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金史
志第五: 地理上(上京路・咸平路・東京路・北京路・西京路・中都路)
金の封疆は、東は吉里迷・兀的改などの野人の境に極まり、北は蒲與路の北三千余里、火魯火疃謀克の地を辺境とし、右に旋って泰州の婆盧火が開鑿した界壕に入り西へ、臨潢・金山を経て、慶・桓・撫・昌・淨州の北を跨ぎ、天山外に出て、東勝を包み、西夏に接し、黄河を逾え、更に西へ葭州及び米脂寨を歴て、臨洮府・会州・積石の外に出て、生羌の地と錯綜す。更に積石諸山の南より左折して東へ、洮州を逾え、塩川堡を越え、渭に沿って大散関の北に至り、山に並び入って京兆に至り、商州を絡め、南は唐・鄧の西南四十里を以てし、淮の中流を取って界と為し、宋と表裏を為す。
遼の制を襲い、五京を建て、十四総管府を置き、是を以て十九路と為す。其の中に散府九、節鎮三十六、防禦郡二十二、刺史郡七十三、軍十六、県六百三十二有り。後に更に尽く軍を州に昇格し、或いは城堡寨鎮を県に昇格せしめ、是を以て金の京府州凡そ百七十九、県は旧に加うる五十一、城寨堡関百二十二、鎮四百八十八。貞祐・興定の危亡の際に廃置されたもの雖も、既に大元に帰し、或いは之に因るもの有り、故に凡そ考うべきは必ず尽く之を著し、其の載せざる所は則ち之を闕く。
上京路
上京路は、即ち海古の地にして、金の旧土なり。国言に「金」を「按出虎」と曰う。按出虎水は此に源を発す、故に金源と名づく。建国の号蓋し此に取れるなり。国初は内地と称す。天眷元年、上京と号す。海陵貞元元年、都を燕に遷し、上京の号を削り、止だ会寧府と称し、国中と称する者は以て制に違うと論ず。大定十三年七月、後に上京と為す。其の山に長白・青嶺・馬紀嶺・完都魯有り。水に按出虎水・混同江・来流河・宋瓦江・鴨子河有り。府一、節鎮四を領し、防禦一、県六、鎮一。旧に会平州有り、天会二年に築く、契丹の周特城なり、後廃す。其の宮室に乾元殿有り、天会三年に建つ、天眷元年に皇極殿と更名す。慶元宮、天会十三年に建つ、殿を辰居と曰い、門を景暉と曰う。天眷二年、太祖以下の御容を安んじ、原廟と為す。朝殿、天眷元年に建つ、殿を敷徳と曰い、門を延光と曰い、寝殿を宵衣と曰い、書殿を稽古と曰う。又時に徳宮・明徳殿有り、熙宗嘗て此に太宗の御容を饗す、太后の居所なり。涼殿、皇統二年に構う、門を延福と曰い、楼を五雲と曰い、殿を重明と曰う。東廡の南殿を東華と曰い、次を広仁と曰う。西廡の南殿を西清と曰い、次を明義と曰う。重明の後、東殿を龍寿と曰い、西殿を奎文と曰う。時令殿及び其の門を奉元と曰う。泰和殿有り、武徳殿有り、薫風殿有り。其の行宮に天開殿有り、爻剌の春水の地なり。混同江行宮有り。太廟・社稷、皇統三年に建つ、正隆二年に毀つ。原廟、天眷元年に春亭を以て天元殿と名づけ、太祖・太宗・徽宗及び諸后の御容を安んず。春亭は、太祖の嘗て御せし所なり。天眷二年に原廟を作る。皇統七年、原廟の乾文殿を世徳と改む、正隆二年に毀つ。大定五年、復た太祖廟を建つ。興聖宮、徳宗の居所なり、天徳元年に之を名づく。興徳宮、後に永祚宮と更名す、睿宗の居所なり。光興宮、世宗の居所なり。正隆二年、吏部郎中蕭彦良に命じて尽く宮殿・宗廟・諸大族の邸第及び儲慶寺を毀ち、其の趾を夷し、耕墾せしむ。大定二十一年後に宮殿を修し、城隍廟を建つ。二十三年、甓を以て其の城を束ぬ。皇武殿有り、球を撃ち射を校する所なり。雲錦亭有り、臨漪亭有り、鷹を籠する所と為し、按出虎水の側に在り。
会寧府、下。初め会寧州と為す。太宗都を建つるに以て、府に昇す。天眷元年、上京留守司を置き、留守を以て本府尹を帯び、兼ねて本路兵馬都総管と為す。後に上京曷懶等路提刑司を置く。戸三万一千二百七十。旧歳貢に秦王魚有り、大定十二年之を罷む。又猪二万を貢す、二十五年之を罷む。東は胡里改に至る六百三十里、西は肇州に到る五百五十里、北は蒲與路に至る七百里、東南は恤品路に至る一千六百里、曷懶路に至る一千八百里。県三:
会寧(倚郭)、府と同時に置く。長白山・青嶺・馬紀嶺・勃野澱・緑野澱有り。按出虎河有り、又阿術滸と書作す。混同江・淶流河有り。得勝陀有り、国言に忽土皚葛蛮と曰う、太祖師を誓いし地なり。
曲江、初め鎮東と名づく、大定七年に置き、十三年今の名に更む。
宜春、大定七年に置く。鴨子河有り。
肇州、下、防禦使。旧出河店なり。天会八年、太祖の兵遼に勝ち、此に於いて王績を肇基せしを以て、遂に州を建つ。天眷元年十月、防禦使を置き、会寧府に隷す。海陵の時、嘗て済州の支郡と為す。承安三年、復た太祖の神武隆興の地を以て、節鎮に昇し、軍名を武興と曰う。五年、漕運司を置き、提挙を以て州事を兼ぬ。後に軍を廃す。貞祐二年、復た武興軍節鎮に昇し、招討司を置き、使を以て州事を兼ぬ。戸五千三百七十五。県一:
始興(倚郭)、州と同時に置く。鴨子河・黒龍江有り。
隆州、下、利涉軍節度使。古の扶余の地なり。遼太祖の時、黄龍現る有り、遂に黄龍府と名づく。天眷三年、済州と改め、太祖の城を攻め来たりし時、大軍径ちに渉り、舟楫を仮らざるの祥有りしを以てなり。利涉軍を置く。天徳三年、上京路都転運司を置く。四年、済州転運司と改む。大定二十九年、山東路済州と同なるを嫌い、今の名に更む。貞祐初、隆安府に昇す。戸一万一百八十。県一:
利涉(倚郭)、州と同時に置く。混同江・淶流河有り。鎮一、県と同時に置く。混同館有り。
信州、下、彰信軍刺史。本は渤海の懐遠軍、遼開泰七年に建つ。諸路の漢民を取って置く。戸七千三百五十九。県一:
武昌は本来、渤海の懐福県の地である。鎮一、八十戸。
蒲與路は、国初に万戸を置き、海陵王の例により万戸を廃し、節度使を改めて置いた。承安三年、節度副使を設けた。南は上京まで六百七十里、東南は胡裏改まで一千四百里、北は北辺界の火魯火疃謀克まで三千里。
合懶路は、総管府を置く。貞元元年、総管を尹と改め、なお兵馬都総管を兼ねた。承安三年、兵馬副総管を設けた。旧来は海葱を貢いだが、大定二十七年にこれを廃した。移鹿古水がある。西は上京まで一千八百里、東南は高麗の境界まで五百里。
恤品路は、節度使。遼の時、率賓府と為し、刺史を置いた。本来は率賓の故地であり、太宗天会二年、耶懶路都孛堇の居地が瘠せていたため、遂にここに遷した。海陵王の例により万戸を廃し、節度使を置き、因って速頻路節度使と名付けた。世宗大定十一年、耶懶と速頻が千里を隔てていることから、既に速頻に居するも、本を忘れるべからずとして、古土門親管猛安を押懶猛安と命名した。承安三年、節度副使を設けた。西北は上京まで一千五百七十里、東北は胡裏改まで一千一百里、西南は合懶まで一千二百里、北は辺界の斡可阿憐千戸まで二千里。「耶懶」はまた「押懶」とも書く。
曷蘇館路は、節度使を置く。天会七年、治所を寧州に移し、嘗て都統司を置いたが、明昌四年に廃した。化成関があり、国語では曷撒罕関という。
胡裏改路は、国初に万戸を置き、海陵王の例により万戸を廃し、節度使を改めて置いた。承安三年、節度副使を置いた。西は上京まで六百三十里、北は辺界の合裏賓忒千戸まで一千五百里。
烏古迪烈統軍司は、後に招討司に昇格し、蒲與路に近い。
咸平路
咸平路は、府一、刺史郡一を領し、県十。
咸平府は、下府、総管府、安東軍節度使。本来は高麗の銅山県の地であり、遼は咸州と為し、国初は咸州路と為し、都統司を置いた。天徳二年八月、咸平府に昇格し、後に総管府と為した。遼東路転運司、東京咸平路提刑司を置く。戸五万六千四百四。県八:
平郭(倚郭)。旧名は咸平、大定七年に改む。
銅山。遼の同州鎮安軍。本来は漢の襄平県。遼太祖の時に東平寨を以て置き、因って東平と名付け、軍を鎮東と曰う。章宗大定二十九年、東平と重なるを以て、故に改む。南に柴河、北に清河、西に遼河あり。
新興。遼の銀州富国軍。本来は渤海の富州。熙宗皇統三年に州を廃し、名を改めて所属す。范河あり、北に柴河、西に遼河あり。
慶雲。遼の祺州祐聖軍。本来は俘虜にした檀州密雲の民を以て州を建て密雲とし、後に名を改む。遼河あり。
清安。遼の肅州信陵軍。熙宗皇統三年に降格して県と為す。
栄安の東に遼河あり。
帰仁は遼代に旧隷は通州安遠軍、本来は渤海の強師県、遼が改名し、金はこれに因る。北に細河あり。
玉山は章宗承安三年、烏速集・平郭・林河の間、相去ること六百余里の地に置く。貞祐二年四月に節度使に昇格し、軍を鎮安と曰う。
韓州は下州、刺史。遼が東平軍を置く。本来は渤海の鄚頡府。戸一万五千四百十二。旧に営あり。県二:
臨津は倚郭、何年に置かれたか詳らかならず。
柳河は本来は渤海の粵喜県の地、遼は河を以て名とす。狗河・柳河あり。
東京路
東京路は、府一、節度使を領するもの一、刺史郡四、県十七、鎮五。皇統四年二月、東京に新宮を立て、寝殿を保寧と曰い、宴殿を嘉惠と曰い、前後の正門を天華・乾貞と曰う。七月、宗廟を建て、孝寧宮あり。七年、御容殿を建つ。
遼陽府は中。東京留守司。本来は渤海の遼陽故城、遼がこれを完葺し、郡名を東平とす。天顕三年、南京に昇格し、府を遼陽と曰う。十三年、更めて東京と為す。太宗天会十年、南京路平州軍帥司を東南路都統司と改むる時、嘗てここに治し、以て高麗を鎮む。後に兵馬都部署司を置き、天徳二年、本路都総管府と改め、後に更に留守司を置く。白兎・師姑布・鼠毫・白鼠皮・人参・白附子を産す。戸四万六百四。県四、鎮一:
遼陽は倚郭。東梁河、国名は兀魯忽必剌、俗名は太子河。
鶴野。鎮一、長宜。曷蘇館は其の地に在り。
宜豊は遼代の旧衍州安広軍、皇統三年に廃して県と為す。東梁河あり。
石城。興定三年九月、県の霊岩寺を以て岩州と為し、其の倚郭県を東安と名付け、行省を置く。
澄州は南軍海刺史、下州。本来は遼の海州、天徳三年に州名を改む。戸一万一千九百三十五。県二。鎮一:
臨溟。鎮一、新昌。
析木は、遼の銅州広利軍に附郭した析木県の地であり、皇統三年に州を廃して来属した。沙河がある。
沈州は、昭徳軍刺史、中州である。本来は遼の定理府の地であり、遼の太宗の時に軍を興遼と称し、後に昭徳軍となり、節度を置いた。明昌四年に刺史に改め、通州・貴德州・澄州の三州と共に東京に隷属した。戸三万六千八百九十二。県五:
楽郊は、遼の太祖が三河の民を俘虜としてここに三河県を建て、後に改めて今の名にした。渾河がある。
章義は、遼の旧広州であり、皇統三年に降格して県となり来属した。遼河・東梁河・遼河大口がある。
遼濱は、遼の旧遼州東平軍であり、遼の太宗が始平軍に改め、皇統三年に廃して県とした。遼河がある。
土邑楼(遼の旧興州人中軍常安県であり、遼がかつてここに定理府刺史を置き、本来は土邑楼の故地である。大定二十九年に章宗が改名した。範河・清河があり、国語の名は叩隈必剌という。
双城は、遼の双州保安軍であり、皇統三年に降格して県となり、章宗の時に廃止された。
貴德州は、刺史、下州である。遼の貴德州寧遠軍であり、国初に軍を廃し、刺史の郡に降格した。戸二万八百九十六。県二:
貴徳は倚郭である。範河がある。
奉集は、遼の集州懐遠軍奉集県であり、本来は渤海の旧県である。渾河がある。
蓋州は、奉国軍節度使、下州である。本来は高麗の蓋葛牟城で、遼の辰州である。明昌四年に曷蘇館を廃し、辰州遼海軍節度使を建てた。六年、「陳」と同音であるため、改めて蓋葛牟を取って名とした。戸一万八千四百五十六。県四、鎮二:
湯池は、遼の鉄州建武軍湯池県である。鎮一、神郷。
建安は、遼の県である。鎮一、大寧。
秀岩は、本来は大寧鎮であり、明昌四年に昇格した。泰和四年に廃して鎮とし、貞祐四年に再び昇格して置いた。
熊岳は、遼の盧州玄徳軍熊嶽県である。遼は南女直湯河司に隷属した。
複州は下州、刺史の治所。遼の懐遠軍節度使の管轄であったが、明昌四年に刺史の管轄に降格。旧来は鹿の筋を貢納したが、大定八年にこれを廃止。戸数一万三千九百五十。県二、鎮一。
永康県は州治に附郭。旧名は永寧、大定七年に改称。
化成県は遼の蘇州安復軍であり、本来は高麗の地。興宗が設置。皇統三年に県に降格して当州に属す。貞祐四年五月に金州に昇格、興定二年に防禦州に昇格。鎮一、帰勝鎮。
来遠州は下州。旧来の来遠城であり、本来は遼の熟女直の地。大定二十二年に軍に昇格、後に州に昇格。
婆速府路は、国初に統軍司を設置。天徳二年に総管府を設置。貞元元年に曷懶路総管とともに尹とし、兼ねて本路兵馬都総管を置く。この路はすべて猛安戸。
北京路
北京路は、府四、節度使を領する州七、刺史の州三、県四十二、鎮七、寨一を管轄。
大定府は中府、北京留守司が置かれる。遼の中京。統和二十五年に中京として建てられ、国初もその称を用いた。海陵王の貞元元年に北京と改称し、留守司・都転運司・警巡院を設置。紘鼠・螺杯・茱萸梳・玳瑁鞍・酥乳餅・五味子を産する。戸数六万四千四十七。県十一、鎮二。
大定県は府治に附郭。遼の県の旧名。土河・七金山・陰涼河の地にある。鎮一、恩化鎮。
長興県には塗河がある。
富庶県には心河がある。鎮一、文安鎮。
松山県は遼の松山州勝安軍松山県であり、開泰年間に設置、旧来は刺史を置いた。太祖天輔七年に観察使を設置。皇統三年に州を廃して当府に属す。承安三年に高州に隷属、泰和四年以後に復帰。陰涼河・落馬河がある。
神山県は遼の沢州神山県であり、遼太祖が蔚州の民を俘虜して設置。章宗承安二年に一時惠州を設置し、孩児館を灤陽県に昇格させてこれに隷属させた。泰和四年に州及び灤陽県を廃止。
恵和県は皇統三年に遼の恵州恵和県を以て設置。
金源県は唐の青山県であり、遼の開泰二年に設置、地に金甸があることにより名付けられた。駱駝山がある。
和衆は、遼の榆州和衆県であり、皇統三年に州を廃してここに属した。
武平は、遼が杏堝に城を築き、初めは新州と称し、統和年間に武安州と改めた。皇統三年に武安県に降格してここに属し、大定七年に名を改めた。承安三年に高州に隷属し、泰和四年に再びここに属した。
静封は、承安二年に胡設務を置いて県とし、全州に隷属させ、三年に高州に隷属させ、泰和四年にここに属した。
三韓は、遼が高麗を討ち、馬韓・辰韓・弁韓の三国民を移して県とし、高州を置いた。太祖天輔七年に高州を節度使とし、皇統三年に廃して県とし、承安三年に再び高州に昇格させ、刺史を置き、全州の支郡とし、武平・松山・静封の三県を分けてこれに隷属させた。泰和四年に廃した。落馬河、塗河がある。
利州は、下州、刺史。遼の統和十六年に置かれた。戸二万一千二百九十六。県二、鎮一、寨一。
阜俗は、遼の統和四年に置かれ、金もこれに因った。
龍山は、遼の旧潭州広潤軍の県で、旧名のままである。熙宗皇統三年に州を廃してここに属した。榆河がある。寨一は蘭州。鎮一は漆河。
義州は、下州、崇義軍節度使。遼の宜州であり、天徳三年に州名を改めた。戸三万二百三十三。県三、鎮一。
弘政には淩河がある。
開義は、遼の海北州広化軍の県で、旧名のままである。熙宗皇統三年に州を廃してここに属した。鎮一は饒慶。
同昌は、遼の成州興府軍の県で、旧名のままである。国初は川州に隷属し、大定六年に川州を廃して懿州に隷属し、承安二年に再び川州に隷属し、泰和四年にここに属した。
錦州は、下州、臨海軍節度使。旧くは興中府に隷属し、後にここに属した。戸三万九千一百二十三。県三。
永楽は、本来は慕容皝の西楽県の地である。
安昌。
神水は、遼の開泰二年に置かれ、皇統三年に廃して鎮とし、大定二十九年に再び昇格して県とした。土河がある。
瑞州は下州、帰徳軍節度使を置く。本来は宗州、天徳三年に宗州と改め、泰和六年に睿宗の諱を避け、もと唐の瑞州の地であるとして、今の名に改めた。戸数一万九千九百五十三。県三、鎮一。
里安は旧名を来賓といい、唐の来遠県の民である。明昌六年に宗安と改め、泰和六年に再び今の名に改めた。
海陽は遼の潤州海陽軍の旧県、皇統三年に州を廃して当州に属した。鎮一は遷民。
海浜は本来慕容皝の集寧県の地、遼の隰州海平軍の旧県、皇統三年に州を廃して当州に属した。
広寧府は散府、下府、鎮寧軍節度使を置く。本来は遼の顕州奉先軍、漢の望平県の地、天輔七年に府に昇格し、軍名に因んで節度を置いた。天会八年に軍名を鎮寧と改めた。天徳二年に咸平に隷属し、後に軍を廃して東京に隷属した。泰和元年七月に当道に属した。戸数四万三千百六十一。県三、旧に奉玄県あり、天会八年に鐘秀県と改めた。鎮六、寨四。鎮二は歓城、遼西。
広寧は旧名を山東県といい、大定二十九年に名を改めた。遼の世宗の顕陵がある。寨二は閭城、兎児窩。
望平は大定二十九年に梁漁務を昇格させて置いた。鎮二は梁漁務、山西店。
閭陽は遼の乾州広徳軍、乾陵の故に旧名を奉陵県といった。天会八年に州を廃して名を改め当州に属した。淩河がある。遼の景宗の乾陵がある。鎮二は閭陽、衡家。寨二は大斧山、北川。
懿州は下州、寧昌軍節度使を置く。遼はかつて軍名を慶懿と改め、また広順とし、再び今の名に改めた。金はこれに因り、先に咸平府に隷属し、泰和末に当道に属した。戸数四万二千三百五十一。県二:大定六年に川州を廃し、宜民・同昌の二県を当州に属させた。承安二年に再び二県を川州に隷属させた。泰和四年に川州を廃し、宜民を興中に、同昌を義州に隷属させた。
順安
霊山は本来渤海の霊峰県の地。
興中府は散府、下府。本来は唐の営州城、遼の太祖が漢民を移住させて実らせ、霸州彰武軍と称し、重熙十一年に府に昇格し、今の名に改め、金はこれに因った。戸数四万九百二十七。県四、鎮三。
興中は本来漢の柳城の地。南に淩河がある。鎮一は黔城。
永徳は遼の安德州化平軍安德県、世宗大定七年に今の名に改めた。北に淩河がある。鎮一は阜安。
興城は遼の厳州保粛軍の県で旧名、皇統三年に州を廃して錦州に隷属した。桃花島がある。
宜民は遼の川州長寧軍であり、会同年間に嘗て白川州と称し、天禄五年に「白」の字を除き、国初にこれに因る。同昌県と共に隷属す。大定六年に降格して宜民県となり、懿州に隷属す。承安二年に再び川州を設置し、徽川寨を徽川県に改め、懿州の支郡と為す。泰和四年に州及び徽川県を廃し、所属を求む。鎮一は咸康、遼の県なり、国初に廃して鎮と為す。
建州は下州、保靖軍刺史。遼初に軍を武寧と称し、後に改む。金はこれに因る。戸一万一千四百三十九。県一:
永霸は本来唐の昌黎県の地なり。
全州は下州、盤安軍節度使。承安二年に設置し、胡設務を静封県に改め、黒河鋪を盧川県に改む。北京の三韓県烈虎等五猛安を撥ちて以てこれに隷属せしむ。貞祐二年四月に嘗て平州に僑置す。戸九千三百一十九。県一:
安豊は承安元年十月に豊州鋪を安豊県に改め、臨潢府に隷属す。二年に全州盤安軍節度使の治所を置く。黄河、黒河有り。
臨潢府は下府、総管府。地名は西樓、遼は上京と為す。国初に因りてこれを称し、天眷元年に北京と改む。天徳二年に北京を臨潢府路と改め、北京路都転運司を以て臨潢府路転運司と為す。天徳三年に廃止す。貞元元年に大定府を北京と為した後、但だ北京臨潢路提刑司を置く。大定後は路を廃し、大定府路に併合す。貞祐二年四月に嘗て平州に僑置す。天平山、好水川有り、行宮の地なり、大定二十五年に命名す。撒裏乃地有り。熙宗皇帝皇統九年に嘗て此に避暑す。陷泉有り、国言に落孛魯と曰ふ。合嫋追古思阿不漠合沙地有り。戸六万七千九百七。県五、堡三十七:大定年間二十四、後に増加す。
臨潢は倚郭なり。金粟河有り。
長泰は立列只山有り。其の北千余里に龍駒河有り、国言に喝必剌と曰ふ。撒裏葛睹地有り。
盧川は承安二年に黒河鋪を以て昇格し、全州に隷属す。後に復た来属す。潢河有り。
甯塞は泰和元年五月に設置す。滑河有り。
長寧は遼の永州永昌軍の県、故に名有り。太祖天輔七年に嘗て節度使を置き、皇統三年に州を廃して来属す。
慶州は下州、玄甯軍刺史。境内に遼の祖州有り、天会八年に奉州と改め、皇統三年に廃止す。遼太祖の祖陵此に在り。境内に遼の懷州有り、旧に奉陵軍を置き、天会八年に奉徳軍と更め、皇統三年に廃止す。遼太宗、穆宗の懷陵此に在り。北山に遼の聖宗、興宗、道宗の慶陵有り。城中有りに遼の行宮有り、他州に比して富庶なり。遼時に此の郡を刺す者は耶律、蕭氏に非ざれば与からず。遼国の宝貨多く此に聚蔵す。北は界に至る二十里、南は盧川に至る二百二十里、西は桓州に至る九百里、東は臨潢に至る一百六十里。戸二千七。県一:旧に孝安県有り、天会八年に慶民県と改め、皇統三年に廃止す。
朔平は榷場務有り。
興州は甯朔軍節度使。本来は遼の北安州興化軍、皇統三年に軍を降格して興化県を置き、承安五年に昇格して興州と為し、節度を置く。軍名は寧朔、利民寨を利民県に改む。梅堅河徒門必罕、甯江、速馬剌の三猛安を撥ちて以てこれに隷属せしむ。貞祐二年四月に密雲県に僑置す。戸一万五千九百七十。県二:又た利民県有り、承安五年に利民寨を以て昇格し、泰和四年に廃止す。
興化は倚郭なり。遼の旧県、皇統三年に興化軍を降格して設置し、大定府に隷属す。承安五年に興州を県に建て、倚郭と為す。旧に白檀鎮有り。
宜興は本来興化県白檀鎮であり、泰和三年に県に昇格して所属した。
泰州は、徳昌軍節度使である。遼の時は本来契丹二十部族の牧地であり、海陵王の正隆年間に徳昌軍を置き、上京に隷属させたが、大定二十五年にこれを廃止した。承安三年に長春県に再び設置し、旧泰州を金安県とし、これに隷属させた。北は辺境まで四百里、南は懿州まで八百里、肇州までは三百五十里である。戸数三千五百四。県一、旧に金安県あり、承安三年に設置したが、まもなく廃止した。堡十九:
長春は、遼の長春州韶陽軍であり、天徳二年に降格して県となり、肇州に隷属したが、承安三年に当州に所属した。撻魯古河、鴨子河がある。別裏不泉がある。
辺堡については、大定二十一年三月、世宗は東北路招討司の十九堡が泰州の境内にあること、及び臨潢路に旧設の二十四の堡障が参差不斉であることを以て、大理司直蒲察張家奴らを派遣してその処置を視察させた。ここにおいて東北路は達裏帯石堡子から鶴五河の地分まで、臨潢路は鶴五河堡子から撒裏乃まで、いずれも直線に取って堡戍を列置した。評事移剌每が言うには、「東北路及び臨潢路に設置するものは、土が痩せて薪が絶えるので、移徙させる民には暫く水草を逐って居住させ、丁壮を分遣して営造を完了させ、壕塹を開いて辺備とすべきである。」上は、水草のない地には官が屋舎を建て、及び臨潢路の諸堡は全て放良人を以て戍守させよと命じた。省議は、「臨潢路二十四堡には、堡ごとに戸三十を置き、合わせて七百二十戸とし、もし営建が完了すれば、官が一年分の食糧を与える。」とした。上は凶年のため権宜的に停止し、暫く壕を開いて備えとせよとした。四月、吏部郎中奚胡失海を派遣して壕塹を経画させたが、間もなく砂雪に埋もれ塞がれ、防禦の用をなさなかった。そこで言うには、「二百五十の堡を築くことができ、一堡あたり一日に用工三百、計れば一月で完了し、糧食も十分に備えられ、辺防の久計と為し得る。泰州九堡、臨潢五堡の地は斥鹵であるので、官が屋舎を建てるほか、撒裏乃以西の十九堡は、旧戍の軍舎が少ないので、大塩濼の官木三万余を以て、及び直東堡の近嶺で木材を求め、各家ごとに官が一椽の室を構築して居住させることができる。」
西京路
西京路は、府二を有し、節鎮七を領し、刺郡八、県三十九、鎮九を管轄する。大定五年に宮室を建て、その殿を保安と名付け、その門は南を奉天、東を宣仁、西を阜成とした。天会三年に太祖の原廟を建てた。
大同府は、中であり、西京留守司が置かれる。晋の雲州大同軍節度使であり、遼の重熙十三年に西京に昇格し、府名を大同とし、金はこれを因襲した。皇統元年、燕京路を尚書省に隷属させ、西京及び山后諸部族を元帥府に隷属させた。旧に兵馬都部署司を置き、天徳二年に本路都総管府に改置し、後に留守司を更置した。転運司及び中都西京路提刑司を置く。瑪瑙環子、瑪瑙数珠を貢ぐ。白駝、安息香、松明、松脂、黄連、百薬煎、芥子煎、塩、撈塩、石緑、緑礬、鉄、甘草、枸杞、碾玉砂、地蕈を産する。戸九万八千四百四十四。県七、鎮三:
大同は倚郭である。遼が雲中を分置し、金はこれを因襲した。牛皮関、武周山、方山、奚望山、盛楽城、禦河、闘鶏台、平城外郭塩場、如渾水、桑乾河、紇真山がある。遼の帝后の像がある。華厳寺にある。鎮一、奉義。
雲中は晋の旧県名である。
宣寧は、遼の德州昭聖軍宣徳県であり、大定八年に改名した。官山、弥陀山、石緑山があり、碾玉砂を産する。鎮一、窟龍城。
懐安は晋の故県名である。
天成は、遼が雲中を分置した。
白登は本名を長清といい、大定七年に改めた。白登台、采掠山がある。
懐仁は、遼が雲中を分置し、貞祐二年五月に雲州に昇格した。黄花嶺、錦屏山、清涼山、金龍山、早起城、日中城がある。鎮一、安七疃。
豊州は、下であり、天徳軍節度使である。遼は嘗て軍名を応天と改めたが、まもなく復し、金はこれを因襲した。皇統九年に天徳総管府に昇格し、西南路招討司を置き、天徳尹が兼領した。大定元年に天徳軍節度使に降格し、豊州管内観察使を兼ね、元来管轄していた部族直撒、軍馬公事を、共に西南路招討司に隷属させた。不灰木、地蕈を産する。戸二万二千六百八十三。県一、鎮一:
富民(晉の旧名)。黒山・神山あり。鎮一、振武。
弘州、下、刺史。遼は軍を博寧と称し、もと襄陰村、統和年中に建つ。国初に保寧軍を置き、後に軍を廃す。瑪瑙を産す。戸二万二千二。県二、鎮二:
襄陰(倚郭)。本名は永寧、大定七年に改む。
順聖(もと安塞軍の故地、遼応曆年中に置き、金これを因襲す)。鎮二、陽門(貞祐二年七月に県に昇格)、大羅。
浄州、下、刺史。大定十八年、天山県を昇格させ、豊州の支郡とし、刺史が兼ねて譏察を権管す。北界まで八十里。戸五千九百三十八。県一:
天山(旧は榷場、大定十八年に置き、倚郭とする)。
桓州、下、威遠軍節度使。軍兵は西北路招討司に隷属す。明昌七年に改めて刺史を置く。北旧界まで一里半。戸五百七十八。県一:曷裏滸東川、金蓮川と改名す。世宗曰く「蓮は連なり、その金枝玉葉相連の義を取る」と。景明宮(避暑宮なり、涼陘に在り、殿・揚武殿あり、皆大定二十年に命名す)。査沙あり、白濼あり、国言(女真語)にて勺赤勒と曰う。
清塞(倚郭)。明昌四年、録事司を廃して置く。
撫州、下、鎮寧軍節度使。遼の秦國大長公主が州を建つ。章宗明昌三年、再び刺史を置き、桓州の支郡とし、柔遠を治所とす。明昌四年に司候司を置く。承安二年に節鎮に昇格、軍名を鎮寧とし、西北路招討司の管轄する梅堅必剌・王敦必剌・拿憐術花速・宋葛斜忒渾の四猛安を撥してこれに隷属せしむ。戸一万一千三百八十。県四:旺國崖あり(大定八年五月、静寧山と改名)、麻達葛山あり(大定二十九年、胡土白山と改名)、冰井あり。
柔遠(倚郭)。大定十年、燕子城に置き、宣德州に隷属す。明昌三年に来属す。燕子城あり(国言にて吉甫魯灣城)、北羊城あり(国言にて火唵榷場)、査剌嶺・沔山・大漁濼あり。行宮に樞光殿あり。双山・七里河・石井・蝦蟆山・昂吉濼(別名鴛鴦濼)・得勝口(旧名北望澱、大定二十年に改名)あり。
集寧(明昌三年、春市場を以て置く。北界まで二百七十里)。
豊利(明昌四年、泥濼を以て置く)。蓋裏泊あり。
威寧(承安二年、撫州の新城鎮を以て置く)。
徳興府、晉の新州、遼の奉聖州武定軍節度、国初これを因襲す。大安元年に府に昇格、名を徳興とす。戸八万八百六十八。県六、漫天堝あり(泰和二年、拂雲と改名)、平悪崖あり(壘翠岩と改名)。鎮一:
徳興(倚郭)。旧名は永興県、大安元年に改名す。涿鹿定・東水鎮あり。鶏鳴山あり。
媯川は遼の可汗州清平軍であり、もとは晋の媯州である。会同元年に遼の太祖が嘗て可汗州と名付け、県の旧称は懐戎であったが、懐来と改称し、明昌六年に今の名に改めた。西北に合河亀館石橋があり、明昌四年に建立された。
縉山は遼の儒州縉陽軍の県で旧名である。皇統元年に州を廃して当州に属し、崇慶元年に鎮州に昇格した。鎮は一、永安。
望雲はもと望雲川の地であり、遼の皇帝が嘗て居住し、御荘と号し、後に県に改められ、金はこれを踏襲した。
礬山は晋の故県であり、国初は弘州に属し、明昌三年に当州に属した。
龍門は晋の県であり、国初は弘州に属し、後に当州に属した。明昌三年に宣徳州に割属した。慶寧宮があり、行宮である。泰和五年に提挙が龍門令を兼ねた。
昌州は、天輔七年に降格して建昌県となり、桓州に属した。明昌七年に狗濼を以て再び設置し、撫州に属し、後に当州に属した。戸数一千二百四十一。県一:
宝山には狗濼があり、国言(女真語)で押恩尼要という。その北五百余里に日月山があり、大定二十年に抹白山と改称した。国言で涅裏塞一山という。
宣徳州は下州、刺史。遼が晋の武州を帰化州雄川武軍と改め、大定七年に宣化州とし、八年に再び宣徳と改めた。戸数三万二千百四十七。県二:
宣徳は旧文徳県であり、大定二十九年に改称した。
宣平は承安二年に大新鎮を置いて設置し、北辺で用兵の際に嘗てこの地に駐屯したことによる。
朔州は中州、順義軍節度使。貞祐三年七月、嘗て朔州の広武県を代州に割属させた。鉄、荊三棱、枸杞を産する。戸数四万四千八百九十二。県二:
鄯陽は晋の故県である。桑乾河、大和嶺、天池、雁門関、覇徳山がある。
馬邑は晋の故県であり、貞祐二年五月に固州に昇格した。洪濤山、鑊水があり、また桑乾河ともいう。
武州は辺州、下州、刺史。大定以前は引き続き宣威軍を置いた。戸数一万三千八百五十一。県一:
寧遠は晋の故県である。黄河がある。
応州は下州、彰国軍節度使の治所である。戸数三万二千九百七十七。県三を管轄する。
金城は晋代の旧県である。黄瓜堆・複宿山・桑乾河・渾河・崞川水・黄花城がある。
山陰は本来河陰と称したが、大定七年に鄭州の属県と同名であったため、改称した。貞祐二年五月に忠州に昇格した。黄花嶺・桑乾河がある。
渾源は晋代の県であり、貞祐二年五月に渾源州に昇格した。塩を産する。
蔚州は下州、忠順軍節度使の治所である。遼が一時武安軍と改めたが、まもなく復した。地蕈を貢進する。戸数五万六千六百七十四。県五を管轄する。
霊仙の北に桑乾河・代王城・薄家村がある。
広霊はまた「陵」とも作る。遼の統和三年に霊仙を分割して設置した。
霊丘は晋代の県であり、貞祐二年四月に成州に昇格し、四年に代州の支郡に割属した。
定安は晋代の県である。桑乾河がある。貞祐二年四月に定安州に昇格した。
飛狐は晋代の県である。
雲内州は下州、開遠軍節度使の治所である。天会七年に奚の第一・第三部を移して守備させた。青鑌鉄を産する。戸数二万四千八百六十八。県二、鎮一を管轄する。
柔服には夾山が城北六十里にある。鎮一:寧仁は旧県であり、大定年間以後に廃されて鎮となった。
雲川は本来曷董館であり、後に裕民県に昇格したが、皇統元年に再び廃されて曷董館となり、大定二十九年に再び昇格し、現在の名に改めた。
寧辺州は下州、刺史の治所である。国初に鎮西軍を置き、貞祐三年に嵐州に隷属し、四年二月に防禦州に昇格した。戸数六千七十二。県一を管轄する。
寧辺は正隆三年に設置された。
東勝州は下州、辺境、刺史の治所である。国初に武興軍を置き、古東勝城がある。戸数三千五百三十一。県一、鎮一:
東勝県。鎮は一、寧化鎮。
部族節度使:
烏昆神魯部族節度使、軍兵の事は西北路招討司に属す。明昌三年に節度使を廃し、招討司に兼領させた。
烏古裏部族節度使。
石壘部族節度使。
助魯部族節度使。
孛特本部族節度使。
計魯部族節度使。
唐古部族、承安三年に部羅火紮石合節度使と改称した。
迪烈(また迭剌とも作す)女古部族、承安三年に土魯渾紮石合節度使と改称した。
詳穏九処:
咩颭詳穏、貞祐四年六月に葛也阿鄰猛安と改称した。
木典颭詳穏、貞祐四年に抗葛阿鄰謀克と改称した。
骨典颭穏、貞祐四年に撒合輦必剌謀克と改称した。
唐古颭(タング・ヤン)の詳穏。
耶剌都颭(ヤラド・ヤン)の詳穏。
移典颭(イデン・ヤン)の穏。
蘇木典颭(スムデン・ヤン)の詳穏、北京に近し。
胡都颭(フド・ヤン)の詳穏。
霞馬颭(シァマ・ヤン)の詳穏。
群牧十二箇所:
斡獨椀(オドワン)群牧、大定四年に斡睹只(オドジ)群牧と改称す。
蒲速斡(プスオ)群牧。もと斡睹只の地、大定七年に分置す。
耶魯椀(イェルワン)群牧。
訛裏都(オリド)群牧。
颭斡(ヤンオ)群牧。
歐裏本(オリブン)群牧。
烏展(ウジャン)群牧。
特滿(テマン)群牧。
駝駝都群牧。
訛魯都群牧。
忒恩群牧。承安四年に創置。
蒲鮮群牧。承安四年に創置。
中都路
中都路は、遼の会同元年に南京と為り、開泰元年に燕京と号す。海陵の貞元元年に都を定め、燕は列国の名なりとして京師の号に当たらずとし、遂に中都と改む。府一、節鎮三を領し、刺郡九、県四十九。天徳三年、初めて燕城の宮室制度を図上し、三月、張浩等に命じて燕城を増広せしむ。城門十三、東は施仁・宣曜・陽春と曰い、南は景風・豊宜・端礼と曰い、西は麗澤・顥華・彰義と曰い、北は会城・通玄・崇智・光泰と曰う。浩等は真定府潭園の材木を取り、宮室及び涼位十六を営建す。応天門十一楹、左右に楼有り、門内に左・右翔龍門及び日華・月華門有り、前殿を大安と曰い、左・右掖門有り、内殿東廊を敷徳門と曰う。大安殿の東北は東宮と為り、正北に三門を列ね、中を粋英と曰い、寿康宮と為り、母后の居する所なり、西を会通門と曰い、門北を承明門と曰い、又北を昭慶門と曰う。東を集禧門と曰い、尚書省は其の外に在り、其の東西門は左・右嘉会門なり、門に二楼有り、大安殿後門の後なり。其の北を宣明門と曰い、則ち常朝の後殿門なり。北を仁政門と曰い、傍に朵殿有り、朵殿の上に両高楼有り、東・西上閣門と曰い、内に仁政殿有り、常朝の所なり。宮城の前廊、東西各二百余間、三節に分かれ、節に一門有り。将に宮城に至らんとするに、東西に転じて各々廊百許間有り、馳道の両傍に柳を植え、廊脊に碧瓦を覆い、宮闕殿門は則ち純粋に碧瓦を用う。応天門旧名は通天門、大定五年に改む。七年、福寿殿を寿安宮と改称す。明昌五年、復た隆慶宮を以て東宮と為し、慈訓殿を承華殿と為す。承華殿とは、皇太子の居する東宮なり。泰和殿、泰和二年に慶寧殿と改名す。又崇慶殿有り。魚藻池・瑶池殿位、貞元元年に建つ。神龍殿有り、又観会亭有り。又安仁殿・隆徳殿・臨芳殿有り。皇統元年に元和殿有り。常武殿有り、広武殿有り。撃球・習射の所と為す。京城北の離宮に太寧宮有り、大定十九年に建つ、後に寿寧と更め、又寿安と更め、明昌二年に万寧宮と更む。瓊林苑に横翠殿有り。寧徳宮西園に瑶光台有り、又瓊華島有り、又瑶光楼有り。皇統元年に宣和門有り。正隆三年に宣華門有り、又撒合門有り。
大興府、上。晋の幽州、遼の会同元年に南京に升り、府を幽都と曰い、仍って盧龍軍と号し、開泰元年に永安析津府と更む。天会七年、河北を河北東・西路に分つ時に河北東路に属す、貞元元年に今の名に更む。戸二十二万五千五百九十二。大定四年十月、都門外の夾道に重ねて行を成し柳を各々百里植うるを命ず。金銀銅鉄を産す。薬産は滑石・半夏・蒼朮・代赭石・白龍骨・薄荷・五味子・白牽牛。県十、鎮一:
大興、倚。遼の名は析津、貞元二年に今の名に更む。建春宮有り。鎮一、広陽。
宛平、倚。本は晋の幽都県、遼の開泰元年に今の名に更む。玉泉山行宮有り。
安次、晋の旧名。
漷陰、遼の太平年中、漷陰村を以て置く。
永清、晋の旧名。
宝坻、本は新倉鎮、大定十二年に置き、香河県の近民を以て之に附す。承安三年に盈州を置き、大興府の支郡と為し、香河・武清を以て之に隷せしむ。尋いで州を廃す。
香河、遼は武清県の孫村を以て置く。
昌平、居庸関有り、国名は査剌合攀。
武清は晋代の県である。
良郷には料石岡・閻溝がある。
通州は下州、刺史の州。天徳三年に潞県を昇格させて設置し、三河県をこれに隷属させた。興定二年五月に防禦州に昇格した。戸数三万五千九十九。県二:
潞は晋代の県名。潞水がある。
三河は晋代の県名。
薊州は中州、刺史の州。遼が上武軍を置いた。戸数六万九千十五。粟を産する。県五、旧来はまた永済県があったが、大定二十七年に永済務を昇格させて置いた。何年に廃止されたかは詳らかでない。また黎豁県があったが、設置・廃止ともに詳らかでない。鎮二:
漁陽は州治に倚る。
遵化は遼の景州清安軍。鎮一は石門。
豊潤は泰和年間に設置。
玉田には行宮・偏林があり、大定二十年に御林と改称された。鎮一は韓城。
平峪は大定二十七年、漁陽県の大王鎮を昇格させて置いた。
易州は下州、刺史の州。遼が高陽軍を置いた。戸数四万一千五百七十七。県二:
易には易水がある。
淶水には淶水がある。
涿州は中州、刺史の州。遼では永泰軍であった。羅を貢納する。戸数十一万四千九百十二。県五、鎮一:
范陽は倚郭。晉代の縣。湖梁河あり。劉李河あり。鎮一は政滿。
固安は晉代の縣。
新城。
定興は大定六年に范陽縣の黃村を以て置き、淶水・易縣の近民を割きて之に屬す。巨馬河あり。
奉先は大定二十九年に萬寧縣を置きて山陵に奉じ、明昌二年に今の名に更む。房山・龍泉河・盤甯宮あり。
順州は下、刺史。遼は歸化軍を置く。戸三萬二千四百三十三。縣二:
溫陽は舊名懷柔、明昌六年に改む。螺山・漵水・兔耳山あり。
密雲は遼の檀州武威軍。古北山あり、國言に留斡嶺と曰ふ。
平州は中、興平節度使。遼は遼興軍と爲す。天輔七年に燕西の地を宋に與へ、遂に平州を以て南京と爲し、錢帛司を以て三司と爲す。天會四年平州を復し、嘗て軍帥司を置く。天會十年軍帥司を徙めて遼陽府に治め、後に轉運司を置く。貞元元年轉運司を以て並びに中都路に隷す。貞祐二年四月東面經略司を置き、八月に罷む。櫻桃・綾を貢す。戸四萬一千七百四十八。縣五、鎮一:
盧龍は倚郭。
撫寧は本は新安鎮、大定二十九年に置く。
海山は本は漢の海陽故城、遼は俘はりし望都縣の民を以て置き、故に名づけて望都と爲す。大定七年名を更む。
遷安は本は漢の令支縣故城、遼は俘はりし安喜縣の民を以て置き、因りて名づけて安喜と爲す。大定七年今の名に更む。鎮一は建昌。
昌黎は遼の營州鄰海軍、俘はりし定州の民を以て廣寧縣を置く。皇統二年州を降して來屬し、大定二十九年廣寧府と重なるを以て、故に今の名に更む。
灤州は中、刺史。本は黃落故城、遼は永安軍と爲す。天輔七年因りて節度使を置く。戸六萬九千八百六。縣四、松亭關あり、國名は斜烈只。鎮二:
義豊県(倚郭)。
石城県には長春行宮がある。長春澱は旧名を大定澱といい、大定二十年に改称した。鎮は一つ、榛子鎮。
馬城県。
楽亭県。鎮は一つ、新橋鎮。
雄州、中州。宋では易陽郡といった。天会七年に永定軍節度使を置いた。河北東路に隷属し、貞元二年にこの路に属した。戸数二万四百十一。県三:
帰信県(倚郭)。易水、巨馬河がある。
容城県。泰和八年に安州に割属させ、貞祐二年に安粛州に隷属させた。南易水、大泥澱、渾泥城がある。
保定県。宋の保定軍で、後に廃されて県となった。
霸州、下州、刺史。遼の益津郡。河北東路に隷属し、貞元二年にこの路に属した。戸数四万一千二百七十六。県四:
益津県(倚郭)。大定二十九年に創設され、倚郭とした。
文安県。
大城県。
保安県。国初は宋に因んで信安軍とし、大定七年に信安県に降格し、霸州に隷属させた。元光元年四月に鎮安府に昇格した。高陽公張甫を重んじたためである。
保州、中州、順天軍節度使。宋の旧軍事州で、天会七年に順天軍節度使を置き、河北東路に隷属し、貞元二年にこの路に属した。海陵王が清苑郡の名を賜った。戸数九万三千二十一。県二:
清苑県(倚郭)。宋では保塞といい、大定十六年に改称した。抱陽山、沈水、饋軍河がある。
満城は大定三十八年に清苑県塔院村を以て置く。
安州は下、刺史。宋の順安軍は高陽を治め、天会七年に安州に昇格し、河北東路に隷属し、後に高陽軍を置く。大定二十八年に葛城に治所を移し、因って葛城を県に昇格させ、倚郭とする。泰和四年に混泥城を渥城県に改め、来属せしめ、八年に州治を渥城に移し、葛城を属県とす。戸三万五百三十二。県三:
渥城は倚郭。泰和四年に置く。
葛城は大定二十八年に置く。
高陽は泰和八年正月に莫州に改隷し、四月に復す。徐河、百済河有り。
遂州は下、刺史。宋の広信軍、天会七年に遂州に改め、河北東路に隷属し、貞元二年に来隷し、号して龍山郡と曰う。泰和四年に廃して遂城県とし、保州に隷属せしめ、貞祐二年に復た州を置く。戸一万一千百七十四。県一:
遂城は倚郭。光春宮行宮有り。遂城山、易水、漕水、鮑河有り。
安粛州は下、刺史。宋の安粛軍、天会七年に徐州に昇格し、軍は旧の如く、河北東路に隷属し、貞元二年に来属す。天徳三年に安粛州に改め、軍名を徐郡軍と曰う。大定後、刺郡に降格し、軍を廃す。戸一万二千九百八十。県一:
安粛。『金初州郡志』に按ずるに、雄・覇・保・安・遂・安粛の六州は皆広寧府に隷属す。『太宗紀』に天会七年に河北を東・西路に分つと載すれば、則ち河北東路に隷属す。豈に平州を南京とした後に、六州を広寧に隷属せしめたるか?然らずんば則ち郡志の誤りなり。