昔し孔子が『春秋』を作りて乱臣賊子懼る、その法五つ有り。微にして顕れ、志して晦ます、婉にして章を成し、尽くして汚さず、悪を懲らしめて善を勧む。悪を懲らすは乃ち善を勧む所以なり。『逆臣傳』を作る。
秉德
秉德、本名は乙辛。初め西南路招討使となり、汴京留守に改む。母の憂いに遭い、起復して兵部尚書となり、参知政事を拝す。皇統八年、烏林答蒲盧虎等と郡県を廉察し、使より還り、平章政事を拝す。廷議、遼陽の渤海人を徙して燕南に屯せしめんと欲す。秉德及び左司郎中三合、其の事を議す。近侍高壽星、徙中に在り。壽星、悼后に訴う。后、以て帝に白す。帝怒り、秉德を杖ちて三合を殺す。是の時、熙宗位に在ること久しく、悼后政を幹き、而して継嗣未だ立たず。帝無聊にして不平、屡ひ宗室を殺し、大臣を箠辱す。秉德、其の故を以て忿みを懐き、乃ち唐括辯・烏帶等と謀りて廃立を図る。
烏帶、其の謀を以て海陵に告ぐ。海陵乃ち秉德と謀りて熙宗を弑す。皇統九年十二月九日、遂に唐括辯・烏帶・忽土・阿里出虎・大興国・李老僧・海陵の妹婿特廝と、熙宗を寝殿に弑す。秉德の初意は海陵に在らず、既に熙宗を弑し、未だ属する所無し。忽土、海陵を奉じて坐らしむ。秉德等皆拝して万歳を称す。曹国王宗敏・左丞相宗賢を殺す。時に秉德の位は海陵の上に在り。杖たれたるを因りて怨望し廃立を謀り、而して海陵之に因りて以て乱を為す。既に立つ、秉德を以て左丞相と為し、侍中・左副元帥を兼ね、蕭王に封じ、鉄券を賜い、銭二千万・絹一千匹・馬牛各三百・羊三千を与う。久しくして、烏帶の譖る所となり、出でて行台尚書省事を領す。
時に秉德方に告に在り、亟に之を召し、十日を限りて発行せしむ。会に海陵、太宗の諸子を除かんと欲し、並びに秉德を除かんとす。秉德の首謀して廃立し、及び熙宗を弑し下りて即ち勧進せしを以て、之を銜む。烏帶因りて言す、秉德と宗本と謀反する状有りと。曰く、「昨来、秉德曾て宗本の家に於いて酒を飲み、海州刺史の子忠言す、『秉德に福有り、貌趙太祖に類す』と。秉德偃仰して笑ひて其の言を受く。臣が妻言す、秉德の妻嘗て主上を指斥し、語皆順ならずと。及び秉德と宗本と相別する時、指斥尤も甚だしく、且つ歴数帰する所有りと謂う。秉德、刑部侍郎漫獨を招きて曰く『以前曾て那の公事を説けり、頗る記憶するや否や』と。漫獨曰く、『性命を存せざる事、何ぞ衆に対し便ち説くべけんや』と。此の如き逆状甚だ明らかなり。」海陵、使者を遣わして行台に就きて秉德を殺さしめ、並びに前行台参知政事烏林答贊謀を殺す。
贊謀の妻は、秉德の乳母なり。初め、贊謀と前行台左丞温敦思忠、同じく行台に在り。思忠、貨を黷して厭うこと無し。贊謀之を薄しむ。是を以て隙有り。故に思忠是に乗じて並びに贊謀及び其の子を誣い、之を殺す。贊謀跪きて刑を受くるを肯ぜず。行刑者立ちて之を縊殺す。海陵、贊謀の家財奴婢を以て尽く思忠に賜う。
秉德と烏帶、口語を以て怨みを致す。既に死し、遂に並びに其の弟特里・颭里及び宗翰の子孫を殺す。死者三十余人、宗翰の後遂に絶ゆ。世宗即位し、秉德の官爵を追復し、儀同三司を贈る。
初め、撒改薨ず。宗翰其の猛安親管謀克を襲ぐ。秉德死し、海陵之を以て烏帶に賞し、其の子兀答補に伝う。大定六年、世宗宗翰の後無きを憫み、詔して猛安謀克を以て撒改の曾孫盆買に還し、使者を遣わして撒改・宗翰を山陵の西南二十里に改葬し、百官奠を致し、其の家産を近親に給して以て祭祀を奉ぜしむ。
秉德既に死し、其の中都の宅第は、左副元帥杲之に居る。杲死し、海陵都を遷す。其の嫡母徒単氏を迎えて之に居らしむ。徒単害に遇う。世宗其の不祥を悪み、施して仏寺と為す。
唐括辯
唐括辯、本名は斡骨剌。熙宗の女代国公主に尚し、駙馬都尉と為る。累官して参知政事・尚書左丞となる。右丞相秉德と謀りて廃立を図る。而して烏帶以て海陵に告ぐ。海陵辯に謂いて曰く、「我輩匡救せずんば、旦暮に且つ禍に及ばん。若し大事を行わば、誰をか立てんとする者ぞ。」辯曰く、「乃ち胙王常勝ならんか。」海陵次を問う。辯曰く、「鄧王の子阿楞なり。」海陵曰く、「阿楞は属疏し、安んぞ立つことを得ん。」辯曰く、「公豈に意有らんや。」海陵曰く、「已むを得ずんば、我を捨てて其れ誰ぞ。」是に於いて、旦夕相与に密謀す。護衛将軍特思之を疑い、以て悼后に告げて曰く、「辯等間に因りて毎に窃窃偶語し、何の事を議するかを知らず。」悼后以て熙宗に告ぐ。熙宗怒り、辯を召して責めて曰く、「爾と亮何事を謀る、将に我を如何にせんとする。」杖ちて之を遣わす。是より謀益々甚だし。
十二月九日、代国公主其の母悼后の為に仏事を作し、寺中に居る。故に海陵・秉德等俱に辯の家に会す。夜に至り、辯等刀を以て衣の下に蔵し、相随い宮に入る。門者は辯駙馬を疑わず、皆之を内す。殿門に至り、直宿の護衛之を覚ゆ。辯刀を挙げて呵し之をして動かざらしむ。既に熙宗を弑し、海陵を立て、辯を尚書右丞相兼中書令と為し、王に封じ、銭二千万・絹千匹・馬牛各三百・羊三千・並びに鉄券を賜う。進みて左丞相を拝す。父の彰徳軍節度使重国、東平尹に遷る。
初め、唐括辯は海陵王と謀反を企て、辯は嘗て家奴に多く使い得る者がいると言い、海陵王は固よりこれを心に留めていた。及んで弑逆の夜、辯の家で会し、大興国が出宮するのを待ち、辯は因って饗応を設けたが、衆は皆恐れ慄いて食することができず、辯のみ飽食して自若としていた。海陵王はここにおいてその残忍さを知り、畏れ忌み、即位すると、嘗て辯と太祖の画像を観た際、海陵王は指し示して辯に言うには、「この眼は汝に似ている」と。辯の色が動き、海陵王もまた色が動き、ここにおいて辯を疑い、ますます忌み嫌った。及んで蕭裕と謀って宗本の罪を捏造するに当たり、併せて辯が嘗て宗本と謀反を企てたと捏造し、即座にこれを殺した。
後に辯の子孫が上書し、辯が天徳年間に死に、祖父の重国もまた追って官爵を削られたと述べた。正隆初年、重国は既に官職を回復していたので、辯の官爵を追復することを乞うた。この時、海陵王は既に庶人に降格されており、辯が弑逆に関与したとして、許さなかった。
烏帯
言うところによれば、本名は烏帯、行台左丞相阿魯補の子である。熙宗の時、累官して大理卿となった。熙宗の晩年は喜怒常ならず、大臣は往々にして危惧し、右丞相秉徳、左丞唐括辯が廃立を謀ると、烏帯は即座に海陵王のもとに赴いてこれを告げ、遂に共に熙宗を弑した。海陵王が即位すると、烏帯は平章政事となり、許国王に封ぜられ、銭、絹、馬、牛、羊、鉄券を賜り、その同党と同様であった。
烏帯の妻唐括氏は淫泆で、以前より海陵王と通じており、またその家奴の閻乞児と私通していた。秉徳は嘗て熙宗の前でその事を非難し、烏帯はこれを恨みながらも未だ発しなかった。時に海陵王は猜疑心が強く、病に罹り、少し回復した時、烏帯は遂に誣奏して言うには、「秉徳に指斥の言葉があり、曰く、主上は数日朝政を視ず、もし不測の事あれば、誰が継ぐべきか。臣は曰く、主上には皇子がおられます。秉徳は曰く、嬰児がどうして天下の大任に勝えようか、必ずや葛王であろう」と。海陵王はこれを真実と思い、故に秉徳を出させ、やがてこれを殺し、秉徳の世襲猛安謀克を烏帯に授けた。右丞相に進む。烏帯は宗本と親戚関係にあり、海陵王は烏帯が秉徳の事を告発したため、宗本の禍に烏帯のみ免れ、遂に秉徳の千戸謀克及びその子の妻の家産を尽く賜った。司空、左丞相、兼侍中に進む。
数ヶ月後、烏帯が早朝に出仕した時、日が陰晦で雨が降らんとし、海陵王が朝政を視ないだろうと思い、先に退出して朝を去り、百官も皆これに従って去った。やがて海陵王が殿に出御し、烏帯が百官を率いて朝を出たことを知り、これを憎み、遂に司空を落とし、崇義軍節度使に出した。後に海陵王は唐括氏の容色を思慕し、その侍婢が起居を伺いに来た際、海陵王は后に立てることを許し、烏帯を殺させた。海陵王は烏帯の哀悼を装い、その子兀答補に金符を佩かせて駅馬で喪に赴かせ、王を追封し、仍って有司に詔してその霊車を送らせ、絹三百を賜って道中の費用とした。唐括氏を宮中に納れ、貴妃に封じた。
兀答補は猛安謀克を襲封した。大定六年、猛安謀克を撒改の曾孫に返還し、阿魯補の謀克を兀答補に授け、同知大興尹で終わった。子の瑭、本名は烏也阿補、曾祖父阿魯補の功績により、筆硯祗候に充てられた。
大興国
大興国は、熙宗に仕えて寝殿小底となり、権近侍局直長を兼ね、最も親信され、左右を離れなかった。毎夜、熙宗が就寝すると、興国は時に主者から符鑰を取り帰宅し、主者は即座にこれを渡し、その出入りを常としていた。皇統九年、海陵王の誕生日に、熙宗は興国を使いして宋の司馬光の画像及び他の珍玩を海陵王に賜り、悼后もまた品物を添えて賜ったが、熙宗は快く思わず、興国を百回杖打った。
海陵王が弑逆を謀り、先ず興国を得てこそ隙を窺って宮中に入り大事を行えると考え、また興国が無罪で杖打たれれば必ず怨望の心があるだろうと推し量り、この機に乗じて説得できるとして、李老僧を通じて興国と結んだ。やがて、異心がなく謀り事に参与できると知ると、臥内に召し、衣を解かせ、共に臥そうとし、意を属する所があった。興国は固く辞して敢えせず、言うには、「もしご用命があれば、大王の命のままに」と。海陵王は言う、「主上は理由なく常勝を殺し、また皇后を殺した。そして常勝の家産を阿楞に賜り、既にしてまた阿楞を殺し、遂に我に賜った。我は深く憂慮しているが、どうしたものか」と。興国は言う、「これは確かに慮るべきことです」と。海陵王は言う、「朝臣は旦夕に危惧し、皆自らを保てない。以前、我が誕生日に、皇后が添えて賜った物のため、君は遂に杖打たれ、我もまた疑われた。主上は嘗て言った、必ずや君を殺すべきだと。我と君は皆免れられず、寧ろ坐して死を待つよりは大事を挙げるのはどうか。我は大臣数人と謀議を既に定めたが、爾はどう思うか」と。興国は言う、「大王の言う通り、事は緩めてはなりません」と。乃ち十二月九日夜に事を起こすことを約した。興国は符鑰を取って門を開き、詔を偽って海陵王を召し入れた。夜二更、海陵王、秉徳等が入った。熙宗は常に佩刀を御榻の上に置いていたが、この夜、興国が先に取って榻の下に投げ捨て、乱が起こると、熙宗は佩刀を求めて得られず、遂に弑された。
海陵王が既に立つと、興国を広寧尹とし、奴婢百口、犀玉帯各一、銭絹馬牛鉄券をその同党と同様に賜り、階を進めて金紫光禄大夫とした。再び興国に銭千万、黄金四百両、銀千両、良馬四匹、駝車一乗、橐駝三頭、真珠巾、玉鉤帯、玉佩刀、及び玉校の鞍轡を賜った。天徳四年、崇義軍節度使に改め、邦基の名を賜った。再び絳陽、武寧節度使を授け、河間尹に改めた。
世宗が即位すると、家に廃され、凡そ海陵王の賜った物は皆奪われた。大定年間、邦基の兄邦傑が京兆判官から還ると、世宗は言う、「大邦傑はその弟によって進められ、濫りに縉紳に列した。どうして再び用いることができようか」と。併せてその子弟と贈られた父の官を罷免した。及んで海陵王が庶人に降格されると、詔して言う、「大邦基は海陵王と共謀して弑逆し、誅罰を逃れて今日に至り、幸い多きことである」と。遂に思陵の側で磔にした。
徒単阿里出虎
徒単阿里出虎は、会寧葛馬合窟申の人で、懿州に移った。父の抜改は、太祖の時に戦功があり、謀克を領し、曷速館軍帥となり、皇統四年に兵部侍郎となり、天徳軍節度使を歴任し、興中尹に改め、宗幹と代々姻戚関係にあった。皇統九年、阿里出虎は僕散忽土と共に護衛十人長となった。海陵王が熙宗を弑せんとし、二人を内応として得たいと思い、遂に娘を阿里出虎の子に娶せることを許し、逆謀を告げた。阿里出虎は元来凶暴で、その言葉を聞いて大いに喜び、言うには、「阿家(海陵王)がこの言葉を言うのが何故遅いのか。廃立の事もまた男子の為す所である。主上は天下を保てず、人望の属する所は唯だ阿家に在り、今日の謀り事は我が素志である」と。遂に忽土と共に十二月九日に禁中に宿直し、海陵王は故意にこの夜二更に宮中に入り、寝殿に至ると、阿里出虎が先に刃を進め、忽土がこれに次ぎ、熙宗は頓仆し、海陵王が再び刃を加え、血がその顔と衣に飛び散った。
阿里出虎は自ら補佐の功があると称し、鉄券を受け、凶悪さはますます甚だしく、僚属を奴隷のように見下し、少しでもその意に逆らえば鞭打ち辱めることを憚らなかった。かつて卜者の高鼎に吉凶を問い、そこで鼎の占ったことを張王乞に問うた。王乞は天命があると謂い、阿里出虎は喜び、王乞の言葉を鼎に告げた。鼎が変事を上告すると、阿里出虎は誅殺され、その妻と王乞も殺された。海陵王はその子術斯剌にその屍を焼かせ、骨を水中に投げ捨てさせた。
抜改は西京留守から西南路招討使・忠順軍節度使を歴任し、入朝して勧農使となり、再び河間尹となり、臨洮尹に改め、入朝して工部尚書となり、興平軍節度使、済南尹に改め、卒した。
僕散師恭
僕散師恭、本名は忽土、上京老海達葛の人である。元は微賤であったが、宗幹がかつて救済し、宿衛に抜擢して十人長とした。海陵王が謀反を企てた時、忽土が自分の家から出た者で、恩があるので、内応させようと思い、彼に言った、「私は一言君に告げたいことが久しくあったが、人に漏れることを恐れ、敢えてしなかった。」忽土は言った、「筋肉骨髄の外は、皆先太師の賜ったものであり、もし国王に補うところがあれば、死をも辞しません。」先太師とは、宗幹を指す。海陵王は言った、「主上は道を失い、私は廃立を行おうと思うが、必ず君の助けを得なければならない。」忽土はこれを承諾した。
十二月九日、忽土が宿直していたので、海陵王はこれに因って宮中に入った。寝殿に至ると、熙宗は足音を聞き、叱った。皆が退いて立って動かず、忽土は言った、「事ここに至って、進まないでいられようか。」そこで共に扉を押し開けて入った。熙宗を弑した後、秉徳らはまだ誰を擁立するか決めていなかったが、忽土は言った、「初めに平章(海陵)を立てようと議したではないか、今また何を疑うことがあろう。」そこで海陵王を奉じて座らせ、皆が前に進んで万歳を称した。そこで曹国王宗敏を召し寄せ、直ちに忽土に殺させた。
海陵王が汴京に至ると、忽土に邸宅一区を賜い、寧徳宮に隣接させた。宮は徒単太后の居所であり、忽土は時々入って太后に謁見した。契丹の撒八が反乱すると、海陵王は忽土に蕭懐忠とともに北伐を命じた。出発に際し、忽土は寧徳宮に入って辞し、太后としばらく語った。海陵王はこれを聞いて憎み、太后と異謀があるのではないかと疑った。この時、蕭禿剌・斡盧補は契丹の撒八と連戦して皆功がなく、糧食の輸送が続かず、臨潢に退軍した。撒八は師恭が大軍を率いて来ると聞き、大石のもとに帰ろうと謀り、龍駒河に沿って西去した。師恭が臨潢に至った時は、追いつくことができなかった。海陵王は枢密副使白彦敬らに撒八を討たせ、師恭が帰還すると、その子忽殺虎を駅伝で迎えに行かせ、到着すると捕らえて市で殺した。師恭は刑に臨み、縄と枚で口を塞がれて言えず、ただ首を挙げて天日を見るばかりであった。そこでその一族を滅ぼし、併せて蕭禿剌・蕭賾・蕭懐忠の家を誅滅した。
大定初年、皆官爵を回復した。海陵王が庶人に降格されると、師恭は弑逆に加わったとして再び削られた。世宗が上京に行幸し、老海達葛を通った時、師恭の一族の臨潢尹守中・定遠大将軍阿里徒らは皆官を奪われた。二十八年、上は宰相に言った、「海陵は僕散師恭・蕭禿剌・蕭懐忠を遣わして撒八を追わせたが及ばず、皆誅殺に坐し、遂にその族を滅ぼしたのは、虐げが甚だしい。」平章政事襄が答えて言った、「その時臣は軍中におりましたが、忽土・賾には精兵一万三千余りがあり、賊軍は多くとも皆脅従の者で、氈紙を甲とし、容易く対処できました。忽土らは臆病で遷延し、賊は遂に逃げ去りました。」上は言った、「確かにそうならば、誅殺してもよかった。」兄は渾坦。
徒単貞
徒単貞、本名は特思、忒黒辟剌の人である。祖父の抄は、太祖に従って遼を伐ち功があり、世襲猛安を授けられた。父の婆盧火は、戦功により累官して開府儀同三司となった。貞は遼王宗幹の女を娶り、海陵王の同母の妹である。皇統九年、貞は海陵王とともに熙宗を弑した。海陵王が即位すると、貞を左衛将軍とし、貞の妻を平陽長公主に封じ、貞を駙馬都尉・殿前左副点検とした。都点検に転じ、太子少保を兼ね、王に封ぜられた。大興尹に改め、都点検は元の如しとした。まもなく臨潢府路昏斯魯猛安を授けられた。
海陵王が宋を伐たんとし、詔して朝官は三国(宋・夏・高麗)の使者との宴会を除き、その他の飲酒する者は死罪とした。六年正月四日立春節、益都尹京・安武節度使爽・金吾上将軍阿速が貞の邸宅で酒を飲んだ。海陵王が周福児に土牛を貞の邸宅に賜わしに行かせたところ、それを見て報告した。海陵王は貞を召して詰問して言った、「軍事が正に殷盛であるのに、百官に飲酒を禁じたことを卿らは知っているか。」貞らは地に伏して死を請うた。海陵王は彼らを数えて言った、「汝らがもし飲酒で人を殺すのは重すぎると思うなら、固より諫めるべきであった。古人は三度諫めて聞き入れられなくても、やはり君命に従った。魏武帝の『軍行令』に『麦を犯す者は死』とある。後に自らの乗る馬が麦の中に入ったので、髪を切って自らを刑した。麦を犯すのは些細な事であるが、必ず信を示そうとした。朕が天下の主として、法を貴近の者に実行できないことがあろうか。朕は慈憲太后の子四人のうち、ただ朕と公主が生きていること、そして京らは皆近親であることを思い、曲げて死罪を赦す。」ここにおいて貞を七十回杖打ち、京ら三人をそれぞれ百回杖打ち、貞を安武軍節度使に降格し、京を灤州刺史とし、爽を帰化州刺史とした。
間もなく、貞は御史大夫に任ぜられ、本官のまま左監軍となり、宋征伐に従軍した。揚州に至り、海陵王が死ぬと、北還した。中都において世宗に謁見し、詔により貞の娘を皇太子妃とし、貞を太原尹に任じ、後に咸平尹に改めた。貞は咸平において貪汙不法を働き、累積した贓物は巨万に及び、真定尹に転じたが、事が発覚した。世宗は大理卿李昌図に命じてこれを審問させたところ、貞は直ちに服罪した。昌図が還って奏上すると、上は問うて曰く、「貞は停職したか」と。対えて曰く、「未だなりませぬ」と。上は怒り、昌図を罪に問い、更に刑部尚書移剌道を真定に派遣してこれを問わせ、その贓物を徴収して元の所有者に返還させた。有司が徴収して返還するのに時を守らなかったため、詔して先ず官銭をもってその所有者に返還させ、貞に官に納めさせた。凡そ所有者に返還する贓物は、皆この例に準じた。貞を降格して博州防禦使とし、貞の妻を降格して清平県主とした。
ほどなく、震武節度使に遷り、使者を派遣して戒め教諭し、詔して曰く、「朕は卿が懿戚なるを思い、終考を待たず、更に大鎮に遷す。非常の恩は数え得るべからず、卿は前の過ちを蹈むことなかれ」と。河中尹に転じた。その妻を進封して任国公主とし、黄金百両・重彩二十端を賜い、貞に撃球馬二匹を賜う。東京留守に改め、玉吐鶻・弓矢を賜い、貞の妻に銭一万貫を賜う。
有司が奏上して曰く、「海陵王は既に庶人に貶せられ、宗幹はなお帝と称すべからず」と。ここにおいて、宗幹に社稷の功あるを以て、詔して追封して遼王とし、その子孫及び諸女は皆降格し、貞の妻は永平県主に降格し、貞は儀同三司より特進に降格し、猛安を奪い、駙馬都尉と称さず。再び臨潢尹に転じた。
初め、熙宗弑逆に与った者は凡そ九人、海陵王は暴虐をもって自ら斃れ、秉徳・唐括辯・忽土・阿里出虎は疑いを以て殺され、言は妻の死により、裕・老僧は反逆を以て誅せられ、この時に至って貞と大興国のみが尚生存していた。而して興国は擯棄されて用いられず、独り貞は世姻にして恩寵に籍り、夫婦共に爵号を降削されながらも、世宗は久遠を慮り、終に私恩を以て曲げて庇うことなく、久しくして、詔して貞及びその妻と二子慎思・十六を誅し、その諸孫は宥した。間もなく、興国もまた誅せられ、皇統の逆党は尽きた。
章宗が即位すると、母である皇太子妃を尊んで皇太后とし、貞を追封して太尉梁国公とし、貞の祖父抄を司空魯国公とし、父婆盧火を司徒齊国公とし、貞の妻を梁国夫人とし、子の陀補火・慎思・十六を皆鎮国上將軍とした。間もなく、再び貞に太師・広平郡王を贈り、諡して莊簡とした。貞の妻を進封して梁国公主とした。
李老僧
李老僧は、旧くは将軍司の書吏であり、大興国と親戚関係にあり、平素より親厚であった。海陵王が政を執ると、興国が海陵王に推挙し、海陵王は省令史とした。挙事せんとするに及び、老僧をして興国を結ばせ、興国が終に海陵王のために符鑰を取って海陵王の宮中に納め、弑逆を成さしめたのは、老僧がこれを為したのである。海陵王が既に立つと、老僧を同知広寧尹事とし、銭千万・絹五百匹・馬牛各二百・羊二千を賜うた。
久しくして、海陵王は韓王亨を憎悪し、これを殺さんとして、その罪を求むるも得られず、遂に亨を広寧尹とし、再び老僧を同知として任じ、亨を伺察させて、その罪を構成して致させた。亨は博奕を好み、広寧に至ると、常に老僧と博奕し、これを厚く待遇した。老僧はこれにより亨を死罪に致すに忍びず、猶予すること久しかった。海陵王は再び小底の訛論を派遣して老僧を促し、老僧は乃ち亨の家奴六斤と謀り、亨を獄中に殺した。その語は亨伝にある。耶律安礼が広寧より朝廷に還ると、海陵王はこれに謂いて曰く、「孛迭(亨)に三罪あり、その一を伏すを見るに已に觖望せり。爾は乃ち梁王の故吏なり、若し亨が辜に伏せば、必ずや親族に罪及びん。故に榜殺せしなり」と。
論じて曰く、『書経』に曰く、「王の左右に常伯・常任・准人・綴衣・虎賁あり。周公曰く、嗚呼、休なるかな、これを恤うを知るは、鮮いかな」と。穆王が伯冏に告げて曰く、「慎んで乃ち僚を簡べよ、巧言令色・便辟側媚を以てするなかれ、其れ惟だ吉士を起せ」と。金人の所謂る寝殿小底は周の綴衣に、所謂る護衛は周の虎賁に猶く、則ち皆群僕侍御の臣である。海陵王の弑逆に、大興国・忽土・阿里出虎がその扼擘(主導)を為し、皆小底護衛の中より出でたのは、熙宗が固よりこれを恤うを知らなかったのである。一日、熙宗が近侍と飲酒し、夜に会して稽古殿が火災に遭うと、上は往視せんとし、都点検の辞不失が帝の裾を引いて止め、奏して曰く、「臣此に在り、陛下何をか患えん、願わくは親しく往かざらんことを」と。熙宗は辞不失が酒に酔えりと謂い、甚だ之を怒り、明日、杖罰して出し、已にしてその忠を思い、復た召し用いた。海陵王と唐括辯が時時人を屏けて私語するのを、護衛の特思がその非常なるを察し、海陵王は之を排擠して殺した。皇統末年、群臣は解体し、尊君謹上の心無く、而して群奸窃発し、僕禦の臣に復た辞不失・特思の如き者は無かった。『詩経』綿の詩に曰く、「予曰く疏附有り、予曰く先後有り、予曰く奔走有り、予曰く禦侮有り」と。嗚呼、先後禦侮の臣、豈に少くすべけんや。
完顔元宜
完顔元宜は、本名は阿列、一名は移特輦、本姓は耶律氏。父は慎思、天輔七年、宗望が遼主を追って天徳に至ると、慎思が来降し、且つ夏人が兵を以て遼主を迎え、将に河を渡って去らんとすと言上した。宗望は夏人に移書して禍福を諭し、夏人は乃ち止んだ。慎思に姓を完顔氏と賜い、官は儀同三司に至った。
海陵王が宋を伐つに及び、本官のまま神武軍都総管を領し、大名路の騎兵一万余を以てこれを増強した。前鋒は淮を渡り、昭関を抜き、柘皋において宋兵一万余と遭遇し、力戦してこれを退けた。和州に至り、宋兵十万が来拒したので、元宜は軍を麾して力戦し、暮れに及んで罷んだ。宋人は夜に乗じて営を襲ったが、元宜はこれを撃退し、黎明に宋兵に追い及び、数万の首級を斬り、功により銀青光禄大夫に遷った。海陵王は浙西道都統制を増置し、元宜をしてこれを領せしめ、諸軍を督して江を渡らせ、金牌を佩かせ、衣一襲を賜うた。
この時、世宗は既に遼陽において即位しており、軍中には去就を懐く者多かった。海陵王の軍令は惨急で、亟く江を渡らんと欲し、衆は亡帰せんと欲し、元宜に決計を求めた。猛安唐括烏野が曰く、「前に淮渡を阻まれ、皆成擒となるであろう。比聞く、遼陽に新天子即位すと、大事を共に行い、然る後に全軍を挙げて北還するに若かず」と。元宜は曰く、「王祥の至るを待ってこれを謀らん」と。王祥とは元宜の子で、驍騎副都指揮使であり、別軍に在った。元宜は人をして密かに王祥を召し、既に至ると、遂に詰旦の衛軍番代の時に即ち事を行わんと約した。元宜は先ずその衆を欺いて曰く、「令有り、爾輩は皆馬を去り、詰旦江を渡らん」と。衆は皆懼れ、乃ち挙事を之に告げると、皆諾した。
十月乙未の黎明、元宜・王祥と武勝軍都総管の徒単守素・猛安の唐括烏野・謀克の斡盧保・婁薛・温都長壽らが衆を率いて御営を犯す。海陵は乱を聞き、宋兵が急に至ったと思い、衣を掻き集めて急ぎ起き、矢が帳中に入るのを取り視て、愕然として曰く、「乃ち我が兵なり」と。大慶山曰く、「事急なり、出でて之を避くべし」と。海陵曰く、「走りて将に何くにか往かん」と。弓を取らんとするや、既に箭に中りて地に仆る。延安少尹の納合斡魯補が先ず之を刃し、手足猶動くを、遂に縊め殺す。驍騎指揮使の大磐が兵を整えて来援す、王祥出でて之に語して曰く、「及ぶ無し」と。大磐乃ち止む。軍士は行営の服用を攘ぎ取り皆尽き、乃ち大磐の衣巾を取って海陵の屍を裹き、之を焚く。遂に尚書右丞の李通・浙西道副統制の郭安国・監軍の徒単永年・近侍局使の梁珫・副使の大慶山を収め、皆殺す。元宜は左領軍副大都督事を行い、使者をして皇太子光英を南京に於いて殺さしむ。大軍は北還す。
泰州路に往きて契丹討伐の事を規措せしむ、元宜は忠勇校尉の李栄をして窩斡を招かしむ、窩斡は栄を殺す、詔して栄を追贈し官を四階進む。五月、上、元宜将に還らんとするを聞き、使者を遣わして之を止む。契丹已に平らぎ、元宜朝に還り、諸群牧の鎧甲を益すを奏請す。詔して之に従い、各群牧に二十副を益す。元宜復た臨潢の戍軍士馬を益すを請う、詔して馬六百匹を与う。久しくして、罷めて東京留守と為る。賜わし所の甲第を還すを乞う、上之に従い、襲衣・吐鶻・廄馬・海東青鶻を以て賜う。未だ幾ばくもあらず、致仕し、家に薨ず。上之を聞き、使者を遣わして祭を致し、賻贈甚だ厚し。
大定十一年、尚書省、納合斡魯補の除授を奏擬す、上曰く、「昔、海陵を廃せし時、此人首めて入りて之を弑す、人臣の罪是れより大なるは莫し、豈に復た官を加えて使うべけんや。其の世襲謀克は姑く仍旧に聴せよ」と。大定十八年、紮里海言上して曰く、「凡そ人臣として災を捍ぎ侮を禦ぎ功有る者は、宜しく之を録用すべし。今、海陵を弑する者を以て功有りと為し、高爵を以て賞するは、以て君に事うるを勧むる所以に非ず。宜しく削奪し、以て人臣の戒めと為すべし。臣当時に在りて亦其の党与す、如し名を正し罪を定めんとせば、請う臣より始めよ」と。上曰く、「紮里海自ら其の罪を請うて以て君に事うるを勧む、此れ亦人の難くする所なり」と。遂に紮里海を以て趙王府祗候郎君に充つ。
元宜の子の習涅阿補、大定二十五年に符宝祗候と為り、女直人の例に依り官を遷すを乞う、上曰く、「賜姓は一時の権宜なり」と。習涅阿補をして本姓に還らしむ。
紇石烈執中
御史中丞の孟鑄、執中を奏弾して「貪残専恣、法令を奉ぜず。罪を釈されたる後、累過て悛まず。既に恩貸を蒙り、転じて跋扈を生ず。雄州に於いて馬を詐認し、平州に於いて俸を冒支し、魏廷実の家を破る。其の塚墓を発し、表を拝して赴かず、雨を祈りて妓を聚め、同僚を毆詈し擅に停職を令し、師帥の体を失い、京尹の任に称せず」と。上曰く、「執中は粗人、跋扈有るに似たり」と。鑄対えて曰く、「明なる天子上に在り、豈に跋扈の臣を容れんや」と。上意寤り、奏章を取って閲し、詔して尚書省に之を問わしむ。是れ由りて武衛軍都指揮使に改む。
平章政事の僕散揆、河南を宣撫し、執中は山東東西路統軍使を除く。揆、汴に行省して宋を伐ち、諸道統軍司を兵馬都統府に升し、執中は山東両路兵馬都統、定海軍節度使の完顔撒剌之に副う。執中は兵を分けて金城・朐山に駐め、益して東平路の兵を発し密・沂・寧海・登・萊に屯して以て兵衝を遏えんことを請う、詔して之に従う、時に泰和六年四月なり。
五月、宋兵、金城を犯す、執中は巡検使の周奴をして騎兵三百を以て之を禦がしむ。会して宋兵を益し転じて沭陽に趨かんとす、謀克の三合、伏卒五十人を篁竹中に伏せ、宋兵の過ぐるを伺い突出して之を撃ち、十数人を殺し、県城に追う、宋兵敢えて出でず。会して周奴兵を以て城に入る、宋兵城を踰えて走る、三合既に其の舟を焚き、合撃して大いに之を破り、首級五百余を斬り、宋の統領李藻を殺し、忠義軍の将呂璋を擒う。
十月、執中は兵二万を率いて清口より出撃し、宋は歩騎一万余を南岸に列べ、戦艦百艘をもって上流を防ぎ、数日にわたり対峙した。執中は舟兵二千をもって戦い、宋の舟兵を阻み、副統の移剌古と涅に精騎四千を率いさせて下流より直ちに渡河させた。宋兵は騎兵が南岸に上陸するのを見て、水陸ともに潰走した。追撃して斬り殺し、溺死させた者は甚だ多く、その戦艦及び戦馬三百をことごとく獲て、遂に淮陰を陥れ、進軍して楚州を包囲した。元帥左監軍に遷る。執中は兵を放って掠奪させたので、上はこれを聞き、その経歴官の阿里不孫を杖罰し、掠奪したものを返還させた。間もなく、宋人が和を請うたので、詔して兵を罷めさせた。西南路招討使を除し、西京留守に改めた。
翌年、また中都に召し出され、軍事の議に預かった。左諫議大夫の張行信が上書して曰く、「胡沙虎は専ら私意を逞しくし、公道に循わず、省部を蔑ろにして強梁を示し、近臣に媚びて称誉を求め、法を枉げて事を行い、枉しく平民を害す。山西に行院し、出師に律なく、戦わずして先ず退き、官物を擅に取り、県令を杖殺す。媯川に屯駐し、内地に移ることを請う、その謀略は概ね見るべし。前に非なるを改易せしめて、後の効を収めんと欲するは、亦た難からずや。才誠に取るべきあらば、微賤に在りと雖も皆当に擢用すべく、何ぞ必ずしも老舊にして始めて功を立て能わん。一将の用は、安危の繫る所、惟れ朝廷に察を加えられんことを、天下幸甚なり」と。丞相の徒単鎰は用いるべからずと為し、参知政事の絪は跪いて奏してその奸悪を論じ、乃ち止めた。執中は近幸と結ぶことを善くし、交口して称誉された。五月、詔して留守の半俸を給し、軍事の議に預からしめた。張行信また諫めて曰く、「伏して聞く、胡沙虎を老臣と為し、起して用いんと欲すと。人の能ふる能はざるは、新旧に在らず。彼の向の敗は、朝廷既にこれを知れり。乃ちまたこれを用うるは、無乃不可ならずや」と。遂に止めた。
上は終に執中を用いるべきと為し、金牌を賜い、権右副元帥と為し、武衛軍五千人を将いて中都城北に屯せしめた。執中は乃ちその党の経歴官・文繡局直長の完顔醜奴、提控宿直将軍の蒲察六斤、武衛軍鈐轄の烏古論奪剌と謀りて乱を作らんとす。是の時、大元の大兵近くに在り、上は奉職をして即ち軍中に遣わし、執中を責めて専ら馳獵に務まり、軍事を恤れざるを責めしむ。執中方に鷂を飼うており、怒ってこれを擲ち殺し、遂に妄りに大興府知事の徒単南平及びその子の刑部侍郎・駙馬都尉の没烈が謀反すと称し、詔を奉じてこれを討たんとす。南平の姻家の福海は、別に兵を将いて城北に屯し、人を遣わして好語をもってこれを招く。福海は知らず、既に至って乃ちこれを執えた。
八月二十五日、未だ五更ならず、その軍を三軍に分かち、章義門より入り、自ら一軍を将いて通玄門より入る。執中は城中の兵出で来りて拒がんことを恐れ、乃ち一騎を先に馳せて東華門に抵らしめ、大呼して曰く、「大軍北関に至り、既に戦いを接せり」と。既にしてまた一騎を遣わすも亦たかくの如し。徒単金寿をして大興府知事の徒単南平を召さしむ。南平は知らず、広陽門西の富義坊に行き至り、馬上にて執中と相見え、執中は手に槍をとってこれを刺し、馬より堕ちしむ。金寿これを斬り殺す。烏古論奪剌をして没烈を召さしめて、これを殺す。符宝祗候の鄯陽、護衛十人長の完顔石古乃は乱を聞き、急ぎ大漢軍五百人を召して難に赴き、執中と戦い勝たず、皆死す。執中は東華門に至り、門者たる親軍百戸の冬児、五十戸の蒲察六斤を呼ばしむるも、皆応ぜず、世襲猛安・三品職事官を以て許すも、亦た応ぜず。都点検の徒単渭河を呼ぶ。渭河は即ち徒単鎬なり。渭河は城より縋り出でて執中に会見し、執中は命じて薪を聚め東華門を焚かしめ、梯を立てて城に登る。護衛の斜烈、乞児、親軍の春山は共に鎖を掊ち開きて門を開き、執中を納る。執中は宮中に入り、ことごとくその党をもって宿衛を易う。自ら監国都元帥と称し、大興府に居り、兵を陳べて自らを衛る。急ぎ都転運使の孫椿年を召して銀幣を取り、金寿、奪剌及び軍官軍士、大興府の輿隸に賞す。是の夜、声妓を召して親党と会飲す。明日、兵をもって上を逼りて衛邸に出居せしめ、左丞の完顔綱を誘いて軍中に至らしめ、即ちこれを殺す。執中の意は測るべからず、丞相の徒単鎰は執中を勧めて宣宗を立てしむ。執中これを然りとす。
是の時、荘献太子は中都に在り、執中は皇太子の儀仗をもって荘献を迎え入れ、東宮に居らしむ。符宝郎の徒単福寿を召して符宝を取り、大興府の露階上に陳べしむ。御宝を盗用して制を出し、完顔醜奴を除して德州防禦使と為し、烏古論奪剌を順天軍節度使と為し、蒲察六斤を横海軍節度使と為し、徒単金寿を永定軍節度使と為す。外官に除すと雖も、皆これを左右に留む。その余の除拜なお数十人。同時に両人の蒲察六斤有り、その一は東華門を守りて肯て乱に従わざる者なり。礼部令史の張好礼を召して監国元帥印を鋳させんと欲す。好礼曰く、「古より異姓の監国する者無し」と。乃ち止む。奉御の完顔忽失来等三人、護衛の蒲鮮班底、完顔醜奴等十人を遣わし、彰徳において宣宗を迎えしむ。宦者の李思忠をして衛邸において上を弑せしむ。沿辺の諸軍を尽く撤して中都平州に赴かしめ、騎兵を薊州に屯せしめて以て自らを重んじ、辺戍は皆守らず。
九月甲辰、宣宗即位し、執中を拝して太師・尚書令・都元帥・監修国史と為し、沢王に封じ、中都路和魯忽土世襲猛安を授く。その弟の同知河南府の特末也を以て都点検と為し、兼ねて侍衛親軍都指揮使と為し、子の猪糞を除して濮王傅・兵部侍郎と為し、都点検の徒単渭河を御史中丞と為し、烏古論奪剌を遥授して真定府知事と為し、徒単金寿を遥授して東平府知事と為し、蒲察六斤を遥授して平陽府知事と為し、完顔醜奴を同知河中府事と為し、権宿直将軍と為す。詔して烏古論誼の居第を以て執中に賜い、儀鸞局に供張を給せしめ、妻の王氏に紫結銀鐸車を賜う。
戊申の日、執中は朝に侍し、宣宗は彼に座を賜うたが、執中は座に就いても辞さなかった。間もなく、執中は衛紹王を庶人に降格するよう奏請し、奏上は再び行われ、詔して百官に朝堂で議させた。太子少傅の奧屯忠孝・侍讀學士の蒲察思忠は執中の議に附し、衆は互いに見合わせて敢えて言う者なく、ただ文學の田廷芳が奮然として言うには、「先朝は元来失徳なく、尊号は礼に照らして削ぐべからず」と。ここにおいてこれに従う者は、礼部の張敬甫・諫議の張信甫・戸部の武文伯・龐才卿・石抹晉卿ら二十四人であった。宣宗は言うには、「譬えば道を尋ねるに、百人が東行が是だと言い、十人が西行が是だと言う、道を行く者は果たして東に行くか、西に行くか。どうして百人・十人の数を以て是非とせんや」と。やがて言うには、「朕は徐々にこれを考えよう」と。数日後、詔して東海郡侯に降格させた。
大元の遊騎が高橋に至り、宰臣がこれを奏聞した。宣宗は人を遣わして執中に問わせたが、執中は言うには、「計画は既に定まった」と。間もなく宰執を責めて言うには、「我は尚書令である、どうして先に議せずして急に奏上することがあろうか」と。宰執はただ謝罪するのみであった。
提点近侍局の慶山奴・副使の惟弼・奉御の惟康が執中を除くことを請うたが、宣宗は援立の功を思い、忍んで許さなかった。元帥右監軍の術虎高琪は屡々戦って利あらず、執中はこれを戒めて言うには、「今日出兵して果たして功なきときは、軍法を以て処断すべきである」と。高琪は出戦してまた敗れ、自ら免れ難しと度り、慶山奴らに謀りごとあることをやや聞き知り、十月辛亥の日、高琪は遂に率いる所の颭軍を以て中都に入り、執中の邸を包囲した。執中は変事を聞き、弓を引き矢をつがえて外を射たが勝てず、後垣に登って逃げようとし、衣が引っかかって落ちて股を傷つけ、軍士が近寄ってこれを斬った。高琪は執中の首を捧げて闕に詣でて罪を待ったが、宣宗はこれを赦し、左副元帥とした。
執中の党が衢路で呼ばわって言うには、「颭軍が反逆した、これを殺す者には賞がある」と。市人がこれに従った。颭軍の死者は甚だ多く、一軍皆おどおどした。宣宗は近侍を遣わしてこれを慰撫し、詔して有司に量りて賻贈を加えさせ、衆はやや安んじた。明日、特末也を泰甯軍節度使に除し、烏古論奮剌に真授して知済南府事とし、徒單金壽に真授して知帰徳府事とし、蒲察六斤に真授して知平陽府事とした。
甲寅の日、左諫議大夫の張行信が封事を上奏して言うには、「『春秋』の法によれば、国君が道を以て立たずとも、もし嘗て諸侯と盟会したことがあれば、即ち諸侯の列に置く。東海郡侯(衛紹王)は在位既に六年、その臣たる者誰か敢えてこれを犯さんや。胡沙虎(執中)は兵を握って城に入り、自ら弑逆を行った、この時に当たり、ただ鄯陽・石古乃のみが衆を率いて赴援し、戦死に至った。その忠烈を論ずれば、朝に禄を食む者は皆愧じるべきである。陛下が万機に親しまれ始め、海内は化を望む、二人を褒顕し、その子孫にまで及ぼせば、少しは貞魂を慰め、天下の義気を激発させることができよう。宋の徐羨之・傅亮・謝晦が営陽王を弑して文帝を立てたとき、文帝はこれを誅したが、江陵で奉迎した誠意を以て、その妻子を免じた。胡沙虎は国の大賊、世の共に悪むところ、既に死したとはいえ罪名正しからず、その過悪を暴き、中外に宣布し、名を除き爵を削ぎ、その家に縁坐させるのが、然る後に快い。陛下もし援立の労を忍び難ければ、元嘉の故事に倣うも、また以て懲戒を示すに足る」と。宣宗は乃ち詔を下して執中の過悪を暴き、その官爵を削いだ。鄯陽・石古乃を贈官し、その子に恩を加えた。慶山奴・惟弼・惟康は皆遷賞され、近侍局はここより用事するようになった。
論じて曰く、金の九主、弑されたる者は三、その逆謀者は十人。熙宗の弑は、ただ大興国一人、世宗はその罪を声して思陵の側で磔にした。徒單貞は誅されたが、その罪状を暴くことは聞かず、後に戚畹としてまた贈官追封された。余の秉徳・唐括辯ら六人は、皆他の罪で誅された。海陵の弑は、その首悪は完顔元宜、則ち令終焉した。衛紹王の弑は胡沙虎、司敗の誅に死せずして、高琪の手に死した。古に所謂く、君を弑するの賊は人を得てこれを討つ、とは公上に請いて討ち致すを謂う。孔子が陳恆の討伐を請うたが如きこれである。どうして琪の如き擅殺を以て功とするがあろうか。金の政刑、その乱れこの如し、国亡びざらんと欲するも、その得べけんや。