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金史
志第四: 五行
五行の精気は、天にあっては五緯となり、地にあっては五材となり、人にあっては五常および五事となる。五緯のことは『天文志』に記し、歴代皆そうである。その形質は地にあり、性情は人にあり、吉凶はそれぞれその類に応じて、天地の間に感応をなす。これについて歴代にはまた『五行志』がある。両漢以来、夏侯勝らの儒者は、専ら『洪範五行伝』を学問とし、史書を編む者は多くその説を採り、ある徴兆の吉凶を言うには、必ずある事柄の得失をこれに結びつけ、五行を配当した。これをすべて真実とすれば、その弊は傅会を免れず、これをすべて虚妄とすれば、「肅(恭謹)であれば時に雨の如く」、「蒙(暗愚)であれば常に風の如く」の類は、箕子がすでに言っているところである。金の世は天下を統一できず、天文災祥にはなお星野の説があるが、国内に現れた五行の吉凶は他に転嫁できぬので、その史官の記したものを集め、前史の法に倣い、『五行志』を作る。五常五事の感応については、必ずしも漢儒の例に拘泥する必要はない。
初め、金の興起にあたり、諸部を平定するに当たって、しばしば吉祥の異変があった。故に世祖は敵と戦うたびに、しばしば夢でその勝負を占った。烏春の兵が蘇東海甸に至った時、世祖は言った。「私はかつて異なる夢を見た。自ら戦ってはならぬ。もし左軍に力戦する者があれば、必ず勝つであろう。」やがて粛宗らと共にこれを撃ち、敵は大敗した。
太祖の生誕の際、常に五色の雲気が二千斛の穀倉のような形状をなし、しばしば東方に見えた。遼の司天の孔致和が言うには、「その下に異人が生まれ、並びならぬ事業を建てるであろう。天が象をもって告げているのであって、人力でなし得ることではない。」
温都部の跋忒が叛いた時、穆宗は太祖を派遣してこれを討たせた。出発の挨拶に際し、太祖は奏上して言った。「昨夜、赤い祥瑞を見ました。行けば必ず勝ちます。」そこで跋忒と戦い、これを殺した。
穆宗が阿疏を攻めた日、辰巳の刻(午前8時頃)に、突然暴雨が降り暗くなり、雷電が阿疏の居所を取り囲んだ。その夜、雷のような大きな音を立てる巨大な火が、阿疏の城中に墜落した。そこでこれを攻め落とした。
太祖がかつて寧江に行った時、夢に斡帯の禾場(穀物の脱穀場)が焼け、あっという間に尽きてしまうのを見た。目覚めて大いに悲しみ、すぐに馬を走らせて戻ると、斡帯はすでに病床に臥しており、翌日亡くなった。
斡塞が高麗を討伐した時、太祖は臥していて夢を見、起き上がって言った。「今日、必ず勝利の知らせが来るであろう。」そこで球場に宴の準備をして待った。二頭の麞(ノロジカ)が水を渡って来たので、これを捕らえた。太祖は言った。「これは吉兆である。」言葉が終わらないうちに、勝利の報告書が届き、人々は大いに怪しんだ。
ある日、寧江に軍を進め、高い丘に駐屯した。撒改が仰ぎ見ると、太祖の体は高い松のようであり、乗っている馬は岡阜のように大きく見えた。太祖もまた撒改の人馬が普通でないのを見た。撒改はそこで自分の見たことを申し上げた。太祖は喜んで言った。「これは吉兆である。」すぐに酒を捧げて地に注ぎ、「いつの日か成功したならば、必ずこの地を覚えていよう。」と誓った。軍が唐括帯斡甲の地に至ると、諸軍が鎧を着けて立ち並んだが、人の足や戈矛の上に光が起こった。翌日、劄只水に至ると、光がまた初めのようになった。
收国元年、上(太祖)が寧江州におられた時、正円形の光が空から墜ちた。八月己卯、黄龍が空中に現れた。十二月丁未、上が遼軍の様子をうかがって還り熟結濼に至った時、光が再び矛の先に見えた。
天輔六年三月、軍が西京を攻めた時、斗ほどの大きさの火がその城中に墜ちた。この月、城は降伏したが再び叛いた。四月辛卯、これを攻め取った。
太宗天会二年、曷懶路の移鹿古水で長雨が降り農作物に被害を与え、さらに蝗に食い荒らされた。秋、泰州で水害があり、農作物に被害を与えた。三年七月、錦州で野蚕が繭を作った。九月、広寧府が嘉禾(めでたい穀物)を献上した。四年十月、中京が嘉禾を献上した。六年冬、移懶路が飢饉に見舞われた。九年七月丙申、上(太宗)が西楼で政務を聴いていた時、咸州から貢がれた白鵲の鳴き声が突然異常であるのを聞き、上は立ち上がってこれを見ると、東楼の光明の中に、高さ五丈ほどの巍然たる像があり、その下に紅雲がこれを支え、世にいう仏のようなものであった。そこで手を合わせてひざまずき敬虔な祈りを捧げたが、長い間で消え去った。十年冬、移懶路・曷懶路などが飢饉に見舞われた。
熙宗天会十三年五月、甘露が盧州熊嶽県に降った。十五年七月辛巳、役所が四足の雀を献上した。丙戌の夜、京師で地震があった。
天眷元年夏、龍が熙州の野水に現れ、合わせて三日間続いた。初め、水面に一匹の蒼龍が見え、しばらくして消えた。翌日、金龍一匹が現れ、その爪で一嬰児を支え、児は龍に弄ばれていたが、少しも恐れる様子がなく、三日目も同様であった。また一人の者が、白馬に乗り、紅袍に玉帯という、少年の官人のような姿で現れ、馬の前に六匹の蟾蜍(ヒキガエル)がいた。合わせて三刻ほどで消え去り、郡人は競ってこれを見物した。七月丁酉、按出滸河が氾濫し、民家を破壊した。三年十二月丁丑、地震があった。
皇統元年(1141年)秋、蝗害あり。十一月己酉、稽古殿火災。二年二月、熙河路飢饉。三月辛丑、大雪。秋、燕・西東二京・河東・河北・山東・汴・平州大豊作。三年、陝西旱魃。五月丁巳、京兆府瑞麦を貢ぐ。七月丙庚、太原より獬豸及び瑞麦を進む。四年正月乙丑、陝西より嘉禾を進む、十二茎、一本七穎。十月甲辰、地震。五年閏月戊寅、大名府より牛が麟を生むと進む。壬辰、懷州より嘉禾を進む。七年十一月、完顔秉德三角牛を進む。九年四月壬申夜、大風雨、雷電にて寝殿の鴟尾壊る。火ありて帝の寝殿に入り、帷幔を焼く、上懼れて別殿に移る。丁丑、龍ありて利州榆林河上にて闘う。大風にて民居官舎の十六七を壊し、木瓦人畜皆十余里に飄揚し、死傷者数百、同知州事石抹裏圧死す。
海陵天徳二年(1150年)十二月、野人石炭を採り、異香を得る。
貞元三年(1155年)五月癸丑、南京大内災。三年十二月己丑、雨、木氷。
正隆二年(1157年)六月壬辰、蝗飛来して京師に入る。秋、中都・山東・河東蝗害。四年十一月庚霜、木に附く。五年二月辛未、河東・陝西地震。鎮戎・徳順等軍大風、廬舎を壊し、民多く圧死す。海陵、司天馬貴中等に問うて曰く「何ぞ地震するや」と。貴中等曰く「伏陽陰を逼るに由る」と。又問う「震えて大風するは何ぞや」と。対えて曰く「土其の性を失えば、則ち地以て震う。風は号令たり、人君厳急なれば則ち風及び物の災有り」と。六年六月壬戌、大風にて承天門の鴟尾を壊す。
是の歳、世宗貞懿皇后の憂に居り、遼陽に在り、一日方に寝たる時、紅光其の室を照らし、及び龍其の室上に見え、又夜に大星其の邸に流入す。八月、復た雲気西より来たり、黄龍其中に見え、人皆之を見る。是の時、臨潢府空中に車馬の声を聞き、仰ぎ視れば風雲杳靄たり、神鬼兵甲天を蔽い、北より南に至り、仍ち行くを促す語有り。未だ歳ならず、海陵詔を下して南征す。
世宗大定二年(1162年)閏二月辛卯、神龍殿十六位焚け、太和・厚徳殿に延焼す。三年三月丙申、中都以南八路蝗害。四年三月庚子夜、京師地震。七年辛丑、大風雷雨、木を抜く。臨潢府境内に禾黍穞生ず。嵐州白兔二を進む。八月、永興嘉禾を進む、異畝同穎。中都南八路の蝗飛来して京畿に入る。十一月辛丑、尚書省火災。是の歳、豊年なり。五年六月戊子、河南府芝草十三本を進む、芝田の石上に得て、之を太廟に薦ぐ。六月甲辰、大安殿の楹に芝を産す、色玉の如し。丙午、京師地震、声西北より来たり、殷殷として雷の如く、地白毛を生ず。七月戊申、又震う。十一月癸酉、大霧、昼晦し。七年九月庚辰、地震。八月五月甲子、北望澱に大風、雨雹、広さ十里、長さ六十里。六月、河李固渡に決し、水曹州に入る。十年正月、鄧州芝草を進む。十一年六月戊申、西南路招討司苾裏海水の地に雨雹三十余里、小なるもの鶏卵の如く、其の一最大、広さ三尺、長さ太余、四五日にして始めて消ゆ。十二年三月庚寅、雨土。四月、旱魃。十三年正月、尚書省奏す「宛平の張孝善に子曰く合得有り、大定十二年三月旦疾を以て死す、暮に至り復活し、云う是れ本は良郷の人王建の子喜児なりと。而るに喜児は前三年已に死せり、建家事を以て験するに、能く之を具に道う。此れ蓋し屍を仮りて魂を還すなり、王建に付して子と為さんことを擬す」と。上曰く「若し是くの如くんば則ち奸幸の小人競いて詐偽を生じ、人倫を瀆乱せん」と。止めて孝善に付す。八月丁丑、憫忠寺に於いて進士を策試す、夜半忽ち音楽の声東塔上に起こり、西に宮に達す。考官完顔蒲捏・李晏等以て文運始めて開け、賢を得るの兆と為す。十四年八月丁巳朔、颭裏舌に次ぐ、是の午、白龍禦帳の東小港中に見え、既に雷雲に乗じて臨みて上り、尾猶地に曳き、良久しくして北に去る。十六年三月戊申、臨潢の境に雨豆す、其の形上鋭くして赤く、之を食すれば味頗る苦し。五月戊申、南京宮殿火災。是の歳、中都・河北・山東・陝西・河東・遼東等十路旱魃・蝗害。十七年七月、大雨、滹沱・盧溝水溢れ、河白溝に決す。二十年四月己亥、太甯宮門火災。五月丙寅、京師地震、黒白の毛を生ず。七月、旱魃。秋、河衛州に決す。二十二年五月、慶都に蝗蝝生じ、散漫十余里。一夕大風、蝗皆見えず。二十三年正月辛巳、広楽園の灯山焚け、熙春殿に延焼す。三月乙酉、氛埃雨土。四月庚子亦た之の如し。五月丁亥、雨雹、地白毛を生ず。二十四年正月辛卯朔、徐州より芝十八茎を進む。真定嘉禾二本、異畝同穎。二十六年正月庚辰、河南府より芝三本を進む。秋、河決し、衛州城を壊す。二十七年四月辛丑、京師地微震す。
章宗大定二十九年(1189年)五月丁未、地白毛を生ず。五月、曹州河溢る。十二月、密州より白鶉・白雉各一を進む。河間府より嘉禾を進む。是の冬雪無し。
明昌元年(1190年)正月、懷州・河間等処より芝草・嘉禾を進む。二月、地白毛を生ず。六月庚子、都水異卵を進む。夏、旱魃。七月、淫雨稼を傷む。二年五月、桓・撫等州旱魃。秋、山東・河北旱魃、飢饉。三年秋、綏徳に虸蚄蟲生じ、旱魃。四年三月、御史中丞董師中奏す「乃ち者太白昼見え、京師地震い、北方に赤気有り、遅明にして始めて散ず。天の象を示すは、冀くは以て聖主を警悟せしむる有らんとす」と。上問う「言う所の天象何れよりか之を得る」と。師中曰く「前監察御史陳元升之を一の司天長行より得たり」と。上曰く「司天臺官奏せざるは固より罪有り、其れ人に語するは尤も非なり。朕今より司天事有りて奏せざる者は長行言うを得しめんと欲す、如何」と。師中曰く「善し」と。五月、霖雨、有司に命じて晴を祈らしむ。六月、河衛州に決し、魏・清・滄皆害を受く。是の歳、河北・山東・南京・陝西諸路大稔。邢・洺・深・冀及び河北西路十六謀克の地、野蠶繭を成す。
十一月壬午、木に氷がついた。五年七月丙戌、天壽節、先だって陰雨連日であったが、この日に晴れ間が開け、殿前の雲間に龍が尾を曳くのが見えた。八月、黄河が陽武の旧堤を決壊し、封丘を灌漑して東へ流れた。六年二月丁丑、京師で地震があり、大雨雹、昼間が暗くなり、大風が吹き、応天門左の鴟尾が震動して壊れた。六年八月、大雨と雷電があり、渾儀の亀趺から龍が立ち上がり、台が突然真っ二つに裂けて崩れた。渾儀は台下に倒れ伏した。
承安元年五月、正月から雨が降らず、この月に至って雨が降った。六月、平晋県の民利通の家の蚕が自ら綿段を成し、長さ七尺一寸五分、幅四尺九寸であった。二年、正月から四月まで雨が降らなかった。六月丙午、雹が降った。四年三月戊午、雹が降った。五月、旱魃があった。五年五月庚辰、地震があった。十月庚子、天が久しく曇り、この日は雲の色が黄で風霾があった。癸卯の朝、陰霜が木に付着し、日没までそのようであった。
泰和二年八月丙申、磁州武安県の鼓山石聖台に、大鳥十羽が台上に集まった。その羽は五色爛漫で、文様は多く赤黄色、赭色の冠と鶏の首、尾は広く長く、形状は鯉魚の尾のようで長く、高さは人を超え、九羽の雛がやや小さく傍らに侍り、これも高さ四五尺あった。禽鳥数万羽が形色それぞれ異なり、或いは飛び或いは蹲り、或いは歩き或いは立ち、皆行列を成し、首は皆まっすぐ正面を向いて朝拝するようであった。初め東南より来たり、その勢いは連雲の如く、声は殷雷の如く、林木は震動し、牧者は驚き慌て、直ちに牛を追い立て物を打ち鳴らして驚かせたが、全く動じなかった。やがて大鳥が鵰鶚の如きものが怒って来てこれを搏撃したので、民はますます恐れ、駆けつけて県官に告げた。皆これを鳳凰であると思い、工人に命じてこれを図に描かせた。二日留まり西北へ去った。その場所を検視すると、糞の跡が数頃に及び、その色はそれぞれ異なっていた。遺された禽鳥数千羽は、数日間去ることができなかった。食べたものは皆巨大な鯉で、大きいものは一丈余り、魚の骨が地面を覆った。章宗はこの事を宗廟に告げ、中外に詔を下した。三年四月、旱魃があった。十月己亥、大風が吹いた。四年正月壬申、陰霧があり、木に氷がついた。三月丁卯、大風が吹き、宣陽門の鴟尾を破壊した。四月、旱魃があった。壬戌、万寧宮の端門で火災があった。十一月丁卯、曇天。木に氷がつくことが三日間続いた。五年夏、旱魃があった。八年閏四月甲午、雹が降った。河南路で蝗害があった。
六月戊子、飛蝗が京畿に入った。八月乙酉、虎が陽春門外に至り、帝が車駕を出してこれを射て獲た。時にまた童謡があった。「易水が流れ、汴水が流れ、更に年が過ぎてまた休み休み。両家ともよく住み、前後総じて留まるとなる。」貞祐年中に至り、挙国して汴に遷都した。
衛紹王大安元年、徐・邳の境界の黄河が五百余里にわたり清くなり、ほぼ二年続いた。この事を以て中外に詔を下した。臨洮の人楊珪が上書して言うには、「黄河の性質は本来濁っているのに、今反って清いのは、水がその本性を失ったのである。ちょうど天は動き地は静かなるべきところ、動くべきものを静かにし、静まるべきものを動かすようなもので、どうなることか、それが災異であることは明らかである。かつ『伝』に曰く、『黄河青く、聖人生まる。』と。仮に聖人が生まれたとしても、恐らく今日ではないであろう。また『黄河清く、諸侯天子となる。』とある。正に戒め懼れて、災変を消し去るべきであるのに、却って四方に誇示するとは、臣には理解できない。」宰相はこれを妖言とし、誅殺を議したが、言路を絶つことを慮り、即ち詔して大興府に鎖をかけて本管に還させた。十一月丙申、平陽で地震があり、音が西北より来た。戊戌の夜、また地震があり、この時から再び震動し、浮山県が特に激しく、城の官舎と民家の倒壊したものが十の七、八に及び、死者は凡そ二、三千人に及んだ。二年二月乙酉、大地震があり、殷殷たる音がした。六月、七月から九月の晦日まで。その震動は一様ではなかった。十一月、京師の民周修武の宅前の渠内から火が出て、高二尺、その板橋を焼いた。また十日後、大悲閣の幡竿の下の石の隙間から火が出て、高二、三尺、人が近づけば即ち消え、凡そ十余日続いた。これより都城中で連夜二、三十箇所が焼けた。この年の四月、山東・河北で大旱魃があり、六月に至り、雨が再び止まず、民間では一斗の米が千余銭に至った。三年二月乙亥の夜、大風が西北より来て、屋根を飛ばし木を折り、清夷門の関門を吹き折った。三月戊午、大悲閣の火災があり、万余家に延焼し、火は五日間絶えなかった。山東・河北・河東諸路で大旱魃があった。この年、男子郝贊が省に詣でて言うには、「上即位の後、天変が屡々現れ、火が万家を焼き、風が門関を折るは、小さな異変ではない。退位して有徳者に譲るべきである。」有司が問うて「お前は狂疾か?」と。贊は大声で言うには、「私は狂疾ではない。ただ社稷のために計らうのである。宰相は皆その才に非ず。」と。毎日省の前で大声で呼び、凡そ半月続いた。上怒り、これを人目につかぬ所で誅した。
崇慶元年七月辛未未の刻、風が東より来て、帛一段を吹き上げ数十丈の高さとなり、宛転として龍の如く、拱辰門内に墜ちた。この年、河東・陝西・南京諸路で旱魃があった。二年二月、進士の榜を放ち、狂僧が公然と言うには、「天子を殺す。」と。これを求めても所在が知れなかった。この年、河東・陝西で大旱魃があり、京兆では一斗の米が八千銭に至った。
至寧元年、宣宗の彰徳故園の竹が白い花を開き、鷺鷥藤のようであった。紫雲が城上を覆うこと数日、やがて帝は大統を継いだ。七月、河東・陝西諸処の旱魃のため、工部尚書高朵剌を遣わして岩瀆に雨を祈らせた。この時に至って雨が十分になった。時に一斗の米が一万二千銭に至ることもあった。八月癸巳、衛紹王が弑逆に遇った。この日、海水が潮を引かなかった。宝坻塩司はその課税が不足することを懼れ、祈祷をしても応えがなかった。九月丙午、宣宗が即位して乃ち潮が満ちた。初め、衛王が即位して大安と改元し、四年にして崇慶と改め、即ちまた至寧と改めた。ある人が言うには、「三元大崇至る。」と。やがて胡沙虎の変乱があった。
宣宗貞祐元年八月戊子の夜、夜明け前、大霧が蒼黒く、一歩も見えず、辰巳の刻になってようやく散じた。十二月乙卯、雨が降り、木に氷がついた。時に衛州に童謡があった。「団鸑冬、半年を劈く。寒食節、人煙無し。」と。明年正月、元兵が衛を破り、遂に丘墟となった。二年六月、潮白河が溢れ、古北口の鉄裏関門から老王穀まで漂った。庚申、南京の宝鎮閣で火災があった。壬戌、帝が宜村に駐蹕し、西北に黄龍が現れた。冬、黄河が陝州の境界から衛州の八柳樹まで、十余日間清くなり、細かい鱗までも見えた。十二月己酉、雨が降り、木に氷がついた。三年二月戊午、大風が吹き、隆徳殿の鴟尾が壊れた。三月戊辰、大風が吹き、霾があった。四月、去冬から雨が降らず、この月に至った。五月、河南で大蝗害があった。六月、京城中で夜に妄りに狼を驚き追い払い、一月余りしてようやく収まった。十月丙申、西北に霧気が積土の如くあり、二更になってようやく散じた。四年正月己未の朝、黒霧が四方に充満し、巳の刻になってようやく散じた。この春、河朔で人々が食い合った。五月、河南・陝西で大蝗害があった。鳳翔・扶風・岐山・郿県で騑虫が麦を傷つけた。七月、旱魃があった。癸丑、飛蝗が京師を過ぎた。
興定元年三月、宮中に蝗あり。四月、単州に雹ありて稼を傷つく。陳州商水県より瑞麦を進ず、一茎四穂なり。開封府より瑞麦を進ず、一茎三穂、二茎四穂なり。五月乙丑、河南に大風あり、府門の署を吹き去る。延州原武県に雹ありて稼を傷つく。七月癸卯、大社壇に嘉禾を産す、一茎十五穂なり。秋、霖雨あり。十月、邠州より白兔を進ず。丹州より嘉禾を進ず。異畝にして同穎なり。二年四月、河南諸郡に蝗あり。五月、秦・陝に狼ありて人を害す。六月、旱魃あり。是歳、京師に屡火あり、礼部尚書楊雲翼を遣わして之を禳う。三年春、吏部に火あり。四月癸未、陝右に黒風昼起り、声雷の如く、頃にして地大いに震い、平涼・鎮戎・徳順尤甚しく、廬舍傾き、圧死者万を以て計い、雑畜之に倍す。夏、旱魃あり。十二月壬申、雨あり、木氷す。四年正月戊辰二更、天鳴きて声あり。壬子、昼晦し、有頃大雷風雨あり。四月丁丑、大風河南府の署を吹き飛ばすこと百余歩、戸案の門鑰開き、文牘飄散して、所在を知らず。六月、旱魃あり。七月、河南に大水あり、唐・鄧尤甚し。十二月癸酉、火あり。是歳、華州渭南県の民裴徳寧家樹を伐るに、其の中を破るに赤色の「太」の字あり、表裏吻合す。有司言う、唐の大暦中成都の瑞木に文「天下太平」ある者と、其事頗る同じ、蓋し太平の兆なりと。史館に付すを乞う。五年三月、久旱を以て、中外に詔し、仍て有司に祈祷せしむ。十一月壬寅、京師相国寺に火あり。十二月丁丑、霜木に附く。是に先立ち、童謡有りて云う、「青山転じ、転じて山青し。耽誤尽くし、少年の人。」蓋し是の時人皆兵と為り、転闘山谷し、戦伐休まず、当に老いに至るを言うなり。
元光元年四月、京畿旱魃あり。十月、上近郊に猟し、白兔を獲る、群臣以て瑞と為す。明日、便殿に御し、鈴を項に置き、将に之を放たんとす、兔驚躍して已まず、忽ち几上に斃る。二年正月辛酉日午、鶴千余有りて殿庭に翔けり、刻を移して乃ち去る。七月乙卯、丹鳳門壊れ、圧死者数人。十一月、開封に虎ありて人を害す。是の時屡妖怪有り、二年の間、白日虎鄭門に入り、吏部及び宮中に狐狼あり、鬼夜輦路に哭き、烏鵲夜驚き、飛鳴天を蔽う。
十二月、宣宗崩ず。
哀宗正大元年正月戊午、上初めて朝を視す、太后を尊んで仁聖宮皇太后と為し、太元妃を慈聖宮皇太后と為す。是日、大風端門の瓦を飄し、昏霾日を見ず、黄気天を塞ぐ、仁聖又夢みに乞丐万数其の後に踵く有り、心之を悪む、占者曰く、「后天下の母と為り、百姓貧窶なり、将に誰にか訴えん。」遂に勅して京城に粥と冰薬を設けて之に応ぜしむ、人壬辰・癸巳の兆と為す。又人麻衣を衣、承天門を望みて大笑すること三、大哭すること三有り、有司拘えて之を問う、其の人曰く、「我先ず笑う者は、許大の天下将相人無きを笑うなり。後に哭する者は、祖宗の家国破蕩して此に至るを哀しむなり。」有司以て妖言と為し、之を重典に処せんとす。上曰く、「近詔に草沢の士並びに直言を許し、譏訕に渉ると雖も亦罪を治めず、況んや此人の言も理有り。只闕下に哭笑すべからざるのみ。」乃ち之を杖す。二年正月甲申、黄黒の昆あり。四月、旱魃あり。京畿大雨雹あり。三年春、大寒あり。三月乙丑、火吏部の中より出づ、大さ斛の如く、流行輾転し、人皆驚避し、時を逾えて滅ぶ。四月、旱魃・蝗あり。六月、京東雨雹あり、蝗死す。四年六月丙辰、地震あり。八月癸亥、大風左掖門の鴟尾を吹き墜し、丹鳳門の扉壊る。是日、風・霜禾を損じ皆尽くす。五年春、大寒あり。二月、雷して雪あり。木の華する者皆敗る。四月、鄭州大雨雹あり、桑柘皆枯る。京畿旱魃あり。八月、御座上に聞くに若し言う者有りて曰く、「放さずんば則ち何ぞ。」索うも見えず。七年十二月、新衛州北三里許、影沙上に有り、旧衛州城の状の如く、寺塔宛然たり、数日にして乃ち滅ぶ。
天興元年正月丁酉、大雪あり。二月癸丑、又雪あり。戊午、又雪あり。是の時、鈞州・陽邑・盧氏の兵皆大いに敗る。五月、大寒冬の如し。七月庚辰、兵刃に火あり。閏八月己未、箭有りて宮中に射入る。九月辛丑府、大雷あり、工部尚書蒲乃速震死す。二年六月、上蔡に遷る、帰徳を発するより、連日暴雨、平地水数尺、軍士漂没す。蔡に及びて始めて晴れ、複大旱数箇月。識者以て不祥と為す。初め、南京未だ破れざる一二年の間、市中に一僧有り、所従来を知らず、一布囊を持して棗を貯え、日々市人に散じて窮まり無く、所在の児童百十之に従う。又一人有りて街中の破瓦を拾い、複石を以て之を撃ち砕く。人皆以て狂と為し、其の理を暁らず、後に乃ち之を知る、其の意蓋し人をして早く散ぜしめんと欲し、国家将に瓦解せんとす。