金史

志第十四:礼六(原廟・朝謁儀・朝拜儀・別廟)

原廟

太宗天会二年、西京に大聖皇帝廟を立てる。熙宗天眷二年九月、また上京慶元宮を以て太祖皇帝の原廟となす。皇統七年、有司奏す:「慶元宮の門、旧は景暉と曰い、殿は辰居と曰う。廟中の名に似ず、今宜しく殿名を改めて世徳と曰うべし」と。是の歳、東京の御容殿成る。世宗大定二年十二月、詔して「会寧府は国家興王の地なり、宜しく慶元宮の址に就きて正殿九間を建て、仍ってその旧号を以てし、時に薦享すべし」とす。海陵天徳四年、有司言う:「燕京に太廟を興建し、また原廟を立つ。三代以前に原廟の制無く、漢の恵帝に至りて始めて長安ちょうあん渭北に廟を置き、時に果を以て薦む。その後また豊・はいに置くも、享薦の礼を聞かず。今両都告享は宜しく燕京に建つる所の原廟に行うに止むべし」と。ここにおいて、その宮を衍慶と名づけ、殿を聖武とし、門を崇聖とす。

大定二年、睿宗の御容を以て衍慶宮に奉遷す。五年、会寧府の太祖廟成る。有司言う、宜しく御容を以て安置すべしと。先に、衍慶宮に蔵する太祖の御容十有二:法服一、立容一、戎衣一、佩弓矢一、坐容二、巾服一、旧は会寧府に安置す。半身容二、春衣容一、巾にして衣紅なる者二、旧は中都の御容殿に安置す。今皆ここに在り。詔して便服の容一を以てし、官を遣わして奉安し、日を択びて行を啓す。前一日、夙に興き、廟に告ぐ。酒饌を用い、奏告官一員を差し、差せらるる使を以て充て、進みて御署の祝板を請う。その日質明、有司龍車を衍慶宮門外少西に設け、東向く。宰執、百官を率い公服を着し本宮殿下に詣り、班を立て、再拝す。班首殿に升り、跪きて香を上げ、酒を奠め、教坊の楽作る。少しく退き、再拝す。班首階を降りて位に復し、陪位官皆再拝す。奉送使副、太祝を率い御容匣を捧げて出づ。宰執以下左右に分かれて前導し、衍慶宮門外に出づ。御容匣の車に升るを俟ち、百官馬に上り後従す。旗幟・甲馬・錦衣人等左右に分かれて導き、香輿・扇等前行す。都門郊外に至り、御容車の少しく駐まるを俟ち、導従官馬を下り、車前に班を立て、再拝す。奉送使副は側に侍して拝せず。班首香輿に詣り、跪きて香を上げ、俯伏し、興き、還って班に就き、再拝して辞し、訖りて退く。使副遂に行く。毎程館または廨舎内に到りて安駐す。その道路の儀衛は、紅羅傘一、龍車一(その制は青布を以て亭子の状と為し、車上に安じ、牛を以て駕す)、また駝五を用い、旗鼓合わせて五十、香輿を舁ぐ者十人、導従六十人、扇を執る者八人、兵士百人、護衛二十人(宗室の猛安謀克の子孫を以て充つ)。過ぐる所の州県は、官属公服を着し郭を出で香果を奉迎し、再拝す。班首香を上げ酒を奠め、また再拝す。郊外に送り至り、再拝して乃ち退く。会寧府に至り、官属香輿を備え奉迎すること上儀の如し。馬に乗り従いて廟門外に至り馬を下り、左右に分かれて導引す。使副、太祝四員を率い、御容を捧げて廟に入り、中門外東壁の幄次内に奉置し定め、再拝し、訖りて退く。日を択びて奉安す。至日の質明、差去の官と本府の官及び建廟の官等並びに公服を着し、幄次前に詣りて排立し、先ず再拝し、跪きて香を上げ、楽作り、酒を奠め、訖りて、また再拝す。太祝御容を捧げ、衆官前導引し、殿下に至りて排立す。御容殿に升り奉安し、訖りて、再拝す。班首殿に升り、跪きて香を上げ、祝を読み、酒を奠め、楽作る。少しく退き再拝し、訖りて、班首階を降りて位に復し、執事官と同しく再拝し、訖りて退く。

十五年二月、有司言う、東京開覚寺に睿宗皇帝の皁衣展裹の真容を蔵す、勅して本京の祖廟に遷し奉祀せしめ、仍って袍色を易えしむと。明年四月、詔して睿宗を奉安する礼に依り、世祖の御容を衍慶宮に奉安せしむ。前期、有司香案・酒果・教坊楽を備う。至日の質明、親王宰執、百官を率い公服を着し迎引して衍慶宮に至る。凡そ甲騎百人、傘二人、扇十二人、香輿八人、彩輿十六人、従者二十四人、執事官二人、弩手・控鶴各五十人、賛者二人、礼直官二人、六品以下の官三十員公服を着し馬に乗り前導す。奉安し訖りて、百官再拝し、礼畢り、退き立ち宮門の外にて、駕を迎え朝謁す。十六年正月、有司奏す:「勅を奉りて世祖皇帝の御容を何れの処に当て安置すべきかを議す。臣等参詳するに、衍慶宮は即ち漢の原廟なり。毎に太祖皇帝の忌辰に遇えば、百官朝拝す。今世祖皇帝地を択びて殿位を修建せば、庶幾く厳奉の意に副うべし」と。これに従う。乃ち勅して聖武殿の東西に世祖・太宗・睿宗の殿位を興建せしむ。既にしてまた地を択びて太宗の殿を帰仁館に建てんと欲す。有司言う:「山陵は太祖・太宗・睿宗一つの兆域を共にし、太廟は世祖・太祖・太宗・睿宗もまた堂を同うして室を異にす。今帰仁館に太宗の殿位を興建するは、山陵・太廟の制と同じからざるに似たり」と。詔して前の議に従い、ただ衍慶宮に於いて各殿七間・閣五間・三門五間を建つるに止む。乃ち世祖の殿を広徳、閣を燕昌と定め、太宗の殿を丕承、閣を光昭とし、睿宗の殿を天興、閣を景福とす。

十九年五月六日、奏告を行った。七日、奉安の儀を行った。執事の礼官二人、每位に香案一つ、祭器席一つ、拝褥二つ、盥洗一つ、大勺篚巾を完備した。前日、太廟令がその配下を率いて宮内外を掃除し、また各々殿上に神座を設け、また親王・宰執以下百官の拝位を殿庭に設けた。また東階下に盥洗の位を設け、罍篚を執る者の位をその後に設けた。また神位の前に各々北向きの拝褥位を設け、併せて各々香案・香炉・匙合・香・酒・花果・器皿・物等を設け、以前の例に依った。また聖武殿上に香案・炉・匙合・香等を設け、また殿下に各々腰輿一つ、舁士十六人、傘子各二人、扇を執る者各十二人、導従の弩手各三十人を設けた。前日、清斎を行い、親王は本府で、百官はその邸宅で行った。行礼官・執事人等は儀式を練習し、祠所に赴いて清斎した。その日明け方、礼官が太廟署官等を率いて崇聖閣に至り世祖の御容を奉じ、各匣に内侍二人・太祝一員を用い、礼官・署官が前導し、聖武殿の神座に安置した。礼直官が親王・宰執・百官を公服で殿庭に班立させ、七品以下は殿門の外に班列させ、賛者が「拝せよ」と言うと、在位の官は皆再拝した。礼直官が班首を導いて罍洗に至り、手を洗い終わり、殿に昇り、神座の前に進んで跪いて香を上げ、終わって少し退き、再拝した。礼直官が班首を導いて殿を降りて元の位置に戻し、賛者が「拝せよ」と言うと、在位の官は皆再拝し、終わって、礼直官が世祖の御容を導いて腰輿に昇らせ、儀衛が順序に従って導従し、広徳殿に至り、百官は後から従い、庭下の班位に立った。礼官が太廟署官を率いて腰輿内から御容を捧げ、殿上の正面に奉安し終わり、百官は階下に、六品以下の官は殿門外に、立って班列した。賛者が「再拝せよ」と言うと、在位の官は皆再拝した。礼直官が班首を導いて盥洗し、手を洗い終わり、殿に昇り、執事官等が従って昇殿し、御容の前に進み、跪いて香を上げ、酒を奠し、教坊の楽が奏され、少し退いて再拝し、終わって楽が止んだ。礼直官が班首を導いて殿を降りて元の位置に戻し、賛者が「拝せよ」と言うと、在位の官は皆再拝した。終わって、礼官が太廟署官を率いて崇聖閣に至った。太祝・内侍が太宗の御容を捧げ、礼官が太宗の御容を導いて聖武殿に安置し、行礼が終わり、順次丕承殿に奉安し、行礼は全て上記の儀式と同様であった。次に睿宗の御容を天興殿に奉安し、礼もこれと同様であった。奉安の礼が終わるのを待ち、百官は退いた。

二十一年閏三月、勅旨により昭祖・景祖を燕昌閣上に奉安し、粛宗・穆宗・康宗を閣下に奉安し、明粛皇帝を崇聖閣下に奉安した。每位に黄羅幕一つ、黄羅明金柱衣二つ、紫羅地褥一つ、龍床一つ、踏床二つ、衣を完備し、事前に奏告した。四月一日に奉安し、五日に親祀した。この年五月、聖安寺の睿宗皇帝御容を衍慶宮に遷し、皇太子・親王・宰執が奉迎して安置した。

朝謁の儀

大定十六年四月十九日、世祖の御容を奉安し、朝謁の礼を行った。皇帝は前日に内殿で斎戒し、皇太子は本宮で、親王は本府で、百官はその邸宅で斎戒した。太廟令がその配下を率い、衍慶宮内外を掃除し、親王・百官の拝位を殿庭に設け、また皇太子の拝褥を親王・百官の位の前に設けた。宣徽院がその配下を率い、聖武門外の東に西向きの御幄を設け、霊星門の東に皇太子の幄次を設けた。その日、有司が仗衛を応天門に列べ、御容の奉安が終わるのを待ち、有司が殿上及び神御前に北向きの拝褥位を設け、香炉・香案及び香・酒・器物等を安置した。皇太子は車駕が進発する以前に到着し、公服で馬に乗り、本宮の官属が導従し、衍慶宮門の西で下馬し、歩いて幄次に入った。親王・百官は衍慶宮門外に西向きに立って班列した。車駕が将に至らんとするのを待ち、典賛儀が皇太子を導いて幄次から出し、親王・百官の班列の前に出て奉迎した。導駕官は、五品・六品・七品の職官の中から四十員を差し出し、応天門外の道の南に立って班列し待機した。皇帝は靴袍を着て輦に乗り、従官・傘・扇・侍衛は常の儀の如くであった。勅旨により大安輦・儀仗一千人を用いた。応天門を出ると、閣門が通喝して「導駕官再拝せよ」と言い、終わって閣門が勅を伝えて「導駕官馬に乗れ」と言い、左右に分かれて前導し、廟門外の西側で下馬した。車駕は衍慶宮門外のやや西で輦を降りた。左右の宣徽使が前導し、皇帝は歩いて御幄に入り、簾を下ろした。閣門が先に親王・宰執・四品以上の執事官を導き、東西の偏門から入り、殿庭に至って東西班に分かれて相向かって立たせた。典賛儀が皇太子を導き入れ、褥位の西に立ち、東向きにした。進香・進酒等の執事官は皆階を昇り、殿上で東西に分かれて向かい合い、順次立った。宣徽使が跪いて奏上して「請う、皇帝に朝謁の礼を行わしめよ」と言うと、簾が巻かれ、皇帝は幄を出た。宣徽使が前導し、殿上の褥位に至り、北向きに立った。典賛儀が皇太子を導いて褥位に就かせ、閣門が親王・宰執・四品以上の職事官を導いて班を回らせ、皆北向きに立たせた。中間を空けさせ、奏楽の妨げにならないようにした。五品以下は聖武門外、八品以下は宮門外で陪拝した。二宣徽使が奏請し、皇帝が再拝すると、教坊の楽が奏された。皇太子以下群官は皆再拝した。皇帝を神御前の褥位に詣でさせ、北向きに立たせ、また皇帝に再拝を請うと、皇太子以下群官は皆再拝した。皇帝に跪くことを請い、三たび香を上げ、三たび酒を奠し、俯伏し、興った。また皇帝に再拝を請うと、皇太子以下群官は皆再拝し、終わって皇帝は元の位置に戻った。また皇帝に再拝を請うと、皇太子以下群官は皆再拝した。宣徽使が奏上して「礼畢」と言った。以上は八拝と定めたが、宣徽院が奏上して、旧例の十二拝に従った。典賛儀が皇太子を導いて再び褥位の西に立ち、東向きにした。閣門が親王・宰執以下の群官を導き、東西相向かって立たせた。先に五品以下の官を導き出した。宣徽使が前導し、皇帝は御幄に還り、簾を下ろした。典賛儀が皇太子を導き、閣門が分かれて殿庭の百官を導き、順次退出させた。宣徽使が跪いて奏上して「請う、皇帝に還宮せしめよ」と言うと、簾が巻かれ、歩いて廟門外に出て、輦に昇り還宮した。来た時の儀の如くであった。十九年の挙安礼も同じであった。

朝拝の儀

初めに、太祖の忌辰には、皇帝は褥位に至り立って、再拝する。やや東に寄り、西に向かい、香案の前に詣で、また再拝する。香を上げ終わり、復位し、また再拝する。進食・奠茶・辞神は皆再拝して退く。大定二十一年五月十二日、睿宗の忌辰に、有司が儀礼を改めて定める。前日、宣徽院は天興殿の門外やや西に御幄を設ける。当日の明け方、皇太子・親王・百官は公服を具えて衍慶宮の門外に立ち班し、奉迎する。皇帝は馬に乗って衍慶宮の門外に至り下馬し、二宣徽使が先導し、歩いて宮門に入りやや東に寄る。皇帝は輦に乗り、傘扇侍衛は常の儀の如く、天興殿の門外やや西に至る。皇帝は輦を降り、幄次に入り、簾を降ろす。典賛儀が皇太子を導き、閣門が親王・宰執・四品以上の官を偏門から入れ、殿庭に至らせ、左右に分かれて班を立て定める。二宣徽使が皇帝を導いて天興門の正門から入り、東階より殿に昇り、褥位に詣で立って定まる。皇太子以下の官は班を合わせ、五品以下は殿門外に班す。宣徽使が奏す、「請う、皇帝先ず再拝せられんことを。請う、侍神位に詣で立たれんことを」。有司が香案・酒卓を置き終わるのを待ち、請うて褥位に詣で、また再拝し、三たび香を上げ、酒を奠め、復位し、再拝する。以上、皇太子以下は皆陪拝する。再び奏す、「請う、やや東の侍神位に詣で立たれんことを」。典賛儀が皇太子を導き殿に昇らせて褥位に赴かせ、先ず両拝し、酒を奠め再び両拝し、降りて復た褥位に就く。次いで閣門が終献官の趙王を導き殿に上らせて礼を行わせる。宣徽使が奏す、「請う、皇帝褥位に詣でられんことを」。再び両拝する。皇太子以下の官は皆再拝する。礼畢し、百官は前に依り分かれて班を立てる。皇帝は殿門を出て、幄次に入り、簾を降ろし、衣を更える。次いで皇太子以下の官を導き出して宮門外に立ち班させる。皇帝は輦に乗り、宮門に至りやや東で輦を降り、歩いて宮門外に出て、馬に上り還宮し、導従侍衛は来たる儀の如し。皇太子以下の官は、車駕の行くのを待って然る後に退く。大定五年、旨を奏す、「太祖の忌辰には、衍慶宮の薦享はただ素食を用い、諸京の凡そ御容の在る所は皆同じ。また朔望には皆朝拝の礼を行う」。六年、有司が奏す、「太祖皇帝の忌辰には、車駕親しく奠め、百官陪拝す。今、車駕巡幸す。宰臣を班首とし、百官を率いて衍慶宮に詣でて礼を行うに合う」。これに従う。十六年、旨を奉ず、「世祖・太宗の忌辰は、一体に奉奠すべし」。十八年八月、太祖の忌辰に、世祖・太宗を同じ一処に致祭せんとし、有司が言う、「歴代に一聖の忌辰に列聖が預祭する典なし」。擬議の間、勅して太子を遣わし、一位に礼を行わせ、並びに諸功臣を祭る。二十六年、内外の祖廟同じからずと以て、定めて擬す、「太廟は毎歳五享し、山陵は朔・望・忌辰及び節辰の祭奠は並びに前代の典故に依る外、衍慶宮は自ら来たり車駕行幸し、祖宗の忌辰に遇えば百官礼を行い、並びに京の祖廟に詣でて節辰・忌辰・朔望に拝奠す。典故無きも参酌し、恐らくは旧に依るに合い、以て崇奉の意を尽くすべし」。これに従う。

別廟

大定二年、有司が擬して奏す、閔宗に嗣無く、別に廟を立つるに合い、有司以て時祭享し、宗と称せず、武霊を以て廟号とす。又奏す、「唐は別廟を立て、必ずしも専ら太廟の垣内に在らず。今、武霊皇帝は既に宗と称せず、又祫享に与からず。その廟は太廟の東墉外の隙地に建立するを擬す」。これに従う。十四年、廟成る。武霊の後の諡は孝成なるを以て、又これを孝成廟と謂う。十五年三月戊申、武霊皇帝及び悼皇后を奉安す。前期一日、太廟十一室及び昭徳皇后廟に奏告し、余は昭徳の廟を過ぐるの儀の如し。四月十七日、夏に太廟を享け、同時に礼を行い、判宗正の英王爽に太尉を摂行せしめ、初献官を充てる。兵部尚書の譲に司徒しとを摂行せしめ、大理卿の天錫を差して太常卿を摂行せしめ、亜献を充てる。大興少尹の高居中に光禄卿を摂行せしめ、終献を充てる。是より、歳常に五享す。十七年十月、太廟を祫享す。「唐礼を検討するに、孝敬皇帝廟は時享用に廟舞・宮県・登歌を用い、譲皇帝廟は禘祫の月に一祭し、ただ登歌を用う。その礼制の損益同じからず。今、武霊皇帝廟庭は太廟の地步と同じからず、宮県楽舞を容設するは難く、並びに楽器もまた闕少なり。看詳するに、恐らくは唐の譲皇帝の祫享の典故に依るに合い、楽は登歌を用い、所有の牲牢樽俎は太廟一室の礼を行うに同じ。及び契勘して得るに、自ら来たり祫享は、親祠に遇えば毎室に一犢、摂官の礼を行うには共用して三犢を用う。今、武霊皇帝の別廟の礼を行うを添う。已に奏定したる共用三犢に依るか、或いは牛数を增添すべきか」。奏して勅旨を奉ず、「太廟・別廟は共用して三犢とし、武霊皇帝廟の楽は登歌を用い、官を差して奏告す。並びに奏に准ず」。大定十九年四月、太廟に升祔し、その旧廟は遂に毀つ。

昭徳皇后廟。大定二年、有司が唐の典制を援用し、昭徳皇后は別廟を立てるべきとし、太廟内垣の東北に起建することを擬し、これに従う。三年十月七日、太廟の祫享に際し、睿宗皇帝と昭徳皇后を升祔し、神主を同時に製造題写し、殿庭に奉詣し、謁畢して祖姑欽仁皇后の左に祔する。享祀畢、主を奉じて本廟に還す。十二月二十一日、臘享、礼官言う、「唐の礼によれば、別廟の薦享は皆太廟一室の儀に準ず。伏して恐らくは今廟享畢は既に質明を過ぎんとす。別に官を差して摂祭せしむるを請う。」制可す。後に殿制小なるを以て、また太廟の東に別に一位を建つ。十二年八月、廟成る。正殿三間、東西各半間を空け、両間を以て室と為し、西の一間西壁上に祏室を安置す。廟に一便門を置き、太廟と相通ず。仍って旧殿を冊宝殿と為し、祏室は奏毀す。十三年六月二十一日、太廟に奏告し、別廟に祭告す。二十三日、奉安し、前の祫享過廟の儀を用う。有司言う、鹵簿を用うべしと。廟相去ること遠からざるを以て、参酌して清道二人、次に囲扇二人、次に職掌八人、次に衙官二十六人を十三重と為し、供奉官を充てることを擬す。次に腰輿、輿士十六人、傘子二人、次に囲扇十四を七重と為し、方扇四、次に排列職掌六人、燭籠十対、輦官並びに錦襖盤裏を用う。仍って皇太子に百官を行礼せしむ。前一日、行事執事官は祠所に就きて清斎一宿し、仍って儀を習う。執事者は醴饌を視、太廟令は其の属を帥いて廟の内外を掃除す。礼直官は皇太子の西向位を設け、執事官の位は皇太子の後、近南、西向、各品従に依りて立つ。監祭は、殿西階下に東向に立つ。及び親王百官の位を廟庭に、北向、西上、又祝案を神位の右に設け、尊彝の位を左に設け、各勺・冪・坫を加う。又祭器を設け、皆席を以て籍し、左一籩は鹿脯を以て実し、右一豆は鹿臡を以て実す。又盥洗・爵洗の位を横街の南稍東に設く。罍は洗の東に在り、勺を加う。篚は洗の西に在り、南肆し、巾を以て実す。罍篚を執る者は其の後に位す。太廟令は又神位を室内北墉下に、戸に当たり南向に設く。直几一・黼扆一・莞席一・繅席一・次席二・紫綾厚褥一・紫綾蒙褥一並びに幄帳等を設け、諸物並びに旧廟の儀の如し。又望燎の位を西神門外の北に設け、燎柴を位の北に設け、予め瘞坎を燎所に掘り、所司は儀衛を旧廟門の外に陳す。奉安日未明二刻、所司は方扇燭籠を旧廟殿門外に進め、腰輿一・傘一を殿階の下に、南向に設く。質明、皇太子は公服を着し馬に乗り、本宮官属導従し、廟門外に至り下馬し、歩いて廟門に入り、幕に至る。次に親王百官を常服にて廟門より入らしめ、殿庭北向西上・重行に立定せしむ。次に皇太子を百官の前絶席の位に立たしめ、賛者曰く、「再拝。」皆再拝す。宮闈令は殿に升り、昭徳皇后の神主を捧げて座に置く。賛者曰く、「再拝。」皆再拝す。次に内常侍を北向俯伏せしめ、跪奏し、「昭徳皇后の神主を新廟に奉安せんことを請う。殿を降り輿に升る。」奏訖、俯伏し、興く。几を捧ぐ内侍は先ず几匱を捧げ跪いて輿に置き、又宮闈令は神主を接ぎ、内侍は前引し、跪いて輿上の几の後に置き、紅羅帕を以て覆う。内常侍以下は左右に分かれて前引し、皇太子は歩みて旧廟より先ず従い行い、親王之に次ぎ、百官は左右に分かれて後従し、儀衛導従し、別廟殿下北向に至る。内常侍は腰輿の前にて俯伏し、興き、跪奏し、「輿を降り殿に升ることを請う。」内侍は

几匱を捧げて前に進み、宮闈令は捧げ接ぎて神主を殿に升らせ、座に置く。礼直官は皇太子以下親王百官を引いて殿庭に入らしめ、北向西上・重行に立ち、皇太子は絶席に立つ。礼直官賛して曰く、「再拝。」皆再拝す。又賛して曰く、「行事官各々其の位に就け。」礼直官は皇太子を引いて西向位に立定せしむ。礼直官少しく前に進み賛して曰く、「有司謹みて具す。請う行事せんことを。」即ち皇太子を引いて盥洗の位に就かしめ、北向、笏を搢げ、手を盥し、手を帨い、笏を執る。爵洗の位に詣り、北向に立ち、笏を搢げ、爵を洗い、爵を拭いて執事者に授く。笏を執り、升り、酒尊所に詣り、西向に立ち、執事者は爵を皇太子に授け、笏を搢げ、爵を執る。執事者は冪を挙げて酒を酌み、皇太子は爵を執事者に授け、神位の前に詣り北向、笏を搢げ、跪く。執事者は爵を皇太子に授け、爵を執り三たび酒を祭し、爵を坫に反し、笏を執り、俯伏し、興き、少しく立つ。次に太祝・挙祝官を引いて読祝の位に詣らしめ東北向、挙祝官は跪いて祝版を挙げ、太祝は跪いて祝を読み、訖、祝を案に置き、俯伏し、興く。挙祝官は皆却き立ち北向す。賛者曰く、「再拝。」皇太子は就いて両拝し、階を降りて位に復す。挙祝・読祝官は後より従い、復た本位に就く。礼直官曰く、「再拝。」在位者皆再拝す。宮闈令は神主を室に納め、賛者曰く、「再拝。」皆再拝し、礼畢、退く。署令は廟門を闔し、祝を坎に瘞し、儀物は各々還して所司に付す。十一年、郊祀の前一日の朝享は、太廟と同日とし、登歌楽を用い、三献の礼を行い、有司摂事す。二十六年、勅して別に昭徳皇后の影廟を太廟内に建つ。有司言う、「宜しく殿三間を建て、南面一屋三門、垣は甓を以て周らし、外垣に霊星門一を置き、神厨及び西房各三間とすべし。然れども礼に廟中に別に影廟を建つる例無し。今皇后廟の西に隙地有り、広さ三十四歩、袤五十四歩、以て興建すべし。」制可す。仍って正南に別に正門を創り、門は坤儀を以て名と為す。仍って旧有の便門を留め、禘祫祔享に遇うれば之に由る。毎歳の五享並びに影廟の行礼は正南門より出入す。又廟外に斎廊房二十三間を起す。

宣孝太子廟。大定二十五年七月、有司奏す:「唐の典に依り、故太子に廟を置き、官属を設けて奉祀す。法物庫の東に殿三間を建て、南垣及び外垣は皆一屋三間とし、東西垣は各一屋一門とし、門に九戟を設くべし。斎房・神厨は、地の宜を度る。」と。又、旨を奉ずるに:「太子廟既に神主を安んずれば、宜しく別に影殿を建つべし。」と。有司、制度を定擬し、見建つ廟の稍西中間に、磚墉を以て限り、内に影殿三間を建つ。南面一屋三門、垣は甓を以て周し、闕角及び東西門なし。外垣の正南に三門一を建て、左右翼廊二十間、神厨・斎室各二屋三間、是の歳十月、廟成る。十一日神主を奉安し、十四日画像を奉遷す。神主は栗を用い、唐制に依り諸侯は一尺を用い、諡を背に刻す。省部、官を遣わし本廟の西南隅、北に面して幄次を設け、製造を監視し、行禮の前一日に製造を訖る。其の日の晩、奉神主官、箱を以て奉承し、帕を以て覆い、題神主の幄中に捧げ詣る。次日丑前五刻、題神主官と典儀並びに禮官、幄次前に詣る。題神主官、罍洗の位に詣り、手を盥し、手を帨し訖り、奉神主官、先ず香湯を以て奉沐し、羅巾を以て拭う。題神主官、褥位に就き、諡号を背に題し「宣孝太子神主」と云い、墨書し、光漆を以て模し訖り、奉神主官に授く。箱を以て承け、梅紅羅帕を以て覆い、素羅帕を以て藉し、座に詣り匱に置き、乃ち簾帷を下し、侍衛は式の如し。典儀の俯伏し、跪請するを俟ち、腰輿傘扇を備え神位に詣る。導引侍衛は皆昭德廟の儀を減ず。祭儀、有司言う:「当に祖廟の四時祭享に随うべし。初献は皇孫皇族に、亜献は皇族或は五品以下に差す。楽は登歌を用い、今量りに減じて二十五人を用い、其の神に接するには無射宮を用い、升降徹豆には則ち夾鐘を歌う。牲は羊・豕各一、籩豆各八、簠簋各二、登鉶各一、其の餘の祭食も亦量りに之を減ず。」と。二十六年十一月一日、奏す:「神主廟は、牲牢楽縣官給す。影廟は、皇孫奉祀す。」と。