九月戊寅朔、親衛軍を減ずる詔を下す。己丑、軍士が鄭門の守者を殺して出奔す。壬辰、上党公張開及び臨淄郡王王義深・広平郡王范成進を元帥に起用す。前御史大夫完顔合周を以て参知政事を権行せしむ。乙未、榜を以て民に下年軍需銭を売放するを召し、上戸の田租も亦之の如し。辛丑、夜大雷有り、工部尚書蒲乃速震死す。
閏月戊申朔、使者を遣わし、鉄券一・虎符六・大信牌十・織金龍文御衣一・越王玉魚帯一・弓矢二を以て兗王用安に賜い、其の父母妻皆贈封す。又世襲宣命十・郡王宣命十・玉免鶻帯十を用安に付し、其の同盟に賜うべき者は即ち之を賜う。辛亥、張開・温撒辛・劉益・高顯を遣わし、歩軍を率いて陳留・通許の糧道を護らしむ。貧民の進献糧を罷む。戊午、郷導を招く。己未、箭有りて宮中に射入り、奸臣の姓名を書き、両日にして再び之を得。辛酉、再び京城の粟を括り、御史大夫合周・点検徒単百家等を以て之を主とす。丙寅、括粟使者兵馬都総領完顔九住、粟に蓬稗有るを以て、孝婦を省門に於て杖殺す。
十月、前司農卿李渙の飛語に依り、詔して左丞李蹊・戸部侍郎楊綎を獄に繋ぎ、将に軍儲失計を以て罪に坐せんとす。俄にして蹊・綎並びに除名し、而して止だ綎の家資を籍す。渙遂に戸部尚書を権行す。尋で残欠糧を赦し、其の糧事を以て繋がるる応の者は皆之を釈す。諸道の軍を征する詔を下し、期を十二月一日とし入援せしむ。
十一月丁未朔、貧民に粥を賜う。平章政事侯摯致仕す。左司郎中斜卯愛実、言事を以て近侍に忤い、有司に送らる、尋で之を釈す。己酉、衛州の軍校、白昼に豊備倉の米を取る。壬子、京城の人相食う。癸丑、曹門・宋門に士民を放出し就食せしむる詔を下す。壬戌、諸将相を召し入れて事を議す。兗王用安、兵を率いて徐州に至るも、元帥王徳全城を閉じて納れず。会に劉安国と宿帥の衆僧奴とが兵を引いて入援し、臨渙に至る、用安人をして劫殺せしむ、徐州を攻むるも久しく下す能わず、退きて漣水を保つ。制使因世英、用安の赴援せざるを以て、還りて宿州の西に至り、大元の兵に遇い、之に死す。丙寅、河・解の元帥権興宝軍節度使趙偉、襲って陝州を拠して以て叛き、行省阿不罕奴十剌以下凡そ二十一人を殺し、阿不罕奴十剌等の反状を誣いて以て聞かしむ。上其の冤なるを知るも、其の事を直す能わず、就いて偉に元帥左監軍を授け、兼ねて西安軍節度使とし、行総帥府事を為さしむ。偉尋で亦北に帰す。
十二月丙子朔、事勢危急を以て、近侍を遣わし即ち白華に計を問わしむ、華、紀季の酅を以て斉に入るの義を以て対う、遂に以て右司郎中と為す。甲申、親出を議する詔を下す。乙酉、再び大慶殿に於て議す、上、官奴・高顯・劉益を以て元帥と為さんと欲す、果たさず。是の日、扈従及び京城を守る官を除拝す。右丞相・枢密使兼左副元帥賽不、平章政事・権枢密使兼右副元帥白撒、右副元帥兼枢密副使権参知政事訛出、兵部尚書権尚書左丞李蹊、元帥左監軍行総帥府事徒単百家等を以て諸軍を率いて扈従せしむ。参知政事兼枢密院副使完顔奴申、枢密副使兼知開封府権参知政事習捏阿不、裏城四面都総領・戸部尚書完顔珠顆、外城東面元帥把撒合、南面元帥朮甲咬住、西面元帥崔立、北面元帥孛朮魯買奴等を留守とす。除拠既定まりて、京城を以て之に付す。魏璠を擢て翰林修撰と為し、鄧州に如きて武仙を招き入援せしむ。丁亥、上端門に御し、府庫及び両府の器皿宮人の衣物を発して将士に賜う。戊戌、官奴・阿裏合、謀りて荊王を立てんとすも果たさず、朝廷其の謀を知るも、置いて問わず。庚子、上南京を発し、太后・皇后・諸妃と別れ、太いに慟す。行きて公主苑に次ぐ、太后中官を遣わし米肉を持たしめて遍く軍士を犒う。辛丑、開陽門外に至り、百官を麾して退かしむ。戍兵に諭して詔して曰く、「社稷宗廟此に在り、汝等壮士なり、進発の数に預からざるを以て、便ち功無しと謂う毋れ、若し保守して虞無からば、将来の功賞顧みて豈に戦士の下に在らんや」と。聞く者皆泣を灑ぐ。是の日、鞏昌元帥完顔忽斜虎、金昌より至り、上に言う京西三百里の間に井灶無く、往くべからざるを、東行の議遂に決し、以て尚書右丞と為し従行せしめ、遂に陳留に次ぐ。壬寅、杞県に次ぐ。癸卯、黄城に次ぐ。丞相完顔賽不の子按春、罪有り、誅せらる。甲辰、黄陵堈に次ぐ。乙巳、諸将、河朔に幸せんことを請う、之に従う。
答失不はその父咬住を以て、四喜はその妻を以て門を奪って出で、庚午に帰徳に至る。上は二人に怒り、皆市に斬る。乙亥、右宣徽提点近侍局事移剌粘古を遣わし徐州に如き、地形を相し、倉庫の虚実を察せしむ。白華を鄧州に如きしめて兵を召す。
二月丙子朔。魚山の張曁が元帥完顔忽土を献じて殺す。行省忽斜虎は自ら兵を率いてこれを討ち、会に従宜厳祿が曁を誅すに及び、乃ち還る。城中の糧を括る。知帰徳府事石盞女魯懽を枢密副使・権参知政事と為す。元帥官奴の忠孝軍四百五十人、都尉馬用の軍二百八十余人を留め、余りの軍を発して宿・徐・陳の三州に赴き糧に就かしむ。
三月乙丑、石盞女魯懽は衛兵を尽く散じて城を出で食に就くことを乞う。官奴は密かに国用安と謀り、上を邀えて海州に幸せんことを請うも、従わず。蔡帥烏石論鎬が糧四百余斛を以て帰徳に至り、表を奉って臨幸を請う。上は学士烏石論蒲鮮を遣わし、蔡に幸するの意を以てその州人に諭す。戊辰、官奴は忠孝軍を以て乱を為し、馬用を攻め殺し、遂に尚書左丞李蹊・参知政事石盞女魯懽・点検徒単長楽、従官右丞以下三百余人を殺す。上は官奴を赦し、女魯懽の罪状を暴き、官奴を枢密副使・権参知政事と為し、左右司郎中張天綱を戸部侍郎・権参知政事と為す。辛卯、官奴は真に参知政事を授けられ、左副元帥を兼ぬ。官奴は上を照碧堂に居らしめ、近臣諸臣一人として敢えて奏対する者無し。上は日に悲泣して言う「古より亡びざる国無く、死せざる主無し。但だ朕が人を用いるを知らざるを恨む、致して此の奴に囚われしむるに」と。遂に内局令宋圭らと謀りて官奴を誅せんとす。
夏四月壬午、徐州行省完顔忽斜虎は王徳全並びにその子を執り誅し、その党王琳・楊璝・斜卯延寿に及ぶ。経歴商瑀を召して用う。魚山従宜厳祿は叛して漣水に帰る。庚寅、陳州都尉李順児は行省粘葛奴申及び招撫使劉天起を殺し、款を崔立に送る。張俊民・李琦は汴京に奔る。王壁は帰徳に還る。癸巳、崔立は梁王従恪・荊王守純及び諸宗室男女五百余人を以て青城に至らしめ、皆難に及ぶ。甲午、両宮は北遷す。甲辰、鄧州節度使移剌瑗はその城を以て叛し、白華とともに宋に亡び入る。
六月己卯、官奴及びその党の阿裏合・白進は皆誅殺された。上は双門に臨み、忠孝軍を赦免し、反側の心を安んじた。遂に蔡州遷都を決策し、詔して蔡・息・陳・潁の各州にそれぞれ兵を率いて迎えに来るよう命じた。中京留守・権参知政事烏林答胡土は城を棄てて蔡州に奔った。壬午、中京は陥落し、留守兼便宜総帥強伸はこれに殉じた。戊子、徐州行省完顔忽斜虎を行在所に召し寄せ、抹撚兀典に行省事を代行させ、郭恩を総帥兼節度使とした。辛卯、上は帰徳を発ち、元帥王璧を留めてこれを守らせた。壬辰、亳州に駐留した。癸巳、亳州節度使王進・同知節度使王賓に命じて民丁を徴発し鉄甲と乾糧を運送させ、権参知政事張天綱を留めてこれを監督させ、功績のある将士をその場で昇進させた。臨淄郡王王義深が霊璧の望口寨を拠って叛き、近侍直長女奚烈完出を遣わし徐・宿の兵を率いてこれを討たせた。義深は敗走して漣水に入り、宋に奔った。丙申、亳州鎮防軍の崔複哥が守臣の王賓らを殺害した。張天綱は便宜により複哥を節度使に任じ、鉄甲乾糧の運送を中止させたので、州人はようやく安堵した。己亥、上は蔡州に入り、詔して尚書省に命じて文書を作り武仙を召し兵を合わせて入援するよう求めた。徐州行省抹撚兀典は蔡州に赴いた。致仕していた右丞相賽不を起復して行省事を代行させた。
七月癸卯朔、蔡州管内の雑犯死罪以下を曲赦した。官吏軍民に普く両官を加え、応辦を経た者はさらに一官を進めた。門禁を弛め、諸貨を通じさせたので、蔡人はこれを便利とした。乙巳、烏古論鎬を御史大夫とし、総帥は元の如く、張天綱を御史中丞とし、なお権参知政事を兼ね、完顔薬師を鎮南軍節度使とし、蔡州管内観察使を兼ねさせた。戊申、左右司郎中烏古論蒲鮮に息州刺史を兼ねさせ、権元帥右都監とし、行帥府事を行わせた。征行元帥権総帥婁室を簽枢密院事とした。己酉、室女を選び宮中の使令に備え、すでに数人を得たが、右丞忽斜虎の諫言により、文義を識る者一人を留め、その他は自便に任せた。乙卯、魏璠を遣わして武仙の兵を徴発させた。丁巳、護衛蒲鮮石魯が祖宗の御容を背負って汴より到着した。有司に勅して乾元寺に奉安させた。前御史中丞蒲察世達・西面元帥把撒合が汴より帰参した。辛酉、武仙は将士を脅迫し、宋の金州を奪取しようと謀り、淅水に至って衆は潰散した。行六部尚書盧芝・侍郎石玠は蔡州に帰還しようと謀った。仙は芝を追及できず、遂に玠を殺害した。丁卯、進馬による昇進賞賜の規定を定め、また馬徴発の罪罰規定を定め、簽枢密院事権参知政事抹撚兀典にその事を統轄させた。使者を分遣して諸道に赴かせ、兵を選んで蔡州に会合させた。己巳、蒲察世達を吏部侍郎とし、権行六部尚書を行わせた。
八月癸酉朔、秦州元帥粘哥完展を権参知政事とし、陝西において行省事を行わせた。蠟書をもって諭し、九月中に兵を徴発して上は饒豊関に会することを期し、宋の不意を衝いて興元を取ろうとした。甲戌、大元の使者王楫が宋からの帰途を諭された。宋は軍を以てその行を護衛し、青山招撫の盧進が邏吏の言を得てこれを奏聞したので、上はこれを懼れた。丁丑、上は見山亭において閲兵した。癸未、元帥楚曁弁が蒙城において寿州を再建した。詔して昇進賞賜に差等を設け、州県官は皆真授を命じた。乙酉、大元は宋兵を召して唐州を攻撃させた。元帥右監軍烏古論黒漢は戦いに死し、主帥蒲察某は部曲兵に食われた。城は陥落し、宋人は人を食った者を求めてことごとく誅戮し、その他は侵犯しなかった。宋人は息州の南に駐兵した。丙戌、詔して権参政抹撚兀典・簽枢密院事婁室に息州において行省・院を行わせた。丁亥、烏古論鎬を権参知政事とし、兀林答胡土を殿前都点検とした。庚寅、初めて四隅機察官を設置した。壬辰、息州行省抹撚兀典は兵を率いて宋軍の中渡店を襲撃し、斬獲甚だ多かった。乙未、万年節、州郡より表を以て来賀するもの二十余所。辛丑、四隅和糴官及び惠民司を設置し、太医数人をして交代で直宿させ、病人には官より薬を与え、なお年老いた進士二人を選んで医薬官とした。是月、致仕蔡州都軍の内族阿虎帯に同僉大睦親府事を仮とし、宋に使わして糧を借らせた。入辞の際、上はこれを諭して曰く、「宋人は朕に負うところ深し。朕即位以来、辺将を戒飭して南界を犯さしめず。辺臣に自ら征討を請う者有りとも、未だ嘗て切にこれを責めざるは無し。向うに宋の一州を得て、即時に付与す。近く淮陰来帰す、彼多く金幣を以て贖いとす。朕若し財を受くれば、是れこれを貨するなり。全城を付し、秋毫も犯さず。清口の陣において生け捕りし数千人、悉く資糧を以てこれを遣わす。今我が疲弊に乗じ、我が寿州を拠り、我が鄧州を誘い、又我が唐州を攻む。彼が謀り亦浅し。大元は国四十を滅ぼし、以て西夏に及び、夏亡びば必ず我に及ばん。我亡びて必ず乃ち宋に及ばん。唇亡びて歯寒し、自然の理なり。若し我と連和せば、我が為にする所以は亦た彼が為にするなり。卿其れこれを以てこれを諭せよ。」と。宋に至るも、宋は許さず。
九月戊申、魯山元帥元志が兵を率いて入援した。大信牌を賜い、総帥に昇進させた。庚戌、重九に節度使庁において天を拝し、群臣陪従して礼を成した。上は面諭して曰く、「国家開創以来、汝等を涵養すること百有余年。汝等或いは先世の功を以て、或いは労効を以て身を起こし、堅きを被り鋭きを執り、年を積むこと久し。今厄運に当たり、朕と患を同じくす、忠と謂うべし。比来北兵将に至らんとす、正に汝等功を立て国に報いるの秋なり。縦え王事に死すとも、忠孝の鬼たるを失わず。往くところ汝等功を立て、常に朝廷に知られざるを慮う。今日敵に臨み、朕親しくこれを見る。汝等勉めよ。」と。因って卮酒を賜う。酒未だ竟わざるに、邏騎馳せて奏す、敵兵数百突如として城下に至る。将士躍踊し咸く一戦を請う。上はこれを許す。是日、軍を分けて四面及び子城を防守せしめ、総帥孛朮魯婁室に東面を守らせ、内族承麟これを副えしむ。参知政事烏古論鎬に南面を守らせ、総帥元志これを副えしむ。殿前都点検兀林答胡土に西面を守らせ、忠孝軍元帥蔡八児これを副えしむ。忠孝軍元帥・権殿前右副点検王山児に北面を守らせ、元帥紇石烈柏寿これを副えしむ。遙授西安軍節度使兼殿前右衛将軍・行元帥府事女奚烈出に東南を守らせ、元帥左都監夾谷当哥これを副えしむ。殿前右衛将軍・権左副都点検内族斜烈に子城を守らせ、都尉王愛実これを副えしむ。辛亥、大元兵は長塁を築いて蔡城を包囲した。己未、蔡城の粟を徴発した。辛酉、公私の醸酒を禁じた。
十月戊寅、「天興宝会」を改めて造った。辛巳、飢民の老稚羸疾なる者を出城させた。癸未、徐州守臣郭恩が官吏を殺逐して叛いた。行省賽不はこれを討ち死にせしめた。甲申、飢民に船を与え、城壕の菱芡水草を採って食することを聴した。戊子、諸道の兵を徴発した。辛卯、上は子城において射を閲し、中たる者に麦を賞賜し差等を設けた。丙申、殿前左副都点検温敦昌孫が戦歿した。戊戌、義軍の戦歿し創を受けた者に麦を賜うた。
十一月辛丑朔、右副都点検阿勒根移失剌を宣差鎮撫都弾圧とし、別に弾圧四員を設けてこれを副えしめ、四隅機察もまたこれに隷属させた。宋はその将江海・孟珙に兵万人を率いさせ、糧三十万石を献じて大元兵を助け蔡州を攻撃させた。
十二月甲戌、民丁を尽く籍して防守せしめ、婦人の壮捷なる者を括りて男子の衣冠を仮り、大石を運ばしむ。上親しく出でて軍を撫す。丁丑、大元の兵練江を決し、宋の兵柴潭を決して汝水に入る。己卯、大元の兵外城を破り、宿州副総帥高剌哥戦歿す。辛巳、総帥孛朮魯婁室・殿前都点検兀林答胡土を皆権参政とし、都尉完顔承麟を東面元帥・権総帥とす。己丑、大元の兵西城を墮す。上侍臣に謂ひて曰く、「我れ金紫十年、太子十年、人主十年、自ら大なる過悪なきを知る。死して恨み無し。恨む所は、祖宗伝祚百年、我に至りて絶え、古来の荒淫暴乱の君と等しく亡国を為すこと、独り此れを介介とするのみ」と。又曰く、「古より亡びざる国無し。亡国の君は往々として人に囚縶せられ、或は俘献と為り、或は階庭に辱しめられ、空穀に閉ぢ込めらる。朕は必ず此に至らじ。卿等之を見よ。朕の志決せり」と。都尉王愛実戦歿す。砲軍総帥王鋭、元帥谷當哥を殺し、三十人を率いて大元に降る。庚寅、御用の器皿を以て戦士を賞す。甲午、上微服して兵を率い夜東城を出で遁れんと謀るも、柵に及びて果たさず、戦ひて還る。乙未、尚廄の馬五十疋・官馬一百五十疋を殺し将士を犒う。
賛に曰く、金の初め興れる時、天下之に強き莫し。太祖・太宗中国を威制し、大概遼初の故事を效はんと欲し、楚を立て斉を立て、委ねて去る。宋人競はず、遂に故物を失ふ。熙宗・海陵虐政を以て之を済し、中原望みを觖き、金の事幾くにか去らんとす。天南北の兵を厭ひ、世宗を挺生し、仁を以て暴に易へ、此の民を休息せしむ。是の故に金の祚百有餘年、大定の政人心を固結する有るに由りて、乃く爾くするなり。章宗志潤色を存すと雖も、秕政日多く、誅求芸無く、民力浸く竭き、明昌・承安盛極まりて衰始まる。衛紹に至りては、紀綱大いに壞れ、亡征已に見ゆ。宣宗南度し、其の本根を棄て、外には餘威に狃ひ、宋・夏に兵を連ね、内には困憊を致し、自ら土崩を速ぬ。哀宗の世為すに足る者無し。皇元の功德日盛んに、天人心に属し、日出でて爝息むは、理勢必然なり。区々たる生聚、亡に於いて存を図り、力尽きて乃ち斃る。哀しむべし。然りと雖も、『礼』に「国君社稷に死す」と在り。哀宗愧づること無し。