前に在り、宝床はこれに次ぎ、楽止む。中書門下侍郎は各々冊宝の前に導き、太尉はその後に居り、大安門外に至り、太尉は次第に跪きて冊宝を玉輅の中に奉じ、中書侍郎は輅の旁に夾侍し、所司は迎衛すること式の如し。太尉は冊宝を奉じ訖り、歩みて通天門外に出づ、革車は本品の鹵簿を用い、導従すること儀の如く、鼓吹は振作せず。冊宝の大安門を出づるを俟ち、太常卿は跪いて奏し称す、「太常卿臣某言す、礼畢。」奏し訖り、俯伏し、興り、前導して皇帝を東階より升らしめ、登歌の楽作し、大安殿後の幄次に還り、楽止む。侍中は跪いて奏す、「解厳。」乗輿は内に還り、侍衛は来たる儀の如し。

十月一日、摂太尉特進平章政事兼太子太師定国公臣完顔宗憲は百官を率いて衍慶宮に赴き礼を行ふ。前一日、冊宝幄次を聖武殿門外に設け、西向す。その日質明、太常寺官は所属を率い、聖武殿に神禦の床案を設け、宣徽院は茶酒果・時饌・茶食・香花等を排備し、並びに太祖皇帝忌辰の供備の数に如し。大楽署は登歌の楽を殿上の前楹間稍南に設け、北向す。冊宝を迎衛して衍慶宮門外に至り、中書門下侍郎は各々冊宝を降し幣し、各々床に置く。太尉は門外に至り車を降り、中書令以下を率いて導従し、聖武殿門外の幄次に赴き、奉安すること式の如し。その儀仗兵士は並びに退く。次に文武の百官を引き各々その服を着し、次第に位に就かしむ。大楽令は工人を率いて位に就き、礼直官も亦先づ位に就く。執事に応ずる者は並びに先に入り殿庭に北向して立ち、礼直官は贊す、「再拝。」訖り、殿に升る。次に太尉を引いて東階下の褥位に就かしめ西向して立ち、礼直官は贊す、「拝。」在位官俱に再拝す。礼直官曰く、「有司謹みに具す、請う行事せん。」礼直官は贊す、「拝。」在位官俱に再拝し、訖り、太尉を引いて罍洗に詣でて手を盥ぎ、殿に升り、神座前に詣で、笏を搢げ、跪き、三たび香を上げ、楽作し、茶を奠め、酒を奠め、訖り、笏を執り、俯伏し、興り、楽止む。太尉は再拝し、訖り、位に還り少しく立つ。次に太尉を引出し、中書門下侍郎等を率い、冊宝床を奉じて殿門より入り、中書令侍中等は並びに導従し、登歌の楽作し、冊宝床は殿庭に至り、西階の下に列し、席褥を以て承け、楽止む。太尉以下は各々面北の褥位に立ち定まり、礼直官は贊す、「拝。」在位官俱に再拝し、訖り、太尉は中書令侍郎を率いて冊匣を奉じ殿に升り、登歌の楽作し、殿上に至り、冊匣を食案の前に置き、仍って褥位を設け、楽止む。次に太尉を引いて神位前に詣でしめ、俯伏し、跪き、称す、「摂太尉臣某言す、謹み上に尊諡冊・宝を加ふ。」奏し訖り、俯伏し、興り、稍西に立つ。次に中書令を引いて冊匣の南に立ちしめ、挙冊官は冊を挙げ、中書令は俯伏し、跪きて冊を読み、訖り、俯伏し、興る。中書令は冊匣を奉じて西階より降り、床に置き、登歌の楽作し、置き訖り、楽止む。次に侍中門下侍郎を引いて宝盝を奉じ殿に升らしめ、楽作し、食案の前に置く。仍って褥位を設け、楽止む。挙宝官は宝盝を挙げ、侍中は俯伏し、跪きて宝を読み、訖り、俯伏し、興る。侍中は宝盝を奉じて西階より降り、床に置き、登歌の楽作し、置き訖り、楽止む。太尉は殿門外の褥位に詣で、再拝し、訖り、太尉より下は俱に階を降り、次第に位に就く。礼直官は贊す、「拝。」在位官皆再拝し、訖り、次第に出づ。寺官・署官は拱衛直を率い、冊宝床を舁いで冊宝殿に置き、各退く。次日、百官は賀を称すること常儀の如し。

大定十九年、孝成皇帝の諡号を奉上した。元年十一月十六日、詔して曰く、「先の君主は太祖の長孫にして、太宗の遺命を受け、神器を嗣ぎ膺け、十有五年。垂拱して成を仰ぎ、勳戚に委任し、齊國を廢して徭賦を省き、宋人を柔して兵戈を息め、世は泰和に格り、俗は仁壽に躋り、車書を南北に混じ、尉候を東西に一にす。晩年は淫刑に陥り、幾らか恣意に近く、冤を弟後に施し、戮を良工に及ぼせりと雖も、虐は民に及ばず、事猶諫む可し、過ち此くの如きに至るは、古にも或は有り。右丞相岐國王亮は弼諧に務めず、反って篡しいを行い、妄りに黜廢を加え、徽稱を抑損す。遠近傷嗟し、神人憤怒す。天方に禍を悔い、朕乃ち継ぎ興り、天下の樂推を受け、域中の大なる有るに居る。将に乱を撥きて反正せんと務め、非を革むるに在り。亡き事を期して存するが如くせんとし、聿に禮を盡すを思う。宜しく諡號を上ぐべし、閔宗武靈皇帝と曰う。」と。十八年、有司言う、「本朝祖宗の尊諡は或は十八字、或は十四字、或は十二字、或は四字なり。今擬て閔宗の尊諡を増上し、弘基纘武莊靖孝成皇帝と曰い、仍ち悼皇后に諡を加えて悼平皇后と曰わん。」と。又言う、「大定三年に睿宗皇帝を追尊したる禮儀は、大安殿前に黄麾仗一千人を立て、應天門外に行仗二千人し、皇帝は通天冠・絳紗袍を服し、冊寶に随ひて西階より降り、圭を搢げ、跪き、冊寶を捧げて太尉に授く。今擬て大安殿に行禮し、及び唐・周の典故に依り、階を降りて冊寶を捧げて太尉に授けん。所有の冠冕儀仗は擬て已に行はれたる禮例に依らん。」と。上は儀仗の人数を約量して之を減ずるを命じ、餘は略前儀と同じ。明年四月十日、冊寶を奉上し、太廟に升祔す。二十六年、敕して再び閔宗の廟號を議せしむ。禮官擬て「襄、威、敬、定、桓、烈、熙」の七字を上ぐ。旨を奉じて「熙」の字を用う。乃ち明年四月一日を以て、官を遣はし太廟及び閔宗の本室に奏告し、新廟號に易ふ。

大定二十九年四月乙丑、大行皇帝に諡して光天興運文德武功聖明仁孝皇帝と曰い、廟號を世宗とす。五月丙午、祔廟の禮成るを以て、大赦す。大定二十九年五月甲午、皇考に尊諡を上ぐ、體道弘仁英文睿德光孝皇帝と曰い、廟號を顯宗とす。大定元年二月丁卯、大行皇帝に諡して憲天光運仁文義武神聖英孝皇帝と曰い、廟號を章宗とす。正大元年正月戊戌、大行皇帝に諡して繼天興統述道勤仁英武聖孝皇帝と曰い、廟號を宣宗とす。