景宣帝
熙宗即位し、尊諡を追上して景宣皇帝と曰い、廟号を徽宗とす。興陵に改葬す。海陵弑立し、熙宗を降して東昏王と為し、帝を降して豊王と為す。世宗熙宗の廟諡を復し、帝を尊んで景宣皇帝と為す。子に合剌・常勝・査剌有り。合剌は是れ熙宗なり。
睿宗
睿宗立德顯仁啓聖廣運文武簡肅皇帝の諱は宗堯、初め宗輔と諱し、本諱は訛裏朵、大定に尊諡を上し、今の諱を追上す。魁偉尊厳にして、人望みて之を畏る。性寛恕にして、施恵を好み、誠実を尚ぶ。太祖四方を征伐するに、諸子皆戎旅を総ぶるも、帝は常に帷幄に在り。
天輔六年、太祖親征し、太宗は黄龍府に居る。安福哥新たに降りし民を誘いて叛く。帝は烏古乃と討ちて之を平らぐ。南路軍帥鶻実答は贓を以て敗る。帝往きて之を閲実し、皆平允を称す。
天会五年、宗望薨ず。帝は右副元帥と為り、兵を燕京に駐む。十一月、諸将を分遣して宋を伐つ。帝は河間より発し、地を淄・青に徇う。六年正月、宋の馬括兵二十万楽安に至る。帝師を率いて之を撃破す。宋主の揚州に在るを聞き、時東作方に興るを以て、大軍を留めて河を夾みて屯田し而して還り、軍を山西にす。二月、移剌古は宋の台宗雋・宋忠の軍五万を大名に於いて破り、明日再び之を破り、宗雋・忠を獲て還る。冀州人夜を乗じて兵を出し照裏の営を襲う。照裏撃ちて之を敗る。宋主表を奉じて和を請い、密書を以て契丹・漢人を誘う。詔して宋を伐つ。帝は河北より発し、滑州を降し、開徳府を取り、大名府を攻め、之を克ち、河北平らぐ。
初め、宋を伐つに、河北・河東の諸将議決せず、或いは先ず河北を定めんと欲し、或いは先ず陝西を平らげんと欲す。太宗両つ其の策を用う。而して宗翰来たり濮に会す。既に河北を平らぎ、遂に東平及び徐州を取り、尽く宋人の江淮より運致する金幣の徐州官庫に在る者を得、諸軍に分給す。而して劉豫遂に済南を以て降る。抜高速等をして宋主を揚州に於いて襲わしむ。而して宋主之を聞き、抜高速の揚州に至るに比し、前夜既に江を渡れり。宋主乃ち帝号を貶去し、再び書を以て来たり社稷の存するを請う。語は『宗翰伝』の中に在り。既にして宗弼宋主を追う。宋江を渡り、杭州に入り、復た海に遁入す。宗弼乃ち還る。
是に於いて、婁室の下す所の陝西城邑輒ち叛く。宗翰等曰く「前に宋を討つ故に西師を分かち東軍に合わす。而して陝西五路の兵力雄勁なり。当に力を併せて攻め取りべし。今撻懶江北を撫定し、宗弼精兵二万を以て先ず洛陽に往く。八月を以て陝西に往き、或いは宗弼をして遂に将として以て行かしめ、或いは宗輔・宗幹・希尹の中一人をして往かしむべし」と。上曰く「婁室往者向く所輒ち弁ず。今専ら陝西を征す。豈に兵に倦みて自ら愛するや。卿等其れ力を戮せよ」と。是より詔して帝をして往かしむ。
是の時、宋の張浚兵を取りて陝西に至る。帝洛水に至り兵を治む。張浚騎兵六万、歩卒十二万富平に壁す。帝富平に至る。婁室左翼と為り、宗弼右翼と為る。両軍並び進み、日中より昏暮に至るまで、凡そ六たび合戦し、之を破る。耀州・鳳翔府皆来たり降る。遂に涇・渭二州を下す。宋の経略使劉倪の軍を瓦亭に於いて敗り、原州降る。撒離喝徳順軍静辺寨を破り、宋の涇原路統制張中孚・知鎮戎軍李彦琦城を以て降る。宋の秦鳳路都統制呉玠軍を隴州境上にす。招討都監馬五撃ちて之を走らし、一県を降して還る。帝兵を進めて甘泉等三堡を降し、保川城を取り、宋の熙河路副総管の軍三万を破り、馬千余を獲、安西等二寨を抜き、熙州降る。左翼都統阿盧補・右翼都統守弼を分遣して城邑の未だ下らざる者を招撫せしむ。遂に鞏・洮・河・楽・西寧・蘭・廓・積石等の州、定遠・和政・甘峪・甯洮・安隴等の城寨及び鎮堡蕃漢営部四十余を得。是に於いて涇原・熙河両路皆平らぐ。撒離喝慶陽府を降し、慕洧環州を以て降る。既に陝西五路を定め、乃ち騎兵六千を選び、撒離喝をして沖要に列屯せしむ。是に於いて班師し、宗翰と俱に京師に朝し、熙宗を立てて諳版勃極烈と為し、帝を左副元帥と為す。
顯宗
世宗儒者鄭松の賢なるを聞き、松先に同知博州防禦事として致仕す、起用して左諭徳と為し、詔して朝参を免じ、太子の読書を輔けしむ。松は友諭を以て自ら処し、帝嘗て松を顧みて服帯を取らしむ、松対えて曰く、「臣諭徳に忝くす、敢えて命に奉ぜず」と。帝容を改めて善しと称し、是より益々礼遇を加う。毎に出猟して鹿を獲れば、輒ちこれを分かち賜う。
四年九月、妃徒単氏を納れ、親迎の礼を行ふ。故事に、大賀鹵簿は天子玉路に乗り、皇太子鹵簿は金路に乗る。六年、世宗西京より還都す、礼官皇太子自ら鹵簿金路有るを知らず、乃ち太子に請うて大駕綴路に就き乗り、天子の前にて行かしむ。上其の礼に非ざるを疑い、旧典を詳しく閲し、礼官始めて其の誤りを覚る。ここに於いて礼部郎中李邦直、員外郎李山一階を削り、太常少卿武之才、太常丞張子羽、博士張榘両階を削る。
頃くして、礼官冊を受けて太廟に謁謝するを議し、常朝服を服し、馬に乗るとす。世宗曰く、「此れ外宮礼上の後諸神廟を謁するに異ならず、海陵一時率意に行いしもの、何ぞ法と為すに足らんや。大冊と三歳の祫享とは古礼を用うるを是とすべし。孔子曰く、'礼は其の奢なるよりは寧ろ儉なれ'と。当に軽易に此の如くすべからず」と。又曰く、「右丞蘇保衡は漢人なれども経史に通ぜず、参政石琚は経史に通ずれども言わず、前日礼官既に削奪せられ、猶懼れざるか。其れ前代の典礼を具して以て聞かしめよ、朕将に択びて之を処せん」と。久しくして、将に太子に冊宝を授けんとす、儀注儀仗を備え太廟に告ぐ。上曰く、「朕尊号を受けて謁謝するは、乃ち故宋真宗の故事を用い、常朝服にて馬に乗る。皇太子は乃ち備礼を用う、前後相称せず、甚だ謂れ無し」と。右丞相良弼、左丞守道に謂いて曰く、「此れ卿等の用心せざるに由る」と。良弼等謝して曰く、「臣愚慮此に及ばず」と。上復曰く、「此れ文臣の因循する故なり」と。是の年十月甲申、太廟に於いて祫享し、亜献の礼を行ふ。
七年、帝疾有り、詔して左丞守道に湯薬を侍らしめ、瓊林苑臨芳殿に徙り居て調治せしむ。
八年正月甲戌、改めて名を允恭と賜う。庚辰、皇太子冊宝を受け、帝表を上りて謝す。
九年五月、世宗草濼に避暑せしむるを命じ、隋王惟功従行し、其の従行すべき者は皆道路費を給す。帝奏して曰く、「闕廷を遠く去り、独り涼地に就くは、臣子の安んずる所に非ず、願わくは行いを罷めん」と。世宗曰く、「汝体羸弱なり、山后高涼なれば、故に汝をして往かしむ」と。丁丑、百官都城の北に奉辞し、再拝す、帝答拝す。是の月、百官詔を承け箋を具えて起居を問う。
六月、百官前の如く起居を問う。八月乙酉、草濼より至り、百官都城の北に迎謁し、送儀の如し。丙戌、入見し、世宗曰く、「吾が児相別すること夏を経て、極めて甚だ思憶す」と。九月、詔して皇太子の供膳は月支せず、歳に五千萬を給す。
十年八月、帝承華殿の経筵に在り、太子太保寿王爽啓して曰く、「殿下頗る本朝語に熟せず、何ぞ左右の漢官を屏去し、皆女直人を用いざる」と。帝曰く、「諭徳、賛善及び侍従官、曽て敢えて輒ち去らんや」と。爽乃ち揖して退く。帝曰く、「宮官四員を諭徳、賛善と謂う、義見るべし、而して反って之を去らんと欲す、学無き故なり」と。使者山東より還る有り、帝民間何に苦しむかを問う、使者曰く、「銭難最も苦しむ。官庫銭満ちて露積する者有るも、而して民間銭無し、此を以て之を苦しむ」と。帝曰く、「之を空室に貯うるは、多くと雖も何を為さん」と。戸部尚書張仲愈に謂いて曰く、「天子は天下を富蔵す、何ぞ必ずしも独り府庫に在らんや」と。因りて奏して曰く、「銭府庫に在るは、銅鉱野に在るに何ぞ異ならん。乞う流転せしめ、公私俱に利からしめん」と。世宗嘉納し、詔して有司に議して之を行わしむ。
十年一月丁亥、円丘に事有り、帝亜献の礼を行ふ。
十四年四月乙亥、世宗垂拱殿に御し、帝及び諸王側に侍す。世宗兄弟妻子の際に論及し、世宗曰く、「婦言是れ聴きて兄弟相違う、甚だしいかな」と。帝対えて曰く、「『思斉』の詩に曰く、'寡妻に刑し、兄弟に至り、以て家邦に禦う'と。臣等愚昧、願わくは相励まして之を修めん」と。因りて『棠棣』の華萼相承し、脊令急難の義を引き、文を為して意を見し、以て兄弟を誡む。
十五年、世宗は五品職事官に詔して皇太子に拝謁せしむ。
十七年五月甲辰、常武殿に侍宴し、典食令の涅合が粥を進むるに、帝将に食せんとす、蜘蛛粥碗の中に在り、涅合恐懼して措く所を知らず、帝従容として曰く「蜘蛛は糸を吐きて空に乗じ、忽ち此の中に堕つるのみ、豈に汝の罪ならんや」と。十月己卯、祫祭を太廟にて行い、祀事を摂行す。
十九年四月戊申、太廟にて祭祀有り、祀事を摂行す。丁巳、詹事の烏林答願入りて謝す、帝命じて襆頭腰帯を取らしむ、官属請ひて曰く「此れは宰相師傅に接するの礼なり」と。帝曰く「願は陛下に事ふること久しく、此を以て敬を加ふるのみ」と。皆曰く「臣等の及ぶ所に非ず」と。十一月、明徳皇后を坤厚陵に改葬し、帝徒歩して霊車を挽く。大風雪に遇ひ、左右雨具を進むるも、帝之を退く。頓所に至るに及び、衣尽く沾湿し、観る者涙を下さざる無し。海陵は庶人に貶黜せられたりと雖も、宗幹は尚ほ明粛皇帝と称せらる、議者以て未だ尽きずと為す、帝表を具して奏論す。世之を嘉納す。是に於て宗幹帝号を削去し、遼王に降封せらる。
二十五年正月乙酉朔、群臣の賀礼を免ず。帝国を守りしより、深く謙抑を懐ひ、宮臣は庭拝せず、啓事の時は侍立せず、朔望の礼を免ず。京朝は朔日に当たり公服を具し問候すべきを、並びに停免す。是に至り、群臣当に賀すべきも、亦肯て受けず。甲寅、帝春水に如く。二月庚申、都に還る。丁卯、子の金源郡王麻達葛を遣はして表を奉り万春節を賀す。四月、久しく雨無く、帝親しく祷り、即日沾足す。
六月甲寅、帝豫せず。庚申、承華殿に崩ず。世宗上京より還り、天平山好水川に次ぎ、訃聞き、位を為して行宮の南に臨奠し、大いに慟すること久し。親王・百官・皇族・命婦及び侍衛皆会哭し、世宗号泣して宮に還る。中都に至るに及び、位を為して奠哭すること凡そ七たびなり。世宗豳王永成を以て中都留守と為し、来り喪を護らしめ、滕王府長史の再興・御院通進の阿裏剌を遣はして金源郡王を保護せしめ、左宣徽使の唐括鼎を遣はして来り致祭せしめ、妃の徒単氏及び諸の皇孫の喪服並びに漢制の如くせんことを詔す。帝王儲の位久しく、恩徳人の在る者深く、日に三時に哭臨し、侍衛の軍士皆争ひて入臨し、承華殿下に伏哭し、声殷として雷の如し。中都の百姓市門巷端に位を為して慟哭す。七月壬午朔、諡して宣孝太子と賜ふ。九月庚寅、南園の熙春殿に殯す。己酉、世宗上京より至り、未だ国門に入らず、先づ熙春殿に至りて致奠し、慟哭すること久し。葬に比し、親臨すること六たび。帝世宗に事へ、凡そ西京・涼陘に巡幸し、及び陵に上り、廟を祭り、衍慶宮を謁し、田猟し稼を観、天を拝し柳を射るに、未だ嘗て左右を去らず。上円丘に事有るに及び、及び太廟に親享するときは、則ち亜献の礼を行ひ、親祀せざれば則ち祀事を摂行す。国に大慶有れば則ち百官を率ひ表を上りて賀す。正旦・万春節には則ち班を総ねて寿を上る。冬十月庚戌朔、宰相以下慶和殿に朝見し、太尉完顔守道寿を上る、世宗追悼悽愴すること久し。十一月甲申、霊駕発引し、世宗路に都城の西に祭る。庚寅、大房山に葬る。世宗帝号を加へんと欲し、以て群臣に問ふ、翰林修撰の趙可対へて曰く「唐の高宗太子弘を追諡して孝敬皇帝とす」と。左丞の張汝弼曰く「此れ蓋し武后に出づ」と。遂に止み、乃ち廟を衍慶宮の後に建て、祭は三献に和し、楽は登歌を用ふ。
二十六年、子の璟を立てて皇太孫と為す。二十九年、世宗崩ず。太孫即位す、是を章宗と為す。
五月甲午、追諡して体弘仁英文睿徳光孝皇帝とし、廟号を顕宗とす。丁酉、太廟に祔し、陵を裕陵と曰ふ。
帝は天性仁厚にして、刑殺を忍びず。梁檀兒が金銀葉を盗みしも、その母の老いを憐れみ、李福興が段匹を盗みしも、坤厚陵の礼成に値し、家令本把が銀器を盗みしも、万春節に値し、皆委曲を尽くして全活せしむ。物を亡失せしむる者は、その償いを責むるも罪を加えず。四方の饑饉を聞けば、輒ち先ず奏し、賑贍を加う。田猟に出巡するに因り、過ぐる所にて民間の疾苦を問う。大臣を敬礼し、兄弟を友愛す。明徳皇后を坤厚陵に葬り、諸妃皆祔せしむ。磐寧宮より発引し、趙王惟中その母の挽車を以て先発せしむ。張黄蓋者を行かしむるに、帝呼びて執蓋者応えず。少府監張僅言其事を奏せんと欲す。帝之を止む。嘗て『重光座銘』を作り、及び座右銘を小玉碑に刻し、並びに其の碑陰を刻す。皆深く理致有り。最も善く射るも物を殫さず。嘗て詔を奉じて陵を拝す。先ず猟し、一鹿を射て之を獲る。即ち命じて猟を罷む。曰く「祀事を奉ずるに足る。焉ぞ多く殺すを用いんや」と。生を好むは蓋し其の天性なるか。
賛に曰く、遼王杲中京を取り、宗翰・宗望皆従う。景宣別に合紮猛安を領す。合紮猛安とは、太祖の猛安なり。宗翰熙宗を立てんことを請う。宗幹違うを敢えず、太宗拒む能わず。其の義正しく、其の理直し。旧史は睿宗の寛恕にして施恵を好むと称す。熙宗終わらず、海陵隕斃す。時に自り厥の後、大位を得る者は皆其の子孫なり。以て有る夫。顕宗孝友惇睦にして、東宮に在ること二十五年、過有りと聞かず。意を承け開導し、四方陰に其の賜を受く。天下年を仮さず。惜しいかな。