古書に「畔」と「叛」は通じ、畔とは界を言う。《左氏》に、政は猶ほ「農の畔有るが如し」とある、これである。君臣上下の定分は、猶ほ此の疆彼の界の截然たるが如く、此れに違いて彼に向かえば、即ち叛となる。善悪は跬歩に判じ、禍患は懐襄に極まる。吁、畏るべし哉!ここに『叛臣傳』を作る。
張覚、亦た鐧と書作す、平州義豊の人なり。遼において進士に及第し、仕えて遼興軍節度副使に至る。太祖燕京を定む、時に立愛平州を以て降る、当時宋人海上の盟を以て燕京及び西京の地を求め、太祖燕京・涿・易・檀・順・景・薊を以て之に与う。平州は自ら契丹に入り別に一軍と為りたれば、故に与えず、而して平州を以て南京と為し、覚を留守と為す。既にして覚に異志有るを聞き、上使い劉彦宗及び斜鉢を遣わして之を諭し、詔して曰く、「平山一郡今南京と為り、節度使今留守と為る。恩亦厚し。或いは汝等陰に異図有りと言う、何ぞ此の農時に当たり輒く相扇動する、危きを去り安きに就くの計に非ざるや。其れ朕が意を諭せ。」太祖城邑を収むる毎に、往々其の民を徙して以て京師を実にす、民心多く安からず、故に時立愛降表に因り曾て之に言及す。及び燕京を宋に与えて其の人を遷し、独り空城を以て之に与うるに及び、遷る者道平州に出ず、故に覚之に因りて以て乱を作す。天輔七年五月、左企弓・虞仲文・曹勇義・康公弼広寧に赴く、平州を過ぐ、覚人をして之を栗林の下に殺さしむ、遂に南京に拠り叛きて宋に入る、宋人之を納る。
太祖詔を下して南京の官吏に諭し、詔して曰く、「朕初め燕京に駐蹕し、嘉んで爾が吏民率先して降附するを、故に府治を升めて以て南京と為し、徭役を減じ、賦税を薄くす、恩亦至れり、何ぞ苦しんで輒く叛逆と為るや?今兵を進めて攻取せんと欲す、時方に農月、一悪人の為に衆庶に害及びしむるに忍びず。且つ遼国挙げて我が有と為る、孤城自ら守る、終に何をか為さんと欲するや?今首悪に止坐し、余は並びに之を釈す。」
覚兵五万潤州の近郊に屯し、遷・来・潤・隰の四州を脅かさんと欲す。闍母錦州より往きて之を討ち、已に覚兵を敗り、勝に乗じて南京を攻めんと欲す、時に暑雨進むべからず、退きて海堧に屯す。無何、闍母再び覚兵を敗り、復た戦うこと兔耳山に於いて、闍母大いに敗れ、覚捷を宋に報ず。宋平州を建てて泰寧軍と為し、覚を以て節度使と為し、張敦固等皆徽猶閣待制を加え、銀絹数万を以て軍を犒う。
宗望軍南京城東に至り、覚兵大いに敗れ宵遁し、遂に宋に奔り、燕京に入る。宗望叛を納るるを以て宋の宣撫司を責め、張覚を索む。宣撫王安中これを甲仗庫に匿し、紿いて曰く、「之無し。」宗望索むること愈急、安中乃ち貌覚に類する者一人を斬りて之に当つ、金人之を識りて曰く、「覚に非ず。」安中已むを得ず、覚を引き出だす。数えて罪を以てす、覚宋人を罵りて口を容れず、遂に覚を殺し其の首を函して以て金人に与う。燕京の降将及び常勝軍皆泣下し、郭薬師自ら言いて曰く、「若し来たりて薬師を索まば当に奈何せん?」是より、降将卒皆解体す。及び金人宋を伐つに及び、竟に平州の叛を納るるを以て執言と為す。
僅言幼名元奴。宗望平山を攻め下し、僅言繈褓の間に在り、裏人劉承宣之を得て、家に養う。其の隣韓夫人甚だ之を愛す。年数歳、韓夫人に随うに因りて貞懿皇后に見ゆ。籓邸に留め、稍長じ、世宗に侍して書を読み、遂に僅言をして家事を主たることを使わしめ、部曲を繩検す、一府之を憚る。
世宗東京に留守し、海陵兵を江・淮に用い、将士往々亡帰し、東京に詣り、願わくは世宗を推戴して天子と為さんとす。僅言進むるを勧め、世宗即位し、内蔵庫副使を除し、権に宮藉監事を発遣す。海陵揚州に死し、僅言礼部尚書烏居仁・殿前左衛将軍阿虎帯・御院通進劉珫とともに六宮百司の図書府蔵南京に在る者を発遣す。還りて本職を以て尚食局を提控し、少府監丞に転じ、仍内蔵を主る。
僅言能く心計す、世宗之を倚任し、凡そ宮室の営造・府庫の出納・行幸の頓舎皆之に委ぬ。世宗嘗て曰く、「一たび僅言を経れば、朕が意に愜わざる無し。」六年、内役事を修むるを提挙し、役夫地を掘りて白金を得て之を匿す、事覚え、法当に死すべし、僅言責めて其の物を取りて官に与え、其の罪を釈す。尋いで祗応司を兼ぬ。少府監に遷り、宮籍監・祗応司を提控すること旧の如し。太寧宮を護作し、宮左の流泉を引いて田を溉ぎ、歳に稻万斛を獲る。十七年、復た内蔵を提点し、昭徳皇后の山陵を典領し、勧農使に遷り、諸職を領すること旧の如し。
僅言旧臣と雖も、左右に出入す、然れども世宗終に権任を以て仮さず。二十一年、尚書省奏す、宮苑司直長黎倫職に在ること十六年、遷叙を与えんことを請う。上曰く、「此れ朕が家臣、質直の人なり、今已に老ゆ。勧農使張僅言の如きも亦朕が旧臣、純実頗る事を解し、凡そ朝廷の議論、内外の除授、未だ嘗て干預するを得ず。朕観るに古人より人君讒諂に蒙蔽せらるる者多し、朕古人に及ばずと雖も、然れども近習の憸言未だ嘗て耳に入らず。」宰臣曰く、「誠に聖訓の如し、此れ国家の福なり。」世宗横海軍節度使と為さんと欲す、而して左右を去るべからず、遂に止む。
僅言始めて疾を得、猶ほ杖を扶けて事を視る、疾亟し、詔して太醫をして診視せしめ、近侍問訊相属す。及び卒す、上深く之を惜しみ、官を遣わして祭を致し、賻銀五百両・重彩十端・絹二百匹を賜い、棺槨・衣衾・銀汞・斂物・葬地皆官に給し、輔国上将軍を贈る。
耶律余睹は、遼の宗室の子である。遼主の近族であり、父祖は遼に仕え、その事績は詳しく『遼史』に記載されている。初め、太祖が兵を起こすと、遼人が来て抵抗し、余睹は自ら効力を尽くすことを請い、功績により累進して金吾衛大將軍となり、東路都統となった。天輔元年、都統耶律馬哥と渾河に軍を置き、銀術哥・希尹がこれを拒んだが、余睹らは敢えて戦おうとしなかった。銀術哥らが到着する頃には、馬哥・余睹は既に遁走していた。銀術哥・希尹は遅滞の罪に問われ、太祖は皆これを罰し、捕獲した生口・財畜は官に没収した。天輔二年、龍化州の張応古らが来降したが、余睹がこれを再び奪取した。遼は撻不野を節度使に任じた。間もなく、応古らは撻不野を追放して自ら帰順した。太祖は国書の中で遼主に問いただした、「龍化州は既に降伏帰附したのに、何故罪を問いその主たる者を殺すのか。」遼主は大盗が群れをなして起こったことを口実とし、余睹にこれを鎮圧させた。
太祖が既に臨潢府を取ると、余睹に詔を賜って言った、「汝は兵を率いて東路におり、前後の戦いで一度も敗れなかったことはない。今、汝が散亡の兵を収集し合せて我が師に抵抗していると聞く。朕は今月十五日に上京を攻略し、今や遼主を取らんとしている。汝もし兵を整えて一戦勝負を決しようとするならば、地を指し日を期して報せよ。もし敵わぬと知るならば、衆を率いて来降すべし、後悔を残すことなかれ。」太祖が軍を返すと、闍母らが遼河に還り、渡河しようとした時、余睹が来襲した。完顔背答・烏塔らが殿軍となり、力戦してこれを退け、甲冑馬匹五百を獲た。
天輔五年、余睹は咸州路都統に降伏の意を伝え、配下を率いて来降し、桑林渡での援護を請うた。都統司がこれを上聞すると、詔して言った、「余睹が到着した日、その官属と共に来朝させよ。残りの衆は適宜の地に処置せよ。」間もなく、余睹は受けていた遼国の宣誥、及び器甲・旗幟などを献上し、将吏の韓福奴・阿八・謝老・太師奴・蕭慶・醜和尚・高佛留・蒲答・謝家奴・五哥らと共に来降した。
余睹は書状を作り、降伏した理由を詳しく述べた。おおよそ次のような内容である。「遼主は遊猟に耽り政事を顧みず、佞人を好み忠直を遠ざけ、刑罰を淫らにし賞賜を吝しみ、政煩わしく賦重く、民は生きる術がない。」また言う、「枢密使得裏底は元来才能がなく、ただ阿諛追従して容れられるのみで、その子磨哥を軍事に任用している。」また言う、「文妃の長子である晉王は平素より人望を集めており、皇太子とすべきであるのに、得裏底は元妃の諸子が己の出であることを理由に、晉王を文妃の後継ぎに出させた。」また言う、「晉王は駙馬乙信と謀り、その枢密使の職を回復しようとし、余睹に告げて共に大計を定めたが、図ったことは成就しなかった。」また言う、「己は少しばかり軍事に通じ、遼主に進策したが、得裏底がこれを蔽い、遼主もまた省み察することがなかった。」また言う、「大金の疆土は日々開け、余睹は天命を明らかに知り、遂に去年の春より耶律慎思らと議を定め、今夏に来降することを約した。近頃得裏底・高十捏らが発覚させようとしていると聞き、倉卒の際に四方遠方の者を収集し合せる暇がなく、ただ近傍の部族三千戸、車五千両、畜産数万を率いたが、遼の北軍都統が兵を以て追襲したため、輜重を棄て転戦して此処に至った。所有する官事・職位・姓名、人戸・畜産の数は、韓福奴に命じて詳細に記録させ上聞する。」こうしてその将吏と共に来朝し、上はこれを慰撫し、坐を賜い、班位は宰相と同じとし、宴を賜って酔い飽きるまでに及んだ。上は余睹に旧官েরまま所部を統率することを命じた。かつ諭して言った、「もし能く国のために功を立てれば、別に賞用すべきである。」余睹が降って以来、益々遼人の虚実を知るようになった。
余睹は軍中でしばしば侍妾と子のことを乞うたので、太祖はこれを疑い、咸州路都統司に詔して言った、「余睹の家族は、善く監護せよ。」また詔して言った、「余睹が降った時、その民は多く強いて率いて来た者である。辺境で変を生ずることを恐れるので、宜しく内地に移すべし。」都統杲が中京を取る時、余睹は郷導となり、希尹らと共に奚部を招撫した。奉聖州が降ると、その官吏は皆遁走したので、余睹は前監酒の李師夔を推挙して節度使とし、進士の沈璋を副使とし、州吏の裴賾を観察判官とした。沈璋は住民を招集して旧業に戻らせた者が三千余りあり、太常少卿に遷った。
時が経つと、耶律麻者が余睹・呉十・劉剌が結党して謀叛を企てていると告発し、その未発の内に先ず収捕すべきであると言った。上は余睹らを召し出し、ゆったりと彼らに言った、「今、汝らが謀叛を企てていると聞く。誠に然りとするならば、各々隠すことなかれ。もし果たして去ろうとするならば、必ず鞍馬・甲冑・器械の類が必要であろう。当に悉く汝らに付すべきである。我は食言しない。もし再び擒えられたならば、死を免れんと祈るなかれ。留まって我に事えようとするならば、異志を懐くことなかれ。我は汝らを疑わない。」余睹らは戦慄して答えることができず、乃ち鐸剌を七十回杖ち、その他は皆問わなかった。
天会三年、大挙して宋を伐つ時、余睹は元帥右都監となった。宋兵四万が太原を救援しに来ると、余睹・屋里海は汾河北で迎撃し、その帥である郝仲連・張関索、統制の馬忠を擒え、一万余人を殺した。宗翰が宋を伐つ時、余睹は西京に留まった。天会十年、余睹が謀反を企て、雲内節度使耶律奴哥らがこれを告発した。余睹は逃亡し、その党の燕京統軍蕭高六は誅殺され、蔚州節度使蕭特謀は自殺した。辺境の部族が余睹とその諸子を斬り、その首を函に入れて献上した。耶律奴哥は守太保兼侍中を加えられ、趙公鑒・劉儒信・劉君輔らは並びに遙鎮節度使を授けられて賞された。
移剌窩斡は、西北路の契丹部族である。初め撒八に従って乱を起こし、その偽りの官職を受け、後に撒八を殺し、遂にその衆を有した。
撒八は、初め招討司の訳史であった。正隆五年、海陵が諸道の兵を徴発して宋を伐ち、牌印の燥合・楊葛に命じて西北路の契丹丁壮を悉く徴発させた。契丹人は言った、「西北路は隣国に近く、代々征伐し合い、互いに仇怨を為している。もし男丁が悉く従軍すれば、彼らが兵を以て来れば、老弱は必ず悉く捕虜にされるであろう。幸い使者が朝廷に入ってこれを言上してほしい。」燥合は罪を恐れて敢えて言わず、楊葛は後日西北に事変があれば罪に問われることを深く憂い、遂に憂い死した。燥合はまた牌印の耶律娜・尚書省令史の没答涅合と共に西北路の兵の動員を監督した。契丹人は男丁が悉く動員されると聞き、ここにおいて撒八・孛特補は部衆と共に招討使完顔沃側及び燥合を殺し、耶律娜・没答涅合を捕え、招討司に貯蔵されていた甲冑三千を奪い、遂に反乱を起こした。豫王延禧の子孫を立てようと議し、衆は都監の老和尚を推挙して招討使とし、山后四群牧・山前の諸群牧は皆これに応じた。迪斡群牧使の徒単賽裏・耶魯瓦群牧使の鶴壽らは皆害に遇い、その話は『鶴壽伝』にある。五院司部の老和尚那也もまた節度使術甲兀者を殺して撒八に応じた。
会寧の八猛安が山后で牧馬していたが、迪謀魯に至った時、賊がその馬を悉く奪った。辟沙河の千戸十哥らは前招討使の完顔麻潑と共に烏古迪列招討使の烏林答蒲盧虎を殺し、配下を率いて西北路に向かった。室魯部節度使の阿廝列が追撃してこれを破り、十哥は数騎と共に遁走し、撒八と合流した。
咸平府の謀克括裏は、配下の者と共に山後より逃げ帰り、咸平少尹完顔餘裏野は括裏の家族を捕らえようとした。括裏はその仲間と共に富家の奴隸を招き誘い、数日で二千の兵を得て、遂に韓州及び柳河県を陥落させ、咸平に向かった。餘裏野は兵を発してこれを迎え撃ったが、敗北し、賊は遂に咸平を占拠した。そこで武器甲冑を整え、府庫の財物を出して兵を募ると、賊の勢いはますます盛んとなった。権曹家山猛安綽質は、千余りの兵を集めて幹夜河を扼し、賊の東進を阻んだ。綽質の兵が敗れると、括裏は済州を犯そうとした。時に宿直將軍孛術魯吳括剌が速頻路に徴兵中、信州で括裏と遭遇し、猛安烏延查剌の兵二千と共に括裏を撃破した。括裏は残兵を収めて東京に向かった。この時世宗は東京留守であり、兵四百をもってこれを防いだ。賊が常安県に至ると、空中に数千の鼓の如き響きを聞き、斥候が旌旗が野を蔽うのを見て、留守が十万の兵をもって至ったと伝え聞き、直ちに引き返し、その衆もまた撒八と合流した。
海陵は枢密使僕散忽土・西京留守蕭懷忠に兵一万を率いさせ、右衛將軍蕭禿剌と共にこれを討伐させた。禿剌は賊と数日相持し、連戦したが功なく、糧秣が続かず、禿剌は臨潢に退いた。禿剌は敵を打ち破れなかったが、撒八は大軍が必ず相次いで来ると考え、勢い支えられず、大石に帰順しようと謀り、衆を率いて龍駒河に沿って西に出た。僕散忽土・蕭懷忠等の兵が至り、禿剌と合流して河上まで追ったが、及ばずに帰還した。忽土・懷忠・禿剌は逗留して直ちに賊を追わなかった罪で、皆誅殺された。北京留守蕭賾は配下を制御できず、降人を殺してその婦女を奪ったため、これも誅殺に処せられた。そこで、白彥恭を北面兵馬都統とし、紇石烈志寧をその副とし、守顏彀英を西北面兵馬都統とし、西北路招討使唐括孛姑的をその副として、撒八等を討伐させた。
撒八が西行した後、旧来山前に居住していた者は皆行きたがらず、偽に署せられた六院節度使移刺窩斡・兵官陳家が撒八を殺し、老和尚・孛特補等を捕らえた。この時、窩斡は初めて自ら都元帥となり、陳家を都監とし、衆を擁して東還し、臨潢府東南の新羅寨に至った。世宗は移剌紮八・前押軍謀克播斡・前牌印麻駿・利涉軍節度判官馬腦等を遣わしてこれを招撫させた。紮八等は窩斡に会い、上意を諭した。窩斡は一旦降伏を約したが、後にまた紮八に言うには、「もし降伏すれば、我々が無事であることを保証できるか」と。紮八は言うには、「私は招降を知るのみで、他のことは必ずしも保証できぬ」と。
紮八は窩斡の兵が多く強く、車帳が野に満ちているのを見て、成し遂げられる可能性があると考え、そこでこれを説いて言うには、「私が初めて来た時は、汝らには為すところあらじと思ったが、今兵勢の強盛なるを見るに、汝らは群羊の如く人に駆られて行かんとするか、それとも天時を待たんとするか。もし果たして大志あらば、私もまた帰らぬ」と。賊将に前孛特本部族節度使の逐斡という者がおり、言うには、「昔の谷神丞相は賢能の人であり、かつて他日西北部族に事あるべしと言った。今日は正にこの言葉に合う。恐らく降伏すべからず」と。そこで、窩斡は遂に決意して再び降伏を肯んじなかった。紮八もまた賊中に留まり、ただ麻駿・播斡のみが帰還した。窩斡は兵を率いて臨潢府を攻め、総管移室懣は城を出て戦ったが、兵少なくして捕らえられ、賊は遂に臨潢を包囲し、その衆は五万に至った。正隆六年十二月己亥、窩斡は遂に帝を称し、元号を天正と改めた。
この時、北面都統白彦敬・副統紇石烈志寧は北京におり、世宗の即位を聞き、兵を率いて帰順した。世宗は元帥左都監吾紮忽・同知北京留守事完顔骨只に臨潢救援を命じ、昼夜兼行で進んだが、臨潢に至る頃には、賊は既に包囲を解いて泰州を攻めに行っていた。吾紮忽は窊暦で追い付き、両軍は陣を敷いて戦おうとした時、押軍猛安契丹忽剌叔が配下の兵をもって賊に呼応したため、吾紮忽軍は遂に敗北した。
泰州節度使烏裏雅が千余騎を率いて窩斡と遭遇し、烏裏雅の兵はまた敗れ、僅かに数騎で脱出して帰った。賊の勢いはますます振るい、城中は震撼し、敢えて戦いに出る者もなかった。賊は四方より城に登り、押軍猛安烏古孫阿裏補は軍士数人を率い、各々刀を持ち身を以て率先して城壁に沿って賊を撃ち力戦し、多くを斬り倒したため、賊は退散し、城はこれにより保全された。泰州司吏延盞蒲査が捷報を奏上し、忠翊校尉に任ぜられ、銀五十両・重彩十端を賜った。
二年正月、右副元帥完顔謀衍が諸軍を率いて北征し窩斡を討った。二月壬戌、詔して曰く、「諸人にして若し契丹賊中より自ら抜けて帰る者あらば、更に元の初めの首従及び脅迫された由を問わず、奴婢・良人の罪の軽重を論ぜず並びに免放すべし。曾て官職あり及び人衆を糾率して来帰する者は、仍って官賞を与え、本品に依り材を量り叙用すべし。その同来の人は各々願う所の処に従い収系し、才能ある者もまた録用すべし。内外の官員郎君群牧直撒百姓人家の駆奴・宮籍監人等は、並びに良民に放ち、亦た願う所の処に従い収系し、三年の差役を免ずべし。或いは首領を捕殺して帰る者は、上に准じて施行し、仍って労績を験して量り遷賞すべし。もし窩斡を捕獲する者は、猛安は三品官を加え節度使を授け、謀克は四品官を加え防禦使を授け、庶人は五品官を加え刺史を授くべし」と。詔して曰く、「尚書省、節度防禦使にして窩斡を捉獲する者は世襲猛安を与え、刺史にして捉獲する者は世襲謀克を与え、駆奴・宮籍監人も亦た庶人と同様とすべし」と。また詔して宰臣に、将士に遍く諭し、窩斡を捕殺する者には特進を加え真総管を授くべしと命じた。
そこで、括裏は韓州を犯さんとしたが、元帥の兵の到着を聞き、戦わずして遁走し、懿州・宜州に向かおうとした。謀衍は懿州慶雲県に屯し、及び川州武平県に屯し、糧運は人を遣わして護送すべきこと、兵仗は精良なるものを選んで付すことを乞うと奏請した。詔して南征より逃還した軍士を以て就きて屯戍せしめ、もし足らざれば、富家より量り簽調し、近接地より歩軍を簽し、仗を与えて糧運を護送せしむと。詔して平章政事移剌元宜を泰州に遣わし辺事を規措せしめた。前安遠大將軍斡裏嫋・猛安七斤・庶人阿裏葛・磨哥等が窩斡の中より来降し、斡裏嫋・七斤は昭武大將軍を加えられ、阿裏葛は武義將軍、磨哥は忠勇校尉となった。
窩斡は遂に泰州より済州を攻めに行き、糧運を遮らんとした。元帥完顔謀衍は右監軍完顔福壽・左都監吾紮忽と合兵し、甲士一万三千人、曷懶路総管徒単克寧・広寧尹僕散渾坦・同知広寧尹完顔岩雅・肇州防禦使唐括烏也を左翼とし、臨海節度使紇石烈志寧・曷速館節度使神土懣・同知北京留守完顔骨只・淄州刺史尼龐古鈔兀を右翼として、術虎崖に至り、輜重を全て委ね、士卒は数日の糧を携え、軽騎でこれを襲撃した。
糺椀群牧の契丹人たる糺者は、その弟の孛迭・挼剌と共に、家を棄て賊中より来降した。糺者は謀衍に謂う、「賊中の馬は肥健であるが、官軍の馬は疲弱である。ここより賊まで八十里、賊に遇うまでには馬はすでに疲憊するであろう。賊の輜重はここより遠からず、我らがこれを攻めれば、賊は必ずその巣穴を救わんとする。賊が至れば馬は必ず疲れる。我が馬は少し休息を得る。いわゆる、その必ず救うところを攻め、逸をもって労を待つというものである」と。謀衍はこれに従い、夜を乗じて急ぎ発し、大風に会い路暗くして辨ふる能わず、夜明け近く三十里余りを行き、賊の輜重に相近づき、兵を整えて少し憩う。窩斡は済州に向かうが、大軍がその輜重を取ったことを知り、還って救い、長濼において遭遇した。陣を既に布くと、謀衍は別に左翼の側に伏兵を設け、賊四百余騎が左翼の伏兵の間より突出するも、徒単克寧がこれを射て退けた。この日、別部の諸将で賊に対した者は、勝負未だ分からず、五里余りを距てて立っていた。左翼の萬戸たる襄は別に賊と戦い、賊陣動き、襄は軍を麾いてこれに乗じ、その背後より突出し、ともに大軍と相及ばず。襄は善射の者二十騎を以て、衆を率いて賊の後よりこれを撃ち、賊は支える能わず、勢いに乗じて軍を麾いてその一偏を撃てば、賊は遂に退いた。襄は遂に大軍と合し、別部の諸将も皆至り、陣を整えて力戦するに、忽ち風反りて砂石を揚げ、賊陣乱れ、官軍馳せ撃ちて、これを大破した。北を追うこと十余里、斬獲甚だ衆し。詔して糺者を武義将軍とし、孛迭を昭信校尉とし、挼剌を忠翊校尉となす。糺は同知建州事に除されたが、未だその官に赴かずして卒した。孛迭は賊中より家を取らんとして、遂に害せられ、上これを憫れみ、後に挼剌を汝州都巡検使となした。
窩斡はその衆を率いて西走し、謀衍は霿𩃭河においてこれを追い及んだ。賊は既に渡河し、その津口を毀ち、紇石烈志寧の軍先ず至るも、渡ることを得ず、乃ち対岸に疑兵を為し、夾穀清臣・徒単海羅の両萬戸を以て下流に河を渡らしむ。支港に値い、両岸斗絶にして且つ濘淖たり、軍士に命じて柳を束ねて港を填め過ぐ。これを数里追い、平地を得、方に食らうに、賊衆奄として至る。志寧の軍急ぎ陣を整うるに、賊は南岡より馳せ下り、陣を沖すること三たび、志寧力戦し、流矢左臂に中るも、戦うこと自若たり。大軍畢く至り、左翼の騎兵先ず賊と接す。賊は上風に据りて火を放ち、煙に乗じて官軍を撃つ。官軍の歩兵も亦至り、力を併せて合戦す。凡そ十余合、軍士風煙に苦しみ皆植立して癡の如し。会うに天雨を降らし、風止み、官軍奮撃して、これを大いに敗る。徒単克寧は奔るを追うこと十五里、賊前に溪澗に厄せられて亟に渡るを得ず、多く殺傷す。賊既に渡り、官軍も亦渡り、少しく憩うに、賊は旆を反して来攻す。克寧は大軍継がざるを以て、軍士に皆下馬して賊を射しむ。賊は引き退きて南す。克寧も亦将に引きて北せんとす。士未だ馬に騎るに及ばず、賊復た来たりて衝突す。官軍少しく退き、回って澗北に渡る。大軍至り、賊は遂に引き去る。
四月、詔して元帥府に曰く、「応に契丹の賊人、大兵と未だ戦わざる以前に投降する者は、殺傷すべからず、仍お加うるに安撫すべし。敗走以後、招誘して来降する者は、奴婢を除きては已に虜を准えて定むるを外とし、親属は分付して圓聚せしむべし。仍お官を以て換贖すべし」と。
窩斡既に敗れ、謀衍は復た追討せず、軍を白濼に駐む。窩斡は懿州を攻めて克たず、遂に川州を残破し、将に山西に遁れんとす。而して北京も亦これを邀撃せず。ここにおいて、驍騎軍二千・曷懶路の京師に留屯する軍三千を発し、号して二萬と称し、会寧・済州の軍六千も亦二萬と号す。元帥左都監高忠建兵を総べ、沃州刺史烏古論蒲查を曷懶路押軍萬戸とし、祁州刺史烏林答剌撒を済州押軍萬戸とし、右驍騎副都指揮使烏延查剌を驍騎萬戸とし、祁州刺史宗甯を会甯路押軍萬戸とし、右宣徽使宗亨を北京路都統とし、吏部郎中完顔達吉を副統とし、元帥府に会してこれを討撃せしむ。
詔して尚廄局副使蒲察蒲盧渾を遣わし、懿州に往きて将帥を戒敕せしむ。上曰く、「朕卿らに賊を討たしむるに委ぬ。乃ち聞く、賊に就きて趨戦せず、而して兵を閑緩に駐め、累月を経涉し、雖た曾て追襲すと驚き、乃ち水草の地に由らず、以て馬疲弱にして百里も行かずして還るに至る。後に雖た賊を破ると雖も、而して諸軍を縦して劫掠せしめ、数日後に方に北を追うて霿𩃭河に至るも、亦乗勝せず、輒ち復た引き還る。賊は遂に近地に入り涉り、北京・懿州これによりて兵を受く。朕重く汝らを譴せんと欲す。方に兵事を任ずるを以て、且つ後功を図らんとす。当に心を尽くし力を一にして、前に似たる怠弛あることなかれ」と。上蒲盧渾に謂う、「卿若し賊近きに在るを聞かば、即子当に監督して討伐すべし。命を用いて力戦する者は疏記して以て聞かしめよ。朕将に約量して遷賞せん。或いは上官に承徇し、功ある者を抑え、功なき者を濫りに署することなかれ。善く士卒を戢め、虜掠を縦すことなかれ」と。紇石烈志寧を以て元帥右監軍とし、右副元帥完顔謀衍・元帥右監軍完顔福壽を召し還して京師に至らしめ、咸平路総管完顔兀帯を復た旧職とす。謀衍の男斜哥、軍中に在りて多く暴横なり。詔して本管に押し帰す。窩斡、その親しむ者を使わして節度使移裏堇窟域を招かしむ。窟域その使を執りて官に送り、窩斡と連戦して功あり、宣武将軍に遷し、銀五百両・衣二襲を賜う。中都に在る弓一万五千・箭一百五十萬を起運して懿州に赴かしむ。
平章政事移剌元宜・甯昌軍節度使宗叙入見す。詔して中道より却って軍中に還り、元宜・謀衍に宣諭して辺事の経略に注意せしむ。師久しく功無し。尚書右丞僕散忠義、死力を効い以て辺患を除かんことを願う。世宗嘉歎す。六月、忠義平章政事兼右副元帥を拝し、宗叙を兵部尚書とし、各々弓矢・具鞍勒馬を賜う。内府の金銀十万両を出して軍用を佐く。詔して曰く、「軍中の将士に犯す者有らば、連職を除きて奏聞し、余は軍法に依り約量して決責し、功ある者は格に依り遷賞すべし」と。大名尹宗尹を以て河南路統軍使とし、河南路統軍都監蒲察世傑を西北路副統とし、弓矢佩刀廄馬を賜い、忠義の征行に従わしむ。詔して諸軍の将士に諭して曰く、「兵久しく辺陲に駐まり、財用を蠹費して功無く、百姓休息を得ず。今命ずるに平章政事僕散忠義を以て右副元帥を兼ねしめ、心を同じくし力を戮して以て戡定を底せしむ。右副元帥謀衍は罷めて同判大宗正事と為す」と。
詔して居庸関・古北口に契丹の奸細を譏察せしめ、捕獲する者は官賞を加う。萬戸温蒂罕阿魯帯、兵四千を以て古北口に屯し、薊州・石門関等の処は各々五百人を以てこれを守らしむ。海陵の末年、阿魯帯は猛安たり、移剌娜は牌印祗候たり。契丹部族兵を起こして執られ、ここに至り挺身来降す。世宗、阿魯帯を以て済州押軍萬戸とし、移剌娜を同知濼州事となす。
西南路招討使完顔思敬を都統とし、金牌一・銀牌二を賜い、西北路招討使唐括孛古底これを副とす。兵五千を以て往きて燕子城の旧戍軍に会し、地形の沖要を視て或いは狗濼に屯駐し、遠く斥候し、賊至れば即ち戦い、昼夜を限とせず。詔して思敬に曰く、「契丹の賊敗れて必ず山後に走らん。新馬三千を選び、芻纇を加えて以て追襲に備うべし」と。
僕散忠義が軍中に至る。この時、窩斡は西へ花道に走り、その衆はなお八万であった。忠義と高忠建の軍は賊と遭遇し、万戸の查剌と蒲查が左翼となり、宗亨がこれを統率し、宗寧と剌撒が右翼となり、宗敘がこれを統率し、世傑もまた左翼の中にあり、賊と河を挟んで陣を布いた。賊は河を渡り、四万余りの兵をもって先ず左翼軍を犯し、查剌は六百騎を率いて奮撃しこれを破った。再び四万の衆をもって左翼軍と戦い、宗亨と世傑の七謀克が指揮を誤り、陣は乱れて賊に敗れた。世傑は身を挺して查剌の軍中に投じ、賊は查剌の軍を包囲したが、查剌は力戦し、宗敘が右翼軍を率いて来援したため、賊は去った。
詔して曰く、「契丹が叛逆を起こして以来、賊に誑かされて誤った者があれば、如何に賊に従ったかを問わず、ただ業を復することができれば、本罪を免ずる。もし衆を率いて来附し、あるいは首領を殺捕して降り、あるいは賊が扇動して乱を起こさせた者を捕らえて送れば、皆量りに官爵を加える。朕は正隆の南征の際、猛安で亡くなった者を招還して誅戮されたことを思い、既にその子孫にその職を襲わせた。汝らは前事を懲りて、故意に疑いを懐くことなかれ。賊軍は今既に破れ散じ、山後諸処には皆将士を命じてその逃路を遏えている。汝らは降らざることを欲しても、終に何処へ往かんとするのか。もしなお疑いを懐けば、俱に焚滅に就き、悔ゆるも及ばん」と。
窩斡は花道より西へ走り、僕散忠義と紇石烈志寧が大軍を以て追い、嫋嶺西の陷泉に及んだ。翌日、賊軍三万騎は水を渡って東へ向かった。大軍は先ず南岡を占拠し、左翼軍は岡より陣を布き、迤邐として北に連なり、歩軍これに継ぎ、右翼軍は歩軍に継いで北に引き東へ向かい、偃月陣を布いた。歩軍は中に居り、騎兵はその両端を占めて、賊に首尾を見せしめなかった。この日は大霧晦冥たりしが、陣を布きて霧開き、少しくして晴れ渡った。賊は左翼が南岡を占拠するを見て敢えて撃たず、右翼軍を撃ち、烏延查剌が力戦したため、賊は稍く退いた。志寧は夾穀清臣・烏林答剌撒・鐸剌と合戦し、賊は大敗し、水を渡って去らんとしたが、泥濘にして速やかに渡ることができなかった。大軍は北を逐い、人馬相蹂み践んで死する者数え勝えず、陷泉は皆平らぎ、余衆は踏み籍けて過ぎ、あるいは奔潰して林莽の間に竄匿した。大軍は踵を接してこれを撃ち、俘斬は万を数え、その弟の偽六院司大王嫋を生擒した。窩斡は僅かに数騎と脱去し、鈔兀と清臣は四十余里を追ったが及ばず、千余級を斬り、車帳を多く獲た。その母徐輦は営を挙げて落括岡より西へ走り、志寧がこれを追い、輜重を尽く獲、五万余人を俘え、雑畜は数え勝えなかった。偽節度使六及びその部族は皆降った。
詔して北京副統の完顔達吉に本部の馬を括り、芻糧を規辦せしめ、なお達吉を監戦官とし、功ある者を録して奏聞せしむ。詔して中都・西京両路の新旧軍一万人を選び守禦に備えしむ。窩斡が敗走したため、衝突する恐れあるを以てなり。
僕散忠義は使者を遣わして捷を奏す。詔略して曰く、「平章政事右副元帥忠義、使者を遣わして大捷を奏す。或いは軍に俘獲され、或いは自ら能く来服し、或いは帰する所なくして投拜し、或いは全属を率いて帰附し、あるいは分領して家族を率いて降り、あるいは嘗て偽命を受け、及び自ら来たりて官軍と闘敵した者も、皆その罪を釈す。その散亡の人の中、窩斡一身を除き、大小官員の如何なる名色たるとを問わず、却って来附する者も、亦釈放に准ず。能く窩斡を誅捕し、或いは招納に従わず亡去した人の中より誅捕して来たり、及び能く衆を率いて掌軍官及び随処の官司に投降する者は、並びに官賞を与う。各路は来る者を撫納し、輒く侵損を加うることなかれ。資給なき者は、如何なる路分たるとを問わず、糧ある処に随って安置し、なお官を以て養済す」と。
窩斡は散卒一万余人を収合し、遂に奚部に入り、諸奚を以て自らを益し、時時兵を出して速魯古澱・古北口・興化の間を寇す。温蒂罕阿魯帯が古北口を守り、これと戦って敗れた。詔して完顔謀衍・蒲察烏裏雅・蒲察蒲盧渾に兵三千を以て、旧屯兵五千と合し、これを撃たしむ。詔して完顔思敬に所部の兵を以て奚地に入り、大軍と会して窩斡を討たしむ。
賊党の霿𩃭河猛安蒲速越が人を遣わして帥府に至り降を約す。詔して窩斡を擒捕することを令し、官賞を以て許す。賊将の降る者甚だ衆し。その散走する者も詔書の招降を聞き、多く降る者あり。その余は多く疾疫に罹りて死に、再び闘志無し。窩斡は自ら勢窮まるを度り、乃ち羊城道より西京を経て夏国に奔らんと謀る。大軍これを追うこと益々急なり。その衆また多く亡去し、西に至らざるを度り、乃ち北に沙陀の間へ走る。詔して尚書省に曰く、「凡そ脅従の家で俘掠に遭い遂に離散に致った者は、宜しく改正に従うべし。将士は往々にしてその人を蔵匿す。有司は検括して分付せよ」と。
監軍の志寧は賊の稍合住を獲たが、釈して殺さず、賊中に還し、その親近を誘って窩斡を捕らえ自ら効を立てしめ、官賞を以て許した。九月庚子、稍合住は神独斡とともに窩斡を執り、右都監の完顔思敬に詣でて降り、並びにその母徐輦及びその妻・子・子婦・弟・侄を獲、偽の金銀牌印を尽く収む。唐括孛古底は前胡里改節度使の什温及びその家属を獲た。西北路招討使の李家奴は偽枢密使の逐斡等三十余人を獲、また猛安の泥本婆果とともに偽監軍の那也を天成県まで追い、那也乃ち降り、乃ち偽都元帥の醜哥及び金牌一・銀牌五を獲た。志寧は清臣・宗寧・速哥等とともに余党を燕子城まで追い、その党を尽く得た。前に抹抜裏達の地に至り、悉くこれを獲、逆党遂に平ぐ。
賛して曰く、金の九主、弑されたる者は三、その逆謀者は十人。熙宗の弑は、ただ大興国一人、世宗はその罪を声して思陵の側で磔にした。徒単貞は誅されたが、その罪状を暴くことは聞かず、後に戚畹としてまた贈官追封された。余の秉徳・唐括辯ら六人は、皆他の罪で誅された。海陵の弑は、その首悪は完顔元宜、則ち令終焉した。衛紹王の弑は胡沙虎、司敗の誅に死せずして、高琪の手に死した。古に所謂く、君を弑するの賊は人を得てこれを討つ、とは公上に請いて討ち致すを謂う。孔子が陳恆の討伐を請うたが如きこれである。どうして琪の如き擅殺を以て功とするがあろうか。金の政刑、その乱れこの如し、国亡びざらんと欲するも、その得べけんや。